北一輝の「国体論及び純正社会主義2」 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、北一輝の「国体論及び純正社会主義」を確認する。 2011.6.24日 れんだいこ拝 |
第二編 社会主義の倫理的理想 |
【第四章】 |
個人主義の犯罪観。先天的犯罪者の多くも祖先の社会的境遇の遺伝なり。生活の欲望と下層階級の犯罪。犯罪者の多くは家庭における道徳家たらんが為めなり。カルカッタの獄に繋がれたる貧民階級。緊急奴隷権と個人主義の刑法学の矛盾。高尚なる生活の欲望と上層階級の犯罪。高尚と云う文字の内容は今日黄金を以て充塞せらる。講壇社会主義の犯罪観。樋口勘次郎氏の犯罪不滅論。犯罪は病的現象に非ず。社会良心。進歩の先駆者と犯罪者。生体の根本的組織の革命とそれに伴う必然的現象たる犯罪の消滅。デュルクハイムの承認せる宗教的犯罪の消滅と社会主義による経済的原因に基く犯罪の消滅。普通良心の鋭敏と刑罰の軽減。社会良心の進化。社会主義は余りに多くを将来に期待する空想なりと云う先入思想。重力落下の原則と社会進化。宗教に関する犯罪の時代と社会良心の進化。強者の意志に反する犯罪の時代と普通良心の進化。生体の組本的組織の革命と犯罪の質の変化。犯罪の質と数。偏局的社会主義時代の社会良心と社会主義時代の社会良心。樋口氏は報復主義の刑法論を取る。社会良心の進化と死刑。法律の時代と道徳の時代。個性の変異を尊重する社会良心は変異の個性を犯罪視する者に非ず。今日の多くの犯罪は各階級の各異なれる階級的良心と国家社会の利益を理想とする良心との衝突なり。良心の内容の社会的作成。国家の法律は階級的行為を律するを得べきも社会の道徳は階級的良心を責める能わず。ドイツ皇帝の階級国家時代の良心。経済的貴族階級の良心。裸体に生れたる良心と階級的衣服。貧民階級の良心作成の状態。国家一社会内に地方的時代的良心を混在せしむ。社会主義と階級的良心を掃討の為めに革命主義となる。階級的良心と階級闘争。『人はただ社会によってのみ人となる』。倫理的生物と倫理的境遇。狼に養われて獣類に退化せる小児の事例。獣類の如く退化する変化性は神の如く進化する変化性なり。遺伝と境遇。摸倣性の説明。現代の人は総て狼の手に養われつつあり。空腹すなわち犯罪飽腹すなわち犯罪と云う意味。社会主義と個人の責任。思想の独立信仰の自由あるはその独立信仰を認める社会良心あるを以てなり。社会主義の自由論の真意義。純正社会主義は個人主義の進化を継承す。私有財産制と個人主義。社会主義はまた私有財産制の進化を継承す。経済上の独立と政治上及び道徳上の独立。私有財産制度の高貴なる意義と民主主義。経済的貴族国の現代として政治の自由なく道徳の独立なし。現社会に個人の自由なきはその根底たる個人の私有財産なくなれるを以てなり。社会主義時代には個人は他のいかなる個人にも属せずして社会に属す。忠君と愛国。個人は社会に対する経済的従属関係より社会の幸福進化に努力すべき政治的道徳的義務を意識するに至る。売買廃止はまたこの理由による。献身的道徳の武士道と素町人の利己的道徳との差は経済的関係において責任を有すると有せざるとによる。国家社会に対する経済的従属関係より国家社会に対する献身的道徳を生ず。個人社会と社会主義とを混同しつつある奇観。 |
以上、吾人は社会主義の実現による経済的進化によって貧困の消滅すべきことを説きたり。本編においては更に社会の道徳的進化によって犯罪の消滅を論ずべし。
個人主義の犯罪観、先天的犯罪者の多くも祖先の社会的境遇の遺伝なり、生活の欲望と下層階級の犯罪 吾人は先ず個人主義の犯罪観を排斥せざるべからず。もとより刑法学者によって体質犯と命名せられたる種々の生理上の病的原因に基く犯罪、またはアルコール中毒の為に不徳に抵抗する意志の薄弱による犯罪、または父母の犯罪的傾向の遺伝による犯罪の如きは、その犯罪者そのものに原因の存するを以て、個人を犯罪の責任体となす個人主義の刑法学はある程度までの理由を有す。しかしながらかかる一局部の者を捉えて犯罪人には総て先天的特質ありとして無用なる方面に研究の力を注ぎし時代は過ぎ去りて、今や犯罪は殆ど全く社会の必然的現象なりとして取り扱われつつあり。しかしてその体質犯と云う先天的特質の犯罪者といえども、犯罪者がその犯罪的特質を先天的に有するは、その父母もしくはその祖先がある特殊の境遇もしくは社会的圧迫の下に在って陥りたる犯罪的傾向を遺伝するに基くと解せられるに至れり。もとより吾人は犯罪が社会の必然的現象なりと云う理由を以て、意識の主体たる個人の責任をことごとく無視するものに非ずといえども、十九世紀の始めより犯罪の驚くべく増加せる事実は、社会進化の一過程として社会組織そのものの革命されるよりほか責任を問うべき何者をも見出すべからざるべきを思う。弁護を天職とする学者の解釈としてはこれを以てあるいは人口の増加に帰し、富の増殖に帰し、あるいは犯罪発見に関する司法機関の精微におもむきたる結果に帰すべし。 然しながら司法機関の精微に比例して犯罪の巧妙を加え、人口の増加、富の増加に比例して犯罪の増加すと云うが如きは現社会がある進化の断崖を走りつつある故なるを解せざるが為めにして、実は増加せる富が精微なる司法機関に護られたるある階級に壟断せられて増加せる人口はその凍餓を免れんが為めに巧妙なる犯罪を為しつつありと云うことが多くの理由なり。人は生物なり。生物は生活の欲望を有す、何が為に生活の欲望を有するかの如き問いは、何が為に生物たりしかと云う答えの与えられざるかぎりにおいては吾人の知り得る所に非ずといえども、ただ人は生物として生活の欲望を有することは事実なり。生活の欲望の為には空腹裸体なるべからず。人はこの生活の欲望を有する生物としての第一の欲望の為に、さらに高尚なる生物として生活すべき第二第三の欲望が圧伏されるを以て犯罪に陥るを余儀なくせらる。空腹すなわち犯罪と云うことは社会主義者中の皮相的見解者の信ずる如く総ての説明たり得べきものに非ずといえども、社会の下層階級より出づる殆ど総ての犯罪者は実に全くこの経済的欠乏に原因するなり。 犯罪者の多くは家庭における道徳家たらんが為なり、カルカッタの獄に繋がれたる貧民階級、緊急状態権と個人主義の刑法学の矛盾 否!彼等は家庭における道徳家とならんが為に社会の犯罪者となる。一切の動物界においても一匹の生物そのものが生存競争の単位に非ざる如く(次ぎに説く『生物進化論と社会哲学』を見よ)、今日の激烈なる経済的生存競争の社会において単位たる者は実に家庭なり。カラスが悪童にその雛を奪われる時にいかに鷲の如く狂うかを見よ。可憐のキジがイタチにその卵を襲われる時にいかに闘鶏の如く闘うかを見よ。本来草食動物に生れて最も柔和なるべき人類といえども、その妻子の愛の故に狼の如き純然たる肉食獣と化し去る。 −実に社会の犯罪者の多くは家庭における道徳家たらんが為なり。社会主義の倫理的理想はもとより之を是認せず。然しながら国家の我利の為には人類の幸福、世界の平和を無視し、外交を以て欺くも兵力を以て侵略するも貿易の名において略奪するも、これ国家の道徳なりと云うマキャヴェリズムが帝国主義の名において主張されつつある今日においては、もし彼等犯罪者のある者にして余は小さき帝国主義者として讃美さるべき栄誉を有すと云わばいかにする。今日、吾人は空気を略奪して相争わず、然るに昔時カルカッタにおいて残虐なるインド王に捕らえられたる百人の英人が一小孔によって辛うじて空気を通じ得る牢獄に繋がれなる時、欠乏の圧迫は終に充分に道義ある人士のみなりしに拘らず、その一小孔より空気を吸入せん事を争いて相殺傷せしむるに至りしと云う。これ何ぞインドの、昔話ならんや、現今眼前に存す。都会の膨脹と共に一方に城廓の如き障壁をめぐらし森林の如き花木によって新鮮にせられたる空気を占有しつつあるに拘らず、九尺二間の豚小屋の中において、腐敗と熱気の流通せざる空気の為に、いかに無数の小児が窒息して殺されつつあるかを見よ。都会の小児死亡の統計は明かに之を語る。もし個人主義者にして空気の欠乏の時において相殺傷せるカルカッタ獄中の英人を絞殺に処すべしと主張せざるならば、吾人は実にこの空気の如く充満せる富の中においてカルカッタの獄に繋がれたる貧民階級の一銭の窃盗をも羅織して縛せんと迫る縄の説明を要む。今日の刑法と刑法学とは緊急状態権を認めるに非ずや。もしその緊急状態権の説明としてギリシャにありし例なりよして引用される、船の覆没の時において一人が他の一人の拠りて浮べる木を奪いて溺死せしめたるも緊急状態なりとして看過されるならば、しかして妻子父母の溺死を救わんが為めにもその緊急状態権の拡張されたるならば、吾人社会は社会の制度によって下層階級を不断の緊急状態に落し置きながら、なおかつ軍艦より一片の木片を盗みて溺死を免れんと悶へつつある如き難破者に対して、個人主義なる者の犯罪を呼ばれるに何の理由を以てするや。斯くの如くにして彼等はその家庭を維持する能わず破壊の断片となって終に自暴自棄の再犯三犯となり、しかしてその小さき断片はいわゆる将来恐るべき悪童となって次代の犯罪者として待つ。 高尚なる生活の欲望と上層階級の犯罪、高尚と云う文字の内容は今日黄金を以て充塞せらる 上層階級の犯罪といえども然り。人は生物として生活の欲望を有す、しかしながら人はプラトンのいえる如く単に生活するのみならず更に高尚なる生活に至らんとする傾向的生物なり。然るに元来この内容無き高尚と云う語の中に、今日充塞せられたる者は黄金のみなり、黄金の時計を有せざれば医師は病者の信頼を失い、黄金の眼鏡を持たざる学者はその学説の価値を保つ能わず、単に排泄作用を営むに過ぎざる一塊の腐肉も黄金の後光を帯びては旦那様として崇められ、ホッテントットの部落においてのみ第一流の美人も黄金の指環を有すれば、すなわち令嬢としてその斗大の尻後に擾々たる恋慕者を引率するを得るなり。高尚と云う語の内に含まれたるプラトンの内容は全く駆逐せられて黄金が全部を占領せり。斯くの如き今日において、下層階級が生活すべき黄金を得んが為めに犯罪者となる如く、上層階級が高尚なる生活を為さんとしてまた等しく犯罪者となるは論なき事に非ずや。窮迫に陥れられて犯罪者となるも、誘惑に囲繞せられて犯罪者となるも、その犯罪者こそ薄倖なる犠牲にして社会は社会の必然的現象として自己の責任に顧みる事を要す。善良なる境遇に置かるれば下層階級より強窃盗を出さざる如く、詐欺収賄売節の如き犯罪が決して上層階級より産まれるの理なし。学者がその真理を黄金に沾りて生活せざるべからざるが為めに更に高尚なる生活を為さんとして黄金の前に真理を曲げて高く沾るに非ずや。官吏がその地位によって得る黄金を以て生活せざるべからざるが為めに、更に高尚なる生活を為さんとしてその地位を届き黄金に沾りて賄賂を貪るにあらずや。憲法によって現在の地位は保証せられて生活の憂いなき司法官といえども、現在より高尚なる生活を営まんが為めに私曲に誘われるは避くべからざる事なり。遊廓に育てられたる子女が貞操を解せずと云う如く、黄金に埋没される銀行員の詐取費消等は、高尚なる生活を営まんが為めとすれば阻むべき道なし。今日の政治業者なる者が学識才能文章雄弁等によって立つ能わずして、投票を買収すべき黄金によって代議士の椅子を得、その得たる椅子も黄金によって得べき車馬、壮大の邸宅によって飾らざるべからざる時においては、例え彼等の奉ずる資本家経済学の自由競争による物価下落の原理を以て一頭百金の市価はいささか噴飯に値すといえども、高尚なる生活を営まんとする傾向的生物なりと伝えるギリシャの哲学者は止むを得ざることなりとして看過すべし。−−個人主義の刑法学は斯く窮迫に陥れられたる下層階級と誘惑に囲繞せられたる上層階級とに向かって、意志自由論の独断的仮定を挟んで徒らに個人の責任を呶々する者なり。 講壇社会主義の犯罪観 個人主義の意志自由論の今日において科学的批評に堪えざることは事新らしく説くの要なし。然しながら意志自由論の根拠なきことを熟知せる講壇社会主義者なる者にして社会主義の倫理的効果を解せざるに至っては誠に思考すべからざることなり。吾人はここにその例として講壇社会主義者中の倫理的方面に研究の力を注ぎつつある名声ある一教育学者樋口勘次郎氏を指定すべし。その『教育家と国家社会主義』と云い、『国家社会主義新教育学』と云い、『国家社会主義教育学本論』と云い、皆厳粛なる理論の上より社会主義の犯罪絶滅を期待しつつあることを以て純然たる空想なりと論ぜり。吾人は厳粛なる理論の上より犯罪絶滅の必ず社会主義の実現によって期待さるべきを信ずる者なり。誠にその『国家社会主義新教育学』中において氏の論ずる所を掲げしめよ。 樋口勘次郎氏の犯罪不滅論 『社会的事実の病的なるか否かを知らんは斯くまでに複雑にして困難なるを、往々にして簡単なる演繹論法によって軽々しく断言するは癖事なり。之が為めに同じ事実をある者は病的としある者は正的とし何れとも区別し難く議論の絶えぬことはなはだ多し。 犯罪は病的現象に非ず、社 会 良 心 『例えばかの犯罪の如き、明かに病的現象の如く見え、多くの刑法学者また然りと為す者の如し。されどデュルクハイム教授は(その数のある範囲を超えざる限りは)健康状態なるを論じていわく、『刑罪はただに一種の社会に現われるのみならず、あらゆる社会のある程度において見られる現象なり。その形状には変化あり。されど罪悪として取り扱われ、刑罰の下に置かれる所為は何れの社会にも之あり。もし社会の高等に進むに従って人口と刑罪との比例が少なくなり行くならば、罪悪は今仮に常態とするも、次第にその性質は変じ行く事、例えば宗教的信仰の如き者なりとするを得ん。されど吾等はこの想像を確かめる一理由だも有せず、否、むしろその反対の方面に向はしれる事実かえって多し。吾人は統計によって十九世紀の始めより刑罪の進行を観察するを得るが、各国共にその数を増加せざるなし。フランスにおいてはおよそ三百パーセントの増加なり。天下何れの所にかこれにましたる普通性を現せる現象あらんや。ただに普通なるのみならず、その数を増加し行くは、社会の組織内において他の現象との関係上必然の結果なるによらざらんや。刑罪を社会的疾病となすは、病気の偶発性の者にあらずして、生体の根本的組織より発生することあるをも許すなり。これ生理と病理とを全く混同することなり。もちろん刑罪の変体を呈するをあるべし。例えばその数の非常に多き時の如し。罪人の過多なるは健康なる社会に非ざるべきや疑うべくもあらず。ただある数まで達し、しかして之を超過せざる程度において罪人に存することは之を尋常のこととせざるを得ず。しかしてこの割合は各社会につきてのみ決定するを得べし、斯く云えばとて刑罪の心理的もしくは生理的に変体なるをば許さざるにあらず。罪人個々を取って見るときは病的なり。その社会現像として一定数まで現れることは病的にあらず』と。 『かかる結論は一見奇矯に感ぜらるべしといえども、いささか考慮を費やす時はその人生の欠陥に出づるは止めるを得ざる結果なるのみならず、公共衛生の為めに欠くべからざる現象にして健康なる社会の必要なる要件の一なるを知るに足るべし。第一、刑罪はいかなる社会も之を免れる能わざることなれば之を常態とせざるを得ず。前諸章において道徳上の罪悪を社会の公共良心を犯すより成立するを明かにせり。あにに道徳上の罪悪のみならんや、刑法上の罪悪もまた然り。刑法は道徳的良心の保護者なり。さればあらゆる社会にこの罪悪なからしめんには、全会員が一様なる良心とまたこれに服従する傾向とを有せざるべからず、されどももし現在社会の良心が、今入り込み居らぬ人人の心を開きて入り込み、もしくは今までの感じの弱かりし者に弱く感ぜられんには、従前よりは強き者、鋭敏なる者とならざるべからず。殺人犯の無くならんためには、血を見るを忌むの心が今まで殺人犯を為したる社会の層の中に浸み込まざるべからず。それが為めには全社会の道徳感情の強くなるを要するや明かなり。かつ殺人犯が減ずるときは減ずるほど一級の良心の殺人犯を見る益々酷なるに至るべし、さればこれと同時に今日までのことと思われざりし罪悪が鋭敏に感ぜられて、先に殺人犯が与えしと同じ感覚を与えるに至るべきなり。強盗も窃盗も同じく他人の財産を尊重するの感情を犯す者なり。されど強盗は悪事と感ずる者のなお窃盗はさまでに感ぜざるがあるべし。他人の財産を犯すを悪しとする感情のいよいよ鋭くなって強盗の減少するに従い窃盗を悪と感ずる者は増加し行くべきの理。最初軽罪として扱はれたる窃盗が前よりは重き罪に問われるべきは自然の勢。野蛮社会を見よ。我等の社会にては重罪に問われるべきことの日常に行われて世の責罰を免れるを。同じ社会につきても世の進むに従って軽き罪を重く見るに至り、同じ時代の中においても、また種々の階級、小社会の中には各異なれる良心あって、政治社会にては罪とならざることの教育社会にては罪となること多し。何れの社会にても罪の絶えざるはこれが為なり。 『抑々人は遺伝を異にし、体質を異にし、傾向を異にし、境遇を異にするを以て、全く同一の感情を有せんことは想像し得べからず。既にその間に多少の相異ありとせば、必ず普通良心の命ずる所に従わざる者の出づるを免れ難かるべし。しかしてその僅微なる犯罪も次第に強き感情を生ずるに至るべければ、罪人は終に絶える時無かるべしと云うなり。 『これに依て之を見れば罪悪は社会に必然なり。総ての社会生活の諸事情と結合して離るべからざる関係を有す。故にその適度に現れることはあたかも婦人の月経の人身に有益なる如く、社会に対して有益なりとせざるを得ず。 進歩の先駆者と犯罪者
『人間社会の道徳は次第に進化する者にして、この進化は社会全般の進化に対して必要なるがこの道徳の進化あらんためには道徳の根底に横たわれる社会良心の極端に強からざるを要す。何となれば、もし社会の良心が常に厳重にしていささか之に遠ざかれる者をも圧抑せば、この処に変遷なくまた進化なかるべければなり。総ての組織の保守的労力あって改革に妨害なる事は前にも之を言えり。実に過酷なる社会良心はかえって社会を停滞せしむるを免れず。詳言せば一人の罪人も出づる余地なき社会はその社会良心の権力強大なるの証にして、誰も之に触れるを肯ぜざるべし。従って社会進歩の道も途絶すべきなり。ある社会の進歩せん為めには個人の特性の発揮せられるを要す。ソクラテスの道徳界に出で、ガリレオの物理界に出で、ルソーの哲学界に出で、ルターの宗教界に出でんためには、社会の知識に若干の「ゆるみ」あるを要す。この「ゆるみ」は一方に水平以上の罪人たる進歩の先駆者を出すに必要なると同時に、他方には進歩の殿騎なる水平以下の罪人を伴うは止を得ざるの結果と云わざるべからず』。 生体の根本的組織の革命とそれに伴う必然的現象たる犯罪の消滅、デュルクハイムの承認せる宗教的犯罪の消滅と社会主義による経済的原因に基く犯罪の消滅、普通良心の鋭敏と刑罰の軽減、社会良心の進化、社会主義は余りに多くを将来に期待する空想なりと云う先入思想、重力落下の原則と社会の進化宗教に関する犯罪の時代と社会良心の進化 吾人は、犯罪を以て社会的疾病の偶発性の者に非ずして生体の根本的組織より発生する者なりと伝えるデュルクハイムの言を全き真理と認める者なり。−−故に吾人は犯罪を現社会の組織に伴う必然的現象となし社会主義を以て生体の根本的組織より革命せんと企図す。然しながらデュルクハイムより演繹して犯罪の永久に絶えるの期なしと推論せる樋口氏の主張を全く否む者なり。デュルクハイムが社会の高等に進むに従って人口と刑罪との比例が少なくなり行くならば罪悪は今仮に常態とするも次第にその性質の変じ行くこと、例えば宗教的信仰の如き者なりとするを得んと伝えるは吾人の主張せんとする所なり。−−故に吾人は宗教的信仰に係わる犯罪の消滅せるが如く、今日の経済的競争に基く犯罪の消滅すべきことを社会主義において期待す。しかしながらその為めに普通良心の鋭敏を加えて今日の窃盗が強盗の刑罰を以て取り扱われるべしと伝える樋口氏の議論を全く否む者なり。殺人犯の無くならんためには血を見るを忌むの心が今まで殺人犯をなしたる社会の層の中に浸み込まざるべからずと伝える樋口氏の議論は社会の進化として正当の推理なり、しかも血を見るを忌む所の普通良心がその鋭敏になれるが為めに今日血を以て罰せざりしことにまで血を以てすべしとは理由なき憶断なり。我等の社会において重罪たるべきことが野蛮社会においては平常に行われて責なしと伝える樋口氏の事実はもとより事実なり、しかも吾人の社会において罪とならざることの野蛮社会においては峻酷なる刑罰を以て問われつつあることはまた注意すべき事実なり。樋口氏の罪悪を指して社会衛生に必要なること婦人の月経の如しと伝えるは価値なき比喩の玩弄に過ぎずといえども、普通良心より悪人を以て遇せられたる卓越せる個性が社会を進化せしめ、また進化せしむべきことは吾人の充分に認識する所なり。しかも民の指示せるソクラテスと云い、ガリレオと云い、ルターと云い、その宗教的信仰に背反したるの故を以て罪悪視せられたるは個人性を蹂躙するを不可とせざる偏局的社会主義時代の普通良心なりしが為めにして、個人主義の覚醒を承けて社会良心が個人性の変異を尊重する今日及び今後においてはデュルクハイムのいわゆる『罪悪は今仮に常態とするも次第にその性質を変じ行くこと宗教的信仰の如き者なりとするを得ん』と伝える如くなるべきを考えざるべからず。氏は犯罪の数と質とを無視し、道徳と法律とを無視し、しかして普通良心の進化を無視す。 豊富なる学識を有する樋口氏の如きに向かってかかる重大なる点を無視せりと云うが如きは誠に道徳現象の専攻者たる名誉に対してはなはだしき非礼たるを免れず。しかしながらこれあえて氏の罪に非ずして過て講壇社会主義の誘惑に陥れるが為なり。講壇社会主義の純正社会主義に対抗しつつある旗幟は実に『社会主義は余りに多くを将来に期待する空想なり』と云う一語に在りとす。−−ああ空想! 社会主義は空想なりと云う先入思想の全社会に蔓延せるは、実に吾人社会主義者に取って政府の迫害よりも学者の讒誣よりも最も頑強なる敵なりとすべし、しかして講壇社会主義なる者はこの先入思想に誤られて生じ、この先入思想に油を注ぐことを以て任務とす。−−吾人が講壇社会主義を以て純正社会主義の当面の敵として断じて思想界より駆逐せんと欲するゆえんの者は実にこの社会主義は空想なりと云う旗幟の翻れるを以てなり。何をかはばからん−−重力落下の原則が物理界に行われる如く社会に行われる事を信ぜば、何ぞ過ぎる一世紀間の進歩は中世暗黒の一千年間に優ることを忘却するや。胎児の九ヶ月間は十億万年の生物進化の歴史を繰り返し、文明国の児童は二十歳にして六千年の文明を経歴す。社会主義は過去無意識的進化の蠕動的進動に放任する者にあらず。吾人は明かに告げん、社会主義は実に驚くべき多くのことを社会進化の理法に随いて将来に期待する者なり。しかして最も近き将来の期待は先ず『貧困』と『犯罪』との二事だけを社会より消滅せしむることに在りと。講壇社会主義を奉ずる経済学者が講壇社会主義の為めに誤られて貧困を人類と共に存する永遠不滅の者なりと信ずる如く、講壇社会主義を奉ずる樋口氏はその倫理学を講壇社会主義の為めに誤られて犯罪を地球の冷却するまで存する永遠不滅の者なりと解す。−−由来講壇社会主義なる者は表皮を科学的研究の名に飾って根本思想は進化論以前の者なり。 強者の意志に反する犯罪の時代と普及良心の進化、生体の根本的組織の革命と犯罪の質の変化 実に、進化論の思想によって社会進化の跡を見よ。犯罪は数においてなお残るも質において消滅せし者多く、法律は漸次にその範囲を道徳に譲り、普通良心は社会の進化と共に進化せり。例せば、宗教的信仰によって社会の組織せられたる時代においてはデュルクハイムの言えるが如く宗教的犯罪は当時の社会の常態にして、今日の野蛮社会が吾人の社会において罪とならざる噴飯すべき偶像、愚を極めたる祭礼に対する些少の違非をも虐殺しつつあるが如くなりき。樋口氏の挙示せしソクラテス、ガリレオ、ルターの如きが当時の社会良心より犯罪視せられたる如きこれなり。然るに今日は宗教によって社会の組織されるに非ざるが故に、デュルクハイムのいえるが如く、その生体の根本的組織より発生する宗教的犯罪は無くなれるにあらずや。しかして宗教的信仰に対する社会良心は大に進化して違警罪によって制裁される淫祠邪教を外にして異教徒無宗教者を直に犯罪者(法律上及び道徳上)と認めざるに至れるに非ずや。強力が総ての道徳法律の源泉として社会の組織されたる時代においては強力者の意志に背反する事が犯罪なりき。フランス革命以前及び組織革命以前の階級国家時代(階級国家の意義につきて後の『いわゆる国体論の復古的革命主義』を見よ)において皇帝もしくは貴族の意志に反する事は直ちに社会良心より犯罪を以て目せられ、梟斬絞磔の刑罰を以て臨まれたるが如きこれなり。しかしながら当時の貴族階級諸侯階級は全く存在の意義を異にせる痕跡となって残り、国土及び人民の所有者たりし各国皇帝も国家機関となって内容を一変せる今日の公民国家においては(総て後に説く所を見よ)、貴族諸侯の意志に反するを以て罪せられたるが如き犯罪は全く消滅し、その存する不敬罪の刑法といえども決して強者たる皇帝の権を維持するが為めに非ずして国家の利益の為めに国家が国家の機関を保護する制度として全く別意義の者となれるに非ずや。かのドイツ皇帝がフランス革命の如く中世史と近世との截然として区画されざりしを幸いとして自己の虚栄心の為めに国家の制度を曲用し年々無数の不敬罪犯人を作りつつあるも、ドイツ国より進化せる米仏等においてはかかる強者の権に基く犯罪は存せざるに非ずや。しかして社会良心も大に進化して強者の意志に背反する者あるもある場合を除きての外は決して犯罪者(法律上及び道徳上)として遇せざるに至れるに非ずや。−−実に生体の根本的組織の革命される毎にそのある組織に伴う必然的現象たる犯罪はその質を変じ行くこと斯くの如くなるを見れば、今日の経済的階級国家がその根本的組織を社会主義によって革命されたる後において独り今日の経済的原因を中心とせる犯罪の消滅せざるの理あらんや。かの『社会主義評論』の河上肇氏が今の社会主義者を評して人の経済的欲望に限りある者なるかの如く速断すとなして今日の経済的犯罪の絶滅を期待する社会主義を難ぜる如きは、向上的生物たる傾向の鋒が現時の経済的競争の為めに経済的方面に現れたるに過ぎざるを考えざる浅見なり。 犯罪の質と数、偏局的社会主義時代の社会良心と社会主義時代の社会良心、樋口氏は報復主義の刑法論を取る 樋口氏の推論はなお維持さるべき余地あり。すなわち、犯罪は質において社会組織の革命と共に変ずとし、今日の経済組織の革命されたる後において今日の経済的犯罪は消滅すとするも、人は遺伝、体質、傾向、境遇を異にするを以て皆一様の良心を有する者に非ざるべく、従ってその良心に随わざる所の犯罪者は永久に絶えざるべきを以て数において存すべしと云う事なり。しかしながらこれ社会良心の進化と云う事を忘却せるが為めなり。もし今の科学的社会主義にして個人主義の革命を承けて個人性の権威を尊重すべきを知らざる偏局的社会主義の如き者ならば、偏局的社会主義の社会良心によって遺伝、体質、傾向、境遇、を異にせる個人は直に犯罪者として取り扱われるべし。すなわち宗教革命の名において個人の権威が認められざりし以前の総ての大思想家が迫害されたる如きこれなり。今日宗教的信仰に対する社会良心が大体において個人の自由を信仰に認めるに至れるを知れるならば、来るべき社会主義の時代において社会良心が退化してローマ法王時代に逆倒するが如き事を想像し得べきや。特に樋口氏が社会良心の鋭敏に進む事より誤解して、今日軽視されたる罪も鋭敏になれる社会良心を以て今日よりは重く罰せらるべしと伝える如き、単に理論としても、今日の鋭敏ならざる社会良心を以てすら軽視する者を鋭敏になれる社会良心が重刑を以て報復すと説くが如きは矛盾のはなはだしき者なるのみならず(これその思想中に報復主義の刑法論を混在す)、社会良心の鋭敏になれるが為めに刑罰を加えるに堪えずして刑法の如き単に犯罪者を社会より隔離するに過ぎざるに至れる事実を無視する者也。例を死刑に取って見るに、実に刑法学者の言うが如く人を殺し得る総ての方法を以てしたり。 社会良心の進化と死刑、法律の時代と道徳の時代、個性の変異を尊重する社会良心は変異の個性を犯罪視する者に非ず 猛獣に喰わしめしもあり、ワニと闘わしめて殺せしもあり、象に踏み殺さしめしもあり、ローマの如きは数種の虎狼を飼養して犯罪者と闘わしめ市民の最上の娯楽たりき。日本の如きも絞あり、斬あり、梟あり、鋸引あり、火責あり、水責あり、車裂あり、牛裂あり、釜煎あり、磔あり、火焙あり。その磔の中にも手足を縛し直立せしめて殺すあり、逆倒して数日間弄殺するあり、板に横臥せしめで大釘にて手足を打ち面を剥ぎて漸次に殺すあり。その火焙の中にも二本の青竹の上に魚の如く横たえて焙るあり、織田信長の吾妻踊と名づけて歓べる雀躍して火中に死せしむるあり、その火刑の火を罪人の妻子をして燃やさしめし残忍もありき。体刑の如き今日中国とトルコとを除きては各国総て存せざる所なるに、眼をえやり耳を斫り、鼻をそぎ、陰部を去りし如き残忍は近き以前まで平常の軽罪なりき。今日、怠納処分として済むべき事も僅か一百年前の徳川氏の貴族国時代においては、水籠、簣巻、木馬、等の苦痛を加え厳寒に老親幼児と共に一家総て水牢に入れ膝を没して立たしめし酷刑ありき。斯くの如きは一例に過ぎずといえども、体刑の廃滅に帰し死刑も絞台もしくは電気等の方法により可成的苦痛を去るに努めつつあるに見れば樋口氏の如き推理は誠に原因結果を転倒せる者なり。フランスにて一八一〇年に死刑たるべき罪百五十種ありしに今日は二十二種に減少し、英国にては一八七〇年に死刑たるべき罪二百七十種ありしも今日は最も重大なる者のみ三種を残し、しかも各国殆どことごとく特赦権を以て刑の執行をなすこと無くなれりと云うに見よ。斯く身体に加える外部的苦痛なく、その自由を剥奪し、労働を賦課する刑罰も罪人に苦痛を与えることが目的に非ずして社会より隔離せんが為めにする余儀なき方法なりと解せられるに至れるは社会良心の大に進化せるゆえんにして、外部的強迫力によって道徳を励行せる法律の時代(すなわち他律的道徳時代)が漸次に道徳の維持を内部的強迫力すなわち良心の制裁に移す道徳の時代(すなわち自律的道徳時代)に進化しつつあることを示すゆえんなり。社会良心の進化して鋭敏となることは吾人樋口氏と共に充分に認識する者なりといえども、その鋭敏となれる社会良心は犯罪者に刑罰を加えるに堪えざるに至るべしとして推論さるべく、今日棄却されたる報復主義の刑法論を以て犯罪者の上に鋭敏に逆比例する酷刑を以て反撃すべしとは想像すべからざることなり。社会の進化を認め道徳の進化を認めるならば普通良心の進化を認めて、それが個性の変異を尊重する所の普通良心たることを認めよ。二十世紀に実現さるべき社会主義の前に中世暗黒時代の社会専制国家万能の偏局的社会主義の過ぎ去れる者を以て非難の矢をつがうとは何事ぞ。樋口氏はただ講壇社会主義の倫理的方面の代表者の如き観あるが故に指定したるに過ぎずといえども、かかる思想はダーウィン以後の者にあらずして浜の砂の如くつきじと云いし石川五右衛門の哲学系統に属する者なり。(なお『生物進化論と社会哲学』において死刑淘汰の刑法論及び生存競争の意義を論じたる所を見よ)。 今日の多くの犯罪は各階級の各異なれる階級的良心と国家社会の利益を理想とする良心との衝突なり 吾人は信ず、今日の多くの犯罪はむしろ各階級に各異なれる階級的良心と国家主義社会主義を理想とする良心との衝突なりと。 之を以ての故に階級的社会に対する根本的革命の社会主義あり。法理的見解よりすればフランス革命以来、維新革命以来の国家は中世史までの如く階級国家にあらず、日本天皇といえども国家の一分子たる点において他の分子たる国民と同様に強盛なる愛国心を有し、愛国の良心においては階級的差等なし。しかしながら之を経済的方面より見れば国家の内容は階級的にして経済的諸侯階級、経済的武士の階級、経済的土百姓の階級に分れ従って各階級各々異なれる階級的良心を以て相対立す。−−故に今日の犯罪は国家社会が国家社会の利益を害する良心及び行為に対して命名しつつある所にして、各階級より見れば階級的良心が国家主義社会主義の良心と相背馳すと云うことなり。すなわち、今日の経済的原因を中心とせる上層階級及び下層階級の総ての犯罪はその経済的階級国家なるが為めに経済的階級を異にせるより異なる各階級の階級的良心が国家社会の法律道徳より犯罪として取り扱われるなり。例せば国家の法律は貧民階級の強窃盗を犯罪として処罰しつつありといえども貧民階級の階級的良心はあたかも貧民教育に従事する者が強盗の罪悪なるを解せざる児童を発見すと云うが如く、然く良心に背反せる罪悪にあらずとし、社会の道徳は地主資本家階級の驕奢貪欲を背徳として指弾しつつありといえども地主資本家の階級良心は然く良心に苛責さるべき非道とせざるが如きこれなり。 良心の内容の社会的作成、国家の法律は階級的行為を律するを得べきも社会の道徳は階級的良心を責める能わず、ドイツ皇帝の階級国家時代の良心、経済的貴族階級の良心、裸体に生れたる良心と階級的衣服、貧民階級の良心作成の状態、一国家一社会内に地方的時代的良心を混在せしむ、社会主義は階級的良心を掃討の為めに革命主義となる、階級的良心と階級闘争 由来、良心とは単に道徳的判断を意識する本体と云うだけのことにして、その内容は些少なる遺伝的傾向を除きて全く空虚なるものなり。すなわち判断する所の意識は先天的のものなりといえども、いかに判断すべきやと云う内容は全く後天的のものなり。しかしてその内容は後天的に社会より受ける道徳的訓誨、すなわち父母の形において投射せられ模倣される社会的慣習、家庭、近隣、学校、交遊、書籍等を通じて現れる社会的知識によって形成せられるものなり。すなわち、個性の変異を外にしてその個人に影響するだけの社会的境遇に存する社会良心によって総ての良心は形成せられるなり。 しかして現今の社会国家は法律の上においてのみ一社会一国家なりといえども、経済的実質においては無数の階級的層に割裂せるが為めに、個人は各階級内の個人として存し、各階級内に存する階級的良心を以てその良心となすの外なく。従って、国家主義社会主義の理想を行為の上に規定しつつある法律よりしては処刑するの理由ありといえども、良心の背反を以て始めて罪悪とする道徳の上よりしてはその階級が良心の背反したる場合の外道徳上の責任を責める能わざるなり。故に国家主義社会主義の倫理的理想より見れば、かのドイツ皇帝が朕と称して噴飯すべき驕慢暴戻を極めたる圧制とは国家に対する反逆にして社会の利益を害する罪悪なりといえども、中世階級国家時代の階級的良心を惰力として継承しつつある者なりとせば、その行為のいかに係わらず、かの良心につきて道徳的責任を問う能わず。何となれば空虚を以て産れたるかの良心の内容には、皇帝は国家の利益の為めに存すと云う愛国心なく、国家は皇帝一人の利己心を満足さすべき手段として存すと云う中世時代の国家観、朕は天なる神より蒼々たる朕の臣民を付与せられたる神聖不可侵なる者にして脱糞などを為す人類以上の者なりと云う君主観を注入せられ、便佞迎合の宮廷的慣習、奴隷的道徳の社会良心より湧出する皇帝陛下万歳の声と、及び宦官的法律学者、たとえばザイデルによっては国家とは国土及び人民の事にして君主は国家の外なる空中にぶら下り居る者なりと教えられ、ボルンハックによっては国家とは君主の別名にして国土及び人民は地球に存在する者に非らずと教えられ、全くその良心を中世の者に形成せられたるが為に、近代の社会国家よりしてその良心に背反せざる行為なるに係わらず、罪悪視せられるなり。資本家地主階級の経済的貴族といえども然り。 彼等は中世史の貴族が総ての土地と人民とを自巳の目的の為めに存する者と考えて苛斂誅求をほしいままにしたる如く、労働者と小作人は黄金大名階級の栄華を築かんが為めに世に産れたる人類以下の者なりと考えうるが故に餓殍の道に横たわるをも顧みずして略奪をたくましうし、しかして経済的武士の階級とも云わるべき政治家事務員等の誠忠に奉戴せられるが為めに、あたかも往年の土百姓を下等人種と考えたる如く一般階級の上に貴族として驕慢を極めるなり。故に彼等の行為は国家社会の立場より見て残忍たり得べきも、良心の上より批判すべき道徳的責任の点よりしては決して不徳にあらずと知らざるべからず。 −人は肉体において裸体に生れてその社会階級の種々の衣服を着せられる如く、等しく裸体に生れたる良心もその社会階級の異なるに従って種々異なれる衣服を着せらる。裸体に産れたるドイツ皇帝の肉体が一呎もある愚を極めたる冠と児戯のはなはだしき勲章なる金属の玩具を以て飾られる如く、等しく、裸体に生れたるドイツ皇帝の良心にはカイゼル髭の写真は礼拝すべき者、海軍拡張の演説はヒヤヒヤノー々々と云うべからざる勅語なりと云うが如き中世時代の特権を以て野蛮人の如く入墨せらる。経済的貴族等はその裸体に生れたる同体が労働者の汗と涙とによって織られたる錦繍に装飾される如く、等しく裸体に生れたるその良心は労働者の血と骨とに餓えて猛獣の心臓の如くなれり。しかして一般下層階級を見よ! かの幾千万の労働者と小作人は裸体なる肉体にボロを着せられるが如く、裸体なる良心に着せられる所の者は、種々の醜汚なる慣習、父母の残忍なる家庭、餓えて犬の如くなれる四隣の境遇、売淫の勧誘、犯罪の誘導、淫靡残暴なる思想、実に世に在するあらゆるボロを以てその良心の内容を形成せられつつあるに非ずや。幸福なる者が充分に開発せられたる境遇に生れ、暖かき母の懐と威厳ある父の手とに訓育せられ、古今の知識、世界の精神によって良心の内容を形成せられるに係わらず、斯くの如く不潔にして粗野なる動物の如き群集中に豚の如く産み落され、疾病によって泣く時も生活に忙しき母の殴打によって沈圧せられ、ただ夕より外に相見ざるべき父は終日の労苦と前途の絶望を自暴自棄の濁酒に傾け怒号して帰る、知識も無く世界も無し。 −吾人はこの意味において貧困すなわち犯罪と云う事を全き真理として主張すべし。経済的幸福に置かれて開発されたる良心を有する者、もしくは開発されたる良心に近づく事によって良心の開発せられたる者は、たとえ経済的欠乏に投ずる事ありとも犯罪者たるが如き事の無きは当然なり。故に空腹すなわち犯罪と云う事をかかる場合に推測する事皮相的見解の社会主義者の如くならばそれはもとより非科学的なり。しかしながら経済的欠乏の階級に生れ落ちて良心の開発せられる時なく、また開発せられたる良心に近づく時なき貧民階級に対して、その階級内の階級的良心を以て批判する事なく直ちに国家主義社会主義の尊き理想を掲げて犯罪を以て呼ばれるとは何たる独断ぞ。法理的見解を以て見れば今日の国家は一国家一社会なるを以て刑法は国家の国民、社会の会員に対して国家主義社会主義の良心を以て一様の行為を要求するを得べし、しかしながら道徳的立場に立って考えうればその国民と会員とは各異なれる階級的良心に従って行動しつつあるを以て一様の国家主義社会主義の良心を挿んで批判する能わざるなり。黒奴の嬰児を遺棄する事が黒奴の部落において不道徳にあらざるを知れるならば、食人族の人肉を喰う事が食人族の部落において不道徳に非ざるを知れるならば、貴族国時代の奴隷的服従が当時において不道徳に非らざりしを知れるならば、今日の民主的国家において自主独立の行動を不道徳に非ずとするに至りしを知れるならば、しかして道徳とは地方的に(すなわち横的に)また時代的に(すなわち縦的に)それぞれ異なるを知れるならば、この来るべき大革命前の混乱を極めたる現代において一様の道徳的批判を以て総てを律せんとする事の妄りなるは言を待たざるべし。黒奴の如き良心を有する貧民階級あり、食人族の如き良心を有する地主資本家階級あり、未だに貴族国時代の奴隷的服従を道徳的義務とする良心あり、民主的国家の現代を強烈に意識して行動せんとする良心あり。あたかも一国家一社会の内に地方と時代とを異にせる数種の民族、数世紀間の祖先を混在しつつあるが如し。実に今日の犯罪は犯罪本来の意味における良心の背反と云わんよりも、はなはだしく相異せる階級的良心が国家社会の利益を理想とする良心によって打撃せられる事なり。犯罪者のある者はもとより自ら良心の命ずる所に反して悪を為す者あるべしといえども、その良心の些少なる不徳とする所が他の良心より重大なる悪とせられ、またその良心に従って善を為せりと信じつつ他の良心より犯罪とせられつつあるなり。 −この故にこそ社会主義は革命主義となる。現今の経済的階級国家を打破して経済上においても一国家一社会となし、以て国家社会の利益を道徳的理想とする良心の下に現時の階級的良心を掃討せん事を計る。しかして階級的良心の掃討によって統一せられたる普通良心は偏局的社会主義時代のその如く個性の発展を抑圧するが如き偏局の者ならず、社会国家の利益と共に個人の自由独立を最も尊重する所の普通良心として進化すべし。斯く階級的良心の掃討せられて統一せられたる普通良心となり、しかもその普通良心が個性の発展を尊重する所の者に進化せる社会主義の世界において罪悪の絶滅を信ずる事は果して空想なるか。(階級的良心の説明は後の階級闘争を説くに重要なり、階級闘争は単に階級的利益もしくは階級的感情のみに非ずして、実に階級的良心と階級的良心との衝突なればなり)。 『人はただ社会によってのみ人となる』、論理的生物と倫理的境遇、狼に養われて獣類に退化せる小児の事例 ベルゲマンいわく『人はただ社会によってのみ人たるを得』と。この一語は実に社会主義がその倫理的理想の実現を社会制度の革命によって期持しつつある所なり。ベルゲマンの社会的教育学が我国においても三種の翻訳を有し、樋口氏の教育学の基礎となれる如く、今日の科学的倫理学教育学の根本原理は実に人はただ社会によってのみ人たるを得と云うことにあり。蓮が沼沢に養われて花さく如く、薔薇が日光に浴して芳う如く、花園において胡蝶が舞い砂漠において獅子が吼ゆる如く、一切の生物は皆それぞれの境遇に置かれてその種属を成せし生物進化の原理によって、倫理的生物は倫理的生物の生存に適する倫理的境遇を要す。講壇社会主義に誤られたる樋口氏は社会主義の倫理的効果を殆ど全く解せざるかの如くなるに係わらず、その『国家社会主義新教育学』において驚くべき事実を掲げ、以て個人がいかに社会によって作られるかを示したりき。『一八五〇年の博物年報にムルヒゾン氏がスレーメン大佐より「フォルデリソデン」の「アウデ」地方において狼の群中に児童の発見せられし五個の事実を報ぜり。いわく「カウブール」「ルーナック」地方には豺狼多くして幼児を奪い去ることしばしばありき。もちろんその中の多数は喰い殺さるれども稀には哺乳養育せられることあり。ある時憲兵等「アウデ」より「グップッチェ」の岸に向かいて進みしに三個の動物の水飲みに来るあり。彼等馳せ行きて之を捕らえしに、いずくんぞ図らん二匹の乳児と一個の小児ならんとは。彼は裸体のまま四肢にて歩行し、肘と膝との皮膚は骨状に硬化せり。その当に捕らえられんとするに当たってや猛り怒って人を噛み、また掻かんとすることその伴侶の如く、更に言語を知らず、その理解力はあたかも幼き犬児に似たりと』。これドイツの例のみに限らずテニソンのアーサー王の詩に『狼は時々人の子を盗みて之を食いしも、自己の子の失せまたは死したる時はその恐ろしき乳頭を人間の子に借せたり。その窟に住みたる子供はその食する時にうなり、その獣なる母の四足を擬ね、究極、終に狼に優る狼の如き人と成長せり』とあるに見ても古来より稀有のことに非ざるなり。 獣類の如く退化する変化性は神の如く進化する変化性なり、遺 伝 と 境 遇、模倣性の説明、現今の人は総て狼の手に養われつつあり、空腹すなわち犯罪、飽腹すなわち犯罪と云う意味 斯くの、人は獣類の境遇に置かるれば一代を以ても獣類の如く退化する変化性ありと云う事は、直ちにこれ人は神の如き境遇に置かるれば、あえて一代を以てとは云わざるも神の如くにまで進化し得る変化性ありとの推理に来らしめずや。もとより遺伝の事実の軽視すべからざるは論な く遠き以前の食人族の風習が隔世遺伝の形において現れ殺人罪を犯せし者ありと云えば、吾人が現今犯しつつある無数の罪悪がある特殊の境遇によって遺伝として現れる事は考えるべからざるに非ずといえども、しかも斯くの如きは今日の刑法にてすでに病的現象として明かに犯罪の外に置く者。かつ、遺伝とはその遺伝的傾向の発現すべき境遇においてのみ始めて発現すべき者なるを以て、社会主義の境遇において今日の個人主義時代の犯罪的遺伝が発現する機会多しとは思考さるべからず。(なお次ぎに説く『生物進化と社会哲学』において道徳の本能化を論じたるを見よ)。実に、狼の社会に養われたる人の子が獣類の歩行を模倣して半獣半人の怪物となりしが如く、吾人は人類社会に養われて父母の歩行を模倣するが故に人類の形を得るなり。古来より人は理想を有する者なりと云い、傾向の生物なりと伝えるが如く、今日の科学的研究も人は模倣性を有すと云うことを以て確定せられたる事実とせり。斯くの模倣性の為めに吾人は母の膝に抱かれたる時よりして蕾の如き唇を動かして母と同一なる発音を為さんにはいかにすべきかと考えつつあるが如き眺めを以て唇の進動を模倣しつつあり。しかしてその辛うじて発音し得るに至ってはその発音中にいかなる意味が含まれるかも考えずして発音と共に発音の中に含まれる思想その者を善悪の取捨なくして模倣す。そのようやく長じて近隣の児童と嬉戯するに至ってもまた等しく年長の伴侶の言語挙動を選択なく模倣す。しかして学校に入るに至って教師朋友のそれらを模倣し、書冊に掲げられたる古今人物のそれらを模倣す。しかして更にかかる間における知識の発達は模倣の対象を選択せしむるの判断を生じ、選択また選択の結果、模倣せる高き者の達せられると共に、また更に高き者を模倣してその高き者に達し、その高き者の達せられるや、また更に高き者を模倣してその高き者に達せんとす。斯く模倣の対象は始めはその父母、家庭、近隣等にして漸次に学校となり、社会となり、書籍となり、古今の人物となり、世界の思想となる。しかしてこれら先在の理想にしてなお足らずとせられ、更に一層の高き対象を求むるに至るや、ここにそのすでに模倣して得たる先在の材料を基礎として、各個人の特質を以て更に高き者を内心に構造し、構造せられたる理想を模倣することによって到達を努力す。この特質とその構造せられたるものの高貴偉大なる者がすなわち英雄なり。故に史上に足跡を残したる英雄はその特質において偉大高貴なる者ありしといえども、その特質を発揮せしむる基礎として材料を供給する社会的境遇において幸運なりしものならざるべからず。古今英雄の伝説は総て之を証す、かの戦陣の英雄が血痕の付着せる揺籃中に眠り、革命の英雄が旋風前の陰暗なる黒雲中に産声を挙げし如きこれなり。山河に悠遊することによって詩人西行あり、石山寺の月を挑めて源氏物語は書かる。超然内閣と盲従議会とを以てはグラッドストンの雄弁は産れず。ジェファーソンの独立宣言書は国体論の材料を組立てて書かれたるものにあらず。人はただ社会によってのみ人となる。吾人の如き明白なる野蛮人は今日の如き野蛮部落の如き未開なる社会組織を脱する能わざるが故に斯る野蛮人となれるなり。今日社会の大多数はドイツの森林に発見せられし如く、蒸気と電気とを有する大都会の中央において実に獣類の手に養われつつあることを気付かざるか。地主資本家階級の社会に見よ、神の如き発展を為し得べき人類として生れたる嬰児は、先ず模倣すべき対象としで眼前に現れる者は実に狼の如く残忍にヒヒの如く淫蕩なる父、四囲の迎合阿諛の為めに絹服の豚に過ぎざる令夫人と称せらるの母あり、嬉戯の間に模倣すべき対象としては便佞隠険なる乳母、淫靡野卑なる僕婢、競々として命これ従う出入の子女のみ。斯くのごとき不幸なる境遇に人となれる彼等が、その等しく人と云うに係わらず、食人族のごとき良心を有する人として作られるは何の怪しむべきことかあらむ。下層の貧民階級に至っては全く狼の手によって狼として養われる。狼のごとく四肢を以て匍匐する事は教えられざるも生活進退ことごとく獣類なり。爪を以て掻き牙を以て噛むことは学ばざるも小児間の争闘が狼の父母によって多く歓迎されることは事実なり。この餓鬼として睥睨する山の神が模倣の理想として白紙の如き心情の奥に投射される時、ベランメーとして息巻く宿六が酒気を吐きてサザエの如き鉄拳を未だ形成されざる灰白質の頭脳に加える時、その子女が長じて黒奴の如き良心を有すると何の疑かある。実に今日の上層階級も下層階級も法律と道徳とが要求する国家社会の利益を目的とする良心はその始めより胸裏に形成せられざるなり。この意味において空腹すなわち犯罪なり、しかして飽食またすなわち犯罪なり。
人はただ社会によってのみ人となる。社会主義は倫理的生物が倫理的制度においてのみ倫理的生物たり得べきことを発見して革命の手を社会の組織に降しつつある者なり。 しかしながら誤解すべからず、社会主義は社会の中に個人を溶解する者にあらず。倫理的制度によって倫理的生物たると共に、倫理的生物が平等の物質的保護と個性の自由を尊重する社会良心の包容中において更に倫理的制度の進化に努力すべき責任を有することを要求す。社会主義の自由平等論とはすなわちこの意味なり。(平等論の意義につきては前編の『社会主義の経済的正義』において説けり)。偏局的社会主義時代の社会良心はその内包のはなはだ窮屈にして個性の自由なる発展を許容せざりしが為めに、個人は全く社会の強力中に併呑せられ、ソクラテスもルターもガリレオも皆犯罪者として遇せられ為めに社会の進化において誠に遅々たるの外なかりき。しかしながらフランス革命に至るまでの偏局的個人主義の如く思想上においてのみ思考し得べき原子的個人を終局目的として、社会は単に個人の自由平等の為めに存する機械的作成の者なりと独断せるが如き者に非ず。思想といえども、信仰といえども、決して個人の自由に非ず、思想信仰の上において個人の自由を尊重する所の自由なる社会良心あるが故に自由なり。故に社会良心が思想信仰の自由を許容せざりし時代においてはソクラテスもガリレオもルターもことごとく犯罪者なりき。良心の社会的作成なる事を帰納せる科学は思想も信仰もある個性の特異が発展する場合を外にして全く社会に先在せる思想信仰を継承して、その個人の思想信仰を作成する者なる事を論結せしむ。思想と信仰とは決して偏局的個人主義の独断するが如く始めより自由なる者に非ざるなり。社会専制国家万能の偏局的社会主義時代の思想信仰を有する社会良心は個人の良心を作成して思想の独立信仰の自由を認識せざる者とし、機械的社会観を有する偏局的個人主義時代の社会良心はたとえ社会の利益を阻害するも思想の独立信仰の自由は犯すべからずと云う思想信仰を以て個人の良心を作成す。−−故に吾人の純正社会主義が社会進化の為めに個人の自由を尊重すべしと云うことは、思想信仰は原子的個人に先天的に独立自由に存すと云う意味にあらずして、社会進化の為めに個人の自由を尊重する所の社会良心を以て思想の独立信仰の自由を許容すべしと云うことなり。社会進化の為めに社会良心の内包は偏局的なるべからず、社会の進化を終局目的とすると共にその目的を達せんが為めに個性の自由なる発展を障害なからしむべし。純正社会主義はこの点において明らかに個人主義の進化を継承す。 純正社会主義は個人主義の進化を継承す、社会主義はまた私有財産制の進化を継承す、経済上の独立と政治上及び道徳上の独立、私有財産制度の高貴なる意義と民主主義、現社会に個人の自由なきはその根底たる個人の私有資財産無くなれるを以てなり、社会主義時代には個人は他のいかなる個人にも属せずして社会に属す、忠 君 と 愛 国、個人は社会に対する経済的従属関係より社会の幸福進化に努力すべき政治的道徳的義務を意識するに至る 個人主義! 実にこの偏局的個人主義は中世史までの偏局的社会主義と共に純正社会主義を築ける二大柱なり。個人主義が中世貴族階級の土地(当時においては経済的源泉の総て)を占有せるを否認して自由平等を叫びたる如く、純正社会主義は現代の経済的貴族階級の経済的源泉(すなわち土地及び資本)の壟断を公有にせんとするは、実にこの個人の自由平等にあり。経済的に自由平等ならずしては他の総てに自由平等なる能わず。吾人が先に平等の分配とは物質的保護の平等によって個性の自由なる発展を為さしめんが為めなりと伝える如く、個人主義のフランス革命はその個人の自由の為めに経済的に自由なるべく貴族階級の経済的源泉の占有を否認して私有財産制を樹立したるなり。−−純正社会主義はまたこの点において明かに私有財産制の進化を継承す。経済的に独立する者は政治的に道徳的に独立し、経済的に従属する者は政治的に道徳的に従属す。君主が土地及び人民を(経済物として)占有せる時代においては人民は財産権の主体にあらず君主に経済的従属関係を有せしを以て政治的に道徳的に従属し、君主のみ経済的に独立せしを以て政治的に道徳的に独立したり。(日本に例せば鎌倉幕府以前までの如し)。しかして貴族階級が土地を略奪して経済的に独立するに至るやここに君主に対抗して政治的に道徳的に独立し以て支配権を承認せず忠順の義務を拒絶したり。(日本にては維新以前までの貴族国時代の如し)。しかして一般階級においては土百姓として土地と共に貴族の所有物にして財産権の主体たる人格にあらざるを以てその経済的従属関係よりして政治的に道徳的に無限の従属に服し、かの武士の如き下層階級に対しては絶大の権威を弄したりしといえどもその経済的従属関係の為めに貴族階級に対しては政治的に道徳的にかって独立する事なかりき。(後の『いわゆる国体論の復古的革命主義』を見よ)。然るに個人主義の思想はフランス革命の名において貴族階級に独占せられたる土地を全国民の労働によって獲得すべき私有財産制度の下に置きしかして革命の波濤は横ざまに東洋に波及して維新革命の民主主義を経済上に現して土地私有制を確立したるなり。 然るに今や如何。歴史はあたかも逆行せるかの如き形を以て世は再び経済的貴族国時代となれり。否、冷静に考えうれば経済史の進行として経済的公民国家に至るまでの過程として経済的貴族を経過しつつあり。経済的源泉たる土地と資本とは経済的貴族階級の封建城廓となれり。経済的貴族国のみ政治的に道徳的に無限の自由を有して国民は総ての独立を失いて奴隷の如く服従を事とするに至れり。講壇社会主義者の田島博士が資本家と労働者との関係を君臣の関係の如しと形容して讃美せるが如く、年俸月給によって従属する精神的労働者も賃金によって従属する肉体的労働者も誠に往年の武士もしくは土百姓の如く専制の支配権を承認し奴隷の忠順を履行しつつあり。貴族国時代の武士階級がその下層に対しては虎の如く威を振るいたるに係わらず、馬鹿大名の前に平身匍匐し、その経済的従属よりして自己の身を大名の所有物と考え、切腹を命ぜられるも御手討に逢うも、かってその従わざるべからざる理由を疑うこと無かりしが如く、今の黄金大名に隷属して経済的武士の階級を作れる事務員政治業者の如きはその下層階級に対しては抑圧侮辱を事とすといえども、その年俸月給を受ける経済的従属関係よりして政治的に道徳的にいささかの独立無くたとえ馬鹿大名の拝謁において、いかに傲慢を以て迎えられるも一切を叩頭して猫の如く柔順に、しかして自家が下層階級を制御する事によって大名の玉座が保たれることを考えずして、かえって自家が大名の恩恵によって生存するかの如く信じ、減俸に逢うも解雇に逢うも唯々として一の疑問なしにこの奴隷的服従の義務を負担しつつあり。しかしてかの労働者と小作人の一般階級に至っては純然たる奴隷と土百姓なり、政治の自由なく道徳の独立無し。−−個人主義の根底たる所の私有財産制は今や社会の大多数に取っては貴族国時代の下層階級の如く経済的貴族等の私有財産を使用して生活し得べしと云う意味に過ぎずなれり。すでに貴族階級の下に経済的に隷属す、革命以前のそれの如く再び個人主義の革命を繰り返さざるべからざるほどに政治の自由道徳の独立なきは何をか怪まん。吾人が本書の始めにおいて現社会を個人主義において弁護せんとする者は個人主義の反逆者なりと伝えるは、実に社会の大多数に個人の私有財産が無くなるを以ての故なり。社会主義はもとより社会の進化を終局目的として偏局的個人主義の如く機械的社会観を以て社会を個人の手段として取り扱う者に非ず、しかしながら社会進化の目的の為めに個人の自由独立を唯一の手段とする点において個人主義の基礎を有する者なり。個人は個人相互の間において経済的従属関係なし、一の個人が他の個人の為めに政治の自由を抑圧せられ、道徳の独立を侮辱せられることなし。社会は階級的の層を為さず、個人は上層階級の個人に経済的従属関係なきを以て上層階級の個人の権力に盲従する政治的義務なく、上層階級の個人の幸福を目的として努力すべき道徳的義務無し。個人は他のいかなる個人にも経済的従属関係を有せず、ただ社会の経済的平等の保護の中に在り。故に他の個人に個人の自由を犯される事なく、個人の自由を尊重する所の社会良心の広豁なる内包中において社会の幸福進化を目的とすべき政治的道徳的義務を個人の責任とするに至る。すなわち貴族階級に経済的に従属せし維新以前においては貴族等の利益の為めにする支配に服従すべき政治的義務を有し、貴族等の幸福の為めに努力すべき道徳的義務を有して−−『忠君』を個人の責任とせしに反し、今日は法理上国家の土地及び資本(何となれば国家は国家の利益の為めに個人の総ての財産を吸収すべき最高の所有権を有するを以て)に経済的に従属するを以て、国民は国家の利益の為めにする支配に服従すべき政治的義務を有し、国家の幸福に努力すべき道徳的義務を有して−−『愛国』を個人の責任とするに至れる如し。ただ、社会主義は今日の法律の如く単に理想として止まらず、事実において国家社会の利益を個人の責任として意識するに至らしめんとする者なり。社会主義は個人主義の如く個人そのものの為めに個人が自己に対して責任を有すとする者に非ずして、社会国家の為めに社会国家に対して個人の責任を要求す。しかして吾人が先に国家と社会とは社会主義によって真の秩序と安寧幸福とを得ざるべからずと伝えるは、国家社会がその法律的理想として有する最高の所有権を行使して全国民全会員の上に経済的源泉の本体として臨み、以て全国民全会員をして国家社会に対する責任ある個人たらんことを政治的に道徳的に期待する者なりと考うべし。今日吾人の社会主義を難ずるに個体責任論を以て対抗するが如きは、実に個人主義以前の偏局的社会主義時代の如く個人が上層階級に従属して一個の責任体たらざりしそれと同一視する者なり。 売買廃止はまたこの理由による、献身的道徳の武士道と素町人の利己的道徳と差は経済的関係において責任を有すると有せざるとによる、国家社会に対する経済的従属関係より国家社会に対する献身的道徳を生ず、個人主義と社会主義とを混同しつつある奇観 社会主義が徴兵的軍隊組織の労働法を以て個人間の売買関係を維持せんとする講壇社会主義を排するはまた理由の一をここに有す。もとより単純なる経済論として考えうるも、無数の商店、商人、店員、仲買人、取引所、あって無用の資本と無用の労力とを投じて相破壊し以て強大の浪費をなし、生産より直に消費に移らず交換と云う戦場を通過して生産物の多くを破壊せられ軍事費を負担せられて生産費に倍増せる価格として消費者の手に来ることは、人類の当然に棄却すべき愚劣なりといえども、純正社会主義が特に徴兵的労働組織の生産法を主張するは、経済的従属関係において社会と個人とを直接ならしめんとするに在り。すなわち徴兵的労働において生産せられたる貨物を総て一たび社会の者となし更に社会より社会の貨物に対する平等の購買力を表示する紙片として分配せられることは、個人をして社会の為めに存する事を明確なる責任において自覚するに至るべきを以てなり。(前編の『社会主義の経済的正義』において公共心の経済的活動を論じたる所を見よ)。かの武士の階級亡びて武士道滅び、卑劣なる利己心を中心とせる素町人道徳が今日に跋扈するゆえんの者はその武士道なる者の貴族階級に対して奴隷的服従の卑むべき要素を含むに係わらず、経済的従属関係を有する主君の為めに身を捨てて尽くす献身的道徳の高貴なるに反し、素町人道徳は自己の経済的努力によって自己の維持されるを以て自己中心の卑むべき道徳となり、しかして今日は総ての個人が社会国家に従属する経済的関係なく自己の経済的努力によって自己を維持しつつありと信ぜられるが故に素町人道徳の個人主義を継承しつつあるなり。個人主義は社会主義の下において尊とし。個人は社会そのものの幸福進化に努力する良心と行為とあって尊とし。個人そのものの自由独立の為めに個人の自由独立は価値なく、社会の幸福進化の為めに個人の自由独立は尊とし。故に貴族国時代の武士道騎士気質がその経済的従属関係を有する貴族に対して献身的道徳を有したる如く、経済的貴族国の打破せられて経済的に一国家一社会となるに至るや、全国民全会員はその経済的従属関係を有する国家社会に対して、献身的道徳を以て国家主義社会主義の倫理的理想を実現すべし。純正社会主義は個人の自由を個人そのものの為めに要求して社会国家の幸福進化を無視せんとする個人主義の革命論に非ず。社会国家の幸福進化を無視しつつある個人主義の組織を革命して、社会が経済的源泉の本体たる経済上の事実を、国家を最高の所有権者となしつつある今日の法律の理想において実現し、以て個人を社会国家の利益の為めに自由に活動すべき道徳的義務を有する責任体たらしめんとする者なり。(経済と道徳法律との関係はかの『いわゆる国体論の復古的革命主義』に詳細に説けり、就きて見よ)。 故に、かの社会主義者と称する者の中において個人の自由を主張するに当り、あるいは『社会の各会員は自由なる発達を希望する者なれば、政治上における個人の自由は成るべく大にして社会の権力は成るべく小なるを要す、すなわち社会の権力は社会の生存と発達との為めにか、あるいは各会員の自由の保証の為め、必要なる程度を超ゆべからず』と云い、あるいは『思想と信仰とが全く自由にして他人もしくは社会の如何とも為し得ざる所、之を発表し之を実行するにおいて美術上にも宗教上にも科学上にも政治上においても全然一切の覊範の外に立たざるべからざるは疑義の外なる根本法なり』と云う如き者ありと仮定するも、そは単に結論の形式において社会主義に似たるだけにして全く個人主義の独断を継承する思想なるは論なく、之を以ての故に罪を社会主義の上に及ぼすべからず。かの社会主義に対する高等批評を以て任ずる樋口勘次郎氏がその『国家社会主義教育学本論』において社会主義の自由平等論なりとして打撃を加えたる所は実は個人主義にして社会主義の受くべき失に非らざりし如きこれなり。従ってその社会進化の理想に対する非難の如きも純然たる個人主義の学者を指定しつつあり。いわく、『さればルソーのいわゆる共同の権力を以て各会員の生命財産を保護すれども各会員は自己に従う事によってこの権力の命令に一致し得る如き社会は一のユートピアに過ぎず。スペンサーの遠き理想とせる自己の意志の外、外来の圧抑なくして円満に運転せられる個人主義の社会の如きも、その遠きと云う形容詞に無限と云う副詞を付して無限に遠きすなわち実現し難き理想とせざるを得ざるはもちろん、矢野氏の想像せる訴訟なる者、幾ど無く犯罪なる者殆ど無き、もしくは一層極言して訴訟沙汰の皆無となる新社会のごときは真に一個の夢に過ぎざるなり。実に「新社会」は之を一個の見果てぬ夢として記載せられたれども「社会主義全集」に同氏の講語せられる所に徴すれば夢に託して著者の社会主義を述べられたる者なるは明かなり。果して然らば氏もまた極楽式の社会主義を持する者に非ざるか』と。以ていかに相背馳する社会主義と個人主義とが、かえって社会主義者にも非社会主義者にも混同せられつつあるのはなはだしき奇観を見るべし。 さもあらばあれ。純正社会主義は極楽と云い天国と云う者を在来の哲学宗教の如く死後の他世界に求むる者に非ずして、社会進化の将来に期待する者なり。しかして人類社会は一の生物社会なり。故に社会哲学は生物進化論の一節たる社会進化論として論ぜざるべからず。 |
の「純正社会主義」なる理念は人間と社会についての一般理論を目指したものであった。その書において最も力を入れたのが通俗的「国体論」を破壊し、明治憲法で確立された天皇制国家の持つ矛盾性と危険を鋭く指摘し、「天皇が現人神として無謬の神として国民道徳の最高規範として君臨することと同時に天皇は元首として過ちと失敗を繰り返さざるを得ない政治権力の最高責任者に位するものと定めた明治憲法の二元性」を解析していた。天皇機関説の考え方を基礎として天皇の神聖視を支配の根拠とする藩閥官僚政治への厳しい批判を行なっていた。 天皇について、「万世一系の皇室を奉戴するという日本歴史の結論はまったく誤謬。雄略がその臣下の妻を自己所有の権利において奪いし如き、武烈がその所有の経済物たる人民をほしいままに殺戮せし如き、後白河がその所有の土地を一たび与えたる武士より奪いその寵妾に与えし如く…」、「もとより、吾人と言えども最古の歴史的記録たる『古事記』『日本書紀』の重要なる教典たることは決して拒まず」と記し、神話的賛美を却下していた。天皇は天皇イデ―である限りにおいて尊崇されるに値するものであり、その為には天皇自身が常にイデ―的存在であることが要件とされていた。 内容は大きく分けて二つに分かれる。まず、一つは、進化論の観点から人類は相互扶助の精神によって生存競争の対象を家族から部族、国家単位へと進歩してきたと論じ、その間に社会的同化作用によって内部の団結力を強化することで社会を進化させてきたと説いた。そして、国家は君主が主権を有する「君主国家」から国家自身が主権を有する「公民国家」へと進化するとして、明治維新を日本における「君主国家」から「公民国家」への一種の「革命」であると論じた。ところが、大日本帝国憲法において天皇を「万世一系」としたのは、日本の皇室の史実に反する上、憲法改正手続に帝国議会の賛同を規定したのは、「公民国家」を天皇と帝国議会が共同で運営する「民主政体」によって運営することを前提にしていると主張した。 この観点からして国家主義者の国体論は反革命思想であり、日本の国家のあり方に反すると非難した。更に期待は「公民国家」の発展強化のためには普通選挙を導入して労働者と農民が政治に参加して合法的に社会主義体制を確立する。その上で国内では生産手段を国有化して資本家と労働組合が協調することで最高の生産性を確保して国民生活の向上に努め、最終的には国家全体の強化につなげるというものであった。 北の思想の源流は、日本的共同社会主義者・西郷隆盛にあったと思われる。西郷的「天を畏れ民を安んずるの心」の持主による「敬天愛人政治」を理想としていた。この時点に於ける北一輝は社会主義者であり、「国体論及び純正社会主義」は北式社会主義社会建設に至る方策を提起していた。北の目指した政体は東洋的共和政に基づく社会主義社会であった。戊辰戦役から憲法発布、議会開設までを第一期・維新と規定した。維新の志士、自由民権の闘志が家郷を擲ち、命を賭け勝ち取った憲法。本来それは民主国である(はず)。然るに、誤れる支配層の恣意に依り、復古的国体論に眩まされ天皇が絶対専制君主となり、資本家・地主が恣に国政を壟断し、民を圧迫するに至っている。維新革命の心的体現者・大西郷が群がり殺された明治10年以降の日本は、道義去り復辟の背信的逆転が為されている。しかし日清、日露の両戦役を戦った国民は愛国に目覚め、国家の主体として意識が覚醒されたはず。普通選挙権さえ獲得できれば、議会において多数派が、平和裏に維新革命を成就できる。北は民権の活力とその可能性に全幅の信頼を置いた。「国民国家」の創出こそ北が見据えていた理想であった。北にとって父の時代の自由民権運動は羨望と憧憬の対象であった。政治は技術でなく意気であり『身は白刃に斃れんとして而も自由は死せずと絶叫』し、まっしぐらに突き進む、たぎる情熱だった。「普通選挙権」を獲得し、「ソーシャリズム」、「デモクラシー」実現が射程に入れられていた。 それ以来、本書は日本思想史上において、「謎に包まれた古典」として伝説的な存在を保っていた。著者は後年、中国革命に参加し、二・二六事件で処刑されるという数奇な運命を辿るにいたる。本書はこの名前のみ知られるに過ぎなかった伝説の書を、その完全な形態において50年ぶりに公刊するものである。 |