北一輝の「国体論及び純正社会主義3」



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 2011.6.24日 れんだいこ拝


【第三編 生物進化論と社会哲学】

【第五章】
 生物進化論者と社会主義者との背馳。社会主義は生存競争論の外に立つ能わず。組織の皆無なる生物進化論。代表的学者として丘博士の『進化論講話』。その社会主義評。今の生物進化論者は人類の生物界における地位を獣類の階級に置く。滅亡すべき経過的生物『類神人』。生物進化論者は進化の跡を見て更に進化し行く後を見ず。獣類教の迷信。優者適者強者の内容は生物種属の階級に従って異なる。人類の優者と獣類のそれとを同一視す。生物進化論者は生存競争の単位を定めるに個人主義を以てす。顕微鏡以前の個体の観念。ヘッケルの個体の定義。個体の階級と社会有機体説。ヘッケルの生物学者大会の演説の奇怪。個人と社会とは同一異名の者なり。個人的利己心と社会的利己心。社会的利己心による社会単位の生存競争。人類において特に社会性の重んぜられる理由。クロポトキンの相互扶助による生存競争。生物進化論は古来の漠然たる道徳的意識に科学的根拠を与えたり。偏局的個人主義を転覆せる生物学。高等生物の生存競争は社会単位の相互扶助なり。生物進化論の哲学史上の革命と社会における社会主義の革命。単位たる個体の社会は生物種属の進化するに従って高まる。丘博士は進化論と背馳する循環論の思想を有す。国家競争人種競争は歴史の進化に従ってその単位を大にし行く。丘博士の帝国主義論は競争の内容の進化し行くことを解せざるより起る。丘博士は帝国主義の空想を以てかえって社会主義の者となす。帝国主義の歴史上の効果。同化作用と分化作用。社会主義は国家を認識し国家競争を認識す。階級闘争と国家競争。連邦義会にて決する国家競争。丘博士の論理の蕪雑。天地創造説の思想を以て人種競争論を不霊残忍ならしむ。吾人の文明人に作られるゆえん。肉体的遺伝と社会的遺伝。肉体的遺伝そのものも種属的知識を継承する本能なり。下等人種の滅亡は社会進化の当然なり。人種競争の内容の進化。社会主義は個人と人種の劣敗者の上に建てらる。正義の進化と駆逐殺戮による人種競争論の困難。死刑淘汰の刑法論よりする驚くべき推論。一の分子もしくは分子の集合が他の分子を殺戮する権ありとせる偏局的社会主義時代の普通良心。道徳的淘汰の生存競争と社会的群集の生物。原人時代は平和に菜食して漁猟遊牧にあらず。今日の野蛮人を以て文明人の原始に推測すべからず。漁猟遊牧の時代に入って部落単位の生存競争をなし意識的道徳時代となる。社会単位の生存競争時代と死刑淘汰−−朕すなわち国家の意義。同化作用による社会単位の拡大と分化的発展の個人主義時代。ギリシャ・ローマの未年及びローマ法王の下にて個人主義の興起したる事実。個人単位の生存競争は遥かに後代の歴史過程なり。社会民主主義。社会主義は個人の分化的発展の為めに個人主義を継承す。国家主義と個人主義とは共に現社会の経済的貴族国に対して革命に出でざるべからず。個人の国家に対する犯罪と国家の世界に対する犯罪。個人の自由と国家の独立の意義。国家の理想的独立は世界連邦によって得られ個人の完全なる自由は万国平和によって得らる。偏局的社会主義の国家競争の為めに個人の自由が蹂躙せられたる事例。人類の歴史に入ってより生存競争の内容の進化。強力の優勝者たりし中世。労働を優勝者とせる個人主義の理想。糞泥の上に産み落されたる優勝者。奴隷の境遇に適する奴隷の優勝者
 今日、社会主義に対する哲学的根拠よりの非難は、社会主義は生存競争を廃滅せんと企図するものなるが故に生物進化論の原理に反する空想なりと云うことに在り。これ実に大問題なり。

 生物進化論者と社会主義者との背馳、社会主義は生存競争説の外に立つ能わず

 実に科学哲学の一切の基礎が生物進化論に在って、しかして生物進化論の根本原理が生存競争説に在りとすれば社会主義といえどもこの外に立つ能わざるは論なきことなるべし。しかしながら今日の生物進化論は単に生物種属は進化によって生ぜるものなりと云う事実の発見に過ぎずして、人類の生物界における地位を誤まり、その説明の理由として執られつつある生存競争説も誠に古今比類なき支離滅裂を極めたるものにして、個人主義を以て解釈しつつあるものなり。この故に生物進化論者は、生存競争説を掲げて社会主義を空想なり、非科学的なり、社会の進歩を停止せんとする不可行の計画なりと難じ、社会主義者はまた生物進化論を回避して、社会主義は生存競争を廃滅せしむといえども、なおその外に名誉道徳等の競争ありと云うが如き薄弱なる理論を築きてようやく対抗するに過ぎず。

 吾人は信ず、社会主義がもし生存競争説と背馳するならば誠に非科学的の空想に過ぎざるべく、自ら称して科学的社会主義と云うともそれは経済学倫理学歴史学等の諸科学の上においてのみ言わるべくして、それら諸科学の根底たる社会哲学の上よりしては、いかにすともユートピアたるべきなり、社会主義とは人類と云う一種属の生物社会の進化を理想として主義を樹つるものなり。然れば当然に人類と云う生物種属を包含せる生物進化論の原理たる生存競争の外に通する能わざるべく、もしこの原理を排斥するほどの有力なる根拠なくして徒らに科学そのものに対する罵倒を以て事とする如きはいかにすとも非科学的なるを免かる能わず。科学的社会主義は何処までも科学の厳粛なる理論の上に築かれざるべからざるなり

 組織の皆無なる生物進化論、代表的学者として丘博士の『進化論講話』

 ただ、今日の科学者のいわゆる生物進化論なるものは、吾人のここに僭越を以て生物学の範囲内に侵入して組織せざるべからざるほどに矛盾混乱を極めたる理論より外有せざる者なればなり。すなわち、生物進化の事実を個人主義の独断的思想を以て解釈しつつあること。人類の生物界における地位を獣類の種属中に包含しつつあること。

 吾人はここにかかる生物進化論の日本における代表的学者として帝国大学教授理学博士丘浅次郎氏の『進化論講話』の社会主義評を指示すべし。吾人は氏の如き真理そのものの為に主張を為す学者によって社会主義の非難せられたるを深く惜しむ者なりといえども、これ決して氏の責任にあらずしてダーウィンその人が生物進化論を獣類教と化し生存競争説を個人主義によって解釈して伝えたるが為に、氏は単にその宣伝者として彼等の誤れる点を伝えたるに過ぎざる也。

 ただ吾人が特に氏を指定したるは、一般世人に生物進化論を普及せしむる目的を以て書かれたりと伝える『進化論講話』の大著が最後の暗黒なる頁を以て社会進化論の宣伝を阻害し、社会主義に対する誤妄を伝播するの驚くべき力あるを以てなり。しかしてその暗黒なる頁の中に総て獣類教の生物進化論と個人主義の生存競争説を遺憾なく発揮したるを以てなり。死刑淘汰の刑法論あり。歴史の進化を無視し革命の意義を解せざる社会循環論の思想あり。異人種間の殺戮的競争を主張する積極的尊王攘夷論あり。人種の発展国家の強盛はその人種内国家内の個人間の競争にのみ基くと云う個人主義の生存競争説あり。種属維持としての生殖なることを解せざる人口論あり。異人種異国家間には永久に戦争は消滅せず、世界一社会となる社会進化の将来を空想なりと云う蠑螺的国家学あり。否!未だ渾沌として組織なき生物進化論の祖述として『進化論講話』の全部を通じて、生存競争の単位を定めず、生存競争の目的を解せず、生存競争の対敵を誤まり、生物種属の階級に伴う生存競争の内容の進化を知らず、生物進化論における食物競争と雌雄競争との地位を注意せず、人類種属の今日の地位及び今後の進化を推測することなし。吾人をしてその社会主義評を左に掲げしめよ。

 その社会主義評

 『現今の社会の制度が完全無欠でないことは誰も認めなければならぬが、さて之をいかに改良すべきかと云う問題を議するに当たっては常に進化論を基として実着に考えねば何の益も無い。社会改良家が幾通り出ても、ことごとく痴人の夢を説く如くであるのは何故かと云うに一は、人間と云う者はいかなる者なるか充分に考えず、みだりに高尚なる者と思い誤つて居ること、一は競争は進歩の唯一の原因でいやしくも生存して居る間は競争の避くべからざることに気付かぬに基くようである。

 『異人種間の競争の結果は各種族の盛衰栄枯であって、同種族間の競争の結果はその種族の改良進歩であることは前にも説いたが之を人間に当はめても全くその通りで、異人種間の生存競争は各人種の盛衰存亡の原因となり、同人種内の競争はその人種の改良進歩の原因となる。それ故数多の人種の相対して存在して居る以上は異人種との競争は避けられぬのみならず、同人種内の個人間の競争も廃することは出来ぬ。分布の区域が広く個体の数の多き生物種族は必ず若干の変種に分れ、後には互に相戦うのであるが、人間は今日丁度その有様に在る故、異人種がある方法によって相戦うは止むを得ない。しかして人間の競争においては進歩の遅き人種は到底勝つ見込は無い故、何れの人種も専ら自己の改良進歩を図らねばならぬが、その為その人種内の個人間の競争が必要である。

 『社会の有様に満足せず大革命を起した例は歴史上幾らもあるが、何れも罪を社会の制度のみに帰し人間とは如何なる者なるかを忘れて、ただ制度さえ改めれば黄金界になる者の如く考えてかかる故、革命の済んだ後はただ従来権威を振うて居た人の落ちぶれたのを見て暫時愉快を感ずるの外には何の面白いことも無い。世は相変らず澆季で競争の烈しいことは矢張り昔の通りである。今日社会主義を唱える人々の中には往々突飛の改革談を説く者あるが、もしその通り改めて見たならば矢張り以上の如き結果を生ずるに違いない。人間は生きて繁殖して行く間は競争は兔かれず、競争があれば生活の苦しさは何日も同じである。

 『教育の目的は自己の属する人種の維持繁栄であることはすでに説いた通りであるが進化論から見れば社会改良も矢張り自己の属する人種の維持繁栄を目的とすべきである。世の間には戦争と云う者を全廃したいとか、文明が進めば世界中が一国になってしまうと云うような考えを以て居る人もあるが、これらは生物学上到底出来ないことで利害の相反する団体の並び存する以上はその間にある種類の戦争の起るは決して避けることは出来ぬ。しかして世界中の人間がことごとく利益の相反せぬ地位に立つことの出来ぬはもとより明瞭である。敵国外患なければ国はたちまち減ぶると云う言葉の通り、敵国外患があるので国と云う者がまとって居る訳故、仮に一人種が他の人種に打勝って世界を占領したとするも場所場所によって利害の関係が違えば、たちまち争が起こって数ケ国に分れてしまう。僅かに一県内の各地から選ばれた議員等が集まってさえ、地方的利害の衝突の為めに激しい争の起るを見れは、今世界が一団となって戦争の絶えると云うようなことの望むべからざるは無論である。

 『若干の人種が相対して生存する以上は各人種は勉めて自己の維持繁栄を図らねばならぬが、他の人種に負けぬだけの速力で進歩せなければ自己の維持繁栄は望むことは出来ず、速やかに進歩するには個人間の競争による外は無い。されば現在生存する人間は敵である人種に滅ぼされぬ為めには味方同志の競争によって常に進歩する覚悟が必要で、味方同志の競争をいとうようのことでは、人種全体の進歩がはかどらぬ為めに敵である人種に負けてしまう。

 『今日の社会の制度には改良を要する点が沢山にあるが、いずれに改めても競争と云う点を到底避けることは出来ぬ。他の人類と交通もない所に閉じ籠もって一人種だけ生存し得る場合には烈しい競争にも及ばぬが、その代り進歩がはなはだ遅い故、後に至って他人種に接する場合にもあたかもニュージーランドのラクダ鳥の如くたちまち亡ぼされてしまう。世間には生活の苦しみは競争の激しいことに基くので競争の激しいのは人口の増加が原因である。それ故、子を産む数を制限することが必要であると云うような考えを以て居る人もあるが、先に述べた所によると、これは決して得策と云われぬ。今日の処で必要なことは競争を止めることでなく、むしろ自然淘汰の妨害となるようの制度を改めることであろう。人種生存の点から言えば脳力健康の劣等なるものを人為的に生存せしめて人種全体の負担の重くなるようの仕組を成るべく減じ、脳力健康共に優等なる者がいずれの方面にも主として働けるようの制度を成るべく完全にして個人間の競争の結果、人種全体が速やかに進歩する方法を取ることが最も必要である。かような世の間に産れて来た人間はただ生存競争と心得て力のあらん限り競争に勝つことを心掛けるより外に致し方はない。

 『人道を唱えたり、人権を重ずるとか、人格を尊ぶとか云うて、紙上の空論を基とした誤った説がしばしば出ることがある。例えば死刑を廃止すべしと云うが如きはこの類で、人種維持の点より見れば毫も根拠なき説であるのみならず明かに有害なるものである。雑草を刈り取らねば庭園の草が枯れてしまう通り、有害な分子を除くことは人種改良にも必要なことで之を廃しては到底改良の実は挙げられぬ。単に人種維持の上より言えば、なお一層死刑を盛にして再三刑罰を加えても改心せぬような悪人は容赦なく除いてしまう方が遥かに利益である』

 今の生物進化論者は人類の生物界における地位を獣類の階級に置く、滅亡すべき経過的生物『類神人』、生物進化論者は進化の跡を見て更に進化し行く後を見ず

 実にかかる魔界の人の如き暴言はもとより法律学、歴史学、国家学、社会学に関する知識の欠乏に基くものなりといえども、帰する所生物進化論そのものが未だ組織なきを以てなり。すなわち第一に生物界における人類の地位を他の獣類と同一階級に包含するを以てなり。ダーウィンが『種の起原』の一版においてキリスト教の信仰とはなはだしく背馳するをおもんばかりて人類の地位につきて説明することを避けたりし如く、今日の生物進化論者はキリスト教の『人類は神の子なり』と考え来れる独断を打破するに急にして正確に人類の地位を定めるの暇なく、振子振動の方則によってその止まるべき点を通り越して等しく独断なる他の『人類は獣の類なり』と云う反対の極点に走れるなり。振子は永久に振動する者に非ず、吾人はこの振子を止まるべき点に止まらしめざるべからず。もし今日の学者によって想像される如く、吾人の神と称して人類より遥かに進化せる生物が他の惑星に生息するならば、しかして吾人人類の生息しつつあるこの惑星が他のそれの如く進化しつつあるならば、しかしてまた進化に極点なく、人類が進化の極点に非ざるならば、吾人人類は将来に進化し行くべき神と過去に進化し来れる獣類との中間に位する経過的生物なり。

 今日、吾人人類は人類の猿猴類と分れたる時代の祖先の化石を発掘して類人猿と名付ける者を見出すならば、吾人人類が類人猿として消滅せる如く、更に人類として消滅せる後においては、吾人人類より分れて進化せる人類の子孫なる神の化石学者によって『類神人』として発掘せらるべき半神半獣のある者なり。(この説明は詳しく社会進化の理想において論ずべし)。彼等生物進化論者にして、人類が類人猿より来たり、類人猿が四足獣より来たり、四足獣が鳥類と共に驚くべき形態を有せし爬虫類より分れ来たり、爬虫類が今日と全く形態を異にせる魚類より来たりたりと云い、しかして人類は一胎児の九ヶ月間において魚類よりの十億万年の生物進化の歴史を繰り返すと云い、以て過去の回顧において大胆に推理力を発揮しつつあるならば、その推理力が人類今後の進化と云う将来の進行に至って全く挫折して働かざるは誠に以て抱腹すべき現象に非ずや。

 獣類教の迷信

 −今日までの生物進化論はあたかも人類を進化の終局なるかの如き独断の上に組織せらる。ダーウィンの時代よりして生物進化論は人類を神によって作られたる神の子なりと云うキリスト教の信仰を破らんが為めに全く人類の動物なることを更に他の諸科学の上より立証し、骨格を比較し、筋肉を比較し、内臓を比較し、脳髄を比較し、発生の状態を比較し、以てキリスト教の科学的批評に堪えざる独断に過ぎざることを論ずるにおいて実に間然する所なし。吾人もとより人類を以て全く神の子なりとなして他の生物と隔絶せる天空に置く事の非科学的なる事を否む者に非ず。しかしながら、骨格も、筋肉も、内臓も、脳髄も、発生の状態も、発生して後も、決して他の獣類と全く同一に非ざるものを、獣類と全く同一にして異ならずと独断する彼等は、彼等の罵って以て科学的批評に堪えずと為すキリスト教以上に科学的研究において注意深き者に非ず。全く神の子なりと云うことの非科学的なるならば、全く獣類に同じと云うこともまた等しく非科学的なり。

 −人類は動物の一種属なり、しかしながら動物の種属中において獣類が鳥類もしくは魚類と階級を異にせる如く、獣類とは全く階級を異にせる人類と云う動物中の一種属なり。今日生物進化論第一の誤謬は人類を獣類と同一階級に置くことに在り。彼等の打撃によって崩壊せるキリスト教が迷信教なりしならば、彼等の生物進化論は明白なる迷信の獣類教なり。しかして社会のある進化までの核子たりし神の迷信教が、終に無数の科学者を殺戮して社会の進化を阻害せる如く、神の迷信教を打破して社会の進化に尽くせし生物進化論はまた終に今日迷信の獣類教となって社会の進化を阻害しつつあり。実に獣類教徒の生物進化論者は今日思想の上にも社会の上にも純然たるローマ教僧侶として存す。神の迷信教徒よりダーウィン等の非難せられたる如く獣類教の迷信者より社会主義の哲学宗教が迫害されつつあるは社会進化の常としていかんともするなし。

 優者適者強者の内容は生物種属の階級に従って異なる、人類の優者と獣類のそれとを同一視す

 実に、人類と云う一階級の生物種類を他の生物種属たる獣類の階級に包含するが故に、今の生物進化論者は人類の生存競争も獣類の生存競争もその内容に差等無き者となし、優勝劣敗と云い適者生存と云うが如き文字を、獣類としての適者、人類としての優者として差等せず、独断のはなはだしき弱肉強食と云う戦慄すべき一語より一切の演繹を始む。もしそのいわゆる弱肉強食と云うことが、牛は蚊に刺されるが故に弱肉にして人は蚤に喰われるが故に強の食なりとの意味ならば、その常軌を逸したる文字の使用なるに係わらず、生物学上の事実としては充分に真なるべしといえども、かかる文字を使用する者に取っては多く強弱の標準を爪と牙とに求むる者なり。由来、適者生存と云い、優勝劣敗と云い、はた弱肉強食と云うが如き文字は外包的の者にして内容の空虚なる言なり。すなわち、単にその生物種属の境遇に適する者は優者として生存すとの意味に過ぎずして、その内容に入るべき境遇の異なるに従って適者たり、優者たり、強者たる者を異にするなり。しかして境遇は各生物種属の各階級の異なるに従って異なる。かの韓退之の蛟竜も陸梁すれば蟻螻に辱しめらると云いしは、境遇による優者・適者・強者のそれぞれに異なることを最も明白に説明せる者に非ずや。熱帯の砂漠においてのみ獅子はその境遇の適者にして優者として生存するも、境遇の異なれる北極の氷雪中においては柔順なるトナカイが遥かに適者にして強者として生存す。鷲は茫漠たる天空に翔ける境遇においては適者たり、優者たり、強者たるも、これをノキ端の雨どい隙の境遇に持ち来らば実に燕雀よりは不適者たり、劣敗者たり、弱者たらざるべからず。土中を走ることにおいて馬はモグラよりも劣敗者にして、泥土に潜むことにおいては鯛はドジョウよりも遥かに不適者たり。腐敗せる塵埃の中に埋まりてはミミズは社会主義者
よりも境遇の適者にして、蛆は肥桶の縁においては生物学者よりも生存の優者なり。

 −今の生物進化論者にして之を知らば、獣類の優者を以て全く境遇を異にせる人類の適者に類推してはばからざるは独り何ぞや。もし精神の平調を失いて、ドジョウが泥中の優者なるが故に鯛を泥中に投じて窒息せしむべく、モグラが土中の優者なるが故に馬を穴に葬りて生埋めにすべしと云い、人類もまたミミズの如き蛆の如き境遇を求めて始めて適者たり、優者たり、強者たり得べしと云うが如きに至らざるならば、境遇を全く異にして生存する人類と獣類とを一緒して、爪と牙との四足獣のそれと混同するが如きは何たる没論理ぞ。もし四足獣の境遇における生存者を以て人類に擬すること生物進化論者の如くならば、道徳家は牙なく知者は爪なきを以て生存競争の劣敗者たるべく、最も残忍暴逆なる者が適者たり、優者たり、強者たらざるべからず。しかして丘氏の死刑淘汰の刑法論の如きはヒョウタンより出づる駒なり。

 生物進化論者は生存競争の単位を定めるに個人主義を以てす

 実に、人類の生存競争は死刑を以て不道徳の者を淘汰しつつある如くその内容は全く道徳的優者道徳的強者の意義なり。説明の順序として先ず今の生物進化論が生存競争の単位を定めざることより論ぜん。
 吾人は信ず、今の生物進化論は生存競争の単位を定めるに個人主義の独断的先入思想を以てする者なりと。吾人は社会主義を生物進化論の発見したる種属単位の生存競争、すなわち社会の生存進化を目的とする社会単位の生存競争の事実に求むる者なり。この説明は生存競争の単位たる個体と云うことの定義の確定されるを要す。しかして吾人は生物学者間に採用される定義を信ぜんと欲す。すなわちヘッケル(生物進化論と社会主義と背馳することを最も強く主唱せる学者にしてそのミューヘンの生物学者大会の演説は丘博士等の社会主義評の議論の骨子を為せる者)等によって教えられたる個体の階級と云うことなり。

 顕微鏡以前の個体の観念、ヘッケルの個体の定義、個体の階級と社会有機体説、ヘッケルの生物学著大会の演説の奇怪

 すなわち顕微鏡以前において個体と云うときには、個々離れ々々になって中間に空間の存するものを一個体となすと定義し、あるいは一個の卵より生長したるものを一個体となすと定義するの外なかりしも、斯くしては単細胞の分裂によって生ずるアメーバの如きは一個の卵子より生長せるものに非ざるを以て、また樹状をなして繁殖せる個々の生物が密着せる芽生々物の如きは中間に空間を存せざるを以て、一個体なるか、一個体の断片なるか、個体の集合なるか、全く何れとも定める能わずして不明瞭極まる観念となる。すなわち、個体の定義として中間の空間、あるいは一個の卵と云うが如きを以て観念の基礎とする事は、顕微鏡以後においては全く維持すべからざる憶説として棄却されるに至れり。

 ここにおいて個体の階級と云う説明によって、一個の個体たる単細胞生物より分裂せる無数の単細胞生物は、それぞれに無数の個体と考えうる事を得ると共に、また始めの一個体の一部と云う点より見て分裂によって生ぜる単細胞生物を空間を隔てて分子とせる一個体と考えうることを得るなり。すなわち、分裂によって生ぜる単細胞生物はその単細胞生物たる点において一個体たると共に、その分裂によって生ぜる単細胞生物を空間を隔てて分子とせる最初の単細胞生物はその個体を大きくせる者と考えうることを得るなり。芽生生物の如きはその大きくなれる個体が空間を隔てる分子とならずして密着せる分子それぞれが生物として一個体たると共に、樹木の大きくなるが如く最初の生物は一個体として大きくなれるものなり。しかして人類の如き高等生物も生殖の目的の為めに陰陽の両性に分れたる者なるを以て、これを男子としてあるいは女子として、また親として、子として、兄弟としてそれぞれ一個体たると共に、中間に空間を隔てたる社会と云う一大個体の分子なり。今日の真理において唱えられつつある社会有機体説、国家有機体説はこの点より生れたるものなり。(この説明は次編の『いわゆる国体論の復古的革命主義』において国家人格実在論を説くに重要なり)。丘博士の『進化論講話』中には生存競争の単位たる個体の説明を為さざりしほどなるを以て社会主義を生物進化論によって排撃するに至れるは止むを得ざることなりとするも、個体の階級を教えたるヘッケルにして社会主義が生存競争説によって維持すべからざるを論ぜる生物学者大会の演説ありとは奇怪とするの外なし。生物界を通じて生存競争の単位は彼等個人主義を以て解釈しつつある者の如く小さき階級の個体のみに非ず。一個の生物は(人類に就きて云えば個人は)一個体として生存競争の単位となり、一種属の生物は(人類につきて云えば社会は)また一個体として生存競争の単位となる。しかして個体には個体としての意識を有す。

 個人と社会とは同一異名の者なり、個人的利己心と社会的利己心

 −個人が一個体として意識する時において之を利己心と云い個人性と云い、社会が一個体として意識する時において公共心と云い、社会性と云う。何となれば、個人とは空間を隔てたる社会の分子なるが故に、しかして社会とは分子たる個人の包括せられたる一個体なるが故に、個人と社会とは同じき者なるを以てなり。すなわち、個体の階級によって、一個体は個人たる個体としての意識を有すると共に、社会の分子として社会としての個体の意識を有す。更に換言すれば、吾人の意識が個人として働く場合において個体の単位を個人に取り、社会として働く場合において個体の単位を社会に取る、吾人が利己心と共に公共心を、個人性と共に社会性を有するはこの故なり。

 社会的利己心による社会単位の生存競争、人類において特に社会性の重んぜられる理由

 −すなわち、公共心社会性とは社会と云う大個体の利己心が社会の分子としての個人に意識せられる場合のことにして、分子たる個人が小個体として意識する場合の利己心も、その小個体が社会の分子たる点において社会の利己心なり。故に利己心利他心と対照して呼ぶが如きは、はなはだ理由なきことにして、むしろ大我小我と云うの遥かに適当なるを見る。今の生物進化論者にして個体につきて斯くの科学的知識の欠乏せざるに非ざるならば、個人的利己心の小我をのみ認めて社会的利己心の大我を忘却し、個人間の生存競争が個人的利己心による如く、実に社会的利己心による社会間の生存競争の事実、社会間の生存競争を行う社会的利己心たる社会性公共心の存在することを忘却せりとは解すべからざるもはなはだし。斯くの個人的利己心も社会的利己心も共に等しく軽重あるべからず。しかしながらそれらの利己心が一は個人の者にして他は社会なるが為めに、しかして人類は特に社会的団結によって他動物を凌駕し、社会的団結を単位として他の単位たるそれらと競争し来たりしが為めに、社会的利己心のより多き必要よりしてことさらに公共心、社会性、道徳的本能、神の心等と命名せられて特別に重き地位に置かれるに至りしなり。肉食獣の如き独居的生物は多く一動物としての利己心による生存競争によってその地位を保ち、草食獣の如き群居的生物は社会的利己心によって社会を単位としての生存競争によってその地位を上進せしむ。生物学の全く開墾されざりし時代のホッブズ、スピノザならば個体を顕微鏡によって考察する事なく、空間と卵との漠然たる思想より独断的個人主義を持するに至るもとがむべきに非ずといえども、生物学者そのものが今になおその独断を継承して幾んど個体の観念につきて無知なる者の如く、個人的生存競争のみを主張して社会性による生存競争を忘却せりとは何たる事ぞ。

 クロポトキンの相互扶助による生存競争

 実に、今の生物学者は玉を抱いて瓦の如く考えつつある者なり。生物進化論が人類に与えたる福音は、いかなる道徳論もいかなる宗教も及ばざる者なることを気付かざるか。ダーウィンによって悪魔の声の如く響きたる生存競争説は、終にクロポトキンに至って相互扶助の発見となれり。すなわちこれ個体の高き階級たる社会を単位とせる生存競争にして、古来の漠然たる道徳的意識に明確なる科学的根拠を与えたる者なり。古人はその思弁的考察と、直観的に社会的本能を認識することとによって、アリストテレスは人は政治的動物なりと云い、国家の外に在る者は神か然らざれば禽獣なりと云えり。氏の国家とは社会が常に政治的組織において発見せられるの故にして、実に人は天性よりして政治的組織をなし、共同生活をなして存在する動物なり。

 生物進化論は古史の漠然たる道徳的意識に科学的根拠を与えたり、偏局的個人主義を転覆せる生物学

 しかして国家の外に在るものは神か然らざれば禽獣なりとは、また実に人は社会によってのみ人たるを得と云う今日の科学の結論を哲学史の緒論において書き始めたる者なり。シセロが蜂はその巣を作る目的の為めに群集を為すものに非ず、その性群集に在るが故に巣を作る、ときにおいて労力を協同するのみ、しかして人の社会を組織するは全く人の天性によるものにして共同の目的の為めに労力を協同することはこの天性あるが為めなりと云いしは、クロポトキンが生物学によって説明せる原理をローマの遠き昔において一個の公理として残し置ける者なり。この社会的利己心は社会単位の競争の最も激烈なりし古代においては最も多く要求せられ、等しく重要なる個人的利己心が全く圧伏せられ来たりしを以て、社会単位の競争の平静なるに至るや個人的利己心が必ず伴いて頭をもたぐ。ギリシャの末年、ローマの末年における個人主義の源泉すなわちこれにして中世キリスト教の統一の下における社会単位の競争の途絶と共に、思想信仰の自由となり、政治経済の独立となり、個人の自由独立は終に偏局的に要求せられて個人主義の思想は澎洋の大河となって欧州の天地を洗い、その波濤の余波を十九世紀の半ばにまで波うたせたり。

 さればこの個人主義の大河に浮びて流れつつありしホッブズ、ルソーの徒が、人類の社会的存在なることを解せずして、あるいは契約前なりと云う自然の状態を想像して各人の各人に対する戦闘と云い、あるいは各人皆神の如き自由独立を有せりと云って、その上に社会契約説を建設せしとするも毫も怪むべきことに非ず。然るに生物学によって、人類のみならず多くの動物が個々に生息せずして社会的群集に、て存在する事を説きつつある生物学者そのものが、今なお彼等溺没者の足にすがって個人主義の流れに溺れつつあるは何たる奇怪ぞ。十九世紀の半ばに書かれたるダーウィンの『種の起原』が偏局的個人主義の余波を受けて生存競争の単位を個人、あるいは個々の動物に置き、為めにその生存競争説が道徳的要求と背馳する方向に走れりとするも、彼は生物進化の事実の発見者として従来の天地創造説を破るに急に、為にその事実の解釈たる理論にまで完からん事を要求する能わざればなり。実に個人主義の今日に至って全く維持すべからざるに至りしゆえんの者は理論そのものにおいても、例えば、人は元来詐り易き者なりと断定してしかも契約によって社会を組織せりと云うホッブズの如く、人は自然に自由独立の主権を有すといいて、しかも圧制暴戻の社会を契約によって組織せりと云うルソーの如く、自家撞着のはなはだしき者を根本思想とするによるのみならず、生物学の研究によって事実として人が個々に存在せざりし事を指示されるに至りしを以てなり。実に、今日の政治学経済学等の社会的諸科学は、人は決して契約の如き方法によって社会を作れる事実なく、人類の社会は他の動物の社会的群集を為しつつある如く、社会的動物なるが故に始めより社会を為して存したりと云う生物学の発見によって、ここに従来の思弁的独断より目醒めてその科学の根底より組織を建て替えたるなり。

 しかしてその人類は始めより各人の各人に対する争闘の者に非ず、また各人ことごとく神の如き自由独立の者に非ずして、社会的動物としての社会的存在なりと云うことは、更に社会的結合の大にして強きものはその社会的利己心すなわち相互扶助による大個体を単位としての生存競争において他の孤独なるそれらに打ち勝ちたりと云う進化の説明と結合して、個人主義の諸科学をいよいよ価値なきものとなし終れり。すなわち、人は個々分立にして個人的利己心のみなりと云う仮定よりして、資本労力の協同よりも各々の相殺破壊が遥かに多き生産を来すと論ずる経済学、契約以前は自由独立の個々において存在せりと云う断定より国家社会の如き結合団結は止むを得ざる害物なりと説きつつある政治学は、実に生物学の発見せる人類の万有に対して優勝者たるを得たるはその社会的生物としての社会的利己心、すなわち相互扶助に在りと云う事実によって根底より覆されたればなり。団結は強力なりとは生物界を通じての原理なり。

 高等生物の生存競争は社会単位の相互扶助なり、生物進化論の哲学史上の革命と社会における社会主義の革命

 −すなわち、相互扶助による高級の個体を単位として生存競争をなす草食動物は、分立による下級の個体を単位とする肉食動物に打ち勝って地球に蔓延せりと云う事なり。あえて丘博士とのみ云わず、今の生物進化論者にして生存競争を個人間あるいは個々の生物間のことのみと解するならば、個々としては遥かに弱き草食動物が肉食動物に打ち勝ちたるゆえんも解せられざるべく、野馬がその団結を乱さざる間は一頭といえども他の猛獣に奪わるしこと無しと云うが如き無数の現象を説明する能わざるべく、牙と爪とを有せざる人類は原人時代の遠き昔において消滅したるべき理にあらずや。否!食人族の野蛮人もその喰う処の肉は個人間の闘争によって得るに非ずして、生存競争の単位は少なくとも戦闘の目的において協同せる部落なり。最も協同せざる肉食動物といえども生存競争の単位はいかに少なくとも相互扶助の雌と子とを包含せるいささか高級の個体において行われ、最下等の虫類たるミミズの如きすら土中に冬籠る必要の為めには二三相抱擁するが如き形において暖を取るの共同扶助を解すと云う。生物の高等なるに従っていよいよ個体の階級を高くし、鳥類獣類の如き高等生物に至っては殆ど全く人類社会において見るが如き広大強固なる社会的結合においてのみ見出され、社会的結合の高き階級の個体を単位として生存競争をなす。しかしてこの高き階級の個体を単位としての生存競争はその個体の利己心、すなわち社会的利己心、更に言い換えれば分子間の相互扶助によってのみ行われ、個体の最も大きく相互扶助の最も強き生物が最も優勝者として生存競争界に残る。人類の如きはその優勝者中の最も著しき者の例なり。

 実に生物学者は自家の貴きを顧みるを要す。社会単位の生存競争と云い、相互扶助による優勝劣敗と云うことはキリストよりも釈尊よりも遥かに々々高貴なる福音なることを。生物進化論がこの福音を挙げて悪魔の有識を残らず根底より転覆せしが為めに、単に政治学と経済学とのみならず、倫理学の上にも教育学の上にも心理学の上にも『社会主義』の金冠が加えられ、人類の思想史は全く新たなる光明界にむかって流れ始めたるなり。実に生物進化論は哲学史上未曽有の大革命なりき。吾人が社会主義を生物進化論の上に建てて、また等しく大々的革命を以て任ずる者、誠に生物学者の思想界に為せる所を現実の社会に為さんとするにあるを以てのみ。吾人は個人主義の独断的仮定を思想の根拠として生物進化論を解釈しつつある生物学者によって虐待せられるとも、生物進化の事実は社会主義を持って始めて説明せられ得べきを見て歓喜に堪えざる者なり。

 単位たる個体の階級は生物種属の進化するに従って高まる

 吾人をして丘博士の迷妄をひらかしめよ。吾人は博士がしばしば人種競争と云い国家競争と云うを見て必ずしも個人以上のある高き単位の生存競争の存するに考え及ばざりしと信ずる者に非ず。しかしながら博士は生存競争の単位を定むべき根本点たる所の個体の定義をすら決定せざりしほどの不注意よりして、競争の単位が生物種属の進化に伴いて拡大し行くことを全く解せざるかの如し。すなわち以上説ける如く、下等動物の生存競争の単位は最も低き階級の個体すなわち個々の生物単独の生存競争なるに高等動物に進むに従い、その競争の単位たる個体の階級を高くして社会と云う大個体を終局目的とする分子間の相互扶助による生存競争に進化するを解せざると同様に、この単位の進化は人類においては特に(人類としての歴史の進行中において)その進化と共にいよいよ拡大し行くと云う『社会進化論』につきていささかの考えうる所無きが如し。斯くて博士は歴史上の革命に対して無神経の冷笑をなし、来るべき革命によって得べき世界連邦論を軽侮して不霊残忍なる帝国主義の讃美者となれり。

 丘博士は進化論と背馳する循環論の思想を有す、国家競争人種競争は歴史の進化によってその単位を大にし行く

 世人は生物学者たる丘博士に対して歴史的知識を要求せざるべし。しかしながら吾人は生物進化論者たる博士として歴史の進化を軽視することあたかも宇宙循環論を為すものし如くなるを怪しむ。循環論と進化論と、これ氷炭相納れざるものに非ずや。丘博士にして生物進化論を信じ、しかして人類の歴史は人類と云う一生物種属が進化せる跡なりとしての社会進化論を信ずるならば、歴史上の革命を以て単に一種の夢想より生ぜる擾乱の反覆なりと云うが如き口吻は、進化論者として有るまじき純然たる循環論の思想なり。しかして現今の地理的に限定されたる社会、すなわち国家を以て永久に生存競争の単位となし、今日の進化の途上において生ぜる人種の差を以て永劫まで相対抗すべき単位の競争者なるかの如く断ずるに至っては、万有を静的に考えうる者としていよいよ以て進化論の思想と背馳す。もし丘博士にして、山腹あるいは沼沢に数十百人の小さき群をなし他の小さき群と無関係に、もしくは争闘して生存しづつありし原人部落より、併呑あるいは合併の道によって漸次に歴史時代の人口の稀薄なる境域の小さき小国家となり、主に種々の征服分裂の後今日の如き幾千万人数億万人を包容せる大国家として対立するに至れる進化の跡を顧みるならば、今日の大国家が、今日の大国家にまで進化し来れる原理をたどりて、更に今後のより大なる国家にまで進化し行くべきことを推理せよ。現今の単位においてする国家競争、今日の差別に基きてする人種競争を見て、直ちに今後の進化を想空して努力しつつある社会主義に対抗を試みる如きは生物進化論を解せざる者なりと云うの外無し。

 丘博士の帝国主義論は競争の内容の進化し行くことを解せざるより起る、丘博士は帝国主義の空想を以てかえって社会主義の者となす、帝国主義の歴史上の効果

 帝国主義の国家競争に就きては後に説く。ただ、吾人は丘博士がその生物学の上よりして帝国主義の裏書人となれる態度を見て、誠に世の導きたるべき科学者が、かえって世に随伴を事とするの転倒を遺憾とす。もとより吾人は生物学上の事実として変種間に生存競争あり。しかしてその競争を多く闘争に訴えて決しつつあるを否むものにあらず、しかしながらこれ先に言える如く生物種属の階級の進化するに随いて、その競争の内容を進化せしむることを解せざるより来る。獣類がその変種間において牙と爪とを以て生存競争を為しつつあるはそれだけの事実にして、人類と云う他の生物種属の階級のそれがまた等しくその方法においてせざるべからずと云うこととは別問題なり。しかしてまた、人類の過去及び現在において異人種異国家間の生存競争が戦闘によって行われ来たりしとするも牙はそれだけの事にして、人類の進化と共に人類の生存競争の内容が更に進化して他の方法にて優勝を決するに至るべきや否やは別問題なり。社会主義の戦争絶滅論は生物種属は進化に伴いて競争の単位を拡大し行くと云う一の理由によって人類種属を生存競争の単位として他の生物種属に対して完き優勝者たらんが為めなると共に(後に説く)人類単位のそれに到達するまでに生物種属は進化に伴いて競争の内容を進化し行くと云う他の理由によって国家競争を連邦議会の弁論において決するに至らしめんとする者なり。もし丘博士の如く利害の背反を直ちに戦争の不滅に推測せしめんとして、県会議院内における田紳閥諸君の雄弁を国際戦争の屍山血河に比するが如き粗雑なる推論を為さず、地方間の利害の背反が戦争によって決せられし者より進みて県会の多数決に至りし如く、今日の国家間の利害の背反がまた今日の如き戦争によらずして連邦議会の決議にて決定するに至ると推論せば、生物進化論を掲げて社会主義を排するが如き失態なかるべかりしなり。

 丘博士は歴史の進化を無視してあたかも相刺殺する進化論と循環論とを混在せしめつつある如く、全く相納れざる社会主義と帝国主義とを混同しつつあり。社会主義の戦争絶滅は世界連邦国の建設によって期待し、帝国主義の終局なる夢想は一人種一国家が他の人種他の国家を併呑抑圧して対抗する能わざるに至らしむる平和にあり。これ歴史上多くの英雄に指導せられたる民族の為せし所にして、かって驕慢なるドイツ現皇帝の夢に入りし所のものなり。(ドイツ皇帝は他の国家の強大と国内の社会党の勢力の為めに今は世界統一の帝国主義を棄却したりと伝う)。然るに丘博士たる者社会主義の万国平和の理想に対して『仮に一人種が他の人種に打ち勝って世界を占領したとするも場所々々によって利害の関係が違えばたちまち争が起こって数ケ国に分れてしもう』との非難は何たる事ぞ。これ帝国主義にして社会主義の力を極めて排斥しつつある空想なり。もとより循環論的思想を有する博士の如く歴史は繰り返す者にあらず、従って征服による統一の跡に分裂の来るも、その分裂は統一されざる以前よりより大なる単位において対立し、もしくはより大なる単位たらんが為るに小単位に分裂す。歴史に意義なきものなし、斯くの点において今日までに行われたる国家競争が征服併呑の形において社会を進化せしめたる−

 同化作用と分化作用

 −すなわち社会学者のいわゆる同化作用によって個体の階級を高めて今日までの大国家に進化せしめたるはもとより事実なり。故に吾人は帝国主義を以て歴史上社会進化の最も力ありし道程たることを強烈に認識す。しかしながら同化作用と共に分化作用あり、外部的強迫力によって同化するより外なかりし国家競争の進化は他の進化たる分化作用によってその同化作用を阻害せられ、また外部よりの同化作用を強迫されることの為めに分化作用を圧迫せられて社会の進化において誠に遅々たりき。

 社会主義は国家を認識し国家競争を認識す、階級闘争と国家競争、連邦議会にて決する国家競争、丘博士の論理の蕪雑

 −社会主義の世界連邦国は国家人種の分化的発達の上に世界的同化作用を為さんとする者なり。故に自国の独立を脅かす者を排除すると共に、他の国家の上に自家の同化作用を強力によって行わんとする侵略を許容せず。−−この点において社会主義は国家を認識し、従って国家競争を認識す。吾人は生物進化論を唱えたるダーウィンと同時において社会進化論を説けるマルクスの偉大を尊ぶものなりといえども、彼等よりも進化せる現代の人として彼等の言を信仰個条とする者に非ず、階級競争と共に国家競争を事実のままに認める者なり。階級は横断の社会にして、国家は縱断の社会なればなり。しかしながら同化作用によって階級的隔絶の漸次に掃討せられ、小国家の対立が歴史の進化によって消滅すると共に、すなわち競争の単位たる個体の階級を高めて進化すると共に、更にその競争の内容を進化せしむることを看過すべからず。社会主義の世界連邦論は斯くの競争の単位を世界の単位に進化せしむると共に、国家競争の内容を連邦議会の議決に進化せしめんとする者なり。階級闘争が始めに競争を決定すべき政治機関なかりしが為めに常に反乱と暗殺の方法にて行われ来たりしもの、今日内容の進化して競争の決定を投票に訴えうるに至りたる如く、現今の国家競争が等しく未だ競争を決定すべき政治機関なきが為めに今なお外交の陰謀譎詐と砲火の殺戮の方法において行われるものを、今後は階級競争のそれの如く投票によって決せんが為めに世界連邦論あるなり。もとより同化作用が階級間に行われる如く国家間に行われて階級闘争の絶滅の如く、更に一段の進化によって連邦間の競争は全く絶滅して人類一国の黄金郷に至り、全人類を同胞とする同化作用と共に障害なく発展する個性の分化作用によって社会を進化せしむるに至るべしといえども、社会主義の実現されたる当座の近き時代においては連邦議会内における利害の全然一致すべきことは想像し得べからずとすべし。社会主義は帝国主義の如くユートピア的世界統一主義の空想に非らざればなり。実に丘博士にして県会議員の激論に対照せしめんと欲せば決して国際戦争を以てすべからずして、この連邦議会内における各国代表者の説述問答を以てすべく。利害の背反を直ちに戦争不滅論に帰結せしめんと欲せば、県会議事堂内の発砲抜剣を前提としての後なることを要す。由来、比喩の玩弄は科学者として謹慎なるべきなり。

 天地創造説の思想を以て人種競争論を不霊残忍ならしむ、吾人の文明人に作られるゆえん、肉体的遺伝と社会的遺伝

 考うるに。人種競争論を残忍不霊なる口吻において主張する者は多く文明人と野蛮人とを先天的に異なる者の如く信ずる先入思想を有する者なり。丘博士にしてもしこれあらばこれ由々しき大事にしてダーウィンによって打破せられたる天地創造説を執る者なり。実に後にも説く如く今の生物進化論者は特に多く天地創造説を無意識の間に継承して思想の中枢を作りつつあり。文明人は天地の始めより文明人にあらず、野蛮人は地球の終局まで野蛮人として了るべく創造せられたる者にあらず、野蛮人といえども文明国の空気中に育てれば文明国人に劣らず充分に発達し、文明国人と称せられるものといえどもその小児を捉えて野蛮人の部落に置けば全く野蛮人として停滞すべし。『人はただ社会によってのみ人となる』。吾人が前編の倫理論において述べたる如く人は境遇によって狼ともなる。されば人の団結せられたる社会的境遇によって、その文明社会なるときは文明人として作られ野蛮社会なるときは野蛮人として作られるは容易に想像せられ得べし。吾人は文明社会に育成せられ、原人の野蛮時代より今日に至るまでの十万年間と計算される長き時日の積集せる知識を、二十歳に至るまでに吸収し体得して以て文明人となれるなり。ある四囲の境遇によって依然たる原人の状態に止まれる、もしくは原人の状態より吾人と異なれる方向に進化したる社会的境遇に囲まれるが為めに、野蛮人は死に至るまで何等吸収すべき知識の社会に存在せざるを以て常に野蛮人を繰り返しつつあるのみ。吾人の遠き祖先たる原人が火を発見するにいかに長き進化の後なるやも知るべからずと云うに、吾人は母の乳房を含みつつ驚くべき石油の発火と電気の発光を眺めつつあるにあらずや。十進数の如きはいかに遥か後代の発明なるやも知るべからず、しかしてこの発明の為めにいかに人類の知識が整頓されしか図るべからずと云うに、吾人は五六歳にしてそれ以上の高等なる数学を知るにあらずや。吾人の生息する地球の動きつつ太陽の周囲をめぐることを知り、円形なることを事実において知りしは僅かに五六百年前、すなわち原人の始めより計算すれば九万九千五百年の後においてようやく得たる知識なるも、吾人は十二三歳の小学児童にして明白にその理由までも解しつつあるにあらずや。コロンブスの船長とワットの火夫を有する社会的歴史的知識を満載せる大汽船がダーウィンを載せて世界漫遊の道に上りしが為めに生物進化論は発見せられ、しかして吾人は今この筆において斯くの驚くべき知識を論議しつつあるにあらずや。

 肉体的遺伝そのものも種属的知識を継承する本能なり

 −文明国人は文明国人としての肉体的遺伝の外に文明の知識の社会的遺伝によって文明国人として作られるなり。吾人文明国人は生れながらの肉体において文明国人となれるに非ずして、この歴史的知識を遺伝しつつある社会に置かれて、その知識を受け入られることによって文明国人として作られるなり。野蛮部落の児童が文明的教育の下において殆ど文明人に比肩し得べき知識道徳の発展を為し得たる幾多の事例は、進化論を個人主義によって解釈せる代表的学者とも云うべきベンジャミン・キッドの『社会進化論』にてすら無数に引用せるを見よ。吾人は人はただ社会によってのみ人たるを得との事のみを以て、今日の程度にまで分れ来れる人種の分科的発達による遺伝の相違を軽視せんとする者にあらず。しかしながらただ一切を肉体的遺伝にのみ帰して社会的遺伝、すなわち知識の歴史的集積を忘却し、南洋のある土人が十以上の数を数えるとき頭痛を起すと云うが如き事例を挙げて反証せんとする者あらば、吾人は多大の尊敬を以て下の如く答う。そは年老いて神経中枢の衰弱せるが為めにして、博識の老いたる野蛮人が獣類教の生存競争がいかに誤れるかを説き聞かされるも死に至るまで移るの期なきと同一の現象なりと。否! 遺伝そのものが生物進化論によって種属的知識を継承する本能なり。

 下等人種の滅亡は社会進化の当然なり、人種競争の内容の進化

 しかしながら現今の如き野蛮人が永久に科学者の興味ある材料として地球に存すべきものに非ざるは論無し。吾人は社会主義者として人類同胞の理想と、同胞たる所の知識を人類一元論によって有する者なり。然しながら事実を事実として人種の差等を認。しかして下等人種の消滅すべき運命なることをも認。−−誤解すべからず、吾人が下等人種の消滅を云うは従来の如き駆逐あるいは殺戮の方法によってする人種競争にあらず、下等人種それ自身が文明に進むことによって野蛮人として消滅し、もしくは冷酷なる生存競争律によって野蛮人としての現状を維持する能わずして消滅すべしと云うことにあり。吾人は涙を以てする人道論とは無関係に、社会進化の理法と理想とによって社会主義を説く者なり。進化は一に生存競争による。社会進化の途上相互扶助の道徳なき無数の個人を失敗者として淘汰しつつある如く、文明の進行に併行して進む能わざる人種の減亡しつつあるはいかんともすべからず。人類と云う大社会は地理的小社会の上に超越して一大個体なり。小社会の進化が真善美において劣れる個人の淘汰によって得たる如く、大社会の進化においてまた真善美において劣れる人種が淘汰せられるは、いかんともすべからず。−−しかしながら野蛮人中の文明に進む能わざるものの野蛮人として消滅すべしと云うことと、文明人が野蛮人を圧迫して滅亡せしむるの権利ありと云うこととは全く別問題なり。生存競争の内容は生物種属の階級の進化によって進化する如く、人類種属の歴史の進化するに従って進化す。相互扶助の道徳なき個人がかって死刑によって淘汰せられしも進化して他の競争の方法によって滅亡しつつある如く、駆逐あるいは殺戮の方法によらずして人種間の生存競争は今日の正義の理想と背馳せざる方法によって行わるべし。滅亡の名に戦慄するなかれ。個人として、また人種として社会性の欠乏せる者の淘汰されるなくば、いかにして『類神人』が更に高き進化を得べきや。民族あるいは国家が小社会としての個体たり、従ってその分子たる不適なる個人が淘汰されるも他の分子たる個人が適者として進化しつつあるならば、それ等を分子とせる社会と云う個体より見て滅亡にあらず進化なる如く、進化に随伴する能わざる人種が消滅するも、他の人種が進化して神の境に入るならば、これを人類一元論による大個体と云う点より見で決して滅亡にあらず歓喜すべき進化なり。

 社会主義は個人と人種の劣敗者の上に建てらる、正義の進化と駆逐殺戮による人種競争論の困難

 −個人主義の人道論を為すものに取ってかかる断言は冷酷に響くべし。然り冷酷なり。冷酷なる生存競争律は『類神人』としての境遇に不適なる所の真ならざる善ならざる美ならざる者は劣敗者として残酷に淘汰す。ここに至っては社会主義なる者、あたかも一キリストの名の為めに十字軍の犠牲をあえてしたる如く、限りなき個人と人種の屍の上に『神』を祀らんが為めに幾万の劣敗者を穴に葬る。しかしながら更に後に説く如く個体は死するものにあらず、一元の人類と云う大個体はその不適なる分子を淘汰すといえども、他の分子によって生き以て無限の天に進化し登る。すなわち、分子自身の進化によって真となり善となり美となることによって不真不善不美なりし分子として消滅すると共に、また永久不真不善不美にして進化する能わざる分子は他の真善美の分子によって生き、以てその進化を得。然るに斯くの生存競争と云う事を直ちに相互の殺戮と速断するが故に丘博士の如き死刑淘汰の刑法論となり、不霊残忍なる人種競争論となるなり。人類はその歴史に入ってよりも生存競争の内容を進化せしめ、従って正義の内容を進化せしめて止まず。もし今日の社会意識のはなはだしく鋭敏となって同類を窮迫する事に堪えざるまでに進化せる正義あるに拘らず、なお不霊残忍なる人種競争論を以て不幸なる彼等に圧迫を加うべしとする学者あらば、吾人は実に問わん−−人類は胎児の九ヶ月間において魚類の時代をへ、獣類の時代をへ、生れて人類となるも小児の間は野蛮人なる原人時代を繰り返しつつあるを以て、堕胎の如きは魚を釣り獣を射ると同じきがゆえに死刑淘汰の刑法論の外に逸すべく、軍艦を用いて熱帯の遠きに行かんよりも、何ぞ先ず汝が産みて汝の膝下に置く野蛮人より殺戮の手を下さざるやと。野蛮人の極端なる者にてすら然かり、然るを況んや単に皮膚の色を異にするを以て相殺戮するをや。

 死刑淘汰の刑法論よりする驚くべき推論

 死刑淘汰の刑法論といえどもまた然り。もし丘博士及び国家の刑罰権を生存競争によって解釈しつつある刑法学者の如く改心の見込なきものは人種の改良進歩の為めに死刑に処すべしと論ずることは、その論理によって回復の望なき老親は毒薬を盛って殺すも国家の刑法は処罰する能わざることとなる。人種の改良進歩の為めに再犯三犯の者は一層死刑を盛にして殺すべしと云わば、その論理の進む所人種の改良進歩を最も阻害すべき肺病患者を収容せる病院内に断頭台を架設するの企に出でざるべからず。人種の改良進歩の為めに醜婦痴漢の如きは酌量減刑もなく死刑に処すべく、人種の改良進歩に害ある学者の如きはロバの如く繋ぎて刑場に送るべし。人種の改良進歩は一に生存競争に在ることは論なしといえども、生存競争が必ず死刑において行われざるべからざるの理なし。

 一の分子もしくは分子の集合が他の分子を殺戮する権ありとする偏局的社会主義時代の普通良心

 −社会と云う一個体の中においてその中の一の分子の上に、他の分子もしくは分子の集合が殺戮を加える事は偏局的社会主義時代の普通良心にして今日の正義に非ず。偉大なる分子が他の分子もしくは分子の集合の為めに犯罪者として死刑に処せられたる著しき例はかのキリスト、ソクラテスに在り。前編に述べたる如く犯罪とは普通良心に背反する事を云う。一時代の普通良心必ずしも次の時代において普通良心たる者にあらず、次の時代における普通良心は多く一時代の普通良心によって犯罪視せられたる特殊なる分子の先覚によって作らる。今日偏局的社会主義時代の良心を以て一の分子の上に他の分子もしくは分子の集合が殺戮の権ありとの主張は、誠にローマ法王の学者と学説に対する刑罰権を復活せしめんとする者にあらずや。ダーウィンをしてガリレオに代わって生れしめよ。『進化論講話』をして中世のイタリアにおいて書かれしめよ、生物進化論者は自家の論理によって絞殺台に上らざるべからず。丘博士は刑法学につきて豊富なる知識を有せざるべし、然しながら万有進化の大権が何が故に特殊の個人の掌中に握られるかが疑われるべきにあらずや。

 道徳的淘汰の生存競争と社会的群集の生物

 さもあらばあれ、人類種属の生存競争は死刑淘汰の刑法論が今日残る如く全く道徳的内容の者なりき。これ人類のみに限らず。草食動物の如き群集を為して生存し、社会単位の生存競争に従いつつある総ての生物に通ずる競争なり。下等動物の如きは生存競争の単位が最も下級の個体なるが為めにその内容は各個的利己心の者にして、動物の高等に進むに従い、その単位が漸次に拡大して高級の個体なるが為めに社会的利己心、すなわち社会性による道徳的内容の生存競争となるなり。故に各個的利己心による肉食獣においては牙と爪とが優勝を決定するも、社会的群集をなす一般の草食動物においては社会性の発達したる者が優者強者にして小我の利己心のみによって社会団結を害する者は淘汰される所の生存競争の劣敗者なり。かの象の如きは社会の安寧を害するものは放逐せらると云い、猿猴類にては姦通の如き最も厳罰に処せらると云い、蟻蜂の社会における道徳的淘汰は何人も知れる所の如し。しかして人類は最も大なる社会を組織せる道徳的生物なり、故に道徳的生存競争は死刑を以て淘汰されるほどに強烈に行わる。

 原人時代は平和に菜食して漁猟遊牧にあらず、今日の野蛮人を以て文明人の原始に推測すべからず

 実に人類は原人の遠き昔よりして道徳的生物なりしなり。吾人は斯く断定せんと欲す。個人主義時代の学者の契約前の状態は各人の各人に対する闘争なりと想像せしが如き虚妄はもとより、原人とは殺戮のみを事とせる純然たる食人族なりしと云うが如き推定は最早棄却さるべき根拠なき憶説に過ぎず。すなわち、原人の最初の状態を以て漁猟時代と想像してその魚鳥を殺すことより食人を学びたるべしと推論せしも、そは遥かに後のことなるべく漁猟に要する器具を発明するまで進化するに至らざる間は、豊饒無尽の沃野に天産物を採って平和に生活せりと云うことは遥かに合理的の推測なりと信ず。もし原人が食人族なりしならば彼の原人時代を短かき年月中に繰り返す所の小児が、その足の裏を合せて獣類の坐する時に為す如く為すと同様に、一たび必ず猛悪なる性情を表さざるべからず。然るに事実は全く正反対にして神の笑いと称せられる如く最も平和に最も怯懦なるにあらずや。しかしてこの小児の平和と怯懦とは、原人の平和なる生活と、雷鳴風雨猛獣鬼神暗黒等に対する無数の恐怖を抱きし原人の怯懦を説明する者なりと見らるべし。

 吾人は信ず、根本の誤謬は今日の野蛮人を直ちに原人と名づけて吾人の原始時代に推測することにありと。争闘と食人とは飢餓の民族と気候の為めに荒びたる性情を有する民族のみに限る。今日の野蛮人の中に争闘食人の風盛なるものあればとて、全く境遇の異なれる至る福に置かれて天淵の懸隔ある発達を為せる今の文明人の原始に推測することは、人種の分科的発達を認める者の為すべからざる所なり。人類は今日肉食も半ばしつつありといえども、そはまた等しく遥かに後代のことなるべく、今日の猿猴類と共に類人猿より分岐せる原人の当時においては純然たる草食動物として豊饒なる平野に社会的群集を為して存せしなるべし。何となれば社会的群集をなす草食動物は独居的生活をなす肉食動物に打ち勝って、今日の如く地球に蔓延せりと云うことが生物学上の事実にして、人類が今日の猿猴類よりも虎の如き猫属に近き血系の者なりと信ぜざる限りは、原人が猿の如く平和に群集せずして虎の如く相殺戮せりと云うが如き想像は根拠なきことなり。否、虎といえども虎と虎との間においてはみだりに相殺戮せず、後に食物競争につきて説く如く生存競争の意識的なる対敵は食物にせんとする生物種属と食物たる生物種属との異種属間の競争にして、間接に無意識的に行われる同一種属の食物に対する同種属間の個々の競争の如きは、食物の僅少なるが為めに重複せる欲望の衝突の場合より外起るものにあらざるを以てなり。果して然らば虎の如き牙と爪とを有する肉食獣すら食物の充分なるときにおいて相争わざるならば、豊饒なる天産物の中に置かれたりと推定される原始人が虎にしてすら相争わざる所の余りある食物の為めに争闘食人を事とせし非社会的生物なりしとは誠に思考し得べからざることなり。堯舜の時代とはかかる原始時代を云う。

 漁猟遊牧の時代に入って部落単位の生存競争をなし意識的道徳時代となる、小社会単位の生存競争時代と死刑淘汰、朕すなわち国家の意義

 然るに、人口の増殖と共に豊饒なる沃野の窮屈を来し、ある者は漁猟時代に入り、ある者は遊牧時代に進み、以てその漁場と牧場との為めに烈しき生存競争を開始したり。しかしてこの競争は部落を単位とせる、すなわち小社会単位の生存競争にして部落の各員の相互扶助を最も強盛に要求せられたり。各員の独立自由は一切無視せられて部落の生存発達的素朴なる彼等の頭脳に人生の終局目的として意識せられるに至れり。

 −斯くの意識はこれ原人の無為にして化すと云われる無意識的本能的社会性が、生存競争の社会進化によって実に覚醒したる道徳的意識として喚び起されたる者に非ずや。漁猟時代遊牧時代の殺伐なる争闘を以て道徳なき状態なりと速断する如きは幼稚極まる思想にして、この部落間の争闘の為めに吾人は始めて社会的存在なることを意識するを得たるなり。これすなわち偏局的社会主義時代の古代にして社会単位の生存競争の為めに個人の自由独立は全く蹂躙せられ、社会の名においてする社会の一分子もしくは分子の集合の意志によって当時の普通良心に不道徳なりと認められたる者は実に軽率にして残忍なる方法による死刑を以て淘汰せられたりき。かの偏局的社会主義時代のルイ十四世が「朕すなわち国家なり」と云いしは、皇帝その人が社会の分子たると共に社会の総てたりしを以ての故にして、その皇帝なる一分子をのみ国家なりとして他の総ての国家の分子は国家なる皇帝の利益の為めに存在し、しかしてその存在の為めに忠順の道徳的義務が愛国のそれと一致し、皇帝に不忠なる者がすなわち国家に対する反逆者として取り扱われるに至りしなり。この偏局的社会主義による道徳的淘汰は原人の時代より歴史時代の中世史の終りまで続き、また現今において眼前に行われつつあり。ギリシャ・ローマの建国当時においては民族単位の偏局的社会主義が隆盛を極めてかのソクラテスをも毒殺し(しかしてその民主国なりしが故にルイ十四世の如く一分子すなわち国家にあらずして分子の集合意志すなわち国家の意志なりき)。中世暗黒時代の封建的区画を単位としての生存競争の激烈なりしが為めに貴族階級を組織せる分子の意志に反する者は、すなわち社会の反逆者として最も軽率にして残忍なる死刑の方法によって淘汰せられ、自由独立を持てる者は社会の意志を表示すと云う君主もしくは貴族の階級のみにして、下層階級の個人は全くその権利を認識せられざりき。かの敵国外患なければ国すなわち亡ぶと云う素朴なる歴史哲学は誠に古代及び中世を通じて民族あるいは地理的区画の小社会を単位として生存競争をなし、その生存競争の単位たる所の国家の為めに(事実論としては国家の意志の宿る所たる社会の一分子もしくは分子の集合の為めに)、個人が存在しつつあることを示すものにして、フランス革命前後の個人主義の独断的仮定を以て生存競争を解釈しては人類種属の歴史、すなわち社会進化論を全く説明する能わず。(この説明は後に国家の本質及び国家の意志を説くに重要なり、『いわゆる国体論の復古的革命主義』を見よ。)

 同化作用による社会単位の拡大と分化的発展の個人主義時代、ギリシャ・ローマ未年及びローマ法王の下にて個人主義の興起したる事実、個人単位の生存競争は遥かに後代の歴史的過程なり

 しかしながら社会の進化は同化作用と共に分化作用による。小社会の単位に分化して衝突競争せる社会単位の生存競争は、衝突競争の結果として征服併呑の途によって同化せられ、しかして同化によって社会の単位の拡大するや、更に個人の分化によって個人間の生存競争となり、人類の歴史は個人主義の時代に入る。かのギリシャ・ローマの末年における個人主義萌芽は実にその征服併呑による同化作用に依って社会の単位が拡張せると共に社会単位の生存競争の沈静せるを以て、覚醒せる競争の分化的発展の要求にして、そのたまたま社会単位の生存競争を為しつつありしゲルマン蛮族に亡ぼされて偏局的社会主義の中世史を暗黒に経過せしといえども、更に、その封建的区画の小社会単他においてする生存競争がローマ法王の教権の下に同化せられるや、ここに個人主義の大潮流となって個人の分化作用を以て社会を進化せしむる時代に至りしなり。しかして波状形の進動を以てする社会進化の方則によって、あたかも天地創造説が人類の地位を神の子なりとせしに対して生物進化論が獣類の属なりとせる如く、社会の一分子たる個人が他の分子たる国王貴族の為めに犠牲たりし階級国家の打破の為めに個人の価値が終局目的として認識せられ、社会国家の如きは個人の自由独立の為めに組織せられ個人の意志によって解散するを得べき機械的作成の者なりとするに至れり。個人は目的なり、手段たるべからずとは個人主義の精神なりき。ダーウィンの生存競争が全く個人単位の生存競争のみの者となりしはこの偏局的個人主義の余波に漂わされたるが為めにして、丘博士及び一般の生物進化論者は、その今日において主張しつつある所の生存競争とは遥かに後代の歴史的過程の者なるを知ることを要す。

 社会民主主義

 実に斯くの社会単位の生存競争と個人単位の生存競争とは社会進化論を偏局的社会主義と偏局的個人主義との二大柱となって建設する者なり。しかして斯くの二大柱のあるいは長くなりあるいは短かくなることによって動揺しつつ支えられ来りし社会進化は、この二大柱を併行して建てたる社会民主主義の理想によって始めて健確なる急調を以て進化すべし。社会民主主義は社会の利益を終局目的とすると共に個人の権威を強烈に主張す。個人と云うは社会の一分子にして社会とはその分子そのことなるを以て個人すなわち社会なり。之を偏局的個人主義時代の機械的社会観の如く個人のみ実在のものにして社会とはその個人の集合せるある関係もしくは状態なりと解しては、個人は目的たるべし手段たるべからずの言は意義なしといえども、個人が社会の分子として社会そのものたる以上は、個人の目的はすなわち社会の目的たるべきなり。

 社会主義は個人の分化的発展の為めに個人主義を継承す

 −社会主義はこの意味において個人主義を継承す。然しながら分子たる個人はその死と共に滅亡す、故に分子たる個人そのものを終局目的としては目的は五十年の後に終局して意義なし。故に個人の自由独立は社会進化の終局目的の下において厳粛なり。また、偏局的社会主義の如く社会の分子たる個人の自由独立が他の分子もしくは分子の集合の下に蹂躙せられては、君主もしくは貴族等の権力階級の意志が絶対不可侵なるを以て、個人の分化作用を以てする個人間の生存競争によって社会良心の内包を豊富ならしむる能わず、従って社会の生存を終局目的とすといえども社会の進化において誠に遅々たるの外なし。すなわち、社会は社会全分子の上に幸福進化を来らしむる能わずして、社会のある階級の分子のみ自由独立にその他の下層階級はそれらの分子の栄華幸福を築かんが為に全く礎石たるに過ぎず。社会の進化は同化作用と共に分化作用による。分化作用を完全に行わしむるに欠くべからざる個人の自由独立が君主(君主国時代においては)もしくは貴族階級(貴族国時代においては)の少数に限られ時代の進化に急なる能わざりしは止むを得ざる事にして、之を今日及び今夜の民主国時代の如く全国民ことごとく自由独立を認識せられて分化作用を大多数において行うに至って社会の驚くべき勢を以て進化し始めたるはまた当然也。実に社会主義は個人主義なくして高貴なる能わず。感謝すべきは個人主義なり。

 国家主義と個人主義とは共に現社会の経済的貴族国に対して革命に出でざるべからず

 こうねがわくは今の個人主義者と国家主義者と、実に現社会の状態につきて一観する所あるべし。経済的貴族等が各地方(地主ならば)各職業(資本家ならば)に群雄諸侯の如く割拠して国家の経済的源泉を略奪し、彼等が国家の分子として国家の幸福の為めに努力すべき義務あることを忘却し宛として国家を手段の如く取り扱う。−−国家主義者なるもの斯くて甘んずるを得るや。経済的貴族のみその経済的独立よりして個人の自由を放誕に主張しつつありといえども、経済的武士の階級も経済的土百姓の階級もひたすらに奴隷的服従を事としてフランス革命以前の如く個人の権威なるもの地を掃つて去れり。

 −個人主義者なる者、斯くて何の疑問をも刺激せられざるや。吾人は慷慨と涕泣を以て社会主義を説くものにあらずして、科学的宿命論の上に理論のみを主張す。故に今日までの経済的貴族国時代を以て罪悪となし誤謬となすが如きものにあらずして、社会進化の当然なる道程として、社会全分子の幸福に浴する能わざるが為めにある階級の分子のみ先ず経済的独立よりして政治的道徳的自由を持たるものなることを認識す。然しながら、こは一過程のことにしてもとより永遠のものにあらず、かって武力を以てせる貴族が他の分子の犠牲の上に権威を築きたる者の、社会の進化と共に犠牲の分子たりし下層階級が自由独立を得て社会の全分子に法律上は政治道徳の自由平等を普及せしめなる如く、経済史進行中の一過程として今の経済的貴族階級のみ経済的進化に浴しつつありといえども、更に土地資本の公有による経済的進化と共に今日の犠牲たる下層階級の経済的武士経済的土百姓等は経済的自由平等による政治的道徳的独立を得べし。

 −個人主義者なる者、何が故に再びフランス革命を繰り返さずして、国家主義者なる者、また何が故に維新革命を繰り返さざるや。貴族政治の経済的階級国家の現代なることを厳格に解せよ、階級国家を転覆せる維新革命の国家主義は『その最高の所有権』を振るって経済的貴族等の土地資本を国家の手に移すべく、貴族政治を掃討して民主的立法を与えたるフランス革命の個人主義はその自由平等論を叫びて経済的貴族等の生産の専制権を民主的合議制に来すべし。国家と個人の名を以て吾人の純正社会主義を迫害すとは何事ぞ。

 個人の国家に対する犯罪と国家の世界に対する犯罪、個人の自由と国家の独立の意義

 実に、国家主義と個人主義は社会主義によって、その完き理想の実現を得べき者なり。国家が個人の分子を包容して一個体たると共に、世界は国家を包容してその個体の分子となす。故に個人がそれ自身を最善ならしむるは国家及び社会に対する最も高貴なる道徳的義務なる如く、国家はその包含する分子たる個人と分子として包容せられる世界の為めに国家自身を最善ならしむる道徳的義務を有す。この義務を果すことによって国家はルターの言える如く倫理的制度たり。然るに、個人がその小我を終局目的として国家の利益を害するならば国家の大我より見て犯罪なる如く、国家にしてもし−−否! 今日の如く世界の大我を忘却し国家の小我を中心として総ての行動を執りつつあること帝国主義者の讃美しつつある如くなるは、実に倫理的制度たるを無視せる国家の犯罪なり。個人の自由が他の大なる我の為めに意義ある如く、国家の独立は世界の大我の為めに厳粛なる意義を有して存す。故に偏局的個人主義の如く個人の利益の為めに国家を手段として取り扱うことは国家の大我よりして不道徳なる如く、偏局的社会主義の如く小我の国家を終局目的として世界の総ての国家と民族との分化的発展を無視することは世界の大我よりして許容すべからざる不道徳なり。個人の自由が害用せられて罪悪たる如く、害用せられたる国家の独立は戦慄すべき無数の罪悪をあえてす。

 −社会主義の世界主義たるゆえんはここに在り。個人の自由を認識する如く国家の独立を尊重す、しかもその個人の自由の為めに国家の大我を忘却し、その国家の独立の為めに更に世界のより大なる大我を忘却することを排斥するなり。否! 小社会を単位とせる偏局的社会主義時代の国家はその国家競争の為めに個人の自由を蹂躙し、個人の自由が蹂躙せられる国家は世界の人文に効果なく、従って国家単位の生存競争において劣敗者なり。

 国家の理想的独立は世界連邦によって得られ個人の完全なる自由は万国平和によって得らる、偏局的社会主義の国家競争の為めに個人の自由が蹂躙せられたる事例

 −故に倫理的制度としての国家の理想的独立は社会主義の世界連邦によって実現せられ、個人の完き自由は小社会単位においてする偏局的の社会競争なき社会主義の万国平和によって実現せらるべし。かの個人主義のフランス革命がその自由平等論の実現の為めに為されたりと云うに拘らず、終に四境の同盟軍に対しで国家単位の生存競争を開始するに至るや、個人の自由は全く蹂躙せられてロラン夫人を断頭台に送り、王党の自由をことごとく剥奪して惨殺したりし如き、いかに個人主義の理想が国家競争の下において一の夢に過ぎざるかを見るべく、またかの日露戦争の時において非戦論を喝道せる者がその総ての自由を挙国一致と云う偏局的社会主義の為めに剥奪せられたる如き実に社会主義の万国平和の理想が、一は個人主義の理想の為めに唱えられざるべからざるを見るべし。社会主義を以て小社会単位の国家万能時代の偏局的社会主義と同一視して個人を社会の中に溶解すべしと難ずるが如きは誠に思考の浅き者なりと云うの外なし。しかして万国平和の実現によって国家競争は滅亡の憂なき連邦議会の演壇において行われて世界の人文の為めに倫理的制度となり、個人の自由はあるいは国家を通じてもしくは国家を超越して世界の人文に対して道徳的義務を果すべし。しかして今日議院内の演壇によって闘われつつある階級闘争が全く消滅して横の隔絶なき一社会となる如く、今後連邦議会内において争わるべき国家競争が更に全く消滅して縦の障害なき一国家となるに至らば−−ああこれ実に黄金郷にして世界を単位とせる大社会の同化作用と障害なく発展する個人性の分化作用とによって『類神人』は翼を生じて進化し行くべし。国家主義と個人主義とは社会民主主義に包容せられて始めてその理想とせる所の完き実現を得べし。

人類の歴史に入ってより生存競争の内容進化、強力者の優勝たりし中世、労働を優勝者とせる個人主義の理想、糞泥の上に産み落されたる優勝者、奴隷の境遇に適する奴隷の優勝者

 吾人をして生存競争説の説明に帰へられしめよ。以上説く如く人類の生存競争は総ての生物種属に通じて社会単位と個人単位との者なりき。しかして人類は更に高き生物にまで進化し行くべき経過的生物として、同化作用によって小さき単位の社会たりしものより漸次にその単位を大社会となし、また分化作用によって最初には部落もしくは家族団体の如き個人より大なる単位に分化したるものが、更に小さく分化して個人を単位となしていよいよ精微に分化的競争をなすに至れり。然しながら斯く生存競争の単位において同化と分化とを進めたると共に、更にその同化によって拡大せる社会単位の生存競争と分化によって精微になれる個人単位の生存競争とは、その競争の内容を進化せしむ。すなわち漁猟遊牧時代より社会単位の生存競争は全く戦闘によりて行われ、また個人単位のそれも等しく然りしを以て、武力において勝れたる国家、従って武力において勝れたる個人はあるいは酋長となり(漁猟遊牧時代において)、あるいは国王貴族武士となり(歴史時代に入って中世史までの如く)、以て生存競争の優勝者として存したりき。然るに今日においては武力に訴えうる生存競争は社会単位のそれのある場合にのみ限られたるを以て軍人階級はそれだけの範囲内において生存競争の優勝者なりといえども、国家内の個人間の生存競争には中世史以前の貴族武士の如く腕力による強者の認識せられざるに至りしことあたかも彼の武士の習いとせる切取強盗が死刑もしくは他の重刑を以て淘汰せられる如し。実に国内における生存競争はフランス革命以後(日本においては維新革命以後)に及んで全くその内容を一変し、経済的活動の能力勝れたる者が優勝者となるに至れり。然しながら革命以前の上層階級といえども強力が総ての所有権の基礎たりしを以て強力において優れたる者は経済的活動の能力者なりし如く、今日の経済的活動の能力者といえども理想としては個人主義の労働説によって権利の説明とせられつつあるに拘らず、その経済的戦争の優勝者は占有説の古代思想を継承して経済的貴族となることに在り。もし中世の武力階級の占有を打破せるフランス革命の労働説にして蒸気電気の発明なく平坦なる平等の上に行われる個人的競争の世に行われ来たりしとせば、最もよく労働する所の個人は生存競争の優勝者たるべかりしなり。然しながらこれ理想に過ぎざりき。機械と云う封建城廓に経済的貴族階級の立て籠もるや、生存競争の最上の優者はその城廓中に産み落されたる嬰児にして、あたかも糞泥の上に産み落されたる蝿の卵が蝿の優勝者として生存するが如くなれり。

 −ああ讃美さるべき優勝者よ。適者生存と云い、優勝劣敗と云い、弱肉強食と云うが如き文字は外包的の者に止まり、生物種属の境遇の異なるに従って適者たり、優者たり、強者たる者を異にすと伝えるはこの意味にして、かかる経済的貴族国の境遇に産れては、いかなる哲学者も、いかなる科学者も、いかなる詩人も、貴族等の馬車の前に叱咤さるべき生存競争の劣敗者なり。しかして経済的群雄割拠の時代において最も奸悪なる、敏慧なる、残忍なる平沼氏喜八郎氏の如きが優勝者たりしが如く、トラストの経済的封建制度の時代には純然たる馬鹿大名を以て最も優れたる適者優者強者となす。

 −讃美を繰り返さしめよ、政府と学者とはかかる生存競争の世を維持せんが為めに社会主義を迫害しつつあるなり。斯くの経済的貴族国の時代において経済的武士の階級を作れる事務員学者の優者は最も奴隷的服従に誠忠なる正成と三太夫との心を以て心とする者にして経済的土百姓の階級において劣敗者たりながらも、なお僅かに解雇を免れて衣食しつつある優勝者は権利の何者たるを解せざる精神なき完き意味の奴隷なり。

 社会主義の時代にはかかる優者適者強者は当然に淘汰さるべき生存競争の劣敗者なりとす。

【第六章】
 社会主義の世においてもとより生存競争あり。個人単位の生存競争すなわち雌雄競争。個体の延長。霊肉の不死不滅。食物競争と雌雄競争との生物学における地位。食物競争による進化と雌雄競争による進化。天地一切の美は雌雄競争による進化なり。詩人の直覚と吾人の科学的研究。生物進化論に対する組織組み替えの要求。万有進化の大権を社会全分子の手に属せしむ。生存競争の劣敗者たる失恋者。食物競争は雌雄競争に先だつ。現実と理想。下等生物にては食物競争の優勝者が同時に雌雄競争の優勝者たる者多し。人類において食物競争の優勝者が雌雄競争の優勝者たる過去及び現在。尻下の権利と男色奴隷。積極的売淫の男子階級。女子を購買するの権利と男子を購買するの自由−−男女同権論は私有財産制と共に実現せられたりし。貧富同権論と云うのみ。『福神』が結びの神となれり。雌雄競争によって理想を実現すと云う理由。雌雄同数ならざる下等動物の雌雄競争と同数なる人類の進化。家庭単世の食物競争と理想の実現に非ずして単に現実の継承に止まる。社会の進化と恋愛の理想の進化。現今の恋愛の理想。理想の為めに現実を犠牲とする下等生物。恋愛の理想の進化と自由恋愛論。旧思想の圧迫を排除すとの意味においてする自由恋愛論。恋愛の自由は先天的に非ず。社会主義の自由恋愛論は革命の為めに唱えらる。詩人の直観せる情と恋の二大鉄槌。恋の要求の最も充たされざる蟻蜂の社会。全分子恋愛を要求する人類は全分子理想を有する故なり。恋愛と平等主義。悲惨なる家庭論。金井博士の家庭論よりする社会主義の非難。私有財産制度は民主主義を確立し女子を開放せり。一般階級には再び私有財産なくなれり。自由恋愛論と女権問題とは無関係なり。個人主義時代の男女同権論の誤謬を継承するいわゆる社会主義者。分化的進化をなせる個人としての男子と女子とは同等にあらず。自由恋愛論とは社会の全分子たる男女の理想とする所を自由に実現して社会を進化せしめんとする恋愛方面における自由平等論なり。経済上の独立による恋愛の自由。女学生の墜落とは女子の経済的独立による貞順の奴隷的義務の拒絶なり。
 ここにおいて当然の疑問は起らん。社会主義の世においては死刑による淘汰なく、腕力による淘汰、経済上の競争による淘汰なく、国家間人種間の戦争による淘汰なし。然るを如何ぞ生存競争によって淘汰さるべき劣敗者と云うやと。

 社会主義の世においてもとより生存競争あり

 誠に然り、社会主義は社会の一分子たる個人の手に万有進化の大権を掌握せしめ等しく分子たる所の他の個人の権威を蹂躙するのはなはだしき死刑淘汰の如き社会の進化を阻害する生存競争を廃滅せしめんとする者なり。高尚なる理想の実現に向かって努力しつつある経過的生物として食物競争の為めに相搏噛する野蛮残虐なる生存競争を絶滅せしめんとする者なり。等しく一元の人類より分れたる大なる個体の一分子たりながら国家を異にし人種を同うせずと云うが如きことよりして相殺戮する生存競争を世界連邦により地球より掃討せんとする者なり。しかもなお大なる単位の社会競争と完全に行われる小単位の個人競争なからんや。

 先ず個人単位の生存競争より説く。個人単位の生存競争すなわち雌雄競争

 個体の延長

 実に、かかる当然に似たる疑問の起るはまた等しく個体の思想において顕微鏡以前の者を取るが故なり。すなわち個体の延長と云うことを解せざるが為めなり。−−社会主義時代の個人単位の生存競争は、斯くの個体の延長の為めにする生存競争−−すなわち雌雄競争のことなり。実に個体を横に拡大したる点より見れば現在生存する総ての人類は一大個体にして、之を縦に延長しなる点より考えうれば原人よりの十万年間の歴史は一大個体の長命なる伝記なり。横に見られたる兄弟が各々別個体に非ざる如く、縱に考えられたる親と子とはまた各々別個体にあらず、上は大きくなれるものにして一は長くなれる者に過ぎざればなり。アメーバが無数に分裂して繁殖する如く親はその親自身の一部分を分裂せしめてこれを子と名づけて抱けるのみ。一個のアメーバより分裂せる無数のアメーバが各々一個のアメーバたると同時に空間を隔てたる分子として本の一個のアメーバの大きくなれるものと見るを得べきが如く、一個体の分裂せる親と子とは各々一個体たると同時に親の生命の長くなれるものと考えうることを得べし。吾人はワイズマンの生殖細胞不死の仮説が多くの困難なる非難に対して維持する能わざるを知るを以てあえて彼に拠らずとも、単に、親の細胞が子に伝わり、子の細胞が孫に伝わり、孫の細胞が曾孫に伝わり、しかしてその細胞は伝えたる親の肉体の一部なりと云うのみの事実によって、吾人に永遠の生命ありとはすなわち肉体そのものが永遠に死せずして生くとの意味に取る者なり。すなわち、一個のアメーバが分裂しその分裂せるある部分が死するとも、他の部分が生きて分裂を続けて繁殖しつつあるならば本のアメーバは繁殖せるアメーバによって明かに不死不滅なる如く、分裂せる親の旧き部分が死して新らしき親の部分が子となって分裂し孫となって分裂して繁殖しつつあるならば、元との親は繁殖せる子孫そのものとなって明かに存在し肉体においても不死の精神においても不滅なり。すなわちその死したりしと見られる親はあたかも爪の落ち髪の抜け表皮の脱落すると同一に、子と云う親の部分の生存進化の為めに親自身が親自身の用なくなれる部分を去ることなり。

 霊肉の不死不滅、食物競争と雌雄競争との生物学における地位

 −科学は一元論となり宗教に帰へれり。唯心論の要求たる精神の不滅は唯物論の説明たる物質の不死によって満たされたり。物心もとより一元にして人は肉体においても精神においても不死不滅の者なり。斯く生存競争の単位を定めるには個体の拡大と云うことを知ると共に、また実に個体の延長と云うことを解するを要す。

 雌雄競争による生存競争とは斯くの個体の延長と云うことを解してのみ解せられるを得べし。生物とは生存の欲望あって生存しつつあるものなり、生物は生存の欲望の為めに生存競争を為さざるべからず。すなわち生物たる以上は生存競争は免かるべからざるものなり。故に生物は現在の生存の為めに生存競争を為しつつあると共に、永遠の生存の為めに更に激烈なる生存競争を為さざるべからず。

 −すなわち食物競争と雌雄競争とは生物界を通ずる生存競争の二大柱なり。しかして斯くの生殖の目的の為めにする雌雄競争とは、アメーバの如く雌雄の別もなく分裂によって生殖するものや、アブラムシの如く雌のみによって無数に生殖するものや、ヒルの如く一匹にて陰陽両具を有し他のいかなる一匹にても会すれば足ると云う生殖の者には無き所の者なり。競争は進化なり、総ての進化は競争によって得たる者なり。故に他の進化ある高等の生物に至って種属対種属の生存競争たる食物競争の激烈なると共に、種属内個々の生存競争たる雌雄競争は更にいよいよ激烈を加えて、食物競争のそれよりも更に遥かに生物を進化せしめたる生存競争なり。これダーウィンの混沌たる組織なき生物進化論においても事実としては無数に羅列せられたるものにして、吾は生存競争の中における食物競争と雌雄競争とを左の如く考う。

 −食物競争は種属対種属のものにして同種属間の個々が他種属たるそれに対する競争は間接に無意識的なり、雌雄競争は同種属個々のものにして他種属とは無関係に同種属の個々が個々を競争者として直接に意識的にする生存競争なりと。

 食物競争による進化と雌雄競争による進化、天地一切間の美は雌雄競争による進化なり、詩人の直観と吾人の科学的研究、生物進化論に対する組織組み替えの要求、万有進化の大権を社会全分子の手に属せしむ

 実に、天地一切の美と称せられる全ての美は殆どことごとくこの永き命の為めにする生存競争の結果にあらざるはなし。もとよりある虫類の美をなせる保護色の如きはそれを食物とせんとする他の鳥類に対する種属対種属の食物競争による進化にして、獅子の牙、鷲の嘴、牛の角、馬の足、皆それぞれに食物競争による進化なりといえども、その直接に、意識的に、個々対個々の生存競争たる点において雌雄競争に及ばざること遠し。雪の頂より待たれるウグイスの初音は雌を喚ぶ雌雄競争によって進化せる者にして、一声を詩人の窓に落して雲に消ゆるホトトギスの恋歌は永き命の為めに争える生存競争の淘汰なり。柔和なる小鳩の白き翼の舞も雌雄競争の進化にして、剛健なる雄鶏の蹴爪と鶏冠とによって闘うも永き命の為めに争える競争の淘汰なり。オシドリの雄の美、クジャクの雄鳥の麗、一夫一婦と一妻多婦との差あるも共に雌の愛を先めんための雌雄競争による進化なり。獣類においても然り。獅子のぼうぼうとして長きたてがみは決して食物の為めにあらず、獣王の威厳を示して牝の愛を得んが為めの雌雄競争による淘汰にして、食物の目的の為めには不便を極める雄鹿の角も雌雄競争の故に争う激烈なる競争の進化なり。昆虫類の美色美音に至っては僅少の保護色を除きて総てこの雌雄競争による進化なり。胡蝶と名付ける装飾を極めたる春の舞踏家なくば新緑の春野も砂漠に等しかるべく、切々の哀音を奏づるスズムシ・マツムシと云う秋の音楽家なくしては秋夜の月も一塊の銅板に過ぎず。実に彼等恋愛の可憐なる競争者の為めに春は恋に舞い秋は恋に歌う。ただに動物のみに非ず、かの虫媒植物と名づけられたる虫類の媒介によってオシベとメシベとを接せしむる所の植物に至ってはその恋の文使を招かんが為めにいかに花の顔を飾って待つぞ。桜花の爛漫たるもこれが為めなり。牡丹の濃艶なるもこれが為めなり。春草の臈たげなるも、秋花のしとやかなるも、実に一切花の美しき者はことごとく雌雄競争による進化ならざるものなし。

 然るに今の獣類教徒はその生物進化論を講ずるに必ず嘲罵の余沫を詩人の上に飛ばし、かの詩人の如きは努めて天地の美を歌うも宇宙は彼等の考えうる如きものにあらず、蝶の舞うを雀がねらい、雀のねらうを鷲がうかがい、その鷲をまた猟夫が射んとす、天地の楽しきを歌う詩人等は愚なるかなと、詩人は天地の美を直観し、吾人はその直観を科学的研究において確実ならしむ。宇宙の美は恋によって作られたる者なり、恋によって作られたる総てが宇宙の美なり。生物進化論において雌雄競争の占むべき地位を解せず、徒らにダーウィンを反響してこの大なる天則を付録的に持て余しつつある獣類教徒が詩人を解せざるは当然にして生物進化論を掲げて他を侮弄するは僭越の極なり。実に吾人は力を極めて断言する者なり、直接に意識的に同種属間の個々対個々の生存競争は雌雄競争のみにして、しかもその直接に意識的に個々対個々の者なるが故に最も生物進化に与りて力ありし者なりと。しかしてこの断言は誠に今の生物進化論の組織そのものに対する組み替えの要求なり。

 生存競争の劣敗者たる失恋者

 社会主義時代における個人単位の生存競争とは斯くの永き命の為めにする雌雄競争のことなり。すなわち現在の生命を維持する為めの食物競争が個人間に行われざるが為めに、雌雄競争は驚くべき強盛に行われ驚くべき速力を以て社会を進化せしめん。

 −換言すれば万有進化の大権を特殊の個人に属せしめずして社会の全分子の自由競争に任じ、全分子が自由なる恋愛の競争の間において真ならざる善ならざる美ならざるものを失恋者として淘汰するに至るべしと云うことなり。自然は快楽に対照せしめんが為めに苦痛を与う。今日社会主義を讒誣する者が、社会主義は人生より苦痛を除き去らんとする空想なりと云うが如き矢を番えつつありといえども、これ実は社会主義の効果を賞賛するに過ぎるものにして彼等は今日すでに社会主義者のある者によって唱えられつつある自由恋愛論の叫声に耳を傾けるを要す。斯くの自由恋愛論は雌雄淘汰律の発動の自由と云うことにして、この生存競争によって淘汰される失恋者は社会主義のいかんともする能わざる所の者なり。斯くの如きは個人主義時代の独断的人道論を以て見れば、なげくべきことなりといえども、社会進化の原理は涕泣を以て阻み得べきものにあらず。人類は一生物種属なり、一生物種属としての人類の進化に努力しつつある社会主義は当然に生物進化論の総ての法則の外に逸する能わずして、社会進化論は生物進化論の巻末の一節なり。故に社会主義は第一の主張として人は高尚なる傾向を有する者なりといえども、その生物たる点において先ず生物として生存すべき物質的資料としての食物競争あることを認識し(食物競争の真意義につきては後に説く)、人類社会は最も高き進化の先頭にあるものなりといえども等しく生物なるが故に、生物進化の重大なる天則たる雌雄競争によって社会を進化せしむべしと云う。しかして、その雌雄競争の生存競争とはあたかも食物競争のそれの如く、生物種属の階級を異にするによってその内容を異にするを以て、虫類のそれが鳥類と異なり、鳥類のそれが獣類のそれと異なる如く、獣類と生物種属の階級を異にせる人類の雌雄競争の内容は全く『類神人』として恋なり。

 食物競争は雌雄競争に先だつ、現 実 と 理 想、下等生物にては食物競争の優勝者が同時に雌雄競争の優勝者たる者多し

 しかしながら、『恋は満腹の後なり』。総ての生物種属を通じて雌雄競争は食物競争に圧伏せられ、食物競争の優勝者を以て雌雄競争の優勝者を決定するの条件となす。理想とは現実の満足されたる上に将来に到達すべき更に高き現実なり。雌雄競争はその将来の命の為めに争う者なるが故にその優者勝者を理想に対照して求め、食物競争はその現在の命の為めに闘うものなるが故にその優者勝者を現実の状態に得て甘んず。理想は現実の後に来るべき現実なり。故に他種属に対して現実の生存を維持するより外なき生物種属においては理想をその子孫たる永き命において実現せしむる所の雌雄競争無く、先に引例せしヒル、アブラムシの如き下等生物は単に種属対種属の緩慢なる生存競争に止まる。しかして更に高等なる生物といえども、なおその種属を食物とせんとする種属及びその種属が食物とせんとする種属との間に行われる食物競争の困難の為めに、現実の命を維持することのみに急にして理想の実現を雌雄競争によってその子孫たる永き命に期待すること強烈ならず。著しき例はかの肉食獣の雌雄競争の優勝者が同時に食物競争において優勝者たる所の強猛なる者の如きこれにして、鶏が闘争に勝利を得て多くの牝鶏を率いつつあるは人の知る所なり。

 人類において食物競争の優勝者が雌雄競争の優勝者たる過去及び現在

 人類といえどもまたこの例に洩れず。現在の命を維持せんが為めの食物競争が理想を実現すべき永き命の為めにする雌雄競争を圧伏し、もしくはその一条件としつつあるは歴史の始より今日までを通じて事実なり。部落単位において食物競争をなし、しかもそれが戦闘によって決せられし漁猟遊牧時代より、封建的区画を単位として食物競争(すなわち土地の争奪)をなし、しかもそれが武力によって決せられし中世史時代に至るまで、酋長もしくは国王貴族が食物競争の優勝者たる武力を以て同時に雌雄競争の優勝者たりき。今日食物競争の土地争奪がその優勝を武力に訴えて決しつつある国際間においては、その優勝者たる軍人階級が同時にその食物競争の優勝者たるゆえんを以て雌雄競争の優勝者となりつつあるが如し。斯くの意味において今日自ら称して文明人となす吾人は、あたかもアイオワ洲のスー族が人頭を得て始めて頭上に羽毛を飾り結婚を要求すべき資格を備うと云うと大に異ならず。否! 

 今日の文明人はその野蛮なる食物競争の方法を国際間にのみ止めて国内の食物競争は個人主義の労働説を以て理想とするに至れり。しかしながら先にしばしば説ける如くその単に理想に止まりて依然として武力時代の占有説を継承し、しかして機械の発明の為めに純然たる経済的貴族国となれるが為めに、雌雄競争は全く食物競争の経済的優者に圧伏せられ(下層階級より売られて上層の妻妾となる如く)、また食物競争の経済的優者を以て雌雄競争の一条件となすに至れり(財産の多寡を以て結婚の条件となしつつある者の如し)。斯くの意味において今日の文明人はあたかもチェラデルヒーゴの土人が女子の父母に財産あるいは労働を払いて妻を購買すと云うと誠に差なし。理想よりも現実なり。食物競争は雌雄競争に先だつ。個人主義の労働説は娼婦の淫を売ることを労働なりと説けり。吾人はこの尊敬すべき労働説を認めて決して男子が金銭を以て娼妓を強姦し、その巡娼と云うが如きは単に地位を転換せるに過ぎざる輪姦なりとは云わず、これ雌雄競争が食物競争に圧伏せられたる最も著しき事実なればなり。しかしてかの財産の多少を以て結婚の条件となる所の上層階級に至っては実に食物競争の優者を以て雌雄競争の条件となしつつある興味ある事実として認識するの外なく、彼等売淫的令夫人は御酒肴付一夜五十銭と云う下層階級の売淫者よりもはなはだ廉価に、丸髷付一生ロハと云うに過ぎざるなり。

 尻下の権利と男色奴隷、積極的売淫の男子階級

 令夫人のある者は言はん、旦那様の如きは尻の下なりと。これ決して笑うべきことにあらずして充分に主張せられたる権利の声なり。もとよりかかる令夫人階級においてはその称する旦那様なるものの国家の為めに行う政治的会合がいかなる機密を有するやは察し得べからずとするも、尻の下の一語は今日の男子階級の大部分がまた等しく雌雄選択権の喪失者となれるものなることを宣告する侮辱に非ずや。吾人は社会主義者なり、然しながら男子なり、吾人は女子の階級に口出しするの越権よりも吾人自身の悲惨なる醜態に省みざるべからず。芸娼妓を醜業婦なりとし、夫君の労働を扶けて貧に苦しめる尊き主婦を眼下に見下して行く令夫人の丸髷付売淫者の軽蔑すべき極なるはもとよりなるべし。しかしながら街頭馬車を駆って道行く人を叱咤しつつある男娼的政治家学者の、いかに驕慢に漲ぎれる微笑をたたえて行くよ。娘を売る親あり、婿を買う親あり、天下の女子が白粉と絹服とを以て装飾を尽くし、海老茶袴を穿ち女学校の卒業証書を得て金箔を付くることが、目的とする所ダイヤモンド入指環の価格にて高く売らんが為なる如く、今日男子の多くがハイカラを着くるも、水白粉を塗るも、政治学経済学を修むるも、早稲田大学帝国大学の肩書なかるべからずと云うも、帰する所令嬢なる者の持参金の多額に存するなり。

 女子を購買する権利と男子を購買するの自由

 吾人は実に問う。−今日の男子にして一切階級の虚飾を剥奪せる裸体の女子を諸手に抱きて、吾れは汝の美に向つて二世を契るべしと広言し得るもの果して幾人ありや。女子は消極的にして男子は積極的なり。故に下層階扱が生活の為めに消極的に犯罪者となり、上層階級が積極的に高尚なる生活の為めに犯罪者となる如く、女子の売淫は令夫人階級を除きては多く生活の為めにする消極的の者にして、男子は高尚なる生活の為めに積極的に売淫す。否! 吾人が前編に少しく述べたる如く経済上に独立せざる者は政治の上にも道徳の上にも自由なし。往年男女同権なる能わざりし時代は女子が財産権の主体たる能わずして男子の殺活贈与するを得べき経済物たりしが為めなる如く、今日権利を抱きてその実質たる財産なき男子階級が上層階級の女子の為めに尻下の抑圧を受けるは誠に科学的方則なりと云うの外なし。権利を主張し得ざる者は奴隷なり。然らば吾人は無数の売色奴隷たる女子を認めると異に恋愛の権利を剥奪せられたる総ての政治家学者を人格ある自由民なりと弁護する能わず。(奴隷なり−−奴隷の意志が国家の意志なりとせられ、吾人はその下に呼吸しつつあり)。しかして奴隷より自由民が光栄なるならば、俳優買の令夫人と尻下の権利を主張する令嬢とは、その奉持する男色奴隷より遥かに光栄なるべきはローマ法の遠きよりして認められたるべき権利にして上官の恩賜の妻君に低頭して昨夜の外泊を弁解しつつある政治家や、妾宅に行き度きを忍びてあたかも情郎ある芸妓の旦那の勤めをなす如く成り上り者の実業家より神輿を奉ぜし醜怪至極の令夫人の機嫌を取りつつある学者よりも、福原の銅像を以て名を後世に垂るべき伊藤博文氏、お鯉なる者のことを以て有名なる桂太郎君の如きはこの厳粛なる権利を極度まで主張せるアテネの古代に見るべき自由民なり。実に自由民と奴隷とは経済的基礎によって分る。伊藤氏桂君の如きが女子を玩弄するの権利あるは−−然り吾人は権利と云う、あたかも資本家階級の女子が堂々として待合に出入し以て吾人男子階級の者を快楽の犠牲として取扱いつつあることの完き自由なるが如し。芸娼妓を購買して家妻たらしむることはいささかの不道徳にあらず、男子自身が購買されて淫を売りつつあるは軽蔑すべき限りの罪悪なり。娘を売る親あり、婿を買う親あり、親に売られたる女子は芸娼妓となり親に買われたる男子は政治家学者となる。

 男女同権論は私有財産制と共に実現せられたり、貧富権論と云うのみ

 男女同権論の必要にして意義ありし時代は個人主義の革命による私有財産制度の確立と共に過ぎ去れり。然るに今や経済的貴族国の世となって社会の大多数は権利の基礎たる財産なきを以て、令夫人と妾とを購買するを得べき男子と政治家学者と俳優とを購買するを得べき女子とに恋愛の権利は与えられて、他の階級の女子と男子とは往年の女子の如く全く奴隷となれり。男子のみが経済的独立を有せし時代において無権利の奴隷たりし女子の悲惨なりし如く、悲惨なる哉、経済的独立を失える男子は今や上層階級の女子に玩弄せらるべき奴隷となれり。ただ貧富同権論と云え、意義無くなれる男女同権論を今日において唱えるは直訳的反響もはなはだし。

 『福神』が結びの神となれり

 誠に斯くの如し。今日雌雄競争律の行わるべき選択権は全く男子にも非ずまた女子にも非ず。明かに言えば永き命において実現すべき理想に対する愛に非ずして、光輝ある物質の流通する所蓄積する所に従って雌雄競争律の中心点が移動するなり。すなわちいわゆる男女の縁なる者、今や出雲の神の世論にて決する共和的合議制にあらずして独裁専制の福神が結びの神となれり。

 雌雄競争によって理想を実現すと伝う理由、雌雄同数ならざる下等動物の雌雄競争と同数なる人類の進化、家庭単位の食物競争は理想の実現に非ずして単に現実の継承に止まる、社会の進化と恋愛の理想の進化

 −『福神』の像は婚礼の床に置かるべからず、社会主義は社会進化の理想の為にこの像を駆逐せんとして自由恋愛論となれり。アメーバの如き無性生殖、アブラムシの如き単性生殖よりして雌雄両性に分れて相競争するに至れる高等動物は、殆ど全くこの競争によってのみ高等にまで進化せるものにして実に進化律の特寵を受けるものなり。理想の実現は雌雄競争による。生物は斯くの雌雄競争の為めに異性の中より自己の最も善にして最も美なりとする者を選択して獲んと望み、しかしてその望を達せんが為めに同性中において自己を最も善く最も美ならしめて他の競争者に打勝たんとするの努力を生じ、その努力の為めに異性各々自己をより善により美ならしめて、その生れたる子なる新らしき自己を遺伝と出生後の教育とによってより善なるより美なる自己となす。実に宇宙は斯くの雌雄競争に依って桜花となり牡丹となり胡蝶となり秋蛩となり鳴禽となり、以てその解すべからざる絶対的理想の実現に努力しつつあるかの如し。『類神人』は斯くの理想のある部分を実現すべき任務を帯びて−すなわち人類としての進化の程度において解し得たるだけの相対的理想に向かって進化しつつある者なり。しかしてその進化において最も先頭に立つ者なるが故に他の高等生物の与えられざる進化律の特寵を最も多く被る。すなわち他の動物にては雄性の者が雌性に比してはなはだ多数なるに反して人類は雌雄殆ど同数なることなり。故に他の生物において進化せるは(食物競争による進化を除きて、)雄性のみなるに反し人類は雄性の外に雌性の美は特に著し。彼等の多くはあたかも一の雌蝶に対して百の雄蝶が競争する割合なりと云うほどに雌雄の数がはなはだしく相違しその殆ど同数なるものといえども一夫が多くの妻を有する関係よりして、為めに雌は雄の如く相競争せずとも自由に多数の雄の中より選択するを得べく、かつ産卵の任務よりして美色美音の如きは他動物の注意を引き易くして危険なりと云う他の食物競争の為に、雄の進化に併行する能わずして総て皆、はなはだしき懸隔ある下級の状態に止まる。斯く彼等の中の雌が雌雄競争律の外に立って傍観者となって受動的の態度を執れるは、これすなわち進化律の慈愛より排斥せられたる者にして進化律の継子なり。然るに進化の先頭に立てる人類に至っては雌雄ことごとく同数なるを以てそれにこの慈母の懐に入り相携へて駈けりつつある特別なる寵児なり。

 すなわち男女同数と云うことは、女は女との競争によってその嬌笑と優美とを進化せしめ、男は男との競争によってその威厳と知識とを進化せしめたる者なり。然るに今や如何の状ぞ。愛の為めに綻ぶべき嬌笑中には経済的要求籠り、優美なるべき肩に重荷を負担せしむ。老嬢の皺よれる額と近眼鏡とは決して女子の美に非ざるべく、鉄の如くなれる腕骨と臼の如き尻とはツマル土人を除きてはいかなる野蛮人に見するも醜と云うべし。いかにシルクハットを戴くともその頭蓋骨の中に平坦なる一塊の物質より外有せざる寄生虫属の増加は決して男子の進化して知識の発達せる者と云う能わざるべく、同一なる社会の分子たりながら経済的君主貴族の前に匍匐して忠順の奴隷的服従を強いられつつある政治家学者は、如何に髯を厳めしくして馬車に身を飾るとも、勲章を帯ぶるとも、大礼服を着たるとも、大臣となるとも、決して進化せる男子の威厳と云う能わず。

 吾人はあえて今日の食物競争が単純なる個人単位の者なりとは云わず、実はその永き命たる子孫が食物競争の劣敗者たらざんとするよりの家庭単位の者なりとす。すなわち食物競争と云い雌雄競争と云い、一は現在の我を、一は永き命の我を維持する努力たる点において生命維持の物質的資料を得べき経済的競争たるは論なし。すなわち今日の雌雄競争は男女各々が自己をより善くより美にして永き命たる子孫を進化せしむと云うよりも、単に永き命たる子孫がその命を維持すれば足るとして各々の理想とする所の男もしくは女を選択することを第二に置くが故に、その子孫は自己よりも進化する能わずして理想の実現たるべき子孫は単に現実の継承者たるに過ぎざるなり。否、理想の男と云い理想の女と云うは今日全く経済的優者たるなり。すなわち理想の内容には光輝ある物質を以て充塞せらる。天下の男と女とは黄金を持てることその事が天下の女と男とに理想の恋人として恋せられるなり。社会の進化に一の不合理なることなし。人類種属が種属の維持進化の為めに腕力に訴えて生存競争を為せる初期においては、腕力の優れなる者が社会の維持進化に最も利益ありしを以て同時に雌雄競争の優勝者となり、その時代の女子は最も剛健克く闘うものを理想として恋し、その理想の男子がまたその当時における理想の女を選択して、ここに社会の中において最も理想に近き男女の結合を得、その子孫が社会の中における最も理想的なるそれらの遺伝を受けて剛健克く闘うものとなり、以て社会の理想を実現しつつ進み来れり。しかして今日は腕力による経済戦争にあらずして労働もしくは知識を以てする経済戦争なり。故に腕力を以て他の経済物を略奪する者は刑罰に問われると共に離婚請求の理由たるほどに雌雄競争の敗者として理想の内容を全く一変し、労働もしくは知識によって経済的優者たるものを恋愛の理想となすに至れり。社会の進化とは経済的進化なり、故に労働もしくは知識を以て経済的優者たるものを雌雄競争の理想としつつあることは、怠惰なるもしくは愚鈍なる分子を淘汰し最もよく労働し最も多く知識あるものが子孫を得、その子孫が社会の中における最も理想的なるそれらの遺伝を受けて最もよく労働し最も多く知識あるものとなり、以て社会の理想を実現して社会の経済的進化を来しつつ進み来れり。

 現今の恋愛の理想、理想の為めに現実を犠牲とする下等生物、恋愛の理想の進化と自由恋愛論

 −しかしながら誤解すべからず、社会の進化は純然たる段落を画せらるべきものにあらず。今日の労働と知識とを以てする経済的優者はなお腕力に訴えたる生存競争時代の思想を継承してその労働と知識とは全く経済的資料たる所の他種属の上に向かわずして同族間の、すなわち吾人同胞間の闘争に用いられつつあるなり。すなわち第一編の『社会主義の経済的正義』において述べたる経済的戦国と云うものこれにして、上層階級の用いる知識と下層階級の絞られる労働とは全く他のそれらの知識と労働とを打消さんが為めに過ぎざるなり。この残虐醜悪なる経済的戦国にあえては個人維持の生存競争たる食物競争の優勝者が残虐醜感なる者なる如く、子孫進化の生存競争たる雌雄競争の優勝者はまた誠に残虐醜悪なる者ならざるべからず。闘争に勝てる闘鶏が数十羽の牝鷄を率いる如く倖運なる黄金大名階級の勝利者は一夫一婦論者を睨視して無数の雌鷄を妾宅に蓄い置くにあらずや。ホトトギスの血に鳴く如き失恋の詩人ありとも鳥類と競争の内容を異にせる人類の雌はその羽毛を黄金に装飾せんが為めに恋愛神聖論者を嘲笑して老狒の前に群をなして集まるにあらずや。ボルネオの土人が人頭を持ち来たりて結婚の資格を示す如く、同胞の血に塗られて輝やくダイヤモンドの指環を贈らざれば婚姻の資格において欠乏を感ずるに非ずや。野蛮部落の婦女が最も猛悪にして、残忍なる者を選んでその身を任すと異なるなく、蒸気と電気とを有する野蛮部落は黄金戦争の虐殺において最も猛悪残忍に働きたるもののみ婦女を得るなり。実に黄金なきものは家庭を作る能わず、作られたる家庭も破壊せらる。家庭は実に雌雄競争によって得たる理想の男女が遺伝と教育とによってその子女に理想を実現せんとする社会進化の唯一の聖場なり。然るに依然として今日の如き経済的戦国を維持して(もとより維持すべからずといえども)、かかる雌雄競争が数代に渉りて行わるとせよ、人類は果していかなる方向にその進行を転ずべきぞ。婦人の嬌笑と優美とは男性化の学問と男子的労働とによって維持せられるものに非ず、奴隷的服従の経済的武士土百姓と寄生虫の階級とによっては男子の威厳と知識とは進化すべきものにあらず。高尚なる現実(すなわち理想)、の為めには卑近の現実の犠牲とされることは高等生物の総てに在り。かの虫類の美色美音がはなはだその対敵たる鳥類の注意を引いて個々の虫類としての維持生存には不適極まるに係わらず、なおその雄性のみは遥かに雌に優る多数を以て多くの犠牲を供しつつ、以てその音楽の妙音と舞踏の晴衣とを進化せしむるに余念なきを見よ。生物はただに種属の維持を以て足れりとする者に非ず、更に進化せる種属たらんが為めに雌雄競争をなし、雌雄競争の進化の為めに無数の犠牲を食物競争の中より出して平然たり。人類は種属対種属の食物競争においては他の総ての生物種属の上に最も強き優勝者たるを以て(もとより未だバイ菌の如き種属には全く打ち勝つ能わずといえども)、雌雄競争を為すに当つて他の生物種属の如く食物競争に妨害せられるの憂、遥かに少なし、故にかの虫類の雌が他種属の食とならんことを恐れる食物競争の為めに雄虫の如く雌雄競争をなす能わずして進化に遅れるが如くならず、女子は男子と同数を以て男子のそれの如く女子間の雌雄競争によって健確なる急調を以て進化しつつある者なり。男女を同数に産み落して人類にのみ偏寵を示せる進化律は雌雄競争の選択権を男女総ての手より奪いて不霊冷血なる『福神』の絶対無限なる淘汰権の下に置かんが為めならんや。土人部落においても命を的の恋路はあり、今日の経済的戦国の中において、なおかつ知識広く道徳高く容姿美しき男女が恋愛の理想とせられつつあるは実に社会進化の理想を社会の全分子たる男女の総てがその子孫において実現せんとしつつある所の要求にして、ここに社会主義の自由恋愛論あるなり。

 旧思想の圧迫を排除すとの意味においてする自由恋愛論、恋愛の自由は先天的に非ず、社会主義の自由恋愛論は革命の為めに唱えらる、詩人の直観せる情と恋の二大鉄槌、恋の要求の最も充たされざる蟻蜂の社会

 故に社会主義の自由恋愛論が事実に現れるの世は食物競争が今日の如く、個人もしくは家庭もしくは経済国体もしくは国家を単位として同種属が競争の対手たる事の無くなれる−−すなわち経済的方面において社会主義が実現せられ人類を単位としての対他種属の食物競争に入りし時ならざるべからず。自由恋愛論が旧思想を抱ける親の圧迫を排除すとの意味において、すなわち自己が新しき自己の利益の為めに自己の旧き一部より脱却せんとすとの要求において唱えられる事も、もとより大に意義あり。これすなわち社会の旧き分子と新しき分子との衝突にして社会とは新分子が旧分子に代ることによって(すなわち旧分子自身が死滅することによって、もしくは新分子の為めに地位を奪われることによって)進化する者なるを以てなり。しかしながら始めより人は自由なるものに非ず、その自由なるを得るは人の自由を認識する所の社会良心あるが故にその範囲内において自由なるものなりと前編に説明せる如く、恋愛の自由といえども父母の良心の包容外に出でて先天的に自由なりと云うに非ず、父母によって作られたる良心に甘んぜざるまでに子女の良心が進化せる場合においては進化せる良心に従って行動すべしと云うことなり。故に子女が父母の意志の下にあって、その良心を作られつつある間においては父母は自己の良心を以てその恋愛を禁圧する権力を有すべく、子女は自己の良心を以て父母の良心を排除するの値ありと認識せざる間は恋愛の自由なし。社会主義の自由恋愛論はかかることの外に当面の意義を有す。すなわち単に父母の旧思想を排除すとの意味ならば社会主義に待たずともそれ自身の途あり。

 −すなわち月下に相抱て囁けば可なり。社会主義の自由恋愛論とは現社会転覆の為めに唱えらる。『政治家が議論しつつある間に情と恋とは世界支配す』。社会主義者は詩人の直観を科学的根拠において明確に把持し、今の上層階級が政府を作り議会を作って議論に日を送りつつある時、この『情』と『恋』との二大鉄槌を振るって社会の根底より組織を立て替えんが為めなり。生物において現実の要求は食物にして理想の要求は恋愛なり、斯くの厳粛なる人生の要求−−社会の維持と進化との要求が無視せられ圧伏せられるの社会は一打撃を以て覆るべき浮ける基礎の社会なり。斯くの要求が社会の一部にのみ充たされて他の総ての分子が純然たる犠牲として存する著しき例は、かの蟻と蜂の社会に在り。(上層階級の学者は努めて蟻蜂のそれを以て人類の社会に比し、その蜂に女王あるを以て無用になれる故、英女皇あるいは今のオランダ女皇の存在を弁護し、蟻の雄虫のみ労働せずして存するを以て貴族等の淫蕩に権利を付与す。しかも生殖後無用となれるそれらを労働蜂の集まって噛み殺すに比することあらば秩序紊乱と云う)。

 全分子恋愛を要求する人類は全分子理想を有する故なり、恋愛と平等主義、悲惨なる家庭論、金井博士の家庭論よりする社会主義の非難、私有財産制度は民主主義を確立し女子を開放せり、自由恋愛論と女権問題とは無関係なり

 然しながら最も高等なる生物たる人類は男女総て理想を有し、理想の実現を社会全分子の競争によって得たる者なり。一の理想は実現せられて更に高き理想は踵を接して現る。人類はその進化するに従ってすなわち理想を実現することを重ねるに従って理想を高くし、従って恋愛の要求
を大胆華麗ならしむ。在原業平をして今日のドイツ宮廷に産れしめよ、人類は大にその美を進化せしめてカイゼル髭の醜貌は人類より淘汰さるべし。恋に上下がある者かと言いし(吾人はこの大胆なる平等主義の英雄の名を忘れたるを恥じず)女子をしてドイツ皇太子の傍に在らしめよ、珠玉を飾りたるガマは雌雄競争の劣敗者として人類は大にその美を進化せしむべし。ああ『情』と『恋』! 情へたる者が何の故に一片のパンだもなきか、恋せる者が何の故にその恋せる男と女とを奪われるか。斯くの解決が社会全分子の手に答案として与えられたるとき−−すなわち経済的貴族国が地震の如き轟きを以て崩壊するの時なり! 語を寄す、羊の如き可憐なる家庭論者よ。恋女房と一人の愛児とのみなる間は僅少の月給はその家庭の城壁たり得べし。しかしながら愛児の二人となり三人となるに至らばこれ誠に城内に内応者の出でたるものにして、またそのすがりつつある資本家の冒険、会社の破産、あるいは解雇等によって夫君の破靴と腰弁当とが用なくなれる時、汝の兵糧はよく幾日を支え得べきぞ。この小さき城壁を維持し兵糧を蓄えんが為めに羊の如き天亶の主人は狼の如くなって世に戦い、昔日の希望に輝ける活気は失せて、三十にして老者の如く衰え、簿鬚の下にたたえたりし微笑は石の如く閉ざされたる陰暗の唇となる、海老茶の袴に花の如く笑まい小鳥の如くさえずりし少女は一瞬に去りて、その豊頬は生活の苦難の為めに落ちてまた笑まず。愛の光たるべき小児の小さき手は母の痩せたる胸の骨を更に削らんとするも
のなるかの如くその乳房を探ぐる。家庭論とは悲惨の中より落ちる涙の笑まひに非らずや。家庭の窓を開きて怒号して押し寄する海嘯の何処より流れ来るかを見よ。金井博士の『社会経済学』が社会主義を謗って『私有財産制度の廃止は道徳上並に経済上の利益にとって必要欠くべからざる家庭の神聖を毀傷し家族制度を打破するに至らん』と云いし如き、誠に人類に通ぜざる意志の表白と云うの外なし。家庭論者よ、家庭の神聖は個人主義の革命を以て論理上の事実となれり。すなわち貴族階級のみ土地を所有して一般階級には単に小作権をのみより有せざりし時代の如くならず、また男子のみ所有権の主体にして女子にはその独立を維持すべきなんらの経済的基礎なき時代の如くならず、誠に経済的幸福に囲繞せられたる女子はかえって男子を玩弄するの自由あるほどになれる時代なり。実に私有財産制度に感謝すべきものはそれによって確立せられたる民主主義と、しかしてこの女子の開放にして、恋愛神聖と云い一夫一婦と云って家庭論を為すものに取っては私有財産制の打破を叫ぶ社会主義の敵なるが如きは一見然るかの如し。しかしながら見よ。家庭の維持、男女の独立に欠くべからざる私有財産とは往年のそれの如く経済的貴族階級のみの者にして小作人の土百姓、裏長屋の労働者はもとより可憐なる家庭論者の如きはただ月末に与えられて味噌屋に払うまでの私有
一般階級には再び私有財産なくなれり財産に過ぎざるに非ずや。もし今日あって明日なき月給、朝得て夕に消ゆる賃金が私有財産制度なりと云わば、一年間の期限を以て平等の購買力として分配される社会主義の私有財産はむしろ世襲財産の名あって然りとすべし。家庭論を口にして男子の楽むべき平和なる世は遠き将来なり。武力時代において男子が最も戦闘の義務を負担せる如く、来るべき大革命の前において最も戦闘に堪えうる所の男子が、小天地に閉息して児女子の安逸に耽る如きは男女の分化的発達を忘却する者なり。女子はこの残虐なる矢叫びの達せざる所に置きて月桂冠を作るの任務に服せしめよ、革命戦争の中にその繊細なる手を捉えて躍り入る事はこれ落城の時を慮るものにして社会主義は巴御前の出馬によって戦うほどに望なきものに非ず。社会主義の自由恋愛論は個人主義時代の女権問題とは自ら無関係なり。実に今の時において家庭論を為して社会の傍観者たる者の如き、その羊の如きところは以て憐れむべしとするも、単に経済的貴族等の大規模に為しつつある利己的行動を貧弱なる状態に行わんとする消極的利己の者に過ぎず。世に軽蔑すべきは家庭論の流行なり。

 個人主義時代の男女同権論の誤謬を継承するいわゆる社会主義者、分化的進化をなせる個人としての男子と女子とは平等にあらず、自日恋愛論とは社会の全分子たる男女の理想とする所を自由に実現して社会を進化せしめんとする恋愛方面における自由平等論なり、経済上の独立による恋愛の自由、女学生の堕落とは女子の経済的独立による奴隷的義務の拒絶なり

 誠に斯くの如し。故に自由恋愛論に伴う所の男女同権論とは、個人主義時代のそれの如く男子たる個人と女子たる個人とを比較して精神上の能力もしくは肉体的活動において同等の力ありと云うが如き事実を無視せる独断に論拠を置くものにあらずして(個人主義の独断を継承して自ら社会主義者と称するものに斯くの失態多し)、社会の進化の為めに最も生物進化に力ある雌雄競争を自由ならしめんが為めに男女に平等の選択権を与えよとの意味に解すべし。自由平等論は何処までも社会進化の利益の下に唱えられざるべからず。女子はその月経、妊娠、分娩、哺乳の大なる犠牲の為めにエナジーを消耗する事はなはだしく、為めに特殊の男性的なる者か、あるいは両性的の者か、もしくは老嬢(多く後には女性たる所を失うと云う)かに非ずしては、決して男子と精神的肉体的競争において対等に立つ能わざる者なればなり。実に個人主義の独断的平等論の如く思想上においてのみ思考し得べき原子的個人を仮定して総ての個人と個人とを比較する事によって男女同権論の基礎とするは、あたかも個人たる大人と小児とを比較して精神的肉体的能力において同一なりと云うと異ならず。社会主義は科学的基礎によって大人と小児との異なる如く、分化的進化をなせる男子と女子とが断じて同一の者に非ざる事を認。然しながら科学的基礎によって社会の旧き分子と新らしき分子との自由なる競争によって、すなわち前代の理想を実現して之を維持せんとする現代の旧き分子と現代の理想を実現して後代の進化に到達せんとする新らしき分子との自由なる競争によって社会の進化するを認める如く、社会の雄性の分子と雌性の分子とが各その自己の理想とする所の(すなわちその理想の大部分はその時代の社会の理想にして更にその各の個性を以て特殊にせる所の理想の)実現を永き命たる子孫において得んとし、その時代における社会の理想を最もよく体得せる男女が雌雄競争の中心となることによってのみ社会は進化するを得べしと主張する者なり。すなわち男女同権論とは恋愛方面における自由平等論なり。しかして総ての個人の自由平等が経済的従属関係なき平等の平面の上に立ってのみ自由なる如く、男女恋愛の自由平等論は女子が 私有財産権の主体たる能わずして男子に経済的従属をなせし時代、及び経済的活動の能力において男子に劣るが為に事実において全く経済的従属関係に在る現代、否、現代の如く財産の多くを有する女子に男子のかえって経済的従属関係に在る者の多き如き社会進化の過程にては遠き理想に過ぎず。

 (この点においても経済上の独立は総てに通ずる独立なり、故にかの土地の略奪によって経済上に独立せる貴族等が君主に対する忠順の義務を拒絶して総てに独立を得たる如く、元禄時代の永き平和の為めに一般階級が経済的基礎を作ると共に更にその貴族等に対して忠順の義務を拒絶して維新革命の民主主義を立てたる如く、今の称して女学生の堕落と云うはその経済的独立より男子に対する奴隷的服従(すなわち彼に在っては二君に仕えずと云う忠順の義務、これに在っては両夫に見えずと云う貞順の義務)を拒絶して自由平等の曙光を得たる者なり。しかして往年の貴族が君主より乱臣賊子と云われたる如く、維新革命の民主主義者が貴族よりまた等しく乱臣賊子と称せられたる如く、女子が男子の放縦なる恋愛と同等なる恋愛を放縦に行うに至りしを見て、男子階級より堕落なりと云われるはあたかも社会進化の跡なる歴史が進化の当然として平等観の発展拡張するをかえって世の澆季なりとして慷慨すると同一なる野蛮人なり。堕落せよ、男子が堕落しつつある間何処までも平等に平行線をなして堕落せよ。女学生の堕落や実は進化にして誠に以て讃美すべしとせん、讃美すべきかな)。

 社会主義時代における個人単位の生存競争とは万有進化の大権を社会全分子の手に置き、理想実現の唯一の道たる雌雄競争の自由平等に行われることを云う。












(私論.私見)