北一輝の「国体論及び純正社会主義」考 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「北一輝の『国体論及び純正社会主義』に対するれんだいこ評論を書きつけておく。 2011.7.24日 れんだいこ拝 |
【れんだいこの北一輝「国体論及び純正社会主義」批評総論】 | |
北の著書三部作を渉猟している。最後が「国体論及び純正社会主義」である。実際には、本書が先に書かれ「日本改造法案大綱」、「支那革命外史」の順になっている。本書も又北の炯眼による警句が随所にちりばめられており、これが魅力となっている。この辺りは実際に読まないと分からない。ネットサイト上のものは見出しの編集が地文に混在している為非常に読みづらい。そこで、れんだいこがアレンジしている。原書を手に入れていないので正確には分からない。興味がある方は一度は目を通しておくのが良かろうと思う。既成の解説文とは趣の違う内容を確認することになるだろう。本格的に論評した者があるのかどうか分からないが、れんだいこが追々に分析しようと思う。 「「国体論及び純正社会主義」 (http://www7b.biglobe.ne.jp/~bokujin/shiryou1/kokutai/kokutairon5.html) れんだいこが「皇道派イデオローグ・北一輝考」 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kindaishico/2.26zikenco/ideoroguco/top.html) 本書は、1906(明治39)年、北輝次郎(後の北一輝)23歳の時の自費出版書である。早稲田大学聴講生となった1904(明治37)年頃より著作を準備し、再上京した1905(明治38)年を通じて帝国図書館(上野図書館)に通いながら本書をまとめたと云う。それにしても博学であり、23歳にしての著作であるとは信じられない。世に云う天才であろう。 1906(明治39).5.9日、有斐閣、同文館、東京堂などを取次店として500部を刊行した。金策に苦労した末の発刊であった。その内容が、東京日日新聞をして「我立国の基礎に関し特に教育上の本義に重大なり」と批評せしめた如く危険とみなされ、刊行から5日後、内務省によって「朝憲紊乱」の名目で発禁処分され、警視庁により直ちに押収された。北は以後、特高警察に要注意人物とされた。こうして、処女作「国体論及び純正社会主義」出版は、北の人生の波乱万丈、容易ならざる航路を予感させるデビューとなった。 本書の内容を窺うのに、具体的な解析は後で触れるとして、本格的な政治論総論となっている。政治論の基礎としての哲学、思想的裏付けも重視しており恐らく他に例を見ないのではなかろうか。かような言及を若干23歳にして為したことがまず驚きであり、l北の早熟天才性を見て取るべきであろう。れんだいこの23歳と云えば、部分的には着想のユニークなところもあったであろうが、そもそもかような博覧強記ではない。それとも、戦前の学制に於いては可能だったのだろうか。 本書は出版後直ちに押収された為、世にほとんど知られることなく経緯した。故に日本思想史上において「謎に包まれた古典」として伝説的な存在を保っている。が、逸早く読後したその筋からの評価は当時より高い。発刊当時、「一千頁の大著人をして歓喜せしむ」と論壇は沸いた。河上肇、片山潜、福田徳三、木下尚江らが讃嘆し、板垣退助は「この書の発刊二十年おそかりし」を嘆じたという。幸徳秋水、堺利彦らも認めたのであろう、交友が始まり、同年10月、北は革命評論社同人となっている。 幸徳より同士としての誘いを受けたが、往来は続けたものの盟を約すことはなかった。「孤行独歩、何者をも敵として敢然たる可しという論客の一人位は必要に候」の言を放っている。群れを好まず、独自の道を闊歩する北の逸話のひとコマである。 本書は、後の北の名作「日本改造法案大綱」の基点の書である。その特徴は、西欧近代思想、特に自由主義、社会主義、マルクス主義に精通しながら、これを直訳的鵜呑みにせず、北思想、北史観に焼き直して取捨選択しているところに認められる。特に留意すべきところは、日露戦争に際して、当時のマルクス主義者の常識であった国際共産主義、その系譜としての非戦論に同調せず、むしろ日清戦争、日露戦争の経緯を国家主義的な立場から擁護していることであろう。独特の国体論を唱え、当時の御用系の国家主義にも同調しなかった。この点は、この後の内容解析で確認したい。更に、国体論の前提として天皇制にも詳しく言及している。徒に賛美するのではなく、天皇制が思想的にどう位置づけられるべきかを論じているところに特徴がある。 北は第一章の冒頭で本書の構成について次のように述べている。
目次からして大言壮語の感があるが、23歳の北は、これを縦横自在に操っている。北思想、北史観は、「緒言」で述べた如くに「総ての社会的諸科学、即ち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的知識の上に社会民主主義を樹立せんとしたることなり」としており、これらの素養を下敷きにしながら、これらを個別に論ずるのではなく統一的に論ずることによって体系化を試みている。ここに本書の特徴がある。特に、当時勃興期の世界的思潮の雄として台頭しつつあったマルクス主義と十分に対話し得ている。かの時代において、学ぶのではなく、学んだ上で咀嚼し自身の思想、史観で半ば肯定し半ば批判し半ば新思想を形成するなど北以外に為し得た人物がいるだろうか。しかも、北の新思想はその後のマルクス主義が輝きを失っているのに比して今なお瑞々しい。時代の中にあって時代を超えていたことになる。こういうものをこそ世に天才と云うのではなかろうか。 興味深いところは、北思想の源流が西郷隆盛に代表される幕末維新の継承にあったと思われることである。西郷は「天を畏れ民を安んずるの心の持主による敬天愛人政治」を理想としていた。幕末維新がこの理想による武力革命であることを高く評価していた。これを押し進めた西郷派がいわゆる士族の反乱の最後の頂点となった西南の役で鎮圧され、代わりに伊藤―山縣派による明治維新になるに及んで、幕末維新―明治維捻じ曲げられた革命となったと看做している。そういう意味で、北は西郷派の革命ロマンの継承者であると窺うことができる。この系譜の国士は多いが、北ほどに理論を探求した者はいないのではなかろうか。 元々の北思想の原点は西欧的な社会主義思想であると思われるが、幕末維新の西郷派の革命思想をも継承していることにより、その他大勢の社会主義者の一人とは成り得なかった。本書は、北式社会主義社会建設に至る方策を提起している。それは東洋的共和政に基づく社会主義社会を指針させている。これにより逸早く近代化を為し遂げた日本が手を差し伸べることで隣国支那の清朝末期の「排満興漢」革命を成就させ、この二大ブロックで植民地化に苦しむアジアの解放、ひいては世界平和の実現を夢見ている。事実、北は述べるだけではなく実際に支那革命に参加し、その貴重な体験を「支那革命外史」に綴っている。最後は、二・二六事件で連座させられ処刑されるという数奇な運命を辿っている。 2011.6.24日 れんだいこ拝 |
但し、文体が擬古文にして且つ多方面に向かうその言及がやや冗長にして読みづらい。従って、一つずつ文意を確認しながら読み進めるのはかなり骨が折れる。しかし、この山を登り切ろうと思う。もう少し早く読んでおくべきだったが、これは今更云うまい。とにかく先入観抜きに読み進めたいと思う。 気付くことは、いろいろ教示されることは多過ぎるものの、古代史に於ける出雲王朝論、近現代史に於ける国際金融資本論の視点がないと云うことか。これが為に、生彩を欠く憾みが残る。もう一つ、近代西欧思想の進歩史観を批判しつつも根底的なところでその影響を受けており、これにより論を組み立てている。しかしながら、北思想、史観の真面目は、過去を野蛮とし以降を文明化とする進歩史観の受け売りとは別のところに構築されるべきではなかったか。こういう思いを持つ。 読んでみての思いがけぬ成果として、当時の思潮、学者の言、その位相が分かり興味深い。北は、その時代の最高峰の諸言説に対し果敢に論争を挑んでいる格好となっている。 それにしても、当時の時代的雰囲気でなければ解せぬものも多い。そういう意味で骨が折れる。 |