北一輝の「国体論及び純正社会主義3―2」 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、北一輝の「国体論及び純正社会主義」を確認する。 2011.6.24日 れんだいこ拝 |
【第三編 生物進化論と社会哲学】 |
【第七章】 |
恋愛の自由なると共に人口過多に至ると云うマルサス論は社会単位の生存競争たる食物競争によって説明さるべし。マルサス論を現在の状態と社会の将来との二様に解す。個人主義の人口論を以て上層階級より解する者と下層階級より解する者。マルサス論は個人主義の立脚地よりするも価値なし。算術級数と幾何級数と云う独断より統計の取扱いを誤まる。人口も食物も算術級数に増加する者に非ずまた幾何級数に増加するものに非ず。マルサスは時勢の致す所の外に価値なき凡物なり。マルサス論を以て社会進化論に対抗する金井博士の醜態。今の学者階級は社会進化論を解する頭脳を有せず。マルサス論とは『人口』対『食物』の問題なり。経済学の範囲内にて『食物』を論ず。食物の種類の進化と食物の生産方法の進化。食物の種類は漁猟時代牧畜時代農業時代と社会の進化するに従って進化せり。食物の生産方法の進化。人知を以て食物たるべき生物種属を繁殖せしむと云う意味の生産方法の進化。生物種属を人類の口にまで持ち来る間において更に人知を加える経済的活動の意味における生産方法の進化。一切の生産は原始的生産より工業的生産に進む。煮焼の僅少なる工業的生産行為。原始的生産より工業的生産に進化せる住居及び衣服。蒸気と電気とを有する胃腸の工業的消化時代。科学の一元論と化学的調合の食物時代。マルサスの独断論よりも科学者の実験に従わん。『人口』を生物学によって説く。ダーウィンの大過失はマルサスの人口論を総ての生物種属に拡充して生存競争説を立てたるに在り。ハクスリーは食物競争が種属対種属のものなる事とを正当に解せり。ハクスリーの不備の点。食物競争は総ての生物種属を通じて同種属間の個々対個々の者にあらず。生存競争の優者達者強者の意義。今の生物進化論は生存競争の対敵と結果とを混同す。社会主義時代における社会単位の生存競争とは種属単位の最も広き意味における大個体の生存競争なり。ダーウィンの偉大は生物種属はその種属の生存進化の為に必要なるだけの子を産むと云う生物学よりの帰納に在り。目的論の哲学系統は生物進化論によって科学的に決定せられたり。総ての生物種属は生存進化の目的の為に必要の形を執る如く必要の子を産む。社会主義は総て生物学の基礎に立つ。ダーウィンの二大功績。人口論は人類種属を包含せる生物学の断案によって解せらる。種属の生存進化に困難なる下等生物は最も多く子を産み困難の減少と共に高等生物は産子の数を減少す。今日マルサス論は社会進化論に延長せられたる如し。今の生物学者もある程度までダーウィンを解す。ダーウィンの目的論を執りてマルサス論を社会進化論の否定に用いる滑稽なる矛盾。今日の人口過多は生存競争の劣敗者あるが故に必要なる天則なり。人口過多は貧民階級それ自身の為めにも必要なり。生殖欲と歴史の進化。貧困の劣敗者去ると共に下等生物の方法にて種属を維持する必要去る。戦争の劣敗者がまた下層階級より出づるが為めの人口過多。社会の必要に応じて人口の増減する歴史上の事実。日本今日の人口増加は貧困と戦争との継続の為めなり。人口のはけ口を満韓に求めたるに非ず。戦争を理想とする国家なるが故に人口はその必要の為めに増加す。社会主義が思想そのものの革命を要する理由。皮相を解釈せるに過ぎざる主戦論者と非戦論者。上層階級より個人主義を以て貧民の生殖欲に道徳的責任を負担せしむる能わざる如く下層階級より個人主義を以て上層階級の貪欲非道に基く貧困なりとして道徳的責任を問う能わず。今の社会主義者と名付ける者に個人主義者多し。下層階級は上層階級の犠牲たらんが為めに人口過多なり。社会と云う大個体の今日の進化の程度は下等生物の如く個体の一部を欠損して生存する犠牲の方法なり。下層階級の人口過多は政治的単位の個体及び経済的単位の個体の欠損すべき部分として補欠の為めなり。人口過多なければ人類はすでに消滅したるべし。人口過多の恐怖さるべきは過多の子を犠牲とするに堪えざるに至れる愛の進化なり。犧牲として多くの子を産みつつありしことを知らざりし奴隷農奴の時代。社会の進化は同類意識の深く広くなることに在り。人口論の解釈が近代に至って要求されるに至りし理由。同類意識の進化とフランス革命。天則の挑発する下層階級の生殖欲。革命は愛の満足を求めて起る。上層階級は人口過多の声を革命の意味に恐怖せよ。社会主義の世において人口増加は恐怖の意味にあらず。社会主義時代に人口増加に苦しむと云うはあたかも個体を欠損して生存する生物を見て人類の手足が幾何級数に増加したりと云うと等し。日本の学者は通弁なるが故に責任の負担者に非ず。ダーウィンに混ぜる個人主義と社会主義。人類の進化はその過大の繁殖力によって相競争する故なりと云うかの過失を継承せるキッドの『社会進化論』。キッドの理論ならば人類は滅亡して蝿とサナダムシの文明国時代なるべし。キッドは児童なり。丘博士の『進化論講話』はマルサス論の拡充に過きずして理論なし。社会主義時代に生存競争ありとの断案。 |
恋愛の自由なると共に人口過多に至ると云うマルサス論は社会単位の生存競争たる食物競争によって説明さるべし
マルサス論を現在の状態と社会の将来との二様に解す、個人主義の人口論を以て上層階級より解する者と下層階級より解する者、マルサス論は個人主義の立脚地よりするも価値なし。 ここにおいて必ず起る問題あり。すなわち人口論なり。男女の自由なる恋愛に放任すれば人口の増加をいかにすべきやと云うマルサスの人口論なり。吾人はここに社会主義時代における社会単位の生存競争と伝える食物競争を説くべき機会に到達せり。もし、個人主義の経済学者ミルが解釈したる如く、マルサスの人口論とは社会の前途に横たわれる鉄壁と云う意味にあらずして現在の社会の下に敷かれたる網なりとの義ならば、これある程度までの事実なり。何となれば彼等はかくの社会を解釈するに個人の集合せる関係もしくは状態と解する個人主義者なればなり。 すなわち、社会を以て社会それ自身が、それ自身の目的の為に進化し、その過程として幾多の現象を呈すとして解せず、貧民階級の貧困なるゆえんを貧民自身の個人として道徳的責任となし、汝等が子を産み過ぎるが故の自業自得なりと云うに過ぎざる也。露骨に言えば、資本家階級の淫蕩逸楽は富有なる個人の権利にして、貧乏人は貧困に伴う生殖行為を抑制するの個人的義務を忘却するが故なりと云うに過ぎざるなり。 吾人は今日の労働者階級が他の高雅なる精神的快楽なきが為に、また幼少より肉欲を桃発さるべき境遇に置かれるが故に、多く生殖行為を娯楽として取扱い、その行為の累積はラマルクの用不用説によってその生殖欲をはなはだしく昂進せしめたるものなることを否む者に非ず。しかしながら不幸なる境遇によって不幸になされたる彼等に一切貧困の責任を負担せしむるならば、吾人は実に等しく不幸なる境遇によって不幸になされたる資本家階級の淫荒を看過しつつあるの寛大を止めざるべからず。これが人面を備えたる者の口にすべき事か、略奪は淫荒の権利を作り貧困は生物として欠くべからざる義務を消滅せしむと云う。統計は明かに示す、すなわち今日の如く増加せる人口あるが故に、増加せる機械を運転し増加せる新発見地を開墾し、以て今日の如く増加せる富の資本家階級を作り上げたるなり。貧民の生殖欲が熾烈なるを以てこそ今日の経済的貴族は維持せらる。僧侶の身を以て人の閨中にまで口出しすとは何事ぞ。 算術級数と幾何級数と云う独断より統計の取扱いを誤まる、人口も食物も算術級数に増加する者に非ずまた幾何級数に増加するものに非ず しかしながら吾人は理論を語る者の恥じずべき感情論に陥る事を避けざるべからず。彼マルサスの如き個人主義時代の古人に対してかかる態度を以て怒罵しつつある社会主義者と称するもののあるも、そはまた等しく個人主義を以て貧民階級の傍より人口論を解釈しつつあるものに止まりて社会主義は自ら論拠を異にす。否、単にマルサスと等しく個人主義に脚を立てて、かの人口論を考えうるも価値なきのはなはだしき独断論に過ぎざるなり。 マルサスの人口論は独断の一点より演繹を始め、その独断を先入思想として独断に適合すべく統計を解釈し、その帰納よりいかにも科学的研究なるかの如き眺めを以て再び出発点の独断に帰り来れり。人口論の空中桜閣は実に『算術級数』と『幾何級数』と云う二語の夢より画がかる。しかしてこれが誠に全部根拠なき独断なり。すなわち、マルサスは、食物は算術級数すなわち一二三四の割合を以て増加するに人口は二、四、八、十六の速度を以て増加する幾何級数の者なるが故に貧困は先ず以て人生の永遠に伴う運命なりと独断せり。 −しかしてこの夢よりも驚くべき独断が人口論の全部を組織し、今の学者階級がこの独断に疑を挿まずして彼を権威として奉戴しつつありとは解すべからざるもはなはだし。彼はもとより統計を掲げて論じつつあり、しかしながらかの平凡なる脳中にはすでに算術級数と幾何級数と云う独断が統計の帰納より先に凝結して存せしが為に、統計の案配の上に常にこの独断が君臨す。 例を挙げれば、彼が二十五年毎に人口が二倍するものなるに食物の増加は遥かに僅少なりと帰結するに当て、全く比較すべからざる別種のものを比較したる如きこれにして、かの根拠とする二十五年毎に二倍する人口の増加と云う統計の計算は北米の未開時代の事にして当時の北米にては人口の増加と共に食物はそれと同一の幾何級数を以て増加しつつありし天然として存したる者なるを顧みざるなり。然るに彼は北米における人口の幾何級数を同じく北米における食物の幾何級数に対照せしめずして、北米の人口のもののみを抱いて空中を飛行して欧州の食物の上に来たり、見よ人口は幾何級数を以て増加するものなるに食物は算術級数の増加に非ずやと、全く別種の統計を指したるなり。かかる統計の取扱いによっていささか帰納せられたるかの如き跡を有すとも、その根本点たる算術級数と幾何級数とに何等の力を加える者ぞ。 由来、食物も人口も決して算術級数によって増加するものにあらず、また幾何級数によって増加する者にもあらず。人類に今日食物として取られつつある動植物も生物種属にして、それを食物として取りづつある人類も生物種属の一なり。 −実に今の学者なるものは恥じよ!一粒万倍に非ずとも一粒より出でたる米の茎に算術級数の増加を以て二粒の米より外なき穂の稲ありや。鼠は幾何級数を以て産るべき割合なりとせらる、しかしながらそは単に産るべき割合と云うだけの事にして、その内の大部分が物質的危難、あるいは猫の如き、ペスト属の如き他の生物種属との生存競争において劣敗者となり、第二の幾何級数を割り出すべき産児前に死するが故に決して増加する時において幾何級数に非ず。今のマルサスを合掌礼拝しつつある経済学者の神棚には鼠が一年一匹の母より、八千匹増加する所の割合を以て幾何級数の山をなしつつありや。マルサスは論なく平凡以下なり、もし平凡の人としての誤謬ならば、むしろ人類の食物とせられる下等なる生物種属は之を食物とする人類に比して、数十倍の子を産み、数百倍の果実を結び、数万倍の卵を産む者なるが故に、かえって『食物は幾何級数を以て増加し人口は算術級数を以て増加す』と云う独断ながらも転倒すべかりしなり。 マルサスは時勢の致す所の外に価値なき凡物なり もとよりマルサスの時代は人口増加を国家競争の為に過度に奨励せるメルカンタイル・システムの反動たりしことは事実なり。またようやく悲惨なる現象を呈しつつ始まれる英国の工業革命の為に、判断の冷静を保つ能わざりしことも事実なり。また産業革命の初期にして経済的土豪の時代なりしが為に、あたかも幕末に至ってようやく諸侯略奪の跡を発見したりし如く、かの時に何人の出づるもカール・マルクスたる能わざるは社会進化の程度としてもとより事実なり。 しかしながら算術級数と幾何級数と云う如き、野蛮人よりも数の観念の不明確なるは誠に劣等なる頭脳なりと云うの外なく、以来一百年の長き間無数の学者によって継承せられて一種の経典の如くなり、権力階級に執られては残忍暴戻なる圧虐となって下層階級に臨み来れりとは人類の霊知も怪むべき者なるかな。しかも今なおマルサスより幾何級数の勢を以て増加し来れる霊知ある経済学者、時に霊知ある金井博士の如きはいわく『地球全体を開墾すとも人類は三階五階の家を建てて空中にまで増加するが故に人口増加は避くべからず』と。人類の霊知も極まるかな。 マルサス論を以て社会進化論に対抗する金井博士の醜態、今の学者階級は社会進化論を解する頭脳を有せず 然しながら、いかなる下等なる学者といえども軽蔑を以て経過すべからず。彼等下等なる者においては真理を語るよりも単に当時の大勢の後に付随して大勢たるものを反響する者なり。大勢ならばいかに価値なきものといえども充分に惑を解かざるべからず。しかしてマルサスの人口論は下等ならざる貴き金井博士の今なお以て社会主義に対抗しつつある最後の城砦となしつつあるに見れば全く大勢なることは看過すべからざるなり。 いわく、飢餓を余儀なくされつつある下層階級の無くならば全社会を挙げて人口の増加を来して全社会の餓死を来すべき論理にあらずやと。これマルサスの人口論をミルのそれの如く現社会の下に敷かれたる網なりとの意味に解せずして、社会進化の前面に立てる鉄壁と考えうるものなり。社会主義の根拠は誠に社会進化論に存するを以て、社会主義は社会進化の将来につきて厳粛なる知識を要す。故にもし社会哲学の上に経済学を築きて社会主義に対抗するならば、社会主義の非難者として堂々たる者なるべしといえども、児童すらも言うをあえてせざる三階四階の家などの建つべきを北極より南極まで想像してその上に幾何級数のマルサスを祀る如きに至ってただ以て醜くしと云うの外なし。かかる学者の多くは自ら社会主義者と区別せんが為に愛国者を以て居り、学者は千年後の後世を洞察するを要すと任じつつあるが故に、地球冷却後の大日本帝国を如何すべきかと云う大々的問題と共に、この一千年後の人口論は路傍の餓殍を外にしても必ず論議せざるべからざる緊急問題なるべく、社会主義者は常にかかる学者の前に講釈を要求せられつつあり。 吾人は公言す、かかる学者に対する最もよき答弁は軽蔑を表示する沈黙なりと。経済学は社会の物質的基礎を論ずるものなるを以て社会学の知識を要し、しかして社会学は人類と云う一生物社会の生存進化の理法を研究するものなるが故に総ての生物種属の生存進化を研究する生物学の一章たり。従って経済学者が今日誠に狭少なる甲殻中に窒居して盲動的に研究しつつある人口論の如き全く生物学の知識に要めざるべからざるものなり。しかしながら今の経済学者なる者は、生物学以前、社会学以前の糟粕を予め先入思想として頭脳を組織せるものなるが故に、たとえ彼等に向かって社会学によって新社会を論じ、生物学によって新社会の人口を説くとも、その効果なきことにおいて石地蔵と語るが如きなり。 否! 彼等が今日経済学の対象としつつある食物の無限と云うことにつきて語り、北米の平野のみを開墾すともなお三十五億人を入れることを得と云い、海と名づけられたる地球三分の二の牧場ありと云うとも、全地球を開墾したる上なおその表面の総てに三階五階の家が建つと云うほどに豊富なる詩人的想像力を持てる彼等のことなれば、必ず千年後洞察の明を以て百億千億に増加せば如何と窮追すべく、もしまた将来の食物は化学的調合によって得らるべしと云えば、また必ずその丸薬を一服見せざるにおいては経験的科学に非ずと答うべし。吾人は礼儀に拘泥する能わず、『生物進化論と社会哲学』は憐れむべき頭蓋骨の陳列されたる今の学者階級に向かって語りつつあるものに非ざることを告示す。 マルサスの人口論とは人口対食物の問題なり、経済学の範囲内にて食物を論ず、食物の種類の進化と食物の生産方法の進化、食物の種類は漁猟時代牧畜時代農業時代と社会の進化に従って進化せり 否、マルサスの人口論とは人口対食物の問題なるが故に、吾人は生物学によって『人口』を論究するより先に単に経済学の今の範囲内にて『食物』を考えうるも、マルサス論を社会進化の将来に立てる鉄壁と解釈して恐怖することは理由なしと信ず。経済学者は食物の進化と云うことを知らざるや。実に、彼等は食物の種類及び食物の生産方法が社会の進化と共に進化し来たり、また進化し行くべきことを知らざるが故に、すなわち今日の米麦魚鳥の如き食物の種類、及び今日の原始的の者と大差なき煮焼の生物の生産方法より進化すべきことを知らざるがゆえに、幾何級数と云う独断に構造せられたる頭脳を以て直に人口の増加を推論し、社会全員の餓死か然らずんば社会主義の夢想と云う笑うべきジレンマを設けるなり。もし今の経済学者にして進化論を否定せず社会を現状に停滞する者もしくは循環する者と考えざるならば、吾人は先ず首を回らして今日の食物の種類と食物の生産方法とが今日にまで進化し来れる経済的進化を顧みることを要す。もとより未だ誠に微々たる者なることは論なし、 しかしながら社会の進化が漁猟時代に入り牧畜時代に入り農業時代に入るに従って食物の種類がそれぞれに進化したる事は注意すべき事実なり。光栄ある農学博士新渡戸稲造氏がその『農業本論』においてフランス人フォアサック氏の言なりとして引用せる所によれば、農業と牧畜とは同面積を以て養うべき人口の差は二十倍ないし三十倍にして更にその牧畜と農業とは同じ面積を以て養うべき人口の差またおよそ二十倍なりと云い、ゼオガマストの言なりとして農業にては五反ないし一町歩にて一人を支えるを得るも牧畜にては五十町歩ないし七十町歩にて辛うじて一人を養うを得べしと云い、しかして牧畜が多くの土地を要する例なりとしてロシアにて男子一人を養うに八十町歩ないし百町歩の放牧地を要し、オーストラリアのクイーンズランドにては羊一頭毎に一方哩を要すと云えり。これすなわち、食物の種類が野生の魚鳥と云う純然たる原始的生産物を以て主要なるものとせし漁猟時代は、その原始的食物の存する地球の部分のみより外生産に用いる能わざるを以て人類の稀薄なりしと共に食物の欠乏せし理由にして、社会の進化していささか人類の知能を生産の上に現し原始的に存在する牛羊を人為を以て繁殖せしめ得るに至るや、生産に用いらるべき地球の部分は人知を以て拡大せられ人口の増加と共に食物の増加を来し、更に社会の進化して食物の種類が多く米麦となるに至るや、植物は動物よりも繁殖する生物種属なるを以て生産に用いらるべき地球の部分は更に大に拡大せられ人口の増加と共に食物の増加を来したることを示す者にあらずや。漁猟時代に『魚鳥のマルサス』出でず、牧畜時代に『牛羊のマルサス』出でず、しかも独り農業時代の食物に進化してのみ『米麦のマルサス』とその迷信者の擾々たりとは何ぞ。 食物の生産方法の進化、人知を以て食物たるべき生物種属を繁殖せしむと云う意味の生産方法の進化、生物種属を人類の口にまで持ち来る間において更に人知を加える経済的活動の意味における生産方法の進化、一切の生産は原始的生産より工業的生産に進む、煮焼の僅少なる工業的生産行為、原始的生より工業的生産に進化せる住居及び衣服、蒸気と電気とを有する胃腸の工業的消化時代、科学の一元論と化学的調合の食物時代 社会は食物の進化と共に更に食物の生産方法を進化せしむ。最初は原始的に放任したるものが、漸次に人知を以て食物となるべき生物種属(すなわち牧畜時代ならば牛羊、農業時代ならば米麦)を繁殖せしむることなり。農業に例せば、マルサスが北米に得たる統計の人口は二十五年毎に二倍すと云うと正比例をなして、デルプリュックはドイツの農学の発達によって百年間に四倍の生産を得たりと云い。マルサス宗徒は耕地一定の限度と云うことを以て凝結するも、農学者は陸海軍が外国に領地を拡張する如く科学を以て国内の土地を侵略し三四倍大に大きくしたり。すなわち、人類の食物の種類が農業時代の米麦に進化せる間、米麦の生産方法はまた等しく進化したるなり。 しかしながら吾人がここに食物の生産方法と云う『生産』の文字は経済学上の術語において用いるものなり。すなわち、食物たるべき生物種属を繁殖せしむる方法が生産方法の一たると共に、その生物種属を人類の口にまで持ち来る間において更に人知を加うる経済的活動を意味す。言い換えれば、羊毛を取らんが為に人知を以て羊を繁殖せしむることが生産行為たると共に、羊毛に人知を加えて紡織することがまた等しく生産行為たる如く、家を建てんが為めに人知を以て松柏を繁殖せしむることが生産行為たると共に、松柏に人知を加えて切削することがまた等しく生産行為たる如く、人知を以て食物たるべき生物種属を繁殖せしむる農牧が生産行為たると共に、更にその動植物に人知を加える煮焼は経済学上の生産行為なり。 −吾人は実にこの意味における食物の生産方法が進化すべきことを忘却せる経済学者を怪しむ。一切の生産が原始的生産より工業的生産に進化するは経済学上の事実なり。すなわち社会の原始時代においては原始的存在のままに衣食住の用に供せられたるものが、社会の進化と共に人知を以て原始的存在を変形もしくは変質したる後衣食住に用うと云うことなり。然るに食物のみにおいては未だ原始的存在のままの者を用いること原始人と大差なきが故に、今日吾人はその取りつつある食物の大部分を消化せしむる能わずして体外に排泄す。すなわち、ただ僅かに火食を知れりと云う点において原始人よりは食物の工業的生産をなしつつありと云うを得べきも、麦をパンに焼く、米を飯に炊と、魚鳥獣肉を煮、もしくはあぶると云うそれだけのことにして、衣服住居の如く正確なる知識によらず殆ど全く本能の嗜好に従ってただ舌に適する方法を執りつつあるに過ぎざるなり。 住居の原始的なる者は樹上に巣くい山腹に穴居することなりき。しかもそれが原始的に存在するままに木石を用いる事より拙劣なる工業的生産行為を加えて小屋を作ることに進み、更に今日の如く大都会に五階十階の工業的生産行為を為すに至りしが為めに、今日の経済学者は『住居のマルサス』となって、皆生殖を謹慎せよ、世界の樹上と山腹には限りあって巣を作くり穴居する能わず、人類は平原の洪水に溺死すべし(禹水を治むるまでは中国にても皆巣居穴居なりしと云う)とは云わざるに非ずや。 衣服の原始的なる者は一方哩の牧場を要する一匹の羊よりしてただ一領の皮衣を得る事にありき。しかもそれが今日牧畜時代の如き原始的存在のままの衣服を去りて、羊毛をのみ年々に刈り取る紡織の工業的生産をなすに至りしを以て現今の経済学者はまた『衣服のマルサス』となって、汝等生殖を防制せよ、世界の牧場には限りあって汝等は凍死すべしと説かざるに非ずや。 −住居の生産方法の進化によって住居の溺死なく、衣服の生産方法の進化によって衣服の凍死なく、然るを如何ぞ独り食物の生産方法をのみ現今の原始的生産に止まりて進化なきものと考え、『食物のマルサス』のみ跋扈して食物の餓死を叫びつつありや。吾人が今日生穀を噛み生肉を喰いし原人時代より今日の火食にまで進みしは火と庖丁との僅少なる工業的生産行為が食物の上に加えられたるものなり。もしこの工業的生産行為の僅少にしてしかも盲動的に過ぎざるものといえども、それが為に同量の食物を取りながら生食の野蛮人よりもそれだけ多く消化しつつあるならば、口中より送られて単に醜怪なる物質としてその大部分が排泄される(呵々、今のドイツ皇帝もこの進化的生物たるを免れず) 今日の原始的食物が、科学者の分析によって見る滋養分を全部消化し吸収し得べき工業的生産行為の加わると推理せよ。今日直に食物とされつつある所の者は単に原料となるに至りここに数十百倍する人口をも優に維持し得べきことを推理すべし。繰り返して云う、吾人は下等なる頭脳の学者階級に向かって語りつつあるものにあらず。吾人はただ、今日にまで進化せる方則が更に将来の進化に至るべき方則なりと云うことと、総ての生産は原始的生産より工業的生産に進むと云う経済学の原則とによって、今日の原始的生産のままの食物がまた等しく工業的生産時代に入るべき事を確信するものなり。 しかして、かくの工業的食物時代の到来すべきを確信するが故に、今日科学者が折々その実験室の窓を開きて告げる、人類は将来化学的調合によって食物を得るの時来るべしとの予言を俯伏して傾聴しつつある者なり。−すなわち、人類の生存進化を維持するに要する栄養物が原始的生物種属を胃腸の工場にて生産することより進化して、蒸気と電気とを有する大なる胃腸によって生産する工業的消化時代となり。更に栄養物それ自身を原始的生物種属に求めずして人為的生物種属に得るの時至るべしと云うことなり。 詩人は天国を指し、科学者は天国に至るべき梯を造る。科学が一元論となり無機物有機物の別がなくなって万有総て生物種属なりとの実験による断案は、人類の手によって在来の生なき者となしたる無機物より有機物を造るに至れり。例せば、一八五四年化学者ベテルローはグリセリンと酸とを以て天然物と全く異ならざる脂肪油類を合成し、更に簡単に炭化水素より之を化成するを得たりと云い、しかして今日糖分もまた化学者の実験室内において合成せられ、あます所は蛋白質のみなりと云い、はなはだしきは未だ精確なる報道なきもある学者は化学室において全く一個の生物を作りしと云う如きこれなり。しかしてこれ実にいわゆる無機物を有機物が喰い、植物を動物が喰い、更にその動植物を人類が喰うと云うが如き重複と残忍とを去りて、人類が直ちに本原の無機物有機物(実は無差別なる原々素)に食物を求むるものにして、推論の走る所驚くべき遼遠のものなりといえども、『類神人』の消滅後に来るべき『神類』の時を想像せば、然く哲学的思弁のものに非ず。(後に説く社会進化の理想を見よ)。 マルサスの独断論よりも科学者の実験に従わん マルサスは実に一百年以前の古人にして新派経済学者の嘲笑する旧派の者なるのみならず、ダーウィンの『種の起原』より五十年以前の者なり。吾人はかかる平凡なる古人を迷信して経済学の上にノアの洪水を説くよりも、過去の進化の跡に顧みて科学者の慎重なる実験に従わんと欲する者なり。 『人口』を生物学によって説く、ダーウィンの大過失はマルサスの人口論を総ての生物種属に拡充して生存競争説を立てたるに在り、ハクスリーは食物競争を種属対種属のものなることを正当に解せり 吾人はここに『人口』を生物学によって説かざるべからず。これ、吾人が種属対種属の生存競争と伝える食物競争の生物学上における地位の決定なり。 実に、ダーウィン彼自身の自白によれば、その生存競争説がマルサスの人口論より考えつきし者なりと云うを以て、生物学の上より更にマルサスを確かめるかの如き現今の状態なり。しかしながらこれ誠にダーウィンの由々しき不注意にして、これあるが為めにかの『種の起原』は単に生物種属は天地創造説の如く神の作成せし者にあらず進化によって成れる者なりと云う事実の発見以上に何等の理論を提供せざりしゆえんなり。マルサスがそのいわゆる幾何級数を以て生まれる人が算術級数を以て増加する食物の上に競争をなすと伝えることよりして、ダーウィンはそれを総ての生物種属の上に拡充して以てその生存競争説の理論となせるなり。マルサスが十八世紀末の個人主義の空気によって養われて人口増加の意義深き天則を解する能わざりしが如く、ダーウィンは社会主義の科学的基礎たるべき生物進化の事実を解するに、なお個人主義の余波に漂わされたるが為めに生物進化論において占むべき食物競争の地位につきて遺憾なる過失に陥りたり。すなわち彼に取っては生存競争とは同じ食物の上に重複する同種属間の食物個々の要求が衝突して、その競争の優勝者が生存すと云うことに過ぎず。 ハクスリーの不備の点、食物競争は総ての生物種属を通じて同属間の個々対個々のものにあらず 誠に惜むべきことなり。もしダーウィンにして当時すでにカール・マルクスの出でしほどに進める社会主義の風潮を取り入れたるならば、少なくとも個人主義の独断論より脱却し得たりしならば、生存競争を同種属個々の競争と解するが如き過失なかるべきなり。この点において最も正当なる見解を有したる者は彼と同時代のハクスリーなり。彼は同種属間の生存競争とは間接にして無意識なるも、異種属間すなわち食物にする者と食物にせられる者との間における生存競争は直接にして意識的なることを明かに表白せり。言うまでもなく、ハクスリーの間接にして無意識的なる同種属間の生存競争とは狭義に解せられたる食物競争のことにして吾人の広義に用いたる生存競争、すなわち長き命において理想を実現せんとする最も直接にして意識的なる雌雄競争を除外せる者にして、また、食物競争を異種属間の生存競争と云うも、吾人の如く明かに競争の単位を決定してのことに非ざるは論なし。 何となれば異種属間の生存競争たる食物競争が異種属問において直接に意識的なると共に、同一の食物たるべき生物種属の上に同種属がある単他にて(すなわち遊牧時代には部落の単位にて、現代には国家もしくは階級の単位にて、飢饉の如き場合には純然たる家族もしくは個人の単位にて)直接に意識的に生存競争をなすを以てなり。 しかしながら同種属間の直接に意識的に食物競争をなすと云うも、その競争は食物たるべき異種属に対して直接に意識的に生存競争の優勝者たらんが為めに同属を排除すると云うだけのことにして、同種属を排除するの要なきほどに食物たるべき異種属の豊富なる所(人類に例せば堯舜の原人時代の如き)、もしくは同種属を排除するの努力を転じて協同に団結せる大なる単位にて他の生物種属の上に完き優勝者となり以て異種属を豊富ならしめたる所(例せば社会主義の理想が実現せられたる時代の如き)、にては直接に意識的なる食物競争は種属対種属のものなり。もし個人主義を以て生物進化の事実を解釈せるダーウィンの如く、生存競争とはマルサスの人口論が総ての生物種属に行われることと解しては、すなわち同種属間の個々の生物が個々の生物に対する生存競争と解しては、かの虫類の保護色の如き最も解し易き事実はいかにして説明されるや。この保護色とはその虫類を捕らえて食物とする所の鳥類と云う他種属に封して生存を保護せんが為にして、有毒を表示する色や木葉、花弁に擬する色によって、等しくそれらの保護色を有する同種属の他の生物を恐怖せしめ、あるいは欺きて食物を争奪すとの意味にあらざるは何人も知れる所の如し。 かく虫類の保護色の如き例を以てすれば生存競争の対敵が明かに他種属なることを見るを得べしといえども、皮相的見解者の眼前に犬がしばしば相争い猫が時に相噛むを以て肉食獣の如きは個々の生物が他の個々に対して各々競争の対敵なるかの如く速断す。しかしながら彼等は単に協同せざる非社会的生物なりと云うだけのことにして、肉食獣の牙と爪とは決して同種属の肉を目的として磨かれたるものにあらず、その食物たるべき肉の他種属に対する生存競争の優勝者たらんが為なり。実に同種属間の個々の生物が他の個々のそれに対して対敵として存在するならば、彼等は食物たるべき他種属の乏しからずして欲望の重複せざる場合といえども、直接に意識的に食物競争をなして同種属の肉そのものが競争の勝利者の爪と牙とに来らざるべからず。しかしてこれ実に狼の如き肉食獣が食物たるべき他種属の豊富なるシベリアの広野にては数千頭の群をなして存すと云う如き生物界の現象は謎語として持て余すより外なく、数千頭の肉は決して数千頭の食に非ざるなり。否! 今のダーウィンを偶像として崇拝する生物進化論者にしてなおその個人主義の生存競争を維持せんと欲せば、吾人は実に問わざるべからず。アメーバはアメーバを喰いて生存しつつありや。芽生々物は芽生々物を喰いて珊瑚樹を作りつつありや。牛は牛を喰い馬は馬を喰い、燕は燕を、鳩は鳩を、胡蝶は胡蝶を喰いてその生存競争をなしつつありや。稲は稲を喰い、芋は芋を喰い、松の木は松の木を喰いてその生存競争をなしつつありや。 生存競争の優者適者強者の意義、今の生物進化論は生存競争の対敵と結果とを混同す 吾人はここに生存競争の優者適者強者の意義を繰り返して説かざるべからず。すなわちいわゆる生存競争の優勝者とは他種属との生存競争において同属の中、最も優れたる点を有するものがその優れたる点を維持して生存すと云うことにして、生存競争の対敵とは別意義なる結果なり。繰り返して言えば、同属の中の優者適者強者とは同属の劣者不適者弱者を対敵としてのそれに非ず、その優劣と云い適不適と云い強弱と云うは生存競争の対敵たる他種属に対してのことにしてその他種属に対して優者たり、適者たり、強者たる同属の者が生き残ると云う事は生存競争の結果なり。例えば、ここに各々一軍団を以て戦うとせよ、戦争の結果として戦争後に残るものはその軍団中の優者適者強者なりといえども、戦争の対敵はもとより敵の軍団として自己の軍団内の各員が各員に対する戦闘をなして優者適者強者の意義が決定されるには非ざる如し。実に、馬の進化せる四足は同属相蹴らんが為めに非ずして他種属たる競争者より遁来し得たる優者の結果なり。猫虎の如き猫属の犬歯は同属相噛まんが為めに非ず、他種属たる競争者に打ち勝ち得たる強者の結果なり。毛虫が毛を、針鼠が針を皮膚に有するは同属相刺さんが為めに非ずして、イタチの遁走の時に臭気を放つは他種属たる競争者を撃退し得たる適者の結果なり。生存競争の結果と対敵との斯くまでに見易き道理なるに係わらず、同属がある特殊の場合に直接に意識的に争うを以て生存競争の優勝者とは同属間個々を対敵としての者なるかの如く信じ、飢餓の食人族が他部落の同属の肉を食となす特殊の現象を総ての生物界の通則として当はめんとするに至っては妄もまたはなはだしい哉。 社会主義時代における社会単位の生存競争とは種属単位の最も広き意味における大個体の生存競争なり
誠に斯くの如し。生物界を通ずる食物競争とは食物にせんとする種属と食物とされる種属との間における生存競争にして、種属単位すなわち最も広き意味における社会単位の生存競争なり。社会主義は社会の単位をこの最も広き意味における人類種属において他種属の上に生存競争の優勝者たらんとする者なり。従って社会主義の時代においては先に説ける理想実現の競争たる雌雄競争の個人単位の者あると共に、この社会単位の現実維持の競争たる食物競争はもとより他種属を対敵として存するは論なし。然らば社会主義時代における食物競争に係わる人口論はいかに考うべきや。 ダーウィンの偉大は生物種属はその種属の生存進化の為のに必要なるだけの子を産むと云う生物学よりの帰納に在り、目的論の哲学系統は生物進化論によって科学的に決定せられたり、総ての生物種属は生存進化の目的の為めに必要の形を執る如く必要の子を産む、社会主義は総て生物学の基礎に立つ、ダーウィンの二大功績 吾人はここにおいて生物学が誠に高貴ある光を放つを見ると共に、ダーウィンの偉大が雲を突きて高きを仰ぐ。彼はいわく−−『生物種属はその種属の生存進化のために必要なるだけの子を産む』。哲学史の緒論よりして宇宙に目的ある事は思弁によって解釈せられんことを要求せられつつありき。しかしてダーウィンによって著しく発展したる生物学は宇宙一切の者の目的を有する事を科学的研究の帰納として説明す。ウグイスはさえずらんと欲するが故に美音ありや、美音あるが故にさえずらんと欲するや。胡蝶は舞わんと欲するが故に麗翅ありや、麗翅あるが故に舞わんと欲するや。獅子は肉を喰わんと欲するが故に牙ありや、牙あるが故に肉を喰わんと欲するや。斯くの如きはこれ実に古今哲学上の大題目にして、天地創造説を取りもしくは旧式の唯物論を取って宇宙に目的なしとの見解を持する者は、ウグイスは美音あるが故に、胡蝶は麗翅あるが故に、獅子は牙あるが故に、歌い舞い猛ける者となせり。然るに生物学は厳粛なる事実より帰納して天地創造説を覆し旧式の唯物論を破り万有進化の宇宙目的論を確立したり。路傍一茎の野花より、雲聳の松柏より、地上にはう昆虫より、花間を飛ぶ小鳥より、海波にうそぶく鯨鯢より、豁谷を捗る蛇竜より、犬より、猫より、馬より、猿より、紅流れる東天にあこがれて[皐羽]翔の翼を科学者の発明に待ちつつある人類にいたるまで、宇宙万有を挙げて生存進化の欲望の結果として生じたる者なる事を帰納したり。宇宙は経過的生物たる人類の解すべからざる永遠の目的、相対的存在たる人類の考えるべからざる絶対の理想あり。この目的と理想とあるが故に、総ての生物はそれぞれの目的を達し、それぞれの理想を実現せんが為めに、歌わんとする目的ある者は美音を進化せしめて歌い、舞わんとする理想ある者は麗翅を進化せしめて舞う。哲学史あって以来の両系統の対戦は生物学の厳粛公正なる判官によって証拠調べの上明白に決定せられたり。(今の生物学者の多くがかかる金冠を戴ける判官たらずして死刑執行者の賤業に甘んじつつあるは憐れむべし)。 −人口論もまた実にこの宇宙目的論の生物学によって解せらる。すなわち、総ての生物種属がその生存の維持もしくは進化の為に境遇(競争者たる他の生物種属をも含みて)に適応せんとしてそれぞれ必要の形を執りて、それぞれの生物種属に進化せる如く、また等しく生存進化の目的の為にそれぞれ必要なるだけの子を産む。この総ての生物種属は生存進化の目的を有すと云う事は実に人類と云う一生物種属を生存進化せしめんとする社会主義の拠って立つ処にして、生物種属は生存進化の目的の為めに必要なるだけの子を産むと云う事よりして、社会主義は今日の如き驚くべき人口は決してマルサスの如く恐怖すべき者にあらず、これなくしては人類の滅亡しもしくは進化する能わざるよりの必要に伴う結果なることを信ず。生物学は総てにおいて社会主義の基礎なり。食物競争が同種属間の個々の生物を対敵とする、もしくは対敵たる他種属に対する競争者とするにおいても競争の単位が個々の生物なりとするが如きは、誠に偏局的個人主義の思弁的独断論に誤られたる者なりといえども、ダーウィンの偉大を以てマルサス輩の水平線以上に突出せる大なる点をおおうが如きは天才を知るの途に非ず。すなわち、生物種属はその生存進化の為めに必要なるだけの子を産むと云う社会主義の科学的基礎これなり。(故にミューヘンの生物学者大会において生物進化論は社会主義に至ると恐怖して排撃に努めたる者のありしは執るに足らざる愚妄なりといえども、生物進化論が社会主義に至ることをある不明確なる観念にて考え及ぼせしと称すべしとす)。吾人はダーウィンを研究する者に向かってただ二つの注意を要む、すなわち、ダーウィンは生物進化の事実を確かめたることとその説明として不貫徹を極めたりとは云え、生存競争説の緒を開きしと云う点とにおいて偉大ならしめよと云う事。しかして他の一は宇宙目的論の帰納に導きて総ての生物種属はその生存進化の目的の為めに、それぞれの形を執りて、それぞれの種属に進化し、その目的の為めに必要なるだけの子を産むと云う厳粛なる事実を示したる点において万世不朽ならしめよと云うこと。 人口論は人類種属を包含せる生物学の断案によって解せらる、種属の生存進化に困難なる下等生物は最も多く子を産み困難の減少と共に高等生物は産子の数を減少す、今日マルサス論は社会進化論に延長せられたる如し、今の生物学者も成る程度までダーウィンを解す、ダーウィンの目的論を執りてマルサス論の社会進化論を否定に用いる滑稽なる矛盾、今日の人口過多は生存競争の劣敗者あるが故に必要なる天則なり 実に、人口論はダーウィンの与えたる断案の上に立ってのみ解せらるべく、生物進化論以前の過ぎ去れる知識を継承して甘んずる今の経済学者輩の千言万語は一の価値なき蛙嗚に過ぎず。彼に依れば種属の生存進化の為に必要なる産子は下等なる階級の生物種属より高等なる階級のそれに進むに従って減少すと云う。例せば、マルサスの幾何級数と云い、世俗の鼠算と云うかの鼠の産児数は一年一母より八千匹に増加すべき割合の産児数にして、蜂は一年五六万匹を産み、蝿は一匹二十万の卵を一度に産み十五日間にて生成し一週間毎に百万倍に増加すべき割合なりと云い、タラはその袋に一千万の卵を有し、サナダムシは一節に一億万の卵を有して百五十節あり。アブラムシは数年間にして全地球をおおうべく、ハクスリーの計算によれば植物の殆ど総ては八九年にて全地球をおおい尽くすべき割合の産子なりと云う。然るに高等なる階級の生物種属に進むに従ってその数を減じ鳥類もしくは獣類の如きに至っては何人も知る如く誠に僅少なる者となる。ダーウィンは斯くの如き無数の事実によって『総ての生物種属はその種属の生存進化の目的の為めに必要なるだけの子を産む』と云う断案に帰納したり。 すなわち、総ての生物種属は(人類につきて云えば人類社会は)その種属の生存進化の為めに(人類につきて云えば人類社会の生存進化の為に)、必要なる子を産む者にして(人類においてはすなわち人口の多少は社会の必要にして)、もし。必要なる莫大の産子なくしては下等生物の如き、たちまちその種属の滅亡を来す。二十万匹の蝿は各々同属の二十万匹の弱肉強食となり、百五十万億のサナダムシが各々同属の百五十億万に対して生存競争を為さんが為めに非ざるなり。すなわち、産子の最も多き植物においてはその種子を風もしくは虫、鳥等によって偶然に持ち運ばれ偶然に善き境遇に置かれ、偶然に他の生物の食物となれるを免れし僅少なる僥倖者によってその種属を維持せざるべからざる必要の為に全地球をもおおうべき多くの種子を産するゆえんにして、サナダムシの如き一節一億万の卵を有する百五十節によって、その中の偶然に水中に入り、更に偶然に魚に喰われ、しかもその魚は偶然に会すべき特定の魚にして、しかして更に偶然にその内に入り、また更に偶然にその肉の人に喰われ、喰われる時もまた偶然に生肉として喰うときにおいてのみ始めて人の腸に入り以てようやくその種属を維持し得るが故なり。実に食物の生存競争とは目的が種属に在り単位が種属に在り対敵が他の種属に在り。従って、種属対種属の競争において多くの劣敗者を有する下等なる生物種属は、多くの劣敗者の犠牲あるもその種属を維持するに足るだけの、否、むしろ種属を維持するに足るだけの分子を生存せしめん為めに多くの犠牲たるべき劣敗者として夥多の産卵をなすなり。然るに生物の高等なる階級に進むに従って産子の数の夥しく減少するは、等しく種属生存の目的において対他種属との競争の劣敗者を多く出さざるまでに進化せる者なるが故に、必要の去れるよりの減少にして、総ての生物種属の中において人類種属の最も産子少なきはその必要の最も少なきまでに最も進化せる生物種属なるを以てなり。ダーウィンは誠にマルサスに誤られてその生存競争がいかに激烈に生物界を通じて行われるかを実験において証拠立てんが為めに他の生物種属の侵入を防ぎて植物の驚くべき繁殖の速度を験せし如きあって、為めに生存競争とは同種属の夥多なる分子が各々それ自身の生存の目的の為めに他の同種属のそれらを排斥せんとする競争なりとの意味に取られて、ダーウィンはマルサスの人口論を総ての生物種属に拡充して進化論の上より確かめたる如くなりき。これすなわち個人がそれ自身の目的を有すと云う個人主義なり。故にダーウィンによって確かめられたるマルサスとは経済学者中の少しく知識広き者に取っては社会主義に対する最も堅固なる城砦にして、マルサスの人口論は今日殆ど社会進化論の上にまで延長せられたる状態となれり。 然しながら偉大なる思想史の革命家は些少なる浮雲によって全部の光輝をおおわれるものに非ず、今の擾々たる生物進化論者の輩は、かの全き御姿を拝するを得ずといえどもその雲間より投げられる光は彼等の眼を射て明かなり。丘博士がいかなる理由に基きて時に『人種』とのみ限りしかは解すべからずといえども−何となれば、国家もあり、民族もあり、かっては固き団結なりし宗教団体もあり、今日は大なる連合をなせる階級もあり、また人類と云う他種属に対して一体をなせる社会もあるを以て−一切の不霊残忍なる暴論が人種の生物進化の為にと云う権威より演繹されしに見るも、決してダーウィンの導ける宇宙目的論の外に逸出せる者に非ざるを知るべし。経済学者にしてもし生物種属は種属としての生存進化の目的を有すと云う事を認識してしかも、なおかつ人口論を社会進化の面前に横たわるや、誠に以て野蛮人と云うの外なし。種属の生存進化の目的の為めに劣敗者を余儀なくせられて今日多くの子を産みつつある人類と云う生物種属が、社会主義の実現によって食物競争の劣敗者が少なくなると共に(無くなるとは云わず、後に説く)、種属生存の為めに必要なる産子がすなわち人口が幾何級数を以て三階四階まで増加し、その増加によって全社会の餓死となり、かえって生存の為めにせし人類種属の滅亡となるとは! 実に博士と云いドクトルと云うはアメリカ・インディアンに鼻眼鏡を掛けたる者なり。 吾人は繰り返して断言す、今日驚くべき人口は人類種属の未だ低度の進化なるが為めに他種属との競争において劣敗者の絶えざることよりして種属生存の為めの必要に伴う天則なりと。生物学以前の経済学者ならば知らず、総ての社会約諸科学に根底を付与すべき最も重大なる任務を帯ぶる所の生物学者までが−−ああ丘博士よ−−偉大なるダーウィンを一介の凡物マルサス輩の足下に蹂躙せしめて括として恥じずとは何事ぞ。マルサスが生児中四分の三は嬰児にて死するか、あるいは四分の−の寿命にて死するかの二なりと云いしは、実に未だ人類の進化到らずして四分の一にて人類種属の生存進化をなし、絶えず四分の三の劣敗者を余儀なくされるゆえんなりと考えよ。天然の物質的欠乏、あるいは母の遺棄放任等によって(動物の多くは然かり)最も種属生存の困難なる野蛮人は最も多く子を産し、略奪階級の圧力下に生存の困難最も多き今日の下層階級はいわゆる貧乏人の子沢出の必要あり。 人口過多は貧民階級それ自身の為めにも必要なり、生殖欲と歴史の進化、貧困に依る劣敗者去ると共に下等生物の方法にて種属を維持する必要去る 何事も天則なり。彼等は多くの子の中より僥倖の機会によって自己を生存し(すなわち現実を維持し)、進化せしむる(すなわち永き命において理想を実現せしむる)者を得。他の多くはマルサスの言える如く四分の三まで嬰児にて栄養不良と腐敗せる空気の裏長屋中にて死し、その長ぜる者も過度の労働と低度の生活の為めに四分の一の寿命を以てラサールの言える漸次的に餓死するなり。吾人は貧民階級のいわゆる人口過多を以て貧民階級それ自身の為めに必要となす者なり。彼等はその子沢山なくんば遠き以前において永き命は絶たれたるべく、すなわち生存競争の完き劣敗者として滅亡したりしなり。ただ、進化律は平等の愛を以て彼等の生殖欲を驚くべく昂進せしめたるが為めに、彼等は多くの劣敗者あるに係わらず、なお辛うじて永き命において生存し進化するを得たるなりとす。生殖欲の昂進が愛なりとの語に向かって君子の軽蔑を表すなかれ。之は決して今の不幸なる労働者階級のみにあらず。吾人日本人は現に雄略天皇のころまで母子兄妹の間はもとより、馬姦、鶏姦、犬姦と云う驚くべき禽獣との生殖関係が、刑罰によって禁止せられもしくは祓をなして神に謝したりと云うほどに強盛なる生殖欲を有したる者なることを顧みよ。日本のみならず、モーゼの律法にては婦人は牛馬の前に立って交はるなかれ犯す者あるときは死すべしとして厳罰を以て禁止せられたるほどなりき。かかる刑法とかかる強盛なる生殖欲とは今日にまで進化せる吾人を以ては想像だも能わざる所なりといえども、種属生存の最も困難にして多くの劣敗者を余儀なくせられたる古代においては人類社会の生存進化の為めに欠くべからざる重大の欲望なりしなり。天則に誤謬と無用なし。今日の強烈なる生殖欲は宇宙進化の大目的の為めにする神の命じ給う所と云うべし。−−果して然らば、今日全社会の淫蕩荒乱はこれを社会主義の世に至って顧みる、まさに今日の吾人がモーゼの律法を見、雄略崩御の祓を見るが如くならずとせんや。社会進化論の前にマルサスの骸骨を横たえて何の権威ぞ。社会主義は衣食の劣敗者たる貧困を去り子孫の生存を下等生物の方法において維持する多数の出産を不要ならしむる者なり。 戦争の劣敗者がまた下層階級より出づるが為めの人口過多、社会の必要に応じて人口の増減する歴史上の事実、日本今日の人口増加は貧困と戦争との継続の為めなり人口のはけ口を満韓に求めたるに非ず戦争を理想とする国家なるが故に人口はその必要の為めに増加す、社会主義が思想そのものの革命を要する理由、皮相を解釈せるに過ぎざる主戦論者と非戦論者 また、下層階級の人口過多と云う理由は貧困の外に戦争の劣敗者がことごとく下層社会より出づるが為めなり。−−すなわち彼等は横の階級競争において多との犠牲を余儀なくされる如く、縦の国家競争において常に劣敗者となる。すなわち貧困よりの余儀なき子沢山ある如く、戦争の為めに必要なる結果として人口過多の声あるなり。例せば、今日のフランスは人口の平率を保ち居るが為めに国際競争に堪えずマルサス教徒と正反対に人口過少は国を亡ぼすとしてあえて帝国主義者に限らず総ての者を通じて憂慮せられつつありといえども、ルイ十四世の下に侵略を事としナポレオンを擁して全欧州を戦乱に落しつつありし時代においては人口の増殖は驚くべき者なりき。中世史の戦国時代においては等しくその必要よりしてメルカンタイル・システムが思想界においてもまた実際政策の上においても人口増殖を以て第一の目的となしその増殖せる人口を戦乱の劣敗者としその中の僅少なる部分の生存者によって下層階級は維持せられたりき。日本の今日において年々五十万の率を以て増加しつつある人口は、群雄戦国の中世史の始めより徳川の貴族階級の下に略奪せられし終末と共に、すなわち戦争と貧困との長き継続と共に、更に経済的貴族国の下に依然たる貧困を継続し、維新戦争、十年戦争、日清戦争、日露戦争と絶えず戦争を継続せしを以て、日本民族としての生存を維持せんが為めの必要に伴う人口にして、戦争は人口のはけ口を満韓に求めたるにあらず、未開時代の国家競争を要求する国民の思想の為めに、戦争及び戦争に伴う貧困による劣敗者として多くの人口を生じたるなり。すなわち、先にウグイスは美音あるが故に歌うに非ず胡蝶は麗翅あるが故に舞うに非ずして、歌わんとする目的、舞わんとする理想あるが故に美音と麗翅とを生じたるなりと伝える如く、生物進化の宇宙目的論によって日本今日の過多なる人口は、人口過多なるが故に戦争生ずるに非ず、戦争を目的とする中世的思想の国民、戦争によって優勝者たらんとする野蛮なる理想の国家なるが故に増殖しつつある天則なり。天則は噛まんことを目的とする蛇に毒を賜い、喰わんことを理想とする狼に牙を賜う。国民と国家とがこの蛇の如き目的と狼の如き理想とより脱却せざる間は、日本民族は永久に下等動物の天則を被りて人口過多に苦むべし。 しかしで階級的感情を超越して言えば、今の下層階級は上層の者と等しくこの低度なる進化の道にあり。故に社会主義は国際戦争に導き易き専制の制度を去り、資本家の貿易戦争をなしつつある産業的専制制度を転覆すると共に一層深く国民国家の目的とする所理想とする所より革命せんとする者なり。進化律がウグイスに毒を与え胡蝶に牙を与えざる如く、世界連邦の下に万国平和を目的とし理想とする社会主義時代において何の人口過多あらんや。(故にかの日露戦争において主戦論を取れる帝国主義者と称する者が人口のはけ口を要すと云うを理由とせる如き、また非戦論を唱えたる社会主義者がその意気の壮なりしに係わらず、未だ誠に無勢力なる二三子の資本家の為めに戦争の戦われしと解したる如き、価値なき皮相の説明に止まりしを遺憾とす)。 上層階級より個人主義を以て貧民の生殖欲に道徳的責任を負担せしむる能わざる如く下層階級より個人主義を以て上層階級の貪欲非道に基く貧困なりとして道徳的責任を問う能わず 吾人は純正社会主義者として総ての階級的感情もしくは利益の上に超越して科学的研究の態度を汚辱すべからす。すなわち人口論を資本家階級の傍より個人主義を以て解釈して個人としての貧民に道徳的責任を負担せしむることの誤謬なると同様に、下層階級の傍より個人主義を以て人口論を拒絶し資本家が貪欲非道なるが故の貧困なりと論ずることの誠に社会主義と少しも連絡なき独断論の者なりと云う事なり。−−明かに言えば下層階級の夥多なる人口は上層階級の犠牲たるべき社会進化の一過程なり。更に具体的に言えば、一将の功を成さしめんとして万骨の枯れることの為に、一人の栄華を築かんとして数千の小作人と幾千の工夫とが貧困に世を終り凍餓に倒れん事の為に、多くの人口を要し来たりまた要しつつあるなり。 今の社会主義者と名付ける者に個人主義者多し、下層階級は上層階級の犠牲たらんが為めに人口過多なり、社会と云う大個体の今日の進化の程度は下等生物の如く個体の一部を欠損して生存するの方法なり、下層階級の人口過多は政治的単位の個体及び経済的単位の個体の欠損すべき部分として補欠の為めなり 吾人が始めに下層階級の道徳的謹慎、すなわちマルサスのいわゆる防制と云うを逆倒して、下層階級の強盛なる生殖欲なくば今日の富の階級なしと断定し置けるものこの意味なり。個人主義の思想を以て見れば貧民の生殖欲が卑しむべきが如く、吾人のかかる断定は下層階級の個人としての権利を無視するの言としての響くべきは論なし。社会主義者はいかにすとも個人主義者たる能わず。もし社会主義の名の下に貧民階級の個人としての幸福を主張するを以て足れりとする慈善家あらば、鉄よりも冷たき科学によって一切の理論を行る吾人は社会主義の忠僕たらんが為にかかる慈善家を軽蔑すべし。 自己一身の不平に導かれて社会主義の大傘の下に集まりたる者、もしくは一百年前のフランス革命時代の個人主義を継承して独断論の暗闘に耽りつつある者は、今の下層階級の貧困を以て上層の罪悪に帰し、上層の者を見るに総て犯罪人を以て目す。進化律の天則に不合理なることなし。然るにかかる独断論の上に社会主義の旗幟を建つるが故に、その人格の高潔にして主張の熱烈なるものあるに係わらず、然らば神は偏頗にしてその能は全からざる欠乏の者なるかと反撃せられ、社会主義を以て嫉妬の凝結せるものと慷慨業者の巣窟なるかの如く誤らしむるにいたる。 人類社会は渾然として一個体なり。貧民と云い富豪と云い各々社会と云う一個体の部分なり。すなわち個人とは社会のことにして、貧民と云う個人が今日犠牲となりつつきたれるは富豪と云う他の個人の罪過の為にあらず、社会の進化の為に社会の自身が社会自身のある部分を先ず進化せしむる必要によって社会自身の他の部分を犠牲としつつあるなり。ゆえに今日幸福に置かれる所の富豪も貧民の肉体の一部なり、犠牲に投ぜられつつある貧民も富豪のそれの一部にして、ドイツ皇帝も路傍の乞食の一部にして、柳蔭の娼婦もオランダ女王の一部なり。憐れむべきマルサスも吾人の一部にして、更に笑うべき博士ドクトルの輩も釈尊・キリストの一部なり。人類は個人主義時代の仮説の如く契約以前もしくは征服併呑以前は個々に存在せる者にあらず、生物進化論の科学的基礎によって証明せる如く、一元の人類よりアメーバの如く分裂せる一個体の部分たるに過ぎざるなり。個体は個体としての生存進化の目的を有す。この目的を達せんが為めにそれぞれその目的に適応する形を執る。すなわち、人類社会と云う一個体の生物−人類を空間を隔てて分子とせる一個体の生物は、その生存進化の目的の為めにその目的に適応する形をそれぞれ進化の過程において執る。吾人はこの説明の為めにしばらく人類と云う大個体を下等生物の一匹としての個体と比較すべし。もとより単に比喩の玩弄に過ぎざる生物学以前の旧き社会有機体説(かの『いわゆる国体論の復古的革命主義』に説く)に比して社会を首足胴腹ある一匹と解すべきに非ざるは論なしといえども、今日の人類社会において下層階級を犠牲として取扱いつつあるゆえんは、全くこの大個体の進化の程度が純然たる下等生物のそれの如き者なるを以てなり。 下等生物は物質的危難、あるいは他の生物種属の為めに常に生存の困難なる進化の程度にあるが故に、一匹としての個体のある一部を犠牲にして走りその犠牲にされたる部分はたちまちに補欠せられ原形のままの生物としての生存の目的を達す。ミミズ、ヒルの如き遁走する能わざるものは身体の一部を切断せられるもたちまち原形のままを補欠し、蟹はそのハサミを失うも間もなく小さきハサミを生じて原形のままに補欠し、イモリがその四肢を失い、トカゲがその尾を切られて遁走するもまたたちまちそれぞれに補欠して原形に返るは、皆かかる犠牲の方法によって生存の目的を達するより外なき必要に基く者なり。人類社会と云う大個体の進化の程度も今日の状態にてはかかる下等なる犠牲の方法なり。すなわち、地震洪水風浪の如き物質的危難はようやく避けるを得、食物とすべき動植物の如き他の生物種属との生存競争及び食物とせらるべき他生物バイ菌の如き者との生存競争においてもまた漸次に優勝なる地位に進みつつありといえども、なお小さき政治的単位すなわち国家、あるいは小さき経済的単位すなわち会社トラストが激烈なる生存競争をなしつつあるが為めに、それぞれの単位としての個体の生存を維持せんが為めにその単位たる個体の欠損する一部を絶えず補欠するの必要あり。詳しく云えば、国家の下層階級すなわち万骨として枯れるべき階級は国家の欠損すべき一部として人口過多を以て補欠し、会社トラストの下層階級すなわち略奪されて貧困に捉えられたる労働者階級はその経済社会の欠損すべき一部として人口過多を以て補欠するなり。 −人口過多なければ人類はすでに消滅したるべし、人口過多の恐怖さるべきは過多の子を犠牲とするに堪えざるに至れる愛の進化なり、犠牲として多くの子を産みつつありしことを知らざりし奴隷農奴の時代、社会の進化は同類意識の深く広くなることに在り、人口論の解釈が近代に至って要求されるに至りし理由、同類意識の進化とフランス革命、天則の挑発する下層階級の生殖欲、革命は愛の満足を求めて起る、上層階級は人口過多の声を革命の意味に恐怖せよ 人口増加は恐怖すべきものに非ずして、これなかりしならば貧困と戦争との為めに人類は遠き以前において地球より跡を絶つべかりしなり。然り、人口増加は恐怖すべきものに非ず、ただ恐怖すべきは下層階級が、何の故に徒らに死滅するに過ぎざる子の多くを産むやを疑い始めたることこれなり。 −しかして彼等は疑問に対する答案を科学者にまたずして、殆ど獅子のたてがみを振るうが如き憤怒を以て犠牲の義務を拒絶し始めたり。おお讃美すべき天則よ! 彼等はかってその豚の如く産み落せる多くの子が奴隷として使役せられ、土百姓として誅求せられ以て涕泣して他界の淨土に慰安を求めつつ犠牲たりしことを知らざりき。今日またなお知らずして小作人と賃金奴隷とはその多くの子を抱き、負い、なでて吐息す −おお子等よ、汝等はいかにしてこの行路難の世に立ち得るやと。社会の進化は同類意識の深く広くなる事なり。古代においては親子兄弟の間の同類意識も浅く、他の部落国家はもとより酋長君主に対しても解すべからざる何者かの如く考えて同類意識は狭かりき。然るに社会の進化と共に同類意識を広く国家の総て世界の総てにまで及ぼし、同時に深く親子兄弟を自己と同一もしくは同一以上に愛するに至らしめたり。人口論の解釈が要求されたるはこの愛の満足を求めんが為めなり。マルサスの時に至って人口が増加したるに非ず、経済学が講義せられて日本の出産数が五十万となりしに非ず。近代よりも中世は中世よりも古代は更に遥かに人口の率は多かりしなり。ただ、過去においてはその浅き狭き同情を以てその子の死滅を痛切に感ぜず、また自由に生長しつつある上層階級につきて疑う所なかりしのみ。然しながら天則は停滞する者に非ず、現代の深度広汎なる同類意識は決して奴隷土百姓の犠牲に甘んぜし時代のものに非ず。斯くて同類意識は人類を進化律のレールに乗せてフランス革命を起さしめパンと憲法の要求を叫びて国王貴族を転覆したり。パンは与えられずして投げられたる憲法の上に新貴族は再びパンの略奪を始めたり。父と母とは油よりも濃き愛の滴りを頑是なきうたたねの稚子の顔に落して依然たる行路難を泣く。マルサスは僧服の袖を振るって冷酷にも貧民に道徳的責任を問う。しかしながら天則は彼等の手より知識を奪い彼等の目より美術を奪い、彼等の耳より音楽を奪い、彼等の袖を引いて肉欲の街に誘い、彼等の唇を開きて濁酒を注ぎ、彼等の夜具までも奪いて夫妻を平常の同衾に包み、あたかも娼婦の客を酔わしむる如く生殖欲の挑発を事とす。子は産まる。膝に抱かる。 −子の愛において聖母と吾人の母と何の択ぶ所ぞ。子の愛の為めには焼野に鳴くキジは鷲の如くなってイタチに向かう。マルセーユ城に突撃せし先鋒は誠に繊細の女子なりしことを記憶せよ。−革命は愛の満足を求めて起る。マルサスは欺かれたる貧民の行くと云うなる極楽におもむきて更に昇天者過多の人口論を唱えよ。深くなれる同類意識の父母がその膝に眠れる多子を眺めて前途に憂いつつありし眼を挙げて上層階級を眺むるの時! ここに広くなれる同類意識は洪水の如き勢を以て馬車を転覆しダイヤモンドを飛ばし肉の食卓を打破し舞踏会の玻璃窓を破り、ここに革命となる。−人口過多は社会の必要にして上層階級はこの意味に放て恐怖せよ。 社会主義の世において人口増加は恐怖の意味にあらず、社会主義時代に人口増加に苦しむと云うはあたかも個体を欠損して生存する生物を見て人類の手足が幾何級数に増加したりと云うと等し、日本の学者は通弁なるが故に責任の負担者に非ず、ダーウィンに混ぜる個人主義と社会主義、人類の進化はその過大の繁殖力によって相競争する故なりと云うかの過失を継承せるキッドの『社会進化論』、キッドの推理ならば人類は滅亡して蝿とサナダムシの文明国時代なるべし、キッドは児童なり ただ斯くの如きのみ。失丸に裂かれたる社会主義の赤旗が博物館に置かれて、平和と平等の国民の物語りとなるの世において人口の増加が恐怖の意味に放て増殖すと考えうるは理由なきことなり。(社会主義の世における人口は更に後に説く)。人類は他の生物種属の中にて最も進化せる者なるが故に最も犠牲たる劣敗者の少なく、従って最も出産数の少なき生物種属なり。しかして更に他の高き生物種属にまで進化すべき経過的生物として更に犠牲たる劣敗者を少なくし、従って更に出産数を少なくすべき生物種属なり。今日の人類が更に進化して社会主義の実現せられたる後、すなわち犠牲たるべき劣敗者の少なくなれる後、出産教の少なくならずしてかえって幾何級数となり以て人類を挙りての餓死か(もしくは実現せられたる社会主義の破壊せられて進化論以前の思想の如く社会が循環するに至るか)と考えうるは、あたかも、イモリがその四肢の欠損の必要よりして補欠するを見て、四肢を犠牲にして生存を全うするの要なきまでに進化せる人類の手足に推測し、人類は少しも四肢を欠損せざるを以て吾人の手は八本となり十六本となり三十二本となり幾何級数を以て増加したりと云うと等しき事実の無視なり−汝等の手を開き見よ。イモリ社会の大学教授といえどもかかる推論をなしつつありとは想像し得ず。もとより通弁の用に存する日本の学者等はかかる事の責任体にあらざるは論なく、実に我がダーウィンなり。彼はマルサスの独断をヒントして受取れるが為めに、事実の帰納としては『生物種属はその種属の生存進化の為めに必要なるだけの子を産む』と云う社会主義の基礎を与えながら、他の点においてはこれを全く打ち消すべき『人類の進化はその過大の繁殖力によって相競争するが故なり』と云う意味の個人主義の裏書を為したり。この言がかのベンジャミン・キッドに取られて『種の起原』以後の大著なりと云われる『社会進化論』となり、更にそれが今の学者階級に反響せられて社会退化論か滅亡論か解すべからざる者となれり。人類の過大の繁殖力は相競争せんが為めにあらず、他の生物種属との生存競争において種属を生存せしめんが為めなり。単に繁殖力の大なる者が個々対個々の生存競争を激甚ならしめて最もよく生物種属を進化せしむるならば、−軽蔑すべき推理力よ! 蝿の如きは二十万の卵を産み一週間毎に一億万となるほどの過大の生殖力を有するが故に、人類の文明に二十万倍し一億万倍せる進化をなし吾人の滅亡せる屍の上に黒山の如くたかりてその文明国を建設しつつあるべく、サナダムシは百五十億万の卵を産む過大の生殖力を有するが故に、人類よりも百五十億万倍も高等なる進化的生物として世はサナダムシの第二十世紀に入りサナダムシのキッド君がサナダムシ進化論を著して蝿の如き学者階級の崇拝を集めつつあるの時ならざるべからず。マルサスを合掌礼拝しつつある如き今の学者等に取っては彼キッドの如きは金光の頭脳なるべし、吾人を以て見る数言の侮弄にて足る三尺の児童なり。 丘博士の『進化論講話』はマルサス論の拡充に過ぎずして理論なし 吾人は西人の言に筆を馳せて日本の代表的学者なりとして指定したる理学博士丘浅次郎氏の『進化論講話』を忘却したり。いわく『世間には生活の苦しみは競争の激しいことに基くので競争の激しいのは人口の増加が原因である、それ故子を産む数を制限することが必要であると云うような考えを持って居る人もあるが先に述べた所によるとこれは決して得策とは云われぬ』と。吾人はもとより新マルサス派の社会改良策が無目的の盲動なりしことを博士と共に知る。しかしながら博士がその結論において顧みて『先に述べたる所』と云いし『進化論講話』の全部は混沌としにただ事実を羅列せるのみにして一の理論もなく、同属間個々の生存競争によって総ての生物種属は進化せるものなるが故に過大の繁殖力を有する人類の進化はマルサスの人口論によると云う意味の説明なり。しかしながらこれまた等しく今の生物進化論そのものの組織なきが為めにして吾人が研究に忠実なる丘博士を特に指定したるは日本の代表的学者なりとの理由にして博士一人の責任を負うべき過失なりとの意味にあらず。 社会主義時代に生存競争ありとの断案 社会主義は進化論の外に逸出して生存競争を禁遏もしくは緩慢ならしめんとする者に非ずとは以上説く如し。すなわち、他の生物種属に対して全人類の大社会単位においてする現実維持の食物競争あり。しかして先に説ける同属間の個々に対して個人単位においてする理想実現の雌雄競争あり。 |
【第八章】 |
今日まで生物進化論に結論なし。進化の意識は宇宙絶対の意識なり。社会主義の世において人口は出産と死亡と平率を保つと云う推論。猛獣に対する生存競争をなせし原人とバイ菌属に対して生存競争をなしつつある現代。人口は更に増加すべしとの推論。人口増加は今日といえども歓喜すべき天則なり。総ての生物種属は生存の目的の為めの産子以上に進化の理想の為めの多産あり。人口増加は二様の意義を有す。生死平均との推論は一面の解釈に過ぎず。生物学より見たる君主国貴族国民主国の三時代。法律の進化を解せざるいわゆる社会主義者。恐怖の意味に非ざる人口増加。上層階級の多産が歓喜なる如く今の下層が総て上層に進化せる社会主義時代の人口増加。人口増加は雌雄競争をなさんが為めに多くの卓越せる個性を要するゆえなり。一元のアダム、イヴの雌雄競争なき時代より十億に増加せる現代の進化。今日の失恋者を以て社会主義時代を想像すべからず。大体の事実として上層は全社会の理想なり。片思いをも絶望せる失恋者の下層階級。階級内の恋愛競争の現代と全人類の大を看客とする釈尊とマリアとの恋。階級的善と階級的真。『氏』の階級的定型の遺伝と『育ち』の階級的定型。階級によって作られる容貌すなわち階級的美。何が故に恋の理想たる上層を要求する能わざるかと云う積極的自覚ろ。雌雄競争による真善美の進化、天才の世界。個人主義の高貴なる理想と万有進化の大権。若き男女の握れる手と手はローマ法王の絶対無限権を有すべし。社会主義と個人主義との理想の合致。講壇社会主義には何の理想なし。社会主義は個人主義と異なって社会の進化を終局の理想とす。卑近なる科学者の態度を以て最も近き社会の将来を想像せしめよ。社会主義時代における社会進化の速力。『類神人』の遺伝の累積は本能を異にするに至り従って別種の生物種属『神類』として分類せらるべし。『善』の本能化は一世紀間にて来る。個人主義の倫理学は社会性の満足の為めなる道徳を解せず。意志自由論と意志必致論とは合致すべし。今日において犯罪者もしくは消極的善人のみなる理由。現社会は法律の上においとも道徳の上においても社会主義を理想としつつあり。道徳法律の理想と現実の道徳法律。偏局的個人主義の欧米と偏局的社会主義の日本。中世的蛮風の社会性と私有財産制の自本。社会主義の世は無道徳の世界と云うべし。今日の本能を固定的なりと考えうるは天地創造説の思想なり。人為淘汰による本能の急速なる変化。今日の利己心の強盛なる本能は私有財産制度に入りしよりのことなり。豚が二三代にて野猪に返る如く二三代にて堯舜時代の蕾を爛漫たらしむべし。『真』の進化。人類はカンガルーと等しき有袋動物なり。体外の袋に在るカンガルーの九ヶ月が生殖作用の一部なる如く社会の袋に教育さるべき二十歳までは生殖作用の一部なり。独断的不平等論の最後の呼吸。生殖作用とは種属的経験知識を肉体的に遺伝する教育にして教育作用とは社会的に遺伝する生殖なり。社会主義を下層的平等と解する『平民主義』の悪しき命名。個人の絶対的自由は先ず社会の−分子に実現せられて君主国となる。その実現の少数階級に拡張せる貴族国時代。タルドの模倣による平等。戦国時代とは個人の権威の衝突なり。革命以後の日本の法律は社会民主主義なり。今の世に平民なし。衆愚主義に非ず全社会の天才主義なり。社会主義は先ず天才の発展すべき自由の沃土たる点において天才主義なり。社会主義は更に天才を培養する所の豊富なる肥科を有することにおいて益々天才主義なり。天才と社会との関係。天才の定義。自由の沃土なき時代の天才。豊富の肥料なき時代の天才。社会精神とは過去の個性の精神なりと云う点において社会主義と個人主義の合致。人類は脳髄及び神経系統を進化せしめて本能を異にするに至る。『美』の進化。総ての真善美は進化的なり。円満なる美の理想たる天人天女の容貌は二三代にして実現さる。人類は排泄作用を去るを得べし。総ての生物種属はその目的理想の為に総ての器官を進化せしめ退化せしむ。人類の器官の進化せる部分と退化せる部分。人類の今日までの消化器の退化とその理由。食物の進化に併行する消化器の退化は工業的食物時代に入っていよいよ退化し化学的調合にいたって全く排泄作用を去る。恋人の脱糞ドイツ皇帝の放屁。問題は何が故に脱糞放屁を恥辱と感ずるかの理由の根本に存す。更にそれを恥辱と感ずる事小児よりも大人に野蛮人よりも文明人にはなはだしきかという感情の進化が問題なり。目的論の哲学と生物進化論は総ての説明なり。総て真善美に係わる恥辱の感情は理想に対照されたる現実の不満なり。排泄作用を恥じずるに至れるは大なる進化なり。理想の低級なる下等動物とその排泄物。理想の進化と排泄作用に対する感情の進化。社会進化の原則によってドイツ皇帝は放屁を塗り付ける理由あり。進化とは理想実現の連続なり。物質文明を讃美せん。人類は交接作用をも廃止すべし。恋愛と肉欲とを分離せんとする要求は人類の進化的生物たるより発する理想なり。一元論の化学。総ての生物は両性抱擁の生殖方法に限らず。人類は魚類の如き方法にいたる能わざるか。肋骨の一片と実験室中の小さき生物。アブラムシの単性生殖と男性なくして英雄を産める歴史上の事実。両性生殖も進化の一過程なり。生物進化論は大釈尊の哲学宗教に帰着せり。生殖作用が理想実現の方法たる点において独身の聖者は大なる生殖をなせり。社会とは空間なき密着の大個体なり。小個体腹中の教育と大個体腹中の生殖。無我絶対の愛の世。人類の滅亡は胸轟くべきの歓喜なり。個人主義の哲学宗教は棄却さるべし。天国は人類の滅亡せる『神類』の地球なり。科学的宗教。無我絶対の愛を説くは『神類』に致らざる人類に向かっては狂気なることあたかも類人猿の如く爬虫類の如くなれと云うと同一なり。社会民主主義の哲学宗教は社会単位の食物競争と個人単位の雌雄競争を社会民主主義の名において主張する生存進化の科学なり。キリスト教は一夫一婦論を要求して絶対の愛に非ずまた仏教は他生物の小我を承認するを以て無我の愛に非ず。キリスト・釈尊は吾人と等しく人類社会の一分子として『神類』を理想としたるのみ。社会民主主義の天国に至るべき道は階級闘争にあり個性発展に在り伏能啓発にあり自由恋愛にあり科学に在り。吾人社会民主主義者は『人類』と『神類』とをつなぐ鉄橋工事に服しつつある一工夫なり。発狂漢は鉄橋工事を解せず。以上の帰結、今の生物進化論は総てことごとくその力を極めて排撃したる天地創造説を先入思想として生物進化の事実を解釈しつつあり。宇宙目的論の哲学と生物進化論の哲学とはここに始めて合致し相互に帰納となり演繹となって科学的宗教となる。『類神人』の語は生物進化論の結論なり |
吾人はここに人類の消滅すべき経過的生物なることを説かん。すなわち生物進化論の結論なり。今日まで生物進化論に結論なし。人類の今日までに達したる知識にては、天地万有ことごとく進化しつつありと云うことなり。しかして一切の進化は生存競争に在りと云うことなり。吾人人類種属の如く、明確なる意識において進化に努力しつつある者に非ずと考えられる、下級の獣類鳥類より昆虫魚貝に至るまで、その生物として生存せんとする欲望その事が進化なり。しかしてそのの意識と云うは進化の程度を異にするよりの程度の差にして、生存の欲望−従って進化の意識は宇宙絶対の意識なり。吾人は余りに哲学的思弁を事とすべからず、兎に角吾人人類種属が生物として生存せんとする欲望あり、その欲望の為に生存競争あらば、人類の更に進化すべき経過的生物なることは、進化論そのものに対して懐疑的態度を執る者に非ざるよりは充分に肯定すべし。吾人は先の人口論を継続して語らざるべからず。すなわち、社会主義の世に入って社会単位の生存競争と伝える人類と云う一大個体を単位として他の生物種属に対する生存競争、及び人類個々を単位として他の個々の人類に対する生存競争はいかになり行くやと云うことなり。 社会主義の世において人口は出産と死亡と平率を保つと云う推論、猛獣に対する生存競争をなせし原人とバイ菌属に対して生存競争をなしつつある現代 推論は二様に導かるべし。その一は、社会主義の実現によって生存競争の劣敗者が少なくなると共に出産数と死亡数と平均を保つべしと考えうることなり。かく推論せんとする者に取ってはそのものの自由にして誠に生物学の事実と理論とに適合せるは論なし。もとより、蒸気と電気との生産機関によって−あたかも虎に取って牙が生産機関たり、鷲に取って翼が生産機関たる如く−人類の食物とすべき生物種属との生存競争においては完き優勝者たるを得べきは社会主義の実現後直ちに来るべき可能なりといえども、人類を食物とせんとする生物種属すなわちバイ菌属に対してなお完き優勝者たる能わざるべく、従って疾病の劣敗者を犠牲として出すも人類種属の生存進化に支障なきだけの多くの人口を要するは明かなり。また、地震、火山、洪水、風浪等の物質的危難もあり。しかしながら、今日の野蛮人が猛獣に対する生存競争に忙わしく、また原人がそれに対する生存競争の為に湖上に家を建て、あるいは樹上に眠りしと云う如き状態より進化して今日の吾人に達し、終に猛獣に対しては全き勝利に帰したる如く、医学の進歩によって猛獣よりも困難なる競争者たるバイ菌属に対しても猛獣とのそれの如く完き勝利の来るべきは疑いなかるべく、従って疾病によって欠損する部分を補欠する必要の為の人口も必要の去ると共に減少すべしと考えらるべし。 自ら称して経験的なりと云う学者階級に取っては眼前に野蛮人の状態を見るが如く発掘せられたる原人の遺跡を見るが如くならざれば、かかる推論に対して恐らくは『空想』の慣用語を放って嘲けるべしといえども、もし彼等にしてその遺跡と状態とを見て今日の文明にまで進化し来れる原理を推論するの脳力あらば、更に今日にまで進化し来れる原理をたどりて、今日より進化し行くべきある状態が等しき推理力によって画かれざるべからざるの理なり。実に、病死者(今日は社会的原因の者多し)なきに至るべしとの推論は、今日の文明人が猛獣に喰われることなしと云う今日までの進化が更に将来に向かって進化せるものと解せば可なりとす。今日発掘せられる湖上の家、もしくは樹上の巣居が獣類種属との生存競争に努力しつつありし原始時代に奇怪に非らざりしが如く。今日少しも奇怪とも考え及ばざる病院の如き建築物が『類神人』の遺骨と共に発掘せられて遺跡たる時代においては、バイ菌属との生存競争に努力しつつありし時代として大に『神類』の興味を喚起すべしとせん。しかして今日徐々に除去しつつある物質的危難の如き、また進化と共に去るべく、従って出産数と死亡数と平均を保つとの推理は正当なり。 人口は更に増加すべしとの推論、人口増加は今日といえども歓喜すべき天則なり、総ての生物種属は生存の目的の為の産子以上に進化の理想の為の多産あり、人口増加は二様の意義を有す、生死平均との推論は一面の解釈に過ぎず、生物学より君主国貴族国民主国の三時代の説明、法律の進化を解せざるいわゆる社会主義者、恐怖の意味に非ざる人口増加、上層階級の多産が歓喜なる如く今の下層が総て上層に進化せる社会主義時代の人口増加地の一の推論は吾人の主張せんとする所にして人口は更に増加すべしとの見解なり。すなわち、人類は原人の時代より他種属との生存競争において無数の劣敗者を出しつつ来たりしに係わらず、なお他種属とのそれにおいて優勝の地位に進むに伴いて人口を増加せるを以て、社会主義の実現によってさらに地位を優勝に進めるに至らば、更になお人口の増加を見るに至るべしとの推理なり。吾人が先に社会主義の時代において人口が恐怖の意味にで増加する者に非ずとして、人口の増加が他の意味において想像せられ得べき事を語る余地を剰し置けるはこの故なり。もとより天則はいかなる者といえども恐怖すべきに非ず。今日の人口増加が恐怖されるは上層階級の階級的利益の見地よりの事にして、社会の生存進化の上より見るにおいては欠くべからざる天の設計なりとす。吾人は社会主義の時代に入って人口の更に大に増加すべき事を無限の歓喜を以て信ず。 −経済学者は吻を容れて云うべし、然らば再び生存競争の激烈を繰り返すべしと。吾人はかかる小さき貝殻より外知らざる甲殻類に向かって語りつつあるものに非ず。−総ての生物種属は単に種属の生存を維持する目的の為に努力するのみならず、種属を進化せしめんとする理想に向かってさらに強烈なる活動をなす。ダーウィンが植物にて実験せる如く、総ての生物種属がその種属の敵たる他の生物種属の排除されるときにおいて無限の繁殖をなすは、もとより他の敵たる生物種属の下に無数の劣敗者を出しつつありし生存の方法の障害なく発展せるものなりといえども、総ての生物種属が生存の維持以上に更に繁殖して進化せんとしつつあることは生物学上の事実なり。すなわち、一元より今日の十億万に繁殖せる人類は、種属生存の意味において劣敗者の補欠として多くの人口を繁殖しつつありしことの上に、更に人類自身の進化によってダーウィンの植物に為せる如く人類の敵たる猛獣またはバイ菌の如き他の生物種属を排除し、もしくは人類を敵とする他の生物種属たる動植物を牧畜または農業の方法にて征服し、もしくは奴隷として繁殖せしめ、以て今日の如き人口にまで増加し今日の進化にまで到達したるなり。 −故に人口の増加は二様の意義を有すと考えらるべし、一は他種属との生存競争において劣敗者を補欠するが為めの現実維持の目的よりする種属生存の結果として、他の一は他種属との生存競争において劣敗者の少なくなり行くが為めに理想実現の目的よりする種属進化の結果として、すなわち、吾人は社会主義の時代に入って出産数と死亡数と平均すと云う第一の推論より以上に出でて、社会主義の時代に入ると共に更に大に人口の増加を来すべしとの推論を為さんと欲する者なり。一は総ての生物種属を以て単に種属生存の目的より外になしと考えうる消極的見地なり、一は総ての生物種属は種属生存の目的を達すると共に更に種属進化の理想を実現せんとする者なりと云う積極的見地なり。もし種属が単にその生存を維持するを以て足れりとする者なりと考えうるならば、先ず何よりも解すべからざることは一元の人類より十億万に繁殖せる社会進化の事実なり。 具体的に云えば、古代の君主国時代において、社会の一分子たる君主の生存の為に、他の総ての分子が忠順の義務を負担して種属生存の為めに犠牲となりしことより、中世の貴族国時代に進みて、社会の少数分子たる貴族階級の生存の為めに、他の武士平民の階級の多くの分子が忠順の義務を負担して種属生存の為めに犠牲となりしことに至り、さらに現代の民主国に至って社会の全分子がことごとく生存して種属を生存せしめんとするまでに進化せる社会進化の事実と阻隔する推理なるを以てなり。斯く、一人によって種属を生存せしめたるものより、少数階級によって種属を生存せしむることに進み、更に総ての階級なき全国民によって種属を生存せしめんことを理想とするに至れるは、生存競争の勝利を得る毎に生存すべき人口の繁殖することを法律の理想において表白せる者なり。(法律の理想は社会の理想なり、法律の理想たる正義が君主国、貴族国、民主国と進化せるは人類社会と云う生物の理想が進化せるを以てなり。社会主義者中の皮相的見解者の如く法律を以て彼らに略奪階級の罪悪を働かんが為めに作られたるかの如く解するは無知の極なり)。従ってこの過ぎ去れる社会の進化を認めるならば、社会主義の実現によって人類の対他種属の生存競争が更に優勝の地位に進むと共に、人類種属進化の意味において人口の大に増加すべきを推論するは困難に非ず。今日の人口増加が恐怖の意味に受取られつつあるは、下層階級にとってその子女の犠牲として死しつつあることを憂いる深厚の同類意識の堪うべからざるまでに進化せることと、その進化が社会の進化にして今の上層階級が社会進化の方法たる革命を恐怖するよりのことにして、等しく種属生存以上に種属進化の意味において増加せる人中なりといえども、社会主義時代の人口増加は恐怖の意味に非ざる社会進化の増加なり。例えば上層階級の人口増加がその階級にとっては恐怖に非ずかえって歓喜なるが如し。社会主義は人類社会を一個侭と見て生物界における君主主義なり、人類を個々に見て生物界における貴族主義なり。 −今の君主貴族が現実維持の生存競争において最も優れたる優勝者となれるを以て、更に進化せんが為に多くの子を産みて、しかもことごとく生存進化しつつある如く、社会主義の実現によって全社会が挙りて生物界の上に君主となり貴族となって完き優勝者たるに至らば、人口増加は理想実現の為めに無限の歓喜を以て増殖し、しかしてことごとく生存すべし。(吾人が第一編の『社会主義の経済的正義』において社会主義は上層階級を下層に引き下げるに非ず、下層階級が上層に昇ることによって階級の掃討される社会の進化なりと伝えるはこれなり。故に社会主義はいわゆる世の『平民主義』に非ざるは論なし)。 人口増加は雌雄競争をなさんが為めに多くの卓越せる個性を要する故なり、一元のアダム、イヴの雌雄競争なき時代より十億に増加せる現代の進化 然り、吾人は斯く推論して人口の増殖すべきことを信ぜんと欲す。しかして社会の進化は増加せる人口の為めに個性発展の競争を激烈ならしめ、人口の多きだけそれだけ卓越せる個性の多きを以てその速力は想像し得べからざるものなるべし。この競争の優劣を決すべきものは社会の全分子たる男女の雌雄競争なり。男女の全分子は各々その理想とする所の男女を獲んと競争する事によって、獲たる理想の男女の結合によって社会の理想をその永き命たる子孫において実現しつつ、社会は進化すべし。すなわち、吾人が人類社会が食物競争の完き優勝者たると共に人口の増加すべきを想像するは、人類は更に進化すべき経過的生物なりと云う生物進化論の上よりして、雌雄競争なきアダム、イヴの時よりも十億万人の男女が雌雄競争をなす今日が遥かに進化の速やかなる如く、十億万人の少なき人口の今日よりも更に多き人口の男女が雌雄競争をなすことは更に遥かに進化の速力において大なるべしと信ずるを以てなり。 故に、社会主義の世において失恋者の多きことはいかんともすべからず。現実の苦痛たる食物競争なきが為めに、理想に憧憬してしかもその実現を得ざる雌雄競争の劣敗者は、これ社会進化の天則にして吾人社会主義者の阻み得べき所にあらず、また阻まんと夢想する所にもあらず。理想高きに至って到らざる現実の苦痛いよいよ大なり。『類神人』は『神類』に進化せんが為めに激烈なる雌雄競争をなす。 今日の失恋者を以て社会主義時代を想像すべからず、大体の事実として上層は全社会の理想なり、片思いをも絶望せる失恋者の下層階級、階級内の恋愛競争の現代と全人類の大を看客とする釈尊とマリアとの恋、階級的善と階級的真、『氏』の階級的定型の遺伝と『育ち』の階級的定型、階級によって作られる容貌すなわち階級的美、何が故に恋の理想たる上層を要求する能わざるかと云う積極的自覚、雌雄雄競争による真善美の進化、天才の世界 然しながら、吾人は今日の社会における雌雄競争(先に説ける所を見よ)を以て社会主義時代の失恋者を想像すべからざるは論なし。今日の恋愛は皆階級に阻害せられ、しかして単に階級によって相思の者の阻害されるのみならず、階級の隔絶の為に多くはいわゆる片思いと称する恋愛の最も悲惨なる征矢を負う。もとより社会主義時代においては相思の者の阻害される事なくして、その失恋者とは斯くの片思いの者なることは論なし。何となれば最も真なる最も善なる最も美なる所の、すなわち最も『神類』に近き所の個性を有する男子及び女子が全社会の恋愛の中心点たるべく、従ってこの『神類』に近き所の者を獲るは他の『神類』に近き異性にして及ばざる多くの失恋者は片思いの苦痛をなむべきを以てなり。 しかしながら今日における片思いの失恋者は不幸なる階級にその真と善と美とを作成せられたるが為めに、理想とする異性に向かって進んで恋愛を要求すべき道徳知識容貌を有せざるなり。明かに言えば下層階級の者は上層の異性に対して相思を求めて得ざる片思いの苦痛よりも、片思いを為すことそのことをも絶望せるなり。社会はその多くの分子を犠牲にして先ず上層の分子より漸次に理想を実現し、以て全分子にその実現を及ぼす。(社会学者のある者は之を指して模倣にとる同化作用と云う)。故に大体の事実として上層階級の知識道徳容貌はその階級の理想たると共に全社会の模倣して到達せんとする事において全社会の理想なるなり。故に一介の田舎娘といえども哲学者の頭脳に恋せざるに非ず、淫をひさぎて生活する娼婦も厳めしき道学者の鬚髯に恋せざるに非ず、塵埃を浴びて走る車夫も深窓を洩れる琴の音に恋せざるに非ず。ただ、彼等に片思いの失恋なきはすでに絶望せるを以てなり。彼等は『雲に掛け橋』としてすでに恋するも達せざる事を絶望して恋の心を動かさざるなり。 −何たる悲惨ぞ! 単に自由競争が経済的方面において階級間に限られたるのみならず、(第一編の『社会主義の経済的正義』において自由競争の二大分類を説ける所を見よ)、恋愛の自由競争は階級的城壁内の小天地に局限せられてその階級間の理想するに止まる低き程度の緩慢なる競争となれり。乞食は乞食を、労働者は労働者を、小作人は小作人を、芸妓は俳優を、間の抜けたる令夫人は長芋の若様を、宿六は山の神を、泥棒火付の男子は窃盗スリの女を。かかる小社会の内に限られてかかる低き理想の異性を得て足れりとする今日、何の社会進化あらんや。社会主義が実現せられて、すなわち今の下層階級が上層階級に進みて全人類が天地万有の上に君主となり貴族となるの時、恋の天地は九尺二間にあらず待合に非ず、恋の理想は芸妓に非ず、長芋に非ず、ダイヤモンドに非ず、全人類の大を看客として釈尊とマリアとの恋なり。実に恋の理想は社会の理想なり。社会の理想が社会の全分子たる男女に恋せられることによって社会はその理想を永き命たる所の子孫によって実現し以て進化す。理想として今日の男女に問へ、釈尊・キリストのごとき真善美、マリア・観世音の如き真善美は必ず恋の理想たるべし。しかしてこれ社会の実現すべき理想なり。然るに、今日においては社会の未だ進化到らずして階級的割裂にあるが為めに、総ての知識も、総ての道徳も、総ての容貌も、階級的理想によって階級的に作成せられたる階級的の真善美に止まる。吾人が前編『社会主義の倫理的理想』において述べたる如く今日の良心は階級的善なり。しかして知識の多くも階級的真なる事は下層階級の宗教が多く鰯の頭にしてその哲学がまた多く狐狸の司どる運命なるが如し(幸いに階級を超越することを得たる吾人が今打撃を加えつつある上層の学者階級の知識のまた階級によってあわれむべく作られたる如き等しく然かり)。すなわち、総ての者が社会的作成なる事によって、道徳的判断も知識的判断も各々その社会的階級によって作成せられて階級的善となり階級的真となる。容貌といえども然り。階級的美と云うの外なし。『氏より育ち』と云う如く今日の美人と云うも醜夫と云うも僅少なる個性の変異を外にして全く階級によって作られたる階級的定型なり。 しかしてその『氏』と云うも階級的定型の遺伝たるに過ぎず。かの刑事人類学者が社会的階級によって容貌の作られることを知らざりしが為めに、犯罪階級の定型的容貌を有するを見てことごとく天分なりと断定したる如く(もとよりのその天分なる者あるは犯罪階級の社会的作成の遺伝たる『氏』なりといえども)、上層階級の容貌も下層階級のそれも皆ことごとく育ちなりと云う社会的作成と氏なりと伝える父祖の社会的作成の遺伝なるなり。資本家階級の唇に残忍なる冷笑あるは清貧に甘んずる者の如く素朴率直なる能わずして譎詐謀略を余儀なくされるが為めの社会的作成にして、その丸髷が驕慢に空向ける鼻を有するは高潔なる礼譲を以て相敬する平等を知らず、常に諂諛に囲繞せられる為めの社会的作成なり。若様なるものの長芋と云う興味ある代名辞を有するは、その人を愚呆ならしむる畑に耕されるよりの階級的定型にして、愛嬌も引力もなき定型的容貌の令夫人は間の抜けたる奥座敷に封ぜられて作成さるが為めにして芸妓との雌雄競争において劣敗者となるは決して嘲笑すべき事に非ず。一元の人類より分れたる吾人が風土気候等の地理的境遇によって赤白黄黒の数人種となりまた歴史的境通によって数十の民族となってそれぞれの定型を有する如く、階級的境遇によってまたそれぞれの階級的定型を作成せられたるなり。労働者の醜悪なる顏、粗野なる手足、卑屈なる態度といえども然り。その社会的作成と父祖の社会的作成の遺伝とによる階級的定型なり。生活の困難の為めに成り上り者の実業家と称する者の持てる有福の相もなく、運命の寵児なる政治家等の有する厳めしき髯もなし。その皮膚は暑熱風雪に冒されて黒奴の如く、知識もなく趣味もなく高尚なる道念もなく一個の機械として運転するに過ぎざるを以て骨格の如き純然たる野蛮人なり。 斯くの如き彼等が、繊き絹の如き指と白薔薇の如き頬とを持てる上層階級に恋の心をだも起さざるは当然にして、英国王女等の路行くに逢うも秋波を送る能わずして徒らに警官の叱咤を蒙りて惶走し、ドイツ皇帝が日本に漫遊してその馬車がたまたま傾斜の街に入る時ありともチヨイトチヨイトと呼びて招く能わざるなり。美人と美男とは年若き総ての社会に恋せらる。ただ、彼等下層階級の男女が上層の美なる者を見るも恋の苦痛なきは、一介の工夫が三井・岩崎たらんと欲するの苦痛なきが如く誠に絶望の為めなり。彼等は恋心の動かざる如く絶望をも意識せざるべし。しかしながら、吾人は何が故に斯くまでに饒ゆるやと云う消極的自覚と共に、彼等は何が故にかほどに富めりやと云う自覚が積極的に来たりつつある如く。吾人の恋する男と女とが何が故に親に売られ親に買われて斯くまでに恋を失えるやと云う消極的自覚と共に、彼等は何が故にかほどに美にして醜なる吾人の恋する能わざるやと云う積極的の自覚が来る。これ革命が大胆華麗なる歩調を以て地平線に現れる時にして、革命の成就と共にかかる意味における恋の絶望は去るべし。あえて美の一面に限らず、社会の全分子は平等の物質的保護と自由の精神的開発とによって、知識を好む者は知識広き者を恋し、道徳を慕う者は道徳高き者を恋し、美貌を愛する者は美人美男を恋するの完き自由を得べし。しかしてその自由にして競争者の多きが為めに、男は男と、女は女との雌雄競争によって各々その真善美を進化せしめ、その進化せる中の最も真なる善なる美なる者が最も真なる善なる美なる異性を得てその真善美を子孫に遺伝し以て社会の理想を実現すべし。すなわち広き意味における天才の世なり、天の真なる個性、天の善なる個性、天の美なる個性は、恋愛の中心となって全社会の崇敬を集むるの世なり。−ここに至っては社会主義の極致にして個人主義の理想と抱合す。 個人主義の高貴なる理想と万有進化の大権、若き男女の握れる手と手はローマ法王の絶対無限権を有すべし、社会主義と個人主義との理想の合致、講壇社会主義には何の理想なし 個人主義の大潮流はローマ法王の絶対無限権を排除し思想の自由を呼号することによって流れ始めたり。社会の一分子たるに過ぎざるローマ法王が他の総ての分子の上に真と善との決定権を有すべからざるは論なく、一派の学説たる『国体論』が個性の自由なる発展を圧伏して、思想界の上にローマ法王としてその真とし善とする所を強制するの権なきはまた論なく、『福神』がその醜くき手を延べて男女の間を離合せしむるの結びの神として、美の判決をなすの権力は、また実に何者よりも許容すべからず。総ての進化は生存競争なり。生存競争の決定権は万有進化の大権にしてキリストといえども有すべからず。いかなる者が善として、真として、美として生存するやは社会全分子の多数決によるの外なく、しかして一時代の多数決はその時代の真善美に過ぎずといえども、次の時代は更に次の時代の多数決を以て真善美を決定すべく、しかして多教法の最も多数にして偽りなき投票は、議会の討論にあらず新聞紙の世論に非ず、また直接立法に非ず、社会の全分子を挙げれる男女の理想とされる所なり。ただ、今日の社会は階級的層をなせるが為に恋の理想は宿六となり長芋となり芸妓となり空向ける鼻の令夫人となってはなはだしく低級の者なりといえども、社会の進化と共に理想は進化し、階級の掃討と共に理想は磨き高き者となるべし。社会の全分子たる男女に平等の物質的保護と自由の精神的開発が拡張するの時、−若き男女の握れる手と手はローマ法王の絶対無限権を有すべし。これ個人の絶対的自由の世に非ずや。社会の一分子たる法王もしくは皇帝の意志によって真善美の決定される事に怒って起てる個人主義なる者、むしろ社会主義の実現によってその理想を実現せらるべし。故に吾人は個人主義者を排せず、また個人主義の思想を継承して社会主義者と称しつつある今の社会革命家の多くを排せず。個人と社会とは小個体たる点より見たると大個体たる点より見たるとの立脚地の相違にして、社会主義の極致は社会の一部分たる法王皇帝等がその意志によって絶対の自由を以て真善美を判決したる如く、社会の全部分たる男女の意志によって総ての真善美を判決するの自由を絶対に得べきことを理想とするを以てなり。実にプラトンの『部分は全部に先だたず、全部は部分に先だたず』と伝える如く個人は社会の一部分にして社会は個人の全部なるを以てなり。ただ、講壇社会主義と名付ける者に至っては社会の進化を解せず何等の理想だも無し(前編の樋口氏が矢野氏の理想を空想なりと伝える如き一例とすべし)。一言にして評すれば盲動者の烏合なり。 社会主義は個人主義と異なって社会の進化を終局の理想とす 実に個人主義の要求は社会主義の下において満足せらると云うべし。しかしながら社会主義は社会主義にして社会の生存進化が終局目的なり、然らば社会主義の実現によって社会はいかに進化すべきや。 卑近なる科学者の態度を以て最も近き社会の将来を想像せしめよ、社会主義時代における社会進化の速力 しかしながら、吾人はこの社会進化の将来につきて語るべく、その推理力ははなはだ乏しくして筆また貧し。吾人は時に一種の宗教的歓喜に全身の戦慄を覚ゆ。ただ、吾人をして最も卑近なる科学者の態度を持して最も近き将来の社会を想像せしめよ。−−先ず貧困と犯罪とは去る。生活の苦悶悪戦の為に作成せられたる残忍なる良心と醜悪なる容貌とは去る。物質的文明の進化は全社会に平等に普及し、更に平等に普及せる全社会の精神的開発によって知識芸術は大いにその水平線を高む。経済的結婚と奴隷道徳とは去り、社会の全分子は神の如き独立を待て個性の発展は殆ど絶対の自由となる。自我の要求はそれ自身道徳的意義を有して社会の進化となり、社会性の発展は非倫理的社会組織と道徳的義務の衝突なくして不用意の道徳となる。水平線の高まる事によって社会の全分子は天才の個性を解するの能力を開発せられ、天の真善美なる男女は老いたる社会の分子によっては崇尊せられ若き分子よりは恋愛を以て報酬せらる。男子はその理想の真善美とする女子を得んが為にいよいよその真善美を磨き、女子はその理想の真善美とする男子を得んが為にまた益々その真善美を加う。しかして社会の中において真善美の最も優れたる個性が雌雄競争によって子女を更に優れたる真善美に遺伝して残し、遺伝によって加えられたる真善美の子女の更に最も真善美において優れたる個性が、雌雄競争によってまた更に真善美を加えまた更に之を遺伝し行く。 『類神人』の遺伝の累積は本能を異にするに至り従って別種の生物種属『神類』古して分類せらるべし ああ、『類神人』はこの累積して止まざる所の真善美の遺伝によって終に何者に進化せんとするや。生物学によれば本能とは遺伝の累積にして、単細胞生物より無数の種属に進化してそれぞれの本能を有するは実に遺伝の累積なりと云うことなり。故に『類神人』がその完全に行われる男女の愛の競争によって今日の理想とする神を遺伝の累積によって実現し得るの時来らば、ここに人類は消滅して『神類』の世となるべし。しかして人類が猿類とその種属を異にして本能を異にする如く、人類と本能の異なる神類は神類の生物学者によって種属を異にせる最も進化せる生物として分類せらるべし。 『善』の本能化は一世紀間にて来る、個人主義の倫理学は社会性の満足の為めなる道徳を解せず、意志自由論と意志必致論とは合致すべし、今日において犯罪者もしくは消極的善人のみなる理由、現社会が法律の上においても道徳の上においても社会主義を理想としつつある理由、道徳法律の理想と現実の道徳法律、偏局的個人主義の欧米と偏局的社会主義の日本、中世的蛮風の社会性と私有財産制の日本 第一に想像せらるべき本能の変化は『善』の上に来る。すなわち、社会主義の実現後二三代にして(すなわち一世紀間にして)道徳は本能化すべし。ある倫理学者によれば、道徳的行為とは苦痛に打ち勝つ所の努力と克己とにあって、本能に従いもしくは快楽に導かれてなす行為は少なくとも非道徳的なりと云う。もとより個人主義の倫理学としてこの説明の上に出づる能わざるべしといえども、誠に人類がアメーバの如く分裂せる一大個体としての社会的存在なることを解せざるよりの価値古き説明なり。もし、吾人が自己に不利なることを目的としてまたは不快なる導きによって一の行為にてもなすとせば生物界を離れたる奇異なる動物と云うべきなり。すなわち、生物とは別なる神の子なりとの天地創造説の仮定を取り入れずしては解すべからざる議論なり。 道徳的行為とは社会の生存進化の為に要求せられる社会性の発動なり。生物学の発達以前において、個体と云うことの見解が単に空間を隔てたる動物と云い、一つの卵より生長せる生物と云う如き漠然たる考えより外なかりし時代においては、この小さき我そのものを以て一個体と考えしが為めに、大なる個体の分子としての社会的利己心によって小さき個体としての個人的利己心が圧伏せられる時、利己心の小さきものの感ずる苦痛と不利とのみを見て、その行為が実はその苦痛と不利とに打ち勝って働く所の社会性の満足による快楽と利益とに存することを解し得ざりしなり。もし、克己の努力によって始めて道徳的評価を付せらるとせば、好んで妻を愛し友を愛し社会国家を愛する如きは道徳的行為とされる価値無かるべく、母が自身の身よりも子を愛する事は苦痛にもあらず、また克己にもあらず、努力にも非ざるを以ていささかの道徳的なりと云われる理由なし。また、君子のいわゆる七十にして心の欲する所に従って規を超えずと伝えるごとき習慣化せる道徳的行為は、その苦痛なく、努力なく、克己なきに至るを以て、習慣化せざる時代よりも大に道徳的価値において下落せざるべからざる筈なるべく、父祖の遺伝によって道徳的傾向を継承せるものの行為の如きは全く努力なきを以て市場における道徳的価格は無代価なりと論ぜざるべからず。しかもこれマルクスの価格論の誤謬にして吾人は天産物なりとて価値それ自身に代償を払いつつある如く、いわゆる天品の仙骨のごとき最も尊重せられるに非ずや。 −しかしながらいかなる価値ある者も空気の如く存すれば価格なし。価値の少なき者も需要に応ずる能わざる少数の者は価値以上の価格を表す。今日『道徳』が無限の価格を表れつつあるはその要求のはなはだしくして、しかも天産物として存する聖の天なる者がダイヤモンドよりも少なく、また非倫理的社会組織の中においては徒らに努力多くして人造の宝石が得られざるの故なり。人は個人の立脚点より見ての利己心を有すると共に、社会の立脚点より見ての社会的利己心を有す。故に、かの意志自由論と云い、意志必致論と云い、顕微鏡以後の個体の科学的基礎より考えうれば少しも論争すべきことに非ず。意志自由論は意志の自由とは最も多き内心の必致なりと云う点において意志必致論と合致し、意志必致論はまた等しく意志の必致とは最も多き内心の自由なりと云う点において意志自由論と合致す。すなわち、吾人が道徳を行うは最も多き内心の必致に駆られたるにて、吾人の罪悪を犯すは最も多き内心の自由に従いたるなり。人は内心において社会性と個人性とを有す。内心において社会性が最も強盛にして他の個人性を圧して働くときにおいては、人はその最も多き社会性の必致に駆られて道徳をなし社会性はここに自由を感じて意志自由論となる。しかしながら圧伏せられたる個人性はその自由を失うが故に、この意味において意志必致論なり。これと同じく、その内心において個人性が最も強盛にして他の社会性を圧して現れる時においては人は最も多き個人性の自由に打ち勝たれて社会性は必致を感じ意志必致論となる。しかしながら打ち勝ちたる個人性はその自由を得たるが故にこの意味において意志自由論なり。ただ、意志必致論を以て人類の上に存する神の命ずる所に従って意志すとの意味においてする古代宗教の宿命論として唱え、意志自由論をルター以後の個人主義の独断の如く人は先天的に自由なる意志を有すとの意味にて唱えることの異なるは論なし。しかしてこの社会性と個人性とはその強弱の度において各個人が先天的に異なるのみならず、今日の如き雲泥の懸隔ある社会組織の下においては階級的差等に従って後天的に雲泥の如く異なる。先天的に強盛なる社会性を有する者、すなわち父祖の社会的境遇によって強盛にせられたる社会性を遺伝せられたる者、もしくは後天的に教育ある階級の空気によって強盛にせられたる社会性を有する者は、その強盛なる社会性の必致に駆られる意志の自由を以て平易に道徳を行う。しかしてこれ今日においては殆ど暁星よりも乏し。然るに社会の大多数は先天的に、すなわち父祖の社会的境遇の遺伝によってはなはだ薄弱なる社会性を有し、また後天的に我利我欲を以て争闘を事としつつある各々の階級に培養せられるを以て個人性のみ強烈を極めて、その強盛なる個人性の自由に打ち勝たれて必致に犯罪者となり、然らざる者もようやく抵抗し得て敗残の社会性を大なる努力によって維持し、以て僅かに犯罪を犯さざれば足ると云う一般の消極的善人となるに止まる。道徳とは社会性が吾人に社会の分子として社会の生存進化の為めに活動せんことを要求することなり。故に吾人が吾人自身を社会の一分子として(小我を目的としてに非ず)より高くせんと努力することが充分に道徳的行為たると共に、多くは他の分子もしくは将来の分子の為めに、すなわち大我の為めに小なる我を没却して行動することをより多く道徳的行為として要求せらる。かの大我の生存進化を無視して小我の名誉栄達を要むる行為が不道徳とせられるのみならず、小我の利益その事を目的としての(社会の一分子としてに非ず)行為が、たとえたまたま社会の利益に帰することありとも一般に道徳的行為とされざるはこの故なり。 −実に、現社会は法律の上においても道徳の上においても社会主義を理想としつつある者と云うの外なし。然るに社会の現実は、個人主義とその根底たる私有財産制度の為めに、事実においては経済的貴族国となって個人の私有すべき財産なく従って個人主義も消え去りつつありといえども、個人の総ての努力は多くの私有財産を獲得して多くの自由を個人そのものの利益の為めに待望しつつあるの状態なり。我が日本の如き欧州の大革命の如く一たび国家万能社会専制の偏局的社会主義を打破して個人の権威を絶対に要求せず、維新革命といえどもはなはだ微温的なりしを以て、個人の自由独立の為に国家社会が手段として存するかの如く考えうる機械的社会観が総ての法律道徳の上に規定される事欧米の如くならず、従って、国家が法律を以て強制しつつある所も、社会が道徳を以て要求しつつある所も、偏局的社会主義を継承して個人の権威を無視するは社会主義の許容せざる所なるに係わらず、社会性を最高権威となしつつある点において社会主義の理想をおぼろげながらも想望しつつある者なり(故に欧米において土地資本の公有を唱えることは個人主義によって建てられたる法律より見て秩序紊乱たり得べしといえども、国家万能の偏局的社会主義を継承する日本の法律は法律に背反すとなして処罰するの理由なし。従って、かの社会主義者と称して個人主義の自由平等論をなせる者が国家そのものの否定を公言するは、日本の法律は処罰すべき権利あって欧米の法律は秩序紊乱を以て圧迫するの理由なし)。 しかしながら、日本の法律が偏局的社会主義を継承すといえども、単に国家が最高の所有権者たることを法律の理想において表白するに止まり、事実は個人主義を産むべき私有財産制度なり。もとより極度まで主張せられたる個人主義の欧米といえども理論を以て事実を左右する能わず、引力なくして天体の秩序が保たれざる如く、社会性なくして社会国家の一日も存在し得べき者に非ざるは論なしといえども、しかして日本においても維新革命と共に個人が私有財産権の主体となり明治六年の地租条例において更に国家の最高の所有権の下に土地所有権を得て、ここに個人主義の根底を築きたるに係わらず、なお『愛国』の声において中世的蛮風の社会性が喚び起される如くなりといえども、その微にして存する社会性が私有財産制度の個人主義的社会組織の為めに圧伏せられ破壊せられて、独り個人性のみ四囲の個人主義的空気を呼吸し、個人主義的思想の階級に培養せられて以て枝を張り根を拡げ実に牢乎として抜くべからざる大木となれるなり。斯くの如く、個人性のみ繁茂して社会性の萌芽にて摘み去られる如き社会組織の下において、社会性の摘み去られて個人性のみ強盛になれる吾人が、個人性の必至に駆られて犯罪を犯しもしくは大なる努力と克己とを以てようやく犯罪を犯さざれば足ると云う消極的善人となって甘んずるの外なきは論なきことなり。 社会主義の世は無道徳の世界と云うべし、今日の本能を固定的なりと考えうるは天地創造説の思想なり、人為淘汰社よる本能の急速なる変化、今日の利己心の強盛なる本能は私有財産制度に入りしよりのことなり、豚が二三代に野猪に返る如く二三代にて堯舜時代の蕾を爛漫たらしむべし 今の法律道徳の理想が社会主義によって実現せられたるの世は然らず。道徳に努力なく克己なし。人はことごとく社会性の自由に従って必致的に道徳に従う。故に道徳的行為を以て克己と努力とに在りとせば、社会主義の世には道徳家と称せられる者なく、その最も必要なるものなるに係わらず、人は空気の如く無代価に感ずべし。−−これにおいては道徳世界と云うも不可なく無道徳の世と云うも可なり。今日においても盗賊と貧困者に取っては殺さず盗まずと云うことが大なる努力と克己とによって達せらるべき道徳なるに係わらず、恒産と恒心とあるものには単にそれだけにて何の尊きことを加えざる平常の無意識に非ずや。今日の如く黄金と権力との社会組織においてこそ、吝嗇ならずとか、賄賂を貪らずとか、買収されずとか、権カを濫用せずとか、云うに過ぎざる消極的の道徳行為も、大度なる実業家と云われ、清廉なる官吏と云われ、高潔なる議員と云われ、賢良なる大臣と云われるなり。しかしてこれ大なる努力と克己とによって不徳に抵抗し得たる僅少の人格にして、その多く要求せられて誠に少なきダイヤモンドの如くなるを以て燦爛たる光輝を放ちつつあるなり。しかしながら、黄金と権力との社会組織の去れる社会主義の世においては、あたかも盗賊と貧困者が大なる努力と克己とによって達する、殺さず、盗まずと云う道徳の如く誠に価値なき平凡のこととなる。総ての個人は社会に経済的従属関係を有するを以て大我そのものの一分子たることを意識して献身的道徳を生ず。(第二編『社会主義の倫理的理想』及び第四編『いわゆる国体論の復古的革命主義』において経済と道徳法律の関係を説けるを見よ)。社会は社会性の自由に活動すべく社会の利益を目的として総ての制度を組織せるを以て、社会性の他に圧伏せられてその自由の束縛を感ずることなく、個人性は個人自身が社会の一分子としての発展としてその自由を尊重せられ、自我の発展それ自身が道徳的意義を有すべし。斯くのごとくならば意志自由論もなく意志必致論もなく、各人のほしいままなる行動それ自身が道徳的行為となるべし。 −しかしてほしいままなる行動が総て道徳的行為ならばこれ誠に無道徳の世なり。しかして、社会性を培養する所の社会組織によって強盛にせられたる社会性は、雌雄競争によって累積せられて遺伝し更に強き社会的本能となる。本能とは遺伝の累積なり。すなわち後天的の社会的境遇によって強盛にせられたる社会性は、その社会的境遇の強盛を遺伝して先天的に社会性の強盛なるものを有する、いわゆる聖の天なるものとなる。もし、この道徳の本能化を否むものあらば、これ実に天地創造説を信ずるものにしてダーウィン以後の人に非ず。天地の始めより各々の生物種属がそれぞれに截然と存在したりと云う思想に非ずしては、本能の固定的なるを今日に主張する能わざるを以てなり。言い換えれば、各々の生物種属が各々本能を異にしてそれぞれの階級を形づくれるは、それぞれの生物種属の境遇による種属的経験の遺伝的累積にして、人類の本能の今日あるは類人猿以後の種属としての経験を遺伝によって累積したる者なり。人類今後の進化を想像し得ざる今の生物進化論者に取っては、人類の本能の今後に変化すべき事を推論するの困難を感ずべし。しかも、これ等しく人類を天地の始めより固定的に創造せられたる者と考えるべからざる如く、遺伝の累積によって作られたる今日の本能を固定的に考えうる事は純然たる天地創造説なり。否! 生物進化論の供給する無数の材料は吾人をして道徳の本能化が実に社会主義実現後の二三代に来るべき事を断言せしむ! かの人為淘汰によって二三代にて全く異なる種属を作るは、この本能の変化の容易なるが為めにして、野鴨よりアヒルを作るに二三代の間までは飛び去らんとする野鴨の本能を有すといえども終に境遇の力によって全く本能の異なれるアヒルとして作り上げられる如き著しき事実なり。もし、かかる明白なる事実を他の生物種属において見るならば、等しく生物種属の一たる吾人人類の本能が社会主義の境遇によって二三代の後社会性の強盛なる本能に変化すべきを疑うの要あらんや。吾人は信ず、今日吾人の如き特殊に強盛なる小我の利己心を有するは等しく本能の変化にして、原人より歴史時代の私有財産制(もとよりこの私有財産制とは個人主義の革命以後の如く、個人総てが財産権の主体たる者に非ずして国王あるいは貴族等の私有なり。更に後に説く)に入る間の九万五千年間は堯舜の如き無為にして化する道徳世界として強盛なる社会性を有せしなるべしと。この例として他の生物種属には、例えば豚の如きその人に畜養せられて野猪の本能を失いしといえども、之を野に放つこと二三代ならばまた野の境遇に適応する本能を得て再び野猪となると云うが如し。実に吾人は無限の歓喜を以て信ず、今日の強盛なる利己的本能は人類進化の一過程にして社会主義の世に進化せば、その境遇に適応する強盛の社会的本能を有すること、あたかも野鴨がアヒルとなり豚が野猪に返るが如くなるべしと。しかしてこれ花の蕾なりし堯舜の世が爛漫たる桜花として開く神の時代なりとす。 『真』の進化、人類はカンガルーと等しき有袋動物なり、体外の袋に在るカンガルーの九ヶ月が生殖作用の一部なる如く社会の袋に教育さるべき二十歳までは生殖作用の一部なり、独断的不平等論の最後の呼吸、生殖作用とは種属的経験知識を肉体的に遺伝する教育にして教育作用とは社会的に遺伝する生殖なり 更に『真』において進化すべし。吾人はここにおいて更に生物学の上より独断的不平等論を打破して、全くその呼吸を止めざるべからず。吾人はしばしば『人はただ社会によってのみ人となる』と云うベルゲマンの語を引用して、『社会主義の倫理的理想』においては下層階級の誠に低級なる階級的善に止まるゆえんを説き、また本編において野蛮人の野蛮人に作られるゆえんの理を説きたり。吾人は更に進んで断言せん、−−『人類はカンガルーと等しき有袋動物なり』と。これ決して比喩に非ず、生物学上の厳粛なる事実として人類は誠にカンガルーと少しも異ならざる有袋動物なるなり。何人も知れる如く、カンガルーは一寸ほどの大きさにて一週間にて母の体外に出で後の九ヶ月を母の袋の中に養われて始めて完全なるカンガルーとして独立す。すなわち、他の胎生動物にはこの袋が母の内部に在ってその子は出生までの全き九ヶ月を体内の袋に送って出づるに反し、カンガルーにおいてはその袋が母の体外に在って、児は体外の袋に九ヶ月を送るなり。独断的不平等論者は一寸のカンガルーと九ヶ月後のカンガルーとを比較し、元来カンガルーは不平等なる者なりと論じつつあるに非ざるか。 −生れたるままの人は一寸の大きさを以て一週間にて世に出でたるカンガルーなり、少なくとも二十歳までを社会の袋に教育せられて始めて独立なるカンガルーとして世に立つべき者なり。生物学の高貴なる教訓を見よ、教育とは生殖作用の一部(補欠と云わんよりも実に一部)なりと云う事なり。他の胎生動物が体内において完成する所の九ヶ月の生殖作用を体外においてする所のカンガルーに取っては、体外の九ヶ月が生殖作用の一部なる如く、二十歳までの教育期間は人類にとっては社会と云う母の体外の袋に養われるべき生殖作用の一部なり。生物の下等なる階級の者に至っては分娩その事にて生殖作用は完成せられるを以て、分娩後は全く教育なくとも完全なる一生物として独立す。然るに高等なる生物に至っては分娩のみにては生殖作用の完成せられざるを以て教育と云う生殖作用を為す。 例えば、猫の如きは絶えずその尾を敏速に振るい小猫に之を捕らえる事を慣れしめて鼠に対する教育をなし、虎は噛み殺したる動物の頭に小虎の小さき歯痕を付けしめて餌を捕らえることを教育するが如し。然らば最も高き階級の人類においては、最も長き間の綿密精練なる教育を要するは、不完全を極めたる生殖作用の一部として欠くべからざる重大なる生殖作用なり。現今の如く殆ど教育なき下層階級を以て六千年の知識を以て充たされたる袋に養われる上層に比するは、殆ど人の形を為さざる胎児と分娩後の小児とを比するが如き没理なり。人類は分娩までの九ヶ月間において人類に至るまでの生物進化の歴史を経過し、分娩後より二十歳に至るまでの間において更に原人よりの十万年間の生物進化の歴史を経過す。もし、胎児と小児とを比較して不平等論を唱え一は獣類時代にして一は人類時代なることを忘却せざるならば、原人の野蛮時代と十万年後の文明時代とを比較して不平等論を説くとは何事ぞ。実に今の下層階級は数百千年以前の知識に止まるが故に、憐れむべき学者等よりして『人は元来不平等なり』と云われつつあるなり。しかして斯くの如き不平等論は一切の時間を無視して、二十世紀の児童が蒸気と電気とを解するを以てプラトン、アリストテレスの上に置き六千年の歴史の遠き古代に不平等論を逆進せしむる者なり。分娩のままに非ず、もとより教育さるべし、しかしながら小猫の鼠を捕らえる如く食物を得る為めの外、人類の文明時代として受くべき十万年間の知識的累積の袋に入らざれば決して文明人として完成せられたる分娩に非ざるなり。またもとより知識的教育を受けずとは云わず、しかしながら辛うじて宮本武勇伝の講談を読み得る知識と三十歳まで古今内外の累積せる知識に養われたる者とは、生殖作用の完全の程度においてあたかもカンガルーの袋より三週間にて取り出せしものと九ヶ月後に出でたる者との如き懸隔あることを記憶せざるべからず。(故に階級的隔絶の現時において総ての知識が階級的真となって、今なおフランス革命時代の独断的平等論を継承しつつある無知の階級も、また階級的隔絶によって誤謬にされたる知識によって養われる事によって独断的不平等論を掲げて他を軽侮しつつある今の学者階級も、その袋の異なるより生ぜる変種のカンガルーなりとす)。生殖作用を娯楽として取扱いつつある者にとっては教育が生殖作用の一部なりと云う如きは了解に困難なるべし。しかしながら生物哲学の上より見る時においては、生殖作用は種属的経験知識を肉体においてすなわち本能として遺伝する方法なり、教育とはその本能の上に社会的に遺伝したる六千年の経験知識を精神において遺伝する方法なり。故に、蘭灯影暗き寝室は一夜にして十万年の課目を教育する講壇にして、独身のキリストが野に立っての教えは一千九百年間の子々孫々が父と仰ぐ如く幾万限りなき子を産める大なる生殖作用なり。家庭も学校なり。図書館も寝室なり。論語も恋の言葉なり。紅筆の玉章も聖書なり。社会総てが産褥なり。 社会主義を下層的平等と解する『平民主義』の悪しき命名、個人の絶対的自由は先ず社会の一分子に実現せられて君主国となる、その実現の少数階級に拡張せる貴族国時代、タルドの模倣による平等、戦国時代とは個人の権威の衝突なり、革命以後の日本の法律は社会民主主義なり、今の世に平民なし 社会主義の要求は社会の全分子が四畳半と待合との講壇を去りて、論語と聖書とを恋の言葉とし玉章として社会の産褥において産声を挙げんことを第一とす。しかして社会の全分子たる総ての個人が平等に之を要することにおいて個人の権威を絶対に認める所の個人主義と合致す。社会主義が清貧に停滞する下層的平等と解せられるが為めに、しかして社会主義者の多くが単に皇帝を転覆し貴族を打破して平民階級にまで上層を引き下げれば可なるかの如く考えて『平民主義』の命名をさえ生ずるに至りしが為めに、古来の大皇帝もしくは剛健なる貴族等が振るえる個性の権威を無視するかの如く誤られて徒らに劣敗者の鳴号なるかの如く取らる。もし社会主義とは斯くの如き者とせば吾人は、今この走らしつつある筆を折りて、むしろ君主主義貴族主義を唱うと云わん。個性の権威は単に多数なるの理由を以て犯すべからず。社会主義とは最大多数の最大幸福と云う事にあらず。神聖不可侵なる絶対無限権の皇帝がその一個性の権威を以て全社会を挙げれる大多数をも圧抑したる如き『個人の自由』なくして何の社会主義あらんや。しかしながら社会の進化は総てのことにおいて直ちに全子に及ばざる如く、個人の自由につきては先ずその一分子たる皇帝をのみ進化せしめて君主国となり、更にその進化を少数分子に拡張せしめてここに貴族階級に及びて貴族国となり、貴族等はその武士農奴の上に君主として(彼等は皇帝と等しく君主なりき)絶対の自由を有し、他の自由を得たる無数の君主等と権威の衝突する場合においてはすなわち強力の決定なりき。いかに貴族国時代においてこの個人の自由の決定が強力によりしかは後に説く『いわゆる国体論の復古的革命主義』において日本の例に見よ。日本の皇室は歴史の始めその強力によって絶対の自由を個人の権威において表白したり。貴族階級たる群雄諸侯の多くの君主は(皇室も君主なりき)また等しくその強力によって自由の衝突を決定し、その強力が他のそれを圧倒して働く時においては絶対無限の自由を振るって他の多くの君主の頭上に白刃を閃かしたりき(しかして皇室も君主なりき)。斯くの如く、個人の権威の為めにはいかなる多数を以ても敵として敢然たるべしとの自由主義は、誠に社会が君主国時代よりの理想として掲げたる所の者なり。社会主義が社会進化の理法に背きて鳴号される時に、思想界においては空想の乱矢を蒙りて戦死し、実際界においては暴民の動乱としてたちまち沈圧せらる。社会の一分子が金冠の下に爛々たる眼を光らして社会の大多数を威圧したるの時は、これ個人の権威は絶対無限なるべしとの理想が先ず社会の一分子によって実現せられたるの時なり。社会の進化は下層階級が上層を理想として到達せんとする模倣による。(タルドの模倣説は倫理学において同一の説明をなして合致せる者ある如く総て当れり)。しかして模倣の結果はタルドの言える如く平等なり。群雄諸侯の貴族階級の君主等は平等観を血ぬられたる刃に掲げて君主と同一なる個人の絶対的自由を得ん事を模倣し始めたり。その最高権威たる天下を取らんとの理想は富の為めに非ず、名の為めに非ず、自己の自由を妨げる総ての者を抑圧して個人の権威を主張せんが為めのみ! しかしてそれらの君主の中においてその理想を実現すべき強力を持てる者はあるいは後醍醐天皇となって他の君主たる北条氏を滅ぼし、あるいは徳川氏となって他の君主たる多くの天皇諸侯等に圧迫を加え、以てその個人の権威を全社会の上に振るい、しかして強力において乏しかりし諸侯階級の君主等は武士農奴の下級に向かってその自由を絶対に発現したり。社会の進化は平等観の拡張にあり。個人の権威が始めは社会の一分子に実現せられたる者より平等観の拡張によって少数の分子に実現を及ぼし、更に平等観を全社会の分子に拡張せしめてここにフランス革命となり維新革命となり、『個人の自由は他のいかなる個人といえども犯す能わず』と伝える民主主義の世となれり。故に現今の法律は誠に社会民主主義なり。一の個人の利益の為めに他の個人は犠牲たるべからずと云う民主主義と共に、その個人の犠牲たる場合は社会の利益にして犠牲を要求する所の者は個人たりといえども(軍隊の長官の如き、裁判官の如き)そは個人としてにあらず国家の利益を主張する国家の代表者としてなり。法律の理想は誠に社会民主主義なり。ただ経済的貴族国の為めに対他種属との生存競争において、また社会単位の生存競争において、貧困と戦争の劣敗者を生じつつあるが為めに全人類を挙りて未だ生物界の上に君主たり貴族たる能わざるなり。吾人は繰り返して断言す。社会主義は君主を転覆し貴族を打破して上層階級を下層的平等の内に溶解する『平民主義』に非ず、社会の全分子が往年の君主国時代の一分子の実現せる所を総てに実現せんとする個人の絶対的権威にありと。今の法律を見よ。徳川時代の平民なく、戦国時代の貴族なく、雄略・仁徳時代の君主なし。ただ、国家と国民(天皇も広義の国民なり)とあり。しかして国家は大個体の点より見られたるが故に社会主義なり、国民は小個体の立脚点より考えられたるを以て民主主義なり。(なお『いわゆる国体論の復古的革命主義』を見よ)。 衆愚主義に非ず全社会の天才主義なり、社会主義は先ず天才の発展すべき自由の沃土たる点において天才主義なり、社会主義は更に天才を培養する所の豊富なる肥料を有することにおいて益々天才主義なりとす、天才と社会との関係、天 才 の 定 義、自由の沃土なき時代の天才、豊富の肥料なき時代の天才、社会精神とは過去の個性の精神なりと云う点において社会主義と個人主義の合致 この説明を解するならば、社会主義は衆愚が多数を挟んで天才を圧迫することアテネ市民がソクラテスにおけるが如くなるべしとの非難の理由なきを見るべし。−−社会主義は天才主義なり。しかも全社会の天才主義なり。(故に吾人は今の社会主義者のある者が『凡人社』と名付けるを代えて天才社となさんことを望む、先覚者は決して凡人に非ず)。天才とは衆愚の圧迫に打ち勝って個性の変異を発揮し得たる権威ある個人なり。故に天才の多くは衆愚を排して個人の権威を振るえる大なる意志の君主貴族(もとより数代の後には退化して他の権威に代われる)と、その君主貴族に対して個人の権威を主張したる大なる頭脳に在り。しかしながら、過去の天才においてはその個性の変異を発揮せんが為めに、個人の権威を無視する所の狭少なる社会良心と闘うことの為めに、その大なる意志と大なる頭脳とは、個性の発揮よりも発揮を自由ならしめんとする努力の為めに多くを消耗せらる。社会主義の世は然らず。古代君主国の一分子が実現して示したるほどの絶対無限なる個人の自由が社会の全分子に実現を拡張せるを以て、天才は自由その事の為めに努力するの要なく、総ての努力は与えられたる個性の発揮に注ぐ。実に天才の種は無数に地に落ちたるなり。しかも今日までの世は天才の培養さるべき自由なる沃土に非らざりしが為めに多く無名の英雄として腐朽し、あるいは土質を異にせる階級に播かれて多く奇形の天才となり、与えられたる一部もしくは変質のある部分を発露するに止まる。 −社会主義は先ず天才の発展すべき自由の沃土たる点において天才主義なり。しかして更に天才を培養する何の豊富なる肥料を有することにおいて益々天才主義なりとすべし。総て種子にとって発育を自由ならしめざる妨害あるべからざると共に、発育すべき肥料を要す。天才とは社会より肥料を吸収して開き芳う社会の花なり。大詩人も之を野蛮部落に置かば十歳の児童の有する如き僅少なる言語を以て何を歌い得べき、思想の根もすでに存在する社会のそれに材料を取り、天地を見るのまぶたも社会の母の手によって開かる。大釈迦をして波羅門の哲学と衣食に不自由なきインドに産れしめずして、終生を営々たる氷雪の下に哲学の芽もなきエスキモー部落に置けば実に小さき偶像教の開祖たるに過ぎず。キリストが未だ世界的眼光なくして、ただ学者とパリサイ人とを対手とせしはユダヤ以外に足跡の及ばざりしが為めにして、パウロによって始めて世界に氾濫せる思想となりしは、キリストの思想を抱いて世界に翼を張れるローマに入れるを以てなり。義経が鵯越の武将たるに過ぎざるは、その個性を発揮すべき境遇の一島国なるが為めにして、ハンニバルのアルプスはその舞台の大陸なるを以てなり。噴飯すべき朕と称するドイツ皇帝が一たび全地球の上に君主たらんと夢想せしは、その十九世紀なるが故にして、カエサルの大といえども地中海沿岸を征服して、世界ここに尽くとして甘んずるの外なかりき。コロンブスが地球円形の意見を述べしとき、当時の学者等はたちまち説破して、然らば吾々の足下に当れる世界の裏は草木も倒まに生え居るべく、人類鳥獣皆奈落の底に落ち行かざるべからずと言って争いぬ、しかもこれ引力説なき時代に生れたるが為めにして、その多くの中には卓越せる個性もありしなるべしといえども、電信と鉄道とを以て少女が手球をかがるごとく地球を弄びつつあるを見る今日の小学生徒にも劣りしなり。大建築には多くの材料を要す。いかなる天才といえども思想上の大建築をなすに、その材料たるべき思想を先ず社会より吸収せざればその建築的個性を示す能わず。しかして大建築にはまた前人の建築術を見るを要す。南洋の土人部落に二十層の家屋が建たず、ギリシャ・ローマの建築術、中世キリスト教の寺院、インド・中国の仏寺伽藍が歴史的発達を有すと云うもこれにして、十進数なき原人部落より今日の天文学は伝わりたるものに非ず、アリストテレスの演繹法のみにては今日の科学的研究は起るものに非ず。天才とはその時代までの社会的遺伝の知識、すなわち社会精神を一たび一身に吸入し、吸入したる材料をその変異なる構造力によって自己個性の模型に之を構造し、之を後代の社会精神として社会の上に放射す。総ての天才がその思想において時代的彩色を帯ぶと云うはこの理由にして、哲学史が連続せる思想系によって編まれるもこれなり。天才が社会的生物なりと云うとは総ての真理に非ずといえども、天才が社会の土と肥料とによって培養されたる花なりとは動かすべからざる事実なり。然るに人類の今日までの歴史は如何。天才の種は植物の種子の風に吹かれる如く人生に落ちるも、自由なき荒れ地の為めに芽も出でず、芽ばえたるものも君主貴族の馬蹄に蹂躙せられたりき。しかしてその僅少なる種子が自由を得たる上層階級に落ち、もしくは上層階級の手によって自由の土地に移し植えられるとも、社会の進化せざる時代として肥料の貧しきが為めに開く所の花も誠に野花に過ぎず。斯くの如くなれば、史上の天才なるものの真に百代を隔てて望むは論なく、しかしてその光も時代を隔てるに従って微かに消え行くなり。古人と今人も母体を出づるときは同一なる原始人なり。その天才も原始人の部落において原始人の天才たるべき個性の変異なり。ただ、社会の床において社会的累積の知識を遺伝せしめられる生殖作用によって、古人は古人となり今人は今人となる。キリストは天国を星の遠き彼方に指したりき、しかしながら彼よりも知識ある今日の吾人は近き将来の地球に楽園の在ることを認めて歩を運びつつあり。釈尊は結跏趺坐して宇宙循環説の外に出づる能わざりき、しかしながら彼よりも研究の積める今日の吾人は宇宙人生の進化しつつあることを明かに解し得たり。アリストテレスは明哲なりき、しかしながら吾人を以て見れば神童たる事を免れず。ダーウィンは生物進化論の大成者なるが如くなりき、しかしながら、かの遺伝を受けてかの白髯よりも年老いたる吾人は二十三歳にして彼以上の思想を有す。ああ斯くの如く無限に累積し無涯に遺伝して止まざる『類神人』の真よ! 個性は社会精神を特殊にするものにして社会はその特殊にせられたる個性の精神を受取って普遍にし以て社会の精神としで後代に遺伝するものなり。しかして個性の社会精神を特殊にせんとして吸収するはその社会が遺伝して普遍に存在せしむる先代無数の個性の精神を吸収すと云うことなり。社会と個人とは単に大我と小我との立脚地の相違なり。然らば何ぞ個人の自由を絶対に尊重する社会主義を以て衆愚万能主義と解するや。社会主義が物質的保護の平等と共に精神的開発の普及を無上の要求となしつつあるは、いかなる天才の個性といえども社会の水平線が余りに下級にしてはその特殊にしたる精神も貧しく、またその精神を受取って後代に遺伝する社会精神となし能わず、為に天才が無名にして腐つると共に社会の進化が遅々たるを以てなり。くれぐれも知るべきは社会主義と個人主義との理想の合致なり。社会全分子の(すなわち総ての個人の)あらゆる歴史的社会的知識を以て開発せられたる自由平等は、全分子全個人がそれ自身誠に天才の如く輝やくと共に、更にその中の最も優れたる満天星の如き天才の精神を総てことごとく普遍にしてその社会精神を大にし、更に後代のより大なる天才に基礎を与う。このより大なる天才は、より大にせられたる基礎の上に立って、より大にせられたる社会精神をより大なる天才を以て特殊にして之を社会に放射し、より大にせられたる社会精神はそのより大にせられたる精神を受取り、之を更に後代のより大なる天才のより大なる基礎として普遍にして行く。 人類は脳髄及び神経系統を進化せしめて本能を異にするに至る 人類はここに至って『真』の為めにその本能を変化すべし。すなわち類人猿より分れたる人類がその社会的生殖作用の為めに脳髄及び神経系統を他の生物種属の対比すべからざるほどに進化せしめたる如く、『神類』に進化すべき類神人は霊能の驚くべき透徹明敏なる本能を有するに至るべし。 『美』の 進 化 総ての真善美は進化的なり、円満なる美の理想たる天人天女の容貌は二三代にして実現さる、人類は排泄作用を去るを得べし 吾人は従来の多くの宗教の用い来れる神と云う語の意味する思想と区別せんが為めに『神類』の文字を用い来れり。吾人は更に人類がいかに『美』において進化すべきやを想像すべし。もとより総ての真善美は進化的のものなるを以て、一の時代もしくは一の地方において真とし善とする所を以て総ての時代と地方とのそれらに推測する能わざる如く、美においてもまた時代的に地方的にそれぞれ異なるは論なし。これを地方につきて云えば、ある野蛮人は頭部の極端に円錐形なるを美とし、鼻の扁平にして厚唇に入墨せるものが最も恋慕せられ、多くの黒色人種間にては白色の男女は醜なりとして多く配偶を得ず。またダーウィンが大胆に形容せるソマル美人の尻の如きがその部落にては美の絶頂とせられ、中国人は顔の平坦にして額円く眉淡き足の小さきを美とし、欧州は胸張りて脊高く顔面の曲線の明瞭なるを美とし、日本は尻細く髦黒き卵子に目鼻を以て美とする如し。また時代につきても社会の進化し理想の進化するに従って美の理想を進化せしめ、上臈の眉墨となり、馬上の英姿となり、元禄の丹次郎となり、更に胸間の勲章となり、演説家の髯となり、小説家の痩頬となり、角帽となり、海老茶袴となれるが如きこれなり。斯くの如くなれば一の進化的過程に過ぎざる所の今日の美の理想を以て永久を律する能わざるは論なきことなりといえども、しかしながら今日の理想として仰いで以て到達せんと努力しつつある所は、男子としてはキリスト・釈迦の如き、女子としては観世音・マリアの如きものなるべし。これ実に真善美を体現せる容貌の円満なる相として、現世に求むべからずとして断念しつつしかも憧憬しつつある美の頂上とされるものなり。しかしながらこれ疑いもなく社会主義の実現後二三代を以て実現され得べき美の理想なるは先に説ける所によって解せらるべし。ただ如何せん、人類の神と仰ぎ仏と仰ぐ所の理想(実在の彼等に非ず)の美においては排泄作用なきに、吾人にはこの醜怪極まるものあり。総ての理想は総て実現される者なり。この醜怪を維持しては神の美に非ざるは論なし。しかして吾人はまた目的論の哲学と生物進化の事実によって、人類がこの排泄作用より脱し得べきことを確信す。 総ての生物種属はその目的理想の為めに総ての器官を進化せしめ退化せしむ、人類の器官の進化せる部分と退化せる部分、人類の今日までの消化器の退化とその理由、食物の進化に併行する消化器の退化は工業的食物時代に入っていよいよ退化し化学調合に至って全く排泄作用を去る 吾人は依然として科学的基礎を保つ。生物進化論に従えば、総ての生物はその生存進化の目的理想の為めに、境遇に応じてある器官は著しく進化し、ある器官は著しく退化して、以て今日の如き無数の生物種属に作られたりと云うことなり。同じく爬虫類より分れたる者なりといえども、鳥類においてはその前肢の驚くべく進化して羽翼となり、獣類に分れて四肢を有するに至れるものも、その水中に入れるものはまた更にアシカの如く四肢半ば尾に退化し鯨の如く全く尾となれる如し。人類もまた然り。人類としての境遇に適応して生存せんとする目的に進化せんとする理想の為めにある器官は著しく進化しある器官は著しく退化したり。一切の工業的生産をなすに必要なる前肢の指の自由なる運動(猿猴類にては親指が特殊なる働きをなさず、他の動物は単に歩行の用に供せられるに過ぎず)、脳髄及び神経系統の比類なき発達(これ人類が猿猴類と別種の階級に分類されざるべからざる理由なり)、の如きは器官の進化せる部分にして、全身の毛の脱落せる(猿猴類にては眼の周囲と尻の赤き部分のみ脱落し他の獣類は進化して毛深かし)、耳の運動する能わざる(猿猴類の多くは自由に動かし、兎の如きは進化して著しく大きくなれり)、歯の小さくして減少せる(猿猴類は人類より大にして多く肉食獣は大に進化せり)、尾の胎児にのみ見られて分娩後は尾てい骨の体内に隠れて縮少せる(猿猴類は総て尾を有し他の獣類は多く著しく進化せり)、如きは皆器官の退化せる部分なり。もし旧式の唯物論を取りもしくは天地創造説を取って、天地の始めより神の作造によってもしくは何の理由もなく単に、牙ある者、翅ある者、直立する者、匍匐する者、尾ある者、毛ある者として存在したりしと信ぜざるならば、吾人が目的論の哲学と生物進化論とによって、人類の理想とする所に従って総ての器官が進化しもしくは退化すべしとの推論を否定する理由なし。否! 人類の今日までにいかに消化器の退化せるかを見よ。口において著しく退化せり。獣類に共通なる三つ口の如きも人類にては偶然の奇形にのみ見らるべきほどに退化せり。歯においても猛獣の如き犬歯はもとより、草食獣の如き大なる臼歯もなく、また数において猿より進化し、文明人は更に野蛮人より退化し、第三臼歯の如きは全然欠乏し、文明人中の都会人は田舎人に比して上側門歯の早く脱落すと云うほどに退化せり。胃腸に至ってもその菜食をなすが為めに純然たる肉食獣よりは比較的に長しといえども、他の純然たる草食獣に比して驚くべく退化し、文明人は野蛮人の腹部より更に小さく退化せり。かの盲腸と称せられる腸の上部に位して付着せる者の如きは他動物において消化作用をなすも人類に至ってはなはだしく退化したる結果、疾病の為めに切り去られるも支障なきほどに無用のものとなれりと云う。この消化器の退化の事実はラマルクの用不用説の如く使用せざる器官は漸次に退化すと云う事を示したる者なり。すなわち反芻類の三つの胃と長き腸とを有するは最も消化に困難なる食物を食うが為めなり。鳥類の胃壁が石の如く堅く胃中にまた石を有すと云うは食物を粉砕せずして送る必要より胃中にスリ鉢を置くものなり。野蛮人の歯が文明人のそれよりも多くして大に田舎人の門歯が都会人よりも健全なりと云うは食物を切りきざまずして口に投ずるが為めに口中にて庖丁を要する故なり。野蛮人が文明人よりも胃腸の長大なりと云うは外界において食物を消化する煮焼を知らざるが為めにその膨脹せる腹中には鍋釜を入れたるが故に大なるなり。−−人類は胃中にスリ鉢を置かざる如く口中より庖丁を取り去る能わざるか。消化器のある部分を盲腸たらしめたる如く鍋釜の総てを取り出す能わざるか。三つ口が人類に取って奇形なる如く肛門を有することが奇形たるに至らしむる能わざるか。吾人は科学的研究の名誉に掛けて断言す、人類の今日までの消化器の退化が食物の進化によると云う総ての生物進化論者が科学者の推理なる如く、吾人は科学者としての推理に従って更に人類今後の食物の進化は同じき生物進化論によって人類の消化器を全く退化せしむべしと。しかして食物の進化は一百年前のマルサスの枯骨を合掌しつつある経済学者に非らざれば充分に期待すべく。今日の野蛮人と大差なき原始的食物が近き将来において食物の工業的生産時代となり、今日の如く腹中の鍋釜、ヘソのある小工場によって消化せられつつあるを、蒸気と電気とを有する大消化器によって消化するに至らばラマルク説によって漸次に退化し始むべし。しかして更に遠き将来化おいて今日の化学者が実験室の窓より予言しつつある如く化学的調合の食物時代に入らば、これ古来よりの理想たりしいわゆる仙薬なり。人口はここに消化器の総てを退化せしめ(もしくは痕跡に止まらしめ)て三つ口の如く尾てい骨の如く全身の毛の如くならしむべし。これ台所の用を務めたる胃が大工場に移されて腸の水道が下水を流さざるの時なり。下水の糟粕に真玉手を汚しつつありしお三どんの肛門が化学者を家僕として菊花の一つ紋を着けたる令夫人となるの時なり。排泄作用の要なくなれる時なり。『美』の理想は斯くて完たし。 恋人の脱糞ドイツ皇帝の放屁、問題は何が故に脱糞放屁を恥辱と感ずるかの理由の根本に存す、更にそれを恥辱すること小児よりも大人に野蛮人よりも文明人にはなはだしきに感情の進化が問題なり、目的論の哲学と生物進化論は総ての説明なり、総て真善美に係わる恥辱の感情は理想に対照されたる現実の不満なり 理想とは来るべき高き現実なり。進化とは理想実現の連続なり。人類歴史あってより以来最も高き理想として、すなわち永き進化によって来るべき現実として画きつつある神に脱糞放屁を想像したることありしか。今日、吾人は恋の理想に憧がれて我が天女の如き恋人よと呼ぶ。しかしながら天女とは理想にして恋入の現実は人知れずチリメンのフンドシを掲げて約一貫目のポテトを秘し置くものなり。ドイツ皇帝は自ら万民の理想なりとして「朕は万能の神なり」と称しつつあり、しかしながら沈香に匹敵する洋服のすかし屁は、その朕なる神の尊厳を表白するゆえんにあらざるべく、いかなる侍医といえどもその衝の上に蟠まれる黄色なる蛇状の物質を見て竜顔美はしとして讃えざるべし。(昔は御便器を掃除せる匹婦いわく、将軍などと威張りてこの垂れたる事を見よと。共同便所はこの点において連帯責任なるを感謝す)。この書がドイツ語を以て書かれたりとせばドイツ皇帝はその尊厳を犯せるものとなして日本政府に抗議を申し込むべし。然しながら問題は何が故に放屁がカイゼル髭の尊厳と調和せざるかに在り。大臣責任論を横充してビュロー伯の名がはなはだ「びゆろう」たるそれの音響に似たるが故に外交の失策と等しく内閣大臣の放屁たる可といえども、問題は何が故にドイツ皇帝自身がその責任を負担するを回避して神聖不可侵権を振るうかに在り。また、この書が御婦人諸君の手に上りたる時、社会主義者にもあるまじき女権の蹂躙なりとして攻撃さるべし。しかしながら問題は女権論を主張する所の女学生等がその口に送る焼芋は、はばからず之を横町に求むるに係わらず、海老茶袴とやらんを掲げてのポテトはかって解せざるかの如き眺めを以て大道を闊歩する事の理由に在り。西洋の貴婦人が便所に出入するは親子兄弟の間にも知れざる一個の秘密なりと云う、問題は何が故に秘密にせざるべからざるかの理由に在り。吾人がかかる問題に筆を染めたるは医学者がその指頭を以て糞尿を撹乱するが如く科学的研究としていささかの恥辱に非ず。しかしながら問題は何が故に糞尿を恥辱となしつつあるかの人類の現実に在り。しかしてその恥辱と感ずる程度の小児よりも成人にはなはだしく、野蛮人よりも文明人にはなはだしき感情の進化に在り。吾人は断言す、これ理想に対して現実の到らざるを、すなわち高き現実を望みて未だ 低き現実を脱却する能わざるよりの感情なりと。目的論の哲学と生物進化論とはこの感情に説明を与う。人類は進化的生物なり、理想に到達せんとする目的の為めに常に現実を脱却せんと努力して止まざる宇宙の顕現なり。もし宇宙にして進化の目的無く、人類にして進化的生物に非ずとせば、決して排泄作用をなさざる所の神もしくは天女を理想に画くべき理由なく、従ってその理想と現実とのはなはだしく懸隔せる脱糞放屁を恥じずるの理由なし。恥辱の感情は理想に対照されたる現実の不満なり。吾人は自己の道徳につきて無数の恥辱を感じ自己の知識につきて無限の恥辱を感ず。すなわち吾人がその善ならざるを恥辱とし、真ならざるを恥辱とするは、その道徳的理想もしくは知識的理想に対照して、その遥かに及ばざる不善無知の現実を恥じずるなり。吾人がソクラテスを理想とする時その哲学史の源泉をなせる真と毒盃の全身に回はるまで霊魂の不死を説きし善とに対照して誠に至らざる現実を恥じず。吾人がワシントンを思いリンコルンを思うときにその善を理想として到らざる現実を恥じ、マルクスを思いルソーを思うときにその真を理想として到らざる現実を恥じず。これと同様なり。吾人が理髪店の鏡に対してバイロン、ゲーテの美を思うて醜劣極まる現実を恥じ、女子の多くがその自惚鏡なるに係わらず(失敬!)暗におぼめく芙蓉にも似たる衣通姫の豊頬を思い露や滴るべきクレオパトラの明瞳を思いてはその盤坐かける鼻と廂髪にもおおわれねデコとを恥じずべし。
排泄作用を恥じずるに至れるは大なる進化たり、理想の低級なる下等動物とその排泄物、理想の進化と排泄作用に対する感情の進化、社会進化の原則によってドイツ皇帝は放屁を塗り付ける理由あり、進化とは理想実現の連続なり、物質文明を讃美せん −排泄作用を恥じずることは美の極致たる神を理想として到達を努力するまでに進化せるを以てなり。理想の殆ど認められざる、もしくは誠に低級なる下等生物に至っては真に対し善に対して現実の恥辱なき、もしくははなはだ少きが如く、美の理想もはなはだしく現実と懸隔なきを以てその糞尿につきて何の感覚なし。牛馬の如きは糞尿の間に起臥しそれ自身に糞尿を付着せしめて平然たる如きこれなり。かのそれより高き階級に在る犬猫の如きに至ってはあるいはその後足を以て之を埋めるを知り、猿猴頭に至っては更にその排泄物を忌避するのはなはだしきを加うといえども、到底理想の高遠なる人類の比にあらず。しかして人類においても小児より成人に、野蛮人より文明人に理想の階級を進めるに至って、いよいよその排泄物を忌避するの感をはなはだしくす。小児の如きは原始的生活時代の反覆として排泄物を衣袂に付着するも解せず、野蛮人はその茅屋の前にうづだかく積む。吾人はこの生物進化論(従って社会進化論の上よりして)、西洋の貴婦人が海老茶式部なる者の如く、おや失敬と云い出物腫物と弁ずるが如く、公明正大なる能わざるの遥に進化せるを見る。社会進化の原則は先ず社会の一分子たる所の皇帝によって実現せらるとはしばしば前に説ける所なり。吾人はこの原則によってドイツ皇帝の誠に憐れむべき例外なるに係わらず、なお自ら朕を万民の仰ぐべき理想としつつある点においてその放屁をビュロー伯に塗り付くるの理由あるを発見す。宿六がその白馬を酌みつつ身を斜めに轟然として放つ如きは決して連邦国の主長のなすまじき所にして、その時に余薫満朝に芬々たるときありとも決してイタチの如き御満足の大御心を以てする思し召しにあらざるは論なし。約言すれば、吾人人類が善に対しても真に対しても美に対しても幾多の恥辱を感じつつあるは、人類の進化的生物として有する理想に対照して到らざる現実を恥じずるなり。しかしてこの到らざる現実を理想に到らしめんとして努力し、理想を現実ならしむべき方法を発見せるときここに進化と云う。故にいわく進化とは理想実現の連続なりと。善の理想を実現する今後の方法は社会民主主義にあり。真の理想を実現する今後の方法は社会民主主義にあり。美の理想を実現する今後の方法もまた社会民主主義にあり。天則に不用と誤謬なし。君主国時代も、貴族国時代も、民主国時代も、資本家制度の今日も、私有財産制度の現代も、貧困も犯罪も貪欲も残忍も、天下一切のことを挙げて社会進化の理想の努力なり。かの遠き昔の二元論の思想を継承して科学を罵り、物質文明を罵るが如きは神の美の宗教的要求の一面のみにおいても、食物の化学的調合によって達せらるべきを解せざるが故なり。物質精神一にして二ならず、天地万有皆一体たり。 人類は交接作用をも廃止すべし、恋愛と肉欲とを分離せんとする要求は人類の進化的生物たるより発する理想なり、一 元 論 の 化 学 人類は更に交接作用を廃止すべし。交接作用の言うべからざる恥辱たるや排泄作用のそれよりもはなはだし。総ては目的論の哲学なり、総ては生物進化論なり、かの恋愛と肉欲とを二分して一を神の光明に置き一を動物欲として唾棄しつつあるはその解釈の二元論の外に出づる能わざるは止むを得ずとするも、その要求たる誠に人類の進化的生物たるより発する理想なり。−−人類もここに至っては誠に以て神の座に指頭を触れたる者なるかな。おお眼前に見ゆる神よ!不幸にして未だ今日の科学は吾人に充分の基礎を供給せず。吾人は科学的研究者の態度を忘却して徒らに雲間の御姿に手を延べて裾を引かんとする者に非ず。 二元論の基礎を為せる有機物無機物の差別が科学の進化によって無くなれりとするも、また科学者のある者が無機物より有機物を作りまた全く生きたる生物を作りしとするも、吾人は直ちに神がその肋骨の一片を取って人を作りしと云う神話の事実となるの時来れりとは断言せず。 総ての生物は両性抱擁の生殖方法に限らず −然しながら来るべきことを待望す。生物学の範囲内に推論を止めて生殖の方法がいかに異なれるかを見よ。両性抱擁の醜怪なる方法は総ての生物の生殖行為にあらず。魚類の多くは(ある者を除きて)雌の卵の上に雄の精子を振りかくる事なり。人類は何が故に異性の体内において精子を振り掛けざるべからざるか。人類は何が故に九ヶ月間を母体に送らざるべからざるか。 人類は魚類の如き受精の方法に至る能わざるか、肋骨の一片と実験室中の小さき生物、アブラムシの単性生殖と男性なくして英雄を産める歴史上の事実 今日に放ても医学の進歩はある産婦の利益の為めに七八ヶ月にして取り出すと云うに非ずや、−−人類は何が故に女子を分娩の冒険に捉えて九ヶ月間の膨大を待たざるべからざるか。産婦の膨大なる腹その事が美の理想と背馳して男子の乱行を来しつつあるに非ずや。分娩その事が交接の恥辱を連想せしめで無邪気なる児童は母のヘソより出でたりと教えられつつあるに非ずや。アメーバの如きは単に分裂その事によって無数に生殖す。人類は何が故にその肋骨の一片を取って精気を欺き込む能わざるか。無機物有機物の無差別はその肋骨の中に精気の存する事を教えざるか。化学者の実験室において作られたる小さき生物は、何が故に神が為せしと云う理想の如く、己の形に似たる人として作られる生物たる推論を否むか。竜その腹に倚ると夢みて沛公を産めりと云う匹婦、神を夢みてキリストを孕めりと云うマリアを直ちに野合姦通なるべしとの断定は、アブラムシが雄なくして無数の生殖をなしつつある事を発見せる生物学以後において唱えるならば額上に角ある獣にも劣る。アブラムシと人類と単に進化の程度を異にせるよりの現象にして、その本体に至っては彼の発生もこれの発生も同一なる単細胞なるには非ざるか。総てのことは進化の過程なり。アメーバの分裂が進化の一過程なるが如く、アブラムシの単性生殖が進化の一過程なるが如く、獣類の期節を定めたる両性生殖が進化の一過程なるが如く、期節もなき不断の両性生殖をなしつつある人類のそれも進化の一過程なり。人類が進化の過程たる雌雄競争の要なきまでに進化せるとき−−何をかはばからん、吾人は生殖作用の廃滅を断言す。 生物進化論は大釈尊の哲学宗教に帰着せり、生殖作用は理想実現の方法たる点において独身の聖者は大なる生殖をなせり、社会とは空間なき密着の大個体なり、小個体腹中の教育と大個体腹中の生殖、無我絶対の愛の世 ここに至っては恋愛は小にして生存競争の名や卑やし。小我は大我となり大我は無我となる。−−生物進化論は大釈尊の哲学宗教に帰着せり。−−肉欲を超越せる恋愛の要求は斯くて実現せられ、世は挙げてプラトン的の愛たるべし。吾人は理想の翅を収めて生物進化論の小天地を飛び去るべからず。吾人は先に生殖作用とは理想実現の方法なりと云い、恋愛の誠に高貴なることを説けり。しかしながらキリストの理想を実現せることの広大永遠なる、その恋愛たるや幾万千の子孫を作れるや図るべからざる恋愛なることをまた他の所において説けり。独身の聖者はその理想を実現せしむることの多きにおいて数十人の子をなせる凡物よりも多くの生殖をなし、淫蕩なりし若年よりも白髪になれるトルストイは全世界を寝室として生殖作用をなしつつあり。男女抱擁の生殖は原人時代までの現実を遺伝するに止まり、ヤスタラ姫を捨てたる釈尊の恋愛は全人類の男女を添寝に四千年間の理想たるべきものを遺伝したり。肉体的遺伝と社会的遺伝との説明は更に強く説き替わることを要す。社会とは空間を隔てたる人類を分子とせる大個体と云うよりも、その空間とは物質と精神とを以て充塞せる、すなわち哲学的に云えば少しも空間なき密着せる一個体なり。故に空間なき小個体の腹中に在って遺伝を受ける生殖も、等しく空間なき大個体の腹中に在って遺伝を受ける教育も、共に等しく生殖にして教育なり。社会的遺伝の教育も大腹中の生殖にして肉体的遺伝の生殖も小腹中の教育なり。吾人は母の腹中を出でてキリストの腹中に入り釈尊の腹中に入れり。否! 依然として社会の腹中に在り。しかしてキリストも釈尊も全社会も吾人の腹中に在り。ここに至って何の一夫一婦論あらんや、恋愛神聖論あらんや。大我の愛なり、無我の愛なり、絶対の愛なり。 『人類』は滅亡して『神類』の世は来る。人類の滅亡は胸轟くべきの歓喜なり、個人主義の哲学宗教は棄却さるべし、天国は人類め滅亡せる『神類』の地球なり、科 学 的 宗 教、無我絶対の愛を説くは『神類』に非ざる人類に向かっては狂妄なることあたかも類人猿の如く爬虫類の如くなれと云うと同一なり、社会民主主義の哲学宗教は社会単位の食物競争と個人単位の雌雄競争を社会民主主義の名において主張する生存競争の科学なり、キリスト教は一夫一婦論を要求して絶対の愛に非ずまた仏教は他生物の小我を承認するを以て無我の愛に非ず、キリスト・釈尊は吾人と等しく人類社会の一分子として『神類』を理想としたるのみ 人類の滅亡に恐怖する者ありや。人類の滅亡とは地球の冷却によって熱を失うの時滅亡すべしと云うが如き掛け離れたる推論を悲観的になすべきものに非ずして、神類の地球に蔓延する事によって滅亡すべしと云う大歓喜なり。もし人類の祖先たる類人猿が永劫に滅亡せずして吾人を産みしならば、吾人人類は今日なお半人半猿の生物たらざるべからざるに非ずや。またもし更に遠き人類の祖先たる爬虫類が永劫に滅亡せずして吾人を産みしならば、吾人人類は今日半鳥半獣の驚くべき形態の生物たらざるべからざるに非ずや。この愚かなる知識の人類、この卑しむべき道徳の人類、この醜くき容貌の人類、排泄作用と交接作用とをなしつつある人類の一日も早く滅亡して『神類』の世の来らんことは胸轟くべきの歓喜に非ずして何ぞ。しかして総ての生物は永久に死するものに非ず、吾人が爬虫類の子孫たり類人猿の子孫たる如く、『神類』は吾人人類の死せずして永き命に進化せる子孫なり。これ社会主義の哲学宗教なり −すなわち、従来の哲学宗教の、如く現在の小個体の死後を他世界に求め、理想は自己の胸裏に止まりて実現する能わずと云うが如きは、多神教の哲学祖先教の宗教と等しく旧哲学旧宗教として棄却さるべき個人主義の哲学宗教と云うべく。宇宙は一体にして進化し吾人は、永久に不死不滅に進化す。死後の幸福は他世界にあらず理想はことごとく実現さる。天国と云い極楽と云い人類の進化せる一生物種属『神類』の地球なり。誠にこれ社会主義の哲学宗教なり。吾人は後の大哲聖者の出現まで之を以て吾人の科学的宗教となして安心立命となしつつあり。しかしながら必ず知るべきことは理想は漸次に実現さるべきものにして進化は超越せずと云う事なり。無我絶対の愛は神類の世界のことにして人類の現実にあらず。人類は今日爬虫類に非ず、類人猿にあらざる如く、決して総てにおいて神類に非ず。然るを今日の進化の過程に在る人類に向かって神類の世においてのみ来るべき無我絶対の愛を説くとは何ぞ! これ今日までに進化せる人類に向かって爬虫類の如く類人猿の如く生活せよと云うと等しき狂妄を転倒して要求する者に過ぎざるなり。 −故に社会民主主義の哲学宗教はキリスト教を排し仏教を避けてただ社会民主主義の哲学宗教として立つべし。今日の人類として衣食なくしては生存する能わず−−故に社会主義と云う。恋愛なくして不死なる能わず −故に民主主義と云う。実に社会民主主義は『人類』と『神類』との進化をつなぐ唯一の大鉄橋なり。人類が排泄作用と交接作用との恥じずべき現実を脱する能わざる間、種属単位の食物競争と個人単位の雌雄競争と云ういとうべき現実の生存競争を脱する能わず。進化律の天則に一の誤なし。小我発展の競争なくして大我に至る能わず、無我の愛絶対の愛に至る能わず。キリストは絶対の愛を説けり、しかしながら一夫一婦を命じたり、これその夫と婦との外なる愛の排斥を意味して絶対の愛に非ず小我の愛なり。釈尊は無我の愛を説けり、しかしながらその股の肉を割きて狼に与えたり、これ狼の小我を承認せるものにして絶対の愛にあらず。吾人はドイツ皇帝に対したる如く釈尊の脱糞、キリストの放屁を語る者にあらず、しかしながらかかる排泄作用を余儀なくされたる彼等は神仏の美に非ず。彼等は美においても善においても真においても、吾人と等しく人類社会の分子として人類の遠き将来に達すべき『神類』の世を理想としたるのみなりとす。神類の理想は彼等二三の人類に限らず全人類の理想とする所なり。ただ、理想現実の道において社会民主主義は社会民主主義の道あり。社会民主主義の双瞳は仰いで神の世を認、しかしてその足は大道闊歩して地球の上を離れず。社会民主主義の天国に昇るべき門はアーメンにあらず、極楽に到るべき道は南無阿弥陀仏にあらず、一に−−階級闘争にあり。個性発展にあり。伏能啓発にあり。自由恋愛にあり。科学にあり。 社会民主主義の天国に至るべき道は階級闘争にあり個性発展に在り伏能啓発にあり自由恋愛に在り科学に在り、吾人社会民主主義者は『人類』と『神類』とをつなぐ鉄橋工事に服しつつある一工夫なり、発狂者は鉄橋工事を解せず (吾人はこれを以て全世界の要求しつつある科学的宗教の導きをだも発見せりと云うがごとき暴慢なきは論なし。吾人は『人類』と『神類』とをつなぐ鉄橋を架設せんとして努めつつある微少なる一工夫として、いささか槌の手止めて彼岸を指ざし以て社会民主主義者が労働する目的を物語りたるに過ぎず。吾人は報酬なき労働、困難なる鉄橋も、この彼岸の光明を臨みては一の苦痛だもなき宗教的信念によって歓喜に堪えざるを告白すれば足る。かの絶対の愛を説くと云うキリスト教徒、無我の愛を説くと云う仏教徒、しかしてことに近年に至って自ら予言者と称し救世主と掲げてそれらを伝しつつある者に至っては吾人断じて与みせず。彼等は『人類』に向かって直ちに『神類』たらんことを要求し、しかして、かえってそれに到達せんとして努力しつつある社会民主主義の架橋工事を嘲笑し怒罵しつつあり。吾人は彼等の熱誠を尊敬す、もとよりそは人類に向かって『類人猿』の如く『爬虫類』の如く生活せよと云わざるだけの無害なる発狂者としての条件においてなり。かの『社会主義評論』の筆を捨てて無我の愛と云うを説きつつある河上肇氏の如きこの点において最も惜しむべしとす)。 以上の帰結は下の如くなる。 以上の帰結は今の全物進化論は総てことごとくその力を極めて排撃したる天地創造説を先入思想として生物進化の事実を解釈しつつあり 今の生物進化論は総てことごとくその力を極めて排撃したる天地創造説を先入思想として生物進化の事実を解釈しつつある者なりと云う事。すなわち人類は天地の始めより個々に存在せりと云う個人主義の思想によって個体の観念を作り、一元よりアメーバの如く分裂せる大個体なりと云う社会単位の生存競争を解せず、従って個人単位の生存競争たる雌雄競争とそれの食物競争との生物進化論に置ける地位を定める能わずと云うこと。人類を天地の結局まで存在すべきものなるかの如く考えて生物種属の階級において人類の占むべき地位を解せず、従って理想の実現せられて人類より上級の生物が人類に代わって地球に存在すべしと云う生物今後の進化を推論する能わずと云うこと。しかして人類今後の進化によって天国が地球に来ると云う科学的宗教に到達せざるは、また等しく天地創造説の宗教を先人思想とするが故なりと云うこと。 宇宙目的論の哲学と生物進化論の科学とはここに始めて合致し相互に帰納となり演繹となって科学的宗教となる 『類神人』の一語は生物進化論の結論なり 実に、社会哲学は人類社会と云う一生物種属の生存進化の理法と理想とを論ずるものなるを以て、当然に生物進化論の巻末の一章としての社会進化論として論ぜらるべし。しかして宇宙目的論の哲学と生物進化論の科学とはここに始めて合致し、相互に帰納となり演繹となって科学的宗教となる。ただ、吾人人類は相対的存在の生物種属なるが故に、それによって見られたる宇宙、考えられたる目的は之を宇宙の大より見るときは相対的理想たるに過ぎずといえども人類として生存しつつある間は『神類』が絶対的理想なり。 故に吾人は生物進化類に『類神人』の一語なくしては結論なしと云う。 その次の章はもとより『神類』の筆執るべきことなり。 |