「靖国神社の由来と歴史について」

 更新日/2018(平成30).6.25日

【靖国神社のアウトライン】
 靖国神社とそれに纏わるアウトライン的概説をしておくと次の通りである。(「 準備書面(原告ら第5回)」等々を参照した。只今咀嚼中)

 1869明治2)・6月、明治維新の内戦で死亡した官軍兵士の慰霊を目的として、東京招魂社が現在の位置(東京都千代田区九段)に建立された。これが靖国神社の起源であり、1879明治12、靖国神社と改称され、別格(国)弊社(へいしゃ)の特別の待遇を得て戦後まで至る。

 
別格官幣社とは、他の神社の格式とは違う別格の特別任務を持つ官営神社であった、ということを意味している。靖国神社は、その別格官幣社の中でも更に特別の扱いを受け、戦前は天皇の皇祖神を祭る伊勢神宮と並ぶ存在にまでなった。靖国神社は、国事戦没者を臣民として祭神化させ、これを国営で祀るという点で唯一無比な神社格を得ていたが、その後、天皇に忠誠を尽くした戦没者を英霊として祀るための陸、海軍直轄の神社となり、臨時大祭の委員長は天皇によって現役の将官が任命されるようになった。

 同社は、台湾出兵・日清戦争・日露戦争・第1次世界大戦・日中戦争・太平洋戦争と続く、天皇の名による戦争のたびに、多数の戦没者を新祭神に加えた。この間、戦前の国家神道、軍国主義の精神的イデオロギーを産み出す砦且つ精神的支柱的色彩を強めていった。

 戦没者は、天皇のために忠死したという唯一点で、国によって神として祀られ、現人神天皇の礼拝を受けるという、無上の「栄誉」を与えられた。軍歌「貴様と俺」の第五番詩、「貴様と俺とは 同期の桜 離れ離れに 散ろうとも 花の都の 靖国神社 春の梢に 咲いて会おう」は、この思想を象徴的に表現している。

 現在、靖国神社では、明治維新の戊辰戦争の戦死者を始めとして、それ以前の幕末の勤皇志士達、それ以降の第二次世界大戦までの戦没者、それ以降のA級戦犯被処刑者等約247万人(2.466.344柱)
の「戦没者」たちを合祀(ごうし)している。この間の戦史に使用された貴重な資料等々も飾られている。貴重な資料とは、歴代戦争の武器や戦闘機、天皇の錦旗(にしきのみはた=天子の旗、官軍であることを証する旗、明治維新の際に使用された赤地の錦に日月紋、または菊花紋を描いた二種のものが用いられた。きんき)等々のことである。

 靖国神社思想は、日本人の伝統的な霊魂観、祖先崇拝様式を当時鼓吹された天皇崇拝と大東亜共栄圏思想に巧みに結びつけていた。しかし、これをアジアから見れば、同神社の果たしてきた役割はまさしく日本帝国主義の侵略を煽るプロパガンダ機関に他ならなかった。その基本性格とは、国家神道中の軍国主義的側面を代表する存在であること、国家神道を最も強く国家と結び付ける衝動を有する宗教施設であることの二点に集約し得る。

 靖国神社は、戦後の宗教法人法により政教分離され民間の宗教法人となったが、1969(昭和44)年以降、自民党が靖国神社を非宗教化して国営にするための「靖国神社国家護持法案」の国会提出を繰り返すなど、復権運動が活発化している。一昨年から政府、自民党内で、首相や外国要人も参拝できるよう無宗教施設への特殊法人化を求める声が挙がっている。2001年の動きとして、「A級戦犯の分祀論」、「戦没者国立墓苑化構想」等も生まれつつある。

 2004.8.14日再編集 れんだいこ拝


【靖国神社の由来と歴史1、「京都の東山霊山での社」時代】
 我が国が幕藩体制から近代国家体制に大きく生まれ変わる時機に生起した戊辰戦争は、日本史上例を見ない内戦であり明治維新を切り開いた。この間、幕末の志士達は、倒幕運動の最中に倒れた志士の御霊をなぐさめるため、1862年に幕府にかくれてひそかに京都の東山霊山に社を建て祀っていた。尊皇派志士は、盛んに招魂場を設け、招魂祭を営んだ。この「同志追悼的弔い」が靖国神社の目的の源流と見なされ、仮にファクター①としておく。(以下、順次ファクターの移り変わりを見ていくが、この分析法はれんだいこの功績である

 戊辰戦争において、官軍は大きな戦闘のたびに陣中で招魂祭を行い、自軍の戦没者を慰霊・顕彰した。1868(慶応4).6.2日、江戸城内で、征東大総督府によって神道式の大招魂祭が行われ、官軍戦没者の慰霊・顕彰がなされた。その際の祭文は、自軍を「皇御軍(すめらみいくさ)」と称え、旧幕府軍を「道不知醜の奴(みちしらぬしこのやっこ)」と呼んで卑しんだ。敵と味方、官と賊の峻別を象徴して、招魂していることが判明する。

 準備書面(原告ら第5回)」は次のように述べている。
 幕末の、血生臭い極めて特殊な一時期の世相の中で生じたものであるそこはテロや戦闘に倒れた自派の死者の霊魂を讃え慰めるとともに、後に続く者が敵への復讐と、復讐のために自らの死を賭することを誓う儀式の場であった。後に明治政府の軍隊の基礎を作った長州藩においては、招魂場に生墳(生前に作る墓)を併せ造って死を覚悟の証しとすることさえした。

 この政治的・軍事的色彩の強い宗教観念は、自派の犠牲者のみを慰霊・顕彰し、反対派の死者を一顧だにしない点に特徴があり、それは戦場で倒れた者は敵味方の区別なく供養するという我が国の伝統的宗教観とはまったく異なるものであつた。「招魂」の思想は、果てしなく敵を憎悪し、自派の犠牲者の霊に敵に対する報復を誓う思想であり、味方の士気を鼓舞し死地に赴かせるために、極めて効果的な信仰であった。ここに,「靖国」の教義の原型を見ることができる。
(私論.私見) 「ファクター①、同志追悼的弔い
 れんだいこは、靖国神社の「ファクター①、同志追悼的弔い」については蓋し当然と見る。運動圏の者はこの作法を生み出すべきだろう。

 準備書面(原告ら第5回)」のこの毒毒しい観点は如何なものだろうか。幕末内戦の歴史的意義を、今日的反戦平和思想から論断するのは馬鹿げていよう。れんだいこは、運動圏の者が同志的紐帯で「追悼的弔い」することは歴史的有理と思っている。それを否定するような運動観はあまりにも歴史を道徳的に律しようとし過ぎていよう。

 「それは戦場で倒れた者は敵味方の区別なく供養するという我が国の伝統的宗教観とはまったく異なるものであつた」は、小泉首相の説く「死んでしまえば、敵味方も戦犯も皆同じ論」と通底している。「敵味方の区別なく供養する」のは事後の部外観点からのそれであり、運動圏内の者達へそれを強いる論法の方が馬鹿げていよう。机上論よりする批判にしか聞こえない。

 2005.7.14日 れんだいこ拝

【靖国神社の由来と歴史2、「明治天皇の発意」】
 倒幕成功で樹立された新政府は、天皇制権力秩序を範とする国家再編を急いでいくことになった。靖国神社の由来は、「靖国神社略誌」によれば明治天皇の直々の意向に発するようである。明治天皇は、戊辰戦争の際の内戦で多くの人命が失われたことを悼み、天下国家のために一命を捧げた人士の霊を慰めようと思い立ち、水戸学的な王政復古思想をイデオロギー的基礎として神道形式で祀ることとした。

 その理由として、それまでの宗門制度では檀家制度による宗派別の慰霊にならざるを得ず、これでは生前の同志的紐帯が生かされないと思料し、仏教式宗派のしがらみに拠らず神道形式で祀ることとしたようである。当然のことながら、明治新政府が推し進めようとした天皇制イデオロギーの一元化による国民的統合の推進という面でその方が好都合であったということでもある。

【靖国神社の由来と歴史3、「東京招魂社」創建】
 1869(明治2).6.29日、「東京招魂社」が、「明治維新の草莽志士と内戦(戊辰戦争)で死亡した官軍兵士戦没者の慰霊」のため現在の位置(東京都千代田区九段)に建立された(「東京招魂社創建」)。これが靖国神社の前身となる。

 東京遷都が行われるとともに東京「九段坂上田安台」の地に全国的規模の招魂社を新設する運びとなった。設立の中心となったのは旧陸軍の創立者として知られる長州の大村益次郎で、その功を称えて今も九段の境内に銅像が立っている。

 当初の社名「東京招魂社」の「招魂」とは、死者の霊を天から招き降ろして鎮魂するという意味である。もとは道教に由来し、その起源は古代にまでさかのぼるとも云われているが、何も外来に依拠して理解する必要は無いようにも思われる。れんだいこには、死者を鎮魂する日本固有の伝統的哀悼法のようにも思える。その「招魂の思想」が幕末の頃俄かに復活登場していた。幕府の推奨宗教であった仏教や儒教に対抗して生み出された国学イデオロギーの所産でもあり、神道思想から生み出された思想であった、ように思われる。

 東京招魂社では、この「招魂の思想」に基づき、直接的には、戊辰戦争で死んだ主として朝廷側官軍(幕末の尊皇攘夷派の志士)の戦没者を慰霊した。この時の東京招魂社が後に靖国神社に引き継がれていくことになる。ちなみに、この社は1931(昭和6)年、靖国神社に奉納され、最初の元をなす「元宮」として取り込まれ、現在も崇敬されている。

 
明治天皇は、これらの士を弔い讃えることでその生と労に報おうと発意され、これを「臣民」として祀ることとした。これが東京招魂社→靖国神社のそもそもの祀り方であったと思われる。この祀り方を仮にファクター②としておく。「天皇の臣民」という条件が設定されたことに気づく。
 この日、諸藩から届け出のあった官軍戦没者3千588名を同社に合祀して盛大な招魂祭を挙行した。同年8月、明治天皇は東京招魂社に祭祀料等として社料1万石を与えた。これは国家神道の本宗・伊勢神宮に次ぐ優遇であった。明治新政府にとっては統一された強大な天皇の軍隊を創設することが急務であり、天皇軍戦没者を賞揚し、手厚く遇することによって兵士の士気を高めるという効果を期待した。この目的ゆえに東京招魂社は最初から破格の取扱いがなされたことになる。

【靖国神社の由来と歴史4、「東京招魂社」その後】
 同年9月、兵部省は同社の祭典を定めたが、例大祭は正月3日(伏見戦争記念日)、5.155日(上野戦争記念日)、5.18日(函館降伏日)、9.22日(会津降伏日)と定めた。
 1870(明治3)年、神道を国教化する大教宣布の詔を発する。
 1971(明治4).正月3日の大祭以後、天皇の紋章である菊花一六弁紋章入りの紫幕の使用が特に許され、天皇自身も1874.1月(例大祭)、1875.2月(台湾征討戦死者合祀臨時大祭)、1877.11月(西南戦争戦死者合祀臨時大祭)と三度の大祭に行幸して「御拝」した。天皇が「臣民」を祀る社祠に直接参拝することは古代天皇制の成立以来空前の出来事であり、この親拝は天皇軍戦没者に対する破格の処遇を意味した。
 1972(明治5)年、社殿(本殿)が完成する。山県有朋が祭主を務め、正遷宮祭が執行された。

 楠木正成を祭神とする湊川神社を創建した際に「別格官幣社」が新たに制定された。「別格官幣社」は、天皇の「臣民」を祭神とする神社のために創案された最高の社格であった。当初、明治政府は、国民への教育的効果を高めるために湊川神社を官幣社とする意向であったが、いかに忠臣でも人間でしかも臣下に過ぎない楠木正成を天神地祇と同格に扱って官社の祭神とすることには根強い反対があった。
 1875(明治8)年、政府は、各地の招魂社に祭られている霊を東京招魂社に合祀することを決定し、「嘉永6年以来の国事殉難者」を東京招魂社に合祀(ごうし)することを決めている。この措置により地方招魂社は東京招魂社(靖国神社)に結び付けられ,その地方分社としての性格を持つことになった。

 この合祀によって、戊辰戦争時の官軍側戦没者のみならず、それより以前の幕末の勤王派の死者(例えば、橋本左内、吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作)達も祀られることになった。かくて、幕末から明治維新の過程で殉難した数多くの国士が「国事殉難者」として加えられることになった。この頃既に「英霊」と云う言い方が為されていたのか判明ではないが、この時点で、「国事に奔走した殉難者として認められた者を祀る社」ということになったことになる。これは「ファクター①」の要素から拡張された「合祀的動き」と見なすことが出来る。


 
但し、「国事殉難者」はあくまで天皇制の擁護者に限られ、あくまで「臣民」とする方式で祀られた。この認定ないし形式により、幕府側の戦死者は賊徒・朝敵として排除された為祀られていない。奥羽列藩同盟藩士、会津白虎隊の犠牲者らは除外されたということでもある。その後西南戦争が発生したが、西郷隆盛軍にも国賊・反政府の烙印が押され、合祀の対象から外された。靖国神社に祀られる認定が、天皇に命をささげたかどうかが合祀の条件であったからである。

 こうして、天皇ために死んだ者を称賛して神として祀る一方で、天皇の敵はあくまで逆賊として「国事殉難者」とはみなされなかったという経緯を見せている。つまり、ファクター①は、ファクター②の「臣民」的方法で取り込まれ、この方式が徹底していた、ということになる。


 こうした基準によって、空襲や原爆の犠牲になった民間人死者も軍属ではないので祀られていない。つまり、米国のアーリントン墓地と異なり、戦没者全般が祀られている訳ではない。なお、1912.9.13日、明治天皇崩御の時、夫妻で殉じた乃木希典大将らも戦死ではないことから祀られていない。

【靖国神社の由来と歴史5、「靖国神社」に改称】
 1879(明治12).6.4日、「東京招魂社」は、「靖国神社」と改称し、別格官幣社の社格を与えられた。内務・陸軍・海軍の三省共同管理下に入る。「靖国(やすくに)」という御社号は明治天皇が直々に命名された由である。中国の吏書「春秋」の「左氏伝」の「吾以て国を平安にし、国を靖(やす)んずるなり」という記述から発案された云われる。「靖国」は「鎮国」と同義であるという。

 同月25日挙行の改称列格の臨時大祭では次の祭文が奉上された。
 「明治元年と云う年より以降(このかた)内外の国の荒振寇等(あらぶるあたども)を刑罰(うちきた)め、不服(まつろわぬ)人を言和(ことやわ)し給ふ時に汝命等(いましみことたち=祭神を指す)の赤き直き真心を以て、家を忘れ身を擲(す)て、各も死亡(みうせ)にし、其大き高き勲功に依てし、大皇国を安国と知食(しろしめ)す事ぞと思食(おぼしめ)すが故に靖国神社と改称(あらためとな)へ、別格官幣社と定奉りて云々」。
 現「宗教法人靖国神社」の神社規則にも、「第三条 本法人は明治天皇の宣らせ給うた「安国」の聖旨に基き、国事に殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行い、その神徳をひろめ云々」と明記されている。

 この思想は、現「宗教法人靖国神社」の神社規則にも続いており、「第三条 本法人は明治天皇の宣らせ給うた『安国』の聖旨に基き、国事に殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行い、その神徳をひろめ云々」と明記されている。

 この名称の改変を通じて、それまでの「招魂」という弔い型から、「靖国」という国家主義イデオロギー型への転換が意図的に為されたことが判明する。ここに、「天皇のために、皇国のために死んでくれたから、天皇が親拝してくれる。死ねば靖国の神になり祀られる」という構図が確立されたことが分かる。
 

 以降、祀られる者達は、日本民族を守るために掛け替えのない尊い生命を国に捧げた同胞たちであると評価されることになり、その「英霊」が祀られることにより一種の「尚武思想の培養機関」へと変質していくことになった。それまでの個々の忠死者の慰霊・顕彰から転じて、国すなわち神権天皇制国家の守護を第一義とする神社に変わり、幕末以来の「招魂の思想」は「靖国の思想」へと展開していった。この祀り方を仮にファクター③としておく。「国家鎮護=国体明徴=澄靖国」という条件が更に設定されたことに気づく。

 
以来、東京招魂社の社格化によって改称された靖国神社は、国家神道体制を造り上げる機関となり、以降神権天皇制国家の理念を体現する新神社として国家神道の有力な支柱となった。天皇に命をささげた人を「祭神」にさせ祀ることにより、「臣民」であっても「機械的」に天皇と関係性を持つ有り難い機関となり、戦意を奮い立たせる「思想的装置」の意味合いを強めていくことになった。

 
すなわち、明治天皇の初心の意思がどうであれ、靖国神社は、明治憲法下の天皇を神とする政教一致の国家神道体制(天皇とその祖先神への崇拝を国家が強要した体制)の元での、軍国主義と侵略戦争推進の精神的支柱としての役割を果たして行くことになった。つまり、ファクター②に、ファクター③の「国家主義」的要素が強化されたということになる。
(私論.私見) 「東京招魂社から靖国神社への改称」考
Re:れんだいこのカンテラ時評その113 れんだいこ 2005/10/19
 【「靖国神社のそもそもの創建に疑義あり」】

 靖国訴訟得の準備書面(原告ら第5回)に次のような記述がある。
 国家神道は,基本的には神社神道と宮中祭祀を結合させることによって成立したが、これだけでは十分でないとして、神権天皇制確立の目的の下に新たな宗教施設を幾つも創設した。靖国神社もこれら一群の「創建神社」のひとつである。わが国古来の伝統としてはなかったものを,近代天皇制がその特殊な目的から作り出したものであることが留意さるべきである。 

 国家神道は,基本的には神社神道と宮中祭祀を結合させることによって成立したが、これだけでは十分でないとして、神権天皇制確立の目的の下に新たな宗教施設を幾つも創設した。靖国神社もこれら一群の「創建神社」のひとつである。わが国古来の伝統としてはなかったものを,近代天皇制がその特殊な目的から作り出したものであることが留意さるべきである。(引用以上)

 「準備書面(原告ら第5回)」の「靖国神社もこれら一群の創建神社のひとつである。わが国古来の伝統としてはなかったものを,近代天皇制がその特殊な目的から作り出したものであることが留意さるべきである」の指摘は正しい。但し、「わが国古来の伝統としてはなかった云々」で何をどう理解すべきか、ここが肝心である。

 れんだいこは、「近代天皇制がその特殊な目的から作り出したものである」的理解は、半面の真実を伝えているだけのように思う。もう一つ重要なことがあるのではないのか。それは、「神道と仏教の歴史的棲み分け」に於いて、神道が概ね生前の行事に関わる面を受け持ち、仏教が概ね死後に関わる面を受け持ってきた一千年来のしきたりに対して、靖国神社はこのしきたりを壊してはいないだろうか。

 つまり、靖国神社は、神道をして死後の世界を受け持たせるという新たな職掌に関与させたのではなかろうか。これは一種の「宗教界に於けるクーデター」ではなかったか。そのことがある故に、靖国神社は、まずは招魂社として結社されたのではないのか。それを政治利用するために、靖国神社化させられたのではなかったか。

 これの是非論が為されて然るべきであるが、これまでさほど問題にされていない。れんだいこは、靖国神社に対し、神道をして死後の世界へ関与させた「いわば掟破り」の珍しい事例を認める。それは、是とみなされるべきことではないように思われる。むしろ、生前祝祭に関与し続けてきた神道イデオロギーの質の高さを踏みにじっている、つまり神道を冒涜している、とさえ見立てる。

 靖国神社の存立的基盤の危うさがここに認められるのではなかろうか。この基盤の危うさ故に、靖国神社は創建時より政治権力の庇護に依拠せざるを得ないのではなかろうか。ここに結社として自立し得ない靖国神社のアキレス腱がある。靖国神社考に於けるこの面での考察が欠けているように思われる。

 もっとも、ならば仏教側が靖国的寺院建立に向えるのかというとこれもそれなりに難がある。死後の世界を職掌するとはいえ、例えば宗派の壁を乗り越えられない。仏教的反戦平和思想と唱和し得ない。政治権力の直接的支配下に立つ事の是非等々。

 つまり、政府主導による御霊祭は本来は、神道によっても仏教に拠っても難がある。それを無理矢理に国家神道形式で始発させたところに靖国神社の特質がある。俗に云う、無理筋の気配が濃厚である。

 もし、それでも現実が靖国神社を必要とするというのなら、それを是とするイデオロギーを生み出さねばなるまい。然る後に建立せねばなるまい。本来は、神道でもなく仏教でもない「社会不条理を見つめる」新種イデオロギーによる国家鎮護の社ないしは座を生み出さねばならなかった。その上で、誰が管轄するのか、その際の儀式はどうするのか、皇室との関係如何等々が解決されねばならなかった。このあたり諸外国の事例を知りたいところだが、れんだいこにはそういう知識は無い。

 その労を執らず、その後の軍国主義化日本への水路を敷く意図で「靖国」を神道神社として建立させたところに歴史の過ちが見て取れるように思う。しかしてそれは神道の歴史的枠に対する逸脱でもあったのではなかろうか。その程度の頭脳が押し進めた戦の道が先行き覚束ないのは自明であった。ここが検討されねばなるまい。

 戦後左派運動は、神道、仏教に対する外在的批判で事勿れしているので、この方面の問いかけにはさほど関心が無いのかも知れない。しかし、その態度は歴史に対する非弁証法的態度であって有害無益なものでしかない。それが証拠に、通り一遍の批判するばかりで相手の臓腑まで撃つことができない。いわゆる○×の域を出ない。批判というのは謀議を生み、やがて結社化して運動にまで高められるのが理の勢いである。単なる口先批判なぞ本来の意味でのものではなかろう。

 補足。こたびの小ネズミ首相の参拝ほど醜悪なものはなかった。アリバイ参拝丸出しではないか。当人はうまく切り抜けたとでも思っているのだろうが、バカ丸出し振りが歴史に残されただけのことである。当然、小ネズミが日頃口にしている英霊との交信なぞある訳が無い。あれでは、一度は国家の二度目は首相による英霊に対する冒涜ではないのか。本当は、遺族は怒らねばならない。

 しかし、小ネズミは良い事を一つ云った。小ネズミ首相の靖国神社参拝に対する隣国からの批判に対して、「参拝は本来、心の問題だ」と述べ、それに干渉する隣国に対して不快感を表明した。小ネズミはんが、かく「心の問題を重視する」御仁であることが分かった。共謀罪の時には手のひらをかえすことはあるまいな。

 2005.10.19日 れんだいこ拝

【靖国神社の由来と歴史6、靖国神社その後(内務省管轄時代)】
 「Japan On the Globe(202) 国際派日本人養成講座_/ 国柄探訪: 靖国神社の緑陰」を転載する。
 靖国神社は明治維新の際の戊辰戦争での官軍側の戦死者を弔う慶応4年の招魂祭を起源としているが、「朝敵」として死んだ幕府側の戦死者の霊はどうするか、という問題が残った。明治5年、明治政府は賊軍の追忌のための墓標の建設を許し、さらに、7年には戦没者遺族が賊軍ゆえにその祭祀を憚っていることから、堂々と祭祀を執り行うようお達しが出されている。

 「朝敵」徳川慶喜は大きく減封されたとは言え、駿河70万石は安堵された。五稜郭で最後まで抵抗した榎本武揚は一時獄につながれたが、命を助けられ、やがて新政府に出仕して栄達の道を歩んだ。

 「官軍」「賊軍」の恩讐を超えて、明治日本がいち早く国民国家としてまとまったのも、両軍の死者を祀って、寛容と和解の精神を引き出したからであろう。狭い地球であまたの民族が肩寄せ合って住む現代の国際社会を平和に保つためには、このような寛容と和解の精神こそが不可欠である。死後にまで罪を問い、恨みを晴らす中国文化では、争いは絶えることがない。

 その後、日本は国内での西南戦争を終えた後外国統治(朝鮮・台湾併合、中国大陸侵略)に向かうことになり、この間幾たびと無く外国との戦争を経験していくことになったが、この時の戦没者が「臣民」という位置付けで(皇族が合祀されたのは戦後)「祭神」化され、靖国神社に祀られていった。

 「臣民」とは、「皇国日本の国体を守るために死んだ軍人」であるという意味付けであった。かくて、靖国神社には、明治維新前の「国事殉難者」等を例外として、基本的には軍人・軍属、準軍属の戦没者が祀られていくことになる。この祀り方を仮にファクター④としておく。つまり、ファクター②に、ファクター④の「聖戦礼賛→推進→その犠牲者慰霊」という要素が更に設定されたことになる。
 1882(明治15年)、神官教導職分離、神官の葬儀関与禁止が通達される。但し、府県社以下(神官)は当分従前の通りとされた。意味するところは、一般の地方神社は、従前通りに七五三や初詣などの参拝を期待し、お賽銭や氏子によって維持管理されるものとし、皇室と関わりの深い官国幣社(明治神宮、伊勢神宮、熱田神宮等)は国庫から援助を受け国家行事を主とする神社へと分岐していくことになった。
 1882(明治15年).2.25日、日本初の軍事博物館である遊就館開館。軍人勅諭制定。

 遊就館の命名は、中国の戦国時代末期の儒家・荀況の著書「荀子」の一節「遊必就士」(高潔な人に就いて交わり学ぶ)に拠った。昭和初期に現在の建物が完成し、敗戦後は業務停止を余儀なくされ、1980年までは生命保険会社の社屋として使われていたが、1986年に展示を再開した。2002年に本館を全面改装し新館を増設した。現在、実際に使われた兵器、史料、合祀者の遺品などを展示し、収蔵品は10万点に及んでいる。

【別格官幣社とは】
 官幣社とは、皇室が御供えを持っていく神社のことを云う。昔から太政官があり、明治になって再編され、太政官→宮内省が取り仕切るようになったが、官(太政官)が御供え物・幣(みてくら)をお供えする神社のことを官幣社と云う。

 官幣社には、小社、中社、大社、別格とランクがあり、靖国神社は別格官幣社として位置付けられている。小社、中社、大社は、いずれも古代史に関係する由緒の深い天津神(天皇家)、国津神(在地神)の天神地祇を祀っているところに共通項がある。

 別格とは、天津神、国津神の天神地祇の祭祀とは異なる字句通り「別格」に建立されたことを意味している。例として、豪族の出でしかなかった楠正成公を忠義の鏡として祀る湊川神社がある。この意味では、「別格」とは特別尊いという意味ではなく、官幣小社と同格に扱われるむしろ最下位クラスに位置づけられた別格という意味のようである。靖国神社の「別格」がどういう意味での「別格」かははっきりしない。

【靖国神社の由来と歴史7、陸・海軍省所管時代の靖国神社】
 1887(明治20)年、靖国神社は、戦前、他のすべての神社が内務省の管轄であったのに対し、内務・陸・海軍省の共同管轄を経て靖国神社(とその分社の護国神社)だけは陸軍省・海軍省の所管(共同管理)となった。常務は陸軍省総務局が担当した。同神社の警護には憲兵があたるようになった。臨時大祭の祭典委員長は現役の陸海軍将官が務め、宮司は陸海軍省が任命した。

 靖国神社の祭神は極秘裏に陸海軍省で戦没者を審査し、天皇に上奏しその裁可を経て合祀した。靖国神社は個々の国事殉難者、戦没者を祭神としているため、戦争のたびに祭神が増え続けていった。靖国神社の神体(みたましろ)は、東京招魂社創建以来の神鏡と神剣であるが、祭神が多数に上るため祭神の名簿「霊璽簿」を調製して副神体(そえみたましろ)とし、それに生前の身分・地位に関わりなく将官も兵士もすべて同じ型式で祭神の氏名が戦没年月日・出身地・軍における階級・勲等・金鵄勲章の等級を付して記入された。これはある面で、天皇のために一命を捧げた御霊は皇室を除き臣民として一列平等に扱われることを意味していた。

 以来、靖国神社は、「一般の神社行政の枠外に置かれた別格の軍事的宗教施設」としての役割を担っていくことになった。ここに靖国神社の特殊性がある。つまり、ファクター④の動きが強められたということになる。 

 これにつき、次のように解説されている。
 「そのため、国民は死んで靖国神社に祭られることを美徳と教えられ、信仰のいかんにかかわらず参拝を強制された。このように、靖國神社は、第2次大戦の敗戦まで、天皇を現人神としてその政治的権威を宗教に基礎づけた教説及び制度の総体である国家神道の体系中、その軍国主義的、侵略主義的側面を代表する施設であった。これは靖国神社固有の歴史的性格・事実であり、伊勢神宮や熱田神宮の次元とも別途な天皇との特別な関係にある」。
 1888(明治21).5月、靖国神社は、それまでの戊辰戦争での「官軍」の戦死者の祀りに止まらず、1853年(嘉永6年).6月、アメリカの海将ペリーが軍艦四隻を引き連れ、浦賀に来航したときにさかのぼって、反幕府勢力として死んだ人たちをも合祀するようになった。これにより、「安政の大獄」、井伊直弼殺害「安政の大獄」事件、「禁門の変」関係の幕末志士側の死者が合祀された。但し、朝敵側の死者は合祀されずということになった。
 1889(明治22).2.11日、日本帝国憲法が発布された。
 靖国神社は日清・日露戦争を機に急速な発展を遂げ、国家神道体制における地位を大きく高めた。
 1894(明治27)年、日清戦争が始まり、1895(明治28)年まで続く。日清戦争では13,267名の戦没者を出したが、そのうちの86%に当たる11,472名は戦病死者であった。

 1895.12月の靖国神社臨時大祭は、同戦争の戦闘死者、戦傷死者、捕虜になって死亡した者等を合祀したが,先例により戦病死者を除外した。種々の政治的配慮から、陸軍大臣告示によって、戦病死者が「特祀」されることとなったのは、日清戦争講和から2年4月を経た1898.10月であった。以降これが前例となって、靖国神社の祭神数は飛躍的に増えることになり、一段とその重要性を増すことになった。

 明治天皇は日清戦争の戦没者を合祀する二度の臨時大会(1895.12月、1898.11月)にいずれも参拝したが、これ以後合祀の臨時大祭は大元帥の軍装をした天皇が靖国神社に赴き、社殿に昇殿して祭神に一礼する「親拝」が例となった。
 1904(明治37)年、日露戦争が始まり、1905(明治38)年まで続く。本格的な近代戦であった日露戦争では戦没者が続出し、その合祀者は88,133名に上った。大江志乃夫教授の指摘によれば、当時の兵役適齢人口100人につき13人が戦死したことになるという。当然国民の不満は大きかった。

 1905.5月、日露戦争さなか、政府は靖国神社に5万円を特別寄付して急遽盛大な臨時大祭を行い、30,883名の戦死、戦病死者の合祀を行った。天皇皇后は名代を遣わし,祭祀料を下賜した。戦後2度行われた臨時大祭には、いずれも「親拝」が行われている。戦没者を神として靖国神社に合祀し、現人神である天皇が参拝するという栄誉は、遺族の不満や厭戦気分を押さえる上で極めて大きな効果があった。

 政府は、戦後の軍備拡張に予算を注ぎ込み、この戦没者に多くを報いることがなかった。大江志乃夫教授の「靖国神社」は次のように指摘している。
 「実態としての戦没者に対する取扱いの疎略、すなわち国家が果たすべき政治的経済的責任の放棄にたいして、いわば安上がりの表面的な尊敬の表明をもってするとりつくろいとでもいうもの、すなわち国家が本来たちいってはならない個人の聖域への介入として表現されたのが、慰霊と顕彰の行事であり、その中心が靖国神社であった」。

 それまで「忠魂」、「忠霊」などと呼ばれていた靖国神社の祭神を「英霊」と呼ぶことが一般化したのは日露戦争後である。同戦争により祭神の数が急激に増加したため、個々の祭神の個性が薄れて「護国の英霊」として抽象化され美化されるようになった。

 こうして、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、台湾出兵、義和団事変、日ロ戦争、第一次大戦、シベリア干渉戦争、山東出兵、満洲事変、日中戦争、大東亜戦争の戦没兵士が次々と祀られていくことになったが、この頃より英霊は「軍神」の性格を強めて行った。これを一般的に、「いうまでもなく靖国神社は国事殉難者の招魂慰霊の場であり、身を投げ出して国難に殉じた多くの英霊が祭られている」として受け止めている。現在約246万名が祀られている。

靖国神社戦争別合祀者数」は次の通りである。
 (靖国神社資料より 2004年10月17日現在)
戦役 (人)
明 治 維 新      7,751
西 南 戦 争      6,971
日 清 戦 争      13,619
台 湾 征 討      1,130
北 清 事 変      1,256
日 露 戦 争      88,429
第一次世界大戦      4,850
済 南 事 変       185
満 州 事 変      17,176
支 那 事 変     191,250
大 東 亜 戦 争    2,133,915
合   計     2,466,532

 但し、これを左派的観点から見れば次のようになる。
 「靖国神社とは何か。明治維新の時の内戦や日本帝国主義の明治以来のアジア侵略戦争-日米戦争の戦死者を『英霊』として祭っている神社だ。『天皇のため』、『国のために』戦死した者を、神として祭り、慰霊し、その『功績』を顕彰することを目的としている。そのことによって、死後は靖国神社に祭るから進んで『天皇のために命を捧げよ』と強制する機能を持った神社なのだ。靖国神社の思想と役割は、その軍事遂行の祭神社としての役割にあった」。
 日露戦争の時期から地元の戦没者を祀る忠魂碑が全国各地で盛んに建立されたが、これらは1910年から軍の管轄下にある帝国在郷軍人会により管轄されるとともに、新たに多くの忠魂碑が建立された。

 1912年、政府は、神仏基の三教の代表者を集めて三教合同会議を開催したが、そこでは、右代表者達が「皇道ヲ扶賽シ益々国民道徳ノ振興ヲ図ル」ことを決議し、国家神道体制への忠誠を表明した。これを機会に政府は各宗教に対し、国体に基づく国民教化の一翼を担って活動することを要求し、宗教の政治的利用を積極化することになった。

 このような国家神道の制度的確立の背景には、日露戦争における宗教界あげての戦争協力に続く、国家公認の三教(教派神道・仏教・キリスト教)の国家奉仕の姿勢の定着があった。
 1917(大正6).12月、春の例大祭を日露戦争後の陸軍凱旋観兵式の日である4.30日に、秋の例大祭を同じく海軍凱旋観艦式の日である10.23日にそれぞれ改め定める。

 それまでの幕末時の内乱における「官軍」勝利記念日から、「天皇が戦勝大日本帝国の帝国陸海軍の大元帥としての威光を内外に誇示した記念日」としたものである。この例祭日の変更は、官軍の威光を対内的に誇示することから、対外的戦意高揚へと当神社の役割の展開を象徴するものであった。このようにして、日露戦争後、靖国神社の存在は国民の意識の中に急速に根を下ろし、国民統合の精神的中核としての役割を果たすようになった。
 日清日露戦争を経て日本の資本主義経済は飛躍的に発展したが、その反面 種々の社会間題が深刻化し、労働運動・農民運動が盛んになり、社会主義思想が国民の間に普及し始めた。このような状況下にあって、社会運動の激化を恐れた政府は、国民の思想「善導」を急務と考え,1908年に国民に対し国家の隆昌と皇祖皇宗の威徳を発揚することを求める内容の「戊申詔書」を発布し、国民教化の新教典として、全国的に普及することを図った。

 その後の国家神道は、内務省の神社行政による国家の手厚い保護のもとに、①・神社の統廃合、②・皇室神道を基準とする神社祭祀の統一、③・明治神宮・海外神社等の有力神社の創建、④・神職制度の整備による宗教官僚機構の確立、神社財政の拡充といった措置が次々と実施され、19100年代に制度的に完成した。

 1925年、政府は、国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社およびそれへの参加を処罰する治安維持法が制定された。

 1926年、政府は、国民を神権天皇制のイデオロギーに「善導」する方針を強化し,その国策遂行のための思想統制の一環として、宗教統制を目的とする宗教法の制定が企て、「宗教制度調査会」を設置した。

 満州事変から日中戦争へと戦時体制が強化されるに従い、思想統制および宗教統制がさらに厳しくなり、政府は宗教界に対し、国家神道体制のもとで国策遂行のために国民教化の役割を積極的に果すことを強く要求するようになった。他方、国家神道体制を逸脱した民間の新興宗教は淫詞邪教視され、国家権力による徹底的な弾圧が加えられた。
 1934(昭和9)年、靖国神社内に「国防館」を開館。

【靖国神社の由来と歴史8、昭和天皇が靖国神社の春秋大祭に欠かさず参拝】

 1937(昭和12)年、ラジオの普及とともに国民精神総動員運動が繰り広げられた。翌1938(昭和13)年以降、昭和天皇は靖国神社の春秋の臨時大祭に欠かさず参拝するようになった。1938.4.27日付の東京日日新聞(毎日新聞の前身)夕刊は、1面すべて参拝報道で埋まり、記事に「十時十五分から一分間全国動くものはすべて停止し臣民皆黙祷(もくとう)を捧(ささ)げた」と記している。天皇が玉ぐしをささげる時刻が、毎回「全国民黙祷時間」とされていた。原武史・明治学院大教授(日本政治思想史)は、これを「天皇の時間支配」と呼んでいる(保阪正康氏との共著「対論昭和天皇」)。

 1938(昭和13)年、満州事変勃発から太平洋戦争にかけて国内での戦時体制が強化され、思想統制・宗教統制も厳しさを増した。日中戦争においては戦没者の数が激増したが、その中にあって靖国神社は「聖戦」完遂の精神的支柱としての役割を果たし、益々その重要性を高めた。日中戦争開戦の翌年の1938年、陸軍大将鈴木孝雄が宮司として任命され、翌年から「戦没勇士遺児」の集団参拝が始まった。
 1939(昭和14)年、日中戦争の長期化とともに政府は、地方招魂社を護国神社に改編、道府県あたり一社を府県社に準ずる指定護国神社とし、他は村社に準ずる指定外護国神社とした。靖国神社を頂点とする神社体系に組み込む。

 従前各地の招魂社は内務省の管轄下にあったが、日露戦争直後、内務省が招魂社の祭神を靖国神社合祀者に限るという方針をとったことから,靖国神社の地方分社化がさらに進んだ。

 同年、宗教団体法が制定され、これによって神仏基の公認宗教をはじめ、すべての非公認の民間宗教は、その設立・運営・人事・財政の全般につき行政当局の統制と監督のもとに置かれることになり、信教の自由は完全に否定されることになった。
 1940年、中国戦線の華北・張家口で、皇族である北白川宮永久が戦死した。靖国神社は「臣民」を祭神とするもので、前例(台湾で戦病死した北白川宮能久(=永久の祖父)における台湾神社建立)に従えぱ現地にこれを祀るための神社が創建されるはずであったが、戦況がこれを不可能としたため、靖国神社にこれを合祀した(なお、敗戦によって台湾神宮(台湾神社が改称)が消滅したことから、戦後北白川官能久も靖国神社に合祀された。

 これにより,現在靖国神社は皇族の祭神2柱を1座とし、その余の臣民の祭神246万余柱を1座として、各座単位に神神饌幣帛を捧げている。このように靖国神社では、皇族と「臣民」との区別は現在においても厳然と守られている。
 1940年、内務省の外局として神祇院が設置され、これにより,神社行政は大幅に拡大強化され、国家神道は、各宗教の上に君臨して、国体の教義の普及に総力を投入することになった。こうして国家神道は、神権天皇制下の国家主義・軍国主義の精神的支柱として最盛期を迎えることになった。

 植民地・占領地には次々と神社が創建され、天照大神の神威と天皇の御稜威を全世界に及ぼすための「聖戦」という侵略思想が鼓吹された。この時期には、国体の教義の侵略的性格が戦争の激化とともに増幅され、「八紘一宇」の名のもとに世界征服をめざす「聖戦」の正当化が国家神道教義の中心を占めるようになった。国家神道による国民教化と思想統制は狂信的な激しさを加え、戦勝祈願、慰霊祭,楔と祓い、思想動員に神社の役割は増大する一方であった。そして、「神国日本」の国体意識の高揚が図られ、国民教化は国体の教義一色に塗りつぶされた。また,学校教育においても、特に義務教育である初等教育では,修身と国史を中心に国体の教義の普及・徹底が行われた。

 1942年、陸海軍省が、「合祀基準内規」を作成し、省内に置いた審査委員会が部隊長らの上申に基づき審査し、最終的に天皇が裁可することになった。

 1943年、第二次大戦中の最中、大多数の宗教団体は、宗教団体法に従って「大日本戦時宗教報国会」を結成し、戦争に協力する態度をとらざるを得なくなった。国家神道の最盛期となる。

 1944.7.16日、東条英機名で、靖国神社合祀基準を戦役勤務に直接起因して死亡した軍人、軍属に限ると通達される。(2,006.8.5日付け共同通信)

 しかし、大東亜戦争の戦局は次第に悪化する。国民生活が極度に窮乏するが、政府は「聖戦完遂」、「神州不滅」を叫んで国民の戦意を更に鼓舞しようと努めた。しかし、1945.8.3日、遂にポツダム宣言を受諾し連合国に無条件降伏をした。

 靖国神社ではこの間、日清、日露から大東亜戦争と、戦乱の中で国事に倒れた人々の霊を祀ってきた。その中には軍人だけでなく、沖縄戦で戦没した「ひめゆり」部隊などの女子学生、沖縄からの学童疎開中に米潜水艦に撃沈された対馬丸に乗っていた小学生たち、満州開拓団員などが含まれている。全246万6344柱のうち、女性5万7千余柱、朝鮮人2万1千余柱、台湾人2万8千余柱を含んでいる。


(以降の靖国神社の歩みは、戦後の靖国神社解体危機考に記す)





(私論.私見)