東照宮御實紀巻10巻




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 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「東照宮御實紀巻十」をものしておくことにする。

 2013.11.01日 れんだいこ拝


【東照宮御實紀巻十考】
 「東照宮御実紀卷十」を転載する。(れんだいこ文法に則り書き改める)
 東照宮御実記卷十 慶長十年正月に始り四月に終る御齡六十四

 慶長十年乙巳正月元日、江戶城に於て右大将殿御対面、歲首を賀し給ふ。その他群臣年始を賀し奉る事例の如し(御年譜。創業記。家忠日記)。
 ○二日、松平下總守忠明はじめて謠曲の始列に加はる(家譜)。
 ○三日、こたび御上洛あるべしとて法令を下さる。その文に云う。喧嘩争論厳に停禁せらる。親族知音たるをもて荷担せしめなば、罪科本人よりも重かるべし。御上洛の間人返しの事停禁せしむ。もしやみ難き事故あらば帰府の後その沙汰あるべし。道中歯簿の行列はあらかじめ示さるゝ令条の如く、次第を守り供奉すべし。諸事奉行の指揮に違背すべからず。旅宿の事奉行の指揮に任すべし。押買い狼藉すべからず。渡船場に於て前後の次第を守り一手越たるべし。夫馬以下同前たるべし。他隊の輩混合する事一切停禁すべし。もしこの令に違犯するものは厳科に処せらるべしとなり。この日、尼崎又二郞に大泥国渡海の御朱印を下さる(令条記。御朱印帳)。

 ○九日、御上洛のため江城を御発輿あり。しかるに痳を悩ませ給ひしかば、数日內藤豊前守信成が駿府城に御延滞まします。長福丸方も陪せらる。稲毛川崎の代官小泉次大夫吉次新田開墾の事を建白せしにより、役夫の御黒印を下さる。後日成功せしかば新田十が一を以て吉次に賜はりしとぞ(御年譜。創業記。寬政重修譜)。
 ○十一日、天野孫左衛門久次が子孫左衛門重房召し出されて、右大将殿につけられて燒火間番を命ぜらる。この日、島津三位法印龍伯より唐墨二笏折敷二十献じければ、御內書を賜ふ(寬永系図。寬政重修譜)。
 ○十三日、駿府に於て大草久右衛門長栄召し出され采邑三百石下さる。栗生吉兵衛茂栄先に御勘気を蒙り籠居せしが、これも御許しありて新に采邑三百石下さる。三上太郞右衛門某も召し出され采邑千石給ひ、山下茂兵衛正兼も采邑三百石給ふ(家譜)。
 ○十五日、安藤彥兵衛直次武蔵近江の新墾田を合せて二千三十石余を加賜せられ、合せて一万三千三十五石になさる。永井右近大夫直勝寄騎の給料として四千五十五石六斗余を加賜せらる(寬政重修譜)。
 ○廿日、多田三八郞昌綱死して、その子次郞右衛門昌繁幼稚なるが故に、加恩三百石の地は收公せられ、先々の如く甲州武川の輩と同じく給事せしめらる(貞享書上。寬政重修譜)。
 ◎この月、本多佐渡守正信が三子大隅守忠純に、下野国榎本に於て所領一万石賜ふ。間宮左衛門信盛に、采邑の御朱印に茶壺を添えて下さる。京医今大路道三親淸江戶に参る(寬政重修譜)。
 ○二月、朔日駿河国安倍郡の海野彌兵衛某に采邑の御朱印を賜う。井出志摩守正次がうけたまはる所なり(由緖書)。
 ○三日、松平長四郞信綱に月俸を加へて五口を賜はる(寬政重修譜)。
 ○五日、御悩み常にかへらせ給ひ、この日駿府をうちたゝせ給ふ(御年譜。創業記)。
 ○九日、靑山常陸介忠成、內藤修理亮淸成、伊奈備前守忠次連署して浅草東光院に寺料の替地を下さる(由緖書)。
 ○十日、中根傳七郞正成采邑二百石加へられ四百石になさる(寬政重修譜)。
 ○十一日、松平內記淸定死す。その子內記淸信は寬永十二年に至り召し出さる(寬政重修譜)。
 ○十二日、大番組頭鎭目市左衞門惟明が二子藤兵衛惟忠召し出され大番に加へらる(寬政重修譜)。
 ○十三日昨今霜威嚴酷にして草木多く凅枯る。この夜上京下京火あり(当代記)。
 ○十五日、右大將殿御上洛あるにより、榊原式部大輔康政、佐野修理大夫信吉、仙石越前守秀久、石川玄蕃頭康長等は先駆として今日江戶を発程す。この日、美濃部鹿之助茂広死して子市郞左衛門茂忠家を継ぐ(創業記。武徳編年集成。寬政重修譜)。
 ○十六日、伊達越前守政宗御上洛供奉のため江戶を発程す(貞享書上。武徳編年集成)。
 ○十七日、堀左衛門督秀治。溝口伯耆守秀勝江戶を発す。尼孝蔵主は御上洛を迎え奉るとて途中まで参る(武徳編年集成)。
 ○十八日 大駕この日水口にいらせ給ふ。右大將殿は江戶御発輿あるべしとかねて令せられしが、大雨により御延滞あり。この日、平岩主計頭親吉、小笠原信濃守秀政、諏訪因幡守賴永、保科肥後守正光、鳥居左京亮忠政発程す(武徳編年集成。創業記。当代記)。
 ○十九日、伏見城へ着せ給ふ。江戶よりは右大将殿先駆として米沢中納言景勝発馬す(創業記。武徳編年集成)。
 ○廿日、高倉宰相永孝卿、飛鳥井少将雅賢、烏丸右大弁光広等伏見城にまう登り謁見す。江戶よりは蒲生飛弾守秀行発程す。駿州の海野彌兵衛某、朝倉六兵衛在重に、本多佐渡守正信より今度右大將殿御上洛の時、その地に於て拜謁し采邑新恩を謝し奉るべき旨を達す(西洞院記。武徳編年集成。由緖書)。
 ○廿一日、神龍院梵舜等伏見城にのぼり御けしきうかゞひ奉る。いささか御悩みあるにより拜謁せずして退く。江戶よりはこの日、本多出雲守忠朝、眞田伊豆守信之、北条左衛門大夫氏勝、松下右兵衛尉重綱発途す(舜旧記。武徳編年集成)。
 ○廿二日、大久保相摸守忠隣、同加賀守忠常、皆川志摩守隆庸、本多大学忠純、高力左近忠房等江戶を発す(武徳編年集大)。
 ○廿三日、酒井右兵衛大夫忠世、水野市正忠胤、浅野采女長重、淺野內膳氏重、鍋島加賀守直茂、田中隼人正(後に忠政と名のる)、市橋小兵衛某等江戶を出る(武徳編年集成)。

 ○廿四日、右大将殿江城御首途あり。供奉は鳥銃六百挺。その奉行は三枝土佐守昌吉、森川金右衛門氏信、屋代越中守秀正、服部中保正、加藤勘右衛門正次、細井金兵衛勝久。次に弓三百挺、その奉行久永源兵衛重勝、靑木五右衛門高賴、佐橋甚兵衛吉久、倉橋內匠助政勝。次に豹皮鞘の鑓二百本。近藤平右衛門秀用、都筑彌左衛門爲政。次に召替えの御轎。舁夫熨斗付の太刀をはく。引馬龓者上に同じ。猩々緋黒羅紗にてつゝみし御持筒五十挺、御持弓三十挺、挾箱二十荷、長刀二振、持夫上に同じ。次に御輿。舁夫熨斗付を帯す。次に御持鑓五柄、持夫上に同じ、次に騎馬、供奉の輩は茶具奉行長谷川讃岐正吉、小姓の輩は靑山図書助成重、安藤対馬守重信これを属す。次に使番、次に大番士、その次は土屋民部少輔忠直、高木善次郞正次、次に柴田七九郞康長、安部彌一郞信盛、內藤新五郞忠俊、牧野九右衛門信成、內藤若狹守淸次、上杉源四郞長貞、土方河內守雄久。藤堂內匠助正高、溝口孫左衛門善勝、西尾隼人某、戶川宗十郞某、須賀摂津守勝政、神谷彌五郞淸次、秋山平左衛門昌秀、下曾根三右衛門信正、跡部民部良保、駒井孫三郞親直、柴田三左衛門勝重、阿部備中守正次、山名平吉某、津田正蔵某、脇坂主水正安信、小出信濃守吉親、牧野伝蔵吉純、眞田左馬助信勝、永田四郞三郞直時、木造左馬助某。靑山常陸介忠成、水野隼人正忠淸、堀伊賀守利重。堀讃岐守某。次に若党馬乗奉行。歩行士小者。次に永田善左衛門重利、永井彌右衛門白元。次に御馬廻り。鉄砲奉行石川八左衛門重次、永田勝左衛門重眞、弓奉行本多百助信勝、小沢瀨兵衛忠重、鑓長刀奉行山田十大夫重利、挾箱奉行朝倉藤十郞宣正。また供奉の輩自らの器械鳥銃千挺、弓五百挺、鑓千柄、長刀百振、挾箱三百なり。今夜神奈川の駅に宿らせ給う(武徳編年集成。御年譜)。

 
○廿五日、後騎の輩江城を進発す。酒井宮內大輔家次、牧野駿河守忠成、內藤左馬助政長、小笠原左衛門佐信之。次に松平上總介忠輝朝臣、次に松平安房守信吉、松平甲斐守忠良、松平孫郞康長、松平周防守康重。次に最上出羽守義光、次に佐竹右京大夫義宣、次に南部信濃守利直、次に鳥居左京亮忠政押後す。先後の供奉の中にも、甲信の輩は木曾路を上り大津にて諸勢を揃えしむ。凡そ道中前後十六日の間人馬陸続して透間なし。この夜、右大将殿藤沢の駅に宿り給ふ。夜に入て軽雷あり(御年譜。当代記)。

 ○ 廿六日、小田原に着かせ給ふ。本多佐渡守正信より、海野彌兵衛某朝倉六兵衛在重をして諸国の材木を巡察せしめらるゝ旨を、駿遠信甲の輩に触れ渡さる(御年譜。由緖書)。
 ○廿七日、三島に着せらるゝ。雨によりこゝに三日延滞し給ふ(御年譜)。
 ○廿九日、右大将殿供奉の先駆は今日入洛す(大三河志)。
 ◎この月、三河の郡士松平久大夫政豊、御上洛のとき御途中にてはじめて拜謁、召し出さるべき旨仰せを蒙る。松下善十郞之勝采邑五百石賜はる。石谷十右衛門政信右大将殿に附けらる(家譜。寬政重修譜。寬永系図)。
 ○三月朔日、右大将殿三島駅に御滞座あり(御年譜)。
 ○二日、右大将殿三島を御発輿ありて蒲原にいらせ給ふ(御年譜)。
 ○三日、駿府にとゞまらせ給ふ。この日、野辺伝十郞正久死してその子助左衛門当経継ぐ(御年譜。寬永系図)。
 ○四日、右大将殿藤枝につかせ給ふ。神龍院梵舜は伏見に上り拜謁し杉原十帖扇子を献ず(御年譜。舜旧記)。
 ○五日、右大将殿懸川に宿らせ給ふ(御年譜)。
 ○六日、松平左馬允忠賴が浜松の城によぎらせ給ひこゝに御滞留あり(寬永系図)。
 ○七日、今日も浜松に滞留し給ふ(御年譜)。
 ○八日、吉田に着かせ給ふ。伊達越前守政宗は今日大津に着せり(御年譜。貞享書上)。
 ○九日、右大将殿岡崎に着かせらる(御年譜)。
 ○十日、下野守忠吉朝臣の淸洲の城にいらせ給ひこゝに御滞留あり(御年譜)。
 ○十一日、淸洲城にて忠吉朝臣、右大將を饗せられ猿楽を催さる(御年譜)。
 ○十二日、伏見城にて園棋の御遊あり。神龍院梵舜参る。右大將殿今日も淸洲城に御滞留あり(舜旧記。御年譜)。
 ○十三日、右大将殿太垣に着せ給ふ(御年譜)。
 ○十四日、井伊右近大夫直勝が彥根の城に入らせ給ふ(寬政重修譜)。
 ○十五日、雨により彥根城に御滞留あり(御年譜)。
 ○十六日、永原にいたらせ給ふ。靑山藤藏幸成配膳の役を命ぜらる(御年譜。寬永系図)。
 ○十七日、戶田左門氏鐵が膳所崎の城にいらせ給ひ、こゝに三日御滞留ありて、後騎の輩到着を待せ給ふ(御年譜。家譜)。

 ○十八日、春日明神薪能の事により、五師並びに奈良の父老六人を伏見に於て対决せしめらるゝところ、父老等専恣の挙動まぎれなきにより五人禁獄せしめらる。壽閑と云えるは八旬を越したる大老なれば、しばらくなだめられてその沙汰に及ばれず。この日、島津陸奥守忠恒伏見に上り拜謁し、御刀二口賜ふ。又先手頭佐橋甚兵衞吉久死して、その子治郞左衛門吉次つかしめらる(春日記録。寬政重修譜。家譜。吉久始は乱之助と云う。射芸に達し、元亀元年、姉川の戦に朝倉勢のむらがり進みしを射払いて、敵を追い退けしよりして、三方が原、長篠、田中長久手の戦毎に射芸をあらはさずとふことなく、関が原の戦に臨み今の御所に付けられ、今の職奉はり、伏見にありて死す。五十九歲なり。この人右大将殿に射芸を伝え奉りしとぞ。寬永系図)。

 ○廿一日、右大将殿膳所崎の城を出まし。これより前後歯簿を整えられ、粟田口より醍醐を過て伏見城に入らせ給ふ。御行裝綺羅をつくさる。京中の貴賤市人等まで御迎えに参る者道もさりあへず、都鄙近国にこの御行裝をおがみ奉らんと、路傍に蹲踞する者雲霞の如く集まりて立錐の地もなし。伏見城にては朝とくより舟入櫓にならせられ、この御行裝を御覧じ給ふ(西洞院記。舜旧記。家忠日記)。
 ○廿三日、諸大名伏見城に上り拜謁す(貞享書上)。
 ○廿六日、神龍院梵舜伏見城に上り拜謁す。二条御殿預三輪七右衛門久勝死してその子市十郞久吉継ぎ、父の原職を命ぜらる(舜旧記。由緖書)。
 ○廿七日、神龍院梵舜まう上り拜謁す。慶鶴丸権少副並びに社家等太刀折紙を献ず。神主祝禰宜等の次第並びに日本紀の事ども御垂問あり(舜旧記)。
 ○廿八、日齋藤新五郞利次死す。陰料千石を御書院番左源太利政に賜ふ(寬政重修譜)。

 ○廿九日、右大將殿御参內あり。国々の大名ことごとく供奉す。これは去年右近衛の大將かけ給ひし御拜賀とぞ聞えける。先ず伏見より二条にわたらせられ、施薬院にて御衣冠をめさる。禁裏にては四足門より高遣戶をへ給ひ鬼間にやすらひ給ふ。御帳台の前を御座とし、上段の北に親王の御座を設けられ、下段に大将殿わたらせ給ふ。主上臨御ましまし天酌にて御三献参る。その後国々の諸大名四位以上御盃を下さる。大將殿より御太刀、御馬、綿三百把、銀二百枚参らせ給ひ、親王へ綿二百把。銀百枚、女御へ綿百把。銀百枚、女院へ銀百枚。紅花百斤進らせられ、女房へは小袖料とて銀若干つかはし給ふ。国々の諸大名よりは太刀馬代を捧ぐ。事はてゝ伏見へ帰らせ給ふ(御年譜。西洞院記)。

 ◎この月、島津少將忠恒伏見に参観す。右大将殿より朽木信濃守元綱に鹿毛の馬、その子兵部少輔宣綱に黒鹿毛馬を給い、又竹腰源太郞正好初見し奉りし時、虎皮鞍覆せし馬一疋賜りり、騎法を学ぶべしと仰せ下さる。又細川越中守忠興、その二子長岡與五郞興秋を質子として江戶へ進めらせしに、興秋いかに思ひけむ道より逐電せり。よて従弟長岡平左衛門を江戶へ進めらす。又この春通商のため呂宋東京暹羅に渡海せし船一艘も帰り来らず。あるは風濤の変にあひ沈溺せしと云い、あるは異域にて賊殺せられしとも云う。その踪迹さだかならず。又伏見城にて東鑑刊刻の事を令せらる。この頃未だ世に知る者少なかりしに、武家の記録是より古きはなし。尤も考証となすべき者なりとの盛慮とぞ(家譜。寬政重修譜。当代記)。

 ○四月五日、右大將殿、金森法印素玄が伏見の邸にわたらせられ終日饗し奉る(慶長年録)。 
 ○七日、御自らの御齡も六十余り。四年の春を重ね給ひ、右大將殿もやゝをよすげ給へば、大将軍の重職を御譲りましまし、今は御心のどかに御代をうしろみ聞え給はんとの御本意もて、こたび御上洛ましましけるより、この日、御辞表を奉らせ給ふ。今日、関五郞左衛門吉兼死して、その子伝兵衛吉直継ぐ(御年譜。創業記。家譜)。
 ○八日、伏見より御入洛あり。細川越中守忠興が子內記忠利は従五位下、最上出羽守義光が子駿河守家親は従四位下に叙し、共に侍従に任ず(舜旧記。家譜。寬政重修譜)。
 ○十日、御参內あり。これは御辞表の事內にも聞き召し入れられしを謝し給ひしなるべし(創業記。家忠日記)。
 ○十二日、大坂の豊臣內大臣秀賴公を右大臣にあげらる(家忠日記)。
 ○十三日、神龍院梵舜当家の御系図を考定し、二条に参りて進覧す(舜旧記)。
 ○十五日、御讓任の事內にもことはりと聞き召し入られ、御素志の事ども思し召しまゝに御治定ありければ、伏見に帰らせ給う(御年譜。創業記)。

 ○十六日、勅使廣橋權大納言兼勝卿、勤修寺権中納言光豊卿等二条城に参向あり。右大將殿に征夷大將軍を授けられ、正二位內大臣にあげ給ひ、淳和弉学両院别当源氏長者とせられ、牛車にて宮中出入の御許しまで、御父君にかわる事ましまさず、御所はこの時より大御所と称し奉り、しばし伏見の城にゐましけるが、おなじ九月十五日伏見を出まし、十月廿八日、江戶に還御なる。同十一年三月十五日、また江戶をいでまして四月七日、都にいらせ給ひ、伏見または二条にわたらせられ、十一月四日、江戶に帰らせ給ふ。

 十二年五月、朝鮮国より初めて使いを参らす。豊臣太閤文祿の遠伐より隣好も絶えはてしを当家世を治め給ふによて、いにし恨みも解けて、遠を懷くるの御徳を慕い奉るとぞ聞えし。この正月より駿府の城を経営せられ莵裘に定め給ひ、七月三日、駿府に移らせられ永く御所となさる。この後はしばしば駿府より江戶にも往来し給ひ、御道すがら鹿狩鷹狩等をもて人馬の調練武備の進退はいさゝかも怠らせ給はず。將軍また御孝心世にすぐれましまし、何事も御庭訓を露たがへ給はず、瑣末の事と云えども御旨をこはせ給はず、御一人の思し召しもてうけばり行はせ給ふ事はましまさず、御自ら駿府に赴かせ給ひ、または御使を参らせられ、御譲りを受けさせられし後も、たゞ子たるの職を共し守りておはしければ、大御所御隱退の後も猶二なく大政をうしろみたすけ給ひ、睦まじく万機をはかり合わせ給ふ。かゝる試しなむ昔も今も又あるべくも覚えず。

 十四年春の頃、島津陸奥守家久御許しを請いて琉球国を攻め伏せ、中山王尙寧をはじめその一族等多く生け取り、駿府江戶に引き連れて参りしかば、中山王はさらなり。その国人は許して国に帰され、琉球国をば長く島津が家につけらる。大坂の右府秀賴は、庚子の乱に石田三成等その名をかりて反逆せし事なれば、その時秀賴をも誅せられ、永く天下の乱根をたちさらせ給ひなむ事を衆臣諌め奉りしかども、秀賴未だ幼稚なれば何の反心かあらん。かつは父太閤の旧好も捨て難しと寬仁の御沙汰にして、秀賴母子の命を助け給ふのみならず、そのまゝ大坂の城におかれ河內摂津を領せしめられ、今は御孫姬君にさへ会はせ給へば、秀賴もあつく御恩を仰ぎ奉るべかりしかど、囂母賊臣等がゆへなき讒言を信じ、良臣を遠ざけ無賴のあふれものを集め、天下逋逃の藪となりしかば、諸国の注進櫛の歯を引くが如し。今は思ひの外の事とみけしき良からず。

 十九年十月十一日、駿府を出て大坂へ御動座ありしかば、将軍にも同じ廿三日江戶を御出馬あり。凡そ五畿七道の軍兵数十万騎雲霞の如く馳せ集まり大坂の城を取り囲む。城方もはじめのほどこそあれ次第に心弱りて、和順の事を請い参らせしにぞ。堀築地を破りて事たいらぎしに、いくほどもなくあくる元和元年の春の頃、又不義の振る舞いあらはれしかば、再び御親征あるべしとて、四月十八日、二条の城に着かせ給へば、将軍にも廿一日伏見の城にいらせ給ひ、五月五日、両御旗を難波に進められ、六日七日の合戦に大坂の宗徒の輩悉く討ちとられ、秀賴母子も八日の朝自害し、城落ちいりしかば、京都に御凱旋あり。

 ことし七月七日、公家の法制十七条、武家の法令十三条を定められ、天下後世の亀鑑と定めましまし。将軍はその十九日、都をいでゝ八月四日、江戶に帰らせ給ひ、大御所にはその日御出京ありて廿四日、駿府に還御あり。翌年の正月廿一日、大御所駿河の田中に鷹狩りせさせ給ひしに、その夜はからずも御心ち例ならず悩ませ給ひ、急ぎ駿府に帰らせ給ふ。いさゝかをこたらせ給ふ樣なりしかど、はかばかしくもおはしまさず、江戶にもかくと聞こし召し驚き給ひ、御自ら急ぎ駿府にならせ給ひ万に扱かわせ給へば、九重の內にても延命の御修法など行はれ卷数参らせらる。されば諸社諸寺の御祈りは更なり。天下に名あるくすしども召し集め御薬の事議せしめらる。內には猶も発乱反正の大勳にむくはせ給はんの叡慮深くましましければ、今一きざみ長上を極めしめ給はんとあながちに勅使を下され、三月廿七日、太政大臣にすゝめ給ふ。この頃はいとあつしく渡らせ給ひながらも、猶天恩のかたじけなさをかしこみ給ふあまり、御いたはりをしゐておもたゞしく勅使を迎えさせ給ひ、紫泥の詔をうけ給ひき。されど御年のつもりにや日を経るに随いか弱くならせ給ひつゝ、四月十七日巳刻に駿城の正寢にをいてかんさらせ給ふ。御齢七十に五余らせ給ひき。

 將軍御嘆きは云うまでもなし。公達一門の方々御內外樣をはじめ、凡四海のうらに有としあるもの嘆き悲しまざるはなかりけり。御無からはその夜久能山におさめ参らせ給ひ神とあがめ奉る。あくる三年二月廿一日、內より東照大権現の勅号参らせられ、三月九日、正一位を贈らせ給ふ。かくて御遺教にまかせて霊柩を下野国日光山にうつし奉り、四月十六日、御鎭座ありて十七日、御祭礼行はる。この時都よりも、宣命使奉幣使などいしいし山に参らる。年月移りて正保二年十一月三日、重ねて宮号宣下せられ東照宮と仰ぎ奉り、あくる年の四月よりはじめて例幣使参向今に絕せず、抑すめるものはのぼりて天となり、濁れるものは下りて地となりしよりこのかた、御裳濯川の流れかれせず天津日継ぎの御位動きなき中に、淸和天皇幼くて御位継がせ給ひしよりこのかた、外戚の家政柄を世々にせられしかば、藤氏の権海內を傾るに至りしが、鳥羽の上皇昇天の後棣蕚の御争いできしより、その権源氏の武家に移りぬ。

 しかるに鎌倉大将(賴朝)一たび伊豆の孤島より義旗を挙げられ、平氏の武家は一門こぞりて壽永の春の花と散りはてゝ、終にわたつ海の底のもくづと沈みにしのちは、天下たゞ武家の沙汰に帰しぬ。右大将家の後三代にして絶えしかば陪臣北条義時がはからひにて、都よりあるは藤氏の庶子を請けて主となし、あるは親王を申し下して君と仰ぎ、をのれ国命を専らにしたるに、元弘建武に至り後醍醐天皇高時を誅せられんと、新田、足利の武力を借りて叡慮のまゝに北条を誅し、中興の業はなし給ひつれど、皇統又南北に分れ終に足利氏天下を一統する事とはなりぬ。されどこれも尊氏詐謀奸智をもて上をあざむき衆をたばかりて、その元正しからざれば、下又これにならひ足利氏十五世を経るが間、骨肉相残し父子兄弟互に争い、强は弱をあはせ衆は寡を犯す。まして応仁よりこのかた四海瓦の如く解け、逆徒蜂の如くおこりて、天倫の道たえ万民塗炭の苦しみを受ける事こゝに百年に余りぬ。


 織田右府(信長)勇銳にして義昭将軍を翼戴するかとすれば忽にこれを放逐し、その身も又賊臣のために弑せられ、豊臣太閤の雄略なるその身草間より出て旧主の讐を伐ちて遂に宇內を一統せしも、驕逸奢侈に耽り遠征をことゝし万民の疾苦をかへりみず、その余威二世に伝ふるに及ばず。この時にあたり維嶽より神をくだし眞主こゝにあれまし。寬仁大度の御徳備はらせ給ひ、武はよく乱に勝ち文はよく治を致し、終に海內百有余年の逆浪をしづめ、天下大一統の成功を遂げ給ふ。しかれば足利氏以来の暗主奸臣は云うまでもなし、織田氏の强暴、豊臣氏の傲慢なる、共に皆な淵のために魚をかり藪のために雀を逐ふたぐひにて、眞主の爲に天これをまうくるものなるべしとしらる。されば万世無彊の基を開き給ひし功徳、なまじゐに石の火のうちいでんも憚りの関のはゞかりあることながら、朝政武断に帰せし後、一人として実に堯舜の道をたふとみ、聖賢のあとを学ばれし主ある事を聞かず。しかるに烈祖ひとり干戈の中にひとゝならせ給ひ、沐雨櫛風の労をかさね險阻艱難をなめ尽し給ひし千辛万苦の御中にて、はじめて世を治め天下を平らかにせんは、聖人の道の外にあらざる事をしろしめし、惺窩道春など云える一時の儒生を召し集められ、大学論語並びに貞観政要など読ませて聞こしめし、その外承兌、崇伝、天海など云える碩学どもを召して內外の諸紀伝を聞かせ給ひ、駿府におはしまして後も、道春に四書六経をよび武経七書などを講ぜしめられ日夜顧問にそなへられ、関が原御凱旋の後はことさら御心を万機に委ねられ、国やすく民豊かならむ事をのみ思し召し、天下後世のために業をはじめ統をたれ、大経大法を大成し給ひ、聖子神孫いやつぎづぎに太平無彊の大統を伝え給ふ。その精神命脈はひとり好文の神慮にこそおはすべけれと仰ぎ奉らるゝ事になん。かくてぞふたらの山の日の光はこまもろこしの外までもあまねく照らしまし、武蔵野の露の惠は敷島の大和島根うるほさゞる方もなし。千早振る神の御徳御いさほし、凡髮をいたゞき歯を含むたぐひ、誰かこれをかしこみもかしこみをそれみもをそれみ仰ぎ奉らざるものあらんや(御年譜。宮号宣下記)。








(私論.私見)