戦後の靖国神社解体危機考 |
更新日/2018(平成30).6.25日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「戦後の靖国神社解体危機考」をものしておく。 2004.8.14日再編集 れんだいこ拝 |
【靖国神社の由来と歴史9、靖国神社解体の危機】 | |
「Japan On the Globe(202) 国際派日本人養成講座_/ 国柄探訪: 靖国神社の緑陰」を参照する(「靖国神社を焼き払ったとすれば、その行為は、米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残るであろう」より)。 昭和20年暮れ、占領軍司令部は、靖国神社の焼却を計画した。指令部内では賛成意見が多数を占めたが、当時ローマ教皇庁代表として日本に駐在していたブルーノ・ビッター神父に見解を求めたところ、神父は以下のような要旨の回答をした。
マッカーサーはこの答申を尊重して、靖国神社焼却計画に中止の命令を出した。靖国神社と米軍の名誉を護ったのは、このビッター神父の言葉であった。 |
【靖国神社の由来と歴史10、民間宗教法人時代の靖国神社】 |
1945年(昭和20).8.15日、昭和天皇が大東亜戦争終戦の詔勅放送、ポツダム宣言受諾し終戦。靖国神社は、大半の戦死者を未合祀のまま、敗戦を迎えた。 同8.18日、東久邇首相が靖国神社参拝。 同9月、遊就館令廃止。 GHQ(連合国総司令部)は、靖国神社をミリタリー・シュライン(軍国的神社)と呼び、靖国神社の存続の是非を検討した。GHQ内では靖国神社を焼き払う案が浮上していた。 同10.23日、幣原首相が靖国神社参拝。こうした中で10月、幣原首相は靖国に参拝して大戦の戦没者の霊を弔った。 10月、連合国軍最高司令部は、ポツダム宣言第6項及び第10項「日本における信教の自由の確立」に基づく「政治的社会的およぴ宗教的自由に対する制限除去」の覚書を発した。 同11.20日、臨時大招祭に昭和天皇、幣原首相が参拝。靖国神社は急きょ臨時大招魂祭を行い、天皇が参拝し、非常の措置として、祭神の一括招魂、一括合祀という異例の方法ですべての戦死者を祭神に加えた。この頃、靖国神社の存続が危ぶまれており、そういう事情下で満州事変から大東亜戦争までの死者を対象者不詳のまま一斉に招魂の儀式として「臨時大招祭」を実施した。 |
【GHQが神道指令通達】 | ||||
同12.15日、GHQは、「神道指令」(国家と神社神道の分離、国家神道の廃止命令)を発令し、政教分離の徹底的実施を命じた。これに基づき、政府による神社への保証、支援などを禁止する措置を執った(「神道指令」を通達)。 この指示で、戦没者の慰霊祭への公的関与は一切禁止された。靖國神社に対して、存続を望むならば、「(1)国家との関係を断って宗教施設として存続する、(2)宗教色のない戦没者追悼の記念碑的施設にする」の2つの道を選択せよと指図した。同月、宗教団体法は廃止され、緊急勅令で民主主義的な宗教法人令が公布施行された。 |
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神道指令は次の通り。
幣原喜重郎は次のように述べている。
前田多門は次のように述べている。
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【天皇が「人間宣言」】 |
1946(昭和21).1月、天皇が「人間宣言」行う。天皇は、自ら現人神としての神格を否定した。 |
【国家神道解体】 |
1946(昭和21).2月、神祇院官制をはじめ神社関係の全法令が廃止され、国家神道は制度上完全に解体された。 |
【極東国際軍事裁判所条例を発布】 |
1947(昭和22).1月、占領軍最高司令官マッカーサー元帥がポツタム宣言第7条に基づいて極東国際軍事裁判所条例を発布し、これに基づき裁判所が設置された。概要は、「極東軍事裁判考」に記す。 |
同4月、国際検察局がA級戦犯容疑者28人を起訴。 |
同6月、松岡洋右被告が病死。 |
【靖国神社が宗教法人令に基づき宗教法人靖国神社の登記完了】 |
同.9月、靖国神社は、宗教法人令に基づき、宗教法人靖国神社の登記完了。以来、宗教法人令(昭和20年勅令第718号)上の一般宗教法人となった。GHQの中には焼却処分などの意見もあったが、結局、靖国神社は、国家機関から分離し、別格官幣社の社格も失い、宗教法人令による民間的一宗教法人に転換することで延命した。 既に述べたファクター論で見れば、追加されていった条件設定部分が全て解除され、英霊を祀るという本質部分においてのみ靖国神社の存続が許可されたということになる。これを仮にファクター⑤とする。ファクター⑤とは、ファクター①以来追加された諸要素が解体され、初期の眼目であった戦没者慰霊という機能にのみ戻されたということを意味している。 |
【富国生命と「遊就館」が賃貸契約】 |
同11月、富国生命と「遊就館」が賃貸契約。敗戦直後、靖国神社は国家補助を打ちきられた為に、「遊就館を修理したものに、建物および周囲の土地を貸与してもよい」との意向を表明。本社屋を米軍に接収された富国生命保険相互会社(フコク生命、前身は富国徴兵保険相互会社)が月額五万円(当時)でこれを借り受け、以後、1980年まで同社の「九段本社」となる(「富国生命55年史」)。その間、靖国神社は遊就館に隣接する「靖国会館」の一部を「宝物遺品館」として、1961年から戦没者の遺品などを細々と展示していた。同社が立ち退くにあたり、当時の社長は靖国神社の経営の窮状を財界有力者に訴え、これをきっかけに「靖国神社奉賛会」が発足する。 |
【旧皇族出身の筑波藤麿氏が宮司に就任】 |
この年、旧皇族出身の筑波藤麿氏が宮司に就任し、松平永芳氏に代わるまでの三十年余にわたり務めることになる。 |
【日本国憲法施行】 |
1947(昭和22).5.3日、日本国憲法施行。新憲法は政教分離を規定していた。新憲法は、旧憲法下の国家神道体制に対する反省のうえに立って、その第20条において、信教の自由と政教分離の原則を特に厳格に定め、次いで第89条において、政教分離の原則を実効あらしめるため、特定の宗教団体に対する公金支出および公の財産の使用を禁止することを明文で規定した。 |
【東京裁判終結】 |
1948(昭和23).11.12日、東京裁判(極東国際軍事裁判)で、戦犯25名の被告に有罪判決、A級戦犯のうち7人に絞首刑判決。 同12.23日、東條元首相以下7名(東條英機、土肥原賢二、廣田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井岩根、武藤章)が絞首刑で処刑された。第一組として土肥原、松井、東條、武藤の4名、第二組として板垣、廣田、木村が処刑された。遺体は横浜市立久保山火葬場で荼毘に附された。 |
【宗教法人令廃止、宗教法人法施行】 |
1951(昭和26)年、宗教法人令廃止、宗教法人法施行(翌年に宗教法人靖国神社設立)。 |
【靖国神社と護国神社の関係】 |
靖国神社は全国の戦没者の御霊(みたま)を祀っており、護国神社では各地の戦没者を祀っている。両者には組織上のつながりは無いが、両方に祀られている戦没者が多い。護国神社は46道府県に52社あり、北海道と岐阜県に3社、兵庫県と島根県に2社、その他の府県に1社ずつある。東京都には無い。 |
(以降の靖国神社の歩みは、「靖国神社の歴代天皇及び首相・閣僚の公式参拝の歴史について」に記す)
(私論.私見)