天保水滸(すいこ)伝考 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、天保水滸伝を確認しておく。 2010.04.25日 れんだいこ拝 |
「天保水滸伝」は、土地を潤す利根川と共に、昔から語り伝えられてきた千葉県香取郡にある東庄町(とうのしょうまち)が舞台の、笹川の繁蔵(1819-1844)と飯岡の助五郎、(1792-1859)の二人の侠客の勢力争いの物語である。天保の頃、冷害による大飢饉が農村を破滅させる他方で、房総利根川周辺一帯では産業資本が勃興しつつあり、多くの博徒、その棟領格の侠客をを生みだしつつあった。 笹川繁蔵は、下総国羽計村の旧家の下総国須賀山村(現在の香取郡東庄町)で代々醤油と酢の醸造業を営む裕福な家の岩瀬七左衛門の三男として生まれた。幼いころから読み書き算盤、漢字や数学、剣などを学び、人格的にも優れていたと伝わる。長じて相撲取りになるために江戸へ出たが、一年ほどで村へ帰る。この頃、侠客に憧れ、銚子の五郎という親分に盃をもらう。その後賭場通いを始め、ほどなくして当時笹川の賭場を仕切っていた芝宿の文吉から縄張りを譲り受け、笹川一家を構える。力士崩れの博徒として、隣村の須賀山村笹川で一家を張り、助五郎の息子の堺屋の与助の嫁を世話したほど、双方親しい間柄であった。 一方、飯岡の助五郎は、相模国三浦郡田戸村(神奈川県横須賀市)の出身。若い頃に下総国飯岡(千葉県海上郡飯岡町)に流れて働いているうちに、雇われ先の網元の半兵衛に見込まれて、娘のすえと一緒になって所帯を張った。やがて網元となり、博徒の親分として下総一帯に勢力を張っていた。銚子陣屋の十手を預かる博徒でありながら十手持ちの「二足のワラジ」を履き、関東取締出役の「道案内」者でもあった。 天保13年、笹川の繁蔵が、小見川の宿弥神社の再建のためと称して須賀山村の諏訪明神の大祭を利用して「花会」を開いた。これに、上州の大前田英五郎、国定忠治、清水港の次郎長、仙台の鈴木の忠吉、福島の信夫(しのぶ)の常吉などの関八州の博徒の大親分が集まった。この「花会」が元となって、笹川の繁蔵と飯岡の助五郎が縄張りを廻って対立することになる。 1844(天保15)年、飯岡の助五郎一家がなぐりこみをかける。いわゆる大利根河原の血闘となった。総勢200名以上もの人間が入り乱れ、死者28名、負傷者51名もの被害者が出た。しかけた側の飯岡の助五郎一家が負け、死者4名、重傷4名、軽傷数知れずとなった。笹川の繁蔵一家は、用心棒の平田深喜(みき)。通称を平手造酒と云い、千葉道場で剣を学んだ侍でしたが、酒で身体を壊し、渡世に身を落としていた。 天保15年8月3日、逮捕状が助五郎のもとに届いたのを知った繁蔵は、倅の嫁まで取り持ってやった仲なのに、とんでもねえ了見違いだと、富五郎らと飯岡に先制攻撃をしかけたのが、4日の真夜中であった。逮捕の際、抵抗した助五郎は、両手の指に軽傷を負い、裏山に逃げ出して助かったが、夜明けを待ち、総勢22人で繁蔵らのあとを追い、翌未明、船で利根川をさかのぼって笹川を襲った。ところが猛反撃を受けて、飯岡方は死傷者9人を出し、勝負は笹川の圧勝だった。笹川の死者は1人で、それが平手造酒という用心棒だった。平手は千葉周作の高弟だったが、酒好きがわざわいして破門され、笹川繁蔵の客人となり、桜井寺に住んでいた。労咳の病いまだ癒えずに馳せ参じ、大利根河原の決闘で全身に傷を負って死ぬ。平手造酒は、繁蔵の客人として大利根河原の血闘に加わり、義理と人情の最期をとげた。 飯岡の助五郎は逆恨みし、銚子陣屋、「八州」と云われる関東取締役に訴えるところとなった。銚子陣屋は、飯岡の助五郎に借牢を申しつけ、取り調べる。これを江戸元に上申し、「いれずみの金さん」で知られる遠山左衛門景元が預かる。助五郎は2カ月ほどして釈放される。 他方、笹川の繁蔵は追手に追われることになる。笹川一家は香取・海上の両郡の村々を暴れ回ったもので、たまりかねた35ヶ村の惣代が集まって相談の上、繁蔵・富五郎の一件を関東取締出役桑山圭助に訴え出ると共に、逮捕を助五郎に依頼した。笹川の繁蔵は組を解散、子分に金品を分け与え、笹川を離れた。「長いワラジ」を履いて三年ほど「国を売る」。ほとぼりの冷めた頃を見透かして、故郷の笹川へ帰った。再び昔の子分たちが集まり始めた。飯岡助五郎は、勢力を盛り返す笹川一家を怖れ、卑劣にも密偵を放った。弘化4年、繁蔵が夜更けに、お豊と云う妾の家へ行くところを、どんだら橋で飯岡の助五郎一家の助五郎の息子の堺屋與助と二人の子分の闇討ちに遭い殺害された(享年38歳)。首を助五郎に回した。助五郎は、助五郎の菩提寺の光台寺に葬った。こうして、助五郎は、喧嘩に負けた遺恨を晴らした。 今度は、繁蔵一家が親分の仇として助五郎を狙い始めた。やはり相撲くずれの繁蔵の一の子分の万蔵村の勢力富五郎が繁蔵一家を預かった。二年後、勢力富五郎ら繁蔵の元子分たちが集まり、公然と幕府に立ち向かった。勢力富五郎は、女房を離縁し、親分の仇を取ろうとするが、助五郎にはなかなか手出しが出来ない。殴り込みをかけるが、惜しいところで長蛇を逸する。助五郎は、関東取締役の関畝四郎へ手をまわして、幾度も山狩りを行った。幕府の面子をかけた二ヶ月近い大捕り物で、一味の多くは召し取られ。勢力富五郎は東條村の金毘羅山に立てこもった。嘉永3年、病気になりとうとう腹を切り自殺した。 息子に家督を譲った後の助五郎は、年を取って、それまでの生涯を悔いて出家し、死者たちの供養をし、長寿を保ったという。 近所の子供たちを相手の好々爺になり、1859年、大往生を遂げる。 |