戦国武将家伝書考 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「戦国武将家伝書考」をものしておく。 2013.10.22日 れんだいこ拝 |
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れんだいこのカンテラ時評bP185 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年11月11日 |
戦国期の研究を通じての陰謀論考 戦国武将家伝書考をしながらふと気づいたことを記しておく。その最たる例は本能寺の変であるが、明智光秀軍の叛旗をどう読み取るかで諸説が入り乱れている。れんだいこは、これを当時の歴史状況に照らしてバテレン陰謀説を採る。これは自然に見えてくる見立てである。バテレン陰謀説を採らない諸説に愚昧を感じ無駄な推理遊びとぞ思う。 ここで興味深いことを確認する。陰謀説は一般に、これを批判する側から「こじつけ」、「うがち過ぎ」の由を聞く。しかしながら、本能寺の変の推理で分かるように、陰謀説のほうが素直な読み取りであり、これを採らずにあれこれの推理をする側の方にこそ「こじつけ」、「うがち過ぎ」の評がふさわしい。つまり、陰謀説批判は、手前の方が「こじつけ」、「うがち過ぎ」であるのに、陰謀説に対して手前が受けるべき批判を先回りして相手方に投げつけていることになる。これも悪質論法の一つである。この論法は案外あちこちで多用されている。 未だ陰謀説は学説と成り得ていない。しかしながら、このことは、陰謀説が学説になるに足らないのではなく、学説の方が陰謀説を排除する特殊な政治主義に牽引誘導されている為ではなかろうか。近現代史は、れんだいこ式陰謀説が捉えるところの国際金融資本帝国主義ネオシオニズム派の権力により支配されている。最近になってこれを簡略に「国際ユダ屋」と命名している。これに照らせば、「国際ユダ屋」の許容しない研究は学説にさせないとされているだけのことではなかろうか。政治経済文化精神のみならず学問といえども「勝者の官軍論理」に導かれている。勝者側は勝者側に不都合な学問は許容しない。これが陰謀論批判の社会学的根拠ではなかろうか。 戦国史の研究をしながら、こういうことに気付いた次第である。ここでは本能寺の変を挙げたが、13代足利将軍・義輝刺殺事件も臭い。千利休切腹事件も臭い。あれは石田光成を長とする特捜調査団により動かぬ証拠を突きつけられて切腹に追い込まれたと考えれば疑問が解ける。かの時代の枢要な事件においてバテレン派の黒幕性を見て取ることができる。仮に、だとするなら、同じ目線で現代史を捉え返す必要があるのではなかろうか。という具合に関係してきて、それ故にそういう本当のことを言うのが一番いけないこととして、それだけは言うな、ほかのことなら何でも許すという囲いの中で知の遊びをしているのではなかろうか。 所詮、学問といっても、この程度のものではなかろうか。よって、許され囲われた知恵遊びの空間の中で難しそうに賢こげに言う者がいたら眉唾してきた、れんだいこのカンは当たりだったと改めて思う次第である。こういうこともいつか言っておきたかった。 |