諸氏の2.26事件観

 更新日/2019(平成31→5.1日より栄和改元).7.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「諸氏の2.26事件観」を確認しておく。

 2011.6.4日 れんだいこ拝



河合栄治郎の「二・二六事件に就て
 河合栄治郎の「二・二六事件に就て」を転載しておく。
 一

 二月二十日の総選挙に
て、国民の多数が、ファッシズムへの反対と、ファッシズムに対する防波堤としての岡田内閣の擁護とを主張し、更にその意志を最も印象的に無産党の進出に於て表示したる後わずかに数日にして起こった二・二六事件は、重要の地位にある数名の人物を襲撃し、遂に政変を惹起じゃっきするに至った。

 二

 
吾々われわれは、残酷なる銃剣の下にたおれたる斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監に対して、深厚なる弔意を表示すべき義務を感ずる。浜口雄幸おさち、井上準之助、犬養毅いぬかいつよし等数年来暴力の犠牲となった政治家は少なくないが、これの人々が仆れたる時は、まだ反対思想が何であるかが明白ではなかった。従ってその死は言葉通りに不慮の死であった。しかるに五・一五事件以来ファッシズム殊に軍部内にけるファッシズムは、おおうべからざる公然の事実となった。しかして今回災禍に遭遇したる数名の人々はのファッシズム的傾向に抗流することを意識目的とし、その死があるいは起こりうることを予知したのであろう、しかも彼らは来らんとする死に直面しつつ、身をもってファッシズムの潮流を阻止せんとしたのである。筆者はこれらの人々を個人的に知らず、知る限りに於て彼らと全部的に思想を同じくするものではない。しかしファッシズムに対抗する一点に於ては、彼らは吾々の老いたる同志である。ややもすれば退嬰たいえい保身に傾かんとする老齢の身を以て、危険を覚悟しつつその所信を守りたるこれらの人々が、不幸兇刃きょうじんに仆るとの報を聞けるとき、私は難き深刻の感情の胸中に渦巻けるを感じた。

 三

 ファッシストの何よりも非なるは、一部少数のものが暴力を行使して、国民多数の意志を
蹂躙じゅうりんするにある。国家に対する忠愛の熱情と国政に対する識見とに於て、生死をして所信を敢行する勇気とに於て、彼らのみが決して独占的の所有者ではない。吾々は彼らの思想が天下の壇場に於て討議されたことを知らない。いわんや吾々は彼らに比して敗北したことの記憶を持たない。しかるに何の理由を以て、彼らは独り自説を強行するのであるか。彼らの吾々と異なる所は、ただ彼らが暴力を所有し吾々がこれを所有せざることのみにある。だが偶然にも暴力を所有することが、何故に自己のみの所信を敢行しうる根拠となるか。吾々に代わって社会の安全を保持するに、一部少数のものは武器を持つことを許され、その故に吾々は法規によって武器を持つことを禁止されている。しかるに吾々が晏如あんじょとして眠れる間に武器を持つことその事の故のみで、吾々多数の意志は無のごとくに踏み付けられるならば、先ず公平なる暴力を出発点として、吾々の勝敗を決せしめるにくはない。

 あるいは人あっていうかも知れない、手段に於て非であろうとも、その目的の革新的なる事に於て必ずしも
とがめるをえないと。しかし彼らの目的が何であるかは、いまかつて吾々に明示されてはいない。何らか革新的であるかの印象を与えつつ、しかもその内容が不明なることが、ファッシズムが一部の人を牽引けんいんする秘訣ひけつなのである。それ自身異なる目的を抱くものが、それぞれの希望をファッシズムに投影して、自己満足に陶酔しているのである。ひたすらに現状打破を望む性急焦躁しょうそうのものが、くべき方向の何たるかを弁ずるをえずして、さきにコンムュニズムに狂奔し今はファッシズムに傾倒す。冷静な理智の判断を忘れたる現代に特異の病弊である。

 四

 由来国軍は外敵に対して我が国土を防衛する任務を課せられて、国軍あるが
に国民は自ら武器を捨て、安んじて国土の防衛をたくしたのである。国軍はそれだけで負担し切れぬほど重大な使命を持っている。将兵化して政治家となるほどに、国軍は為すべき任務を欠いでいるのであろうか。しその任務たる国防を全うするをえない事情にあるならば、真摯しんしにその旨を訴えるべき他の適当の方法があるはずである。日本国民はその言に耳を傾けないほど祖国に対して冷淡無関心ではない。もしそれが国防の充実と云う特殊の任務を逸脱して、一般国政に容喙ようかいするならば、その過去と現在の生活環境とよりして、決して充分の資格条件を具備するものと云うことはできない。軍人は軍人としての特殊の観点に制約されざるをえないのである。

 軍人その本務を逸脱して余事に奔走すること、既に好ましくないが、更に憂うべきことは、軍人が政治を左右する結果は、もし一度戦争の危機に立つ時、国民の中には、戦争が果たして必至の運命によるか、あるいは何らかの為にする結果かと云う疑惑を生ずるであろう。国家の運命が危険に迫れる時に於て、挙国満心の結束を必要とする時に於て、かかる疑惑ほど
障碍しょうがいとなるものはない。

 五

 一千数百名の将兵をして勅命違反の
叛軍はんぐんたらしめんとするに至れるは、果たして誰の責任であろうか。事件は突如として今日現れたのではなくて、って来れる所遠きにある。満洲事変以来擡頭たいとうし来れるファッシズムに対して、もし軍部にその人あらば、つとに英断を以て抑止すべきであった。国軍の本務は国防にあるか奈辺なへんにあるか、政治は国民の総意にるべきか一部少数の〈暴〉力によるべきかは、厳として対立する見解にして、その間何らの妥協苟合こうごうを許されない。もし対立する見解の一方を採るならば、その所信に於て貫徹を期すべきである。いわゆる責任と称してその都度職を辞するが如きは、その意味の責任を果たさざるものである。幸いにしてこの機を利用して、抜本塞源そくげんの英断を行うもの国軍の中より出現するにあらずんば、更に幾度かこの不祥事を繰り返すに止まるであろう。

 六

 左翼戦線が十数年来無意味の分裂抗争に、時間と精力とを浪費したる後、
ようやく暴力革命主義を精算して統一戦線を形成したる時、右翼の側に依然として暴力主義の迷夢が低迷しつつある。今や国民は国民の総意か一部の暴力かの、二者択一の分岐点に立ちつつある。この最先の課題を確立すると共に社会の革新を行うに足る政党と人材とを議会に送ることが急務である。二月二十日の総選挙は、れ自身に於ては未だ吾々を満足せしめるに足りないが、日本の黎明れいめいの総選挙より来るであろう。黎明は突如としてき起これる妖雲よううんによって、しばらくは閉ざされようとも、吾々の前途の希望は依然として彼処そこに係っている。

 この時に当たり往々にして知識階級の
ささやくを聞く、この〈暴〉力の前にいかに吾々の無力なることよと。だがこの無力感の中には、暗に暴力讃美さんびの危険なる心理が潜んでいる、そして之こそファッシズムを醸成する温床である。暴力は一時世を支配しようとも、暴力自体の自壊作用によりて瓦壊がかいする。真理は一度地にまみれようとも、神の永遠の時は真理のものである。この信念こそ吾々が確守すべき武器であり、これあるによって始めて吾々は暴力の前に屹然きつぜんとして亭立しうるのである。
(私論.私見)
 この一文によって、河合栄治郎について深きを知らないが、ただの凡俗学者であることを知る。少なくとも学者の言であってマルキストのそれではない。

 2013.4.12日 れんだいこ拝

渡辺京二の「二・二六事件とは何だったのか」
 渡辺京二(わたなべ・きょうじ/思想家)の「二・二六事件とは何だったのか 」を転載しておく。
 反乱指導者の胸中において、二・二六反乱は昭和維新政権を樹立する軍事クーデタではなかった。結局、彼らには帝都中枢部占拠後の確たる展望も構想もなかったのである。では、「蹶起」の目的は何であったのか。その最大なるものはいわゆる重臣ブロックの粉砕であった。

 反乱将校の命題はこうである。今日の国民生活の困窮と対外的な困難は現在の指導体制、元老・重臣・官僚・財閥・軍閥の根本的解体によってしか打開できない。その解体は、自立した国民運動によらねばならぬ。その先頭に立つのが天皇である。なぜなら天皇とは、この世に見捨てられた民を一人としてあらしめてはならぬという理念の顕現だからである。その天皇の真の意志が解き放たれるとき昭和維新は成る。だが天皇の存在の本義は常に重臣ブロックによって顕現を阻まれてきた。ゆえに重臣ブロックの粉砕こそ維新革命の第一歩であらねばならず、この反乱はその第一歩を踏み出すものである。

 村中の『丹心録』を読めば、彼らの維新革命観が一種の神義論的相貌を帯びているのに気づかないわけにはゆかぬ。神義論の核心は国民の守護聖者、国民の解放者としての天皇の本義にあった。重臣たちの妨害とミスリードさえなければ、この本義は光のごとくおのずと流出するはずである。反乱将校の命運はかつていまだ検証されたことのないこの神義論的命題の正否にあった。彼らは史上一度も存在はおろか夢想もされたことのない天皇の本義を発明したのである。

 天皇の真意はただ重臣たちによって曇らされているだけで、それさえ除けば必ずや昭和維新を嘉するというのは、何の根拠もない盲信だった。反乱鎮圧の方針を終始リードしたのは実に天皇裕仁そのひとだったのである。天皇は「機関説状態」に何ら不満を抱いていなかった。その状態から解放し奉ろうという反乱将校の忠誠など迷惑至極、逆に「真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為」であって、彼らが殺害した重臣こそ「朕ガ股肱ノ老臣」にほかならず、「此ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノ」なしというのが本音だった。

 だが私は天皇がこの反乱を「国体の精華を傷くるものと認」めたこと(『木戸幸一日記』)を、昭和前史の重要な事実のひとつと考える。国体について天皇と天皇主義者がこのように鋭く対立するほどに、昭和という時代は成熟していたのだ。この反乱の眼目は軍隊を動員したことにある。天皇の軍隊を国民の軍隊と読み替えて、反乱に軍隊を用いたのが画期的なのである。天皇の軍隊を革命に使用する、これほどスリリングなことがあろうか。将校・下士官・兵にこのようなおそろしい行為に踏み切らせるほど、時代の水位は上昇していた。

 彼らは何のため軍隊を使用せねばならなかったのか。革命は自立する人格の所有者としての国民の事業であった。軍隊という狭い世界に棲む彼ら将校にとって、国民とは兵のことである。兵とともに起たねば革命は革命にならなかった。兵とともに起ってこそ、彼らの国体観は明示される。天皇が激怒したのは彼らの国体観の実像をありありと目のあたりにしたゆえではないのか。

 「『姉ハ……』ポツリポツリ家庭ノ事情ニツイテ物語ッテ居タ彼ハ、此処デハタト口ヲツグンダ、ソシテチラット自分ノ顔ヲ見上ゲタガ、直ニ伏セテシマッタ、見上ゲタトキ彼ノ眼ニハ一パイ涙ガタマッテ居タ」。高橋太郎少尉の手記の一節である。彼は続けて書く。「モウヨイ、コレ以上聞ク必要ハナイ、暗然拱手歎息、初年兵身上調査ニ繰返サレル情景」。彼らがともに起った兵とは、少なくとも理念としてはこのような存在だったのである。天皇はそのようなことを想像するさえできなかった。

赤旗記事「二・二六事件から80年 一気に戦時体制化 自由抑圧へ 軍が内閣の命運を左右
 2016年2月26日(金)、しんぶん赤旗記事「二・二六事件から80年 一気に戦時体制化 自由抑圧へ 軍が内閣の命運を左右」。

 80年前の2月26日、日本陸軍の青年将校によるクーデター、二・二六事件が起こりました(1936年)。この事件をきっかけに、軍部の政治への発言力が強まり、翌37年に日本は日中全面戦争に突入します。二・二六事件の経過と影響を考えます。(若林明)

 排外主義あおる政治 背景に

 青年将校たちは、約1400人の武装兵力を動員し、首相官邸はじめ東京の永田町一帯を制圧。斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監らを殺害し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせました。東京市(当時)に戒厳令が施行されました(7月まで継続)。

 国家改造を主張し

 青年将校たちは「皇道(こうどう)派」といわれ、極端な精神主義的な天皇中心主義で、クーデターによる国家改造を主張しました。陸軍内で皇道派に反対する「統制派」は、クーデターを否定するものの、軍部を中核として官僚・政財界とも提携した国家総動員体制を志向していました。青年将校たちが絶対視していた昭和天皇がクーデターの武力鎮圧を決め、海軍も鎮圧を主張し、失敗に終わりました。

 二・二六事件に先立ち、日本は関東軍の謀略による柳条湖事件をきっかけに中国東北部に侵攻した「満州事変」(31年)をおこしていました。国内では軍の発言力が強くなり、政党政治や議会が軽視されます。中国への侵略戦争を厳しく批判していた日本共産党に対する組織的な弾圧は、この時期に自由主義者などへとひろがりました。

 35年に、「天皇機関説事件」がおこります。美濃部達吉の天皇機関説は、天皇絶対の明治憲法を立憲主義的に解釈したものです。政府は、「国体明徴に関する声明」(同年8月)を発表し、天皇機関説を否定します。これは、国家による言論弾圧事件であり、議会政治への攻撃でした。「皇道派」は天皇機関説排撃を政府に要求する中心でした。日本近代史を研究する早稲田大学教授の大日方純夫氏は「明治憲法の解釈としてオーソドックスな学説だった天皇機関説を排斥し、天皇の地位を強める方向への大幅な解釈改憲です」といいます。二・二六事件をおこした青年将校の15人、事件に関与したとされた右翼の北一輝、西田税などが銃殺刑になります。陸軍は「粛軍」と称して「皇道派」を排除します。

 この事件によって、天皇側近にいた米英協調派は殺害され、陸軍内は「統制派」に一元化しました。事件直後の3月、陸軍は広田弘毅内閣の組閣に干渉し、複数の閣僚候補を「自由主義的だ」として排除させます。さらに、政府は陸海軍大臣の任用資格を現役の大将と中将に限定する制度を復活させました。この後、軍が首相の人選や内閣の命運を左右することになります。

 軍「自立化」の怖さ

 日本近現代政治史を研究する首都大学東京教授の源川真希氏は「二・二六事件を中心とする時期に、軍は『自立化』します。それは大変恐ろしいことです。昨年の安保関連法案審議の中で、自衛隊の統合幕僚監部が、法案成立前に部隊編成などの計画を作成していた事実が明らかになりました。軍に対する国会と法律による統制がきかなくなったら、これは非常に危険です」といいます。

 大日方氏は「1920年代には、政党の活動が活発で、国際的にも、国際協調と軍縮が大きな流れとなっていました。しかし、二・二六事件前後の時期が日本の大きな曲がり角になりました。排外主義と対外的な危機意識をあおる政治が方向を誤らせたといえます。現代への教訓とすべきです」と語ります。


永井荷風の「断腸亭日乗の昭和11年2月26日」
 永井荷風の「断腸亭日乗の昭和11年2月26日」に次のように書かれている。
 「二月廿六日。朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来り見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、〔この間約四字抹消。以下行間補〕軍人〔以上補〕警視庁を襲び同時に朝日新聞社日~新聞社等を襲撃したり。各省大臣官舎及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞るのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。九時頃新聞号外出づ。岡田斎藤殺され高橋重傷鈴木侍従長また重傷せし由。十時過雪やむ」。
 文の途中「〔この間約四字抹消。以下行間補〕」と書かれているが、これは元々は具体的に「麻布連隊」と書かれていたのではないかと思われる。憲兵に踏み込まれた時に問題になるのではないかと思い削除したと思われる。

太宰治の二・二六事件論「苦悩の年鑑」
 太宰治の二・二六事件論「苦悩の年鑑」。
 関東地方一帯に珍らしい大雪が降った。その日に、二・二六事件というものが起った。私は、ムッとした。どうしようと言うんだ。何をしようと言うんだ。実に不愉快であった。馬鹿野郎だと思った。激怒に似た気持であった。プランがあるのか。組織があるのか。何も無かった。狂人の発作に近かった。組織の無いテロリズムは、最も悪質の犯罪である。馬鹿とも何とも言いようがない。このいい気な愚行のにおいが、所謂大東亜戦争の終りまでただよっていた。東条の背後に、何かあるのかと思ったら、格別のものもなかった。からっぽであった。怪談に似ている。

 「心に青雲 旧ブログ」の2018年05月17日「2・26事件の真の闇(1)」。
 2・26事件は、もう70年以上前の1936年(昭和11年)のことであった。その2月26日がもうすぐ来る。2・26事件については多くの本が書かれながらも、いまだにある種評価の定まらない事件である。三島由紀夫の事件も、2・26事件との関連は濃厚であって、これまた未だに三島の行動について、さまざまな論議がある。けれども三島事件と2・26事件の大きな違いは、三島は単独の主体的な決起であったようだが、2・26の場合は“嵌められた反乱”という印象が強い。2・26事件は、当時軍部の皇道派と統制派の争いであるとか、新興財閥と三井三菱ら大財閥との闘争であるとか、さまざまな要素があるが、最近、あれはやはり経済で解かなければ、事件の本当の謎は解けないと思うようになった。軍部の皇道派と統制派の争いなんてのは、はっきり言ってウソである。奴らは同じ穴のムジナでしかない。教科書的には、2・26事件は皇道派の青年将校らがクーデターによって、大財閥と結びついた統制派(支那侵出をもくろんでいた)を昭和天皇の周辺から排除しようとしたことになっている。それは表向きはその通りであるし、決起した青年将校らの目的はそうであったろう。だが、結局彼らは利用されたに過ぎない。

 渡部悌治氏の『ユダヤは日本に何をしたか』(成甲書房)には、少しだけ2・26事件の本質に触れた箇所がある。
 「内乱による為替相場の変動を策したドル買い業者どもの策に乗って起きた5・15事件と同一の2・26事件が起こったのは昭和11年である」。
 「クーデターには米国ユダヤから金が来ていた。2・26事件には三井財閥の金も動いていた。北一輝には三井の池田成彬(しげあき)から月々の手当が出ていた。それで池田には行動決行の電話がいち早く届いている。5・15事件も2・26事件も他のクーデターも、いずれの場合にも第三国の金が動いていたのである。クーデターによって為替の相場を下落させて、売買の操作によって利を求めるドル買い事件にすぎなかったのである」。

 当時の右翼活動家とか理論家と称される連中や、クーデターの首謀者たちには、たいてい財閥(新興、旧来を問わず)がついて資金提供を行っていたことは事実として今日明らかになっている。その財閥を背後から使嗾したのがユダヤ資本であることも常識である。彼ら財閥が青年将校らを煽って、クーデターに導いたことも明らかになっている以上、渡部氏が指摘するように、クーデターは為替相場を不当に操作するためのものだったというのは、正しいであろう。

 ここで思いだされるのは、昭和天皇の存在である。青年将校らにとっては、いわば天皇親政によって昭和維新を断行するのだと夢見ていたのだろうが、実際の天皇はそういう人ではなかった。つまり天皇は飾り物にされ、周囲の奸臣・奸官に取り巻かれているから正しい政治が行われないと善意に解釈していたが、そうではなくいわば奸凶は天皇自身だったのである。その真相をほとんどの識者は避けるからことの本質を見誤る。2・26事件がおきると、天皇はその40分後には情報を得て、ただちに彼らを反乱軍と断じ、鎮圧を命令している。決起した将校らにしてみれば、天皇にまさかの裏切りにあったのである。しかし、この天皇の裏切りは、「将校らにしてみれば」なのであって、私は彼ら将校は天皇・財閥側が仕掛けたワナにハマっただけではないかと思う。

 さて、濱田政彦氏の『神々の軍隊』は、主として2・26事件と三島事件を扱った秀作であるが、彼も、2・26事件が起きると、当然のことながら日本の国家信用が落ちて、為替や株価が暴落したことを述べている。わずか2日で事件は鎮圧というか反乱軍は元隊復帰をするのだが、それがもう少し遅れていたら、国家財政にとっても大変なことになっていた、とある。だから、2・26事件で天皇は真っ先に日本経済に与える影響を危惧したのだと濱田氏は書くが、はたしてそうか。天皇はこう言った。「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校等、其精神に於いても何の恕す(ゆるす)べきものありや。朕が最も信頼せる老臣を悉く(ことごとく)倒すは、真綿にて朕が首を絞むるに等しき行為なり」。

 天皇は事件で暗殺された政財界の大物たちを「朕が信頼する重臣」を殺すとは不届き千万と激怒するのであるが、ずいぶんと大仰な発言に見えるが彼の本音である。天皇の重臣とは財界の代理人たちであった。けれどももし、天皇があらかじめ為替や株価でも儲けを企図し、シナリオを書かせていたとしたら、事件で暗殺される「重臣」たちが青年将校らによって殺されることも計算のうちに入っていた、あるいは気に入らない「重臣」を消すために事件を起こさせたとも考考えられる。

 とくに不審なのは、当時首相だった岡田啓介(海軍大将、三井財閥)が、当日首相官邸におらず助かっていることである(弟が身代わりに殺された)。殺されたのは、大蔵大臣・高橋是清(安田財閥、クーン・ロエブ商会)、内大臣・斎藤実(海軍大将、三菱財閥)、それに陸軍統制派の渡辺錠太郎などである。こうして見ると、いかにも大財閥と陸軍統制派首脳だけが反乱部隊の標的であったかに見えるが、これはいかにも事件がいわゆる国家のあるようを巡る思想上のせめぎ合いで生じたかのような印象を与えるけれど、これもまた(真の事件の目的を隠蔽するための)計算であったのかもしれない。事件後、今日にたるまで、2・26事件の考察はほとんどこの“思想”を巡って書かれてきたことがそれを証明している。

 天皇は、決起将校らを私利私欲に基づくものと激怒したが、当の将校らは無私の心で決起した心づもりだから、まるで話がかみあわない。むしろ、天皇のほうが、私利私欲で自分の資産の運用だけの思惑で動いていたのだ。なにしろ、戦前の天皇家は世界一の金持ちとも言われるほどの天文学的資産家であった。天皇は、大財閥や主要銀行、大企業などの大株主であったから、国家から予算として年額150万円を支給されていたとは別に、その配当は巨額なものであった。だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。2・26事件の将校を断罪するなら、なんで満州事変や支那事変を主導した軍部を断罪し止めなかったのだ? 

 それは昭和天皇が、立憲君主ではなく、実は専制君主であったからであり、実際、戦争に反対するどころか積極的に戦争を押し進めた。大東亜戦争中は、なんと宮中に大本営を置き、作戦を指揮し、認可していたのが真相である。2・26事件のときだけ政治的に介入し鎮圧を命じて、あとのときはすべて「君臨すれども統治せず」を貫きとおし、終戦のときだけ仕方なく決断したなんてことがありようか。天皇は本当は相当程度政治に介入していたのだ。

 「日本人が知らない恐るべき真実」というブログサイトにも「天皇の蓄財」(2006年8月25〜28日)という恐るべき内実を暴露した記事が書かれている。
 http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825
 これによれば(元の資料は『天皇のロザリオ』から(後述))、昭和天皇は1944年1月には、参謀総長と軍令部総長から日本の敗戦は必至であることを聞かされている。それから昭和天皇は、自らの資産を銀行に指示してスイスに移すのである。その措置が終わり、資産を連合軍が保障してくれることを降伏条件にして終戦工作を始めたのである。つまり、44年初頭には敗戦がはっきりしていたにもかかわらず、天皇は自分の地位と資産のために1年半も戦争を引き延ばしたことになる。それがポツダム宣言受諾の際の「国体の護持(天皇の助命)を条件として受諾する」と言った中身であった。まさに(そもそも大東亜戦争がユダヤの策謀ではあるが)戦争末期に特攻などで死んでいった人たちは、皇室の私利私欲の犠牲となったまったくの犬死にでしかないことになる。
 心に青雲 旧ブログ」の2018年05月18日「2・26事件の真の闇(2)」。
 2・26事件に話を戻せば、事件が起きたことは天皇にとっておそらく寝耳に水だったのではなくて、あらかじめ知っていたのではないか。財閥から情報が入っていたに違いないのである。というよりも、そもそも天皇と財閥(とその代理人)が2・26事件を仕掛けたと見るべきではなかろうか。ということは誰も言っていないのだが…。
 「最初から天皇は木戸幸一ら側近のほか侍従長武官長の本庄繁にも、すみやかに反徒を鎮圧するよう指示を出し、断固とした討伐の意志を見せていた。にもかかわらず、この意志を無視し、権限もないのに決起部隊と交渉を行ない、訳のわからない陸軍大臣告示を使って茶番劇を演じ、青年将校たちに天皇の意志が伝わらないように工作していたのが、真崎・荒木・山下といった皇道派首脳であった」(濱田政彦『神々の軍隊』)。

 事件が起きると、ただちに鎮圧せよと天皇は命令しているが、陸軍皇道派の真崎甚三郎、荒木貞夫、山下奉文らが保身のためにぐずぐずして、反乱将校たちを説得していたことになっているが、それは表向きの話であって、もしかしたら、事件発生から終息までの2日間もちゃんと前もって計算されていたのであるまいか。仕掛けた闇の勢力は当然、真崎らがどう動くか、どう終息させるかも読んでいたか、指示していたに違いない。

 クーデターが起きれば為替も株も暴落するのは、あらかじめわかりきった話である。それをあえて事前にわかっていながら反乱を阻止しなかったこの不自然さ。反乱を起こす予定の将校らには財閥から資金が流れていたし、将校らには官憲が張っていたのだ。彼ら将校は六本木第一師団司令部(防衛庁跡地)前の中華料理屋でしきりに会合(飲食?)を開き、談論風発をやって、決起、決起と気勢をあげていた。それが官憲に筒抜けにならないわけがなかろう。それなのに、将校が事件直前に弾薬庫から実包(実弾)を運び出しても黙って通過せているのだから、こんな見え見えの策謀はない。

 なにしろ青年将校や右翼に資金を出していたのが財閥なのだから、単に情報を得るだけのためではなかっただろう。だから、皇室も財閥も「クーデターによって為替の相場を下落させて、売買の操作によって利を求めるドル買い事件にすぎなかった」。

 この2・26事件を、すべて芝居でやらせたのではなかったか。真崎・荒木・山下といった陸軍皇道派首脳は、天皇の意志が本当にわかってなくて、単に皇道派を利用して自分の出世だけを考えていたか、決起部隊不利の情勢になるととたんに保身に走っただけなのか。あるいは、はじめからそういう芝居を打つ役者として決められていたのか…つまり、すべては財閥と天皇の書いたシナリオに従っていただけなのか。いずれであろうか。事件ののち、陸軍皇道派首脳はみんなほとんどお咎めなしである。もし決起将校を使嗾したという嫌疑があるなら、国家反逆罪なのだからただでは済まなかっただろうに、無罪放免なのだから、やはり、すべては企画された事件だったのではあるまいか。


 もう一つの重要な、教科書的解説にはない論説がある。それが『天皇のロザリオ 〜日本キリスト教国化の策謀』(成甲書房 上下2巻)であって、著者の鬼塚英昭氏は次のように2・26事件を解説する。ちなみにこれは最重要の日本人必読の本であり、ぜひに読まれることを願っておきたい。これが正真正銘の“真相はかうだ”(終戦後GHQがNHKラジオを使って流した謀略番組のタイトル)である。
 「北一輝の『日本改造法案』は国家と社会主義を結びつけたユニークなものであった。この法案を信じた若手将校たちが2・26事件を引き起こしたというのが通説となっている。しかし、私はこの通説をとらない。ヒロヒトの恋が下克上の世界を生み、その中から若井将校を含め、多数のテロリストたちが生まれてきたためと考える。皇道派と統制派の対立が原因だという説も私はとらない。この両派は同じ穴のムジナたちだ。三菱や三井の金に群がった連中であると見るのである。頭山(満)は三菱から、北(一輝)は三井から金をもらい、その金でテロリストの壮士や浪人や将校を誘惑したのである。女が欲しい奴には女を、酒が欲しい奴には酒を、金が欲しい奴には金を投げ与えた結果が『二・二六事件』であった。そして、こんなテロリストたちの首領によって政治が支配されていき、太平洋戦争へと進んでいったのである。」さらに田中隆吉の『日本軍暗闘史』の一節を鬼塚氏は紹介する。「北はまた単純な青年将校を籠絡することにかけては妙を得ていた。彼はいつもどこからともなく大金を手に入れては懐ろに用意していた。そして集いくる青年将校にして、女を愛する者には贅金を投じて美妓をあてがっていた。女を欲せず理論を聴かんとするものには、得意の快弁をもって国家改造法案を説明した」。

 これが実相である。戦前は共産党員でも同じであって、財閥や銀行から活動資金をもらって豪遊していた。野坂参三、徳田球一らは天皇が大株主である横浜正金銀行からカネを受け取っていたのだ。右も左も、トップのほうは同じ穴のムジナである。

 さらに鬼塚氏は説く。
 「北は頭山と同じように金を動かしていた。北が頭山とちがう点があった。北は天皇を軽く見ていた。頭山は自分自身のためと、天皇のために金を使った。頭山がかかわった事件で天皇を怒らせたものは一件もなかった。秘かに天皇は、頭山がらみの事件を嘉(よ)みし給うていた。天皇と頭山は深く一体だった」

 この引用箇所だけでなく、頭山満という右翼・玄洋社の昭和史に果たした役割・暗躍と、文中にある“ヒロヒト(昭和天皇)の恋”を説明しないと、よくわからないだろうが、くわしく説いていると長くなりすぎるので割愛する。ヒロヒトの恋とは、「宮中某重大事件(1921年)」を指すのだが、これに北一輝、頭山満、三菱財閥などがからんでいる。天皇はどうしても後に皇后となる良子と恋を成就したくて、右翼と三菱を使って良子色盲説を葬った。鬼塚氏はこの事件こそが、後の大東亜戦争への引き金だと見る。

 鬼塚氏は北一輝が2・26事件とは関係がないのに、どうして首謀者にデッチアゲられて処刑されたかというと、北は、「天皇の日本ではなく、日本の天皇にしようとした思想のゆえ」だと見ているが、実にうまい言い方である。実際、昭和天皇は2・26事件では激怒したが、海軍将校が中心だった5・15事件では平静であった。つまり5・15事件の暗殺された犬養毅首相は、天皇のやり方に反対していたから殺されてもいいと判断されていたことになる。
 「心に青雲 旧ブログ」の2018年05月18日「 2・26事件の真の闇(3)」。
 鬼塚氏が『天皇のロザリオ』で、ねず・まさしの『現代の断面 二・二六事件』の主張を紹介している。ねず氏は、天皇は自分の統帥権が犯され、統帥権が奪われようとすることには敏感に反応するのであって、統帥権を断固維持しようと腐心する。これは天皇家の歴史的本能だ、という。支配者としての本能ゆえに2・26事件の青年将校たちに激怒したのだ。だから天皇は「朕みずから近衛師団をひきいて鎮定にあたる」と言いだしたのだ。

 また鬼塚氏はこうもいう。「叛乱を起こした若手将校たちは、その理由の一つに農村の窮乏をあげている。だが、彼らの中に一人として貧農の出はない。中産階級や軍人の息子である。田中隆吉が書いているように、『美妓』か『国体論』かである。彼ら将校たちを維持するために日本は大金を遣い、農村の窮乏は深まったのだ。この事実を知り得なかったがゆえの叛乱であった」。

 昭和天皇は、自分の恋(つまり後の良子(ながこ)香淳皇后との恋)を成就させるために、右翼勢力の力を借りた。そのために右翼の台頭を許してしまい、かえってみずからの統帥権をその右翼壮士らに脅かされる事態になったので、その動きを壊滅させるために、右翼の首領で日本政治に隠然たる力を行使していた頭山満を使って2・26事件を起こさせ、一気に理屈をこねる右翼を壊滅させたと鬼塚氏は見る。そして自らの統帥権をしっかりと把持すると、いよいよユダヤ国際金融資本の陰謀に乗せられて、支那大陸へ、東南アジアへと戦争を仕掛けていくのである。

 昭和11年2月が2・26事件であり、翌年8月には第二次上海事変が起きて、一気に支那事変が拡大していく。これを見れば、あきらかに天皇や財閥が、支那へ戦争を仕掛ける意図をもって、事前に2・26事件を起こしたらしいことが見てとれる。むろん、支那側(蒋介石も毛沢東も)が戦争を起こそうと構えていたのであり、すべてはユダヤ国際資本が仕掛けたものであった。

 もう一つ『天皇のロザリオ』から紹介する。これには笑えるというか…呆れ果てる話であるが…。
 昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」、彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた」、「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである」と鬼塚氏は書いている。

そう言われれば確かにそうだ。つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。
つまり、天皇を欧州旅行に引っ張りだしたのは、おそらくユダヤ闇権力であり、その旅行で天皇がナポレオンに憧れ、やがてはユダヤ金融資本の意図どおりの戦争に打って出るような人間になるよう、策略を使ったものと思われる。

 そして昭和20年8月15日がやってくる。終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。これが歴代天皇の真実である。後醍醐天皇も南北朝の戦乱を引き起こしておいて、無責任を通し、全部責任は尊氏や楠木正成に負わせたでしょ。上がこれだから、戦後の日本人は政治家だけでなく、総無責任になった。

 大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

 しかし「海軍善玉論」(陸軍に騙され、引きずられて戦争を始めた)は大ウソであって、陸軍に責任なしとは言わないが、米英との開戦以後はほとんど海軍が悪い。その海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

 天皇が敗戦直後に伊勢神宮へ敗戦報告に出向くときの服装が、陸軍大元帥のはずなのに、海軍の軍服だったことが当時なぜ?と話題になったが、これも意味深長である。

 佐藤晃氏の著作が出るまで「海軍善玉論」は毫も疑われなかった。1月30日のブログ「老兵は死なず醜態をさらすのみ」で、佐藤晃氏の『帝国海軍が日本を破滅させた』(光文社)を紹介し、海軍の犯罪を取り上げた。佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

 思えば5・15事件は海軍将校が実行し、2・26事件は陸軍将校が実行したが、天皇の反応はすでに述べたように、海軍に温情、陸軍に冷酷だった。だから、5・15事件の処罰が緩やかだったから2・26事件が起きたとする説がある。そうではなくて、もしかすると5・15事件の処分わざと甘くしたのは、陸軍将校を2・26事件に誘導するためだったのかもしれない。

 もしかすると、ナポレオンに憧れた天皇は、ナポレオンには海軍がなかったが、オレには世界一の海軍がある、大和・武蔵が、そしてゼロ戦があるとうぬぼれていたのか。だからナポレオンにできなかった大陸制覇が、自分ならできる、やってみせる!となったのかもしれない。これは推測でしかないが。

 東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。これは当時としては真実である。しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。

 三島由紀夫は小説『英霊の聲』で、2・26事件の叛乱将校の霊を登場させ、「などて すめらぎは 人となりたまいし」と嘆くさまを描いた。叛乱将校にしてみれば血を吐くような叫びであろうが、現在の私たちから見ると、なんとも不様なマザコンぶりを露呈しているとしか思えない。どうせやるなら一気に皇居を占拠し、権力奪取しなければ謀(はかりごと)は成功しない。だが、そういう考えを持つ人間はおらず、ひたすら虚像でしかない天皇にすがるのみのマザコンだったのである。そのマザコンを巧妙にユダヤ国際金融資本に突かれた…。
 「心に青雲 旧ブログ」の2018年05月18日「天皇家の蓄財(2.26事件の真の闇/補遺)」。
 2・26事件について書いたときに、若干皇室の資産に触れた。皇室の蓄財に関して、『神々の軍隊』(濱田政彦著)ではこう書かれている。
 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる」

 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。天皇は昭和の大戦争に深く関与した。戦争責任はある。いかにユダヤから仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。

 先の引用にもあるように、天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。

 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ!つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。だから諭吉はユダヤ・フリーメースンの会員だったのだ。慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。そこを出た財界のトップたちは、記述のように、2・26事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。


 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。
 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた」。

 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった…。

 さて、再び『神々の軍隊』の続きである。
 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。

 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである」

 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという危険と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したかもしれない(むろん実態は連合国は承知していた)。だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。

 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためと言われる。

 
 小林良彰の『日本財閥の政策』は、鈴木大拙と出光の関係を書いたときに紹介したが、こんなことも書いている。
 「中島知久平(中島飛行機 ゼロ戦の製造で有名)は、陸軍が(支那事変で)未だ戦線を黄河あたりにまででとどめようとしているとき、閣僚の一人として漢口まで行かねばならないと主張した。もっとも大胆に(中国戦線)拡大を唱えたのは、鐘紡社長津田信吾である。彼は中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説いた。彼の強硬論は鐘紡の高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望を持ったこと、(中略)中国国内に原材料基地を見出さねばならぬという因果関係からくるものであろう」。

 中島知久平が閣僚になって戦争を主張したように、また王子製紙社長の藤原銀治郎は、海軍顧問、商工大臣、国務大臣。軍需大臣を歴任し、その地位を利用して戦争でしこたま儲けたクチである。

 戦後、自民党の大物議員で60年安保時に外相を務めた藤山愛一郎も戦前、大日本製糖社長として、戦争を煽った人物である。彼は台湾での製糖事業を一手に握っていたが、さらに南方と中国南部に製糖工場を広げるべき軍部と結託した人間である。
こうした三井.三菱以外の中小財閥も、積極的に戦争経済を推進しようと図ったのである。それを最も喜んだのはこれらの会社の大株主だった天皇であった。こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。

 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたと「天皇のロザリオ」にある。彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をあざむくことにも成功したのであった。戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。

 得丸公明(思想道場鷹揚の会)「4989.2・26事件は日本近代の闇を解く鍵」。
 朝目が覚めて携帯電話の画面をみると今日は2月26日。そ うだ渋谷の2・26 事件関係者の慰霊像にお参りしようと思い立った。死刑が執行された代々木刑務所の跡地に遺族が建立した慰霊像を、僕はまだ一度も訪れたことがない。朝9時ごろ、NHK放送セ ンターの前にある観音像を訪れると、遺族が花を供えて いた。遺族の焼香のあと、僕もお焼香した。午後1時からは、麻布十番の賢崇寺 で、79回忌の法要に参列して焼香。法要の参加者数は30名ほどで、見張っていた 公安刑事の数より少し多いくらいだった。
 昭和史最大の謎といわれる2・26事件は、いまだに解明されていない。それは解明を阻む国家権力の圧力が今も衰えていないからだろう。歴史家たちは、 処刑された青年将校や北一輝について断片的記述をして、思い込みを述べるのみ。これは読者に歴史の闇を闇のまま受け入れる ことを強いて、結果的に権力が歴史を封印する手助けをしている。

 僕がこの事件に興味をもつのは、きっとどこかに真実があるはずだと思うからだ。数年前に目にした対馬勝雄中尉の遺墨「後世史家に俟(ま)つは、維新にあらず、現代人の恥辱なり」という言葉に応えなければならないという使命感もある。2・26事件に呼ばれているのかもしれない。

 これまで何回か法要に参加して一番の発見は、昭和10年8月に永 田鉄山を斬殺 した相沢三郎が、2・26事件参加将校たちと同じ墓に入っていることだ。永田は、陸軍きっての俊才であったことから、2・ 26事件は単独の事件ではなく、周到に計画された日本陸軍の指揮命令系統の破壊工作であり、日本を必敗の戦争に陥れる陰謀だったと考える。だとすると、2・26事件を解明するためには、 (1)この偽クーデターのシナリオを書いた人物なり機関が存在するはずだ。それは誰なのか。 (2)昭和天皇はなぜ偽クーデターを支持して、日本を滅ぼす戦争に突入したの か。何か弱みでも握られていたのか。この2つの疑問を解けばよいということになる。海軍でおきた昭和7年の5・15事件との相似性、海外からの陰謀の可能性は ないか、といったことを丁寧に調べてみると、意外な真相がみえ てくるかもし れない。それは明治維新後の近代国家日本について、我々が思ってもみなかった 本質かもしれない。こう考えるのは、鬼塚英昭さ んの『日本の本当の黒幕』を 読んで、じつは田中光顕は本当の黒幕ではなく、田中光顕を動かしていた闇の勢力がいるのではないかと直感した ことが大きい。 (2014年2月26日)




(私論.私見)