れんだいこの北一輝論 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、皇道派イデオローグとしての北一輝を確認しておく。れんだいこの北との邂逅は歴史的かもしれない。れんだいこは、2011年6月、齢60歳にして北とまみえることになった。れんだいこが求め確立しつつある史観上に北が登場したことになる。恐らく北のそれは、れんだいこのものとは違うだろうが琴線が振れていることは確かである。いざ探査せん。 2011.6.10日再編集 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評936 | れんだいこ | 2011/06/18 |
【「日本改造法案大綱」考その1、北理論の左右判別考】 2.26事件の検証を通じて、事件を起動した青年将校の多くが北一輝の「日本改造法案大綱」をバイブルとしていることを知り、勢い確認したくなった。これまで北を知らぬ訳ではなかったが評論知識に過ぎず著作を読んだことはなかった。これと思う書物はやはり極力原文で読まねばならない。という思いでネット検索したところ「北一輝『日本改造法案大綱』」に出くわした。読み易くする為にれんだいこ文法に則り焼き直すことにした。サイトは「れんだいこ版『北一輝の日本改造法案大綱』」。 「北一輝『日本改造法案大綱』」 (ttp://www7b.biglobe.ne.jp/~bokujin/shiryou1/Nihonkaizou.html) 「れんだいこ版『北一輝の日本改造法案大綱』」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kindaishico/2.26zikenco/ideoroguco/top.html) やはり原書を読まねばならない。直ぐに気づいたことは、これはマルクス―エンゲルス共著「共産主義者の宣言」の北式焼き直しであり、「北式日本改造宣言」であるということだった。こうまで云うのは云い過ぎであるにせよ、北が同書でマルクス主義の諸理論、諸言説(以下、単にマルクス主義と記す)と徹底的に対話していることは間違いない。北の趣意が「共産主義者の宣言」の日本式適用に力点を置いているのか、マルクス主義を否定せんが為にあれこれ言及しているのか、そこら辺りが今のところ判然としないが、強く意識していることは間違いない。 判然としない理由は北思想、北史観(以下、単に北理論と記す)が玉虫色になっており一筋縄では解けないからである。玉虫色の一番の要因は北理論が未だ形成途上のものであり確固としたものに定まっていない為であろう。北が絞首刑されずに居たら、その後どのように発展して行き、最終的にどのように纏められたのか、それを見てみたかった気がする。 はっきりしていることは、史実が見せた如くの「右翼のバイブル」ではないということである。むしろ本来は「マルクス主義の北式理論」として俎上に乗せられるべきものであった。全8章の仕分けとその内容がマルクス主義を強く意識して対話式に書かれたものであることは自明である。「日本改造法案大綱」は、マルクス主義を吟味し、逐一その是非を北式に問い、採るべきものは採り排すべきところは排し北式に焼き直しているところに特徴が認められる。結果的にマルクス主義を「前世紀の旧革命論、旧世紀の革命論」と評して対抗的に北理論を打ち出しているが、述べたようにマルクス主義の否定ではなく、北式創造的発展理論と評すべき余地がある。 そういう意味では「巻五 労働者の権利」の「労働賃銀」の項の「注二」末尾での「社会主義の原理が実行時代に入れる今日となりてはそれに付帯せる空想的糟粕は一切棄却すべし」の発言が注目されるべきだろう。これによれば、否定しているのは「マルクス主義の空想的糟粕」であり、マルクス主義そのものの否定ではないということになる。北理論の真骨頂は空想的糟粕を棄却するとしながらもマルクス主義のエッセンスを汲み取っているところにあるように思われる。これは何もマルクス主義に対してばかりではない。西欧的なるもの文明の一切に対して、日本的なるもの文明を対置し、これに依拠しながら西欧的なるものの善し悪しを取捨選択すべしとしているように思える。ここに北理論の思想的質が認められると思う。 北の履歴のユニークなところは、多感な青年期に孫文らの辛亥革革命に共鳴して黒龍会特派員として合流し、革命軍と行動を共にしていたことであろう。中国大陸まで出かけての八面六臂時代、歴史は大きく鼓動していた。「日本改造法案大綱」が執筆されたのは1919(大正8)年、8月、上海に於いてであるが、この当時の情勢は、2年前の1917年10月にロシアに於けるポルシェヴィキ10月革命、その1年後の1918年8月、日本で米騒動が勃発していた。マルクス主義式革命論が世界の新思潮になって押し寄せ始めていた。北は中国革命に身を投じながら、この歴史の鼓動を上海で聞き、やおら日本革命論の創造を企図し始めたように思われる。 こうして北は「日本改造法案大綱」を執筆し始める。マルクス主義に注目し、これと真剣に向かい合い、北式解答を引き出した。この北式日本革命の青写真草稿が「日本改造法案大綱」である。中国革命に身を投じた者は他にも居るが、北にして初めて中国革命の経験から日本革命を照射したところが真骨頂と云えるであろう。北は、マルクス主義革命の波に連動すべきか、迂闊に乗れないのか、阻止すべきかを問い、相応の熟成練成を経て対抗的な日本革命の書を著わした。これが「日本改造法案大綱」であり同書の歴史的地位ではなかろうか。かく位置づけたいと思う。 北は本書を書いた目的と心境について、概要「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ、本書執筆に至った」と述べているとのことである。この言辞が事実とするなら、どう評すべきか。既に述べたように、マルクス主義を批判一蹴しながらマルクス主義に依拠していると云う二面性を見せているのが北理論の特徴であり、マルクス主義が否定されているとも云えるし受容されているとも云える玉虫色になっている。はっきりしていることは、この言をもって「右翼のバイブル」と看做すのは早計と云うことであろう。同書の片言隻句でもって「右翼のバイブル」とするのは字面主義に陥っているのではなかろうか。「右翼のバイブル」とするには同書がよほどマルクス主義に拘り過ぎていることが却って不自然過ぎよう。 「日本改造法案大綱」の本当の狙いはマルクス主義の否定ではなく、マルクス主義の生硬な適用を拒否して、北式改造による焼き直しを通しての日本革命の展望だったのではなかろうか。どう焼き直したのかと云うと、マルクス主義の人民大衆救済的理論面を受容しつつ、当時のマルクス主義が国際共産主義運動と云う名の下での実はコミンテルン指導下の一元的な世界支配主義運動であるに過ぎないことを喝破して、これを危ぶんだ。むしろ各国の歴史や伝統に即した多元的なマルクス主義であるべきとして、運動の軌道を在地土着的なものへ転換せしめた。その巧拙は別として、当時に於いて早くも自律的なマルクス主義運動を企図したのが北であった点で、その功績は大きいと位置づけるべきではなかろうか。 北の真意をれんだいこ式に解説すれば、北自身が明瞭には述べていないので意訳し過ぎることになるがこうなのではなかろうか。即ち「国際金融資本が裏で糸を引き操る国際共産主義運動の環としての徒なマルクス主義ボリシェヴィキ派革命に乗ぜられるのではなく、むしろこれに対抗して、在地土着的な日本式維新革命論を生み出す必要がある」。この観点から北式にマルクス主義を改造し、全8章にわたって政策提案したのが「日本改造法案大綱」であると窺うべきではなかろうか。 特徴的なことは、在地土着的内発的な日本革命の在り方を訴求した結果として「天皇制維新革命論」を提起しているところであろう。北は、国際共産主義運動の環としての下僕的な日本革命に対抗して日本文明的質を称揚し、「四海同胞の人道を世界に宜布せんとする」大アジア主義を掲げ、日本を環の主軸とする世界維新運動を展望している。これに天皇制が噛み合わされていると云うのが北式理論の構図であろう。この巧拙は別に論ずることにする。 史実は、「日本改造法案大綱」は「右翼のバイブル」と化したのであるが、それは当時の左右両翼の見識の低さを証するものでしかないのではなかろうか。「右翼のバイブル」と化したことにつき根拠がない訳ではない。天皇制親政政治論、国家主義論、ク―デター論、戒厳令強権政治論、アジアの盟主としての日本論、大東亜共栄圏構想論、西欧列強の植民地化戦争に抗する為の逆攻勢戦争論等々により、この限りにおいて根拠が認められる。 但し、れんだいこが同書を読む限りにおいては、本質は断じて右翼の理論ではない。むしろ「在地土着的に焼き直された北式マルクス主義革命論による日本革命」を展望しており、そう云う意味でマルクス主義の変種理論として位置づけられるべきように思われる。つまり、「日本改造法案大綱」は「右翼のバイブル」のみならず、そのままでは使えないものの「左翼のバイブル」となっても何らおかしくはない代物(しろもの)であったように思われる。 或る事象が逆に評されて歴史に通用した例は決して珍しいことではない。戦後日本の最優良にして最高の有能政治家であった田中角栄を「諸悪の元凶」視して政治訴追して行った例も然りであろう。あるいは古事記、日本書紀であれほどまでに出雲王朝を記しているのに過小評価されるのも然りであろう。野坂や宮顕や黒寛の如く日本左派運動の撲滅人が名指導者の如く奉られたまま生を終えるなども然りであろう。北式理論も、この仲間入りしているように思われる。「北理論の左右判別考」が、北理論解析の際の最初の仕事となった。更に言及したいことを追々書きつけて行く予定である。 2011.6.18日 れんだいこ拝 rendaico れんだいこ れんだいこブログの自己評。論旨がはっきりしている点が良いですね。長大饒舌文で何を云っているのか分からない煙巻き論法に比してすっきりする。論旨の是非は別にして議論資料に値する。なんちゃって。 |
Re::れんだいこのカンテラ時評937 | れんだいこ | 2011/06/19 |
【「日本改造法案大綱」考その2、北式維新革命論の青写真考】 北式維新革命論には、左翼から見て首肯し難い点が多々あるのも事実である。れんだいこから見て、北思考の癖及び限界を指摘するのは訳はない。これについては別サイトで考察する。しかし、それを割り引くならば、北式革命論の興味深い点は日本をどう云う風に改造しようとしていたのか、その出来栄えにある。何と、マルクス―エンゲルスが著わした「共産主義者の宣言」本文2の「プロレタリアと共産主義者」の末尾に示していた「社会主義革命の青写真的過渡的政策」を忠実に咀嚼し、大胆に取り入れている。当時に於いて、この件(くだり)を北ほどに忠実に理解し、日本改造施策にせんとしていた者は他には居ないのではなかろうか。この点で、北は当代随一の頭脳足り得ていたのではなかろうかと評したい。 恐れ入るべきは、「日本改造法案大綱」が指針させた諸政策が何と戦後日本憲法にふんだんに取り入れられていることである。それは天皇制社会主義とでも云えるものであり、天皇象徴制から始まり、国家組織の分業構成、官民の協働的関わりによる国営、半官半民、民営事業による相互連携事業論、高額所得制限、労働者の諸権利、国民の諸権利、被疑者人権の擁護、女性の保護、子供の保護と教育の重視等々「進歩的」もしくは「革新的」部分が多少内容を変えながらも広範多岐に亘って取り入れられている。 北思想がかくも歴史の試練に耐え、戦後日本憲法の中に息づいていることに感嘆せざるを得ない。してみれば、戦後の護憲運動が、「日本改造法案大綱」を「右翼のバイブル」と看做して歯牙にもかけないのは一種の背理であるように思われる。 このことに関して、三島由紀夫が「北一輝論」(全集34巻、新潮社)の中で次のように述べている。 「私は以前にも述べたが、北一輝が「日本改造法案大綱」で述べたことは、新憲法でその七割方が皮肉にも実現されたという説をもつている。その「国民の天皇」という巻一は、華族制の廃止と普通選挙と、国民自由の回復を声高に歌い、国民の自由を拘束する治安警察法や新聞紙條令や出版法の廃止を主張し、また皇室財産の国家下付を規定している。これらはすべて新憲法によつて実現されたものであり、また私有財産の限度も、日本国民一人の所有しうべき財産の限度を三百万円とする、と機械的に規定したが、実質的には戦後の社会主義税法により相続税の負担その他が、おのづから彼の目的を実現してしまつた。 また大資本の国家統一については、北一輝白身が注をつけて、大資本の国家的統一による国家経営は、米国のトラスト、ドイツのカルテルをさらに合理的にして、国家はその主体たるものであるという、国家社会主義の方法を設けたが、新憲法以後の日本の資本主義は、すでに修正資本主義の段階に入つて、資本主義自体が内的な改革を成就していたのである。ことに巻五の「労働者の権利」は、今読んでも驚くばかりの進歩的な規定であつて、労働時間の八時間制、また労働者の利益配当が純益の二分の一を配当されるべしという、社会主義的な規定とか、労働者の経営及び収支決算参加、その他の條項及び幼年労働の禁止や婦人労働についても、社会主義国の先端的な労働法規定を定めている。 しかし、北一輝の「改造法案」からただ一つ新憲法が完全に遮断したものこそ、巻八の「国家の権利」である。この巻八の「国家の権利」を讀むたびに、私は戦後の日本が国家と呼びうるかどうか、新憲法が描いてゐるイメージとしての国は、果たして国家と呼びうるかどうかということに対して、いまさら疑問なきをえない。北一輝は、国家としての当然の要請として徴兵制を維持し、また、兵営または軍艦内においては、階級的表象以外の物質的生活の階級を廃止するということをもつて、軍隊の悪弊を打破し、また眞の国民兵役の確立のために当然の、現代のヨーロッパ諸国と少しも違はない義務を課してゐる。そしてまた、開戦の積極的な権利を国家主権の本旨としているところは、十九世紀的な国家観のそのままの祖述であつて、これは何も北一輝一人の独創ではない。 このように『日本国憲法』と『日本改造法案大綱』は驚くほど似通っている。面白いのは、その「日本国憲法」を右翼とは真逆の共産党や社民党が必至で擁護しようとしているところである。もちろん彼らは9条のみを守ろうとするのが主眼であるが、それにしても右翼のバイブルを左翼が必至で守ろうとする図は、なんとも皮肉というか面白い。 結局のところ、右翼と左翼は同根なのではないか。つまり、左翼も根本的なところで天皇の存在さえ認めさえすれば、考え方において右翼とそう大差はないのではないかと思う。北一輝は便宜上天皇を持ち出しているが、基本的に実はそこにはあまり重きを置いていない。ともかく、北一輝が右からも左からもある種尊敬の眼差しで見つめられている点が、両者の考え方に大差がないことの証左ではないかと思う。問題はやはり天皇。極論すれば、両者の決定的な違いは、天皇を日本の文化・伝統の中心と捉え、国体の中心に据えるか否か‥‥。ただ、その一点の違いだけではないかと思う」。 三島は、作家的筆力で「北式日本改造法案」が戦後の日本国憲法に驚くほど結実している点を指摘している。国粋民族主義系の三島をして、このように云わしめていることを確認すべきだろう。付言すれば、後段の「それにしても右翼のバイブルを左翼が必至で守ろうとする図は、なんとも皮肉というか面白い」と記している点が逆に面白い。れんだいこに云わせれば、三島が北の「改造法案」を「右翼のバイブル」とみなしている点が皮相的であり逆に面白い。こう云い換えておく。「北式日本改造宣言を右翼のバイブルとしている図そのものがなんとも皮肉というか面白い。その転倒を知らず、三島が『右翼のバイブルを左翼が必至で守ろうとする図は、なんとも皮肉というか面白い』と述べ、その謂いがそのままに通用しているところがなお皮肉というか面白い」。 ところで、れんだいこは、戦後憲法論に於いて、その出自の解析を通じて、それが仮にGHQ内左派のニューディーラー派により作成された経緯があるにせよ、日本の歴史的実情に明るく、極めて有益な諸規定をしていることに対して、誰か隠れた知恵者が居るのではなかろうかと推定した。この疑問が、今「日本改造法案大綱」を読むことにより解けた気がする。北理論が知恵者の正体だったのではなかろうかと云う感慨を覚えている。北理論を能く知る者が、GHQ内左派に入り込んで知恵を授けたのではなかろうかと確信している。 「日本改造法案大綱」を右翼のバイブルにしようが左翼のバイブルにしようが一向に構わないのだけれども、戦後憲法に「北式日本改造法案」が濃厚に影を落としていることだけは共に認めねばなるまい。 2011.6.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評938 | れんだいこ | 2011/06/19 |
【「日本改造法案大綱」考その3、北式維新論の歪みと限界考】 そういう効能を持つ「国家改造案原理大綱」であるが、北式維新論を手放しで礼賛することはできない。その特徴を一言で云えば建軍主義であろう。これに日本型天皇制論が絡んでいる。日本型天皇制論とは、イタリアの伝統的な古典的政治論としての元々の意味での祭政一致的なファシズムのようなものであり、巷間で唾棄されている強権政治形態としてのファシズムではない。北理論は、日本型天皇制ファシズムによる建軍主義に基づく維新論を唱え、そのようなものとしての日本型革命を展望していると云う構図を見せている。その是非を論ずればキリがないので割愛するとして、北理論の歪みと限界を確認しておくことにする。 北式維新論の歪みとは、その建軍主義論の陥穽に起因している。北によれば、日本文明の上下紐帯的質が西欧的侵略主義に対抗し得るものであるとして、日本文明の汎アジア化、世界席巻化を企図して、それが為に好戦主義理論を生み出している。建軍主義は好戦主義の戦略戦術理論となっている。しかし、ここで考えなければなるまい。幕末維新から明治維新を経ての日本の近代化過程で発生した好戦主義そのものが、北が拒否する西欧思想そのものによって造られたものではないのか。 これをもっと精密に云えば、幕末維新から明治維新の過程で大手を振って侵入した国際金融資本帝国主義こそが戦争と革命の震源地であり、その為の軍資金として国債を乱発させ、消費税のような大衆課税を宛てさせ、にも拘わらず財政危機に陥らせ、そうすることで裏から金融コントロールする形で各国を籠絡させると云う支配の方程式を編み出している。これを思えば、北式好戦主義論は、そのお膳立てにまんまと乗っているのではないのか。 北理論は、西欧的侵略主義に対置させて日本文明の質論を唱えているが、結果的に、その日本文明の質論を通して建軍主義、好戦主義と云う国際金融資本帝国主義の戦略戦術に乗せられている。日本文明の質論は、果たして北のように建軍主義、好戦主義へと繋げるものだろうか。本来の日本文明の質論は、それでもってアジアの団結と平和を求め、西欧列強の植民地政策に対抗する為に使われるべきものであって、北式建軍主義、好戦主義が導き出される必然性はない。 北理論は、西南の役で散った西郷どんの維新論を悪しき方向に転じているのではないのか。当然その他の抵抗主義論、反戦平和論等も考えられるところ敢えて、国際金融資本帝国主義の策略に乗っているところが臭い。そういう意味では、北ほどの思想家をしても時代の事大主義に陥っていると思わざるを得ない。北自身にそういう事大主義的な気性があるのかもしれない。これが北式維新論の歪みであると思う。 この北式維新論の歪みはそのまま北理論の限界に繫がっている。北理論の限界とは、北が国際金融資本帝国主義論を獲得していないことに見て取れる。これにより北理論の総体が足元を掬われる結果に導かれているように思われる。尤も、北の時代、今日の如くな国際金融資本帝国主義論はなかった。それ故に、北がこの理論に基づく戦略戦術を打ち出しえなかったことを咎めることはできない。 興味深いことは、北は、直に国際金融資本帝国主義論を語ることはなかったものの、驚くべきは手探りで国際金融資本帝国主義論の数歩手前まで論を張っていることである。「英国は全世界に跨る大富豪にして露国は地球北半の大地主なり」なる言説が一例であるが、そういう言い回しでもって欧米的な西欧列強による支配の狡猾さ、悪辣さを見抜き警鐘乱打している。それに対抗せんが為に日本を維新革命の根拠地とする世界席巻論を打ち出している。が、述べたように容易に帝国主義国家の仲間入りでしかない好戦論へ誘われている。 北は、この辺りをもう少し極めるべきであった。北にあと少しの寿命があり、執筆活動が許されたならば日本で初めて国際金融資本帝国主義論を説いた第一人者に成り得ていた可能性があると思われる。そういう意味で、北の早世が惜しい。同じような早世組に幸徳秋水、大杉栄が居る。幸徳は大逆事件の咎で1911(明治44)年に、大杉は関東大震災に乗じて甘粕事件で1923(大正12)年に、北一輝は2.26事件の首謀者として1937(昭和12)年に処刑された。れんだいこの判ずるところ、「幸徳秋水、大杉栄、北一輝」の三名こそは、日本左派運動の真正の有能者であり、日本近代思想の中で国際金融資本帝国主義論の扉を開けかけていた異能士であった。それ故に理不尽な処刑が強制された、このことにより戦前の日本の思想家の能力の背丈が著しく低くなったと思わざるを得ない。誰か、かく共認せんか。 ところで、国際金融資本帝国主義論は比較的新しい理論であり、大田龍をもって嚆矢とする1990年代の所産理論である。太田氏は国際金融資本帝国主義論とまでは述べていない。こう述べたのはれんだいこであり、故に造語責任はれんだいこにある。大田氏が国際金融資本論を説きながら、それに帝国主義論を結びつけなかったのは、「西欧列強の各国ごとの不均等発展による市場争奪が戦争原因とする理論」を要とするレーニン式帝国主義論に拘泥しており、帝国主義をして各国ごとの政体分析に留めるのを常識としていたことに起因しているように思われる。 れんだいこは、国際金融資本そのものが裏国家でありと看做しており、これに帝国主義を規定したとして何ら問題ないとして垣根を取り払い、造語することに成功したと自負している。その国際金融資本帝国主義の支配イデオロギーがネオシオニズムであり、哲学がユダヤ教タルムードである。その他エトセトラで構成されている。これが近代から現代を支配する支配思想である。 もとへ。北には、このような史観がない。ここに北理論の致命的な欠陥が認められる。北は、この欠陥を抱えたまま建軍主義且つ日本型天皇制ファシズムによる維新革命論を唱え、それが2.26事件の暴発を生み、それが北自身を絞首刑へ導く結果になった。その背景には、北及び2.26事件決起青年将校らが国際金融資本帝国主義論へと至らぬうちに「若葉のうちに、その芽を摘まれた」と思わねばならない。 そういう意味で、2.26事件に連座し処刑された北は、2.26事件との関わり故に責めを負い処刑されたのではない。かの程度の容疑であれば禁錮刑で足りて居たものを即断で処刑されているところに意味がある。その理由は、早晩、北思想が国際金融資本帝国主義派の陰謀を嗅ぎ分け、警鐘乱打して行く危険性があった故に始末されたと判ずる以外にない。 北は、国際金融資本帝国主義者に無警戒なまま国際金融資本帝国主義者によって処刑された。その北の2.26事件連座時の公判に於ける弁明を確認したいが分からない。北は、どのように罪を被りあるいは容疑を否認したのだろうかを知りたい。 北の公判記録は探せば手に入るのか歴史の表に出ないよう秘されているのか分からない。もし公開されているのなら、どなたかがサイトアップして欲しい。インターネット上に出てくる情報は政治論に限って云えば軽薄な類のものしかなく、肝心要のものは厳として規制されている気がしてならない。当然、基準は国際金融資本帝国主義にとって好ましいか好ましくないのかである。そうとしか考えられない。我々は、そう云う情報コントロール下に置かれており、そういう意味での表見民主主義の上で安逸させられていると思うべきであろう。 2011.6.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評939 | れんだいこ | 2011/06/19 |
【「日本改造法案大綱」考その4、北理論の生命力考】 北理論のその後の生命力について言及してみたい。れんだいこは、先の大戦の終戦処理時に於ける昭和天皇最側近の近衛公の次の提言の意味が分からなかった。これを愚考する。 1945(昭和20).2.14日、昭和天皇に次のように述べて敗戦への英断を催促している。これを「近衛上奏文」と云う。近衛は、次のようにソ連の赤化攻勢を危惧している。 「国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。つらつら思うに、我が国内外の状勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存じ候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図を的確に把握し居らず、かの1935年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相安易なる見方と存じ候」。 近衛は次に、以下の如くソ連の赤化攻勢に呼応する国内諸勢力を指摘している。 「翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件具備せられゆく観有りの候、すなはち生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官僚の運動、およびこれを背後より操りつゝある左翼分子の暗躍に御座候。右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有りの候。少壮軍人の多数は、我が国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。皇族方の中にもこの主張に耳傾けらるる方ありと仄聞いたし候。職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、その多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、ただ彼らは軍隊教育に於て、国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るをもって、共産分子は国体と共産主義の両立論を以って彼らを引きずらんとしつつあるものに御座候」。 近衛は次に、以下の如く軍部内の革新派の動きに神経を尖らせている様子を伝えている。 「そもそも満州事変、支那事変を起こし、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来たれるは、これら軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存じ候。満州事変当時、彼らが事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、『事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新は出来なくなる』と公言せしは、この一味の中心人物に御座候。これら軍部内一味の者の革新論の狙いは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(これを右翼と云うも可、左翼と云うも可なり。いわゆる右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、これに躍らされたりと見て大過なしと存じ候。この事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、この結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思い当たる節々頗る多きを感ずる次第に御座候。不肖はこの間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけこれら革新論者の主張を採り入れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼らの主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳なく、深く責任を感ずる次第に御座候」。 近衛は次に、以下の如く軍部内の革新派と国内の共産勢力との合体を危ぶみ、その動きに神経を尖らせている様子を伝えている。その上で、共産革命より日本を救う為、国体護持の為に一日も速かなる戦争終結への聖断を促している。 「昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声、次第に勢いを加えつつありと存じ候。かかる主張をなす者は、いわゆる右翼者風なるも、背後よりこれを扇動しつつあるは、これによりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達っせんとする共産分子なりと睨みおり候。一方に於て徹底的英米撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひてもソ連と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候。 以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と成長致しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、この形勢は急速に進展可致と存じ候。戦局の前途につき、何らか一縷でも打開の望みありと云うならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争をこれ以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存じ候。随って国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信つかまつり候」。 ここで、「近衛上奏文」を引き合いに出すのは、先の大戦末期に「軍部の革新派」がそれほどに恐れられていたことを確認したいが為である。ここで云う「軍部の革新派」とは文面から見て皇道派を指しているように思われる。軍部の革新派即ち皇道派ではないものの、主力は皇道派を指しているものとして了解したい。皇道派は2.26事件で徹底的に殲滅解体されたが、それは表向きの話であって裏では隠然とした勢力を保持していたのではなかろうか。これを皇道派の生命力、北理論の生命力として確認しておきたい。 「敗戦末期に於ける皇道派の台頭」、これを抑えるのが、早期終戦の理由の一つであった。この事実は案外知られていないのではなかろうか。為政者が何の為にかほどに皇道派を恐れていたのだろうか。この辺りは秘密のヴェールに包まれている。 ところで、「近衛文麿上奏文」による「共産革命の危機」はどの程度現実味があったのであろうか。れんだいこは従来、北の「日本改造法案大綱」を読み、その生命力を知るまで次のように評していた。 「私は、その後の推移から見て、一種のマヌーバーではないかと受け止めている。まったく根拠がないというわけではないが、今日でも支配当局が自己撞着的な窮地に陥った場合にその方針を転回させる際の常用策として容易に利用されている『共産党を利する、共産主義者を台頭せしめる』という言い回しの一つであって、単に格好の大義名分的な警句でしかないのではなかろうか、と穿つ。従って、実際に充分な根拠があったとはみなせず、又その言い回しでもって、あたかも革命の情勢が到来していたと左翼が我田引水するのは当たらないように思われる」。 しかし、 北の「日本改造法案大綱」を読み、その生命力を知った今次のように考えている。以下訂正しておく。 「先の大戦の終戦期、天皇派が最も危惧したのは北理論を信奉する皇道派の動向であった。皇道派が共産革命派と提携することを最も恐れ、『この一味を一掃し、軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉り存じ候』とある通り、共産革命の危機よりも、皇道派の動向に神経を尖らせていたことが分かり興味深い。これが早期終戦の裏側の舞台であったことになる。皇道派の実力、徳性がかくも恐れられていたことが判明する。それほどに恐れられる皇道派とは何者ぞ何故ぞ、ここが興味深い」。 2011.6.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評940 | れんだいこ | 2011/06/24 |
【「日本改造法案大綱」考その5、北理論の史的位置と意義考】 1919(大正8)年、北36歳の時、8月、北は約40日の断食後に霊感に導かれるかのようにして「国家改造案原理大綱」」(以下、単に「大綱」と記す)を草稿した。この時までの北は、大老国と化した清国が西欧列強の植民地化の憂き目で辛吟しており、孫文らの日本の幕末維新の中国版としての辛亥革命に賛意して革命軍に馳せ参じ、二度目の渡航で上海に寄寓していた。この経験から逆に照射された日本革命の在り方、アジアの在り方に思いを馳せ「時代の処方箋」を考案した。世界の現状を「国際的戦国時代」と捉え、「全世界に誇る大富豪の英国、地球北半の大地主の露国」を筆頭とする西欧列強に対抗する日本の使命を見出そうとしていた。 「誠に幕末維新の内憂外患を再現し来れり」の危機感を抱きながら「来るべき可能なる世界平和」の創出を構想し、「先住の白人富豪を一掃して、世界同胞の為に真個楽園の根基を築き置くことが必要なり」とした。その際、日本を「東西文明の融合を支配し得る者、地球上只一の大日本帝国あるのみ」と位置づけ、「アジアの雄として屹立すべきである」とし、その上で真の世界連邦に向けての旗手足らんとした。その為に日本を精強国家に仕立てねばならぬとした。 北は、「大綱」緒言で、「いかに大日本帝国を改造すべきかの大本を確立し、国論を定め、大同団結を以て終に天皇大権の発動を奏請し、天皇を奉じて速かに国家改造の根基を完うせざるべからず」と述べている。この趣意に基づき、日本をこの国家的使命に奮い立たせる為の国家改造を立案した。 それは、日本独特の政治形態である天皇制をマルクス主義派の如く打倒する方向に向かうのではなく、むしろ天皇制を積極的に称揚善導し政治利用せんとした。この総路線に基づき全8章の日本改造論を唱えたのが「大綱」であり、いずれも国家組織の有機的改造論即ち構造改革論もしくは革命論となっている。全8章とは、第1章「国民の天皇」、第2章「私有財産限度」、第3章「土地処分三則」、第4章「大資本の国家統一」、第5章「労働者の権利」、第6章「国民の生活権利」、第7章の「朝鮮その他現在及び将来の領土の改造方針」、第8章「国家の権利」を云う。明治維新体制転換の大改造論であり、北式憲法草案となっている。 このような気宇壮大な企てをした者が北以外に居るだろうか。こう問わねばなるまい。しかも、改造案の全編が大胆な提言であると同時に今日的に見ても評価に耐え得る珠玉の教示となっている。その多くが戦後憲法に結実していることは既に述べた通りである。これも既に指摘したが、右翼的国家主義理論の表装ではあるが、中身は左翼的なものであり、もっと云えばマルクス-エンゲルス共著の「共産主義者の宣言」を強く意識して書かれた北式の焼き直し版であり、北式日本革命論として位置づけられるべき代物となっている。北を措いてこのようなものを創案し得る者が居ただろうか。これも既に述べたが、居たとすれば幸徳秋水、大杉栄以外には考えられない。北の「日本改造論」はこのセンテンスで読まれねばなるまい。 それ以前にもその後も日本に多くのマルクス主義者が生まれたが、多くの者は教本を鵜呑みにし、お気に入りのフレーズを人より多く諳(そら)んじることでマルクス主義者ぶりを競ってきた。しかし、北は恐らくマルクス主義を貪るように読み、それまで形成してきた自己の史観とマルクス主義を徹底的に擦り合わせ、遂に北式マルクス主義を構築した。ここに北の異能性が見て取れよう。このことを一言言及しておきたかった。 「大綱」は結びの「給言」でこう述べている。「マルクスとクロポトキンとを墨守する者は革命論に於いてローマ法皇を奉戴せんとする自己矛盾なり。英米の自由主義が各々その民族思想の結べる果実なる如く、ドイツ人たるマルクスの社会主義、ロシア人たるクロポトキンの共産主義が幾多の相異扞格せる理論をもって存立することは各々その民族思想の開ける花なり。その価値の相対的のものにして絶対的にあらざるは勿論のこと」。この言を深く味わうべきではなかろうか。 更に、「故に強いてこの日本改造法案大綱を名づけて日本民族の社会革命論なりという者あらば甚だしき不可なし。しかしながらもしこの日本改造法案大綱に示されたる原理が国家の権利を神聖化するを見て、マルクスの階級闘争説を奉じて対抗し、あるいは個人の財産権を正義化するを見てクロポトキンの相互扶助説を戴きて非議せんと試むる者あらば、それは疑問なくマルクスとクロポトキンの智見到らざるのみと考うべし。彼らは旧時代に生れ、その見るところ欧米の小天地に限られたるのみならず、浅薄極まる哲学に立脚したるが故に、躍進せる現代日本より視る時、単に分科的価値を有する偏に先哲に過ぎざるは論なし」と述べている。 「マルクス、クロポトキン何する者ぞ」の心意気が伝わる語りである。北のこの心意気に対するれんだいこ評は最後に記すことにする。 以下、「日本改造法案大綱の各論を寸描しておく。詳細な検証は他の論者に譲り、ここでは要点を確認することにする。「大綱」の言及順に精査するのではなく、テーマ別に整理統合して北理論を解析することとする。但し、単に解説するだけは興が湧かないので常時れんだいこコメントを付し対話式に確認することにする。その出来映えの評を賜わらん。 北の著作は、1906(明治39)年の「国体論及び純正社会主義」、1919(大正8)年の「国家改造案原理大綱」、1935(昭和10)年の「支那革命外史」の三冊である。但し、「国家改造案原理大綱」は1923(大正12)年に「日本改造法案大綱」として改訂版が出されている。これを新刷と見れば4冊と云うことになる。本来は、これら全てに通暁しておけばなお能く理解でき、思考の発展経緯等々が分かるのであろうが今はまだ読めていない。その段階での解析とする。 2011.6.24日 れんだいこ拝 |
【れんだいこの北理論総括】 |
思えば近々の去る日、何の機縁あってかふと犬養木堂を知りたくなって渉猟し始めた。それが5.15事件の解析へと向かい、2.26事件へと繫がり、北一輝へと至った。こうして初めて北の著作を読むことになった。思うことは、戦前には北的な自生的な思想、史観が結構揃い踏みしていたのではなかろうかということ。それを思えば、戦後にはこういう日本発的なものがなくなってしまっていることに気づかされる。思想、史観が外来のものの紹介と喧伝に追われており、その流行を追いかけているに過ぎないということでもある。マルクス主義もその流れのものであって、口先では革命を云い体制転覆を唱えるが、その後の政治に如何なる責任を持つのか一向にはっきりしていない。これらは外来思想を唱える者に共通する流行り病の特徴である。思うに、この種の思想、史観が罷り通ること自体が敗戦後遺症なのではなかろうか。そういう意味で、戦後日本は明らかに思想、史観が檻の中に入れられている。そういうことに気づかぬまま今日まで過ごしてきたが、遅きに失したとはいえ気づいて良かったと思う。 北理論とは、「日本改造法案大綱」、「支那革命外史」を読み終わって云えることは、フランス革命の歴史的意義を称揚していること、同革命は紆余曲折を辿ったがナポレオンの強権政治によって完結したと看做していること、同革命以降の世界史的見本として日本の明治維新を高く宣布していること、ロシア10月革命を評価せずむしろ揶揄していること、日本の明治維新を支那維新へと発展せしめ、日本と支那の維新革命を通じてインドその他の植民地の解放に向かうと云う歴史的俯瞰をしていること等々が判明する。これによれば、北をマルクス主義学徒とみなすよりは、より正確にはフランス革命に於ける市民革命派と看做すべきかもしれない。マルクス主義に拘って論評すれば、フランス革命的市民革命の見地を絶対擁護し、その見地から、これに逆行するマルクス主義の是々非々を問い、是を摂取し非の面を撃っているとみなすべきかも知れない。 興味深いことは、フランス革命に於ける市民革命擁護観点をフランス革命理論に基づいて構築しているのではなく、あくまで日本思想、史観から是認していることであろう。北理論に於いては、日本の幕末維新とこれに基づく明治維新初期の実践こそ世界史に手本的な革命であり、これを深く学び継承することを是としていた。この維新の流れが西郷派の西南の役で途絶え、後の明治維新史はニセモノであるとしていた。北理論を拝戴していた2.26事件は、北理論に基づいて明治維新のニセモノ史を昭和維新によって正道に戻すことを企図した軍事クーデターであったと思われる。 もとへ。北理論は、世界史的に見て称賛されるに値する日本の幕末維新を、当時多数来日していた支那留学生に鼓吹せしめ、支那維新へと繋げねばならないとしていた。支那留学生がこれにより革命化し、よしんば反日的になろうとも、それを本懐としていた。これを仮に「北革命論」と命名する。当時、幕末維新の流れを汲むこういう国士、壮士がかなり輩出していたが、その思想、史観は「北革命論」によって整序され完成を見たと評されるべきだろう。但し、「北革命論」は、2.26事件の敗北とそれに伴い北自身が処刑されたことにより継承されることなく、歴史の深部に漂うことになった。この構図は今日まで続いている。 れんだいこから見て、北理論も含め当時の「国士壮士哲学」の欠陥は、国際金融資本帝国主義論を持ち合わせていないことであろう。フランス革命以前のイギリス市民革命、もっと前から云えば十字軍遠征、イタリアルネサンス頃から胎動し始めた国際金融資本の市民革命運動を追い風にしながらの各国政府への容喙、その橋頭保としての各国王朝の打倒、この経緯を通じての各国政治の金融コントロール、これと共に始まる好戦政策、世界の植民地化競争、各国の帝国主義化、これを裏で操る戦争政策云々と云う近代史上最強の歴史的流れに対する分析が皆目できていない。この致命的欠陥を抱えながら、北理論も含めた当時の「国士壮士運動」は日本を震源地として中国、ひいてはアジアの解放を夢見ていた。 これを成し遂げる為の強固な日本造りとしての政変と政策を教唆したのが「日本改造法案大綱」である。故に、その功罪、是非相半ばとして評せざるをえまい。未完の「日本改造法案大綱」の書き換えを期待する所以がここにある。北を含む当時の国粋派右翼は、日支連携によるアジア解放の夢を見、それが次第に潰されて行く悲劇を目の当たりにして行く。 特に孫文派の中国革命が異筋なものであることを告発している。国粋派右翼が支援した宋敎仁らの運動と孫文派が合体し、宋敎仁らの運動が潰されて行く過程を明らかにして悲憤慷慨している。これを随所に書き記している。国粋派右翼には、国際金融資本帝国主義問題に対する詰めの甘さがあることを自己暴露している。 問題は、そういう按配であるからして、彼らが批判した政府の無能の奥の院に国際金融資本が鎮座していることを見据えていたかどうかにある。北理論はおぼろげながら国際金融資本の威圧をキャッチしている。そのことが、台頭する米国との協調を示唆し、且ついずれ日米決戦に向かうであろうことを予言している。 北理論はおぼろげながら掴みかけていた段階のそれではなかろうか。この「掴みかけていた」辺りが北理論の魅力であろう。但し、北の晩年の論考である1932(昭和7)の「対外国策ニ関スル建白書」、1935(昭和10)年の「日米合同対支財団ノ提議」を読む限り、第一次世界大戦後に英仏に代わって支配権を強め始めた米国に対して卑屈なまでの協調を余儀なくされている。 北理論のもう一つの問題は、アジア解放の盟主としての日本論を唱えながら、日清戦争、日露戦争の正義を詠っていることである。当然、第一次世界大戦に於けるドイツ権益の極東アジア部分の分捕りも正義としている。来るべき支那動乱に於ける日本の支配権強化をも当然視している。しかし、こうなると、いわゆる日本帝国主義の擁護論そのものに堕していることになりはすまいか。アジア解放を唱えながら日本帝国主義的支配に与していることになる。この二重性をどう解決しようとしていたのだろうか。そういう疑問が湧くのを抑えきれない。 日本帝国主義論で云えば、当時、西欧列強が南アジア、日本が支那中枢部、ロシアが北アジアをと云う風に支配権を確立ししつつあったことがわかる。そこへ、米国帝国主義が新たに参入し、南アジア、支那中枢部まで触手を伸ばし始め、日本と権益抗争し始めていた。これと協調するのかが問われていた。北理論は、その他方で漠然とながら米国帝国主義との抗争が本格化することを予見していた。歴史はこの予見通りとなり、第二次世界大戦へと向かったことは衆知の通りである。 2011.6.29日 れんだいこ拝 |
【諸氏の北論考】 |
松本清張著「北一輝論」(講談社文庫、1976年)の冒頭部分に「北一輝は、外見的には社会主義者として出発し国家主義者として終わった」とあるとのこと。れんだいこは、本書を読んでいない。この程度の評であれば、そのうち読もうかと思う程度の関心でしかない。松本清張にいつも感ずることだが、評論が凡庸過ぎる。それと妙な癖がある。それは「昭和史発掘」で昭和史の様々な事件を採り上げながら、しかも日本共産党「スパイM問題」を採り上げながら、最も肝腎の「宮顕派の小畑中央委員リンチ致死事件」を外している。これは意図的にしか考えられないが、どういう意図に拠ったのだろうか。それも含め妙な政治的立ち回りをしていることに気づかされる。決して普通の歴史評論家ではあるまい。 ここでもそうで、「外見的には社会主義者として出発し」なる評が気に食わない。むしろ逆で「社会主義者として出発し」で良いのではなかろうか。「国家主義者として終わった」が味気ない。肝腎な途中が抜けている。「社会主義者が国際主義に被れ、日本の国体を蔑視していることに反逆し、当時としては極めて稀な在地土着的な日本式社会主義の道を探求し始めた」ことを外す訳にはいかない。そして結論を「日本を革命の震源地として支那維新、続くアジア解放を夢見る国家主義者となり、最後は日本帝国主義のアジア侵略を強く批判しつつも加担すると云う中途半端な立場に呻吟しつつあるさ中、2.26事件の扇動者として処刑され生命を終えた」とすべきだろう。 松本健一「評伝北一輝』」(講談社学術文庫、1985年年初版)。「足掛け三十年以上にわたり、丹念に資料を渉猟し考量を重ねた上での大変な労作である。以後、北一輝を論ずる研究者は本書を無視することはできなくなるであろう」との評が付されている。問題は著者の北論の視座であろう。「社会主義者として出発したが、次第に社会主義的変革を、国家権力を強化し、上からの統制として成そうとした国家主義者。但し、天皇機関説に近い思想をも持っており単純な右翼的国家主義者ではない云々」。松本清張の北論よりはマシな分析のように思われる。 |