内治派と外治派の抗争
 

 (最新見直し2012.07.27日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 明治維新のその後は内治派と外治派、興亜派と国際金融資本派との抗争となり、次第に外治派が勝利していく。その矛盾の飽和点が大正天皇の押し込めであった。と見るのがれんだいこ史観である。


【日本帝国主義考】
 「【嗚呼大東亜戦争】二、大東亜戦争の原因と経過 (三)明治維新と日本の生きる道」と対話する。

 日本は明治維新になって、富国強兵策を取って先進国に追求する道を選んだ。薩英戦争や馬関戦争で欧米の強大な軍事力を目のあたりにした日本は、復讐を採らずに、友誼と学習を選んだ。このように帝国主義の鋭い矛先を突き付けられながら,懸命の努力で辛うじて独立を維持し、明治維新を成し遂げた先人達の功績は、実に偉大なものがある。この帝国主義思想が、日本のみならず、世界の先進国の通念として大東亜戦争の終焉まで続いた。
(私論.私見)
 ここはまずまず得心するとしよう。
 朝鮮半島の静謐が日本の安全に直結していることは今も変わりなく、日清、日露戦役は、半島を支配せんとする清、露両国の圧力を排除して,国防の安泰を図る為の自衛戦争であって,若し日本がそのどれに敗れても,今日の日本がなかったであろう。この両戦役は両国とも国の総力を挙げて戦った偉大な遺業であることは、今後時世がどう変わろうとも変わることはなく、十把ひとからげの侵略戦争として片付けられるものではない。
(私論.私見)
 ここはいかがなものだろうか。日清、日露戦役と云う形で日本の好戦化が進められ、これを後押ししたのが国際金融資本であると云う冷厳な事実を確認する必要があろう。「この両戦役は両国とも国の総力を挙げて戦った偉大な遺業である」とは言い難いのではなかろうか。戦役が興亜に資したものであったのかどうかの検証をしてから述べるべきであろう。
 戦後、富国強兵策が国家悪のように言われているが、明治維新の時代背景に於いて、日本が欧米先進国に追い着く為の唯一の方策であり、若しその時,欧米屈従の属国方策を取っていたならば,完全なる白人支配の世界となり、勿論大東亜戦争はなかったし、今日の日本の発展もなく、台湾も然りで、諸民族自決の世界も出現しなかった筈だ。また、元来大和民族は無為無策で屈伏するような無気力な民族ではなかったのである。
(私論.私見)
 戦前の富国強兵策が日本の為、興亜の為に資する形で運営されたのならともかくも、国際金融資本の好戦政策に利用されたものでしかないと云う認識も必要であろう。但し、これを逆利用してアジアの解放に向かったのも事実である。してみれば複眼的な比評が要るのではなかろうか。
 貧乏国日本は資源が乏しく目立った産業がない。生糸絹織物、陶器、漆器などの家内工業的産品しか輸出するものはなく、しかもそれは最低賃金で牛馬並みの酷使による産物であって、製品の輸出というより、労働力の安売りと言った方がよい。資源と技術は一体不可分で、資源なくして技術の進歩はあり得ない。そしてその資源は悉く白人の手に握られていた。昭和初期に起こった世界大恐慌の荒波は、経済基盤の貧弱な日本にも押し寄せて、財政は益々悪化し、国民生活の窮乏はその極限に達し、国際情勢は日本にとって不利の度を加えるばかりである。東北地方の娘身売りや、野麦峠の女工哀史もこの頃のことで、日本は経済的に完全に死に体になってしまったわけである。

 貧乏人の子沢山で、狭い領土で増えるのは人口ばかり、すぐ隣に横たわる広い大陸に溢出していったのは、追い詰められた日本の取り得た唯一の国策であり、帝国主義世界に於ける当然の帰趨であって、この他に選択の余地は全くなかったことを知らなければならない。今の国民は金を持って世界に進出しておるが、その頃貧乏国民は、身体を張って進出する外なかったのである。
(私論.私見)
 「貧乏国日本」は、明治維新初期の殖産興業と富国強兵策のうち、富国強兵策を片務的に強化したツケにもとらされたものであり、元々の日本の姿ではない。内治より外治を優先した結果の産物である。かく認識せねばなるまい。
 満州事変はこのような時代背景の中に勃発したものである。当時の中国は、戦国時代のように軍閥が跋扈して麻の如く乱れ、殊に満州は匪賊が横行して治安が極度に悪化していた。もともと満州は清民族が住むところで、自らを中華と誇っていた漢民族から見れば、彼等の言うところの「東夷(日本)、西戎、北狄、南蛮」の「北狄」に当たり、化外地とされていた。

 当時の日本人は満州を単なる外国とは見ず、日清、日露の両戦役で父祖の血を流した土地であり、海を隔てた庭のように特別の親近感覚を持っておった。昭和十年頃の流行歌を見ても充分に察せられる。「満州思えば」の一節。あゝまたも雪空 夜風の寒さ 遠い満州が ええ満州が気にかゝる。「満州娘」の一節 。私しゃ十六満州娘 春よ三月雪どけに 迎春花が咲いたならお嫁に行きます隣村 王さん待ってゝちょうだいね。

 台湾の我々までもなつかしく思い出されると共に、当時の日本国民が如何程にあこがれていたかゞ窺われる。世界赤化を目指すソ連の脅威に対する防波堤として、また、重要資源の供給地として、「日本の生命線、満蒙」という言葉は、当時では幼児も知る国家的スローガンであったのである。
(私論.私見)
 日本帝国主義主導の満州国建国を美化も卑下もするのはくだらない。歴史がそのように流れたと云うことであろう。大きく見れば、日本が満州の地を植民地化したのであり、それは当時の帝国主義間競争の産物であった。「アジア解放の橋頭保」とする思惑があったにせよ、やり過ぎだろう。日本の過剰干渉以外の何ものでもなかろう。
 満州事変の発端となった柳條溝の満鉄線路の爆破は、確かに日本の謀略であり、今の感覚からすれば許容すべからざる暴挙ではあるが、ここに満漢日蒙鮮の五族協和の王道楽土を築こうという石原莞爾氏の計画は、決して場当たりの思いつきや空想ではなかった。その後一旗組の心ない日本人の為に、必ずしも彼の理想通りには運ばなかった点もあるが、以前と打って変わって治安のよい満州国が育ち、窒息しそうになっていた国民の前途に、光明の窓が開けられたのも事実である。

 是非善悪は飯の食える人の戯言であって、白人万能の帝国主義の世界に於いて、これが経済的に行き詰まった貧乏国日本の唯一の生きる道であり、国民は喜び勇んで新天地満州に進出して行った。この時代背景を抜きにして、現在の豊かな日本の感覚で満州進出を論ずるから、歴史が歪んで見えてくるのである。

 今でこそ侵略と言われていることも、当時に於いては海外発展であり、雄飛であり、青少年の血湧き肉躍る壮挙であり、また、その頃の日本国民は、国の為一身を犠牲にすることを厭わぬという気概を持った国民だったのである。
(私論.私見)
 これは、日本から見ればそう見えると云うことであって、当の中国から見れば日本帝国主義の侵略であろう。日本の満州国建国を手放しで賛美すればするほど興亜の理想からかけ離れるであろう。
 鎖国―明治維新―富国強兵策―日清日露戦役―列強国の仲間入り―第一次世界大戦後の世界大不況―日本経済の行き詰まり。支那事変も大東亜戦争もこの延長線上に起こったものである。遠大な理想と目標を持って船出したものの、世界情勢の荒波の中、とりわけ白人支配の世界での舵取りは容易ではなく、恰も大河の流れに翻弄される笹舟のように行き着く先を選ぶことは出来なかった。それが抑々日本を大海に押し込んだ原因と言えよう。
(私論.私見)
 これはこれで良かろう。

 「明治維新の二面性」と対話する。

 十九世紀の後半から二十世紀も終わらうとしてゐる今日 これまでの歴史をふりかえらんとすれば 世界の歴史に特筆大書されるべきは じつにアジアナショナリズムのおほいなる發展でありました。後世の史家は これに一章をもうけざるをえないであらうことは うたがいを持ちません。そして その第一節は 日本の明治維新の意義であらうこともこれまた うたがいをいれないところであるのです。明治維新によつて 近代国家と変貌した大日本帝國が 大東亞戰争を戰ひ 西歐の植民地支配体制に一大痛打撃を浴びせたことは この日本が侵略國家であつたか否かにかかわらずこれを否定することは 後世の公平な史家の目には あきらかにむつかしいことであらうと思ひます。
(私論.私見)
 これはこれで良い。
 そして この明治維新をなしとげ 日本を近代国家と爲したところの日本的ナショナリズムは じつに尊皇の精神であつた事 これもまた 歴史を虚心にながめるものにとつて 決して避けて通ることの出来ない歴史的な事実なのです。世のマルクス主義的歴史観 また進歩主義的歴史観をもつて 時代を探らうとするものは 往々にして この事実を軽視し ただ批判して能事足れりとする態度をとつてゐるが それでは日本國民の精神史の奥深くにまで達した 本当の歴史は 永遠にわからないであらう。たとへば ヨーロッパの古代史をみるに ケルト民族がローマ帝国に對し 徹底的に抵抗をこころみたところの 宗教観・世界観を知ることなくしては かれらがいかにローマに抵抗し 戰つたか そして死を賭して求めていたものは なんであつたのかは永遠の謎として残るほかないのであります。
(私論.私見)
 ここも、これはこれで良い。但し、「尊皇の精神であつた事」を皇国史観的に読みとることに反対する。皇国史観的絶対主義天皇制賛美の方向に於いてではなく、もっと古い時代からの日本精神のセンテンスで読みとらなければならない。
 「朕は爾等國民と共に在り、常に利害を同じうし休戚を分かたんと欲す。朕と爾等國民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ」るといふ この統治するものと 統治されるものとの間の絆こそが前世紀最大の國難にあつて よく國の統一を保ち 世界に雄飛することのできた基礎的絛件であつたのです。

 戊辰の役 または西南戰争にあつても よく外國勢力の侵入はこれを拒み 國内の統一を圖ることが出来たのは まさしく尊皇の精神の発現であつたといふことを 忘れることは出来ないのです。君民一体の國体を保持してゐた日本と 異民族により支配されてゐた支那とが この十九世紀中葉における 侵略の危機に對していかなる抵抗力を示したかの問題は やはりこうした日本人の尊皇精神をぬきにして 解明することはむつかしからうと思ふのです。
(私論.私見)
 上述の観点を踏まえる限り、これはこれで良い。
 ペルー船マリア・ルース号事件について このやうな明治維新政府の外交方針がどのやうなものであつたかを先にみたのでありますが そのとき じつは 不問に付しておいた問題があります。それは 明治四年(1871)十月八日に派遣された「特命全権大使-米欧回覧」といふ出来事でした。そのメンバーは 岩倉具視 木戸・大久保・伊藤らの 総勢五十名であります。

 それは いふまでもなく 洋術をもつて攘夷の目的を達するための 視察であつたはずなのですが ところが 彼らは げすな表現をすれば 西洋にキンタマをぬかれて帰つてきたのです。外務卿副島種臣が 支那人苦力をその奴隸的状態から救おうと奔走してゐるそのとき この「特命全権大使-米欧回覧使節団」は なにをみてゐたか その回覧実記から あきらかにしてみようと思ひます。

 使節団は サンフランシスコからカリフォルニア ネヴァダ シカゴ ワシントンとアメリカを遊覧していくのですが その中で 「ネヴァダ州及び『ユタ』部鉄道の記」に つぎのやうな一節があります。すなはち「アメリカ土人を、概して『インジヤン』と呼びなせども、その種類は一つにならず。このあたりに住むものは その中にも賤しき民にて、その首は被髪し、面には木汁を以て黄色に塗抹し、装飾とせり。その面目は我邦賤民の内に、往々にある骨相にて、色黄黒に鼻太く、唇はほぼ厚く、カン骨高し、衣は民家より破衣を乞て着たるのにて、定俗を知るにたらず云々」と その觀察は 全く「文明人」の側から爲されており 觀察の皮相なことは 目をおおうばかりであります。

 そして そこには なぜ 『インジヤン』が「衣は民家より破衣を乞」はねばならなゐかといふことに對する 洞察は皆無でありました。また ウィーンの滿國博覧会の出展品をみて 曰はく「欧羅巴洲の列国、仏蘭西革命の機に感触せられ、民は自由に理を展べ、國は立憲の体に変じてより、爾来星霜僅かに八十年を経たり。中にもオーストリアは、帝威を保続したれども、また二十年来、すでに立憲の体に改め、露國の独裁も、十年来は、ほぼ民に自由を与へんことを圖る。欧洲の文明は、この改革の深浅に源し、其精華は、発して工芸の産物となり、利源は滾々として湧出す。」と。「其精華」と「利源」とから 同じ亞細亞民族の血のにおいをかぎわける嗅覚は すでに 失はれてゐたのであります。
(私論.私見)
 これは貴重な指摘である。
 以上の如く 明治維新はさまざまな相をみせてはおりますが とくにいま作述せるが如き二面性は あらゆる面にあらわれ 天皇の位相もまた 古来よりの「社稷(食べ物の神と土地の神)を祀る祠祭者」といふ面と 西洋的な神(唯一絶対者)といふ仮面をかぶせんとする勢力のたえざる戰ひの実相を持つておることは 強調されるべきことであると思ひます。
(私論.私見)
 この観点も貴重な指摘である。

 「『維新と興亜に駆けた日本人』の書評(2012年7月)─評者・山下英次氏/『新国策』 」を転載しておく。
 書評 真の「独立」について再考を促す書

 坪内隆彦著『維新と興亜に駆けた日本人─今こそ知っておきたい二十人の志士たち』(展転社、二〇〇〇円)

 評者 山下英次■大阪市立大学名誉教授

 本書は、藩閥政治によって、損ねられていた明治維新の建国の理想を取り戻そうとして活動したわが国の主要な思想家二十人を紹介することを通じて、独立心を持った本物の日本人像を浮かび上がらせようとしたものである。具体的には、西郷隆盛、副島種臣、杉浦重剛、頭山満、植木技盛、陸羯南、荒尾精、岡倉天心、近衛篤麿、杉山茂丸、宮崎滔天、内田良平、等々の志士たちが取り上げられている。

 著者が、これらの志士たちが共通して持っている思想上の信念としてみているのは、以下の三点と思われる。第一は、明治維新後の行き過ぎた西洋かぶれ路線を修正し、外交の主体性を取り戻す。第二に、そのためには、日本は興亜に尽くすべきである。第三に、国学、陽明学、崎門学、水戸学など江戸期以来の国体思想を継承する。


 日清戦争後、現実に日本人の間に、中国軽視、中国嫌いの傾向が非常に強く見られるようになったが、本書で取り上げられている志士たちは、そうした傾向とは一線を画し、あくまでも興亜に尽力し、それを通じて日本の独立性を維持しようとした。一八九四─九五年の日清戦争後の日本人の対中感情は、後に昭和期の日中戦争へとつながっていった。例えば、昭和八年(一九三三年)に、東人生に行ったあるアンケート調査によれば、約九〇%が「悪い中国を懲らしめるべき」と回答している。このような国民感情を背景に、当時の軍部は、特に確たる目標も戦略も持たず、「対中膺懲」(中国を征伐して懲らしめる)という感情に支配されて、ズルズルと日中戦争の深みにのめり込んでいってしまったのではないかと、評者は理解している。

 昨今の日本でも、また、同じように、中国に対する国民感情がかなり悪化している。そして、かつてとは異なり、わが国の独立性の維持を重視するような人たちの間でさえ、中国嫌いの傾向が強く見られる。しかし、興亜に尽くさないで、わが国が真の独立を果たすことなど、評者には到底想像できない。わが国が、歴とした独立国になるためには、脱米とまでは言わないまでも「離米」と、日本のアジア地域統合への積極的な関与が不可欠である。その二つのうちいずれか一つが欠けても、わが国は、歴とした独立国にはなれない。これは、戦後のドイツからわれわれが学ばなければならない最も重要な教訓である。同じ敗戦国、しかも日本より遥かに立場の困難な分裂国家から出発したドイツは、欧州統合に身を捧げることを通じて、近隣諸国からの信頼を勝ち得ることに成功し、それによって離米を実現した。そして、シュレーダー前政権が二〇〇三年の米国のイラク攻撃に真っ先に反対するなど、今や歴とした独立国となった。日本人は、同じ敗戦国でありながら、日独の立場が、なぜこのようにかけ離れたものになってしまったかに、深く思いを致すべきである。

 本書は、「未曾有の国難に直面した現在、義を貫き、己を捨てて公に尽くす西郷南洲や副島種臣のような人物がわが国を指導していたならば、と思わず考えてしまう」という一文から始まる。本書は、憂国の書であり、著者は、「本書で取り上げた志士たちの壮絶な生涯を通じ、本来の日本人の生き様が再確認され、そのような真の日本人によって、再びわが国が指導される日が来ることを願ってやまない」と主張する。実際、現在のわが国には、政官産学の各界ともに、国の独立性に無頓着で、誇りを失った人間が多すぎる。

 本書は、わが国の真の意味の独立ということに関心を持つ人すべてに、一読を勧めたい好著である。
 (『新国策』2012年7月号)















(私論.私見)