北一輝の「国体論及び純正社会主義4―2」



 (最新見直し2011.06.24日)

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 2011.6.24日 れんだいこ拝


【第四編 いわゆる国体論復古的革命主義

【第十二章】
 政治史と倫理史の根本的説明たる歴史哲学。系統主義及び忠孝主義と総ての民族の上古及び中世史。皇室の傍より見て乱臣賊子たりしことはその対抗者より見れば忠臣義士なり。乱臣賊子が一人にて働けると思うや。民族の歴史と歴史の符合。総ての民族の忠孝主義と系統主義。原始的共和平等の時代。忠孝主義は人類原始の道徳に非ず。系統をたどりて発展する社会意識。家長制度と祖先教。忠孝一致論の本来の意義。神武天皇のいわゆる大孝。国体論者は神道の異端にして古典の反逆者なり。遠き家長の代弁者としての天皇。全国各部落の独立。歴史的生活以後の系統主義と忠孝主義。近親の家長の為に遠き本家たる皇室を打撃す。一族一家を単位とせる生存競争。系統主義と各家長の平等観。大化革命のユートピアなりし理由。藤原氏の乱臣賊子もまた家族族党の忠孝主義の故なり。中世史の系統主義の特殊の説明。道徳の本質。他律的道徳時代と自律的道徳時代。模倣的道徳時代の中世史と系統崇拝。系統崇拝と乱臣賊子の首領。乱臣賊子の首領は系統によって天皇との平等観を作り、系統的誇栄によって系統崇拝の国民に奉戴せられたり。系統主義は貴族階級をして天皇に対する平等主義とならしむ。中世史の忠孝主義の特殊の説明。道義の形態と社会の経済的境遇。政治史及び倫理史の根底として経済状態の時代的考察。忠とは経済物としての処分に服従すべき奴隷の道徳的義務なり。欧州の奴隷制度と日本のそれ。忠の極度の履行たる殉死の他律的時代。奴隷制度の継続と自律的時代の殉死。武士道は奴隷の道徳を自律的形式において行う。貴族階級の土地を占有せる階級国家時代と土百姓及び武士の経済的従属関係より生ぜる奴隷的服従。貴族階級の経済的独立による政治的独立。武士道の理論。武士道は皇室を迫害せる者なり。井上博士は土人の酋長なり。いわゆる例外の忠臣義士なる者につきて更に一段の考察。歴史の始より数えよ。新田氏と楠木氏。日本民族は各自の主君に忠なりし傍発の結果として皇室の忠臣となり乱賊となる。水戸斉昭のいわゆる『眼前の君父』。正成の殉死者と高時の殉死者。貴族階級を組織せる無数の眼前の君父とその下に衛星の如く従う乱臣賊子。皇室の忠臣義士はそれに経済的従属関係を有する公卿のみ。系統主義と忠孝主義とが皇室を打撃迫害したりとの断案
 政治史と倫理史の根本的説明たる歴史

 かくの如し。伝説に過ぎざる文字もなき一千年間と称せられる原始的生活時代を高天ヶ原と等しく政治歴史より削除するならば、日本民族は歴史的生活時代に入りしより以降一千五百年間の殆ど総ての歴史を挙げて、億兆心を一にせるかの如く連綿たる乱臣賊子として皇室を打撃迫害し来れり。

 −これいかなる思想に基くぞ。吾人は単に政治史の表皮をのみ見て古今の定論たる者を逆倒せしめんとするに非ず。政治史の記述せられたる行為を調査すると共に、思想を考察すべき倫理史によって得たる帰納として、国体論の歴史解釈が全く天動説の如く転倒したる者なることを発見したるを以てなり。しかして民族の行為には民族の思想あると共に、一元の人類より分れたる総ての氏族の歴史には人類として共通なる社会進化の道程あり。故に政治史と倫理史とはその特殊の民族が進化せる事実と理由との叙述たり説明たると共に、総ての民族に通ずる社会進化論の哲学は社会進化の跡を考究する歴史哲学として総ての民族の政治史と倫理史との基礎たるものなり。(前編の『生物進化論と社会哲学』の読了をこいねがう)。しかして総ての民族を通じて上古中世の歴史が系統主義と忠孝主義とを骨子として解釈せらるべきが如く、日本民族の上古中世においても社会進化の当然なる道程として系統主義と忠孝主義とを根本思想としてその歴史を解釈せざるべからず。
 哲学系統主義及び忠孝主義と総ての民族の上古及び中世史

 吾人が先に『系統主義の民族なりしと云う前提は総ての民族の上古及び中世を通じて真なり、しかもその故に万世一系の皇室を扶助せりと云う日本歴史の結論は全く誤謬なり。忠孝主義の民族なりしと云う前提は総ての民族の上古及び中世を通じて真なり、しかもその故に二千五百年間皇室を奉戴せりと云う日本歴史の結論は皆明かに虚偽なり』と云い、『日本民族は系統主義を以て家系を尊崇せしが故に皇室を迫害し、忠孝主義を以て忠孝を最高善とせるが故に皇室を打撃したるなり』と伝える者これなり。かかる排除的の口吻は天動説に対する地動説と伝える如く、国体論と云うローマ法王の転倒せる迷信を打破せんが為めに過ぎずといえども、国に総ての民族に通ずる系統主義と忠孝主義とは日本民族の歴史を挙げて乱臣賊子として皇室を打撃迫害したるゆえんなるなり。
 皇室の傍より見て乱臣賊子たりしことはその対抗者より見れば忠臣義士なり

 吾人はしばらく逆進的批判者に習って日本民族の総ては乱臣賊子なりと云えり。しかしながらかかる逆進的批判は道徳を進化的に批評せずして皇室の側に粘着せるよりの誣妄なり。すなわち皇室の側よりの見て乱臣賊子なりと云うことは、皇室の対抗者たる他方より見れば誠に忠臣義士なりしなり。すなわち、日本民族はその仕える所の主君たる貴族等に忠孝の道徳を履行せんが為に、その従犯となり共犯となって皇室の側より見れば乱臣賊子たりしなり。更に繰り返えしていえば、日本民族は総ての民族の如く強盛なる忠孝主義の為に、その仕える各々の家長君主等に対して強盛なる忠孝主義の履行として、その家長君主等の敵に対して身命を抛って打撃を加えることを道徳上の義務としたるが故に。その家長君主の前面に皇室が現れる時においては、日本民族はその仕える所に対する忠孝の強盛なる道徳家として皇室の上に大胆なる乱臣賊子となって圧倒したりしなり。
 乱臣賊子が一人にて働けると思うや、民族の歴史と歴史の符合

 今日の国体論者等は口を開けば義時を怒り尊氏を罵る。彼等は旅順口が乃木氏一人にて落ちず波的艦隊が東郷氏単独にて滅亡せざることを知れるに係わらず、乱臣賊子だけは一人にて働ける者なるかの如く考えうるなり。あわれむべき東洋の土人部落よ、義時が鎌倉に安然としてしかも三帝を隠岐・佐渡に追放するを得たるゆえんのものは、十九万の国民が皇軍を破り天皇を捕らえて、かの命令を遵奉して処分せるが為なることを知らざるか。尊氏が後醍醐天皇を京都より駆逐せるは七十隻の海軍と二十万の陸軍とに組織せられたる祖先が正成を湊川に屠りたるが為なる事を解せざるか。吾人は実に少しく国民の反省を要む、日露戦争は乃木氏と東郷氏とのみの愛国心により勝ち、国民は皆ロシア皇帝の忠臣義士にして売国奴露探なりしと云う者を転狂者と名づくべきが如く、乱臣賊子は義時と尊氏とのみにしてその他の日本国民は皆克く忠に万世一系の皇統を扶助せる皇室の忠臣義士なりきと云うが如き痴呆は土人部落に非ずして何ぞ。

 歴史は二三人物のほしいままなる作成に非らず。彼等は単に民族の思想を表白する符号として歴史上の上に民族の行為を代表してその所為を印するに過ぎず。故に、日本民族の歴史を義時の歴史尊氏の歴史と見ず、また今の歴史家の如く皇室一家の叙述を以て日本歴史なりと見ざるならば、民族の歴史としての日本史は実に皇室に対する乱臣賊子の物語を以て補綴せられたるものなり。記録せられたる代表者もしくは符号のみが乱臣賊子に非ず、その下に潜在する『日本民族』がすなわち皇室に対する乱臣賊子なりしなり。−しかしてこの皇室の側より見て乱臣賊子なりしゆえんの者は、総ての民族の如く系統主義と忠孝主義との上古及び中世史の当然なり。
 吾人は先ず一千年間と伝説される原始的生活時代より一言せざるべからず。これいかなる民族においても系統主義と忠孝主義とは歴史的生活以前よりして萌芽を有するものなればなり。
 総ての民族の忠孝主義と系統主義、原始的共和平等の時代、忠孝主義は人類原始の道徳に非ず

 すなわち、古代において最も早く民主政に到達せしラテン民族がギリシャ・ローマに移住せざりし以前はもとより、移住後といえども初めは絶対無限の家長権とそれに伴う忠孝主義の道徳より外無かりし如く、今日の欧州の民主国たるゲルマン民族が原始的共和平等の時代を経て中世史の長き歳月をまた等しく君主政治と家族制度とを以て経過し、従って忠孝主義が唯一の最高道徳なりしが如く、例え文字無き時代にしてその間の歳月の如きもとより取るに足らざる伝説のものなりとするも、最古の歴史的記録を全く没意義のものと見ず、少なくともその記録的歴史の書かれたる以前数百年間程の大体を推し得べきものとせば、(その歴史的記録の中において他のゲルマン民族のそれの如く原始的共和平等の時代に係わる記録が他のラテン民族の観察によって世に伝われるが如き事なきが故に、)日本民族の歴史的生活は系統主義と忠孝主義との萌芽を継承して始まれるものと想像し得べし。

 実にかの母系系統時代と称する永続的の夫婦関係なき時代、あるいはその母系すらも意識せざる一層の原始的なる社会においては、原始的生活の部落がただ本能的社会性を以て共和平等の団体として存在し、平和に、ある時は闘争して生活し、父子の意識なく、もしくははなはだ薄弱にして長ずると共に忘却するを以て孝と云う道徳の要求される理なく、また公法の淵源たるべき素朴なる信仰僅少なる慣習より外に複雑なる支配服従の関係なくして、原始的平等の共和的団体なりしが故に忠と云う階級的道徳の要求されるゆえんも非ず。
 家長制度と祖先教

 −故に吾人が先に家長制度を以て人類の原始に非ずまた終局に非ずと云いし如く、家長制度に伴う忠孝主義は決して人類原始の道徳に非ずまた人生終局の権威にても非ざるなり。すなわち忠孝主義とは民族のある程度の進化に到達して家長制度を生ずる時に発生する道徳にして、家長の下に意識的団結を為すまでの進化における一階段の道徳なり。

 すなわち第一に社会意識の覚醒すべきは乳房を含ましむる母と子との間にして、ここに母子の間にのみ覚醒せられたる社会意識を以て連絡する母系系統となり、更に父にまで拡張せられて父系系統となり、なお兄弟に及び、兄弟の妻子叔伯に及び、一家の中に三四家同居せしものの漸次に人口増加して末家支流となって分派し、その分派せる末家本家が系統の意識によって連絡し、ここに家長制度となって系統主義忠孝主義の社会進化の過程に入る。しかしてこの系統主義と忠孝主義とによって繋がれたる家長制度は、その時代の原始的宗教たる祖先教によって祖先霊魂の不死を信じて本家の家長の下に統一せられたる祭祀をなし、祭祀の長たる本家の家長が同時にその家族と末家とに対して祖先の代弁者として絶対の支配権を有し、以て政教一致の君主政となるなり。
 忠孝一致論の本来の意義

 −日本民族はその原始的共和平等の時代を恐くは他の国土において経過し、神道の下に統一せられたる政教一致の家長制度として系統主義と忠孝主義とを以てその歴史的生活時代の前編を書き始めたるものと想像する事を得べし。すなわち家長は子女の父たるを以て孝を要求し、同時に一家族の支配者なるが故に忠を要求す。忠孝とは部落対部落の生存競争において覚醒する公共道徳と共に(『生物進化論と社会哲学』において偏局的社会主義を論じたる所を見よ、)家長制度の下に発弄すべき私徳の最も原始的なるものなり。故に、かかる最も原始的なる時代においては家長がすなわち忠と孝との要求者なるが故に忠孝一致の思想は少しも捏造に非ずして、君はすなわち民の父母なりと云い民を以て君の赤子となすと云うが如き言も今日の如き無意義なる歴史的踏襲の形容詞に非ざりしなり。

 しかしながら生ける忠孝の対象は一家内のみにおいて云わるべき事にして、一家の漸次に数十の末家本家に分派するに至っては各家各々家長あって各家の家族の仰ぐべき父たると共に従うべき君たり。しかして本家末家の関係は漸次に血縁的関係の稀薄になるを以て、この間をつなぐには本家末家の総てが仰いで以て共同の父とする所の遠き祖先の霊魂に求めざるべからず。すなわち遠き祖先の霊魂を祀ると云う事は祖先に孝を致すゆえんなると共に、祖先霊魂の命令なりとする所に服従する事によって祖先の霊魂に忠なるゆえんなりとせられたり。
 神武天皇のいわゆる大孝

 かの神武天皇と謚名せられる皇室の祖先なりと伝説される者がその家族団体を率いて日本国を征服するや、『我が皇祖の霊天より降りて朕が身を光助け給へり、今諸の慮すでに平らぎ海内事無し、以て天神を郊祀して大孝を述ぶべし』とあるは、もとより後世の伝説なりとするものを集めたる日本書紀の逆進的叙述と漢文字の口吻なるを以て大に注意して受取るべきものなりといえども、天神を郊祀して大孝を述ぶべしとあるは天照大神が忠と孝との対象と云うことにして、祖先霊魂の不死を信じて家長制度の国体を為せる時においては、君臣一家と忠孝一致とは全く事実なりしなり。

 しかしながら誤解すべからず、君臣一家の事実なりしと云うことは神武一家の征服者が家長制度によって君となり臣となって天照大神の下に一家なりと云うのみにして、それに征服せられたる奴隷賤民はもとより家族と同様に家長の所有たる経済物たりしといえども家族の一員にあらず、またその前後に無数に移住し来れる他の家族団体とは本家末家の関係に非ざる事は論無し。

 しかしてその忠孝の一致と云うも神武の言の如く、天照大神そのものの命令に服従し天照大神そのものに大孝を述ぶることにおいて、すなわち末家本家の共同の祖先に対してのみ忠孝の一致すと云うことにして、共同の祖先より分れたる末家本家の間において、すなわち本家の神武を末家自身の祖先たる天照の代弁者としてに非ず、神武そのものを忠の終局目的として、神武よりも白髪なる者もあるべき末家が神武に孝を尽くして神武に忠孝が一致すと云うことには非ざるなり。

 穂積博士が今日の日本国を家長国なりと云うに個体の延長と云うが如き説明を以てせるは顕微鏡以後の科学のことにして、現今の天皇は天照の身体の延長なるが故に現在の天皇即ち天照大神の生ける者として現在の天皇その者に忠孝が一致すと曲弁するが如きは、古典の文字を無視し神道の信仰に反くのみならず、等しく天照の生命の延長たるそのいわゆる末家たる国民は平等に天照の延長たる天皇に−すなわち天照と云う個体の大きくなれる天照の各分子の間に−何の故に忠孝の関係が生ずるかを解釈する能わず。
 国体論者は神道の異端にして古典の反逆者なり

 実はいわゆる国体論者は神道より見ればはなはだしき異端にして古典の反逆者なりとすべし。兎に角、祖先教時代においては近畿地方の一強者たる皇室の祖先天照大神が現に霊魂として存在し本家の家長の口を通じて命令を下しつつありと信ぜられたるが故に天照大神に対して忠孝が一致し(また各家の家長に対しても忠孝一致せしを以て)、忠と孝とはいささかの矛盾なく行われて、各家の家長及び家長の間を繋ぐ遠き家長の霊魂は忠孝の一致する焦点として最も高き権威たりき。

 もとよりかくの如き歴史的生活以前の時代はもとより伝説に過ぎざるを以て吾人はその伝説を科学的推理の材料として用いるに過ぎずといえども、天皇(と謚名せられたるある地方の家族団体の家長)の命令は、忠孝一致の本体たる天照大神(と伝説されるそれらの各家族の遠き家長)の代弁者としてその団体員の間において疑問なく服従せられたる者なるべく、たとえ最も厳粛なる科学的態度を執りて、古事記・日本紀の伝うる文字無き時代の総ての天皇を記録的の歴史の外に置くとするも、社会進化の一過程として祖先教の原始的宗教と、系統をたどりて社会意識の覚醒し始めたる家長制度とによって、家長及び遠き家長が忠孝の本体として権力の源泉たりしことは充分に推理さるべきなり。
 遠き家長の代弁者としての天皇、全国各部落の独立

 −しかして皇室の祖先が忠孝一致の本体たる家長あるいは遠き家長の代弁者としてその地方の家族団体に臨みたりと云うことは、すなわち他の大部分の地方に散在せし大多数の家族団体が、各々忠孝一致の本体たる家長あるいは遠き家長の代弁者を有して対抗したりと云うゆえんにして、『遠荒の民今なお正朔を奉ぜず』の語ある如く一千年間と伝説される原始的生活時代の大多数の国民の祖先が国体論の外に独立せしゆえんなり。実に原始人の部落においては原始的宗教たる祖先教によって各部落各々異なる家族団体として各々異なれる家長の霊の下に統一せられ、交通の隔絶と共に家長の霊を異にすることを理由として独立に対抗したる者なり。

 兎に角、日本民族も他の総ての民族の如く系統主義と忠孝主義とを以て漸次に原始的生活時代を進化し行き、終に歴史的自覚を有し、その自覚を後代に継承せんが為めに歴史的記録を要するに至り、ここに中国文字の輸入によって歴史的生活時代に入る。
 歴史的生活以後の系統主義と忠孝主義、近親の家長のために遠き本家たる皇室を打撃す

 歴史的生活時代はすなわち諸大族の膨脹発達してかわるがわる乱臣賊子を働ける時代にして、先に伝える蘇我氏の如きその著しく強大なりしを以て最も注意を引く所の者なり。

 −しかしてこれまた同様に系統主義と忠孝主義との故なり。もとより儒教・仏教以後の系統主義と忠孝主義とは祖先教の家長の霊を不死として信仰するが如き者とは大に趣を異にし、本家末家の共同祖先に対する大孝と云う意義の忠に非ずして、系統をたどりて一家あるいはその一族に覚醒せられたる社会意識がその一族一家を社会団体として家長の下に統一せられ、家長の目的と利益との為に努力する事を以て忠とし孝としたるなり。

 しかして社会意識は近親の者には最も強盛にして疎遠なるに従って漸次に稀薄となる。故にかの臣連と云うが如き権力階級は皇族と元と共同祖先の系統より相分れたる同じき枝なりといえども、遠き本家たる皇室に対する稀薄なる社会意識よりも、各自家の家長もしくは近親の本家に対する忠が遥かに強盛なる社会意識によって道徳の第一位に置かれ、終に本家たる皇室とその末家たりし各家の家長と−同一系統の同一なる枝なりと云う平等観によって−相対抗する場合においては、近親の社会意識によってその家族及び末家等は各自の家長あるいは近親の本家のために忠孝を尽くし以て皇室を打撃すべき道徳的義務の履行に服したるゆえんなり。(吾人が先に忠孝一致論の困難を教育勅語の訓うる愛の厚薄による道徳履行の順序によって指示したる事の決して理由なきに非ざりしを知るべし)。
 一族一家を単位とせる生存競争、系統主義と各族長の平等観

 すなわち、かかる時代においては社会意識がはなはだ狭少なる範囲に限られて覚醒せるを以て一族一家を生存競争の単位とし、かの蘇我氏がこの単位の競争において古来の大族たる物部・中臣の諸氏に打ち勝ち、更に他の大族たる皇族と競争を開始したる如きこれにして、社会意識は一時に拡張するものにあらず、歴史の進化に従って系統をたどりて漸次的に覚醒し、従って他の系統の者を排斥するに至るを以てなり(『生物進化論と社会哲学』において生存競争の単位が狭少なる者より漸次に拡大し行くを説けるを見よ)。故に天皇族の近親の一家一族のみ、その家長たり族長たる天皇に忠なりしといえども、他の競争の単位たりし臣連等の一家一族はただその各自の家長族長の下に忠孝主義を奉ずるのみ。しかしてその家長族長は天皇と同一系統なりと云う平等観と稀薄になれる社会意識とを以て天皇と利害相異なるときはその下に疎遠なる末家として行動し、その相関せざるときは無関係の傍観者となり、しかしてその相反するときは各自の一家一族を率いて乱臣賊子となりきの一人のみが乱臣賊子にても非ずまた忠臣義士にても非ず、諸大族のかわるがわるなる乱臣賊子と云うは単にその家長族長に非ずして最も親近の系統において団結する一家族団体が忠孝主義を以てその家長族長を奉戴せしが為めにして、かの皇族自ら刃を振て起たざるまでは長き間蘇我氏に圧伏されし如き、多くの家長族長がその忠孝主義の家族団体を率いて傍観せしが故なり。
 大化革命のユートピアなりし理由、藤原氏の乱臣賊子もまた家族族党の忠孝主義の故なり

 これを以ての故に、かの英雄的模型の天智天皇は家長制度を超越して天皇一人を最高機関とせる国家主権の理想国を建設せんとしたるゆえんなり。しかしながらかかる理想国は遥かに後代において実現さるべき者にして、社会の未だ進化せず社会意識の系統をたどりて僅かに覚醒しつつありし如き古代の社会において夢みらるべきに非ず。あたかも社会主義が資本家制度の充分なる発展を承けて始めて実現さるべきにも係わらず、幾多の理想家がその理想国を新開国において建設せんと夢想したりしごとく、天智の理想せるがごとき公民国家は家長国の歴史的進行を中途に遮断して実現し得べきものに非ずして、実に家長国の長き進化を継承したる後において国家の総ての分子に社会意識の普く覚醒すべきことを要するなり。−果して然らば、かかる企図の単に天智のユートピアにしてその死と共に消滅し、家長国の潮流に従って皇室自身が家長として存し、従って藤原氏の専制時代を生じたることは明瞭に解せらるべし。実に藤原氏の専制時代とはその近親の系統なる一家一族を競争の単位として、家長族長の下にその家族族党が忠孝主義によって団結し数百年の長き間天皇族の上にその族長をして乱臣賊子を働かしめたる者なり。
 中世史の系統主義の特殊の説明

 実にいわゆる国体論者の主張する系統主義と忠孝主義とは、皇室の祖先が家長として存在したりし日本史の第一頁よりして皇室を打撃迫害して乱臣賊子となれるなり。以降。平氏、源氏、北条氏、足利氏、徳川氏に至る中世史。−この連綿たる乱臣賊子は実に系統主義と忠臣主義の家長国の当然としてそれら家長君主の下に在る臣属の忠によって皇室を打撃迫害し来れり。しかしながら等しく家長国の潮流なりと云うも、系統の一事のみによって社会の組織されたる古代とは中世史の大に異なるは論なく、従って源氏と云う系統の一家のみ、平家と云う系統の一族のみは、家長制度と忠孝主義とを以て乱臣賊子を働きたるべきは上述の説明によって解せらるべしといえども、それらの系統以外の多くの祖先等がまた等しく乱臣賊子に加担せることは社会の進化に応ずる特殊の理由に求めざるべからず。先ず系統主義より説く。
 道徳の本質

 他律的道徳時代と自律的道徳時代

 この説明はいささか精細に道徳の起原、良心の形成と云うが如き科学的倫理学につきて考察せる者に取っては容易に解せらるべきなり。言うまでも無く、道徳の本質は本能として存する社会性に在り。しかしながら道徳の形を取って行為となるには先ず最初に外部的強迫力を以て、その時代及びその地方に適応する形に社会性が作られる事を要す。道徳とはこの形成せられたる社会性のことにして、単に道徳とのみ云ってはあたかも物理学上の原子と云うが如く思考上のものに過ぎず、地方的道徳時代的道徳として地方を異にし時代を異にする社会によって形成せられたるものとして始めて行為に現る。

 今日の野蛮部落における慣習の些少なるものといえども厳格を極めたる刑罰を以て強制するは実に社会性を外部的強迫力によって形成しつつあるものにして、しかしてその外部的強迫力としては祖先教多神教の日月星辰より犬馬木石に至るまで、神とせられたるを以て到るところ無数の神が外部よりの監視者として道徳を強迫したりき。然るに社会の進化するに従ってこの外部的強迫力を漸次に内部に移して良心の強迫力となし、惨酷なる刑罰によって臨まれずともまた無数の神によって監視されずとも、良心それ自体の強迫力を無上命令としてここに自律的道徳時代に入る。他律的道徳と自律的道徳とは人の一生において小児より大人に至る間に進化する過程なる如く、社会の大なる生涯においてもその社会の生長発達に従って他律的道徳の時代より自律的道徳の時代に進化するものなり。
 模倣的道徳時代の中世史と系統崇拝

 日本民族の道徳発達の順序といえども、またこの理に洩るべからず。外国文明輸入までの応神・仁徳に至る一千年間と伝説される間は、先に言える如くその年数を伝説のままに受取るとするも、あたかも今日幾万年の歴史を有する南洋の土人が依然として野蛮を繰り返しつつある如く、原始的生活時代の当然として祖先の無数の霊魂はもとより、日月風雷より蛇鳥魚石の神に至るまで無数の外部的強迫力によって社会の維持せられたる他律的道徳の時代なりき。

 然るに遥かに進歩せる社会の儒教・仏教等の自律的道徳の入るに及びて、従来他律的に系統主義を以て家長の下に団結したりしもの、明確に自律的意識として訓戒せられ、国民は系統的団結を道徳の最高善となし、外部的強迫力たる祖先の霊魂あるいは刑罰等を待たず、自ら良心の無上命令として進で系統主義の下に一切行為を為すに至れるなり。しかして良心とは単に道徳的判断の本体と云う意味にして、いかに道徳的行為を判断すべきやとの内容は全く出生後の社会的境遇によって作成せられるものなり。(『社会主義の倫理的理想』において良心形成の理由を説ける所を見よ。)

 しかしてまた道徳とは社会を進化せしむるより先に、現存の社会によって作り始められるが故に、先ず社会を現存のままに維持することより外なく、しかしてその事を以て最初の任務となす。故に等しく良心による自律的道徳と云うも、今日に比してはもとより社会の進化せざりし時代なりしを以て、現存の道徳の上に超越して現存の道徳を疑いて更に進化せる道徳の理想を掲げる事なく、−しかして特に海洋に封鎖せられたる日本民族の中世史においては、今日の如く他の社会の進化の程度あるいは方向を異にせる道徳とを比較対照して、さらに進化せる道徳の理想を得て、現存の道徳を批判するの機会なかりしを以て、良心の形成においては全く投射的模倣的にしてすでに社会に存在する道徳的慣習倫理的訓戒を受け入れるに止まりたりしなり。

 かくの如き疑問なき模倣的道徳時代の中世史において、いかなる民族にもかって一たび崇拝せられたる系統の価値が強烈なる渇仰を以て迎えられたることは当然にして。人口の増加による同一系統の繁殖と社会の衝突動乱による社会意識の発展とたよって−すなわち系統をたどりて、あるいは系統を越えて−人類の平等観が漸次に拡張せられるに係わらず、何々の未、何々の後と云う事は誠に尊貴なるものとして絶対に服従すべき者なりとして受動的に道徳的判断の内容が作られたるなりき。この系統崇拝はあえて日本民族のみに限らず、社会意識が系統をたどりて発展しつつありし上古及び中世においては、今の欧州民族といえども実に長く社会の良心を支配せしものにして、今日なお取るにも足らぬホーエンツォレルン家を鼻に脱糞する神聖のドイツ皇帝が社会民主主義の前に抵抗を試みつつある如きこれなり。
 系統崇拝と乱臣賊子の首領、乱臣賊子の首領は系統によって天皇との平等観を作り系統的誇栄によって系統崇拝の国民に奉戴せられたり

 しかして、この系統崇拝は海洋の封鎖によって進化の急速なる能わざりし日本の中世史においては特にはなはだしく、いかなる乱臣賊子も自家の系統の尊貴なる事によって国民の崇拝を集め以て乱臣賊子を働くを得たりしなり。かのアメノコヤネノミコトの後裔なりと云う藤原氏が系統的誇栄を負いて他の階級を排斥すると共に、人民の崇拝を集中して大化革命の理想を朝廷の上より打破し、崇神天皇の頃よりして代々地方におもむきたりと伝説される無数の皇子等の子孫は天皇と同一の枝なりと云う系統的誇栄を負いて地方に土着し、他日の群雄諸侯となって興廃すべき貴族国の萌芽となり、常に誇る所の桓武天皇の末なりと云う平氏、等しく栄とする所の清和天皇の後なりと云う源氏の如き、実に系統を無上に高貴なるものなりとせる祖先の良心に奉戴せられて存分なる乱臣賊子を働くことを得たるなり。歴史の上に記録せられたる事実は明かに之を証明す。

 かの最も初めに政権に覚醒して起てる土豪の−すなわち後の貴族国の萌芽たる平将門の如きは実に簒奪の権利を『我は桓武の孫なり』と云う系統的誇栄に求めて系統崇拝の良心を支配せんとしたり。同じき系統の清盛が後年かかる信念によってかの放誕なる行動をあえてせしや否やは記録の拠るべきもの無しといえども、源氏の略奪が『清和天皇の末なる八幡太郎義家公の裔』と云う系統的誇栄の一語に系統崇拝の良心を集中して為されたることは何人も知れる所の如し。実に系統崇拝のはなはだしきしばしば勅令によって天下の武士の源平二氏に属するを禁じたるにても知らるべく、単に一夜の宿泊によってその通過せし地方の土豪国司等は源氏の家臣となり平氏の忠僕となれり。かの源平の戦と称せられるものによって一時天下の両分せられたるはもとより、不羈独立の幸福に置かれて自家の自由に従って去就せしそれらの多かりしは言うまでも無しといえども、いささかの系統的連絡なく単に為朝のしばらく九州に在りしが為めにその尊き系統に従いしとか、平氏の来たり投ぜるを以て家門の光栄なりとしてその貴き系統に属せしとか云う如き、実に些少なる事実によってその臣僕となり以て、その忠なるの励しきだけ源氏あるいは平氏の前に皇室が敵として現れる時においては大胆不敵なる乱臣賊子となりしなり。

 かの北条氏が系統においてはなはだ劣れるが為めにその弱点の補いを善政に求め、常に謙譲の従五位下を余儀なくせられたるに拘らず、簾を掲げて声涙共に下れる尼将軍の一言は涙を垂れて十万の将士に死を誓わしめ、尊族自ら甘んじて北条氏の号令の下に統一せられ、終にかの三帝を追放せる如き乱臣賊子を働きたるに非ずや。しかしてかの足利尊氏の容易に北条高時を破りしは系統的誇栄において遥かに勝れたる源氏の後裔なるが故にして、尊氏の翻て後醍醐と対抗するに至るや国民はまた尊き源家の後裔に従って忠を尽くし、尊氏を奉戴する熱情の余り『八幡太郎義家の子孫は必ず天下を取らんと』の流言が行われたるほどに非ずや。

 しかしてかの義満が太政大臣を望みて得ざるや、『よし々々、義満国王となって斯波、細川、畠山、六角、山名を五摂家とし、土岐、赤松、仁木、京極、山内、一色、武田を七摂家とし、その外の諸大名をその他の姓に任じ、菅家江家の式とし、橘、清原の性を以てその家を立て、諸侯の陪臣の名高きを武家とし、鎌倉の管領氏満を将軍として武道を糺して文事を起さば以て聖帝と云うべし』となし、百官公卿の所領を没収して簒奪に着手したるや、実にその権利を『我れ清和の末なれば非理の道に非ず』と云う系統的誇栄に求めたりしに非ずや。

 −実に吾人が、日本民族は系統主義を以て家系を尊崇せしが故に皇室を迫害せりと云い、系統主義の氏族なりしと云う前提は総ての民族の上古及び中世を通じて真なり、しかもその故に万世一系の皇室を扶助せりと云う日本歴史の結論は皆明かに誤謬なりと伝える者ここに存す。
 系統主義は貴族階級をして天皇に対する平等主義とならしむ

 しかして系統主義は一面下層階級に対して系統崇拝たると共に、崇拝さるべき系統の貴族階級に取っては、天皇と自家とが同一の天皇より分れたる同一系統の同一なる枝なりと云う理由によって平等主義の殺伐なる実行において説明なりき。平氏の将門が『我は桓武の末なり』として自立せんとしたる如き、源氏の足利義満が『我れ清和の末なれば非理の道に非ず』して簒奪せんとしたる如き実に系統をたどりて平等観の漸次に発展したる者に外ならざるなり。(吾人が先に君臣一致論のかえって大胆なる平等主義となって自殺論法に終るを指示せるは徒らに歴史を無視せる推理に非ざるを見るべし)。
 中世史の忠孝主義の特殊の説明、道徳の形態と社会の経済的境遇

 次ぎに説くべきは忠孝主義なり。忠と云う道徳も古代の家長及び家長の間を繋ぐ遠き家長の霊に対する孝と云うことと同意義なりし者とは異なって、忠それ自身が充分に自律的道徳として発達し、しかして国民は忠と云う道徳的義務の履行として乱臣賊子の下に皇室を打撃迫害したりき。

 総ての道徳は社会の生存進化の為なり、道徳的判断は社会の生存進化の目的に応じて作らる。しかして社会の形態は経済関係のそれぞれ異なるに従って組織を異にす。故にまた道徳の内容も社会組織の異なれるに従って異なる。これ今日においては何人も知れる所の者にして、経済的要求を充たす能わざる境遇の野蛮人が人肉を喰うことを悪事に非ずとし、幼児を殺しあるいは遺棄することを不道徳に非ずとするはその経済状態を異にするによって異なる道徳にして、移住の際にブラジル土人が頭大の棒を振るって老人を撲殺するを道徳上の権利と考え、飢餓の時にエスキモー人は老人自ら発議して部落の会議にて自殺を決することを道徳上の義務と思うは、また経済的欠乏の社会組織に伴う異なれる道徳なるなり。然るに経済的要求の充分に満足される中国の如きは全く道徳を異にして古代より老人を敬養することを最高善となし、今日の文明国においては殺児の如きは戦慄すべき犯罪とせられつつあるに非ずや。
 政治史及び倫理史の根底として経済状態の時代的考察

 かくの如きはもとより極端に相異せし事例を挙げしに過ぎずといえども、社会生存の維持たる道徳がその社会の置かれたる経済的境遇によってそれぞれ異なるの斯くまでにはなはだしきは以て推理さるべし。この社会の組織道徳の形式が経済状態によって各異なると云うことを皮想的に土地あるいは黄金とのみ見ず、生命維持の物質的資料と解するならば、社会と云う大なる個体の生物がその生命を維持せんが為に経済状態の異なるに従ってその組織と、及び組織をつなぐ道徳とをその目的に従ってそれぞれ変化せしむるは当然のことなり。実に社会とは一個の生物にして生物は生存進化の目的の為にその境遇に適応する形式を取る者なればなり(『生物進化論と社会哲学を』見よ)。故に道徳の進化と云うことは社会の進化と云うことにして、社会の進化と云うことは経済状態の進化と云うことなり。これを以て道徳の進化を見る倫理史と社会の変遷を察する政治史とは総て経済状態の時代的考察によって解せらる。
 忠とは経済物としての処分に服従すべき奴隷の道徳的義務なり

 すなわち、人類が他の人類の所有権の下に経済物たりし奴隷制度においては経済物としての処分に服従すべき道徳あり。すなわち自己の身体が自己の所有に非ずして自己を所有する他の人類の之を贈与し売買し殺傷すべき権利を承認する所の道徳なり。これ忠と云う奴隷的道徳の最も原始的なるものにして、家長の所有権の下にある家族及び征服せられたる奴隷の子孫は、先に説ける道徳の社会的作成の理由によって先ず外部的強迫力を以て経済物としての処分に服従すべき事を要求せられるなり。

 然るにこの外部的強迫の他律的道徳時代より内部的強迫の自律的道徳時代に進化するや、自ら良心の無上命令としで主君が自己の身体を経済物として処分することの、すなわち自己の道徳的義務として主君の利益の為に自己の生命を滅ぼす事のいわゆる忠と称せられる道徳を生ずるなり。
 欧州の奴隷制度と日本のそれ

 すなわち、人類が他の人類の所有権の下に経済物たりし奴隷制度においては経済物としての処分に服従すべき道徳あり。すなわち自己の身体が自己の所有に非ずして自己を所有する他の人類の之を贈与し売買し殺傷すべき権利を承認する所の道徳なり。これ忠と云う奴隷的道徳の最も原始的なるものにして、家長の所有権の下にある家族及び征服せられたる奴隷の子孫は、先に説ける道徳の社会的作成の理由によって先ず外部的強迫力を以て経済物としての処分に服従すべき事を要求せられるなり。

 然るにこの外部的強迫の他律的道徳時代より内部的強迫の自律的道徳時代に進化するや、自ら良心の無上命令としで主君が自己の身体を経済物として処分することの、すなわち自己の道徳的義務として主君の利益の為に自己の生命を滅ぼす事のいわゆる忠と称せられる道徳を生ずるなり。

 忠の最も原始的なる奴隷制度の他律的道徳時代においては欧州においては鎖と鞭とを以て、日本においても恐くは厳酷を極めたる刑罰の外部的強迫力を以て、その道徳の履行を要求せざるべからざりき。ただ、日本においては欧州諸国の近き以前まで鎖と鞭とを以て奴隷制度を維持せし者の如くならざりしは、彼においては常に外国との攻戦によって、もしくは黒奴の捕獲によって対等独立の外国人を新たに奴隷としその独立心の発動を圧伏せしが為めに鎖と鞭とを要したる者にして、神武移住時代における奴隷、その後の三韓・蝦夷の奴隷は、征服せられたるもしくは捕虜とせられたる初めの一二代の奴隷においては独立心による反抗の有りしことは記録の上に見られる如くなりといえども、その子孫たる奴隷に至っては良心の社会的作成の理由によって経済物としての処分に対する絶対的服従を他律的に(あるいは進みて自律的に)承認するに至りしなり。(しかしていかに良心の作成が社会的境遇によって自由に敏速に形づくられるかは『社会主義の倫理的理想』を見よ)。
 忠の極度の履行たる殉死の他律的時代

 この経済物としての処分に服従する奴隷的道徳の極度はすなわち殉死なり。プラトンがその社会主義の財産公有の中に人類たる奴隷及び婦人を包含したるは、奴隷及び婦人が共に人格にあらずして経済物たりしが為めなる如く、殉死の時に金銀玉石の経済物と共に近臣妻妾を土中に埋めたるはそれらが経済物なりしを以てなり。しかして忠の最も極度の履行たる殉死は日夜鳴号絶えざりしと云う如く、崇神天皇頂に至るまでの原始的生活時代においては原始的道徳の当然として全く他律的なりしなり。
 奴隷制度の継続と自律的時代の殉死

 この人類を経済物と見る奴隷制度は日本においても遥かに後世にまで継続したりき。しかしてこの経済状態とそれに伴う社会組織の在る間は、経済物の処分たる殉死のみを社会の外に駆逐し得べきものに非ず。かの崇神天皇が殉死に代ふるに土偶を以て代えたるは大に社会の進化しまた進化せる社会の儒教によって社会意識の鋭敏になれる為めなりといえども、なお純然たる奴隷制度は賤民なる名において存し、その売買が官署の届出によって為され、奴隷の産める奴隷の子はあたかも牛の子が農夫の所有たるが如く産みの親の之を売るときにおいては盗罪に処せられし程なれば、大化革命後において三族の誅滅を以て殉死の禁を励行せしに見てもいかにはなはだしく行われたるかを推理し得べし。斯く人類を経済物とする奴隷制度はなお中世に継続して、倭寇時代には人商人、人買船と称せられる者あって奴隷売買の行われ、ローマにおけるが如く奴隷の病むや平常之を愛用せしに係わらず、小屋の隅あるいは路傍に放置し、また姨捨山の物語にある如く奴隷の老廃者を山林に捨てたりき。実に忠と云う道徳は人類の人格を剥奪し之を経済物として、その所有主の処分に服従せしむる奴隷的道徳なり。従って殉死と云うが如き経済物の処分はこの奴隷制度の継続する間、忠なる名において種々なる形式の下に存続せしことは当然にして、その自律的道徳時代に入るや奴隷のいささか人格をもたげつつ始まりし家の子郎等が、主君の戦死に伴いてその屍の傍らに殉死し、徳川時代の武士が幕府の厳罰を以て諸侯を戒飭せるに係わらず、大名の死と共に冥途の御伴なりとして必ず二三の殉死者を絶たざりし如きこれなり。かの『貞女は両夫に見えず忠臣は二君に仕えず』と云うの言は、婦人及び臣僕が夫と君との所有物なることを自律的道徳において承認すべきことを訓戒する者にして殉死のいささか軽減せられたる者と考えらるべし。
 武士道は奴隷の道徳を自律的形式において行う、貴族階級の土地を占有せる階級国家時代と土百姓及び武士の経済的従属関係より生ぜる奴隷的服従

 実に、日本中世史の武士道はその自律的道徳にまで進める点においては誠に美しきものなりといえども、その人格たるべき人類を君主の所有物、すなわち君主の所有権の下に物格として贈与せられ殺戮せらるべきことを承認したる奴隷的道徳の継承なりき。これあえて日本のみに限らず社会の進化道徳の発達の過程としていかなる民族も必ず一たびは経由せざるべからざる進化の一階段にして、欧州中世史においても日本と等しき貴族国たることにおいて、日本と等しく忠を眼目とせる騎士気質を産みし如きこれなり。しかしながらここに注意すべきは社会の漸次的進化のことにして、中世貴族国の家長君主等はその家長君主等の目的と利益との為めに土地及び人民がその所有権の客体として存したる者なりといえども、古代の家長制度よりも漸次に進化してその所有物たりし人民も、古代の家長の下に在りし奴隷よりある程度まで人格を認識されたる者なり。すなわち人類それ自体が直接に貴族の所有権の下に経済物として取り扱われず、人類を養うべき土地が貴族の所有物なりしを以て、土地に対する経済的従属関係よりして、土地に養われる人類その者を土地の所有者たる貴族の従属物と考えうるに至りしなり。言わば間接の関係なり。かの一般人民が土百姓として土地と共にあたかも貴族の財産なるかの如く、相続贈与あるいは殺戮せられたる如きこの故にして、特に武士がその仕える所の貴族の意志によって他に贈与せられるも自己の意志を以て拒絶する能わず、貴族の自由に御手討にするも自己の独立を以て自家防衛を為す能わざりしは、実に全くこの土地に対する経済的従属関係よりして生ぜる奴隷的服従なり。しかして今日の科学的倫理学が道徳の進化を分ちて本能的道徳時代、模倣的道徳時代、批評的道徳時代、と為しつつある如く、道徳進化の過程としていかなる民族においても中世史頃までは現存の道徳を批評して、その上に超越せる道徳的理想を掲げる能わざる模倣的道徳時代なりしを以て、すでに社会の進化してその道徳的形式を自律的においてする時代に入れるに係わらず、その内容は古代より社会に現存する奴隷的服従の道徳的訓戒を模倣して受け入れるの外無く、この点よりしても中世史の武士道が各自の君主に対する奴隷的服従を最高善とするに至りしなり。−−実に、この貴族階級の土地を占有せるが為めに生ずる経済的従属関係と、中世史の程度なる模倣的道徳時代と云う二つの理由によって、自律的形式の荘厳華麗なる武士道はその道徳的形式としては誠に高貴なる者なるに係わらず、道徳的判断の内容を奴隷的服従を以て充塞したりしなり。しかして欧州中世史の騎士気質もその中世史なることと階級国家なることにおいて同様なり。
 貴族階級の経済的独立による政治的道徳的独立

 吾人が政治史と倫理史とは経済状態の時代的考察によって解せらると伝える者これなり。実に経済的基礎において独立する者は政治上においても道徳上においても独立の権利を有し、経済的基礎において従属する者は政治上においても道徳上においても服従の義務を負う。故に、天皇がその強力を以て総ての土地(しかしながら事実において近畿、後に至っては諸大族の分割となる)を所有したる古代においては総ての人民は天皇の下に政治上道徳上の服従者なりしといえども、源平以後の貴族国時代に入っては、同じき強力による土地の略奪によって経済上の独立を得たる貴族階級は、天皇に対して政治的道徳的の自由独立を以て被治者たるべき政治的義務と奴隷的服従の道徳的義務を拒絶し、しかしてそれらの乱臣賊子の下に在る家の子郎等武士あるいは土百姓はそれらの貴族階級に対する経済的従属関係よりして、貴族を主君として奉戴すべき政治的義務とその下に奴隷的に服従すべき道徳的義務とを有して従属したりしなり。従ってその従属する所の貴族がその政治的道徳的の自由独立をいわゆる乱臣賊子の形において主張する場合においては、貴族の下に生活する中世史の日本民族は、その経済的従属関係よりして忠の履行者となり、以て乱臣賊子の加担者となって皇室を打撃迫害したりしなり。

 かの武士道の幼期とも名づくべき時代の頼朝の訓戒に、『主従互に恩義を重ずべき事』とあるはこの経済的従属関係を説明するに、主君を経済的恩恵よりして土地米禄を与えるものとし、土地米禄を受ける臣僕に対して恩恵に対する従属的義務を要求したる者なりと見るべく、彼れ以後の発達せる武士道が『その酬に命を君に参らする者ぞかし、我が物に非ずと思うべし』と云うを以て訓誨の理論とせるは、主君の経済的恩恵によって臣僕の一身一家の維持されるを以て主君の恩恵によって繋がれたる身命は主君の利益の為めに酬いとして捨つべき身命なりと云う、経済的従属関係より生ぜる政治的道徳的服従の承認なり。しかして武士道はこの忠を良心の無上命令とする貴き自律的形式において行う、中世貴族国の一千年間が全く皇室に対する乱臣賊子を以て一貫せる者論なきことなり。すなわち武士道の良心を以てする皇室の迫害なりしなり。
 武士道の理論武士道は皇室を迫害せる者なり

 −実に、吾人が、日本民族は忠孝主義を以て忠孝を最高善とせるが故に皇室を打撃したりと云い、忠孝主義の民族なりしと云う前提は総ての民族の上古及び中世を通じて真なり、しかもその故に二千五百年間皇室を奉戴せりと云う日本歴史の結論は皆明かに虚偽なりと伝える者ここに存す。
 井上博士は土人の酋長なり

 今日の国体論者は武士道と共に起れる武門を怒り、武門起りて皇室衰ふと悲憤慷慨す。しかも万世一系の鉄槌に頭蓋骨を打撲せられて武士道と共に天皇陛下万歳を叫びつつあり。土人部落なるかな。(かの文科大学長文学博士井上哲次郎氏の如きこの土人の酋長なりとす。かの総ての著書を見よ)。

 いわゆる例外の忠臣義士なる者につきて更に一段の考察、歴史の始めより数えよ

 系統主義と忠孝主義に対する以上の説明はいわゆる皇室の忠臣義士なる者の僅少なる例外につきて更に一歩を進めて考察せしむ。

 先ず忠臣義士と称せられるものを国体論者に習って歴史の始より数えるに、四道将軍あり武内宿禰ありと屈指さるべきも、斯くの如きは原始的生活時代のことにして吾人の論外なり。女帝の寵愛によって来せる道鏡の行動を大逆無道なりとして憤るものに取っては和気清麻呂は大忠臣として讃美さるべし、しかしながら斯くの如きもまた吾人の論外にして絵草紙の題目たるべく、吾人はあえて不忠なりとは云わざるもかの背後に大族の潜みてその行動を大胆ならしめしことを注意すれば足る。その大族とは藤原氏にしてその衰えるまで一指を屈すべき忠臣なる者無し。あるいは噴飯すべき白痴は在原業平の歌によって彼をその一人に屈すべきも、彼は皇后たるべき者と通ぜる程の平等主義者にして星菫詩人の崇拝たるべき者なり。平氏は藤原氏を圧倒したるも忠臣とは云わるまじく、義仲は平氏を追へりといえどもまた義士に非ず。あるいは義仲の如き野武士に対して後白河法王を保護せる鼓判官と二万人の軍勢とは忠臣たるを失わずと云うか、しかもその二万人は洛陽の内外に出没せる半士半盗の浮浪者と悪僧のみなりしを如何せん。義仲を破って主権の用か委任されしと云う頼朝は有賀長雄氏に取っては理想的勤王家なりといえども、その未亡人の一言に感激して攻め上れる十九万の乱臣賊子に対して三帝を護れる一万七千五百人と僧兵とが忠臣義士に非ざることは確実なり。何となれば僧兵はしばしば天皇を地獄に落すと威嚇しただ利害によって去就する者にして、重忠の如きは宮門を叩いて『大臆病の君主に語はれたるぞ口惜し』と怒罵せし不敬漢なるを以てなり。しかして北条氏転覆に至るまで一人も無し。
 新田氏と楠木氏

 ただ、新田氏と楠木氏と在り。もとより新田氏の最初の去就が経済的独立による自由の行動なりしことは当然にしてまた記録の証する所なり。しかしながら吾人はあえてかの朴念仁に近き性格より推して最後まで自己の権力を中心として行動せりとは信ぜず。また南北朝の対抗を以て新田対足利の戦争なりとの見解に全部の賛同を表する能わず。南北朝なる者は山名・細川の旗幟の下に二分して応仁の乱の戦われたる形を南朝北朝と云いあるいは新田・足利と云う符号に表して来るべき群雄割拠の混戦の序幕たるに過ぎず、中世史の貴族国時代はあるいは連合によりあるいは抑圧によって統一の形を取ることありとも各貴族ことごとく統治者なるを以てなり。すなわち吾人は義貞が始めにおいて貴族として自由独立の行為を執ると共に素朴なるかの性格として、摸倣的道徳時代の系統主義と忠孝主義とを疑問なく受取り、最も貴き系統を有する天皇を発見することによって当時の最高善とせられる忠の履行者となりし者なるべきは充分に想像せんと欲する所なり。然らざれば後醍醐の彼を售りて尊氏と和するが如き不徳なる処置に対してただ涙を垂れて去りしことや、流矢に中りて死する時に勅書を錦嚢に盛って首に掛け居りし如きことは解すべからざればなり。しかしながら誤解すべからず。それは義貞その人のみのことにして、かの臣僕たる家の子郎等はその経済的従属関係よりして義貞その人の為めに忠を尽くせしにて皇室が義貞の敵たるか味方たるかは無関係のことなりしなり。正成と正行とは最も卓越せる例外なり。故に吾人は順逆論者の如く、彼が始めに高時に反抗して起てる北条氏転覆の先鋒とも云うべき摂津の住人渡辺孫右衛門尉、紀伊の安田荘司、大和の越路四郎等を逆賊高時の命を奉じて征服せしとも、それが為に正成の鼎を軽重すべき者とも思はず。また三度の召喚によらずして応じたるを以て孔明のそれに比して正成を特別に揚ぐべき者とも考えず。況んやその落花の如き死を権助のフンドシに比する如き暴をや。ただかの湊川に死せし当時においては模倣的道徳時代の当然として、系統主義と忠孝主義とによって皇室の系統を崇拝し、最高善たる忠の為めに死せしことはまた充分に想像し得べし。これ彼等貴族階級の経済的独立としては解すべからざるが如くなりといえども、摸倣的道徳時代においては卓越せる哲学的頭脳か然らざれば高師直の如く旧道徳の外に立って放縦なる者かに非ざれば、在来の道徳を疑問なく履行するものなればなり。しかしながら斯くの如くにして正成のみは天皇の忠臣義士たりしといえども、他の三百人は正成の従属として正成その者の為めに忠を尽くせしにて決して天皇の為めに死せし者に非ざるは論なし。正行に至っては実に花の如き物語なり。閑雅にして沈勇に満ちる性格より見るも、また幼時の厳格なる家庭の道徳的訓戒より察するも、政治的野心や経済的勢力の為めに非ずして最も献身的の者なるべし。しかしながら彼と共に如意輪堂に名を連ねたる一族郎等はかの去就に背馳してまでも天皇の為めに死せんとする者に非ず、特に一族以外にて最後まで血戦せる者は、彼がかって阿倍野の合戦において霜月二十六日の厳寒渡辺の橋より落ちて溺れし五百人の敵軍を救いて馬具足までを与えしほどの将器に感激してかの従属たりし者なり。−湊川・四条畷の忠魂なる者にしてすら斯くの如し。吾人は実にこれら二三の−−真に二三の例外中の例外を除きて、今の四千五百万人の祖先中何と名付ける者が真に皇室に忠なりしかを聞かんことを欲す。
 日本民族は各自の主君に忠なりし傍発の結果として皇室の忠臣となり乱臣となる

 実に斯くの如し。皇室の側に立って防ぎし者も、皇室の前に進みて打撃せしものも、皇室の忠臣義士たらんが為めと云い乱臣賊子たらんが為めと云うに非ずして、皆実に各自の主君に対して克く忠なりし傍発の結果なり。この一点を最も明瞭に表白せる者は幕末の国体論のようやく唱導せられたる時の貴族階級の一人水戸斉昭の言なり。いわく−−『人々天祖の御恩を報いんと悪しく心得違いて眼前の君父を差し置きて直ちに天朝皇辺に忠を尽くさんと思わばかえって僣乱の罪逃るまじく侯』と。
 水戸斉昭のいわゆる眼前の君父、正成の殉死者と高時の殉死者、貴族階級を組織せる無数の眼前の君父とその下に衛星の如く従う乱臣賊子

 貴族階級としてこの要求は当然なり。しかして維新革命に至るまでの上古中世を通じての階級国家は実にこの眼前の君父と云うことを以て一貫したるなり。この『眼前の君父』を外たして真の忠孝なし。孝と云う道徳が血縁の関係、あるいはそれに匹敵すべきほどの特殊の関係なき者の間に生ぜざる如く、忠と云う道徳も自己が他の所有権の下に経済物なるか、あるいは経済的従属関係なくしては生ずる者に非ざるなり。故に例せば、かの忠臣義士の最も讃嘆すべき理想的実例たる赤穂義士に見るも、その忠臣義士たりしは斉昭のいわゆる眼前の君父たる貴族に対する経済的従属関係のありしが為めにして、実に幕府の兵を迎えて城を枕に討死せんとは一たび赤穂城中の世論たりしが如く、眼前の君父を外にして幕府の義士たり天皇の忠臣たる事は斉昭の云う如く彼等に取ってはかえって僣乱の罪たるべきなり。故に眼前の君父たる正成の為めに殉死せし湊川の三百人も、等しく眼前の君父たる高時に従って殉死せし当座の八百人とその後の数千人も、その眼前の君父たる貴族階級に対して経済的従属関係のあるが為めにして、眼前の君父を外にして幕府の忠臣たり天皇の義士たる如き僣乱は彼等誠忠なる殉死者に取っては思いも寄らざることなり。

 −この眼前の君父に対する忠孝と云うことは総ての民族に通ずる階級国家時代の鍵なり。皇室一家の移住時代においてはその限られたる家族団体と限られたる地方とにおいて天皇及び天照大神は眼前の君父として忠孝の本体なりき。然るに社会の進化し人口の増加して皇室と同一なる系統の分派が誇大族となって朝廷に枝を張り諸豪族となって地方に根を拡ぐるに至って、ここに無数の眼前の君父は貴族階級を組織して天皇と同一系統なり云うことを自覚して天皇に対する平等観を作り、以てその忠孝の従属者を率いて乱臣賊子を働くに至れり。しかしてこの眼前の君父は多く土地の略奪による経済的独立よりして自己の絶対的自由を目的として去就し、あるいは模倣的道徳時代の系統主義と忠孝主義の為に、源平に属し、北条に属し、足利氏に属し、皇室に属し、更に何者にも属せずして独立し、独立せる群雄の下に属し、豊臣・徳川の下に属し、その属する者の下にまた更に属し、以て中世貴族国時代の階級国家を組織したりしなり。故にその貴族階級を奉戴せる一般人民にとっては各々眼前の君父たる貴族の去就に従って衛星の如くめぐるより外なく、従って僅少なる土地と堕弱なる公卿とよりほか、有せざる皇室に対して乱臣賊子を以て一貫したりしなり。
 皇室の忠臣義士はそれに経済的従属関係を有する公卿のみ、忠孝主義と系統主義とが皇室を打撃迫害したりとの断案

 故に吾人は断言す、皇室を眼前の君父として忠臣義士たりし者は、それに経済的従属関係を有する公卿のみにして、(すなわち今日の公卿華族の祖先のみにして)、日本民族の総ては貴族階級の下に隷属して皇室の乱臣賊子なりしなりと。しかして貴族の萌芽は歴史的生活時代の始めより存したるを以て、日本民族はその歴史の殆ど総てを挙げて皇室の乱臣賊子なりしなりと。

 −これローマ法王の天動説に対する地動説と伝える者なり。吾人をして更に断言を繰り返さしめよ。−日本民族は系統主義を以て家系を尊崇せしが故に皇室を迫害し、忠孝主義を以て忠孝を最高善とせるが故に皇室を打撃したるなり。系統主義の民族なりしと云う前提は総ての民族の上古及び中世を通じて真なり、しかもそれ故に万世一系の皇室を扶助せりと云う日本歴史の結論は全く誤謬なり。忠孝主義の民族なりしと云う前提は総ての民族の上古及び中世を通じて真なり、しかもそれ故に二千五百年間皇室を奉戴せりと云う日本歴史の結論は皆明かに虚偽なり。吾人は実に速やかにローマ法王の天動説より覚醒せざるべからず。

 さもあらばあれ、吾人が日本国民の頭蓋骨を横しまに打撲して白痴たらしむる鉄槌と伝える問題が残る−−日本民族の総てが皇室に対する乱臣賊子なりと云わば、いかにして皇統の万世一系あるを得たるや。

【第十三章】
 然らばいかにして万世一系なりや。万世一系の伝われる理由は憲法学者に最も必要なり。『天皇』と云う文字の内容の進化。『天皇』の内容の進化なき第一期たる原始的生活時代は一族一宗家の家長として祖先を祀るときの祭主と云う意義なり。原始的時代の皇室は神道によって奉戴せられたり。国体論の革命が可能のとき。大化革命以前の社会の混乱と天皇の基礎の崩壊。皇族対蘇我族の宗教闘争。『天皇』の意義の第二期の進化は全人民全国土の所有者と云うことなり。孝謙天皇は財産権の自由なる行使にして溺愛にあらず。君臣一家論が大逆無道なる道鏡の論理なるゆえん。系統主義は皇室を打撃迫害すると共にまた皇室を維持したるゆえんなり。神道の勢力は総ての民族のそれのごとく国家起原論として近き以前までの勢力なりき。神道の国家起原論によって維持されたる皇室。藤原氏の乱臣賊子は系統主義の為めにしてその皇位を奪わざりしも系統主義の為めなり。系統主義は自己以下の階級に向かっては誇栄たると共に自己以上の系統の者に対してははばかりを生ず。中世史の『天皇』はその所有の土地人民の上に家長君主たりしと共に全国の家長君主等の上に『神道のローマ法王』として立てり。将軍とは『鎌倉の神聖皇帝』なり。欧州の中世史と日本の中世史。神道の信仰が勢力ありし間は神道のローマ法王は鎌倉の神聖皇帝を支配したりき−−中世史の『天皇』の内容を古代のそれと等しと解しては秀吉の宣言は天皇の否認たらざるべからず。神道の勢力の衰退とその惰力。将軍の天皇たらざりしは神聖皇帝のローマ法王たらざりしと同じく別天地の存在なるを以てなり。皇室の復古的希望に伴わざる強力。全日本の統治者たらんとの天皇の要求を国民は常に強力に訴えて拒絶しつつありき。幽閉の安全によって系統は断絶するものに非ず。絶望の為めに継続したる万世一系は乱臣賊子が永続不断なりし事の表白なり。優温閑雅なる詩人として政権争奪の外に在りしを以てなり。フランス国民よりも天皇を迫害したり。殺人狂に非らざればいかなる強盗といえども財布を奪いたる後、もしくは充分に膨らして持てるその子孫は遠き以前に失える所に向かって刃を加えず。強盗の手より強盗の手に転々せる財布。将軍の悲壮なる末路に反して万世一系の血痕なき理由。乱臣賊子は簒奪者たる必要なかりしなり。幕末の国体論者は乱臣賊子の略奪者を転覆せんための努力なるに今の国体論者は略奪者を弁護してかえって尊王忠君なりと云う。皇室の万世一系あるは系統主義と忠孝主義と及び神道的信仰によると伝える以上の説明。国民の奉戴と云うことと系統の連続と云う事とは別問題なり。キリストの後にローマ法王ある如く国体論はローマ法王となって今や真理を迫害するに至れり。有賀博士の統治権委任論。有賀博士は歴史家として一の価値なし。有賀博士は宇宙開闢説を以て歴史を解しつつある点において神道の信者たる穂積博士と等し。有賀博士の徳川氏に関する統治権委任論は純然たる論理的錯乱なり。博士は更に徳川氏以前より総て幕府との関係は委任なりと云う。兵馬権なる者が天皇より委任されしとの議論は成立せず。外交権なる者が天皇より委任されしとの議論も成立せず。有賀博士の用語は詐欺取財脅喝取財を委任取財と云い盗品を委任財産と云う者なり。博士の主権論はその主体と行用とが相背馳しもしくは相打撃し得べしと云う者なり。欧州今日の各国は主権の体と云うもの無き空虚のものか。万国無比の国体には万国無比の統治権委任論あり。穂積博士の主権本質論は有賀博士の統治権委任論を打ち消す。穂積博士の主権本質論は権力を行う力なかりし中世史一千年間の天皇が主権者にあらずとの断言なり。その二、権力を行う所の今日の天皇を主権者とすると共に幕府を権力者なりと云う主張なり。その三、日本の主権は決して万世一系に固定せず常に動揺したりとの歴史解釈なり。穂積博士の主権本質論は乱臣賊子を主権者なりと追認するものなり。穂積博士の銅像は両頭にして各々脱糞を要す。伊藤博文氏の強者の権の表白と穂積博士の奴隷。穂積博士は幕府主権論者として志士の忠魂を侮弄す。穂積博士の維新革命論は総て矛盾なり。『主権の回復』とは主権の喪失を前提とす。氏の主権本質論は強力説にして神道的憲法論を打消す。穂積博士の主権本質論は自らの君主主権論を打ち消す所の国家主権論なり。有賀博士と穂積博士の衝突。中世史の天皇の意義につきては有賀博士も穂積博士もともに誤謬なり。多くの統治権の主体が存在せし家長国と云う別個の国体。強力が総ての権利を決定せし中世時代。天皇は神道のローマ法王たる以外その範囲内における家長君主としての統治者たる事を失いし事なし。貴族国時代の『貴族』の意義。主権本来の意義は最高の統治者と云うことにして統治者の上の統治者君主の上の君主と云うことなり。主権の思想は中世の出現にして今日は最高権と云うことなし。最高権の意義における主権所在論は『王覇の弁』の名において天皇主権論と幕府主権論との論争なり。主権論とは無関係に天皇の君主たりしことに動きなし。幕末の国体論は天皇に対する尊王忠君を要求として唱えたるにて歴史上の事実として認めたるにあらず、万世一系を奉戴すべき事を要求として唱えたるにて歴史上の事実として奉戴しつつありしと云うにあらず。吾人は国体論の名においてローマ法王の教義を排し、万世一系の連綿たるは国民の億兆心を一にして万世欠くるなき乱臣賊子を働きたる結果なりと云う
 然らばいかにして万世一系なりや

 誠に然り。然らばいかにして皇統は万世一系なりや。日本民族は克く忠に万世一系の皇統を奉戴せりと云う従来の天動説を転倒して、乱臣賊子とは歴史を挙げれる大多数にして二三の僅少なる例外が皇室の忠臣義士なりと云う以上の解釈にして正常ならば、いかにして皇統は万世一系なりやの反問は充分に理由あり。

 万世一系の伝われる理由は憲法学者に最も必要なり、原始的時代の皇室は神道によって奉戴せられたり

 この万世一系の解釈は単に歴史解釈として重要なるのみならず、現今の国体及び政体を研究する所の憲法学に取って誠に看過すべからざる所のものなり。もとより英国の憲法がその憲法史によってのみ解せらると云うほどに明らさまに日本歴史によって日本の現憲法が直ちに解釈せらるとは云わず。しかしながらその西洋文明に接してそれの憲法を取り入れて現憲法の作られしといえども、国家は直訳の被布を蒙ることによって骨格まで変換するものにあらず。今の君主主権論を取る者が天皇を主権の本体となし、また国家主権論を取る者が天皇を唯一最高の機関となすは、共に等しく憲法解釈の根底たる日本歴史につきて在来の天動説を迷信するが故なり。
 皇統はいかにして万世一系なりや。この説明は依然として系統主義と忠孝主義となり。しかして皇室は他の貴族階級の君主等と異なって後世漸次に稀薄になりしといえども神道的信仰の勢力によれり。国体論の革命が可能の時

 『天皇』と云う文字の内容の進化、『天皇』の内容の進化なき第一期たる原始的生活時代は天皇は一族一家の家長として祖先を祀るときの祭主と云う意義なり

 吾人は先きの憲法論において説ける『天皇』なる文字の内容の進化と云うことを注意せざるべからず。すなわち歴史的生活に入らざる原始的生活時代は、日本国土の上に無数の家族団体が散在し、皇室はその近畿地方における家族団体の家長として神道の信仰によって立ちたりき。これ先に詳説せる文字もなく数の観念も朦朧として今の土人と大差なき生活をなせる一千年間と伝説される時代なり。すなわち三韓交通によって文字を得るまでの一千年間と伝説される間は、人口も誠に稀薄にして単に皇族のみならず臣連の諸族も後世の想像するが如き者にあらず。

 (日本歴史あって以来の大歴史家『二千五百年史』の著者は、当時のそれ等が単に後世の君主貴族の萌芽なることを表白せんが為に諸大族の中それら大族の漸次に強大を加えることを説けり。しかして当時の生活が純然たる原始人なることを豊富なる事実によって示したり。しかしながら日本歴史を『二千五百年史』と名づけたる事を惜しむ。三韓よりの移住者は多く九州中国に独立し、もしくは独立せる部落に属して未だ近畿に入って帰化人となるほどに至らず、九州も、東北も、また神武の経過せしと伝説する中国も全く独立の原始的部落にして、雄健なる皇室祖先の一家が純潔なる血液によって祖先教の下に結合し、以て近畿地方と被征服者の上に権力者として立てる者なりき。

 かくの如くなるを以て当時の『天皇』の意義はその謚名せられたる時代、あるいは今日の天皇を指して云うそれと全く内容を異にして、一族宗家の家長として祖先を祀るときの祭主との意義なり。

 −これ『天皇』の内容の未だ進化なき第一期なり。かの先に説ける神武天皇の結婚において(伝説の総てを全く没意義とせざるならば)その時代の天皇の政治的社会的地位を見るに足るべく、崇神天皇が祭祀の費用として熊皮鹿角を徴せしに見ても、今日の天皇と全く別意義なる神道の祭主なることを察するに余りあるべし。しかして天照大神の霊は死せずして存在すとの祖先教は、それに対する忠と孝とを一致せしめ、系統によって覚醒を繋ぎたる社会意識は一家族団体のみを社会と考えて、他のそれらを排斥する所の君臣一家の素朴なる団結の為に本家たる(注意するを要す、その一家族団体内において本家たる)皇室を無上の命令者として服従したるべきは論なし。

 すなわち、祖先教、君臣一家、忠孝一致の如きは、いかなる民族にも共通なる社会進化の第一期として等しく、日本民族の原始的時代の社会組織の連鎖たりしは疑いなく、皇室の地位は決して今日の進化せる時代に比すべからざるものなるに係わらず、当時の原始的宗教によって奉戴せられたることは明かに事実なり。(故に穂積博士の神道的憲法論は進化律を逆倒せしめて、今日までに進化せる天皇を原始的宗教時代のそれに退化せしめ、日本国を封鎖して外国人の帰化入籍を拒絶し、民族の血管中を流れつつある異人種の血液を入れ替わるときに可能なる革命なり)。

 しかしながら進化律は原始的宗教の祭主たりし『天皇』の内容を進化せしめて第二期に入れり。すなわち日本の社会それ自身の進化と、更に進化せる社会と交通せる三韓文明の継承以後の天皇は、総ての権利が強力によって決定せられし古代として最上の強者としての命令者と云う意義に進めり。−吾人はこれ以後の古代中世を通じて『家長国体』となし、藤原氏滅亡までに至る間の君主国時代を法理上『天皇』が日本全土全人民の所有者としての最上の強者と云う意義に進化したるものとなす。
 大化革命以前の社会の混乱と天皇の基礎の崩壊、物部対蘇我氏の宗教闘争、『天皇』の意義の第二期の進化は全人民全国土の所有者と云うことなり

 実に、三韓交通と共に日本民族は第一革命を為せり。もとより古典出現以前数百年なりと云う三韓交通−すなわち等しく伝説の年代なるを以て、革命が急速に来たりしか、徐々に来たりしかは想像するの根拠なしといえども外国との交通の為に無数の帰化人種の血液も混和し、征服せられたる奴隷との階級的隔絶が恋愛の蟻穴より崩れ始じめ、更に人口増加によって系統家筋の混乱を来せるが為に、家族単位の社会組織は決して原始的生活時代の如き純潔を以て維持すべからざるに至れり。

 しかしてこの動揺を更にはなはだしからしめたるものは原始的宗教より遥かに進化せる儒教と仏教となりき。ことにその最も高く進化せる仏教は、たとえその当時の国民に骨髄を信仰せられたるかはた単に偶像教として取り扱われたるか(もとより後者なるべし、進化は超越せず余りに隔絶せる高級の信仰はようやく原始的宗教を脱せし程度の当時に解せられるの理由なし)その何れにせよ、仏教の進化せる宗教は先ず上層階級より未開なる神道を駆逐し、『天皇』は神道の祭主として立てる意義を全く一変せざるべからざるに至れり。

 かくて蘇我対物部の旗幟において宗教闘争は行われたり。吾人は信ず、宗教闘争は皇室そのものの内を二軍に分ちたりと。蘇我氏に奉戴せられたる者もしくは物部氏に奉戴せられたる者のみならず、仏教の蘇我氏は神道の崇峻天皇の尊敬すべきゆえんたりし信仰を異にすることによって之を弑し、仏教の聖徳太子は恩愛の涙を因果律に呑みて仏教党の勝利を強いて責問すべきの理由を認めざりき。その下手人たる駒が君臣一家の血縁的関係なき漢人種なりし如き、いかに『天皇』が祖先教の下に団結せる家長として立つべからざるまでに社会の進化せるかを示すよ! 

 しかして両教徒は各々その良心の衝突を強力によって決定したり。強力その事は善にあらず単に力なりといえども善ならざるものは力なし。神道は原始時代においては善なりしといえども、先代の善が現代の善によって悪とせられ、現代の善また後代のそれによって悪とせられる如く、善悪とは要するに進化的過程のものなり。(『社会主義の倫理的理想』及び『社会主義の啓蒙運動』において階級的良心及び階級闘争を説ける所を見よ)。故に今日社会民主主義の力なきは未だ社会の良心に善と認められること少なきが為なる如く、当時仏教徒の蘇我氏が皇室より多くの力を有せしは、その私有地私有民の経済的勢力による政治的勢力なると共に仏教の善が神道の善に打ち勝つを得るまでに祖先教の信仰が減退したるを以てなり。

 しかしながら強力の決定は硝煙の平野もしくは議会の演壇大学の講座においてなされる事あると共に、また等しく刺客の短刀革命党員の爆烈弾によって決定されることあり。英雄皇帝天智はかの道を選んで挺身の一剣直ちに儒学の国家主権論を宣言したり。恐くは彼は余りに高遠なる理想家なりしなるべし。彼は原始的宗教を信ぜずまたその上に天皇を祭主として置かず、また仏教を偶像教化して土偶木偶の代りに銅仏金仏を合掌して足れりとする後の藤原廷の如くならず。彼は国家を以て終局目的となし天皇が国家の利益の為に(人民の為と云うこととは別問題なり)最高機関として存すべしと理想したる儒教をそのままに実現せんとしたり。しかしながらこれもとより不可能のことにしてかの死と共に社会進化の原則に従って国家が天皇の利益として取り扱われる君主主権の家長国となれり。蘇我族を倒せる皇族は功臣藤原族と共に強者の権を以て『天皇』は全人民全国土の所有者なりとするに至れり。これ『天皇』の意義の第二期の進化にして君主国時代なり。しかしてかかる家長国においては天皇は国家の利益の為に存するものにあらずして、国家が天皇の目的を充すべき手段として取り扱われたる国体なるを以て(前きの法理論を見よ)、国家を分割し相続し贈与することは所有者たる天皇の自由なる財産の処分なり。かのヴィクトリア女皇がその婚姻の後も皇位を自己の所有物として相続せしめ、または贈与する能わざりしに反して、当時の孝謙天皇は国家と云う財産を道鏡に相続せしめんとしたる如きはこれなり。
 孝謙天皇は財産権の自由なる行使にして溺愛にあらず、君臣一家論が大逆無道なる道鏡の論理なるゆえん

 かくの如きは今日の思想を以て逆進的に批判すれば、両者共に解すべからざる行動なりといえども、当時の天皇の権利として孝謙の行為は違法にあらず、道鏡に取っても(後世史家の言う如くその処に愛の行われしとせば)吾人の考えうるほどに無謀ならざりしなり。ことに孝謙は天智天皇の弟の後にして道鏡は天智天皇の第四子の後なるを以て、共に系統主義の時代においてその愛は決して背徳にあらずと推論するを可とす。
 吾人は先に皇室を打撃迫害したるものを系統主義なりと云えり。道鏡は系統的誇栄と愛の連鎖とを以て同一系統の同一の枝なりと云う平等観を最も始めに覚醒したるものなり。(これ後世の歴史家によって大逆無道と称せられるゆえんにして。穂積博士等の君臣一家論が等しく大逆無道なる道鏡の論理なるゆえんなり)。しかしてこの系統主義による平等観の最も著しき者は、後に至って我は桓武の後なりと伝える平氏の将門あり、我は清和の末なりと伝える源氏の足利義満ありき。しかしながら、かく系統主義は一面同一系統の者に対して平等観の導きたると共に、自己より劣れるもしくは優れる系統の者に向かっては階級的なるは論なし。
 系統主義は皇室を打撃迫害す各と共にまた皇室を維持したるゆえんなり、神道の労力は総ての民族のそれの如く国家起原論として近き以前までの勢力なりき、神道の国家起原論によって維持されたる皇室、藤原氏の乱臣賊子は系統主義の為めにしてその皇位を奪わざりしも系統主義の為なり

 −故に吾人は信ず、系統主義は皇室を打撃迫害したると共に、また皇室を維持したるゆえんなりと。しかして神道の信仰が今日においてもなお匹婦匹夫の間において、(穂積博士も木造の生殖器を礼拝すると云うならば大学教授の間においても)、惰力としての勢力が残る如く、社会の進化は截然と区別すべからず。天智の大革命により儒学により仏教によって神道の勢力は大に削られつつ進みしに係わらず、なお古代及び中世を通じての一勢力なりしことは疑うべからず。特にその排外的信仰なる点において、長き間を海洋に封鎖せられたる日本民族にとっては、あたかもユダヤ教と等しき意味を以て国家起原論として考えられたりき。すなわち我が民族のみ特別に神の子にして他は夷狄なりとは総ての民族が近き以前までの信仰なりしがごとく、日本民族も等しくかかる信仰の神道を幕末に至るまで脱却する能わずして尊王攘夷論となり、さらに外国人は猿の化したるものなるべけれど日本人は神人なりと云う進化論の拒絶となり、穂積博士の憲法論となって余波を今日にまで波うたすなり。

 しかして斯く神道の信仰よりしたる攘夷論がその信仰の経典によって尊王論と合体したる如く、かかる国家起原論ある間国家の起原と共に存すと信仰せられる皇室に対して平等主義の制限せられたるは想像せらるべし。加えるに系統の尊卑によって社会の階級組織なりし系統主義の古代中世なりしを以て、優婉閑雅なりし皇室が理由なき侵犯の外に在りしは誠に想像せらるべし。かの藤原氏において、その族長の下に忠孝主義を奉ずる家族族党はその族長の命ならば内閣全員のストライキをもはばからざりしに係わらず、なおその族長がその団結的強力を率いて皇位を奪うに至らざりし者、実に皇族と云う大族が最も尊き系統の直孫なりとせられたればなり。藤原氏はこの尊族の戸主の上に後見人として、ほしいままなる乱臣賊子を働きたることは事実にしてまた血縁的恩愛の連鎖より当然の事なり。藤原族の繁栄して各分家が互に後見の地位を争うに到りしときも、その方法は皇后を自家の血液より出だしその血液の皇后によって産れし自家の血液の天皇たるべきものを自家に連れ来たりて養育し、他の競争者よりも濃厚なる血縁的関係に立つことに過ぎざりき。

 自家の系統を壷切の剣に表白し皇位継承権の要素とせしは、道鏡の行為をある程度まで事実にしたるものなりといえども、系統主義の階級国家時代においては自己の誇負する系統自己の崇尊する系統は他より犯さるべからず、また犯すべからずとせしが為めに、藤原氏と云う系統的誇栄を以て他の一切の下層階級の上に特権を保つと共に、その特権が無視せられざるもしくは特権の要求が排斥されざる場合においては、皇室と云う系統的栄誉に取って代らんとするが如きことなかりしなり。しかも特権に限りなく要求は満足と共にまた要求せらる。故に系統主義は藤原氏をして乱臣賊子を働らかしめたるゆえんなると共に、総てを譲歩せる皇室は等しく系統主義によって藤原氏総てを道鏡たらしむることを免れたりき。
 系統主義は自家以下の階級に向かっては誇栄たりと共に自家以上の系統の者に対してはばかりを生ず

 以降。平氏が天皇法皇を幽閉せしも之を害せず、義仲が傲語しつつも、なお法師とも児童ともなる能わざりしは、その平氏と云い源氏と云うを誇栄とする系統主義の良心が、他に対して自家を誇栄なりとすると共に自家以上のそれを有する系統に対しては幾分のはばかりを生ぜざるを得ざりしが為なり。彼等の臣属たる家の子郎等及び他の土豪等が彼等に対する忠孝主義の為に天皇の軍門に到りて、長き縷々たる名乗りを挙げて系統的誇栄を弓矢よりも先に闘わしたりし中世思想は、院宣が義仲の脅迫によるを弁解せんとして来れる院使を更に脅迫を加えて返せる頼朝をして、たとえ形式にもせよ従二位征夷大将軍を拝せしめたるゆえんなり。加えるに高貴なる仏教が中世の鎖国的思想に取られて、原始的宗教の八百万神を仏の権現とするに至って、純然たる無信仰の高師直等に非ざるよりは理由なく迫害を加える事を敢てせざりき。吾人は実に考う−
 中世史の『天皇』はその所有の土地人民の上に家長君主たりしと共に全国の家長君主等の上に『神道のローマ法王』として立てり、将軍とは『鎌倉の神聖皇帝』なり、欧州の中世史と日本の中世史

 −中世史の天皇はその所有する土地と人民との上に家長君主たりしと共に全国の家長君主等の上に『神道のローマ法王』として立ちたるなりと。天皇と云う語を文字の形態発音によって古今同一なりと推測すべからずとの注意は歴史的研究者に取って最も必要なり。有賀博士の如きは天皇とあらば総て古今同一なる者にして内容の進化なきかの如く考えうるを以て、また征夷大将軍と云う大将の文字を見て今日の陸軍大将ほどの意味に解す。当時の征夷大将軍とはその所有する土地人民の上に全部の統治権を有すること、あたかも天皇及び他の群雄諸侯等がそれぞれの土地人民の上に家長君主としてそれぞれ統治者たりしがごとく、ただ異なる所は神道のローマ法王としての天皇によって冠を加えられる『鎌倉の神聖皇帝』なりしなり。もとより全く比喩として用いるものに非ずといえども、各国の歴史が一切の出来事において符合するものに非ざるがゆえに、日本の中世史が欧州のそれと少しも異ならずと云うものに非ず。例えば欧州のローマ法王は純然たるキリスト教によって立ちしに反し、神道のローマ法王は神道の信仰以外に他の家長君主等と等しくその所有の土地人民の上に統治権を振るい、しかして全人民全国土の上に所有者たりし君主国時代を回顧して常に他の家長君主等と抗争しつつありし如きこれなり。しかしながら兎に角この『神道のローマ法王』と『鎌倉の神聖皇帝』としかして他の群雄諸侯と云われる『各国王』と云うことを骨格として日本中世史を編まざるならば、貴族国時代の日本は、ただ以て不可解として国体論の戸棚に押し隠すより外なし。然るに、古今総ての歴史家なるもの、ことごとく順逆論の逆進的叙述の上に征夷大将軍を天皇の家臣となし、しかして群雄諸侯の如きを陪臣と名づけて、武門の跋扈と怒り陪臣の専横と罵るに過ぎず。−−不道理のみを以て一千年の間を継続すとはいかなる思想によって考えうるぞ。かかる土人部落なるが故にいかなる民族も一たびは経過すべき貴族国時代の中世史を徒らに攻戦討伐の軍談とし、以てそれを継承せる近代の日本を全く解する能わざるなり。
 神道の信仰が勢力ありし間は神道のローマ法王は鎌倉の神聖皇帝を支配したりき、中世史の『天皇』の内容を古代のそれと等しと解しては秀吉の宣言は天皇の否認たらざるべからず、神道の勢力の減退とその惰力、将軍の天皇たらざりしは神聖皇帝のローマ法王たらざりしと同じく別天地の存在なるを以てなり

 しかしながらローマ法王が旧教の信仰盛なりし間は雪中門前に立たしめて神聖皇帝を屈服せしめたる如く、『神道の一ローマ法王』も純然たる原始的信仰を維持せし間は聖壇の上より俗権を振るいて源家の祖先義家の如き征夷大将軍を支配したりき。(もとより藤原氏滅亡までは吾人の之を君主国時代と名づけたる如く、天皇が第一の強者たりし点よりも思考すべし)。しかしながら旧教の信仰衰えて神聖皇帝の権が各国王と共に延び、終に政権を以て法王の冠を犯したる如く、『鎌倉の神聖皇帝』は神道の信仰盛ならざりしに至って『神道のローマ法王』を自由に改廃するに至れり。神聖皇帝にローマ法王の加冠なくしてはその尊厳を保つ能わざりしが如く、『神道のローマ法王』より征夷大将軍の冠を加えられる事によって『鎌倉の神聖皇帝』の飾られたる事は神道の信仰の勢力ありし間は事実なりき。否、将軍大名の如きはあたかも今のドイツ皇帝がそれ自身の虚栄心の為めに、今なお神聖皇帝の冠を望みつつあるが如く、神道の信仰が大に力なくなれる後も、なお朝廷よりの叙位叙爵を悦びたりし事は事実なり。しかして朝廷はグレゴリウス七世の如くならず、大に優婉閑雅にして戦国の窮乏より徳川氏に至っては、更に不断の幽閉に在りしが為めに、『鎌倉の神聖皇帝』あるいは『冬国王』の虚栄心を打撃して彼等の強力に触れるが如きことは無かりき。かの足利義満が太政大臣たらんとの要求を拒絶せる如きときも『神道のローマ法王』の傍より譲歩し、自らアメノコヤネノミコトの後なりと称して系統を神代に求めたる一匹夫秀吉(故に君臣一家論者はかの天下を取って王たらんと欲すれば王、帝たらんと欲すれば帝と伝える権利を承認せざるべからず)にまで摂政関白を拒絶せざりき。もし中世史の天皇の内容が上古のそれと等しく天下の所有者の意義なりしならば、強力が総ての権利を決定せし正義の時代において、『我は我が力を以て天下を取れり』との秀吉の宣言は天皇そのものに対する否認ならざるべからず。しかしながら歴史上の事実は然らずして当時の天皇の意義はたとえ衣食の欠乏に陥れるほどに土地人民を失へりとするも『神道のローマ法王』としての栄誉を傷けられざりしを以て、彼等強力者とは無関係なる別天地においてそれ自身の存在を継続したりしなり。もとより社会の進化と共に原始的宗教の信仰が漸次に衰退し行くは論なく、北条氏の両統迭立の苦肉策が禅学によって神道の法王に対する尊崇の薄らぎしや、また徳川氏の残忍冷酷を極めたる不断の幽閉と不断の脅迫譲位が儒学によって等しく然りしやは断定すべき根拠なしといえども。しかしながらその勢力の衰退せるに係わらず、足利氏が北朝を立てて自ら神道の法王とならず、群雄戦国の貴族等がまた自ら天皇と称せざりしは、『天皇』の内容が中世史に入って天下を所有する強者と云うと全く別なる『神道のローマ法王』の意義なりしを以てなり。キリスト教のローマ法王が欧州の神聖皇帝によって易置せられたる如く、神道のローマ法王は鎌倉の神聖皇帝によって中世史の一千年間を通じて極度の自由を以て改廃せられたりき。しかしながら欧州の神聖皇帝が自ら立ってキリスト教のローマ法王の位を奪いしことなく、またその必要なかりし如く、神道のローマ法王が天下を取って最上の強者たることを目的とせる鎌倉の神聖皇帝によって奪われざりしは、各々存在の意義を異にせるよりの必要なかりしを以てなり。実に、天皇の文字の内容を歴史の進化に順行して決定せずしては、古代の天下の所有者と云う意義の天皇と、『我れは我が力を以て天下を取れり』と公言し、天下の総てより『天下様』と仰がれたる将軍との双ながらなる存在は解すべからざるなり。
 皇室の復古的希望に伴わざる強力

 吾人はもとより天皇の希望として神道のローマ法王たる以外に、なお古代の如く天下の所有者たらんと努力したることなしとは言わず。しかしながら希望と歴史上の事実とは別問題なり。平将門は天皇の裔なることを理由として他の裔なる天皇に取って代らんとの希望はありき、しかしながら歴史上の事実はもとより天皇にあらずして反逆者の名を負はされて、後の貴族国の前に陳勝・呉広の任務を尽くしたるに過ぎざりき。強力が総ての権利を確定せし古代及び中世においては、大なる権利の獲得には大なる強力を要す。古代の天皇を見よ、九州の辺より畿内の端までを征服せる神武、一剣虎竜の間を横行せる日本武尊、戦慄せる謀臣に抽でて自ら剣を振るって最強者を斬殺せる天智、かかる大なる強力の基礎においてのみ大なる権利の君主国時代あるなり。−−権利思想は時代の進行に従って進化す。もしフランス革命及び維新革命時代の如く、貴族階級の強力による略奪を中世の権利に非ずと否認するならば、その否認の逆進は更に古代史に逆進して当時の天皇そのものに対する由々しき結論を余儀なくされざるべからず。かかる逆進的批判の歴史よりほか解せざるが故に、雄略天皇の当然なる権利を無視して暴逆無道なりと云い、孝謙天皇の権利として行使せんとせる所を婦女子なるが故の溺愛なるかの如く考えうるなり。−−吾人は古代の天皇の絶対無限権が強力に伴う絶対の権利なることを強烈に主張す。しかして中世の天皇が神道のローマ法王としての万世一系なりしことを、貴族階級の乱臣賊子なりし事実によってまた何者よりも強烈に主張す。
 全日本の統治者たらんとの天皇の要求を国民は常に強力に訴えて拒絶しつつありき

 ああ国体論者よ、この意味における万世一系は国民の克く忠なりしことを贅々する国体論者に対して、無恥の面上に加えらるべき大鉄槌なり。すなわち、天皇は深厚に徳をたてて全人民全国土の上に統治者たらんことを要求したりき、実にいかなる迫害の中においても衣食の欠乏に陥れる窮迫の間においても寤寐に忘れざる要求なりき、然るに国民は強力に訴えて常に之を拒絶したりと云う事なり。−−何の国体論ぞ、かかる歴史の国民が克く忠に万世一系の皇室を奉戴せりと云わば義時も尊氏も大忠臣大義士にして、楠公父子は何の面目ありや。あるいは云うべし、しかしながら万世一統に刃を加えざりしと。−−また何の国体論ぞ、これ国民の総てがことごとく乱臣賊子に加担して天皇をしてその要求の実現を絶望せしめたればなり。
 幽閉の安全によって系統は断絶するものに非ず、絶望の為めに継続したる万世一系は乱臣賊子が永続不断なりしことの表白なり、優婉閑雅なる詩人として政権争奪の外に在りしを以てなりフランス国民よりも天皇を迫害したり、強盗の手より強盗の手に転々せる財布、将軍の悲壮なる末路に反して万世一系の血痕なき理由、乱臣賊子は強奪者たる必要なかりしなり、幕末の国体論者は乱臣賊子の椋奪者を転覆せんための努力なるに今の国体論者は略奪を弁護してかえって尊王忠君なりと云う

 かかることが誠忠の奉戴ならば北条氏の両統迭立と徳川氏の不断の脅迫譲位は、何よりも誠忠なる万世一系の奉戴にして幽閉の安全によって系統は断絶する者ならんや。問題は万世一系の継続その事に非ずして、いかにして万世一系が継続せしかの理由に在り。−かかる理由によって継続されたる万世一系は誠に以て乱臣賊子が永続不断なりし事の表白に過ぎずして、誠忠を強弁する国体論者は宮城の門前に拝謝して死罪を待て! 何の奉戴ぞ。日本民族の性格はルイ十六世を斬殺せるフランス人と同一なりと云われつつあるに非ずや、ただ皇室が日本最高の強者たりし間は二三のものを除きて多くルイ十四世の如くならず、殆ど良心の無上命令として儒教の国家主権論を政治道徳として遵奉し、皇室のそれが他の強者の権利に圧伏せられたる時には優婉閑雅なる詩人として政権争奪の外に隔たりて傍観者たりしが故なり。万世一系は皇室の高遠なる道徳の顕現にして誇栄たるべきものは日本国中皇室を外にして一人だもあらず、国民に取ってはその乱臣賊子たりしゆえんの表白なり。もしチャールズ王の如く政権に対する欲望を以て義時に対抗せしと仮定せよ、何人か義時のクロムウェルたらざりしを保すべきぞ。明かに降服の態度を示して東軍を迎えたるに係わらず、全国民の一人として死よりも苦痛なる三帝の流罪を護らんとせし者なきは、外国干渉の口実を去らんが為の余儀なき必要ながらしかも僅かに一票の差を以て死刑を決せしフランス国民よりも遥かに残忍なる報復に非ざりしか。(吾人は今なお故郷なる順徳帝の陵に到る毎に詩人の断腸を思うて涙流る)。

 強力が所有権を決定せし時代はいわゆる切取り強盗は武士の習いなりしを以てしばらく強盗に例えしめよ。強盗の刃を振るうは財布の目的なり、財布を獲たる後に刃を振るう事は殺人狂にあらざればなさざる所なり。否! 既に財布を充分に膨らして持てる所の殺人狂に非らきればいかなる強盗といえども財布を奪いたる後もしくは充分に膨らして持てるその子孫は遠き以前に失える所に向かって刃を加えず切り取り強盗の子孫は財布を遠き以前に失える所の者に向かって殺人狂となるものにあらず。頼朝は巧妙なる脅迫の強盗にして義時は持凶器強盗なり。北条氏、足利氏、徳川氏の守成の将軍等は父祖の強盗によって膨れたる財布を相続して不足なき有福長者なり。彼等は総て成功せる強盗なりき、しかしながら何の理由によって強盗が同時に殺人狂たり、有福長者がまた然らざるべからざるや。実に、一たび強盗の手に入りし財布は強盗の子孫に世襲財産として伝へられ、その数百年の経過の後には今日の法律においてすら時効によって盗品が神聖なる権利となる如く、時の国民によって明らかに犯すべからざる権利とせられ、先きの所有権者たる天皇はあたかも今日数百年前の田地の持主が忘却される如く全く記憶に存せざりき。故に『天皇の御謀反』の語あり。しかして世襲の財布はまた更に他の強盗の白刃によって強奪せられ、強盗は直ちにその強力によって権利を設定す。故に秀吉は我は『我が力を以て天下を取れり』と云えり。強盗の社会においては他の強盗が一の強盗の財布を強奪の即夜より認識するが如く、強力が所有権を確定せし時代においては先きの強奪されたる者を外にして、全天下の強盗は略奪者の第一世よりしてその権利を認識したり。故に家康は全国民よりして『天下様』と仰がれたりき。かくの如くにして財布は常に強盗の手より強盗の手に転々せられ、強盗は互に殺戮して之を争奪せしといえども、強力を失える皇室はこの流血の外に傍観者たるの外なく、為に万世一系に血痕を付着せしめざりしのみ。将軍の末路が悲壮なる割腹を常とせしは財布を持ちて、しかして剛健に之を握れるが為にして、色紙に歌を走らすの指は財布の時にも堪えず。しかして乱臣賊子の国民は一千年の遠き以前において強盗を働き、幕末の歴史編纂に至るまで皇室が最も最初の所有者たることを忘却したるが為なり。貧民は強盗の憂なし。天下の所有者たる意義を国民の乱臣賊子によって奪われたる神道のローマ法王は、強盗を招くべき懐を有せざりしなり。当時の強者に取って神道のローマ法王たる能わず、またその要なきはあたかもドイツ皇帝がキリスト教のローマ法王たる能わず、またその要なしと云うと同一にして、かの木曾の猿猴冠が我れすでに法王に勝てり、法王たらんか法王は法師なるを以て法師たらんも可笑しと伝える如きあるいは一場の傲語ならざりしやも知るべからず。実に強盗等が強力を以て天皇を財布の外に排斥せし事のはなはだしき、中世ただ一回の後醍醐天皇の英傑に向かってすら殆ど刃に血ぬるの要なしとして隠岐の遠島に幽閉したる如きに見よ。源氏然りき、北条氏然りき、足利氏然りき、戦国の一百年徳川氏の三百年総て皆然りき。

 −幕末の真正なる国体論者は近代の権利思想を以てこの略奪者を否認し以て革命論を唱えたるものに非ずや。今日その国体論を継承して尊王忠君を唱えるものが当年の革命党の如く略奪に憤怒せずしてかえって略奪者の乱臣賊子をおおい、万世一系はそれら略奪者の恩恵による奉戴の結果なるかの如く誣いるは独り何ぞや。我が幕末の尊王論者は等しく尊王なる所の貴族階級を転覆せんが為めに尊王を唱える如き自家撞着の狂気漢にあらず。維新の元勲なる伊藤博文氏の『憲法義解』を見よ、実に明瞭に維新革命が主権の回復なるを論ぜるに非ずや。回復とは喪失を前提とす。
 皇室の万世一系あるは系等主義と忠孝主義と及び神道的信仰によると伝える以上の説明

 吾人が皇室の万世一系あるは系統主義と忠孝主義と及び神道の信仰によると伝えるは以上の説明によって解せらるべし。原始的生活時代は神道の信仰と系統主義と忠孝主義の総てによって、その勢力の及びたりし地方の間において奉戴せられたりき。(しかしてこれ他の総ての部落は各その酋長をその三者によって奉戴することによって逆進的歴史家のいわゆる乱臣賊子を歴史的生活以前より意味す)。歴史的生活時代に入って君主国時代の初期は純然たる強者の権を以て全日本に君臨し、後大族の専横ありしに係わらず、系統崇拝の良心によって万世一系の犯されることなく、法理上君主国時代として藤原氏の終局までを奉戴せられたりき。(しかしてこれ藤原氏の系統を誇栄とする等しき系統主義によって君主国時代の殆ど総てを通ぜる乱臣賊子の圧迫なりき)。中世史の貴族国時代に入っては強者の争う所の者とは無関係なる『神道のローマ法王』として神道の衰退しつつありし信仰に奉戴せられたりき。これ頼朝より徳川氏に至る一千年の長き間なり、一千年とは今の先進国の文明に至るまでの歴史なり。さればこの長き間の社会の進化においては最早皇室は系統のみによって崇拝せられず、陪臣の世と云うが如く平等観は実に強力の手によって広大に拡張せられ、維新革命の王侯将相豈種あらんやとのそれが先ず一匹夫秀吉の腕によって実現せられるに至れり。斯くの如くにして皇室は平等観が更に拡張して貴族階級を転覆するに至るまで、貴族階級だけに拡張せられたる平等観によって君主国時代の意義を失い、全く『神道のローマ法王』として宗教的栄誉を有したるに過ぎずなれり。もとより吾人は革命以前はその階級国家たるゆえを以て、社会の組織が系統主義と忠孝主義となりしを否むものに非ず。しかしながらその系統主義とはかえって天皇と同一の枝なりと云う、もしくは父祖より天下の主たりと云う系統的誇栄による平等観、もしくは強者の権の表白として皇室に対する貴族階級の乱臣賊子となり、その系統的誇栄を負う所の貴族階級の下に隷属する武士農奴の下層に取っては系統崇拝の良心による乱臣賊子の加担者として桀狗堯に吠ゆるの理由をなすに外ならず。忠孝主義は経済的独立による政治的自由の貴族階級に取っては全く意義なく、単に他の貴族もしくは皇室と対抗する場合においてその経済的従属の下層階級に向かって対抗者を打撃すべき義務の要求たるに過ぎず。
 皇室の奉戴と云うことと系統の連続と云うこととは別問題なり、キリストの後にローマ法王ある如く国体論はローマ法王となって今や真理を迫害するに至れり

 −実に、中世以後の万世一系の継続は皇室に対する系統崇拝に非ず、また天皇に対する忠孝主義に非ず、貴族階級に対する系統崇拝とそれら『眼前の君父』に対する経済的従属による忠孝主義とを以て皇室に対する乱臣賊子が成功したる−−すなわちいわば乱臣賊子の記念なり。かかる意味における系統の継続は今の出雲の神官にもあり、彼は国民より主権者として奉戴されざる者なりといえども神代より連綿たりと云うに非ずや。かかる意味における最も純粋なる真の一系はインドのマラハーナにあり、彼は政権者にあらずしてクヰンス神の権化したるより三千年の間ただ僅かに一回傍系を養うて継がしめたることあるのみにしてその婚姻を結ぶはただインドの大皇室デルビー家に限らると云う、これ無数の傍系より傍系に上下縦横し、多くの人民の血液ことに藤原氏のそれを無量に混ぜる日本の比に非ざるに非ずや。万世一系そのことば国民の奉戴とはいささかの係りなし。秀吉は自らアメノコヤネノミコトより多くの人民の血液と多くの傍系とによって伝われる万世一系なりと考えたりしといえどもかの父祖はもとより田園の匹婦なりしは論なし。穂積博士の如きは皇室も国民も同一なる血液にして自ら天照大神の後裔なりと考えうるを以て(白痴よ!)、その父祖が徳川将軍に奉戴せられずとするも穂積家のかかる意味における万世一系なることは論なし。否! 単に万世一系が国民の奉戴と係わりなしと云うのみならんや、国民の余りに乱臣賊子にして万世一系が総てを絶望せるを以てなり。略奪に憤慨せる維新革命の国体論者は、略奪者を弁護して自らを天照大神よりの万世一系なりと考えうる下賤なる国体論者を後継とす! 真理の為に十字架に昇れるキリストの後に、真理を偽りてキリストを十字架に昇す所のローマ法王あり。国体論がローマ法王となれる今日、吾人は実に十字架に昇れる国体論者を思うて涕泣せざる能わず。枯骨夜陰に泣くや。

 故に断定す−−皇統の万世一系あるは万世の長き間国民が常に大胆残忍なる乱臣賊子にして天皇は遠き以前にその内容の大部分を略奪せられ神道のローマ法王として絶望したるを以てなりと。実に万世一系は乱臣賊子の記念なり。

 吾人をして十字架に昇れる国体論者の為めに、国体論者を十字架に昇しつつある所のローマ法王に対して更に語らしめよ。
 有賀博士の統治権委任論、有賀博士は歴史家として一の価値なし、有賀博士は宇宙開闢説を以て歴史を解しつつある点において神道の信者たる穂積博士と等し

 有賀博士の『国法学』はいわく、『主権の用は之を幕府に委任したりといえども主権の体は万世一系の天皇に在りき』と。
 吾人は有賀博士をして日本有数の歴史家の名を博せしめたる『帝国史略』を読まず、また今後恐くは拝読の光栄を有せざるべしといえども、その『国法学』において日本政治史を叙説せるを見て実に在来のこそなんめるの代りに主権と云い統治者と云うが如き法律学上の術語を用いたるに過ぎざる逆進的叙述なるに驚く。鎖国時代の歴史家が歴史を以て進化の跡を見るものとして歴史を考えざりしは今日の進化に至らざる社会として当然なり。またカント、ダーウィン以前の欧州のそれらが歴史を以て繰り返す者と解したることも宇宙循環論の思想系を脱する能わざりし進化の一過程として社会の致す所なり。しかしながら天下に先きて『社会進化論』を著し(等しく見ず)、天下に向かって現代の国法を歴史的に研究して天皇主権論の基礎なりとしつつある者が、政治歴史が政権覚醒の発展拡張する順序を研究する者なることを解せざるとは土人なりと云うの外なし。有賀博士一人に限らず、日本歴史家の総ては進化論以後の思想を以て日本歴史に臨みたること殆ど無かるべきを思う。斯くの如きは歴史的研究に非ず。動学的説明にあらず。キリスト教の天地創造説もしくは神道の宇宙開闢説によって一切の禽獣木石が各々それぞれに創造せられたる如く、人類の始めより、すなわちキリスト教ならば天地の創造より、神道ならば宇宙の開闢より、アダム、イヴの西洋は共和民主国にしてイザナギ・イザナミの日本は君主国に作られたるものと迷妄し、以て国体及び政体の時代的分類を忘却するなり。
 有賀博士の徳川氏に関する統治権委任論は純然たる論理的錯乱なり

 −これある哉、『我が日本の国体』! 吾人はむしろ進化論を解せず宇宙開闢説を信仰して憲法学を講ずる可憐なる穂積博士の一貫せるを賞賛す。有賀博士は穂積博士と等しく神道の信仰たる宇宙開闢説を思想の中枢とす、自ら歴史的研究の名を掲げて穂積博士の君主主権論を嘲笑
し、『天皇主権の基礎を単に天照大神の子孫なりとの事実によって定めるは歴史を考えざる俗論なり』と喝破するが如きは僭越もはなはだし。有賀博士は歴史によって天皇主権論を唱える者に非ず、穂積博士と等しき神道的信仰より歴史を玩弄しつつあるものなり。博士の罵倒は天に向かって吐ける唾にして自家の面を汚せり。

 ヒョウタンより駒の出づることが因果律に許容せられざる間、徳川氏の公武法制十八箇条、禁中方御定目十七箇条の中より有賀博士の統治権委任論の出づる理由なし。吾人は再び公武法制十八箇条と禁中方御定目十七箇条とを掲げて幕府の対皇室策を縷述せず、また義時・尊氏を凌駕せる不断の幽閉と不断の脅迫譲位の事実を羅列せざるべし。しかしながら少しく歴史的研究者の態度あらば、皇室の圧迫に用いられたるそれらの法文を逆用して皇室と幕府との間を委任関係を以て説明せんとするが如き狂気なかるべき理なり。博士はいわく、『源平より以降戦勝の結果によるに非ずして支配権を得るもの徳川氏を以て始めとす、故に統治権を維持するの理由は之を兵力の外に求めざるべからず。家康古典に渉り国体に通ず、一旦政権を天皇に返し奉りその委任によって幕府を編成するの主義を取り勅を奉じて公武法制を制定す』と。何たる論理ぞ。天皇より政権を委任されんが為めに『一旦政権を天皇に返し奉る』とは。すなわち委任されざる以前において有したる所の政権を返すと云うことにして、委任以前に徳川氏が政権者なりしことを前提とす。博士は云うべし、秀吉が委任せられたる所の政権を兵力によって奪い、それを天皇に返して更に委任を受けたるなりと。吾人は天皇の委任したる主権の用なるものを主権の用を委任されず、従って兵権なかるべき徳川氏がいかにして奪い得たるかを問わず。しかしながら古典に渉り国体に通ずる所の徳川氏が委任によって支配権を得たる『始め』なりとせば、『源平以降戦勝の結果による』政権者は主権の用を委任せられたる者に非ずと云うことの明言にして統治権委任論は自殺論法なり。反覆して云えば有賀博士の統治権委任論とは下の如くなる。すなわち『一旦政権を天皇に返し奉りその委任によって支配権を得るもの徳川氏を以て始めとす』るが故に、『源平より以降戦勝の結果による』総ての幕府は統治権を委任せられたるものに非ず。また最初の幕府が統治権の用を委任せられしとするも、統治権の用を委任せられざる所のすなわち兵権なき所の徳川氏は『一旦政権を天皇に返し奉りし』と云うも返すべき主権の用を委任せられし事なし。
 博士は更に徳川以前より総て幕府との関係は委任なりと云う、兵馬権なる者が天皇より委任されしとの議論は成立せず、外交権なる者が天皇より委任されしとの議論も成立せず

 しかしながら有賀博士は云えり。いわく『兵馬大権も理論上はなお天皇に在りし。勅宣を以て頼朝を総追捕使征夷大将軍に任ぜしめ給ひ、追討は必ず院宣によって之を行わしめ給ひしにて知るべし』。いわく『また外交においても理論上その権力の天皇に存したるは文永九年元国の高麗より書を献じ通便を求め来たりしとき、時宗之を朝廷に奏したりしにて知るべし』。これ『委任によって幕府を編成』し『支配権を得る者徳川氏を以て始めとす』と伝える前きの主張を打ち消して、『源平以降戦勝の結果による』ものも等しく共に統治権の用なるものを委任せられたりと云う立言なり。−−万国無比の統治権委任論よ! 吾人は敢て頼朝が総追捕使征夷大将軍に任ぜられ、また追討の時に院宣を受けしことを否むものにあらず、そは博士が文字の形態発音によって考えうる如く、今日の天皇が陸軍大将を任命し宣戦の勅語を発すると同じ意義のものに非ずして、神道のローマ法王と鎌倉の神聖皇帝との関係なるを以てなり。博士は須く省みるべし。彼が追捕使征夷大将軍に任ぜられざる以前においてかえって院宣を受けて来れる平氏を撃破せる兵馬の権利は何人の委任によりしか。院宣なるものは何の権利あって天皇を有する平氏の追討を命ずることを得たるや。主権の体と云うは院宣にありや勅命に在りや。有賀博士にして院宣の勅命とは当時の事実によって共に有効なりしと主張するあらば、これ誠に事実を重ずる歴史家の態度にして、事実上の兵馬権は頼朝の遠き以前より有したる所なり。否! 頼朝は院宣を奉じて勅命の者を鏖殺せしのみならず院宣その事をも眼中に置かず、例えばその許なきに係わらず、我の臣を征するなり君にして臣を征する何ぞ院宣を待たんとなして堂々君主の慨を以て奥羽を伐ちしに非ずや。吾人はまたあえて文永九年元国の通使を求めしとき時宗の奏聞せし事を否む者に非ず、そはまた博士が文字の形態発音によって考えうる如く、今日の天皇が外務大臣の報告を聞くと同意義の者に非ずして、神道のローマ法王たりしが為めなるを以てなり。すなわち亀山上皇が身を捨てて伊勢大廟に祈りしが為めに神風の起りて元寇を掃討せしと信仰せられたるほどに神道の信仰の上に立てる神道のローマ法王たりしを以てなり。博士は総てにおいて須く自ら省みるべし。時宗の専制権を以て勅答を反古にし、宣戦の布告は胆甕の如き相模太郎の一喝によってなされ、しかして天下総て之に従って戦いしものはかの外交権を承認したるが故に非ざるか。足利義満は天皇の委任による主権の用を以て外交権を行使し中国より日本国王に封ぜられしか。豊臣秀吉は天皇の委任による兵馬権なる者を以て朝鮮を征伐し、委任による外交権を以て和議の文書を破棄し、我れは吾が力を以て天下を取れり王たらんと欲すれば王、帝たらんと欲すれば帝と云いしか。家康の外交は開国を旨として外国貿易を自由にし、家光は厳唆なる鎖国政策を以て国家を封鎖せしは皆天皇の委任による外交権の行使なりしか。
 有賀博士の用語は詐欺取財脅喝取財を委任取財と云い盗品を委任財産と云うものなり、博士の主権論はその主体と行用が相背馳しもしくは打撃し得べしと云うものなり、欧州今日の各国は主権の体と云うもの無き空虚のものか

 −実に万世無比の統治権委任論なるかな、委任とは合意の契約を要素とし、また定められたる条件を外にして契約解除の自由なかるべからず。詐欺を以て他の財布を奪いしものを詐欺取財、脅喝を以て奪いしものは脅喝取財と云う言語文字あって委任取財とは有賀博士のみの使用たるべく。白刃に掛けて奪えるものは盗賊の盗品と名づけられて、委任財産とは日本の法律にて未だ通用せざる文字言語なり。しかして委任したるものの契約解除もしくは返還を要むるに、かえって無人島に追放すること義時の如く、あるいは徳川家光の三十五万の軍を率いて威喝せるが如き何たる奇怪の委任契約なりしぞ。主権の体と用とが分離すべく、しかして用を幕府に委任したりと云う有賀博士よ! 主権の本体たる天皇が外交権の体によって鎖国攘夷を命ずるに、その用を委任せられたる幕府が開港条約を結びたるは体と用とが相互に他を打ち消すことの自由なりと云う条件付の委任契約なりしか! 主権の本体として理論上兵馬大権を有したる天皇は、その兵馬大権の用なるものを北条義時に委任し、その用を以て体を打撃することを契約したりしか! 主権とはその本体の上にその用なる自己の主権が圧倒して行使されるものなるか! 吾人が日本中世史の天皇と将軍との意義を以て欧州の中世史に比し、以て『神道のローマ法王』と云い『鎌倉の神聖皇帝』と名づけたるはこの故なり。万国無比の統治権委任論よ! 神道のローマ法王より征夷大将軍を任命せられることによって鎌倉の神聖皇帝が統治権の用を委任せられたるものなりとせば、かの欧州の神聖皇帝に冠を加えたるローマ法王は統治権の体を有したるものなりしか。しかしてまた当然の論理として当時の諸侯は天皇の委任によって統治権の用を委任されたる幕府より、更にその用を委任されたるものなりと云うか、然らば今日の欧州諸国の君主はローマ法王より主権の用を委任せられたる神聖皇帝より、更にその用を委任せられたるものにして、欧州各国の今日は主権の体とやらんは無き空虚の浮島か。−−かかる万国無比の統治権委任論を以てすればフランスも米国も総て『万国無比の国体』たり得べし。
 万国無比の国体には万国無比の統治権委任論あり

 日本の大学教授は足利義満の独立せる『日本国王』の称号を以て外交権の用を委任せられたるよりの独立となすべし、しかしながら米国の大学教授は米国独立戦争が主権の体なる英王より独立を委任せられたりとは云わず。日本の法学博士は義時が三帝を流罪せるは兵馬権の用を委任されたるよりの反逆とすべし、しかしながらフランスの法学博士は革命党が主権の体なるルイ王より王自身を断頭台に昇すべき主権の用を委任せられたりとは云わず。総て万国無比には万国無比の議論あり。

 更に穂積博士をして有賀博士の罵倒に復酬せしめよ。
 穂積博士の主権本質論は有賀博士の統治権委任を打ち消す、穂積博士の主権論本質論は権力を行う力なかりし中世史一千年間の皇室が主権者にあらずとの断言なり、日本の主権は決して万世一系に固定せず常に動揺したりとの歴史解釈なり

 実に以て土人部落の滑稽劇と云うの外なし。穂積博士は有賀博士と共に君主主権論者にしてその論拠を原始的宗教の信仰と共に日本歴史に置くものなり。しかして有賀博士が穂積博士の原始的宗教を罵倒せるに係わらず、博士自身は原始的宗教の宇宙開闢説を以て歴史を静的に取り扱いつつある如く、穂積博士に至っては原始的宗教を信仰すとの標榜なるが故に日本民族のみ進化律の外に結跏趺坐して古今国体の進動せしことなしと云う歴史哲学者なるにおいて共に一なり。しかも、かかる点において慶賀すべき一致あるに係わらず、有賀博士の気焔がたまたま穂積博士に対する罵倒となりしが如く、主権本質論の見解において穂積博士の意気はまた以上の有賀博士の解釈を根本より打ち消すに至っては実に噴飯の限りなり。もとより両氏は君主主権論の大傘の下において敵なるべき理なく、有賀博士の気焔が穂積博士に向かって吐かれざると同様に、穂積博士の意気も有賀博士を的に吹かれたるものに非ざるべきは論なし。

 −吾人はあえて悪戯の為めに盲者に等しき二氏を衝突に導きて傍らより嘲笑せんとするものに非ずといえども二氏に対しては深く謝せざるべからず。すなわち、穂積博士の主権本質論は同じき君主主権論者に向かって主権の学理を示したるものにあらずして、いわゆる政党内閣を主張する所の民主主義者が事実上の共和政体を慣習憲法によって樹立せしめんとする企図に対して論じたるものなり。いわく、『チエールの君主は統御すれども支配せずと云うは理論としても取るに足らず。総て権力は活動するが故に権力なり。活動せざる権力と云うは権力の観念に反す。君主が主権者ならば権力を行う力を有せざるべからず。権力を行う力なきものは主権者にあらず』。これ権力を行う力なかりし中世史一千年間の天皇が主権者に非らざりしと云う断言なり。

 更にいわく、その二、権力を行う所の今日の天皇を主権者とすると共に幕府を権力者なりと云う主張なり。 『権力を行うを得ざる権力者と云う観念は自家撞着なり。権力とは意志の働きにて行動するが故に権力なり。権力なき主権者と云うは理論上意味をなさず。法理論として攻撃するの価値なし。かつ実際論としても権力の主体と権力の作用とを分つ能わず。語の上説明の上においてこそ分離して考えれども、事実上権力の本体とその作用とは同一人に属せざれば意味をなさず。権力を行う人を権力者となすなり』。これ権力を行う所の今日の天皇を権力者なりとすると共に幕府を権力者なりと云う主張なり。

 更にいわく、 『社会の主権の成立するは社会的勢力による。論理的に成立するにあらず。故に歴史を読むときは往々にして主権の所在の極めて不明なることあり。あるいは君主が主権者たる如く、君主といえども貴族豪族の擁する所となって実権は豪族の手にあるが如く、あるいは君主と国会とが合体して主権者となると云う観念を有するものあり。歴史の実際は必ず君主にありとか国会に在りとか判然せざる場合多し。これ主権の性質の然らしむる所なり。主権は社会的勢力なり。社会の成立は種々なる原因によって定まる。故に歴史の結果としてその国民がその主権の所在する所を確信して喜んでその権力に服従する所を以て主権の所在とするの外なし』。これもとより君主国貴族国民主国の三時代の進化を解するよりの見解に非ざるは論なしといえども、歴史の実際云々以下の文字によって日本国の主権は決して万世一系に固定せず常に動揺したりとの歴史解釈なることは明かに認めらる。
 穂積博士の主権本質論は乱臣賊子を主権者なりと追認するものなり、穂積博士の銅像は両頭にして各々脱糞を要す、伊藤博文氏の強者の権の表白と穂積博士の奴隷

 これ実に乱臣賊子の権力を追認する者にあらずや。義時の墓に向かって徳川氏の廟に向かって主権者の称号を奉るものに非ずや。嗚呼忠臣穂積氏之墓よ!
 斯くの如き主権本質論は『天皇の御謀反』と名づけて義時の権力の下に歓んでその権力に服従せし北条氏時代ならば可なり。家康を『神君』と云い総ての将軍を『天下様』と称して歓んでその権力に服従せし徳川氏時代ならば可なり。尊王屋忠君業を以て天下に鳴る穂積八束氏その人の口より乱臣賊子の追認とは呆れるの外なし。吾人一人のみは穂積博士を以て現今の国体を革命し政体を変更し、従って重大なる国家機関の一たる天皇を転覆するに至るべき復古的革命家なりと云うといえども、一般世人は博士の憲法学を誤って勤王的法律家と呼び、死後必ず伊藤博文氏の傍らにいささか謙遜に、小さくしかして黄色の物質を戴きて銅像として建てらるべく、芳名を湊川神社のあらん限り残すを期待しつつある者なり。然るに、権力なき主権者とは理論上無意味なりと云い、国民の悦で服従する所を主権の所在となすと云うとは何たる乱臣賊子ぞ。しかもいわく『国家主権は万世一系の皇位に在って他に移らざりしを我が国体となす』と。もし銅像が建てられるならば必ず両頭を要し、しかして各々の頭に黄色の脱糞を要す。
 穂積博士は幕府主権論者として志士の忠魂を侮弄す

 吾人は理由なく法科大学長帝国大学教授法学博士を侮弄するものにあらず。もし貴族階級と苦闘したる幕末の国体論者の如く、貴族等の乱臣賊子が天皇の主権を略奪しつつありしことを認めてその転覆の為めに皇室が主権を奪われたりと主張するならば、議論を外にして吾人は満腔の同情に傾倒すべし。また、かの伊藤博文氏が維新の功臣たるの故を以て『維新革命は主権を回復せるものなり』と主張すとも、そは彼等の功業に対する満足の表白にして強者は自己の権利が何者に基くかを説明するの理論を有せざるべからず。もとより伊藤氏のかかる事を主張する『憲法義解』の誤れるは論なし、しかしながら穂積博士が彼の『憲法義解』を額に戴きて大学の講壇に昇るの時は、彼が如き強者の栄誉を表白するものにあらずして奴隷なり。幕末の国体論者ならば主権の略奪者を憤怒して許容せざるべし、然るにあたかも幕府主権論者の口吻を以て『権力なき主権者とは理論上無意味なり』と云い『国民の悦で服従する所を主権の所在となす』と云うが如きは、誠に志士の忠魂を侮弄するも極まる。幕末国体論者は幕府の権力者なる事を認めたりき、しかしながらそは転覆せんが為めの認識にして穂積氏の如き主権本質論を以て幕府の膝下に平伏せんが為めの弁護にあらず。吾人は実に疑う−−かかる主権本質論よりして『国家主権は万世一系の皇位に在って移らざりしを我が国体となす』と云う歴史解釈がいかにして産まれるや、更に詳しく見よ。
 穂積博士の維新革命論は総て矛盾なり

 『近世欧州諸国の基礎は封建制度の分裂独立より成れり。我が国においては封建制度衰えて諸侯権力を失い、中央の朝廷再び権力を回復して統一したり。之を我が明治維新の大業とす。欧の封建制度は之と正反対の結果を来したり。封建制度衰えるに従い中央の皇帝は全く権力を失い遂に地方の大諸侯が小諸侯を併呑し自立して独立国をなせり。今日の欧州諸国は中世には神聖ローマ皇帝の下に属する諸侯なり。しかるに中央の政府滅亡して諸侯独立せり。あたかも日本において云わば維新後薩摩長州の如き数多の独立国に分れたると同一の形況なり』
 『主権の回復』とは主権の喪失を前提とす、氏の主権本質論は強力説にして神道的憲法論を打消す 、穂積博士の主権本質論は自らの君主主権論を打ち消す所の国家主権論なり

 総てが矛盾なり。『諸侯権力を失い』とは諸侯の権力を持てることを前提とし、『中央の朝廷再び権力を回復したり』とは天皇が権力を喪失せることを前提とす。『国家主権が万世一系の皇位に在って移ることなかりし我が国体』ならば、維新革命によって他に移ることなかりし『主権を回復す』とは人類の言語にあらず。彼は天皇主権論を云うか、幕府主権論を云うか。彼をして欧州の如く中央の神聖皇帝滅びて地方諸侯の自立せる悪夢を見せしめよ、目醒めての彼は君臣一家論も忠孝一致論も神道の信仰も一切のことを捨てて『権力の在る所主権の在る所なり』として薩摩・長州の君主の下に乱臣賊子の頭において天皇主権論を否認すべし。すなわちかかる主権論は純然たる強力説にして神道的憲法論のそれの如く宗教道徳とは別の基礎なり。実に穂積博士を思考するには両頭の怪物を想像するより外なきなり。 ああ両頭の怪物穂積八束氏! かの両肩にある頭は各相肯定し相否定しつつあり。右の頭が神道を宗教として信仰すと云えば左のそれは神話の科学的研究を為しつつあり。左のそれが幕府主権論を唱導しつつありと云えば、右の頭は天皇主権論を説述しつつあり。否!、かの左肩の頭は国家主権論を信じ、右肩のそれは天皇主権論を説く。この処に引用せるかの主権本質論と前きの法理論に掲げたるかの主権の説明とを見よ。『主権とは社会的勢力なり』と云うこの処の命題は実に国家主権論の思想にして、君主主権論の説明たる『主権は君主固有の力なり』と云う命題を打ち消すものなり。主権が社会的勢力たらば社会が主権の主体たるべく、君主固有の力なりとせば君主の死と共に死すべし。

 −この相対抗しつつある法律学界の二大思潮を同時に窃取すとはいかにすとも考うべからず、吾人は僅かに両頭の怪物を想像して思考し得たり。上知と下愚の移らずと云うは上知は自己の知なることを知るの知識を有し、下愚は自己の愚なることを知るの知識すらも有せざることを意味す。穂積博士はもとより自己の愚なることを知るの知識を有するものにあらずといえども、自己の知なることを知るの知識を有するを以て吾人はその何れなるかを知る能わず。しかしながらかかる両頭の怪物が帝国大学の講壇を独占するが故に(しかして近時大学の神聖を唱えたりと云うが故に、呵々)、大学卒業生なる者が嘲笑の材料とせられ、更に大日本帝国の意志を表白する重大の機関たるべき司法行政の登竜門に立ち塞がれるが為めに、思想の独立を無上の権威とする少壮学者にして実に韓信の忍耐を以てかの跨下を匍匐して過ぎるの外なきなり。土人部落ならずんばかかる両頭の怪物なし。
 有賀博士と穂積博士の衝突

 重ねて謝す、吾人の有賀博士と穂積博士とを対抗せしめたるは、決して盲者を衝突に導きて傍より嘲笑する頑童の悪戯を為したるものにあらず。頼山陽日本外史の苦心いずくんぞ彼等の諒察し得る所ならんや。

 中世史の天皇の意義につきては有賀博士も穂積博士も共に誤謬なり

 然らば、日本中世史の天皇は『神道のローマ法王』たる以外何等の意義を有せざりしや。否、吾人は信ず、天皇はそれ以外に幕府諸侯と等しき統治権を有し、ただ強力において劣りしのみと。すなわち、有賀博士の統治権委任論の如く幕府諸侯がその所有の土地人民の上に統治権を有したるは天皇の委任による統治権の用にあらずして各々統治権者たりと云うことなり。穂積博士の主権本質論の如く他の強力に圧伏せられたることありといえども維新以前の天皇はその内容の総てを幕府に奪われで幕府のみが日本の統治者なりしと云うものにあらず、将軍諸侯天皇の各々総てが統治者たりしと云うことなり。
 多くの統治権の主体が存在せし家長国と云う別個の国体、強力が総ての権利を決定せし中世時代、天皇は神道のローマ法王たる以外その範囲内における家長君主としての統治者たる事を失いし事なし、貴族国時代の『貴族』の意義、主権本来の意義は最高の統治者と云うことにして統治者の上の統治者君主の上の君主と云うことなり

 吾人が国体の進化的分類と云う主張はここに在り。すなわち、維新革命以前の国家は『家長国』と云う別種の国体にして必ずしも一国一主権にあらず、多くの統治者がその所有内の国土及び人民を自己の利益と目的との為に私有財産として処分しつつありし者なり。すなわち、この財産権の主体を統治者と云い財産権の行使を統治と云う者にして、今日の如く国家の目的と利益の為に国家自身が統治する所の主体なりと云うとは大に意味を異にする君主主権の国体なりしなり。しかして始めには近畿地方の国土及び人民の上に天皇が一人の所有権者にして君主国時代なりき。然るに天皇の系統の分派が漸次に地方に侵略して土豪となり群雄となって国土及び人民を所有するに至り日本全国の上に無数の君主を生じたりき。これ頼朝以後の貴族国時代なりき。すなわち歴史的記録の発現より維新革命に至るまでの一千数百年間は『家長国』にして、始めには小区域に止まりし者が漸次に大区域に拡張し、始めは一人の家長君主なりしものが漸次に多くの家長君主となって相抗争するに至れり。しかして古代及び中世を通ぜる権利の決定は強力なりき。故に皇室が最初の強力者として小地方の国土人民の上に家長君主たりしといえども、更に皇室の系統の源平足利徳川等が地方の国土人民の上に家長君主となるに至り、ここに個人の権威を強力の決定に求めたりき。すなわち貴族国時代の貴族とはその将軍と云い群雄と云い諸侯と云い種々の名称あるに係わらず、その所有の国土人民の上に絶対無限の権利を有したる家長君主たる点においては総てことごとく同一なりき。しかして天皇も中世に至っては神道のローマ法王たる意義以外、その所有の土地人民の上において無限絶対の権利を有したることは疑いなし。もとより中世史の後半即群雄戦国の一百年より徳川氏の二百年に至るまでは全く神道のローマ法王たる以外何の権利も剰さざりしかの如く考えらるといえどもその貧窮の間においてもなお憐れなる公卿を臣として有し、徳川氏より無限の圧迫を蒙りつつも少許の土地を与えられしを以て、法理上その土地人民の上において家長君主としての絶対の権を有したは事実なり。(なお『生物進化論と社会哲学』において君主国貴族国民主国の進化を社会哲学の上より論じたる所を見よ)。

 貴族国時代の貴族とは決して今日の『華族』なる者の如く特権ある国民と云うものにあらず、その所有の土地人民の上に絶対の権利を有したる『君主』なり。すなわち、貴族国時代とはかかる『君主』があるいは抗争しあるいは合同して多く存在したりし時代のことにして、彼等は天皇の系統と云う誇栄を以て先ず社会の一分子の実現したる所の者を少数階級に実現を及ぼして君主国時代の君主と同一の平面にまで進化し昇れるものなり。しかしながらこの理由は有賀博士の統治権委任論の否定なりといえども、天皇を以て統治者に非ずと論ずる穂積博士の主権本質論の肯定にあらず。諸侯将軍共に君主なりき。しかしながら天皇も共に君主たりしことは歴史上の事実なり。ただ、『主権』の文字を本来の意義、すなわち『最高の統治者』『統治者の上の統治者』、『君主の上の君主』の意義に解するならば、これ実に王覇の弁の論争されしゆえんにしてまた一問題なり。

 主権の思想は中世の出現にして今日に最高権と云うことなし この問題に対する零点の答案は穂積博士のそれなり。『主権の処在の不明なるときは国家の動揺せる時なり』と。彼がその『憲法大意』に定義せる如く『国権とは国を統治する主権なり』と云うほどに主権本来の意義を忘却して一国一統治権の現代を以て中世史を考えうるならば、単に日本中世史に限らず欧州のそれも然かりしを以て近代を解する唯一の途たる総ての中世史は国家学の研究外に進出すべく、かつ国家とは常に進化して止まざるものなるを以て常に動揺すべく、穂積博士は憲法学のサジを投ずるの外なし。『主権』と云う文字は実に中世の出現にして多くの君主統治者の存在せし中世において何人が『君主の上の君主』『統治者の上の統治者』なるかを表白せんが為めに実に『最高権』と云うことを意味す。今日の国家においてはたとえ君主主権論を取るともまた国家主権論を取るとも君主もしくは国家より外に権利の主体たるもの一もなきを以て『最高権』と云うことなし。『最高権』の意義あるはすなわち最高ならざる所の権利の主体存することを意味してすなわち家長国の中世史なり。然らば、万世一系の天皇は日本の中世史において主権者、すなわち最高権を有する統治者の上の統治者君主の上の君主なりしや。
 最高権の意義における主権所在論は王覇の弁の名において天皇主権論と幕府主権論との論争なり

 主権論とは無関係に天皇の君主たりしことに動きなし

 王覇の弁とは主権の処在の決定なりと解すべし。すなわち、王者が大名なる統治者の上の統治者として最高権を有すべきや、覇者が諸侯なる君主の上の君主として最高権を有すべきやと云う論争なり。しかしながら、仮に幕府主権論者の物、徂徠等の見を取ると定めるも、足利時代の幕府は尊氏の始めより群雄の上に最高の統治権を振るいたる主権者にあらず。また徳川氏の末は長州・薩摩の統治者等の上に最高権を発動する能わず、また皇室の強大を加えて従来の如く圧伏する能わざりしを以て当時の幕府を主権者なりと云う能わず。また仮定して天皇を栄誉の源泉としてこの栄誉権を留保せしと云うことを理由として国学者の如く天皇主権論を唱えるも、その栄誉権の行使が常に兵権によって阻害せられ、かつ栄誉権の本体たる天皇が兵権者の自由によって改廃せられしを以て、ある時代においてはこの意味における主権者として議論の貫徹せざるものあり。加えるに強力が総てを決定せし正義の時代において天皇御謀反の語あり、今日においても国際間はなお多く強力による権利なるを以て主権国と非主権国とを分類するに兵権を第一要素に挙ぐる思想よりすれば、天皇主権論を以て一千年間を一貫することは困難なり。−−吾人は断言す、主権とは数多の家長君主等が抗争の間において生ずる勢力の消長のことにして、主権者はその時代々々によって決定すべく、決して不変のものにあらずと。故に吾人はかかる意味の主権論と無関係に諸侯幕府が各々統治者たる君主にして、天皇もまた決して統治者たることを失いしことなしと断言せんと欲す。すなわち、天皇は天皇として君主なりき、しかして社会の進化は平等観の拡張となり貴族階級が天皇を摸倣して到達に努力し、群雄諸侯皆それぞれに進化してそれぞれの範囲内にて君主となりしなり。
 幕末の国体論は天皇に対する尊王忠君を要求として唱えたるにて歴史上の事実として認めたるにあらず、万世一系を奉戴すべき事を要求として唱えたるにて歴史上の事実として奉戴しつつありしと云うにあらず
 故に、吾人は幕末の国体論者の如く幕府諸侯が天皇の統治権を略奪して天皇は実質なき空に名づけられたる者なりと考えうるものにあらず、しかしながら彼等は国民はことごとく天皇に尊王忠君なるべきことを要求として唱導したるものにして、今の国体論の如く幕府諸侯の略奪を弁護して彼等を尊王忠君なりと賞賛したるが為めに斬られたるに非らざりき。彼等は国民が万世一系を奉戴すべきことを要求として言えり、しかしながら万世一系が国民の尊王忠君に奉戴せられたる事実の為めに零落悲惨の極に達せりとして悲憤慷慨せざりき。彼等は零落悲惨なる万世一系の継続を橋土に伏して眺めたる時、これ国民の万世欠くるなき乱臣賊子の為めに総てを絶望せる罪悪の記念なりと感じたりや否やは知らず、しかしながら万世一系は皇室一家のみの誇栄たるべき者にして国民の奉戴による効果に非ざることだけは確実に知れり。ああ国体論は終にローマ法王となれり、しかして国体論の精神を伝うる真の国体論者をかえって十字架に昇さんとするか!

 吾人は国体論の名においてローマ法王の教義を拒絶し、万世一系を指して明かに告げん。これ皇室の徳を建つること深厚なるよりの皇室の誇栄にして、国民に取っては億兆心を一にして万世欠くるなき乱臣賊子を働きたる歴史的ピラミッドなりと。

【第十四章】
 維新革命の国体論は天皇に対する忠を主張せんよりも貴族階級に対する忠を否認せんが為なり。国体論者は乱臣賊子なる名において乱臣賊子に殺さる。等しく忠臣義士なる所の諸侯将軍と等しく忠臣義士なる所の国体論者との奇怪なる階級闘争。尊王忠君が十年ならずして憲法要求の運動となれりと云う奇怪なる民族心理学。維新革命は王政復古にあらず、歴史とは復古するものにあらず。維新革命は大化の遠き理想たりし公民国家の実現なり。個人の現在的利己的目的より外なかりし家長国時代と社会の永遠なる理想を意識せる公民国家の現代旧社会哲学の見地と道徳学法律学の見地。大化革命の公民国家は天智の理想に止まりて実現されたるものは君主主権の家長国なりき。国家主権論と共に土地国有論を断行したるはその経済的関係において国家に忠ならしめん事に在り。土地国有論の励行と貴族国の萌芽。後の天皇皆天智の理想を打ち消して家長国となる。経済的基礎を失える中世史の天皇は単に理想国を理想しつつありしに過ぎず。大化革命の政治的組織はなお純然たる階級国家なり。プラトンの理想国とプラトンの期待したる哲学者の君主。国家主権の国体は長き進化の後なり。朕すなわち国家なりとは法理上国家の一部分なる君主か国家の全部なることを意味す。個人的利己心の意識が同時に国家の意志たる家長国。社会の進化と国家意識の覚醒。攘夷論の社会単位の生存競争による社会的存在の覚醒。維新革命は国家の目的理想を法律道徳の上に明らかに意識したる点において社会主義なり。下層階級の経済的進化による民主的独立。革命の要求と理論。『国体論』とは民主主義を古典と儒教とにおおいたる革命論なり。権利思想の三百年間における急転。革命論の要求急なりしが為めに古代史を考察するの暇なし。幕末における神道的信仰の皆無。国体論者の革命文学。革命論は総て王覇の弁と古典の仮定より演繹されたり。維新革命は社会間の接触によって覚醒せる国家意識と一千三百年の社会進化による平等観の普及とが未だ社会民主主義の理論を得ずして先ず爆発したるものなり。政権藩領の奉戴にあらずまた尊王忠君に非ず。『二千五百年史』は義時・尊氏等の貴族主義者を民主主義者と誤り国体論を君主主義と誤れり。高山彦九郎とドイツ皇帝の狙撃者は国体論と社会民主主義とが皇帝そのものを目的とせざる事を解せざる政治狂なり。政治史とは政権に対する意識の拡張と云う事なり。現天皇は特権ある一国民として維新革命の民主的大首領たりき。維新革命以後の『天皇』の内容。維新革命は建設的方面における無計画の爆発なり。欧州の革命は長き計画後なりき。維新革命と戊辰戦役において貴族主義に対する破壊をなし民主主義の建設的本色は二十三年間の継続運動にて段落したり。『華族』の意義。維新革命の民主主義者は成功と共に貴族主義となれり。貴族主義者の大勝利。維新革命の本義を明らかに解し藩閥がその破壊的方面において元勲たることを正当に認識すると共に建設的本色において元凶なることを厳粛に解せよろ。『乱臣賊子』と云うが如き逆進的批判は善悪の進化的のものなることを知らざるによる。成功せる今日維新革命の民主主義者が乱臣賊子の名を拭われたる如く成功せる貴族は当時において乱臣賊子と呼ばれず。善悪の決定と社会的勢力。教育勅語を自家の護衛に使役する井上博士の倫理学。現天皇の個人的卓越に向かって科学的倫理学者としての全能までを要求するは暴なり。教育勅語は学界に悪果を来したるものにあらず、学者の愚呆を教育勅語の責任に導くべからず。義時・尊氏等が国利民福の為めに民政を害する皇室を排斥せる者なりと云う他の独断論。中世貴族の乱臣賊子に非ずと云うことはその人民及び他の貴族等より自由独立を承認せられたりと云うことなり。貴族のみならず総ての武士百姓の階級も乱臣賊子にあらず。経済史の進化と武士平民の開放。社会民主主義は現今の国体と政体とを転覆して実現されるものにあらず維新革命その事が社会民主主義なり。今日の社会民主主義。憲法第一条の『万世一系』とあるは将来のことにして歴史に係わりなし。契約憲法に非ざると共にまた君主主権論者の解する如き欽定憲法にあらず。維新より二十三年に至るまでにおいては国家主権の国体にして政体は最高機関を一人の特権者にて組織する政体なりき。家長国時代の君主専制と公民国家の君主専制。二十三年の帝国憲法は国家がその主権によって一人の最高機関の口を通じて最高機関に平等の多数を要素する政体に変更することを表白したるものなり。国家は主権体として機関を改廃作成するを得といえども二十三年にして消えたる一人の最高機関は憲法改正または廃止の自由なし。穂積博士の欽定憲法論は継体天皇もしくは光孝天皇の如きを金村・基経等の自由に改廃するを得べき欽定天皇なりと云う論理なり。欽定憲法の意義。憲法の解釈権は何者にも存せず。『愛国』と『民権』の声。天皇の国家機関たる地位は原始的宗教を信ぜずと云うこともしくは血液を異にすとの理由を以て侵犯さるべからずまた奴隷的従属関係にあらず。天皇は崩壊しつつある系統崇拝の基礎に立てたるものに非ず。天皇と国民とが血液において懸隔なしと云うことを以て天皇を否認することは国家の是認せざる所なり。土人部落の蛮神は教育勅語を盗奪したり。国家機関は内部的生活に立ち入る能わず。井上博士一派の解釈家の『克く忠に』の意義は天皇を解せず。忠君と愛国との道徳的理想の進化。忠君愛国一致論の迷妄。穂積博士の忠君愛国一致論はその排撃する国家主権論と自家の君主主権論と一致すと云う死滅なり。『爾臣民克く忠に』とは国家の利益の為めに天皇の特権を尊重せよと云うことなり。以上の総括
 維新革命の国体論は天皇に対する忠を主張せんよりも貴族階級に対する忠を否認せんが為なり、国体論者は乱臣賊子なる名において乱臣賊子に殺さる、等しく忠臣義士なる所の諸侯将軍と等しく忠臣義士なる所の国体論者との奇怪なる階級闘争、国民はその歴史たよって外国文明を吸収する素養を有し

 吾人は先に国体論を貴族階級が天皇に対する忠順の義務を欠けることを憤怒して唱えられたるかの如く解したり。しかしながら歴史哲学の上より見れば、貴族階級に対する忠順の義務をも拒絶せんが為に貴族階級自身が忠順の義務を拒絶したりしたことを指示したるものなり。すなわち、平等観が貴族階級にまで拡張したる歴史の進化を承けて更に一般階級に拡張せんとする−維新革命の民主主義の為に! 説明の根拠を儒教と古典とに求めて、『貴族等は吾人に忠順の奴隷的道徳を要求しつつあり、しかしながら彼等はその始めに忠順の義務を蹂躙したる乱臣賊子にあらずや。吾人は彼等に対する乱臣賊子とならんが為めに彼等のかえって乱臣賊子なることを攻むべし』と論ぜんが為の革命論に過ぎず。すなわち、『忠』そのものの否定の為に過ぎず。かくの如くにして貴族主義者はその乱臣賊子によって得たる地位を維持せんとして国体論者を迫害し。国体論者の民主主義者はまた貴族階級と同一なる地位に進化せんが為に『眼前の君父』に対して乱臣賊子を働き、乱臣賊子なる名において乱臣賊子に殺されたりき。
 尊王忠君が十年ならずして憲法要求の運動となれりと云う奇怪なる民族心理学たりとして誇るにあらずや。しかも維新当時の『万機公論に由る』

 −維新革命の本義は実に民主主義に在り。然るに未だ日本の歴史を哲理的に研究することなく、維新革命家が驚くべき言論迫害の下に在って余儀なくせられたる舞文曲筆に惑わされて、かえって日本国民の総てが皇室の忠臣義士なりと解し、等しく忠臣義士なる所の諸侯将軍と、等しく忠臣義士なる所の国体論者との階級闘争を奇怪とも考えずただ以て茫々然として頁を送るなり。彼等は日本の宣言、維新後十年ならずして起りたる憲法要求の運動を全く直訳的のものとなし、かくの如き急激なる変化が数年間にて来るものなるかの如く考えて奇怪なる民族心理学を疑わんとだもせざるなり。憐れむべき東洋の土人部落よ! 維新革命を以て王政復古と云うことよりしてすでに野蛮人なり。
 維新革命は王政復古にあらず歴史とは復古するものにあらず、維新革命は大化の遠き理想たりし公民国家の実現なり、個人の現在的利己的目的より外なかりし家長国時代と社会の永遠なる理想を意識せる公民国家の現代、社会哲学の見地と道徳学法律学の見地

 野蛮人にあらざるならば、一千三百年後の進化せる歴史を一千三百年前の太古に逆倒して復古することが人力の能う所なりと考えうるか。歴史とは社会の進化せる跡と云う事なり。歴史は循環するものにあらず。またもとより復古するものにあらず。維新革命が大化王政の復古なりと云うは、記録的歴史をも要求せざるほどの伝説的時代のそれに社会の総ての事、生活も、人情も、風俗も、思想も文字も言語も逆行して退化せざれば想像し得べからざることなり。

 −維新革命は大化の王政に復古したるものにあらず、大化の革命において理想たりし儒教の『公民国家』が一千三百年の長き進化の後においてようやくに実現せられたるものなり。公民国家は家長国の潮流を遮断して建設されるものにあらず、家長国の充分に発展したる進化の跡を受けて始めて実現さるべき新国体なり。すなわち、家長国体の如く家長が(君主国時代ならば一人の家長が、貴族国時代ならば多くの家長が)その所有財産として土地人民を所有主の利益の為めに処分するにあらず、家長が国家の外に立って国家を経済物として自己の目的の為めに手段として取り扱うにあらず、国家が国家自身の目的と利益との為めにその国家の分子にそれぞれの特権を与えて国家の機関たらしむる全く別種の進化なり。繰り返して云えば家長国時代においては社会の未だ進化せざるが為に社会自身の目的と利益とを意識して国家の永久的存在なることを知らず、社会の一分子もしくは少数分子がそれら個人としての(社会の一部としてにあらず)利己心を以て行動するより外なく、他の下層分子はそれら上層の利己心の下に犠牲として取り扱われ以て社会を維持し来れる者なり。(『生物進化論と社会哲学』において個体の欠損によって維持する生存方法を説きたる所を見よ。)

 近代の公民国家に至っては然らず。社会は大に進化して社会それ自身が生存進化の目的を有することを解し、国家の利益と目的とが全分子に意識せられ、その国家の意志を表白すと云う機関たる分子においても社会の一部としての社会的利己心を以て(機関がその自身を個人として意識する場合の個人的利己心にあらず)行動する者なり。すなわち、社会の分子が犠牲たる場合においても家長国の如く他の個人の個人的利己心の満足の為にあらず、自己が社会の部分なることを意識する社会的利己心を以て社会の他の部分もしくは後の部分の為に欠損さるべき個体の部分となることなり。社会哲学化上より見れば結果は共に同じき社会生存の方法なり。しかしながら結果より見ず意志より論ずる所の法律学よりしては同一なる社会生存の為の犠牲の方法といえども明かに分類して進化を截然たらしめざるべからず。すなわち、家長国時代の道徳法律は君主の個人的利己心の為に犠牲たる『忠君』なりき、公民国家の道徳法律は社会の社会的利己心の為に犠牲たる『愛国』なり。意志を考察する所の道徳法律は明らかにこの国体の進化的分類を為さざるべからず。

 大化革命の公民国家は天智の理想に止まりて実現されたるものは君主主権の家長国なりき、国家主権論と共に土地国有論を断行したるはその経済的関係において国家中心ならしめんとするに在り、土地国有論の励行と貴族国の萌芽、後の天皇皆天智の理想を打ち消して家長国となる、経済的基礎を失える中世史の天皇は単に理想国を理想しつつありしに過ぎず、大化革命の政治的組織はなお純然たる階級国家なり、プラトンの理想国とプラトンの期待したる哲学者の君主

 大化革命とはようやく原始的生活を脱するか脱せざるかの太古において、この儒教の高遠なる理想的国家論を実現せしめんと夢想したるものなり。しかしながらそれは単に大皇帝天智の夢想に止まりて、現実に現れたるものは君主主権の家長国なりき。天智はもとより国土及び人民を天皇の利益の為に存する天皇の私有財産なりと考えうるものに非ざるは論なく、事実に現れたる土地国有制に見るも儒教の国家主権論を厳格なる政治道徳において把持したりしはまた疑いなし。実に、儒教の社会主義を実現せんと夢みたりし大化革命が、その政治的方面たる社会主権論を天皇の政治道徳として把持すると共に、その経済的基礎たる井田の法と称せられたる土地国有論を断行したりしは誠に以て大皇帝たるを失わず。
 国家の経済的基礎

 −当時においては唯一の基礎たる土地を蘇我氏転覆までの家長制度の如く貴族階級の私有としては、国家の各分子が直接に国家に対せずして国家は階級的の層をなし、従って上層階級に経済的に従属する下層階級の分子は、国家を目的とせずしてその従属する所の分子その者の利益の下に行動し、為に上層階級の分子の間において利己心の相衝突する場合においては後代の群雄割拠の如く国家の分裂を来たし、例えある連合もしくは圧迫の下に国家の分裂を免れたる時といえども、国家はそれ自身の目的を失いて上層階級の君主等の利己心の下に客体として取り扱われるに過ぎざるを以てなり。大化革命はこの経済的方面においては理想の実現に近かりき。しかしながら儒教の国家学そのものが孔孟時代の中国民族に取っても余りに高遠なる理想にして、その井田の法なるものといえども現今の社会主義の唱える如き意味の土地国有論にあらずして、当時の家長国の土地私有制の歴史的進行に逆行して、ただ復古的に遊牧時代あるいは農業時代の土着当時における部落共産制の堯舜を回顧したるものに過ぎず。従って土地私有制度は歴史的進行の当然としてその行くべき所にまで行くの外なく、特に直訳的知識の政府は今日法律を発布するに英語を以て書くが如く、当時の無文字なりし時代に取っては英語よりも不通なる漢文の律令を以てせる者なれば行われざりしは論なきことなり。

 かくの如くなれば皇族の理想家は蘇我氏の転覆と共に土地国有論を励行してしばらくの間貴族階級の萌芽を除去することに努力したりといえども、英語の法律の達せざりし地方においては土地私有制の勢は滔々として進み、国司土豪はあるいは法律を破り、あるいは法律を兔かれて中世史の貴族国たるべき萌芽を培養しつつありき。延暦二年に『民惟れ国の本、本固ければ国安し。民の資る所農業に在り。頃者諸国司等その政癖多し。撫導の法に背くを愧ぢず、唯浸漁の未だ巧ならざるを恐る、あるいは広く林野を占めて蒼生の便要を奪い、或は多く田園を営みて験黎の屈菜を防ぐ。自今以来国司等[やまいだれ解]田の外に更に水田を営むことを得ず、また私かに貪ぼりて開墾し百姓農業の地を侵すことを得ず』と令し、また弘仁三年には『諸国司の公[やまいだれ解]田の外に水陸の田を営むは殊に制限せり。然るに諸国司朝憲に従はず、専ら私利を求め百端奸欺少しも懲革することなし。あるいは他人の名を借りて多く墾田を買いあるいは言を天臣に托して争いて痩地を占む。民の業を失うことこれに依らざるはなし』と令したる如きに見よ。

 かくの如くにして国司なるものは漸次に大なる私有地を有するに至って公民国家の拠って立つべき経済的源泉が枯渇し、延喜・天暦の賢良なる君主等が理想の夢より下界を顧みて下民の情を問いし時には実に租税の皆無にして大蔵省の前に草が生じ居たるほどなりしなり。かくて皇室は理想的国家の夢想に失敗して経済的要求の余儀なき必要の為に、もしくは天智の死と共に高遠なる理想を解せざる多くの君主が仏教の惑溺の為に、金銀米穀を以て富有なる土豪に国司を売り、また国司を再任するに至って皇室自ら公民国家の理想を打ち消したり。すなわち国家の利益と目的との為に行動せし天皇は天智の死と共に去りて、天皇の利己心の為に国土及び人民を財産として取扱い国家が天皇の為に手段として存する所の家長国となれり。しかしてその始めには天皇は最上の強者としその地方の土地と人民との上に家長として天皇一人が国家の所有者なりき。

 しかしながら斯くの如くにして土着せる国司、強大になれる土豪は社会の進化と共にその強大を加えて後年の源平となり群雄となり諸侯となり、家長国の潮流は滔々として維新の革命に至るまでの貴族国時代となれり。かの君主国時代の半よりして天下の大半を私有せる藤原氏あり、諸皇子餓えて天皇より米穀を与えられたりと云うに至っては、いかに皇室が後の家長君主として抗争すべき経済的基礎を失えるかを見るべく、従って理想国の上に唯一最高機関として起たんことを夢みたりし天皇のはなはだ微弱にして常に抑圧せられ、理想が単に理想たるの外なかりしは社会の進化として当然なり。否! 経済的基礎においてのみ大化の公民国家が一場の夢想的計画なりしのみならず、その政治的組織は至っては純然たる階級国家なりと云うの外なし。

 天武天皇は万姓を混同して八色の姓を賜い、大なる氏の氏長には大刀を、小なる氏の氏長には小刀を賜いたる如き明かに家長制度の継承にして、氏に尊卑を定めたる如き依然として階級国家時代の系統主義なり。大宝令において官吏を任用するにも系統門閥によって制限を設けたるはいかに公民国家の計画と背馳する思想なるかを見るべく、国家機関たる一切の官職が私有制度として系統門閥によって定まり、重要なる官職は総て藤原氏の私有なるはもとより、法律は大江氏中原氏の家系の私有とし、漢学は菅原氏三善氏の私有としたるは、公民国家と云わんよりも疑いなき家長国なりしなり。すなわち、大化革命め公民国家は明哲なる天智天皇のみの理想にして千三百年前の古代の社会に取っては未だ国家が国家自身の生存進化の目的理想を有すと云う意識の覚醒せざるは論なく、あたかもプラトンの理想国の如く古代において人類の政治的理想として、プラトンの期待したる哲学者の君主によって試みられたるに過ぎざるなり。大化革命の事実にせられたる部分は原始的宗教の神政政治の打破にして、総ての理想は一千三百年の長き進化の後においてようやく維新革命によって実現せられたるなり。

 実に公民国家の国体には、国家自身が生存進化の目的と理想とを有することを国家の分子が意識するまでに社会の進化なかるべからず。すなわち国家の分子が自己を国家の部分として考え、決して自己そのものの利益を終局目的として他の分子を自己の手段として取り扱うべからずとするまでの道徳的法律的進化なかるべからず。

 国家主権の国体は長き進化の後なり、朕すなわち国家なりとは法理上国家の一部分たる君主が国家の全部なることを意味す、個人的利己心の意識が同時に国家の意志たる家長国、社会の進化と国家意識の覚醒、攘夷論の社会単位の生存競争による社会的存在の覚醒、維新革命は国家の目的理想を法律道徳の上に明らかに意識したる点において社会主義なり、下層階級の経済的進化による民主的独立、革命の要求と理論

 −法律的に云えば君主主権の時代より長き進化の後において国家主権の現代たる国家主義に至れるなり。一は君主及び貴族(すなわち多くの君主等)の利己心の為に他の総ての分子が犠牲として存すと云う点において個人主義なり、他は総ての国家機関が自己を社会の部分として社会の生存進化の目的の為に行動すと云う点において社会主義なり。国家主義とは世界単位の大国家主義に至るべき地方単位の社会主義なり。(吾人は故に国家そのものの否定を公言しつつある社会主義者と称する個人主義者は社会そのものの否定に至る自殺論法として取らず)。

 しかしてこの君主主義より国家主義に到達する為には国家意識が社会の一分子、もしくは少数分子に限らずして全分子に拡張する事を要す。かの『朕すなわち国家なり』と伝えるルイ十四世の言は之を社会全分子に国家意識の拡張せし今日において見れば誠に野蛮に驚かるといえども、朕すなわち朕なりと云わんよりも大なる進化なるは論なし。すなわち、朕なる彼が社会の部分なることを先ず意識し、他の部分たる下層階級は未だ何等の意識なきを以て、法理上朕そのものが社会の全部なるを以てなり。

 かかる時代においては忠君と愛国とは一致す、すなわちルイにとっては彼自身が国家の全部なるを以て、彼自身の利己心は国家が国家自身を愛する愛国心にして、国家の部分にあらざる下層階級が国家意識の覚醒せる所の君主の利己心に向かって忠なる事は、等しく国家の全部に向かってする行動なるが故に愛国なり。すなわち、忠君愛国一致論の成立するは君主以外の国家の分子は国家の部分にあらずと云う時代ならざるべからず。(この家長国時代の君主と臣民との関係はまた先きの法理論に説ける如く君主を国家の外に置きて国土及び人民を国家と名付けることあり、従って君主の愛国心は国家を自己の財産として愛し、国民には忠君あって愛国なし)。

 大皇帝天智は儒教の理想的国家論によって朕すなわち国家の全部なりと伝えるルイ十四世の如くならず、天皇が国家の一部分なることを意識し、国家自身に生存進化の目的あることを意識したり。しかしながら総ての者は天智にあらず、社会の進化は遠き古代よりして卓越せる個性を出現せしめて到達を努力せよと教えるかの如く後代の理想たることキリスト・釈尊の古代に産れたるが如くなりといえども、彼以後の天皇は社会進化の当然として自己が国家の一部分なる事を解せずして国家の全部なりと考え、個人的利己心の意識が同時に国家の意志たる者多かりき。家長国の君主国時代これなり。しかして家長国の潮流はかかる個人を終局目的として行動する多くの家長が相抗争せる貴族国時代となり国家意識は少数階級にまで拡張したり。もとよりその各地に相攻伐せる戦国時代においてはその所有の区域内において朕すなわち国家たりしといえども、封建制度に入って貴族階級の連合するに至るや、彼等は彼等各を以て国家の全部とせず、ここにその階級間の総てに平等観を拡張せしめて他の貴族等と共に国家の一部なりと云う国家意識を有するに至れり。

 国家の進化は平等観の発展に在り。社会内の衝突動揺混乱接近等によって自他の同類なりと云う意識を漸次に拡張せしめ、奴隷賤民が家の子郎等となり、家の子郎等が武士となり、伊勢瓶子と卑しめられたるものの子孫が太政大臣となり、今世の思い出に昇殿したるものの子が征夷大将軍となり、陪臣の北条氏、平民の豊臣氏が天下の主となり、草莽の野武士が一剣天下を横行して諸侯となり大名となり。

 −ここに平等観が貴族階級にまで拡張せられて貴族等が国家の部分なることを意識するに至りたる如く、同一なる平等観は社会の進化と共に武士平民の一般階級にまで拡張して国民全部が国家なりと云う国家主義国民主義の進化に至れるなり。すなわち、プラトンの『社会とは個人の全部にして個人とは社会の部分なり』と伝える如く、国家の全分子を以て国家なりと云う所の社会民主主義の世に至れるなり。

 維新革命とは国家の全部に国家意識の発展拡張せる民主主義が旧社会の貴族主義に対する打破なり。しかしてペリーの来航は攘夷の声において日本民族が一社会一国家なりと云う国家意識を下層の全分子にまで覚醒を拡げたり。恐怖と野蛮の眼に沖合の黒煙を眺めつつありし彼等は、日本帝国の存在と云う社会主義をその鼓膜より電気の如く頭脳に刺激せられたり。国家は生存の目的を有す、国家は進化の理想を有す、しかして吾人は総て上下なく国家の分子なり、国家の分子として国家の生存進化の目的理想のために努力すべき国家の部分たる吾人なり。実に維新革命は国家の目的理想を法律道徳の上に明かに意識したる点において社会主義なり、しかしてその意識が国家の全分子に明かに道徳法律の理想として拡張したる点において民主主義なり。かくの如くにして下級武士は剣に杖て天下を浪々せり。土百姓は平民の意義を棄てて君主の如き権威をその竹槍蓆旗に掲げたり。彼等の多くは乱臣賊子なる名において殺されたり、彼等の総ては百姓一揆なる名において沈圧せられたり。苛斂誅求なるが故の反撃と云うべからず、苛斂誅求の点より言えば身体その者を経済物として取扱いつつありし古代の奴隷制度よりはなはだしきはなかるべしといえども、良心の社会的作成の理由によって自己を奴隷所有者よりも下等なる生物と考え、たとえ生ながら殉死として土中に埋められるも慟哭して一の反抗なかりしに非ずや。徳川氏時代に至っての百姓町人は最早奴隷賤民にあらず、土百姓にあらず、また平民にあらず、維新後たちまちに挙がれる憲法要求の叫声を呑みつつありし民主的国民なりしなり。通商の発達は素町人と卑められたる市民を先ず経済的独立に導き、三百年の平和は諸侯の下に永小作権を有するに過ぎざるに係わらず、なお庄屋名主の大百姓をして経済的基礎を作らしめたり。革命の炬火は先ず下級武士の手に焔を挙げたり。

 −王侯将相豈種あらんや、貴族等が天皇に対して乱臣賊子たりし如く、我れは貴族等の要求する忠順の義務を負うべき理あらんや! 炬火は燃えつつあり、理論なかるべからず。彼等は遺憾にもその革命論を古典と儒学とに尋ねたるなり。
 『国体論』とは民主主義を古典と儒教とにおおいたる革命論なり、権利思想の三百年間における急転、革命論の要求急なりしが為めに古代史を考察するの暇なし、幕末における神道的信仰の皆無、国体論者の革命文学、革命論は総て王覇の弁と古典の仮定より演繹されたり、維新革命は社会間の接触によって覚醒せる国家意識と一千三百年の社会進化による平等観の普及とが未だ社会民主主義の理論を得ずして先ず爆発したるものなり

 実に、『国体論』とは民主主義を古典と儒教との被布におおいたる革命論なり。古典と儒教とは被布なりき、被布はいかに食い破れるとも民主主義の丈夫は胸毛露わに大道闊歩し始めたり。天皇に対する忠、その事は志士艱難の目的にあらず、貴族階級に対する忠を否認することその事が目的なりき。貴族階級はすでに忠を否認して独立したり、一般階級は更にそれに対する忠を否認して自由ならざるべからず。歴史は進化にして循環にあらず、アリストテレスの政体三分類は三時代の進化の順序にしてかの時代に考えられし如く、民主政より君主政に循環する者にあらず、況んや貴族政治より王政の太古に復古することをや。しかして三百年の平和と文化は権利思想を全く一変したり。切り取り強盗を習いなりとせる武士は、町人よりの借財に向かって強力に訴えて所有権を定むが如き野蛮をなす能わずなれり。この強力が権利に非ずとされるに至れる権利思想の進化は、実に強力によって得たる中世的家長君主の基礎を波濤流水の如く崩壊しつつ始めたり。三百年の平和に莫大なる経済的進化をもたらし、従って総ての所有権は肉体的精神的勤労によって決定せられるに至れり。然るに貴族武士なるもの何の労働だもなさず、ただ晏然として威権を弄しつつあるは何ぞ。しかして三百年の文化は更に国民をして粗朴なる歴史的自覚を有せしめたり。彼等は高天ヶ原の迷宮に入って日本国がいかにして建てられ、皇室がいかにして今日あるかを考えうるまでには至らざりき、しかしながら明かに聴かれる古文書の囁きは彼等の主君として奉戴しつつある将軍諸侯が切り取り強盗なりしと云う事なり。ああ切り取り強盗! 彼等は貴族階級の強力による権利を否認することは更に古代史の強力を否認するに至らしむることに気付かざりき。彼等は左手に燃えつつある炬火を握りて右手に理論を述べざるべからざる急に迫りぬ。炬火は焔を雲に上げて消ゆ。無名の由井正雪は前後に起り前後に仆れたり。革命論の理論は火よりも急に要求せらる。

 −この間においてたとえ原始的宗教の信仰は全く去れりとも原始時代にまで無用の学究的研究を積むの暇あらんや。夷狄の黒船は海をおおうて焔を吐きつつありといえども、天皇は亀山上皇の如く国家の安寧を原始的宗教に鎚らざるに至りぬ、赤髪碧眼の彼等が同類のものなりと考えうるまでには至らざりしといえども、神風の起りて冠を払うと云うほどに神道のアダム、イヴに対する信仰は強固ならざるに至りぬ。ただ急なり。革命家の歴史的叙述は殆ど古代を高閣に束ねて中世以降に論議の筆を凝らしたり。頼山陽の日本外史は今の国体論者をして諸侯将軍をまで尊王忠君なりと誤らしむるほどに学べき舞文曲筆を以て言論迫害の中に世に出でたり。水戸の大日本史はマルクスの資本論が資本家略奪の跡を叙述せる如く、強者の権においてせる貴族の略奪を最も精細に叙述したり。中世史の三百年は古代史の三千年に匹敵すべき社会進化の速力なり。三百年前の父祖が関ヶ原矢石の間において得たる権利は三百年後の当時において一個の犯罪として歴史家の評論に昇れり。革命の風潮はただ否認に急なり。彼等はかって貴族階級に対する忠を以て皇室を打撃迫害せる如く、皇室に対する忠の名において貴族階級をも転覆せんと企てたり。貴族階級に対する古代中世の忠は誠のものなりき、今の忠は血を以て血を洗わんとせる民主主義の仮装なり。彼等は理論に暇あらずして、ただ儒学の王覇の弁と古典の高天ヶ原との仮定より一切の革命論を糸の如く演繹したり。いわく−幕府諸侯が土地人民の上に統治者たるは覇者の強のみと、しかしてこれに対抗して皇室は徳を以て立てる王者なりと仮定したり。国民は切り取り強盗に過ぎざる幕府諸侯に対して忠順の義務なしと、しかしてこれに対抗して皇室は高天ヶ原より命を受けたる全日本の統治者なりと仮定したり。

 国民主義(すなわち社会民主主義)の議論を得ずして先ず爆発したる者なり。決して一千三百年前の太古に逆倒せる奇蹟にあらず。
 維新革命は国家間の接触によって覚醒せる国家意識と一千三百年の社会進化による平等観の普及とが、未だ国家政権藩領の奉還にあらずまた尊王忠君に非ず
 実に明らかに維新革命の本義を解せよ。『二千五百年史』は義時・尊氏等の貴族主義者を民主主義者と誤り国体論を民主主義と誤れり、高山彦九郎とドイツ皇帝の狙撃者は国体論と社会民主主義とが皇帝そのものを目的とせざることを解せざる政治狂なり

 維新革命の根本義が民主主義なる事を解せざるが為に日本民族は殆ど自己の歴史を意識せず、ほしいままなる憶説独断を羅列して王政復古と云い政権藩領の奉還と云い、以て吾人自身が今日の存在の意義を意識せざるなり。政権と土地とを尊王忠君の為めに奉還するほどの貴族階級ならば、何が故に砲火によって余儀なく奉還されざるべからざるほどに略奪し、略奪を奉還せしめんとする国体論者を絞斬せしか。桜田門外の雪を染めたる血は共に皇室に対して尊王忠君たらんが為の同志討なりしか。戊辰戦争が全日本国を挙げて皇室に尊王忠君たらんが為のそれにして七卿の都落ちは徳川氏の尊王忠君の結果たり、錦旗に向かって飛び来る矢丸は尊王忠君の目的の為めの反逆なりしか。明らかに維新革命の本義を解せよ。かくの歴史の進化とは平等観の発展に在る事を注意せざるが為に、局部の美において遺憾なき『二千五百年史』といえども、義時・尊氏の貴族主義者をかえって民主主義者となし、従って国体論の民主主義を軽侮の眼に看過するに至れるなり。義時・尊氏は君主に対しては明かに平等主義なりしといえども下層の武士百姓に向かっては厳然たる君主として立てる貴族主義なり。維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を転覆したる形において君主主義に似たりといえども、天皇も国民も共に国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点において堂々たる民主主義なりとす。長州・薩摩の貴族等が関ヶ原の屈をそそがんことを動機としある野心家の武士が倒幕の後に貴族たらんとの契約を為せしとするも、一たび回転せる関ヶ原の舞台は再び歴史の看客の前に反覆されるものに非ず、野心家の個人的飛躍は革命の動乱に伴う必然の現象なり。

 維新革命の国体論に神道的彩色あり勤王論の副産物あるも、当年志士の本色は貴族階級を転覆せんとの民主主義にあり。かの高山彦九郎輩の陣笠連はあたかも社会民主党の興起と共に故ドイツ皇帝を狙撃せると等しき無用有害の政治狂のみ。社会民主党に取って皇帝の転覆が目的に非ざる如く国体論の目的とする所は貴族政治の打破に存せしなり。古の家長国時代の一千数百年前は哲学者の君主を外にして国家そのものの目的理想を意識する能わざる未開時代なりき。維新革命は家長国の太古へ復古したるものにあらず、家長国の長き進化を継承して公民国家の国体に新たなる展開をなせるものなり。東洋の土人部落ならば王政復古と云え、歴史は進化と云うことなり。
 政治史とは政権に対する意識の拡張と云うことなり、現天皇は特権ある一国民として維新革命の民主的大首領なりき、維新革命の『天皇』の内容

 実に歴史と云うことは進化と云うことなり。社会の進化とは社会意識の拡張と云うことにして、従って政治歴史は政権に対する意識の拡張と云うことなり。ラテン民族が西洋の古代においてギリシャ・ローマの共和民主制に進化するまでに君主国貴族国の時代を経過せる如く、ゲルマン民族が英独の民主的政体の今日に到達するまでにまた君主国貴族国の進化を経由せる如く、日本民族も古代の君主国より中世史の貴族国に進化し以て維新以後の民主的国家に進化したり。−−しかして現天皇は維新革命の民主主義の大首領として英雄の如く活動したりき。『国体論』は貴族階級打破の為めに天皇と握手したりといえども、その天皇とは国家の所有者たる家長と云う意味の古代の内容にあらずして、国家の特権ある一分子、美濃部博士のいわゆる広義の国民なり。すなわち天皇そのものが国民と等しく民主主義の一国民として天智の理想を実現して始めて理想国の国家機関となれるなり。
 維新革命は建設的方面における無計画の爆発なり、欧州の革命は長き計画後なりき

 −維新革命以後は『天皇』の内容をかかる意味に進化せしめたり。
 しかしながら維新革命の民主主義が無計画の爆発なりし事は明かに事実なり。彼等は王侯将相豈種あらんやとの平等主義に覚醒したり。貴族等が天皇に対して乱臣賊子たりし如く吾人は貴族等に忠順の奴隷的義務なしとの自由主義は意識せられたり。しかしながらこの自由平等主義を以て貴族国を転覆したる後は、いかにすべきやと云う建設的方面に至っては殆ど全くの無計画なりき。これが為めに薩長の貴族等は徳川氏の占有せる地位に執って代らんと夢みたり、野心家は一躍以て侯伯たらんことを期したり。万機公論によると宣言しつつ、なお諸侯の連邦国の上に選良を以て議せんと云うが如きを夢想したり。いえどもしかり、動乱の根底は平等観の発展にあり、自由の要求にあり、民主主義にあり。
 維新革命と戊辰戦役において貴族主義に対する破壊をなし民主主義の建設的本色は二十三年間の継続運動にて段落したり、『華族』の意義、維新革命の民主主義者は成功と共に貴族主義者となれり

 −革命は建設の計画なくしてすでに破壊し了りたり。これ欧州の革命と大に異なる所なりき。彼においては長き討究の後において新社会の理想を明かに画き、またラテン民族の古代に実現せる民主政はその理想を復古の形において歴史の上に指示したり。欧州のそれは明らかに計画的なりき。故に吾人は考う−−維新革命は貴族主義に対する破壊的一面のみの奏功にして、民主主義の建設的本色は実に『万機公論による』の宣言、西南佐賀の反乱、しかして憲法要求の大運動によって得たる明治二十三年の『大日本帝国憲法』にありと。すなわち維新革命は戊辰戦役において貴族主義に対する破壊を為したるのみにして、民主主義の建設は帝国憲法によって一段落を画せられたる二十三年間の継続運動なりとす。明らかに維新革命の本義を解せよ。『藩閥』と『政党』との名において貴族主義と民主主義は建設の上により多くの努力を占めんことを争いぬ。藩閥の元勲なる者、一刀を落し差しに天下を放浪せし花の若武者なりし間は大胆華麗なる民主主義者なりき。万機公論に決せよ、大名諸侯何する者ぞ、吾等は彼等の臣にあらず忠順の義務なしと。しかしながら総ての進歩的勢力がその権力を得ると同時に保存的勢力たる社会進化の原理によって、彼等は貴族階級の転覆と共に身親ら王侯将相に取って代りぬ。もとより今日の『華族』なる者は単に切開後の創痕にしてあたかも社会主義の経済的実現によって企業家地主等がしばらく公債によって特別なる経済的幸福に在るべく想像せられる如く、全く君主たる当年の意義を失える一国民にして公債の所有者に過ぎざるは論なし。(故に今の社会主義者がかかる無権力なるものを家長国時代の意義における今日の経済的貴族と同一視して攻撃の中に一括しつつあるは理由なし)。しかしながら彼等の花顔が銀色の髯を以ておおわれ、軽俊敢為の冒険的眼光が沈思傲岸の色を湛ふるに至って、彼等は全く当年の彼等と別人格の者となれり。吾人は彼等が功成り名遂げて安逸を貪るに至れりと云う世評を信ぜず。野心は満々たり。彼等は自ら往年の敵たりし貴族階級に投じて降服したりと云わんよりも実に陣頭に立って戦へり。万機公論に由るの宣言は成り上り者の冷笑が無くなるに従って全く忘却したり。
 貴族主義者の大勝利、維新革命の本義を明らかに解し藩閥がその破壊的方面において元勲たることを正当に認識すると共に建設的本色において元凶なることを厳粛に解せよ

 −斯くの如くにして維新革命の継承者はいわゆる在野党となれり。彼等藩閥者は維新革命の破壊的方面において元勲なりき、しかしながら維新革命の建設的本色に至っては民主主義者を圧迫する所の元凶となれり。維新元勲それ自身が二派に分れて果断聡明の貴族主義者は勝を取れり。大久保利通の絶対専制に対して西南佐賀の民主党は割腹に獄門に終りたり。山県有朋の保安条例は熱狂せるダントン、ロベスピエールを一網打尽して京城三里外に放逐したり。伊藤博文の帝国憲法はドイツ的専制の翻訳に更に一段の専制を加えて、敗乱せる民主党の残兵の上に雲に轟くの凱歌を挙げたり。−−ああ民主党なる者顧みて感やいかに! 解散の威嚇と黄白の誘惑の下に徒らに政友会と云い進歩党と云うのみ。繰り返してのたまう、維新革命の本義を明らかに解せよ。藩閥者が維新革命の破壊的方面において元勲たることを正当に認識すると共に、維新革命の建設的本色において明らかに元凶なることをまた厳粛に解せよ。しかして実に吾人の日本史を厳粛なる歴史哲学において解せよ。
 社会民主主義は維新革命の歴史的連続を承けて理想の完き実現に努力しつつある者なり。

 『乱臣賊子』と云うが如き逆進的批判は善悪の進化的のものなることを知らざるによる、成功せる今日維新革命の民主主義者が乱臣賊子の名を拭われたる如く成功せる貴族は当時において乱臣賊子と呼ばれず

 吾人は先きより用い来れる『乱臣賊子』と云う文字を取消さざるべからず。これ東洋の土人部落にあらざれば無き所なり。ただ、かかる文字を使用せるは『国体論』の天動説を破るの余儀なき必要の為めにして、一時代の規準を以て古今数千年間の政治的行為と倫理的意志とを批判することの野蛮なるは論なし。斯く政治史と倫理史の進化を解せず、一時代の標準を以て古今を律して乱臣と名づけ賊子と呼ぶが故に、雄略・武烈が国家の所有者としてその所有の経済物を処分する権利においてする人民の殺戮を今日の天皇を以て想像し之を無道無仁となす政治史と倫理史とが存するなり。『ウグイスの宿はと問はば如何答えん』と云うとも、天皇は総ての人民の財産を取り上ぐるの自由ありしは論なく、人民そのものが天皇の財産なりしを以て臣下の妻妾を奪うことも今日の如き政治的非違にもあらず道徳的犯罪にもあらざりしなり。総ての善悪は進化的善悪なり。(『社会主義の啓蒙運動』にて階級闘争を説ける所を見よ)。故に維新革命党がその仕える所の君主等より乱臣賊子の名を以て処刑せられたる者の今日に至ってそそがれたる如く、維新革命党が名づけて以て乱臣賊子なりと云いし貴族等(今の華族にあらず、その祖先)の名もまた維新革命の成就せる今日に至っては全く取消さざるべからざるなり。すなわち、科学的倫理学の上より言えば成功せる民主主義者が今日貴族階級より蒙れる乱臣賊子の名を拭われたる如く、貴族階級が天皇に打ち勝って成功しつつありし時代においては当時の社会より決して乱臣賊子の名を負はされざりしなり。理論において然るのみならず事実は明らかに之を証す。総ての善悪は進化的善悪なり。
 善悪の決定と社会的勢力、教育勅語を自家の護衛に使役する井上博士の倫理学、現天皇の個人的卓越に向かって科学的倫理学者としての全能までを要求するは暴なり、教育勅語は学界に悪果を来したるものにあらず学者の愚呆を教育勅語の責任に導くべからず

 社会の進化は階級闘争をなして漸次に上層に進む。故に総ての善悪の決定は社会的勢力なり。人倫第一の無道なりと云われる乱臣賊子を以て、如何ぞ社会的勢力の上に将軍たり諸侯たるを得んや。あるいはまた教育勅語を自家の護衛に汚辱してのたまうべし、−−『これを古今に通じて謬らず之を中外に施して戻らず』と明示せらるにあらずやと。しかしながら先にも論じたる如く、教育勅語が倫理学説の公定権を有する者にあらざるは歴史哲学のそれを有せざると同一なり。天皇は帝国議会と共に立法機関を組織して法律を命令し、また独立のある権限を以て命令を発し得べきものなりといえども学説を公定する国家機関にあらず。故に天皇が総ての国民を『克く忠に克く孝に』と賞賛するに係わらず、いわゆる国体論者の義時・尊氏を乱臣賊子なりと罵る事の不敬漢にあらざる如く、吾人は科学的倫理学の上より祖先の行為をその時代の道徳的標準に従って進化的に批判するにおいて総ての妨害を超越すべし。由来、今の学者なる者−−特に教育勅語を唯一の盾として学術の世界を横行する文学博士井上哲次郎氏の如き−−自家の劣等なる頭脳を天皇の責任に導きて平然たりとは、吾人のもとより執って名づけんとする所にあらずとはいえども、『不敬漢』の称はかかるものに正当とす。科学的研究者としての冷静を以て云えば(何となれば吾人は歴史学を語りつつあるものにして理由なき便佞阿諛をなす幇間的学者にあらず、またいわれなき悪感を包蔵する盲動的慷慨業者にあらざるを以て)、現天皇が万世一系中天智とのみ比肩すべき卓越せる大皇帝なることは論なし。常に純然たる詩人たりしものが徳川氏の圧迫を排除せんが為めに、卓励明敏の資質を憂憤の間に遺伝したり。汝を玉にすと伝える艱難に充てる歴史を以て垂髫の時より革命動乱の渦中に在て磨かれたり。孟子が居は気を移し養は体を移すとして斉王の子を望み見て嘆じたる如く、維新革命の諸英雄を使役して東洋的模型の堂々たる風貌は誠に東洋的英主を眼前に現したり。(吾人は想う、今日の尊王忠君の声は現天皇の個人的卓越に対する英雄崇拝を意味すと)。しかしながらこの理由を以て天皇を学究の範囲内に引き来たりて科学的倫理学者としての全能を要求することは暴の極なり。二十三年頃の幼稚なる思想界を以てすれば、いかなる卓越せる者といえども、良心の社会的作成の如き善悪の進化的批判の如きを知るの理なし。しかもこの理由を以て天皇の明哲を傷くることは、後の明治歴史を書くものの断じて為すまじき所なり。天皇は学究たる以上の大なる任務を国家に対して有す。たとえ教育勅語が旧説の倫理学を取り入れたりとも、大に進歩したる思想界に在る学者その人が旧知識を脱する能わずと云うは、学者その人の怠慢にして教育勅語の係りなき所なり。詳しく言えば、井上哲次郎氏の如きが今日なお独断的旧説の倫理学を奉じつつあるは哲次郎氏その人の文学博士たるゆえんの賢明の為めにして、井上博士の愚に対して教育勅語は責任を負うものにあらざるなり。なお詳しく言えば日本国民が今日なお静的倫理学より上に出づる能わざるは教育勅語の関係なき所なりと云うことなり。天皇の国家に対する意義を明確に解せよ。学者の論争において教育勅語を自家の便宜に使役するが如き横暴なかるべく、また教育勅語と背馳する見解を執れるが為めに教育勅語は学界に悪果を来したりと耳語するが如きこともなかるべきなり。皆これ国民の罪なりとす。国民の意義天皇の意義を解せざる国民そのものの罪なりとす。先に説ける如く天皇は遠き以前において『国体論』を打壊しつくしたるにあらずや。土偶は山僧等の神輿に安置されて国体論の守護神たり得べし。日本天皇は厳として日本天皇なり、日本天皇は井上哲次郎氏等の倫理学を確かめんが為めに教育勅語を学者の問題に与えたるにあらざるなり。
 義時・尊氏等が国利民福のめに民政を害する皇室を排斥せる者なりと云う他の独断論、中世貴族の乱臣賊子に非ずということはその人民及び他の貴族等より自由独立を承認せられたり

 しかしながら誤解すべからず、吾人が中世史の貴族階級を当時の道徳的標準に従って乱臣賊子に非ずと云うことは、彼等が国利民福の為めに皇室を排斥せし道徳家なりと云う他の独断者のそれとは無関係なり。北条義時は単に当時の貴族階級の利益を代表せる者にして民政主義者と名づくべき理論を事実となし、いかに形容詞の豊富に溺惑するも、足利尊氏は無数の家長君主の上の家長君主たる大度の一人物にしてオリバー・クロムウェルなどに比すべき者にあらざるは論なし。国家の目的理想を意識せざる家長国の古代中世において、多くの家長君主としての天皇がそれ自身の個人的利己心を以て行動するの外なかりし如く、義時と云い尊氏と云い国家の利益国民の幸福と云うが如きを目的として皇室と戦いしものと云うは論外なり。況してや乱臣賊子の汚名を忍受して人民の為めに尽くせりと論ずるが如きは、その独断論なる事において勤王家のそれをむしろ凌駕するものなり。吾人が彼等を以て当時の道徳的標準に従って乱臣賊子に非らざりしと云うは、彼等の臣属及びその所有せる人民と他の貴族等より彼等の自由独立を承認せられたりと云うことなり。もとより天皇党は彼等がその所有の範囲以外に強力を発動せしめて、天皇の最高権の要求と衝突することを承認せず、乱臣賊子を以て目したることは事実なり。しかしながら下層階級が上層と同一の平面に進化し昇らん事の闘争において、上層階級の之を拒絶するに乱臣賊子を以てするは、あえて君主国より貴族国に進化するときのみに限らず、貴族国より民主国に進化せんとする維新革命の時にも革命党の諸侯より蒙らされたる名なりしなり。しかしながら維新革命党が貴族に対する忠順の義務を拒絶するに、等しく忠順の義務を拒絶しつつある所の貴族そのものに対して論理的反撃を加える便ありしに反して、貴族等が政治的道徳的独立を得たるときにおいては強力以外に主張の何者をも有せざりしなり。彼等はその強力の土地略奪による経済的独立よりして総ての政治的義務道徳的義務より開放せられたり。況んや時は未開極まる中世なり。高師直の如くその自由を放胆に発揮するの外なかりしなり。彼等は皇室党より乱臣賊子と呼び来られたることは中世史を通じての事実なりといえども、社会大多数よりはそれぞれの地方における君主として絶対的自由を承認せられ、自由の発動する所として他の君主のそれと衝突すとするも決して乱臣賊子とは受取られざりしなり。
 貴族のみならず総ての武士百姓の階級も乱臣賊子にあらず

 しかして皇室も君主たりし点において衝突したりき。−−吾人は故に断言す、絶対無限権の君主の総ての行為は善悪の評価以上に在りとされる如く、彼等はそれそれの範囲内において君主たりしを以て総て無道徳(不道徳に非ず)の自由を絶対的に享有したるなりと。天皇の義時・尊氏等に対して失敗せしは、その強力の足らざりしが為めにして民政を害せしや否やとの問題とは別なり。義時・尊氏の天皇に打ち勝ちしはその強力の勝れたるが為めにして民主主義の高貴なるものとは無関係なり。民主主義とは『国体論』の旧套におおわれて世に出でたる維新革命前後のことなり。
 経済史の進化と武士平民の開放、社会民主主義は現今の国体と政体とを転覆して実現されるものにあらず維新革命その事が社会民主主義なり

 吾人は更に前きより用い来れる『乱臣賊子』の文字を取消さざるべからず。それは日本国民の総ては乱臣賊子の従犯もしくは共犯として皇室を打撃迫害したる乱臣賊子のみなりと云う吾人の断定これなり。これ先に説ける所にて明らかなるべく、武士の階級は各その仕える所の『眼前の君父』の行く所に従って、衛星の如く繞ぐれる忠孝の道徳家なりしを以てなり。すなわち、正成に従って湊川に死せし三百人の如くならず、中世史の全部を通じて高時に従って鎌倉に死せし七百人の如くなりしが為めに、武士道は皇室に対しては大胆果敢なる乱臣賊子として受け取らるべしといえども、その高貴なる自律的道徳は各々の仕える『眼前の君父』に対する誠忠なりしなり。吾人は実に総てを乱臣賊子なりと云う事を取り消す。維新革命党も、その建設的方面の継承者たりし民権党も吾人社会民主主義者も、一たびはその上層より乱臣賊子と云われまた云われつつあり。しかしながら経済的独立は総ての独立なり。古代の主君がその経済的独立によって政治的道徳的自由を実現したる如く、中世の貴族がその経済的独立によって政治的道徳的自由を実現したる如く、経済史の進化は同時に政治史倫理史の進化となって武士平民の下層階級を更に貴族より開放せしめ、経済的独立による政治的道徳的自由の実現を国家の全分子に拡張せしめて、ここに維新革命となり、民権党の運動となり、更に社会民主主義の大要求となれり。否、社会民主主義と云うはかの個人主義時代の革命の如く、国家を個人の利益の為めに離合せしめんとするものにあらずして、個人の独立は『国家の最高の所有権』と云う経済的従属関係の下に条件付なり。しかして社会国家と云う自覚は維新前後の社会単位の生存競争に非ずして社会主義の理想を道徳法律の上に表白したり。国民(広義の)総てが政権者たるべきことを理想とし、国民のいかなる者といえども国家の部分にして、国家の目的の為め以外に犠牲たるべからずとの信念は普及したり。すなわち民主主義なり。−−故に吾人は決してある社会民主主義者の如く現今の国体と政体とを転覆して社会民主主義の実現されるものと解せず、維新革命その事より厳然たる社会民主主義たりしを見て無限の歓喜を有するものなり。(実例を挙げればかの勝海舟が自己を天皇もしくは将軍と云うが如き忠順の義務の外に置きて国家単位の行動を曲げざりし如きこれなりとす)
 今日の社会民主主義

 ただ、今日の社会民主主義はこの、小社会の連合によって小社会の理想的独立と共に大社会の進化を図り、民主主義の法律的理想を経済的内容の革命によって現実のものたらしめんとするに在り。実に、法律的理想及び道徳的信念においては日本現時の道徳法律は堂々として社会民主主義なり。吾人をして更に以上の見解より憲法学の解釈に返らしめよ。
 憲法第一条の『万世一系』とあるは将来のことにして歴史に係わりなし

 すなわち、憲法第一条の『大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す』とある『万世一系』の文字は皇室典範の皇位継承法に譲りて棄却して考えて可なりと云う事なり。何となれば、たとえ万世一系とは直系ならずして無数の傍系より傍系の間を上下縦横せる歴史上の事実なりとも、また万世一系の天皇ことごとく全日本国の上に統治者として継続せざりし歴史上の事実なりとも、現天皇以後の天皇が国家の最も重大なる機関に就くべき権利は現憲法によって大日本帝国の明らかに維持する所なるを以てなり。かつ『一系』とは直系に非ず止むを得ざる場合においては、それぞれの順序によって遠き傍系に継承権を拡張するを得る皇室典範の規定あるを以てなり。しかしてまた『天皇』と云うとも時代の進化によってその内容を進化せしめ、万世の長き間において未だかって現天皇の如き意義の天皇なく、従って憲法のいわゆる『万世一系の天皇』とは現天皇を以て始めとし、現天皇より以後の直系あるいは傍系を以て皇位を万世に伝うべしと云う将来の規定に属す。憲法の文字は歴史学の真理を決定するの権なし。従って『万世一系』の文字を歴史以来の天皇が傍系を交へざる直系にして、万世の天皇皆現天皇の如き国家の権威を表白せる者なりとの意義に解せば、重大なる誤謬なり。故に『万世一系』の文字に対しては多くの憲法学者が『神聖』の文字に対して棄却を主張しつつあるが如く棄却すべきか、あるいは吾人の如く憲法の精神によって法文の文字に歴史的意義を付せず万世に皇位を伝うべしとの将来の規定と解するかの二なり。しかして後者とせば一系とは皇室典範によって拡張されたる意義を有す。
 契約憲法に非ざると共にまた君主主権論者の解する如き欽定憲法にあらず

 吾人はまた先きの憲法論において、日本の現代は国家主権の国体にして天皇と国民とは階級国家時代の如く契約的対立にあらず、(欧州中世時代の階級国家の憲法は君主と国民とは契約憲法を以て直接に権利義務の対立をなしたりといえども日本の階級国家時代の諸君主は革命によって華族の痕跡となれり)、従って日本現時の憲法は天皇と国民との権利義務を規定せず、広義の国民が国家に対する関係の表白なりと云えり。もとより契約憲法を経過せる欧州諸国といえども、その君主と云い貴族と云い法理学上階級的層をなすものに非ずして、国家の主権を行使する国家機関たるを以て契約当時と全く進化を異にせるは論なし。しかしながら日本においては憲法の制定が天皇の専断にありしが為めに、現憲法を以て契約憲法なりと云うものなき代りに(もとより事実においては個人主義の法理学を以て契約的対立の如く解釈しつつある学者の多きは先に説ける如くなりといえども)、欽定憲法の名において君主主権論者は由々しき誤謬を伝播しつつあり。
 維新より二十三年に至るまでにおいては国家主権の国体にして政体は最高機関を一人の特権者にて組織する政体なりき、家長国時代の君主専制と公民国家の君主専制

 この誤謬は以上の歴史解釈によってすでに氷解したるべし。維新革命以後の日本は日本民族が社会的存在なることを発見したる国家主義たる点において国家主権の国体なり。全国民が国家の部分にして総ての部分がその代表者を出し特権ある一部分(すなわち天皇)と共に最高機関を組織すと云う国民主義たる点において民主主義なり。しかして維新革命より二十三年に至るまでにおいては国家は国家主権の国体にして、政体は最高機関を一人の特権者にて組織したる君主政体なりき。(先きの法理論において政体三大分類を主張したる所を見よ)。文字の形態発音において君主政体と云うを以て之を家長として全国家を所有すと云う意味の家長全体のそれと同一視すべからず。すなわち、維新後の『君主』と云い『天皇』と云うは国家の全部の利益の為めに国家の一部が、家長国時代の如く個人的利己心によってにあらず高貴なる社会的利己心を以て、個人としてにあらず社会の一部として社会の意志を発表しつつありし一国民なりしなり。斯くの如き君主政体は誠に純然たる政治道徳のものなりき。故に唯一最高機関たる君主の人格いかによって君主の個人的利己心の為めに国家の全部の目的と利益とを無視し、自己以外の国家の部分を国家の部分に非ずと考えうるか、あるいは自己が国家の外の者にして国家は自己の財産なりと考えうるかに至って事実上の家長国と化し去ることあり。維新革命のヒーローは社会単位の生存競争の激甚なりしが為めに、国家の目的と利益とにその頭脳の全部を奪われ、劣等なる利己心の如きは痕跡もなく去れり。
 二十三年の帝国憲法は国家がその主権によって一人の最高機関の口を通じて最高機関を平等の多数を要素する政体に変更することを表白したるものなり、国家は主権体として機関を改廃作成するを得といえども二十三年にして消えたる一人の最高機関は憲法改正または廃止の自由なし

 −すなわち維新革命以後二十三年に至るまで日本天皇の意志は法理上明らかに大日本帝国の意志なりしなり。(この故を以て天皇と国家とを同一なりと云うべからざる注意は繰り返されざるべからず、かかる君主政体において天皇と云う国家の部分が国家全部の利益と目的との為めに意志すと云うことを以て部分と全部とを同一なりと云う能わざるは、あたかも共和政体の国において議会と云う国家の部分が同時に共和国の全部ならざるが如し)。しかして君主主権の家長国体において君主の利益と目的との為めにされたる総ての法律が総て有効なる如く、国家主権の国体においては国家はその目的と利益との為めに国家機関を改廃作成するの完き自由を主権の本質において有す。すなわち二十三年の帝国憲法は国家がその完全なる主権の発動によって国家の目的と利益との為めに国家の最高機関を改めたる者なりとす。しかして国家機関の変更は国家の意志を成す所の一人の最高機関によって表白せられたり。すなわち、二十三年の帝国憲法は国家がその主権を一人の最高機関の口より発表したるものにして、現皇帝は維新以前と維新以後とは法理学上全く別物なり。維新以前は諸侯将軍の君主等と等しくその範囲内における家長君主たる法理上の地位なりしといえども、維新以後二十三年までは唯一最高の機関として全日本国の目的と利益との為めに国家の意志を表白する者となれるなり。故に国家は主権体たる本質よりして国家機関の改廃作成において絶対の自由を有すといえども、単に主権の表白において唯一最高機関たりし天皇は二十三年の経過と共に過ぎ去れるものにして、今後国家主権の名において国家機関を改廃作成する国家機関は天皇と帝国議会とを以て組織されたる最高機関の外なし。これ現行憲法が明らかに憲法改正の方法を規定せるゆえんにして、かの穂積博士が欽定憲法の名よりして天皇は憲法の改正廃止において絶対の自由を有すと主張するが如きは、疑いもなく政体の変更を図る朝憲紊乱罪に当るものとす。吾人は穂積博士に問う。
 穂積博士の欽定憲法論は継体天皇もしくは光孝天皇の如きを金村・基経等の自由に改廃するを得べき欽定天皇なりと云う論理なり、欽定憲法の意義

 穂積博士は最も価値なき頭脳にして歯牙にだも掛くるの要なき者なりしに係わらず、法科大学長帝国大学教授の重大なる地位にあるが為めに吾人の筆端に最も多く虐待されたる者なり。吾人は深く博士に謝すると共に、なおしばらく忍耐を要む。もし意志を表白したる者が権利の主体なりと云う独断より、現行憲法を天皇の権利によって与えまた天皇の権利によって奪うを得べき欽定憲法なりと云うならば、吾人は実に博士に問わん。かの山野に陰れたる継体天皇が大伴金村の意志によって天皇の位に即ける如き、源氏の姓を得て臣に降れる光孝天皇が藤原基経の意志によって天皇の位に即ける如き、金村・基経等の欽定天皇なりと云うやと。博士の両頭中の尊王忠君の頭は大に驚きて之を否みてのたまうべし、否! 君主国時代なるを以て彼等は君主の機関として君主の利益と目的との為めに機関としての意志を表白したるに過ぎずと。しかしながら両頭は平和なる能わず、乱臣賊子の他の頭は尊王忠君のそれを殴打して沈黙せしめ大音声に叫ぶべし。いわく、国家の目的と利益との為めに国家の機関として表白したる天皇の意志を以て、天皇の自由に改廃与奪し得べき欽定憲法なりと云わば、継体天皇と光孝天皇とは金村・基経の自由に廃止変更するを得る金村・基経等の欽定天皇なりと云わざるべからずと。大日本帝国憲法はもとより欽定憲法なり、しかしながら欽定とはかかる意味のものにあらずして国家の主権が唯一最高機関を通じて最高機関を変更して特権の一人と平等の多数とを以て組織すべきことを表白したることなりとす。
 憲法の解釈権は何者にも存せず

 穂積博士は最早忍耐の頂上に在るべし、吾人は余りに氏を価値無くしたることに同情を表すると共に氏に向へる鋒を収めざるべからず。ただ一言あり。すなわち以上の説明によって憲法の解釈権は天皇に在りとの氏の議論は従って意味なし。天皇が主権の本体たりし古代においての法律ならば然かるべく、また、天皇一人が最高機関なりし時ならば然かるべく、またある国の如く立法機関と独立せる司法機関に解釈権が指定されしならば問題たらず。しかしながら天皇と帝国議会とが最高機関を組織し、しかもその意志の背馳の場合において之を決定すべき規定なきにおいては法文の不備としていかんともする能わざるなり。あたかも帝国議会の中において衆議院と貴族院とが各その見解を持して相譲らざる時に処置の途なき如し。法律上の規定なきことは法律学者として論議の権外なり。

 以上述ぶる所の如し。後の歴史家なる者よ。国家の生存進化の目的理想を厳粛に意識して総てを行動せる民主主義の大首領を、穂積博士輩の讒誣におおはしめて明治歴史の主人公を誤り伝うるなかれ。
 最後に天皇と国民との道徳関係を述ぶ。『愛国』と『民権』の声

 道徳とは法律の外部的規定たると併行して内部的規律なり。故に法律が国家主権の国体たる国家主義と国民(広義の)全部が政権者たる政体の国民主義とを実現したるを以て、内部的法律たる道徳のそれと併行して社会の生存進化を目的としその目的の為めに社会全分子の努力すべきを理想とせる社会民主主義となれるは論なし。かの『愛国』の声が大に中世的蛮風の血腥き音響臭気あるは遺憾なりとするも、社会的存在なることをようやく意識するに至れる社会主義の初歩なるは事実にして、『民権』の叫びもなお土百姓武士時代の奴隷的良心を脱却し得ざるは恥辱の極なりといえども、国民総てが国家の部分なることに覚醒したるを以て民主主義の根本義を得たることはまた事実なり。然らば天皇と国民との道徳関係はいかに解すべきや。
 天皇の国家機関たる地位は原始的宗教を信ぜずと云うこともしくは血液を異にすとの理由を以て侵犯さるべからずまた奴隷的従属関係にあらず

 上来縷々として説ける所によって君臣の一家なるが故にあらず、また忠孝の一致するが故に非ざるは明らかなり。もし『国体論』の如く現今の天皇が国家機関たるが故に天皇にあらず、その天皇なるは原始的宗教の信仰あるが故なりと云わば、これ今日の仏教徒とキリスト教徒と旧宗教の何者をも信ぜざる科学者として蘇我馬子たるべき権利を付与するものにして、内地雑居によって帰化せる外国人の総てをして漢氏の駒たるべき道徳上の放任に置くものなり。しかして忠孝一致とは原始時代の稀薄なる人口の時において家族団体時代の一過程においてのみ云わるべく、また今日の如く一家と云う血縁的意識の全く断絶せる民族団体時代に不可能なるを知れるならば、之を今日に主張する如き三千年前の系統的関係の知れもせぬものに何の義務なしとの結論に到達せしむべく。また本家と末家とが純然たる平等となり家長と家族との関係も生殺の権利と奴隷の義務とにおいて対立せざるに至りしを以て、天皇を家長とすることは天皇の意義を解せずして天皇そのものの否認に至らしむべし。しかして更に忠とは自己の身体が君主の財産として経済物たりし奴隷制度の古代、または経済的従属関係によって奴隷道徳を継承しつつありし武士道の中世においてのみ要求せらるべきを知りて之を今日に唱えることは、私有財産制の確立による経済的独立によってまた等しく天皇そのものの存在をも疑惑して国家の利益を害するに至らしむべし。
 天皇は系統崇拝の崩壊しつつある基礎に立てるものに非ず

 −かかる結論とかかる結論に導くべき前提とは大日本帝国の一歩も許容せざる所なり。天皇は国家の利益の為めに国家の維持する制度たるが故に天皇なり。いかなる外国人といえども、末家といえども一家といえども、全く血縁的関係なき多数国民といえども、この重大なる国家機関の存在を無視する事は大日本帝国の許容せざる犯罪なり。またあるいは、万世一系連綿たりと云う系統崇拝を以て天皇と国民との道徳関係を説かんとする者あるべし。もとより歴史の進行は截然区画されず、社会の一般階級が近代の進化に入れる後も、なおある下等なる知識の下層は中世的思想を継承しつつある社会進化の常として、今なおドイツ皇帝が中世的思想を有する如く、日本の下層的知識の部分においては日本天皇の意義を解せずして中世的眼光を以て仰ぎつつある者の多かるべきは論なし。しかしながら先に引例せるマラハーナのインドの如き未開国の良心を以て日本国民の現代に比することは国民に対する無礼たる外に皇室を以てかかる浮ける基礎に立てりとの推論に導きて皇室そのものに対する一個の侮辱なり。否! 系統崇拝を以て中世的良心が支配されしが為めに皇統より分派したる将軍諸侯の乱臣賊子となり、今日その乱臣賊子を回護して尊王忠君なりと云う所の穂積博士の如きが君臣一家論を唱えて下賤なる穂積家を皇室の親類なり末家なりと云う精神病者が生ずるなり。もし穂積博士にしてその主張するが如く穂積家なるものが天照大神より別れたる傍系なる事を明らかに知り、しかして皇統は無数の傍系と傍系とを織りて幅広き者なる事を知れるならば、すなわち国民の中にも天皇の血液が流れ天皇の血管にも国民の鼓動が聴かれるならば、恐くはその乱臣賊子の首を挙げて拙者穂積八束も神聖不可侵なりと称してその車夫に対するときの驕慢を全国民に向かって要求すべし。(博士はその頭脳の車夫を載せて曳くべき車夫たるの価より外有せざるに係わらず、車夫に向かって言語を交ゆるを以て光栄を傷くるとなすと云う、吾人は学者として彼を排撃する以外に憎悪軽蔑の情を有することを表白す)。たとえ彼が如き乱臣賊子に非ずとも、人類が梅の木の根より産れず、桃の実より産れず、弓矢八幡によって産れざるならば、吾人人類は総て類人猿より十万年の綿々たる系統を有すべく、誠実なる丘博士の如きはその生物進化論よりして穂積博士の乱臣賊子に誘惑さるべし。
 天皇と国民とが血液において差等なしと云うことを以て天皇を否認することは国家の是認せざる所なり、土人部落の蛮神は教育勅語を盗奪したり

 −実にかかる結論とかかる結論に導くべき前提とは大日本帝国の決して許容せざる所にして天皇はかかる惑乱者の上に超越して国家の利益を表しつつある者なり。国民の血液が天皇に入り天皇の血液が国民に入って天皇と国民とは血液の上において全く混和してこの点より懸隔を立つる能わずといえども、それはそれだけの事実にしてこの故を以て天皇を是認しもしくは否認するの理由とすべからず。天皇は国家の主権によって是認せられ之を否認することは国家の主権に対する背反なり。

 然るに復古的革命主義は大に天下に蔓延し、天皇を後に排斥して驚愕すべき野蛮部落の土偶を作り上げたり、しかして野蛮人はこの土偶に形容すべからざる角、牙、大口、巨鼻を着け顔面に紅白の粉末を塗抹し、しかして雑多なる虚為迷妄惑乱の襤縷を補綴して被らせ、以て『四千五百万同胞の土人等よ、この威霊の前に礼拝稽首せよ』と叫びつつあり。しかして四千五百万土人はことごとくこの蛮神の偶像の前に叩頭合掌して実に日本天皇の存在を忘却し果てたり。この蛮神の前には釈尊も国体を傷くるものと罵られ、キリストはナザレの大工の子とそしられ、神道の本義もことごとく蹂躙せられ、神話の科学的研究も一たび脅かされたり。しかして蛮神の祭主等は抱腹すべき擬古文を以て訟徳祭礼を事とし、大日本帝国と皇帝陛下とがいかなる厳粛の関係において維持されつつあるかを一顧だもせざるなり。特に、天皇が詩人として天才を示しつつある如く、国家機関たる意義の外において発表せられたる総ての意見は必ず土人等の盗奪に逢わざるなく、土人等はその盗奪物を汚して以て蛮神の装飾となす。蛮神の怒りは学者も政治家も新聞記者も一切のものの尾を垂れて慴服する所にして、不敬漢! の一語は実に東洋の土人部落における社会的死刑の宣告なり。(ドイツの専制なる現代といえども驕慢なる皇帝あるのみ、日本国のみ何が故に天皇の外に蛮神ありや)。
 −いわく汝は『爾臣民克く忠に』と命ずる教育勅語に違反する不敬漢なりと。

 吾人は、実に国体と天皇の名において蛮神の宣告を拒絶せざるべからず。『国体論』の国体は土人部落の国体にして日本現代の国体にあらず、『国体論』の天皇は土人部落の土偶にして日本現代の天皇にあらず。
 国家機関は内部的生活に立ち入る能わず、井上博士一派の解釈家の『克く忠に』の意義は天皇を解せず、忠君と愛国との道徳的理想の進化、忠君愛国一致論の迷妄

 −吾人は実に土人等の盗奪より教育勅語を天皇の手に取り返さざるべからざるなり。

 教育勅語に就きては先にしばしば説明したり。土人部落においては些少なる信仰に対する背反も直ちに虐殺せらると云う如く、蛮神の土偶は思想界の上にも絶対無限権を有すべし。しかしながら外部的生活の規定たる国家において天皇の可能なる行動は外部的規定の上に出づる能わず。蛮神の土偶は土人部落の原始的宗教と原始的道徳とを鬼神蛇鳥の威において土人に強制するの権あるべし、しかしながら近代国家の原則として国家の一部分たる個人の思想信仰を国家の大部分もしくは上層の部分が蹂躙すべからずとされる今日において、天皇はたとえ仏教の信仰を有するもまたキリスト教の道徳を有するも、之を国家の他の大部分に強制する能わず。天皇が医学上の学説を命令し、天文学上の原理を強制する能わざる如く、一派の倫理学派を励行し一派の歴史哲学を制定する能わざる如く、−良心の内部的生活に立ち入る能わざる国家、従ってその一機関たる天皇は道徳を強制する事能わざるものなり。

 道徳が強制の形を取るときに法律となる。教育勅語とはその教育の名が示す如く道徳の範囲内のものにして法律的効力を有せず。現天皇の歴史上の効果に対し現天皇の明哲に充分なる信頼を置かしめよ! 吾人は断言す、『克く忠に』の意義は断じて井上哲次郎氏以下の紛々たる教育勅語解釈家が説明しつつあるが如き内容のものにあらざるなり。彼等の見解の如くんば第二の天智天皇として公民国家の理想を実現せる大皇帝に対する悪意の表白なり。また一般国民の道徳的信念につきて考察せよ、天皇の利益の為に日露戦争の戦われたりとせずして『国家の為に』と云う国家主権論の社会主義を以て、その門出の涙を拭ひつつは非らざりしか。もし維新以前の階級国家時代の如く多くの君主の下に奴隷的に従属せし武士ならば国家の為めにと云わずして必ず各仕える所の『君の為に』と云うは論なく、然るに国家の為と云うは国家が生存進化の目的を有する人格なることが法文の上と共に道徳的信念においても一般国民に認識せられ、かくの国家と云う限定されたる社会そのものの目的の為めに国家に『克く忠に』戦うことにして、その忠が他のいかなる者の個人的利己心に取り扱われざるを表示する者なり。

 『国家の為めに』と云う社会主権の公民国家と、『君の為めに』と云う君主主権の家長国とは、国体の進化的分類において截然たる区画をなす如く、道徳的理想の進化において個人単位の現在的のものより社会単位の永久的のものに進化せるものとして大段落を画せらるべきなり。朕すなわち国家の全部にして国民は国家の部分に非ずと云わざる限り(穂積博士すら言わず)、国民のみ国家の全部にして君主は法理上国家の外に在りと云わざる限り(日本の総ての君主主権論者は之を言わず)、中世史と現代と合致して停止せる者なりと云わざる限り(日本の学者も歴史の進化するだけは知る)、君主主権論と国家主権論と同一なりと云わざる限り(日本のそれらはその故に争いつつあり)、『忠君愛国一致論』とは理由の一をだも発見すべからざるものなり。国家の生存進化が目的にして、しかして国家の総ての部分すなわち全国民が国家なりと云わば、国家の目的理想の為めに努力する国民の忠は国家に対するものにして、等しく国家の一部たる天皇の悦びは等しく国家の大部分たる国民の悦びの如く大個体の一部としての大個体の満足にして目的その事と係わりなし。故に家長国の階級国家時代の如く諸侯将軍の君主等に奴隷的従属をなし彼等そのものの個人的利益が忠の目的なりしと同様に、天皇が家長君主にして忠の目的が天皇の利己的欲望の満足に向かっての努力なるならば、論理的進行の当然として例えば諸侯将軍等の如く、天皇の個人性がその社会性を圧伏して(すなわち国家の機関として存する国家の意志を圧伏して)働くときにおいては、国民は圧伏されたる天皇の社会性を保護することなく、国家機関たる地位を逸出せる個人としての天皇と共に国家に向かって反逆者とならざるべからず。かかる場合を仮想する時において、天皇は政治道徳以外に法律的責任なきは論なしといえども、国家はその森厳なる司法機関の口を通じて国民を責罰すべき法律を有す。
 穂積博士の忠愛一致論はその排撃する国家主権諭と自家の君主主権論と一致すと云う自滅なり

 これ忠君愛国一致論の矛盾すべき時にあらずや。天皇なるが故にかかる矛盾なし、もし蛮神の土偶が天皇を駆逐して蛮神の個人的利益の為めに国家の臣民に忠を命ずるならば、国家の生存進化の目的の為めに国家の全部を成せる天皇と国民とは必ず之を粉砕せざるべからず。国家の科学的研究なき井上博士の輩ならば可なり、国家の法理を専攻する学者たる穂積博士の如きが忠君愛国一致論を説くに至っては何の語を以て評すべき。これ力を極めて排撃しつつある国家主権論と自家の君主主権論とが一致すと云うと何ぞ異ならん。怪物の両頭は相殴打することを止めて相抱擁したり、しかして相抱擁するとき頭蓋骨を破裂せしめて死せり。嗚呼忠臣穂積氏の墓! (吾人は氏の墓碑を建てて再び発ばきたり、しかしながら再建の碑は堅牢なり。氏の怨霊こうねがわくは吾人の枕頭に現れるなかれと云う)。
 『爾臣民克く忠に』とは国家の利益のために天皇の特権を尊重せよということなり

 すなわち、『爾臣民克く忠に』とある忠の文字の内容は上古及び中世のそれの内容とは全く異なって、国家の利益の為めに天皇の政治的特権を尊敬せよと云うことなり。もし文字の形態発音を以て内容の歴史的進化を無視するならば、これ君僕失敬と云うを以て角帽と海老茶式部との間に神聖なる尊王忠君の関係が成立せしと云う有賀博士の論法なり、今の博士階級と同列に置かれることは吾人といえども侮辱に感ずべし、民主的革命のヒーローは群盲に評価されんには余りに偉大なり。
 以上の総括、以上の帰結。

 日本民族の進化を見る歴史哲学は皇室一家の伝記とは自ら別種の性質にして皇室は日本歴史の脊椎骨に非ず、一元の人類より繁殖せる総ての民族は総てのそれに通ずる社会進化論の歴史哲学を有すと云うこと。

 今日の日本を家長国となすことは異教徒と異人種を国民の義務より放任し、親族法の平等関係を以て民の父母を赤子と平等なりと云う自殺論法に終ると云うこと。

 日本国民は克く忠に万世一系の皇統を奉戴せりと云うことはローマ法王の天動説にして、日本国民は古代中世の階級国家を通じて系統主義と忠孝主義とを以て皇室を打撃迫害したりと云うこと。万世一系は日本国民が貴族階級の下に忠孝なりしが為めに皇室を打撃迫害することはなはだしく為めに皇室は全く絶望に捉えられたるよりの結果にして乱臣賊子の歴史的ピラミッドなりと云うこと。

 日本歴史は原始的時代の一年間と伝説される部分、もしくは記録的歴史が要求されるほどに歴史的生活に入りし古事記・日本紀出現以前の一千四五百年間を除きたるものなりと云うこと。しかして古代は一人の家長君主が法理上全日本の統治者なりしを以て君主国時代となし、中世は多くの家長君主がそれぞれに統治者たりしを以て貴族国時代となすべしと云うこと。しかしてこの長き間は国家の生存進化の目的が意識せられざりしを以て家長国と云う別個の国体なりと云うこと。

 現代は国家主権の公民国家と云う国体にして、国家の総ての部分が全部たる国家の生存進化の目的の下に行動する機関たるを以て民主的政体なりと云うこと。従って今の君主主権論者も国家主権論者も共に価値なき憶説の暗闘にして、法律のみの上においては維新以後の日本は社会民主主義なりと云うこと。

 故に『天皇』の文字の内容は歴史的に進化し、原始的時代のものに後世より謚名せる天皇は小地方と小人民の上に原始的宗教の信仰によって立てる家長として他の小家族団体のそれらと抗争しつつありしと云うこと。藤原氏時代に至るまでは天皇の内容は全日本の土地人民を所有せる最上の強者なりしと云うこと。鎌倉以後の貴族国時代においては他の家長君主と同様にその範囲内において家長君主たる外に、神道のローマ法王として絶えず鎌倉の神聖皇帝と抗争しつつありしと云うこと。維新革命以後に至っては国家の終局目的の下に行動する民主的国民として国家主権を表白する最高機関となり、更に二十三年以後は大に進化して帝国議会と共に最高機関を組織すべき要素と云う意義となれりと云うこと。
 すなわち、いわゆる『国体論』中の天皇とは土人部落の土偶にしてかえって現天皇を敵としつつあるものなりと云うこと。












(私論.私見)