北一輝の「国体論及び純正社会主義5」 |
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ここで、北一輝の「国体論及び純正社会主義」の「第五編 社会主義の啓蒙運動」、第15章、第16章を確認する。 2011.6.24日 れんだいこ拝 |
【第五編 社会主義の啓蒙運動】 |
【第十五章】 |
法理学上の国家と政治学上の国家とを混同するより生ずる権力階級と社会党の惑乱。現今の国体において国家とは国民の全部なり。今日国家の意志たる者が上層階級なりと云うことを以て国家を否定すべからず。個人主義の革命論においては国家の否定は論理的可能なり。社会主義の革命は国家の否定にあらずして国家の意志が新たなる社会的勢力を表白することに在り。現今は経済的階級国家の為めに政治上に階級国家の実を表しつつあるなり。法律上の階級国家なりと云わば論理上議会に入ることを拒絶せざるべからず。ベーベルの矛盾。社会主義の革命は血を以て法律の根拠より動かさんとする如き壮烈なる革命にあらず。経済的維新革命。法律的源泉の固有と経済的源泉の国有。国家の内容は全く階級国家となれり。今日の階級とは経済的階級にして天皇と云い華族と云い中世の階級たりしものと異なって国家の機関なり。武力の略奪者と資本の略奪者。社会主義は国家主義を抱擁するものにして国家主義と背馳するものは中世までの君主主義なり。国家の名を盗奪しつつある経済的貴族。歴史上無比の大矛盾。君の為にせし事を恥とせざりし武士と経済的君主等の為めにしつつある事を恥じずる紳士。社会民主主義を迫害しつつある者は国家にあらず。専制に用いられる自由の名と個人に用いられる国家の名。国家を解せざる日本国民と国家を解せざる日本社会党。経済的維新革命党の迫害。旅順閉塞の決死隊と革命党の実行委員。エゴール・サゾーノフの爆烈弾の説明。ベランメーの一喝と暗殺の教唆犯。社会主義の迫害と教育普及の矛盾。ロシア政府は迫害において貫徹せり。文字の普及は社会主義に入るべき鍵なり。ロシア皇帝とロシア国民との間に法律関係なし。ロシア皇帝が法律的意義において存在する場合。ロシアの革命党は政治上の利害よりいかに評せられるも法律上の背反に非ず。金冠の反逆者。反逆は主権体に反することなるが故にロシア皇帝は法理学上謀反人なり。穂積博士もロシア皇帝の主権者に非ざることを承認すべし。国家機関を逸出して一介の暴僕となるときに生ずる正当防衛権。今の社会党が正当防衛権を振るわざるは権利なきが為に非ずして社会の利益の為なり。利害を無視する無政府主義者の社会主義に加える嘲罵。吾人にしてロシアに産るれば爆烈弾の主張者となるべし。法律戦争における普通選挙権の獲得は投票の爆薬庫の占領なり。革命は思想系を異にするを主眼として流血は要素にあらず。革命は新生児にして普通選挙権は産科医なり。空名の権利にあらず。凱旋にあらず法律戦争の進撃軍なり。血税と権利。『国家の為』とは国家の全部の盛めか上層の一部の為か。『国家の為』とは経済的貴族の転覆される時の叫声なり。国会尚早論と普通選挙権尚早論。突貫の第一列を争える国民は選挙権なき鯨波の群に甘んぜず。硝煙の階級闘争と議会の階級闘争。階級闘争とは下層が上層に進化せんとするときの闘争なり。国家主義をプラトンの意義において厳粛に唱えよ。社会主義は経済的君主主義に国家を略奪せられて冷然たるほどに非国家主義に非ず。吾人は万国社会党の大会の決議に反して現今の国家を法律の上に是認す。権利の基礎と強力。強力なき今日の社会民主主義は悪なり。眠れる獅子は喚び醒されつつあり。クワと鉄槌とを持てる百千万の貴族。慈善家とはキリストを逆倒して人はパンのみによって生くと考えうる者なり。資本家地主は席上の乞食にあらず堂々たる略奪者なり。個人的生産時代の慈善と社会的生産を略奪せる今日のそれ。慈善を恥じずるに至れるは奴隷の卑屈を脱して貴族たらんが為なり。社会民主主義と個人の貴族的権威。聖書をパンにせよと云う悪魔の試み。資本労働の調和と公武合体論。労働の具体的表現たる資本と労働の調和と云う事は意味をなさず。農夫とその牛とがマグサを分配すと云う講壇社会主義の文法。維新革命党に米禄を多くするが故に国体論を止めよと云う社会政策。金井博士の社会党観。田嶋博士の社会党観。社会民主主義はパンの問題に非ず。講壇社会主義は飢へて鉄鎖を脱する能わざる獅子に一塊の肉を投ずる愚なり。社会民主主義が先ず社会政策の実行を求むる理由。処士横議をいかにすべきやと云う講壇社会主義の嘆息。社会政策なる者を以て社会民主主義を絶たんとするは堕胎せんとして牛乳を求むるの愚なり。社会党に対する唯一の方法は沈圧政策の外なし。対社会党の政策として啓豪運動を迫害しまたいわゆる社会政策を蹂躙しつつある日本政府は堂々たり。ビスマルクの沈圧政策の効果。フランス革命を見てナポレオン沈圧政策なきを嘆ず。社会主義を迫害することはかえって社会主義を盛ならしむる者なりと云う社会党の声言しつつある所は偽なり。社会政策は上層の利益を中心とする者に限らずといえども階級的知識感情の為めに社会全体の利否は確実ならず。階級闘争の歴史学及び倫理学。日本の国家社会党は全く階級闘争につきて無知なり。政権奉還に非ざる如く生産権が天皇に奉還される時を待つべからず。社会の進化は一に進化せる権利思想に社会が啓蒙されることなり。『略奪者』とは新らしき権利思想が旧きそれを名付けるなり。世に絶対の善なく絶対の悪なし。上層はその進化せる善を以て下層の道化せざる善を排撃するを得べしとの意味における今後の刑法学。将来の善を迫害しつつある現代の善として上層階級は社会党の迫害につきて自己の良心に反かず。迫害の定義。地方的良心の衝突たる国家競争が千戈に決せられし如く階級的良心の衝突たる階級闘争において迫害がかえって敵勢を盛ならしむと云うは痴愚なり。地主資本家の処分策は主義の問題にあらずして政策論なり。極端と云い過激と云うはその主義を持する個人もしくは社会的勢力を表すのみ。個人主義の革命とその政策。個人主義の革命後と社会主義の革命後。今のいわゆる社会主義者は政策論においても個人主義時代の継承なり。『国家の為』と云う個人の没収と『最高の所有権』の経営。労働者と云う『生産機関』を使用し破壊しつつある社会の権利。公債の所有者は私有財産制の革命においては正当なるも共産制の革命において経済的貴族が華族として残るは人類に獣尾あるものなり。社会のものは社会に返せ |
法理学上の国家と政治学上の国家とを混同するより生ずる権力階級と社会党の惑乱
以上の説明によって『国体論』なるものが、かえって明らかに現代の国体と政体とを転覆する所の復古的革命なるを知るべく、社会民主主義は維新革命以後の日本国が法律の上だけにおいて堂々たる社会民主主義なるを認め、その維持と共に更にその発展を努力するものなり。しかしながら、国家の論究において、法理学上の国家と政治学上の国家とは自ら考察の途を同じうせず。法理学より考察されたる国家はその法律の上に表れたる国家がいかに組織されたるか国家の目的理想がいかなる程度まで法律の目的理想として表白せられたるかの理論的のものにして、政治学より論究されたる国家は法律の上に超越して国家の目的理想等を論ずると共に、更に国家を現実のありのままに法律の上に現れたる国家の組織が如何にして活動しつつあるか、法律に表白せられたる国家の目的理想がいかにして実現せられつつあるかの事実論なり。 法律とは国家の理想的表白なり、政治とは国家の現実的活動なり。総てのものがこの明白なる差別を明らかにせざるが故に、上層階級は社会の利益を図ると標榜する社会主義者を迫害するにかえって社会そのものの名においてし、社会主義者はまた上層階級を国家の名の下に否認すべきに係わらず、かえって国家そのものの掃討を公言して自家の論理的絞台に懸りつつあるなり。社会の利益の為に土地及び一切の生産機関の公有を主張する社会主義者は、単に社会が最高の所有権者たることを規定せる法律の理想を実現せんとする忠実なる法律の遵奉者にして、決して法律と背馳するの理由において迫害する能わざるは論なく。また社会主義者なる者も穂積博士の如く天皇をのみ国家なりと云いもしくは米のバルジェスの如く議会のみを国家なりと名付けるが如き無知にあらざるならば、『労働者は国家を有せず』と激語せるマルクスの宣言を信仰個条とし、以て国家そのものの否定を公言して国家の部分たる所の自家を否定し国家の将来の進化に来る所の理想的国家を否定するに至る如き論理上の矛盾無かるべし。 |
現今の国体において国家とは国民の全部なり
科学的社会主義は二千年前の太古に掲げられたるプラトンの理想国家論の源泉より流れ来れる大河なり。プラトンいわく、国家は個人の全部にして個人は国家の部分なりと。しかして現代の法律を見よ、何度に天皇のみ国家なりと云い、上層階級のみ国家なりと規定せるか、また何度に労働者は国家に非ず、小作人は国家の部分にあらずと規定せるか。 |
今日国民の意志たる者が上層階級なりと云うことを以て国家を否定すべからず
あるいはのたまうべし。上層階級が国家の総ての機関を占有し、上層階級の意志が国家の意志なりとされるが故に国家は否定さるべしと。然らば上層階級の意志をなさざる所の上層の小児は国家の外にあるものにして、国家の全部分が政権者として意志を表白するに至れる後といえども、総ての社会の小児は国家の意志をなさざる故にそれらは国家の部分に非ずして、年長者のみ同家なりと云うか。 |
個人主義の革命論においては国家の否定は論理的可能なり かの普通選挙の要求は社会主義が国家の意志たらんとの目的の為にして、普通選挙を呼号しつつ国家を否定するは、社会主義を解せざる無理想の盲動者なり。国家を否定するならば、何が故に否定すべき国家に土地を所有せしめんとする自家の主張を否定せざるか。否定されたる国家は空なる国家にして、空なる国家は公有にされたる生産機関を持扱うこと能わざるなり。上層階級がただ吾等のみ国家なりと考えうるとも、社会主義者は彼等の暴に対するに暴を以てして、然らば吾人は国家を否定すと反撃せざるべきなり。彼等はもとより国家の進化せる(物質的にもしくは精神的に)国家の部分なり、しかしながら国家は他の未だ進化せざる国家の部分たる下層階級を包含して国家なり。国家はフランス革命時代の個人主義の如く、原始的個人の仮定より個人の意志によって旧社会を解体し以て新国家を組織すと云うが如く考えらるべきものにあらず。個人は決して原始的に個人として存ぜしことなく墳墓に入るときにも社会をなす。個人主義の革命論は国家を解散して、更に自由平等の基礎によって国家を組織せんとしたり。故に国家の否定は新国家の建設までは論理的可能なり。 |
社会主義の革命は国家の否定にあらずして国家の意志が新たなる社会的勢力を表白することに在り
しかしながら社会主義の厳粛なる科学的基礎より見れば、国家は決して個人の自由に解散しもしくは組織し得べき機械的作成のものにあらずして、革命とは国家の意志が時代の進化に従って社会的勢力と共に進化すと云うことなり。故に今日の国家において今日の上層階級の意志が国家の意志とされるは、今日の社会的勢力の上に立てるが為 にして、もしこの故を以て今日の国家が否定されるならば、同一なる論理によって近代の社会的勢力の上に立って、国家の意志たるべき社会主義は国家の意志に非ずとして否定されざるべからず。
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現今は経済的階級国家の為めに政治上に階級国家の実を表しつつあるなり、法律上の階級国家なりと云わば論理上議会は入ることを拒絶せざるべからず −あえて日本と云わず、今の社会主義者の殆どことごとくは純然たる個人主義者にして、社会主義を以て単にフランス革命の反復と等しく解しつつあるに似たり。法理学上の国家と政冶学上の国家とを明らかに解せよ。法理学上の国家は国家主権の社会主義なり、しかしながら総ての政治的勢力は経済的勢力に在るを以て、今日の経済的階級国家が政治の上に階級国家の実を表しつつあるものなり。これ社会民主主義が経済的方面に革命の手を着けたるゆえんにして、しかしてその革命が現今の法律を是認して、法律戦争によって優勝を決定しつつあるゆえんなり。法律そのものより階級国家にして主権が上層に在るならば、社会主義者の努力は単に上層に帰属すべき利益の為にして、上層がその目的に背馳すと考えうるときには直ちに総ての努力を取消さるべき論理にして、先ず議会に入ることより拒絶せざるべからず。これに至ってはかのフランス革命と云い、維新革命と云い、また今日の無政府党員の行動と云い、理論としては社会主義者なるものより矛盾なし。 |
ベーベルの矛盾、社会主義の革命は血を以て法律の根拠より動かさんとする如き壮烈なる革命にあらず −あえて日本と云わず、今の社会主義者の殆どことごとくは純然たる個人主義者にして、社会主義を以て単にフランス革命の反復と等しく解しつつあるに似たり。法理学上の国家と政冶学上の国家とを明らかに解せよ。法理学上の国家は国家主権の社会主義なり、しかしながら総ての政治的勢力は経済的勢力に在るを以て、今日の経済的階級国家が政治の上に階級国家の実を表しつつあるものなり。これ社会民主主義が経済的方面に革命の手を着けたるゆえんにして、しかしてその革命が現今の法律を是認して、法律戦争によって優勝を決定しつつあるゆえんなり。法律そのものより階級国家にして主権が上層に在るならば、社会主義者の努力は単に上層に帰属すべき利益の為にして、上層がその目的に背馳すと考えうるときには直ちに総ての努力を取消さるべき論理にして、先ず議会に入ることより拒絶せざるべからず。これに至ってはかのフランス革命と云い、維新革命と云い、また今日の無政府党員の行動と云い、理論としては社会主義者なるものより矛盾なし。 吾人は信ず−社会民主主義の革命はフランス革命もしくは維新革命の如き、法律的革命の理想を現実の完きものたらしめんが為に、その法律の下においてするの経済的革命なりと。かのベーベルの言えるが如く、フランスがもしドイツの挑戦を受けたる時、之に応戦すべき正当防衛を国家の名において有すと伝えるは、吾人の主張しつつある国家がそれ自身の目的理想を有するを意識せるに至りし国家主権の現代なることを表白せるものにして、ジョレスの見解に打ち勝って、現今の国家が階級国家なることを主張して国家そのものの否認を決議せる万国社会党大会は矛盾なり。 |
経済的維新革命 吾人は更に断言す−−社会主義の革命はフランス革命もしくは維新革命の如く主権の所在を動かさんとする、すなわち法律の根拠そのものを革命する法律以上の実力に訴えらるべき革命にあらずして、確定されたる社会主権の上に社会の意志たる社会的勢力を法律の上に表白すれば足ると。故に、社会主義の経済的革命は先きの法律的革命の如く、歴史の頁を血に染むるものにあらず、また革命家自身に取っても然く壮烈なるものにあらず。いわば第一革命の法律的理想と背馳する現今の経済的組織を整頓して理想を現実ならしめば足る。故に吾人は先に維新革命が法律の上に社会民主主義なることを説明したるに継承して、社会主義の経済的方面たる土地資本の国有を名づけて『経済的維新革命』と呼ぶ。 |
法律的源泉の国有と経済的源泉の国有
実に維新革命の完き実現は、国家が国家の生存進化の目的理想の為に自由に行動すべしと云う法律的源泉の国有を以て、経済的源泉たる土地資本を更に国有ならしめて、国家の生存進化の目的理想を現実ならしむることに在り。多くの君主等がそれぞれ主権体として法律的源泉を自己の利益の為めに自己の財産権として行使しつつありし貴族国が維新革命によって、法律的源泉を国家の有に移して国家主権の社会主義を法律の上に表したる如く、法律の上に表れたる国家の主権を以て、多くの経済的家長君主等がそれぞれ自己を利益の帰属すべき主体として、経済的源泉を私有しつつある経済的貴族国を革命して、経済的公民国家に至らんとすることに在り。 維新革命はもとより経済的基礎よりの革命なりき。貴族階級のみの私有財産にして下層階級は単に使用権を有したりしに過ぎざりしものに国家が権利を付与して、民主主義の根底たる所の私有財産制を確立したり。維新革命は法律の根本において明らかに社会民主主義なり。然るに今や如何の状ぞ。 |
国家の内容は全く階級国家となれり、今日の階級とは経済的階級にして天皇と云い華族と云い中世の階級たりしものと異なって国家の機関なり、武力の略奪者と資本の略奪者 実に維新革命によって得たる法理学上の国家を見て、政治的に国家の現実に眼を転ずるときにおいては、吾人は全く天国より地獄に失墜せるの感あり。吾人は『愛国』の名において国家の利益と目的とを中心として行動しつつあるべき法律的理想と倫理的信念を有すといえども、これを経済上の現実より考えうれば吾人は家長国、階級国家時代の如く、無数の黄金貴族経済的大名の生存進化の為に犠牲として取り扱われつつあり。 法律学と倫理学とは吾人を人格として遇しつつあるに係わらず、率直なる経済学は黄金大名の自由に売買するを得べき物格として取扱いつつあり。吾人は法理学の上においては日本帝国の部分にして、国家の部分たる点において生存進化の目的を有す、しかしながら経済学の上よりしては地主の目的の為に手段として存し、工場主の利益の為めに犠牲として死すべき−すなわち国家の部分にあらず。吾人は土地と共に売買さるべき農奴にして賃金に縛せられたる奴隷なり。地主と云う黄金貴族は土地を私有して吾人を土百姓となし、資本家と云う経済的諸侯は工場の封建城廓に拠りて吾人を素町人として遇す。しかして往年の武士の階級がその武芸を以て貴族の下に隷属して下級に威を振るいたる如く、憐れむべき紳士はその学術と事務の才を以て黄金貴族の武士となり、主君の為に奴隷的服従の忠勤を励み(卑しむべし!)、労働者階級に向かっては大に権威を弄しつつあり(噴飯すべきコントラストよ!)。 総ての事は天皇の名において、国家の主権においてなさる。しかも現実の日本国なるもの天皇主権論の時代にもあらず、国家主権論の世にもあらずして、宛として資本家が主権を有するかの如き資本家万能の状態なり。大臣も資本家の後援によって立ち議員も資本家の頤使によって動く。かくの如くにして国家の機関が国家の意志なりとして表白しつつある所は、国家の目的理想の為に国家が執らんとする意志にあらずして、自己もしくは自己の階級の利益のみを意識して意志を表白するを以て、事実上は階級国家となれり。 すなわち、今日の階級とは資本家地主と云い小作人労働者と云うが如き経済的階級国家にして、天皇と云い華族と云うは社会民主主義の革命とは別天地に存する国家の機関にして、今日は中世的意義の階級にあらず。武力によって経済的源泉を略奪せる貴族は、維新革命によって法律の上より掃はれたり、然るに今や資本によって他の資本家と小有土農とを併呑せる経済的家長君主等は、往年のそれらに代わって国家の機関を自家の階級のほしいままに取扱いつつあり。 国家は中世君主等の手より武器を奪いて腕力による併呑略奪は跡を国家内に絶てりといえども、資力の更に鋭き兵刃は知巧なるもしくは幸運なる匹夫等をして資本を併呑し、土地を略奪せしめ、以て厳然たる中世的階級国家は美しき自由平等の法律におおいて立てられたり。貴族政治は明白に存す、何処に維新革命ありや。国家の名において要求せられる、しかも維新革命によって得たる国家は何処にありや。北米の人民が自由国の名に酔ひて経済的君主等の割拠せるを知ざる如く、維新革命の社会民主主義の法律の上にのみ残して国家は中世に逆倒せり。 |
社会主義は国家主義を抱擁するものにして国家主義と背馳するものは中世までの君主主義なり、国家の名を盗奪しつつある経済的貴族 結局目的が国家に存すればこそ、国家の名において要求し、また国家の名において死しつつあるなり。今日の社会民主主義はプラトンの社会民主主義の如くギリシャに限られたるものにあらず、また維新革命の如く日本民族のみに限られたるものにあらずといえども、国家が政治的単位の社会にして、国家単位の連合によって国家の理想的独立と個人の絶対的自由とを実現し得べきことを主張しつつある点において(『生物進化論と社会哲学』を見よ)、現実的国家を超越して、しかもことごとくその目的理想を包含す。国家の目的の為めに努力すべき国家主義と相納れる能わざるものは、実に君主等の利己心の為に一切が犠牲たりし所の中世貴族国にして君主主義なり。君主主義を掲げて各々の君主の為めに犠牲として取り扱われたる貴族国は、維新革命によって国家主義の名の下に国家の利益の為に打破せられたり。 −然るに今や国家の名の下にこの経済的君主等に殺されつつあるこの経済的階級国家を如何。王侯将相豈種あらんやの単純なる平等主義を国体論の被布に包みて国家の為に貴族政治を打破したるならば、国家の目的と背馳するのはなはだしきこの経済的貴族国が平等主義の眼に映ぜざるや。過去の貴族制度が転覆さるべき人権の侮辱なりしならば、人権を侮辱するのはなはだしきこの経済的貴族の発生が維新革命の讃美者に無感覚なりや。否! 今の経済的階級国家の群雄諸侯等はこの国家の為にこの語を盗奪して、貴族階級の為にすべき一切の利益と罪悪の弁護としつつあり。経済的貴族に帰属すべき利益と利益を帰属せしめんとする意志を以て為される一切のことが、かえって国家の為と云い国家の利益が目的なるかの如く偽らる。これ君主主義にして、すなわち二三子の個人の利益を中心とする個人主義にして国家主義にあらず。 |
歴史上無比の大矛盾 −少しも国家主義にあらず。ソクラテスはかかる『国家』の前に毒盃を傾けんや。ああ真正なる愛国者よ! 今の黄金貴族等はその貴族国を転覆したる所の国家主義を以て、かえって経済的家長国を維持しつつあるものなる事を見ずや。国家主義と君主主義! 国家主義は国家が目的にして君主主義は主君が利益の主体たり、従って一切の他の者は犠牲たり手段たり。この二大矛盾が−恐くは歴史上無比の二大矛盾が愛国者の前に滑らかに運転しつつありとは何たる怪事ぞ。国家主義とあらば国家が外のそれに対して権利を主張する如く、国家の利益は経済的君主等の蹂躙に放任すべからず。国家が経済的家長君主等の為にほしいままに処分せられるは、これ国家の人格が打破されたるものにして、『大日本帝国』は名を憲法の反故に止めて家長国の中世に復古せるものなり。国家はその眠りたる眼を開き見よ。 |
君の為めにせしことを恥とせざりし武士と経済的君主等の為めにしつつあることを恥じずる紳士 −二三個人の利益を図る経済的君主主義は国家の錦繍を剥奪して美々しべも飾られたるかな! 中世貴族国時代の家長君主等はこの経済的貴族等より露骨なりき。彼等は国家の目的が解せられざる時代なりしを以て、その経済的従属の奴隷に向かって『君の為に』として死を求めたり。然るに今の経済的君主等は、その自己の利益の為のみを意識してする生産も之を社会の利益の為となし、金鉱を南アに争うも、砂糖をキューバに独占せんとするも、国家主義を掲げて国家の為にと云う。個人の権威は著しく進化したり。かって奴隷階級の武士が下層に向かっては虎の威を振るいたるに係わらず、その仕える所の貴族に対して、猫の如く平伏する事を道徳的義務として少しも疑わざりしものが、今日の紳士と云う経済的武士の階級は、その下層に対して依然として権威を弄するに係わらず、なおその仕える所の経済的貴族の前に平蜘蛛の如くなる滑稽劇を見られる事を恥辱となす、これ平等観の発展にして権利思想の進化の為なるは論なく、『君の為に』の語はカーネギー王といえども、モルガン陛下といえども、三井・岩崎といえども、口にし得べき所に非ず。故にいわく国家の為にと。ああ国家の為に! 自由の像が綿羊の狼に奉ぜられたる時、驚くべき圧虐が常に自由の名においてなされたる如く、維新革命によって得たる国家が第二の経済的貴族等の占拠する所となって、総ての愛国者はかえって国家の名において迫害せられつつあり。 |
社会民主主義を迫害しつつある者は国家にあらず、審判に用いられる自由の名と個人に用いられる国家の名 (吾人は愛国者と云う、個人主義の革命家の常に嗤ふ所なり)、社会主義は近代に入ってようやく忠君より覚醒せる愛国心を、更に他の国家に拡充せしめて他の国家の自由独立を尊重する所の愛国心なり。自ら『最高の所有権』を有する所の国家なる者、何の理由を以て土地と資本とを国家の所有たらしめんとする社会民主主義を、秩序紊乱と云い安寧幸福を傷害すと名づけて迫害するや。否! 決して国家の迫害にあらず、国家なる手袋を脱ぎ去らしめよ、資本家の筋張れる鉄拳は明らかに見らるべし。昔はマダム、ロラン、断頭台に昇り自由の像を指して、おお自由よ! いかに多くの罪悪が汝の名においてなされつつあるよ!と。経済的君主の家老たる大臣も国家の為と云いつつあり、黄金貴族の武士たる議員も国家の為と弁じつつあり、村長も巡査も国家の為と説きつつあり、芸妓のカッボレにも国家の為にの文句を以てし、売淫的令夫人の夜会遊興にも国家の為にの冒頭を以て開会の辞は述べられつつあり。−しかして社会党の迫害にも実に国家の為にと名づけられて、国家の断頭台が用いられつつあるなり。自由の名に酔うとき、専制は現れて真実の自由を絞殺し、国家主義の声に狂えるとき、君主主義はその陰に潜みて最も理想的なる愛国者を打撃しつつあり。 |
国家を解せざる日本国民と国家を解せざる日本社会党
吾人は、国家を解せずして国家主義を呼号する現代の日本国民を排すると共に、等しく国家を解せずして等しく国家を解せざる国民より迫害せられつつある日本現代の社会党を讃するものにあらず。しかしながらその至る所の迫害に敢然として抗し、天下を浪々する様の何ぞさっそうとして維新革命党の彼等に似たるや。(志士幸いに健闘せよと云う)。 |
経済的維新革命党の迫害 実に、今の社会民主主義者は維新革命の社会民主主義を経済的革命によって完備ならしめんとする経済的維新革命党なり。革命党の迫害せられるは、その社会的勢力を集中せざる間は社会の進化として常態なり。維新の革命党が貴族等の屈従より脱して浪人となれる如く、彼等の矯々たる頭は官吏となり会社員となる能わずして、先ず経済的強迫の下に浮浪漢とならざるべからず。しかして幕府諸侯の巡邏が維新革命の宣伝者を行く所に迫害せるが如く、放尿の判決権より外有せざるべき警察官の下に、堂々たる学者が言論も、集会も、印行も、身体そのものの自由も脅迫せられ剥奪せられつつあるなり。 かの維新革命の元勲伊藤博文氏に率いられたる政党内閣によって、その政党内閣とは明白に穂積忠臣等の言うが如く、慣習憲法による共和政体の樹立なるに係わらず、しかして維新革命党が貴族政治を転覆せる民主主義なるに係わらず、『社会民主党』の結社は乱臣賊子なりとして禁止せられたり。今の官吏等が日本国民の総てが乱臣賊子の子孫もしくは加担者の子孫にして、自身も内心に全く独立の思想を以て充たきれつつあるに係わらず、『社会平民主義』と云うものの意義を暗号ならんかと憶測して、何日かは縄にと待ちかまへつつありき。往年の維新革命党が東山西海身を納れる所なかりし如く(ああ彼等はフランス革命家の如く世界の感謝をも得るなく、徒らに君主主義者と誤られていかに多くの英魂は土に葬られしよ!)、経済的維新革命党の後には何処に行くも国家の費用にて蓄い置かれる人面の犬が尾行しつつあり。しかして弁士中止、しかして拘引、しかして牢獄。−理由にいわく国家の為なりと。 |
族順口閉塞の決死隊と革命党の実行委員、エゴール・サゾーノフの爆烈弾の説明
ああ国家の為に! 国家の為と信じて屍を満韓の野に晒したる国民は、国家の為に艱苦しつつある社会民主主義者を発見して迫害に加わるべき国民にあらず。ロシア国民は怯懦の為にあらず、国家の為ならざるを明らかに解せるが故に、極東の戦争において常に退却したり、しかも国家の為には暗殺の決死隊に選ばれて革命党の実行委員となる。国家の為なりとして旅順口閉塞の決死隊を争える日本国民は、経済的君主等の暴力に遁逃して、国家の為に実行委員を辞返すべき国民に非ず。誤解すべからず、吾人は爆烈弾が何事をも為さざることを知る。時に聞く爆烈の響きは大潮流の前に岩石の横たわれる為に生ずる飛沫の音に過ぎず。しかも爆烈弾の国家にいかなる害毒あるやと云う問題と係わりなく、爆烈弾その事の事実なるは常に見る現象なり。この爆烈弾の理由を最も明らかに説明せるものは、目下ロシアに起りつつある革命戦争の号砲をなせるエゴール・サゾーノフの言なり。彼はプレーヴェを暗殺せる爆烈弾の使用者として彼自身を語りていわく。 『ロシア政府は吾人に禁ずるに言論の自由を以てす。言論なくんば吾人は意志を通ずる能わずと思うか。人類は言論なくとも意志を通じ得る霊性を有す』。
『我が社会革命党は武器の選択において決して怯懦なるものにあらず。政府が剣を以てするとき吾人は剣を以てするのみ。大罪悪を犯したるプレーヴェを殺したるは、罪人は刑を免かる能わずと云うことを露国の官吏に示したるに過ぎず。之を行わんとするまで我党は予備役たりとも、之を行うにおいて断然現役に服し、余はその任務を遂行するを以て光栄としたるものなり』。 『余の受けたる服従の遂行により革命は開かれ、政府は始めて噴火山上に舞踏しつつありたることを知りしなるべし。実は政府は四十年前に医すべからざる傷を受けたるものとす。しかして未だ仆れざるゆえんの者は、専制のアルコール中毒あって僅かに意気を張るに過ぎず。あにに之を生理的生活と云うべけんや』。 『当時は農奴解放を以て一幕を終りたる如くなりしもこれ皮相の観なり。農奴開放は明らかに自由と独立とを思うに至らしめたりき。歴山二世の改革はこれロシア革命のアルファにして以来露国国民は営々として勉めたり。されば革命のオメガは今日に在りとす。要するに今日の問題は何人が革命の遂行者たらんとするかと云うことに在り。吾輩は爆烈弾を以て革命を遂行し得べしとする愚人にあらず。一爆烈弾の背後には幾万の国民の立つを忘れるべからず。余の如きは之を感じて泣けり。我等は国民を煽動するに及ばず。国民はすでに独立に考慮するの知あるなり。現今の制度は二三爆烈弾を合図として国民の困難により倒さるべし。国民の困難と不平とは現制の維持される間は静まるべきにあらず。余はこの目的を遂行する為めに三年を費やせり、しかしてその一ヶ年半は牢獄に在りき。斯くの如く熟慮して行いたる天誅や決してその報酬なくしては止まず。余がシベリアに在るや幾度ウラジミール大公とプレーヴェとを一挙に仆したることを夢みたるぞ。余の如きものを戦士たらしめたるものは独り政府の罪悪なり。余がプレーヴェを仆したるを見しときに、余は余の良心の命に従いたるを悦びたりき』。 |
ベランメーの一喝と暗殺の教唆犯 吾人はかかる現象を単に学理の材料として冷静に看過する能わず、これ吾人自身と共に迫害を言論の上に加える所の非立憲なる者の戦慄すべき所にあらずや。日本国民の性格はフランス人もしくはイタリア人に比較せられつつあるが如く忍耐のはなはだ欠けたることはおおう能わざる国民なり。かって貴族階級転覆の時には政治狂の彦九郎を出し、民主的運動の時には大坂にて天皇の写真を踏みたる門田某なる者を出し、自他の生命を重ぜざることのはなはだしき、殺人犯に放て最も多きイタリア人より遥かに凌駕せる統計を示しつつある国民なり。多くの理由もなきも、たちまち怒ってベランメーと叫ぶ労働者を見よ。 −このベランメーの一語! 今の労働者が自家の状態がいかなる理由によるかを解ししかして迫害されるの時、ベランメーの一喝と共に振り上ぐる鉄拳中には実にサゾーノフの使用せる薬品を握るべし。−この時を如何する。吾人はエゴール・サゾーノフの言を読んで実に今の権力階級が暗殺の教唆犯をあえてしつつあるに戦慄す。 |
社会主義の迫害と教育普及の矛盾、ロシア政府は迫害において貫徹せり 実に言論迫害の如き蛮風は文明国の標榜においても汝今再びさるべからざることなり。しかしながら、ただ奇怪なるは迫害者が社会主義を禁圧しつつ、かえって教育の普及を図りつつあかことなり。もし徳川家康の教育奨励が貴族国の革命を早めたることを忘れざるならば、全国民が与えられたる教育によってサゾーノフのいえる『独立に考慮するの知』あるに至りたるとき、ここに経済的貴族階級を一掃すべき経済的維新革命の来るに気付かずとは何たる矛盾と云わんか。この点において迫害の貫徹せるものは実にロシア政府なりとす。彼に在っては大学の教授に政府の命令を以て学説を決定して与え各国々法の比較研究を禁止したりき、これ、穂積博士の憲法学が伊藤博文氏の憲法義解の旨を奉ぜずして独立に講義せられるが如き比に非ざるなり。大学生徒にして自由主義の傾向を帯ぶる書籍を所有することその事を以て退校なりき、これミュイアーヘッドの倫理学に狼狽して喜劇の限りを尽くしたるよりも遥かに周到なる注意なり。世界歴史を講ずるにギリシャ・ローマの共和政治とルターの宗教改革とフランス大革命とを抜き去りて意味なき反故の残余をのみ許容したりき、これ建武の失敗を無礼千万にも後醍醐の溺愛にのみ負担せしめ頼朝・家康の如きを撫育愛民の者なりと賞賛する如き歴史哲学者をして教育勅語を講義せしむる如き不謹慎の及ばざる所なり。 啓蒙運動は総ての革命の前に先きて革命の根底なり。社会民主主義はその実現を国民の覚醒に待つ。国民がようやく長夜の眠より醒めて社会民主主義の真価を独立に判断しつつあるは、もしくは判断せんと待ち設けつつあるは実に今日までの教育に感謝せざるべからざるなり。高天ヶ原にても日出づる国にても、そは問う所にあらず、有賀博士の反逆委任論にても穂積博士の義時主権論にてもまた顧みる所にあらず。知識を伝達すべき文字を殆ど全国民にまで普及せしめたるは−ロシアの革命はこの点において困難なるに反して、日本国民の総ては社会民主主義に入るべき鍵をその手に握れるものにあらずや、−しかして全国民によって権力階級の包囲されたるものなり。開墾されたる畑に、しばらくたとえ雑草の蔓延するとも、社会主義にして真理ならば一粒万倍として花さき実るべし。(吾人が上来、社会民主主義を批難する多くの学者を打破し来れるに対照して何れが真理なるかを見よ)。一切は生存競争なり、真理の生存競争に打ち勝って社会民主主義が全国民の頭脳を占領せる時、ここに国家の意志は新たなる社会的勢力を表白して、経済的維新革命が法律戦争によって成就せられるの時なり。 ロシア皇帝とロシア国民との間は法律関係なし、ロシア皇帝が法律的意義において存在する場合、ロシアの革命党は政治上の利害よりいかに評せられるも法律上の背反に非ず、反逆は主権体に反することなるが故にロシア皇帝は法理学上謀反人なり、穂積博士もロシア皇帝の主権者に非ざることを承認すべし |
金冠の反逆者、文学の普及は社会主義に入るべき鍵なり 故に社会民主主義の運動は純然たる啓蒙運動なりとす。従って、マルクスとプルードンとの分離せる以来、暴力に訴えうるものを第一に起って斥くるものは社会民主主義者なり。もとより法律戦争を戦うべき法律的形式なき時代及び国家においては、サゾーノフの言える如く『剣に対するに剣』を以てすることは唯一なる方法にして法理学上の正当なり。ロシアの如きは皇帝の行動が法律によりて規定されたるものあらざるが故に遵法的行為ありと云う能わざる如く、人民の行動も従うべき規定されたる法律を有せざるを以て違法の行為と云うことなし。 国民と皇帝との関係は始めより法律関係にあらずして道徳関係かあるいは強力関係なり。すなわち奴隷道徳によって一切を服従するか、然らずんば強力に訴えて拒絶する関係なり。故に皇帝の公殺を死刑と云うことが不当ならざるならば、革命党がその暗殺を死刑と名づけつつあることも正当なり。近代国家における死刑とは国家の目的に背反するものに対して、国家の殺戮することにして方法の公殺なると暗殺なるとによって差等さるべきにあらず。露帝がその個人的利益に反する国民を罪人と名付けるならば、国民が国民の利益に非ずと認める露帝を罪人と呼ぶことは共に自由なり。罪人とは国家の利益を害するが故に国家が命名することにして、皇帝と国民との名辞の有無が理由をなすものにあらざるなり。 ロシア皇帝なるものの発する言語を見よ、いわく『朕の臣民』、いわく『朕の国家』と。もし農奴解放以前の如く土地及び人民が多くの家長君主等(すなわち皇帝及び貴族等)の所有たる財産ならば、財産権の主体たる権利において、かかる主張は不当にあらず。しかしながら現代のロシアは一人を以て最高機関を組織する君主政体なりといえども、国家の外に立って国家を自己の利益の為めに手段として取り扱う所の家長国に非ず。 然るに彼はいかなる自由を与えられたる最高機関といえども、君主たる行動において法律上の効力を有するには、国家の部分としての国家の意志の表白たるべく(すなわち自己それ自身の利己心を以てする行為にあらず)、之を外にしての云為は何等の効力なきことを忘却せるなり。故にロシア皇帝が国家の機関として国家の意志を表白するものならば、それに反することはいかなることも法理上犯罪たるは論なく、殺戮は国家の刑罰にして死刑と名づけらるべし。しかも彼は人民と土地とを朕の利益の為めに殺活贈与するを得べき朕の所有財産の如く考えつつあるが故に、国民は始めより法理上の正当防衛に立ちつつあるなり。強力の決定なり。刑罰なく、犯罪なく、反逆なく、ただ絞殺台とダイナマイトとあるのみ。 吾人は断言す。−露国革命党が止むを得ざる正当防衛によって国家機関の破壊者の上に殺戮を加えつつあるは、政治上の利益よりしてはいかに評せられるとも、少なくとも法律上の背反に非ざる事だけは確実なりと。(暗殺は違法なるも国家の利益の為めに可なりとは必ずしも総てに当らず)。もとよりロシアといえども法律の形式あるものは存すべし、しかもそは皇帝が自己を国家の部分としての意志表示にあらずして、個人的利己心の満足の為めに他の国家の部分を犠牲として取り扱わんとせる無効の法律なり。法律に非ず、君主専制政体が家長国と多く差別され難き事実あるはこの理由にして、その唯一なる国家の最高機関が法律的規定なく、単に政治道徳として皇帝の良心のみによって維持されるが為に、低級なる良心のものは多くその個人的利己心を以て自ら国家機関を破壊し、国家を略奪して金冠を戴ける反逆者となる。ロシア皇帝にしてもしたとえ法律的拘束なくも、国家の利益を中心として行動すること、あたかも儒学の政治道徳を持して唯一なる国家機関として一歩も乱れざりし維新以後二十三年までの日本天皇の如くならば、その一言一行といえども国家主権の発動なるが故に之に背反することは国家に対する違法なり。然るに彼に在っては如何、国家略奪者なり、国家機関にあらず。国家に対する反逆者なり、国家の主権を行使する君主にあらず。 −『朕の臣民』と『朕の国家』とを放言せる彼は、実に国家の略奪者にして国家に対する反逆者なり。略奪者を駆逐せんとしつつある革命党ももとより、国家の機関に非ざるが故に皇帝の暗殺を死刑と宣言しつつあることは法律的意義なしといえども、国家の反逆者たる皇帝の築ける絞殺台は、かの爆烈弾以上に法律的効力あるものにあらず。反逆とは主権者に反することなり。故に皇帝が国土人民を財産として総ての者を犠牲として取扱いつつありし家長国においては、皇帝が主権体なるを以て反逆は皇帝の名において刑さるべし。公民国家の現代においては、主権体たるものは生存進化の目的を有する国家なり。その目的を無視する行為と意志とあらば、ロシア皇帝といえども一個の謀反人に過ぎざるは法理学の原理より動かす能わざる所なりとす。故に反逆者に対する自家の防衛は法律上の正当にして、国家は自己の目的を表白する所の途を失える者として機関の設定されるときを待つの外なし。(穂積博士の怨霊いわく『国家の動揺するときは主権の所在不明なる時なり』と、氏もまた吾人と等しくロシア現時の動揺によって皇帝の主権者ならざることを主張する者なるべし)。 |
国家機関の逸出して一介の暴僕となるときに生ずる正当防衛権、今の社会党が正当防衛権を振るわざるは権利なきが為に非ずして社会の利益の為なり、利害を無視する無政府主義者の社会主義に加える嘲罵 実に、この法理学の原理よりして見ればサゾーノフの言は現代のロシアにおいては明らかに真理にして、吾人はこの理由より今の迫害者が国家機関たる地位を逸出して自己を一介の暴僕と化し去るを恐れるなり。今日までの日本政府は頻々としてこれあり! 内閣大臣が議員を死刑に処すべしとの命令を発するとき、彼は吾人の服従すべき国家機関たりや。巡査が勅令を出して交番の前に帝国議会を召集せんとするとき、彼は吾人の服従すべき国家機関たりや。 国家機関はその与えられたる権限内においてのみ国家機関たり。従来の政府なる者が社会党に対するとき与えられたる権限の外に逸出して暴力を以てすることは、これ実に国家機関の破壊者たる暴僕にして、社会民主主義者は権利の侵害に対して総ての手段を執ることを得べし。ただ、今の社会党が之を看過して防衛権を振るわざるは権利を尊重せざるが為めならずして、血を流すことの多くの利益ならずと云う利害論よりならんと考う。(天下は彼等の忍辱を讃美せよ、何者の前にも良心の服従なき彼等は、その主張の伝播さるべき利益の為めに警官輩の泥靴にあらゆる権利を蹂躙せられつつあり)。 故に利害論を軽視する無政府主義者より社会民主主義に加えられる嘲笑漫罵は総てこの点に集まる。いわく、社会主義者は遵法的方法と云うも、遵ふべき法律そのものが遵ふべき権利によって作られたるものに非ざるが故に、その法律に従って罪悪の議会に入るとも、何等の効力ある法律を生ずべきものに非ず、社会主義者は議会的ユートピアなりと。しかしながらかかる推理的の議論に答え得ずと云うとも、社会民主主義者に取って決して恥辱ならず。現実は理想の階級にして、現実の社会国家に脚を立てずして理想の到達は断じて不可能なればなり。社会民主主義の法律戦争が現実の不合理の法律を以て出発点とすと云うを以て効力を否まれるならば、天下何の処に合理的なるもの存すべきぞ。無政府主義者のある者は、何者をも否定して合理的なりと云わざるべし、然らばその多く使用されるダイナマイトも不合理なりとして否定されざるは何ぞ。 |
吾人にしてロシアに産るれば爆烈弾の主張者となるべし ただ社会は進化す。進化は階級闘争による。社会が今日まで進化し、しかして階級闘争の優劣を表白するに投票の方法を以てするに至れり。投票は最もよく社会的勢力を表白する革命の途にして、爆烈弾よりもストライキよりも最も健確に理想の階上に昇るべき大道なり。これなきの国家においては、他の径路として反乱と爆烈弾の途が開かる。この反乱と爆烈弾との途を経過して法律戦争の大道に入れるものは、今の多くの文明国と称せられるものにして、未だ径路を歩みつつあるは実にロシア国民なり。吾人をしてロシアに生れしとせよ、吾人は社会民主主義者の口舌を嘲笑して爆烈弾の主張者たるべし! ああ己の腕より地に投げられたる爆発の硝煙煙中にツァーリと共に仆るるニヒリストよ! 天国の戸は僧の手に叩かれて開くべく、革命の舞台は血染の花道を通りて達せられる事あり、維新の民主主義者はこの故に血ぬられたる刃を懐に潜ましめたりき。ただ、今日の吾人は一歩の幸運に会して立法的方法にまで進化せる現今の日本国に置かれたるが故に、たとえ暴漢がいかに国家機関たる権限を逸出すとも、吾人は決して之に応じて正当防衛権を主張せよと奨むるものにあらず。社会民主主義者はその名の示すが如く、個人の権威よりも社会の利益を尊重するの犠牲に甘んずべき時の多き事を知るべし。(吾人は重ねて今の日本の社会党の温良なるを讃美す)。 |
普通選挙権の要求はこの法律戦争の為めなり。法律戦争における普通選挙権の獲得は投票の弾薬庫の占領なり 実に維新革命の理想を実現せんとする経済的維新革命は殆ど普通選挙権そのことにて足る。国家が主権体たらざる以前の革命は常に反逆者の名を負いて血と鉄とを以て回転せり、国家内容の革命は国家主権の名の下に一に投票によって展開す。 −『投票』は経済的維新革命の弾丸にして普通選挙権の獲得は弾薬庫の占領なり。法律戦争以前の革命は常に血の膏によってその回転を滑らかにしたり、投票の弾丸による革命は拍手喝采を以てその舞台を開く。故に、革命の定義中に流血を欠くべからざる要素として加える如きは取るに足らざる見解なるは論なく、もし流血その事を以て革命なりと云わば、皇室内の闘争も無数の革命なりとし、戦国時代の攻戦討伐の如き幾百千の革命の去来せる者なりとせざるべからず。 革命とは思想系を全く異にすと云うことにして流血と否とは問題外なり。従っていかに多くの血をそそぎ屍を積むとも、同一なる思想系の継承にあらば、そは戦乱と称せられて革命に非ず。例せば壬辰の乱を革命と云わずして大化の立法を革命と云い、源平の戦を革命と云わずして頼朝の鎌倉を革命と云い、大阪の陣を革命と云わずして戊辰の戦争を革命と云うは、君主国貴族国民主国とそれぞれに思想系を異にするを以てなり。 |
革命は思想系を異にするを主眼として流血は要素にあらず、革命は新生児にして普通選挙権は産科医なり −社会民主主義の革命と云うは、今の少数階級の私有財産制度(個人主義の理想したる社会全部分の私有財産制度にあらず)を根本より掃討して、個人が社会の部分として、部分の全体たる社会を財産権の主体たらしむる共産制度の世界たらしむる別思想系に転ずることに在ればなり。革命とは故に旧社会の死して新社会の産まれることなり。もとより母と子との間に大なる遺伝ある如く、新社会が総て旧社会の遺伝を受けて発展するものなることは論なし。ただ、難産にて生死の間に出入せざれば、生れたるものが新生児にあらずと云う痴呆の世に存せざる如く、社会生理学の原理によって発見せられたる投票の産科医は、平易に新社会を誕生せしむるに至りしのみ。ただいかんせん、旧社会の野蛮にしてその子を愛するを知らざる毒婦は、自己の腹に孕まれたる胎児を堕胎せしめんとし、産れんとする嬰児を圧殺せんとす。毒婦の無知野蛮は常に選挙権の産科医を拒絶し、独り自ら転転して流血の惨憺に苦しむ。しかしながら孕まれたる者は産れざるべからず、またよし之を堕胎圧殺すとも母体自身にして強壮なる間は再び孕まる。(故に衰亡の国に革命の風潮なし)。 歴史的経験を有する社会はいかに無知なるも流血の母体そのものを苦しましむるを知り、また愛の進化は新社会が自己に代わって第二の自己として生存する者なるを知り、また更に産科医の力の驚くべく出産を安易ならしむる事実を知れり。故に彼が胎児と共に自己そのものを滅ぼし得るものに非ざるを知れる以上は、また彼自身の外部的圧迫もしくは内部的不調の為めに衰弱して妊娠に堪えざるに至らざる以上は、普通選挙権の猛烈なる要求を拒絶し得るものにあらず。彼女はすでに胎児の重きに堪えざらんとす。 −この胎児はいかにして孕まれたる。いうまでもなく母体の成熟によって発育せる社会性と云う卵が社会民主主義を受精したる故なり。胎児は実現さるべき理想として完全に作られたり。胎児は母体の中に躍る。殆ど呱々の声を聴く。腹を破らんとす。ただ産科医の来るを待つのみ。−普通選挙権はかくの如くにして要求さるべしとす。 |
空名の権利にあらず 故に、社会民主主義の要求する普通選挙運動は決して空名の為めにあらず。今の米合衆国の如く徒らに黄金皇帝等の御意を捧じて奴隷として発言せん為めの一票幾何の市価にあらず。一票の投票は封建の城廓を打壊したる大砲の轟きなり。日本の現時の如く紙幤と交換すべき汚らしき手を以て投票に触れるにあらず、一片の投票を箱に投げ入れることによって、その諸手は実に鮮血に滴るなり。この覚悟を以て要求する普通選挙権運動の前に何人かよく抗し得べき。 |
凱旋にあらず法律戦争の進撃軍なり
−総ての者ただ蹴破し去るべし。吾人は一人身を挺して城門を爆破せる大胆華麗なる愛国者の如く、轟然たる爆発の声の日本国内に起るべきことを期待する者にあらず。しかしながら団結が一切の力なることを信じて進退一に規準を重じたる満洲の誠忠質実なる労働者が帰り来る時! −今、彼等は続々として帰りつつあり、人は彼等の凱旋を迎うといえども、彼等は凱旋者にあらずして法律戦争を戦はんが為めの進撃軍なり。ロシアの彼等は敗北にあらずして帝冠の反逆者を転覆せんが為めに進撃しつつあるにあらずや。(吾れ書窓を開いて歓迎の万歳が誠に王者の軍を迎うる桀紂の民なることに思い至りて涙雨の如き時あり)。 |
血税と権利
団結は勢力なり。社会的勢力は主権なり。この団結的権力の前になお無謀にも納税の多少を搜で軽蔑の眼を以て眺め得るや。もし納税の僅少が選挙権を超絶すべき理由たるならば、血税の無能力者が重大なる政権を有することは何の理由に求めて説明する。愛国者よ! 汝等が担架に横たわりて夢心地に後陣に運ばれつつありし時、帯の如く包帯を洩れて曳ける鮮血は、徒らに寒草を肥やすに過ぎずして権利一粒をも実らしめざりしか。月明の夕夜、陰の雨、汝等が家郷の恋妻と愛子とを想ひやりつつ前哨に立てるの時は、国家の大臣は赤十字社を名として醜業婦を猟さりて天下を悠遊し、万骨ただ残る一片墓標の前に、汝等が野花を手向けて決別の涙を雄々しき拳に振るいつつありし時は、七博士なるものは(賤ケ嶽の七本槍にてもあるまじきに!)硬直の誉を沾りて揚々とし、汝等の同類のものは一売色奴お鯉の門前を警戒しつつありしことを知らざりしか。戦友の骸骨が埠頭に歩み出でて、汝等が船の煙の東に消え行くを見送りつつ、その窪こき眼にたたえたる涙はただ家郷児女子の音づれに過ぎざりしか。無権利の奴隷となって児戯の金片を胸に飾らんよりも、丈夫ただ鬼となって満洲の野にこそ迷へ。 |
『国家の為め』とは国家の全部の為めか上層の一部分の為めか
−吾が愛国者よ答弁せよ! 汝等は国家の部分として、国家の他の部分の生存進化の為に笑みて以て犠牲となりき、汝等のこの犠牲は他の国家競争なき時においても上層の淫蕩遊興の為めに奴隷として死すべき永続不断の者か。『国家の為』とは国家の上層の部分の為のみにあらずして、等しく国家の部分たる汝等の妻子の為めをも含まざりしか。ロシアの侵害に対して国家のある部分が脅かさるべきことは事実なり、しかしながら等しく国家の部分たる汝等の階級が、国家の上層よりして常任不断に虐殺せられつつあることは『国家の為に』処理すべき途なしとするか。国家の為なり、四千万の同胞よと叫ばれたるときは、四千万の同胞を国家なりと云うことにして、二三子もしくは少数階級をのみ国家の全部なりと考えしに非ざるべし。然るに為にしたる所が全く上層階級の部分にのみ止まりて−寡婦と、孤児と、しかして野に満つる餓殍と! 彼等は国家の部分にあらずして牛馬の一部か! 今日は国家の部分たる一人が全部たる君主国にあらず。少数部分たる階級が国家の全部たる貴族国にあらず。民主国とは国家の全部分が国家なるが故に、愛国の名において総ての同胞に犠牲たるべき事を呼ばるなり。しかして総ての犠牲たるべき義務は、総てが目的たるべき権利を意味す。 |
『国家の為め』とは経済的貴族の転覆される時の叫声なり、国会尚早論と普通選挙権尚早論
−『国家の為』とは国家対国家の場合のみにあらず、国家の大部分を虐殺しつつある今の経済的貴族を転覆する時に要求せらるべき森厳なる叫声なるぞ。資本家政府と地主議会との共犯を挙国一致と云い、盗品分配の喧嘩を官民の衝突と称せられる今日において、『国家』の声に眠を破られたる国民が満洲の野より血染の服を以て進撃し来るとき、しかして進撃軍を歓迎して進撃に加わるべく用意しつつあるとき、なおかつ普通選挙権尚早論を唱え得るや。外敵の城門は之を突貫によりて破壊し、議会の妖魔殿は普通選挙権を以て堂々として攻め入るべし。ああ国会尚早論に怒髪冠を衝ける彼等は、今や翻て普通選挙権尚早論を唱えつつあり。斯くの如くにしてかの政友会なるものと進歩党なるものと、全く民主党当年の精気無く、経済的貴族主義の良心を以て藩閥と上院との貴族等を奉戴して奴隷となれり。吾人は断言す、普通選挙権の獲得は片々たる数千百人の請願によって得らるべからず、実に根本的啓蒙運動による全国民の覚醒によって彼等権力者の一団を威圧して服従せしむることなりと。 総ての権利は強力の決定なり。団結に覚醒せるときに強力生ず。小児がいかに数多くとも零を数千倍して依然たる零なる如く、国家の下層にして団結の強力なることを覚醒せざる間は権利を要求すべき基礎の強力なし。吾人はこの点において万国社会党大会の決議に反して日露戦争の効果を天則の名において讃美す。国民は団結したり。団結の強力なることは明らかに意識せられたり。しかして硝煙の間に翻りたる『愛国』の旗は、今や法律戦争の進撃軍の陣頭に高く掲げられたり。彼等は後方鯨波の群に止まる事を快よしとせずとして奮いて突貫の第一列に起てり。 |
突貫の第一列を争える国民は選挙権なき鯨波の群に甘んぜず
−しかしてこの心これ投票戦争においても選挙権なき鯨波の群たる能わずして自ら戦闘員たらんとの覚醒なり。フランス革命の三色旗が先ず起ってバスティーユ城の弾薬庫を奪い、西南戦争の壮士がまた始めにこれを襲ひたる如く、法律戦争においては投票の弾薬庫を占領すべき普通選挙権の獲得が宣戦の布告よりも先きならざるべからず。笑うべき事の限りなるよ! 今の政府と資本家とは自家を滅ぼすべき進撃軍をかえって万歳の声を挙げて迎えつつあるなり。彼等の突撃隊、彼等の決死隊、彼等の夜襲、彼等の総攻撃を賞賛して自ら得たりとなしつつある政府と資本家は、同一なる彼等の突撃決死隊総攻撃を以て一挙に転覆さるべきことを解せざるか。頭を回らして城の後方を顧みよ、革命の火はまさに爆々として燃え移りつつあらずや。今日、日本の社会党を以て温良なる二三の『文士』『キリスト教徒』の輩と誤まるならば、これ斥候の陰を認めて雲の如き大軍を忘却せるものなり。大軍とは覚醒せる一般階級を云う。 |
硝煙の階級闘争と議会の階級闘争
実に一般階級が普通選挙権を得て議会にその戦士を送るの時、ここに階級闘争は硝煙の原野の代りに議院の壇場に戦はる。維新革命が一般階級の覚醒によって硝煙の階級闘争を以て貴族の手より土地と政権とを打ち落したる如く、経済的維新革命は投票の階級闘争を以て黄金貴族の資本と土地とを国家に吸収し、事実上の政権独占を打破すべし。 |
階級闘争とは下層が上層に進化せんとするときの闘争なり
社会民主主義の階級闘争は執って代らんとするの闘争に非ず。否、総ての階級闘争とは運動の本隊が下層階級に在りと云う事にして、闘争の結果は摸倣と同化とによって下層階級の上層に進化して上層階級の拡張することに在り。すなわち下層階級がそれ自身の進化による階級の掃討にして上層階級の地位が転換されて下層となり、もしくは社会の部分中進化せる上層が下層に引き下げられる原始的平等への復古にあらず。(今の社会党のある者、もしくはトルストイズムの如きこの故に決して社会民主主義にあらず)。 更に換言すれば、社会がその進化において社会の部分を区画して漸次に進化せしむる結果社会の全部分が終に今日の上層、否、もとよりこれ以上に進化するに至ると云うことなり。維新革命において法律上国民の全部が国家にして国家が目的なりと云う社会民主主義が理想として掲げられて、総ての家長君主等の掃討せられて階級国家の消滅したる如く、経済史の進行として更に生産の利益の帰属すべき主体たる経済的家長君主が、国家に吸収せられて国民全部が経済団体となり経済団体が生産の目的となり、以て国家の経済的内容において社会民主主義の完き実現に至ることなり。すなわち経済的君主主義を打破して経済的国家主義を建設することに在り。 |
国家主義をプラトンの意義において厳粛に唱えよ
−ああ国家主義を厳粛なるプラトンの意義において主張せよ。−しかして経済的君主等の略奪より手段として取り扱われつつある国家主義を救い出せよ。君主主義とは国家の一部分たる君主等の利益の為に、他の国家の部分が犠牲として生死し一切の利益と終局の目的とが君主等に存するを以て名づけらる、これ維新革命によって法律の上より掃い去られたる所のものなり。然るに資本家と地主なるものと、国家の部分たる他の労働者と小作人とを自家の利益と目的との手段として殺活する所の君主として経済界に存し、従ってその経済的勢力を政治的勢力に表して国家主義は法文の外に見られざるに至らんとす。法律の上に見よ、大日本帝国は厳として生存進化の目的を有する国家なり。然るに社会党なる者と全日本帝国民と、国家主義の仮装の下に経済的君主主義が潜伏するに心付かずとは何たる事ぞ! 社会主義は社会主義にして現今の地理的社会の国家より一段の高きを理想するは論なし。 |
社会主義は経済的君主主義に国家を略奪せられて冷然たるほどに非国家主義に非ず
−しかしながら経済的君主主義に国家を略奪せられて冷然たるほどに非国家主義にあらず。社会主義はこの国家を厳粛に承認して更にこの国家の連合によって理想的独立に発展せんとする大国家主義なり。国家主義は社会主義の進化の一過程にして経済的君主等は国家の反逆者なり。社会党何ぞ国賊ならん、社会党また何ぞ国家を否定するの惑乱ありや。国家は倫理的制度なりと云いしルター、一切の倫理的要求の満足を国家に求めたる孟子。吾人は万国社会党大会の決議に反して彼等と共に国家を是認し、しかして社会民主主義の名においてすべし。 今日の法律を見よ、大日本帝国は厳として倫理的制度なり、しかして一切の倫理的要求を満足せしめんことを理想しつつあり。ただ、この国家の法律の下に経済的貴族等が割拠して存し、国家主義の盗奪によって経済的貴族等の個人主義が倫理的光彩を汚すが故に、大日本帝国そのものが罪悪に塗られて醜なり。おお来るべき第二の維新革命よ。再び第二の貴族諸侯に対して階級闘争を開始せざるべからず。これ階級を超越せる国家の法律的理想によってなり。一切は階級闘争による。闘争に打ち勝ちたる者の頭上に権利の金冠が輝やく。正義の神は衡と共に剣を有す。法律の理想たる正義はその理想の前に横たわれる腐朽の制度を打破して獲らるべき衡なることを剣において表示す。権利の決定は古代中世を通じて全く腕力なりし知く、最初の訴訟法は原被両人を法廷に喚びて決闘せしめたり。『我は我が力を以て天下を取れり、王たらんと欲すれば王、帝たらんと欲すれば帝』とは秀吉のみの権利獲得の方法にあらず。剣の重量に従って衡は傾き、正義の神はその傾斜の上に判決を下す。今日の法律なるものは国家の機関を組織して国家の意志を表白すと云う資本家階級の決定せる正義なり。資本家政府と地主議会とは黄金の分銅によって資本家階級のほしいままなる方向に衡を傾斜せしむ。剣が衡を定め戦勝者が権利を作る。腕力戦争の勝者がかって君主国を建て貴族政治を築きたる如く、今日の経済的混戦の中において僥倖なる者は戦勝者として総ての権利の源泉たり。 |
吾人は万国社会党大会の決議に反して現今の国家を法律の上に是認す
故に吾人は断言す−社会党が弱く労働者が奴隷として甘じつつある間は、社会民主主義は法律の上のみにおいては罪悪にあらずといえども、実世間に向かってはいささかの権利にあらず正義にあらずと。ただ勝者必ずしも勝者ならず、敗者また永久に敗者ならず。平等観の発展と無数の百姓一揆とによって、社会の下層が武士農奴の奴隷階級より脱して強力となり、維新革命の剣によって貴族国を転覆し以て平等の権利に衡を保ちたる如く、社会民主主義の現行法の下に小作人と賃金労働者とが、剣の閃きに驚き起て団結の強力を作るとき、ここに経済的貴族国は転覆して経済的平等の上に正義の神は現る。 |
権利の基礎と強力、強力なき日本の社会民主主義は悪なり、眠れる獅子は喚び醒されつつあり、クワと鉄槌とを持てる百干万の貴族
民主党志士の鮮血に染めて織り上げたる憲法の敷物の上に黄金を播き散らして賭賻に耽りつつある政府と議会よ! その賭博場をめぐりて広大なる階級が久しき眠りより目醒め、夜陰に鳴り渡る社会民主主義の警鐘に耳を傾けつつあるを見よ。この大団結が大丈夫の如き闊歩を以てその敷物の上に進み入るとき、盗奪の黄金は決してトラストの玩弄物に非ず。眠れる獅子は犬よりも愚なり、奴隷の百千万は一人の貴族に恐怖す。小作人と賃金労慟者との奴隷が貴族の如き権威に眼を光らして百千万の強力に手を繋ぎて一団となるとき、獅子はここにたてがみを振るって政界の一角に立ち上がるべし。二十日鼠の逃げる様なるかな政府と議会なる者よ! 然るに笑うべきはこのクワと鉄槌とを持てる百千万の貴族の前に、無礼にもパン屑を投じ、獣王の耳に就きて狐の甘言を囁く者あることなり。 |
慈善家とはキリストを逆倒して人はパンのみによって生くと考えうる者なり パン屑! これを讃美して慈善と云う。ああ慈善なる名のいかに人類の権威を侮辱しつつあるぞ。吾人は飢餓の為に昏倒せんとする者に向かって、恵まれる手を払いのけよと云うほどに迂愚なるものにあらず。しかしながら多く慈善家と名づけられたるマムシの類は、その最も善きものも自己の道徳的快楽の為に貧困者を犠牲として取扱い、下等なる輩に至っては夜会舞踏の余興より以上には考えず。吾人はたとえ短銃を執って咽喉に当つるとも、略奪者の裏門より投ぜられる残飯を嚥下し得るや。この故に面目を重ずるものの貧困に陥るや、救貧院に入るに堪えずして自殺し、その肉体の救われる者も精神の殺されたる後なり。慈善家なる者の人生観は全くキリストを逆倒して、人はパンのみによって生くと考えつつあるなり。 |
資本家地主は席上の乞食にあらず堂々たる略奪者なり 慈善家の最も悲憤慷慨的なるものは、あるいは云うべし、労働者は清貧の尊ぶべきものにして富豪等は席上の乞食なり、労働者の労働に衣食するものなりと。しかしながら事実は決して然らずして、彼等は乞食にあらず、堂々たる略奪者なり。吾人をして不徳を暴露していはしめよ。もし貧困に生まれるならば吾人は地上の乞食たると席上の乞食たるとを問わず、他の愛にすがらんよりもむしろ盗賊となって略奪せんと。社会民主主義者は君子と名付けるミミズ的道徳家とは別物なり。乞食は卑しめられ略奪者は崇めらる。ギリシャの詩人は海賊を高貴なる事業として詠嘆し、近き以前まで海賊の剛健がバイロンの詩に入りしほどに崇尊せられ、中世の騎士、日本の武士、皆切り取り強盗をその習いとして一個の讃美なりき。乞食は歴史上讃美されたることなく、金冠は常に略奪者の額に在り。いかに資本家地主を席上の乞食に比して自ら快を貪るとも、強者たる彼等の前に蟻の如く匍匐して略奪を讃美するものの絶えざる間は、略奪されたる地上の乞食に対する軽蔑は永久に去らず。恵む手の唇には傲慢の微笑あり、受ける所の首には屈辱の冷汗滴たる。しかもこれが往年の如く個人労働の結果たるものを涙の手に割きて他の不幸なる個人と共に分ち喰うならば、吾人はこの尊き人を地に伏して拝すべし。然るに蒸気と電気とによる社会労働の総てを上層の少数部分にて略奪し、その略奪の為に不幸に繋がれたる社会の大部分を『慈善制度』の牢獄に押し込みて、鉄柵の間よりパン屑を投じつつありとは何たる残酷ぞ、−悪魔にも優さる。 |
個人的生産時代の慈善と社会的生産を略奪せる今日のそれ、慈善を恥じずるに至れるは奴隷の卑屈を脱して貴族たらんが為なり、社会民主主義と個人の貴族的権威 野犬と講壇社会主義者とは慈善に欺かれ得べし。人類は犬の如く食を得て足れりとするものにあらず、社会民主主義に覚醒して貴族の如き個人の権威を得たる労働者階級は、講壇社会主義者の如く路傍馬糞の傍に土下坐して黄金大名を礼拝するほどに無恥なる良心を持たず。慈善を言う者の前に慈善なる名を以て金銭を投じ見よ、烈火の如く怒らざるか。社会の総てが慈善を受けるを恥じとするに至れるは、奴隷の卑屈より脱して貴族の良心に心臓を染めたる者なり。 総ては強力関係なり。力によって略奪したる時代は力によって略奪し、今の法律によって略奪しつつある者は新たなる法律によって略奪すべし。強力すなわち正義。黄金貴族が力ある間は今日の略奪は当然にして吾人は餓殍の傍に立って、なおかつ彼等の略奪を正義なりと承認せん。獣王が一切を慴服せしめてその牙が血に染まりたるとき、正義とはすなわち社会民主主義なり。吾人は涙を流して議論の補助とするものに非ず、鉄よりも冷たき権利論に訴えて社会民主主義を唱えるものなり。パン屑の問題にあらず、パンそのものの問題なり。餓えたるものにパン屑を投与せよと云う道徳論にあらず、パンに対する権利の為めに餓ゆる事を顧みざる森厳なる権利問題なり。武士は喰はねど高揚子。全社会にしてこの貴族的権威なくして何の社会民主主義ぞ。 |
聖書をパンにせよと云う悪魔の試み
否! 権威に覚醒したる彼等が今眼前にパンを投げられて侮辱せられつつある如く、彼等の餓えたりしときには宗教家なるものは聖書を指しつけて愚弄しつつありき。『イエス聖霊に導かれ悪魔に試みられんが為めに野に往けり。四十日四十夜食う事をせず後餓えたり。試みる者、彼に来たりて言いけるは汝もし神の子ならば命じてこの石をパンとせよと。イエス答えるは、人はパンのみにて生くるものに非ず、唯神の口より出づる言に因ると録されたり』。ああキリストにも非ざる彼等は何者の導きによってか路傍に食を乞いて立てり。彼等は真に神の子なりや否やを四十日四十夜の餓の後において悪魔の前に試みられつつある者なり。飢えたる神の子が喰われざる石をパンにせよと嘲笑せられたる如く、神の子に非ざる彼等は一粒をも生ぜざる紙片の補綴を眼前に指しつけられて、汝等奇跡を行い得るならばこの聖書をパンにせよと愚弄せられつつあるものなり。悪魔は充分にその試みを尽したるべし。−−然るに何事ぞ! 経済的進化の為めにパンを得、更に神の権威を得んと努力しつつある彼等に悪魔は再び愚弄を始めたり。いわく、汝等は往年より善き生活を為すにあらずや、物質的幸福を求むるなかれと。ミミズ的宗教論は個人の権威につきて何者をも解せず。 |
資本労働の調和と公武合体論、労働の具体的表現たる資本と労働の調和と云うことは意味をなさず、農夫とその牛とがマグサを分配すと云う講壇社会主義の文法、維新革命党に米碌を多くするが故に国体論を止めよと云う社会政策
しかしてまた、この森厳なる権利問題の前に下劣なる講壇社会主義者なる者は資本労働の調和と云う。ああ資本労働の調和−−何ぞ公武合体論に似たるや! もし貴族諸侯の土地が略奪なる事を日本歴史によって知らざりしならば、しかして資本が労働の略奪なることを『資本論』によって知らざるならば、公武合体論は今日に存在すべく、資本労働の調和は地球と共に永遠の制度たるべし。今の講壇社会主義者にして穂積博士が統治権は天皇の皮膚に付着せるものなりと主張する如く、その経済学において資本家は母体より出づるときに、そのヘソの上に銀行券を貼付したりと論じつつあるならば議論は貫徹すべし。然るに噴飯のはなはだしき、講壇社会主義者は資本の発生の労働なる事を認め、その資本によって更に他の資本の生ずることを認。然らば資本はすなわち労働の具体的表現なり。言い換えれば−資本と労働との調和と云うこととなる。かかる説明は隻手に声ありやと問われたる時に答うべし。(第一編『社会主義の経済的正義』において彼等の資本と資本家とを混同しつつあるを論じたる所を見よ)。斯くの如くにして彼等は資本労働の調和なる名の下に、資本家階級の利子利潤と労働者の賃金とが生産物を分配すと論ぜり。先にも説ける如く、旧派経済学の賃金基金説の価値なき憶説なるは論なく、従ってその上に立てるラサールの『賃金の鉄則』が修正なくして唱導さるべからざるは論なし。 しかしながら農夫とその牛とがマグサを分配すと云うが如き文法が国定教科書に採用されざる間は、分配とはかかる関係を言い表す文字にあらず。命令し、しかして服従す。統治関係なり。経済的貴族国の君主等が御機嫌と利害とによって、その農奴と奴隷との上に殺活の権を振るう所の君臣関係なり。維新革命党に向かって貴族とその家老等の上級武士が米禄を多くすべきが故に、国体論を止めよと云わば笑うべきことの限りなりしなるべし、今の講壇社会主義者は経済的大名そのものの否認に決起せる労働者階級に向かって『賃金の値上げ』と云う狐狸の甘言を以て沈圧し得べしと考えつつあるなり。労働者は餓を訴えて鳴号する犬にあらず、社会民主主義は労働者階級が単に貧困より脱し得たりと云うことを以て足れりとするものにあらず。実に獣王の目醒めたる憤怒なりとす。 |
金井博士の社会党観
金井博士の『社会経済学』はいわく、 『現今ドイツに最も強大を極め他の欧州にても同情を表するもの多き社会民主党の如きは、要するに政冶上の革命思想と経済上の欠乏との間に古来しばしばありし所の連合がその形を変じて発生せるものなるに過ぎず。この党の煽動擾乱に対する最上の手段方法は社会の改良すなわちこれなり。最近経済学の研究、ドイツ帝国の一八七七年以来皇帝とビスマルクとの力によって多少実際に行へる社会政策は要するにこれに外ならず。この社会政策を行うに際し法令違反の行為または擾乱煽動等を禁制し、もしこれを犯すものあるときは之を厳罰に付すべきは最も必要なる方法なることもちろんなり。一之を換言せば一方社会党に対する法令とその執行とは之を厳にし、他方においては彼等の依て生ずる所の原因を極めて着々社会の改良を施して弊害を漸次に掃討することを必要とす』。 『従来社会民主党の政治上並に道徳上の危険に対し各国政府の執りたる手段方法の中には、正当なるものあり失策に陥れるものもあれども……顧ふにこの党の乱暴狼藉に対して強制手段と教訓勧誘等の方法によるのみにては決して禍害を全然掃討するに足らざるべし。必ずやこれと同時に細民の貧困を救い貧富懸隔の程度を緩うし之に対する悪感情たるものを排除し……』 |
田島博士の社会党観
田島博士の『最新経済論』はいわく、 『社会党はもと社会問題解釈を目的として起りたるものなれども、今や社会党それ自身が社会問題の目的物となれり。いかに社会党を処分すべきやば実に社会政策上の一難問なり』 以ていかに馬鹿大名とその家老等とが『処士横議をいかにすべき』として空虚なる頭脳を叩きつつある様を見るべし。 |
講壇社会主義は餓えて鉄鎖を脱する能わざる獅子に一塊の肉を投ずる愚なり
いわゆる社会主義者の無理想なる者よ。かく根本組織を革命せんとするものと根本組織を維持せんとするものと、いかにして調和し提携し得べきか。社会民主主義の名を汚辱するに過ぎざる盲動者の一群よ。賃金の値上げ、八時間労働、強制保険法、−かかるものが社会主義なりと云わば吾人はかかる無理想の盲動者より社会民主主義の名を剥奪して公武合体論の中に馳り込むべし。 維新革命は納税の苦痛を訴えて竹槍蓆旗を掲げたる百姓一揆と決して同一に非ざる如く、米価の高きを訴え賃金の低廉を叫びてストライキをなす如き工場一揆は断じて社会主義と同一視さるべからず。社会の進化は階級的層を追いて漸次に上層に進化し上る事に在り。故に維新革命が君主の絶対的自由にまで貴族階級の進化して各地に君主として臨みたりしものより、更に全国民が武士土百姓の階級より脱して君主にまで進化せる貴族階級に進み入って、国民全部の自由独立と個人の絶対的権威を実現して『民主』となりし如く、経済的内容において維新革命の法律上の社会民主主義を完き現実の者とせんとして努力しつつある社会民主主義は、今の小作人と賃金労働者とが今の経済的貴族もしくはそれ以上の経済的幸福と、それに伴う総ての政治的道徳的進化を得んとする全社会の貴族主義なり。故に、(繰り返して言う如く)かの『平民主義』の名の如きはその無理想なる事講壇社会主義の輩と大差なきものにして、徒らに工場一揆の頭取たるに過ぎざる者の言行なり。 社会民主主義は全社会の名において、すなわち個人の総てを挙げれる個人の権威の名において唱えらるべし。賃金の値上げ、八時間労働、強制保険法等によって貧困が除去されるならば、講壇社会主義者のいわゆる社会政策なる者は成功して、『平民主義』の理想たる下層的平等、清貧の平分が実現されるときなり。社会民主主義は『貧困』と『罪悪』とより以上に高遠なる理想として社会進化の宗教的理想界と、しかして当面の要求として個人の権威あり。もし賃金の値上げ、八時間労働、強制保険法等によって社会民主主義の理想が一分なりとも満されたりと云うならば−奇怪にあらずや、それらを得たるが為にドイツ社会民主党は更に飛揚して進み、征服の翼は垂天の雲の如く全世界をおおへり。眠れる獅子は犬よりも憐れなり、しかしながら醒めたる獅子といえども、餓えては鉄鎖を脱する能わず。愚もここに至っては歴史家の特筆を要すべし、 |
社会民主主義が先ず社会政策の実行を求むる理由、処士横議をいかにすべきやと云う講壇社会主義の難問
−講壇社会主義者なる者は醒めたる獅子の餓えたるに向かって一塊の肉を投じ再び眠らしめんと考えうるか。封建時代の百姓一揆はしばしば繰り返されて満腹となり、維新革命によって鉄鎖を脱したり。日本社会党の獅子は低廉なる賃金と、過度の長時間労働と、疾病老廃の不安とによって、その眠りより醒めたる力なき身を鉄柵内に横たえて未だ起ち上がる能わざる者なり。三百万の投票と八十二人の代議士とを以てドイツ皇帝を侮弄しつつある社会民主党よ!これ柵外の恐怖によって投げられたる一塊の肉の為めに鉄柵を噛みて吼え猛りつつある者にあらざるなきか。 もとより獅子は死にまで餓えしむる能わず。獅子は総ての者を裂きて食うべき牙を有す。しかしながら餓えては労働者といえども大胆にそのストライキを継続する能わず。労働組合の大連合を為して軍事費を備えることは、朝夕の妻子をも養う能わざる低廉なる賃金の与う所にあらず。過度の長時間労働は理性ある生物より考えうるの時を奪い、社会民主主義を受け入れる脳力を枯渇せしむ。 日本の獅子が今日なお畜主たる資本家と地主の前に柔順なるは、ただ餓の為に力なきが故にして、−ああ、ドイツ社会民主党の猛烈なる勢よ、その満腹によって獅子の権威を表し、多数党の当然に占むべき副議長の椅子をも、一匹夫ドイツ皇帝輩に敬礼せざるべからざる不面目の為に弊履の如く棄却し、一選挙毎に幾何級数の速力を以て投票と議員とを増加しつつあるに見よ。(この点において今の日本社会党の志士は肉の所在を指示せる鋭眼として『日本社会党史』の第一頁に初号活字を以て印せらるべき光栄を有す)。 日本歴史が存在せる限り略奪者たる大名貴族の残骸をも許容すべきものに非らざりしが如く、資本家略奪の歴史が明示されたる『資本論』が焼かれざる限り、いかに公武合体論を以て譲歩せんとするも、譲歩は更に次の譲歩を迫り、−否、譲歩を待たず法律戦争の剣の下に経済的貴族等が圧伏せられざる限り、決して『社会政策上の難問』は去るべきにあらず。革命の前には常に調和折衷の好名辞を以て怯懦蒙昧なる言議を見る。馬鹿大名とその家老とが処士横議をいかにすべきと空虚なる頭脳を叩きたる如く−当時の処士は元老となって禿頭を叩きつつあり−この社会党をいかにすべきやとの問題がいかに法学博士大学教授の尊厳を有する講壇社会主義者に取って難問と称せられるも、革命は斯る合体論者を蹴散らして進む。孕まれたるものは産れざるべからず。産婦の腹に膏薬を貼付して苦痛は去るものにあらず。 |
社会政策なる者を以て社会民主主義を絶たんとするは堕胎せんとして牛乳を求むるの愚なり
吾人は断言す。−社会民主主義の革命の前にいわゆる社会政策の譲歩、あるは分娩の前に栄養物を送るが如きもの、社会民主主義者は新生児の利益の為めに、また旧母体の安産の為めに強く之を要求し、譲歩なきときにおいては強力によって獲得するものなり。社会政策なる者を以て社会民主主義を刈り取らんと考えうる如きに至っては、胎児を堕胎せしめんとして盛に牛乳スープを用いよと云う藪医と彷彿たり。金井博士と田島博士とは余りに賢明にして明治人名辞書の一隅にあるも頗る疑問なりといえども、斯くの如き議論はいかに私有財産制時代の頭痛が興味ある形に組織されたるかを示す者にして、彼等の大著は後世の歴史的研究者に取って博物館の珍品なり。(否、彼等は通弁なるを以てこの光栄に与かる能わざるも知るべからず、責任者は外に在るべし)。 |
社会党に対する唯一の方法は沈圧政策の外なし
故に、吾人は階級的利益より超越して公言す、すなわち社会民主党に対する唯一の方法はビスマルクの敢行したる沈圧政策のみに在りと。ロシアが為しつつある如く腕力を以て孕まれる総ての胎児を虐殺することに在りと。ビスマルクの沈圧政策なくばドイツ皇帝はその帝座を十年以前に退けられてカイゼル万歳の忌はしき声は今日のドイツ国に聴かれざるべく、日本と殆ど同時に憲法を要求せられて今なおツァーリは圧虐の砲火を開らきて宮城を護り、専制主義の母体がほしいままなる生活を続けつつあるなり。 |
対社会党の政策として啓蒙運動を迫害しまたいわゆる社会政策を蹂躙しつつある日本政府は堂々たり
−何処においても権力者は博士輩よりは悪なりといえども大学教授を誇りとする者よりは遥かに賢なり。ロシアが革命運動を解する能わざるほどに国民を愚蒙に繋ぎたると同様に、今の政府は実に聡明にも先ず迫害の手を啓蒙運動の上に加えて言論の迫害を敢行しつつあるなり。しかして見よ、更に圧虐の足を挙げて公武合体論者のいわゆる社会政策を蹂躙しつつあるにあらずや。 −迫害もかくの如くんば堂々として丈夫の者なり。ビスマルクの社会政策は講壇社会主義者の推測し得るが如きものにあらず。歴史は吾人に断言を命ず。ビスマルクの社会政策はその強力によって圧制せしだけそれだけ成功したり、しかして社会民主党の強力によって譲歩せしめられたるだけそれだけ失敗したり。講壇社会主義者の指して以て、かの社会政策となす強制保険法等は実にかのものにもあらず、またかの本意にもあらずして社会党の強力がある程度までかの手によって凱歌を挙げたる者なり。ただ、彼はその打ち勝たれたるに係わらず、なお沈圧政策の鉄槌を振るいつつ社会民主党と戦へり。 −しかしてこもまた打ち落されたり。ルイ十六世が児女子烏合の衆によって断頭台に昇るに至れるは、その同情に厚き『小羊』なりしが為にして今のロシアを見よ、全版図に沸騰せる大革命に包囲せられて、あたかも大海の波濤中に孤島の立つが如く能く護りつつあるにあらずや。ナポレオン、ルイの王城に突貫しつつある群集を見、囁きていわく、何が故に一たび砲火を開きて追い散さざるやと。実に終局は維持すべからざることなりといえども、権力階級に取っては唯一の途は迫害より外なく、彼等の前にひざまずきて社会国家の利害を説くは、彼等の権利を侮辱する者なり。吾人は科学的研究の名において断言す、迫害は強者の利益にして権利なりと。 |
迫害の定義 |
ビスマルクの沈圧政策の効果、フランス革命を見てナポレオン沈圧政策なきを嘆ず、『略奪者』とは新らしき権利思想が旧きそれを名付けるなり
社会主義を迫害することはかえって社会主義を盛ならしむる者なりと云う社会党の声言しつつある所は偽なり、社会政策は上層の利益を中心とする者に限らずといえども階級的知識感情の為に社会全体の利否は確実ならず、階級闘争の歴史学及び倫理学、日本の国家社会党は全く階級闘争につきて無知なり、政権奉還に反せざる如く生産権が天皇に奉還される時を待つべからず、社会の進化は一に進化せる権利思想に社会が啓蒙されることなり、世に絶対の善なく絶対の悪なし、上層はその進化せる善を以て下層の進化せざる善を排撃するを得べしとの意味における今後の刑法学、将来の善を迫害しつつある現代の善として上層階級は社会党の迫害につきて自己の良心に背かず、地方的良心の衝突たる国家競争が強力に決せられし如く階級的良心の衝突たる階級闘争において迫害がかえって敵勢を盛ならしむと云うは痴呆なり すなわち、この断言は社会主義を迫害する事はかえって社会主義を盛ならしむる者なりと云う社会党の声言しつつある所の偽りなることを示すと共に、講壇社会主義者の公武合体論が為しつつある、いわゆる社会改良策が何の価値なきことを表すものなり。社会改良策とは上層階級の意志を以て全社会の利益なるべしと考えうる所を強制するものなり。 吾人は上層階級の社会政策が上層の利益のみを中心としての行動なりと云うことの悪感の為に、事実を無視するの階級的感情なることを知る。しかしながら上層階級の者は特殊に卓越せる者、例えばトルストイの如き、無政府党のクロポトキン公の如き者に非ずしては、その容貌が階級的美を表しつつある如く、知識も感情も総て階級的作成を脱する能わずして、その良心に従ってする行動といえども、必ずしも下層の利益を来すべき社会改良なるや否やは確実なりとすべからず。 故に吾人は断言す。社会民主主義を解せざる国民に上より欽定的に社会政策を降下するは価値なき事なりと。真の人格ある公民国家が大化朝廷の夢想によって産れず、全国民にまで国家の永久的存在と云う生存進化の目的が意識されるに至るまでに国家意識の発展拡張することによって、始めて維新革命となって生ぜる如く、社会民主主義は一片の勅令にて建設されるものに非ざるは論なし。否、社会民主主義は決して藩閥内閣もしくは政党内閣によって実現されるものに非ざる如く、たとえ今日の社会党の二三先覚者を以て内閣が組織されるも、今日の日本国民にては実行されるものに非ざるは論なし。もとより権力階級にして社会主義に傾くことの幾分なると、社会主義を排斥することの強烈とは実現の遅速に大なる影響あるべしといえども、歴史学上の事実としても権力階級が自ら進みてその消滅を提唱したるものなく、また良心の階級的作成の倫理学によって然るべき理由なし。各階級は各異なれる階級的利害を有し、階級的知識階級的感情を有し、階級的良心を有す。(総て先に説ける『社会主義の倫理的理想』及び『生物進化論と社会哲学』を見よ)。 −かくの如くなるを以て階級的良心と階級的良心との衝突は、あたかも宗教を異にし、道徳を異にせる時代の国家が、その地方的良心の衝突を戦争に訴えて決するより外なかりし如く、階級闘争は法律戦争による強力の決定の外に途なし。この階級闘争の歴史学と倫理学とを解せざるが為めに、維新革命を以て封建諸侯が尊王忠君の為に政権と土地とを奉還せるものとなし、それの如く今日の経済的大名階級に向かってその生産権と土地生産機関とを国家に−ある者は天皇に−奉還せしめんと論ずる講壇社会主義者を見るなり。(国家社会党の領袖山路愛山氏の如きその土人的歴史家なる点において、かかる議論の著しき代表者なり)。 幕末の志士をして徒らに道徳の講義を以て天皇を不断の幽閉と不断の脅迫譲位とを以て圧伏しつつありし貴族等に対せしとせよ、強者の権によって得たる土地と政権とを有する貴族等は『奉還』を云うものを以て自家の権利を侵害するものとなし、その沈圧政策を以て現今の世に徳川氏は厳として継続しつつあるべし。天則に無用と誤謬となし。宗教道徳を異にせる国家と国家とが戦争によってその地方的良心の衝突を決定したりし如く、維新志士の民主主義の良心は貴族階級の良心に向かって暗殺と戦争とを以て打ち勝ちたり。 経済的維新革命はただ法律戦争によって強力を決定すべきのみ。食人族に向かって仏教の原理を説きて食人族に作られたる良心を一夜に入れ替わる能わざる如く、今の経済的貴族階級に作成せられたる資本家地主の良心に向かって生産権奉還を呶々して足れりとする国家社会主義者に放任せば、社会民主主義の実現は地球が慧星と衝突せる後なり。天下の事総べて啓蒙されたる後なり。維新の民主的革命はその三百年の平和による下層階級の経済的進化と進化せる権利思想の説明を古典儒教に求め、長き啓蒙運動の後貴族階級を略奪者の名において転覆したり。彼等は中世史の始めにおいて権利たりしものが社会の進化によって略奪者となれるのみ。この社会進化は一に進化せる権利思想に社会が啓蒙されることなり。今日に至るまで個人主義の労働による権利として、個人が資本と土地とを所有する事は少しも略奪にあらず当然なる権利なり。 しかしながら『資本』が蒸気と電気との上に跨がりて、他の小資本家を併呑し、資本の高利に対抗する能わざる小有土農を併呑するに至っては、これ明らかに個人主義の理想たる今日の正義にも反するものにして、社会民主主義の啓蒙運動によって全社会が進化せる権利思想に覚醒するに至らば、ここに経済的貴族は略奪者の名を負いて転覆されざるべからず。この社会進化の理法を解せざるが故に、山路愛山氏一派の如きは維新革命のそれの如く、権力階級を奉戴し利用せよと云い、またある者の如きは日本現代の経済的進化の未だはなはだしき低級の者なるを見て、社会主義尚早論を唱えるに至るなり。天地万有ただ『力』なり。社会は強力によって動く。勝てばこれ官、負ければこれ賊。総ての善悪は階級闘争の決定なり。社会民主主義を真とに知れるものは明らかに覚悟すべし −今日の時代において社会民主主義者は罪人にして、上層階級はその階級的良心に従って処罰すべき権利と義務とを有すと云う事を! 進化論の思想は世に絶対の善と絶対の悪との二元的対立を許容せず、哲学においても絶対の無を仮定することは維持すべからざる系統となれり。善悪とは進化的善悪にして進化の程度を異にするよりのことに過ぎず。古代の善は進化して中世の悪となり、中世の善はまた更に進化して近代の悪となる。しかして社会の上層は総てにおいて下層階級の理想として到達を努力する、すなわち模倣の対象たるを以て善においても最も進化せるものなり。故に上層はこの大体の理論よりして未だ進化せざる下層の階級的善を国家の名において犯罪者として処罰するの権利と義務とを有するなり。(この意味において今後の刑法学は組織さるべし。『社会主義の倫理的理想』を見よ)。 しかしながらいかなる個人といえども、その良心の進化は程度なり。今のいわゆる社会主義者がその個人主義の独断を継承して、かえって社会の政治的組織たる国家を否定する如きを見て、直ちに社会民主主義に累を及ぼし、彼等に対するに個人の自由を尊重せざる良心を以て臨むときにはいかんともすべからず。国家主権の現代において、国家の機関がその個人的利己心の為めに国家の一部分としての自己が意識する社会的利己心と背馳するならば、その言行は明らかに法理学上の無効なりといえども、その良心の命ずる所によって行動するならば、それらより進化せる良心なりといえども進化せざる犯罪階級の良心と共に法理学上の犯罪なるは論なし。 しかしながら斯くの如きは法理学上の思弁に過ぎずして人の内心に立ち入って国家機関が良心の命令に従いしか、はた利己心の発動を抑える能わざりしかの如きを知る途なきは論なく、特に多く階級的良心によって行動するを以て、その言行は総て法理学上の効力を有するに至っては社会民主主義者なるものは誠に森厳に考えざるべからず。平静に万事を見よ、世に悪人ははなはだ少なくして、皆ことごとく自己の有するだけの良心によって行動しつつあるものなり。社会党に対して沈圧政策を執りつつある上層階級を見て、彼等の良心に背反せる彼等の悪に基くと解するが如きは吾人断じて執らず。彼等は現代の善によって行動し、社会民主主義者は将来の善によって行動するなり。ここに至っては総て強力の決定なり。強力とは社会的勢力なり(単純に中世時代の腕力が社会的勢力を集めたることを以て今日の強力を腕力と速断すべからず)。社会的勢力は社会の進化に従って新陳代謝す。 −故に迫害とは権力階級が認めて以て社会の生存進化に害ありと考えうる言行を社会的勢力たる能わざらしむる総ての手段なりと定義すべし。人は先天的に自由にも非ず。平等にもあらず。自由を承認する社会、平等を原則とする国家の内において、その良心が自由平等を尊重する所の良心として作成されるが故に自由平等なるなり。故に社会民主主義の時代といえども個人主義の仮定の如く、個人の自由は絶対的のものにあらず。裸体にて大道を行くとせよ、社会はその自由を尊重する能わず。放火を敢行すとせよ、姦通を公行すとせよ、国家の土地と生産機関とを略奪して私有財産制を復古せんことを図るとせよ、かかる自由は社会民主主義の強力を以て圧伏すべきは論なし。(ただ、道徳の本能化して個人的利己心と社会的利己心の衝突なく、従って他の個人もしくは個人の集合たる社会と自由の衝突を来すことなしと云うにあるのみ)。 総ては強力の決定なり。宗教と道徳とを異にせる国家と国家とが、その地方的良心の衝突を干戈に訴えて決定しつつありし時代において、猛烈なる攻撃はかえって敵勢を盛ならしむと伝える痴呆ありしや。今日の日本の社会党なる者が権力者の強力に恐怖して迫害はかえって社会主義の勢を盛ならしむと論じつつあるが如き、法律戦争の兵学につきてはなはだ無知なりというの外なし。総ては啓蒙運動に在り。総ては強力の決定に在り。 |
地主資本家の処分策は主義の問題にあらずして政策論なり 実に、権力階級の良心において社会民主主義が社会の生存進化の目的に背馳すと考えうるならば法理学の上より社会民主主義の迫害は権利にしてまた義務なり。 従って、この法律戦争による階級的良心の衝突と云うことを解するならば、社会民主主義の実現後、資本家地主をいかに処分すべきかと云うが如き問題の真に枝葉のものなるを知るべし。没収すべしと云うとも、公債を与えよと云うとも、その公債を無利子と云うとも年限付の有利と云うとも、吾人は決してかかることを論ぜざらんと欲す。これ主義の論にあらずして政策論なり。
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極端と云い過激と云うはその主義を持する個人もしくは社会的勢力を表すのみ、個人主義の革命とその政策、個人主義の革命後と社会主義の革命後、今のいわゆる社会主義者は政策論においても個人主義時代の継承なり、『国家の為め』と云う個人の没収と『最高の所有権』の経営、労働者と云う『生産機関』を使用し破壊しつつある社会の権利、公債の所有者は私有財産制の革命においては正当なるも共産制の革命において経済的貴族が華族として残るは人類に獣尾あるものなり 以上の説明によって知るべし、今日いかに上層階級の安ずべき無数の条件を付加し、また社会民主主義に対する一般の悪感情たる極端過激と云うが如き讒誣の中より逃れんとするも、経済的大名等が生産権奉還を申し出づるが如き勤王論は期待さるべからず。主義は主義として宣伝さるべく、理論は一分も例外を許容せず。極端と云い過激と云うが如きは、その主義を持する個人の性格もしくは社会的勢力の強弱を表すものにして、主義その事は理論として必ず推理力の及ぶ終局まで指示せざるべからず。社会民主主義の最初にして最終なる運動はただ一の啓蒙運動にして、政策論の如きはその啓蒙されたる社会的勢力の如何に伴う一時的現象なり。すなわち、資本家地主をいかに処分すべきかの如き問題は、今日の社会民主主義者にとって全く無用なりと云う事なり。 もとより政策は時代と地方とによって、それぞれ異なるものにして、かのフランス革命の時、僧侶・貴族の財産を没収したるは個人主義の時代として私有財産を失いたる彼等は直ちに社会の下層に落ちて退化せざるべからざるが故に政策として失敗なるのみならず、個人主義の理論よりして国家と云う機械的作成の者がいかにして不当なる彼等の財産を没収する正当なる権利を有するかを説明する能わず。故に、ドイツ及び日本の如く公債を以て貴族の土地に代えたるは、社会の動乱を避ける便利なる政策たりしのみならず、私有財産制の時代として理論よりしても正当なり。 しかしながら社会民主主義の革命は法理上個人に分割されて存する私有財産を(しかしながら事実は経済的貴族階級に占有せられたる社会の上層部分の私有財産を)社会全部分の共同所有に移すことにして、個人主義の革命の如く法理上上層階級に占有せられたる社会の上層部分の私有財産を、社会の全部分たる個人に分割して個人の私有財産を平等にせんと理想したることとは全く異なるなり。歴史は繰り返すものにあらず。社会民主主義の実現されて総ての個人が社会の部分として共同財産の所有者たる時代において、個人主義時代の政策を踏襲せんと考えうるは政治学の無知なり。社会民主主義が真理に欠くる所あり、もしくは時代の進化せざるが為に国民が啓蒙されること広からざるならば、強力の薄弱と云う階級闘争の理由によって政策論とは別問題に今日の略奪階級の痕跡を印すべし。主義そのものの啓蒙運動以外、未だ何の要なき今日において、個人主義時代の政策論を社会主義の上に繰り返すべきや否やを論争するが如きはただ盲動と云うの外なし。(実に今の社会主義者と称するものは徹頭徹尾フランス革命時代の個人主義なり)。 戦場に引かれる国民を見よ、『国家の為めに』と云う社会主権の発動によって生命そのものをも没収されるに非ずや。吾人はもとより個人主義時代の思想の如く、個人を終局目的と考えうるものに非ざるは社会主義者の名が示す如くなりといえども、しかも個人の生命が今日の法律においてすら何者の代替物を以ても計算されるものとされざるを知るならば、貴き個人の生命すらも国家の利益の為めに犠牲として没収せられつつある社会主権の今日において、社会の主権が社会の生存進化の利益の為に、すでにその『最高の所有権』として有する土地と資本とを経営するに何の法理学が之を妨げるものぞ。 マカルロックはその経済学以外より外解せざる唯物論を以て、労働者は長き時間と大なる辛苦とによって造られたる機械なりと云えり。その運転によって年々歳々父母妻子を養育するにおいてあるいは似たりとすべし。然らばその生命機関が最もよく運転する時代、すなわち徴兵の期間を社会の利益の為めに社会の主権によって使用し、必要の場合には戦場に送って機関そのものを破壊するの自由なる今日の社会主義の法律の下において、資本の略奪たる生命なき総ての生産機関が、国家の所有権によって国家が国家の利益の為めに使用するに何の権利か之を拒むべき。 私有財産制の今日労働に劣れる婦人もしくは全く労働する能わざる小児を残して、しかも憐れむべき生産機関は一言の賠償と云うが如き汚はしきことを口にせずして笑みて犠牲となるに非ずや。土地と資本との公有は資本家と地主にとって犠牲にあらず、彼等をしてその地位を維持してその地位にまで進化し昇れる全社会と共に公共財産の共同所有者たらしむることなり。その妻と子とを労働の途なき下層に陥れる今日の如くならずして、共に公共的経済の経営によって大に経済的進化を来せる社会財産の共同所有者たらしむることなり。ただ社会の生存進化の目的理想の下に啓蒙運動によって社会的勢力たれば足る。 |
社会の者は社会に返せ 私有財産制の今日に華族が正当なりとするも、社会共産制の実現の時においては、経済的家長君主等が公債の所有者として残るは全く別種属たる人類に獣尾あるが如きなり。昔はキリスト、カエサルの者はカエサルに返し、神の者は神に返せと云えり。社会民主主義の総ての運動はただかかるべし。−世にカエサルのものなし。神のものは神に返し社会の者は社会に返せ! 社会民主主義は維新革命以後の法律的理想として掲げつつある国民の全部が国家なりと云う国家の主権と国民の政権とを以て、国家の経済的内容を理想に到達せしむべく経済的貴族等を革命することにあり。しかして個人主義時代のフランス革命の如く、国家を否定することにあらずして、ただ真理の下に結合されたる社会的勢力を国家の機関によって国家の意志として表白すれば可なり。しかしてその階級闘争は法律戦争なり。 |
【第十六章】 |
東洋社会主義の源泉たる儒学の理想的国家論。東西古代の政治学と倫理学の合致。東洋のプラトン。孟子の社会主義の倫理的基礎。性善説と社会的本能の先天的存在。容貌の階級的定型の説明。彼の説明せる良心の社会的作成。彼の痛快なる独断的不平等論の打破。彼の説明せる下層階級の道徳的低級の理由。『性善』と『堯舜』とを掲げたる急進的革命主義。いわゆる慈善の嘲笑。いわゆる社会改良主義の排斥。彼の土地国有論は部落共有制時代の復古的夢想なり。彼の承認せる略奪階級の発生と『空想的社会主義』。彼の想望せる社会主義の理想郷。堯舜の原始的天然物の時代と社会主義の機械による物質的豊富の時代。経済的君主等の生産権を吸収して国家が経済的源泉の主体となる。孟子は社会主義の啓蒙運動を解せず。社会民主主義と日本天皇と両立するを得るや否や。吾人の如き意味においての孟子の政治学は民主主義なりといえども一般にいう民主主義にあらず。孟子は国家主権論者にして最高機関を一人の特権者にて組織すべきを云えり。今日孟子の如く天皇にのみ社会民主主義を説くべからざる理由。多数政治の意味における民主的政体と政治的テコ。『一夫紂論』と帝冠の反逆者。国家主権の国体を保つには純然たる民主政体もしくは特権者の一人と平等の多数とを以て組織する民主的政体とを要す。天皇が社会民主主義たりとも経済的貴族はその実現を妨害すべき法律的可能を有す。社会民主主義と両立せざるのは経済的貴族と帝冠の反逆者にして天皇は国家の重大なる機関なり。孟子の民主的政体の想望。彼の説明せる国家の原始時代。彼の説明せる君主の発生及び君位継承の理由の説明。君主政の萌芽。社会の機関とラマルクの用不用説。君位世襲制の正義。吾人の哲学科学よりする天則とかのいわゆる『天』。天、賢に与えたる維新革命と天、子に与えたる帝国憲法。天はロシア皇帝の愚より天下を奪いドイツ皇帝の子に天下を与えざらんとす。日本民族は原始的共和平等の時代を他の国土に漂浪せしを以て孟子の国家起原論を解する能わざりき。儒教を君主の政治道徳に対する制裁の意味に解するの外なかりし理由。『一夫紂論』の反覆と中世史の進化。維新革命の議論が要求と背馳せる理由。講壇社会主義に対する無限の軽蔑。樋口氏の社会主義実現の方法。『赤子』にあらず『父母』にあらず。蒸気と電気とは天皇の資本家に与えたるものにあらず天皇は資本家等の財産を没収する能わず。社会主義は私有財産制によって社会全分子の覚醒するを要す。『赤子』の無意識と原始的共産時代。大化の土地国有論の夢想なりし理由。吾人は国家社会党と握手せんよりも地主資本家の権利救済に努力すべし。国家社会主義なる者は経済的君主国の下に全国民が君主の経済物たる奴隷たらしめんとの革命なり。『不敬』を云う卑劣の桑田博士。文字の形態発音によってドイツ皇帝と日本天皇とを同一視すべからず。国家社会主義は『国家』を知らず。無抵抗主義の非戦論は無抵抗主義のトルストイズムとなって社会主義を否認せしむ。原子的個人を単位としての世界主義は個人主義のナポレオンを承認して侵容となる。日露戦争を否定せる万国社会党大会の決議は取るに足らず。社会主義者はマルクスよりもむしろプラトンに拠るべし。『国家の外に在るものは神か然らざれば禽獣なり』。国家競争の現実なることはなお排泄作用と交接作用との現実なるが如し。階級的作成と国家的作成。個人の世界に対する関係は階級と国家とを通しての関係なり。日露戦争が無勢力なる資本家の為めに戦われたりと解するは直訳的慷慨なり。日露戦争は尊王攘夷論を継承せる国民精神の要求なり。下層階級の排外思想は最も根本的なり。非戦論者の日露戦争論は国体論式の論理なり。尊王攘夷論と国家の覚醒せる中世的自由。国家主義なくして世界連邦なし。社会主義者がかえって個人主義的世界主義を取り資本家地主の個人主義者がかえって国家を主張する帝国主義を取る。ローマ帝国はあり得べきも世界連邦なし。スイスは理想国に非ず。国家は自由を得てより僅少なる時日なり。中世的蛮風の国家の自由と今後の非戦論。『国体論』と国家の権威 |
東洋社会主義の源泉たる儒学の理想的国家論、東西古今の政治学と倫理学の合致 上来、吾人は社会民主主義を経済学、倫理学、法理学、政治学、社会学、歴史学、生物学、哲学の上より考察し、特に日本民族においてもその歴史の進化する所として法律的理想及び道徳的信念において社会民主主義に到達したることを論じたり。しかして歴史哲学の上よりして維新革命が大化の遠き理想を法律の上において実現したるものなることを説き、土地と資本との公有はその法律の下において国家の経済的内容を法律の表白する所にまで到達せしむれば可なりと断定したり。すなわち今後における社会民主主義の革命とは新たなる社会的勢力が国家の意志となって経済的階級国家を経済的公民国家に進化せしめんとする法律戦争の経済的維新革命なりと云えり。
従って大化革命の理想たりし儒学の理想的国家論につきて一言するの要あり。これあたかも欧州においてプラトンのレパブリックが理想の国家として後世の社会主義の源泉たりしと等しく、中国及び日本において社会主義の源泉として古代に掲げられたる理想的国家論なるを以てなり。
プラトンのギリシャ古代において政治学(今日の政策学の意味にあらず広く国家学をも含む)と倫理学と分れざりし如く、中国古代の儒学においてもまた政治学と倫理学とは未だ分化せざりき。これ全く交通の隔絶せられたる古代の西洋と東洋とにおいても、その一元の人類より分れたる大国体たる点において人性の原理と社会の生存進化の原則とが同一なる天則の下に支配せられるを証するゆえんにして、後世進化の過程として偏局面に分化し為めに相背馳するに至りしが如くならざりき。政治学は社会と云う大生物の倫理学にして、倫理学は個人と云う生物の政治学なり。故に倫理学と政治学とは単に同一なる原理の上に立つべきのみならず、相待たずしては共にその要求を事実にする能わざるなり。斯くの如くにして、社会主義が人類の倫理的生物たるよりして倫理的生物の生息に適すべき政治組織を倫理的に建設せんとしつつある如く、哲学史の直観的考察時代はその倫理的政治的本能を以てあたかも蜜蜂が本能において巣を作る如く倫理的なる政治組織を有したりしなり。しかして厳密なる科学的研究の結果、倫理的活動の前に先ず経済的要求を満足せしめざるべからざるを主張しつつある如く、彼等の政治学と倫理学の根拠は人類を経済的誘惑より取り去ることにありき。『先聖後聖その揆一なり』と伝える孟子は事実なり。 |
東洋のプラトン
吾人をして欧州の社会主義がその源泉をプラトンに探ぐる如く、東洋のプラトンたる孟子の理想的国家論につきて断片的に語らしめよ。彼は東洋のソクラテスたる孔子を祖述して、あたかもプラトンが西洋の孔子たるソクラテスを亜ぎて人類古代の理想的国家論を哲学史の始めに掲げつつある如く、東洋思想史の開巻において社会主義の理想的国家が、いかに古代の遠き昔より人類の理想たりしかを示しつつある者なり。 |
孟子の社会主義の倫理的基礎
孟子が斉宣王に王道を説ける左の言は明確に科学的社会主義の倫理的基礎を言い表したるものなり。いわく、 『恒産なくして恒心あるものはただ士のみ能くすとなす。民の如きは恒産なきときは恒心無し。いやしくも恒心なきものは放僻邪移為さざるなきのみ。罪に陥るに及で然る後に従って之を刑す、之れ民を網するなり。いずくんぞ仁人位に在て民を網するをなすべき。この故に明君の民の産を制するには、必ず仰いでは以て父母に仕えるに足り、俯しては以て妻子を養うに足り、楽歳には終身飽き、凶年には死亡を免れしむ。然る後に駆って善に行かしむ、故に民の之に従うや軽し。今や民の産を制するに、仰いでは以て父母に仕えるに足らず、俯しては以て妻子を養うに足らず、楽歳には終生苦しみ凶歳には死亡を免れず。これ唯に死を救ふて足らざるを恐る、いずくんぞ礼儀を治むるに暇あらんや。王之を行わんと欲すれば何ぞその本に反へらざる』 彼は斯くの如くにしてその倫理的要求を政治的組織の上に求め、之をその本と云う土地国有論に置きたり。土地は今日の土地及び資本と並称されると異なって、当時の社会主義に取って公有にすべき一切の経済的源泉なり。(プラトンのギリシャは奴隷及び婦人が奴隷たりしを以て、すなわち人格にあらずして経済物なりしを以て土地と共に公有にすべき経済的源泉としたり)。『黎民餓えず寒えず然りしかして王たらざるもの未だ之れあらざるなり』と云い、『生を養ひ死を喪して憾みなきは王道の始めなり』と云い、一切の倫理的活動の前に経済的要求の満足されることが前提たることを示したる者なり。 |
性善説と社会的本能の先天的存在も、容貌の階級的定型の説明、彼の説明せる良心の社会的作成
かのいわゆる『性善説』なるものは直観的に社会的本能の先天的に存在することを認めたる者なり。『五穀は種の美なるものなり、いやしくも熟せざるを為さば[くさかんむり夷]稗にも如かず。夫れ仁もまた之を熱するに在るのみ』。これ社会的本能の微少にして一に四囲の社会的境遇によってあるいは残賊せられあるいは円満に開発せられるものなることを説明せる者なり。 『孟子范より斉に之き斉王の子を望み見て喟然として嘆じていわく、居は気を移し養は体を移す。大なるかな居や、夫れことごとく人の子にあらざらんや。孟子いわく、王子の宮室車馬衣服は多く人と同じ、而るに王子彼が如きものはその居之を然らしむるなり。魯君、宋に行き垤沢の門に呼ぶ、守る者いわく、これ我が君に非ざるや。何ぞその声の我が君に似たるやと。これ他なし、居相似たればなり』。これ現天皇の東洋的大皇帝の英姿の前にはいかなる大臣等も奴隷の如く匍匐するゆえんにして、吾人が容貌の階級的定型を説きたると合致す。 『孟子、戴不勝に謂つていわく、子、子の王の善を欲するか、我れ明らかに子に告げん。楚の大夫ここに在らん、その子の斉語を欲するやすなわち斉人をして之に伝たらしめんか楚人をして之に伝たらしめんか。いわく斉人をして之に伝たらしむ。一の斉人之に伝たるも衆の斉人之を[口休]くせんには日に鞭てその斉たらんことを求むるといえども得べからず。引て之を荘獄の間に置く数年ならば日に鞭てその楚たらんことを求むといえども得べからず』。これ吾人が良心の社会的作成を説きたると合致す。言語を異にする外国人が各々良心を異にするが如く便佞阿諛の宮廷内にてドイツ皇帝の中世的良心が作られ、官吏社会において驕慢と奴隷の良心が作られ、野蛮部落の如き言語を有する一般下層階級には野蛮人と同一なる残戻淫靡なる良心が作られるなり。しかして更に『矢人あにに凾人より不仁ならんや、矢人はただ人を傷けざらんことを恐れ、凾人は唯に之を傷けんことを恐る。巫匠また然り。故に術は慎まざるべからず』と云うに至っては、中世的蛮風の国家競争と経済的貴族の産業的大混戦によって全天下のことごとく道徳的低級に止まる理由の説明なり。 |
彼の痛快なる独断的不平等論の打破、彼の説明せる下層階級の道徳的低級の理由 彼は発展せる天才の全く社会的培養によることを明かに解せり。しかして講壇社会主義者の独断的平等論を一撃の下に打破し得て痛快を極む。 『富歳には子弟頼多く凶歳には子弟暴多し。天の才を降す然く異なるに非ず、その心を陥溺するゆえんの者然るなり。今それ蕎麦は種を播て之を獲す。その地も同じく之を種る時もまた同じければ勃然として生じ、日至の時に至り皆熟す。同じからざるものありといえどもすなわち地に肥痩あり、雨露の養、人事の等しからざるものあればなり。故に総て類を同ふするものは挙げて相似たるものなり。何ぞ独り人において疑わんや。聖人は吾と類を同ふするもの。故に籠子いわく足を知らずして履を作るも我れその簣とならざるを知る、履の相似たるは天下の足同じければなり。口の味における同じく嗜むあり。易牙は先ず我が口の嗜む所を得たるものなり。もし口の味における、その性の人と殊なる犬馬の我と類を同ふせざる如くならばすなわち天下何の嗜か易牙の味におけるに従わんや。味において天下易我に帰す、これ天下の口相似たればなり。唯々耳もまた然り。声においては天下帰曠に期す。これ天下の耳相似たればなり。唯々目また然り。子都に至って天下その[女交]を知らざるなし、子都の[女交]を知らざるものは目無きものなり。故にいわく、口の味における同じく嗜むことあり、耳の声における同じく聞くことあり、目の色における同じく美とすることあり、心において独り同じく然るなからんや。心の同じく然る所の者は何ぞ。謂ふ、理なり、義なり。聖人先ず我が心の同じく然る所を得たるのみ。故に理義の我が心を悦ばすは猶蒭豢の我が口を悦ばすが如し』。聖人と我とを同類のものと伝えるは実に平等論の根本主義を掲げたるものにして、全く類を異にせる犬馬の如くならば、聖人なるものの社会に解せるべきの理なきを論じたる所、堂々として誠に古賢なるかな! しかして現今の労働者階級を説明して下の言あり。『餓えたる者は食を甘じ渇する者は飲を甘んず。これ未だ飲食の正を得ざるものなり。饋渇のこれを害すればなり。あにに唯に口腹に饋渇の害のみあらんや、人の心もまた皆害あり。人より饋渇の害を以て心の害をなすことなくんばすなわち人に及ばざるを憂いとなさず』。 |
『性善』と『堯舜』とを掲げたる急進的革命の意義、いわゆる慈善の嘲笑、いわゆる社会改良主義の排斥 実に、彼は社会進化の理想と理法とを素朴なる直観的信念において把持したり。前途に理想を認め、しかしてその実現さるべき理法を発見せるものは、決して公武合体論となり資本労働の調和論となる能わざるなり。彼は最も急進的根本的なる革命主義を掲げて天下を遊説したり。『孟子性善を道ふ、言えば必ず堯舜を称す』とあるもの、いかに彼が社会主義の根本思想より一切の議論が口を衝て出で糸の如く演繹されしかを想望すべし。『性善』と『堯舜』とは今日の科学的社会主義の帰結と等しく、人性は社会的動物として社会的本能を有すと云うことと、社会的動物として堯舜の原始時代は平和平等なりしと云うこととを直覚的に解したる者なり。彼はこの人性と社会との根本思想よりして今日の社会民主主義者の意気を以て改良主義と云い調和主義と云うものを徹頭より唾棄したり。『徒善は政をなすに足らず、徒法は以て自ら行う能わず』とはこの信念より迸れる喝破にして、子産が鄭国の首相たりしときその乗輿を以て人を湊淆に渡すや、『恵にして政を知らず。歳の十一月渡江成り十二月橋梁成る、民未だ渡るを病まず。君子その政を平かせば行くには人を避けしむるも可なり。いずくんぞ人に之を渡すを得ん。故に政をなすものは人毎に之を悦ばしめんとすれば日もまた足らず』と云いしもの、その君主国時代に入って階級的臭気のいとうべきものありといえども、いわゆる『慈善制度』なるものが何の価値だもなきことを表したる者なり。しかして彼は経済的源泉の国有の為めに、誠に根本的急進的なる、あたかも宮殿を毀て我れ三日にして建てんと言いしキリストの如くなりき。常に口を衝きて出づる『夫れ道は一のみ』と伝える如き、『もし薬暝眩せずんばその疾[廖のやまいだれ]へず』と伝える如き、殆ど土地資本の公有以外いかなることをも傲然として拒絶しつつある現今の社会民主主義者をその侭に表す。戴盈之なる者が『什が一にして開市の税を去るは今ここに能わず、請ふ之を軽うして来年を待ち然る後に止めん』と云いしとき−−何ぞ講壇社会主義者に似たるや、呵々−−彼は実に社会主義の権利思想を以て経済的正義の名において断乎として退けたり。いわく、『今、人の日にその隣の鷄を盗むものあり。或人之を告げていわく、これ君子の道にあらずと。いわく之を損じて月に一鷄を攘て来年を待ち然る後に止めんと。もしその義に非ざるを知らば速に止めんのみ、何ぞ来年を待たん』 |
彼の土地国有論は部落共有制時代の復古的夢想なり、彼の承認せる略奪階級の発生と空想的社会主義、彼の想望せる社会主義の理想郷、堯舜の原始的天然物の時代と社会主義の機械による物質的豊富の時代、経済的君主等の生産権を吸収して国家が経済的源泉の主体となる しかしながら孟子の言を以て総て今日の社会民主主義と同一なりと考えるべからざるは論なし。すなわち、彼は単に東洋の思想史の上において最も明らかに理想的国家論を夢想しその実現の為めに終生を投じて努力したりと云う点において重大なりと云うことにして、その土地国有論の如き一歩を転ずれば直ちに土地君有論なり。しかしてその井田の法と云うものの単に部落共有制の原始時代への復古にして、機械農業を以てする科学的社会主義の国家経営と云うことと異なるは論なく、すなわち萌芽なり。私有財産と云い、君主の絶対専制と云い、人生の自然として社会進化の過程たる者、孟子等の如き特殊に卓越せる良心を以てすれば悪なりしといえども、上古中世を通じての社会の標準として見れば、社会の承認によって得たる権利にして苛斂誅求も不道徳のことにあらざりしは吾人断言すべし。何となれば彼等権力階級が苛斂誅求によって、しかも社会的勢力に奉戴せられたりと云うことその事が当時の道徳的水準を証明するゆえんにして、孟子の如きは一介の夢想家として取り扱われたりしは歴史的記録の示しつつある所なり。人口の稀薄にしてようやく土着せるままなる堯舜の原人時代においては、土地の自由は空気よりいささか欠乏せりと云うほどに天産物の豊富なりし楽園にして、社会の進化する所人口の増加を来して部落単位の生存競争となり、終に彼自身の言える『心を労する者は人を治さめ、力を労する者は人に治めらる。人に治められるものは人を養ひ、人を治むる者は人に養われる』と云う如き略奪階級の生じたる時代において、部落共有制を復古せんとすることの不可能事なりしは論なし。すなわち私有財産制が先ず君主国となって君主一人が財産権の主体となり、次ぎに貴族国となって少数の貴族が財産権の主体となり、更に民主国となって従来奴隷農奴として君主貴族の財産となり、後ようやく人格を承認せられて君主貴族等の所有する土地の上に小作権を有するに至れる一般階級がことごとく財産権の主体となるに至って、個人の自由個人の権威が一分子より少数分子に拡張し、更に全分子に拡張して上古中世及び近代までの社会進化の道程として、私有財産制度は『空想的社会主義』時代に考えられし如く権力者の悪に基くものに非ざるなり。しかしながらプラトンと等しく理想的国家論を哲学史の開巻に残したる彼は明らかに社会主義の理想郷を掲げたり。いわく、『その田疇を改めその税歛を薄くすれば民をして富ましむべきなり。之を食うに時を以てし、之を用いるに礼を以てすれば財挙げて数ふべからず、民水火に非らざれば生活せず。昏暮に人の門戸を叩いて水火を求むるに与えざるものなし。至って足ればなり。聖人の天下を治むる菽粟あること水火の如くならしむ。菽粟水火の如くにして民いずくんぞ不仁なるものあらんや』。 もとより彼の聖人と称する堯舜なるものは原始人の平和なるものにして、その水火の如き菽粟は天産物の豊富なるものにして決してなお古的口吻の彼の如く天下を治むることの妙を得たるが為めにあらざるは論なし。従ってかの時代においていかに田疇を改め税斂を薄くすとも菽粟の水火の如くならんことはもとより理想家の夢に過ぎざるは論なし。然るに二千年間の社会の進化は終に今日の物質文明に到達して、蒸気と電気とが人類の物質的労働に代るに至り人類は殆どことごとく精神的労働に止まるに至れり。すなわち、かの言を用いて言い表せば、心を労する者は全人類にして力を労する者は蒸気と電気となり。人を養うべきものは蒸気と電気とにして人類は総て養われるべき者なり。人に治めらるべき者は哲学者によってのみ生命を認められる蒸気と電気とにして、全人類はこの蒸気と電気とを治めて宇宙を平らかにしたる聖人として天地万有の上に君主となることなり。 |
−これ、プラトンと孟子とによって流れ始めたる社会主義の泉が、私有財産制の君主国貴族国民主国の断崖絶壁の間を通過し、物質文明の平野に流れ入ってここに始めて『慈航の湖』となれるなり。維新革命が幾多の家長君主等の所有せる統治権を国家に吸収したる如く、経済的維新革命はまた幾多の経済的家長君主等の所有せる生産権を国家に吸収し国家が総ての経済的源泉の主権体として土地及び生産機関を経営すべし。 孟子は社会主義の啓蒙運動を解せず、社会民主主義と日本天皇と両立するを得るや否や、吾人の如き意味において孟子の政治学は民主主義なりといえども一般にいう民主主義にあらず ただしかしながら、最も注意すべきことは孟子においては吾人の説きつつある『社会主義の啓蒙運動』と云うことを全く解せざりしなり。これ誠にいかに卓越せるものといえどもその古人たる点において止むを得ざることにして、階級闘争の原理が欧州においてカール・マルクスに至ってようやく発見せられたる如く(もとよりかの説明は完からざりしといえども)、二千年前の孟子としてはその実現を君主等の権力階級に説くの外なかりしなり。すなわち彼は君主の良心を社会主義に作成せんと努力したる点において啓蒙運動なりと称せられざるに非ずといえども、先に説ける如く啓蒙運動とは下層階級を対象とすべきものにして、階級闘争において強力を発現すべき前提の者なり。故に孟子の運動が君主の遊説なりしに反して、今日の社会主義は一般階級特に労働者階級の知識を開発することを以て唯一の方法となす。この点は『社会民主主義と日本天皇と両立するや否や』と云う最も恐るべしとされる問題に触れるが故に、更に孟子の国家学原理論につきて一言の説明を避ける能わず。 |
孟子は国家主権論者にして最高機関を一人の特権者にて組織すべきを云えり
一般の信ずる由々しき誤謬は孟子の政治学を以て漠然と民主主義なるかの如く考え来れることなり。もとより吾人の如き見解を以てすれば堂々たる民主主義なり。すなわち、吾人が先に説ける如く国家を進化的に分類し、人類の社会的存在なることを意識せず、単に一人もしくは少数の君主等の個人的利己心に従って行動する事より外なかりし時代を君主主権の家長国となし、終に長き進化の後において国家が生存進化の目的を有することを国家の全部分によって意識せられ、総ての部分が法理上社会的利己心を以て国家の利益を目的として行動するに至りし近代を国家主権の公民国家となし。従って君主が国家の外に在って国家を客体として取り扱う所有者たる主体なるか、はた国家の人格の下に行動する国家の一部分なるかによって、前者を君主国と云い後者を民主国と云うならば(吾人も上来この意味において民主主義の語を使用せしを以て)、孟子の政治学を民主主義と命名することは吾人のもとより主張せんと欲する所なり(『いわゆる国体論の復古的革命主義』を見よ)。しかしながら、多くの学者が今なお思想の中枢となしつつある個人主義の法理学の如く、君主主義と云うを以て近代の君主にも主権ありとし、民主主義と云うを以てまた個々たる国民が主権体なりとなし、いとしきは単に治者の数の一人なるか多数なるかによってアリストテレスの如く君主主義と云い民主主義と云うならば、孟子の政治学は一人専制の組織より外に考え及ぼせしことなきを以て、彼をこの意味において民主主義と云うは明らかに誤れり。故に
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今日孟子の如く天皇にのみ社会民主主義を説くべからざる理由 吾人は先きの法理論において説けるに当てはめて下の如く孟子を考う−−孟子は国家の倫理的目的を認め政権者の行動は国家の利益を中心とする倫理的行為たるべく、この機関たる地位を逸出するときには服従の義務なき一夫紂となると云う点において国家主権論者なり。しかして最高機関を一人の特権者にて組織しその内心の政治道徳に依頼して国家の意志たる所を表白すと云う点において、吾人が政体の三大分類として掲げたる第一の者なり。大化の理想はこれにして、維新革命より明治二十三年までは孟子の政治的理想が全部実現せられたる者なり。しかしながら明治二十三年の帝国憲法以後は、国家がその主権の発動によって最高機関の組織を変更し、天皇と帝国議会とによって組織し、以て『統治者』とは国家の特権ある一分子と他の多くの分子との意志の合致せる一団となれり。従って啓蒙運動以外は法律的実現の上においてもまた孟子の如く天皇をのみ社会民主主義者たらしめて足れりとする能わず、資本家地主等が上下の議院に拠りて天皇の社会民主主義を実現せざらしむる法理的可能を予想せざるべかず。 |
多数政治の意味における民主的政体と政位的テコ、『一夫紂論』と帝冠の反逆者 実に、孟子の国家主権論を唱えたるは政治的動物の本能よりして直観的に国家の実在と目的とを知り、それよりして演繹的に君主に対する見解が君主機関論となりたるに似たり。フランス革命前後の契約以前の個人は主権体たりしと云う意味の民主主義、もしくはギリシャ哲学者の云える多数政治の意味の民主政体は、国家の目的に適合する国家の意志を完全に表白する唯一の方法たる、『投票による多数決』の発見されざる不幸なる国民に夢想さるべきにあらず。投票による多数決と云う方法によって国家の意志を表白する手段は、人類の政治的組織において理想郷に入るべき第一歩の発明にして、あたかも物理学におけるテコの発明の如きものなり。この第一歩の差が実に東洋と西洋とをして政治的進化の上に大なる遅速を今日に生じたるゆえんなり。もとより西洋と一括すべからずしてギリシャ・ローマの共和政治の滅びて、ゲルマン蛮族がその文化を継承するまでに要したる長き間の中世史一千年は東洋と少しも異ならず、家長国の潮流をたどりてただ干戈の争奪なりき。(実に西洋を指して文明国と云うものは単にフランス革命以後の多数政治にして、それまでは日本と等しく武士土百姓の貴族国なりしなり)。国家が実在の人格として生存進化の目的理想ある生物なりと云うこと、しかしてその人格が実在なるに係わらず、法律上は奴隷のそれの如く物格として君主の所有なりしことは先に詳しく説ける所なり。孟子はかかる家長国の潮流中に立ちて『一夫紂論』を掲げて国家主権論を明らかに表白したる者なりとす。すなわち君主として服従を要求すべき権利あるはそれが国家の利益の為めに、文王武王の社会性を以て行動する所の(日本に例せば天智天皇の如き維新以後の現天皇の如き)国家機関たるが故にして、国家機関としての社会性によって行動せず、個人としての小さき利己心によって国家の利益の無視しつつある所の桀紂たるロシア皇帝あるいはドイツ皇帝の如きは、かのいえる如く法理学上一匹夫にして君にあらず。 |
国家主権の国体を保つには純然たる民主政体もしくは特権者を一人と平等の多数とを以て組織する民主的政体とを要す 従って彼は君にあらざる所の一匹夫を殺すことは国家の目的を無視する反逆に非ざることを主張せんとして、国家機関たることを表示する『君』の語を桀紂より奪えるなり。これ実に今の露国革命党がツァーリを目して皇帝となさず、一個の反逆者として殺戮の隙をうかがいつつあると合致す。日本の皇室においては上古よりの長き年代の間において、国民は決して克く忠ならざりしに係わらず、天皇等の徳を樹つることの深厚なりしは雄略・武烈の如き二三の例外と、他の強力に圧せられて徳を樹つる能わざりし時代とを外にして、疑問なき歴史上の事実なり。しかしながら世界の総ての君主は日本の皇室にあらず、プラトンの期待せる哲学者の君主は日本の皇室といえども然く続出せざりしにあらずや。ロシア皇帝の如き、ドイツ皇帝の如き、その近代に進化して国家の永久的目的の明らかに意識せられるに係わらず、なおかつ小我の満足の為めに国家機関たる君主の地位より失脚して『一匹夫』となりつつあり。 −故に国家主権の国体を保つ為めには、純然たる民主政体もしくは特権者の一人と平等の多数とを以て組織する民主的政体なくしては、単に政治道徳のものに過ぎざるなり。二十三年の帝国憲法は現天皇がこの政治道徳を更に法律的規定の上に進化せしめ、国家の利益を中心とする所の高貴なる社会性によって国家の最高意志を表白する最高機関を一人の特権者と平等の多数とによって組織することに進化せしめたるなり。もとよりドイツ皇帝の如き一匹夫ならば、かかる民主的政体あるも彼が今為しつつある如く、国家の目的を考えざる利己的行動に出づるは論なしといえども、従って国家機関たる所の君主に非ざる帝冠の反逆者として一夫紂論の爆発することはあり得べしといえども、親ら民主的革命の大首領たりし現天皇はもとより、歴史以来の事実に照らして日本今後の天皇が高貴なる愛国心を喪失すと推論するが如きは、皇室典範に規定されたる摂政を置くべき狂疾等の場合より外想像の余地なし。 |
天皇が社会民主主義たりとも経済的貴族はその実現を妨害すべき法律的可能を有す
ただ如何せん、国家の主権が天皇一人によって表白する能わざる今日においては天智天皇の再び出でて経済的源泉(当時に在っては土地、今日においては土地及び生産機関)の公有を断行せんとするも、私有財産制の確立して地主と資本家とのそれらが天皇の財産に非ざる以上は、しかしてまた彼等が上下の議会に拠りて天皇の意志を否定する自由ある以上は、孟子の如く天皇一人が社会民主主義となるの時を待つ能わず。故に経済的維新革命党は土地及び生産機関を天皇に奉還せよと云う尊王論とは全く別種の大々的啓蒙運動によって経済的貴族を国家の意志より駆逐することに在り。 |
社会民主主義と両立せざるものは経済的貴族と帝冠の反逆者にして天皇は国家の重大なる機関なり
故に社会民主主義と両立せざる者は国家の利益を略奪する所の経済的貴族と国家の目的を蹂躙する所のドイツ皇帝の如き帝冠の反逆者にして、国家はその生存進化の為めに重大なる機関を保護するに大なる特権を以てすることは主権の完全なる自由なり。 |
孟子の民主的政体の想望、彼の説明せる国家の原始時代
実に孟子の国家学は東洋のプラトンとして東洋の社会主義の源泉なり。 『左右皆賢と云うも末だ可ならず、諸大夫皆賢と云うも未だ可ならず、国人皆賢と云い然る後に之を察し賢を見て然る後に之を用いよ。左右皆不可と云うも聴くなかれ、諸大夫皆不可と云うも聴くなかれ、国人皆不可と云って然る後に之を察しその不可を見て之を去れよ。左右皆殺すべしと云うも聴くなかれ、諸大夫皆殺すべしと云うも聴くなかれ、国人皆殺すべしと云って然る後に之を察し殺すべきを見て之を殺せよ。故にいわく国人之を殺すなりと。斯くの如くにして然る後に民の父母たるべし』。これ投票の政治的テコなくして一夫紂論の裸体なる社会精神の発動を承認すると共に君主の政治道徳によって君主を社会意志の代弁者たらしめんとの民主的政体の想望なり。彼に国家の原始時代を説明したりと見られるものあり。いわく。 彼の説明せる君主の発生及び君位継承の理由の説明 『民を貴としとなし社稷之に次ぎ君を軽しとなす。この故に丘氏に得て天子となリ、天子に得て諸侯となり、諸侯に得て大夫となる。諸侯社稷を危うすればすなわち変置す。犠牲すでに成り、粢盛すでに潔く祭祀時を以てす。然りしかして早幹水溢すればすなわち社稷を変置す』。この社稷とあるはすなわち国土のことにして、遊牧よりようやく進化して農業に土着し一定の国土を領域として天神地紙を祀るも、その国土にして定着して農業を営むに適せざれば社会より軽しとなして之を顧みずして去りし事を意味す。しかして諸侯社稷を危うすれば変置すとあるは社稷たる土地を争う遊牧の途上他の遊牧民族もしくは土着当時の農業民族との衝突よりして戦闘の指揮者として君主の発生したるものなるを以て目的たる土地よりも軽しとされたるなり。すなわち、この時代は後世の私有財産制度に入り、君主が土地人民の総ての上に所有権者とならざる部落共産制の原始時代として、本能的に国家の生存が目的とせられその目的の為めに素朴なる一時的なる機関が生ずるに至りしなり。なお彼にその機関たる君主の発生及君位継承の理由を説明したりと見らるべきものありいわく。
『万章問うていわく、堯天下を以て舜に与うと、諸れありや。孟子いわく、否、天子天下を以て人に与える能わずと。然らばすなわち舜天下を有つや執れか之を与える。いわく天之を与う。天之を与うとは諄々然として之を命ずるか。いわく、否、天言わず行と事とを以て之を示すのみ。いわく行と事とを以て之を示すとは之を如何。いわく天子は能く之を天に薦むるも天をして之に天下を与えしむる能わず。諸侯はよく人を天子に薦むるも天子をして之に諸侯を与えしむること能わず。大夫はよく人を諸侯に薦むるも諸侯をして之に大夫を与えしむること能わず。昔は堯、舜を天に薦めて天之を受く、之を民に暴はして民之を受く、故に天日はず行と事とを以て之を示すのみ。いわくあえて問う、之を天に薦めて天之を受け之を民に暴はして民之を受くとは如何。いわく之をして祭を主らしめて百神之を享く之れ天之を受けるなり。之をして事を主らしめて事治まり百姓之に安ずこれ民之を受けるなり。天之を与え人之を与う。故にいわく天子は天下を以て人に与える能わずと。舜、堯に相たること二十有八戴、人の能くする所にあらず、天なり。堯崩じて三年の喪畢はり舜、堯の子に南阿に避く。天下の諸侯朝覲する者堯の子に行かずして舜に行き、訟獄する者堯の子に行かずして舜に行き、謳歌する者堯の子に謳歌せずして舜に謳歌す。故にいわく天なりと。然る後に中国に之きて天子の位を踐む。然るに堯の宮に居て堯の子に迫らばこれ簒なり、天の与える所に非ざるなり。泰誓にいわく天の視るは我が民の視るに自がひ、天の聴くは我が民の聴くに自がふと。これこの謂なり』 『万章問うていわく、人言うあり、禹に至って徳衰ふ。賢に与えずして子に与えたればなりと。諸れありやり孟子いわく。否然らず。天賢に与うればすなわち賢に与え天、子に与うればすなわち子に与う。昔は舜、禹を天に薦むる十有七年、舜崩じて三年の喪畢はり禹、舜の子を陽城に避く。天下の民之に従う事堯崩ずるの後堯の子に従はずして舜に従うが如し。禹、益を天に薦むる七年、禹崩じて三年の喪畢はり、益、禹の子に箕山の下に避く。朝覲訟獄するもの益に行かずして啓に行きていわく、吾が君の子なりと。謳歌するもの益に謳歌せずして啓に謳歌していわく、吾が君の子なりと。丹朱の不肖、舜の子もまた不肖。舜の堯に相たる、禹の舜に相たる、年を盛ること多く沢を民に施こす久し。啓賢にして能く敬で禹の道を継承す。益の禹に相たる年を盛る少く沢を民に施す未だ久しからず。舜、禹、益、相去る久遠。その子の賢不肖なる皆天なり、人の能くなす所にあらざるなり。之を為すなくして為すものとは天なり、之を致すなくして致すものは命なり。匹夫にして天下を保つものは徳必ず堯舜の如くしかして天子の之を薦むるものあり。故に仲尼は天下を保たず。世を継で天下を保ち天の廃する所は必ず桀紂の如きものなり。故に、益、伊尹、周公は天下を保たず。伊尹陽を助けて天下に王たらしむ。陽崩じて太甲未だ立たず。外丙六年仲任四年、太甲陽の典刑を転覆す。伊尹之を桐に放つ三年、太甲過を悔い自ら怨み自ら改めて桐に在て仁に処り義に還る三年、以て伊尹の己を訓うるを聴き毫に復帰す。周公の天下を保たざるは猶益の夏におけるが如く伊尹の殷におけるが如し。孔子いわく、唐虞は譲り夏后殷周は継ぐ、その義一なりと』。 |
君主制の萌芽、社会の機関とラマルクの用不用説、君位世襲制の正義、吾人の哲学科学よりする天則とかのいわゆる『天』、天、賢に与えたる維新革命と天、子に与えたる帝国憲法、天はロシア皇帝の愚より天下を奪いドイツ皇帝の子に天下を与えざらんとす 上の二章よりなお古的口吻と形式的形容詞とを取り去りて考えよ。喪に居る幾年と云い、相たる何年と云い、その子に何々の処に避くと云い、天に薦むると云い、譲ると云い、もとより孔孟時代のなお古的思想の作造にしてその使用せられたる文字も当時の文字を当時の思想において用いたるものなるを以て枝葉は棄却して可なり。彼等の仰望しつつありし堯舜の時代とは禹が洪水を治むるまで平原に下る能わずして、未だ山腹に穴居しあるいは夜間獣類の襲来を避けるが為めに樹上に寝所を営みしぼどの純然たる原始時代なりしはあえて論ずるの要なし。しかしてそれが中国においては食物の特に豊富なりしが為めに平和に平等にいささかの闘争もなく生活したるなり。然れば斯く闘争なき幸福の原始的平等の原人部落においてはその首長も後世の如く土地争奪の為めに生ぜず、堯と云い舜と云われる如く柔和なる赤子の如き人物が村老ほどの地位に立って簡単なる事故を処したりしものなり。(ゲルマン蛮族の共和平等の原始時代はその遊牧農業による土地争奪の為めに首長は最も剛健なる戦闘者が擁立せられたり)。これ、すなわち君主政治の極めて萌芽の者にして、あえて後世の作造の如く譲ると云いその子に避けると云うことなくとも、その首長たりしものの死すると共に他の優れたる者が事故の処理に当りしなり。すなわち謳歌と云い朝覲と云い訟獄と云い、もとより後世の作造にして、『堯の子に迫りて堯の宮に居らばこれ簒なり』と云う如きはなお古的思想の過失に過ぎず。然るに、禹に至って人口の増加し山腹の狭小の為めに平原に下り、洪水の防禦に全力を注ぐに至っては、確固たる政治的組織を有せざるべからざるまでに社会は進化したり。君位の継承とはかかる進化に入れるが為めに発生せる機関にして、社会と云う大生物は小個体の生物と等しくラマルクの用不用説によってその生存進化に必要なる機関を進化せしめもしくは退化せしむ。しかして本能的に無意識的に存在したるものより自覚に進化せる社会意識は、系統をたどりてその意識を漸次に拡げ行くものなるを以て(『いわゆる国体論の復古的革命主義』において系統主義を論じたる所を見よ)、系統によって親疎尊卑を画するに至り、ここに『我が君の子なり』と云う系統崇拝となって、社会単位の生存競争(『生物進化論と社会哲学』を見よ)の為めに、不断の戦争による不断の君主の必要と、君主の死去毎に君位を争奪して社会内の紛乱を来すことを避けんとする要求と合体し、ここに君位世襲の時代に進化せるなり。彼に引用せられたる孔子の言に『唐虞は譲り夏后殷周は継ぐその義一なり』とある者は、社会の進化に応じて正義の進化することを能く認識したる者なり。故に、斯く系統主義の家長国時代に入って君位の世襲せられるに至っては、これ社会の生存進化の必要に基くものにして、桀紂の如くはなはだしく社会の目的理想と背馳するものに非ざるよりは国家の人格が一夫紂論となって発動する事なきなり。『天子天下を以て人に与える能わず』とあるは、実に土地人民を君主の利益の為めに存する物格と考えうる君主主権論の思想を排し、堂々として明らかに国家主権論の思想を表白せるものなり。しかして彼は吾人が総て宇宙目的論の哲学と生物進化論の科学とによって天下のことを挙げて『天則』の致すなりと云うと等しく、『天之を与う』と云う宗教的信念に起って総てを是認したり。禹に至って徳衰ふ、賢に与えずして子に与えたればなりと伝える如き君位の継承を君主の私曲に出づるかの如く解するは独断論を事とする盲動者のことにして、彼は吾人の如く社会進化の方則を眼前に見るかの如き意気を以て断々としてかかる輩を排斥したり。『天、賢に与うればすなわち賢に与え、天、子に与うればすなわち子に与う』と。『天』は幾多貴族の手より奪いて現天皇の賢に与えたり、しかして『天』は更に帝国憲法において後世子孫たとえ現天皇の如く賢ならずとも子に与うべきことを国家の生存進化の目的の為めに命令しつつあり。『天』がロシア皇帝の愚より天下を奪い、ドイツ皇帝の子(ドイツ帝国は皇太子の時に至って純然たる共和政体たるべし)に天下を与えざらんとしつつある現状を見て、直に社会民主主義なるものが皇帝と仇敵なるかの如く考えうるは、ラマルクの用不用説が社会と云う大生物にも原則たることを解せざるが故なり。天賢に与えず天、子に与えることなくして、いかんぞ維新革命と帝国憲法とあるべき。機関の発生するは発生を要する社会の進化にしてその継続を要する進化は継続する機関を発生せしむ。日本の天皇は国家の生存進化の目的の為めに発生し継続しつつある機関なり。 |
日本民族は原始的共和平等の時代を他の国土に漂浪せしを以て孟子の国家起原論を解する能わざりき、儒教を君主の政治道徳に対する制裁の意味に解するの外なかりし理由、『一夫紂論』の反覆と中世史の進化、維新革命の議論が要求と背馳せる理由
実に、孟子の理想的国家論は斯くの如く堂々として東洋のプラトンたるに恥じざりき。然るに、日本民族においてはこの国土に移住し来れる常時すでに戦闘によって土地を略奪せし農業的民族たりしを以て、堯舜時代の原始的共和平等の時代はもとより他の国土に漂浪せる中において経過し、『天、子に与える』の時代にまで進化し来れりと想像さるべし。しかしてこの君位継承は孟子の理想せる意義のものと異なって、今日の如く国家の統治権を行使する機関たる制度に非ず、統治権を国家と云う財産に対する所有権と云う意味において相続せる家長国なりき。(孟子の説ける春秋戦国時代も家長国なりしは先に説ける如し)。故に、日本民族の歴史的記録は家長国を以て筆を起し、かのゲルマン民族がその原始的共和平等時代を他の文化の民族ローマ人によって記録されて伝われるが如くならざりしを以て後世儒教の講ぜられるに至っても、孟子の国家学原理論を解得すべき歴史なく、従って単に君主の政治道徳に背馳する場合における制裁との意義に取り扱われるの外なかりき。しかして今の天皇の祖先は長き間家長君主としての意味における天皇たりしに係わらず、二三の例外を外にしてかって孟子の政治道徳を無視するの行動に出づることなく、中世史に入って続出せし他の多くの家長君主等は、常に一夫紂論の発現によって将軍諸侯の興隆滅亡となって厳粛に制裁せられたりき。『一夫紂論』とは之を家長国時代の君主等の側より見れば、未だ法上の人格を認識されざりし奴隷の国家が、生物たる実在の目的の為めに残虐暴戻なる奴隷所有者を反撃することなり。奴隷が反乱の反覆によって漸次に法律上の人格を認識さるべく進化せる如く、国家もまた一夫紂論の反覆によって中世史の家長国時代を進化し来たり、終に国家の目的理想が国家の全分子に意識せられて愛国が道徳の目的となり、法律の上に人格者となって、総ての法律命令の源泉たるに至れるなり。ただ如何せん、日本中世史の家長国が維新革命の社会民主主義によって掃討せられるの時、古事記・日本紀の古典が家長君主国の記録を以て始まれるが為めに、儒教の理想的国家論たる国家主権論を解得し得ずして、議論の組織をたとえしばらくなりとは云え、神武時代の家長君主としての天皇に復古せんとして組み立つるに至りしなり。すなわち、貴族階級の土地人民の上に存する殺活与奪の権を否認するに天皇のそれを全国家の上に拡張するに至り、終に欧米の革命以後の法理学国家学を承けて二十三年の帝国憲法に一段落を画するまで、絶えず国家国民主義の要求と背馳する復古的革命論を余儀なくされつつありしゆえんなり。しかしてこの『国体論』に対して最も苦闘せるものは今の政党にして、彼等はその経済的独立を得たる私有財産制の基礎に立って、その民主主義の要求を血腥きフランス革命の直訳に掲げたり。社会民主主義は堕落せざる以前の彼等に感謝す! |
講壇社会主義に対する無限の軽蔑、穂口氏の社会主義実現の方法
この感謝は今の講壇社会主義者なるものに対する無限の軽蔑を表白するものなり。講壇社会主義が経済学の上においても倫理学の上においても一切の科学哲学の上においても、一の理論なく組織なく主張なく理想なきは上来の説明に至って明らかなるべし。しかして彼等はその『国家社会主義』と標榜するに係わらず、国家の本質及び法理につきてまた全く無知なるはただ以て呆れる外なし、樋口勘次郎氏の『国家社会主義新教育学』を見よ。いわく、『我が国には社会主義の行われ易き歴史上の事実あり。我が国は全国挙つて一家なり。恐れ多くも皇族は一家の主長にまします。天皇の前には四民平等にして天皇の皇民を見給ふは一視同仁なり。されば国土は日本と云う一家の所有なりとの観念は古へよりあり、今に至ってかはらず。三十七代孝徳の朝、豪族の領地を没し代ふるに俸禄を以てして入之をあやしまず。土豪の小農を併呑するを禁じ、一般人民にその好む所の職業を選ましめしは之れ社会主義的革命にして、全国一家観念の上に一視同仁の徳を以て実行せるものなり。令義解を見よ。人生れて五歳に達すれば、男に二段女にその三分の二の口分田を賜い人死すれば公に返さしむ。その後功田荘園等の発達して封建の制をなしたりといえども領土を与えるは天皇なり。維新の際全国大小名の領地の所有権を抛つや天皇に奉還すと云えり。これ外国に無き美しき観念なり。土地財産は天皇の御物なり。これを日本と云う大家の為めに家の子より没収するは家長の勝手なり。之を一家の為めに奉還するは子供の徳なり。ただ一度与えたる実物なり菓子なりを没収するに当たっては玩具か砂糖を与えるは父母の情なり。大小名に公債を賜りたるは斯くの如きのみ。我が国にては斯くの如き改革比較的に円滑容易に行わるべし。時に子供の争わあるべきも家長の一喝之を制せんこと難からじ云々』。ああ、かかる言を聴くものの背は慚汗に沾ふ! |
『赤子』にあらず『父母』にあらず、蒸気と電気とは天皇の資本家に与えたるものにあらず天皇は資本家等の財産を没収する能わず、社会主義は私有財産制によって社会全分子の覚醒するを要す、『赤子』の無意識と原始的共産時代、大化の土地国有論の夢想なりし理由、吾人は国家社会党と握手せんよりも地主資本家の権利救済に努力すべし 恥じよ! 恥じよ! 『国家社会主義』なるもの斯くの如くんば、国家主義にもあらず社会主義にもあらずして絶対無限の君主主義となる! これ『余が国家社会主義は我が歴史、我が国体、我が現状の上に立つものにして世間に流布せる直訳的社会主義にあらず』と高く持するものの面目なりとするか! 日本国民は身体の小なるを以て遺憾としつつある国民なりといえども天皇より『玩具』よ『砂糖』とを与えられて争を止める『子供』にあらず。髯ある子供、禿頭せる子供、子を孕める子供、老婆の子供、孫を持てる子供! 万世一系の後は如何なる年少者といえども天皇たるべく、しかしながら嬰児なる父母、十歳の父母は今の国家社会党諸君と一家をなせる父母として諸君を産みしものにあらずの伊藤博文氏は現天皇の高貴なる血を分けたる子供として皇太子殿下の同胞にあらず、桂太郎君は皇太子殿下を父母として皇孫殿下等と兄弟たる如き恐れ多き者にあらず。これ少しも『我が歴史』にあらず『我が国体』にあらざるなり。否! 世界何処を探険するもかかる噴飯すべき歴史かかる抱腹を極めたる国体の存せしことなし。明らかに答弁せよ、『土地財産は天皇の御物にして』『一たび与えたる果物なり菓子なり』と云わば、『我が歴史』によって蒸気と電気との総ての生産機関が第何代の天皇の第何年に今の資本家等に与えたりしかを答弁せよの『外国に無き美しき観念なり』として『この日本と云う大家の為めに家の子より没収するは家長の勝手なり』とし外国資本家の資本をほしいままに奪いて皇室費の中に加え、外国貴族の漫遊を擁しその珠玉を勝手に没収して帝冠を飾るべき権利ありとするかを答弁せよ。斯くの如きはあえて樋口氏一人に限らざるは論なく、東洋の土人部落たるが為めに今の『国家社会党』の主義綱領にして八字髯の『赤子』山路愛山氏の如きその維新革命の社会民主主義を解せざることより、放誕に生産権奉還の経済的尊王攘夷論を唱えつるあるものなり。 社会民主主義は私有財産制と個人主義の完き発展を承けて国家の理想的独立個人の絶対的自由に至るべき国家主義世界主義なり。すなわち、国家の全分子が私有財産権の主体となれる個人主義の社会進化の過程を経ずしては、全分子の自由平等の競争発展と扶助協同によって全分子の全部たる社会を進化せしめんとする国家主義世界主義は夢想に止まるを以てなり。大化の土地国有論の夢想たりしが如きはこれにして、社会全分子の覚醒せずして一分子たる天智のみの理想がいかに高遠なるも、眠れる分子の集合たる社会は依然として古代の眠に耽るより外なかりしを以てなりとす。天皇一人『父母』の如く覚め、四千五百万人の総てが『赤子』としてただ命のままに自己の意識なきとき、朕すなわち国家にして四千五百万人は国家の外なる禽獣なりと云わざる限り、無意識なる赤子の集合たる国家は依然たる無意識の国家にして、あるいは以て原始的共産の社会たり得べし。 |
国家社会主義なる者は経済的君主国の下に全国民が君主の経済物たる奴隷たらしめんとの革命なり、『不敬』を云う卑劣の桑田博士、文字の形容発音によってドイツ皇帝と日本天皇とを同一視すべからず −しかしながら原始的共産の社会より進化せる第一の過程は、実に総ての土地及び財産が酋長の所有権の下にありし君主政の萌芽なりしことを記憶せよ。総てはプラトンの期待せる哲学者の君主にあらず。孟子の社会民主主義の道徳的高調において遺憾なく理想を実現したるものは日本の皇統中といえども大化革命の英雄と維新革命のそれとに過ぎざりしにあらずや。大化革命の英雄の後に英雄の事業を解せざる凡庸の君は出でて大化の社会主義を打破し、天智の国有にしたる土地を君主の所有財産となして寵臣に与え寺僧に寄贈し国家の機関として設定し置けるものを君主の財産権の譲渡として土豪に国司に売りしに非らざりしか。社会進化の先頭に立つ所の日本天皇が社会進化と背馳して古代に退化すと考えうる余地なきは論なく、従って国家社会主義者の云為する所が単に一種の弄策−−乱臣賊子の多くはかかる策を弄して天皇を祀り込みたりき−−に過ぎざるは論なしといえども、明かに弁明を求めざるべからざるは、その土地の公有とは土地国有論か土地君有論かと云うことなり。資本家が略奪せる蒸気と電気との機械は社会の生産を壟断せるものなりしか、また天皇の労働を盗みしものなりしかと云うことなり。奴隷よ! 奴隷の集合よ! 吾人はむしろいわゆる『国家社会主義』と共に古代の奴隷制度に鼓腹せんよりも国家主権の名において資本家地主の権利救済に努力すべし。彼等は何者も解せず、一のことも解せず『国家』と云い『社会』と云うもその自ら称する赤子の知識だもなし。社会主義とは社会の全部分が財産権の主体たることなり。国家主義とは国家の全部分が利益の帰属する権利者たることなり。社会の少数部分が財産権の主体として、大部分が単に使用権より外に有せざるは現今の経済的貴族国なり−−国家社会主義者なるものは、経済的貴族国より経済的民主国に至らしめずして、経済的君主国に法律の上より逆倒せしめんとするかの国家のある少数部分が利益の帰属する主体にして、他の大部分が戦争と貧困との為めに犠牲となりつつあるは現今の経済的階級国家なり −国家社会主義なるものは経済的階級国家より経済的公民国家に至らしめずして国民の身体そのものを君主の経済物たりし絶対無限の家長権を法律の上に設定せんとするか。誠に更に答弁せよ。国家社会党の諸子は、雄略天皇の所有権の下にその妻を献ぜんとするか。武烈天皇の所有権の下にその親を献じて経済物として破壊せしむるか。−否と云うべし。然らばこれ自家の主張の利益の為めに天皇を玩ぶ唾棄すべきの卑劣にして、またいわゆる『不敬』と云うものなるは論なし。然るに彼等はかえって『不敬』なる矢を番えて社会民主主義を射ることあるに至っては、ただ以て土人と云うの外なきなり。常に『国体論』を以て社会民主主義に対抗する桑田博士の如きはこの最も露骨なる例にして(氏は山路氏等の国家社会党にすら入会を求めて拒絶されたりと伝えられるほどなるを以て)、ドイツ皇帝とドイツ社会民主党との争闘を以て日本社会党に推理し、社会民主党は国体に危険なり天皇に対する不敬漢なりと云えり。ドイツ皇帝の如く国家機関たる地位を逸して『一夫紂』となれる帝冠の反逆者ならば、社会民主党を御陪食と云う光栄に与らしめず(しかしてこれ社会民主党の羨望に堪えざる所なりと云う)、社会民主党もまたこの反逆者に対してかって最敬礼と云うものをせし事なく、不敬罪の刑法を廃すべきことを発案してしばらくの少数の為めに敗れたるなり(しかしてこれ社会民主党の落胆に堪えざる所なりと云う)。しかしながら日本天皇はドイツ皇帝輩と同一の水準に置かるべき凡物にあらず。『天』は維新革命によって現天皇の『賢』に与え更に帝国憲法によって万世一系の『子』に与えたる重大なる国家機関なり。国家機関に反するものは国家に対する反逆なり。社会民主主義は国家に対する反逆たるべからずして、国家主権の完全なる自由によって国家の生存進化に努力するのみ。『天皇』と云う文字言語の形態発音によって、その内容の地理的に時代的に異なることを忘却すべからずとは常に重要なり。(『いわゆる国体論の復古的革命主義』を見よ)。 上来の説明によっていわゆる『国家社会主義』なる者が社会主義と名づけらるべき根本思想の何者をも有せざるのみならず、特にその冠する『国家』につきていささかの解する所なきを知るべし。しかしてこの主張は今のいわゆる『社会主義』と称しつつあるものが実は純然たるユートピア的世界主義、すなわち個人主義にして、等しく『国家』を解せずして国家を否定するの盲動なることを表白せしむるに至る。 |
無抵抗主義の非戦論は無抵抗主義のトルストイズムとなり社会主義を否認せしむ、原子的個人を単位としての世界主義は個人主義のナポレオンを承認して侵容となる、日露戦争を否定せる万国社会党大会の決議は取るに足らず
実に今のいわゆる日本社会党の非戦論は、その自ら称する者のある如く無抵抗主義の宗教論なり。−−しかしながらこの宗教論の無抵抗主義はトルストイのそれの如く、下層階級が上層に対する抵抗の階級闘争をも否認して社会主義を排斥するに至らしむ。原子的個人を仮定して直ちに今日の十億万人を打て一丸たらしめんとする如き世界主義なり。−−しかしながらこの世界統一主義は個人主義のフランス革命に擁せられたるナポレオンの夢想を承認するものにして、ロシアの侵略に対して日本国の独立を放抛すると共に、中国・朝鮮に対して日本国の侵略せんとする場合にナポレオンの下に兵卒たらざるべからざるに至らしむ。ユートピア的世界主義は個人主義の仮定の上に立つ。個人主義が他の国家を無視するときにナポレオンとなり、自己の国家を忘却せるときにユダヤ民族となる。−−この故に吾人は断言す、国家を否定するものはたとえ激語においてすとも、(しかしてマルクスは激語においてしたりといえども)、社会民主主義は一の是認すべき理由をも発見せずと。この断言は更に次の断言に導く−−マルクスの共産党宣言の激語を先入思想とし日本社会党の個人主義者等の云為を材料として決議せる万国社会党大会の日露戦争の否認は断じて執るに足らずと。 |
社会主義者はマルクスよりもむしろプラトンに拠るべし、『国家の外に在るものは神か然らざれば禽獣なり』、国家競争の現実なることはなお排泄作用と交接作用との現実なるが如し、階級的作成と国家的作成、個人の世界に対する関係は階級と国家とを通じての関係なり、日露戦争が無勢力なる資本家の為めに戦われたりと解するは直訳的慷慨なり 微少なる吾人は全世界の社会党を挙げれる決議に対して一管の筆を以て抗し得べしとするものにあらず。しかしながらマルクスの偉大に心酔する事は今の全世界の社会党に取って由々しき誤謬なり。かの偉大は近世機械工業の資本につきて歴史的に説明したる経済学の方面と社会の進化が階級闘争による事を発見せる歴史学の局部とにおいてのみにして、しかもその価格論は誤まり、階級闘争説も心的考察にあらず。社会民主主義とは十九世紀の発明にあらず、人類の文明に入ってより以来哲学史の源泉よりして流れ来れる大思想なり。プラトンの『理想的国家論』これなり。社会民主主義の大思潮は古代において土地が唯一の経済的源泉たりしを以て土地国有論となり、近世に至って資本が最も多く経済的源泉たるを以て土地資本の公有を並称するに至りしのみ。社会の進化は階級競争の外に国家競争あり。プラトンは土地国有論をその否認さるべき国家の為めに唱えしか! 万国社会党員の総てよ。『国家の外に在るものは神か然らざれば禽獣なり』と伝えるプラトンの言が、総ての思想も道徳も人種民族もことごとく社会的作成なりとする今日の科学的社会主義と合致する事を否定せざるならば−−何ぞ国家を否定し国家競争を否定するや。万国社会党員はことごとく神か然らざればことごとく禽獣ならざるべからず。ユートピア的世界主義を以て原始的共和平等の世を神の郷なりとしつつあるトルストイは若年の時交接作用をなし、今日なお天下に向かって交接作用を止めよと云わざるを以て神にあらざる如く、ドイツ皇帝と等しくベーベル君は排泄作用を余儀なくせられつつあるが故に決して神にあらず。人類はこの交接作用と排泄作用と無き神に到達せんが為めに禽獣の如く個々に存在せずしてプラトンの言える国家に在るものなり。(『生物進化論と社会哲学』において人類今後の進化の理想郷を論じたるを見よ)。すでに国家に在り、国家競争なからんや。もとより国家競争の現実は速やかに脱却せざるべからず、しかしながら未だ脱却する能わざる現実たる事において排泄作用と交接作用との止むべからざると同一なり。総ては社会的作成なり。故に階級的道徳、階級的知識、階級的容貌によって今日階級闘争の行われつつある如く、階級間の隔絶よりはなはだしく同化作用に困難なる今日の国家間においては国家的道徳国家的知識国家的容貌の為めに行われる国家競争を避ける能わず。社会民主主義は階級競争と共に国家競争の絶滅すべきを理想としつつあるものなり。しかしながら現実の国家として物質的保護の平等と精神的開発の普及となきを以て、社会主義の名において階級闘争が戦われつつある如く(『社会主義の倫理的理想』及び『生物進化論と社会哲学』を見よ)、経済的境遇のはなはだしき相違と精神的生活の絶大なる変異とが世界連邦の実現と及び世界的言語(例えばエスペラントの如き)とによって掃討されざる間、社会主義の名において国家競争を無視する能わず。著しく卓越せる者に非ざるよりは階級的真善美より超越する能わざる如く、国外の人種民族に接すること少なく、また外国の言語思想を解せざる一般の国民に取っては国家的道徳知識容貌の外に出づる能わざるなり。すなわち個人の世界に対する関係は階級と国家とを通じてならざるべからず。階級闘争が階級的隔絶に依る如く、国家競争は実にこの国家的対立に原因するなり。然るにかの矯々として戦勝熱の沸騰せる中に立って非戦論を唱えたる日本社会党の志士と、及び彼等の云為を材料として日露戦争を否認せし万国社会党大会とは、実に事実を無視するのはなはだしき、日露戦争とは単に満洲・朝鮮に利害を有する資本家等のほしいままに起したるものなるかの如く解す。日本の渺たる三井・岩崎が今日かかる力ありと考えうるならば直訳的慷慨も極まる。南ア戦争が大に英国資本家の利益に動機を有し、西米戦争がまた米国のそれらの利益に動機を有したることは事実なりといえども、日本資本家の利害が日露戦争において有したる動機の如き誠に微少なり。吾人は断言す−−日露戦争の動機の多くは国家的権威の衝突にして戦争を要求したる根本思想は実に尊王攘夷論の継承にありと。 |
日露戦争は尊王攘夷論を継承せる国民精神の要求なり、下層階級の排外思想は最も根本的なり、非戦論者の日露戦争論は国体論式の論理なり
吾人は科学的研究の名が余りにはなはだしく感情と背馳することの苦痛に堪えず。実に斯くの如き断言は全日本に対抗して苦闘せる非戦論者に対して有する感嘆の情と余りにはなはだしく背馳する者なり。−−しかしながらこれすなわち社会主義の運動が根本的啓蒙ならざるべからざるを主張するゆえんにして、戦争は軍人の名誉心の為めに戦われるにあらず、資本家の利益の為めに戦われるに非ず、実に尊王攘夷論しの国民精神なり。民族心理学が二三十年にして国民の精神を一変する者なりと教えつつあるに非ざるならば、日本国民が今日尊王攘夷論を継承しつつあるは論なきことにあらずや。資本家の利害問題ならば単に満洲開放にして足れりとす。かの日比谷原頭の爆発は日露戦争の戦われたる要求を裸体に発現せるものにして、欧州のある批評家が文明の服装せる韃靼民族なりと伝える如く実に尊王攘夷論に存したるなり。屈辱の外交! この一語は資本家階級等の利害以上のものなり。いわくロシアとなお対等を持して全く屈従せしむる能わざるは外交の拙劣の為めに国家の権 威が侮辱せられたる者なりと。いわく地図面の彩色が単に樺太の半ばに過ぎざるは、往年の怨を報復するに足らずして、彼が屈従者たる事を表すゆえんに非ざるなりと。しかして下層階級は総ての知識道徳において進化の低級に在って外国の思想文字と国外の人種民族に接触すること少なきが為めに最も誠実にこの尊王攘夷論の為めに死せるものなり。日露戦争を以て未だ萌芽に過ぎざる資本家等の責任に帰するいわ
ゆる社会主義者なるものに告げん。
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−『国体論』の如く乱臣賊子とは義時と尊氏とのみにして天皇の軍を敗りたる数十万人は天皇の忠臣義士なりと云うことの笑うべきと同様に、日露戦争は三井・岩崎と乃木・東郷との為に戦われて四千五首万人は余儀なく開戦論を唱え突撃隊となり決死隊となりしと云うことは、依然たる国体論式の論理なりと。
尊王攘夷論と国家の覚醒せる中世的自由、国家主義なくして世界連邦なし 天則に不用と誤謬となし。尊王攘夷論は実に国家と云う人格がその権威を野蛮なる形において主張し始めたるものなり。個人がその権威に覚醒せるときここに戦士となって他の個人の上に自己の権威を加えんとする如く、君主等の所有権の下より脱したる国家はその実在の人格たる権威に覚醒したる結果、他の国家の権威を無視して自己のそれをその上に振るわんとす。−−帝国主義と云うものこれなり。天則に不用と誤謬となし。社会主義は国家の権威を主張すべき点において明らかに帝国主義の進化を継承す。すなわち個人の権威を主張する私有財産制の進化を承けずしては社会主義の経済的自由平等なき如く、国家の権威を主張する国家主義の進化を承けずしては万国の自由平等を基礎する世界連邦の社会主義なし。『帝国主義』の最も始めの名はナポレオンの個人主義的世界主義に対して国家の権威を主張して叫ばれたる者なり。 −社会主義者がかえって個人主義的世界主義を取り資本家地主個人主義がかえって国家を主張する帝国主義を取る、スイスは理想国に非ず 、ローマ帝国はあり得べきも世界連邦なし、国家は自由を得てより僅少なる時日なり、中世的蛮風の国家の自由と今後の非戦論
然るに何たる事ぞ、国家単位の世界主義を唱える社会民主主義者が、今日翻て国家を否定しフランス革命の個人主義に擁せられたるナポレオンの世界主義を取り、かえって個人主義を執る所の資本家地主の階級が国家の権威を主張せる所の帝国主義を掲げて立つとは! ああ思想界の大混戦の為めに敵と味方とはその旗幟を取り違えて立てつつあり。個人主義なくして全個人の権威の上に立てる社会主義なく、帝国主義なくして全国家の権威の上に築かれる世界連邦の世界主義なし。故に総ての個人が貴族君主の下に奴隷的服従を事とせし個人の権威なき『平民』に社会民主主義が夢想なる如く、強力に仕える事を事として自国の国家的権威を解せざる国家の集合にてはローマ帝国はあり得べきも世界連邦なし。この点において安部磯雄氏がその著『スイス』を指して地上の理想国となしその軍備の存するを遺憾なりとせしは論なく誤まる。かの如く他の銃槍の間に支えられる独立は理想的国家にあらず。スイスの理想的なりと云われるは、一旦の暁その微少なる軍備を以て仆れて後止むの国家的権威に在りと云わん。総ての人格が権威に覚醒して自由を主張するときに先ず他の自由を尊重せずして自己の自由の為めに他のこれを無視す。故に民主国時代の自由の如く自己の自由において他の自由を尊重する所の自由の前に、先ず貴族等の攻戦討伐となって他の自由を圧伏するの自由となる。『国家』が君主等の手より放れて自由を得て僅少なる進化の今日−−欧米にては『愛国』の呼ばれるに至って二百年に至らず。日本にてはようやく維新革命前後の五六十年に過ぎざる今日−−吾人は実に日本と名づけられたる小さき貴族がスラヴなる大貴族の圧迫を排除して自由を主張したることを万国社会党大会の決議に反して讃美す。ただしかしながら自由は自己の自由を尊重すると共に、他の自由を承認するの自由ならざるべからず。吾人は日本国の貴族的蛮風の自由が、更に進化して文明の民主的自由となって中国・朝鮮の自由を蹂躙しつつあるを断々として止めしめざるべからず。社会民主主義の非戦論は実に今後の努力に存するなり。 |
『国体論』と国家の権威
故に外国の圧迫の為に国家の自由なくしては社会主義の実現さるべからざる如く、『国体論』の脅迫の下に国家の権威なき東洋の土人部落は南洋のそれらと等しく世界連邦に加盟を要求すべき権利無しと云う。 国体論及び純正社会主義 終
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