諸氏の2.26事件ショ

 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2011.6.4日 れんだいこ拝


諸氏の2.26事件ショ
 二・二六事件を含めた昭和陸軍の内部過程について戦後最初に書かれたまとまった書物 は田中隆吉『敗因を衝く―軍閥専横の実相』(山水社、1946)、日本軍閥暗闘史(静和堂書店、1947)である。荒木貞夫・真崎甚三郎を中心とした皇道派と永田鉄山を中心とした 統制派の対立が描かれ統制派の人名も比較的正確に挙げられている。ただ、二・二六事件 について詳しい叙述があるわけではないが、事件後皇道派が陸軍からほぼ一掃されたので 統制派が制圧するようになったとしており、戦後のこの誤解の起源はかなりの部分この書物によるものと思われる。
 戦後最初に出た青年将校に近い皇道派サイドから見た昭和陸軍史は岩淵辰雄『軍閥の系 譜』(中央公論社、1948)である。岩淵は戦争中に吉田茂らと和平工作をして逮捕されたこ ともあり東条英機ら戦中の陸軍指導部につながる統制派に批判的で、いわば「皇道派史観」 の先駆けであった(だからと言って戦中の陸軍指導部が統制派だったわけではない)。
 こう した皇道派サイドのものはその後にもいくつか出ており石橋恒喜『昭和の叛乱 上・下』(高 木書房、1979)が最後の方になる。石橋は青年将校に近かった東京日日新聞記者だが叙述はより客観的で、参考になることが多い。
 青年将校自身の書いたものとしては山口一太郎の回想記などが早く雑誌に出ていたが、 最初に出た単行本の青年将校の回想記は新井勲『日本を震撼させた四日間』(文芸春秋新社、 1949)である。著者は、最後は二・二六事件主導者の最中枢部ではなかったが直前までの内部についてかなり詳しく、早い時期に出た研究上非常に参考になる書物である。栗原らの早期蹶起派と安藤らの慎重論との対立などがよく描かれている。
 これに対して、統制派寄りの昭和陸軍史として最初に出たのが、高宮太平『軍国太平記記』 (酣燈社、1951、中公文庫、2010)である。高宮は、永田鉄山軍務局長と親しかった陸軍省詰め朝日新聞記者である。皇道派に否定的な内容が多く、荒木貞夫と青年将校の関係を 「甘え」の関係として誇大に書くなどしており幻惑された人も多い(事実と違う点については中公文庫の「解説」に書いたが、さらに拙著『陸軍士官学校事件』〔中公選書、2016〕 参照)。

 高宮には『
昭和の将帥』(図書出版社、1973)もあり、「女中」を叱る真崎甚三郎大将や派閥対立の中間にいて動く鈴木貞一など彼らの人間性の生々しい姿が描かれている。これ らの本の影響力は大きかったから戦後は皇道派・青年将校寄りの本ばかり流布したというような理解は誤りである。前者には「杉山参謀次長の手記」などの重要な史料が収められている。
 その統制派の当事者の書いたものとしては武藤章『比島から巣鴨へ』(実業之日本社、1952、→上法快男編・武藤章『軍務局長武藤章回想録』〔芙蓉書房、1981〕、『比島から巣鴨へ 日本軍部の歩んだ道と一軍人の運命』〔中公文庫、2008〕)、池田純久『日本の曲り角』(千城出版、1968)、片倉衷『片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧』(芙蓉書房、1981)がある。武藤著 は事件自体についての記述は少ないが、早い時期に出た統制派の中心人物の回想記として 有益であり、自ら統制派を以て任じていた池田著は欠かせない。池田著によって初めて統 制派が1933 年秋ごろから形成され始めたことが分かってきた。
 磯部に撃たれた片倉著には彼らの研究成果「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」等 が収録されており資料的に重要であるが、ほかの著作でもそうだが片倉著には自分の関わったことについて自己の役割を過大に書くところがある。この点については、片倉著の資料としての読み方として、やはり片倉の関わった統制派・皇道派対立の焦点 陸軍士官学校事件についての拙著『陸軍士官学校事件』(中公選書、2016)を参照されたい。
 その後、未公開であった青年将校達の遺書などを駆使して事件の全貌を初めて描いた小説 立野信之『叛乱』(六興出版社、1952)が出て映画化され多くの反響を呼び、事件への関心を呼び覚ましたが、その遺書などをまとめて刊行したのが河野司編『二・二六事件 獄中手記・遺書』(日本週報社、1957、増補版、河出書房新社、1989)である。これによって 青年将校の肉声が初めて一般に知られることになった。まとまった原資料の初公開という ことになるだろう。とくに磯部浅一の「行動記」の印象は強烈で、後にそれを含めた磯部の著述のみが刊行された(磯部浅一『獄中手記』〔中公文庫、2016〕)。
 その後、みすず書房の編集者 高橋正衛氏の史料的貢献は大きく、『北一輝著作集 1~3』 (みすず書房、1959-72)、今井清一・高橋正衛編『現代史資料 4・5・23 国家主義運動 1 ~3』(みすず書房、1963-74)、末松太平『私の昭和史』(みすず書房、1963、中公文庫〔上・ 下〕、2013)を刊行され、自ら高橋正衛『二・二六事件』(中公新書、1964、増補改版、1994) を出された。ただ、『北一輝著作集 3』には北の著作でないものが収録されており厳密なテクスト考証をやり直す必要がある。『現代史資料 23 国家主義運動 3』には二・二六事件と真崎大将の関係を知るための重要資料が収められている。
 末松太平『私の昭和史』は青年将校運動の最深部からの初めて正確なレポートである。 内部の関係に関して初めて明らかになったことが多い。大岸頼好の「皇政維新法案大綱」 をめぐる青年将校運動内部の対立などそれまでほとんど知られていないことだった(「皇政維新法案大綱」についての優れた研究として福家崇洋「二・二六前夜における国家改造案 : 大岸頼好『極秘皇国維新法案前編』を中心に」〔『文明構造論 : 京都大学大学院人間・環境 学研究科現代文明論講座文明構造論分野論集』(8)、2012〕がある)。
 その後、青年将校の書いたものとして大蔵栄一『二・二六事件への挽歌』(読売新聞社、 1971)、池田俊彦『生きている二・二六』(文芸春秋、1987)も出ており有益である。高橋正衛『二・二六事件』は正確な資料をもとにした初めてのまとまった概説書で、『昭和の軍閥』(中公新書、1969)とともに青年将校・陸軍の内面についての有益な記述が多いが、今日の資料状況では古くなっているところがあるのはやむを得ないことだろう。
 昭和超国家主義分析の基本視座を据えた優れた研究論文として橋川文三「和超国家主義の諸相」(『現代日本思想体系 31 超国家主義』〔筑摩書房、1964〕→橋川文三『昭和ナショナリズムの諸相』〔名古屋大学出版会、1994〕所収)があり、青年将校の内面分析に優れる。このほかの橋川の分析も事件解明に重要であり『昭和ナショナリズムの諸相』はそれらをまとめて収録したものである。
 竹山護夫「陸軍青年将校運動の展開と挫折 1,2」(『史学雑誌』(78) 6・7 号、1969→竹山 護夫『昭和陸軍の将校運動と政治抗争』〔名著刊行会、2008〕所収)も青年将校運動全体についての初めての本格的研究で、林銑十郎の人事メモなど貴重な史料が多く含まれている。
 こうした経緯を経て現れた松本清張『昭和史発掘 8~12』(文芸春秋、1969-71、→松本清張・藤井康栄編『二・二六事件=研究資料 1~3』〔文芸春秋、1976-1993〕)は多くの二・ 二六事件研究のための基本資料を発見した意義の大きな成果であった。ただし、やむをえ ないこととはいえ今日の研究水準からすると誤りも多く、この点についてはのちの北著を参照されたい。
 同じころ出たのが、伊藤隆ほか編『二・二六事件秘録』全四巻(小学館、1971-2)で、 収録された軍法会議の裁判を傍聴した憲兵隊の資料などにより裁判の様子が初めてかなり の程度知られるようになった。
 研究としては、北岡伸一「陸軍派閥対立(1931~35)の再検討―対外・国防政策を中心として」、佐々木隆「陸軍『革新派』の展開」(『昭和期の軍部 年報近代日本研究 1』〔山川出版社、1979〕、前者は、北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』〔筑摩書房、2012〕に所収)が重要で、南次郎大将の日記や後に刊行される『真崎甚三郎日記 1~6』(山川出版社、1981 -87)などを駆使して、この時期の陸軍の派閥対立の構造を初めて明確にした意義は極めて大きい。「初期皇道派」という理解はそれまでなかったものであった。なお、『真崎甚三郎日記 1~6』と『現代史資料 23』により真崎大将と事件の関係はほぼ全容が明らかになった。その成果は筒井著にまとめられているが、真崎黒幕説などというのは資料的に成り立たないものなのである。
 『戒厳司令「交信ヲ傍受セヨ」二・二六事件秘録』(日本放送協会、1980)は戒厳司令部の行った電話盗聴録音盤を再現した NHK番組の書物版で、事件研究上の意味はそれほどないが、北一輝の声を聞かせて驚かせ、賞も受賞した。しかし、本当に北の声なのか当初から疑問視する声も強く、結局後に中田整一『盗聴二・二六事件』(文芸春秋、2007)で中田プロデューサー自ら取り消した。NHKの放送自体では誤報の取り消し・謝罪は行っていないので番組を見た視聴者は今も北の声と思っているだろう。
 筒井清忠『昭和期日本の構造』(有斐閣、1984、改題『二・二六事件とその時代』ちくま学芸文庫、2006、このうち二・二六事件についての研究の初出は 1977 年)はクーデターと しての二・二六事件の構造を初めて解明した書。この事件を解明していくためには青年将校を分類していく必要があるとして、『日本改造法案大綱』に対する態度をメルクマールにして「改造主義派」と「天皇主義派」に分けることを提唱した。また、クーデター計画の構成を綿密に明らかにし暫定政権に向けての改造派の上部工作、木戸幸一内大臣秘書官長の 対処案が決定的に重要であることなどを初めて解明した。多くのそれまで出されていた事件をめぐる問題点を解決しており、松本清張以来問題となった宮城占拠問題も技術的・倫 理的にありえないことを明らかにさせている。
 その後現われた重要な資料が原秀男・澤地久枝・匂坂春平編『検察秘録 二・二六事件 1 ~4』(角川書店、1989-91)である。『NHK特集・二・二六事件、消された真実』(1988 年)というテレビ番組のもとになった資料で、この番組も受賞している。澤地久枝氏は『雪は汚れていた』(NHK出版、1988)という書物も出版している。 この資料から、2 月 26 日午後 2 時頃から開かれた非公式軍事参議官会議で決められた「陸軍大臣より(陸軍大臣告示)」が非公式軍事参議官会議より前に出されていると見られていた時期が捜査の初期段階においてあったことがわかり、ここから真崎甚三郎ら皇道派の将官たちが予めこうしたものを準備していた陰謀があったという方向で放送が行われた。「蹶起の趣旨に就ては、天聴に達せられあり」など青年将校に有利な内容が盛られていると見られた「陸軍大臣より(陸軍大臣告示)」が近衛師団司令部に電話で伝えられたのが「午前十時五十分」と書いた記録があるため、事件前に真崎大将らによりあらかじめこれが作られていたのだとする陰謀説が唱えられたのである。
 この点、この番組を見た元青年将校の末松太平氏は次のように言っている。「真崎大将の総理大臣野望、大臣告示、二・二六事件は、青年将校の計画の外に、前から何らかの策動が仕組まれていたように沢地並びにNHKテレビは解説した」(末松太平「羊頭をかかげて」 田村重見編『交友と遺文』1993、176 頁)。しかし、澤地氏らが存在してないとしていた裁判資料(本資料)がその後発見され、その精査から「陸軍大臣より(陸軍大臣告示)」が伝えられたのは午後「三時十五分頃」と確定している。謀略説は、捜査の初期段階の検察側 の一部の「見込み」をさらに根拠なく拡大したところから出てきたものなのであった。今日、「将軍たちの陰謀説」は裁判資料を基に捜査の初期段階の一仮説に過ぎなかったとして 明確に否定されており、異論の余地はない(北博昭『二・二六事件 全検証』〔朝日新聞社、 2003〕を参照)。
 また、こうした説を誤ったもののとして解決したのが本資料なのである。元青年将校の池田俊彦氏は中田氏らが正確な根拠もなく前記のような説を唱えることを激しく批判したが、その後池田氏著『生きている二・二六』はちくま文庫に入り、中田氏が解説を書いている。池田氏が厳しく批判した説を中田氏はそのまま解説に書いているのだから地下の池田氏はどういう思いであろうか。(中略)不明であるが、(中略)西田が事件暴露の張本人にされてしまったことは想像に難くない」(50頁) とある。「不明」「想像に難くない」どころか、すでにはるか以前の、末松太平『私の昭和史』(みすず書房、1963)にこの経緯は詳しく書いてある。末松書は青年将校研究のための基本書である。基本書を読んでから研究書は書かれるべきであろう。
 その他、例えば十月事件失敗後、誰が暴露したかをめぐって橋本欣五郎大佐グループと 青年将校が対立した会合についての叙述の部分には「この会合について(中略)不明であ るが、(中略)西田が事件暴露の張本人にされてしまったことは想像に難くない」(50 頁) とある。「不明」「想像に難くない」どころか、すでにはるか以前の、末松太平『私の昭和史』(みすず書房、1963)にこの経緯は詳しく書いてある。末松書は青年将校研究のための 基本書である。基本書を読んでから研究書は書かれるべきであろう。
 その後出た重要な資料としては、山本又『二・二六事件蹶起将校 最後の手記』(文芸春 秋、2013)がある。やや年齢等が離れていて特異な立場にあった山本の手記だが、初めて活字になったことも多い。一例を挙げておけば、警視庁屋上からの手旗信号を磯部が受信したことについての記述(123 頁)は、従来はっきりしなかった警視庁占拠部隊と他の部隊との関係(宮城問題を含む)についての考察に重大な手がかりとなる事実である。ただ、解説には間違いが多く、例えば本書中の石原莞爾の態度を取り上げて「弱気な言い方を繰り返している」が「強圧的な物言いをするタイプ」の石原が「このような物言いをするものだろうか」と書いている(215 頁)のだが、裁判資料に基づき(石原はこの時「しょんぼり」していたと述べている山口大尉の証言〔資料番号 00318100-0005〕などから)石原傲然説はすでに覆っているのである。
 その後出た研究として、拙著『二・二六事件と青年将校』(吉川弘文館、2014)がある。現時点での二・二六事件研究の成果を集大成したものである。研究者のため参考文献・研究史も詳しくしておいた(本稿はこれを発展させたものである)。今後の事件研究は、先行研究をまとめた本書を読んでからなされるべきであろう。 また、加藤陽子『天皇と軍隊の近代史』(勁草書房、2019)の「総論」は、青年将校運動 と左翼運動との関係について新しい視点を出している。
 最近では、海軍側の新資料とされるものが発見されNHKで放送されたが、これまで二・ 二六事件についての本格的研究のある研究者は制作に一人もタッチしておらず、研究史を踏まえていない内容であった。何が新発見なのかがわかった研究者のアドヴァイスを受けるべきであったろう。間違いを挙げるときりがなく、そもそも本裁判資料をチェックして から初めて新発見かどうかわかるというのが研究の現状なのである。(なお、『木戸幸一日記』『木戸幸一関係文書』『西園寺公と政局』『本庄日記』など昭和史全体にわたる基礎資料については除いたことを了解いただきたい)。
 網羅的な文献目録としては以下のものがある。 1、「二・二六事件関係文献目録」(伊藤隆ほか編『二・二六事件秘録』別巻、小学館、1972) 2、「血盟団、五・一五事件、二・二六事件 関係文献目録」(原秀男・澤地久枝・匂坂哲郎 編『検察秘録 二・二六事件Ⅳ』角川書店、1991) 3、「二・二六事件等関係文献目録」(松本一郎『二・二六事件裁判の研究―軍法会議記録の総合的検討』緑蔭書房、1999) さて、最後に本資料の発見の経緯について著しておきたい。
 松本清張『昭和史発掘12』(1971)は裁判記録について「予審調書も法廷の審理記録も 一切地上から姿を消している」と書いていた。検察側の記録である匂坂資料刊行の際には澤地久枝氏が「二・二六事件に関しては匂坂資料は最終で最大の文書といえよう」と書いている(『匂坂資料 5』、1989)。「正式裁判関係記録はみごとになくなっている」というのである。これらは、自らが使った資料の価値を高めるために創作されたものであったが、これに 疑問を感じた北博昭氏が厚生省引揚援護局の資料から東京地検に存在することを突き止めるまでの記録は、北博昭「二・二六事件正式裁判文書は現存していた」(『中央公論』1991 年 3 月号)に詳しい。大変なご苦労であった。
 さて、問題はその後である。東京地検は研究者等に閲覧を許したが複写を認めなかった。 このため筆写するしかなく、中国地方に在住の北氏は大変な苦労をして、判決部分を伊藤 氏とともに活字化し、前述の伊藤隆・北博昭編『新訂 二・二六事件 判決と証拠』(朝日新 聞社、1995)を刊行、さらに北博昭『二・二六事件 全検証』(朝日新聞社、2003)を出版されたのであった。過度の筆写のため右腕の病気になられたと聞く。 筆者は早くからこの資料の出版・刊行を企図した。全国民の共有財産とし、全国どこに いても閲覧できるようにすべきだからである。助けてくださった方もいたが、研究に理解 のない官庁の壁に阻まれ一歩も前に進むことができず格別の方法もなくもはや不可能かと 思われた。 ところが、石橋湛山研究で知り合った中島政希氏が衆議院議員となられ、ある時お願い したら力を貸していただけることになった。その後の経緯は同氏の『戦いなければ哲学な し 中島政希回想録』(政党政治研究所、2016、増補版、2020)に詳しいが、またいばらの 道であった。2012 年 1 月 31 日と 2 月 14 日に質問主意書を提出してくださったが(第 180 回国会 質問第 24 号、質問第 72 号)、法務検察当局は全く態度を変えず相変わらず研究者 を尊重する姿勢を見せなかった。筒井清忠(帝京大学文学部長) 「二・二六事件東京陸軍軍法会議録 解題
 二・二六事件を含めた昭和陸軍の内部過程について戦後最初に書かれたまとまった書物 は田中隆吉『敗因を衝く―軍閥専横の実相』(山水社、1946)、日本軍閥暗闘史(静和堂 書店、1947)である。荒木貞夫・真崎甚三郎を中心とした皇道派と永田鉄山を中心とした 統制派の対立が描かれ統制派の人名も比較的正確に挙げられている。ただ、二・二六事件 について詳しい叙述があるわけではないが、事件後皇道派が陸軍からほぼ一掃されたので 統制派が制圧するようになったとしており、戦後のこの誤解の起源はかなりの部分この書物によるものと思われる。
 戦後最初に出た青年将校に近い皇道派サイドから見た昭和陸軍史は岩淵辰雄『軍閥の系 譜』(中央公論社、1948)である。岩淵は戦争中に吉田茂らと和平工作をして逮捕されたこ ともあり東条英機ら戦中の陸軍指導部につながる統制派に批判的で、いわば「皇道派史観」 の先駆けであった(だからと言って戦中の陸軍指導部が統制派だったわけではない)。
 さて、この匂坂資料等の編者たちは裁判資料は存在しないことを力説していたが、それが東京地検にあることを突き止めたのが北博昭氏であった。北氏がそのうち判決部分を伊藤氏とともに活字化したのが、伊藤隆・北博昭編『新訂 二・二六事件 判決と証拠』(朝日新聞社、1995)で、北氏自身による、北博昭『二・二六事件 全検証』(朝日新聞社、2003)を刊行、その功績は研究上計り知れない。

 また、池田俊彦編『
二・二六事件裁判記録 蹶起将校公判廷』(原書房、1988)は裁判資料中の蹶起将校公判廷の部分を活字にしたもので、これも極めて有益である。裁判記録を使った研究としては、松本一郎『二・二六事件裁判の研究―軍法会議記録の総合的検討』(緑蔭書房、1999)もあり、法学者による研究として裁判の暗黒面を詳細に解 明した優れた研究書である。また事実関係についても多くを明らかにしており有益である。
 須崎慎一『二・二六事件 青年将校の意識と心理』(吉川弘文館、2003)も裁判資料を使っ た研究だが、研究としての意義は少ない。研究史についての叙述がなく(「紙数の関係」と いう(同書 13 頁))、「彼ら(事件の中心的青年将校)を一括して、北・西田の影響をうけた青年将校とみなすことは、二・二六事件像をミスリードする可能性が高い」(同書 5 頁)とある。青年将校を北の影響を受けた者とそうでない者とに分けることから事件を解明した拙著は 20 年近く前に出ている。先行研究を明示するという研究者としての最低限のルール は守るべきであろう。 その他、例えば十月事件失敗後、誰が暴露したかをめぐって橋本欣五郎大佐グループと青年将校が対立した会合についての叙述の部分には「この会合について(中略)不明であるが、(中略)西田が事件暴露の張本人にされてしまったことは想像に難くない」(50 頁) とある。「不明」「想像に難くない」どころか、すでにはるか以前の、末松太平『私の昭和史』(みすず書房、1963)にこの経緯は詳しく書いてある。末松書は青年将校研究のための 基本書である。基本書を読んでから研究書は書かれるべきであろう。
 その後出た重要な資料としては、山本又『二・二六事件蹶起将校 最後の手記』(文芸春 秋、2013)がある。やや年齢等が離れていて特異な立場にあった山本の手記だが、初めて 活字になったことも多い。一例を挙げておけば、警視庁屋上からの手旗信号を磯部が受信したことについての記述(123 頁)は、従来はっきりしなかった警視庁占拠部隊と他の部隊 との関係(宮城問題を含む)についての考察に重大な手がかりとなる事実である。ただ、解説には間違いが多く、例えば本書中の石原莞爾の態度を取り上げて「弱気な言い方を繰り返している」が「強圧的な物言いをするタイプ」の石原が「このような物言い をするものだろうか」と書いている(215頁)のだが、裁判資料に基づき(石原はこの時「しょんぼり」していたと述べている山口大尉の証言〔資料番号 00318100-0005〕などから)石 原傲然説はすでに覆っているのである。
 その後出た研究として、拙著『二・二六事件と青年将校』(吉川弘文館、2014)がある。現時点での二・二六事件研究の成果を集大成したものである。研究者のため参考文献・研究史も詳しくしておいた(本稿はこれを発展させたものである)。今後の事件研究は、先行研究をまとめた本書を読んでからなされるべきであろう。 また、加藤陽子『天皇と軍隊の近代史』(勁草書房、2019)の「総論」は、青年将校運動 と左翼運動との関係について新しい視点を出している。
 最近では、海軍側の新資料とされるものが発見されNHKで放送されたが、これまで二・ 二六事件についての本格的研究のある研究者は制作に一人もタッチしておらず、研究史を踏まえていない内容であった。何が新発見なのかがわかった研究者のアドヴァイスを受けるべきであったろう。間違いを挙げるときりがなく、そもそも本裁判資料をチェックして から初めて新発見かどうかわかるというのが研究の現状なのである。(なお、『木戸幸一日記』『木戸幸一関係文書』『西園寺公と政局』『本庄日記』など昭和 史全体にわたる基礎資料については除いたことを了解いただきたい。)
 網羅的な文献目録としては以下のものがある。 1、「二・二六事件関係文献目録」(伊藤隆ほか編『二・二六事件秘録』別巻、小学館、1972) 2、「血盟団、五・一五事件、二・二六事件 関係文献目録」(原秀男・澤地久枝・匂坂哲郎 編『検察秘録 二・二六事件Ⅳ』角川書店、1991) 3、「二・二六事件等関係文献目録」(松本一郎『二・二六事件裁判の研究―軍法会議記録の 総合的検討』緑蔭書房、1999) さて、最後に本資料の発見の経緯について著しておきたい。
 松本清張『昭和史発掘 12』(1971)は裁判記録について「予審調書も法廷の審理記録も 一切地上から姿を消している」と書いていた。検察側の記録である匂坂資料刊行の際には澤地久枝氏が「二・二六事件に関しては匂坂資料は最終で最大の文書といえよう」と書いている(『匂坂資料 5』、1989)。「正式裁判関係記録はみごとになくなっている」というのである。これらは、自らが使った資料の価値を高めるために創作されたものであったが、これに疑問を感じた北博昭氏が厚生省引揚援護局の資料から東京地検に存在することを突き止めるまでの記録は、北博昭「二・二六事件正式裁判文書は現存していた」(『中央公論』1991 年 3 月号)に詳しい。大変なご苦労であった。
 さて、問題はその後である。東京地検は研究者等に閲覧を許したが複写を認めなかった。 このため筆写するしかなく、中国地方に在住の北氏は大変な苦労をして、判決部分を伊藤氏とともに活字化し、前述の伊藤隆・北博昭編『新訂 二・二六事件 判決と証拠』(朝日新 聞社、1995)を刊行、さらに北博昭『二・二六事件 全検証』(朝日新聞社、2003)を出版 されたのであった。過度の筆写のため右腕の病気になられたと聞く。 筆者は早くからこの資料の出版・刊行を企図した。全国民の共有財産とし、全国どこに いても閲覧できるようにすべきだからである。助けてくださった方もいたが、研究に理解 のない官庁の壁に阻まれ一歩も前に進むことができず格別の方法もなくもはや不可能かと 思われた。ところが、石橋湛山研究で知り合った中島政希氏が衆議院議員となられ、ある時お願い したら力を貸していただけることになった。その後の経緯は同氏の『戦いなければ哲学なし 中島政希回想録』(政党政治研究所、2016、増補版、2020)に詳しいが、またいばらの道であった。2012 年 1 月 31 日と 2 月 14 日に質問主意書を提出してくださったが(第 180 回国会 質問第 24 号、質問第 72 号)、法務検察当局は全く態度を変えず相変わらず研究者 を尊重する姿勢を見せなかった。
 ところが、資料が流出し出版されるという事態が生じた。匂坂資料の編者の一人に裁判記録について鑑定を依頼した際コピーを送ったものが返却されず、その編者の死後に流出したものらしかった。私らの問いかけにはまともに答えず複写・公開・出版を拒否してお きながら恐るべき失態であった。そこで、中島議員は衆議院法務委員会で二度にわたり質問(衆議院法務委員会議事録、平成二十四年六月十五日、八月三日)、もとより責任追及が目的でなく資料の公開・出版が目的であった。こうして当時の滝実法務大臣はついに同年 6 月15 日に公開の検討に入り、8 月 3 日に公開を明言した(衆議院法務委員会議事録、平成二十四年六月十五日、八月三日)。 その後、2014 年 8 月には全国の地検が保管している軍法会議等の裁判資料をすべて公開することが決められた。これが国立公文書館に収蔵され公開・出版されるまでにはさらに 曲折があったが、私が内閣府に依頼するなどのこともありようやく今日に至ったのである。 この事件の謎の多くが解けてはいるが、もちろんまだ未解明の部分も少なくない。読者 が、以上の研究史を踏まえ直接本資料を読まれ謎の解明に当たられることを期待したい。ところが、資料が流出し出版されるという事態が生じた。匂坂資料の編者の一人に裁判記録について鑑定を依頼した際コピーを送ったものが返却されず、その編者の死後に流出 したものらしかった。私らの問いかけにはまともに答えず複写・公開・出版を拒否してお きながら恐るべき失態であった。そこで、中島議員は衆議院法務委員会で二度にわたり質 問(衆議院法務委員会議事録、平成二十四年六月十五日、八月三日)、もとより責任追及が 目的でなく資料の公開・出版が目的であった。こうして当時の滝実法務大臣はついに同年 6 月 15 日に公開の検討に入り、8 月 3 日に公開を明言した(衆議院法務委員会議事録、平成 二十四年六月十五日、八月三日)。その後、2014 年 8 月には全国の地検が保管している軍法会議等の裁判資料をすべて公開 することが決められた。これが国立公文書館に収蔵され公開・出版されるまでにはさらに曲折があったが、私が内閣府に依頼するなどのこともありようやく今日に至ったのである。 この事件の謎の多くが解けてはいるが、もちろんまだ未解明の部分も少なくない。読者が、以上の研究史を踏まえ直接本資料を読まれ謎の解明に当たられることを期待したい。






(私論.私見)