東照宮御実紀卷四 天正十七年に始り慶長八年に終る
豊臣関白軍威ますます盛んにして、しらぬひや筑紫のはてまでも伐り平らげ、島津義久も降参しければ、今は六十余州のうちに東国の北条ばかりぞ猶従わず。これにより使いを立て召しけれどもさうなくうけひかず。(これより先に君北条と御和平ありし時、甲信両国は君の御領とせられ、上州をば悉く北条が領とすべしと約せられたり。然るに上州の內沼田は、眞田昌幸が領なればとて北条へ渡さず。よって北条よりその旨君に訴えしかば、君眞田に沼田を北条へ渡すべし、その代地は别に賜ハるべしと仰せ下さるゝと雖も、昌幸胸中甚奇険にてこれに従はざるのみにあらず、終に当家を去りて豊臣家へ帰降せり。さるゆへに眞田が命に応ぜざる罪を討せられんとて、御勢を沼田に向けらるれば、秀吉密かに越後の上杉に命じ、眞田を助けて御勢を拒ましむ。今度北条を関白より召しによりて北条使を登せ、眞田が所領を引渡すべしと仰せ下されんには、氏政父子快く上洛せんと申すにより、今度は関白よりの命にて眞田も止事を得ず沼田を北条に渡す。然りといへどもそのうち奈胡桃の地は眞田代々の葬地なればとて、これは眞田が方に残したり。然るを程なく北条又眞田が留守の家人を追い出しその地を奪ふ。眞田又これを憤りその旨を関白に訴へ嘆く。関白ここに於て北条が反覆常なしと怒らる。これ終に関白東征の名を得る所、ひとり北条が代々関東を押領して、天朝に朝聘せざる罪を以てするのみにあらざるなり)。氏直今は姬君に添い参らせしたしき御中なりければ、君も様々にこしらへて上洛を進め給ひしかども、氏直が父氏政はをのれ代々関東をうち従え、一族広く家富み豊かなれば、世におそろしき者なしとのみ思ふ田舎うどにて人の諫めをも用ひず。
とかくして天正も十八年になりぬ。去年の程より関白は北条討たるべしとて、兵粮の用意軍勢の催促など、いかめしく国々に触れわたさるれば、君も都に上らせ給い、軍議どもおはしまして帰らせ給いしが、この春は若君(台廟の御事)を都に上せ、関白に初めて対面せさせ給う。関白よろこび懇にもてなされ、この殿あまりにいはけなくわたらせ給ふを、久しく都にとゞめ参らせば、父亞相さぞ後ろめたくおぼさるべしとて、直政を始め従者等に数々のかづけものして帰さる。君は関白こたび若君を速に帰されしは、程なく関東へ軍を出されんに、我領內の城々をかり給はむとの下心なるべし、その心せよと司々に仰せ下され、城々の修理加へ道橋おごそかに構え給ふ。やがて関白、こたび小田原を征せんとき、君の城々をかし給はむ事を、自らの消息もてこはせらる。君もとよりその御心構えなれば、とみにその請いに任せ給ふ。御家人等はいかでかうまでは、かねてよりはかりしらせ給ふらんと、いぶかしく思ひあざみたりとぞ。
かくて弥生朔日、関白內へ参り給ひ、年頃絕し例を引出し節刀など賜はりて二日都を立ち出給ふ。その勢は廿二万余騎とぞ聞えける。君は如月十日、駿河を出ます。御勢二万五千余騎、あらかじめ軍令十三条仰せ下さる(君御出陣に軍令を仰せくだされしは、小田原と関ヶ原と二度のみなり)。教令最厳なれば軍旅往来の道の煩いもなく、御先手ははや由比倉沢辺へ着陣す。関白は十一日に三河の吉田川を押し渡らんとありし時、この渡し場の奉行せし伊奈と云う男、この程日数へし長雨に川水いたく水かさそひて渦巻き流るれば、軍勢を渡されんことかなふべからず、今しばしこの所に止まらせらるべうもやと聞えあぐる。関白軍法に、前に川あらん時雨降りて渡らざれは後に渡る事を得ずと云えり。何か苦しかるべき必ず渡りなむと仰せけるに、伊奈眼に角をたて、こは殿下の仰せとも覚えず。雨をいとはず川を渡すは小軍の事なり。大軍暴漲を犯し川を渡らんとすれば、人馬沈溺少かるべからず。敵この風說を聞かんに、十人を百人百人を千人と云い伝え、敵の心には勇を添え、味方には臆を招くものに候はんかと云う。関白手を拍ちて、亞相の家には賤吏と云えども、皆な軍旅の智識多しと感じ給ふ事大方ならず。その諫を用ひこゝに三日滞留ありて、十九日に駿府に着かせらる。
関白家に石田三成と云う功者あり。かれ讒謟面諛の奸臣にて、当時天下の諸侯諸士かれが舌頭にかゝりて、身をも国をも失ふものあげて数ふべからず。かれこの地に到り、徳川殿北条とは結ぼゝれたる中なればその心中はかりがたし。御心用ひなくてはかなふべからずと申しけるにぞ、関白忽に疑を生じ駿府に入りかね給ひけるが、浅野長政、大谷吉継等とかくこしらへて、関白も疑いとけ城にいらる。廿七日には沼津に着かれる。廿八日、諸大将を伴い敵地の要害を見巡り給ひ、君を迎えて攻城の事を問いはかられ、やがて先ず北条が手のもの籠め置きたる山中の城を攻め落し、韮山の城を攻め囲み、時の間に箱根山を馳せ通り小田原の城に押しつめらる。
これより先伊豆の戶倉、泉頭、獅子浜等の城々攻めざるに皆な逃げ落ちて小田原へ籠る。城中にもさすが八州に名を知られたるおぼえの者ども悉く集まり、兵粮軍勢多くこめ置きて堅固に守りければ、たやすくは落さるべうも見えざりしが、君の御勢井伊直政眞先かけて宮城の口篠曲輪等を攻め破る。その上、君の御計ひによりて、北国は上杉景勝、前田利家等を大將とし、眞田小笠原等の諸軍勢上野国より攻め入り、松枝、深谷、本庄、安中、武蔵の松山、川越、鉢形、三山等の城々を攻め下し、御家人本多、鳥居、酒井等の勢は上州和田、板鼻、三倉、布川、藤岡等の城々を攻めぬき、上方勢と共に合して上總下總の庁南、庁北、伊南、伊北を始め四十八ケ所の城々皆な攻め下し、武蔵江戶、岩槻、忍、八王子等の城々も皆な落す。
それのみならず小田原にも松田某など云える腹心の輩、寄手に內通するものも多ければ、今は孤城守りがたく防戦の手だてを失い、氏政氏直父子はじめ一族家人等皆な降を請うをもて、氏政には腹切らせ、氏直をば助けて宗徒の家人を添え高野山に押しこめぬ。さすが氏直は君の御むこなれば関白もさのみからくももてなされず、後には大坂に呼び寄せ、西国にて一国を与えんとありしが、不幸にして氏直痘を病て失せければ北条の正統はこゝに絕ぬ。さて関白ハ諸将の軍功を論じ勤賞行わる。
駿河亞相軍謀密策。今度関東平均の大勳この右に出るものなければとて、北条が領せし八州の国々悉く君の御領に定めらる。(秀吉今度北条を攻亡し、その所領ことごとく君に進らせられし事は、快活大度の挙動に似たりといへども、その実は当家年頃の御徳に心腹せし駿遠三甲信の五国を奪ふ詐謀なる事疑いなし。そのゆへは関東八州といへども、房州に里見、上野に佐野、下野に宇都宮、那須、常陸に佐竹等あれば、八州の內御領となるはわづかに四州なり。かの駿遠三甲信の五ケ国は、年頃人民心服せし御領なれば、これを秀吉の手に入れ、甲州は尤も要地なれば加藤遠江守光泰を置く。後に淺野弾正少弼長政を置く。東海道要枢の淸須に秀次、吉田に池田、浜松に堀尾、岡崎に田中、掛川に山內、駿府に中村を置く。これらは皆な秀吉服心の者共を要地にすえ置きて、関八州の咽喉を押へて、少しも身を動し手を出さしめじと謀りしのみならず、又関東は年久しく北条に帰服せし地なれば、新に主をかへば必ず一揆蜂起すべし。土地不案內にて一揆を征せんには必敗すべきなり。その敗に乗じてはからひざまあるべしとの秀吉が胸中、明らかに知るべきなり。されば御家人等は御国換ありとの風說を聞きて大に驚き騷しを、君聞こし召す。汝等さのみ心を労する事勿れ、我たとひ旧領を離れ、奥の国にもせよ百万石の領地さへあらば、上方に切りてのぼらん事容易なりと仰せありて、自若としてましましけるとぞ。果して八州の地御領に帰して後、彌我国勢强大に及び、終に大業を開かせ給ふに至りては、天意神慮の致すところ、秀吉私智私力をもて爭ふべきにあらざりけり)
又御旧領五ケ国は、秀吉賜はりて旗下の諸將に配分なさまほし、早く引渡し給はるべしとあり、よて五ケ国の諸有司代官下吏に至るまで急ぎ召しよせ、関東八州の地割を命ぜられ、事整いしかば七月廿九日、小田原を御発輿ありて、八月朔日、江戶城に移らせ給ひ、万歲千秋天長地久の基を開かせ給ふ。
さて、この城と云うは、昔鎌倉の管領上杉修理大夫定政第一の謀臣太田左衛門持資入道道灌が、正二年繩張し長祿元年成功せしが、文明十八年、道灌失せて後は、管領より城代を置きて守らせしに、大永四年、小田原の北条のために攻めとられ、この後は北条より遠山左衛門佐景政して守らせたり。然るにこの度御勢共その城攻めとらんとて向かひし時、遠山眞田など云える者共忽に降参してこの城を進めらす。よって戶田三郞右衛門忠次に受け取らしめられしなり。げにも道灌さる文武の老練にて取り立てし城ゆへ、この頃までは未だ規摸狹少なりしかども、四神相応最上の城地なりと云うもことはりにこそ。かくて身内の人々も駿府より俄に引き移る。七月の始めにこのことはじまり。
八月より九月はじめ迄に、五ケ国の御家人大小引払ひたるよし関白も聞き給ひ、いつにはじめぬ亞相の下知の神速さよと感にたへられざりしとぞ。やがて井伊、榊原、本多、酒井、大久保等をはじめ、当家に名ある輩皆なしる所多く賜はりけり。関白はこのついでに奥の国いではの境までも打ちおさめんとて、先ず江戶におはしけるに、この城未だ狹隘にて関白の宿らせ給ふべき寢殿もなければ、北郭平川口の法恩寺と云えるを旅舘となされてさまざま饗せらる。関白、会津黒川の城までおはしけるに、伊達南部等の国人どもはとく小田原の御陣に参り従ひぬれば、なべて背く者もなく、その長月ばかりに帰洛せらる。
十九年には奥の大崎葛西の地に一揆蜂起する聞えありしにより、関白再び出馬せらるべしと聞えければ、君もこれを助け給はむとて、下總の古河まで至らせ給へば、一揆皆な落ち失せて平らぎぬと聞こゆ。よて先ず御馬を江戶に納め給ふ。この事に座して伊達政宗重く罪蒙るべかりしをも、君とかくこしらへて政宗許され国に帰るる。夏の末よりその一揆又蜂起すれば、京よりは秀次を大將にて軍勢攻め下る。秋の始又君も御馬を出され、九戶など云える城を攻め落さる。この中に君は岩手山に新城を築がせられぬ。これは政宗がしる所しばしば騒がしければ、今度はその所を收公せられ、葛西大崎の地に移さるべきをあらかじめはかりしり給へば、その時住せんがためかく堅固に築かしめ給ひしなり。政宗もかくと承り深く御惠のあつきをかしこみけるとぞ。
関白は朝鮮を討たんとの思ひ立ちありければ、やがて当職を養子秀次に譲られ、その身は太閤と称せられ、渡海の沙汰専らなれば、君も文祿元年二月に、東国諸大名の惣大將として江戶を立たせ給ひ、肥前の名護屋に渡らせ給ふ。(秀吉足利氏衰乱の余をうけ、旧主右府の仇を誅し、西は島津が强悍を従え、東は北条が倨傲を滅し、天下やうやく一統し万民やゝ寢食を安んぜむとするに及ひ、また遠征を思ひ立ち私慾を異域に逞ましゅうせんとするものは、愛子を失ひ悲歎にたえざるよりおこりしなど云える說々あれども、実はこの人百戦百勝の雄畧ありといへども、垂拱無爲の化を致す徳なく、兵を窮め武を黷し、終に我邦百万の生霊をして異賊の矢刄に悩ませ、そのはては富强の業二世に伝ふるに及ばず、悉く雪と消氷ととけき、彼漢武匈奴を征して国力を虚耗し、隋煬遼左を伐ちて、終に民疲れ国亡ぶるに至ると同日の談なり。人主つとめて土地を広め身後の虚名を求めんとして、終には身に益なく国に害を殘すもの少からず。よくよく思ひはかり給ふべき事にこそ)
この戦にひまなきほどに、年の矢は射るが如くに馳せて文祿も四年に移りぬ。関白秀次譲りをうけしより万思ふまゝのふるまひ多かりしかば、人望に背く事少からざりしに、太閤また秀賴とて齢の末に生れ出し思ひ子あれば、いかにもして是を世に立ばやと下心に思ひ悩まれける。そのひまを得て石田等の讒臣靑蠅の間言重なりしかば、秀次終に失はる。この事に座して伊達、細川、浅野、最上など云えるもの等罪得べかりしをも、君よく大閤を説き諭し給ひて平らにおさまりしかば、この輩あつくかしこみ、いづれの時にかをのが命にかへてもこの御恩報ひ奉らんとぞはかりける。
慶長元年五月八日には君內大臣にのぼらせ給ひ正二位にあがらせられ、御內に侍従二人諸大夫十八人までに及べり。十一日、御任槐の御拜賀に御参內、牛車御隨身など召し具せらる。三年五月五日、大閤俄に心地悩ましと聞えしかば、京坂伏見騒がしき事物にも似ず。その身にもこの病終におこたるまじく思はれければ、幼子秀賴の事をのみ思ひわづらはされ、さまざまの掟共さだめ沙汰せらる。先ずは諸大名互に和らぎむつましからざれば、幼主のためあしかるべしとて、伏見の城に人々を呼び集め、その事を石田等の奉行人して令しけるに、もとより恨みを含む輩互いに和平する事をいなみつれども、君その所におはし諭し給へば、人々御威徳におそれすみやかにかしこまり申したるにぞ。太閤ますます君の御威徳を感ぜられ、君を始め前田、毛利、上杉等の人々を招き、ちかごとたて起証文書ゝしめし中にも、君の御誓書はその身の棺中に納め葬るべしなど申しをかる。
初秋の頃はその病いささかひまありとて君を病の牀に招かれ、秀吉が命も今は旦夕に迫りたり。秀吉失せなん後は天下忽に乱れぬべし。これを押しづめ給はむ人は、內府をのぞきてまたあるべしとも思はれねば、天下の事ことごとく內府に譲り進めすべし、我が子秀賴成長の後天下兵馬の権をも執るべくは、いかにとも御はからひ有べきなりと遺託せられしに、君も御落涙ましまして、我れ淺才小量をもていかで天下の事を主宰すべき。殿下万歲の後も秀賴君かくてましませば、誰か後ろめたき心を抱く者あらん。しかりと云えども人心測りがたし。たゞ深く謀り遠く慮りて、天下後世の爲に遺教をほどこさるべし。我に於ては决してこの重任にあたりがたしと、再三辞退ましまし退き給へば、太閤ハいよいよ心を安んぜず、石田、增田、長束など云える腹心の近臣に密旨を遺言せらるゝ事しばしばにて、葉月十八日、臥待の月もまちつけず失せられぬ。
(天下を以て子に与えず他人に譲られしは、堯舜の御後は蜀の昭烈帝嗣子劉禅を諸葛亮に託して、輔くべくはたすけよ。もしその不可ならんには君自らとるべしと云われし事、後世たぐひなきことには申すなれ。然るに秀吉の烈祖に孤を託せられ、天下の兵権を譲らんとせられしは、昭烈の諸葛亮に託せられしに同じ。しかるを石田、增田が詞にまどひ、その事をとげざりしは惜むべき事なりとさる人の申し置きしが、今案ずるにこの說是に似て非也。凡そ秀吉の生涯陽に磊々落々として快活の姿をなすといへども、その実はことごとく詐謀詭計ならざるはなし。石田等の奸臣よいよい秀吉の膓心に入りて、常にその胸中を察するが故に、巧に迎合を行ひし者なり。秀吉石田等が說に迷い前心をひるがへしたるにはあらず。
烈祖は常に先見の明おはしまして、よく人の先を得給へるによて、秀吉が沒期の詐謀に陥り給ハざるなり。又ある書に、秀吉死に望み小出秀政、片桐且元に密諭せしは、我家亡びざらん樣にはからんとすれば、本朝の禍立所におこりぬべし。彼を思ひ是をはかるに、この七年が間朝鮮と軍し大明と戦い、我れかの両国に仇を結びし事こそ我が生涯の過ちなれ。我れ死んだ後、彼国に向ひし十万の軍勢、一人も生きて帰らん事思ひもよらず。もし希有にして帰る事を得たりとも、彼国よりこの年月の仇を報はんと思はざる事あるべかず。元世祖が本朝を侵さむとせし事近きためし也。この時に至て、秀吉なからん後誰有りてか本朝の動きなからん樣にはかる者のあるべき。この事をよくはからんは、江戶內府の外又あるべしとも思はれず。しかしこの人彌本朝のために大功を立てられんには、神明もその功を感じ聖主もその勲を賞し給ひ、万民もその徳になづきその威に恐れ、天下は自ずからかの家に帰しぬべし。その時なまじゐに我が旧恩を思ふ輩、幼弱の秀賴を輔佐して天下をとらんとはかり、この人と合戦を結ばゞ、我家自ずから亡びむ事きびすをめぐらすべからず。汝ら我が家の絕えざらん事を思はば、相構えてこの人によく従い仕えて、秀賴が事あしく思はれぬ樣にはかるべし。さらば我が家の絕えざらむ事もありぬべしと、遺言せられしとのせたり。
この事いぶかしと云う人もあれど、思ふにこれも詐謀の一にして、秀吉本心はかく正直なりと、死後に人に云はしめむとての奸智より出し所にて、その本心にてはなし。ゆへに四老五奉行などにはこの沙汰なく、小臣の両人に申し置かれたると見ゆるなり)。太閤兵馬の権を譲り進らせむとありしをかたく辞し給ふにより、しからば秀賴幼稚のほどは、天下大小の政務は君に頼み進めらせ、加賀大納言利家は秀賴保伝となりて後見あるべしとの遺言なり。これより君伏見にましまして大小の政を沙汰し給へば、天下の主はたゞこの君なりと四民なびき従う。石田三成始め大坂の奉行共これを見て、何となくめざましくそねみ思ふ事なみなみならず、いかにもしてかたぶけ奉らん事を、內々をのがじゝはからひける。
君は朝鮮に罷りたる十万の軍勢、つつがなく帰朝せん事を御心なやましく思ひはかり給ひしに、これも思し召しのまゝに事整い、軍勢ことなく皆な帰り参る。その時、島津父子が退陣の働きすぐれたりとて義弘祿加へられ、その子忠恒をば四位にのぼせらる。奉行等は秀賴幼稚の間、私に賞罰行はれん事いかゞなりとさへぎり申したれども、賞罰の沙汰なくしていかで政道を正すべきとて、かく仰せ定られしかば、奉行等ましてふづくみ憤る事やらむかたなし。
とかくこの君秀賴と同じ所におはしませばこそ、世の人望も帰するに似たれ。秀賴を大坂へ迎へとりなば、自ずから君の御威権も薄らぐべしと謀り、秀賴の生母をはじめ女房達をたばかり、四年睦月には秀賴を大坂へ迎えとる。君もその御送りとして伏見より大坂へわたらせ給へば、その夜、石田小西等密議し、明朝御帰路を襲ひ伐ちてうしなひ奉らんとす。されども井伊直政大勢を引具し、鉄砲に火縄かけて御迎えに参りければ、大坂方の者共は案にたがひ手をむなしくしぬ。かくて奉行等益姦謀をめぐらすに、今天下人望の帰する所、江戶內府と加賀亞相の上に出るものなし。しかれば両雄を闘わしめその虚に乘じはからふにしかじとて、先に毛利、浮田、上杉等の人々にはかり、利家にさまざま君の御事を讒訴す。その中にも君故大閤の遺令に違はせ給ふ事ありとて、利家等より使い立てその旨を申し進めらせしむ。こゝに於て双方牟楯おこり、兵戦近きにあらんと京伏見騷動大かたならず、かねて志を通じ奉る池田輝政、福島正則、黑田、有馬、藤堂等は日夜に御舘に参り、大坂よりもし押し寄する者あらんには、御味方して一戦せんと申したり。
君には今何故にさる事のあるべき。各かくてあらば世の騷ぎを引出す事あるべし。唯とく帰り給へとぞ宣ひける。(前田德善院この頃密かに人に語りしは、弓矢の挌樣々あるものなり。この頃の騷動に、信長ならば早く岐阜へ引き取り給ふべし。秀吉公ならば三千か五千の人数にて直に切りて出らるべし。それにあの內府公はさらにこの騷動を心にもかけ給はず、毎日碁を囲みて更に余念も見え給はず。さてさて弓矢の挌の違し事よと感ぜしとぞ)。
この頃は井伊、本多、榊原、石川、平岩の五人を隊將として御家人五隊に分ち、一組づゝ交代し京の御舘に勤番せしが、この春は榊原康政当番にて上洛するとて熱田辺まで来かかり、この騷動を聞とひとしく、汗馬に鞭打ち唯一騎にてはせのぼる。跡より追々馳せのぼるもの七百余人、康政膳所に来るとき直政が伏見より出せし飛脚に逢て、大坂よりは未だ寄り来る者もなしと聞先安堵し膳所に陣取り、秀賴の仰せと披露し勢多矢橋辺に新関を置き三日が間往来をとゞむ。諸国にてもこの騷動を聞きて、家々家人どもいそぎ来るとて、この関にとゞめらるゝもの幾千万か数しらず。康政三日の未の時ばかりに関の戶をしひらけば、群集したる旅人雲霞のごとく京伏見に馳せ入る。康政その身小具足きて馬印押し立て、まっ先に伏見へ馳せ参ず。
京伏見にはこの形勢をみて、関東より內府の軍勢数限りなく入洛せしと風說すれば、石田はじめ奉行等これを聞き、茫然としてたゞあきれたるばかりなり。その中に細川越中守忠興は利家の聟なれば、この事利家のため尤も以て然るべからずと、その子利長を諭し、堀尾、中村、生駒の輩とはかり、中に立て双方の平らぎを行ひける。やがて利家病をたすけ伏見にまかり御対面し、向島の御舘に引遷らせ給はゞ、彼地は要害もしかるべき所なり、不慮の変に備え給へなどすゝめ進めらせ、心へだてず語らひて帰る。
君もやがて利家の大坂の舘におはしまし、先日利家が重病をつとめて伏見までまかりたるを謝し給ふ。利家二なく悅び病をつとめて饗し奉り、我心地終に生べくも思はれねば、利長利政の二子が身の行末を賴み進めらす。この夜は藤堂高虎が家に泊まらせ給ふ。石田は同志の輩を会し藤堂が家をおそはんとせしが、これもとかくしてその事もとげず。次の日、伏見に帰らせ給ひ、やがて向島に引き移らせ給へば、福島、加藤、浅野、黑田、蜂須賀、藤堂をはじめ、伏見にありあふ輩皆なまう上り、武具馬具酒肴等とりどり奉り賀し参らす。大坂の奉行はさらなり。毛利、浮田など云える者等も、日ごとに向島に参り御旨をこひ奉る。そのうへこのぼどかの利家も失せければ、齒爵ともに 君の上越すものもなく、御威望はありしにまされり。
ここに又福島、池田、両加藤、細川、浅野、黒田等の七将は朝鮮にある事七年、その間粉骨碎身して苦辛せし戦功を、故大閤勤賞の薄かりしは、全く三成が讒による所なれば、今三成にその怨を報ぜんと怒りひしめくにぞ。三成大に驚き恐れ身の置き所を知らず。浮田、上杉、佐竹等はかねて三成と親しかりしかば、今この危急を救ハんには、內府の御旨を伺ひ御憐れみを請はざる事を得じとはかり、佐竹義宣深夜に三成を女輿に乗せて伏見に参り、ひたすら御情けを請い奉る。そのほど福島、加藤等の諸将は、三成とり逃さじと跡より追り来る。されども君かひがひしく請がひ給ひ、七将の輩をもとかく諭し給ひ、三成をば職掌を削りて佐和山に蟄居せしめらるゝとて、佐和山まで三河守秀康卿をもて送らしめらる。(三成が大閤沒後に及び、烈祖を害し奉らんと謀りし事、いくたびとなく、当家の害となる三成に過ぎたるものなければ、今度七將の輩三成を誅し怨を報ぜんとするこそ幸なれ。只今三成が年来の罪を糺明してこれを誅し、ながく禍をのぞき給ふべけれと、御家人等諫め奉りしかども、さらにさるみけしきも見え給はず。本多佐渡守正信は帷幄の謀臣なり。正信深夜御寢所に参り、さて殿は治部が事を如何思し召すやと申す。君聞こし召し、その儀を兎や角やと思案してゐるぞと仰せければ、正信承り、御思慮遊ばし候とあればそれにてもはや安心せり。又何事をか申べきとて直に退出せりとぞ。これ等君臣の御挙動殆ど凡智の知る所にあらざるが如し)
三成佐和山へ蟄居せし後は、三成同意の輩は大に力を失ひ、御家人に阿諛して奔走す。長束、増田などの奉行人等は毛利、宇喜多、上杉の三老に議し、內府天下の万機を沙汰し給ふ事なれば、向島の御舘におはしまさんより、伏見の本丸を御住居になさせ給はんかと聞え奉る。君は我向島に住まゐするも利家の勧めによれば、今三老並びに奉行中の勧めならんには、ともかくもその指揮に任すべしと仰せられ、閏三月十三日、伏見の本丸に移らせ給へば、前田德善院はからひて、大手をはじめ諸門の鎰ことごとく井伊直政に引き渡す。これより後は伏見はひたすら御居城となりて、御家人等諸城門を警衛す。今は世のなかもことなく穏やかなれば、朝鮮在陣このかた労をいこひ人馬の疲をも養はんため、諸大名各就封して国務をも沙汰すべきにやと仰せ下されしかば、浮田、毛利、上杉、前田等の諸大名をはじめ、生駒、中村、堀尾、並びに加藤淸正、細川忠興等を思ひ思ひに暇賜はり帰国すれば、長束など云える奉行どもも、そのしる所へ立ちかへらんとす。
重陽には久しく秀賴母子御対面なければ、大坂へ渡らせ給ひぬ。長束、增田密かに淺野長政がはからひにて、土方大野など云えるを刺客として、君大坂にいらせ給はむ時、害し奉らんと用意する由告げ奉る。よって本多正信等、明日大坂城へ入らせ給う事しかるべからずと諌め奉ると云えども、井伊直政、榊原康政、本多忠勝等、かくては臆するに似たれば、たゞその心構えして御入城候はんにはしかじと申すに従わせ給ひ、重陽には大坂城へいらせ給ひ、秀賴母子へ御対面あり。井伊、本多、榊原等をして寢殿まで進んで御側を離れねば、城中には手を出すものもなくして、平らかに御旅舘に帰らせ給ひぬ。されどこなたもその御心づかひせられ、伏見の御人数を召しける。御留守に秀康卿おはしけるが、この城は我かくてあれば何の心づかひかあらん、番頭物頭までもその局を明けて、片時も早く大坂の御旅舘に馳せ参るべしと指揮し給ふ。この時卿の下知勢配りの樣聞こし召し、君も吾には生れまさりたりとて、かつ感じかつ悅ばせ給ふ事なゝめならざりしとぞ。今度君を害せんと謀りし首謀は、加賀中納言利長、浅野長政と謀を合せて、土方大野の両人を刺客に命じたる事なれば、これらが罪をたゞされ後来をこらしめ給はずばかなふまじと奉行等聞え上げしに、この事ひろくあらはに罪をたゞさむには、世の騒ぎともなり、秀賴のためしかるべき事ならずと仰せられ、まづ長政は所領に蟄居せしめ、大野土方はそれぞれに召しあづけらる。(これ実は石田三成と長束增田等がはかりて、利長長政を陷れて失はんとす。実は利長、長政等は当家に親しみあれば、当家親眤の徒を離間せんと計りし事いちじるしければ、わざとその罪を軽くとりなさせ給ひしものなるべし)
かくて奉行共にこの頃諸大名多く帰国し諸有司も数少き中に、日々伏見に行かよはんも妨げ多ければ、我今より大坂の西丸に住居して、万機を沙汰せんはいかにと仰せらる。長束、增田等もとよりいなみ奉るべきにあらず。このまゝ大坂に御住居ましまして、万に沙汰し給はむ事、天下の大幸この上なしと御請し、俄に故大閤心いれて搆造せられたる西丸に、ことにことを添て修理を加へ迎へ奉れば、在大坂の大小名も日々西城にまうのぼり御けしきをとるにぞ。いよいよ天下の主とは見えさせ給ふ。
かくて淺野、土方等それぞれに御かうじ蒙りしうへは、利長がこと捨をかるべからずとありて、ほどなく加賀国へ打ちて下らせ給ふべしと聞こゆれば、丹羽五郞左衛門長重こひ出で御先手を奉はる。このこと世中ゆすりみちて言のゝしるにぞ。細川忠興はじめ故利家このかた彼家に親しみ深き諸大名より、利長の元へこの旨を告げやるにぞ。利長大に驚き、橫山と云う家司をのぼせ、さらに思ひよらざる旨かへすべす陳謝し、その母芳春院を質に進らせけるにぞ事なく平らぎぬ(これ江戶へ諸大名の証人を進めらせたる起本なり)。
明ければ慶長五年正月元日、大坂の西丸におはしまし、諸大名太刀折紙をもて、歲首を賀したてまつる。秀賴の近習馬廻の諸士も、組々を分けて五日迄拜賀に参る。そのにぎはひにるものもなし。睦月の中旬に至り在大坂の大小名をめし饗せられ、四座の猿楽を催さる。貴賤袖をつらね参り集う。御威光故太閤の在世にことならず。石田三成佐和山蟄居の前より、上杉佐竹等と深くはかりかはし、時を得て上杉佐竹と牒し合せ、東国に謀反の色をあらはさんには、內府自らこれを征せられんとて、打ちて下られん事必定なり。その時三成大坂へ馳せ参し秀賴仰せと称し、毛利、浮田をはじめ西国諸大名を語らひ集め西より軍を進め、內府を中途にさし挟み討ち奉らんには、勝利疑いなしと謀を決しける。
景勝が家司直江山城守兼継これもさるふるつはものにて、三成と謀を合せ互いにその事をくはだてしが、今は時こそよけれと景勝をすすめ、領內砦々を取立て塁を高くし溝を深くし、旧領越後下野辺の鄕民をすゝめ、一揆を起させ騷動せしむれば、近国の領主代官大に驚き上杉叛逆の由、大坂へ注進櫛の歯を引くが如し。上杉就封の後期をこえて上坂せざるゆへなれば、世の騒ぎを鎮めんため景勝早く上坂すべしと、御使を下され召すども参らざるのみならず、豊国寺の兌長老して、直江が許へ消息してその情を試し給ひしに、兼継が返簡傲慢無礼をきはめしかば、今は御自ら征し給はでかなふべからずと仰せ下さる。大坂の奉行等は、幼君の代始にこは思ひよらぬ事なり。もし景勝実に叛逆するにもせよ、一二の大名を差し向けられんに何の恐れか候べき、御親征あらんは勿躰なしと留め奉る。(大坂の奉行等は皆な上杉、石田の党類なれば、御親征を遲引きして、その中には景勝が防御の備えを全からしめんとするものなり)
されど東征の英慮既に決し給へば、いかでこれ等の言葉になづみ給はむ。六月の初めにハ西丸にあまたの大小名召しあはせられ、軍議既に定まれば、十六日に大坂には佐野肥後守政信を御留守とせられ、大軍を召し具し御出馬ありて、その夜は伏見の城にとゞまらせ給ふ。この城は鳥居彥右衛門元忠、松平主殿頭家忠、內藤彌次右衛門家長、松平五左衛門近正をとゞめて守らせらる。(君この時、当城へ残し留る人数不足にて、汝等苦労なりと仰せければ、元忠承り、某は左は思ひ候はず、天下無事ならんには、当城守護せん事某と五左衛門両人にて事たり候べし。もし世に変ありて敵大軍を以て当城を囲まん時は、近国に後詰する味方はなし。とても城に火をかけ討死するの外は候はねば、御人数多く当城に残し給はむ事、詮なしと申しけるとぞ)
十八日、伏見を首途し給へば、池田、福島、細川をはじめ、上方大名は都合五万余の勢にて大坂を打ち立ち、追々奥へぞ下りける。かねてより軍令厳重なりければ、農は耕し商は鬻ぎて敢えて生產を失はず。行旅は避けるに及ばず、万民悅び限りなし。大津の城に立ちよらせ給へば、京極宰相高次昼飯奉る。今夜は石部の御旅舘に泊まらせらる。長束正家水口に就封してありしが石部に参り、明朝ハ水口に立ち寄らせ給ふべし、饗奉るべき由申してかへる。その夜、思し召す旨ありとて戌の刻俄に石部を立たせ給ひ、長束へも去りがたき事出来て急がせ給へば、こたびは立ち寄らせ給はず。御かへさに立ちよらせ給ふべしと、御使いして仰せ遣はさるれば、正家大に驚き跡を追うて十九日の昼、土山の御休らひ所に参り、御名残りを惜しみたてまつれば、御感の由にて御刀賜はり、正家拜謝して帰る。(石田三成、この時は未だ佐和山にありしに、その謀臣島左近今夜佐和山より急に水口の御旅舘へ夜討ちをかけんと云う。三成聞きてそれにも及ばす。かねて長束に牒し合せ置きたれば、長束今夜水口にて謀を行ふべしと云う。左近天狗も鳶と化せば蛛網にかゝるたとへあり。今夜の期を過すべからずと是非に三成をすゝめ、三千人にて蘆浦観音寺辺より大船廿余艘に取り乗り、子刻に水口まできて見れば、はや打ち立ち給ふ御跡なりしゆへあきれはてゝ帰りしと云う。烈祖の三成をあしらひ給ふ事、三歲の小兒を弄ぶに異ならず、小人小点もとより量をしらざるを見るべし)
この道すがら鎌倉の八幡宮にまうで給ひ、右大将家このかた世々の古跡を尋ね給ひ、江島の弁天金沢の称名寺などとはせられ、七月二日、江戶の城に入らせ給ふ(陪従せし上方大名は、海道を直に江戶へ着陣すべしと命ぜられ、鎌倉御遊覧には御家人のみ召し具せらる)。程なく上方大名御跡より進発の輩も、やがて江戶へ着陣しければ、悉く二丸に召して大饗行はる。
十九日、中納言殿先ず江戶を御進発ましまし、榊原康政先鋒として下野の宇都宮に御着陣あり。御先手の諸大名、十三日より十五日までの間に、太田原辺まで着陣すべしと定められ、君は廿一日に御馬を出され、廿四日、小山に御陣を据えらる。これは鎌倉右大將佐竹追討の佳例によられしとぞ聞えける。佐竹今度も会津もよりの事なれば、御先手にさされながら打ち立つ樣も見えざれば、重ねて御使を立られ御催促ありけれど、たやすくいらへも聞えず。然れば上杉に一味せしに疑いなしとて、先ず那須一党並びに水谷、皆川、太田原等の輩には、その押えを命ぜらる。然るに池鯉鮒の宿にて、大坂の家人加賀井弥八郞と云える者、争論して水野和泉守忠重を討ち、弥八郞また堀尾吉晴がために討たれしが、吉晴も深手負いし由聞こゆ。(これは大谷吉隆がすゝめにより、三成密かに弥八郞に命じ、秀賴より存問の使てと称し江戶へ下し、君御対面の席にて刺し奉れとの事にて、弥八郞を江戶へ下しける。然るに君いかで斯かる詐謀に陥り給ふべき。御対面なければ彌八郞むなしく帰るとて、道にて堀尾をあざむき忠重に会し、酒宴の席にて忠重を害し、堀尾をも討たんとしてその身伐たれしなり。又三成は大谷吉隆、安国寺惠瓊等とはかり大坂へ馳せ参り、秀賴の仰せなりとて諸国へ軍令をふれまはし、毛利宇喜田をはじめ小西、立花、島津等、すべて九国中国の大名小名雲霞の如く呼び集め、先ず伏見の城を攻落し、鳥居元忠以下を討ち取りたる由、追々小山の御陣に注進来れば、御供の人々驚く事限りなし。
君は諸将を御本陣に召し集められ、井伊直政、多忠勝両人もて上方逆徒蜂起の事を告げられ、諸将妻子は皆な大坂に置きたる事なれば、うしろめたく案じわづらはれん事ことはりなり。速にこの陣中を引き払い大坂へ上られ、浮田、石田等と一味せられん事更に恨みとは思はず、我らが領內にをいて旅宿人馬の事はさゝはりなからん樣令し置きたれば、心置きなくのぼらるべしと仰せ下さる。諸將愕然として敢えて一語を出す者もなかりし中に、福島正則進み出、我に於てはかゝる時に臨み、妻子にひかれ武士の道を踏み違ふ事あるべからず。內府の御ため身命を抛て御味方仕べしと云えば、黒田、淺野、細川、池田等は云うまでもなく、一座の諸将皆な御味方に一决し、更に二心なき旨を申す。
君もその座に出まし、諸將の義心を御感浅からず、さては彌会津に攻め入りて景勝を踏み潰し、その後上方へ進発すべきか、又は景勝をば捨て置きてまづ上方へ発行すべきかと議せらる。諸將皆な上杉は枝葉なり、浮田石田等は根本なり。会津を捨てゝ上方御征伐を急がるべきにやと申しければ、彌上方御進発に决せらる(これは前夜に秀康卿に議せられし時、卿逸早く上方逆徒御征伐を進められしかば、既に御治定ありし所なり)。
しかれば淸洲吉田両城は、敵地に近きをもて正則輝政先陣あるべし。引き続き先手は淸洲に着陣し、我父子出馬を待るべしと仰せあれば、正則我居城淸洲をさゝげ進めらせ置けば、御家人に守らせ給ふべし。十万の軍資はかねて備え置きたりと申す。山內対馬守一豊も、我も居城懸川をさゝげ置けば御旗本勢をこめをかれ、後陣を御心安く御進発あるべきなりと申しにぞ。東海道に城持ちし輩は、皆な異口同音に同じ樣にぞ聞えあぐる。又秀康卿は是非上方の御先手奉はりたしと仰せけれど、上杉は謙信以来こゝろにくきものなれば、汝が外これを押ふる者あらざればとて御跡にとゞめられ、秀康卿を總督にて伊達、堀、最上、蒲生、相馬、里見、那須党を上杉の押さえにとゞめ給ひ、福島、池田等の諸將に井伊、本多を御眼代として差し添えられ、七月廿六七日に野州を打ち立ち、各証人を江戶城にとゞめをき、八月朔日二日に江戶をたつ。
君は小山御陣にて軍令ことごとく定られ、八月五日、江戶へ帰らせ給ふべしとありしに、この頃の霖雨にて栗橋の舟橋をし流したりと聞こし召し、これは会津征伐に諸軍往来のたよりよからんため設ける所なり。今は用なしと宣ひ、乙女岸より御船に召し西葛西へ着せられ、七日に江戶へ帰らせ給ふ。かくて明日にも上方御進発あるべしと聞えければ、御供にされし御家人は、番所より直に発足すべき用意して、草鞋路錢を腰に付けてつとめ、玄関前塀重門內には鎗立の栅木を設け虎皮の長柄を飾り、書院の床には御馬印を立て並べ、唯今にも御出馬あるべく見えながらいまだ御出馬もなし。御先手の諸將淸洲に着陣して日数を経れば、御眼代にまかりたる直政、忠勝両人も、いかにせんかと思い煩うほどに、江戶より先手諸將の慰労の御使とて村越茂助直吉をつかはされしが、折ふし風の御こゝ地にてしばし御出馬に及ばれざる旨の由を伝ふ。
加藤左馬助嘉明心さときものにて、我輩かくてむなしく、內府の出馬のみ待つべきにあらず。いざ一戦して忠義をあらはすべしと語り合い、各手分して中納言秀信の岐阜の城を攻め囲む。城中にも百々木造など云える古つはものありて、謀を設け防ぐといへども、大軍大手搦手より攻め入りにぞ、遂には攻め破られ秀信も降參す。さすが右府の嫡孫なればとて助命せられ、後に高野山に閑居ありてほどなく失せらる。先手諸將は直に大垣城に対し赤坂に陣とれば、井伊本多よりこの事江戶へ聞こえ上ぐ。よって御感浅からず各御書を賜ひ賞せらる。
やがて九月朔日、君江戶城を御出馬あり。この時、石川日向守家成、今日は西塞とて兵書に重き禁忌とす。御出馬は御延引あらむにやと諌め申し、君聞こし召し西が塞ぐゆへ我れ東よりゆきて是を開くなりと仰せられながら、御馬を進め給へば、衆人皆な凡慮の及ぶ所ならずと感じ奉らぬ者なし。かくて桜田までならせ給ふ所へ、岐阜より首桶到着せし注進あれば、增上寺門前に置くべしと命じ給ひて、芝神明の社にならせられ、拜殿にてその首共実検し給ひ、增上寺へいらせられ住持存応先導して本堂へならせられ、ほどなく立ち出で給ひ、直に御乗り物に召され、今夜は神奈川の駅に宿らせられ、こゝより又御書を淸洲の諸將に賜はり御出馬を告げらる。
十一日、熱田までわたらせられし時、藤堂和泉守高虎御迎に参り拜謁して御先に帰る。(高虎小山御陣所より暇賜はり御先へまかる時、今度先陣に打ちてのぼる諸將は、皆なこれ豊臣家恩顧の者共なり。一旦の義により御味方に参るといへども、その実は心中はかりがたし。高虎が催し奉らざるほどは、構えて江戶を御出馬あるべからずと密に聞え上しが、先手諸將岐阜城を攻めぬくを見て、はや御馬を進め給ふべしと申し上げしなり。
十四日には赤坂へ御着陣あるべしと聞えしかば、かしこに在陣の諸将、手廻の人数ばかり召し具し、呂久川の辺まで来り拜謁す。各この程の軍功を賞せられ、明日は八幡にかけ是非合戦を始むべしと仰せられ、その日午刻赤坂に着かせ給ひ、直政忠勝等兼て経営して待奉りし岡山の御本陣へいらせらる。この岡山と云えるは、天武天皇白鳳の昔大友皇子と御軍ありしとき、勝軍を奏せし行宮の地にて、今度又君御本陣となされ、昔は天皇この地に於て百王一系の帝業を中興せられ、今は君ここにして千載不朽の洪圖を開かせ給ふ。いとありがたきためしなるべし。
逆徒は浮田石田をはじめ、かねてより大垣の城にありて赤坂の諸將と対陣し、打てやかゝらん待やたゝかはむと軍議に日を送りける。さるにても、內府このほどは上杉と合戦最中ならん、上杉が吉左右いつか来らんとそらだのめしてある程に、內府御着陣ありと見え白旗若干見えたりと云うもあり。軍勢雲霞の如くかさみたりと云うもありて、城中狼狽なゝめならず。浮田、石田等、しからば是を試さんとて、浮田が家司明石掃部、石田が謀臣島左近等に人数を添えて、株瀨川辺に出して刈田せしむ。この辺中村、有馬、田中等が陣所に近かり●かば、これらの陣所よりこれを蹴ちらさんと人数を出し、株瀨川の堤上にて散々に戦ひける。御本陣より御覧じ、あの人数引きあぐべしと命ぜられ、井伊直政承り、双方火花を散らし混戦する中へ乗り入り采配を打ちふりふり、三家の人数を引きまとひ物分れしたる挙動、敵も味方も声を挙げて称美せり。
大垣城中には浮田石田が先手明石島等帰り来り、內府御着陣ありし事疑いなし。且つ急に合戦とり結ばるべき形勢なりと申せば、さては城外南宮山に備へたる毛利宰相秀元、松尾山に備へたる金吾中納言秀秋が陣甚心元なし。この城へ敵より押の人数を差し向けざる先に諸將出城し、毛利金吾に力を添えずしてはかなふまじと軍議を決し、夜中大垣城を出で関ヶ原に陣をとる。(島津義弘、この時弟中書豊久を使いとし、今夜関が原に出陣する事良謀とは思はれず。それより今夜中に內府岡山の本陣を襲い伐たんには義弘先陣すべし。浮田、石田の両將その時出馬せられ、無二無三に內府の先手へ切り懸け侯はん樣に下知し給へと申し送りしかど、三成は茫然として是に答ふる事あたはず。島左近すすみ出で、夜討ちなどは小勢を以て大軍を討つに利ある事にて、大軍より小勢に向かい夜討ちを仕懸る事は古今なき事なり。今度は天下分目の大合戦なれば、明日平場にて一戦せむに、味方勝利は更に疑いなき事に候と申しければ、その詞に諸將同意して、義弘が計は用ひざりしと云えり。又一書に、浮田秀家は大垣城に在て寄手を引き付け戦て時日を送り、毛利輝元、立花等が後詰を待て、前後より敵を討ち破るにしかじと云う。大谷吉隆も、浮田殿の詞は敵を大事に取ての事なれば尤も然るべし、靑野が原に打ち出、一挙して敵を破らんとするは心元なしと云いけれども、三成かたく前議を守りて変ぜざれば、秀家も三成が議を破る事あたはず、終に三成が議に决せりとも見ゆ)
明ければ九月十五日、敵味方廿万に近き大軍関ヶ原、靑野が原に陣取りて、旗の手東西に翻り汗馬南北に馳せ違い、かけつかへしつほこさきよりほのほを出して戦いしが、上方の勢は軍將の指揮も思ひ思ひにてはかばかしからず、剛なる味方の將卒に切り立てられ、その上思ひもよらずかねて味方に內通せし金吾秀秋をはじめ裏切の輩さへ若干いできにければ、敵方に賴み切りたる大谷、平塚、戶田等をはじめ宗徒のもの共悉く討たれ、浮田、石田、小西等もすて鞭打ちて伊吹山に逃れり。島津も切りぬけ、その外思ひ思ひに落ちてゆけば、味方の諸軍勇み進めて首をとる事三万五千二百七十余級。味方も討ち死にするもの三千余ありしかど、軍將は一人も討たれざりしかば、君御悅大方ならず。(大道寺內藏助が物語とて語り伝えしは、凡そ関ヶ原の戦いと云うは、日本国が東西に别れ、双方廿万に及ぶ大軍一所に寄り集り、辰の刻に軍始り、未の上刻には勝負の片付たる合戦なり。かゝる大戦は前代未聞の事にて、諸手打込の軍なれば作法次第と云う事もなく、我がちにかゝり敵を切崩したる事にて、追留などと云う事もなく四方八方へ敵を追い行きたれば、中々脇ひらを見る樣な事ならずと見えたり。これ目擊の說尤も実とすべし)。
君は今朝より茶縮緬の御頭巾を召されしが、既に敵皆な敗走するに及び、御本陣にて床机に御腰かけられ勝て胄の緖をしめよと云う事ありとて、はじめて御兜をぞ召されける。この時、御先手の諸將ことごとく参陣して御勝利を賀し奉る。岡江雪御傍にて、まことに名將の御武徳とは申しながら、日本国が二に分れたる大合戦なる所、ただ一日のうちに凶徒ことごとく追ちらされ、我々に至るまでも夜の明けたらん心地す。あはれ御凱歌を行はるべきかと聞え上ければ、君聞こし召しいかにもことはりなり。さりながら各はじめ諸將の妻子証人として大坂にあれば、心中を察して我又甚心苦し、もはや三日が間には我大坂へ攻めのぼり、諸將へ妻子を引き渡し安心せしめ、その上にて勝ち閧の規式をば行ふべしと仰せければ、これを承伝ふる大小名士卒厠役に至るまで、げに仁君かなと感歎せざる者なかりしとぞ。
十七日には諸勢三成が居城佐和山へ押し寄せ不日に攻め落し、大垣に殘りし敵も皆な降人に出ければ、君は十九日御陣を草津に移し給へば、こゝに勅使参向ありて、今度おもはざるに天下兵革起り、四海鼎の如く沸を以て叡慮をなやまさるゝ所、內府神速に馳せのぼり、一戦に数万の凶徒を討ち亡ぼす事、古今未曾有の武功と云うべし。彌天下大平の政を沙汰せらるべしとの詔を伝へられ、公卿殿上人寺社商工等までも、思ひ思ひに御本陣に参賀するさま、簞食壺漿して王師を迎える御威徳四海に輝けり。
中納言殿には宇津宮より直に中山道にかゝり上らせ給ふ御道にて、信州上田の城を攻め給ひしに、眞田昌幸かたく防ぎて従はざれば、こゝに押の兵を残し御道を急がせ給ひ、この頃山道より大軍を引き連れ御着陣。加賀黄門利長も北国を平らげ参着しければ、彌大坂城へ急がせ給ふ。これより先大坂城にては西丸に御留守せし御家人を追い出し、毛利輝元入れかはりて秀賴の後見と号し万事を沙汰し、增田長盛ハ秀賴を守護して本丸にありしが、輝元かねてより家司吉川が帰欵する上は、輝元一議にも及ばず城を出で木津の别業に蟄居し、增田も降参して罪なき旨を陳謝す。
今は秀賴母子も薄氷を踏む心地する所、草津の御陣より御使いありて、今度の逆謀皆な浮田、石田等の姦臣等、私のはからひにて、幼稚の秀賴元来あづかりしらるべきにあらざれば、更に御不審に及ばれざる由仰せつかはさるれば、母子ハ云うまでもなく、城中男女初めて蘇生せし心地し悅ぶ事限りなし。この後は秀賴母子身上は御はからひにもるべからず、何事も御仁恕を希のみの由使いもて謝し奉る。
君は廿七日大坂城にいらせ給へば、また勅使ありて御入城を賀せられ、京堺畿內の土人まで雲霞のごとく来賀し奉る。石田、小西、安国寺等は生擒られ誅せられ、その余凶徒の城城、あるは降参し或は攻め落され、中国九国にては黑田如水入道、加藤淸正と志をあはせて、凶徒の城々攻め平らげて参着し、東国は上杉景勝が臣直江兼續等をして最上に攻め入らしめしに、伊達政宗も最上を援けて戦しが、これも関が原上方勢敗績すと聞きて、兼續兵をまとめて引き返す。よって君大坂に於て今度の賞罰を沙汰せられしが、まさしく御敵となりし上杉、佐竹、島津等の人々さへその願のまゝに罪を許され、眞田昌幸なども、その子伊豆守信之が、軍功にかへて父が首つがん事を願ひければ、これもその願のまゝに聞き召し入られ、あるは本領安堵しまたは所領をけづられ、首討るべきものも多く助命せられ、萬寬宥の御沙汰のみにて、世を安くおさめ給ひし寬仁と云い、大度と云い、かけて申すもなかなかなり。
又欠国も多かりしかば、御味方せし人々にわかち賜ふ。越前国は秀康卿、尾張国は忠吉朝臣、加賀能登越中三国は前田利長、安藝備後ハ福島正則、播磨は池田輝政、紀伊は淺野幸長、筑前は黑田長政、筑後は田中吉政、備前美作は金吾秀秋、出雲隱岐は堀尾吉晴、豊前並びに豊後杵築は細川忠興、土佐は山內一豊、伯耆は中村忠一、若狹は京極高次、丹波は京極高知、伊予松山は加藤嘉明、同国今張は藤堂高虎、因幡は池田長吉、飛騨は金森法印。なおあまたあり。この中にも足利学校の住職三要に仰せごとありて、貞観政要、孔子家語、武経七書等を校正して梓にのぼせらる。戦国攻争間もなく文学を沙汰し給ふ。これ又ありがたき御事なり。
明る六年二月には井伊直政、本多忠勝、奥平信昌、石川康昌等をはじめ、功臣の輩に祿あまた加え、江勢濃三遠駿上等の城々を分かち給ふ。その弥生、中納言殿大納言に登り給ひ、御参內の日忠吉朝臣も侍従に任ぜらる。六月には膳所崎の城を築て戶田左門一西におらしめ、七月には蒲生飛彈守秀行に会津を給ふ。これ秀行が父宰相の旧領なりしが、今までは上杉の領せし所なり。九月には內院の御料、公卿殿上人の采邑を查定し給い、板倉四郞左衛門勝重、加藤喜左衛門正次を京都にをいて大小の沙汰せしめ、その冬、江戶に帰らせ給ひ、奥平家昌に宇都宮十万石を給ふ。
七年正月六日には君従一位にのぼらせ給へばやがて御上洛あり。大坂にも渡らせらる。五月、御参內院参し給い、女院御所にて猿楽を催され、主上も御覧にわたらせらる。この八月、御生母大方殿失せ給ふ。さる艱難の中にうき年月を過ごさせ給ひしが、今かゝる御光にあはせ給ひ天下の孝養をうけ給ひ、古も稀なる齡に五とせまで重ねて、安らかに終をとらせ給ふいとかしこし。
十一月には御五男武田万千代丸信吉のかた、下總国佐倉より常陸の水戶に移させ給ひ、この月又都に上り万機を沙汰せられ、明る八年正月には御九男五郞太丸を甲斐国に封ぜられ、池田輝政に備前一国を加へ給ひ、森忠政に美作国を賜ひ、御七男上總介忠輝朝臣は下總国桜井より信濃国川中島に転封せらる。すべて治世安民の御沙汰ならざるはなし。 |