東照宮御實紀巻6巻




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 2013.11.01日 れんだいこ拝


【東照宮御實紀考】
 東照宮御實紀卷六」を転載する。(れんだいこ文法に則り書き改める)
 東照宮御實紀卷六 慶長八年五月に始り九月に終る

 ○五月四日、小笠原越中広朝死して、その子権之亟某家継がしめらる(寬政重修譜)。
 ○五日午刻、三河国雪雹降る。山中尤甚し。名蔵山は木葉悉く墜落し蛇蝎死する者多し(当代記)。
 ○七日、下野国烏山城主成田新十郞重長、父左衛門尉長忠に先立て卒す(断家譜)。
 ○十九日、大內より広橋大納言兼勝卿、勸修寺宰相光豊卿御使として薰袋五十進らせらる。この日、神龍院梵舜伏見城に登り拜謁し、神祇道並びに日本紀の事ども尋ね問わせ給ふ(舜旧記)。

 ◎この月、元の北条の臣山角紀伊定勝卒す。こは小田原の北条に仕えて、督姬君小田原へ御入輿のとき御媒し参らせし御ゆかりをもて、北条滅びて後千二百石賜りしかど、定勝年老たりとて辞退し山林に世を避けて、今年七十五歲終をとりしなり。ゆへに采邑をばこれより先ずその子刑部左衛門政定をはじめ子孫等に分かちて、かねて奉仕せしめられしなり。佐竹右京大夫義宣出羽国秋田に新城を築く。毛利黄門輝元入道宗瑞江戶に参り大納言殿に拜謁す(寬永系図。寬政重修譜)。

 ○六月二日、瀧川久助一時采邑に有て病篤よし聞えければ、納言殿本多三彌正重を御使としてとはせ給う。正重いまだその地に至らずして、一時は死したる事を注進する使いに逢て、かへり来りその由聞え上しに、勇士の子孫なればこと更に拔擢あるべきを、不幸にして世を早くせりとて惜しませ給う(寬永系図。寬政重修譜)。

 
○六日、武田五郞信吉君(御五男)の老臣等より藤沢の道塲へ制札を立つる。その文に云う。寺中に於て屠殺するか、竹木斬伐するか、門內にて蹴鞠相撲等すべて狼藉の振る舞いするに於ては厳科に処すべしとなり。その連署の老臣は帯金刑部助君松、河方織部永養、近藤伝次郞吉久、宮崎理兵衛三楽、馬塲八右衞門忠時、万沢主稅助君基と云う(鎌倉古文書)。
 ○九日、貴志兵部正成死す。その子助兵衞正久は普請奉行となり、次子彌兵衛正吉は大番にて各别に采邑賜りしなり。正成は北条氏照が臣なりと云う(寬政重修譜)。
 ○十一日、戶澤九郞五郞政盛始て就封の暇賜り時服を下さる(寬政重修譜)。
 ○十五日、長福丸の方伏見城にて髮置の式行なはる(紀藩古書)。
 ○十八日、長谷川甚兵衛重成死して子四郞兵衛重次家を継ぐ(寬政重修譜)。
 ○廿二日、吉田二位兼見生絹の帷子三。神龍院梵舜團扇二柄奉る(旧舜記)。


 
○廿五日、大津より御船に召して近江国志那の蓮花を御覧にならせらる(西洞院記。志那は大津より湖上三里。吉田村の北にありて品津浦又は品村と云う。品村より守山まで一里半。蓮花多くして夏日は遊人常に絕ざる所と云う近江輿地誌)。

 ◎この月、大納言殿の北方(崇源院殿の御事)御長女千姬君を伴い御上洛あるべしとて、その御首途に先靑山常陸介忠成が許へわれしかば、大納言殿にも同じくならせられ、忠成にも茶入丸壺硯屏など若干もの賜り、終日御遊びども数を尽されて帰らせ給ふ。北方姬君はその夜、忠成が元に泊まらせ給い、夜明けて帰らせ給ひぬ。やがて江戶をいでたゝせ給ひ、伏見に着かせ給ひて御対面ありければ、姬君大坂へ御入輿のためなり。北方このほどは身重くわたらせ給ひけれど、いとけなき姬君一人を京へのぼせ給はむを、あながちに御心もとなく思し召し給へば、御身のわづらはしきを忍びてさし添い上らせ給ひしとぞ(寬政重修譜。家譜。家忠日記。溪心院文)。

 ○七月三日、伏見より二条へわたらせ給う(御年譜。西洞院記)。
 ○五日、神龍院梵舜二条へまう登り拜謁す(舜旧記)。
 ○六日、一条前関白內基公、照高院門跡道澄、准后聖護院門跡興意法親王、妙法院門跡常胤法親王、飛鳥井宰相雅庸卿、西洞院宰相時慶卿二条城へ登り拜謁せられ、御宴ありて御物語数刻に及ぶ(西洞院記)。
 ○七日、観世宗雪江戶にまかりしかば、この日江城にて猿楽催さる(当代記)。
 ○八日、大阪より尼孝蔵主をはじめ女房等を二条城に召され、猿楽催され饗応せられ、蔵主及び長野局等は止宿す。これ姬君御入輿の事議せらるゝためなるべし(西洞院記)。
 ○十日、神龍院梵舜まうのぼり御けしきうかゞふ(舜旧記)。
 ○十二日、又おなじ(舜旧記)。
 ○十四日、大番井出三右衛門正勝伏見にて失せぬ。その子三右衛門正吉時に六歲。父が家継ぎて直に拜謁せしめらる(寬永系図)。
 ○十五日、二条より伏見城に帰らせ給う(御年譜。家忠日記)。
 ○廿四日、連歌師里村紹叱沒す。歲は六十五。紹巴が死せしのちは、新治筑波の道にをいて海內の宗匠と仰がれ、柳営年々の御会にも必ず召されし所なり(寬永系図)。

 
○廿五日、諸大夫以上の輩登営して拜謁す。近江国膳所の城主戶田左門一西今年六十二歲なりしが、居城の櫓にのぼり顚墜して頓死せりとぞ(重修譜は寬永系図に随い一西が死を慶長七年の事とす。しかるにその家譜は八年とす。当代記にも八年とあり、又家忠日記六年に膳所賜る事をしるし、膳所にある事三年にして終に死すとある文にも符合すれば、今家譜に随い重修譜の說はとらず)。その子采女正氏鐵に遺領三万石継がしめらる。この一西は吉兵衛氏光が子、天正三年五月、三河国吉田にて武田勝賴と御合戦の時、敵將広瀨鄕左衛門と鑓を合せ、また武田左馬助信豊が陣を突き破る。長篠の戦には酒井忠次等と共に鳶巣山の要害を攻めぬき、その九月には遠江国小山の囲みを解きて帰へらせ給う時の殿し、敵追り来るを引き返し突き破る。十二年、小牧山にては、仰せにより丸山の御陣塲を検点し、十八年、小田原御陣には、靑山虎之助定義と同じく進み戦うて功あり。関東に移らせ給ふ時、武蔵国鯨井にて五千石の采邑を賜り、慶長五年には山道の御供して、信濃の上田城責に大納言殿御前にをゐて聞え上たる軍議を、後に御聞に達し御旨にかなひ、この年従五位下に叙し近江国大津の城主になされ、二万五千石加へられ三万石賜り、そのとき蓮花王の茶壺を下さる。六年、(寬永系図及び重修譜のみ七年とす。家忠日記以下諸記皆な六年なり) 大津の城は山口近くして要宮の地にあらずとて、新に同国膳所崎に城築かしめて、一西これが主たらしめられしなりとぞ(西洞院記。当代記。寬政重修譜。藩翰譜。家譜には一西致仕のよし記すといへども、諸書にその証なければとらず)。

 ○廿七日、將軍塚鳴動すること二声(西洞院記)。


 ○廿八日、千姬君(時に七歲)、この日內大臣秀賴公大阪城に御入輿あり。伏見より御船にて大阪に至らせ給ふ。御供船数千艘引き続く。この間十里ばかり両岸の堤上、東方は辻堅として関西の諸大名とりどり警衛し、西岸は加賀中納言利長卿の人数のみ戒厳専ら整備し、立錐のすき間もなし。細川越中守忠興は備前島辺を警衛す。こと更黑田甲斐守長政は弓鉄炮のもの三百人づゝ出して戒厳し、堀尾信濃守忠氏は歩卒三百人に耜鍬もたせて出し、御船に先立て水路の厳石をうがち游滓を通じ、御船の澁滯なからしめしかば、この事後に聞こし召して、忠氏心用ひのいたりふかきを感じ思し召されけるとぞ。御船大橋に着きて上らせ給う。大坂城にては大久保相摸守忠隣御輿を渡し、淺野紀伊守幸長これを請けとる。この時城中の諸有司、大手門より玄関までに畳を敷き、その上に白綾を敷きて御道にまうけんと議しけるを、片桐市正且元聞て、將軍家は専ら倹素を好み華麗を惡み給えば、さる結搆ほとんど御旨に背くべしと制しとゞめしとぞ。江原與右衛門金全は姬君に附けられ執事役命ぜらる。

 この頃大坂にては、今度姬君御入輿ありてはますます將軍家より秀賴公を輔導せられ、後見聞え給ひ、四海いよいよ靜謚たるべしといへども、將軍家の威德年を追て盛大になり、ことに將軍の重職を宣下ありて、諸国の欠地はことごとく一門譜第の人々を封ぜられ、天下の諸大名は皆な妻子を江戶に出し置きてその身年々参観す。これを思うに天下は終に德川家の天下となりぬ。さりながら故大閤数年来恩顧愛育せられ、身をも家をもおこしたる大小名、いかでその深恩を忘却し、豊臣家に対して二心を抱かば、天地神明の冥罰を蒙らざるべきと会議して、故大閤恩顧の大小名を城中に会集し、今より後秀賴公に対し二心抱くべからざる旨盟書を捧げ、血誓せしむ。この事は福島左衛門大夫正則がもはら申し行ひたる所とぞ聞えし。これ終に後年に至り豊臣氏滅亡の兆とぞ知られける。この日、信濃国郡代朝日壽永近路死して、その子十三郞近次家継ぎ後に大番になる(創業記。家忠日記。西洞院記。寬政重修譜。武德編年集成)。

 ○廿九日、山城国常在光寺の事により相国寺に御朱印を下さる。その文に云う。山城国東山常在光寺の寺地山林の替地として、朱雀西院の內にて百石寄附せらる。永く進止相違あるべからずとなり(国師日記)。


 ◎この月、大納言殿北方伏見城におゐて平らかに女御子生ませ給う。これを初姬君と申し参らす。この北方御身重くわたらせ給いしかど、千姬君ひとり洛陽にのぼせ給ふを御心もとなく思し召して、付き添いのぼらせられ、御入輿の事どももはらあつかひ聞え給ひしに、月も次第に重なれば江戶に帰らせ給ふもいかゞなりとて、未だ伏見にましましながら御子生ませ給ひしなり。故京極宰相高次が後室常高院尼は、北方の御姉君におはしければ、こたび生み給ひし女御子をば先ずこの尻のもとに引きとり、御うぶ養よりして沙汰せられ、後にその子若狹守忠高にそはせ給いしはこの姬君なり。この頃、佐渡の国人等訟うる旨あるにより、銀山の吏吉田佐太郞は切腹し、合沢主稅は改易せられ、中川市右衛門忠重、鳥居九郞左衛門某、板倉隼人某、佐渡国中を検視せしめらる(家忠日記。溪心院文。佐渡国記)。

 ○八月朔日、たのもの御祝として、大內へ御太刀折紙を進らせ給ふ。在京の諸大名まうのぼり当日を賀し奉る。石見国の土人安原傳兵衞おがみ奉る事を許さる。伝兵衛先に国中の銀鑛を捜し得て大久保石見守長安に訴えしかば、長安これを許して堀らしむるに、年々に三千六百貫、あるは千貫二千貫を堀出て上納せしかば、長安大によろこびその事聞えあげしにより、今日召して見えしめらる。伝兵衛は一間四面の洲浜に銀性の石を、蓬萊のかたちに積みあげ車にて引きてさゝぐ。ことに御感ありて参謁の諸大名にも見せしめらる。衆人奇珍なりとて称歎せざるものなし(御陽殿上日記。銀山記。世に伝うる所伝兵衛((一に田兵衛に作る))、備中早島の產なりしが、年頃銀山を捜索しけれど尋ね得ざりしかば、おもひくして同国淸水寺の観音に参籠して祈請丹誠をこらしける。七日にみつる夜不思議の異夢を蒙り、鍵を授けらるゝとみて立ち帰り、その後銀山を求め得てその時金銀山奉行大久保石見守長安に訴え、公の御許しを蒙りて堀りはじめしに、銀の出ることおびたゞしく年々公にみつぎすること若干なり。故にこの年頃石州の銀山に諸国の者集まり来り、山中の繁昌大方ならず、京堺にも劣らぬ都会となり、伝兵衛が家は甚富をなし、召し使う家僕千余人に及べりと云えり。この時、銀性の石を車に積み御覧にそなへ御感を蒙りしをもて、今も石見の国より大坂城の府庫に納る稅銀は、車をもて引事を佳例に伝へたりとぞ(銀山記)。

 
○二日、大內より御たのむの御返しとて物進らせらる。この日、三河国室飯郡豊川村弁財天祠の别当三明寺に御朱印を賜う。その文に云う。三河国室飯郡馬塲村のうち二十石、先例にまかせて寄附せらるれば、神供祭礼等怠慢すべからずとなり(御湯殿上日記。可睡斎書上)。
 ○三日、小堀新助正次御使として、石見の安原伝兵衛が積年銀鑛の事に心用ひしを褒せられて、備中と名のらしむべき由大久保石見守長安に仰せ下さる(銀山記)。
 ○五日、遠山民部少輔利景に美濃国志那土岐兩郡に於て六千五百三十一石六斗余の采邑を賜る。安原備中改称を謝し奉り伏見へまう上る。御前に召して着御の御羽織御扇を賜はる。備中頓首して落涙に及ぶ(貞享書上。銀山記)。
 ○十日、伏見城に於て第十一の男御子生まれ給ひ鶴千代君と名付けらる。後に水戶中納言賴房卿と申しけるは是なり。御生母はお万の局と云う。この局は安房の里見が家の老にて、上總の勝浦の城主正木左近大夫邦時入道環齋が女なりしを、入道勝浦の城を退去する時に、小田原の北条が被官陰山長門守氏広に与えたりしかば、氏広これを養女にして宮仕えに参らせたり。これより先長福丸のかたを設け、又引き続きこの御子をも生み進めらせらる。この御子後に勝の局御母代にて養ひ参らせき、勝の局は後に英勝院尼と聞こえしなり。この日、神龍院梵舜伏見城へ●うのぼる(家忠日記。以貴小伝。舜旧記)。
 ○十一日、堀田若狹守一継より千姬君婚礼を賀し進めらせければ、大納言殿より一継に御書を賜う(古文書)。

 
○十四日、下總国関宿城松平主因幡守康元卒す。その子甲斐守忠良に遺領四万石を襲しめらる。この康元は久松佐渡守俊勝が二子にて、はじめ三郞太郞と称す。母は伝通院殿なり。永祿三年五月十八日、(重修譜は寬永系図により三月に作る。今は大成記。家忠日記。家譜に随う)久松が尾張国智多郡阿古居の家にはじめてわたらせ給い、御母君に御対面ありしとき、御母君俊勝がもとにて設け給いし三人の子ども皆な見参せしめられしかば、御座近く召して、我兄弟少し、今より汝等三人等をして同姓の兄弟に准ずべしとの御事にて、三郞太郞、源三郞、長福三人皆な松平の御家号を許され、三郞太郞御諱の字賜り康元と名のらせらる。五年、三河国西郡の城を父俊勝に賜りしかど、俊勝は常に岡崎にありて御留守の事を奉りしかば、康元西郡の城をあづかる。元亀三年、三方が原の役には、その身苦戦し士卒死傷する者多し。その後長篠、高天神等の役に御供し、天正十年、甲斐国に御進発の時従い奉りて駿河国沼津の城を守り、又尾張国床奈郡の城を攻め落し、長久手の役には床奈郡の城代を務め、十八年、小田原の軍にも従いたてまつり、北条亡びて後その城を警衛し、仰せを受けて北条が累代の家人武功の者を捜索して家臣とす。この年、下總国関宿の城主になされ二万石を賜う。十九年、陸奥国九戶の役に、騎士百五十歩卒一千余人を率いて、下野国小山に至りしかば、その多勢を御感ありて、帰らせ給いし後二万石を加へて四万石になされ、この年叙爵して因幡守と称す。慶長五年、関が原の役にはとゞまりて江戶城を警衛し、七年、伝通院殿の御ためにとて関宿の地に仏宇を営みて充岳と号す。今年今日五十二歲にて卒せしなり。又御弟三郞五郞家元卒せらる。これは大樹寺殿御湯殿女房の腹にま●け給へる御子なりしが、十三歲の時より足なへて行歩かなわせられず、外殿にも出まさずして今日卒せらる。五十六歲なりし、法号を正元院と云へりとぞ(寬永系図。寬政重修譜。大樹寺記。薨日記。この人の葬地も詳ならず。又法号も康元と同じく見ゆ。疑いなきにあらず)。

 ○十八日、三河国大浜の長田八右衛門白吉死す。壽八十四。その子喜六郞忠勝はこれより先别に采邑を賜う。白吉は大樹寺殿このかた奉仕せる者なりしが、天正十年六月、和泉国堺に御座ありし時、明智光秀が謀反により伊賀路を経て伊勢国白子に着御あり。この時兄平右衛門重元と共に船を催して迎へ奉り、白吉が大浜の宅におゐて饗し奉りしとぞ。この日、神龍院梵舜伏見城にまうのぼる(貞享書上。寬政重修譜。舜旧記)。

 ○廿日、三河国額田郡妙心寺室飯郡八幡に小坂井村のうちにて九十五石、天王社に篠塚村にて十石。財賀寺に財賀村にて百六十一石余、東漸寺に伊奈村にて二十石。賀茂郡龍田院に高橋の庄瀨間村にて七石五斗。遠江国長上郡神立神明に蒲鄕にて三百六十石、豊田郡八幡宮に中泉村にて十七石、敷智郡応賀寺に中鄕にて三十八石、淸源院に中鄕にて十七石。各社領寺領を寄附したまふ(寬文御朱印帳)。
 ○廿一日、遠江国府八幡宮に同国とよ田郡にて社領二百五十石をよせられ、御朱印を賜う(寬政重修譜)。
 ○廿二日、三河国碧海郡長岡寺に中島村にて十石の御朱印を賜う(寬文御朱印帳)。
 ○廿四日、美濃衆高木権右衛門貞利死して、その子平兵衛貞盛家を継がしめられ、庇陰料三百石を合わせて二千三百石余になる(寬政重修譜)。

 
○廿六日、三河国額田郡万松寺舞木八幡宮に山中舞木村にて百五十石、室飯郡西明寺本宮に長山村にて二十石、華井寺に牛窪鄕中村にて三十六石、富賀寺に宇利庄中村にて二十石、渥美郡常光寺に堀切鄕にて二十六石七斗、幡豆郡妙喜寺に江原村にて十六石二斗の御朱印を賜う(寬文御朱印帳。世に伝うる所、西明寺はもと㝡明寺と書たり。この日住僧御前に召して、㝡明寺はことさらの霊跡と云い、鷺坂の軍に寺僧等も力をいれて忠勤せしかば、寺領境內悉く寄附し給うべし。その上に汝が寺の本尊彌陀佛は、こと更その由緖をもしろしめしたれば、この後西明に改むべしと面命ありて、御印書にも西明と記し下されたりと云えり。寺伝)。

 ○廿七日、島津少將忠恒薩摩国より、宇喜多前中納言秀家、その子八郞秀親に、桂太郞兵衛並びに正與寺文之と云える僧を添え、大勢護送して伏見に至る。よて秀家庚子逆謀の巨魁なれば、大辟に處せらるべしと云えども、忠恒があながちに愁訴するのみならず、その妻の兄なる加賀中納言利長無二の御味方なりし故をもて、その罪を減じ遠流に定められ、先ず駿河国に下して久能山に幽閉せしめらる。やがて八丈が島へ流さるべきがためとぞ聞えし。この秀家は関が原にて大敗せしかば、伊吹山に逃げ入りしかども、従卒皆な逃げ失うてせんかたなく、やうやうと饑餲を忍び薩摩国へ落ちくだり、島津を頼み露の命をかけとめたり。その時宇喜多が家人に進藤三左衛門正次と云う者あり。彼はかねてしろしめされしかば、秀家が踪跡を尋させられしに、正次答えけるは、秀家敗走の後三日ばかり従いしかど、その後は主従分かれ分れに隠れ忍んで行方を知らずとなり。これは正次君臣の義を重んじ、その隱る所を申さぬに疑いなしとて、却ってその忠志を感ぜられ、金十枚を給ひ御旗下にさし留めらる。この時秀家が秘蔵せし鵜飼国次の脇差いかゞなりけむかと御尋ねありしに、正次関が原の辺にて捜し得て奉る。こたび秀家薩摩より召しのぼせられしにより、本多上野介正純、徳山五兵衛則秀をして正次がことを尋られしに、正次伊吹山中にて秀家を深く忍ばせ置きし事、五十日にあまれりといふ。先に正次は三日附添いたりと申し、その詞符合せずといへども、その主を思ふ事厚きがゆへに、己が美を揚げずと感じ給ふ事なゝめならず。正次には采邑五百石給ひ御家人に加へられしとぞ(創業記。家忠日記。貞享書上。宇喜多記。寬政重修譜。正次がこと浮田家記。落穗集。東遷基葉。板坂卜齋覚書等の說大同小異なるがゆへ、今は寬永系図、重修譜によりてその大畧を本文にのせたり。たゞし二譜共に正次に采邑賜はりしを慶長七年十月二日とすと云えども、秀家が薩摩より召しのぼせられしはこの日なれば、采邑賜はりしもこの後ならざる事を得ず。よて本文その年月はのぞきて書せず)。

 ○廿八日、三河国加茂郡妙昌寺に山田村にて廿石、碧海郡犬頭社に上和田宮地村にて四十三石、引佐郡方広寺に井伊鄕奥村にて四十九石余、幡豆郡龍門寺に下町村にて十一石、遠江国周知郡一宮に一宮鄕にて五百九十石、社領寺領を御寄附あり(寬文御朱印帳)。
 ○廿九日、伏見より御上洛ありて知恩院へならせ給い、御建立の事仰せ出さる。知恩院はかねて親忠君の五子超誉住職せられし地なり。かつ当家代々の御宗門淨土宗の本山なればなるべし(舜旧記)。
 ◎この月、伊達越前守政宗江戶より暇給はり就封し、去年新築したる仙台の城に移る。よて鷹並びに金若干を賜はる。又滝川久助一時が遺領二千石をその子久助一乗に賜はる。しかりといへども一乗幼稚の間は、その家士野村六右衛門後見すべしとの命を本多佐渡守正信、大久保相摸守忠隣、靑山播磨守忠成より伝う(貞享書上。寬永系図)。
 ○九月朔日、神龍院梵舜伏見に登り御けしき伺ふ(舜旧記)。
 ○二日、山口駿河守直友より島津龍伯入道に書を贈り、宇喜多中納言秀家この日伏見より護送して駿河国久能山に下らしむ。彌死罪を減ぜられ身命を全くせしめらるれば安心すべき旨を告る(貞享書上)。

 
○三日、豊後国臼杵城主稲葉右京亮貞通卒しければ、長子彥六典通に遺領五万六千石を継がしむ。この貞通は故伊予守良通入道一鐵が子にて、父と共に織田家に仕えしばしば軍功あり。織田右府本能寺の事ありて後豊臣家に属し、太閤の軍に従い又戦功少からず。天正十五年の冬従五位下侍従に叙任し、美濃の郡上に新城を築き住す。太閤薨ぜられし後、慶長五年の秋、大坂の奉行等が催促に隨ひ、我身は犬山の城を守りしが関東に通じ、東軍尾張国に至ると聞きて、井伊直政、本多忠勝が元に使い立て御味方に参るべき由申す。八月廿日、かくともしらで遠藤金森等の人々貞通が郡上の城を攻めると聞きて、子典通と共に鞭鐙を合せて馳せ帰り、遠藤が陣を散々に打ち破り、その後貞通かねて関東の御味方に参りたり。されども猶合戦の勝負を决せられんとにやといはせければ、遠藤金森も同士軍に及ぶべきにあらねば和睦して立ち帰る。この由聞えければ、貞通既に御味方に参るといへども、をのが城攻められたらんは言う甲斐なし。この度のふるまひ神妙なり、さりながら郡上の城は遠藤が累代伝領の地なれば、下し賜ふべき由已に仰せ下されしにより、貞通には别に所領賜るべきとて、十二月、今の城賜り、所領の地加へて五万六千石を領し、この日京の妙心寺中智勝院にありて失せぬ。歲は五十八とぞ。この日また松平長四郞正永初見す(寬政重修譜。家譜)。

 ○六日、吉良左兵衛佐氏朝入道卒す。この氏朝が家は足利左馬頭義氏が二男左馬頭義継三河国吉良の庄を領せしより吉良と号す。その十一代の孫左兵衛佐成高武蔵国世田谷村に住し、これより世田谷の吉良と号す。成高が子左兵衛督賴康、その妻は北条左京大夫氏綱が女の者。その子氏朝に至るまで北条に従いてありしが、北条亡びてのち上總国生実に逃げる。関東やがて当家の御領となりければ、天正十八年八月朔日、江戶へ移らせ給ひし時、氏朝江戶に参り初めて見参す。その子源太郞賴久に上總国長柄郡寺崎村にて千百二十石余の采邑を賜はりしかば、氏朝は入道して世田谷に閑居し、年頃老を養て今日六十二にて終をとりぬ(寬政重修譜)。

 ○九日、伊勢慶光院に御朱印を下さる。伊勢両宮遷宮の事先例に任せとり行ふべしとなり。これは応仁このかた四方兵革の中なりし故、伊勢両宮荒廃きはまる事百年に過ぎたり。天正十三年十月、慶光院の開基淸順尼、豊臣家に請いて造り替えの事はかりし先蹤をもて、この時もかく令せられしなるべし(武家厳制錄。続通鑑)。

 ○十一日、武田五郞信吉君卒去あり。こは第五の御子にてはじめ万千代君と申し参らす。御生母は甲斐の武田が一族秋山越前守虎康が女おつまの局、後には下山の方と称す。外戚のちなみによりて武田を名のらせられ、天正十八年下總の小金にて三万石賜り、文祿元年、同国佐倉の城主になされ四万石を領せらる。天性わづらはしく病多かりしかば、常に引きこもりおはしけるが、慶長七年十一月、常陸国水戶に転封せられ十五万石賜ひ、今日廿一にて失せ給ふ。淨鑑院と法号して水戶城內の心光寺に納めらる(延寳七年九月十一日に中納言光国卿にいたり、瑞龍山の葬地に引き移され、向山に於て淨鑑院を営み香火院とせらる)。世継ぎなければ封地は收公せらる。よて伏見江戶に在勤の諸大名出仕して御けしきをうかゞふ。又三河国額田郡龍海院に御朱印を給ふ。その文に云う。三河国額田郡妙大寺村の內、寺家門前一の橋より西は田畔下宮まで、南は下宮吉池の辻まで、東は六所の谷境、北は門前一の橋限り先規のことく寄附せられ、竹木諸役免許せらる。仏事勤行懈怠あるべからずとなり。又同国渥美郡興福寺にも、吉田鄕のうち二十石の御朱印を下さる(この龍海院は淸康君御夢を卜したる圓夢が寺にて、世にいはゆる是の字寺と云う是なり)。この日、長田金平白勝はじめて奉仕す(御年譜。家忠日記。藩翰譜。康長年錄。寺伝。寬永系図)。

 
○十六日、大井石見守政成卒してその子民部少輔政吉継ぐ(寬政重修譜)。
 ○十九日、遠江国敷智郡普濟寺に浜松寺島村にて七十石、大通院に浜松庄院內門前の地、長上郡龍泉寺に蒲東方飯田鄕にて三十石。龍秀院には有玉村にて二十五石六斗余、甘露寺には万解村にて二十石余、宗安寺に市柳村にて十三石六斗余、引佐郡龍潭寺には井伊谷祝田宮日のうちにて九十六石七斗余。浜名郡金剛寺に中鄕にて五十石、蔵法寺に白須賀村にて十三石、豊田郡寳珠寺に岡田鄕にて三十二九斗余、三河国渥美郡龍根寺に吉田村にて二十五石余、幡豆郡法光寺に法光寺村にて十三石寺領を下され御朱印を給ふ(可睡齋書上)。
 ○廿一日、遠江国榛原郡平田寺に相良庄平田村にて五十石の御朱印を下さる(可睡齋書上)。 
 ○廿三日、安藤次右衛門正次目付を命ぜられて伏見に赴く(寬永系図)。

 
○廿五日、三河国室飯郡上谷寺に牛窪村にて廿石、遠江国豊田郡光明寺に二俣山東村一円、佐野郡㝡福寺に原谷村にて廿五石余、靑林院に原谷村にて十七石、大雲院に垂木村にて十七石。長福寺に原谷村にて十四石、旭增寺に原谷村にて十二石、永源寺に名和村にて十二石、山名郡海江寺に堀越村にて十六石、福王寺に西貝塚村にて十二石余、松秀寺に笘野村にて十二石、圓明寺に柴村にて十八石、豊田郡積雲院に友長村にて二十四石、雲江院に小出村にて十五石、一雲齋に野辺村にて十五石、玖延寺に二俣鄕珂藏村にて二十石、增参寺に向坂村にて十三石、学圓寺大宝寺に高岡捴領方村にて八石余、赤地村にて五石八斗。合て十三石八斗余、天龍寺に野辺村にて九石、周知郡崇信寺に飯田村にて十五石、雲林寺に中田村にて十二石寺領を寄附し給ふ。(寬文御朱印帳。世に伝ふる所は、天正四年、光明山に御在陣の時、光明寺虚空蔵菩薩に御祈願をこめられしは、もし思し召すまゝに天下を平均し、万民水火の苦をすくはせたまひなば、当村●円にこの寺に寄附し給ふべしとて、又その時の住僧高継にもその由御物語あり。天下平均せばこの旨訴え出よと仰せ下されしとぞ。よて高継この度伏見へ上りその事聞えあげしかば、御宿願の事とて山東村一圓御寄附ありしと云う。又三河の定善寺もその昔御宿陣の地なりしかば、今度御朱印を下されしに、定善を上善としるし給わりしかば、この後上善寺と改めしとぞ。貞享書上。牛窪記)。この日、後藤長八郞忠直死して子淸三郞吉勝つぐ(寬政重修譜)。

 ○晦日、島津龍伯入道へ御書を給ふ。入道使もて砂糖千斤献ぜしが故なり(貞享書上)。


 ◎この月、一尾小兵衛通春始て拜謁して奉仕す。通春は久我大納言通堅卿の孫にて父は三休と云う。母は大友宰相義鎭入道宗麟が女なり。通春久我を称せしがこれより一尾と改む。又武田五郞信吉君に仕えたる松平加賀右衛門康次、成瀨吉平久次召し返されて再び御家人に列し、康次は目付になる。又江戶芝浦內藤六衛門忠政が宅地を転じて、その地の高邸に愛宕権現の祠を搆造せしめ、石川八左衛門重次をしてこれを奉行せしめらる。これは天正十年六月、泉の堺浦より閑道を経て三河に帰らせ給ふとて、大和路より宇治信楽に至らせ給ひ、土豪多羅尾四郞右衛門光俊が宅に宿らせ給ふ。その時光俊が家に伝へし愛宕権現の本地仏將軍地蔵の霊像を献ず。こは鎌倉右大將家護身の本尊にて我家に伝えたり。いつも戦場にもたらして尊信するに、危難を免れずと云う事なし。ゆへに今度御帰路守護のためこの霊像を献じ進らすべしと申ければ、その志御感ありてこれを受け納め給ふ。幸に神証と云う僧常に多羅尾が家に来れば、この像奉祀のためにこの僧をも召し具せられかへらせ給ひしなり。その後年頃神証をして奉祀せしめられしに、今度その祠を造営せられ、神証が居所をも作らしめられ、遍照院と云う。今の圓福寺これなり(寬水系図。寬政重修譜。多羅尾家譜。圓福寺記。林鍾談)。

 ◎この秋、大河內喜兵衛政綱帰り参り再び御家人となる。慶長四年、末子平次郞政信が縁者大久保庄右衛門某を切害し、信濃国へ逃げ去りしをもて、政信も大納言殿御憤を恐れしばらく退去してありけるに、伏見より御免を蒙り今度帰参せしとぞ。又藤堂佐渡守高虎が長子大助高次、伏見にて初見の礼をとり、左国弘の御脇差を賜ふ。時に三歲なり。五島淡路守玄雅が子孫次郞盛利、花房志摩守正成が子彌左衛門幸次、根來右京進盛重が子小左次盛正、杉原四郞兵衛長氏が子四郞正永(于時八歲)初見し奉る。松田勝左衛門政行が養子善衛門勝政初て奉仕す(時に十四歲)。この頃は公武日々に伏見へ登城し群聚するにより、奸賊密かに城中に忍び入りて鉛刀を隠し、諸大名諸士の持ち参る良刀と引きかへ盜み去る事度々なりしを、中山雅楽助信吉その賊を見とがめ速に搦め取りたりしかば、御感ありて金二枚褒賜せらる(寬政重修譜。寬永系図。貞享書上)。








(私論.私見)