東照宮御實紀巻7巻



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 2013.11.01日 れんだいこ拝


【東照宮御實紀考】
東照宮御實紀卷七」を転載する。(れんだいこ文法に則り書き改める)
 東照宮御實紀卷七 慶長八年十月に始り十二月に終る

 ○十月朔日、鎌倉鶴岡八幡上宮造替あるにより遷座あり。造替の奉行は彥坂小刑部元正これをつとむ。この日蝕す(御造営記。節季蝕記)。

 ○二日、河村與惣右衛門某、木村惣右衛門勝正に淀川過書船支配の御朱印を下さる。その文に云う。大坂伝法尼崎山城川伏見上下する所の過書船、公役として年中銀二百枚課せしむべし。官用の船は例の如く、川筋折々船替えすべし。武家船は課銀をとるべからず。商物を積載するに於ては厳に查検を加ふべし。木材の如きは直に武家の邸內へ收めしむべし。木材商へ渡さしむべからず。二十石積の船課は銀五百貫目納むべし。船に大小ありといへども銀課は二十石積の船に准じて收むべし。鹽蔵の魚物課稅も上に同じ。下り船の米は二割をとり收むべし。新過書三十一人船一艘づゝのすべし。かく定めらるゝ後、船持商人に対して非義を申しかくるに於ては、厳に命ぜらるべしとなり(家譜。木村伝記)。

 ○三日、山岡道阿彌景友が邸へならせ給ふ。景友子なきがゆへに、兄美作守景隆が子主計頭景以が嫡子新太郞景本とて、今年八歲なるを伴い出て、初見の礼をとらしめ養子とせん事を聞こえあぐる。よて景本に吉光の御脇差を給ふ。この御脇差は甲斐の武田が累世の秘蔵とせし物なりとぞ。又景友に伏見成山寺の二王門並びに多宝塔を下され、三井寺に寄進せしめられしとぞ(寬永系図。家忠日記。続武家閑談)。
 ○四日、神龍院梵舜伏見に参り木練の柿を献ず。伊勢両宮並びに大甞会の事を御垂問あり。この日、渋谷文右衛門重次を長福丸の方へつけらる(舜旧記)。
 ○五日、安南国より書簡並びに方物をまいらせて、去年方物を献ぜしとき、御答礼として甲胄以下の器械をつかはされしを謝し奉る。よて金地院崇伝に御返簡を製せしめられ、御答礼として長刀十柄を贈らせ給ふ(異国日記)。
 ○九日、津軽右京大夫爲信伏見に上り拜謁して御気色伺ひ奉る。この日、尾崎勘兵衛成吉伏見城の守衛にありて死しければ、その子勘兵衛正友家継がしめらる。又相摸国馬入れの渡より大磯平塚の間氷降る。その大さ日輪の如し。隣国にはすべてこの事なし(西洞院記。当代記。寬政重修譜)。
 ○十五日、吉田二位兼見卿、神龍院梵舜伏見にまう上り拜謁し、兼見卿は綾衣、梵舜は筆を献ず(舜旧記)。
 ○十六日、右大臣の御辞表を捧げ給ふ(公卿補任)。

 ○十八日、伏見城を御首途ありて江戶に還らせ給う。五郞太丸とて今年五歲なるを伴なはせ給ふ。かねては永原までわたらせ給はんとの御事なりしが、長福丸とて二歲になり給ふ御子、あながちに御跡をしたはせ給へば、これもふりすて給ひがたく、俄かにその用意つくらせ給ひしかば、時移りてこよひは膳所に宿らせ給ふ。今朝、島津右馬頭以久初見し、日向国佐土原城三万石を給ふ。龍伯入道幷に少將忠恒が請け奉るによれり。又大番三浦庄右衛門直次に采邑二百石下さる。粟屋市右衛門吉秋死して子市右衛門忠時つぐ(創業記。西洞院記。寬政重修譜。寬永系図)。

 ○十九日、亀山に宿らせ給ふ。
 ○廿日、名古屋に宿り給ふ。この日、土屋市之亟勝正、岡野平兵衛房恒の二人仰せを蒙りて近江国中を巡視す(寬政重修譜)。
 ○廿一日、岡崎に着かせ給ふ。
 ○廿二日、吉田。
 ○廿三日、浜松城に泊まらせ給ふ時、松平左馬允忠賴に吉光の御脇差を下さる(寬永系図)。
 ○廿四日、中泉に着かせらる。

 ○廿五日、懸川に宿らせ給ふ。この日、立花左近將監宗茂江戶高田の宝祥寺(一說に浅草寺中日恩院と云う)に閑居せるを召して、陸奥国棚倉にて一万石を賜ふ。宗茂は庚子の乱に大坂の催促に隨ひ、軍勢を引具し伏見の城を攻め破り、勢田の橋をかため大津の城を攻め落しけるが、関が原の味方敗績すと聞きて本国に引き返しをのが城に楯こもり、鍋島が軍勢押し寄せると聞きて、家人等を出し散々に防ぎ戦ふ。かゝる所に黑田如水入道、加藤肥後守淸正馳せ来て双方をなだめしかば、宗茂は居城を淸正に渡しけり。如水淸正等こと更に歎き申しければ、その罪をなだめられ領国をば悉く收公せられき。宗茂はこの後淸正に養はれ、肥後国高瀨と云う所に閑居しける間、淸正が奔走大方ならず、翌年の春に至り宗茂暇ある身なれば、このほど都近き辺の名所古跡をも遊覧せまほしと請しに、淸正もことはりと聞て、又旅の用意をもねもごろにあつかひて都へのぼせたり。 宗茂は都をはじめ南都和泉の堺までも心しづかに一覧し、三年がほど山水の間に優遊しけるが、しきりに江戶のかたゆかしく覚えければ江戶の方にまかり、戶塚の駅より本多佐渡守正信に消息してことのよし告げたりしかば、正信まづ高田の宝祥寺まで来るべしと云う。宗茂その詞に従いかの寺に着きて旅の疲れを休めける。大納言殿もとより宗茂が勇ありて義を守る志をふるくしろめしたれば、正信より土井大炊頭利勝もて伏見にてそのよし聞えあげしめられ、忽に御許しありてかく新恩に浴せしとぞ(寬政重修譜。藩翰譜。立齋聞書。久米川覚書。一說に大納言殿よりは三万石賜はり、書院番頭を命ぜらるべきにやと伺はせ給ひしに、宗茂は老鍊の宿將なれば、所領は少しともいづ方にてもさるべき所を撰び城を授けよと、伏見より御下知ありけると云えり。寬永系図に、宗茂居城を淸正にわたし速に江戶に至り、その翌年奥州にて二万五千五百石給はりしとあるは大なる誤りなり。又国恩錄に、慶長十一年正月二日とするも誤りなり)。

 又松平隼人 佐由重三河国松平鄕にありて卒す。壽八十一。こは永祿三年七月廿五日、三河国刈屋の軍に深手負いて、世のつとめかなひがたく、旧領の地に年頃籠居して今日終をとりたるなり。その子太郞左衛門尙栄は庚子の乱後江戶に参り奉仕し、慶長十八年にいたり旧領松平鄕を賜はりて采邑二百五十石になる(寬政重修譜)。

 ○廿六日、田中に泊まらせ給ふ。加藤太郞左衛門成之死して子源太郞良勝つぐ。この成之もはじめ源太郞と称し織田家に仕え、後に当家に召し出され常に近侍し、庚子の役に毎度御先手に御使いし、思し召しのままにことはからひて御感にあづかりしが、今年伏見にあり五十二歲にて死せしなり。その子良勝わづかに十歲なりしかば、去年賜りし加恩五百石は收公せらる(寬政重修譜。寬永系図)。

 ○廿七日、田中に宿らせらる。
 ○廿八日、駿府。
 ○廿九日、三島。
 ○晦日、小田原


 ◎この月、柬埔寨国王より書簡並びに獅角八、鹿皮三百枚、孔雀一隻を参らせ、その国叛人を征討する事あるをもて戎器を請ふ。よて金地院崇伝をしてその御返簡をつくらしめ、その請にまかせて太刀廿把を贈らせられ、本邦の刀銳利他国に比倫なし。もし懇望するに於ては望みにまかせらるべしと仰せつかはさる。又菅谷左衛門太夫範政、上總のうちにて賜りし采邑千石に加へて、旧領常陸の筑波郡にて五千石を給ふ。この範政は代々常陸小田城主小田讃岐守氏治入道天庵に仕え、天庵太田三楽の為に小田の城を奪はれし時、範政别に喜多余の城を築きて天庵を居らしめしに、梶原美濃守景国又その城を攻め落す。範政三日が間にその城を攻めて、梶原を追い落しその城を取り返し、小田原北条亡びて後同国高津村に蟄居せしを、範政年ごろその主のために忠功を立てし事を聞こし召し、文祿元年、当家に召して采邑給はりしに、今度御前に召しいでゝ先の軍功を御直に聞こし召し、その軍畧を御感ありてかく加恩せられしとぞ。又松平與右衛門淸政死す。壽九十六。その子右近淸次つぐ。又宰相秀康卿。下野守忠吉朝臣江戶へ参覲せらる。


 この時、秀康卿は越前より出られて中山道にかゝり、上野国碓水峠を越えらるゝとて橫川の関を過らるゝ時、関の番人等卿の供人の中に鉄炮を備られたるを見とがめてこれをさゝへたり。卿聞き給ひ従者をして、これは番人等が秀康なる事を知らずして遮るなるべし。秀康なれば苦しからぬほどに、そこ開きて通すべしと云はせられけるに、番人共聞きて、たとひ秀康卿にもあれ何人にもあれ、公より鉄炮查撿すべしとて置かれたる関を、通すべきにあらずと罵りければ、卿大に怒り給ひ、天下の関所に於て秀康に無礼ふるまふは天下を軽蔑するものなり。そのまゝに捨て置くべからず、悉く打ち殺せとありければ、番人ども肝を消し早々逃げ走りて江戶に参りこのよし訴へしに、大納言殿聞こし召し(諸書これを烈祖とす。しかれどもこの時、烈祖は御道中なれば、江戶に訴えしを聞き召したるは台德公なり。今は大三河志に従て台德公とす)。番人ども秀康卿を抑せ留せんとせしは人を知らざるなり。卿にうち殺されず死を免れしは番人共の大幸と云うべしとて笑はせ給ひ、别に仰せ出さるゝ事もなし。(これ台德公友愛の情あつく、殊さら秀康卿御庶兄の事ゆへ、最御優待他に殊なる一端なるべし。さりながらその時勢今を以て論ずべからず。世に越前の家は制外なりと云うはこの時よりの事とす)。

 又淺野紀伊守幸長、加藤肥後守淸正も参観す。幸長が女を五郞太丸のかたに御配偶あるべし。淸正が女を長福丸の方に御婚儀結ばれん事を約し下されしもこの頃の事とぞ聞えける(異国日記。寬政重 修譜。寬永系図。御年譜。蓬古城記。淸正記。世に伝ふる所。淸正が江戶の宅地は外桜田弁慶堀今井伊が邸の地なり。外門前にかしの木を植ならべし故かしの 木坂とよべると云えり。事跡合考)。また毛利黄門輝元入道宗瑞は伏見より暇給はり帰国し、この後は周防国山口に莵裘の地営み移り住みしとぞ(寬政 重修譜)。

 ○十一月朔日、藤沢に宿らせ給ふ。
 ○二日、神奈川に着かせらる。
 ○三日、江戶城に還御なり(この還御を続通鑑武徳編年には冬とのみあり。日記摘要には十二月とす。十二月とするは誤りなり。今十月十八日、伏見御首途より日を推してみるに。今日還御ならざることを得ず。よりて推考してこゝにしるす)。
 ○五日、目付松平加賀右衛門康次三河にて四百六十石余を給う(寬政重修譜)。
 ○七日、大納言殿右近衛大將をかけ給ひ右馬寮御監を兼給ふ。この日、長福丸の方を常陸国水戶の城主になされ廿万石に封ぜらる(御年譜。武家補任。創業記。翌年五万石加へられ廿五万石にせられしの者)。
 ○九日、烏丸左中弁光広江戶に参るとて洛を発す(創業記。本月七日、台徳院殿右大將御兼任ありしゆへ、その宣旨持参せしなるべしと云えども、これを受け給ひし事諸書に見えず。今しばらく光広参向をしるして後の証とす。西洞院記)。
 ○十一日、松平久助忠直死す。こは長沢の松平兵庫頭一宗が次男次郞兵衛親昌が孫にて上野介康忠が聟なり(この事妙心寺記。長沢系図。武徳編年にのみ見えて定かならず)。松平隱岐守定勝長子遠江守定友遠江国懸川城に於て卒す。年十九(妙心寺記。寬政重修譜)。

 ○十六日、安房国館山城主里見左馬頭義康卒しければ、その子梅鶴丸(後に忠義)に遺領十二万二千石を襲しめらる。この義康その先は義家朝臣の三男足利式部大輔義国の嫡男新田大炊助義重の二男里見太郞義俊が十代刑部少輔義実が後なり。義実が父刑部少輔家基は結城中務大輔氏朝と共に、鎌倉管領左馬頭持氏の子春王丸安王丸を下野国結城の館に迎へ取りて、上方の勢と戦はんとせしに、その城落ちて家基も討たれしかば、義実家人を具し小舟に取のり安房国に落ち行きしが、後に国人共を討ち平げ白浜の城を構え住し、その子刑部少輔成義が時上總国をも討ち従え、これより上總安房両国を合せ領せり。成義が子上總介義通うせし時、その子太郞義豊わづかに五歲なりしかば、弟左衛門督実堯に国をゆづる。義豊成人に及びても実堯これをかへさず、よて義豊怒りて叔父實堯を稻村の城にて討ちとりぬ。実堯が子安房守義堯また軍起して義豊を討ち亡ぼし、終に安房上總両国を押領し、御弓の左馬頭義明の味方となりてしばしば小田原の北条と戦ひ、武蔵相摸下總の地をもこゝかしこ討ち従う。

 その子左馬頭義弘の子安房守義賴はこの義康が父なり。父につぎ岡本の城にありて、これも北条と国を争い戦やまず。天正十八年、豊臣関白北条追伐に下向ありし時その味方しければ、従四位下の侍従に叙任せしめ羽柴の家号を許され、後に館山に城築きて移る。庚子の乱に大斾に従い奥に向かはんとせしに、上方の逆徒蜂起し引き返し打ちて上らせ給へば、義康等は少將秀康朝臣の麾下に属し上杉、佐竹等と戦はんとす。然るに関が原の一戦逆徒悉く敗績して上杉、佐竹も降人に出ければ、義康には常陸国鹿島の郡を割て三万石下し給はる。今年三十一歲にて卒せしなり。(里見記。里見家記と云える書には、豊臣太閤より小田原へ参陣せしを賞せられ、上總の三浦四十余鄕を賜はりしを、関が原の時病と称し出軍せざりしゆへ四十余鄕の地を收公せられ、わづかに鹿島の地にて三万石賜りしゆへ、里見の君臣臍を嚙みて悔恨すとあり。いづれか是なるや)


 ○十八日、松前志摩守慶広参覲す。在府の料とて月俸百口給ふ。この後永例となる(寬政重修譜)。
 ○廿五日、榊原式部大輔康政御上洛の供奉及び在京の料として、近江国野洲栗太蒲生三郡の內に於て五千石を賜ふ。又元重の御刀及ひ国綱の鎗二柄を下さる(寬政重修譜)。

 ◎この月、丹羽五郞右衛門長重召し出されて、常陸国古渡に於て一万石の地を賜ふ。長重は庚子の乱に加賀国松任の城にこもりて出陣せず。前田中納言利長卿近国の叛徒を討ち平げんがため出軍して、長重にも軍を出さん事をすすむるといへども、催促に応ぜず。遂に合戦に及びしかば、関が原平均の後賞罸をたゞされし時所領を沒入せられしに、長重はこの後郞従両三人を伴ひ江戶に来り、品川辺に閑居して異心なきをあらはしけり。右大將殿もとより長重とは懇に御親しみありければ、しばしば長重が事嘆かせ給ひしによりかく召し出されたり。又長重が弟左近長次も兄と同じく品川に閑居しけるが、 これも召されて右大將殿へ初見し奉る(寬政重修譜。芝泉岳寺旧記に、長重兄弟が閑居したる寺中田田中內匠某家をかりて、従者は十三人なりしと云う)。


 ○十二月二日、右大將殿河越へ放鷹のためならせらる(当代記。慶長年錄)。
 ○三日、淺間山鳴動する事三四度に及ぶ。その音三河美濃両国の間に聞ゆと云う。

 ○廿日、山岡備前守景友入道道阿彌卒す。こは故美作守景之が四男。はじめ僧となり邏慶と称し、三井寺の光淨院に住す。天正元年二月、霊陽院義昭將軍いつしか織田右府の威権を忌みて、武田信玄淺井長政等と通じて是を討んとはかられし時、邏慶も足利家の命を奉じて石山堅田辺に要害を構え立ちこもるといへども、織田の大勢に攻められしかば城兵勢尽きて城をのがれさる。これより邏慶還俗して八郞左衛門景友と改め、織田家に仕え備前守と称しける。十年、右府本能寺にて事ありし時、景友膳所にて勢多の船ををしとめ、明智光秀をして渡る事を得ざらしむ。光秀滅びて後豊臣家に仕え、入道して道阿彌と号し所々の戦場に従い、恩遇を蒙り宮內卿法印になされける。太閤失せられて後大坂の奉行等が当家を傾けまいらせんとはかりしこと度々なりしに、入道いつも無二の御味方として御館をぞ守りける。慶長五年、奥の会津に向かはせ給ひしに御供し、弟源太景光入道甫庵は伏見城を守りて、上方の軍おこりし時城中にて討ち死せり。又下野国小山の御陣にて御供の諸將を集め軍議ありしにも、入道並びに岡江雪二人をして仰せを伝えしめらる。人々皆な御味方して先陣うつてのぼるべきに决しければ、入道は福島掃部頭正賴が加勢として伊勢国長島城に立てこもり、原田隱岐守胤房と戦ふ。しかるに関が原の戦味方勝利して凶徒皆な敗走すと聞き、入道手の者引具し城を出て川船にとりのり大鳥居にさしかゝる時、長束大藏少輔正家が敗走して来るにゆきあひ、散々に打ちゝらし首百余切りて又桑名城に押し寄せ、氏家內膳正行広兄弟を降参せしめ、又神戶亀山水口等の城を請け取りて大津に参りしかば、両御所入道がふるまひを感じ給ふ事斜めならず。伏見にて討ち死せし甲賀士の子孫與力十人同心百人をあづけられ、近江国にて九千石の地を賜り、その內四千石を以て士卒の給分にあてらる。今の甲賀組はこれなり。ことしその家にわたらせ給ひし時吉光の短刀を賜る。齡六十四にして今日失せぬるの者。姪主計頭景以が子新太郞景本を養子とすといへども、景本いまだ幼稚なれば仰せによりて景以その遺跡を相続し、甲賀組の與力同心をあづけらる。このとき景以にこれまで賜りたる三千石は收公せらる(寬政重修●。景友万石に列せずといへども、創業の功臣なれば伝をこゝに出す)。

 ○廿三日、この夜大雪。京にては三条曇華院火災あり(当代記)。
 ○廿八日、太田原出雲守增淸に百石加へられて千五百石になさる (寬政重修譜)。

 ◎この月、阿部勘左衛門宗重を右大將殿の御方に付けらる。朝倉右京進政元、弟七左衛門景吉共に拜謁し鶴千代の方に付けらる(寬政重修譜には月日を記さず。今は当代記年錄による)。又、右大將殿土方河內守雄久が外桜田の邸へならせ給ひ鞍馬を下さる(寬政重修譜)。


 ◎この年、京極宰相高次が子熊丸(時に八歲)。小笠原安芸信元が子孫三信重、眞野金右衛門重家が子惣右衛門勝重、駒井次郞左衛門昌長子長五郞昌保、大久保喜六郞忠豊三子六右衛門忠尙、角倉了以光好子與一玄の者。織田家に仕し島彌左衛門一正(後に使番となり千五百六十石賜ふ)、金吾黄門に仕へし林丹波正利、武田に仕えし瀨名左衛門貞国はじめて拜謁す。正利にはやがて旧領にひとしく采邑賜はるべしとて元采邑二千石賜ひ、貞国にも二百石賜ふ。京の外科醫奈須與三重恒が子二郞四郞重貞、織田家に続せし內藤喜右衛門政長は右大將殿に初見す。牧野成里入道一楽は仰せによりて江戶に参り右大將殿に初見し、束髮して伝藏と改め、この時召されたる長の御袴を賜ひ采邑三千石賜ふ。


 板倉伊賀守勝重三子主水重昌、長谷川波右衛門重吉弟左兵衛藤広、天野伊豆重次二子にて故麥右衛門正景の養子たりし麥右衛門重勝、武島大炊助茂幸が子七大夫茂成、黄門秀秋に仕し矢橋嘉兵衛忠重、川勝主水正秀氏が弟太郞兵衛重氏はじめて仕へ奉り、忠重は采邑五百石、近江国矢橋村旧宅の地をも給ひ詰衆に加はる。牧野伝蔵成里が二子五六成純、石原小市郞安長子小大夫安正、長田喜兵衛吉正養子十大夫重政、飯塚兵部少輔綱重二子半次郞忠重(時に十二歲)、渡辺忠右衛門守綱三子忠四郞成綱、織田家に仕し中村四郞兵衛長次、安藤三郞右衛門定正子忠五郞定武、多喜六藏資元が子十右衛門資勝は右大將殿御方に召し出され、重政は納戶番、忠重は小姓となる。長次には二百石賜ふ。先に本多中務大輔忠勝に附属せられし都筑彌左衛門爲政、彼家を去りて信濃国松本に閑居してありしを召され、これを右大將殿に附られ采邑六千石賜ひ、その子惣左衛門言成は越前家に附けらる。天正の頃故有て当家を退去したる武島大炊助茂幸三子與四郞茂貞、再び御家人になされ采邑二百石下さる。又大久保石見守長安に佐渡の奉行をかねしめられ、山口勘兵衛直友、柘植三之丞淸廣、伏見城定番命ぜられ、長野內藏助友秀伊勢の山田奉行仰せ付けられ、長谷川左兵衛藤廣長崎奉行になり、小堀新助正次備前国の制法を沙汰せしめらる。

 土方河內守雄久二子鍋雄重(時に九歲)、右大將殿小姓になる。三浦長門守爲春は長福丸の方補導の臣とせられ、封地水戶に赴く。靑山伯耆守忠俊百人組の頭とな り五千石賜り、騎士廿五人歩卒百人をあづかる。久永源兵衛重勝は右大將殿御方に附られ、五百五十石加恩ありて五千二百石になされ、騎士十人同心五十人をあづかり、先手弓頭となる。二千石は騎士同心の給地に賜りしとぞ。三井左衛門佐吉正は歩行頭となる。千村平右衛門良重は信濃国にて一万石、遠江の国中にて鐚錢千四十貫余の地を所管とし、榑木の事をも沙汰せしめらる。靑木與兵衛信安は甲斐国武川の本領を給り、かの地に住居して五郞太丸のかたにつけらる。その外成瀨內匠正則、津金修理亮胤久をはじめ武川津金の輩子弟等廿人、並びに鷹師西村仁兵衛某、倉林四兵衛昌知を同じくつけらる。

 大久保甚右衛門忠長が子牛之助長重は書院番に加へられ、多田八右衛門正吉が子三八郞正長、大久保三郞右衛門忠政三子三郞右衛門忠重、遠山四兵衛直吉子新次郞景綱、武田家に仕し今川平右衛門貞国は大番にいり、忠利は三百石、貞国は二百石下さる。鳥居久五郞成次は叙爵して土佐守と称し、內藤三左衛門信成は豊前守と称し、小出万助三尹は大隅守と称し、同助九郞吉親は信濃守と称し、池田彌右衛門重信は備後守と称す。津金勘兵衛久淸武蔵国鉢形の采邑を改めて甲斐国の旧領を賜ふ(稅額詳ならず)。山寺甚左衛門信光も旧領三百九十石賜ふ。皆な武川津金の地の者。米倉加左衛門満継甲斐の旧領に復し甲府城の勤番を勤む。大岡兵藏忠吉は相摸国にて百六十石余を給ふ。金森兵部卿法印素玄五畿內に於て放鷹の地を賜ふ。又池田備後守重成の子備後守重信、永見新右衛門勝定が子権右衛門重成、渡辺彌之助光の子彌之助勝は父死して家継ぎ、勝には父の原職を命ぜられ足軽をあづけられ、夏目万千代某は死して子なき故に采邑を收公せらる。

 池田備中守長吉は伏見城の修築を奉はり、松平又八郞忠利、吉田兵部少輔重勝、遠藤左馬助慶隆は近江国彥根の城新築の事を奉はり、慶隆は美濃国加納の城をも築かしめられ、吉川蔵人広家は御許蒙りて周防国橫山に城を築く。細川越中守忠興は江戶運送廻船の事をつかうまつらしめらる。角倉了以光好仰を蒙りて安南国に船を渡して通商す。又有馬玄蕃頭豊氏が子生れしかぱ吉法師丸と名を賜はり、その家司吉田掃部助に御刀を賜ふ。これは御養女連姬の御方の所生なるが故なるべし。山村甚兵衛良勝は父三郞左衛門良侯の遺跡を去年つがしめられしにより、父の遺物茶壺を献ず。

 又松平(中村)伯耆守忠一は封地伯耆国岡山の城にありて、家の老橫田內膳村詮を誅す。忠一ことし僅に十五歲、身の行ひ强暴なりし故內膳直諫の詞を盡せしを憤りて、饗宴に事よせ自らこれを斬る。內膳きられてその所を走り出るを、近臣近藤吉右衛門馳せむかひて打ちとゞむ。內膳が召具したる小童これを見て、主の刀を抜いて忠一に切りてかゝる。天野宗葉をしへだて、その童をば安井淸次郞道家長右衛門切てすつ。內膳が子主馬助かくと聞て父が居城飯山にたてこもる。忠一が家人これに組するもの少からず。忠一大に怒りて軍勢を差し向け飯山の城を攻め囲む。こゝに於て隣国までも騷動大かたならず堀尾山城守忠晴出雲隱岐の軍勢を出し忠一を助く。城中にこもる所の兵柳生五郞左衛門(但馬守宗矩が弟なり)をはじめ、一人も命いきんと思ふものなく防戦すれば、寄手討るゝもの数をしらず。その後柳生をはじめ城兵も次第に討れければ、主馬助城に火をかけ主従ことごとく腹切りて死す。

 この事江戶に聞えければ大に御気色損じ、忠一が寵臣安井、近藤、天野、道家四人を召して子細を尋ね問わせ給ふ。忠一未だ幼弱の者、たとひひが事はかるとも、それを諫めざるのみならず、主の悪を迎合してふるまふ事以っての外なりといからせ給ひ、安井、天野、道家三人は忽に誅せらる(道家は先に姬君に附られし人なり)。近藤一人は助られ元の如く仕えしめらる。これは近藤はじめ忠一が內膳を誅する密議を聞きて忠一を諫しに、忠一さらに聞き入れず、さては幼弱の人の自ら大剛の兵誅せられんこと危しと思ひ、密かに長刀携えて奥の間に忍びゐて、終に內膳を討ちとめしふるまひ、にげなからざればなり。又伊丹長作重好は小栗次郞光 宗を討果して逐電し、黑田筑前守長政にあづけられし石尾越後守治一は御許しを蒙り、又三河国大林寺に百石の御朱印を下さる。又白銀町の日輪寺を淺草に引き移さる。又京中市街の市人を十人づゝ党を定められ、その党中に一人も悪行の者あらんときは、同組のもの悉く同罪たるべしと令ぜらる。これは京伏見この頃盜賊橫行の聞えあるにより鞠治せられんがためなり。

 又京の處士林又三郞信勝洛中に於て朱註の論語を講ず。聴衆雲のごとく集まる。こゝに於て淸家の博士舟 橋外記秀賢等大に猜忌して、凡そ本朝にして経典を講說する事、勅許あらざれは縉紳の流といへども講ずべからず。まして凡下の處士かゝるふるまひ尤も奇怪なり、速にその罪を糺明あるべきなりと奏しければ、禁廷よりこのことを議せられしに、御所聞こし召して、聖道は人倫を明らかならしむるためなれば、広く講說せしむべきことなり。これを妨げんとするもの尤も狹隘と云うべし。彌ゆるして講說せしむべしと仰せらる。これより信勝はゞからず洛中に於て程朱の說を主張して経書を講読す。これ本朝にて程朱の学を講ずる濫觴なりとぞ(貞享書上。寬永系図。寬政重修譜。家譜。佐渡記。大業広記。蓬左記。断家譜。藩翰譜備考。慶長見聞録。落穗集。由緖書。町年寄書上。当代記。烈祖成績。東鑑)。









(私論.私見)