北一輝の「国体論及び純正社会主義1―2」



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  2011.6.24日 れんだいこ拝



【第一編 社会主義の経済的正義】

【第二章】
 経済的貴族国の歴史的考察。個人的労働時代の勤倹貯蓄。マルクスの価格論の誤謬。『大日本史』と『資本論』。資本は略奪の蓄積なり。経済的土豪。資本家発達の歴史。日本の土地兼併は資本の侵略なり。産業革命の日本。賃金奴隷間の餓鬼道的競争。経済的群雄の元亀・天正。恐慌。企業家のいわゆる『自己の責任』。恐慌を負担するものは全社会なり。経済的元亀・天正はトラストの経済的封建制度に至る。トラストの物価低落は経済的兵火なきが故に事実なり。トラストの苛斂誅求は封建なるが故にまた事実なり。封建時代の百姓一揆とトラストに対するストライキ。売買関係の私法にあらず公法の統治関係となる。経済的封建制度は経済史の完結にあらず。革命の発火点は権利思想の変遷にあり。社会主義は権利論によって立つ。個人主義の略奪せる所有権神聖の金冠。権利思想の変遷。腕力は所有権を確定すと伝える占有説の古代思想。占有の国王貴族を転覆せる労働説。社会主義は社会の所有権神聖を主張す。資本家の機械占有と往年の奴隷占有。機械は死せる祖先の霊魂が子孫の慈愛のために労働す。リカードの不備の点と地代則の説明。地代は人口増加の結果なり。都会地の地代は社会文明の賜なり。無数の土地所有権弁護論。薄弱なる加工説。個人主義時代の独断的権利論。個人主義の権利の理想は形式において似たるも社会主義と混同すべからず。個人主義の法理学はまたその経済学の如く現社会の弁護にあらず。権利とは社会生存の目的に適合する社会関係の規定なり。社会の利益すなわち権利にして正義なり。
 経済的貴族国の歴史的考察、個人的労働時代の勤倹貯蓄、マルクスの価格論の誤謬

 実にこの経済的貴族国に対しては貴族主義を主張するものに非ざるよりは、いかなる者といえども打破の外なきを認べし。しかして科学的社会義は総ての社会的諸科学の原理に立って根本的革命を主張するものなり。故に社会主義はこの経済的貴族国につきて歴史的知識を要す。いかにして革命せられたる封建の敗墟の上に更に革命を繰り返すべき経済的貴族国の建設されるに至りしか。

 この説明は『資本』と『土地』との解釈なり。然るに下等なる物質を以て組織されたる頭脳の学者は経済的貴族国の城廓たる資本の説明において今なお勤倹貯蓄の結果なりと云って甘んず。かかる学者は貧困に生るれば天理教を信じ、狐狸を礼拝して世を終るべき憐れなる天賦の為に、経済史の進行に置き去られて一世紀前の知識に止まる者なり。−彼らは個人的生産時代の知識を以て社会的生産の現代を解釈せんとする者なり。しかしながら彼らはすでに充分にその任務を尽せる者にしてただ安らかに死の手に抱かしめば足る。

 吾人は今日旧派経済学の死屍に鞭つものにあらず。よしんばここに滔々たる大河の一所に停滞して数方哩に渉る湖をたたえたりとせよ。しかしてその湖面の上に狡猾なるカワウソが小さき頭を出して、この澎湃たる大湖の水は皆余が河畔に労きて掬い来たりし結果なりと云いしとせよ。生き残れる旧派経済学者なる者は、しかりこれカワウソの勤倹貯蓄の結果なりと云って信仰しつつある者なり。経済学の問題は湖面にあらず、河流にあらず、溯って水源に疑問を集中せざるべからず。農夫の有する一丁のクワ、大工の持てる一振の斧はもとより彼等が勤倹貯蓄の結果なるべし。山と河とに分かれて働きし翁嫗の昔話の時代において、アダム、イヴの労働を命ぜられたる時代において、勤倹貯蓄は実に資本の源泉なりき。

 しかしながら機械発明以後の資本はかかる個人的労働の資本とは流れ来る所の水源を異にす。もし一瓶の美酒に数百人の血液をたたへ、赤道直下に労らく幾万同胞の涙を凝集して輝やく粟大のダイヤモンドにその浪費を飽かしむる能わずして、終生の辛苦は消費の道を発見するに在りと云われる所の経済的貴族の資本が、かえって幾何級数の勢を以て一年は一年より倍加し行くを、なおかつ勤倹貯蓄の結果なりとせば、世界の総ての辞書は直にそれらの文字を訂正せざるべからず。もし個人の勤労の結果なりと云うならば生まれるとより何らの勤労なる者をせざる彼ら資本家の資本は無より有を生ずるものなり。これ個人的生産時代の勤倹貯蓄にあらず、社会的生産を資本家に独占せしむる略奪の蓄積なり。

 −『資本は略奪の蓄積なり』と云う科学の帰結は生産を社会的に為しながら個人的の分配を為して生産せる社会が分配に与かることを得ざるを以てなり。カール・マルクスの『資本論』が頗る遠き以前の知識なるがためにその枝葉の点において無数の非難を被るべき余地ありといえども、『資本は略奪の蓄積なり』と云う大原則は引力説の如く不動の真理なり。彼がその価格論において貨物の価格は需要供給によって決定せられず之を生産に要する労働時間の長短によって定まるとして一切の議論を建設せしがために。路傍にて拾いし宝石は一分間の価格より外、有せずして数時間を要する机はそれに数十倍する高価なるかと云うが如き、労働時間なき天産物は無代価なるかと云うが如き、同一の石炭にして発掘の困難なる者は容易なるそれより価格を高くして買うものあるかと云うが如き、長時間の労働が無用の生産に終りし時といえども短時間の有用なる貨物よりも高き価格を有するかと云うが如き、一時間にて釣りし一尾の魚と、時計師の一時間と、著述家の一時間とその価格において同一なるかと云うが如き、かかる正当なる批評に対して根拠より動揺せしが為めに、遂に資本が略奪の蓄積なりと云う鉄案をもおおはしむるに至りし事は事実なり。

 しかして今日社会主義者と称せられる者の中において、あたかも生物進化論者がダーウィンを偶像とせるが如く、マルクスの資本論を信仰個条として今なお物価は労働時間の長短によって計算さると論じて甘んずるものある事もまた事実ならずと云わず。しかしながら長き討究を以て磨き上げられたる真理はかの価格論に大なる修正を加えると共に『資本は略奪の蓄積なり』と云う経済的貴族国の基礎をいよいよ厳粛に発見するに至れり。すなわち革命されたる貴族の土地が各国の歴史によって(日本においても幕末の順逆論の歴史によって)略奪なる事を発見せられたる如く、マルクスの資本論は経済的貴族の『資本』がまた等しく略奪なる事を科学的帰納において発見したるものなり。

 『大日本史』と『資本論』、資本は略奪の蓄積なり

 故に過去の貴族を転覆せる革命家が歴史的叙述において貴族の土地略奪の跡を明示せる如く、この経済的貴族国を革命すべき社会主義は資本家略奪の跡を歴史的研究を以て明示す。故に水戸の『大日本史』の如くマルクスの『資本論』は経済的貴族の発生し発達し来れる歴史を明かにす。かの価格論の誤謬を去れる真理は下の簡単なる一言にあり。−労働者の賃金は需要供給の原則によって支配せらる。しかして人口の増殖は労働者の供給を過多にし機械の発明は(その事業の拡張さる、時を外にして)需要を減少せしめ、賃金の市価をして労働者自身を維持し得る食物の市価にまで低落せしむ。資本家はこの食物の市価において労働者と契約し一日十三四時間の長時間を労働せしむ。この長時間の労働によって得る生産物の中(必ず注意するを要す、吾人は労働の時間そのものを価格となして長時間の労働によって得る価格の中とは云わず)、労働者の賃金たる食物の市価だけを引き去り、残れる生産物の有用なる価値を需要せられることによって生ずる価格は、ことごとく資本家の略奪するところとなる。この略奪の蓄積は更に転じて資本となり、更に労働者の傭い入れとなり、更に大なる略奪となり、雪塊の転々するが如く更にその資本を増大し行く。これ貴族国の萌芽たる土豪の発生せるが如きものにして漸次に経済的群雄割拠の戦国となり(例えば現時の日本の如し)、更に厳然として動かざる経済的封建制度の大資本家合同の時代となる (例えばトラストの北米の如し)。

 経済的土豪、資本家発達の歴史 

 実にかかる無数の土豪的小資本家が、僅かに一世紀間において僅少の群雄割拠となり厳然たる経済的諸侯となって発達し来れるゆえんの者は、実に近世文明の機械工業にあり。経済的貴族国の城廓なりと伝えるものこれなり。重力落下の物理的原則によって支配せられる歴史の進行は十九世紀に至って彼自身が発明せる汽車と競争すべき速力を以て走り来れり。この時勢の汽車に一歩を先んじて投じたる、否、多くはある事情のために自ら知らずして車中に転がり入りし僥倖者が今の経済的貴族あるいはその父祖なり。機械工業を利用することにおいて知巧なる、あるいは幸運なる者はその機械の城廓に拠りて独立手工業者を圧倒せり。しかして圧倒せられたる独立手工業者はパンのためにその独立を維持する能わずして戦勝者の軍門に降り労働者となる。−経済的貴族国の萌芽はここにおいて培養せらる。かって独立手工業者の独立なる経営がその労働の結果に対して全部の所有権を主張したりしもの、今や自己労働の果実が食物の市価たる賃金のみを除去して他の総て略奪されるに一の疑いをだに抱かず、その盗品の所有権神聖の下に唯々として働くに至りぬ。汽車に乗り後れたる一歩の差はいかに健脚を以て走るも及ぶべきにあらず。一歩の幸運児は略奪せる価格の蓄積を以て更に新機械を使用し、これを使用する能わざる他のより小さき資本家を圧倒す。しかして更にその新機械を以て、その資本を増大し、増大せる資本を以て、更に新機械を使用し、更に之を使用する能わざるより小さき資本家を圧倒す。圧倒は更に資本の増大となり、資本の増大はまた更に転じて圧倒となる。ここに至っては勤惰にあらず賢愚にあらず、資本増大の速力は新機械の発明に応じて数学的確実を以て進行す。しかして新機械の発明とそれに対抗する能わざる大資本家の敗北とは、無数の失業者をして彼らの門前に集まらしむ。−経済的貴族国の土豪等はここにおいて征服の翼を張る。失業者は失業者各自の競争のためにその市価を動物として生存し得るだけに低落せしめ、背後に迫り来る空腹と妻子の悲鳴とは彼らをして餓鬼の如く奴隷の鉄鎖を争わしむ。始めには少なくも一家妻子を維持し得るだけの賃金を以て最低限度とせるもの、今や腕力を要せざる機械は家庭の神聖と幸福とを詩人と道徳家の問題に残して、臨月の母と頑是なき児童とを捕縛して工業につなぐ。

 日本の土地兼併は資本の侵略なり、産業革命の日本

 この経済的戦国の君主等は更にその資本を以て地方に侵略して土地の略奪となり、土地を略奪して存する地方の大地主は、その略奪によって得たる資本を以てその版図を拡張す。高利なる資本は土地占領の弾丸となって働く。日本においてはアイルランドの大地主の如く革命前の欧州の如く、戦争の略奪による土地の占有者は維新革命によって、その略奪物を国家に返し、今は無権力なる華族として痕跡を残すのみ。(故に社会主義を直訳的口吻において唱え土地は戦争の略奪なりとして没収を主張するは的なき発砲たるべし)。日本は諸侯の所有権の下に小作権をのみ有したりし者に国家が権利を付与して小有土農夫国となれり。(故に国家が公債の利子を負担して与えたる権利は国家に回復の自由ありと云わば、いささか論理的なるべし)。兎に角日本の土地は一たび戦勝の略奪者の手より離れたることは事実なり。しかも今や新たなる略奪者は資本の威力によって土地を併呑しつつ始まれり。近年機械工業の起ると共に資本は無限に需要せられて無限の価値を表し、年々誤算なく入る所の諸外国に類例なき利子利潤に比較しては、猫額大の水田に旧き小農式を以て一家老幼の営々たるも、なお最低度の生活を維持するより外なき土地の薄利は余りにはなはだしき懸隔なり。往時農家の副業として重要なる収入を為せる織業紡績等も総て資本に奪われたり。地租の負担は大地主にとっては地代の社会的産物に対する社会の権利なるべきも小有土農夫にとっては微少なる所有権に対する威嚇なり。彼らは蜜蜂の如く働きたる諸侯の小作人たりし土百姓当時と多くの相違ある生活を為す能わざるなり。都人士の嘲笑する赤毛布はその嘲笑される如く東京見物の時と鎮守の祭礼の時とより外には鄭重に保存される贅沢品なり。畳なき茅屋と泥と破れとに充てる布衣とは、実に中農と称せられる農業者の一般階級における平常の生活なり。もし中農と称せられる者がその二三子女をして中農の名に応ずるだけの中等教育を受けしめんとせば借財せざるべからず。あえて子女の教育に限らず、平常においてすら斯くの如き低度の生活を送ってようやく祖先よりの神聖視する土地を維持せる彼らが、暫々襲われる不作、疾病、等によって借財に陥るや高利なる資本は土地の上に蛇の如く纏いて、いかに労働の上に労働し、いかに低度なる生活を更に低下すとも、土地の薄利は到底資本の高利に対抗する能わずして、高利は高利を産み、数年ならずしてその神聖視する土地は都会の資本家、あるいは資本の自由なる他の大地主に兼併せらる。

 −実に英国において『産業革命』の惨劇を演じて一瞬の間に小有土農を掃討したる機械工業は実にこの可憐なる東洋の英国の上に産業革命を繰り返しつつあるなり。いかに統計は土地兼併の戦慄すべき速力を以て進みつつあるかを示すよ。吾人は決して無知なる農業者をして文明の光輝ある生活も知らず、子女に高等なる教育をも受けしめず、ただその生れたる土地に粘着せしめば足ると云うものに非ず、否、社会主義はその実現と共に日本の未開なる小農法の如きは根底より棄却して大農法の機械農業に改めざるべからざるを主張する者なり。しかしながら、この年々数限りなく土地を駆逐せられて浪々する同胞の前途につきて単に、これ自然に大農法に至ること英国の如くなるべしとして悦ぶことは実に英国の産業革命と同一なる恐怖すべき形勢を忘却せるものなり。彼らは何処に行く。老衰せる父母は祖先墳墓の地を離れるに忍びずとなして略奪せられたる土地の上に農奴となる事にあり。若き男女は各々賃金奴隷となって食を求むべく都会に群がり集まることに在り。父子相見えず兄弟妻子離散す。

 賃金奴隷間の餓鬼道的競争

 ああ農奴と奴隷の日本! 経済的貴族国の下においては彼らは何処に浮浪するも農奴と奴隷とより外に生くるの道なき事を知らざるなり。土地を放逐せられたる地方労働者が都会に流れ来たりて喪家の狗の如く桂庵の戸口に徘徊するの時は彼らと同一なる苦境に沈淪せる都会労働者が工場の門前に掃き出されるの時なり。ローマの奴隷商人は奴隷の頸に代価、年齢、能力を書きつけて飼小屋の中に置き以て人の来たり買うを待てりと云うも、今日の桂庵は日に数百人を以て数える彼らに対して飼小屋をも有せずまた食物をも与え得るものにあらず。自由と平等の文字を額に烙印されたる奴隷は、いかなる困難を忍びでも先ず口を糊する事に急ならざるべからず。−経済的貴族国の君主らはここに至ってその経済的統治権を振るっていよいよ強大を加う。得業者に対する失業者の競争、失業者と失業者との競争、都会労働者と地方労働者との競争。実に賃金奴隷階級の餓鬼道的競争は酸鼻を極む。

 賃金奴隷間の餓鬼道的競争と共に(完全に行われる自由競争よ!)一方において資本家間の相殺的競争は真に血の河を流しつつあり(先に自由競争を二大階級に従って分類すべしと云いしはこれなり)。

 経済的群雄理の元亀・天正、恐 慌、企業家のいわゆる『自己の責任』、恐慌を負担するものは全社会なり

 経済学者は、資本家がその家老家臣を率い賃金奴隷を招集して商工業を営むと云うを見て生産なりと云いつつあり。しかしながら事実は多く然らずして彼らは生産せんが為めに企業なるものをなすにあらず、他の対抗者の生産を打破せんが為めに労働を命令しつつあるなり。これ奇矯なる文字の玩弄にあらず、かえって元亀・天正の群雄が国利民福の為に戦争せしと云うが如き経済学者こそ文章において形容詞に富む。彼らは大部分他の生産を破壊せんとする意志を以て費やされたる破壊費をかえって生産費と名づく。

 −実に経済的戦国なり。機械の響、鉄槌の音は戦場の突貫鯨波の声なりとすべし。彼ら経済的群雄は人情も、名誉も、高尚なる快楽も、精神霊能の開発も、一切を忘却してひたすら戦争にのみ熱狂す。殺伐なる群雄が血に渇せる如く黄金に渇する彼ら経済的群雄は、暗殺襲撃を以て親戚も朋友も眼中に映ぜざるものなり。元亀・天正の群雄が連合反間の目的のために妻女の贈与放棄を手段として平然たりしが如く、令夫人と令嬢なるものとは資本の連合のために結婚せしめられ、市場の競争のために離婚さる。野蛮人の道徳家たらんにはその資格として殺戮、強奪、食人の欠くべからずと云う如く、資本家階級の道徳家たらんには一切の不道徳と名づけられたるものを履行して洒然たるべき良心を要す。彼らは床に付くときといえども、いかにしてかの顧客を奪うべき、いかにしてかの工場を転覆すべき、いかにしてかの一家を倒すべきと云う計画に頭脳を悩ましつつあるなり。彼らは夢に悪魔と囁く。同一なる営業者と云うことは彼らにとっては地獄に落ちるまでの仇敵にして、もし戦敗者の一家にして零落離散し、その父老が内職のマッチ箱を張り、世波を知らざる若者が腰弁当の小官吏となり、可憐なる愛女の細腰に飾るべき何者をも有せざるに至るが如き事あらば、これ彼らの生涯における最高調の満足にして、黄き歯を露はして嘲笑し、手を拍て凱歌を唱う。この戦闘のために彼らは特殊の良心を有す。驕慢に満ちる額も顧客の前には恥も外聞も解せずして叩頭し、利益を与うべき官吏の足下には罪人の如く匍匐す。法螺と吹聴とは彼らにとっては最も高貴なる道徳なり。自家の正直、自己の勤勉、自店の誠実、しかしてその製品の優秀抜群なる虚構より他の誹謗排撃に至るまで、実に一切転倒せる道徳を奉ず。賄賂、買収、運動、広告、世にあらゆる醜悪なる良心においてする醜悪なる戦闘なり。(『社会主義の倫理的理想』において階級的良心を説ける所を見よ)。

 しかして戦闘は軍事費なくして継続する能わず。彼らは『生産費』なる名の下に経済的兵火の軍事費を租税の如く全社会の購買者に負担せしむ。しかして戦闘のために明を失える彼らは各々需要を超越する生産をなし、略奪されたる全社会がその生産物を購買するの力尽きるや恐慌となる。恐慌! この一語は地震の如く戦勝者も戦敗者も共に仆す。いかにラッセルが『唯野蛮なる民族のみ恐慌を免れるのみ、しかも之を免れるも彼等は幸福なりと云うを得ず』と云うとも、またリカードが『恐慌をなげくは富豪がその満船の貨物の風波に逢わんことを恐れて貧民の安全を欲するの愚と等し』と云うとも、そが野蛮人も知らざる如き悲惨なる爆発を来たし実に全社会を船に載せて難破する如く数年の蓄積を一朝にして掃討す。しかして之れ必ず十年毎に来たり、その小なるものは常に至る処に在り。しかもジェヴォンズはその責任を太陽の黒点に負担せしむ。

 −この経済的元亀・天正の禍害を被るものは、往年の戦乱の下に在りし百姓町人の如く実に労働者と全社会となり。しかるに総ての経済学者が彼等企業家なる者の定義を下すや、皆必ず、『企業家とは自己の計算によって自己の責任を以て労働者を雇傭して生産に従事するものなり』と云う。自己の計算と云うことが空虚の誤算と我利の計画なりということならば充分に真なるべく、生産に従事するということもある程度まで偽りならざるべし。しかしながら『自己の責任』というに至っては憤怒すべき欺瞞なり。彼らは何日その責任なるものを尽くしたる事ありしか。利益は自己の責任において負担する事は便宜にして事実なり。しかも需要供給が世界的経済に拡張せられて徹頭より暗中の飛躍に過ぎざる彼らが無謀なる計算のために、一切の損失困難禍害を負担する者は実に労働者と全社会となることを知らざるべからず。略奪の蓄積に過ぎざる資本の喪失は彼等冒険者にとっては本来の裸体なり。しかしながら工場の閉鎖によって生ずる労働者の失業、失業者によって被る社会の危険と動乱とは『自己の責任』は別問題とするに似たり。愚昧と残忍との系統的組織に過ぎざる経済学は、失業者の如きは小活字を以て一隅に葬り去る。しかも一人の失業者はその老母をして縊死せしめ、その妻をして貧血に病ましめ、その女をして売淫婦たらしめ、しかして彼自身をして『犯罪たるべき危険状態』として流浪せしめ、いよいよ食なくして飢ゆるや終に一銭の窃盗となり更に殺人の強盗となる。経済的群雄の元亀・天正のために、一戦敗者の生ずる毎に社会の下層は実に一個の犯罪階級と化しつつあるなり。しかしてこの犯罪者によって害せられるものは猛犬と門壁とを有する上層の犯罪階級。−詐欺、賄賂、官金費消、投機、政治の罪悪によって安全なる設備を有する邸宅に住する犯罪階級にあらずして、備えなき家屋の中産者と労働者との階級なり。彼等は上層の犯罪階級の為に一切の生産を略奪せられ生産物の購入において軍事費を課税せられ、戦敗者の生ずる失業者のために更に僅少なる残部を脅かさる。『自己の責任』とは企業家一人の覆没を以て抹殺さるべきものにあらず。

 経済的元亀・天正はトラストの経済的封建制度に至る

 しかしながら、この資本家間の殺戮戦は近き将来において全く停止すべきものなり。米合衆国の如きはすでに殆ど全く停止しつつ始まれり。彼らが小企業家を倒し、大企業家を倒し、より大なる企業家を倒しつつ進む間に、彼らは数十の戦勝者と相対抗せるを発見す。−経済的元亀・天正は経済的封建制度に至るべき歴史的過程なり。資本家は徳義につきては良心の感覚ははなはだ痴鈍なるも利害につきては驚くべき鋭敏の耳を有す。目醒めるとより黄金々々と呼び眠るまで経済々々と囁きつつある彼等が、竜虎の相撃が大損失の創傷なくして終るものに非ざることに気付かざるの理なし。広告によって数千万円を費やし、競争によって物価を低落せしむるよりも、最後まで踏み止まりし大資本間の合同は経済史当然の潮勢なり。トラストこれなり。しかして他の階級に相競争せる労働者もまた強固なる労働組合を組織し、ここに二大階級はその階級間における自由競争を停止す

 トラストの物価低落は経済的兵火なきが故に事実なり、トラストの苛斂誅求は封建なるが故にまた事実なり、封建時代の百姓一揆とトラストに対するストライキ。

 我が経済的群雄戦国の日本においても近時トラストの唱呼ようやく高くなり来れり。恐くは今後十年の後においては米合衆国の如き厳然たる経済的封建制度となるべし。資本家の歴史が斯くて封建制度に入るや、大名階級の連合によって全社会を抑圧し、大名階級は盤石の上に築かれて全社会の上に権力を振るい苛斂誅求し始じむ。彼らが大合同による経費の節約と新機械応用の自由と、原料の安価なる買入と、一切の広告競争の無用とのために驚くべき利潤の増加を来し、為にその余沢を以てあるいは物価を低落せしめ、全社会をして経済的兵火より免れしむる事は事実なり。故に吾人は皮相的見解者の如く徒らに慷慨してトラストは物価を騰貴せしむと論ずるものに与みせず、統計は明かにトラストが小資本家時代よりも物価を下落せしめて全社会を幸福ならしめつつある事実を示せばなり。しかしながらトラストの苛斂誅求ということはまた統計の示す所なり。何となれば、そはトラストなればなり。経済的封建制度なればなり。封建制度は群雄戦国より兵火の禍害なしとするも封建制度の苛斂誅求はその封建制度たる事において論なき事実なり。もし経済的諸侯にして永久に賢明に、また賢明なるもののみならば社会の購買力を計りて物価を低落せしめ、仁君なる崇尊と共に永続的に血液を絞り取る事は安全なる方法にして、過去の貴族等も頗るかかる知巧ありき。しかしながら彼らの多くが馬鹿大名なるが如く、絶対無限の専制権には驕慢と暗愚とが伴う。経済身の専権を有するトラストはその生産が社会の購買力によって維持されるものなる事を顧慮せずして物価の横暴なる騰貴は続々として起る。これがために起るかの生産過多。−実はイリーのいわゆる消費不足の為めに依然たる経済界の動乱は今の北米に見よ。経済的貴族国において驕慢暗愚のために転覆する諸侯とそれが為めに生ずる百姓一揆とは当然の現象なり。

 −実にトラストは専制無限権の封建諸侯なり。彼らは人類咽喉の支配権を有す。トラストにとっては売買を保護する私法と云うもの化して以て明白なる公法となる。法律学者の云うが如く、公法とは権力関係を規定し私法は平等関係を規定すというものならば、しかして権力関係と売買関係の私法にあらず公法の統治関係となるは強き意志が弱き意志に対する関係にして命令し服従するの関係なりというに在るならば、人類の物質的生活に対する一切の権力、生殺与奪の絶対専制権を有する彼らは、全き意味における統治者にあらずや。対等の意志による売買にあらず、この統治者が物価を命令し、之が消費者たる社会が服従する明白なる統治関係なり。彼らは売買と云う名の下に全社会に対して租税を徴収する真の経済的貴族、経済的家長君主なり。

 経済的封建制度は経済史の完結にあらず

 しかしながら貴族制度が国家主権の公民国家に至りし如く(『いわゆる国体論の復古的革命主義』を見よ)、経済的封建制度はまた決して経済歴史の完結にあらず。彼らがトラストの大合同を為さんとするや、無用なる、もしくは利益少なき工場を閉鎖し、その工場によって立てる都会をトルコ人の如く破壊し、際限なく発明される新機械の使用毎に一時に数万の労働者を失業者として社会に放逐す。−失業者のある者は軽蔑に漲ぎれる慈善家の微笑に迎えられ、社会は監獄の鉄門を地獄の如く開放して待つ。切迫は労働者をして尊き諸侯に反乱せしむ。−あたかも封建時代の百姓一揆の如く。彼らは大団結を為して数十日数閲月に渉るストライキを為して百姓一揆を継続す。ストライキまたストライキ、工場の閉鎖また閉鎖、アナキストは飛躍し、労働者の飢餓は暴行となり、終に警察権濫用の口実となり、更に軍隊の発砲となり、実に惨憺の市街戦を演ず。

 河流は流れる所に流れるものなり。ナイヤガラの大瀑布はオンタリオ湖に落ちんがために轟き、全社会は社会主義に落ちんが為めに沸騰す、しばしば繰り返されて、しばしば敗られるストライキの百姓一揆が、終に政権の上に起ち現れて『社会主義』の旗幟の下に集まるの時、ここに経済的貴族国は転覆して維新革命の断崖に漲ぎり落つ。

 革命の発火点は権利思想の変遷にあり

 革命の発火点は権利思想の変遷にあり。故に社会主義は徹頭徹尾権利論によって立ちいささかの調和折衷を許さず。社会主義にして権利の前に怯懦なるが如きことあらば、社会と国家とは秩序と安寧幸福の名において之を十字架に上すも一人の涕泣すべき使徒も無かるべきなり。
社会主義は権利論によって立つ。

 個人主義の略奪せる所有権神聖の金冠

 現今、社会主義を審問して判ばきつつある者は所有権神聖の金冠せ戴ける個人主義なり。しかしながら個人主義よ、社会主義は汝が戴ける金冠そのものよりして略奪物なる事を指示するものなり。金冠は侵すべからず、所有権は神聖なり。しかしながら単に所有権神聖と云うが如きは内容なき文字にしてその所有する理由によって神聖なる権利が帰属する所を異にす。マルクス以前の空想的社会主義の如く資本家階級の所有権を認識してただ神に求め涙を流すとも厳格なる権利は冷笑すべきなり。科学的社会主義は自ら金冠を戴きて総ての者の上に神の如く判ばく。

 権利思想の変遷、腕力は所有権を確定すと伝える占有説の古代思想、占有の国王貴族を転覆せる労働説、社会主義は社会の所有権神聖を主張す

 中世貴族国時代においては、我は我が力を以て天下を取れり、王たらんと欲すれば王、帝たらんと欲すれば帝と伝える権利の声ありき。しかしながら維新革命は国家主義の権利を以て溯って之を否みたり。これ占有説と称せられるものにして、征服と略奪とによって国を建てたるローマが占有の論拠に十二銅柱を建てたる如きこれなり。これ古代中世における総ての民族に共通なる権利にして、日本民族の祖先がこの国土を略奪して権利を設定せしが如きこれなり。腕力が所有権を確定すと伝える者これなり。この権利思想は永き間継続したりき。欧州においては大革命以前まで日本においては維新革命以前まで、土地の所有権はこの占有説によって国王貴族を神聖ならしめたり。しかしながら土地に対する本来の占有者は決して一個人にあらずして民族全体の発見と戦闘とによる占有なり。しかして占有によって得たる所有権は占有すること能わざるによって所有権の理由を打ち消さる、故に、骸骨が墓中より臂を延べてその占有を継続する能わざるが故に相続権の如きは占有説によっては解すべからざることとなり、為に之を今日において唱えんとするならば相続によって生ぜる財産、及び財産を相続せしめんとする理由を、自家の論理によって暗殺することとなる。否、これ実に国王貴族がその土地に対する所有権を打破せられたるゆえんにして、革命前後は個人主義の労働説を以て所有権を説明するに至れり。実に労働の果実が労働せる個人の所有となると云う明白なる理由は、遊牧時代より農業時代に入り(一面他の民族に対して主張せる占有説と共に)民族内個々の間における個人労働の果実を無視せんとするものに対して生産を保護したり。

 しかしてこの労働説による所有権の要求は中世の封建諸侯の略奪に対して市民の商工業を保護し、更に占有説によって立てる国王貴族の土地所有権を打ち消して唱えられたり。かの革命の大破裂において略奪によって得たる彼等の土地財産を転覆せるものは、実にこの労働の果実は労働せるものの所有なりと云う労働説が占有説の略奪を否認したるものなり。いずくんぞ地代資本の如き社会的産物を占有なる名において略奪せしめんがために、労働説の個人主義が所有権神聖の語に飾られて唱えんや。個人的労働によって個人の所有権が神聖なる時代は歴史に葬られたり。社会的労働の今日、社会のみの所有権が神聖なり。実に、所有権神聖の如き語はむしろ社会の権利を神聖なりと云うものにして、かえって社会主義の金冠たりとすべし。

 資本家の機械占有と往年の奴隷占有、機械は死せる祖先の霊魂が子孫の慈愛のために労働す

 実に社会主義は社会が社会労働の果実に対して主張する所有権神聖の声なり。しかるに機械の公有を以て所有権を無視すとの抗弁は何たることぞ。もし何者の労働せる果実なるに拘らず余の占有せるものは余の権利なりと云わば、これ腕力を以て所有権を確定せる近代以前の権利思想にして、人類を鎖と鞭とによって占有するが故に奴隷廃止は所有権を無視すと云うと同一なる議論なり。個人主義を主張して社会主義に対抗するならば個人主義の権利論を以てすべく、しかして所有権は労働せるものにありとの正義は実に個人主義の法律の理想たり。しかれば機械の公有を労働説の個人主義において否定せんと欲するならば、権利の主張者はワット以下の発明家の子孫たるべくして、単に排泄作用の労働より外、為せしことなき資本家はその労働の果実たる醜怪なる物質に対してのみ神聖なる所有権を得べし。否、機械それ自体が労働の限界分量を限りて分割するを得べきものにあらず、一つの蒸気機関におけるワットの個人的効果はその機械を組み立つるに用いられたる全知識の百千分の一にも過ぎず。

 −故に個人主義は非なり。真に法律の理想によって円満なる所有権を主張し得るものは、それら個々の発明家にもあらず、その占有者たる階級の資本家にもあらず、またその運転を為しつつある他の階級たる今の労働者にも非ず、ただ歴史的継続を有する人類の混然たる一体の社会のみ。機械は歴史の知識的積集の結晶物なり。機械は死せる祖先の霊魂が宿って子孫の慈愛のために労働しつつあるものなり。愛児の大多数をして地獄の苦痛に投じながら二三悪童の野蛮時代なる権利思想を以て占有を主張すとも今日の正義は許容せざるなれ。故にもし所有権神聖の理由を以て社会主義に対抗せんとするものあらば社会主義はむしろ社会労働の果実たる資本に対して所有権神聖の名において公有を唱うと云わん。

 リカード不備の点と地代則の説明、地代は人口増加の結果なり

 社会労働の果実に対する社会の所有権はまた地代の上に要求せらる。何人も知れる如くリカードの地代則によって、地代が人口増加の結果と社会文明の賜なる事は確定せられたる事実なり。もとより後世の学者によって充分に指摘せられたる如く、耕境の伸縮は彼の云うが如く、時に応じて迅速に行われるものにあらざるべし。小作料の如きは多く在来の慣習慣例に妨害せられてその法則のままに上下する者にあらざるべし。外国米の輸入、外国の土地の開墾等によって、またその法則の圧伏せられて働らかざる事あるべし。彼は旧世界の英国に生れたるが故に土地は始め豊饒の地よりのみ耕やされると思い、全く反対の現象の存する新開国を知らず、為にその法則が事実上の根拠において薄弱なりしことはあるべし。すなわち旧派経済学の抽象論に走る弊害の用を為せる彼たることにおいて、他の多くの働きを為す社会的条件を忘却せる非難は充分に理由あり。

 しかしながらかかる欠陥に充てるに拘らず、彼が如く考えうることによってのみ地代の説明せられ得るものなることは一般の学者の否まざる所なり。吾人はもとより旧派経済学の無数の誤謬を認める事において社会主義者の名が示す如くなりといえども、彼の如き方法によって地代を思考し得べしとする者なり。

 −穀物の市価は最も多き生産費によって定まる。かかる生産費の差額は土地の肥度と市場への便宜とによって生ず。かく多くの生産費を要する下等地を耕作せしむるに至るは人口増加の為に穀物の需要、多くなるが故なり。されば今、生産費差額を全く土地所有者に払い土地を借りて耕作に従事するも、下等地を耕作すると同一なる利潤を得べし。ここにおいてその生産費差額は常に全く地代となる。しかして人口いよいよ増加すれば、更に多くの生産費を要する下等地に耕境を低下せしめ、その低下するだけ生産費の差額を多くせしめ、それだけ地代を増加せしむ。故に現今小作人が地主に払う多額の地代は全く現今の如く増加せる人口の結果なり。増加せる人口と坐食せる地主と何の関係あらんや。実に人口増加の結果たる地代が所有権神聖なる名の下に常に全く地主に略奪せられつつあるが如きは個人主義の権利思想に背馳す。

 都会地の地代は社会文明の賜なり

 都会地の地代は実に明白に社会文明の賜なり。停車場の設けられてその付近の地代が増加する事は地主の所有を神聖ならしむべき理由にあらず。交通の発達による地代の増加は蒸気と電気との収得すべきものにして、立ち退きを怒号する地主の労働の果実にあらず。東京市将来の土地暴騰を見込みて土地を買収しつつある富豪らは、将来の発達による東京市の所得たるべきものを現在の坐食によって略奪すべき権利を有するものにあらず。地主はいかにミミズの如く一升の土を喰いて脱糞しつつ銀座街頭を匍匐するも一升の金と化し去る消化器を有するものにあらず。−フランス革命の時代の権威たりし所有権神聖とは今やかえって社会の主張すべき正義にして地主は占有によってする略奪者なり。

 無数の土地所有権弁護論、薄弱なる加工説

 吾人はここに世に存する無数の私有財産権の弁護論につきて煩わしく語らざるべし。労働説によって機械の私有すべからざるは上述の如く、また占有説に基きて土地を所有する理由なきことも上述の如し。しかしながら今日の土地はたとえ地代のみ社会的産物なりとするも土地そのものは往年の貴族の如く略奪による占有に非ざるが故に、なお以上の諸説によって所有権そのものを無視さるべからずと論ずるの余地あり。これに対してはあるいは盗品の売買は無効なりと云うを以てすべく、またあるいは吾人が先に説ける資本の高利による土地侵略の非義を以て打破するを得べし。しかしながら彼らは加工説なるものに残りて対抗を試む。すなわち今日の土地の上に加えたる長き間の勤労と云う事なり。しかしながらかかる薄弱なる議論は、そのいわゆる加工なるものの部落共有の占有に係る土地に対しての小作権に過ぎざりし事を忘却せるものにして、かつ著述家が畢世の心血をそそぎて書ける版権にしてすら時効によって消滅するを知らざるものなり。土地の表面の一呎を撹乱せるに過ぎざる僅少なる加工がいかにして天空より地軸に達するまでの所有権を確定し得るか、また数百年の後に至るも連綿として時効の来ること無きを得るか。資本家の蔵する応挙の画幅に拙劣なる画工が一抹の白墨を塗抹しこれ余が加工なりと云わば資本家は画工の所有権に服従するか、この地球は地主の奇跡によって六日間に創造せられたる者にあらざるなり。

 個人主義時代の独断的権利、個人主義の権利の理想は形式において似たるも社会主義と混同すべからず、個人主義の法理学はまたその経済学の如く現社会の弁護にあらず、権利とは社会生存の目的に適合する社会関係の規定なり、社会の利益すなわち権利にして正義なり。

 しかしながら吾人は断言す、かかる議論は等しく共に個人主義時代の根拠なき思弁的独断の権利論なりと。権利とは社会関係なり、社会と社会との間、もしくは社会の会員と会員との間における意志の発動すべき限定されたる境界なり。人類と神との間は宗教が支配し、人類と他動物との間は生物学が支配す。故に人類社会の関係たる権利の説明において、あるいは神を雲間より引き卸して天賦の権利を唱える如き、あるいは人類は生物なるが故に生存の権利ありと云うが如きは、その形式において社会主義の理想に類似せりといえども全く個人主義時代の革命論なり。(今日社会主義者に混ぜる個人主義の革命論者はなおかかる権利論を為す)。

 故に吾人は個人的生産時代の権利思想を以て現制度を弁護せんとするものに向かっては上述の如くそれらの諸説のかえって、そがかって貴族国に為せし如くこの経済的貴族国の根拠を覆すに至るべきことを指示すといえども、真理によってのみ言動すべき社会主義は誤れる個人主義時代の天賦人権論的思想によりで社会の所有権を建設せんとするものにあらず。すなわちこの経済的貴族国に対しては社会主義も個人主義も共に同一なる側に立つべきものなりといえども、社会主義は社会主義にして根拠なき個人主義とは同一視さるべからず。故に個人主義の経済学が再び繰り返さるべき革命党たるの外なき如く、この権利論の問題においても個人主義の法理学は経済的貴族国に達して弁護者たるべきものに非ずと云うことを解せば足る。

 社会主義の権利論は議論の基礎を単に思想上において思考し得べき原子的個人に置かずして社会を利益の帰属すべき主体となす。故にもし利益と云う文字を一時的便宜または眼前の政策というが如き粗雑なる意味に用いる事、国家社会主義者の如くならず、社会と云う生物が(『生物進化論と社会哲学』を見よ)その生存進化の目的に適合する手段との意義に解するならば、社会関係はその目的に適合する手段として変遷し、関係の規定たる権利はその変遷に従って進化す。故に原始的平等と部落共有制とは平和なる庶人社会においてはその社会の目的に適合せる社会関係の規定たることにおいて、平等と共産とがその常時の権利なりき。しかるに人口の増殖して遊牧時代に入って漂浪し、農業時代に入って土地を争うにおいては、その社会生存の目的の為めに他の部落を排斥して土地を占有することが権利としてその時代の正義なりき。しかして、かく他部落に対しては強力の正義によって権利を認めると共に、その部落の社会内の会員間においては、牛羊を牧し、農作を営む等の労働に伴う果実に対する権利として私有財産制が設定せられたり。すなわち略奪による土地の占有もある時代においては権利にして私有財産制度もまたある時代の来るまでは正義なり。然しながら社会の進化と共に新らしき正義は古き権利を破って進む。かって充分の正義たりし占有の権利思想は個人主義の権利思想たる労働説によって打破せられたり。しかして今やまた個人が終局目的なりとする思想は社会が利益の主体なりと云う新たなる他の正義によって打ち消されたり。社会主義の権利論は社会が利益の源泉にしてまた利益の帰属する所なりと云う根本思想において個人主義のそれを排す。
 故に社会主義は徹頭徹尾権利論によって立つと云うといえども、その権利とは独断的正義の理想に憧憬して社会の利益を無視すと云われるが如きものに非ずして、社会の利益すなわち権利にして正義なり。然らば正義と権利との名において土地及び生産機関の公有を主張する社会主義は社会の生存進化の目的に適合する利益なるか。
(私論.私見)
 「第2章」で冒頭、「いかにして革命せられたる封建の敗墟の上に更に革命を繰り返すべき経済的貴族国の建設されるに至りしか」を問うている。答えとして、勤倹貯蓄の賜物とする近代経済学者を嘲笑している。答えとして「社会的生産を資本家に独占せしむる略奪の蓄積なり」としている。これに於いてマルクスの功績を認め次のように述べている。「マルクスの資本論は経済的貴族の『資本』がまた等しく略奪なる事を科学的帰納において発見したるものなり」。「マルクスの『資本論』は経済的貴族の発生し発達し来れる歴史を明かにす」。産業革命はこれを強力に推し進めたことを指摘する。資本主義的経済競争の非人格性を指摘する。「資本家は徳義につきては良心の感覚ははなはだ痴鈍なるも利害につきては驚くべき鋭敏の耳を有す」。

 「大資本間の合同は経済史当然の潮勢なり。トラストこれなり。しかして他の階級に相競争せる労働者もまた強固なる労働組合を組織し、ここに二大階級はその階級間における自由競争を停止す」。



 必然的に社会的弱者の権利を守る思想像が生まれる。「権利とは社会生存の目的に適合する社会関係の規定なり、社会の利益すなわち権利にして正義なり」、「権利とは社会関係なり、社会と社会との間、もしくは社会の会員と会員との間における意志の発動すべき限定されたる境界なり」。ここから社会主義の権利論が生まれる。「議論の基礎を単に思想上において思考し得べき原子的個人に置かずして社会を利益の帰属すべき主体となす」。「故に社会主義は徹頭徹尾権利論によって立つと云うといえども、その権利とは独断的正義の理想に憧憬して社会の利益を無視すと云われるが如きものに非ずして、社会の利益すなわち権利にして正義なり。然らば正義と権利との名において土地及び生産機関の公有を主張する社会主義は社会の生存進化の目的に適合する利益なるか」。

【第三章】
 社会の権利すなわち社会の利益。経済的戦国の軍隊的労働組織と経済的公民国家のそれ。今日の公民国家の軍隊と社会主義の労働軍。経済史の大々的革命。社会主義に対する無数の非難を先ず現社会に提出せよ。人類の歴史は経済的貴族国に止まるか。社会主義の国旗を濫用せる国際法違反の国家社会主義あるいは講壇社会主義。『社会経済学』と『最新経済論』。国家社会主義は学界における社会主義当面の敵なり。金井博士の社会主義評。氏は社会主義を解して略奪階級の地位を転換する者とす。氏は資本と資本家とを混同す。氏は資本の説明と権利論につきて無学なり。田島博士と金井博士の人性の解釈よりする非難。人性の解釈において新旧経済学の五十歩百歩。旧派経済学と共に新派は公共心を解せず。社会主義時代の公共心による経済的活動。有機的活動の生理的要求。有機的休息と今日の怠惰。将来の快楽または精神的快楽の動機なし。労働は今日神聖に非ず。神聖の意義。労働を忌避するは自由民たらんとの権利思想なり。国家社会主義は労働を忌避せしむ。今日の貨幣は人生そのものの価格を代表す。貨幣の媒介なき地位と名誉とに対する利己心の経済的活動。万人平等の分配は権力濫用の経済的懸隔なからしむると共に個性発展の障害なからしめんが為なり。田島博士の独断的不平等論。社会主義は個性の不平等を認め分配は不平等となる。金井博士は平等に分配される購買力と云うことを享楽及び欲望の絶対的平等と誤まる。独断的平等論と独断的不平等論。不平等の正義なりし時代と平等の正義なるべき時代。田島博士の不平等論は自殺論法なり。平等観発展と歴史の意義。独断的平等論の逆進的批判と独断的不平等論の粘着的弁護。元来よりの平等に非ずまた元来よりの不平等に非ず。社会主義の自由平等論の真意義。『社会問題解釈法』と憐れむべしき一記者。田島博士の経済的貴族国の弁護論。氏は君主国をかえって共和国と云う。賃金基金説の誤謬とラサールの賃金の鉄則。労働者は生産物の分配を予め受けると云う新派の驚くべき空論。氏は企業的才能と利益の主体たる企業家とを同一視す。氏の外国貿易よりす非難。氏の処のいわゆる強大なる専制国。君主の目的と利益との為めに国家が手段として存する専制国に比すべき今日の資本家制度。田島博士のいわゆる微弱なる共和国、金井博士のいわゆる生産の減退。社会主義と偏局的社会主義。今日のいわゆる官吏と社会主義時代の監督者−−ドイツにおいて社会民主主義と云う理由。官吏専制の生産は国家社会主義そのものなり。生産を減退すと云う非難の起る理由。社会主義は分配論に重きを置かず。今日の分配的眼光と共産時代。個人的分配の理論的不能。分配は生産に伴う。円満なる理想としての共産主義。清貧の平分にあらず上層を引き下げるに非ず。社会主義は大生産によってのみ実現さる。トラストの資本家のみの合同を更に全社会の合同となす。トラストの浪費なき大トラスト。生産権が個人の財産権たる今日と売官制度。小企業家と小資本家のなお存在し得べしと云う事実とトラストが社会主義に至ると云う事実とは別問題なり。鵺的社会主義と純正社会主義

 社会の権利すなわち社会の利益

 実に土地及び生産機関の公有を正義と権利との名において主張する社会主義は社会の目的に適合する利益ならざるべからず。故に本編に題せられたる社会主義の経済的正義とはすなわち社会主義の実現による経済的幸福と云うことと同意義なりと解せらるべし。正義に反するものは利益にあらず、利益を来さざるものまた正義ならず。社会主義が正義によって土地及び生産機関の公有を主張するは、その社会の利益のためにする公共的経営によって全社会を経済的幸福に進ましむることを意味す。経済的群雄戦国は経済的封建制度に至り経済的封建制度は更に経済的公民国家に至る。徴兵的労働組織と云うものこれなり。

 経済的戦国の軍隊的労働組織と経済的公民国家のそれ、今日の公民国家の軍隊と社会主義の労働軍

 もとより現今の生産といえどもある程度まで軍隊的労働組織なることは事実なり。すなわち工業革命前におけるが如く各人各個が全く孤立的生産を為したるが如くならず、機械は集合的労働によって運転さるべきものなるが故に、その間に秩序と一致とを生ずるに至りしを以てなり。しかしながら元亀・天正の貴族国時代における軍隊と、今日の公民国家の軍隊とは二つの重大なる根本点において異なる。−すなわち貴族国時代の武士はその君主との主従的契約関係によって戦闘に従事せるに反し、今日の公民国家の軍隊においては全国民が国民各自の義務としてまた権利としての徴兵組織となれること。戦国時代の戦闘の目的は君主に帰属すべき利益の為にのみ存し、その武士と人民とは君主の目的の為に手段たりしに反し、今日の公民国家の戦闘は国家の目的と利益との為に為される事これなり。今の経済的貴族に率いられて戦いつつあるこの経済的戦国においては、資本家とその従属者の関係は往時の米禄封土におけるが如く全く賃金年俸等の契約関係において成立し、しかして奴隷的服従の道徳を以て経済的貴族の富を為さんが為にのみ戦わる。

 往年の貴族等がその奴隷的従属の家臣を気侭に放逐し、怒に任せてほしいままに斬殺するの権利ありしが如く、今日の経済的貴族もまたその忠勤にこれ日も足らざる学者と事務員とを自由に解雇し、自己の利益の為めには幾万の労働者を餓死に陥れるの権利を認識せらる、往年の彼らが領土拡張の利益と他を凌駕すべき権力の為に万骨を枯らすべき道徳上の権利を有したる如く、今日の経済的貴族もその貪欲と蓄財の為には幾千労働者の手足を機械の刃に掛けて切断し、不完全なる鉱坑の設備に投じて之を殺戮するも道徳上の無責任なり。しかして元亀・天正の当時幾多の貴族の各地に割拠して相攻伐し以て他の国土及び人民を兵火に荒らしたる如く、今日の経済的群雄もまた各業に割拠し相互に他の生産と労働者とを経済的乱軍の兵火に掛けて焼き払いつつあり。

 吾人はこれ以上に社会主義の労働的軍隊を以て今日の公民国家の軍隊に比することを止めざるべからず。何となればそれまた二つの重要なる根本点において異なる。−すなわち今日の公民国家の軍隊は外国の利益と権利とを排斥せんがために、少なくとも対抗せんが為に徴集訓練せらるといえども、社会主義の労働的軍隊は全世界と協同扶助を共にせんがために生産に従事すること。今日の公民国家の軍隊は絶対の専制と無限の奴隷的服従の階級とに組織せられ、その報酬の如きは往年の主従の如き差ありといえども、社会主義の労働的軍隊においては各個人の自由と独立は充分に保証せられ、権力的命令的組織を全く排斥して公共的義務の道徳的活動と他の多くの奨励的動機とによって労働し、物質的報酬に至っては、いかなる軽重の職務も全く同一なることこれなり。すなわち約言すれば、社会主義の軍隊的労働組織とは徴兵の手続によって召集せられたる壮丁より中老に至るまでの国民が、自己の天性に基く職業の選択と、自由独立の基礎に立つ秩序的大合同の生産方法なりと云うを得べし。

 経済史の大々的革命

 これ実に経済歴史の大々的革命なり。然しながら国司土豪より群雄戦国となり遂に封建制度を経て公民国家の権利義務たる国民的軍隊組織に至りし政治歴史の潮勢を見たるならば、この経済的土豪の発達し併呑せられて群雄戦国の興隆滅亡となり、更にトラストの経済的封建制度にまで流れ来たりし経済歴史の潮流が、独り維新革命の断崖を回避して経済的公民国家の国民的労働軍に至らざるの理あらんや。ただ、現状に甘んずる人類の最もむいやしむべき弱点のために、かって封建制度を人類終局の社会組織と為して公民国家の今日を想望し得ざりし如く、この経済的封建制度の下に兢々惶々として徒らに潮波に漂いて溺れつつある者は、この『徴兵的労働組織』と伝える社会主義の理想に無恥もはなはだしき冷笑を以て臨む。いわく人は奨励の利己心なくして怠惰とならざるか、いわく人は肉体的労働を忌避せざるか、いわく果して職業選択の自由あるか、いわく各個人の独立はいかにして保証し得るか、いわく官吏専制の時代を現出せざるか、いわく天性不平等の人に平等の分配は不当に非ざるか、いわく生産を減退せしめて社会を挙げて、はなはだしき貧困に陥れざるか。いわく何、いわく何。紛々として限りなし。

 社会主義に対する無数の非難を先ず現社会に提出せよ
  
 吾人は明かに之を告げん、社会主義はこれら総ての高貴なる要求を全うせんがために唱えらると。社会主義にしてもしこれら高貴なるものの中、一の欠陥にても存するあらば、その終局目的たる社会の進化と云うが如きも空想に止まるべく、実に傷けられたるダイヤモンドに過ぎざるべし。然しながら吾人は切に希望す、かかる無数の質問を社会主義の提案に向かって発する者が、その発せんとする前に先ず少しく静思して発せんとする所の同一の質問を現社会の前に提出すべきことを−−現社会は人をして利己的奨励の動機を挫き社会総てをして怠惰とならしめつつあらざるか。−−現社会は皆人をして肉体的労働を忌避せしむるに至ることは無きか。−−現社会において職業の選択は自由なるか。−−現社会において個人の独立は果して保証せられ居るか。−−現社会ははなはだしき官吏専制に非ざるなきか。−−現社会は果して天性の不平等に応ずる正当の分配を為しつつあるか。−−現社会は経済的兵火あるいは経済的苛斂誅求を以て生産を相破壊し、以て全社会をはなはだしき貧困に陥れつつあるに非ざるか。

 人類の歴史は経済的貴族国に止まるか、社会主義の国旗を濫用せる国際法違反の国家社会主義あるいは講壇社会主義

 恐くは否と云うべし、然らば先決問題あり。進化論は誤謬にして人類の歴史は経済的貴族国に止まりて地球の冷却するまでかって変ることなきか。

 吾人は社会主義の詳細なる説明、及び以上の如き無数の批難に対して答えんがために、ここに代表的学者を指定すべし。そは講壇社会主義あるいは国家社会主義を主張すと称する者なり。これ一は講壇社会主義あるいは国家社会主義なる者の真相を暴露して彼らの欺瞞より社会主義を保護せざるべからざる必要あればなり。実に純正社会主義は必ずかかる欺瞞によって汚辱さるべからず。彼らはその大学の講壇より唱えられるが故に講壇社会主義と呼ばれ、政府によって取られたるが故に国家社会主義と称せらるといえども、かかるものは実に社会主義的傾向だも無きものなり。国家は政府のことにあらず、講壇の神聖は資本家階級の私曲に蹂躙さるべからざるは論なし、しかも何れの政府もその権力階級の便宜は之を国家の名においてし、資本家階級が事実において知識階級を使役するを以て神聖なるべき大学の講壇と倫理的制度たる国家とは、今やかえって真理を讒誣し国家の権利を無視するところの彼ら欺瞞者に剽窃せられたり。否、彼らは少しも社会主義にあらず、ただ、現今の経済的貴族国が厳粛なる個人主義によっては、かえって維持さるべきに非ざるを知れるが故に、資本家主義が社会主義の国旗を濫用してその退却の遁路を濁さんと計る国際法違反に過ぎず。

 我が日本の如きにおいては、なお社会主義の幼稚にして全社会の未だ便々として眠れるが為に資本家主義が絶対無限権を振るいつつあるの時なり。故に吾人は我国における講壇社会主義者といい国家社会主義者と称しつつある者が社会主義の勢力に譲歩せしめられたるより生ぜる国際法違反の卑劣なりとは云わず。しかしながら単に通訳の如く外国人の所説を翻訳して報告するに過ぎざる一般の大学教授輩においては、温和折衷と云うが如きは理解力の乏しき頭脳に適合すべく、また他面においては社会主義に対する悪感情より免れる事において利益なりとすべし。しかしてその社会主義の国旗を濫用して公平厳正なるかの如き感を与えるが為に、明確に真理を解せざる社会主義者を疑惑に彷徨せしめて社会主義の提契者なるが如き感を与え、特に一般世人に社会主義を讒誣して伝うるの効果に至っては誠に以て警戒すべきなり。実に講壇社会主義なる者は神聖なる大学の講壇より説かるべきものに非ずして、汚されたる講壇が資本家の弁護に勉むる『資本家社会主義』と名づくべく、国家社会主義の名もまた国家に帰属すべき権利の主張にあらずして権力階級の政府が自家の官吏をして権力の維持を図らしむる『政府社会主義』と称すべし。純正社会主義はかかる狐狸と同行するものにあらず。

 『社会経済学』と『最新経済論』、国家社会主義は学界における社会主義当面の敵なり、金井博士の社会主義評、氏は社会主義を解して略奪階級の地位を転換するものとす

 国家社会主義が国家の本質及び法理を解せざることは後の『いわゆる国体論の復古的革命主義』及び『社会主義の啓蒙運動』において説く。ここには社会主義の経済的正義、−すなわち社会主義の経済的幸福を全く解せずして国家社会主義を主張しつつある学者の代表的なるものを指定して論ぜんとす。しかしてこの代表的学者として見らるべき者に東京帝国大学においては法学博士金井延氏あり、京都帝国大学においては法学博士田島錦治氏あり。前者の『社会経済学』及び後者の『最新経済論』によって吾人はその大体を察し得べし。しかしながら注意すべきは『最新経済論』の社会主義に対して浅からぬ同情を有するに反し、『社会経済学』のはなはだしき非社会主義的悪感に漲ぎれる事なり。もとより前者といえども『社会党は本と社会問題解釈の目的を以て起りたれども今や社会党それ自身が社会問題の目的物となれり』と云うが如き礼儀を逸せるの言無きに非ずといえども、『社会経済学』の如く経済学の利益を数えて『悪意を以てことさらに起らしめ公安を害するのおそれはなはだしき誤説をただすの効用あり。世人一般のその学に暗きを利用し、否、濫用してドイツその他において社会民主党並びにその亜流が為せる悪むべき所行は今なお吾人の記憶に存せり。之を匡正するはただそれ正確なる経済学の研究に在り』との緒論を以て始まれる、実に全巻を通じて恐怖と憎悪の念を以て書かれたるが如きものの比にあらず。

 然しながら『最新経済論』が社会主義に対して同情を失はざる穏健の態度なるだけ、それだけ博士の誤解が読者にとって堅実に受け取らるべく、『社会経済学』が悪感の挑発を以て任務とするの力に劣るものに非ず。しかして二者共に十数版を重ねたる堂々の大著たることにおいて、全国数万の法制経済の公私大学書生がいかに経済学の概念と同時に社会主義に対する誤解と悪感とを播かして先入思想と為しつつあるや知るべからざるなり。吾人は固く信ず、実際の運動において社会党が勢力を占むる場合には国家社会主義の随行することはあるべきも、純然たる資本家経済学が維持すべからざる今日において真理の敵として経済的貴族主義唯一の残塁として学界に残るものは実にこの国旗濫用の国際法違反者なりと。

 吾人は先ず金井博士の『社会経済学』がいかに社会主義の根拠より解する能わざるかを下の一節によって知れり。いわく。
 『社会主義の論者は往々資本の起原は元来労力に在るを以て生産事業より生ずる総ての利益はことごとく之を労働者に報酬すべきものなりと説けり。然れども之れ大に誤まりたる説たるに過ぎず。社会のなお未だ全く開けざる時代においては論者の如く資本の生ずるは全く労力によれりと云うを得べく、この点において労力は資本の起原なりと断ずるを得べきかなれども、当時のいわゆる資本なるものはその生ずるや否や直ちに消費されしを以て未だ真正なる資本の利益を与えるに暇なし。それより漸次進みて以てようやく今日のいわゆる資本なるものを生ずるに至りしなり。之を資本の増加する順序の大要とす。すなわち然らば資本の増加するに当たって、その増加するゆえんの者は単に労力にのみこれ依るに非ずして、資本その物もまた大に与りて力ありと云うを得べし。もしこの時に際し資本全く無かりせば労力はただ孤立して何等生産の用を為すを得ざるべし。要するに労力は実本に逢うてその用いられる所を得べく、資本もまた労力を得て活溌なる生産的の活動をなすを得べし。これを以て両者はあたかも車の両輪の如く離るべからざる関係を生ず。この両者に自然を加えて生産のこと全きを得るは、なお車の回転する両輪の外にその走る場所、その動く力を要するが如し。もし資本の起原は労力なるを以て生産事業より生ずる所の利益を挙げて之をことごとく労力に報酬するを得べしと云うを得ば、同様の論拠によって、その要を為さしむる所のものは資本なるを以て総ての利益は之をことごとく資本に帰せざるべからずと云うを得べし。然れども資本が労力を得てその用をなすと同時に、労力は資本によって始めてその用を為すを得るものなれば、到底両者は応分の報酬を得て可なるものなり。』

 『未開時代においても資本の起原は独り労力のみによるに非ず。労力は資本の父たるべきも、その母たる自然なくんば資本は決して生じ得べからざるなり。然らばすなわち自然物を供給する土地の所有者もまた相当の報酬を受けざるべからざるの理なり。現今の経済社会における分配は不公平なる所あるにも係わらず、社会主義の論者はなお一層不公平なる分配を為さんとするものなり。そのうえ、今日の社会における資本は資本として労力を助けつつあるものなり。かつ多くは生産的の資本として活動しつつあるものなり。資本それ自身がまた他の新たなる資本を生ずるの時代なり。然らばすなわち資本家に対しても報酬せざるべからざることは言を待たざる所なるべし。論者の誤れること以て知るべきなり』

 かかる誤解はあえて金井博士のみに限らず、なお多くの資本労働の調和を計ると云うものの議論にして、かの社会学の上より講壇社会主義を説きつつある文学博士建部遯吾氏の如きまたその一人なり。しかしながら社会主義の理論はいかに深遠にして容易に研究し得べからざるものなりとも、かかる根本点よりして解せざる如きものは社会主義につきて無知なりとするより外なし。世人は金井博士がかって労働問題に係わりし事のあるが故にあるいは社会主義者なるかの如く考え、しかして金井博士の大に恐怖してしばしば弁解に尽くせりといえども、かくの如き点より誤解する者の社会主義者に非ざるは博士の弁解に有力なる証明を与える者なり。吾人は博士の社会主義に悪感を抱けるを以てあえて歯を以て歯に償う者に非ずといえども、他の主義を批難せんと欲せば少なくとも他の文字を解し得るだけの能力を要求す。

 −実にかかる非礼なる要求は帝国大学教授法学博士の欠くべからざる能力なり。博士が社会主義の主張を解して『社会主義の論者に往々資本の起原は元来労力に在るを以て生産事業より生ずる総ての利益はことごとく之を労働者に報酬すべきものなり』として批難しつつありといえども、社会主義はかかることを要求せざるものなり。現在生存して労働しつつある個人あるいは階級のみが過去の祖先の肉体的精神的労働の蓄積たる資本より生ずる生産物の全部を壟断すべしとは社会主義の要求せざる所なり。社会主義は資本家階級が祖先労働の蓄積たる資本より生ずる総ての生産物の略奪を否認する如く、現在の労働よりして過去の労働に対する壟断が労働者階級の権利なりとは是認せざるなり。社会主義は階級の掃討を計る、資本家階級と労働者階級とを対立せしめてその上に資本労働の調和と云うが如き補綴を以てせんとする者とは論拠そのものよりして異なることを知らざるべからず。資本の労働調和を計ると云うものは現在の資本家労働者の二大階級を永劫不滅の制度なりと認識し、その何れかの階級が歴史と社会との生産物をより多く略奪すべきかを争論するものにして、社会主義はこの二大階級を絶滅して『社会』が歴史的累積の知識と社会的労働とを以て得たる生産物に対して所有権を有すと云う者なり。故に社会主義が実現せられて、略奪される階級、壟断する階級の消滅せるときにおいては、あえて資本労働の調和なる名の下に社会の生産物を各階級に略奪壟断することなく、一切の生産物を所有する社会に対して、生き残れる資本家も、地主の子女も、繊弱なる婦女も、幼児も、また労働する能わざる不具廃疾も当然の分配を要求することを得るなり。吾人が先に機械を以て祖先の霊魂がその中に宿って子孫の慈愛の為めに労働するものなりとはこの意味なり。然れば今日の如く資本家階級のみが祖先の偏寵をほしいままにする能わざる如く、労働し得る強壮者のみが自己労働以外なる祖先霊魂の労働をも壟断して身心の劣れる不幸なる祖先の愛児を排斥し得べき者に非ず。社会的生産時代の生産物は個人的労働時代の分配的眼光を以て計るべからず。否! 資本家階級に帰属すべき利益の為めに主張せられるものを資本家主義と称せられるならば、金井博士及び一般の資本労働調和論者の解する社会主義なる者は労働者階級のみの利益を終局目的とするかの如く考えうるが故に労働者主義と名づけらるべし。もとより社会主義は当面の救済として、また運動の本隊として今の労働者階級に陣営を置くものなりといえども、これあるが為めに労働者階級を維持する者と解すべからず、階級なき平等の一社会たらしむるのみ。社会主義は社会が終局目的にして利益の帰属する主体なるが故に名あり。現今の階級的対立を維持して略奪階級の地位を転換せんと考えうる如きは決して社会主義に非ず。

 氏は資本と資本家とを混同す、氏は資本の説明と権利論につきて無学なり、田島博士と金井博士の人性の解釈よりする非難

 金井博士が文字を解する能力の欠乏よりして、階級絶滅に努力する社会主義をかえって労働者階級を維持して略奪階級の地位を転換せんと図るものなるかの如く解すると共に、実に資本と資本家とを混同しつつあり。いわく『資本それ自身がまた他の新たなる資本を生ずるの時代なり、然らばすなわち資本家に対しても報酬せざるべからざることは言を待たざるべし』と。かかる最も重大なる点における思想の混乱は一千頁に渉れる『社会経済学』の大著をして全く反故の補綴となし終れり。金井博士は誠に親ら省みることを要す、我れ金井延なる者は経済学者なるかはた経済学なるかと。もし金井延なる者が経済学なりと云わば経済学が談話し、経済学が散歩し、経済学が貴殿礼を為し天皇陛下万歳を叫ぶ如き活動能力は思考し得べからざることに非ずや。経済学者と経済学とを混同することの斯くの如くならざるならば、何が故に資本の効用より直ちに転じて資本家の略奪に権利を付するや。社会主義は資本家の無用を云うのみ、決して資本の無用を口にしたることあらず。地主の無用を云うのみ、自然の無用を主張したることあらず。労働者の開放と云うのみ、労働せずして生存し得と云いしことあらざるなり。資本の無用と云って、しかもその無用なる資本の公有の為めに身を捨てて努力する矛盾は人類として有り得べからざることにして社会主義にあらず。地主以前に自然あり、地主亡ぶとも自然は生産の源泉として存す。社会主義はこの地球を去りて他の惑星に移住すべしとは云わざるなり。

 かかる白痴の如き文字の使用は帰する所、博士が社会主義につきて理解せる何者をも有せざればなり。社会主義の革命主義たるはその経済学の歴史的研究において資本家略奪の跡を知り、しかして現在略奪しつつある経済的貴族国なるを発見したるを以てなり。『資本は略奪の蓄積なり』。この一語は実に社会主義が革命の旗幟を翻へす城廓にして、しかし社会主義に一矢を試みんとせば必ずこの語が的たらざるべからず。然るに博士のいわゆる資本の説明なるものを見よ。『当時のいわゆる資本なるものは、その生ずるや否や直ちに消費されしを以て未だ真正なる資本の利益を与えるの暇なし。それより漸次進みて以てようやく今日のいわゆる資本なるものを生ずるに至りしなり。之を資本の増加する大要とす』と。しかしながらこれ一千頁に渉る大著としては余りに大要なりき。しかして社会主義が厳粛なる権利論を以て立つに反して博士のそれは古来存在せる無数の権利思想の相刺殺する者を羅列して恬然たりとは驚くの外なし。『一個人の財産所有権は人類が占有と労力とによって外界の財産特に貨物に捺印する所の人類としての性格にその源を発し社会国家が法制上これの性格を認めるに至り完備するものなり』と。これフランス革命を起したる占有説と労働説とが平坦なる頭脳の上に権利を争わずして存在せるものにして余りに完全に過ぎたる調和なりき。(資本労働の調和につきては『社会主義の啓蒙運動』を見よ)。

 田島博士の『最新経済論』はその巻末にカール・マルクスの学説の大略を解説したるが如きに見ても、金井博士の如く社会主義を労働者主義と解し、資本と資本家と土地と地主とを混同するが如き醜態なきは論なし。しかしながら博士もまた国家社会主義者たることにおいて国家社会主義の陥れる浅見は多く免れる能わず。その人性の上よりして社会主義を排したる者にいわく。
 『極端なる社会主義の学者の希望する所は往々経済的活動の原動力の一なる利己心を道徳心に変換し、しかして自家の想像せる国家すなわち社会的国家において、その人民をして各々の全力を注ぎ労物に従事せしめ、その報酬は之を労働に応じて公平に分与せんとするにあれども、この学説たる未だ人間本性の全体を看破せるものに非ず。従って実効を見ることはなはだ困難なるべきは論を待たざる所なり』

 金井博士の『社会経済学』にも、『生産の要具たる土地資本をして社会の共有物たらしめ、生産物の分配をして一に各人の労働にのみ依らしむるも、また過去における文明進歩の状態に矛盾するものなり。一たび利己心を全く排斥して公共心にのみ依らば、経済上の進歩はここに全く休止すべし。しかして経済上においてもまた一般社会上におけると同じく、休止の状態は退歩と同一の結果に帰すべければ、共産制度によって組織せられたる社会は日ならずして終にいかんともすべからざる窮困に陥るか、あるいは人類の歴史上見るを得ざる専制の行われる社会となるに至るべし』

 人生の解釈において新旧経済学の五十歩百歩

 吾人は単に『最新経済論』と『社会経済学』とのみならず無数に出版される新派経済学なるものの著書において、実に旧派経済学の誤謬なる人性に対する見解の駁論を開巻第一章に見る。もとより旧派経済学の如く人間を以て単に貨幣をのみ欲望する動物と仮定するが如きは今更に彼等新派経済学の尊き駁論を待たず、すでに遠き以前において社会主義者と人間霊能を直観する文学者(例えばカーライルの如き)とによって打破しつくされたる者なり。人間を以て貨幣のみによって動く動物なりと仮定することによっては、他の文学、歴史、芸術、科学等に対する人類の強盛なる活動を説明する能わざるはもとより、経済学それ自身の対象とする経済的現象をも、解釈する能わざるは論なきことなり。貨幣のみを欲望する利己的動物ならば、慈善によって貨幣を授受する如き、寄付金による貨幣の流通の如き、名誉、恋愛、権勢、その他の政治的軍事的活動の如きによって生ずる流通交換の経済的現象が一切説明されざるなり。吾人は新派経済学がこの偏見を脱却して人類には他の公共心すなわち社会性の本能的に存在するを認識し、公共心による経済的活動を研究の対象に包容せるをよみするものなり。−−しかもなお、人類の利己心を説明するに貨幣によってのみ満足されるものと断定して推論を進めるに至っては、人位を解せざるにおいて真に五十歩百歩の好き例なり。

 旧派経済学と共に新派は公共心を解せず、社会主義時代の公共心による経済的活動、有機的活動の生理的要求、有機的休息と今日の怠惰

 否、新派経済学は公共心による経済的活動を解せざることにおいて、また旧派経済学を多く凌駕するものに非ず。社会主義は実に人類が強盛なる公共心によって生産に従事するに至るべきことを期待するものなり。中国の傭兵よりも日本の徴兵が公共心によって遥かに活動せるを知れるならば、今日の傭兵的労働者よりも社会主義の徴兵的労働軍が、いかに熾烈なる公共心によって経済的活動に従事し生産的効果を挙ぐるかは日清戦争の懸隔によっても想像せらるべし。人類が一私人の命令によって死する者に非ざるを知れるならば、今日の傭兵的労働者が貪欲なる資本家の利益の為に全力を注ぎて労働せざるは当然の道理なり。傭兵的労働者が無数の監督あるに係わらず、なおかつ怠惰の隙を得んとうかがいつつあるは、あたかも中国の傭兵がなお背後に指揮官の軍刀あるに係わらず、壊乱して退却せしと同一なる理由なり。社会主義の徴兵的労働隊を以て無数の官吏の監督を要するものと速断し、人類の歴史上見るを得ざるはなはだしき専制の行われる社会となるべしと伝える金井博士の如きは、維新革命後、封建諸侯の廃せられて徴兵組織となれる当時西南役において実物教訓の指示されるまで徴兵の武士に及ばざるべきを憂慮せると同一なる浅見なり。

 公共心が一切を排除して進むときにおいて何の監督を要せんや、一大隊の指揮者が総て戦死せるに係わらず、なお戦争を継続せし如き事実は専制のはなはだしき軍隊においてすら希有のことに非ず。生存の欲望ある生物として人の最も避ける所の死においてすら公共心の動機は他の総ての動機に打ち勝って働くとせば、平和に、愉快に、社会の為めにする労働なることを明かに意識して服する一日四五時間の僅少なる肉体的活動において、人の利己心が公共心を圧伏すと考えうる如きは嬰児の推理力にも劣る。(ここにはしばらく利己心と公共心とを浅見者の使用する侭に用ゆ、なお『生物進化論と社会哲学』を見よ)。

 −否、四、五時間の労働は生物として生理的に要求せられるものなり。有機体は有機的活動を要す。学者が散歩せずして終日を書見にのみ耽る能わざるが如く、学生が体操せずまた長時間の遊戯なくして英語数学の修得に堪えざる如く、嬰児が揺籃の中に在って絶えず自動機械の如く手足を動かしつつある如く、人類は有機体としていかに精神的事務に従うものといえども、苦痛なく倦怠に至らざる程度の労働はかえって当然の生理的要求なり。今日牢獄に在るものの禁錮の無為に堪えずして自ら進みて定役を願い出づるを以て通例とするが如きは全くこの理由なり、(故にベラミーはその回顧において特別なる怠惰漢をこの生理的要求の束縛に置きて無為の苦痛を味はしめんが為めに滑稽の口吻を以て独居せしむるの制度を語れり)。 

 −しかしながら有機体は有機的活動を要すると共にまた有機的休息を要す。吾人は今日の賃金奴隷が怠惰となり易き事実を見て人性の本質は怠惰に在るかの如く考えうる浅見の学者をして、彼等の怠惰ならざるべからざる理由を解し易からしめんが為にかく想像せんことを要む。すなわち今の経済学者が七歳の時より白髪を過ぎて墓穴に至るまで一日十二三時間一年三百六十日、休息時間なく寧日なく希望なく変化なく興味なく、例えばフォーセットの小経済学一冊を繰り返し々々無限に繰り返して一生を送るべき単調の運命に捉えられたりとせよ。かくても学者はその経済学に対して怠惰ならず、また怠惰は人性の本質なりと云う信念を維持し得るや。かかる仮設の問は殆ど常識を欠ける者に非ざれば発し得ざる如きなり。しかもかかる常識を欠ける事において法学博士大学教授は社会主義を批難する議論を綴りつつありとせば如何。労働者はかかる没常識の仮設を事実において味わいつつあるなり。早朝より日没まで機械の耳を破るが如き運転の傍に在って単に鉄板を反覆するに過ぎざる労働あり。夏日の焼くが如き日中に至るも休息時間なく石炭を火に投ずるのみの労働あり。しかして総ての階級を通ずる労働者は、かかる変化なき一日を繰り返し希望なき一年を繰り返し以て単調なる一生を終るなり。

 労働者は有機体以下なる石にあらず、また有機体以上なる神にあらず。有機体として学者が有機的活動の散歩を要むる如く有機体として要求される労働者の有機的休息が怠惰と名づけられる将来の快楽または精神的快楽の動機なしは労働者を無機物の機械と考えうるが故なり。のみならず、怠惰それ自身といえども今日の社会組織においては当然なり。人は苦痛の動機によって動くものにあらず、眼前の苦痛を忍び、また物質的のそれを甘受するものは将来の快楽もしくは精神的快楽のそれらに打ち勝って働くものあればなり。今日の賃金奴隷の如く徒らに他人に帰属すべき利益の為に生産し、自己の眼前には暗黒の躍るより外何者も認めざる境遇に繋がれたるものが、眼前の苦痛を回避せんが為めに怠惰に走るは明白の道理にあらずや。また社会主義の時代におけるが如く、その労働によって社会の幸福が増進されることを明かに意識するならば、たとえ特別の事情により労働時間の多くまた肉体的苦痛の少なからざるものありとするも精神的快楽の動機は利己心のそれを圧伏して働くべく、然るに労働が軽蔑すべき奴隷の職たる今日においては精神的快楽の動機は皆無なり。(なお『社会主義の倫理的理想』を見よ)。

 労働は今日神聖に非ず、神聖の意義、労働を忌避するは自由民たらんとの権利思想なり、国家社会主義は労働を忌避せしむ、今日の貨幣は人生そのものの価格を代表す、貨幣の媒介なき地位と名誉とに対する利己心の経済的活動、万人平等の分配は権力濫用の経済的懸隔なからしむると共に個性発展の障害なからしめんが為めなり

 実に労働と云う語の中には軽蔑の意味が伴う、これ奴隷の職なればなり。奴隷は軽蔑せられ自由民は尊敬せらる。今日多くの世人に神聖なりとせられる軍務に服することも、それが奴隷の職なりし間ははなはだしく軽蔑せられたりしが如きこれなり。由来、神聖と云い下賤と云うが如きは、その時代における社会組織の状態に在って職業その事とは全く関係なきことなり。故に吾人は一般社会主義者の如く戦争は罪悪にして労働は神聖なりと主張して甘んずるものにあらず。理想ならば可なり。今日労働は決して神聖にあらず。軽蔑すべき奴隷の職にして、神聖なるものは一の黄金のみなり、黄金ならば盗賊の者にても、賄賂のものにても詐欺の者にても、売淫の者にても、理由は問わずして価値に高下なし。神聖とはかかるそれ自体の価値を有して外部的条件によって妨げられざる絶対者にのみ名づけらるべきもの、例えば絶対無限権を有せし時代の君主を神聖と称したりしが如し。今日の労働の如きはそのいかなる労働なるかの相対的条件によって差等を付せらる、決して神聖なる者に非ず。今日の労働が肉体的と精神的との相対的条件によって、あるいは尊敬せられ、あるいは軽蔑せられるゆえんの者は明かに労働が絶対者なる神聖に非ざるの証にして、その軽蔑せられる肉体的労働は奴隷の軽蔑すべきが故なり。奴隷は軽蔑せられ自由民は尊敬せらる。故に今日精神的労働の万人に希望せられ肉体的労働の忌避せられるは労働の難易にあらず尊卑にあらずして奴隷の屈従よりも尊敬さるべき自由民たらんとの権利思想の要求なり。

 −権利の前には何者も稽首せざるべからず、労働の神聖といえども。−これ故にこそ階級打破の社会主義あるなり。精神的労働は略奪階級がその略奪によって培養せる花なるが故に略奪階級の背景に輝やき、肉体的労働は屈従階級がその屈従者たることを表白するゆえんの労働なるが故に軽蔑せられるを解せば、奴隷の階級と自由民のそれと無くして、すなわち全社会ことごとく平等の権義によって相愛する自由民として、自由民たる権利としてまた義務として以て労働するに至らば、ここに労働は外部よりの相対的条件によって差等せられる事なく、労働することそれ自体が絶対者として神聖なるべし。然るに階級打破の社会主義に対して人は労働を忌避すべしと云い怠惰の為めに官吏専制に至るべしとの非難は何事ぞ。国家社会主義こそ資本家階級の略奪者と労働者階級の奴隷とを維持する者、故に労働は神聖にあらず。−人をして怠惰ならしめ労働を忌避せしむるものはかえって国家社会主義その者に非らずや。軍人の職が軽蔑より光栄に至れる如く、労働をして屈従労働の忌避より階級無き神聖に至らしめよ。達人の光栄に代れる労働の神聖は軍人が戦場において表す如き公共心を以て生産に活動すべし。

 しかしながら田島博士の誤解せる如く、社会主義は今日直ちに経済的活動の『原動力の一たる利己心を全然道徳心に変換せん』と主張する者に非ず。吾人は『今日直ちに』と云う前置きを置く、何となれば今日の強盛なる利己心は人類が私有財産制度に入りしよりの強盛にせられたる本能にして、社会主義の実現後三四世の後に及ばば共産制度に適合すべき道徳心の本能化すべきは社会進化の理想として吾人の充分に信ずべき根拠あればなり。(『生物進化論と社会哲学』の道徳の本能化を論じたる所を見よ)。兎に角社会進化のかかる一階段に到達する間までは利己心が公共心と相並で社会的活動の二大柱たる事は疑いも無き事実なり、故に社会主義は経済的活動において利己心の動機を無視するものにあらず。しかしながら利己心の動機を無視せずと云うことは利己心が貨幣によって満足さると云うことに非ざるなり。吾人が先に新派経済学の人性に対する見解は旧派経済学のそれと五十歩百歩なりと伝えるものこれなり。

 彼等は須く経済学の貝殻より頭を出して先ず『貨幣』の中に含まれる元素を分析する事を要す。貨幣の本体たる黄金が光輝ある物質なるが故に珍重されるは本来の意義にして野蛮人はこの意味に黄金を使用す。然るに黄金が貨幣に用いられるにおいては単に光輝ある物質と云う意味にあらず、また単に他の物質の代表と云う意時にも非ずして、黄金の代表する者は実に人生そのものの価格なり。一片の黄金の中には、生存の安慰籠り、疾病の平癒籠り、家庭の快楽籠り、子女の教育籠り、老後の休養籠り、丈夫の威厳、貞操の神聖、良心の独立、政治の自由、公共の活動、知織、品性、権力、名誉の源泉、実に一切人生の意義籠れるなり。然るに社会主義の実現されて人生の価格が黄金によって評価されざるに至るも、なお黄金が人性と同一なるメートルを保つと考えうるならば憐れむべき思考力なり。社会は権力組織に非ざれば黄金を以て購買すべき権力なく、政治なる名において黄金の略奪が営業となれる世にあらざれば政治業者ならんが為に要むる黄金を要せず、また黄金によって購買し得べき政治業者無し、公共的活動を為さんとするには今日の如く一私人の奮励を要せず、公共が公共の財産を以て活動すべく。個人に賄賂を贈るべき財産と必要となきと同時に、賄賂に値する権力を有し誘惑さるべき専制と奴隷の官吏組織なし。個人は国家の物質的保護によって何人にもその良心の独立を屈するの必要なく、道徳の履行は経済上の強迫と誘惑と無くして本能的に行わるべし。明哲なる学者と熱誠の政治家が無知にして豚の美服せるが如き資本家の前に匍匐するの醜態もなく老[けものへん非]の獣欲に蕾の少女を弄ばしむるの残忍も去るべし。子女の養育は公共においてその費用を支弁し、教育は社会之に任ず、病みては公共の病院と医師の自由あり、老いては養老金の下賦あり。平等の分配の為めに家庭は経済的従属関係より生ずる専制と屈従と無くして純潔なる父母の恋愛と親子の慈悲とのみによって結合せられ、今日存する生存の不安の如きは夢むべくもあらず。

 今日黄金の中に籠るこれら総ての要素を引き去りて残れるものを考えよ。貨幣は全く本来の光輝ある物質に過ぎざるに非ずや。しかしてまた社会主義の提案の如く、手形が紙幣を代表し、紙幣が黄金を代表し、更に黄金が貨物を代表すと云うが如き重複を去りて、貨物その物を直接に代表する紙片を以て貨幣とすとするも、人生の充分なる満足は大いに拡張されたる公共財産によって足れりとするが故に、その紙片が今日の貨幣の如く人生そのものの価格を有して争奪の対象となるが如きは想像すべきものに非ず。いわゆる経済学者なる者は須く顧みるを要す、人が貨幣を欲するは貨幣そのものなるか、貨幣の光輝ある性質なるか、貨幣の与える快楽なるか、貨幣によって購買し得る他の一般の快楽なるか、快楽を受ける所の自我なるか、自我の実現に在るか、一層高き自我に到達せんとする、ある他の目的の手段に在るか。

 −守銭奴と装飾とは貨幣の要求される一の理由なり、衣食の満足はまた実に他の一の理由なり。しかもその満足の後において貨幣の無限に要求せられつつあるは実に名誉と地位に対する購買力あるを以てなり。しかしてかかる重大なる購買力が単に一個の鉱物に存するは名誉と地位が貨幣によって築かれる社会組織なるを以てのみ。社会主義が斯る社会規制を革命したる後においては、名誉と地位に対する利己心は貨幣の介在を待たず名誉そのもの、地位そのものに対する利己心の活動となり、活溌に生産的動機を刺激すべし。新派経済学者にして少しく思考を回らさば、経済的競争の無くなると共に、かの武士がなお経済的階級あるに係わらず、利己心の満足を他の名誉文武の道に求め黄金を扇面に載せて触れるをだに汚らわしとせる事実を認むべきに非ずや。社会主義の徴兵的労働組織は大に公共心の強盛なる活動を期待すると共に、社会のある進化に達するまでは名誉と地位に対する利己心の競争によって生産的活動の刺激さるべき奨励的設備を要すと信ずる者なり。
 故に社会主義の万人平等の分配と云うことはもとより、権力濫用の源泉たる経済的懸隔なからしむるに在りといえども、一はまた個人性の発展をして障害なからしむる事に存すと考えらるべし。もし物質的報酬にして人為的差等の存するならば、しかして差等し得べきものならば、個人は個性そのものの発展によって得べき名誉と地位の道を取らすして、先ず名誉と地位とに早く到達すべき物質的報酬の多額なるべき職を択び個性の発展は第二次に位すべし。これ個性個々の傾向を曲げ発展を障害するに至るべきものにして、今日の社会主義が在来の労働に比例する報酬の差等と云う提案を排斥したるゆえんなり。社会主義の批難者はここに至って不平等論を囂々す。

 田島博士の独断的不平等論、社会主義は個性の不平等を認め分配は不平等となる、金井博士は平等に分配される購買力と云うことを亨楽及び欲望の絶対的平等と誤まる、独断的平等論と独断的不平等論、平等観発展と歴史の意義、不平等の正義なりし時代と平等の正義なるべき時代、独断的平等論の逆進的批判と独断的不平等論の粘着的弁護、社会主義の自由平等論の真意義、『社会問題解釈法』と憐れむべき一記者

 田島博士の『最新経済論』はいわく『人は元来不平等なり。しかして社会の万般の事情は益々人をして不平等ならしむ。この故に経済上の絶対的平等を望むは、なお人面の同じからんことを望み、人寿の等しからんことを望むが如し』『人は元来不平等なり。知力徳力体力の人々に同じからざるはけだし、その面よりはなはだしきものあり。この故に人が社会を組織するに当たっては各個人決して平等の関係を維持する能わずして賢は必ず愚を率い、君子は必ず小人を役し、強者は必ず弱者を制すべし。ここにおいてか夫唱婦随となり、君尊民卑となり、自由民及び奴隷の区別となり、富豪及び貧困の差別となる。依之見之、社会の不平等なるものは人性自然の結果のみ』

 金井博士の『社会経済学』はいわく、『一個人の私有財産を全く廃止し人々の享楽並びに欲望の満足をして絶対的に平等ならんことを欲するものなり』社会主義の分配につきては本編の後に説くべし。しかしながら明かに告げざるべからざるは、分配の平等と云うことと経済上の絶対的平等と云うこととは決して同意義に非ず。多病なるものは公共の病院に多く依頼することにおいて不平等なるべく、多くの子女を存するものは社会の学校に多くの教育を仰ぐことにおいて不平等なり。旅行家は鉄道を、学者は図書館を、美術家、音楽家、皆それ々々に美術館、音楽堂を多く使用することにおいて経済上の不平等なり。すなわち不平等なる各個人が各々不平等に公共財産を使用することにおいてうける所の経済上の利益は各々不平等なり。故に個性の不平等に応する正当の分配と云うことを要求するならば社会主義はこの公共財産の大なる拡張を以て要求を満足し得べし。

 −社会主義は個人の不平等を忘却せるものに非ず。その平等の分配と云うことは分配されるだけの私有財産が平等なりと云うことに過ぎずして、享楽及び欲望の満足をして絶対的に平等ならしむと誣妄する金井博士の如きは学者として誠に卑しむべき不真面目なり。分配の平等とは平等の購買力を分配されると云うことなり。この平等の購買力を不平等なる個人が不平等に使用することにおいて購買される経済的貨物は決して絶対的平等のものにあらず、もとより絶対約平等の享楽を与え欲望の満足を絶対的に平等ならしむるものにあらず。同一なる価格を以て購買せる書籍とブドウ酒とは経済的貨物として与える所の享楽において平等なるものに非ず、また同一なる価格なるが故に書籍とブドウ酒とは総ての人に平等に欲望されるものに非ず、金井博士は厳粛なる一個の主義に対して単に誣妄を伝播するを以て足れりとするに似たり。ただ遺憾なるは社会問題の専攻を以て法学博士たり大学教授たる田島錦治氏にして、人は元来不平等なりの一語より糸の如く一切の演繹を為して平然たることなり。

 社会主義はもとより個人としての不平等を認、しかもその故に人類としての同類を個性に隠蔽せられて平等主義を主張するをはばかる者にあらず。平等主義! 社会主義はもとより社会主義にして社会の生存進化を終局目的とすといえども、その目的の為めに平等の平面の上に自由なる競争を為し得べき社会組織を強烈に要求することにおいて明かに自由平等論を継承す。しかしながら社会主義の自由平等論は個人主義時代の革命思想の如く、自由の為めに自由を、平等の為めに平等を唱えるものに非ず、また人は元来自由平等なるが故に不自由不平等なる社会を打破すべしと云うものにあらず。何となれば元来より自由にして平等なるものならば不自由不平等なる社会を(個人主義の思想なるを以て契約によって)組織するの理なく、自由のための自由、平等のための平等とはフェリーの政治的手淫なりと云える如く効果なきことなればなり。しかしながら社会主義の自由平等論は田島博士の如き人は元来不平等なりとの根拠なき憶説を許容するものにあらず、何となれば原人社会に対する科学的推理は本能的社会性において平和に存在せる原始的平等なりと云うことに在ればなり。

 −すなわち社会主義の平等論とはかかるほしいままなる憶説の如く、元来よりの平等と云い元来よりの不平等と云うに非ずして、社会の生存進化の為に階級的不平等を去りて平等の平面の上に自由なる活動を為さしむべしとの要求なり。故にその平等を説くに当たっても『身長肥痩強弱性情趣向等は不平等なれども推理し談話し理性を有する動物として他の動物と異なる点において等し』と云うが如き生物学の許容せざる非科学論断を為さざると共に、また個性の不平等を認識するにおいても『最も下等なる人類と最も高等なる人類との間に在る優劣は、最も高等なる動物と最も下等なる人類との間に在る差よりも大なり』との言を科学的権威の如く遵奉して議論の基礎を築くものに非ず。何となれば推理し談話し理性を有することは、単に人類に限らす他の動物の高等なるものにおいては、ある程度まで之を有するを以て人類をのみ特別に他動物と隔絶せる天空に置く能わざるは生物進化論の原理なると共に、接近を同一分類に置くと云う生物分類の原則によって、あたかも犬の黒きを猫に分類し、赤きを狐に入れ、洋犬の大なるを馬に、和犬の小なるを羊に組み込まざる如く、高等なる動物を人類に組み込むか下等なる人類を高等動物に分類するかに非ざれば、野蛮人と高等動物の接近を人類間の隔絶よりはなはだしと形容する能わざればなり。

 すなわち社会主義の自由平等論は人に元来より平等なるが故にとして正義なるかの如く主張せざると共に、人は元来より不平等なりとして自由平等を非義なるかの如く考えうるものにあらず、正義とは社会の生存進化に適合することを示す外包約言辞にしてその内容は地理的にまた時代的に異なる、社会の生存進化の為めに古代の奴隷制度は充分に正義にして中世の君権万能、貴族専制も決して非義に非らざりしは何人も知れる所の如し。しかしながら正義の内容は常に流転して止まず。古代奴隷制度の正義あるいは中世の君主貴族の万能専制の正義を以て今日及び今後の正義を律する能わざるを知れるならば、何が故に田島博士の如く人は元来不平等なりとの凝結せる独断を以て正義の歴史的進化を無視するや。『人が社会を組織するに当たっては賢は必ず愚を率い、君子は必ず小人を役し、強者は必ず弱者を制すべし』との博士の前提は必ずしも真ならずとは云わず。しかもこの前提あるが故に『ここにおいてか夫唱婦随となり、君尊民卑となり、自由民及び奴隷の区別となり、富豪及び貧困の差別となる。依之見之、社会の不平等なるものは人性自然の結果のみ』どの結論は明かに社会の進化につきて無知なるものなり。もしこの前提あるが故に常に必ずこの結論なかるべからずと考えうるならば国家社会主義なる者の主張は下の如くならざるべからず。

 −人は元来不平等なり。しかして社会の歴史は進化するものに非らず、正義は古今不変なり、故に今日の民法を改めてローマ以前の家長無限権の下に家族を物格とし、天皇と華族とをして国土及び人民を経済物としての殺活贈与の権ある家長君主となし、国際戦争の捕虜と債務者とは鉄鎖を繋ぎて奴隷とせざるべからず、しかして貧富の懸隔は人は元来不平等なる人性自然の結果なるを以て資本労働の調和と云い日労働者保護と云い国家社会主義そのものと云い、不平論と相納れざる空論なりと。社会進化の跡を顧みよ。社会はその進化に応じて正義を進化せしむ。河流は流れ行くに従って深く広し、歴史の大河は原人部落に限られなる本能的社会性の泉よりして社会意識発展の大奔流となって流る。

 −人類の平等観これなり。家長権の制限、婦人の独立、奴隷の解放、しかして国王と貴族とを転覆せるフランス革命の大瀑布。社会主義はこの大瀑布の波瀾を受けてさらに千尋の断崖に漲ぎり落ちんが為にはしりつつある社会意識の大河流にあらずや。このナイヤガラを経てオンタリオ湖に落下し、社会意識が鏡の如き湖面に漲ぎり渡り、人類の平等観が全地球に発展せられたる時−ここに社会主義の主張する社会の進化と、個人主義の理想したる平等の平面の上に行われる自由なる活動と在り。もし六千年の歴史を有する吾人にしてこの大河流に浮びつつあるものなることを解せざるならば、歴史なきことにおいて祖先が猛獣と戦いしと云うが如き口碑伝説より外、有せざる南洋の土人部落にも劣る。(否! 東洋の土人部落においては二千五百年の平等観発展の大河流を順逆論におおいて未だ一の歴史無し、有するものは南洋のそれの如く口碑伝説を集めたる古事記・日本紀のみ。(『いわゆる国体論の復古的革命主義』を見よ)。

 −故に吾人は自由平等論をかかる意味において主張す。すなわち社会進化の理想を実現せんが為にかって家長専権となり君主無限権となり奴隷制度となりしが如く、社会の進化して同類意識がはなはだしく鋭敏となって在来の正義とされたる不平等を排し、平等を正義とし平等の団結自由の活動によって今後の社会を進化せしめんとするに在りと。戦争による略奪の権利、占有による土地私有制度が社会のある進化までに適合して正義なりしが如く、家長権も貴族も奴隷もまた社会のある進化までは充分の正義として社会の目的に適合したる者なり。故に自由平等論を歴史の波濤に逆進して不平等の非義を唱えることの誤れる個人主義時代の独断論なるは論なく、今日社会主義者のある者がなお依然としてかかる議論を継承しつつあるもそれはある者なるが故にして社会主義の真理はこの為めにおおわるべからず。しかも社会のある進化に至るまでに不平等の一たび正義たりしを以て今日今後の社会進化に抵抗するを事とし、はなはだしく鋭敏となれる同類意識の階級的懸隔に堪うべからざるに及びてもなお平等論を圧伏せんとするは更に遥かに取るに足らざるべく、国家社会主義なるものは一の真理もあらず。正義は逆進して可否さるべからすまた弁護を事として粘着すべからず、元来よりの平等と云い元来よりの不平等と云うことは共に根拠なき非科学的論断なり。何となれば元来よりの不平等と云わば人類一元論によって元来は不平等に非ざりしと云わるべく、また元来よりの平等と云わば総ての生物は元来は単細胞生物の進化せるものなるを以て一切の動植物は平等なりと論じ、終局、平等即差別の哲学に論陣を移転するの外無きに至るべければなり。

 吾人は社会主義を主張する者なり、社会進化の理想に適合する手段を執れば可なり、故に吾人は元来平等なり不平等なりと云わずして、社会進化の理想のためにこの不平等なる社会を打破して平等と自由とによって新社会を組織せんと主張するものなり。すなわち吾人は人類そのものが元来より自由平等なりしか、また懸隔差異ありしかを論争せずして、社会進化の理想のために物質的保護を均一に与うべしと要求するものなり。

 −社会主義の自由平等論とはこの真理なることを明確に解せよ。田島博士及び総ての国家社会主義者にして社会主義の平等論を人類そのものの同一不異と誤解せず物質的保護の平等の事なるを知れるならば、しかして物質的保護の平等がある程度まで今日の法律の上に現れて、美人も醜婦も、八十歳の高齢も三歳の夭死も、その身命に対する危艱脅迫に対して平等の物質的保護を受けつつあるを解するならば、『経済上の絶対的平等を望むはなお人面の同じからん事を望み人寿の等しからんことを望むが如し』との非難は誠に噴飯すべき方角違いの者となるを知るべし。社会主義は平等主義なり、しかも個人性の障害なき発展を図らんが為にする物質的方面のみにおける平等主義なり。(平等論につきては更に『社会主義の倫理的理想』及び『生物進化論と社会哲学』を見よ)。

 吾人はことさらに田島博士の賢明を傷くる者に非ず。社会主義が貧弱没趣味なる下層的平等の中に個人の人格を溶解し去る衆愚主義と解せられるが為めに、しかしてある時代の社会主義がかかる者なりしが為めに、独断的不平等論は今日学者階級における勢力にして、たまたま田島博士の之を口にしたるを以てなり。かって安部磯雄氏の『社会問題解釈法』に向かって一書を著して論戦の光栄を要めたる一記者の如きはこの勢力に漂溺せる者にして、しかも人間にはいかに知識道徳品性文章等において不平等の存するかを、その論弁において記者自身の身を以て証拠立てしが為めに論拠にはなはだ有力を加えたることありしが如きこの例なりとすべし。

 田島博士の経済的貴族国の弁護論、氏は君主国をかえって共和国と云う

 資本家社会主義者がかかる独断の不平等論を呶々するゆえんの者はこの経済的貴族国の維持に在り。いかに田島博士がその弁護の為めに『最新経済論』を汚辱しつつあるかは左の一節に見よ。

 『抑々現今の労働者が企業者の如く企業上の危険を犯すことなくして常に定額の賃金を受取ることを得るは実に彼等に取って利益ある方法なりとす。フランス経済学者エミール・ヴァリエ氏が賃金制度を批評して、一種固有の組合にしてその組合の一部は業務より生ずる危険の外に立ってその報酬、及び報酬を受けるときが予定されたるものなりと云いしは真に至る当の言なりとす。余輩はまたセルニュスキー氏が賃金制度を改革するを以て文明の退歩を望むものなりとの痛言に同意を表せざるを得ず。実に人間に企業者と労働者との別を生じたるゆえんは自然の勢なり。

 人は平等なりと云う社会主義の学説は毫も実際に適せず。試に思へ労働者が一致団結して企業家を排斥し生産組合なるものを組織すとするも、その労働者の中に才能の優れたるものと劣りたる者と在る以上は、才能あるものは主として企業的業務に従事し劣れるものは力役的業務に従事するに非らざれば何を以てか世界の市場に競争して勝を制するを得んや。たとえ彼等の説の如く一国の主権の力を仮りて一国内だけは企業家を駆逐してその国内の生産事業は総て皆労働者の生産組合によって行うを得べしとするも他の諸国には機敏なる企業家なお存し労働者を使役して之に当らんには、その国は必ず不振の地位に立つべき事あたかも微弱なる共和国が強大なる専制国にその軍事上外交上後れを取ると一般ならんのみ。故に吾輩は社会主義者の説の如く生産組合を総ての産業に適用して現今行われる賃金制度と企業家の存在を社会より駆逐するの説に同意する能わず。我輩は賃金制度の革命者にあらずして改革者を以て自ら任ぜざる能わず』

 もし以上の言が金井博士の如く徒らに非社会主義的悪感情の伝播を任務として書かれたるものなりとせば、『最新経済論』は吾人の為めに憐れむべき愚弄の題目となり、ここにも文字上の能力を疑われるべき帝国大学教授法学博士を見出すべかりしなり。田島博士はもとより通訳的学者に非ざるべく、特に吾人の如きは何々氏いわくとの虎威は最も快よしとせざる所なるが故にエミール・ヴァリエの言は恐らくは単に博物傍証の用に過ぎざりしことと信ず。

 しかしながら今日の賃金制度を目して、かえって一種固有の組合なりとの言を自己の責任において裏書人となるとは何たる不謹慎ぞ。組合制度の生産とは社会主義のある程度までの発現にして社会主義的生産制度と呼ばれるものなり、然るにもしヴァリエの言の如く賃金制度がすでに一種の生産組合ならば、これ現社会がすでに社会主義の理想郷なりと云うことにして、世界の社会党はことごとく解散すべくしかして社会党処分策を以て社会政策上の難問とせる『最新経済論』も焼却して可なり。生産組合は組合員の発言権を要し、生産に関しては共和的合議制を要す。経済的貴族がその家臣等の画策を聞きて生産に関する一切の事を決定し、労働者は賃金の多少以外には一言の口出しも為す能わず、かかるものを何の国語において組合と称するや。一人の利害によって身命を奪い居住営業の自由を剥奪し得る国家は決して共和国と命名せられざる如く、資本家の権利によって賃金奴隷を工場の門外に放逐し明日にも糊口の道を失わしむる生産の専制君主国は生産的共和国と全と異なれる今日通用の文字、資本家制度賃金制度の名あり、何を苦んでか経済学の根本思想より覆すが如き文字の混同を為すや。統治権が国家の権利に非ずして君主及び諸侯が統治よりして得る利益の帰属する主体たりし時代を共和国と命名せざるならば、生産が経済的家長君主等の統治権としてその目的と利益との為めに労働者を物格として処分しつつある今日を、何が故に生産的共和国たる生産組合に比するや。社会主義の生産組織はもとより大に今日の生産組合と異なること論なしといえども、ある者は政治的革命の道によらず生産組合を経て社会主義に到達すべしとまで考えうるほどなりとせば、かかる馬を指して鹿と云うが如きは学者として不謹慎の極と云うべし。生産組合は生産組合なり、賃金制度は賃金制度なり。ヴァリエと田島博士とは人類界の言語を使用せざる者なり。

 賃金基金説の誤謬はラサールの賃金の鉄則、労働者は生産物の分配を予め受けると云う新派の驚くべき空論

 しかしながら斯く賃金制度をかえって生産組合に混同するゆえんの者は考えうるに団結的生産の利益が資本家一人のみに帰せずして労働者もその利益に与りて高き賃金を得べしとの議論を為さんが為めなり、もとより旧派経済学の仮説する如く、賃金基金なるものの世に存すべき理なく、その基金に対する需要者(すなわち労働者)の人口の増減によって賃金が常に一定の点より一定の点までの間を上下すとは議論として貫徹せざる者なり、故にその基金説の上に築かれたるラサールの『賃金の鉄則』が大に修正さるべきは論なし。すなわち企業家が労働者に賃金を払うは将来の生産物より配当さるべき労働者の分を先払いとなすものにして、賃金は生産物より支払われるとの説明は、ある場合の事実なることは吾人もとより否まざるものなり。しかしながらある場合とは総てのことに非ず、企業家がその生産物によって利益を得ざる時においては労働者へ支払いたる賃金は決して生産物の中より出でたる者に非ざるを以て、この説明も多く仮説に過ぎず、吾人はかかる枝葉を云為する者に非ず、問題は賃金が支払われる所に非ずして賃金が契約される所に在り。企業家が労働者と賃金を契約せんとするや、生産物の利益によって支払い得べき将来を期待して『需要』すると共に、市場における労働者は空腹の圧迫と人口過多とを以て『供給』しつつあるなり。

 −すなわち労働者は労働を売ると云う名の下に(あたかも人身そのものを売る娼妓が淫のみを売ると云う如く)、肉体を需要供給の法則の上に横たえて人身売買を行いつつあるなり。しかして一たび買われて契約の鉄鎖に繋がれたる奴隷はその生産物の利益につきて何等の要求もなく、支払われる賃金がたとえ企業家のすでに有する資本の中より出づるとも、また企業者が将来生産物より得べきを期待して先払いを為せるものなりとも、またその期待の誤って他の資本家の金庫より出づるに至るとも、そは神といえども解する所に非らず、奴隷の価格はすでに市場において決定されたればなり。新派経済学者は企業家が生産物の中より賃金を支払うべきを期待して労働者を需要するを以て、供給者が経済物としてすでに市場において価格の決定されるをも顧みず、またあたかもその期待の誤りなきものなるかの如く独断し、すなわち賃金制度は一種固有の生産組合にして労働者は生産物に対して分配を予め受ける便利なる制度なりとは何たる空論ぞ。否! 自ら称して科学的なりと云い経験的なりと云う新派経済学はこの点において旧派のそれよりもいかにはなはだしく空論に耽りつつあるよ。『その組合員の一部は業務より生ずる危険の外に立って、その報酬及び報酬を受けるときが予定されたるものなり』。『現今の労働者が企業の危険を犯すことなくして常に定額の賃金を受取るを得るは実に彼等に取って利益ある方法なり』。然らば失業者とは企業の危険を負担せず予定されたる定額の賃金を受取りたるが故なり!

 氏は企業的才能と利益の主体たる企業家とを同一視す、氏の外国貿易よりする非難

 田島博士の経済的貴族国の弁護論は先に言える独断的見解の不平等論に在り。すなわち企業家と労働者との別を生じたるゆえんは不平等なる人性自然の結果にしてたとえ労働者の生産組合を以てするも企業の才能あるものは企業的業務に服し他は力役的業務に従事するに至るを以て平等の労働組織は不可能にして企業家は不滅なりとの議論これなり。しかしながらこれすなわち文字の能力を疑われるべき所にして、社会主義は今日の企業家を排すといえども企業家的才能の者を独断的平等論によって無視するものに非ず。国家社会主義の白眉たるイリー博士の如く企業家を工業の船長なりとして重要視する事は絶対に否まざるも、かの如く工業の船長が同時に工業の船主たらざるべからざる理由を認めざるものなり。法理的に云えば自己の目的の為めに自己の利益に帰属すべき権利の主体として企業を為す今日の企業家を排すといえども、国家の目的の為めに国家に帰属すべき利益のために国家の機関として企業を為す才能ある者を無用なりと云うに非ず。繰り返して云えば、工業の船主たり利益の主体たる企業家は国家にして、全国民は国家の機関として国家の利益の為めにあるいは筋肉を労しあるいは才能を働かす所の労働者なりとすべし。更に繰り返して云えば、過去貴族国時代の家長君主等の如く自己の目的の為めに自己の利益に帰属すべき権利の主題として存せしむる今日の経済的貴族国を打破して、あたかも今日の中央地方の官吏が国家の目的の為めに国家に帰属すべき利益の為めに国家機関として存する如く、企業的業務に服する機関をその才能ある者に行わしむることに在り、すなわち博士の言の如く労働者の生産組合中にて企業の才能ある者が企業的業務に従事すとも、その生業者はいわゆる企業家と全く異なれる組合の機関にして、すなわちある種類の労働者たるに過ぎず。統治権を行使する才能ある者が直ちに統治権の主体たる諸侯君主たらざるべからずと云う理由なきが如く、企業の才能ある者が必ず利益の主体たる企業家たらざるべからざるの理なし。この点において博士もまた金井博士の如く我れ田島錦治なるものは経済学者なるか、はた経済学かと顧みるの要あり。独断的不平等論に頭脳の中枢を腐蝕せられたる者は斯くまでに賢明をおおわれるか。

 田島博士の経済的貴族国の弁護論は残余なき者なり、氏は放縱に專制権の利益を列べてはばからず。いわく、『その国内の生産業は総て労働者の生産組合によって行うを得べしとするも他の諸国には機敏なる企業家なお存し労働者を使役して之に当らんには、その国は必ず不振の地位に立つべき事あたかも微弱なる共和国が強大なる専制国にその軍事上外交上後れを取ると一般ならんのみ』。これ事実なり。故に一国家内における生産組合が労働者の適度の労働時間と高尚なる生活との為のに、他の廉価なる賃金奴隷の酷使によって廉価なる生産費にて足る資本家組織の産業と市場の競争に勝へざることは事実にして、これが為めに社会主義が一局部の生産組合の方法を排し政権の上に立ち現れて国家が総ての産業を国家の手に吸集せんとする如く、外国におけると同じき資本家的産業の存在は社会主義の実現されたる国家の産業に妨害たるべきが故に、ここに社会主義の万国国際大同盟の運動あるなり。かかることは社会問題専攻の博士の不注意なるべき理なくかの矢野文雄氏の微温的なる『新社会』がこの点においてことさらに注意を払いて善かれたるが為めなることは何人も知れる所の如し。しかしてその微温的なるにせよ一国内における社会主義の成る程度までの実現が必ずしも不能にあらず、国家内の資本と労働の団結の為めに経済的先進国に対抗し得べしとの矢野氏の議論は博士の根拠なき推理を打消して余りあるべし。何となれば小資本の分立的競争よりも大資本の合同的活動が遥かに有力にして、相殺的破壊的労働よりも団結的秩序的労働の大なる生産を来すべきは経済学の原理にして、之を国際競争に行うもかの幕末に名づける各藩貴族の分立が外国に破られたるに係わらず、団結せる一公民国家となっては強大なるロシアにすら打勝ちたるが如くなるべければなり。ただ、看過すべからざることは『強大なる専制国』の語を以て現今の生産的専制国を讃美する博士の根本思想に在り。

 氏のいわゆる強大なる専制国、君主の目的と利益との為めに国家が手段として存する専制国に比すべき今日の資本家制度

 しかし専制国と云う語が国家の目的と利益との為めに国家の統治権を専制に行使する国家機関の政体なりとの意味ならば、専制に伴う機敏と秘密とが戦闘或は外交の激甚なる競争において国家を利すべきは疑いなき事実なり。しかしながら君主が統治権の主体として君主の目的と利益との為めに国家が客体たる物格として取り扱われし家長国時代を指して専制国と云うならば、その専制権の行使によって利せられるものは君主にして国家に非ざることはまた論なし。(『いわゆる国体論の復古的革命主義』において国家を人格と物格とに分類したる所を見よ)。故にしかし田島博士のいわゆる強大なる専制国たる今の資本家制度において、資本家がその生産団体の機関として団体の利益のために団体の目的のために生産権を行使するならば、たとえそれが専制なりとも専制によって得べき利益あらばその生産に与かれる団体員に当然なる権利として均霑すべきなり。しかしながらこれ決して現今の状態に非らず。資本家はその生産権をあたかも家長君主の如く自己の統治権として自己の目的と利益との為めに振るい、年俸月給賃金によって家臣奴僕たる団体員は資本家の目的の下に客体として存するに過ぎず。故に斯る意味の強大なる専制国においてはその強大なる国家、生産団体ならば強大なる生産団体を有することは君主と資本家の利益にして、その強大なる国家あるいは生産団体を率いて君主と資本家の強大を加えることは権利の主体たる彼等に帰属すべき利益にして、その利益が偶然に他に溢霑するや否やは問題外なり。故に英国におい一八九五年の統計、百三十五億万円の収入中八十五億万円まで全人口の八分の一の経済的君主等に帰属することは強大なる専制国における専制君主の権利なるべきも、その君主の目的の利益との為めに物格として存する他の八分の七が飢餓点を上下しつつある英国は強大なる国家に非ず。統計家の残酷なる悪戯は、米国シカゴ市の富を全人口に平分して一人一万円となり一家五六万円の割合なりと計算しつつあるも、失業者と犯罪者とに充満せる米国は貧弱なる国家にして、強大なる者は数十の経済的専制君主のことなり。岩崎黄金皇帝がその高き屋に登りて「朕富めり民焉ぞ富まざらんや」と宣うとも、強大なる者は岩崎なる者のことにして賃金奴隷と農奴とによって組織せられたる大日本帝国は決して強大なる国家に非ず。日清戦争に勝ち日露戦争に勝って、利益線の膨脹、貿易圏の拡大が無数に存在する経済的家長君主の強大を加えるとも、それによって国民と国家とが強大なりや否やは全く問題を異にす。十六軍団の陸軍と数十万トンの海軍とを以て武装せる巨人が骸骨の如く餓えて、貧民の上には小盗人を働き富豪の前にはひざまずきて租税の投与を哀泣しつつある醜態を見よ。大日本帝国は今や利益の帰属すべき権利の主体たる人格を剥奪せられて経済的家長君主等の為めに客体として存するに過ぎずなれり。経済的専制君主等は強大なるべし。しかしながら大日本帝国は斯くても強大の国家か。

 田島博士は恐らくは斯る意味において『強大なる専制国』の語を吐きしに非ざるべく、単に社会主義の生産組織を指して『微弱なる共和国』と名づけたるに対照せしが為めなるべし。ああ微弱なる共和国! 共和国何ぞ必ずしも微弱ならん。しかしながら微弱の一語は社会主義に対する死活問題なり、これ氏に限らず堂々たる学者より常に聴く所にして、社会主義の実現は生産を減退すとの全く転倒せる誣妄これなり。金井博士の『社会経済学』にも。

 
田島博士のいわゆる微弱なる共和国、金井博士のいわゆる生産の減退、社会主義と偏局的社会主義、今日のいわゆる官吏と社会主義時代の監督者、ドイツにおいて社会民主主義と云う理由、官吏専制の生産は国家社会主義そのものなり
 『しかし強いて之を実行せんとせば生産を監督し総ての生産に従事するものは子孫の教育養生のみならず、又一般に消費をも監督せしめんが為めに非常に多数の官吏を要することは免かるべからざるなり。然れどもなおこれよりも更に恐るべきは指揮監督の任に当れる上級官吏の無限の権力を有し絶えず之を実行するの地位に立つに至らんことこれなり。斯くして社会は古来比類なき圧制に苦しむに至るのみならず、際限なき干渉と監督との行われるにも係わらず、生産の結果は決して現制度の下におけるよりも多からざるべし。否、かえって少なかるべし。何となればすでに経験によって知れる如く方今の社会にも自利心の活動全く無きか、あるいは少なき所にては生産はなはだ少なきかあるいは悪しきかは一般の事実なればなり』。

 これ社会主義に対する両刀論法なるべし。社会全員の貧困か国家万能主義かとの両刀は全社会の富有と同時に個人の自由独立を主張する社会主義をして逃路なからしめんとする者なるべし。しかしながらその刀は共に地を撃てるに過ぎず。−−社会主義は全社会の驚くべき富有と個人の独立とを共に得べきことを確信するものなり。吾人は決して尊敬すべき金井博士を通弁的学者なりと信ずるものに非ずといえども、社会主義を以て官吏専制の国家万能主義と誤解して強烈に個人性の権威を主張する者はいわゆる個人主義なり。(個人主義の大なる意義につきては後の『生物進化論と社会哲学』を見よ)。しかしながら誤解されるが如き偏局的社会主義はプラトン以前の遠きに千年前のこととしていかに官吏の干渉を許したるかは婦人の貞操をまで監督せしめたるにても知るべし。現今の科学的社会主義は決してかかる素朴なる本能的社会性によって無意識に繋がれたる古代の復古主義にあらず。十九世紀に至るまでの個人主義の清鮮なる覚醒を受けて社会性と個人性との確実なる自覚の上に新らしく築かれたる全く別個の理想なり。この精細は更に『生物進化論と社会哲学』において説く。しかして官吏の監督無くしては生産的活動を萎縮せしむと推理する事の人性に対する無知識に基くことは先に説けり。しかしながら社会主義の世といえども決して僅少なる監督者の総て無用なりと云うにあらず、ただその監督者とは今日の官吏と全く別種の者なることを忘却せざれば足る。今日の官吏の重要なる任務は権力階級の維持の為めに常に反抗せんとする劣弱階級を抑圧する事に在り、しかして経済的誘惑によって腐敗し易き組織の下に置かれ、階級組織の為めに専制の驕慢と奴隷の卑屈あり。かかる者が社会主義の実現されたる暁においてもなお存在すと考えうるは、日出でてなお狐の隠れずと云うと同一なり。今日の如く上官の前には叩頭の芸術家たるに過ぎざる者が転じて社会に対するや帝王の如き権力を振るうはこの経済的懸隔と権力的階級組織の暗黒なる社会なればなり。監督者の推挙に至っても決して今日の官吏の如く、妻君の縁故、形式の試験、月謝納付の履歴書、政党騒擾の猟官に非ずして選挙によって立ち。しかしてその選挙と云うも、その軍中より選出されしローマ末年の皇帝の如くならず、労働の義務を終えたる局外者より労働軍中の適当せる者を選挙すとのベラミーの提案の如くせば何処に専制あらんや。しかして今日の司法官の職が人格ある人物の名誉職となって権力の濫用を監視して個人の自由独立を保護して立つべく、かつ労働的兵卒も監督者もまた今日の企業家に相当する所の重大なる機関も同一の分配を受けて経済的に対当の地位に立つとせば、その間また何ぞ専制と卑屈の官吏的階級あらんや。この故を以て古代よりの偏局的社会主義すなわち国家万能主義を個人主義の革命によって一たび全く転覆してフランスの如くなる能わざりしドイツにおいては民主主義なる名において個人の権威が社会の利益の為めに強大に主張せられ、中世の遺物を載せて流れ来れる国家万能主義の浮氷を国境外に駆逐せんが為めに『社会民主主義』なる者あるなり。すなわち社会主義と共に民主主義の主張せられつつあるは個人の権威が社会なるの名においてする他の個人の意志に汚辱さるべからずとの要求にして、何ぞ今日の如き官吏を以て生産を司らしむるを得べしと考えうる者ならんや。−−否! 今日の国家万能の官吏専制を以て生産を司らしめ、あるいは生産に口出しせしめんとする者こそ金井博士等のいわゆる国家社会主義に非ずや。金井博士の用いる両刀論法の一刀はかえって深く国家社会主義自身の心臓を貫けるに過ぎず!

 生産を減退すと云う非難の起る理由

 ここにおいて問題は、金井博士のいわゆる生産を減退せしむと云い、田島博士のいわゆる微弱なる共和国と云うことに帰す。これ誠に以て転倒せる誣妄なり、社会主義は生産を減退せしむるものに非ずして生産を増進せんが為めなり。微弱なる共和国に非ずして強大なる産業的共和国を現出すべき者なり。吾人はかかる全く転倒なる誤解があえて二氏のみならず充分に尊敬せらるべき人々の頑強に維持する所となるを見る毎に、誤解者が何の理由によってかかる非難を発するかを考慮したりき。しかも吾人は上来打破し来れる不見識あるいは無思慮より外にかかる非難の発せらるべき理由を見出す能わざりき。もし有りとせば空想的社会主義及び今日の社会主義者のある者が分配の不公平を論議する事に力を注ぎつつあるを見て生産の多少を顧みず平等の清貧に至るべしと考えうることに在るか。

 社会主義は分配論に重きを置かず、今日の分配的眼光と共産時代、個人的分配の理論的不能、分配は生産に伴う、円満なる理想としての共産主義、清貧の平分にあらず上層を引き下げるに非もず

 しかしながら吾人は断言す、科学的社会主義は決して分配論に重きを置くものにあらずと。これ奇怪に似たるも吾人の特に強く主張せんと欲する所なり。空想的社会主義時代においては独断的平等論の規準を以て上層の階級をただ下層に引き下げれば可なりと考えしが如きもあり、また社会主義の発見に導きたる動機が現社会の分配の不道理不公平に在りしを以て、分配論が主張の眼目なるかの如く思われるは社会主義者自身といえどもまた免れざる所なり。しかしながら社会主義の真髄は分配論に非ずして実は生産論に在るなり、すなわち土地及び生産機関の公有とその公共的経営と云うことが社会主義の脊髄骨なるなり。事実に見るも世界の社会党は無数に異なれる分配論によってかって離散せしことなく、生産論を中心として合同して動かざるなり。

 由来分配と云う語は私有財産的臭気を有す。もとより分配される配当額が私有財産として全く各個人の権内に属することなれば、この語を然く不当なりと云うに非ずといえども、一切を現社会の標準によって推論するより外知らざる彼等に取っては
分配と云う語は直ちに、大に拡張されたる公共財産の存することを想像せずして、私有財産制度の非社会的観察を以て受け取らる。現今存する僅少なる公共的財産は私有財産制度の砂漠中に在るオアシスなるを以て図書館には鉄網あり公園には鉄柵あるの止むを得ざるに係わらず、しかもなおこの非社会的思想より外有せざる今日の人といえども決して軍艦に対して分配を主張し兵営の建物に向かって分配を要求せざるに非ずや。これ軍事上の事は往年の大名の如くならず国家の経営すべき者なる事を解すればなり。故にこれと同様に生産上の事も決して一私人に任ずべき者に非ずとの事が明瞭に了解せられるに至らば、兵営よりも大なる工場、軍艦をも築造する大製造所の如きを今日の如く私有財産制度の分配的眼光を以て眺むるの不合理は存せざるべきなり。然らば社会財産の大部分は共産として存すべく分配される部分の如きは平常の生活と社会の進化に応じ個性の傾向を満すための購買力なるべく、決して現今用いられる分配−−名誉権力生活恋愛の総てを含有する意義の分配に非ざるは明白なるべし。

 故に社会主義者の分配に対する提案は種々に異なり、サン・シモンの如きは労力に比例する分配の差等と云い、ルイ・ブランの如きは理想の極致を掲げて能力に応じて生産し必要に応じて消費すと云い、今日の社会主義者は万人平等の分配と云う。もとより『能力に応じて生産し必要に応じて消費す』とのブランの理想は吾人の理想にして遠からざる将来において達し得べき者なり。然しながらかかる理想的の共産社会は生産のより一層に多くなり道徳的進化の更に一段の高きに到らざれば実現さるべからざる者なるを以て、科学的社会主義は現今の程度に応じて万人平等の分配に止まりて次の進化を持つ者なり。もとより現時の日本において今日直ちに社会主義の実現される者と仮定せば、『新社会』の如くシモンの提案をしばらくの間取る事は生産の然く発達せざる国の状態として可なるべしといえども、かかる実現は決して今日に期待さるべからず(『社会主義の啓蒙運動』を見よ)。のみならず、一個の生産物の上にその生産に従事せる人々の個人的勤労の限界を付する能わず、また歴史的累積の知識の効果がその中にいかほどの分量において含まれるや知る能わず、生産物とは渾然たる一個不可分の社会的歴史的産物なるを以て、それを個人的に現在的に分配の差等を設けんとするは、社会的生産時代において個人的生産時代の分配法を継承する者にして今日の正義とする所とはなはだしく背馳すべければなり。

 吾人は分配論に関する種々なる提案を時代的に進化すべき者と見よと伝える見解を執る。分配は生産に伴う。社会と云う生物はその生存進化の物質的資料たる生産の多少に応じて分配法の正義を異にす。かの生産の最も欠乏せる食人族がその社会生存の目的のために同類の肉をも分配さるべき物質的資料の中に加えて相殺戮する如く、今日までの私有財産制度が戦争あるいは法律の形において他の社会とあるいは他の階級との間において略奪の分配を為しつつある如く。原始的平等の部落共産制に在っては原始的共産なるべき原始的生産物の富有あって行われ、将来に来るべき共産的分配は無限なる発明による共産的生産の富有あって行われ、それに到達すべき階級たる社会主義の万人平等の分配は万人をして平等の分配に与りて経済上の欲望が相衝突するの要なきまでの富有なる大生産を徴兵的労働組織によって来さざるべからず。孟子が『民水火に非ざれば生活せず、昏暮に人の門戸を叩いて水火を求むるに与えざる者なし、至って足ればなり。聖人の天下を治むる菽粟ある事水火の如くならしむ。菽粟水火の如くにして民いずくんぞ不仁なる者あらんや』と云いしは豊饒なる平原に人口の稀薄なりし堯舜時代の原始的部落共産制においては真なりしなるべく、之を私有財産制度に入って君主貴族等の略奪階級が生じたる素朴なる[くさかんむり來]犁の農業的産業時代に主張せるはもとより空想に過ぎざりしは論なし(孟子の社会主義につきては後に『社会主義の啓蒙運動』において説く)。

 しかしながら、今日再び人口より遥かに超過せる生産を為し得べき機械は続々として発明せられつつあり。この機械を以て今日の如く経済的貴族階級の独占して相破壊するが如き方法において生産せざるに至らば、分配論の如きは生産の進化に伴いて自ら解釈さるべきなり。−−故に吾人は社会の進化して万人平等の分配と云う一階級を越えて純然たる共産的社会に至るべき事を円満なる理想として有する者なり。今日の社会主義者が孔子の如く「少きを憂へず均しからざらん事を憂ふ」と伝える過去の空想的社会主義を脱して、挙りて土地及び生産機関の公有に全力を注ぎつつある者は一切が大生産を挙ぐる事によってのみ解釈されるものなるを知ればなり。微弱なる共和国と云うに至っては今の社会主義を以て空想的時代のそれと同一視し、ただ退嬰的に清貧の平分に甘んずと解すればなり。社会主義は貧少なる分配を平等にすべきことを主張せずしてむしろ富有なる公共財産に対して個性の相異に応ずる共産的使用によって満足を得べきことを理想とする者なり、上層階級を下層に引き下げる者にあらずして下層階級が上層に進化する者なり。誣妄も極る。

 
社会主義は大生産によってのみ実現さる、トラストの資本家間のみの合同を更に全社会の合同となす、トラストの浪費なき大トラスト、生産権が個人財産権たる今日の売官制度、小企業家と小資本家のなお存在し得べしと云う事実とトラストが社会主義に至ると云う事実とは別問題なり、鵺的社会主義と純正社会主義

 然らばいかにして全社会をして今日の上層階級の如き幸福なる生活を受けしむるほどの大生産を得るや、いわく歴史的進行の流に従って至るべきのみと。吾人が先に経済的貴族国の歴史を述べて、経済的土豪より経済的群雄戦国となり更に経済的封建制度に至ると伝える如く、経済史の潮流は今や実に滔々としてトラストに流れつつあり。しかして群雄戦国の兵乱に苦みたる者が封建制度の貴族政治を悦びたる如く今の経済学者は挙りてトラストの大生産を讃美しつつある者なり。これもとより当然のことにして分立せる資本が合同せる資本よりも多く経済的にして協同の労働よりも相破壊し合う労働が多くの生産を来すと云うが如き痴呆の存すべき理なく、経済的封建制度は群雄戦国の経済的兵火なきを以て彼等諸侯と共に社会を利して大生産を挙ぐるを得るは疑いなき眼前の事実なればなり。いかに米国の法官がトラスト禁圧に全力を注ぎたりとも、またいかに労働者と小資本家とがその横暴に恐怖して極力妨害に努むとも歴史の大潮流は木柵石塊を以て阻むべからず、全世界は今や殆ど全くトラストを以ておおわれんとす。

 かって北米の石油業者の破壊的競争の為めに石油は徒らに倉庫に積まれ地に流れて顧みられざりしが如き大損失を来せし者、一八八二年スタンダード石油トラストの組織されるや、実に生産費の六割を減じ近年の配当総額六億万円に近しと云うにあらずや。四十億円の資本を合同して成れるカーネギーの鉄製トラストがいかに他の合同なき欧州の資本家を中国の市場より駆逐せるかを見よ。グールゴース製糖会社は全米国の悉皆を合同し、ナショナル・ビスケット会社は全国大製造会社の九割を合同し、ロンドンにおいては八百屋すらトラスト組織となれりと云うに非ずや。社会主義はトラストがいかに専横を働くとも歴史の進行に逆らいて小資本分立の前世紀を回顧する者にあらず、トラストの進行を継承して更に大合同に進まんとする者なり。トラストの資本家大合同は同業者間の破壊的競争を止めて広告の莫大なる浪費と各自の破壊的行為による資本の浪費なしといえども、そは単に資本家間の大合同に過ぎずして他の労力大合同の労働組合と激甚なる戦闘を絶たざるが故にいかに資本と労力の浪費あるや知るべからず−−これトラストのなお労力と資本との関係において全からざる合同にして大なる浪費をなして生産を傷害するゆえんなり。トラストの資本家大合同は暗中の飛躍に過ぎざる経済的混戦を止めて需要供給の関係を統計において眼下に俯瞰するの便宜あるが為めに従来の如く十年毎の大恐慌を来すが如き事は無しといえども、しかもその経営が専制権に伴う暗愚と驕慢に基くを以て需給の関係を見るの明をおおわれ、諸侯等の苛斂誅求の為めに社会の購買力を枯渇せしめて、ここに頻々たる生産過多となり社会はいかに資本と労力を消費しつつあるや知るべからず

 −−これトラストのなお消費と生産との関係において全からざる合同にして大なる消費を為して生産を傷害しつつあるゆえんなり。トラスト資本家大合同は無数の小売人を要せず、同業者間の破壊の為めに要する人員、及び収益少なき工場を閉鎖するより解雇する労働者等によって労力の消費を避けることにおいて大なる利益を得つつありといえども、その節約されたる労力は直ちに生産の道にそく能わずして徒に節約たらざるのみならず、あるいは社会の慈善に衣食して次の需要までを遊食し、あるいは社会を脅かして犯罪者となる。社会の被る労力の浪費はいかに多大なるや知るべからず

 −−これトラストがなお総ての関係において全からざる合同にして大なる浪費を為して生産を傷害するゆえんなり。しかして経済的活動の二大動機たる公共心は個人的契約関係の為めに圧伏されて働かず、自己心は階級的隔絶による絶望の為めに刺激される所なし−−これトラストが全社会を打て一丸とせる大合同に非ずして全社会を富有ならしむべき大生産を来す能わざるゆえんなり。社会主義はこの資本労力の大浪費あるトラストを社会の経営に移してかかる浪費の欠陥を去れる者なりと考えらるべし、経済的群雄戦国は経済的封建制度に至り、経済的封建制度は更に経済的公民国家に至る。社会主義は社会の為めにする生産なるを以て社会の購買力を枯渇するが如き苛斂誅求なく、専制の暗愚より生ずる生産過多なく、無責任なる労働者の解雇、工場の閉鎖より生ずる失業者なく、労力資本の二大階級の闘争より生ずる資本労働の浪費無し。しかして平等の分配の為めに自由に行われる個性発展によって達せんとする名誉と地位に対する利己心の強盛なる活動あり、社会に帰属すべき利益なる事を意識して努力する公共心の神聖なる刺激あり。経済学者なる者はトラストの大生産を禿筆爛舌して説きながら、トラストの進化を受けてその進化を継続し更にそれよりも遥かに大生産を来すべき社会主義を誤解して、かえって生産を減退せしむと云い微弱なる共和国と云うは何たる事ぞ。彼等は一個人の利己心をして社会の経済的源泉を左右せしむるを然く賢明なる制度なりと思わば何が故に大倉その如き者をして砲兵工場の工場主として砲弾に砂を入れ銃丸に石を混ぜしめざるや。国家生命の根源たる生産権を個人の財産権として存せしむる今日の売官制度を然く確定の経済組織なりと思わば何が故に統治権を皇帝の利益の為めに存する財産権として官職を売買しつつある中国・朝鮮の如くならしめざるや。

 しかしながら誤解すべからず、トラストの経済的封建制度の一転して社会主義の経済的公民国家に至ると云う事、トラストの時代に小企業家と小資本家との存在する余地なしと云う事ゝは自ら別問題なり。統計は明かにトラストの大企業家合同がそれと同業の小企業家を併合し圧倒すると共に、トラストの余沢によって立つ小企業家はそれに併行して発生し、また大規模によって生産する能わざる美術品修繕業等の手工業的小企業家はトラストの勢力範囲の外に立って存在しつつあるを示し、月給年俸にて雇傭される精神的労働者及び賃金に衣食する肉体的労働者といえどもトラストの株券を買い一面小資本家となり得べきを以てなり。故に吾人は社会主義者中の皮相的見解者の如くトラストの勢力を見て直ちに小企業家の存在し得べき余地なきかの如く信じ、社会の階級的隔絶を直ちにトラストの株券のことごとくが黄金貴族階級に独占される者なるかの如く解するの誠に独断論なるを知る。しかしながらかかる小企業家と云うが如き小さき略奪者の存在し得べきは、あたかも封建時代の政刑普及せざるが為に森林に山賊あり市井に賻徒ありしが如く黄金大名の目を避けて鼠の如く存する者にして、そのトラストの株主として小資本家たり得べしと云うが如きは、あたかも封建時代といえども、土百姓のみに非ず貴族階級に隷属して略奪階級を組織せる武士もしくは足軽仲間の階級ありしが如し。もし封建時代といえども森林に山賊あり市井に賻徒ありと云う理由を以て、貴族階級と土百姓の階級とのみならずその間に武士と云い足軽仲間と云うが如き略奪階級の介在せしと云う理由を以て、人類の政治史が封建制度を以て終局とせざりし事を解するならば、かの講壇社会主義者なる者が社会主義者中の皮相的見解者を窮迫するにこの経済的封建制度の下において小企業家と小資本家の存在し得べき余地ありと云うを理由として、かえって自ら経済史の進行を忘却せるが如き失態に陥るは何事ぞ。

 金井博士と田島博士との著書においてはこの点よりする非難は見出されざりしといえども、自ら称して講壇社会主義を主張すと云う者の多くはことにこの点に力を極めて純正社会主義の前に抵抗を試む。京都帝国大学教授法学博士桑田熊蔵氏の如き、千山万水桜主人の名の下に読売新聞紙上に流麗の筆を揮って大に議論せし法学士河上肇氏の如き、『社会問題解釈法』に対して論戦を求めたる一著者の如きこれなり。社会主義は小企業家と云うが如き小さき略奪者が、なお経済的諸侯の勢力外に立って存在しつつある現時代に甘んずる者に非ずして、来るべき時代においては小企業家をも存在せしめて略奪せしむべからずと主張する者なり。精神的肉体的労働者がトラストの株券を得て一面小資本家の小さき略奪者として経済的貴族の下に隷属して存在しつつある現時代に甘んぜず、来るべき時代において小資本家をも存在せしめて略奪せしむべからずと主張する者なり。すなわち、経済的封建制度の下において小企業家と小資本家のなお存在しつつありと云う事はそれだけの事実にして、経済的階級国家が歴史的進行の当然として経済的公民国家に至ると云うこととは他の事実にして別問題なり。講壇社会主義者の議論は経済史の進行する将来を看る能わずして経済的貴族国の維持を以て思想の基礎とし、純正社会主義は経済史の潮流に従って経済的民主国を理想す。しかして今日の権利思想は強力による所有権の主張にあらず。個人的労働に対する個人的分配の正義にあらず。社会が総ての富の生産者にして総ての富の所有者たる事は、今日の国家においても種々の法律においてその『最高の所有権者』たる事を現しつつあるを見るべし。斯く国家が最高の所有者と承認されるまで権利思想の進化し正義の理想の向上せる今日において、なお小企業家と云い小資本家と云うが如き小さき略奪者の存在し得べきことを理由として経済的維新革命を阻害せんと試みるは何ぞや。

 これ先に先決問題と云いしものなり。いわく−進化論は誤謬にして人類の歴史は経済的貴族国に止まり地球の冷却するまでかって変ることなきか。

 『社会経済学』と『最新経済論』とが社会主義に関して伝播しつつある誣妄は決して以上に止まらず。ただ、吾人が以上の二氏をことさらに指定して打破したるゆえんのものは、その肩書と地位としかしてその著書の名声とがかかる思慮なき讒誣に光輝を放つものなるを認め、特に半鳥半獣の鵺の如く社会主義の仮面を剽窃して被れるが為に純然たる資本家経済学よりも世を毒する事において遥かにはなはだしきものあるべきを信じたるが故なり。しかして以上の説明において彼等の云為する所がいささかの社会主義的傾向だになく『政府社会主義』あるいは『資本家社会主義』に過ぎざる事を明にし、以て弁妄の間において純正社会主義の本義を経済的方面においてある程度まで示し得たりと信ず。

 −純正社会主義は鵺的社会主義の誤解するが如く略奪階級の地位を転換せんとする者にあらず、一切階級を掃討して社会が社会の権利において社会の利益を図るものなり。純正社会主義は鵺的社会主義の如く経済的活動の動機を圧伏する現社会を弁護するほどに人性につきて無知なるものに非ず、公共心の強盛なる刺激と共に利己心の障害なき発動によって驚くべき経済的活動を期待するものなり。純正社会主義は鵺的社会主義のごとく階級隔絶を維持して労働を軽蔑忌避せしむるものに非ず、労働それ自身を外部的条件の上に置きて絶対に神聖ならしむるものなり。純正社会主義は鵺的社会主義の如く独断的不平等論によって今日の階級的不平等を維持して歴史の潮流に逆らわんとするものに非ず、同類観の鋭敏になれる社会進化に応じて社会の進化の為に、個人性の発展を障害なからしめんとして物質的保護の平等を図るものなり。純正社会主義は鵺的社会主義の如く一私人の目的の為めに為される専制を讃美するものにあらず、また国家万能主義を以て今日の官吏をして生産に係わらしめんとするものにあらず、個人主義の覚醒を承けて僅少にして平等なる監督者を賢明なる選挙法によって社会の機関たらしむるものなり。

 純正社会主義は鵺的社会主義の誤解する如く微弱なる生産をなし清貧の平分に甘んずるものにあらず、また分配論を重要視するものにあらず、一切が大生産によってのみ実現されることを知りてトラストの進化を更に進化せしめトラストに伴う総ての浪費を去り、資本家間のみの合同を更に全社会の大合同に来らしめ、私人の権利たる生産権を国家の目的と利益との為にする公権となし、個性発展の競争と公共心の強烈なる動機によって全社会を驚くべく富有ならしむることに在り、しかしてこの富有は利己的妄動の障害なく犯罪なく盲目の企業なく階級の争闘なく恐慌の大破裂なく、経済的誘惑を去れる平等の出発点よりする競争の自由と、知識の遺漏なき広漠なる普及とによって発明は更に発明を産み機械は更に機械を作り、累積して止まざる資本はまたさらにその累積して止まざる資本を止まずして累積し、今日の程度を以ては想像し得べからざる速度を以て増加また増加して無限無際辺に進む。

 −実に社会の権利と利益とを主張する純正社会主義はこの社会進化の理想を根本義とす。徒らに政府と資本家との為に国家の権利と講壇の神聖を汚辱して鵺の如く怪鳴する彼等は社会主義と名づけらるべき何者をも有せざるなり、鵺的社会主義にとっては経済的貴族国は人類歴史の終局にして地球の冷却するまでの制度なり、純正社会主義は進化論の上に立って厳粛なる科学的基礎によって推理し明確に社会進化の理想を意識して努力す、断じて錦繍に包まれたる糞土の塊と混同すべからざるなり。

 しかしながら社会主義の理想郷に到達するまで資本家階級に対する階級闘争の一挙にして勝を制する能わざるが為めに、社会進化の跡が国家社会主義の道を経由するの形を現すや否やは自ら別問題なり。(後の『社会主義の啓蒙運動』を見よ。)
(私論.私見)



 2011.6.24日 れんだいこ拝












(私論.私見)