皇道派思想考(その先駆性、狂気性、限界と深奥考)



 更新日/2019(平成31→5.1日より栄和改元).7.11日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「皇道派思想考(その先駆性、狂気性、限界と深奥考)」を確認しておく。

 2011.6.4日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評935 れんだいこ 2011/06/09
 【皇道派思想考(その先駆性、狂気性、限界と深奥考)】

 皇道派青年将校の軍人としての有能さにつき「皇道派名将録考」で確認したが、ここでは皇道派の思想、理論を検証しておくことにする。皇道派の思想、理論には、「先駆性、狂気性、限界と深奥性」が見てとれるからである。ここまで問わないと、れんだいこの2.26事件考は完結しない。

 爾来、学者は事件の検証まではするが、こういう思想性や政治観が問われる局面になると尻切れトンボになるケースが多い。何事も精緻な検証は必要であるからして、学者の労を軽視するものではないが、研究は実践指針まで至らないと本当の研究にはならない。学者にそれを願うのは無理な面もあるので、れんだいこが手掛ける。

 皇道派の思想、理論を知るには、2.26事件で見せた一部始終の経緯が格好の教材である。故に、2.26事件の経緯解析に基づいて皇道派の思想、理論を確認し、その先駆性、狂気性、限界と深奥性を指摘しておくことにする。但し、これを論証的に為すとかなり紙数を費やすことになる。ここでは結論部分のみ書きつけることにする。

 まず、皇道派の先駆性を確認する。皇道派は、5.15事件同様に時の体制批判を呼号したが、5.15事件と違って明らかにもう一つ先の真の敵を嗅ぎ取り、それは国際金融資本であるとして、その魔手批判にまで及んでいる形跡が認められる。この批判の矛先の深さが5.15事件と違うところである。れんだいこは、国際金融資本の日本政治容喙に対する拒否の姿勢を鮮明にしていた点で、これを皇道派の先駆性として称賛したい。

 だがしかし、その後の日本政治は皇道派を壊滅させたことにより、皇道派が獲得せんとしていた国際金融資本批判の目線そのものを失うことになる。皇道派亡き後の統制派主導の聖戦は、豚の子戦略で太らされた豚が上手に料理される滅びの過程に他ならない。意見するとすれば、大東亜戦争末期の特攻隊の精神は、統制派の粗脳戦略戦術に義憤して、皇道派の末裔が辿り着いた最後のお国ご奉公だったと思われる。特攻隊を、この観点から評する視座が欲しいと思う。

 次に、皇道派の狂気性を確認する。皇道派は、クーデター手法で叛乱決起した。この手法そのものが狂気と看做せよう。かく時点で、どこまでが必然性のものであったのか、他の方法がなかったのかの検証をせねばなるまい。皇道派青年将校の一網打尽的結果になったことを思えば、もっと賢い方法があったと云わざるを得ないところ、性急に仕損じている。これも狂気と云わざるを得ない。つまり、既にここまでに於いて二面の狂気性を示している。

 但し、ここまでの狂気論は平俗なものであり、これから記す狂気論こそ検討せねばならない。それはつまり、皇道派が昭和天皇の聖断を引き出さんとしたこと自体が狂気だったのではなかろうか。皇道派が当てにしていた昭和天皇自体が既に国際金融資本に取り込まれていたとしたらどういうことになるのか。皇道派は、明治維新以来の近代天皇制論を持っていない。それ故に、近代的天皇制の天皇制史上の変調さを正しく捉えて居らず、為に昭和天皇親政を期待して担ぎ出そうとして、昭和天皇自身の聖断により処罰されるという皮肉な結果になった。こうなると喜劇のような悲劇であろう。

 昭和天皇論は、大正天皇押し込め以来の昭和天皇創出過程を検証すれば容易に獲得される筈のものである。昭和天皇が去る日の皇太子としての摂政時代に於いて、国際金融資本に手なづけられていることを読み取ることはさして難しくはない。皇道派は、ここを見ずに、昭和天皇に過大な期待をして伝統的な天皇制論に基づく天皇親政の御代を求めて裁可を仰ごうとしていた。れんだいこは、ここに狂気を認めたい。

 してみれば、2.26事件の狂気は、一部軍部の暴走による反乱決起と云う狂気性、不首尾に終わる可能性が強いところを敢えて決起した狂気性もさることながら、既に国際金融資本に取り込まれている昭和天皇を聖君として仰ぎ、その絶対主義的権力に依拠して新体制を創出せんとしていたところに、より重度の狂気性を認めざるを得ない。

 次に、皇道派の限界と深奥性を確認する。皇道派は、2.26事件クーデターに於いて、軍上層部は無論のこと各界各層からの呼応を期待していたが予期通りに進展せず、遂には逆に反乱軍として始末される結果となった。結果論から云えば、2.26事件クーデターは容易に失敗したのであり、失敗そのものが限界を証していると判ぜざるを得ない。但し、問題は単純ではない。その失敗を通じて、失敗の要因を解析せんとしており、その出来映えに深奥性があるように思われるので、これを確認しておく。

 皇道派は、担ぎ出そうとしていた昭和天皇その人に処断されたが、或る意味で「昭和天皇の裏切り」は織り込み済みであった。既にそういう見識を示している。故に、2.26事件の被告人で昭和天皇に哀訴した者は誰一人いない。昭和天皇を叱りつける人士が居るばかりである。その彼らの真意は、昭和天皇に期待していたというよりも、昭和天皇を伝統的歴代の在るべき天皇制に回帰せんことを欲していたのであり、或る者は、聞く耳を持たずいきなり断固とした鎮圧を命じた昭和天皇を難詰している、と云うか弾劾している。

 その時、彼らが見つめていたのは、かって存在していたとされる民のかまどの煙を思いやる「王制」的親政政治の姿であった。しかも、大和朝廷以来のそれではなく、それ以前の出雲王朝時代の「命(みこと)制」的親政政治までを視野に入れていた形跡がある。天皇制論の行きつく先は、そんじょそこらの大和朝廷以来のそれではなく、それ以前の出雲王朝時代のそれまで遡らなければ正しく理解できない。皇道派のみが既にして「縄文天皇制」を視野に入れた天皇制論を獲得していた可能性が認められる。これを論証せんとすれば、当時の資料に分け入らなければならない。これを為すのは今後として、今はこの程度の言に留める。

 ざっと以上、簡略過ぎる皇道派思想及び理論の確認であるが、要点を抽出したつもりである。恐らく、この観点は狂うまい。以後、その肉付けをして行くことにする。れんだいこがなぜ皇道派を論ずるのか。それは、比較的近い時代の混迷期の史実であり、2011年現在の混迷の解析に役立つと直感するからである。

 2011.6.9日 れんだいこ拝

> >  rendaico れんだいこ
> >  れんだいこブログの自己評。論旨がはっきりしている点が良いですね。長大饒舌文で何を云っているのか分からない煙巻き論法に比してすっきりする。論旨の是非は別にして議論資料に値する。なんちゃって。

 渡辺京二(わたなべ・きょうじ/思想家)の「二・二六事件とは何だったのか 」を転載しておく。
 反乱指導者の胸中において、二・二六反乱は昭和維新政権を樹立する軍事クーデタではなかった。結局、彼らには帝都中枢部占拠後の確たる展望も構想もなかったのである。では、「蹶起」の目的は何であったのか。その最大なるものはいわゆる重臣ブロックの粉砕であった。

 反乱将校の命題はこうである。今日の国民生活の困窮と対外的な困難は現在の指導体制、元老・重臣・官僚・財閥・軍閥の根本的解体によってしか打開できない。その解体は、自立した国民運動によらねばならぬ。その先頭に立つのが天皇である。なぜなら天皇とは、この世に見捨てられた民を一人としてあらしめてはならぬという理念の顕現だからである。その天皇の真の意志が解き放たれるとき昭和維新は成る。だが天皇の存在の本義は常に重臣ブロックによって顕現を阻まれてきた。ゆえに重臣ブロックの粉砕こそ維新革命の第一歩であらねばならず、この反乱はその第一歩を踏み出すものである。

 村中の『丹心録』を読めば、彼らの維新革命観が一種の神義論的相貌を帯びているのに気づかないわけにはゆかぬ。神義論の核心は国民の守護聖者、国民の解放者としての天皇の本義にあった。重臣たちの妨害とミスリードさえなければ、この本義は光のごとくおのずと流出するはずである。反乱将校の命運はかつていまだ検証されたことのないこの神義論的命題の正否にあった。彼らは史上一度も存在はおろか夢想もされたことのない天皇の本義を発明したのである。

 天皇の真意はただ重臣たちによって曇らされているだけで、それさえ除けば必ずや昭和維新を嘉するというのは、何の根拠もない盲信だった。反乱鎮圧の方針を終始リードしたのは実に天皇裕仁そのひとだったのである。天皇は「機関説状態」に何ら不満を抱いていなかった。その状態から解放し奉ろうという反乱将校の忠誠など迷惑至極、逆に「真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為」であって、彼らが殺害した重臣こそ「朕ガ股肱ノ老臣」にほかならず、「此ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノ」なしというのが本音だった。

 だが私は天皇がこの反乱を「国体の精華を傷くるものと認」めたこと(『木戸幸一日記』)を、昭和前史の重要な事実のひとつと考える。国体について天皇と天皇主義者がこのように鋭く対立するほどに、昭和という時代は成熟していたのだ。この反乱の眼目は軍隊を動員したことにある。天皇の軍隊を国民の軍隊と読み替えて、反乱に軍隊を用いたのが画期的なのである。天皇の軍隊を革命に使用する、これほどスリリングなことがあろうか。将校・下士官・兵にこのようなおそろしい行為に踏み切らせるほど、時代の水位は上昇していた。

 彼らは何のため軍隊を使用せねばならなかったのか。革命は自立する人格の所有者としての国民の事業であった。軍隊という狭い世界に棲む彼ら将校にとって、国民とは兵のことである。兵とともに起たねば革命は革命にならなかった。兵とともに起ってこそ、彼らの国体観は明示される。天皇が激怒したのは彼らの国体観の実像をありありと目のあたりにしたゆえではないのか。

 「『姉ハ……』ポツリポツリ家庭ノ事情ニツイテ物語ッテ居タ彼ハ、此処デハタト口ヲツグンダ、ソシテチラット自分ノ顔ヲ見上ゲタガ、直ニ伏セテシマッタ、見上ゲタトキ彼ノ眼ニハ一パイ涙ガタマッテ居タ」。高橋太郎少尉の手記の一節である。彼は続けて書く。「モウヨイ、コレ以上聞ク必要ハナイ、暗然拱手歎息、初年兵身上調査ニ繰返サレル情景」。彼らがともに起った兵とは、少なくとも理念としてはこのような存在だったのである。天皇はそのようなことを想像するさえできなかった。







(私論.私見)