昭和時代史3、2.26事件以降の流れ(1936年から1940年)



 更新日/2019(平成31→5.1日より栄和改元).7.28日
【以前の流れは、「昭和時代史3、2.26事件」の項に記す】

 (「あの戦争の原因」)からかなり引用しております。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「昭和時代史3、2.26事件以降の流れ(1936年から1940年)」を確認しておく。「日本近現代史」その他参照。

 2006.5.7日 れんだいこ拝



1936(昭和11)年の動き

 1月 政友会が衆議院に内閣不信任案を提出。岡田内閣、これを受けて衆議院を解散。
 2月、20日に第19回総選挙。政友会惨敗、民政党は議席を回復するが過半数に届かず。社会大衆党が躍進。民政党 205議席(127 +78) 、政友会 171議席(242 –71)、国民同盟 15議席(20 –5):民政党からの分派 。社会大衆党他 18+4議席(5 +17)、昭和会 25議席(24 +1):政友会からの分派 、その他 28議席(48 -20) 。

【岡田内閣→広田弘毅内閣】
 岡田内閣は事件の責任をとり総辞職。元老西園寺公望が後継首相の推薦にあたった。次の首相に近衛文麿が推薦されたが、近衛は病気と称して辞退し、一木枢密院議長が外務官僚の広田弘毅を西園寺に推薦した。西園寺は同意し、外相だった広田弘毅に組閣の大命が下る。陸軍は入閣予定者の吉田茂ら5名に不満があるとして広田に圧力を掛けた。広田は陸軍と交渉し、3名を閣僚に指名しないことで内閣成立にこぎつけた。この辺から陸軍の暴走や経済困難を乗り越えられそうにないため、首相になろうとする人物がいなくなる。

 3.9日、岡田首相の後を広田弘毅が継いだ。新蔵相には前日銀総裁の馬場が就任し、陸軍の意向に沿った国防予算を積極計上に転じ、歳出規模は井上財政末期(昭和6年度)の2倍以上、軍事費は3倍と言う膨張ぶりを采配した。


 内閣組閣で早速軍部の介入が始まる。組閣人事に口を出し要求を飲まなければ陸軍より大臣を出さないと脅し、広田首相これを飲む。「現役武官制」を復活させられることになった。以後、政治の主導権は完全に軍部、特に陸軍に握られることになる。

【準戦時経済体制】
 二・二六事件後成立した広田内閣の馬場蔵相は、公債削減政策の放棄、増税、低金利政策を発表。つづいて日本銀行の公定歩合の引き下げを求めて公債の大量発行の条件を整備する。さらに政府は次官以下の人事を一新して「革新」姿勢を示す。しかし、その実体は軍部主導による政策運営。この時点で内閣としては、暴走する軍部を押さえ込むのに手一杯で、とても軍事費そして公債の増大を押さえるところまで手が回らなくなる。

 その陸軍の政治的、経済的構想立案の中心は石原莞爾(参謀本部作戦課課長・大佐)。石原は昭和10年8月に陸軍中枢のこのポストに就いたが、その時彼は日ソ間の兵力差が年々開いていることに愕然とする。前年の6月時点でのその差3倍以上。特に航空機、戦車などは数でもその技術水準でもかなり劣っていた。これは満州事変での日本軍の動きを見て、脅威を感じたソ連軍が極東地方の軍備を増やしたことによる。このため石原は軍備強化を考えるが、昭和7年頃からようやく重化学工業が立ち上がったばかりの日本では航空機、戦車などの増産にはその産業的基盤が無かった。

 そこで石原はソ連に対抗する軍備を持つ為には、昭和16年頃まで一切外国と事を構えることなく、軍備拡充とその為の産業基盤の育成に専念すべきであり、その為には日本の産業構造の改革が必要と考える。この構想の具体的実現のため為に民間人から成る組織「日満財政経済研究会」を設け立案を委託。

 同研究会が出した計画書「昭和十二年度以降五年間帝国入歳出計画」の内容は、・財政に限らず、産業発展目標を重化学工業を中心に生産を2~3倍に引き上げる。・これを日本7・満州国3の割合で実現する。・実現のため、日本国内の政治・行政機構を満州国に似た形の、官僚主導の体勢に改革する。簡単に言えば国家経済を統制し、軍需のための重化学工業化を強引に押し進める計画。

 こうして陸軍の一大佐、石原莞爾主導による政策「準戦時体制」が始まる。結局、昭和12年度予算で陸軍、海軍の軍事予算増大。予算も前年度から7億3000万円増えて30億3800万円に増大。その財源は赤字公債10億円弱と、大増税。法人所得税8割、個人所得税3割、相続税10割引き上げられる。これには財界からもう反発を受ける。

 また軍備拡張が声明されると、石油・鉄鉱石等の軍需物資の不足と先行きの値上がりを見越して、輸入が殺到する。このため輸入超過により国際収支は急激に悪化。大蔵省は「外国為替管理法」を改正し輸入を大幅に規制しようとする(これがいわゆる「官僚統制」の始まり)。しかし効果はなく、外国為替の支払いが困難になる。これにより馬場財政=広田内閣が行き詰まる。(「あの戦争の原因」)

 春頃、選挙。今まで5名の無産党系議員が23名。社会大衆党は18名。
 1936年3月24日:内務省がメーデー禁止を通達。
 5.1日、帝国国防方針の改定。
 5.7日、民政党の衆院議員・斎藤隆夫が「粛軍演説」で軍部を厳しく批判している。この日の日記に「満場静粛、時に万雷起る。議員多数、握手を求め、大成功を賞揚す」とある。
 5.18日、軍部大臣現役制復活。

 5.28日、思想犯保護観察法公布。不穏文書臨時取締法公布。


 7.5日、陸軍刑務所内の特別法廷で参加将校たちの判決が下される。審議は非公開で進められており、弁護士もなし。裁判で決起の趣意を天下に明らかにしようとした青年将校たちの考えは甘かったのである。死刑=17名、無期=5名、禁固10年=1名、同4年=1名。特別軍法会議は一審のみで、上告は認められなかった。銃殺は2名を除いて7月12日朝、行われた。天皇のために生き、天皇のために死ぬことを誇りとしていた彼らは、「天皇陛下万歳」を叫びながら死んでいった。
 7.10日、コム・アカデミー事件山田盛太郎平野義太郎小林良正ら講座派研究者および左翼文化団体関係者の一斉検挙。
 7.17日、スペイン内乱勃発。
 9.28日、ひとのみち教団(現パーフェクト・リバティー教団幹部の検挙。 翌1937年4月28日:結社禁止。

 10月、岸信介が、40歳の時、満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。
 11.15日、内蒙古へ軍攻開始。
 11.25日、日独防共協定。
 11.29日、新興仏教青年同盟の妹尾義郎検挙。 1937年10月20日幹部12名検挙。計29名が起訴される。
 12.5日、関西の共産党「中央再建準備委員会」の一斉検挙、組織壊滅。
 12.12日、中国で、西安事件発生。これは、蒋介石国民党軍が第6次討共作戦を発動し、*西省の西安へ赴いたところ、張作霖の息子張学良一派に捕捉監禁され、共産党勢力に対する内戦の停止と抗日戦への取り組みを要求された。これに対し、蒋介石は「自分は脅迫されて書類に署名するよりは命を犠牲にする覚悟だ」と答え拒否した。いよいよ殺害の段になって、思いがけなくも共産党からの使者がやってきて、蒋介石の釈放を要求した。この背後事情にはスターリンの指示があり、カリスマ的な知名度を持つ蒋介石を生還させ、国共合作に向かわせることを良しとしていた。こうして、釈放された蒋介石と毛沢東を首班とする国共合作の再工作が始まった。
 12.24日、完成したばかりの議事堂に第70回議会が召集された。
【内閣情報委員会の設置】
 言論統制の中枢機関として内閣情報委員会が発足した。同委員会の職務が次のように語られている。
 「最近に於ける新聞通信の発達は言を俟たざるところとなるが、殊に無線科学の進歩に伴い、国内にありては放送施設により国民に直接ニュースを伝達し、国外に対してはいわゆる新聞放送により各国の新聞紙を通じて自国のニュースを弘布し、国内及び国際報道界に一大境地を展開するに至れり。故に今日に於いては、消極的に内務省の出版警察権あるいは逓信省の通信警察権による公安保持に止まらず、積極的にニュースの弘布に対し国家的批判を加え、国家の利益に資するところなかるべからず」(閣議決定「情報委員会の職務」)。

 積極的に民意を誘導し、国策世論を作り出す権力による世論操作の必要が明言されていることになる。このマスコミ操作が、新聞、放送、出版、映画、論評、その他あらゆるコミュニケーションメディアに及んでいった。

【国際政経学会の設置】
 この年、国際政経学会が設立された。監事・渡部悌治(1912年 山形県生まれ)。昭和20(1945)年の日本敗戦とともに占領軍によって解散させられ、その事蹟(じせき、成し遂げた業績)はひとかけらも残らないほど抹消された。

 満洲国 康徳三年(満州帝国国務院総務庁情報処;阿片専売利益、予算利益額対前年4倍以上885万余円、決算利益額非公表)(当時、駆逐艦の建造予算が1隻676万円。

1937(昭和12)年の動き

 (この時代の総評)

 陸軍が、「97式艦上戦闘機」を完成させた。設計技師糸川英夫。やがて中国で使用され威力を発揮することになった。大東亜戦争初期の1942(昭和17)年において、マレー戦線、ビルマ戦線で英空軍機を撃墜し、制空権を確保することになる。
【満蒙開拓団】
 この年より向こう20年間に百万戸の農家、一戸5人として5百万の農民を内地から満州に移住させる計画を決めた。当時の全国の農家戸数560万戸の約2割を動かそうという遠大な計画であった。こうして、毎年、2万戸程度の農家が満蒙開拓団として満州に渡っていった。「青少年義勇隊」ももそれに併せて結成された。

 日満両国政府の合弁で移民団の受入機関「満州拓殖公社」が設置され、日本国内の総耕地面積に匹敵する560万ヘクタールの耕作可能地を用意して、ソ満国境近くの奥地にまで開拓団を送り、大豆やトウモロコシ、コーリャンなどを作る農機具や営農資金などを貸し与えた。

 実際に終戦までに移住したのは10万6千戸、31万8千人に止まり、しかも開拓農民の働き手が現地で軍隊に召集されたりするなど杜撰であった。

【広田内閣→林銑十郎内閣】
 1.21日、衆院本会議の代表質問で、浜田国松代議士が激しく軍部の政治関与を攻撃し軍の批判を行い、寺内陸相との間にいわゆる「腹切り問答」が発生した。政党と軍部の正面衝突となり、寺内陸相が辞任を余儀なくされる。1.23日、広田内閣総辞職にいたる。これは表向きの事情で、後に巣鴨拘置所で広田が語ったことによると外国為替事情の悪化がその真因であったと言われる。この後も貿易赤字は続き、3月、日本銀行は貿易の支払いのため昭和7年以来一切使わなかった「金」の現送を余儀なくされる。その額は3・4月だけで約1億1000万円。

 次に陸軍大将(予備役)宇垣一成に組閣の大命が降下していたが、陸軍が陸軍大臣を出さず反対した為内閣不成立となり流産した。代わりに2.2日、陸軍大将の林銑十郎が組閣、首相になる。これは石原ら陸軍中堅幕僚が、政治力のある宇垣では自らのプランが押さえ込まれかねないと考え、軍官僚が御しやすい林を選んだためといわれる。陸軍内部を統制するねらいがあったが、国民から「軍部ロボット内閣」と呼ばれる。

 また、岡田内閣辞職とともに深井英五日銀総裁も退任した。その時、次のような意味の演説を行っている。「生産力の余剰を利用し、または容易に生産力を増進しうる時期はすでに去りつつある。今後は生産拡充に努めると共に物資の節約に努めなければならない」。

 この頃から物価の上昇が現れ始める。東京卸売り物価指数(昭和9~11年平均=100)で見れば・昭和10年1月: 99.5%、・昭和12年1月:123.2%、・昭和12年4月:131.0%。インフレが始まる。

 2月、陸軍大将林銑十郎が内閣を組織。

【林内閣総辞職】

 3月、予算成立後に衆議院解散(食い逃げ解散)。

 4.30日、第20回総選挙。民政党議席減、政友会微増、社会大衆党36議席へ躍進。民政党 179議席(204 -25)、政友会 171議席(175 +4)、国民同盟 11議席(11 ±0):林内閣の与党的立場、社会大衆党他 36議席(20 +16)、昭和会 19議席(24 -5):林内閣の与党的立場、東方会 11議席(9 +2):中野正剛が民政党を脱党して結成、その他 35議席(28 +7)。

 林内閣は、議会を解散した。総選挙の結果は反政府勢力が圧勝し、わずか4ヶ月で総辞職することになる。 5.31日、林内閣総辞職。林内閣は議会運営能力が無く、ほとんど何もできぬまま5月に総辞職、短命に終わる。この間インフレが始まり国民の政党政治(憲政)への不信感は頂点に達する。

【林内閣→第一次近衛内閣(昭和12~13年 1937~38年)】
 6.1日、組閣の大命は貴族院議長・公爵・近衛文麿に降下する。彼は五摂家筆頭、近衛家の当主で貴族院議長も勤めたこともある人物。天皇家に近く、各方面にも顔が利き、腐敗した既成政党とも一線を画し、さらに革新官僚達ともつき合いがあり、若い頃には特権貴族で有ることに悩み平民に成りたいと漏らしたこともある革新思想の持ち主であった。しかし、大臣経験もなく、いきなりの首相就任で異例の人事となった。国難打開のため新しい政治が求められており、それに応じてフレッシュなイメージの人気政治家である近衛が実務経験もなく首相として大抜擢を受けた。

 6.4日、第一次近衛内閣が組閣された。この時近衛文麿首相は45歳、その長身の容姿とあいまって清廉潔白な清新味が国民に期待され、軍部も政党も、右翼も左翼も歓迎した。近衛首相就任は国民の心を一時的に明るくさせた。彼は皇道派の意見にも一理あると認めており、国体改革の必要性も感じていた。

 但し、河辺虎四郎少将回想応答録では次のように記されている。「近衛首相、広田外相など当時は軍に『オベッカ』を使っておった政府であります。何事でも、『軍はどういう風に思っておるか』というて心配する非常に勇気のない政府でありまして、『軍に問うては事を決するというやり方で、政治的に全責任を負い、戦うも戦わざるも国家大局の着眼からやっていこうというものはなかったことをつくづく思います」。石射猪太郎日記では次のように記されている。「日本は今度こそ真に非常になってきたのに、コンな男を首相に仰ぐなんて、よくよく廻り合わせが悪いと云うべきだ。これに従う閣僚なるものはいずれも弱卒、禍なるかな、日本」(8.20日)。 

 蔵相には軍備拡張に甘い馬場蔵相留任を望む軍部を何とか押さえて大蔵省次官だった賀屋興宣が就任する。「政策は金融緩和と借金による財政支出、軍事費たれ流しで、財政赤字と国債はどうにもならないところまで進行していくことになる」と評されている。

 国際収支の一層の赤字拡大により経済実状はますます困難になっている。しかし近衛は石原莞爾の構想に理解を示し「日満財政経済研究会」が昭和12年5月作成した「重要産業5ヶ年計画」の遂行が近衛内閣の至上命題となる。この経済状態では通常では金融引き締めと財政支出引き締めが行われなければ成らないところで、全く逆の経済政策が採られて行く事になる。

 賀屋蔵相はこの状況下では思い切った政策なしでは事態の切り抜けは不可能と考え「財政経済三原則」を設定し経済政策の中心に据える。その内容は、・「生産力の拡充」・「国際収支の適合」・「物質需給の調整」つまり生産力を拡充させるが、国際収支の赤字累積が増えないようにしなくてはならず、その為に必要な物資を調整する必要がある、という考え。更に言い換えると、金も無いのに軍備拡充とその為の重化学産業を育成するという無茶な計画を実現する為には、日本全体の産業を統制し重要産業の優遇、非重要産業の設備縮小または廃止をはかる、そのために政府が国全体モノの流れとカネの動きを直接統制する必要があると言う構想。

【カンチャス島事件】
 6.19日、黒竜江の中洲にあるカンチャス島にソ連軍の正規兵が上陸し、満州国人を追放、拉致する事件が発生した。これを「カンチャス島事件」と云う。重光葵駐ソ大使の抗議によりリトヴィノフ外相はソ連軍の撤退を約束したが、約束当日の6.30日、ソ連の小艦艇三隻が島の南側水道へ侵入し、カンチャス島の関東軍に射撃を加えてきた。これに対し、関東軍は速射砲で応戦し、ソ連艦一隻を撃沈、ソ連側死者2名、負傷者3名の損害を出した。7.1日及び2日、重光・リトヴィノフ会談の結果、ソ連側はカンチャス島から一切の兵力を撤収し事件は解決された。

 7.3日、カズロフスキー極東部長が、西参事官の来訪を求め、「約1個中隊の日本兵が、隣の小島に上陸し、陣地を構築しているのは、重光・リトヴィノフ会談の約束に反する」と抗議した。これに対し、西参事官は、「日本側はそれら諸島からソ連軍の撤兵を要求したが、日本兵を入れないと約束した覚えは無い」と突っぱねた。これがノモンハン事件の伏線へなっていく。

【盧溝橋事件発生】
 7.8日早朝、北平近郊の廬溝橋で日中両軍の衝突が発生した。これを廬溝橋事件と呼ぶ。この衝突はわずかの間に華北全域に広がり、やがて上海にも飛び火、中国全土を巻き込んだ戦争へと発展していくことになった。以降8年間も続くことになる日中全面戦争の始まりである。

 この廬溝橋事件で最も驚かされるのは、その異常なエスカレーションぶりである。この事件のそもそもの発端はほんの些細なできごと(夜間演習を行なっていた日本軍部隊の頭上を何者かが発射した十数発の銃弾が通過した)に過ぎなかった。しかし、たったこれだけのことが、一晩のうちに大隊規模の軍事衝突にまで発展してしまう。さらに、いったんは収まりかけたこの衝突が、一月もたたないうちに日中の全面戦争にまで拡大することになる。

 どうしてこうなってしまうのか。この事件の詳細を追っていくとまず浮かび上がってくるのが、面子にこだわり、功をあせる日本軍現地指揮官たちの姿である。この事件の場合、「発砲」を受けた部隊を指揮していた中隊長清水節郎大尉、その上官である大隊長一木清直少佐、連隊長牟田口廉也大佐の三人が、あたかも互いに煽り合うかのようにして些細な出来事を大事件にまで拡大してしまう。とりわけ、兵士一名が行方不明というだけの理由で大隊に出動を命じ、ついで再び銃声が聞こえたというだけで攻撃を許可してしまった牟田口の責任は重大である。その上、当然こうした軍の暴走を押さえるべき立場にあるはずの政府(首相:近衛文麿)が、逆に自ら先頭に立って戦線を拡大してしまう。

 関東軍による鉄道爆破という謀略で幕を開けた満州事変以来、日本は些細な「事件」(それもしばしば日本側によるフレームアップ)をとらえては中国側に難癖を付け、強大な軍事力で威圧しつつ利権と支配領域を拡大していくという、*なし崩し的侵略*を続けてきた。この廬溝橋事件も、この侵略路線の延長線上でいずれは起こらざるを得ない、いわば歴史的必然だったと言える。皮肉なことに、満州事変を引き起こした「功績」によって出世を果たし、陸軍内部にこの流れを作り出した石原莞爾は、盧溝橋事件ではその拡大を防ごうとして、自分の過去を忠実にまねた「後輩」たちに敗れ去る結果になる。【盧溝橋事件 -- 謎のエスカレーションろ溝橋事件考、満州事変考

 7月、岸信介(満洲国産業部次長)が満州「産業開発5ヶ年計画」統制経済に着手する。
 7.27日、日銀総裁に結城豊太郎が就任する。彼は就任直後の金融懇談会の挨拶で、「金融業者は悪戯に採算だけの観点に囚われず、多少手元が無理でも国債の所有を増やしていただきたい。このため生産力拡充資金に不足を来すようでは困るので、日銀は積極的に努力するから遠慮なく申し込んで頂きたい。日銀に貸し出しを仰ぐことを極力回避すると言った伝統はこの際打破すべきである。」と言う趣旨の話をしている。

 はっきり言って、石原莞爾は満州事変を見ても分かる通り軍事テクノクラートとしてはずば抜けて優秀な人物ある。「作戦の神様」とさえ言われていた。しかしこれはあくまでも軍事に関することのみ。近衛文麿にしても見識才能ともに卓越した人物である。しかし何せ実務経験がほとんど無い。従って両人ともに経済問題に対してはド素人に近い。しかもこの時点において、高橋是清を筆頭とする経済問題について見識のある人物達は、死亡・引退で全て第一線から退いている。後に残っているのは改革派の軍人と、国体改革に燃える新官僚達のみ。この経済素人集団のがこの後の日本経済を方向づける事になる。
【通州事件発生】(「友愛精神を踏みにじった通州事件」参照)

 7.29日午前3時、盧溝橋事件の3週間後、通州事件が発生している。通州は北京から18km、明朝時代に城壁が築かれた街で、天津からの集荷の拠点として栄えた運河の街でもある。事件直前まで日本人にとっては「治安の良い」場所とされており、日本部隊が駐屯していた。親日派の「冀東防共自治政府」が通州を治めていた。長官の殷汝耕は、日本人を妻にしており、9千人の「保安隊」を組織していた。事件当日、通州にいた日本人は380名。このうち、軍関係者(男)は110名、残りは婦女子だった。張慶餘が率いる第一総隊と張硯田が率いる第二教導総隊の合計で三千の保安隊が突如、日本軍を襲撃した。襲撃と同時に日本兵30名が死亡。この戦闘の最中に保安隊は自分達のボスだった殷汝耕を拘束、同時に日本人の虐殺を開始した。居留日本人380名中、260名が惨殺された。次のように報道されている。

 「旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆な強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった」。

 通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述は次の通り。

 「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」。

 支那駐屯歩兵第2連隊小隊長桜井文雄証人の証言は次の通り。

 「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここのゴミばこの中や壕の中から続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部にほうきを押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水が血で赤く染まっていたのを目撃した」。

 事件の日の夕方、前日まで通州に駐屯していた萱島無敵連隊が事件を知り、通州に急行した。日本軍守備隊に運良く逃げ込むことができた120人だけが助かった。張慶餘と張硯田率いる中国軍保安隊は北京付近で翌30日に日本軍と遭遇、粉砕された。張慶餘と張硯田は中国人の国民服である「便衣服」に着替え逃亡した。張慶餘は中国共産党人民解放軍の中将にまで出世した。1986年には革命の英雄気取りで回想録まで出版している。保安対の総責任者で日本人女性を妻にしていた長官の殷汝耕は、事件後、日本軍の手に戻され裁判で無罪となり、犠牲者追悼の義捐金を集めたり供養搭を建てたりの活躍をしたものの、日本の降伏後、蒋介石により親日分子の烙印をおされて処刑された。


【通州事件考】
 「★阿修羅♪ > 戦争b15 >」の赤かぶ氏の2015 年 4 月 07 日付投稿「中国の日本人虐殺「通州事件」 鼻に針金通し青竜刀で体抉る(SAPIO2015年5月号)」を転載しておく。

 中国の日本人虐殺「通州事件」 鼻に針金通し青竜刀で体抉る
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150407-00000023-pseven
 -cn
SAPIO2015年5月号


 戦後70年、中国は自らが犯した戦争犯罪をひた隠しにしてきた。その一つが、多数の在留邦人が虐殺された「通州事件」だ。残されたわずかな記録からその封印を解く。その凄惨な事件は、日中が本格的な軍事衝突を始めた盧溝橋事件(*注1)直後の1937年7月29日、北平(現在の北京)近郊の通州で発生した。
 【*注1/1937年7月7日、日本軍と中国の国民党軍の間で起きた武力衝突事件。中国共産党軍が事件を誘発させたとの説が有力となっている】

 当時、満州国と隣接する中国・河北省には、蒋介石の国民党政府から独立し日本人が実質統治していた「冀東(きとう)防共自治政府」が置かれていた。自治政府は九州と同程度の面積で、人口はおよそ700万人。「首都」である通州には400人近い日本人が暮らしていた。自治政府の首班は、日本への留学経験もあり、日本人の妻を持つ親日派の殷汝耕(いんじょこう)。通州には邦人保護を目的とする日本軍守備隊も駐留しており、比較的、治安は良好だった。ところが、突如として自治政府の中国人保安隊約3000名が武装蜂起し、首班の殷汝耕を拉致した上で日本軍守備隊と日本人居留民を奇襲したのである。事件当時、通州に滞在していた米国人ジャーナリスト、フレデリック.V.ウィリアムズ氏は、惨劇の様子を自著『Behind the news in China』(1938年)で克明に綴っている。

 「それは一九三七年七月二十九日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別も付かなかった(中略)何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ」(訳書『中国の戦争宣伝の内幕』芙蓉書房出版刊・田中秀雄訳)

 事件の当日、日本軍守備隊の主力は南苑での作戦(*注2)に投入されており、通州に残る守備隊はわずか100名に過ぎなかった。守備隊は30名の兵を失いながらも必死の反撃を続けたが、翌日、日本軍の応援部隊が現地入りするまでに、223名(防衛庁編纂『戦史叢書・支那事変陸軍作戦1』より。260名~300名とする説もある)の邦人が虐殺された。

 【*注2/日中戦争初期の戦闘「平津作戦」のひとつ】

 事件の首謀者は、自治政府保安隊幹部で反日派の張慶餘(ちょうけいよ)と張硯田(ちょうけんでん)だった。両者は直前に起きた「盧溝橋事件」で日本軍と武力衝突を起こした国民党軍第29軍と予てから密通し、武装蜂起の機会を窺っていた。背後で糸を引いていたのは中国共産党だ。 当時、蒋介石率いる国民党は中国共産党との「抗日共闘路線」に舵を切っており、第29軍の主要ポストにも複数の共産党員が充てられていた。日本と国民党政府の全面対決を画策する共産党は、冀東防共自治政府とその保安隊にも「抗日分子」を浸透させ、日本人襲撃計画を立てていた。 通州の惨劇は、中国共産党の謀略による“計画的テロ”だった可能性が高い。

 当時の新聞各紙は「比類なき鬼畜行動」(1937年8月4日・東京日日新聞)、「鬼畜 暴虐の限り」(1937年8月4日・読売新聞)といった見出しで冀東保安隊による殺戮の一部始終を報じ、事件直後に現地入りした読売新聞社の松井特派員は、惨状をこう伝えていた。

 「崩れおちた仁丹の広告塔の下に二、三歳の子供の右手が飴玉を握ったまま落ちている。ハッとして眼をそむければ、そこには母らしい婦人の全裸の惨殺死体が横たわっているではないか!(中略)池畔にあげられた死体のなかには鼻に針金を通されているものがある(中略)男の鼻には鈎の様に曲げられた十一番線の針金が通され無念の形相をして死んでいる(後略)」(1937年8月4日・読売新聞夕刊)

 事件後の現場には、青龍刀で身体を抉られた子供や、首に縄をつけて引き回された形跡のある男性の死体もあった。この事件後、日本国内の対中感情が急速に悪化し、日中戦争の泥沼に向かっていった。

 01. 2015年4月07日 17:28:24 : b5JdkWvGxs
 通州事件は冀東政権による麻薬の密造・密輸によって悪化した中国の麻薬汚染に憤激した通州の市民が、保安隊反乱の混乱に乗じて日本の居留民及び朝鮮人に報復した抗日事件 。陸軍省の1937年8月5日の調査では死者184、男93,女57、損傷がひどく性別不明の遺体34、生存者は134名(日本内地人77、朝鮮人57名)だった。 朝鮮人慰安婦も殺害されている。信夫清三郎は、朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示しているとした。 通州事件の評価・位置づけには少なくとも以下の三点への留意が必要である。 第一は、事件が中国で、それも日本のさらなる中国侵略の拠点とされた通州で発生したという単純な事実である。 中国軍が日本へ侵攻し、たとえば九州で引きおこした日本人虐殺事件ではないのである。異なる次元・地平に属するものを相殺のためにもち出すことはできない。 第二は、中国側にとってもある意味で「魔の通州」と呼ぶべき事情が存在していたことである。 通州は冀東政権の本拠地であり、華北併呑の舌端であるとともに、アヘン・麻薬の密造・密輸による「中国毒化」の大拠点であった。 ヘロイン製造にあたった山内三郎は「冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、奔流のように北支那五省に流れ出していった」と記し、 中国の作家林語堂は「偽冀東政権は日本人や朝鮮人の密輸業者、麻薬業者、浪人などにとって天国であった」と書いた。 信夫信三郎「通州事件」は「日本の中国『毒化政策』に恐怖し憤激した通州の市民が保安隊反乱の混乱に乗じて日本の居留民―および朝鮮人に―に報復した抗日事件」として通州事件をとらえた。 結論 わざわざ中国を占領して麻薬売買をやって稼いだ日本政府が一番悪い。
02. 2015年4月07日 17:36:00 : 43n9APMvqg
 ●ネトウヨくんに贈る「通州事件」講座
 http://togetter.com/li/652580
(私論.私見)
 通州事件の責任を日本政府に求めたり、中国共産党の仕業とかみなすのは凡俗過ぎてお話しにならない。本件の糸引き犯は後の南京大虐殺事件の演出と同じく国際ユダ屋とみなさないと真相が掴めない。「事件当時、通州に滞在していた米国人ジャーナリスト、フレデリック.V.ウィリアムズ氏は、惨劇の様子を自著『Behind the news in China』(1938年)で克明に綴っている」とあるのがいつものやり方であり、米国人ジャーナリスト、フレデリック.V.ウィリアムズ氏が国際ユダ屋陰謀事件のレポーターであり、「Behind the news in China」がそのレポートである。重大事件に登場するジャーナリストや神父は皆なこの類である。こう確認せねばなるまい。

 2015.4.7日 れなんだいこ拝

 戦慄!凄惨!血に飢え、たけり狂った冀東軍の200名の日本人居留民虐殺事件を当時同盟記者として生き残った筆者が発表。初出:文藝春秋臨時増刊号『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「通州の日本人大虐殺」( 解説 を読む) 安藤利男/文藝春秋 増刊 昭和の35大事件。
 「通州に何事か起きた!」立ち上る黒煙に”冀東保安隊の寝返り”

 昭和12年7月29日。北平(今の北京)の城壁の上に立った市民は東方、城門の向うに、ウッスラ白煙の動くのを見た。やがてそのうす煙りは、黒いかたまりとなり、一条の大きな円柱を作って高くのぼっていった。北平の東で目ぼしい所といえば、まず、30キロ程の先の通州である。通州に何事か起きた! 市民はすぐにそう直感したことであろう。それほど北支は、日本軍と宋哲元軍の衝突の結果蘆溝橋事件とか広安門事件とか続出の騒然たる物情であった。通州の異変と判断しても、それがどんな状況や真相なのか、その朝、北平の日本人で誰も分ったものは1人としていない。外人新聞記者が駈けつけて来て質問をしたので、通州と電話連絡をとろうとしたが、受話機はうんともすんとも石のように音はしなかった。市外との電線は切断されていたのである。

 北平の軍当局へ第1報がついたのが、31日の朝だと云うのだから、その頃の北平が、どんなに、てんやわんやだったか想像がつくのである。実は通州ではたいへんなことになっていたのである。29日午前4時頃から闇をひき裂いて銃声がなり始めていた。北平で、はるかに見てとった、おびただしい煙りのその下では、何ぞ思いもかけない冀東政府保安隊が叛乱を起して、日本居留民虐殺と云う大それた仕事に、とりかかっていたのである。

 当時通州にいた日本人は約300名、なかに多くの韓国人も交っていた。たまたま筆者はその時、この業火のなかにあった。生と死の間を、紙片の様に往来していたのだ。奇蹟のように虎口を脱し、北平の城郭へ、辛うじて辿り、始めて詳しく「通州虐殺事件」の真相をニュースとして送り出したのだった。日本人約300名のうち、あとで生存と発表された者は、たしか131名だった。何しろ人の動きの激しい時のことだから犠牲者の数字は明確につかみようがない。ともかく200名以上は惨殺されたといってよいだろう。冀東政府といえば、北平に公署をもつた宋哲元の冀察政務委員会よりは、親日性格の強い政権であった。しかも冀東政府長官殷汝耕氏は、日支提携協力論者として強い信念の人であった。だから日本軍も冀東保安隊には信頼をおき、軍事上も通州は安全な後方地帯と考えられたものらしい。兵站基地として、蘆溝橋事件以後は、武器弾薬がうんと送りこまれて来た。29日の朝、魔の報せとなった通州上空の黒煙も兵営広場に積み上げられていた石油ドラムの山に砲弾があたって燃えさかる煙だったのである。皮肉な話である。親日と信じこまれていた冀東の保安隊が「寝返り」を打ったのである。

 「勝といったら利と答えればいいんだぜ!」繰り返される勝利報告

 通州は小さくはあるが、北京のようにやはり城壁に囲まれ、城門があって、これを閉めれば出入りは遮断される。城壁の北側にそって、天津へ通じる運河が流れ、城内中央に、高く仏塔がたって、野鳥がそのいただきを群をなして飛んでいた。冀東政府の建物は仏塔のもとにあり、附近に蓮池が広がっていた。

 それをのぞんで、こちらのふちに近水楼と云う旅館とも割烹ともつかぬ日本人経営の宿屋があった。日本人の女中さんが十数名働いていたが、ここへ来る日本人の軍人や実業家が、宴会に宿泊に利用する唯一の場所である。事件の夜は筆者もその宿の座敷に輾輾反側、ひどい暑さに寝苦しかった。当時菅島部隊といって2、300名の通州派遣軍がいたのだが、それが29日朝から附近に駐屯の宋哲元軍に攻撃を加え、これを追払って、そのまま北平の南苑方面の戦闘にまわって了った。残ったものは、通信兵や憲兵の少数で日本軍兵営は留守同然であった。

 筆者はその28日の夕刻までの間を、冀東政府の建物に出入していたが、どの部局の部屋へ入ってもざわめきたっていた。どこから送られてくるものかしらなかったが、ラジオはさかんに支那軍の全面戦勝を放送していたのだ。蔣介石が南京から鄭州まで北上してきたとか、支那軍の飛行機200機が前線に出動するとか、どこでもここでも、勝った勝ったの放送が、しつこく飛ばされていたのは事実である。冀東の役人達がいっていた、今夜の合言葉は、勝といったら利と答えればいいんだぜ! その何か起きそうな剣呑な形勢は、こんなことからも察せられたのである。

 「身の毛もよだつ叫喚悲鳴が」息を殺して待った2時間

 銃声は午前4時に始まった。飛びおきると電話機をにぎったが切られていた。池を渡って来るように銃声がひびいてくる。それは政府の建物の方向からであるが、暗夜のことだ、出かけて見るには気持がわるすぎた。ほかの人達もぼつぼつ起き出してきた。何事だろう……名も名のりあったこともない、一夜の相客ばかりだが、ひたいを寄せて案じあった。銃声はますますはげしくなるばかり、不安のうちに空は白んで来た。2階に上って窓からのぞくと、南の方に白煙、黒煙が上っている。

 事態は只事ではない。それは確かだがまさか保安隊の寝返りとはその時はまだわからなかった。8時頃になると昨夜、外で泊った、近水楼のボーイが口もろくろくきけずにかけこんで来た。「特務機関あたりの日本の店やカフェーのところで、日本人が大勢殺されています。大変だ!」これが第1報だった。さてそれからは生還直後の私の遭難手記の一頁はこう書いている。

 「近水楼にはまだ危険がないので少しは安心していたところ、午前9時頃から、56軒先の支那家屋あたりで盛んにピストルがパンパン」なり出した。それが次第にこちらへ近づいて来る。さらに隣家の軒近く、次ぎにはついに近水楼の裏の窓ガラスが1弾の銃声とともにバリバリと四散した。びっくりして一同は、一斉に2階に駈けあがり、俄かに畳をおこして防壁を作り、78名の女中は押入れにかくれ、男はじっと様子を見とどけると云う工合でとうとう恐しい運命の火の手はここにも押しよせて来た。1人の客の智恵で置根裏にかくれることにきめ、テーブルを重ねて19人のうち11名が天井窓から屋根裏にあがったが、間もなく足もとが俄かに騒がしくなると銃声が屋内にパンパンひびき、下では早くも虐殺が始まったらしい。銃声にまじって身の毛もよだつ叫喚悲鳴がきこえる。私はそっと躰を起して、屋根裏の硝子窓から外を見ると、何ぞ蓮池の中の道を渡って、暴徒が笛を合図にドヤドヤと屋内に闖入し、ピストルを放っては喊声をあげ、大掠奪を始めているではないか。最初保安隊の一部は、これを阻止するかの様に声を嗄らして制止していたが、発砲しないので結局ほしいままに掠奪が行われたのだ。この一団が引き揚げるとこんどは保安隊自身が掠奪を開始し、客のカバン、布団、テーブル、扇風機、衝立といった順序で、しまいにバリバリと物をはぐ音さえ足もとに聞える。私達は息を殺して、恐ろしい2時間の屋根裏籠城を送った。私たちのかくれていた屋根裏が発見されたのは正午近くであった。運命はきまった」と。

 天井窓から引きおろされ、身につけていた有金のほか、ハンカチにいたるまで、とりあげられたのは云うまでもない。不思議に筆者はその時、シャツの下に腕時計が残った、これは後で役に立った。そして男6名は一本の麻なわで腕を数珠つなぎにしばられた。筆者が最初であった。眼鏡をはずされたときこれはいよいよ殺すつもりだ。と直感したのをいまも思い出す。引立てられて梯子段を降りかかると、ここで初めて、足元に惨殺死体のころがっているのを見た。女中さん達だった。3、4人、無念の相に唇から血をふいてそのむごたらしい有様はいまとなってこれ以上書くのは忍びない。

 「逃げましょうッ」虐殺から逃れた、長く一瞬の出来事

 間もなくあの姿になるのだ! そう観念した。この日本人の一群は、覚悟は決めたが誰の顔にも血の気はなかった。それでも今考えてもあの時のあの人は気丈な日本女性だったと感服する。台所へまわった一人の女中さんがあって丼に一ぱい水をはこんで来た。つまり、近水楼裏庭の水さかずきだ。初めはそんな余裕も少しはあった。それで皆で静かに呑み干すと男は縄をひかれ女はそのあとについて蓮の葉のある池を横切る土の橋を渡っていった。声はなかった、行く先が死場所だったことは云うまでもない。その時途中で、政府建物の一角につれこまれたが、そこにも同じ運命の日本人の一群がいた。あとから入って来た人達もあった。ざっと見て80名から100名近い人だったと思う。

 はしゃぎ切た叛乱兵が銃を荒々しく振りまわしたり、監視の眼が鋭かった。時々嘲けるものもいた。2時間あとこのとらわれの日本人の一団は通州の北門に近い城壁の内側に立たされ、そこが地上の最終の場所となったのであるが、200余名の犠牲者のうち(筆者もこの中に加わっていた)おそらくこの集団の場合が、1番大きな虐殺の場面であったと判断出来る。数から見てもそうだが、夜明けから朝にかけて表通りの日本人は自宅や、逃げ出す途中をあちこちで殺されていたからである。筆者は今、通州脱出直後にかいた自分の銃殺される場面の手記を読んでは伏せ、伏せてはのぞきこんで、ジーンと頭のなかが鳴るのを覚える。銃殺場への道はながくはなかった。真昼の陽が高く、焼けつくようだった。足を引きずりながらウネウネと露路をぬけると道は絶えて空地に出た。左側に城壁が、前面に立木か56本、城壁の夏草が心もち風に動いていた。1ぴきの蟬の音が、声なき者の耳に澄みきっていた。砲声が小止みになって不思議な静寂のひとときがあった。

 しかしそのころには、殆んどの人の心はもう自分から死んでいったようなものだ。銃殺場というのは、左側城壁の、つまり内側の土が崩れて斜面を作っていた場所にあたる。どぶがあって、水が黒く、悪臭が漂っていた。ここまで来たみんなは、このどぶから斜面に通じる細道を渡って上へのぼるようにせきたてられた。筆者は先頭だったので、城壁の頂上に一番近い位置をとった。

 最後の一かたまりが渡りきるまで、5、6分もなかったろう。その頃はもう4、50名の兵隊が、どぶをはさんだ反対側に列をつくり、斜面に対していた。縦になっていた銃が次第に「狙え」のかまえに横にかえられた。瞬間、サッと殺気が走って、アッその時、裂帛の女の叫び、「逃げましょうッ」と。その声は冀東政府で見た事のあるタイピストの、あの人の声ではなかったろうか。一瞬この叫びと筆者の跳躍とどちらが先かあとかとっさの事だった。そして城壁のふちに手をかけると、壁画に腹ばって、むこう側三丈余をすべり落ちていった。銃声がはげしくあとを追いかけてひびいた。これが虐殺の日の筆者が知る最後の場面であった。

 「賑やかにわたる三途の河原かな」死の街・通州に残る怨念

 当日、同じ城内でも危く難をまぬがれた幸運の人達も相当あったのである。131名といわれた生存者のうちには、事件を早く知って、未明のうちに兵営へ逃げこんだものが多かった。留守同然の兵営がどうにか守り通せたと云う蔭には少数の憲兵や通信兵の犠牲があるが、いまともなれば滑な話もある。

 その時営庭には無数の弾薬が積まれてあった。それに弾があたって、一ぺんに、はね出した。その激しい音を聞いた叛乱軍は手強いとみたか、応援軍の到着と見てとったものか、俄かに逃げ出したと云うのである。怪我の功名みたいなお話である。

 しかし実のところ、本物の日本軍が駈けつけたのは、それから、2日あとだった。叛乱軍はとっくに城外に逃げ出していた。居留民にとっては、すべてが後の祭りであった。それこそ犬の子一匹のかげもなかった。とあとで人は言った。文字通り死の街通州だけが残っていたのである。そして、どこかでこんな話も聞いた。北門の銃殺場の跡にいって見たら、そこにちらばっている多くの死体の中から、中年の男の人の手のひらに、ペンで「賑やかにわたる三途の河原かな」と書かれてあったと。これだけの辞世の句をよんで、あの際あの時、あの恐しいどぶの細道をわたった人と云うのはよほど心に余裕のあった人物に違いないと思う。こんな人はまれだったようだ。それはそれとして通州では日本人の恨みは長く続いたと云うのがほんとうだ。誰いうとなく化けもの話が伝わったものである。

 細い露路がある。道を入って行くと子洪の泣声がして、そちらを向くと、女の広い帯だけが路上に引きずられていくのを見た。ハッとするといつのまにか、その子供の泣声も女の帯も消えてしまった。人魂がとぶ。幽霊を見た。そんな話が随分つたえられたものである。

 ”裏切り”がなければ通州の悲劇は生れなかったのか

 さて、それではこの惨劇を起した通州事件の原因、真相とは何であろう。

 友軍の間柄だった冀東保安隊は一夜にして寝返り、ところもあろうに一番安全地帯だと信じられた通州に、日本人虐殺事件を起したのだ。そこで当時おきていた数多の前後の事情のうち、第一にあげねばならないものは、冀東保安隊幹部訓練所爆撃事件である。これが日本軍の手でやられたと云うのだから、驚いたものである。これが少くとも直接の原因だったといってよい。事件前々日の、27日、日本軍が通州の宋哲元軍兵舎を攻撃した。その時一機の日本軍飛行機は、どうしたものか、宗哲元軍兵営でなく、冀東兵営を爆撃した。冀東兵営には冀東政府の旗、五色旗がひるがえっていた。

 びっくりした冀東兵営はさらに標識をかかげて注意をうながしたがそれにもかかわらず、爆弾はそれからも落されたのだ。死傷者も出た。憤激し切った保安隊幹部がすぐに当時の陸軍特務機関長だった細木中佐に抗議したのはいうまでもない。慌てたのは同中佐と殷汝耕冀東政務長官である。保安隊の幹部連はそのころにはもう、いや気がさしてちりぢりに飛び出していたので殷長官がこれを一カ所に呼び集めるのに一苦労だったと云う。2人は百方言葉をつくして釈明につとめたが結局日本軍の誤爆によるものというその一本槍のほか、説明のしようもない出来ごとだった。あとで聞いたところでは、この日本軍の飛行機は、天津や北京から来たものではなくて、朝鮮から飛んで来たものだともいわれた。地上戦闘と飛行機の連絡がまずかったものか、出来なかったものか、それとも冀東兵営と知りながら狙ったものなのか、その辺のところまで来ると当時の状況については、ついにその後も分らずじまいにされている。

 ともかくこの爆撃事件が冀東保安隊の寝返りにふんぎりを与えたことは事実のようだ。この爆撃事件がなかったならば通州事件の惨劇は生れなかったということと、この爆撃事件を起したものが通州事件の張本人だという人もいる。

 日本軍も追及した「通州事件の責任者は一体誰なのか」

 冀東政府の主人公殷汝耕長官は保安隊叛乱の渦中にいてどうしていたか。彼は前夜深更まで細木特務機関長と政府建物長官室であったのち、間もなく29日午前2時頃叛乱部隊の侵入を受けて、そのまま行動の自由を失った。細木中佐は宿舎への帰途、政府附近の道路上で戦死している。特務機関副官、甲斐少佐は自分の事務所前で多数の叛乱兵と切りむすび、白鉢巻姿で仆れた。

 叛乱の主力部隊は保安隊第一、第二総隊であった。城内を荒らしまくった叛乱軍は殷長官を引立てて通州城外へ出た。行き先は北平であった。叛乱軍は北平にはまだ宋哲元軍がいるものと判断したらしく、殷長官を捕り物にして、宋哲元軍に引きわたし、同軍に合流をはかろうとしたのらしい。だが宋哲元は日本軍の28日正午期限の撤退要求のため29日未明には北平を出て保定に向っているので、叛乱軍が安定門についた頃にはもう北平にはいなかった。叛乱軍は一たん城壁の外側にそって門頭溝へ向ったが、このへんで日本軍にぶつかり攻撃をうけ部隊はこの戦闘でいくつかに分散した。

 そこで殷長官は安定門駅の駅長室から今井陸軍武官に電話をかけ、救出された。長官を手放した保安隊は附近をうろうろしているうちに間もなく同じ城門外にあった日本人の手で、おとなしく武装解除された。それを見ると全部が全部悪党ばかりでもなさそうな所もある。

 通州事件の責任者は一体誰なのか、日本軍は当然その問題にぶつかった。そのころ天津軍は今井少佐に対し殷氏を天津軍に引渡すよう要求していた。少佐の気持は反対だったようだ。しかし結局はそうなっていった。

 殷氏の躰は六国飯店から日本大使館のとなりの日本軍兵営の中にある憲兵隊の一室に移され、ここでしばらく不自由な日を送るとやがて天津へ護送され、天津軍憲兵隊本部に監禁された。北平の憲兵隊にいたとき、殷氏は、関東軍の板垣陸軍参謀長、東京の近衛公へ通州事件がどうしておきたか、その経緯をしたためた手紙を書いて、これを殷氏夫人、(日本人)たみえ夫人の実弟にあたる井上氏に托し新京と東京とへ、飛ぶように依頼している。だが井上氏もまたある日、憲兵隊に足を入れたまま行動の自由は奪われてしまった。そこで殷氏の手紙も井上氏のポケットから憲兵隊にとりあげられてしまった。

 中国の戦犯として銃殺された殷汝耕の最期

 天津憲兵隊の訊問はその年の暮まで続いた。半年近い獄生活ののち12月27日、当時、訊問に当った太田憲兵中佐は本部2階の一室に殷氏と井上氏。そのほか3名の冀東政府中国人職員の5名を前に、「天皇陛下の命により無罪」と言ったそうだ。

 この被告生活のうち、それでもただ一つ、温い場面があった。たみえ夫人は、通州虐殺事件の時には、天津にいて難をまぬがれたが、その後、重病になり、もう絶望という時期があった。同じ天津にあっても、病院にねて、動きもとれぬ間、太田中佐は殷氏をソッと連れ出して瀕死のたみえ夫人の病床におくりこんだ。たみえ夫人は奇蹟のように、その後恢復にむかい、18年後の今日、殷氏は南京の中山陵附近の募地に眠り、たみえ夫人は、日本に余生をおくっている。

 通州事件後政界から姿を消していった殷氏は北平で終戦の年の12月5日の夜、団民政府の要人載笠氏の招きで宴会に出たままその場で捕われ、多くの当時の親日政客と同じように、北平の北新橋監獄に送られる身となった。そして民国36年(昭和23年)12月1日中国の戦犯として南京で銃殺され、59年の生涯を閉じた。たみえ夫人はちょうどその一年前、北平から南京へとび、獄舎に10日間ほど物を運び、つきぬ話をしてきた。それが殷氏との最後であった。

いつの時代でも、恐しいのは狂った政策である

 殷氏が南京高等法院の法廷で述べた陣述のうち、冀東関係の部分に「自分が作った冀東政府は当時の華北の特殊な環境に適応したもので、当時華北軍政の責任者宋哲元の諒解をえていた」と記録されている。獄中ではもっぱら写経をこととし「十年回顧録」も書いた。長衫皮靴のこの文人の、仏弟子となり最期は悠々として立派なものだったことは、その忠僕、張春根さんが、墓石を据えたあと、北京のたみえ夫人に、伝えた話をきけば明らかである。

 夫人には南京で会見の折り日華の提携の必要をあくまで説き、最後の死刑場では、「自分は戦犯ではない、歴史がそれを証明する」と刑吏に語り御苦労だった! といって悠然と世を去って行ったということである。

 張春根さんが北平のたみえ夫人にとどけた、罫紙3枚の遺書と最後の写真とは、たみえ夫人の胸にしっかりとだかれているが、夫人は「主人が刑場で遺書をかきおわってから、春根はまだ来ぬか、まだか……と待ちつづけて、ついに銃殺の時刻に、間にあわず、飛びこんだ時はこときれていた。この春根の主人につくしてくれた話を、日本の人に書いて知らせて下さい」とせきこむようにいっていた。

 春根さんというのは殷氏の運転手で、通州事件で、彼の主人が苦境にたった折も、とうてい人には出来ぬ働きをしている。

 殷氏の遺骸を、自分の手で葬むるまで、30年のながい間、忠勤をはげんだこのひたむきな人も、中共が入ってきてからは、戦犯につくしたと云うかどで、激しい追求の眼にたえきれず、とうとう狂い、同じ南京で自殺をとげた。悲惨な話である。これも通州事件余話の一つ。いつの時代でも、恐しいのは狂った政策である。

 通州事件も、大きく見れば、当時の日本がたどった、中国の気持や立場を、まったく思いやらない、不明な政策と強硬方針がわざわいした犠牲の一つである。


 9月、この頃より我が国は急速に自由経済から統制経済へ移行していった。最初の戦時立法「輸出入品等臨時措置法」が公布され、後刻毛製品に対するスフの強制混入等繊維業界への統制が始まった。これが走りとなり、翌年の「国家総動員法」で準戦時体制から完全な戦時体制に移行する。
 9.2日、「蘆溝橋事件」による日本軍と中国軍の衝突事態は予想を超えて拡大し、「北支事変」が「支那事変」と呼称され、宣戦布告なき戦争へ向かっていくことになった。
 選挙。無産党系議員が42(←23名)。社会大衆党は37(←18名)。麻生も含めて最高点当選者19名、総得票数約百万票。
 1936-37年頃、迫り来る戦争の足音を前にして、コミンテルン派の小林陽之助、山本正美らを中心とする人民戦線が計画され、労農派の山川均、荒畑寒村、鈴木茂三郎ら、無産大衆党、全国評議会を中心に組織化されていった。

 麻生の指導する社会大衆党は拒否した。麻生は、1937.6月号の改造に次のように記している。「5.15事件以来5カ年間に、斎藤内閣2年、岡田1年半、広田1年、林3ヶ月なるに比して、社大党は3名から37名となった。鬱然たる政治勢力である。日本革新の展望はもはや左程遠方ではない」、「今後の問題は、現状打破、革新断行を為し得る革新的新政権が如何なる過程を辿り数年後に、如何なる勢力の合同の下に、如何なる形で出来上がるに至るかが問題であって、それが出来上がるべき方向は最早必至となりきたったのである」。「5.15事件は窮迫せる農民の絶望の表現として理解するのでなければ、その歴史的意義を汲み取ることは不可能であろう」。
 11月、里見甫(さとみ はじめ)が上海に移る。参謀本部第8課(謀略課)課長★影佐禎昭(谷垣禎一の祖父)に、特務資金調達のための阿片売買を依頼される。(1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂の副董事長(事実上の社長)に就任する。)(なお戦後、千葉県市川市国府台の總寧寺にある里見の墓の墓碑銘「里見家之墓」は、★岸信介元首相の揮毫による。)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB


 11.8日、中井正一新村猛世界文化』同人の一斉検挙開始。  
 12.13日、 南京陥落、日本軍が南京城内へ入城。南京虐殺事件が発生したとされる。
 11.24日、矢内原事件。東京帝大経済学部長・土方成美、矢内原忠雄教授の言論活動を非難。12月4日:矢内原辞職。
 12.15日、第1次人民戦線事件。山川均、猪俣津南雄らの労農派および加藤勘十、鈴木茂三郎らの左派社会民主主義者を417名検挙。
 12.22日、日本無産党および日本労働組合全国評議会の結社禁止。
【1937年の以降の動きは、「南京事件の直前の動き」の項に記す】
1938(昭和13)年の動き

 (この時代の総評)

 1.11日、御前会議で、対華国策決定。
【近衛首相が、「国民政府相手にせず」声明を発布】
 1.16日、近衛首相が、戦況が拡大する中で、独の仲介で和平の動きもあったが、対支那和平で「国民政府相手にせず」声明を発布した。「帝国政府は南京攻略後、シナ国民政府の反省に最後の機会を与うるため今日に及べり。然るに国民政府は帝国の真意を解せず、漫りに抗戦を策し内人民塗炭の苦しみを察せず、外東亜全局の和平を顧みる所なし。かくて帝国政府は爾後国民政府を相手とせず」云々(1938.1.17日付け「東京日々新聞」夕刊所載)。日華事変をいよいよ抜き差しならないものにしてしまった。

 2.1日、第2次人民戦線事件大内兵衛美濃部亮吉労農派教授11名ほか24名の検挙。
 2.17日、防共護国団員が国家総動員法に慎重姿勢を示す政友党、民政党本部を占拠。
 2.18日、中央公論3月号掲載の石川達三生きてゐる兵隊」発禁。
 2月、近衛内閣が、議会で国家総動員法、電力国有化法案を可決。

 3.3日、「黙れ」事件。同日:安部磯雄襲撃事件


 3.11日、社会大衆党代議士西尾末広の政府激励演説が問題化。「ヒトラーの如くスターリンの如く」と発言し同月24日に議員除名。


 3.13日、ドイツ、オーストリアを併合。


 3月、岸信介が、42才の時、満洲国総務庁次長となる。
 3月、里見甫(さとみ はじめ)が阿片売買のために三井物産およびのちの興亜院主導で設置された宏済善堂の副董事長(事実上の社長)に就任する。上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立する。4月、三井物産が上海へ阿片約3万トン。
【国家総動員法成立】
 3.24日、国家総動員法成立。前年に成立した「統制三法」のお陰で、必要物資が殆ど軍需品に取られることになり、民需では全国的に物不足が深刻化してインフレが進む。政府は公定価格を設定し沈静化を狙うが闇経済が発達するだけ。そして支那事変の長期化により増大する戦費。昭和12年末の通常国会では、臨時軍事費として48億5000万円が提出される。(同じく提出された一般会計は35億1400万円。)この財源は公債と「支那事変特別税」でまかなわれることになった。

 さらに日本軍は兵器弾薬不足にも悩まされていた。近代戦においては莫大な数の弾薬を消費する。盧溝橋事件後6ヶ月で弾薬庫はほとんどからに近い状態になっていた。しかも日本にはこの莫大な消費に見合う生産能力がない。これらの問題を解決するため、昭和13年4月1日、企画院が提出した「国家総動員法」が成立。5月5日に施行される。

その詳しい内容は、

労働、物資、資金、企業、施設の動員統制
労働争議の禁止
新聞その他出版物の掲載、配布の統制
国民の職業能力の申告
技能者の養成
国民の物資の保有統制

等々。まさに国民生活全てを統制し(労働統制、物資統制、金融統制、価格統制、言論統制)、戦争に備えようとする法律。「国家総動員」体制の確立を理想として掲げてきた軍部と、それに接近していた革新官僚達による経済統制が実現段階にはいる。

 この法律は、「戦時に際し、国防目的達成のため、国の全力を最も有効に発揮せしめるよう、人的、物的資源を統制運用する」のを目的としており、我妻栄氏によると、「要するに、総力戦の始まったときに、議会の協賛なしに国内の総力を動員できるように、政府に対して広範な権限を与えておこうとする法律」であった。近代国家は司法・行政・立法の三権分立が基本である。それがこの法律では、戦時に限ってではあるが行政、つまり政府に臨時的に統制のための法律制定の権利が移る。これは政府が立法府、つまり国会から白紙委任状を受けたのと同じことである。国会は以後、完全にその機能の停止状態となり、軍部・政府の単なる言いなりになる機関となる。

 ちなみに、戦費は臨時軍事費特別会計により、戦争が終了した時点での一会計年度決算だったため、この時点で支那事変の戦費がどの程度掛かっていたのか不明の状態です。外から分からぬ内容のため軍部は好き勝手に予算を使えたようです。

 一般・臨軍両会計の歳入構成は、租税と公債の割合が11年度の時点では5対3だったものが、12年度以降は公債の方が多くなり、16年度には3対6にも達している。早い話、戦費の調達はほとんど公債の発行に頼る形になっている。この時点あたり、政府には公債発行を一定限度に押さえ込む考えは、全く無くなっています。

 5.19日、日本軍除州占領。
 5.26日、近衛内閣の改造で、宇垣大将が外相に就任。但し、在任僅か3ヶ月で辞任。板垣陸相就任。
【張鼓峰事件事件】
 7.11日、張鼓峰事件起る。突然ソ連兵が張鼓峰の頂上に現れ、満州側の斜面に陣地の構築を始めた。重大な挑発行為であった。

【東京オリンピック大会中止の閣議決議】

 7.15日、この日の閣議において、東京大会中止の決議、東京大会の開催返上がなされた。

 以下、「第12回大会の開催返上そして第18回大会開催へ」を参照する。
 1929年、来日していたエドストローム国際陸上競技連盟会長(スウェーデン、元国際オリンピック委員会会長)と山本忠興日本学生陸上競技連盟会長の間で、第12回大会の東京開催の可能性について意見交換された。1930.6月、国際学生陸上競技選手権大会に総監督としてドイツに赴こうとしていた山本博士と、当時の永田秀次郎東京市長との会見の席上、山本博士が、永田市長に対し、「1940年(昭和15年)は紀元2600年にあたる。第12回オリンピック競技大会を招致し、我が国がオリンピックを開催するに絶好の機会であると思う」と語った。これに永田市長が賛同。東京へのオリンピック招致の第一歩が始まった。翌年、東京市会でのオリンピック大会招致決議案を可決。1932年7月、市会にオリンピック大会招致のための実行委員会が設置された。同年、嘉納治五郎、岸清一の両IOC委員により、東京招致の正式招請状がロサンゼルスで開催された第30次IOC総会に提出された。第12回大会の招致に名乗りをあげていたのは、ローマ(イタリア)、バルセロナ(スペイン)、ヘルシンキ(フィンランド)、ブダペスト(ハンガリー)、アレキサンドリア(エジプト)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、リオデジャネイロ(ブラジル)、ダブリン(アイルランド)、トロント(カナダ)の9都市。これに東京が加わって招致活動が行なわれた。

 嘉納、岸両IOC委員に加え、杉村陽太郎博士、副島道正伯(ともにIOC委員)、さらに徳川家達公(後にIOC委員)が会長を務めたオリンピック大会招致委員会などによる積極的かつ地道な活動が実って、1936年7月31日、ベルリンのホテル・アドロンで行なわれた第35次IOC総会で、東京とヘルシンキ間で決戦投票が行なわれ、東京が36票、ヘルシンキ27票で東京が開催地として選ばれた。当初はローマが有力候補であった。当時のイタリア首相ムッソリーニ自らが招致活動の先頭に立っていた。これに対し、当時のイタリア大使であった杉村IOC委員と、副島IOC委員がムッソリーニに直接交渉し、ローマの立候補辞退を成功させた。日本の「紀元2600年祝典を記念するために、譲歩すべきである点までの有効的諒解を得た模様」と日本体育協会史に記されている。

 東京開催が決定した翌年の1937年9月2日、スイスのジュネーブで静養中だった国際オリンピック委員会名誉会長であったピエール・ド・クーベルタン男爵が死去(享年74歳)。 また、日本の「オリンピックの父」と言われた嘉納IOC委員は、1938年にカイロ(エジプト)で行なわれた国際オリンピック委員会に派遣された帰路、客船永川丸船中で5月4日に死去(享年79歳)。嘉納IOC委員の死去のおよそ1年前の1937年7月7日、中国大陸では日華事変が起こっていた。陸軍から、馬術競技において現役将校を出場させることは不適当であることとに加え、出場への準備は中止すると発表がされた。さらに、中国大陸での戦況の拡大に伴い政府によって鉄材の統制が行なわれた。それは競技場建築などに多大なる支障をきたし、さらには東京市の起債認可についても不可能な状況になっていった。

 1936年の第11回ベルリンで大会後、東京オリンピック組織委員会、東京市、大日本体育協会が三位一体となって開催に向けての尽力を続けていたが、オリンピックを主管する厚生省から、広瀬久忠厚生次官名で、小橋一太東京市長あてに大会中止を伝える通達文が発せられた。 国際オリンピック委員会は第12回大会をヘルシンキで開催することを決定したが第二次世界大戦の影響を強く受け開催は不可能となった。1939年のIOC総会で、1944年にはオリンピックをロンドンで開催することを決定していたが、この大会も開催することができなかった。戦火により2大会続けて平和の祭典が中止となった。再びオリンピック旗のもとに各国から選手が集うのは、1948年にロンドンで行なわれた第14回大会のことになる。1936年にから12年後のことである。

 厚生省発件第44号 昭和13年7月15日

 オリンピック大会開取止ニ関スル件
 第12回オリンピック大会ニ就イテハ政府ニ於テ成ルベク大会ヲ開催シ得ル様希望シ来タルガ、現下ノ時局ハ挙国一致物心両面ニ亘リ益々国家ノ総力ヲ挙ゲテ事変ノ目的達成ニ邁進スルヲ要スル状勢ナルニ鑑ミ、オリンピック大会ハ之ガ開催ヲ取止ムルヲ適当ナリト認ムル。以テ此ノ趣旨御諒承ノ上善後ノ処理ヲ講ゼラレ度右依命及通牒候也。

 この年8月、関東軍内部で支那事変不拡大を叫んで東条英機と対立していた石原莞爾は、病気療養を理由に勝手に帰国。12月には舞鶴要塞司令官に落ち着いている。
 8月、「経済警察」が発足し、この頃全国の警察署に経済保安係りが設置され、物資の横流しや闇値の暴利に目を光らせることになった。
 8月、米国に移住したアインシュタインが大統領に核爆弾の開発を促す手紙を送る。

 9.13日、「日本共産主義者団」の春日庄次郎ら一斉検挙。


 9月、ドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦が始まる。

 10.5日、東京帝大経済学部教授河合栄治郎の主著発禁


 10月、「京浜労働者グループ」事件。京浜工業地帯の労働者による研究会への弾圧。講師の企画院属・芝寛が逮捕。


 10.21日、日本軍広東占領。


 10.27日、日本軍武漢三峰占領。
 11.3日、政府が東亜新秩序建設声明(第二次近衛声明)。「帝国が中国に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことにあり、帝国は中国国民が能く我が真意を理解し、以って帝国の協力に応えんことを期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を切替して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、敢えて之を拒否するものにあらず」。「東亜新秩序建設」で汪兆銘に離反を促す。

 11月、 米英、援蒋ルート(ビルマルート)完成。

 11.21日、ほんみち教団への弾圧。


 11.29日、唯物論研究会事件岡邦雄戸坂潤永田広志新島繁ら幹部35名が検挙。1940年1月24日:第二次検挙(12名)。1945年8月9日:戸坂の獄死。


 12.4日、日本軍が重慶爆撃開始する。(世界初無差別爆撃)
 12月、石原莞爾が舞鶴要塞司令官に左遷される。(満州国協和会での古海忠之・甘粕正彦らとの対立で)
 12.16日、興亜院設立により中国の阿片利権を統括する。
 12月、11.7日のドイツでの「水晶の夜」(クリスタル・ナハト)事件を受けて、この年に最高国策検討機関として設置された首相、陸相、海相、外相、蔵相の五相会議が開かれ、ユダヤ人問題を討議した。「ユダヤ人対策要綱」が決定され、板垣征四郎陸相の提案によって、ドイツのユダヤ人迫害政策が人種平等理想に悖ること、ユダヤ人を他国人と同じように構成に取り扱うべきことが明記された。
 12.20日、 汪兆銘が重慶を脱出。(谷垣禎一の祖父の影佐禎昭らの工作による)
 12.22日、近衞首相が近衛第三次声明。対支和平三原則を発表する(撤兵約束を反故)。
 12.30日、汪兆銘が和平反共救国声明。
 この年、ドイツでウランの核分裂が発見される。翌1939.8月、米国に移住したアインシュタインが大統領に核爆弾の開発を促す手紙を送る。
1939(昭和14)年の動き

 (この時代の総評)
【第一次近衛内閣→平沼騏一郎内閣】
 1.4日、第一次近衛内閣が退陣した。経済政策と支那事変処理に行き詰まった近衛首相は疲れ果てて内閣総辞職に至った。後任には枢密院議長で国家主義団体国本社(右翼団体)の会長として政界官界の裏のボスで豪腕として知られていた平沼騏一郎が推挙された。

 1.5日、近衛内閣から大臣の殆どを引きついで平沼騏一郎内閣が組閣された。

 1月、三井物産が上海へ約7万トンもの阿片を運び込む(→南京維新政府の財政)。2月、三菱商事が阿片を三井の3.5倍もの量を満州の大連へ。3月、岸信介が満洲国総務庁次長。


 1.28日、平賀粛学事件。東京帝大総長平賀譲、河合栄治郎および土方成美両教授の休職を文相に上申。
 3.25日、軍事資源秘密保護法公布。
 4.8日、宗教団体法公布。
 この頃、日本軍の日中戦争における行為は、国際的に非難を受けており、イギリス・アメリカ・ソ連は中国側に立ってこの紛争に干渉、中国に積極的に資金援助・武器供与をしている。これに対抗して陸軍はドイツ・イタリアとの軍事同盟を結ぶことを主張。しかし海軍は、この同盟を結べばアメリカと戦争になる可能性があるため反対に回る。

 平沼内閣は、同盟早期締結派の陸軍と、慎重派の海軍の対立に悩み続けることになる。
【ノモンハン事件】
 5.11日、関東軍が越境してノモンハンでソ連・外蒙古軍と戦った。「約90名の外蒙古軍兵士がハルハ河を渡河してきた。これに対し、関東軍が射撃した。それを起点として飛行機、戦車を繰り出す両軍の死闘が開始された」ともある。政府と大本営は不拡大方針を示したが、これに対し現地関東軍の辻正信少佐と服部卓史郎中佐が独断専行。彼らはソ連軍の能力を過小評価し、関東軍の実力を思い知らせて国境侵犯再発を防止するとして、この紛争に関東軍を本格投入。ソ連軍と関東軍の大規模な武力衝突となる「ノモンハン事件」に発展した。(当時のモンゴルとソ連との関係は、日本と満州国の関係に似たような関係です。)

 この間ソ連軍は西側の技術者を雇い軍事技術の革新に取り組んでいた。「今日のソ連軍は帝政ロシア軍とは違う」との警告が為されていたが、その危惧通り関東軍はいやというほど技術革新の差を思い知らされることになった。

 ソ連の空軍と戦車のキャタピラに蹂躙され、日本陸軍はこの戦闘で出動兵力の7割を失うという惨敗を喫した。スターリンがヒトラーと突然「不可侵条約」を結んだのは、この戦闘の最中のことである。

 石原莞爾の心配が的中し、ソ連軍の圧倒的兵力、強力な火砲と戦車の前に、派遣された関東軍は壊滅的打撃を受ける。戦闘の主力となった小笠原第第23師団では、人員1万6000名のうち戦死・戦傷・戦病が1万2000を越えた。連隊長クラスでも戦死・戦場での自決が相次いだ。ソ連軍の優秀な戦車に対して日本軍の戦車は全く歯が立たず、対戦車兵器として最も有効な兵器は火炎瓶だったと言うから酷いありさま。

 6.14日、日本、天津の英仏領租界封鎖。

 6.21日、灯台社への弾圧。明石順三ら計130名の一斉検挙。同年8月27日結社禁止。1942年5月30日:懲役12年の判決。


 8.23日、独ソ不可侵条約成立。ソ連とドイツは、形式上同盟関係に入った。
 8.30日、この頃平沼内閣が総辞職している。その後「独ソ不可侵条約調印」を見抜けなかった為、「欧州情勢は複雑怪奇なり」の迷言を残して総辞職。
【平沼騏一郎内閣→阿部伸行内閣】
 9.1日、替わって組閣されたのが次の首相は陸軍大将(予備役)の阿部伸行内閣である。彼は政治的には何のキャリアも無かったが、とにかく陸軍を押さえ込むための起用された。特に何にもしないで総辞職することになる。

【第二次世界大戦が勃発】
 9.1日、ドイツ軍がポーランドに浸入し、第二次世界大戦が勃発した。ドイツ軍機械化部隊の目の醒めるような電撃作戦が、日本陸軍と国民を狂喜させた。

【ノモンハン停戦協定成立】
 9.15日、ノモンハン停戦協定成立。アジア方面にかまってられなくなったソ連との停戦協定が成立する。モスクワで東郷大使とモロトフ外相との間で、両軍の現在線での停戦に合意して停戦協定が結ばれた。この事件は日本側の参加兵力約6万、戦死・戦傷・生死不明者約2万の大事件だったにも関わらず、国民にはなにも知らされず闇に葬られる。

 この事件は当時の日本軍が、近代的軍隊としてはどの程度の実力か知らしめたものだった。この敗戦の責任をとらされ、関東軍では軍司令官と参謀長、大本営では参謀次長と作戦部長、実戦に参加した部隊でも軍指令官、師団長、連隊長が予備役になっている。しかしその真の敗戦原因の徹底究明は成されず、独断専行した辻・服部らの将校に対しても軍法会議も開かれず左遷のみ。

 最前線で戦い壊滅した第23師団の生き残った将校たちは自決を強いられ、またソ連軍に投降し停戦後に送還された将校達にも自決用のピストルを渡された。つまり関東軍参謀たち、及び関東軍上層部は、自らの責任は棚に上げ、日本軍の実力を直視することなく、第一線指揮官達がまともに働かないのが敗因である、と考えていたようです。

 この後、ヨーロッパでは世界大戦が本格化。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告。9.16日、ソ連は独ソ不可侵条約の密約によってポーランドへ進駐。9月27日、ワルシャワ陥落。
 1939年、重慶爆撃。
 11月、元憲兵大意・甘粕正彦が満映の二代目理事長に就任。甘粕は、関東大震災時に大杉栄、内縁の妻伊藤野枝、甥の橘宗一少年を虐殺し、軍法会議で懲役十年の判決を受けていた。が、2年10ヶ月服役後に出獄。その後、軍の資金でフランスに出向く。帰国後満州に渡り、清朝の廃帝・溥儀を天津から満州へひそかに護送し、情報・治安活動などを通じて満州国建国の功労者となっていた。満州国唯一の政党協和会の総務部長に就任し、「満州の甘粕」の異名をとっていた。

 この頃、上海に「中華電影公司」が日中折半出資で設立された。軍が満州以外の占領地対策として作った初の映画会社で、実質的な責任者は川喜多長政氏であった。「新京(長春)にテロリストと言われた元憲兵大尉率いる満映があり、憲兵に父親を殺された映画人が率いる中華電影が上海にできた。私は満映の女優でありながら上海で活動するようになる」(2004.8.13日付け日経新聞「私の履歴書」、山口淑子⑫)
 この年、アインシュタインが、「米国に於ける原爆開発」をルーズベルト大統領に進言する手紙を送る。ハンガリー出身の物理学者・レオ・シラードも署名。
1940(昭和15)年の動き

 (この時代の総評)
 海軍が、「零式戦闘機(ゼロ戦)」を完成させた。「ゼロ戦」も中国で使用され威力を発揮することになった。開発技師は堀越二郎。
 1.8日、東条陸軍大臣名で「戦陣訓」が出る。内容は、本訓その一、皇国・皇軍・軍紀・団結・協同・攻撃精神・必勝の信念。本訓その二、敬神・孝道・敬礼挙措・戦友道・率先躬行・責任・生死観・名を惜しむ・質実剛健・清廉潔白。本訓その三、戦陣の戒め・戦陣の嗜み、となっている。特に「名を惜しむ」の中の、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」の部分が有名。京都師団の石原莞爾はこれ読んで、「バカバカしい。東条は思い上がっている」と批判。東条は大いに怒り、石原は3月に予備役に編入された。
 1.11日、津田左右吉氏が右翼の攻撃により早大教授辞任。2月12日:主著『神代史の研究』など発禁。3月8日:起訴。

【阿部伸行内閣→米内光政内閣】 
 1.14日、阿部内閣総辞職。欧州戦争による物価の騰貴、対米交渉に失敗し、結局、阿部内閣は様々な問題に対して無為無策のまま首相の座は現役海軍大将の米内光政に交替する。 

 1.16日、米内光政内閣成立(米内(よない)光政)。

 しかし、やはり軍事同盟を巡って陸軍と対立。海軍としては、アメリカと戦争をして勝てる見込みがつかない。当時、海軍の仮想敵国はアメリカであり、その実力を良く認識していた。それに対して陸軍の仮想敵国はソ連、アメリカに対してはなめてかかっていた模様です。この間の目まぐるしい内閣の交替の間にもインフレと事変は泥沼化する。

 1.26日、日米通商航海条約期限切れ、無条約時代に入る。マレー沖海戦。
【斎藤隆夫の斎藤隆夫代議士「反軍演説」事件、除名問題発生
 2.2日、米内内閣成立直後の当時民政党の衆議院議員であった斎藤隆夫は、第75帝国議会2日目米内(よない)内閣の施政方針演説に対する代表質問で、丁度満3年目を迎えようとする日中戦争に関して、米内内閣の対応を問い、政府の日中戦争処理方針を巡って約1時間半に及ぶ大演説をぶった。戦争の終結条件は何なのか、政府に展望を示すように要求。支那事変の戦争目的と見通しについて明らかにせよと迫った。日中戦争が聖戦とされ、国民に無限の犠牲を要求していることを批判。東亜新秩序とは何か、それは空虚な偽善であると決めつけた。演説の後には拍手喝采が起こり多くの議員が賞賛した。しかしこれは聖戦を冒涜するものであるとの問題になり、斉藤は衆議院から除名される。これが特に陸軍から、「聖戦目的の侮辱、10万英霊への冒涜(ぼうとく)」であり、「非国民」と攻撃され、衆議院議員の除名へと発展した。この経過は、政党の分解作用に深刻な影響を与えた。

 この時の斎藤議員の質問要旨は、軍部が主導する戦争政策全体への批判で、その要旨は、「①・1938(昭和13)年1月の近衛声明が「支那事変」処理の最善をつくしたものであるか否か、②・いわゆる東亜新秩序建設の具体的内容とはいかなるものか、③・江兆銘援助と蒋介石政権打倒を同時に遂行できるのか、④・「事変」勃発以来すでに戦死者10万、国民にさらに犠牲を要求する十分な根拠を示せ」というものであった。「すべての戦争は力と力との衝突である。そうした戦争観を鏡とすれば、国際正義、道義外交、共存共栄、世界の平和等の美名を掲げて聖戦などと称することは、単なる虚偽にすぎない」。

 締めくくりを次のように述べている。
 「事変以来、我が国民は実に従順であります。言論の圧迫に遭うて国民的意思、国民的感情をも披歴することができない。政府の統制に服するのは何が為であるか。政府が適当に事変を解決してくれるであろう。これを期待しておるが為である。然るにもし一朝この期待が裏切られることがあったなら国民は実に失望のどん底に蹴落とされるのであります。総理大臣はただ私の質問に応えるばかりではない。この議会を通して全国民の理解を求められるのであります。私の質問はこれをもって終わりとします」。

 斎藤の演説は拍手喝さいで終わったが、軍部のみならず、議会内でも、時局同志会、政友会革新派、社会大衆党が斎藤を非難、憂慮した小山松寿衆院議長と斎藤が所属する民政党幹部は、斎藤に演説速記録中の以下の「不穏当」部分の削除を要求、斎藤も議長に一任、議長は職権で演説の後半部分すべてを速記録から削除した。なお、新聞社へは内務省から斎藤を英雄視するような記事の掲載は「まかりならん」との通達があった(「歴史のページ 」)。

 さらに軍部の攻撃を恐れた民政党幹部は、翌日3日早朝、小泉又次郎(党常任顧問)や俵孫一(党主任総務)が斎藤に離党・謹虞を勧告、事態収拾を図った。斎藤は党に影響を及ぼすのであれば、やむをえないとして受諾。同日党籍を離脱する。斎藤はまた総裁町田忠治の意向を受けていたとされる同僚議員から自発的に議員辞職をするよう促されたが断固拒否した。反軍演説の翌日の院内の様子を、斎藤はこのように描写している。「政友会中島派、時局同志会、社民党は懲罰賛成に結束し、政友会久原派の多数は反対にみえる。民政党は秘密代議士会を開いて討議しているが、大多数は反対に傾き、幹部攻撃に激論沸騰して容易に収拾すべくみえない」。

 斎藤非難の動きは収まらなかった。後日、斎藤は衆議院懲罰委員会に出席することとなる。次のように記している。「劈頭私は起って質問演説をなすに至りたる経過とその内容の一般を述べ、さらに進んで政友会中島派より提出したる七ヵ条の懲罰理由を逐一粉砕し、かつ逆襲的反問を投じたるに、提出者は全く辟易して一言これに答うること能わず」、「委員会は全く私の大勝に帰し…翌日の新聞紙上には、裁く者と裁かれる者が全く地位を顛倒し、私が凱旋将軍の態度をもって引き上げたと記載したほど」。衆議院懲罰委員会は満場一致で除名を決定、

 3.6(7?)日、衆議院本会議が開かれたが
議場には167名と3分の1弱の空席を出した。民政党は除名賛成に党議拘束をかけたが、斎藤と親しかった岡崎久次郎が除名に反対し、脱党。民政党で唯一の反対票を投じた。残り170名のうち4割強の69名が欠席または棄権をした。政友会は、久原派が71名中27名が棄権・欠席、全会派中最多の5名が反対。軍部寄りの中島派も97名中16名、中立派は10名中4名が棄権・欠席した。軍部寄りの社会大衆党は34名中、賛成であった病欠の麻生を除き10名が棄権・欠席し、時局同志会は30人中5人が棄権。無所属議員は10名のうち、反対1名、棄権・欠席が7名であった。投票結果は以下の通り。
賛成 296名  浅沼稲次郎河上丈太郎河野密三輪寿壮三宅正一三木武夫星島二郎松野鶴平など。
空票 144名
(棄権) 121名  尾崎行雄鳩山一郎水谷長三郎西尾末広犬養健若宮貞夫安達謙蔵など
(欠席) 23名  安部磯雄片山哲鈴木文治(以上社会大衆党)など
反対 7名  牧野良三名川侃市芦田均宮脇長吉丸山弁三郎(以上政友会久原派)・岡崎久次郎(民政党)・北浦圭太郎第一議員倶楽部

 以上、除名賛成296票、反対7票、棄権144票で可決した。
これにより斎藤は衆議院議員を除名された。この投票結果や経緯は、ただ単に軍部の政治介入による結果だけではなく、政党自体が議会制民主主義を破壊したとする「自壊」の面があることも斎藤自身や様々な歴史家らも厳しく指摘している。なお、議長の小山は在職中「スターリンのごとく」発言の西尾末広についで、2人の除名決議の議事に携わったことになる。その後、民政党は斎藤を見捨てたとして、内外の信用を失い、町田の求心力は落ち、後の解党への流れとなる。政友会久原派も反対した5名に離党勧告、総裁の久原房之助は除名を強行しなかったものの、結果として解党へと向かう。社会大衆党は、書記長麻生久により、党首の安部や片山ら除名に賛成しなかった8名に離党勧告を出し、安部ら8人は離党を拒否し、除名処分を強行、反対派を追放することにより、軍部に従順な態度をより鮮明にした。親軍部の政友会中島派、時局同志会、社大党の主張通り、革新運動が加速し、戦争遂行のための協力体制と称し、大政翼賛会への流れへと直結した。

【斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」全文】
 斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」(昭和十五年二月二日、第七十五議会における演説、いわゆる斉藤隆夫の反軍演説)は次の通り(斎藤隆夫著「回顧七十年」、中公文庫)。

 「斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」全文

 2.6日、生活綴方運動への弾圧開始。村山俊太郎ら検挙。運動関係者・『生活学校』関係教員約300名を検挙。
【汪兆銘を主席とする南京政府樹立】
 3月、上旬臼井大佐(参謀本部主務課)と鈴木中佐が重慶政府代表の宋子良と香港で会談(桐工作)。3.12日、汪兆銘、和平建国宣言を発表。3.30日、重慶にいた汪兆銘を連れ出して、彼を主席とする親日的な南京政府を樹立。この建国手法は満州国のそれに倣った。但し、米国のハル国務長官は南京政府否認声明を出している。

【支那事変処理として撤退方針が決定される】
 3.30日、支那事変処理に関する極めて重要な事項が、参謀本部の提案に基き、この日、陸軍中央部で決定された。それは、「昭和15年中に支那事変が解決せられなかったらば、16年初頭から、既取極に基いて、逐次支那から撤兵を開始、18年頃までには、上海の三角地帯と北支蒙彊の一角に兵力を縮める」というもので、事変処理の大転換であった。もともとこの撤兵案は陸軍省の発案になるものであり、陸軍省側では今すぐからでも、撤兵を開始するような剣幕であった。予算面からも間接的に参謀本部を抑制しようとした。事変解決に、参謀本部も陸軍省も手を焼いていることが分かる。当時参謀本部としても、内々黙認した形であった。昭和15年度の臨時軍事費は、こんな前提の下に確定せられていた。 [種村佐孝「大本営機密日誌」(ダイヤモンド社,昭和27年)P12-14] この本は公式の日記ではなく、元大本営参謀戦争指導班長の種村佐孝氏が、同僚の助けを得て書いた日記と記憶によって書かれたものです。開戦前から終末期まで、時間を追って具体的に書かれた貴重な資料としてしばしば引用される本です。

【日本軍が重慶爆撃開始】
 5月上旬、重慶爆撃開始。無差別爆撃となった。海軍航空隊の指揮官として、重慶爆撃に参加した巌谷二三男氏の証言「1940.6月上旬頃までの爆撃は、もっぱら飛行場と軍事施設に向けられていたが、重慶市街にも相当数の対空砲台があり、そのため味方の被害も増大する状況となったので、作戦指導部は遂に市街地域の徹底した爆撃を決意した。すなわち市街東端から順次A、B、C、D、E地区に区分して、地区別に絨毯爆撃をかけることになった」、「建物が石材や土などでできている中国の街は、一般に火災は起こしにくかったのであったが、重慶の場合はよく火災の起こるのが機上から見えた。これは市街中央部の高いところは、水利の便が悪かったのであろう。また使用爆弾も、戦艦主砲弾(四〇センチ砲弾)を爆弾に改造した八〇〇キロ爆弾から、二五〇キロ、六〇キロの陸用爆弾、焼夷弾などをこのごも使用した」、「六月中旬以降の陸攻隊は連日、稼働全兵力をあげて重慶に攻撃を集中した。その都度偵察写真が描き出す重慶市街の様子は、次第に変わり、悲惨な廃墟と化していくように見えた。何しろ殆ど毎日、五十数トンから百余トンの爆弾が、家屋の密集した地域を潰していったのだから、市街はおそらく瓦れきと砂塵の堆積となっていったことだろう」、「ことに[八月]二十日の空襲は陸攻九〇機、陸軍九七重爆十八機、合わせて百八機という大編隊の同時攻撃で、これまた一連空が漢口からする最後の重慶攻撃となった。この日、爆撃後の重慶市街は各所から火災が起こり、黒煙はもうもうと天に沖し、数十海里の遠方からもこの火煙が認められた」(巌谷二三男 「海軍陸上攻撃機」朝日ソノラマ)。

 陸軍航空隊独立第一八中隊(司令部偵察飛行隊)の一員として重慶爆撃に参加した河内山譲氏の証言「五月末迄2連空は夜間爆撃を主としていたが、途中で1連空と共に昼間に切換え、目標も重慶の軍事施設だけを選別していたのを改め、市街地をA・B・C・D・E地区に区分した徹底的な絨毯爆撃に変更した」。 

 5.11日、有田外相、蘭印現状維持を各国駐日大使に申し入れる。
 5.18日、御前会議で対支処理方策を決定。
 5.25日、有田外相、バブスト駐日蘭大使に対蘭印13項目の要求を送る。
【ヨーロッパ戦線で独軍が進撃開始】
 5.10日、欧州で、ドイツ軍が華々しい実力を行使しはじめ、5月にはオランダ、ルクセンブルク、ベルギーを侵略、更にマジノ線を突破してフランス軍を席捲し、イギリス軍は「ダンケルクの悲劇」に追い詰められた。

 5.16日、イギリスにチャーチル内閣成立。
【ヨーロッパ戦線で伊軍が独軍側で参戦】
 6.10日、伊軍が独軍側で参戦し、イギリス・フランスに宣戦布告。

 6.14日、独軍がパリ入城、6.22日、独仏休戦条約調印。イギリスへの空爆も激しくなる。そのためイギリスのチェンバレン内閣、フランスのレイノー内閣が崩壊。

【支那事変処理として戦線拡大方針が決定される】
 この独軍の戦果拡大が陸軍部内の大転換をもたらすことになった。『バスに乗り遅れるな』的ムードがはやり出し、「撤兵」のはずが、「大東亜戦争」に拡大していくことになった。欧州情勢の急変転が陸軍内部の考え方を180度大転換させた。「わずか2ヶ月前、さる3月30日には、専ら支那事変処理に邁進し、いよいよ昭和16年から逐次撤兵を開始するとまで、思いつめた大本営が、何時しかこのことを忘れて、当時流行のバスに乗り遅れるという思想に転換して、必然的に南進論が激成せられるに至ったのである」(種村佐孝「大本営機密日誌」・ダイヤモンド社・昭和27年・P14)。

 東南アジアの植民地は事実上、無主の土地となり、南進論が現実味を増してきた。ドイツは、外相リッベントロップの信任厚いシュターマーを特使として派遣し、日本がアメリカをできる限り牽制するために、日独伊三国同盟を打診した。

 5.13日、第1回報国債券発売。
 6.3日、工作機械の対日輸出禁止。
 6.9日、ノモンハン国境確定交渉成立。
 6.12、日タイ友好条約締結。
 6.18日、米下院海軍委員会で海軍拡張案(両洋艦隊法案)が可決。
 6.24、ビルマおよび香港経由による蒋介石政権援助物資輸送停止をイギリスに申し入れる。
【基本国策要綱」が立案される】
 6.25日、「基本国策要綱」が立案され、7.27日、「連絡会議」で決定、上奏された。

 7.7日、商工、農林両省令で、「奢侈品等製造販売制限規則」(7.7禁止令)が公布され、国民生活に大きな影響を与えていくことになった。
 結局、7月16日、畑陸相の単独辞職に伴い陸軍では陸相を出さず内閣総辞職。
【米内光政内閣→第二次近衛内閣】
 7.16日、米内内閣総辞職。結局、米内光政内閣も陸軍に振り回され放しで終わる。国民は官僚にも政党政治にもいやけがさし、「もう近衛しかいない、もう一度近衛に力を」の声が高まり、再度近衛が登場してくることになった。


 7.17日、第二次近衛内閣が組閣された。外相に松岡洋右、陸相に東条英機、海相に吉田善吾が起用された。「ウィキペディア松岡洋右」は次のように記している。

 松岡は、近衛が松岡、陸海軍大臣予定者の東条英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将を別宅荻外荘に招いて行ったいわゆる荻窪会談で、外相就任受諾条件として、外交における自らのリーダーシップの確保を強く要求、近衛も了承したと伝えられている。20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐英大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。

 松岡の外交構想は、大東亜共栄圏(この語句自体、松岡がラジオ談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指し、それを北方から脅かすソ連との間に何らかの了解に達することでソ連を中立化、それはソ連と不可侵条約を結んでいるドイツの仲介によって行い、日本―ソ連―独・伊とユーラシア大陸を横断する枢軸国の勢力集団を完成させれば、それは米英を中心とした「持てる国」との勢力均衡を通じて日本の安全保障ひいては世界平和・安定に寄与する、というものではなかったかと考えられている。こうして松岡は日独伊三国軍事同盟および日ソ中立条約の成立に邁進する。

 ①・日・独・伊枢軸の強化、②・東亜にある英・仏・蘭・ポルトガルの植民地の占領、③・アメリカの実力交渉排除、を重要政策に掲げ、これが開戦へのお膳立ての動きとなった。

 政治の新体制、経済の新体制実施を目標とする。折からの政治の刷新を求める国民の期待を受けて革新官僚の拠点、企画院を中心に官吏制度をはじめとして各界の新体制案を立案し始める。

 「昭和12(1937)年6月の第一次近衛内閣成立の1ヶ月後に日華事変が勃発している。第一次近衛内閣の後、平沼、阿倍、米内内閣はドイツとの距離をとり、第2次大戦には不介入の姿勢を保っていた。ところが、第2次近衛内閣が成立した昭和15(1940)年7月以降、日本は日独伊の三国同盟締結、仏印進駐とアメリカとの全面対決に向かって決定的な道を歩み始める。不思議なことに近衛内閣の登場のたびに、日本は大きく戦争へと向かっている。近衛は、その当時を振り返って、『見えない力にあやつられてゐたような気がする』と述懐している」(ゾルゲ事件

 7.25日、ルーズベルト大統領、石油と屑鉄を対日輸出許可品目に加える。
 7月、麻生久率いる社会大衆党が解党。麻生は、近衛が選任した新体制準備委員26名中の1人に選ばれる。但し、大政翼賛会の結成直前の9月に病死する。
【大本営が南進を旨とする「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定】
 7.26日、閣議で大東亜新秩序と「基本国策要綱」を決定し、翌7月27日政府は2年ぶりに大本営政府連絡会議を開き、南進を旨とする「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。ドイツの勝利に乗り遅れまいとする心裡が強く働いていた。これに基づき仏印進駐が企図されていくことになった。

 8月には東京市内に「ぜいたくは敵だ!」の看板が立てられる。
 8.25日、キリスト教会に対する弾圧と迫害も日増しに強まり、賀川豊彦が反戦思想を宣伝したという理由で憲兵隊に拘引、投獄された。
【「新体制準備会」発足】
 近衛文麿はこの難局を打開するため、右派・左派・軍部までをも含めた「革新」勢力の結集を目指し新党構想を練る。国民組織を基盤とした強力な政権を作り、軍を取り込んで統制し、政治を刷新して政治新体制を建設を目指した。この運動は新官僚たちが中心となって進められ、やがて「新体制運動」と云われようになった。 

 8.23日、自由主義者も体制派社会主義者も、革新右翼も観念右翼も、東大総長も愛国団体代表も含まれ、衆参両院、言論界、経済界一致の新体制準備会が発足し、8.28日、声明文が発表された。各党はこの新党に合流する為「バスに乗り遅れるな」と、先を争って既成政党が全て解党した。この流れが「大政翼賛会」に向かうことになる。

 そのスローガンは「下意上達」であった。つまり、この事態に対して無為無策の腐敗する政界・財界・内務官僚たち保守派の「上」の既成勢力を一掃して、「下」の国民の意見を代表する革新勢力を結集した政治を実現し、この難局から国を救おうというものであった。但し、参加した勢力を見ても、麻生久の社会大衆党や赤松克麿の日本革新党(もと社会主義者グループ)、橋本欣五郎の大日本青年党(革新右翼)、民政党、政友会内の一部(保守政党内の改革派)、岸信介などの新官僚、武藤章など革新的軍部、その他色々な勢力が混交していた。さらに尾崎秀実(国際的共産主義者)までもが推進というまさにごった煮状態で、それぞれ意見が異なり紛糾する。

 「大政翼賛会」には、直前に没した麻生の遺志を継ぐかのように、近衛総裁、有馬事務局長のもと、総務に川上丈太郎、連絡部長に三輪寿壮、東亜部長に亀井貫一郎、制度部長に赤松克麿、議会局審査部副部長に河野密、議会局臨時選挙制度調査部副部長に浅沼稲次郎(部長は清瀬一郎)、同調査委員に平野力三等々旧社民党及び社会大衆党の面々が幹部として乗り込んでいった。

 ちなみにこの頃、右翼は「革新右翼」と「観念右翼」の2派に分かれて対立している。革新右翼は統制派と結びついた親独派でナチス流の一国一党を目指していた。一方、観念右翼の方は、純正日本主義を唱え、国体明徴を重視し、共産主義を最も嫌っており、ナチスやファシズムも国体に相容れないとしていた。

 その後の経過は次の通り。右派も左派も軍官僚も近衛イヤになり、なげやりな言動が目立つようになる。企画院(革新官僚)の作成した「経済新体制確立要項」を軍官僚や平沼騏一郎がアカ思想として攻撃し、革新官僚は治安維持法違反容疑で検挙される。こうして革新官僚も力を失う。近衛に国内の意見をを纏める力はもはや無く、戦争回避にむけたルーズベルト米大統領との会談も実を結ばず、近衛はやる気を失い辞職していくことになる。

 9.3日、米英防衛協定調印。
 9.13日、重慶攻撃。この時、27機の陸上攻撃機と13機のゼロ戦が漢口飛行場を発進して重慶へ向かった。上空で交戦となり、ゼロ戦が倍する中国機(ソ連製「I15」、「I15」)の全27機を撃墜するという戦果を挙げている。
 9.16日、米で選抜徴兵制公布。
 9.19日、支那派遣軍総司令部、桐工作(対重慶和平工作)の一時打ち切りを決定。
 9.22日、日・仏印軍事協定成立。この協定で、仏領インドシナ北部への日本軍進駐を仏国に認めさせた。
 9.23日、日本、北部仏印進駐。
 日本軍はただちに南進を開始、北部仏印を占領した。
 9.25日、米陸軍通信隊、日本海軍の暗号解読に成功。米、重慶政府に2500万ドルの借款供与。
【「日・独・伊の三国同盟」を締結】
 9.27日、松岡外相の音頭で「日・独・伊の三国同盟」を締結。

 「よって日本国政府、ドイツ国政府及びイタリア国政府は左の通り協定せり。第一条 日本国はドイツ国及びイタリア国の欧州における新秩序建設に関し、指導的地位を認め且つこれを尊重す。第二条 ドイツ国及びイタリア国は日本国のアジアにおける新秩序の建設に関し、指導的地位を認め且つこれを尊重す。第三条 日本国、ドイツ国及びイタリア国は前記の方針に基づく努力につき相互に協力すべきことを約す。更に、三締約国中何れかの一国が、現に欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国によって攻撃せられたるときは、三国はあらゆる政治的、経済的及び軍事的方法により相互に援助すべきことを約す」。

 10.8日、極東の米国人の引き揚げ勧告。
【「大政翼賛会」発足】
 10.12日、新体制準備会は、「大政翼賛会」に結実した。「挙国政治体制の確立」のため、既成政党が自主解党、新党設立の準備組織として「大政翼賛会」が発足した。総裁は総理の兼任ということになり近衛が就任した。但し、右翼から左翼までを集めた「革新」勢力の呉越同舟的な寄合い世帯であり、近衛首相もまた「本運動の綱領は大政翼賛、臣道実践というにつきる。これ以外には綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において奉公の誠を致すのみである」と述べるなど掛け声倒れの代物でしかなかった。

 近衛演説は失望を誘い、後藤隆之助は、「もうこれで大政翼賛会は駄目だと思った。成立と同時に死児が生まれてきたのと同じだと思った」と回顧している。内部が一本化せず政党系の参加者は相次ぎ離脱。近衛も意欲を失う。最終的には「大政翼賛会」は内務省の補助機関に転落する。

 その後、内閣改造において近衛は、平沼を内相に迎え、側近の風見を追って、柳川を法相に据えた。彼らは翼賛会を一地方行政組織に改組することに躍起となり、一方で平沼内相は、「翼賛会は政治結社でない、公事結社である」と声明し、まったく死児どころか、死児の骨まで抜かれてしまった。近衛新体制は、当初の意図としては、まったく失敗した。

【「企業合同、トラストの結成」】
 三国同盟締結を契機として「企業合同又はトラスト」の結成が急速度に進行し、巨大資本による中小企業、新興財閥の整理が進められていった。大資本の論理は、物資の不足を企業統合により免れようとし、①・当該物資の生産企業と直接に結合し、これを支配する。②・より大なる物資の配給割当を獲得するために他の企業と結合し、その実績分の配給権を掌握する。③・事業の新設拡張が困難なため、他の企業を吸収合併する、というところにあった(中村静治「日本産業合理化研究」)。

 10.14日、ルーズベルト大統領、レインボー計画(陸海軍統合戦争計画)を承認。
 10.15日、松岡外相、グルー駐日米大使と会談。
 10.16日、米国、屑鉄と鋼鉄の対日輸出禁止。コーデル・ハル国務長官は、日本に対する屑鉄の輸出を禁止し、アメリカの対日締め付けが強化されていくことになった。このようななアメリカの動きに対して、英米協調を重ねて主張してきた西園寺は苦悩をかさねた。その中で、西園寺は逝去した。九十歳であった。
 10.30日、日ソ交渉開始。
 10月、日本軍が燼滅作戦(三光作戦)を開始する。
 10月、岸信介が東条内閣で商工大臣に就任する。(「里見の私有財産は当然莫大になり、岸信介が昭和16年の国会選挙に出る費用など、多方面に提供」
 http://www.ne.jp/asahi/cn/news/text/culture/mayaku.html )

 11.6日、ルーズベルト、大統領に三選される。
 11月、アメリカが、中国の蒋介石政権への軍事援助開始決定。
 11.12日、ソ連のモロトフ外相がベルリン訪問。ヒットラー、リッペントロップと4回にわたって会談。この時、ヒットラーは「独ソが協力すれば収穫は大きく、対立すれば小さい。独ソが手を握れば世界無敵ではないか」、「新しい勢力圏の設定がまとまれば、4ヶ国は今後、百年どころか数百年の計を立てる事ができる」と「四国同盟案」の提携を持ちかけているが、モロトフ外相は応ぜず。
【御前会議で「支那事変処理要綱」が決定される】
 11.13日、御前会議で、日華基本条約案と「長期戦方略」への転換を定めた「支那事変処理要綱」が決定された。

 15年11月、企画院より「経済新体制確立要項」が提出される。これはより強力な戦時統制経済の確立を目指した内容。企画院原案では、・企業の公共化、・「指導者原理」にもとずく統制機構の確立・資本と経営との分離、・利潤の制限などが盛り込まれていた。これに対し自主統制を主張する財界が猛反発。右翼・内務官僚たちもこれに同調。この案をアカ思想の産物として激しく攻撃。近衛内閣内でも小林商工相の反対もあり、結局、軍部が間に入って資本と経営の分離を削除した上で12月7日に閣議決定される。

 このアカ攻撃は、この後内相に就任した平沼騏一郎(観念右翼)によってさらに強まり、翌年4月の「企画院事件」につながる。これは企画院原案に関与した革新官僚を、共産主義者だとねつ造して治安維持法違反容疑で検挙された事件。これにより企画院も力を失い軍部の御用団体と化す。

 「下意上達」だったスローガンも国体に背くとして「下情上通」に改められた。結局、新体制運動は目標だった強力な政治体制を作ることに失敗、ましてや軍を統制する力を持つことは出来なかった。しかもこれに対する国民の期待を利用して政党・労働組合などを自主的に解散させ、国民を完全に政治統制下に置く道を開いた形となった。

 11.29日、帝国議会開設50年記念式典が行われた。
 11.30日、南京政府(汪兆銘政権)承認し、日華基本条約調印。
 12月、近衛新体制で第76回議会が召集される。大政翼賛会に参加した衆院議員435名で「衆院議員倶楽部」が結成された。不参加議員が7名いた。欠員24名で98%が参加した。一国一党である。日本での議会政治は姿を消すことになる。
 12.5日、ウォルシュ司教、ドラウト神父、松岡外相を訪問。12月28日ウォルシュ、ドラウト帰米。
 12月、イギリスが、中国の蒋介石政権への軍事援助開始決定。
 12月、政府は、内閣情報局主導下に設立された日本出版文化協会に加入しない者には用紙の割当が受けられないことにした。これにより、言論統制がますます強化され、抵抗が踏み潰された。
 

 このころから政府の戦時経済政策の矛盾が、決定的になり始める。日本銀券の保証準備発行限度は10億円から、昭和13年4月に17億円に、昭和14年4月に22億円に拡張されている。公債を日銀に買わせているため、どうしても、この必要があった。それだけ「金」の裏付けの無い、インフレマネーが発行可能となっている。さらに物資不足もこれに追い打ちを掛け、不況の中で物価だけが高騰してゆく、悪性インフレが深刻な問題になってくる。

 この悪性インフレを押さえるため、政府は公定価格を決めインフレを抑えようとする政策を採る。昭和14年には価格統制令(九・一八ストップ令)が公布・施行。これは9月18日時点の価格で強制的に物価を固定すると言うもの。同時に地代家賃統制令・賃金臨時措置令・会社職員給与臨時措置令も公布・施行。地代・家賃・賃金・給与もストップあるいは統制下に置かれる。はっきり言って市場原理を全く無視した無茶苦茶な経済政策。ヤミ取引・買いだめ・売り惜しみが横行して国民生活がますます困難になる。

 この間に支那事変は拡大を続けており、昭和14年までに、ほぼ20個師団が新設され、中国には85万人の兵員が展開されている。これにより多くの成人男性が徴兵で兵役に取られる事に。このため拡大する軍需産業でも労働力不足が慢性化。兵隊と軍需産業に男子を取られた農業・軽工業・商業では女子労働力が増加。この事により農村までもが人手不足に陥る。さらに昭和14年は、朝鮮及び西日本が干害に見舞われており、米の生産が低下。食糧不足までもが深刻化する。

 ここで政府が取った政策は、「国家総動員法」に基づく、物資の生産・配給・消費統制の強化。昭和14年12月の木炭を皮切りに、昭和15年10月頃までには、生活必需品である米・麦・衣料品・砂糖・マッチ・練炭・大豆等々の配給統制が実施される。これによりヤミ取引がますます盛んになる。政府は経済警察を設立し取り締まるが全く効果なし。「物価のなかで動かぬのは指数だけ」と言われるほどの有様となる。この時点で日本経済は明らかに縮小再生産の過程を歩み始める。
【以降の流れは、「大戦直前の動き」の項に記す】







(私論.私見)