東照宮御実紀卷三 天正六年にはじまり十六年に終る
天正六年、武田四郞勝賴はしきりに遠三両州を侵掠せんとしてしばしば勢を出せば、浜松よりも武田が抱えたる駿州田中の城を攻め給はんとて弥生の頃御出馬あり。井伊万千代直政、今年十八歲初陣なりしが、まっ先かけて手勢を下知する挙動、天晴れ敵味方の耳目を驚かす。その外小山の城攻め、国安川、橫須賀等の戦い、いつはつべしとも見えざるところに、越後の上杉謙信、この月十三日、四十九歲にて世を去りぬ。
これより先に入道は小田原の北条氏康の子の三郞景虎と、姪の喜平次景勝と二人を養ひて子となし置きつるが、入道失せて後この二人国を争う事絶えず。景勝心ときおのこなれば、勝賴が寵臣長坂跡部と云える者を語らい、こがね二千両づゝを贈り、勝賴が妹を迎えてその聟となり、永く武田が旗下に属すべし、先ずは当座の謝儀として上野一国にこがね一万両添えて進めらすべし、いかにも加勢し給はるべしと申し送れば、利に耽る勝賴主従速に応じ、終に景虎を伐ち亡ぼして景勝父謙信の家を継ぐ。勝賴もとより北条氏政が妹聟なり。さるゆかりをもおもはで財貨に心迷い、氏政が弟の三郞を亡す加勢せしを氏政甚うらみ憤り、いかにしてかこの怨みを報ぜんと思ひ、やがて当家にちなみ進めらせ織田家へも誼を結ぶ。七年の卯月七日に浜松の城にしては三郞君生れ給う。御名を長丸君と名づけ給う。これぞ後に天下の御譲りを受け継がせ給ひし台徳院殿太政大臣の御事なり。御母君は西鄕の局と申す。さし続き翌年、この腹にまた四郞君生まれ給ふ。これ薩摩中將忠吉卿とぞ申しき。
勝賴は当家北条と隣好を結び給うと聞きて大に驚き、さきむぜざれば吾亡ぶる事近きにあらんとて、さまざま謀畧をめぐらしける事ありし中に、築山殿と申しけるは未だ駿河におはしける時より、年頃定まらせ給う北方なりしが、かの勝賴が詐謀にやかゝり給いけん。よからぬことありて八月二十九日、小藪村と云う所にて失われ給ひぬ。(野中三五郞重政と云える士に、築山殿討ちて進めるべしと命ぜられしかば、やむ事を得ず討ち進めらせて、浜松へ立ち帰りかくと聞え上げしに、女の事なればはからひ方もあるべきを、心をさなくも討ち取りしかと仰せければ、重政大に畏れこれより蟄居したりとその家伝に見ゆ。これによれば深き思し召しありての事なりけん。これを村越茂助直吉とも、又は岡本平右衛門石川太郞右衛門の両人なりと記せし書もあれど、そは誤りなるべし)
信康君もこれに連座せられて、九月十五日、二俣の城にて御腹召さる。これ皆な織田右府の仰せによるところとぞ聞えし。(平岩七之助親吉はこの若君の御伝えなりしかば、若君罪蒙り給うと聞きて大に驚き浜松へ馳せ参り、これ皆な讒者の致す所なりと云えども、よしや若殿よらかぬ御行状あるにもせよ、そは某が年頃輔導の道を失へる罪なれば、某が首を刎て織田殿へ見せ給はゞ、信長公もなどか受けひき給はざるべき、とくとくそれがしが首を召さるべく候と申しけるに、君聞しめして、三郞が武田に語らはれ謀反すと云うを実とは思はぬなり。さりながら我れ今乱世にあたり勍敵の中に挟まれ、頼む所はたゞ織田殿の助けを待つのみなり。今日彼の援をう失いたらんには、我家亡びんこと明日を出べからず。されば我が父子の恩愛の捨てがたさに累代の家国亡ぼさんは、子を愛する事を知りて祖先の事を思い進めらせぬに似たり。我かく思ひとらざらんには、などか罪なき子を失うて吾つれなき命ながらへんとはすべき。又汝が首を刎ねて三郞が助からんには、汝が詞に従うべしと云えども、三郞終に逃るべき事なきゆへに、汝が首まで切りて我が恥を重ねんも念なし。汝が忠のほどはいつのほどにか忘るべきとて御涙にむせび給へば、親吉も重ねて申し出さん詞も覚えず、泣く泣く御前を退り出たりと云う。これらの事を思い合わするに、当時の情躰ははかりしるべきなり。また三郞君御勘当ありしはじめ、大久保忠世に預けられしも、深き思し召しありての事なりしを、忠世心得ずやありけん。その後、幸若が満仲の子美女丸を討てと命ぜし時、その家人仲光我が子を伐ちてこれに替らしめしさまの舞を御覧じ、忠世によくこの舞を見よと仰せありし時、忠世大に恐懼せしと云う說あり。いかゞ誠なりやしらず)
かゝることどもにはかなく年も暮れて、八年正月五日には従上の四位し給ふ。武田方の城々は次第に落ちいり、弥生に至り遂に高天神の城も攻め落さる。この城小笠原與八郞長善が武田へ降りし後、八年を経て再び当家に帰る。その間、大須賀康高橫須賀の寨にありて日々夜々に攻め戦い、久世、坂部、渥美など云える属士ども身命をすてゝ苦戦しければ、こたび数年の労を慰せられ、各々采邑に帰りしばし人馬を休ましめらる。
十年、信濃国福島の城主木曾左馬頭義昌は、かの義仲が十七代の末なりき。近年武田とは結ぼふれたる中ながら勝賴の振る舞いを疎み、密かに織田右府に降り甲州の案內せんと云えば、右府大いに悦ばれ、その身七万余兵にて伊奈口より向かわれ、その子三位中將信忠卿は五万余兵にて木曽口より向かはるゝ由聞えければ、君も三万五千余兵を召し具せられ、駿河口より向かはせ給う。北条氏政も三万余兵を以て武駿の口より向かふべしとぞ定めらる。かくと聞きて小山、田中、持船など云える武田方の駿遠の城兵は、皆な城を捨て甲斐の国へ逃げ帰る。
君の御勢は二月十八日、浜松を打ち立て懸川に着陣す。十九日、牧野の城(諏訪原を云う)に入らせ給へば、御先手は金谷島田へ至る。右府は我年頃武田を恨ること深し。今度甲州に攻めいらんには、国中の犬猫までも伐ちて捨てよとの軍令なりしが、こなたはもとより寬仁大度の御はからひにて、依田三枝など云える降参のもの等は、しろしめす国內の山林に密かに身を潜め時を待つべしとて、うちうち惠み賑はし給えり。穴山陸奥入道梅雪はかの家の一門なりしが、これも勝賴を恨むる事ありしとて、弥生朔日、駿河の岩原地蔵堂に参り、君に対面進めらせ、御味方つかうまつらん事を約す。勝賴は梅雪典廐逍遙軒など云える一門親戚にも思いはなたれ、宗徒の家の子どもにも背かれて、新府古府のすみ家をもあかれ出、天目山のふもと田野と云う所までさまよひ、その子太郞信勝と共に討たれたり。
君の御勢は蒲原興津より駿州井出の口を経給ひ、甲州西郡万座に進み給へば、梅雪あないし先鋒の諸将富士の麓八代郡文殊堂市川口より押し入りたり。こゝに成瀨吉右衛門正一と云へるは、先に当家を退し時甲州にありしかば、武州士どもと親しかりしゆへ、今度仰せを請けてかの輩を募り招きければ、もとより御仁愛は隣国までも及びし故、折井米倉など云へる者一番に帰順せり。信忠卿古府へ着陣せられければ、君もその所におはしまして対面し給い、又諏訪へ赴き給ふ。右府は十四日、波合にて勝賴父子の首を実検せらる。その時汝が父信玄は毎度我等に難題を云いかけ困らせたり。首に成りてなりとも上洛したしと云いしと聞こしが、汝父が志を継ぎて上洛せよ、我も跡より上るべしと罵られ、かくてその首どもを市川口の御陣へ送り見せ給ふ。
君は勝賴の首を白木の台にのせ上段に直され、厚く礼をほどこし給ひ、今日かゝる姿にて対面せんとは思いよらざりしを、若気にて数代の家国を失はれし事の笑止さよとて御涙を浮かめ給へば、甲斐の国人どもかくと聞き伝えて、はやこの君ならずばとなづき慕い奉る。信長は武田の旧臣ども上下の分かちなく、一々探し出して誅せらる。君はかの者ども生き残りて餓死せんもいとおしき事と憐れみ給ひ、甲信の間に名を得たる者をば、悉く駿遠の地に招きはごくませられ、又勝賴父子はじめその最期まで付き従いつる男女のなきがらども、田野の草村に算を乱して鳥獣の啄に任せたるを、武田が世々の菩提所惠林寺も、織田家をはゞかりてとりおさめんともせず。君さすがにさるものゝ骸を露霜に晒さんは情なきに似たりとて、田野より四里隔たりし中山の広厳院と云う山寺の僧に仰せて、その屍ども懇に葬らしめ、その所に一寺を営み天童山景徳院とて寺料まで寄せ給ふ。これを見聞する遠近の者、織田殿の暴政とは天淵の違いかなとて感じ仰がざる者なかりしとぞ。
十九日には右府父子軍功の諸将士に勤賞行はるゝとて、徳川殿今度神速に駿州の城々攻め取り給ふ。その功軽からずとて、駿河一国進らせらる。(烈祖織田殿に対し、今川氏眞は父義元より好みあり。駿河はかの家の本領なり。幸に氏眞いま浜松に寓居すれば、駿河を氏眞に与えかの家再興せしめんかと仰せければ、信長聞かれ、何の能も用もなき氏眞に与え給はんならば、我に返し給えとて気色以の外なれば、やむ事を得ず御自らの御領となされしと云う) 梅雪入道も君に降りし事なればとて、本領の外に巨摩一郡を添え与え、永く徳川殿の旗下たるべしとて属せらる。
さて、右府国中の刑賞悉く沙汰しはてゝ、かへさに駿河路を経て富士一覧あるべしとの事なり。その辺りは君しろしめす所なるがゆへに、その道すがらの大石をのけ、大木を切り払い、道橋をおさめられ、旅舘茶亭を営み、所々にあるじ設けいとこちたく沙汰し給う。近衛大政大臣前久公こたび北国の歌枕からまほしとて、右府に伴いはるばる甲斐まで下り給ひしが、幸なれば都のつとに富士をも一覧せまほしと宣ひしに、右府我さへ徳川が世話になればとて許されねば、相国ほいなく木曽路より帰洛ありしとぞ。(相国は右府に従い柏坂の麓までおはし、しかも下に座し奏者をもて、まろも駿河路に従がはゞやと宣ひしを、信長馬上にて近衛、おのれは木曽路を上らせませと云われながら打ち過ぎられしとぞ。倨傲粗暴のありさま思ひやらるゝ事にこそ)
卯月のはじめに右府は八代郡姥口より富士の根方を分けいられ、阿難迦葉坂を経て上野が原井出の郷辺にて富士を見給ひ、昔鎌倉の右大将家狩倉の古跡などまで訪ね、大宮の旅舘にわたらせられしかば、君こゝに侍ち迎へて饗し給ふ。道々の御設ども御心を尽されしを、右府あまたゝび感謝し給ひ、一文字の刀、吉光の脇指、龍馬三疋進めらせらる。日を経て富士安部川を渡り田中の城に泊られ、また大井川天龍川を越て浜松の城におはし着きぬ。大河には皆な舟橋を架けられしかば右府ことに感ぜられ、その橋奉行にも祿あまたかづけらる。浜松にはこと更あるじ設け善美を尽させ給ふ。今度勍敵を打ち亡し甲信まで一統する事、全く年頃、君辛苦せさせ給ふによれりとて、右府あつく謝せらるゝあまり、今まで吉良へ軍糧八千石積み置きしは、全く東国征伐の備えなりしが、今かく一統せしからにははや用なし、御家人等こたびの賞に賜はるべしとて、ことごとくその軍糧引き渡され、また酒井忠次が吉田の城にも宿られ、忠次にも眞光の刀にこがね二百両添えて賜はりぬ。
五月、君右府の居城近江の安土にわたらせ給えば、穴山梅雪も従い奉る。右府おもたゞしき設ありて幸若の舞申楽など催し饗せられ、自らの配膳にて御供の人々にも手づからさかなを引れたり。右府やがて京へ上らるれば、君にも京堺辺まで遊覧あるべしとて、長谷川竹丸(後に藤五郞秀一と云う)と云える扈従を案內に添えられ、京にては茶屋と云えるが家(茶屋四郞次郞、本氏は中島と云う。世々豪富の者)を御旗舘となさるべしとて、万に二なく沙汰せらるれば、君は先き立ちて都に上らせ給ひ和泉の堺浦までおはしけるが、今は織田殿もはや上洛せらるゝならむ、都に帰り右府父子にも対面すべし、汝は先参りてこの由申せとて、御供に従いし茶屋をば先に帰さる。又六月二日の早朝重ねて本多平八郞忠勝を御使いとして、今日御帰洛あるべき旨を右府に告げさせ給ふ。
君も引き続き堺浦を打ち立ち給へば、忠勝馬を馳せて都に上らんと、河內の交野枚方辺まで至りしところに、都の方より荷鞍しきたる馬に乗りて、追い駆け駆け来る者を見ればかの茶屋なりしが、忠勝が側に馬打ち寄せて、世ははやこれまでにて候、今曉明智日向が叛逆し、織田殿の御旅舘に押し寄せ火を放ちて攻め奉り、織田殿御腹召され中將殿も御生害と承りぬ。この事告げ申さんため参り候と云えば、忠勝も驚きながら茶屋を伴ひ飯盛山の麓まで引き返したるを、君遙に御覧じそのさまいかにもいぶかしく思し召し、御供の人々をば遠く避けしめ、井伊、榊原、酒井、石川、大久保等の輩のみを具せられ、茶屋を召してそのさまつばらに聞き給ひ、御道の案內に参りし竹丸を近く召し、我このとし頃織田殿と誼を結ぶこと深し、もし今少し人数をも具したらんには、光秀を追いのけ織田殿の仇を報ずべしと云えども、この無勢にてはそれもかなふまじ。なまなかの事し出して恥を取らんよりは、急ぎ都に上りて知恩院に入り、腹切って織田殿と死をともにせんとのたまふ。竹丸聞きて、殿さへかく仰せらる、まして某は年来の主君なり、一番に腹切りてこのほどのごとく御道しるべせんと申し、さらば平八御先仕れと仰せければ、忠勝と茶屋と二人馬を並べて御先をうつ。
御供の人々は何ゆへにかく急がせ給うかと、怪しみ行くほど廿町ばかりを経て、忠勝馬を引き返し石川数正に向かい、我君の御大事今日にきはまりぬれば、微弱の身をもかへりみず思ふところ申さゞらんもいかゞなり。君年頃の信義を守り給ひ、織田殿と死を共になし給はんとの御事は、義のあたる所いかでか然るべからずとは申すべき。さりながら織田殿の御為に年頃の芳志をも報はせ給はんとならば、いかにもして御本国へ御帰りありて軍勢を催され光秀を追討し、彼が首切りて手向け給はゞ、織田殿の幽魂もさぞ祝着し給ふべけれと申す。石川、酒井等これを聞き、年たけたる我々この所に心付かざりしこそ、かへすべすも恥ずかしけれとてその由聞え上げしかば、君つくづくと聞き召され、我れ本国に帰り軍勢を催促し、光秀を誅戮せん事はもとより望む所なり。さりながら主従共にこの地に来るは始めなり。知らぬ野山にさまよひ、山賊一揆のためこゝかしこにて討たれん事の口惜しさに、都にて腹切るべしとは定めたれと仰せらる。
その時、竹丸怒れる眼に涙をうかめ、我ら悔しくもこたび殿の御案內に参りて主君最後期の供もせず、賊党一人も切りて捨ず、このまゝに腹切りて死せば冥土黄泉の下までも恨み猶深かるべし。あはれ殿御帰国ありて光秀御誅伐あらん時、御先手に参り討ち死にせんは尤も以て本望たるべし。但し御帰路の事を危く思し召さるべきか。この辺の国士ども織田殿へ参謁せし時は、皆な某がとり申したる事なれば、某が申し事よも背くものは候まじ。それ故にこそ今度の御道しるべにも参りしなりと申せば、酒井、石川等も、さては忠勝が申す旨に従わせられ、御道の事は長谷川に任せられしかるべきにて候と諌め進めらせて、御帰国には定まりぬ。
穴山梅雪もこれまで従い来りしかば、御かへさにも伴ひ給はんと仰せありしを、梅雪疑ひ思ふ所やありけん、しゐて辞退し引き分かれ、宇治田原辺に至り一揆の為に主従皆な討たれぬ。(これ光秀は君を途中に於て討ち奉らんとの謀にて土人に命じ置きしを、土人誤りて梅雪を討ちしなり。よって後に光秀も、討たずしてかなはざる徳川殿をば討ち漏らし、捨て置きても害なき梅雪をば伐ちとる事も、吾命の拙さよとて後悔せしと云えり)
竹丸やがて大和の十市が元へ使い立て案內を請う。忠勝は蜻蛉切と云う鑓提て眞先に立ち、土民をかり立て立て道案內させ、茶屋は土人に金を多く与え道しるべさせ、河內の尊圓寺村より山城の相楽山田村に着かせ給ふ。こゝに十市より案内にとて吉川と云う者を進めらせ、三日には木津の渡りにおはしけるに舟なし。忠勝鑓さしのべて柴舟二艘引きよせ、主従を渡して後鑓の鐏をもて二艘の舟をばたゝき割て捨て、今夜長尾村八幡山に泊り給ひ、四日石原村にかゝり給へは一揆おこりて道を遮る。忠勝等力を尽してこれを追い払い、白江村、老中村、江野口を経て吳服明神の祠職服部が元に宿り給ふ。五日には服部山口など云える地士ども御道しるべして、宇治の川上に至らせ給ひしに又舟なければ、御供の人々いかゞせんと思ひ悩みし所、川中に白幣の立ちたるをみて、天照大神の道びかせ給ふなりと云いながら、榊原小平太康政馬を乗り込めば思ひの外浅瀬なり。その時、酒井忠次小舟一艘尋ね出し君を渡し奉る。やがて江州瀨田の山岡兄弟迎へ進めらせ、この所より信楽までは山路嶮難にして山賊の窟なりと云えども、山岡服部御供に候すれば、山賊一揆もおかす事なく信楽に着かせ給ふ。こゝの多羅尾のなにがしは山口山岡等がゆかりなればこの所にやすらはせ給ひ、高見峠より十市が進らせたる御道しるべの吉川には暇給はり、音聞峠より山岡兄弟も辞し奉る。
去年、信長伊賀国を攻められし時、地士どもは皆な殺したるべしと令せられしにより、伊賀人多く三遠の御領に逃げ来りしを、君あつく恵ませ給ひしかば、こたびその親族どもこの御恩に報い奉らんとて、柘植村の者二三百人、江州甲賀の地士等百余人御道の案内に参り、上柘植より三里半鹿伏所とて、山戝の群居せる山中を難なく越え給ひ、六日に伊勢の白子浦に着かせ給ひ、その地の商人角屋と云えるが舟をもて、主従この日頃の辛苦を語りなぐさめらる。折ふし思ふ方の風さへ吹て三河の大浜に着かせ給ひ、七日に岡崎へ帰らせ給ひ、主従はじめて安堵の思いをなす(これを伊賀越とて御生涯御艱難の第一とす)。
八日には急ぎ光秀を征し給はんとて軍令を下され、駿遠の諸将を催促せられ、十四日に岡崎を御出馬ありて鳴海(一說に熱田とす)まで御進発ありし所に、十九日、羽柴築前守秀吉が使い来り申し送られしは、秀吉織田殿の命を受けて中国征伐に向かい、備前因幡の国人を降附し、備中の国冠河屋の城を攻め落し、高松の城を水攻めにし、彌進んで毛利が勢と決戦せんとする所に、輝元より備中備後伯耆三国を避け渡し、織田殿と講和せんと申し送る。この事未だ决せざるに、都よりして賊臣光秀叛逆して織田殿御父子を弑する注進を聞くとひとしく、その由少しも隠さず毛利が方へ申し送り、忽に和を結び、毛利より旗三十流鉄砲五百挺借り受け、そのうへ輝元が人質とって引き返し、十一日、摂州尼崎に着陣し、三七信孝、丹羽五郞左衛門長秀等と牒し合せ、十三日、山崎の一戦に切ち勝ちて、光秀天罰逃れがたく終に誅に服したり。その余殘党ことごとく誅伐をとげ候へば、御上洛に及び候はぬ由なり。君はそのまゝ鳴海より御軍をおさめられ岡崎へ帰らせ給ふ。然るに右府の家人共は国々にありて、こたびの乱に驚きあはて守る所を捨てのぼりければ諸国まな乱れたちぬ。
これより先、右府甲斐の国を河尻肥後守鎭吉に賜はりし時、君近国にましませば万に頼み参らする由申されしにより、こたびも君は木多百助忠俊を河尻が元につかはされ、この頃の騒ぎにその国中も乱るべし。何事もへだてず百助にはかりあふべし。もしまた急に上洛せんとならば、信州路には一揆蜂起の聞もあり、百助に道しるべさせ我領內より上るべしと懇に仰せ下されしを、河尻疑念深きおのこにて、こは謀をもて我を失なはせ給ふならんとをしはかり、百助に酒飲ませもてなすさまして、その夜たばかりて百助を打ち殺し、その身は急ぎ国人にも隱れて、家兵を引き具し甲州を逃げ出んとす。甲州の者等もとより君の御徳をかしこみなつく事なれば、君の御使いを伐ちしとて国人大に怒り、追いかけて河尻主従を皆な討ちとりぬ。
君は彌武田の旧臣等民間に隠れ住む者を尋ね召し出しあるべしと、柏坂峠に旗を立て招き給えば、橫田をはじめこれに応ずる者忽に千余人に及べり。小田原の北条新九郞氏直は甲州の一揆共を語らひ、その国を侵掠せんと五万の大軍を引きつれ、信州海野口より甲州に向へば、君も浜松を打ち立ち給ひ同じく甲州にのぞませ給ふに、その国人等粮米薪を献じ御迎えに出る者道もさりあへず。古府に陣を据えられたり。これより先信濃の諏訪を攻めよとてつかはされたる酒井、大久保、本多、大須賀、石川、岡部等、氏直が後詰すと聞えしかば、一先ず引き返せとて乙骨が原まで引きとる所に、氏直勢案の外近く追り来りしかば、こなたは謀を設け勢を七隊に分かち、敵の大軍嵩にかゝりて先を遮らんとすれば、七隊一度に立ち帰り旗を立て踏みこたへ、敵進みかねるとみれば鉄砲をかけながら引退きする程に、敵みだりに追事あたはず。敵は五万に余る大軍、味方は三千の人数にて七里が敵間を引きつけ、手を負もの一人もなく引き取しは、昔も今もたぐひまれなる退口とて世いたく称賛す(これを乙骨退口と称す)。
氏直若御子に着陣すれば、君も古府をたゝせ給ひ、淺生原へおはしまして対陣し給へども、氏直方は御備の厳しきを恐れて手も出さねば君は新府に移らせ給ふ。これより数旬の間五万にあまる大軍と、八千不足の御人数にて対陣ましまし、帷幄の外へも出給はずゆるゆるとして、かれより和議を結ばせ引き取り給ふ。天晴れ不思議の名將かなと世に感ぜぬ者ぞなかりける。
北条美濃守氏規は君今川が元におはしたる時よりの御誼ありければ、氏規はかりて上州をば一円に北条へ渡され、甲信両国は御領と定められ、又姬君一所を氏直に賜はりなんことを約し、永く両家の御親しみを結び、神無月廿九日、氏直勢を駿府に引きとれば、君も浜松へ御馬を納め給ひ、大久保忠世には佐久郡、鳥居元忠には郡內を給はり、その外軍功の輩に新恩加恩をほどこされ、民をなで窮を救はせ給へば、織田家の暴政を苦しみし甲信の民ども、万歲を唱えて歓抃す。
十一年五月、石川数正を京に御使して、築前守秀吉の元へ初花と云える茶壺を送らせ給ふ。秀吉よりも使てもて不動国行の刀を進めらす。七月、姬君(督姬と云う)、小田原へ送らせ給ひ御婚礼整ハせらる。又九月十三日に五郞君生れ給ふ。後に武田万千代丸と申せしは是なり。十月には 勅使浜松へ参向ありて、正下の四位に加階し給ひ右近衛権中将に進ませらる。この頃は国境を沙汰し給はんがため甲州におはしけるに、その事告げ参らすれば、十二月四日、浜松へ帰らせ給ひ、勅使を饗応せられ猿楽など催され、勅使には引出物数々にてめでたく帰洛せしめらる。
十二年二月廿七日、三位の昇階し給ひ参議をかけ給ふ。秀吉は亡主右府の讐敵光秀を忽に伐り亡ぼせしより威名海內に輝やけば、陽には右府の嫡孫三法師丸を輔佐し、軍国の政務を沙汰するが如しと云えども、実は自ら四海を統一せんとの志専らなれば、三七信孝を亡し、柴田、佐久間など云う織田家の古老どもを伐ち平らげ、滝川、佐々など云える輩も降参させ、北国既に平均す。北畠中將信雄闇柔と云えども、さすが故右府の御子ゆへ旧臣ども皆な心を寄すれば、先ずこの人を傾けて天下の大業を急にせばやと思ひ立ち、信雄の家の長どもをあつくもてなしけるにぞ。信雄忽に秀吉の姦計に陥り、その家長ども党與して、我をかたぶけんと計るものぞと大いに怒り、たばかりて家長三人までを誅したり。秀吉終にその計を得て、信雄讒を信じ良臣を誅したりと云うを名として信雄を伐ち亡さんとし、国々の諸大将を語らひけるに、織田家の旧臣どもゝ時の勢になびきて信雄の方には参らず、秀吉のかたうどする者のみなり。君にも秀吉使い進めらせてこたび我方に御加勢あらんには、美濃尾張両国を進めらすべしと申し参らせけれど、君は右府よりの盟約変じがたしとてその使いをば帰さる。信雄この時は伊勢尾張を領して淸州の城にありしが、旧臣等も皆な背き秀吉のかたうどすると聞き大いに驚き、急ぎ浜松に使いして救いを請はれける。
君は右府の旧好あれば、いかで見はなち給ふべきとて、弥生七日、浜松をいでます。小田原の氏政表裏のおのこいさゝか守り怠るべからずとて、御領国のうち甲州は鳥居元忠、平岩親吉、又上杉景勝が押には大久保忠世、駿相の堺長窪の城には牧野右馬允康成、興国寺は天野康景、三牧橋は松平康親、深沢は三宅正次、田中は高力淸長に各つはものを添えて守らせられ、君は一万五千余騎にて七月十三日、淸洲へ御着陣あり。信雄も信長以来の旧好を捨て給はず、これまで御出馬ありしを厚くかしこみ涙流して謝せらる。さて落合村と云う所に屯し給ひけるが、榊原康政が申す旨にまかせ後には小牧山に御陣を据えらる。
こゝに池田勝入入道と云えるは、右府恩顧の下より人となりしが、これも時勢にひかれて秀吉のかたうどし、先ず尾張の国犬山の城を攻めとり、聟の森武藏守長一と共に楽田羽黒に打ち出で、在々所々を燒き立たり。味方には榊原、奥平、酒井、大須賀の輩つきづきに打ち出で森が勢に馳せかゝり、先ず軽卒を進ませ鉄砲を打ちかくる。その中にも奥平が勢無二無三に羽黑村の小川を押しわたる。森は鬼武蔵と呼ばれし血気の猛将。それが軍師に添えられたる尾藤なにがしも、都辺の敵をのみあしらひたるてだてを三河武士に押し当て、川をわたさば討ちてかゝらんとゆるゆる待ちしに、奥平が三千余騎会釈もなく突てかゝる。あとより酒井、榊原、丹羽、松平又七郞家信等続いて押し渡り地煙り立て鑓をいるれば、何かは以てたまるべき。家信時に十六歲、野呂助右衛門と云える剛の者を伐ち取りたり。稲葉一鉄入道はかねて森と牒し合せ段の下に屯し、老波血河に湛ふと高声に唱えゐたる所に、金扇の御馬印遙に見ゆれば、徳川殿出馬ありしと云う程こそあれ。敵はみな色めき立て、終にかなはず引きて犬山へ帰る。秀吉はこの敗軍を聞きて大いに怒り、十二万余の大軍を具して大坂を出馬し、犬山城につき楽田に移り、二重堀など云える要害を構えて小牧山に対陣す。これは長篠の戦に右府武田が勢を鏖にせられし故智を用ひしなり。
君小牧山よりこの備えを御覧じ、秀吉は我を勝賴と同じ樣に思ふと見えたりとて、ほゝゑませ給ひしとぞ。卯月六日、池田勝入、森長一、堀久太郞秀政に三好孫七郞秀次を總手の大将とし、二万余騎の兵を分けて楽田より東の山に沿い、小牧の御陣を右にして篠木柏井にかゝりたり。こは御勢多半は小牧にありとしりて、味方の後ろに回りり三河の空虚を討たんとのはからひなり。君はかねて篠木の鄕民等が告によりかくと察し給ひ、大須賀、榊原並びに水野惣兵衛忠重、本多彥次郞康重、丹羽勘助氏次、岡部彌次郞長盛など云える名にあふ者らに、甲州穴山勢を添えすべて四千余の人数にて、敵に知らせじと轡を卷きて龍泉寺山の麓をへ小幡の城に至らしむ。この城の守將は本多豊後守広孝とて康重が父なり。かねてことよさせ給ひしかば、所々に人を忍ばせ置く。敵龍泉寺を出るをみて小牧の御陣へも注進し、大須賀、榊原、水野、岡部等とはかり夜深く小幡より出で立ちぬ。君はその注進を聞かせ給ふとそのまゝ、戌の時ばかりは小牧山を打ち立たせ給ばへ、信雄も御跡に従う。敵は九日の朝池田父子先陣して、先丹羽次郞助氏重がこもりし諸和村岩崎の城を攻め落しもの始めよしと大いに悅び、浮宇原と云う所にて首実検、二陣の堀は一里をへだて愛知郡檜が根に陣し、惣大将秀次は春日井郡白山林と云う所にて、人馬を休めかれゐくひてゐたり。折ふし霧深くものゝあいろも見分けざる所に、味方跡より喰い付いて激しく伐ちてかゝれば、秀次が陣こはいかにとあはてふためき、秀次の軍師と賴みし穗富の某をはじめ、名あるつはものどもあまた討たれ、秀次は辛うじて落ち延びたり。味方勝に乗り追い行く所に、二陣の堀が勢かくと見るより旗を進めて駆け合わせ、火花を散らし烈しく闘う。先手にありし池田森も惣大将秀次敗走すと聞き是を救はんと引き帰す。
君は小牧山より三十余町勝川兜塚と云う所にて御甲胄を召さる。これ当家の御甲胄勝川と名付らるゝ事のもとなり(椎形溜塗の御兜黒糸威の御鎧)。御湯漬を聞き召すほどに夜は明はなる。こゝに先手の人々はや首取りて帰り、御覧ぜさせ奉る者も少なからず、十人の鉄炮頭井伊万千代直政が二千余兵を先とし、御旗下には小姓の輩並びに甲州侍のみ供奉し、直政が勢は富士の根の切通しより進めば、君もその跡より田の中をすぐに引き続きかゝらせ給ふ。井伊が赤備長久手の巽の方よりゑいとうゑいゑいと掛け声して堀が備えに競ひかゝる。池田森が人数は山際より扇の御馬印朝日にかゞやきをし出すをみて、すは徳川殿自ら来り給ふと云うより、上下しどろに乱れ色めき立ちしに、直政が手の者下知してかけたつれば、森武蔵守長一先ず討たれ、池田勝入も乱るゝ勢をたて直さんと下知しけるが、永井伝八郞直勝に突き伏せられ首を取らる。その子紀伊守之助も安藤彥兵衛直次に討たる。この手の大将池田父子森三人とも討たれしかば、戦はんとする者もなくひた崩れに崩れたり。味方追討して首をとる事一万三千余級なり。
秀吉は楽田の本陣にて長久手の先手大敗すと聞きて、敵今は疲れたるらん。急ぎ馳せ付けて討ちとれと、そのまゝ早貝吹き立たさせ、惣軍八万余人を十六段になして押し出す。小牧山に残されし諸将の中にも、本多忠勝かくと聞きて、殿の御勢立て直さゞる間に、京勢大軍新手を以て押しかゝらば以の外の大事なり。忠勝一人たりとも長久手に馳せ行て討ち死にせんと云えば、石川左衛門大夫康通も尤なりと同意し、忠勝も康通もわづかの勢にて龍泉寺川の南を馳せ行けば、京勢は大軍にて川の北を押し進む。忠勝我こゝにて秀吉が軍の邪魔をせば、その間には殿も御人数を立て直さるべしとて、秀吉の旗本へ鉄砲打たせて挑みかゝる。流石の秀吉膽をけし、さてさて不敵の者も有るものかな。誰かかの者見知たるやと問えば、稲葉一鉄侍りしが、鹿の角の前立物に白き引廻しは、先年姉川にて見覚えたる徳川が股肱の勇士本多平八にて候と申す。秀吉涙を流し、天晴れ剛の者かな、をのれこゝにて討ち死にし主の軍を全くせんとおもふとみえたり。我れ彼等主従を終には味方となし被官に属せんと思へば、汝等構えて矢の一筋もいかくべからずと下知しとりあはざれば、忠勝も馬より下り川辺にて馬の口をすゝがしむ。秀吉その挙動を感ずる事限りなし。
長久手にては君味方の者ども勝に乗じ長追いすなと令ぜられ、信雄と共に軍を返されんとする所に、忠勝馳せつけて見参せしかば、よろこばせ給ふ事斜めならず。直に忠勝に御あと討たせ給ふ。その頃はや千生瓢簞の馬印龍泉寺の上の山へ押し出すを君御覧じて、先手の物頭三人まで討たせて、筑前さぞせいたであらふとほゝゑませながら、小幡の要害へ御馬を納めらる。秀吉息まきて龍泉寺まで押し寄せたれども、御勢は皆な引きとりたる跡なれば、大いに腹だち踊りあがり踊りあがり、急ぎ小幡へ駆け寄せんとたけりけるを、かの家人稲葉、蒲生等日はや暮れかゝりぬと諫めければ、せん方なく柏井に陣取り、翌朝は拂曉に小幡へ攻めかゝらん心構えせしに、君その機を察し給ひ、勝は重ねぬ者ぞとて信雄と共に夜中に小幡を立ち出給ひ、小牧山に御帰陣ありしかば、秀吉がかねて出し置きたる斥候の者どもかくと注進す。秀吉掌を打ちて長く歎息し、誰か徳川を海道一の弓取とは云いしぞ。凡そ日本は云うにや及ぶ、唐天竺にも古今これ程の名大将あるべしとは思はれず、軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し、これも夜明ぬ先に、十二万の軍勢をくり引に楽田へ班軍せり。
(これを長湫の大戦と云いて大戦の第四とす。案ずるにこの一戦京方は四月六日の朝勝入出軍、同日昼森出軍、一日へだてゝ秀次と堀出軍、先手とは三里をへだてたり。君には三河迄敵を入りたゝせゆるゆる岡崎へ押し詰めて戦はしめば勝といへども、小牧の本陣遠ければ覚束なし。小牧山近辺にて兵を交へば秀吉速に後詰めすべし。されば戦場は長湫の外にはなしと定められ、御先手より四里へだてゝ旗本勢を押出し給ふ。これは上方勢は大軍、御先手は小勢なり。味方初度は勝て後度は敗るべし。上方勢利を得ば勝に乗じ長追いして足を乱るべし。その乱れし所へ井伊が勢と旗本勢五千の人数にて討ちてかゝらんに、味方勝ざる事はあるべからずと神算既に定め給ひ、御先手とは四里へだてゝ御馬を進め給いしなり)。
この後、秀吉様々と手だてをかへて戦いつれども、事ゆくべくも見えざれば、心中また謀を考へ出し、信雄をすかしこしらへて和議をぞ結びたりける。かゝりしかば君も浜松へ帰らせ給ひ、やがて石川数正を御使にて信雄へも秀吉へも和平を賀せられける。秀吉今は従三位の大納言に上り、武威ますます肩を並ぶる者なし。浜松へ使いを進めらせて、信雄旣に和平に及ぶうへは、秀吉、徳川殿に於てもとより怨をさし挟む事なし。速に和平して永く好みを結ぶべければ、君にも御上洛あらまほしき旨申し入れしかど、聞き召し入られたる御かへり言もなかりしかば、秀吉深く心を悩まし、又信雄につきて申こされしは、秀吉よはひはや知命にいたると云えども、いまだ家譲るべきおのこ子も候はず。あはれ徳川殿御曹司のうち一人を申し受けて子となし一家の好を結ばゝ、天下の大慶この上あるべからずと請う。君も天下の為とあらんにはいかで否むべきとて、於義丸と聞え給ひし二郞君をぞつかはさる。秀吉卿なのめならずよろこびかしづき、やがて首服加へて三河守秀康と名のらしむ。
その頃、秀吉卿は正二位內大臣に登り、あまつさへ関白の宣下あり。天兒屋根の尊の御末ならでこの職に登らるゝ古今試しなき事とて、人皆なめざましきまで思ひあざみたり。関白いよいよ和平の事を申し進めらせらるゝといへども、未だうちとけたる御いらへもましまさねば、十三年の冬、重ねて浜松へ使い参らす。君この頃泊狩にわたらせ給ひければ、関白の使い御狩塲へ参り対面し奉る。君鷹を臂にし犬をひき給ひながら、我れ織田殿おはせし時既に上洛し、名所旧蹟もことごとく見たりしかば、今さら都恋しき事もなし。又於義丸の事は北畠殿天下のためとてとり申されしゆへ、秀吉の子に参らせたり。今は我が子にあらざれば対面せまほしとも思はず。秀吉我上洛せざるを憤り大軍をもて攻め下らむ時は、我も美濃路の辺りに出迎え、この鷹一据にて蹴ちらさんに更に難からずと仰せながら、又鳥立もとめて立ち出給う。かの使い帰りて斯と申せば、関白重ねて信雄とはかられ、君の北方先に御事ありし後、未だまことの台にそなはらせ給ふ方も聞えず、秀吉が妹を進めらせばやと懇に申しこはる。浅野彌兵衛長政などよくこしらへで終に御縁結ばるべきに定まりしかば、浜松より納采の御使に本多忠勝をつかはさる。これも関白のあながちに忠勝が名を指して呼びのぼせられしなり。
四月十日、かの妹君聚楽のたちを首途し給ひ、おなじ廿一日、浜松へ着かせ給う。先ず榊原康政が元にて御衣裳を整えられて後入輿し給ふ。御輿渡しは浅野長政、御輿請け取りは酒井河內守重忠にて、その夜の式は云うもさらなり。廿二日、御ところあらはしなど、なべて関白より沙汰し給ふをもて、万に美麗を尽されし様云はむかたなし。これ後に南明院殿と申せしはこの御事なり。この後は関白彌君の御上洛をひたすら勧め申されしが、遂にこしらへわびて母大政所を岡崎まで下し進らすべきに定まりぬ。
君は宗徒の御家人を集められ、関白その母を人質にして招かるゝに、今はさのみいなまんも余りに心なきに似たり。汝ら思ふ所はいかにと問わせ給ふ。酒井忠次等の宿老共は、秀吉心中未だ測りがたし、かの人御上洛なきを憤り大軍にて攻め下るとも、京家の手際は姉川、長湫にて見すかしたればさのみ恐るゝに足らず。御上洛の事はあながちに思し召しとまらせ給へと諫め奉る(先に眞田安房守昌幸が背きしを誅せられんとて御勢を向けられし時、眞田は秀吉に內々降参せし事ゆへ、秀吉越後の上杉景勝をして眞田を援けて御勢を拒がせ、又当家の旧臣石川数正は十万石を餌として味方に引き付けたり。されば上杉と謀を合わせ新降の眞田小笠原を先手とし、数正降参の上は徳川家の軍法は皆な知るべければ、これを軍師とし三遠に攻め下らんとの計畧ありと世上専ら風說すれば、普第の御家人らは秀吉を疑いしもことはりなり)。
君聞こし召す。汝ら諫る所尤以て神妙と云うべし。然りと云えども本朝四海の乱既に百余年に及べり。天下の人民一日も安き心なし。然るに今世漸く静かならんとするに及び、我れ又秀吉と牟盾に及ばゝ、東西又軍起て人民多く亡び失はれん事尤も痛ましき事ならずや。然れば今罪なくて失はれん天下の人民のため我一命を残さんは、何ぼう由々しき事ならずやと仰せらるれば、忠次らの老臣ら、さほとまで思し召し定められたらんにハ、臣らまた何をか申し上ぐべきとて退きぬ。これ終に天下の父母とならせ給ふべき御徳は、天下万民のために重き御身をかへ給はむとの御一言にあらはれたりと、天下後世に於て尤も感仰し奉る事になん。既に御上洛あるべしと御いらへましましければ、関白よろこばるゝ事斜めならず。その神無月四日、関白執奏ありて君を権中納言にあげ給ふ。やがて浜松を打ち立せ給ひ、同じ廿五日、御入洛あれば、その夜関白密かに御旅舘をとはせられ、長篠の戦の後十二年にて対面せらるゝとて悅び大方ならず。
さて、君の御耳に口寄せさゝやかれしは、黄門かねて知り給ふ如く、秀吉今官位人臣を極め兵威四海を席卷すると云えども、もと松下なにがしが草履とりて跟隨せし奴僕とは誰か知らざらむ。やうやう織田殿に見立られ武士の交わりを得たる身なれば、天下の諸侯陽に畏服するが如しと云えども、心より実に帰順する者なし。今被官となりし者どもゝ元は同僚傍輩なれば、実の主君とは思はず、願くば近日表立しく対面進めらせむ時に、その御心して給はるべし。秀吉に天下を取らせらるゝも失はしめらるゝも卿の御心一にあり、この事賴み奉りたくかく上洛をば進めらせたりとて、御脊を叩かれければ、君聞こし召す。既に御妹に添い参らせ、又かく上洛致せし上は、ともかくも御ため悪しくははからひ候まじと答え給へば、関白彌よろこばる。やがて大坂にわたらせ給ひ、いかめしき作法どもにて御太刀御馬こがね百牧進めらせられ、いたく敬屈してぬかづかせ給ふを見聞して、中国筑紫の諸大名まで、大政所を人質として上洛し給ふ。
徳川殿猶かくの如し。我々いかでか秀吉を軽蔑する事を得んとて、これより国々の大名関白を尊敬日比に十倍せしとぞ。関白よろこびに堪えず様々持てなして、そのかみ秀吉越前金が崎にて討ち死にすべかりしを、卿の御情にて虎口を逃れ、今この身となれり。この御恩いつの世にかは忘るべき、神かけて弟秀長に存じかへ申すべき心話しなど巧言を尽され、供奉の人々にもかづけものこちたく行はれ、十一月五日には君を正三位にすゝめられ、都を出たゝせられ岡崎に帰らせ給ひければ、大政所をも都に帰さる。この御送りには井伊直政ぞ参りける。これも関白のことさらの仰せにてつかはされし事なれば、直政をもあつく持てなして帰さる。都にはこれほど御位譲りあり(正親町院御譲位。後陽成院御即位)。関白は內大臣より太政大臣に昇り、氏をも豊臣と賜はる。
君はこの師走に駿府の城に移らせ給ふ。浜松には元亀二年より今年まで十六年が間おはしましぬ。駿府の城は今川亡し時燒け失せけるを新に経営せられ、五ケ国(駿遠三甲信)の本府と定められ御在城ましましたるなり。十五年には関白九州を討ちおさめられむとて、畿內近国の軍勢筑紫に発向す。当家よりも本多豊後守広孝軍中の御とぶらひとしてつかはさる。折ふし関白の軍勢秋月が巖石の城に攻め寄りし時なりしに、広孝馳せ加えて高名せしかば、関白も徳川殿の家人に獵の利ざる者なしといたく感ぜられしとぞ。さて島津義久も戦敗けて降参せしかば、関白も帰洛し給ふ。君これをほがせ給ふとて都へ上らせ給ひしに、八月八日、従二位権大納言に移らせ給ふ。この程駿府にても長丸君加冠し給ひ従五位下蔵人頭に叙任せられ、関白一字を進めらせられ、秀忠と名のらせ給ひ、その日又侍従に任じ給ふ。この師走の廿八日には君また左近衛大将をかけて、左馬寮の御監に補せられ給ふ。これは鎌倉室町このかた将軍家のほかこの職に補せられず。いとありがたき試しなるぺし。
十六年には関白聚楽の亭に行幸なし奉るとて、世の中花やき賑わしき事云うも愚かなり。君もやがて上らせ給う。今は上達部にて鳳輦の供奉し給ひ、聚楽にて日を重ね数々の御遊びども催さる。御歌は御製をはじめ親王だち上達部殿上人いとあまたなるが中に、君も松の葉毎にすべらぎの千代の栄をちぎりことぶかせ給ふ。発声披講などとりどり近き世には珍しくめでたき事多し。この時、君は大和大納言秀長並びに秀次秀家の中納言と共に、內の仰せごとによて淸花の上首につかせ給ふ。又行幸に先立て井伊直政、大沢基宥は侍従に任ぜられ、その外爵許されし御家人どもあまたあり。 |