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 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、武田信玄を確認する。戦国時代の数多くの大名たちの中でも武田信玄と上杉謙信が破格の扱いをされるのはナゼなのか?。日本の歴史という大きな視点に立てば、・織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が与えた影響は極めて大きく、逆に信玄と謙信は重要な存在感を発揮しきれておりません。あくまで一地方の有力者と考えた方が自然であり、例えば受験で取り上げられるような際立った功績もない。にもかかわらず【甲斐の虎】信玄と、【越後の龍】謙信は、やっぱり別格! では、史実の武田信玄とは、どんな一生を送ったのか? 53年に及ぶ生涯を確認しておく。

 2013.08.11日 れんだいこ拝


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真田家

史実の真田信之が生き残れた理由~昌幸や幸村と別離した才覚とは

実績については素晴らしいものがある。

されど、目立たない。

周囲の人間たちがド派手な活躍をしたがゆえに、割りを食って歴史の陰に埋もれがちな人。

その代表として戦国時代から一人挙げたいのが真田信之です。

激しい領土争いや政争で勝ち残って大名として出世し、さらに当人は93歳まで生きた。

万治元年(1658年)10月17日はその命日です。

それにしても

と比べたときの印象の弱さよ……。

大河ドラマ『真田丸』では大泉洋さんが演じたことにより、以前と比べて遥かに知名度は上がりましたが、実際の事績や活躍となると、注目されることは滅多にありません。

そこで本稿ではバッチリ追ってみたい。

史実の真田信之は、なぜいつも正しい選択をできたのか?

 

真田家の嫡流になった源三郎

真田信之や真田幸村の祖父にあたる真田幸綱

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彼は武田信虎時代の武田家と対立し、晴信(後の武田信玄)時代に出仕しました。

幸綱の後を継ぐことになった真田昌幸は三男であり、真田家の嫡流ではありません。

猛者揃い武田氏宿老として、小県と北上野支配を担う真田本家ではなく、武藤家を継いでいました。

武藤喜平尉と名乗る昌幸は、知勇兼備の一武者として活躍していたのです。

永禄10年(1567年)頃、幸綱が隠居すると、家督は嫡男の真田信綱に譲られれました。

そして天正元年(1573年)、武田信玄、没。

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翌天正2年(1574年)には後を追うようにして幸綱も息を引き取ります。

かくして、武田勝頼と信綱の時代が始まるのですが……。

天正3年(1575年)に長篠の戦いが勃発。

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この激戦で真田家当主だった信綱と、その次弟・真田昌輝が戦死してしまいます。

真田一族のみならず、武田家臣の多くが失われました。

こうなると勝頼としても、幼い信綱の男子に真田家を任せるわけにはいきません。

そこで運命の激変したのが信之・幸村兄弟の父・真田昌幸。

一族の当主は、武藤氏を継いでいた三男に託されることになったのです。

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前当主の娘と婚姻

昌幸の嫡男である源三郎こと真田信之は、永禄9年(1566年)に生まれておりました。

母は山手殿。

出自は諸説あり、菊亭晴季のむすめという説もあります。

同説は確定までには至っておりませんが、いずれにせよ『京都から来た女性ではないか?』と目されています。

面白いのは2016年大河ドラマ『真田丸』でしょう。

高畑淳子さん演じる、薫という貴族の女性が昌幸の妻であり信之の母。

この薫には、

【自称・菊亭晴季の女だが、本当はそこまでセレブでもない京都出身の女性。都でくすぶるよりも、武田家臣に嫁ぐことにした】

という設定があったものです。諸説を混ぜ合わせて遊び心をふりかけたようなイメージですね。

まだ幼いこの少年は、真田家嫡流の後継者となりました。後に真田信之となる幼い少年の運命は、武田家とともに激変を迎えるのです。

こうした激変と同時に、婚約も決まったのでしょう。

彼の正室は、イトコにあたる真田信綱のむすめ・清音院殿です。

長篠の戦いで亡くなった元当主・真田信綱の娘を娶らせ、その間の子を次の後継者とすることで、正当性を高める狙いを感じます。

そんな源三郎は、天正7年(1579年)で元服を果たし、「信幸」と名乗るようになります(後に信之となる)。

ここで、ちょっと気にしておきたいことがあります。

それは父・昌幸の【昌】と、子・信幸の【信】です。

武田家での名は、一門、譜代、国衆といった有力者には【信】、それより家格が下であると【昌】がつきます。

昌幸の代では長兄のみが信綱であり、その下の者たちは【昌】から始まる名が与えられました。

つまり名付けからも「信幸」が真田家嫡流となったことがわかるのです。

かくして、真田一門を背負うと定められた信幸。

武田家嫡男・信勝13歳での元服にあわせ、主君とともにお歯黒付けを行いました。このときから父の昌幸は安房守と名乗るようになり、父子ともども武田家臣として気合が入る――そんな歳となっています

この後、武田家が存続していれば、信之は祖父・幸綱や父・昌幸のように、主君を支える宿老となっていたことでしょう。

前述の清音院殿との婚礼も、元服頃に行われたと思われます。

しかし、信幸が信勝を支える日は訪れることはありませんでした。

 

武田家滅亡「天正壬午の乱」

天正9年(1581年)末。

勝頼は躑躅ヶ崎館から新府城への本拠を移転します。

そして激動の天正10年(1582年)を迎えました。

織田勢の侵攻が本格化すると、武田勝頼の妹婿であった木曾義昌や武田の重臣・穴山信君(梅雪)が織田方に裏切り、窮地に陥ったのです。

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運悪く、浅間山噴火という天変地異も重なりました。

そして3月、武田勝頼とその妻子が自刃。

信幸が共に元服を果たした信勝も、命を散らしました。

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そしてこのあと、徳川・北条・上杉が激しい争奪戦を繰り広げた【天正壬午の乱】において、強国に囲まれた真田昌幸の家族は、激動の運命を迎えます。

信幸の弟である弁丸(のちの真田信繁)が、史料上確認できるのはこの頃からです。

彼は人質として大名や国衆の元を転々とすることになります。

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その一方、嫡男たる信幸は初陣を果たします。

天正壬午の乱の最中、17歳で戦場に出向き、勇猛果敢な若武者として名を轟かせました。

時に父も諌めるほど果敢に進軍を果たし、父の一里から半里を先んじて進み、その智勇は近隣でも知られるほどだったと言います。

問題は天正壬午の乱において、どこに従属し戦うのか――。

その決定権は父の昌幸にありました。

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天正13年(1858年)頃から、真田信幸は沼田領の支配を任されたとみなせます。

彼自身の名による、文書の発給が見られるのです。20歳前後となった信幸は、相応の判断力を備えていたのでしょう。

大叔父、叔父はじめ、多くの一族の支えもありました。

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史実の真田信之が生き残れた理由~昌幸や幸村と別離した才覚とは

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本田平八郎忠勝の女婿となる

父・昌幸が知略の限りをつくし、難局を乗り越えようとする中。

真田家の奮闘は、周辺大名からすれば厄介な存在でした。

北条、徳川、上杉――この三者間で従属と離反を繰り返す態度に対して、断固として鉄槌を加えねばならない!と徳川勢が立ち上がります。

しかし、その結果跳ね返されてしまいます。

第一次上田合戦】です。

この戦いでは、真田信幸も目覚ましい武勇を見せつけました。

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真田を力づくて潰すことは困難である。

こうなると、どうすればよいか? 各勢力の思惑が絡んできます。

天下人として、九州はじめ西日本を攻めたい豊臣秀吉としては、東日本で騒乱が続くことは望ましくありません。

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徳川と真田が睨み合っていては困る。

天下の秩序を収めるとアピールするためにも、ここは外交的解決が望ましい。

そこで、かような交換条件が考えられました。

◆真田家は羽柴秀吉に従属する「小名」(のちに豊臣大名)とする

◆かつ徳川与力

この同意は、昌幸、家康、そして秀吉の三者の意向があってのものとみなせます。

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そうなると、それを示すためにもうってつけの手段が婚礼。そこで選ばれたのが昌幸嫡男・信幸でした。

彼の最初の妻・清音院殿は、信綱の遺児にあたります。イトコ同士での婚礼であり、嫡流の血を残したい配慮によるものでした。

それを乗り越えるように、二人目の縁談が決まります。

相手は、小松殿(小松姫)でした。

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家康の有力な譜代家臣・本多忠勝むすめです。

家康の養女説もありますが、確定しているとは言えません。

猛将の血を引くことや逸話の数々から、髷を掴む婿選びを始め、逸話が多いこの婚礼。

フィクションとしては面白いものですが、政治の所産であることは忘れないでおきたいところです。

この婚礼の時期は諸説ありますが、天正15年前後とされています。

政治的な結婚の結果で、運命が変わったことも確か。正室とは一人だけとみなせるものかどうか、実は諸説があります。

そうはいえども、こんな結婚の意図を思えば、小松殿が大切にされたことは確かです。

義父が恐ろしいという設定は、フィクションでは大いにあり、かつ面白いものです。

それは抜きにしても、粗略に扱えるわけもありません。

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しかし、真田嫡流の正室として生きてきた、そんな清音院殿。その気持ちを想像すると、気の毒になってくることは思います。

それでも、ご心配なく。

フィクションでの小松殿は、ともかく強くて、恐ろしい女性として描かれます。漫画『殿といっしょ』(→amazon)の彼女はいい味を出していますよね。

それはそれとして、史実での小松殿は気配りのできる、寛大な女性像が伝わっています。

そんな彼女のもとで、信幸とその家族は幸福な暮らしを送っていたと示す史料もあります。

政治的な動機とはいえ、信幸にとってこの結婚生活は実りあるものとなったのでした。

信幸には、三男二女が生まれています。

長男・信吉をのぞくと、小松殿が母とされています。長男の母は不明ですが、清音院殿の可能性が高いんですね。

 

豊臣政権での真田兄弟

婚姻は、運命の分かれ道でもあります。

彼の弟である真田信繁真田幸村)の正室は、豊臣政権中枢を担っていた大谷吉継の女・竹林院です。

大谷吉継イメージ/絵・富永商太

つまり兄は徳川派で、弟は豊臣派。

道筋は、関ヶ原よりもはるか以前についていました。

天正壬午の乱が終結し、豊臣大名となった状況下で、真田一族の支配体制はこうなりました。

◆信濃上田領3万8千石を支配:真田昌幸

◆上野沼田領2万7千石を支配する:真田信之

=合計6万5千石

父子の関係性は、保たれてはいる。

そうであっても、公役負担と本拠の屋敷は別です。

※左(赤)の拠点が上田城で、右(黄)が沼田城

文禄3年(1594年)11月には、信幸と信繁の兄弟は、秀吉から従五位を授けられています。

兄は伊豆守、弟は左衛門佐です。信幸の家と、昌幸・信繁の家が別個存在する構造となっていたのでした。

豊臣政権が一体のままであれば、兄弟の道は別れなかったかもしれません。

しかし、そうはなりません。

昌幸二人の子が、豊臣政権の元で豊臣と徳川に分かれる運命は、関ヶ原の前からあったのでした。

 

真田家の天下分け目

豊臣政権は、秀吉の死後に崩壊を迎えます。

こうした中、真田家は劇的な運命を迎えた一族として知られています。

慶長5年(1600年)、会津の上杉景勝討伐を目指していた徳川家康は、石田三成の挙兵を知り、引き返すことにしました。

このとき、三成は各大名に西軍へ着くよう訴えかけていたのです。

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真田昌幸もその一人。

昌幸が宿所に我が子二人を呼び寄せ、対応を協議する名場面――これを「犬伏の別れ」と呼びます。大河ドラマ『真田丸』では第35話でしたね。

この場所、実は宿が「犬伏」として有名でしたが、実際は「天明てんみょう」であったと最新の研究では目されております。

だいたい3キロほどの差ですね。

いずれにせよ、栃木県佐野市であることは確かです。

昌幸と信繁が西軍についた動機は、いろいろな憶測がされてはおります。

江戸期以来、東西に分けて家の存続をはかることが独特だと考えられたものです。

たいした智謀だとされてはおりますが、この決戦で東西分裂したのは真田家だけではありません。

しかし、婚礼関係や昌幸と徳川との関係性を分析すれば、いきなり思いついたことではないとご理解いただけるでしょう。

昌幸と信幸は父子とはいえ、領地経営でも別です。

姻族関係でも、信幸は徳川、信繁は豊臣に分かれているのです。この分裂は、極めて自然なことではあるのです。

そうはいっても、父子、兄弟の分かれです。

それはドラマチックであると、後世のものがフィクションで想像する、ふくらませるのは自由ですよね。

もうひとつ、この天下分け目において、信幸がらみのエピソードがあります。

それは沼田城にやってきた舅・昌幸を、小松殿が追い払ったというものです。

これも複数の説があります。

◆他の大名妻子のように大阪におり、かつ大谷吉継の庇護下にあった。沼田城には不在である

◆これに先んじ、信幸が女中改として、性質を含めた女性たちを自領に戻していた。撃退は可能である

複数の説があるのであれば、フィクションではどちらを採用しても自由です。

『真田丸』におけるこのときの小松殿のシーンは、なんとも爽快感がありました。

いずれにせよ信幸には苦渋の決断。

彼は徳川秀忠につき従いました。その先の真田領で待っていたのは、父と弟であります。

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vs
真田昌幸&信繁

第二次上田合戦】として知られる合戦ですが、実は評価が難しいものとされております。

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かつては、関ヶ原で数少ない、西軍が強い爽快感があるものとされてきておりました。

このせいで、最大の兵力を持つ徳川秀忠が屈辱的な足止めをくらったとされていたのです。

しかし近年、それはどうなのか?と、疑念が呈されています。

・秀忠軍は足止めをされたとはいえ、誇張されるほどの損害はない

・秀忠が間に合わなかったというよりも【関ヶ原の戦い】が一日で終わったことのほうが予想外の事態だった

・秀忠遅参の一因であることは確かではあるが、他にも要因はある

・前提として、攻城戦は時間がかかるものである

・秀忠は家康の命令を受けて撤退しており、これを撃破とは言い切れない

こうした史実をふまえ、ちょっと冷静に評価すべきというあたりに落ち着いていたのが『真田丸』でした。

あのドラマの描き方は、巧みな構成と脚本によって十分楽しめたものの、そこまで秀忠を叩きのめしたわけでもありません。

史実からはみ出しても、もっと派手にしてもよかったのではないかという意見もありました。

では、このときの信幸は?

昌幸が砥石城に入れていた軍勢を退いたため、ここに入りました。

そのため、彼自身の軍勢は、上田城攻めには参加していません。

真田一族同士の対戦は回避されたのです。

その後はご存知のとおり【関ヶ原の戦い】がわずか一日にして決着を迎えたのでした。

関ケ原合戦図屏風/wikipediaより引用

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徳川幕府体制での信幸

このあと徳川方の勝利に従って、信幸の人生は転機を迎えます。

父と弟の助命嘆願を信幸が行なったという逸話は、魅力があるものです。

ただし、この時点で家康側が昌幸・信繁父子の首まで欲しがっていたか、わかりません。

明らかなことは、信幸が何かを嘆願していたことです。

◆改易しないこと

◆上田領および上田城の確保

状況的にはこのあたりとされています。

その結果、次のような着地点を迎えました。

◆上田領の確保
→決戦の地となった上田領の確保に成功。その復興を担う

◆高野山追放となった父と弟を見送る
→生活必需品を送っていたとみられる

高野山に追放された昌幸と信繁の境遇には、同情を感じる方も多いことでしょう。

彼らだけではなく、その処置に追われた信幸の苦労も偲ばれるというものです。

高野山での昌幸・信繁父子の暮らしは、辛いだけではありませんでした。

信幸や小松殿の気遣いもあり、趣味や酒を楽しむことはできたようです。信繁は、余った時間のおかげで連歌を楽しむこともできたとか。

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これも、優しい兄あってのことでした。

そうはいっても、多くの家臣がついていったこともあり、生活費が間に合っていたというわけでもありません。

昌幸と信繁は、仕送り増額を信幸に頼み込んでおりました。それが叶わない時は、借金もしていたのです。

この生活苦が、大坂の陣における信繁の行動の一因となったのでしょう。

徳川新政権の動きに関しては、どうにも信幸は過小評価か過大評価がされがちかもしれません。

くどいようですが、彼が本多忠勝の女婿であり、早い段階で徳川に近かったことをお考えください。

そんな信之に真田領を引き続き統治させることは、寛大である以上に効率的なのです。

実際、信幸には人脈がありました。

・本多忠朝(本多忠勝二男)
井伊直政
・城昌茂

中でも、義父・本多忠勝との交流は篤いものがありました。

忠勝は愛娘である小松殿を気遣っていることが、残された書状からもわかります。

本多忠勝
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忠勝は草津での湯治を好んでおりました。

草津湯の管理は信幸の管轄ですので、ここでも関係がうまれるわけです。

こうした交流から、人当たりが良く、誠実な信幸の姿が見えてきます。

乱世を生き抜くのであれば、昌幸の性質こそがふさわしいかもしれません。

一方で太平の時代となれば、信之こそが適していたのかもしれない。そんな父子の違いを想像させます。

 

「大坂の陣」もうひとつの真田一族

領国では家臣団の再編成を進める。

大名としては、幕府の要望に答える。

親族には、生活の援助や精神的なケアをする。

そんなよき大名であり、家庭人でもあるのが信幸でしょう。彼には、父・昌幸の死を契機に心境の変化があったようです。

慶長17年(1612年)、昌幸は流刑先で死を迎えました。

赦免の望みが消え、失意のまま迎えた最期。この年に、最後の「信幸」署名が確認されているのです。

彼は「信之」と改名します。

父の死を契機に、一人で真田家を背負う気持ちが強まったのかもしれません。

そしてその二年後、別の家族との別れも迫ってきます。

慶長19年(1614年)。

【大坂の陣】勃発――。

このとき、49歳であった信之は病気療養中でした。

長寿のためか。真田信之には健康的なイメージがあるかもしれませんが、実は中年期以降はしばしば病気療養をしていたことが窺えます。

幕府は、本人ではなく嫡子・真田信吉を参陣させてもよいと許可を出しました。

信之は吾妻の家臣に出陣の準備を整えるよう、指令を出したのです。

それと重なる時期に、九度山から信繁が脱出し、嫡子・大助ともども大坂を目指していたのでした。

信之の子である信吉22歳、信政18歳は、これを初陣として大坂へと向かっていきました。

兄弟は、本田忠朝率いる組に加わり、徳川秀忠の元で戦うことになります。

配下の将兵が出陣した吾妻に、信之は気を配らなければなりません。妻の小松殿は、我が子が戦功をあげられるかどうか、心配していました。

そんな信之の耳に、信繁が大坂入りした一報が届き、果たしてどんな心情になったでしょう。

配流先の生活苦をふまえ、逆転のチャンスを狙っていた弟を理解したのか、しなかったのか。複雑な気持ちではあったことでしょう。

この劇的な真田一族について、逸話も残されています。

信繁が甥の軍勢に気づくと、攻撃をやめたという話ですが、これは後世の創作です。

信吉・信政兄弟は、家康・秀忠を感心させるだけの戦功をあげたと伝わります。

「大坂の陣」の主役である真田といえば、信繁と大助父子ばかりが取り上げられます。

それだけではなく、信吉・信政もよく戦っていたのです。このときの、もう一方の真田の苦難も、知られるべきでしょう。

幕府による大坂方残党の捜索は、徹底したものでした。

真田家臣からも、有力宿老であった宮下藤右衛門が粛清されています。信繁に通じた嫌疑によるものでした。

京都では、こんな唄が流行ったとされています。

「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島(鹿児島)へ」

ロマンチックな歌ではありますが、もしもそれが史実であれば、信之の血を引く真田も、タダでは済まされなかったことでしょう。

真田伝説が華々しく残っているということは、幕府が無害、ガス抜きとして咎めなかったということではないでしょうか。

真田幸村伝説はもちろん楽しいものではあります。

それが【花】だとすると、信之の真田家は【実】といったところでしょう。

信玄生存の頃は海津城として川中島を見守っていた松代城。信之が入城し、そのまま真田の本拠地となる

 

波乱万丈の長き一生

そんな誠実な信之ですが、彼自身の長寿や家庭環境もあったのか、辛い別れはいくつもりました。

家族との永訣です。

父・昌幸
母・山手殿
弟・信繁
弟・信勝
妻・小松殿
妻・清音院殿
義父・忠勝
義弟・忠朝
義弟・忠政
子・信吉
子・信政
子・信重
嫡孫・熊之助

当時で90過ぎまで生きたという、驚異的な長寿が一因でしょうか。

いずれも彼より先に亡くなられた者たちです。

彼の人生は、楽ではありません。

幕藩体制でも、真田家の基礎を気づくため、借金に悩まされながら、領地経営に尽くし続けました。

最晩年まで、嫡孫の死に伴うお家騒動に立会い、政治と縁が切れませんでした。

楽隠居すらできない運命であったのです。

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生活が困窮したものの、政治的な重圧はなかった父・昌幸と弟・信繁。

大名であり、生活は保障されているものの、最期まで政治から離れられなかった信之。

真田家の運命とは、なんと対照的なのでしょう。

万治元年(1658年)、やっと長い人生は終わりました。

享年93。

辞世は、次の通りです。

「何事も 移ればかわる 世の中を 夢なりけりと 思いざりけり」

乱世に翻弄された国衆・真田家を、大名として安定させた長い一生は、かくして終わりを迎えたのでした。

なお彼の死後、真田からは信之の忍従をぶち壊す、悪行三昧の者も出ております。


真田家

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歴史でモヤモヤするところ。

それは、過去の業績のみならず、ときには歴史人物の名前すら変化しかねないことでしょう。

例えば、真田幸村

フィクションでの名称が先行し、史料で確認できる「真田信繁」は鳴りを潜めて久しいです。

2016年大河ドラマ『真田丸』では大胆にも、通常は信繁にして、【大坂の陣】でのみ幸村を使うという、勇気ある試みがなされていました。

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そして……。

本稿の主人公、真田幸隆――。

真田幸村の祖父にあたるこの戦国武将も、色々と変化を遂げる人物の一例です。

2008年大河ドラマ『風林火山』では佐々木蔵之介さんが好演されており、その名前も最新研究では

真田幸綱

とされています。

ゆえに本稿は【真田幸綱(ゆきつな)】で記載させていただきますことをご了承ください。

なお、女性名ですと戒名しか残りにくく、俗名はフィクションによりまちまちです。

幸綱の妻・恭雲院は『風林火山』で忍芽(清水美沙さん)。『真田丸』では、とり(草笛光子さん)。

そして、ややこしいのは名前だけでもありません。

そもそも真田一族って何者なのか?

そこから辿ってみましょう。

 

真田幸綱(真田幸隆)の前に「国衆」とは?

大河ドラマ『真田丸』は画期的な作品でした。

ありがちな戦国大名の国盗り合戦ではなく、地域に根ざした「国衆」という概念をきっちりと見せたのです。

草刈正雄さんが演じた、幸綱の息子である真田昌幸

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この昌幸は、主君である武田勝頼の前では「主人を守り抜く!」と告げる一方、我が子の前になると、「ありゃもう滅びるぞ」と宣言。

武田家滅亡後の進退に悩む姿が、視聴者へ鮮烈な印象を与えました。

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彼ら国衆は、自身の支配地域において、近隣の異なる国衆・領民と材木や水資源を奪い合い、民も共に殺伐としたサバイバルライフを送っておりました。

同じ武士といえども、ルーツを辿れば天皇まで遡れる名門大名と、国衆はまったくの別物。

そのことが、ドラマのストーリーに組み込まれていたのです。

さて、この国衆ですが。

そもそも彼らは何者なのか?という問題があります。

真田氏に限らず、諸国の地域武士たちは、ルーツをたどっても曖昧で出自がよくわかりません。ほとんど神話レベルの荒唐無稽な話もあるほどです。

それも無理はないでしょう。

実は【武士】自体が一体いつの誰を起源としているのか?ということもアヤフヤであり、ご興味のある方は以下の書籍に目を通されると日本史全体への理解が深まると思います。

武士の起源を解きあかす
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話を国衆に戻しまして。

ここで一応定義してきたいのは、「その土地を支配した、智勇に優れた武の一族」という認識です。

例えば黒田官兵衛こと黒田孝高にせよ。松前藩祖の武田信広にせよ。

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ご祖先様を辿れば「正体不明」となります。

他ならぬ真田一族もそれに近いものがありました。

 

真田一族、戦国の世で揉まれる

一般的に真田幸綱から認知されている真田氏。

そのご先祖さまとはドコの誰なのか?

信濃国にいた滋野(しげの)一族・海野(うんの)氏傍流――海野長氏の子が、真田氏の初代・真田幸春とされています。

幸春は鎌倉時代中期の生まれであり、その程度のことまでしかハッキリしておりません。

江戸時代に藩祖の系図を作る担当者はさぞかし困ったことでしょうが、我々はそこで悩む必要はないでしょう。

「真田一族のルーツ? 全くわからん!」と、『真田丸』で草刈正雄さんを真似して叫べば、それで問題ありません……というのは冗談にしても、同家の魅力は血ではなく、あくまで行動力と智勇です。

そんな真田一族が、戦国時代において実質的に確認できるのが、この真田幸綱からでした。

 

信玄よりも一回りほど年上

真田幸綱は、永正10年(1513年)誕生とされています。

幼名は二郎三郎。

後の主君・武田信玄の大永元年(1521年)生まれより、一回りほど年長となり、出生には諸説あります。

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【幸綱の出生諸説】

1. 海野棟綱(うんのむねつな)の長男

2. 同二男

3. 同孫

4. 同女(むすめ)が真田氏に嫁いだ、その子

いずれにせよ、海野棟綱の血縁者であることは間違いないでしょう。

当初は海野小太郎と称し、次第に支配地の真田を名乗るようになったとされています。

詳細は不明ながら、マトメるとこうなります。

・信濃小県郡を支配する国衆

・海野一族に仕え

・真田を支配した

そんな真田家ですが、当初は武田家と敵対関係にありました。

信玄の父・武田信虎がこの地の攻略に取り掛かったのです。

当初は、武田家の侵攻を食い止めた彼らでしたが、迎えた天文9年(1540年)の【海野平合戦】。

ここで海野氏と滋野一族は大敗北を喫するのでした。

真田幸綱もむろん海野氏サイドで戦っています。

【海野平合戦】

甲斐守護・武田信虎、村上義清、諏訪頼重、信濃国衆連合軍
vs
海野棟綱、根津元直等滋野三家(海野氏、禰津氏、望月氏)、真田幸綱等

結果、負けた海野氏と滋野一族は、上野憲政のもとへ逃げ込み、真田氏は上杉領の箕輪城主・長野業正を頼りました。

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本領を捨てねばならない屈辱。

それは真田一族の胸に深く刻まれたことでしょう。

幸綱はまだ30歳手前で、嫡男はわずか3歳ですから苦労がしのばれます。

なお、武田家に絡んだ諸勢力の戦乱について、地理的に混乱しそうな方は、

戦国甲斐武田の軌跡がバッチリわかる~平山優『信虎・信玄・勝頼 武田三代』

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上記『武田三代』(著:平山優氏)の付属マップがおすすめです。

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信玄の快進撃を支えた真田幸隆(幸綱)昌幸や幸村へ繋げた生涯62年

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民衆の要望でもあった晴信クーデター

武田信虎の軍勢により、信濃(長野県)を追い出された真田幸綱とその一族。

その翌年、思わぬ異変が起こります。

天文10年(1541年)に信虎が、嫡男・晴信(武田信玄)のクーデターにより、甲斐から駿河へと追放されたのです。

晴信こと後の武田信玄は家督を相続すると、急激に勢力を伸ばしていきました。

甲斐のクーデターは、支配層だけのものではありません。

民衆の要望も背後にあり、「晴信こそが、新たな武田領の秩序をもたらす!」という期待のもと、行われたものであったのです。

領民たちは蹂躙されるだけの弱々しい存在ではない、ということですね。

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ともかく家臣や領民たちの期待を背負い、武田家当主となった武田晴信

甲斐から信濃へと侵攻していきます。

こうなると上杉氏としても手を打たざるを得ません。武田氏に対抗するため、村上氏と同盟を結びます。

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信濃の国衆にしてみれば、たまったもんではない状況です。

というのも信濃は小さな国衆が各地に点在している状態で、武田や上杉のようにまとまってはいませんでした。

◆越後の上杉

【信濃の諸勢力】

◆甲斐の武田

これぞ戦国国衆のハードな世界。

自領を守るために真田としてはどうするか?

武田につくしかない――そう選択した真田幸綱は、武田家配下の国衆となることを決意します。

帰属した時期については諸説ありますが、天文10年(1541年)頃が妥当でしょう。

まさに晴信が信州へ進軍し始めた時期と一致しており、その勢いに乗じるタイミングとしては理想的でした。

ただ、ここで少し考慮しておきたいことがあります。

それは彼らの思考ルーチンが【他国を切り取る】ではなく【自領をいかに守り抜くか?】という点に重きが置かれていたことです。

大河ドラマ『真田丸』においても、幸綱の三男・真田昌幸はさんざん突っ込まれたものです。

真田昌幸/wikipediaより引用

忠誠心はどうしただの。

考えがコロコロと変わるだの。

国衆だからこそ、そうなるのです。

昌幸の場合、当時から「表裏比興の者」と呼ばれてはおりましたが、「自領を守るためならなんでもする」というのが国衆でしょう。

逆に大名にとっては、そんな国衆をキッチリと押さえ、支配下に置くことこそ大きな課題となります。

『信長の野望』では、武田領は全て同じ、一つの色で塗りつぶされています。

幸綱はじめ真田一族も、能力値が優れていればこそ欲しい。そんな人物のように思えます。

しかし、現実、史実はそうではありません。

武田領、特に信州は国衆がモザイクのようにいる状態でした。

真田一族を味方につける真の狙いは、個人が優秀という以上に、地域の支配者である「国衆」だからなのです。

そこへ切り込んできた『真田丸』は、やはり素晴らしいドラマでした。

細かな詳細を見てみたい――という方はドラマの時代考証を担当した平山優氏の著作をご確認ください。

 

国衆から武田の宿老へ

本稿では、このあと武田晴信を信玄で進めます。

武田信玄についた幸綱は、その知略で多いに活躍することとなりました。

【攻め弾正】
【鬼弾正】

幸綱については、そんな異名も伝わっておりますが、軍記的にはともかく強いということを強調したいのでしょう。

そこは横に置いといて、彼の手腕に注目しますと……。

幸綱が最も活躍したのは【調略】です。

各地の城や勢力を戦わずして味方の軍門に降らせる――それが抜群に得意でした。

◆天文20年(1551年)砥石城攻略

◆天文22年(1553年)葛尾城攻略

いずれも攻め落とすには難所&要所であり、国境で揉まれてきた苦い経験が、調略で発揮されたのです。

また幸綱には、築城の技術も有しており、当時の築城名人は、それだけでも垂涎もののスキルでした。

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そして幸綱の智謀は何より、主君・武田信玄にとっても好ましいものでした。

父・信虎の譜代ではなく、自分の勢いと一致する。

そんな真田幸綱の台頭が、どれほど心浮き立たせるものであったか。想像できるようではありませんか。

武田氏は、所属する国衆を「先方衆(さきがたしゅう)」と称していました。

しかし、真田氏は没落状態からの復活組であったこともあったのか、「御譜代同意(譜代衆と同等)」の待遇を受けるようになっていきます。

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信玄の快進撃を支えた真田幸隆(幸綱)昌幸や幸村へ繋げた生涯62年

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永禄4年は真田飛躍の年

こうした幸綱の活躍ラッシュの中、天文22年(1553年)。

真田氏はついに本領回復を果たします。

念願の土地に戻ると同時に、幸綱の三男・源五郎が人質として、武田氏の本拠地である甲府に送られます。

この源五郎は、奥近習衆(主君の身の回りの世話をする)となり、武田一門に連なる武藤氏の跡を継いで武藤喜兵衛尉と名乗ることとなります。

人質という慣習は、現代人からすると残酷なようにも思えます。

しかし、前述した国衆の性質を考えると合理性があります。

要は、離反の食い止めであり、忠誠心の篤いエリート家臣を育成する手段として機能しました。

幸綱は、川中島方面の攻略と防衛において、その存在感を発揮します。

・弘治2年(1556年)雨(尼)飾城攻略

・永禄3年(1560年)海津城築城

・永禄4年(1561年)岩櫃城、岳山城、箕輪城、白井城、築城

活躍の場は信濃だけではありません。

上野吾妻郡攻略においても、滋野一族・鎌原氏を支援し、嫡子・真田信綱とともに岩下城を攻略。岩櫃城に入り、吾妻郡を掌中におさめたのでした。

永禄4年は、まさに真田飛躍の年――。

一族の多大なる貢献を評価し、信玄は吾妻郡の支配を委ねます。猛者揃い武田氏の宿老として、北上野支配を担ったのです。

 

真田一族は、本来の領地である小県よりも大きな土地を手にしました。

この真田のよる北上野支配は、真田一族の動きを把握するうえで非常に重要なポイントとなります。

永禄10年(1567年)頃。

幸綱は隠居し、家督を嫡男・信綱にゆずりました。

その七年後の天正2年(1574年)、享年62で息を引き取ります。

天正元年(1573年)に信玄の死を看取った、その翌年でした。

さらにその翌年(1575年)。優秀な将として期待されていた真田幸綱の嫡男と次男も亡くなります。

真田と武田にとって悪夢のような3年間。

その締めくくりに起きたのが【長篠の戦い】でした。

 

三男・昌幸が真田を継ぐ

信玄が亡くなり、武田勝頼が家督を相続した武田家。

真田一族にとっても重大な岐路となったのが、天正3年(1575年)の戦いでした。

ご存知【長篠の戦い】です。

織田信長による鉄砲三段撃ちはあったのか?

→無い

織田信長
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なぜ勝頼は無謀な突撃を繰り返したのか?

→実際は無謀とも言い切れない

そのへんの詳細は以下の記事にお譲りしますとして、

長篠の戦い
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真田視点で注目せねばならないのが跡継ぎの真田信綱と、その次弟・真田昌輝が戦死してしまったことです。

当主とその候補が不在になった真田一族は、武藤氏を継いでいた三男・真田昌幸をその後釜に据えました。

真田信綱の男子が幼すぎたため、勝頼が昌幸を指名したのです。

真田喜平尉昌幸の【表裏比興の者】と呼ばれる波乱万丈の一生は、ここから始まります。

武田勝頼を支える昌幸の権限は、父と兄よりも重要なものでした。

領国一部の支配を司り、何代にもわたって仕えてきた宿老と同じ立場に並んだのです。

北上野を支配する、武田家の宿老として。

武田氏を支える知略に長けた家臣として。

武田氏滅亡後も、北上野を断固渡さぬ国衆として。

昌幸は生きていきます。

父の代から尽くし、幼い頃から間近で見てきた武田家。その滅亡が、いかほどショックであったか。

彼がどれほど、真田の土地と北上野、そして城を守りたいと願ってきたか。

「表裏比興の者」と罵られようが、調略に生きねばならなかったか。

それは父・真田幸綱の代から、受け継がれたものであり、真田にとって魂でもありました。誰に何を罵られようと、その覚悟に1ミリの迷いもなかったでしょう。

真田幸綱が取り戻し、真田昌幸がさらに発展させた真田一族。

リアルの戦場・最前線で培われたその知勇は、今後も多くの戦国ファンを胸アツにさせてくれるでしょう。


真田家

史実の真田幸村(信繁)はどんな人?生誕~大坂の陣までの生涯45年

真田幸村とは一体どんな武将だったのか?

本当は真田信繁と言うらしい。元々は武田勝頼の配下にいて、同家が滅ぼされると必死の思いで信州の領土を守っていた――。

と、大河ドラマ『真田丸』をきっかけに多くの方に知られることとなりましたが、同時に気になってくるのが

「史実ではどんな人物だったのだろう?」

という点ではないでしょうか。

上田合戦の幸村はどこまで活躍できたのか?

大坂の陣で家康の首にまで迫ったというのはさすがに誇張?

あるいは真田十勇士って実在したの?

なんて周辺情報も気になってくるかもしれません。

本稿では、史実における真田幸村(信繁)の人物像に迫ってみたいと思います。

 

生年不明の真田幸村(信繁)

前半生は不明なことだらけであり、生年からしてハッキリしていません。

伊達政宗と同じ永禄10年(1567年)説もあれば、本能寺の変が起きた天正10年(1582年)説もあり、複数の言い伝えがあるのです。

わかっていることは、亡くなった慶長20年(1615年)が、だいたい45歳前後であったこと。

父は、武田家に仕えていた信濃の国衆・真田昌幸で、母は兄・真田信之と同じ山之手殿(寒松院殿)でした。

幼名は弁丸です。

母については出自も曖昧です。

京都出身というのは確かなようで、貴族・菊亭晴季の娘という記録もありますが、真田家とは家格がつりあわず、同説は否定されています。

成年もはっきりしないくらいですので、幼少期どんな生活を送っていたかも不明です。

生誕の地は父が武田家に仕えていたことから、甲府の可能性が高いでしょう。

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武田氏滅亡

弁丸の人生に大きな転機が訪れるのは、天正10年(1582年)春のこと。

父・昌幸の主である武田家(武田勝頼)が滅亡したのです。

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このとき弁丸ら真田家の面々は、他の家臣の家族と同様、人質として武田氏の本拠地・新府城におりました。

武田勝頼は新府城から落ちる際、まだ建築途中の城に火を放ちます。

炎は三日三晩燃えさかり、多数の人質が焼死したと伝わります。そして新府城を去ると、4月3日に切腹し、その生涯を終えました。

昌幸正室・山之手殿、嫡男・信之、次男・弁丸ら真田家の人々は、飢えや掠奪に悩まされながら、やっとのことで真田の本拠地まで落ち延びます。

同時にそれは真田苦難の時代の始まりでもありました。

父・昌幸は主家の滅亡後、北条氏に接触をはかるも、結局は武田領内に侵攻してきた織田家に臣従。

真田家の本領は安堵され、昌幸は滝川一益の麾下に入りました。

まずは一安心……と言いたいところですが、今度は6月2日、織田信長織田信忠父子が「本能寺の変」で横死を遂げてしまうのです。

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真田弁丸の人質時代

主君の横死により、武田領内に取り残された織田方の武将は一気に窮地に立たされました。

滝川一益は、素早く沼田城を昌幸に返還。旧武田領を無事に通過するため、武田旧臣であり徳川家康に臣従した依田信蕃(よだのぶしげ)に助力を求めます。

この一益の依願に対し信蕃は、佐久・小県郡の諸士から人質を取ることを提案したのでした。

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人質リストの中には、真田昌幸の老母・河原氏と次男・弁丸がおりました。

実際、一益が木曾義昌の領内を通過しようとした際、人質の引き渡しを求められ、河原氏と弁丸を義昌へと引き渡しております。

ただ、義昌にとって人質は一人で十分だったらしく、弁丸だけは先に解放されたようです。

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無事に旧武田領を通過した一益でしたが、織田家の行く末を決める「清須会議」には乗り遅れ、信長の後継者レースから脱落してしまいました。

一方、弁丸の父・昌幸も正念場を迎えていました。

武田勝頼、織田信長と、立て続けに支配者のいなくなった旧武田領。

この広大な領地を奪うため、北条・上杉・徳川の三者が、三つ巴の争いを展開したのです。

俗に【天正壬午の乱】と呼ばれる戦いの始まりでした。

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関東甲信越の大大名たちがガチンコでぶつかりあう、戦国期でも規模の大きな戦い。

その中心に位置していた真田昌幸は、権謀術数をめぐらせ戦い抜きます。

昌幸は、上杉→北条→徳川と臣従する相手を巧みに変え、本領確保のために動き回るのですが、この激しい戦いは天正10年(1582年)10月、北条と徳川の和睦という形で終結を迎えます。

この和睦条件の一項目が、真田家の将来に大きな影響を与えました。

「北条氏に上野国の領有を認め、真田領の沼田・吾妻領を引き渡すこと」

必死になって守ってきた土地を明け渡さねばならなくなったのです。

沼田は、関東・信州・越後における交通の要衝であり、そう簡単に譲るわけにはいきません。

上から順に……

水色=上杉家の春日山城

赤色=上田城(左)・右側2つが沼田城と名胡桃城

黒色=武田勝頼の新府城

緑色=北条家の小田原城

一体何のために戦ってきたのか。

そもそも武田家臣時代からの領土をなぜ引き渡さねばならないのか。

理不尽な要求に対して、もしも真田昌幸が並の国衆ならば、涙を呑んで泣く泣く引き渡していたことでしょう。

徳川家康にしても「まさか逆らわないだろう」という驕りがあったのかもしれません。

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このとき家康は、昌幸の要請を受けて尼ヶ淵に城(上田城)を築いておりました。

家康としては「上田に城を作らせたからには沼田をよこせ」という理屈だったのかもしれません。

しかし昌幸はそうは考えません。

それはそれ、これはこれ。強気でいられたのには、もちろん理由があります。

このとき徳川家では、真田からの人質を確保できておりませんでした。

昌幸の母・河原氏は、体調不良等を理由に木曾から徳川への人質引き渡しが延長されているうちに、秀吉との間で【小牧・長久手の戦い】がスタート。

混乱の最中、河原氏は昌幸の元に戻っていたのです。

もはや徳川に臣従する理由はナシ!

昌幸は徳川から離反して、今度は上杉に従属。更には上杉を経由して、羽柴秀吉との交渉ルートを獲得します。

このとき従属の条件として人質に出されたのが真田弁丸でした。

上杉家に預けられた弁丸は、知行も与えられ、上杉家臣として出仕することになりました。

どういういきさつなのか。

詳細は不明ながら単なる人質ではなくなった弁丸では足りず、新たな人質として昌幸正室・山之手殿も上杉家に送られます。

そして天正13年(1585年)、昌幸は上田城に押し寄せた徳川勢を相手に戦うこととなります。

第一次上田合戦――開戦。

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多勢に無勢ながら真田が大勝利をおさめた戦いとして名高いこの合戦で、弁丸が果たした役割はあまりよくわかってはいません。

一説には、祢津古城の守りに配置されていたとされています。

絵・富永商太

 

大坂での真田信繁

第一次上田合戦にて、真田昌幸は徳川方を撃退。大勝利をおさめます。

そして昌幸は、徳川勢相手に形勢を有利にすべく、羽柴秀吉と手を結ぶことを目指します。

徳川にとって秀吉は「小牧・長久手の戦い」以来の敵。真田にとって羽柴は「敵の敵は味方」というわけです。

しかし、秀吉と徳川の間では和睦が成立しておりました。更に徳川は、真田と激しく対立していた北条とも同盟を結びました。

昌幸、再びの大ピンチ。

いくら上杉が味方についていようとも、北条と徳川から本気で攻められれば、そのダメージは計り知れません。

残された唯一の道は、秀吉への臣従――。

かくして天正14年(1586年)、上洛を果たした昌幸は豊臣政権下で大名として認められ、真田・沼田・吾妻領の安堵を得ました。

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引き換えに、弁丸改め真田信繁を大坂へ送ることとなりましたが、秀吉に気に入られた信繁は豊臣へ出仕することになり、人質として肩身の狭い思いはしていないでしょう。

大河ドラマ『真田丸』のように淀君に気に入られたかどうかは不明ですが……。

それから約4年後の天正18年(1590年)。

再び真田を舞台にして、天下が動きます。

従来からモメにモメていた北条との沼田問題をキッカケに【名胡桃城事件】が起き、これを契機に【小田原征伐】が始まるのです。

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難攻不落の小田原城に籠るのは北条氏政と氏直を中心とした北条家。

対する秀吉軍は20万以上とも称される大戦力で海も山も取り囲み、マトモな戦闘は赤鬼・井伊直政が突撃したぐらい(支城では多くの実戦あり)。

軍役奉公をつとめた信繁に活躍の舞台はなく、その後、東北で起きた「九戸政実の乱」討伐には、父と兄と一緒に出陣したようです。

文禄3年(1594年)、真田信幸・信繁兄弟は同時に任官および豊臣姓を下賜されました。

兄・信幸は従五位下伊豆守で、弟・信繁は従五位下左衛門佐に叙任。

信繁の結婚は、この頃と推察されます。

正室となったのは、大谷刑部吉継の娘・竹林院でした。

兄・信幸の正室は徳川家臣・本多忠勝の娘である小松殿です。

兄弟の運命は、この頃から別れ始めていたのかもしれません。

信繁は秀吉の篤い信任を受け、小身ながらも豊臣大名としての道を歩んでいました。

しかしその豊臣家の内部には、亀裂が入り始めていたのです。

文禄・慶長の役。

関白秀次切腹事件。

そして、秀吉の死。

遺児・豊臣秀頼はまだ幼く、混迷する日本の天下を支えることはできるはずもありません。

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すべての豊臣大名に選択がつきつけられる中、真田一族にも決断の時が……。

彼らに残された猶予は長くはありませんでした。

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史実の真田幸村(信繁)はどんな人?生誕~大坂の陣までの生涯45年

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天下分け目と「犬伏」の別れ

秀吉の死から僅か2年を経た、慶長5年(1600年)。

徳川家康が動きました。上杉景勝に謀叛の疑いありとして、征伐を決断したのです。

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真田昌幸・信幸・信繁は、家康の元に馳せ参じるべく、宇都宮を出立。途中下野・犬伏に宿泊します。

そこへ石田三成の使者がやってきて、「内府ちがひの条々(家康のルール違反まとめ状)」と、三奉行(長束正家・増田長盛・前田玄以)の連書状を届けたとされます。

いわゆる「犬伏の別れ」ですが、後世の脚色もみられる挿話。

史実において如何なる経過を辿ったのか不明ながら、結果はわかっています。

【石田方】
父・真田昌幸
弟・信繁

【徳川方】
兄・真田信幸

信幸は「犬伏」以前に「女中改め」と称して、正室・小松姫を大坂から上田へ引き揚げさせておりました。

最初から徳川につく方針だった可能性があり、「犬伏」はいわば最終意思確認の場だったかもしれません。

昌幸・信繁父子は吾妻街道を進み、上田城に入ります。

一方で信幸は家康に忠誠を近い、わずか4歳の二男を家康のもとへ人質として差し出したとされています。

 

昌幸の野望、そして第二次上田合戦

真田昌幸は、石田三成とこまめに書状のやりとりをしました。

そこで手にした情報では、圧倒的な石田方=西軍有利であったはずです。味方にしておきたい者には、自軍有利という情報を三成が送るのは当たり前でしょう。

そうしたバイアスを差し引いても、どの勢力もこの動乱が長引くと信じて疑わなかったのがこの時の状況です。結果を知っていると、昌幸と信繁が極めて楽観的であったと思いたくなりますが、そうではありません。

上田に向かう徳川勢を率いていたのは、家康の嫡子・徳川秀忠でした。

この秀忠が「上田城で思わぬ足止めをくらってしまい、そのために関ヶ原本戦に間に合わなかった」というのがよく知られた説です。

しかし近年では「上田攻めはむしろ予定通りの行動であり、秀忠が関ヶ原本戦に遅参したのは家康が計画を変更し早めたため」と、されています。

さてこの秀忠率いる軍勢ですが、質量とともに徳川方の主力ともいえる戦力でした。

家康としてはこの戦いで秀忠の武勇を印象付けたいという思いもあったのでしょう。

熟練の参謀的存在・本多正信を付け、万事取り仕切るようにさせたのはその証拠かと思われます。

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そしてこの軍勢の中には、信幸もいました。彼は父と弟と対決することとなったのです。

以下、合戦の時系列での経過です。

軍記の記載もありますのでご留意ください。

茶:真田
紺:徳川

 

◆9月3日

徳川勢が上田城に到着。

この日、昌幸は徳川に味方した信幸経由で、剃髪後に和睦をしたいと秀忠に伝えました。

籠城側の兵力は3千です。その一方で、上田の領民には「敵の首一つにつき知行百石を与える」と呼びかけ、兵を集めておりました。

高まる真田勢の士気。

 

◆4日

昌幸は、態度を豹変させ和睦を反故にします。

「あいつは絶対にゆるさん!」

昌幸の言動があまりに無礼、挑発的であったのでしょう。秀忠は激怒しました。

 

◆5日

秀忠は信幸に砥石城攻略を命じます。

信幸が城に向かうと、城を守っていた信繁とその手勢は脱出していました。信幸は犠牲を出さずに砥石城を奪います。

この日の夜、信繁は敵に夜襲をかけようとしますが、相手の警戒が厳しく断念。

 

◆6日

秀忠は染屋原に本陣を置きます。そして城内から敵を誘い出すため、苅田を実施。しかし苅田中に徴発され、徳川勢は城へ接近してしまいます。

城に接近した敵に対し、真田方は鉄砲や矢を放ち、激しく攻撃。甚大な被害を与えたのでした。

真田父子はさらなる挑発を行い、神川を渡ります。追撃してきた敵に対して、昌幸は伏兵に命じて川のせき止めを切り落とさせ、水を流しました。流れに脚を取られたところを虚空蔵山麓にいた伏兵に襲わせ、さらに追い打ちをかけます。

徳川勢は討たれる者、溺死者を多く出し、敗退するのでした。

秀忠が攻めあぐねているうちに、予定を変更した家康から至急美濃に転進するよう命令が下され、徳川方は撤退します。

 

こうして第二次上田合戦は終わりました。

勝利といってもあくまで「徳川方の作戦変更による撤退」というカタチです。

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もしも家康が作戦を変更せず、秀忠がそのまま上田城攻めを続けていたら結果は異なっていたかも知れません。

そうはいえども、兵力差がありながらも徳川方が陥落させられなかったこと、緒戦で真田方が勝利をおさめたことは事実。

小さな城に手間取ったことは秀忠の若さ故の経験不足、そして本多正信の不手際であると当時から認識されていました。

第二次上田合戦は軍記にあるような痛快な大勝利でないにはせよ、歴史に影響をおよぼした合戦であったことは確かです。

 

九度山蟄居の日々

9月15日、真田昌幸・信繁父子が望みを託した石田三成ら西軍は、徳川家康の東軍に大敗を喫しました。

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実は真田方はその三日後も、上田城を監視する徳川方に夜襲をかけています。

しかし、もはや決着はついていました。

信幸らの説得を受け、昌幸・信繁父子は降伏します。

家康の命によって上田城は破却。長年にわたった徳川と真田の対立は、家康の完全勝利という決するのです。

上田領には、真田信之(信幸から改名)が入り、11万5千石の大名となりました。

家康は真田父子を死罪にしようと考えました。

が、信之は舅にあたる本多忠勝、本多正信らに父と弟の助命を嘆願します。

一説には、娘婿の信之を気に入っていた本多忠勝が「殿との一戦も辞さぬ!」という覚悟で迫り、さしもの家康もしぶしぶ折れたとされています。

「ああ、なんと悔しいことか! 家康めをこのような屈辱的な目にあわせてやろうと思っていたものを!」

昌幸は悔し涙を流しつつ、信之に別れを告げ、高野山へと向かいます。

慶長5年も末のことでした。

昌幸はこのとき54歳、信繁は30代前半でした。

当時の寿命を考えても、信繁は気力や体力をもてあます日々であったことでしょう。

なにせ生活費は信之からの仕送り頼みで困窮の極み。

生活費を稼ぐために、真田父子が「真田紐」を作り売り歩いたという逸話もありますが、伝承レベルであり史実かどうかは不明です。

信之も決して余裕があるとは言えない台所事情で、父と弟の生活を支え続けます。

生活費だけではなく、焼酎等の物資も送り続けたのでした。

蟄居生活は退屈ではあったものの、趣味のための時間を作ることはできたようです。

信繁は連歌に初挑戦し「なかなか上達しないがいつか公表したい」といった書状も残しています。

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更には九度山でも子が何人か生まれ、兄・信之よりも子だくさんの父となりました。

しかし、生まれきっての武士の彼らにその生活は厳しくそして辛いものでした。

はじめこそ楽観的で、赦免に望みをつないでいた父子ですが、歳月が流れ十年も経つと、悲観的にならざるを得ません。

真田昌幸は気鬱でふさぎこみがちになり、食事もろくに喉を通らなくなり、慶長16年(1611年)、無念の死を迎えます。享年65。

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信繁も髭に白髪が混じり、歯は抜け落ち、病気がちになっていました。

30代前半という人生の盛りから十年以上蟄居し続け、心身ともに衰えるしかない環境です。

もしこのあと何も起こらなければ、真田信繁という男は父と同じく失意の死を迎え、歴史に輝かしい名を残すこともなかったことでしょう。

真田の家名も今ほど大きなものではなかったに違いありません。

 

大坂からの招待

父を失い、家族らと蟄居を続ける信繁。

連歌や焼酎でストレスを発散する日々は、大坂からの招待によって突如として終わりを告げます。

天下は動いておりました。

徳川家康は江戸に幕府を開き、諸大名を従え、新体制を着実に構築。

しかしこの新体制の中に、大坂の豊臣秀頼を含めることは未だできていなかったのです。

家康は歳をとり、秀頼は青年へと成長してゆきます。

そんな折、慶長19年(1614年)に起きた【方広寺鐘銘事件】は、タイムリミット間際の家康にとって絶好の好機でした。

それまではむしろ秀頼に寛容であった家康が、態度を変えます。

方広寺鐘銘事件は、家康が仕掛けたというよりも、大坂方が最悪のタイミングで重大なミスを犯したのです。

それでもまだ大坂方には生存への道がありました。

家康としては秀頼の首は必要ではありません。彼らを江戸幕府の秩序に組み込めばよいのです。

両手両足を縛ってしまえば、いくら豊臣に恩顧を持つ他の大名たちとてそうは簡単に動けません。

かくして秀頼に対して突きつけた条件が以下のものでした。

1. 大坂城退去

2. 生母・淀殿を人質として江戸に送る

3. 駿府と江戸への参勤

大坂方は激怒し、この要求をはねつけました。

さらには徳川方との交渉を担当していた片桐且元を、謀叛を起こしたとして討ち取ろうとしたのです。且元は大坂城を退去するしかありません。

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要求をつっぱね、しかも交渉窓口担当者を追放――これはもう宣戦布告に等しい行動です。

なぜ、そんな無謀な真似をしたのか。

大坂方は過去の栄華・権力を忘れられず、現在の情勢をまるで読み取れなかったのでしょう。

もはや開戦は待ったなし!

大坂方は各地の牢人に、味方するよう誘いの書状を送付。関ヶ原以来、主家を失っていた牢人たちは風前の灯だった野心に火をつけられ、セカンドチャンスを求めて日本各地からやってきました。

そこで信繁のもとにも大坂からの呼びかけが届いたのです。

信繁は一計を案じ、村人たちを酒宴に招きます。大いに飲んで騒いで、客人たちは皆泥酔。

彼らが寝込んだところを見計らって脱出すると、信繁は抜き身の刀槍、火縄をつけた鉄砲を持ち、九度山を立ち去ったのでした。

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大坂冬の陣

大坂城に入った真田幸村。

※以降はドラマ『真田丸』に合わせて「幸村」と表記しますが、これまで通り史実を追って参ります

そこには錚々たるメンツが集っておりました。

黒田家を出奔していた「後藤又兵衛」。

尾張生まれで父と共に秀吉に仕えていた「毛利勝永」。

四国の頭領、長宗我部元親の息子「長宗我部盛親」。

宇喜多直家宇喜多秀家に仕えていた「明石全登」。

戦力総数は不明ではあるものの、およそ10万人は集まっていたもよう。

彼らの多くが関が原を機に失職していた牢人たちであります。

大坂方は敵の来襲に備え、惣構えや砦の建設に着手し、防備を固めます。

幸村は、城の惣構南東の玉造口に砦を築きました。

これこそがドラマのタイトルにも用いられた「真田丸」です。

いったいどんな防御施設だったのか?

これについては今なお謎が多いながら、奈良大学の千田嘉博教授によって提唱された説が有力視されております。

「真田丸」は、大坂城に付随した単なる砦ではなく、堀から少し離れて建築された「(小さな)城」と見るものです。

城に頼るのではなく、独立して堅強な防御力を誇った「真田丸」。

ついに幸村は城主になった――。

少しセンチメンタルかもしれませんが、そう称して問題ないでしょう。

一方、攻め手の徳川方も、武器弾薬兵糧を十全に用意し、満を持して大坂城を目指しました。

大坂城内で軍議が開かれると、幸村は籠城ではなく出撃策を唱えます。

敵の足並みが揃わないうちに積極的に打って攪乱しよう。そんなスケールの大きな策です。

しかし大野治長らの反論にあい、却下されてしまいます。

ただし、この出撃策が史実であるかどうかは断定できません。

たとえ幸村自身がそう考えていたとしても、防備に忙殺されていた大坂方にそんな余裕があったかどうか。

これまた判然としません。

籠城策を取った大坂方において、幸村は「真田丸」に立てこもり、迎え撃ちます。

対するは、井伊直政の子・直孝。

前田利家の子・前田利常。

利常はかなり濃い戦国キャラでありましたが、軍として見た場合、両者とも経験がありません。大坂の陣に参戦した若い武将たちの大半は、これが初陣でした。

攻め手は城攻めの経験不足の者たちばかりで「仕寄せ」(簡易バリケード)の作り方すらわかりません。若い侍たちがその作成に四苦八苦していると、大坂方が鉄砲を射かけ、どうにも仕事が進まない。

東軍は、量は最高でも、質はお粗末なものでした。

「仕寄せ」を作れないだけではなく、軍としての機能すら失われているような現象も見受けられました。

・味方崩れ

パニック状態になって戦線が崩壊、敗走してしまう現象。

旗指物による判別がうまくいっていない証拠です。

・味方討

敵と誤認して味方を攻撃してしまう。

伊達政宗軍は神保相茂軍を味方討で壊滅に追い込み、笑いものになりました。

指揮命令系統はたやすく崩れ、戦線はしばしば深刻な崩壊を起こします。

天下統一の過程で戦が減り、関ヶ原から15年もブランクがあるのですから、当然の帰結とも言えるでしょう。

12月4日、前田勢は真田勢が陣取り、鉄砲を射かけて来た篠山を占拠し、その先にあった「真田丸」へと接近します。飛んで火に入る夏の虫、格好の餌食でした。

「真田丸」の空堀に突入した前田勢は、激しい射撃によりたちまち命を落としてゆきます。

井伊勢も援護しようとしますが、これまた激しい射撃により為す術なく呆然とするのみ。ようやく援軍としてなだれこむと、混戦をかえって悪化させるだけになり、犠牲を増やすことになりました。

掘を登っても柵が作られ、身動きすらできないまま、次々に討ち取られてゆきます。

「真田丸」は、兵を飲み込む蟻地獄でした。

 

束の間の和睦、最期の挨拶

「真田丸」での大敗を聞いた家康は衝撃を受けました。

敗戦の報が諸国に広がるようなことがあれば、天下がゆらぎかねません。

そこで一計を案じ、ある男を幸村の陣へ送り込みます。

真田信尹(のぶただ)――昌幸の弟であり信繁の叔父でした。

信尹は十万石という破格の条件で寝返りを打診しますが、幸村は跳ね付けます。

そこで本多正純は条件をさらにつり上げ、信濃一国を提示。

この非現実的な条件は幸村を喜ばせるどころか怒らせ、彼は二度と信尹に会おうともしませんでした。

しかし、です。

幸村と信尹のこうしたやりとりが行われているころ、大坂方では和睦の機運が高まるのでした。

真田丸での奮戦により、東軍は攻めあぐねているものの、戦力差は大きく到底勝ち目はありません。

奮戦を知って西軍に味方する大名が現れるか?

そんな徳川の懸念、豊臣の願望が叶う気配もありません。

その上、間近に迫ってくる本格的な冬の気配。もはやこれ以上の戦闘続行は不可能でした。

和睦の条件として、大坂城の堀は埋め立てられ、真田丸も破却されます。

当然ながら、大坂城の防御力は大幅に低下。

これは家康の策略であり、無断で埋め立てたという説がかつて有力でしたが、現在では「大坂方も同意の上で埋めた」とされるています。

「城の防御力が低下して困る」という考えは、再戦することがわかっている後世の人間のものです。

この時点で大坂方が和睦を履行するつもりならば、掘の埋め立ては妥当な要求とみなしたでしょう。

あるいは掘の埋め立ては、徳川方が面子を保つための条件であったとも周囲には伝わっていました。

あれだけの軍勢で包囲しながら、淀殿と秀頼母子を城の外までひきずり出すことはできなかったのです。

せめて掘だけでも埋め立てねば、格好が付かない、というわけですね。

和睦成立後、幸村は、甥にあたる真田信吉・信政兄弟(真田信之の子)の陣を訪れました。

幼いころ別れたきりであった甥は、たくましい若武者に成長していたことでしょう。

幸村は甥たちに語りました。

「関ヶ原で敗れた際に、兄上のおかげで助命されたというのに、このようなことになってしまいました。兄上はさぞや腹を立てておいででしょう。どうか二人から兄上にとりなしていただければと思います」

真田兄弟はこのあと、内通の疑いを避けるため、叔父との再会を幕府に報告。幸村は旧知の人々に出会い、覚悟を語り残しています。

また、姉の夫・小山田茂誠に書状を送りました。

その心情は複雑で、様々な気持ちが入り混じったものでした。

「この和睦も一時のもの、私たち父子は、一両年のうちには討ち死にすることになるでしょう。私にとっては一軍の大将となり、討ち死にすることは本望。されど倅の大助はまことに不憫です。15年という人生を牢人として過ごし、やっと世に出たと思ったら討ち死にするさだめとは……」

このまま虚しく朽ちるかと思われた人生で、華々しく戦う舞台を得た喜び、高揚感。

兄のおかげで助命されながら、それに背いて親族に迷惑をかけてしまう申し訳なさ。

まだ幼い我が子・大助の命を奪うことになってしまった苦しみ。

残してゆく妻子の身を案じ、その幸せを祈る気持ち。

これまでの人生を振り返りつつ、残り少ない日々をどう生き、どう散るか。

死を前にした幸村は、苛烈な戦いぶりとは異なる、繊細で人間味あふれる心情を残していたのでした。

そして哀しき大坂夏の陣へ……。

 

大坂夏の陣

掘を埋められた大坂城は、無力な巨大建築物と化したわけではありません。

信繁はまもなく再戦するだろうと予感していましたが、それは当たります。

城に立てこもる牢人たちがいる限り、再戦は避けられません。

大坂方が集めた牢人たちは、ただ腕っ節が強い者たちではありません。

徳川という新秩序の中、居場所を失いドロップアウトした者たちです。和睦が成立したからといって、彼らには行く場所はありません。

いったん大坂方に味方した彼らが武器を置いたところで、どうしようもないのです。大坂城を離れたところで、彼らを仕官させる大名家はありませんでした。

秀頼は、とりあえず大坂城に蓄えられた莫大な金銀を配り、牢人をなだめることしかできませんでした。

しかし、こんなものは焼け石に水に過ぎず、大坂城内は、意見が割れていました。

徳川との和睦を遵守したい豊臣秀頼・大野治長らに対して、治長の弟・治房は真っ向対立します。

治房は牢人たちの動きを支持しました。

牢人たちは掘を掘り返し、武器弾薬兵糧を買い付け、不穏な動きを見せます。

何万人もの牢人が、武装して城にいるわけです。不穏な動きは、当然江戸に伝わりました。

秀頼らは、和睦条件の完全履行をあきらめたわけではありませんでした。

城を出て新たな国に移れば命は助かるのです。

しかし、牢人にとってそれは破滅を意味するもの。彼らを養えるだけの国を、徳川が気前よく秀頼にくれてやるはずがないのです。

「召し放たれて野垂れ死ぬくらいならば、大坂城を枕に討ち死にしてやる!」

牢人たちにひきずられるようにして、秀頼らもまた次なる開戦へと突き進んでいきます。

家康にとっても「反幕府武装勢力」の牙城と化した大坂城を、放置するわけにはいきません。

和睦と統率がとれない大坂方は家康に見限られ、4月、ついにタイムリミットを迎えたのでした。

4月13日、大坂方は作戦会議を開きます。

信繁は防御力を失った城から出撃し、近江国瀬田で敵を止める作戦を提案します。

しかしこれはかなりリスクが大きい作戦でもあり、反対意見に呑み込まれてしまいます。

後藤又兵衛は、妥協案として天王寺近辺での迎撃策を出します。

大坂方は迎撃と同時に、周辺国で一揆を煽動して攪乱、地侍たちに対して味方につくよう誘いをかけました。

しかしこの策は不発に終わります。

4月29日の樫井の戦いでは塙団右衛門ら有力武将、多くの兵を失いました。

5月5日、道明寺の戦いでは、後藤基次が奮戦するものの、敵との戦力差を埋めることができず、伊達政宗軍によって討ち死にを遂げます。

後詰めに駆けつけた明石全登も大軍を支えきれずに撤退。傷を負いました。

幸村も後詰めとしてこの戦いに参戦し、伊達政宗軍と激戦を繰り広げます。

真田の軍勢は片倉重綱(小十郎景綱の子)に率いられた敵に猛攻を仕掛け、数での劣勢をものともせず押し返します。

伊達勢は武器弾薬が底をつき、敵の撃退を諦めるしかありません。

しかし両軍とも損害は大きく、真田勢もまた疲弊していました。

真田大助も脚を負傷していました。

5月6日の八尾・若江の戦いでは、木村重成らが戦死。

大坂方の戦力は削がれ、限界が近づいていました。

 

茶臼山に咲いた満開の赤備え

5月7日。
茶臼山に布陣した真田隊は、その赤備えがまるで満開の躑躅の花のようでした。

鹿角の兜をかぶり、河原毛の愛馬にまたがった大将の幸村は、その中でもひときわ目立った存在。

今日こそが決戦の日になると考えていたのでしょうか。

あるいは目前に広がる敵勢を見て、もはやこれまでと覚悟を決めたのでしょうか。

幸村は大助を呼び出し、告げました。

「お前は脚を負傷している。活躍は見込めまい。秀頼公のお側に参り、最期まで付きそうのだ」

大助は父の命に抗い、父子ともに死ぬまで戦いたいと願いました。

父子の言い争いはしばらく続き、幸村が大助の耳元で何事かささやくと、やっと馬に乗ります。

しかしそれでもなかなか側を離れようとはしません。

ここで別れたら、二度と会うことはないと互いにわかっていたのでしょうか。

大助は父の方を振り向きながら、名残惜しそうに立ち去ります。

幸村は大野治長に、秀頼自らの出馬を請いました。

豊臣の威光を示す千成瓢箪が戦場で輝けば、どれほど士気が高まることでしょう。

城からは、使者を通して、秀頼の出陣を合図に合戦を始めるとの返事だけがありました。

茶臼山にいる敵の様子をうかがう幸村。

午後になると、松平忠直の軍勢が前を通りかかりました。

統国寺の庭の裏から見える茶臼山(photo by 北村美桂@歴史おじ散歩)

松平勢は真田勢を狙って来たわけではなく、見通しの悪い道を通っているうちに偶発的に出くわしたのです。

両者、鉄砲による小競り合いから、本格的な戦いに発展します。

そして混乱する戦場で、浅野長晟が離反したという虚報が流れ、東軍は混乱に陥り、もろくも崩壊するのでした。

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不幸な、あまりに不幸な誤認

ついに来た、好機――。

家康は「味方崩」を察知し、立て直そうとします。

しかし、旗本衆までが戦線崩壊してしまい、ますます混迷を極めます。

最後の盾となるはずの旗本衆が散り散りになり、我先にと逃げ出したのです。

それでも踏みとどまった僅かな旗本衆は、文字通り家康を死守すべく奮戦。

このとき、大坂方がひるむことなければ、家康は腹を切っていただろう——と、戦場の様子を聞いたイエズス会士は書き残しています。

では、そのとき何が起こったのか?

それは、不幸な偶然としか思えない出来事でした。

十騎ほど供を連れて出馬していた大野治長が、出陣のタイミングがわからない秀頼の呼び出しを受け、退却したのです。

大坂方にとって不運だったのは、よりにもよって治長が秀頼の馬印を掲げていたことでしょう。

東軍を相手に奮戦していた牢人たちも、治長の撤退、さらには城内に虚しく戻る秀頼の馬印を見て、自分たちの敗北を悟りました。

不幸な、あまりに不幸な誤認。

東軍を襲っていた「味方崩」の大波は、今度は西軍に襲いかかったのです。

天王寺口では真田幸村・毛利勝永が猛攻撃を仕掛け、岡山口では大野治房が秀忠相手に大健闘をしているタイミングでした。

治長が城に入ると、城で待機していた兵士たちが敗北かと動揺し始めます。

さらに真田大助が入城すると、敗れた幸村が「我が子だけでも逃がしたのではないか」と更に大きな動揺を呼び起こすのです。

治長は秀頼に出馬を請い、秀頼も準備を始めました。

明石全登に出撃を命じ、いざ出陣!というそのとき、城内に「先手が崩れている」との知らせが届きました。

かくなる上は戦い、討ち死にすべき!

秀頼は決意を固めますが、家臣からは籠城し、自害すべきだと進言されます。

秀頼が逡巡していると、突如、大坂城内から火の手があがります。

火をはなったのは、大角与左衛門という、秀吉の頃から使えていた料理人。

この火の手を見て西軍の将兵は絶望するしかなく、一方の東軍将兵たちは歓喜に沸きます。

真田幸村の援軍に駆けつけるはずであった明石全登も、もはや機を逸しました。

時既に遅し。

数で勝る敵軍相手に敗退し、そのあと行方不明になっています。

誤解はさらなる誤解を生み、裏切り者に火まで放たれ、もはや西軍の勝ち目は完全にゼロ。

太閤秀吉の遺児として生まれた豊臣秀頼は、一度も戦場に立つことなく短い生涯を終えることになるのでした。

 

日本一の兵

城内の混乱、秀頼の逡巡を知ることもなく、真田幸村は松平勢と一時間ほど戦い続けていました。

懸命に戦い続ける真田勢に、井伊直孝軍、藤堂高虎軍が横槍。

満身創痍の真田勢は、七手組(豊臣家に使える馬廻・旗本衆)に加勢を願いますが、彼らは動こうとはしません。

既に東軍へ内通していたのです。

奮戦むなしく、真田勢は手足をもぎとられるように分断され、戦闘力を失ってゆきます。

家康まであと一歩!

今まさに悲願の叶うその直前、ついに真田勢も撤退を余儀なくされました。

同時に毛利勝永軍も城内へ撤退。

真田幸村自身も重傷を負い、昼から続いた戦いで心身ともに疲れきっています。

幸村は、馬で撤退する最中に松平家臣・西尾仁左衛門宗次と遭遇。

抵抗するだけの余力はなく、首を取られました。

安井天神付近でのことであった、と伝わります。

享年も、最期の場所もハッキリとは伝わらなかった真田幸村。

しかし、その勇猛果敢ぶりは「真田日本一之兵」と島津忠恒によって讃えられました。

家康も敬意をもって幸村の首実検を行います。

もはや首だけとなったその姿を見るために、多くの武将たちが首実検の見物に訪れました。

同日(5月8日)、大坂城内――。

父を心配していた真田大助は、落ち延びた兵からその最期の様子を聞き、涙を堪えていました。

大助は母から与えられた数珠を手に、念仏を唱え、秀頼に殉じる時を待ちます。

まだ幼い大助を見て周囲の人々は憐れみました。

「豊臣譜代でもないのだから、秀頼様の最期を見届けることはありませんよ。早く落ち延びなさい」

彼らはそう諭し彼を逃そうとしますが、大助は父から秀頼様にお供せよと言われたと拒み、殉死を遂げます。

大坂城は落ち、豊臣秀頼・淀殿母子も自害を遂げました。

大助を除く幸村の妻子は大坂の陣を生き延び、その後も人生を送ることとなります。

兄の信之は、大名・真田家当主として、93という驚異的な長寿を全う。

病に悩まされ、多くの人々を送りながら、弟とは別の厳しい戦いに挑み続けるのでした。

 

後世に英雄視された姿とは違う、人としての迷い

真田幸村という人物の生涯を辿り、筆を進めていても、なかなか浮かんでこない考え方や性格。

大名であれば幼少期から逸話が残り、彼自身の生きてきた証を見ることができるのですが、幸村の場合は違います。

関ヶ原までは父の影に隠れている人生です。

上杉や豊臣から信頼を得て、大谷吉継の娘を娶り、評価されているからには、人間的にも魅力があり、才知に溢れていたであろうことは、なんとなく想像がつきます。

ただし、具体的にどこがそうであったのかはつかめないのです。

彼の性格や人間性がつかめたのは、蟄居後以降です。

連歌がなかなか上達しない、焼酎をもっと送って欲しいという書状からは、あたたかみが伝わって来ました。

大坂の陣和睦の際に家族に吐露した思いからは、彼の人柄が伝わって来ます。

チャンスをつかんでここまで来たものの、そのことで助命嘆願した兄を裏切り、我が子の一生を短いものとしてしまった……弟として、父として、迷う姿からは生々しい人間性が伝わってきます。

後世に英雄視された姿とは違う、人としての迷いがそこにはあります。

最後に蛇足です。

本稿をお読みくださっている方にとっては当たり前かもしれませんが、2016年の大河ドラマ『真田丸』は、幸村の人生を描いたドラマとして最高の作品でした。

史実を丹念に追いつつ、その隙間を三谷幸喜氏の発想と優れた筆力で補う、まさに傑作。

執筆中もずっと『真田丸』のことを思い出しておりました。

もしも未見の方がいらっしゃいましたら、是非一度ご覧いただければと思います。



三成に「表裏比興」と呼ばれた真田昌幸やっぱり最高だ!65年の生涯

2016年の大河ドラマ『真田丸』。

主役の幸村を喰ってしまったのが、慶長16年(1611年)6月4日に亡くなられた真田昌幸でしょう。

主人公の父でありながら、あまりに濃厚なキャラクターは、草刈正雄さんの熱演もあって、絶大な人気を博しました。

 

もちろんこの像はフィクションですが、時代考証担当者が丹念に集めた史料をもとに、築き上げられたキャラクターでもあります。

三谷幸喜氏の筆力、スタッフの力量、草刈正雄さんの熱演あって誕生しました。

謀略と共に立場をコロコロ変え、ときに「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」とも称されるこの昌幸。

史実ベースで見ても、上司にはしたくないというか、あまりお近づきにはなりたくないというか……正直どうなのよ?と思うような部分もあります。

では、一体過去に、どんな所業があったのか?

本稿では、史実の真田昌幸像にメスをいれるべく、彼の一生を追ってみたいと思います。

 

三男として生まれた真田昌幸

天文16年(1547年)、真田幸綱真田幸隆)の三男として源五郎が生まれました。

母は正室の恭雲院で、河原氏のむすめ

河原氏は真田氏または同族の海野氏家臣とされています。

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のちに宿敵となる徳川家康は、天文11年(1543年)生まれで4歳上です。

関ヶ原の戦いにおいて、戦えるほどの若さも残しながら、老獪さも備えている。そういう年齢層だと頭の片隅に置いてくだされればと思います。

そんな源五郎が誕生した時は、父の幸綱が武田氏について、実力を発揮していた時代にあたります。

幸綱の長兄・真田信綱には、武田氏傘下に入る前の苦い記憶があったかもしれません。

しかし、10歳年下の弟・源五郎ともなるとそんなものはありません。

代わりにじっくりと目にしたのは、威風堂々とした主君・武田信玄の姿でした。

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天文22年(1553年)。

真田氏がついに念願の本領回復を果たしたその年。

源五郎は人質として、武田氏の本拠地である甲府に送られました。

奥近習衆(主君の身の回りの世話をする)となり、信玄の姿を間近で見る機会を得たのです。

そしてその後は、武田一門に連なる武藤氏の跡を継ぎ、武藤喜兵衛尉と名乗るのでした。

16歳で初陣を飾る真田昌幸(武藤喜兵衛尉・歌川国芳作)/wikipediaより引用

こうした幼い頃の経験は、彼自身に大きな影響を与えたことでしょう。

国衆の三男でありながら、武田氏の若きエリートとして成長する。そんなアイデンティティが形成されたと思われます。

幼い頃から育まれた武田信玄への敬愛を、彼は忘れることができませんでした。

 

武藤喜兵衛尉から真田安房守へ

彼の父や兄は、武田家臣として目覚ましい活躍を遂げておりました。

特に、上野吾妻郡攻略における、真田氏の活躍は際立ったもの。岩下城を攻略して岩櫃城に入り、吾妻郡を掌中におさめたのです。

真田一族の多大な貢献を評価し、信玄は吾妻郡の支配を委ねました。

猛者揃い武田氏の宿老として小県を支配していた国衆の真田一族が、北上野という複雑な地域の支配を担うようになったのです。

北は越後の上杉謙信

南は相模武蔵の北条氏康

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強敵に挟まれた――この位置取りが後々大問題となっていくことを頭の片隅にでも置いていただけると助かります。

永禄10年(1567年)頃、父の真田幸綱が隠居し、家督を嫡男の真田信綱に譲りました。

そして天正元年(1573年)、武田信玄が没すると、翌天正2年(1574年)には幸綱も没します。

武田勝頼と真田信綱の時代はかくして始まるのですが……これが波乱の幕開けでした。

天正3年(1575年)、三河・長篠の戦い――。

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織田徳川連合軍を相手にしたこの激戦で、兄の真田信綱とその次弟・真田昌輝が戦死してしまったのです。

ダメージを負ったのは真田一族だけではありません。武田家臣の多くが失われる、大変動となる戦いでした。

源五郎改め三男・真田昌幸の運命も激変します。

兄・信綱には男子がいたものの、まだ幼すぎました。一族を束ね、武田を支えるにしては、あまりに頼りない。

かくして真田一族の当主は、武藤氏を継いでいた三男・昌幸が継ぐこととなったのです。

信綱の男子は幼すぎるため、勝頼が直々に昌幸を指名したのでした。

 

「沼田領問題」が始まった

武藤から真田へ――運命が激変した後、ターニングポイントは天正7年(1579年)に訪れます。

この年、上杉謙信が没すると、後継者の座を巡って上杉景勝と上杉景虎が対立しました。

御館の乱】です。

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勝頼は逡巡します。

はじめのうちこそ景虎支援でした。景虎は、関東・北条氏康の息子であり、謙信の養子となっていたのです。

北条側との対立を避けるためにも、景虎支援の立場でおりました。

しかし、後に景勝側からのアプローチを受けると、態度を中立へと変更したのです。

結果、4月に景虎が自刃して、景勝の勝利が確定。

勝頼は、北条と敵対するかどうかは、迷っていたことでしょう。積極支援ではなく、消極和解で、あくまで中立の態度だったわけです。

しかし、弟・景虎を失った北条氏政からすれば、そんなものは苦しい言い訳に過ぎません。

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北条氏から上杉家に入った景虎ではなく、その敵対者である景勝に味方するとはいかなる所存か! そう受け止められ、結果、武田と北条の間にあった「甲相同盟」の破棄へと事態は進んでいきます。

両国の同盟は、信玄時代から振り返ってみても付いたり離れたり不安定で、この一件を機に、完全に破棄されたと言えます。

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こうなると、外交方針を切り替えねばなりません。

佐竹義重との間に【甲佐同盟】を締結。

上杉家の新当主である景勝のもとへ菊姫(武田信玄五女)を嫁がせました。

今度は、長年の宿敵だった武田と上杉が関係を結び【甲越同盟】となったのです。武田と北条の決裂は決定的でした。

となると、一番の影響を受ける者は誰か。

先程の地図を思い出していただければおわかりでしょう。

自領(上野吾妻郡)が北条に隣接している昌幸です。

もちろん怯む昌幸ではありません。それどころか【北条ロックオン!】の姿勢が見え始めます。

第一は、天正7年(1579年)末頃に変えた通称でしょう。

「喜兵衛尉」から「安房守」へ。

ただの改名なんかではなく、彼および主君の動向と重なりました。上野沼田領を虎視眈々と狙っていた昌幸にとって「安房守」は宿敵の通称でもあったのです

宿敵とは、北条氏邦。

北条氏康の四男で、当主・氏政の弟でもある氏邦は、北条一門の御曹司でした。

その相手に敵意を示す通称を選んだのです。

年が明けて天正8年ともなると、昌幸は沼田城の本格攻略に着手しました。

このころ昌幸の宿敵との因縁も生まれております。

天正7年、徳川家康の嫡男・松平信康が自刃。その母・築山殿瀬名姫)が殺害されました。

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原因は諸説あるものの、その背景には武田の影もあったのではないか――とされています。

真偽はともかく、武田と徳川の間にも対立の芽は生じていました。北条は武田との対抗上、徳川との連携を探っていたのです。

周囲の状況を一度整理しておきましょう。

武田を取り囲んでいる勢力は、

北条
上杉
徳川

のビッグネーム3家。

真田氏の領土は、何度地図で見ても、頭痛がしてきそうな位置ですよね。

まさに混沌とした交通の要衝。昌幸の父・幸綱の代から苦労を重ねて来たものでした。

昌幸の性格は、「表裏比興」はじめ、当時から信頼ができない奴と評価されて来ました。

「こんなところに自領があれば、仕方ないんじゃあ!」と、彼にかわって主張したいところです。

平山優氏『武田三代』付録地図が非常にわかりやすいのでで、ぜひともご覧ください。

戦国甲斐武田の軌跡がバッチリわかる~平山優『信虎・信玄・勝頼 武田三代』

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想像するだけで胃に穴があきそうな――そんな昌幸の状況をご理解いただければと思います。

彼の波乱万丈な生涯にとって、虎視眈々と狙う「沼田領」は、非常に重要なポイントでした。

 

武田家滅亡

昌幸の主君である勝頼は、このころ深刻な状況にありました。

天正8年(1580年)の時点で、運命のカウントダウンは始まっていたのです。

織田信長とその同盟者である徳川家康の力は増し、圧迫感を強める一方。

武田勝頼は、追い詰められていくのです。

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2016年大河ドラマ『真田丸』は、この滅亡前夜から始まります。

あのとき昌幸は、勝頼の前で調子の良いことを言いながら、家族の前であっさりと「武田は滅びるぞ」と宣言しており、その表裏比興の者っぷりに視聴者は度肝を抜かれたものです。

武田の宿老として、昌幸は察知できていたのでしょう。

天正9年(1581年)末、勝頼は躑躅ヶ崎館から新府城への本拠移転を決意します。

しかし、改革は遅きに失しておりました。

運命の天正10年(1582年)が開けると、妹婿にあたる木曽義昌が反旗を翻します。

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それだけならまだしも重臣である穴山信君(梅雪)も続きました。

このころ浅間山も噴火して、まさに踏んだり蹴ったり。当時の天変地異は、運命であるとして重く受け止められたものです。

『真田丸』初回においてこの噴火が取り上げられたのも、まさに運命的な演出でした。

外からは織田信忠の侵攻。

内側からは相次ぐ謀反。

もはや武田家は滅びゆく運命であったのです。

『真田丸』第一回のタイトルは「船出」。

主君の滅亡とは、大損害であり打撃でしたが、国衆である真田一族にとっては、新たな旅立ちとも言えたのです。

武田家宿老から、徳川、上杉、北条の狭間で揺れる木の葉のように、されど表裏比興でどんな苦境も生き抜いて見せる――。

戦国国衆のサバイバルが幕を開けるのでした。

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「天正壬午の乱」始まる

天正10年(1582年)3月。

武田勝頼とその妻子の自刃によって、武田家は滅亡しました。

それに先んじて、昌幸は手を打っていました。

勝頼の許可を得ながら、時には国衆を調略成敗しながら、手にしてきた沼田領。そこを抑えながら、北条氏邦と交わした書状のやりとりが見られます。

武田のあとは北条につく――そんな保険をかけていたのですね。

その一方で、武田氏直臣に所領を分け与え、彼らも忠義を誓うような動きが見られ始めます。

主君の許可なしに所領を与えることは、もはや独立勢力になっていたということ。

『信長の野望』で例えますと、もう昌幸の所領は武田領と別の色に染まりつつある、というところでしょう。

そんな中で、織田勢も武田領に攻め入り、国衆や家臣の調略を進めていました。

滝川一益が箕輪城に入り、睨みを利かせ始めるわけです。

昌幸は、一益に人質を差し出すこととしました。

・河原氏(母)
・弁丸(二男・のちの真田信繁

という2名です。

昌幸は武田の後は北条、そして織田への従属を選び、自領の確保と生き残りをはかったのです。

いくら昌幸だって、まさかその少し後に、本能寺の変が起き、織田信長が討ち果たされることなんて予想できるはずがなかったでしょう。

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しかも西では羽柴秀吉豊臣秀吉)が怒涛の中国大返しを見せ、天下人を目指すわけです。

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東国、しかも混沌のど真ん中ともいえる旧武田領で、北条と向き合っていた一益に、そんな芸当ができるはずもありません。

箕輪城を出た一益は、北条勢と神流川の戦い(神流川合戦)でぶつかり、兵力差もあって敗北。

こうなると、昌幸が一益の指示を仰いでいるわけにもいかなくなります。一益からは人質の母・河原氏と二男・弁丸も返還されました。

ただ、ここで、この二人がすんなりと昌幸の元に戻ったわけではありません。

国衆の木曾義昌が確保していたのです。

混沌を経て、一益は、茨の道である旧武田領を西進しました。昌幸としては、本能寺後における東国地方の混沌を、泳いで行くほかありません。

沼田領・吾妻領の国衆たちに朱印状を発給して足場を固めつつ、今度は上杉に付くことを決めまます。

そして6月末までには、上杉氏に従属を果たしています。

しかし、7月9日までには北条への従属も確認できます。

一体何がどうなっているのか?

これも、国衆であるということが大きいものです。

近隣の室賀氏・屋代氏は、北条氏への従属を選んでいました。

真田丸』で「黙れ小童ぁ!」という決め台詞を発していた室賀正武を思い出していただければと思います。

 

上杉に従属したにせよ、こうした近隣の国衆から離反されたら自身の身は危うくなります。

話が混乱してきましたでしょうか?

そうなりますよね。

さらにややこしいことに、昌幸の実弟・加津野昌春は上杉方についています。

彼は『真田丸』では、真田信尹(のぶただ)で統一されておりました。

信尹はいったん兄と共に上杉にはついたものの、兄と同じく北条にはつかず、そのまま上杉にとどまっていたのです。

北条か。上杉か。これだけでも十分ややこしいのに、ここで第三の男が登場します。

徳川家康です。

徳川としても、明智光秀の討伐が叶えば、天下取りにグンと近づくことができる。

しかし、大軍を率いて、光秀と対峙するまでの道程を通過するのは至難の技。

家康は、むしろ旧武田領と家臣の取り込みを積極的に進めることにより、先々を有利に進めようと考えました。

となれば甲斐で武田領を吸収しようとする徳川と北条の激突は、不可避であります。

この武田領をめぐるサバイバルは、のちの天下形成においても重要な役割を果たすのでした。

頭が混乱しますが、醍醐味でもあるところですので、地道に話を進めたいと思います。

 

家康との因縁が始まる

織田の同盟相手であった徳川。

しかし、その織田政権後継者を決める「清洲会議」では、存在を無視されているような印象があります。

 

映画『清洲会議』でも徳川の出番はありませんでした。

だからといって、家康を無視したとも思えません。

・徳川は織田との同盟者

・武田攻めには徳川が参加している

・上杉と北条牽制のためにも、武田領は徳川がいただく

そういう同意があったとしてもおかしくはありません。武田滅亡以来、徳川は土地のみならず人の取り込みも、熱心に行なっているのです。

とはいえ、織田勢の傘下から抜けきっていないからには、彼自身が積極的に攻めるわけにもいきません。

「織田勢力のために武田を得るのだ!」という大義名分が欲しい。

織田政権後継者である羽柴秀吉(豊臣秀吉)にとって、家康の存在は悩ましいものでした。

正面切って敵対するのは困ります。

家康が上杉と北条を抑えていれば、秀吉が西へと進むこともできる。

そこで清洲会議があった6月の翌7月に秀吉は、家康の甲斐・信濃・上野3カ国の領有を認めたのです。

注意したいのは、こういう場合は許可が先で、実効攻略は後であるということ。

「この国を支配してもよいですよ。ただし、あなたが手にしたらね」という条件なのです。

結果、家康は北条と火花を散らし、旧武田領を自力で得なければならなくなりました。

今後どこまで躍進できるか――それは、武田領の取り込みにかかっている。家康の踏ん張りどころは、まさにここなのです。

そしてそんな中、昌幸の母である河原氏と二男・弁丸は、家康についた木曾義昌を経て、家康の元へと送られておりました。

弁丸、のちの真田信繁(真田幸村)が史料で確認できるのは、人質としてです。

『真田丸』では、このときの信繁=16歳説を採用しておりましたが、作劇上の都合で、史実では幼名ということから13歳説が有力ではないかとされています。

さて、昌幸はどうするのか。

吾妻・沼田の支配を固めつつ、決断の時が迫っておりました。

そしてこの9月には、徳川従属を決めるのです。上杉から追放されていた実弟・信尹、国衆の芦田依田信蕃らが、説得にあたったとされています。

これを受けて家康は、上杉方にも昌幸保護を依頼しました。

時代の流れからしてそんなものか……。

人質もいるし、実弟の説得もあったことだし――と考えたくもなりますが、よくわからない点もあります。

昌幸は、9月に徳川従属を決めながら、10月まで非公開でした。北条がいるからには、そう簡単に所属変更を明らかにはできないのです。

北条としては、まず徳川第一であり、真田は後回しという認識ではあります。

しかし、それがいつ覆り、自領が攻撃されるともわかりません。

それでも北条と敵対したからには、北条領にある祢津・沼田攻撃を開始します。バックには徳川がいるし、昌幸としては当然のことなのですが……。

ここで、真田にとっては理不尽かつ予想外の事態が起こります。

10月、織田政権の織田信雄織田信孝から、徳川と北条和睦の方針が出されたのです。

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続いて北条氏直と家康の女・督姫の婚礼が決定。

武田領をめぐる【天正壬午の乱】が、ついに終息へ向かうこととなるのでした。

ここでの徳川・北条間の交渉で「沼田領問題」が持ち上がります。

【旧武田領の帰属】

甲斐:徳川

信濃:徳川

上野:北条

昌幸の吾妻領・沼田領は上野にありました。

要は、この両地方を取り上げられて、北条に渡す――と頭越しに決められたようなものです。

徳川には、油断があったのかもしれません。

たとえ強引な取り決めでも、国衆ごときは泣き寝入りするしかない。そう考えてもおかしくはないところです。

しかし、昌幸は違いました。

北条側から、吾妻領・沼田領引き渡しを求められると、これを拒否。とれるもんなら力づくでやってみろ。そんな流れです。

それだけではなく、北条領への武力攻略を進めていたのですから、クソ度胸にも程があります。

かくして、吾妻領・沼田領は、さながら火薬庫状態になりつつあったのでした。

 

因縁の上田城

真田一族は、まるで嵐に翻弄される小舟のようだ――。

『真田丸』では、そんな喩えが使われておりました。

気持ちはわかります。

徳川、北条、上杉の間で、真田一族は翻弄されているのです……と、言いたいところですが、これをまるでサーファー気分でエキサイティングに乗り切る姿を描いたところが、あのドラマの魅力です。

天正11年(1583年)春には、昌幸母・河原氏を徳川の人質としました。

しかも家康自らが甲府に来ると、昌幸自身が出仕をしているのです。

完全に徳川についたとみなせる動きでしょう。

こうした中で昌幸は、徳川の支援を受け、新拠点となる城・海士淵城(のちに改名して上田城)を築き始めました。

上田城西

上杉に睨みを利かせるための城でした。

徳川としては、昌幸から小県領を取り上げ、北条に引き渡さねばなりません。

そのお詫びとみなせますし、自分の新たなる味方に太っ腹なところを見せたかったのかもしれません。少なくとも、そこには好意があるでしょう。

この徳川の気持ちも、色々と重要かもしれません。

心理的な要素を考えすぎますと、歴史を誤ってとらえてしまいかねませんが。

ここで、なんだかおかしな動きが出てきます。

夏になると、沼田城代・矢沢頼綱(幸綱の弟・昌幸の叔父)が、上杉に従属するのです。

この動きを、昌幸から切り離せるとは思えません。

親族ですし、真田一族の宿老なのです。

季節が秋に変わる頃、天下はまたも動き始めます。

春に柴田勝家を滅ぼし、天下人として着実に力を増しつつあった秀吉が、信州の混乱をおさめようとするのです。

【信州郡割】でした。

・徳川と上杉は和睦する

・徳川と上杉の領土を決めるのは、秀吉である

この統制は、秀吉に服属するかどうかを判断するものでもありました。

秀吉への服属によって、自分の領土や地位を確定させる。そういうチャンスがあることを、当時の大名や国衆は把握していたものです。

平たく言えば外交です。交渉が重要な時代になりつつありました。

「関東惣無事」が、この事態を表す言葉としては適切……と思いたいところですが、このあたりがどうにも難しく、当時ですら混沌としていたことがわかります。

織田方の大名である家康は天正12年(1584年)、織田信雄と手を組んで、秀吉と合戦「小牧・長久手の戦い」に及んでいるのです。

「惣無事」が本来はなかった、誤りという説もあるほどです。

しかし、当時だからこそ混沌としておりました。なんせ理想と現実の食い違いが大きく当事者すら迷っていたのです。

後世の戦国ファンから見ても、なんだかわからくなっても無理のないところでしょう。

理想としては、もう合戦で決着をつけたくない。

しかし現実はそうもいかない。

混沌と曖昧がある状況ということで、とりあえず話を進めましょう。

 

第三の選択肢は上杉

天正13年(1585年)、昌幸は上杉への従属を決めました。

・北条が自領とその周辺を攻撃してくる

・徳川は「沼田領を北条に渡すから、よこしなさい」と言ってくる

そんな状況です。

大事な領地を渡さなければならない――となれば第三のチョイスである上杉になるわけです。整理すると納得できるかもしれませんが、徳川からすれば、もうわけがわからない状態です。

上杉には人質として、次男・真田信繁が送られました。

彼の運命の鍵は、こうしたところにもあるものです。

さすがに徳川としても、もう黙っているわけにはいかなくなりました。そして……。

8月、夏の盛りになると、沼田城・上田城に徳川勢が攻めてきます。

徳川の支援で作った城で、徳川を迎え撃つという、なかなか強烈な展開。かくして起こった第一次上田合戦で、昌幸は徳川の大軍を相手に勝利をおさめたのでした。

真田昌幸時代の上田城古図(上田市デジタルアーカイブポータルサイトより)

そして9月には、北条氏まで攻め込んで来られて、これも打ち破り、大名相手に自領を防衛する離れ業を見せるのでした。

こうした勢いのまま、昌幸は徳川についた国衆の袮津領も服属させ、小県を統一。

唯一従わないのが室賀正武でした。この正武を謀殺し、決着をつけたのでした。

築城、外交、合戦、策略そして謀殺。

戦国武士のスキルをフル活用する、それが昌幸の生きる道でした。

その道徳的な観点を、後世の人間が判断しても意味がありません。

謀殺もまた、昌幸の生きた道なのです。

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秀吉との交渉開始

昌幸が上杉方に従属したのは重要な点です。

織田方に属する大名には、外交ルートがあります。

合戦ではなく外交ルートで自領や立場を確保しようと、大名が頭を悩ませていた頃です。

上杉家は、秀吉配下でフル活動をする石田三成と、かなり懇意にしておりました。

三成と上杉家の直江兼続は、かなり近い距離感であったのです。

三成となんとかコンタクトを取りたい。

そう大名が悩む中で、上杉家はかなり有利な状況でした。

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関ヶ原の戦い(1600年)で東軍につくか、西軍につくか。

その根を辿ってゆくと「本能寺の変」あとの豊臣政権スタートから秘められているのです。

真田の場合は、上杉・石田ルートを確保できました。

真田一族が国衆から大名に上り詰めるルートには、さまざまな要因、偶然、幸運、必然……多くの要素が積み重なっています。

昌幸にとっては、徳川・北条の敵対者である秀吉の命令に従うことは、ワンポイントリード感覚があったかもしれません。

ただし、ここでパワーバランスがまたも変わります。

織田信雄と手を組み、秀吉に抵抗してきた家康。これ以上の抵抗はもはや得策ではない――そう判断し、秀吉との和睦へ向かいます。

その結実が、天正14年(1586年)春にありました。

家康と、秀吉の妹・旭姫との婚礼です。

年齢的にも、旭姫を離縁したものであったことも含めて、相当強引なものではありました。

そこまでしてでも、家康を取り込みたいと秀吉は考えていたわけで、秀吉は昌幸に対し、家康との停戦令を出すのです。

かくして【真田vs徳川】は停止しますが、【真田vs北条】は依然として敵対しておりました。

北条氏邦は、彼らにとって不法占拠状態の真田を追い払うため、吾妻・沼田領に侵攻をしています。

沼田・吾妻領は、当時最もホットな場所になりつつありました。

ここで昌幸は、胃痛のして来そうな行動を取ります。

豊臣秀吉からの出仕要請を拒んだのです。

 

昌幸は「表裏比興の者」

旧武田領の国衆たちは、秀吉従属の後、家康への「与力」とされていました。

家康の武田領への強い思いを知った秀吉のサービスでしょうか。

そうなってくると、またも争いの種が蒔かれて来ます。

家康:真田への不快感

秀吉:アンチ真田・家康のことを考えねばならない

昌幸:北条が自領を狙っているのに、出仕してたまるかい! しかも、家康の与力? ケッ

こんな状況では、家康と秀吉に対し喧嘩を売るような態度と取られかねません。

そしてここで、昌幸を形容するあの言葉が出てくるのです。

「表裏比興の者」

(本音と建て前の違いがおかしい)

この言葉は、家康による真田討伐報告で確認できます。

石田三成・増田長盛が、上杉景勝にこう言ったわけです。

「あの真田昌幸は、本音と建て前の使い分けがクレイジーな奴なので、徳川家康が成敗することになりました。あなたは真田を支援してはいけません」

そんな状況になれば、顔面蒼白になって備えてもよさそうなところです。

それでも昌幸は、アグレッシブに吾妻・沼田領攻略を狙っています。まったくどんだけタフなのよ~!

一方で、これまで続けてきた外交解決の努力も見られます。

上杉景勝は軍事ではなく、交渉を豊臣政権に持ちかけておりました。

「昌幸は上杉配下の者です。徳川・北条間で沼田領問題があるのはその通りですが、ここは武力ではなく交渉で解決したほうがよろしいのではないでしょうか。北条和睦のステップにもなります」

秀吉が、昌幸に相当怒っていたことは確かです。

・人質を出さない(上杉にはいる)

・出仕しない

・表裏がある

一言でいえば信用できない。

しかし、秀吉の政権もまだ基盤がそこまで強固でないため、真田の背後にいる景勝の機嫌を損ねることもしたくはありません。妥協せざるを得ないのです。

ただ、これについて妥協をしているのは、何も秀吉だけではありません。

昌幸も出仕をしなければならない。

しかも、家康の与力にならなければならない。

さんざん家康と因縁がある昌幸です。

家康の与力になるなんて、とても喜べる状況ではありませんでした。

 

秀吉に出仕する

天正15年(1587年)3月、タイムオーバーです。

昌幸はまず駿府の家康、そして秀吉に出仕することとなりました。

このとき、懸案の人質も解決しております。二男・真田信繁です。

かつて昌幸が、人質として武田信玄の全盛期に魅了されたように、信繁もまたのぼりゆく豊臣政権の目撃者となるのです。

一方で嫡男・真田信之(本稿ではこの名で統一します)は、その婚姻によって徳川方との結びつきを深める役割を果たしています。

彼の最初の妻・清音院殿は、昌幸の兄・真田信綱の遺児にあたります。

イトコ同士での婚礼であり、嫡流の血を残したい配慮によるものでした。

それを差し置いて迎えた二人目の妻が小松殿(小松姫)。

本多忠勝の女(むすめ)です。家康の養女説もありますが、確定しているとは言えません。

家康譜代家臣の血を引くわけです。

家康と昌幸の間を結びつけたい、そんな政治的意向がそこにあることは確かです。

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この婚礼の時期は諸説ありますが、天正15年前後とされています。

いずれにせよ昌幸二人の子は、この頃から豊臣派(信繁)と徳川派(信之)に分かれる運命にあったのです。

真田家の立場も曖昧なもので、

・豊臣大名
・かつ徳川与力

という、二重の属性がありました。

この婚礼のあたりから、吾妻・沼田領に関しては、兄・信之が統治するようになったと思われる文書が見られます。

小県・埴下郡は昌幸が統治をしておりました。父子による担当分割が見て取れます。

この春から夏にかけて、秀吉による九州平定も終わりました。

そうなると、東に目が向けられます。

北条氏政北条氏直親子は、秀吉とはじめから抗戦すると考えていたわけではありません。

ただ、和睦を探る中でも「沼田領問題」はくすぶり続けていたのです。

その結果、恐ろしいカタストロフが訪れます。

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「名胡桃城問題」勃発

天正17年(1589年)春、「沼田領問題」は秀吉が決着をつけました。

北条側からは板部岡江雪斎が上洛を果たしています。この前後に、沼田領を統治していた信之も上洛しました。

言い分を聞いた上で、判断を下したと考えられます。

・北条出仕条件として、沼田領は北条側の言い分を聞き入れる

・自力による確保はできていないため、北条:真田=2/3:1/3で分割する

・真田から北条への割譲分の割り当ては、徳川から真田に行う

これを受けて、この年末には北条氏出仕で話がまとまりかけていたのです。

秀吉派遣の者が立ち会う中、城の引き渡しも無事に済むかのように思われたのですが……。

ここで勃発したのが名胡桃城問題でした。

真田側の認識では、名胡桃城は割譲の対象外。譲る気はありません。

しかし、北条側からすると違います。自分たちのものだ、と主張するわけですが、位置的には難しい場所にあります。

北条側の言い分にも理解はできますし、思い入れがあって特別扱いしたい真田の気持ちもわかる。

真田家の墓所があったという理由が後世語られることもありますが、これは創作のようです。

この問題にわかりやすさを求めて、そんな創作がなされたのでしょう。

そんな両者の言い分が燻っている最中の11月、北条方が突如、名胡桃城を武力で制圧しました。

真田も抵抗の構えを見せます。秀吉からすれば、自らの裁定に北条が逆らったことになります。

事件に関与した者の処刑を強硬に求め、事態はこじれ、結果、もはや北条は討伐せねばならないと秀吉が決意を固めるのです。

北条側も家臣を上洛させ弁明をはかってはおります。

しかし、こうなるともはや北条当主が上洛せねば、どうにもなりません。

「名胡桃事件」は、時代の趨勢を象徴するような事件でした。かつてならば、この程度の小競り合いがここまで大きな事態にはならかったことでしょう。

それがそういうわけにはいきません。

真田の背後には、徳川、上杉、そして豊臣がおりました。

北条側は虎の尾を踏んでしまったようなもの。かくして事態は、北条氏の滅亡である「小田原征伐」へと向かってゆくのです。

北条氏が抵抗したのは、信玄も謙信も落とせなかった【小田原城の防衛力】を過信したからと考えられてきました。

しかし、前述の通り彼らは開戦回避を探っていたのです。

むしろ小さな名胡桃城こそ「小田原征伐」における大きな原因と考えられなくもありません。

真田一族は、この「小田原征伐」に豊臣大名として参戦します。

縁の深い北条攻めに、強大な力の一端として加わったのです。

photo by お城野郎

北条の安房守であった氏邦は降伏し、命こそ助かったものの、歴史の表舞台から消え去っていきます。

安房守対決においては、昌幸が勝利。

そしてこの「小田原征伐」後、真田家の豊臣大名としての地位は確定しました。

・信濃上田領3万8千石を支配:真田昌幸

・上野沼田領2万7千石を支配する:真田信之

=合計6万5千石

国持大名には及ばないものの、それなりの石高でしょう。

武田家滅亡後の混沌からここまで辿りついた手腕は、かなりのものです。

ここで考えたいことは、昌幸と信之の統治が、豊臣大名となった時点で分裂していることです。

関ヶ原前夜の離別が強調される傾向がありますが、この体制はそのはるか以前からありました。

 

国衆として翻弄し流刑者として没す

さて、このあとも昌幸の波乱万丈の人生は続きます。

豊臣政権の崩壊。

第二次上田合戦

そして関ヶ原の西軍敗戦からの九度山配流を経て、慶長16年(1611年)に死没。
享年65。

残念ながら昌幸は、真田一族の主役の座ではないように思えるのです。

大名に挟まれた国衆として暴れまわり、翻弄し続けていた昌幸。

そんな昌幸と、豊臣大名になってからの彼では、何か違うようにも思えてしまいます。真骨頂は国衆時代のように思えるのです。

徳川政権について真田家を守り抜き、配流先の父にも配慮を欠かさなかった長男・信之。

豊臣政権との強い結びつきがあり、その元で煌めいたに二男・信繁。

彼ら二人の兄弟を追った方が、真田の動きはわかりやすくなります。

偉大なる父であり、脇役としてしぶい輝きを放つ昌幸の姿は、息子たちの記事でご確認ください。

 

「全くわからん!」それでいい

さて、真田昌幸という人物について、おわかりいただけたでしょうか。

「全くわからん!」

そう、『真田丸』の昌幸のように叫びたくなった方も多いことでしょう。そういう状態のまま世に記事を送り出すことは、禁じ手だとわかってはおります。

ただ、昌幸の性質は、むしろこういう人物であったと決めつける方が無理があると思えるのです。

歴史人物の言動を、後世の道徳観で裁くことは危険です。

無理に理解しようとすることもそうです。

昌幸の場合、同時代でも理解されていたとは思えません。

似た立場の人物においても、ここまで難解な行動を取っていないのです。

家康や秀吉すら、その言動に困惑を見せて怒るほど。当時から、実態をつかめない、敵対者からすれば極めてけしからん人物でした。

偉人とは、人生のロールモデルにしたくなるものです。

しかし、昌幸の真似をすることは危険すぎて、御免被るとしか言いようがありません。

真似をしたら即座に破滅しかねない――そんなおそろしい生き方だと感じてしまうのです。

やっぱりこう叫びたくなります。

「全くわからん!」

これだけではわからないという方には、おススメの手段があります。

『真田丸』未見の方

→『真田丸』を見よう!

『真田丸』視聴経験のある方

→もう一度『真田丸』を見よう!

→あのドラマの考証三氏(平山優氏、黒田基樹氏、丸島和洋氏)、城廓考証・千田嘉博氏の著作を片っ端から読もう!

以上です。

本稿だってドラマの絞りカスのようなものです。

あの作品には素晴らしい点がいくらでもあり、真田昌幸の人物像は、その中でも最大のものでしょう。

現代人が理解できるマイホームパパにしようとか。

えげつない謀殺は避けて、聖人君子にしようとか。

そういう配慮はなく、ありのままに謀殺し、逆らい、煽る。妻子や家臣ですら翻弄されて困惑している。そんなごまかしのない混沌でした。

「昌幸は、昌幸なのだから、もう仕方ない」

隣にいたら災難としか思えない人物を、草刈正雄さんが極めてチャーミングに演じ切ったのです。

不可解な昌幸が、それでいて魅力的。

ともかく『真田丸』を見ましょう。

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文:小檜山青

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【参考】
大河ドラマ『真田丸』DVD(→amazon
大河ドラマ『真田丸』Blu-ray(→amazon
黒田基樹『真田昌幸』(→amazon
黒田基樹『真田信之』(→amazon
平山優『戦国大名と国衆』(→amazon
平山優『武田三代』(→amazon
平山優『真田信繁』(→amazon
丸山和洋『武田勝頼』(→amazon
大石泰史『全国国衆ガイド』(→amazon






(私論.私見)