「れんだいこの田母神論文批判」



 (最新見直し2008.11.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、れんだいこの田母神論文考をしておく。

 2008.11.11日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評489 れんだいこ 2008/11/15
 【「田母神論文舌禍事件」考その1、事件の孕む諸問題】

 現役の田母神航空幕僚長が民間の懸賞論文に応募し最優秀賞を受賞したが、その論文内容は歴代の政府見解と大きく齟齬する大東亜戦争聖戦論をぶちあげていた。それが表ざたになるや、任命責任の追及を恐れた麻生政権が速攻で解任し、退職させるという事件が発生した。これを仮に「田母神論文舌禍事件」と命名する。

 多少余韻が燻るも、この問題はもう終わったのかもしれない。れんだいこは、タイムリーに発信したかったができなかった。この間にコメントした植草ブログ閉鎖事件、小室著作権詐欺事件、上耕論のようには行かなかった。なぜなら、それらは判断が容易であったのに比して、「田母神論文舌禍事件」は評するのにかなり高度な内容であると考えたからである。順を追って整理する必要もあり、経緯を当分様子見せざるを得なかった。ようやく態勢が整ったので、れんだいこ見解を発表する。結果的に随分長い文章になってしまった。

 我々は、「田母神論文舌禍事件」にどう対応すべきだろうか。れんだいこは、この事件は、今後に賢明なる善処を要請する種々の内容、課題を孕(はら)んでいるように思われる。一つは、論文内容に関しての物議である。一つは、文民統制に関する物議である。これを二本柱とする。これはこれで値打ちのある取り組みである。

 が、その他にも考慮すべき諸問題がある。一つは、組織に於ける異論異端の取り扱い問題も秘めているように思われる。なぜなら、田母神論文はズバリ通説に対する異説を唱えた故に発生した事件なのだから。こう捉えないと、「田母神論文舌禍事件」の考察が生産的にならない。これはしかも、いわば組織内の異論異端の取り扱い問題、国家機関に於ける異論異端の取り扱い問題の二面から考察されねばならないように思われる。

 こうなると当然、言論の自由問題にも繋がる。組織機関員である場合、異論、異説、異端を述べることができないのか、どの程度までなら許されるのか、望ましいのかと云う問題になる。特殊的には、文民統制下にある自衛隊機関に於いて、隊員の言論及び行動の自由の制限如何問題となる。この場合、更に仕分けされねばならないように思われる。即ち、制限の一般的基準と、上級幹部と下級幹部及び一平卒自衛隊員の身分差に伴う制限如何問題の考察も必要とされるように思われる。この制限は内規とも絡んでいる。凡そこのようなことを考えさせるのがこたびの「田母神論文舌禍事件」であるように思われる。

 現下の日本政治の管掌者がこれらの諸問題に能く対処し得るだろうか、ここが問われている。結論は云うまでもなかろう。現代政治家の能力は我々が推定している以上に貧相であると認識すべきだろう。そういう訳でつけ刃の応急措置しかできないと心得るべきだろう。事件と並行して麻生首相の漢字語彙力お粗末事件が露見したが、それはそのまま政治能力を示していると窺うべきだろう。

 興味深いので、麻生首相の漢字語彙力を確認しておく。「未曾有」を「みぞうゆう」、「踏襲」を「ふしゅう」、「詳細」を「ようさい」、「措置」を「しょち」、「有無」を「ゆうむ」、「前場(ぜんば)」を「まえば」、「思惑」を「しわく」と読んだという。「頻繁」を「はんざつ」と読んだと云う。前者はともかく後者は決してそうは読めない。読めない文字に出くわした場合、無理矢理に言い換えてでも読む癖がある御仁だということが分かる。まさか、面白おかしくギャグって読んだというのではあるまい。

 れんだいこは、麻生首相がマンガを愛読するのは、現代若者考とか世相考のゆえにと推測してきた。秋葉原詣でもその一環と受け止めてきた。が、これを改めねばなるまい。マンガ入りでないと読むのが疲れる叉は理解できないせいだと云うことになろう。いやはや大変な首相が日本国、民族の舵取りに当たっていることになる。しかして、これこそマンガだろう。

 その麻生氏を首相として担ぎ出さねばならないほどの末期的症状を見せているのが自民党であると窺うべきだろう。麻生以外にこれというタマが居ないのだ現実に。その麻生は狂人小泉よりはまだしもましであろうが、何分能力の低さをかくも晒したわけだから、求心力が極度に落ち始めるのも止むを得まい。衆院解散どころか内閣又しても俄か崩壊と云う線も考えられる事態になった。

 麻生が続投しようが次の政権が生まれようが、現下の自公政権に何事かを期待するのはどだい無理というものではなかろうか。この連中は、馬鹿の一つ覚えみたいに日米心中論を唱え、ひたすらご奉公することで互いの地位と権力と金力の保全を図ってきた。そうやってポストにつけば、当然ながらご恩返しとばかりにブッシュの戦争政治に忠犬してきた。そういう仕掛けにより、小泉以降今日まで、日本の国富と税金を一体幾ら巻き上げられてきたことだろう。叉は持参金をお供えし続けてきたのだろうか。恐らく、例の民営化と云う名目でのハゲタカファンドへの便宜まで含めると途方もない金額に上っているはずである。

 そのアメリカでオバマが登場せんとしており、本家では逸早くチェンジの風が巻き起こっている。ブッシュ一途に与してきた日本政治は、これにどう対応してよいのか分からないというのが実情ではなかろうか。機能障害というより全般的な機能不全と脳梗塞に陥っているとみなすべきだろう。この連中が揃ってオツムが悪く、世渡り上手だけが取り柄と云うことで共通しているのは既に指摘した通りである。

 今や新しい皮袋が必要な訳であるが、これ対する野党の政治能力はどうだろうか。れんだいこが評するところ、これまたお粗末極まる。日本政治の貧相は、対抗軸の貧困ゆえにもたらされていることを知るべきだろう。田母神論文に纏わる参考人質疑、集中質疑が開かれたが、質疑内容は柿のヘタのようなところばかり突いて終わってしまった。与野党一致で、早く禊の儀式を済ませて幕引きとしようというのが本音だったのではあるまいか。

 この大政翼賛会政治は、1・文民統制問題、2・自衛隊員の言論統制問題、3・退職金自主返納催促に限定して言及していたが、答弁する首相、防衛相との掛け合い漫談でしかなく、互いが仲良しクラブであることを晒しただけで終わった。呼びつけた当の田母神前航空幕僚長は手持ち無沙汰の態あり、時に質せば云いたい放題であった。各党代表が及び腰で質問したが貫禄負けであった。そう貫禄がある御仁でもないのに議論負けするのだから、よほど貧能極まれりというべきだろう。矮小な者が取り扱えば、大事な事柄でも矮小にしか論ずることができないという格好見本事例を遺すことになった。

 結論として、この不満の解消を現下の政治に求めるのは無理と云うべきだろう。

 2008.11.15日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評490 れんだいこ 2008/11/15 21:24
 【「田母神論文舌禍事件」考その2、文民統制規定考】

 本題に入る前にそもそも「文民統制規定」とは如何なるものであるのだろうか、これを考察しておきたい。「ウィキペディア文民統制」その他を参照しつつ確認してみる。

 日本国憲法上の文民統制規定は、第66条第2項の「内閣の組織」の項で、次のように規定されている。 「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」(The Prime Minister and other Ministers of State must be civilians)

 戦前の帝国憲法には文民規定はない。逆に、陸海軍の統帥権は天皇にあると定められ、統帥権は独立した存在であった上に、職業軍人のみが陸海軍大臣を務め、時に首相にもなった。軍部が気に食わない政権と見るや、陸海軍大臣の任命をしないという組閣強請(ゆす)りも多々為され、戦後憲法に於いてはこれらの反省から文民統制規定が生み出された。第66条第2項が日本国憲法に於ける唯一の「文民規定」となっている。

 「日本国憲法に於ける文民統制の由来」が次のように説明されている。これが大いに憲法9条と関わっていたことが判明する。戦後憲法を生み出す最終詰めの制憲議会で、第9条に関して芦田修正が行なわれた。まず、原案たる帝国議会に提出された憲法改正草案は次のように規定していた。

 「第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない」

 これに対し、芦田委員長が次のような試案を示した。
 「第9条 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を否認することを声明する。前項の目的を達するため国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。

 これを「芦田試案」と云う。いきなり戦争放棄するのではなく、前振り条件を付けたことになる。これを基に議論が煮詰められ、最終的に次のように修正することを決定した。

 「第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。

 これが現在の憲法第9条の規定である。但し、前半を1項、後半を2項と仕分けしている。何とかして「陸海空軍その他の戦力不保持」を後へ持ってきたことが分かる。それはともかく、れんだいこが英文に基き訳せば次のようになる。

 「憲法第9条1 正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求鼓吹しつつ、日本国民は、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes)

 2 前項の目的を達するため、陸海空軍はその他の潜在的戦力も同様に、これを決して保持しない。国の交戦権は、認められない
 (In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea,and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized)

「陸海空軍その他の戦力」の英訳は「陸海空軍その他の潜在的戦力」であり、「潜在的戦力」まで不保持とされていることが分かる。それはともかく、当初は総司令部側からの異議はなかった。が、まもなく総司令部や極東委員会の内部で、「芦田修正により、日本が defence force を保持しうる」とする見解が生まれた。これにより、「自衛(self-defence)を口実とした軍事力(armed forces)保有の可能性がある」と危惧を感じた極東委員会が、芦田修正を受け入れる代わりに「civilian条項」を入れるように求めることになった。

 しかし当時の日本語には「civilian」に対応する語がなかったため、貴族院の審議で「現在、軍人ではない者」に相当する語として「文官」、「地方人」、「凡人」などの候補が挙げられ、「文官」では官僚主義的であるとされ、最終的に「文民」という語が選ばれた。

 ところで、「文民統制」を英訳すると「シビリアン・コントロール(civilian control of the military)」となる。これを直訳すれば「軍に対する民即ち議会の統制」ということになる。ところが、戦後憲法は第9条で軍隊不保持を規定したことにより、存在しないものに言及することもできぬ為、憲法9条上では隠れることになった。こういう経緯で、日本国憲法第66条に文民統制規定が挿入されたということになる。これが、第66条第2項規定の裏意味である。

 ところがその後、朝鮮動乱が発生し、戦後日本の国際社会入りとなるサンフランシスコ講和条約と同時に日米安保条約が締結された。この条約で、在日米軍の引き続きの常駐と日本軍の米軍指揮下での育成強化が確認された。これにより自衛隊が登場することとなった。当初、自衛隊は警察予備隊として発足した。このことから明らかなように、自衛隊は憲法規定からは生まれ得ず、日米安保条約に基き創設されたことになる。憲法9条規定に縛られた結果、変な話ではあるが、「軍隊ではない軍隊」として発足した。

 そういう日陰者の形で発足した自衛隊に対して、「シビリアン・コントロール(civilian control of the military)」が適用された。これにより、歴代防衛庁長官には文民が要件とされ、現職の自衛官や自衛隊員が就くことは認められないこととなった。これが「憲法上の不文律」となり今日へと及んでいる。こう考えるべきではなかろうか。

 しかしこれは、日本国憲法の不文律であり、規定によりもたらされているものではない。あるのはあくまで、第66条第2項の「内閣の組織」に関する規定で、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」である。してみれば、自衛隊の文民統制規定は、日米安保条約と云う憲法とは別法の秩序下の「シビリアン・コントロール」概念に基き導入されたものであり、「日米安保条約から見て都合のよい文民統制」として導入されていることが分かる。これに日本国憲法の文民統制規定が被さっているとみなすべきではなかろうか。たまたま整合したから問題を発生させなかったと思えばよかろう。但し、先の安部政権下で防衛庁が防衛省となるに及び、第66条第2項の規定を直接受けることになった。

 以上、文民統制規定の意味と経緯について確認しておく。これを確認する理由は、こたびの田母神論文の是非を正確に問う為である。

 2008.11.15日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評491 れんだいこ 2008/11/15
 【「田母神論文舌禍事件」考その3、社共質疑のお粗末考】

 こう捉えたとき、「田母神事件」対応で見せた旧社共の対応には解せないものがある。蛇足すれば他の党のそれが良いというのでは決してない。こたび彼らの質疑は、元々に於いて憲法違反の自衛隊の存続を何ら問題視せず、これをそのまま認めたうえで修繕的な提言で臨んだ。これを誰も訝らない。しかし、これが果たして護憲を旨とする政党の採るべき対応だろうか。旧社共は既にここまで病んでしまったことを確認すべきであろう。

 れんだいこは、歴史的に見て許せないと思う。護憲を旗印とする日本左派運動の見地からは、自衛隊を既存のままで認めたり活用することはできない。権力を掌握次第まずは早急な自衛隊解体に向かうべきであり、次に現実路線として専守防衛的且つ救援的なものへの改組を視野に入れねばならない。且つ、良き伝統となった文民統制を継承し、その上での新たな在り方を問うというのが筋とならねばならない。これが執るべき態度ではないのか。

 この主張と姿勢を放棄して、体制修繕運動の一環として自衛隊の現在の在り方をそのまま踏まえて、ノー天気な提言に向かうのは醜悪と云うほかない。旧社共のこたびの対応は、彼らがいつのまにか我々が気づかないうちに今日の自衛隊を今日のあり方に於いてそのまま認め、駄弁している様を見せ付けた。既にどっぷりと体制化していることをあからさまにした。

 れんだいこは、とても容認できない。社民党には恥を知れと云いたい。日共にはウンザリさせられ、物言う気もしないが、丸め込まれている者も居ろうから批判しておく。日共は、こたびの対応で、自衛隊員の末端レベルまでの規制強化へ誘導せんとしている様を見せつけた。これは、正義ではなく逆に犯罪的な役割を果たしているのではなかろうか。自衛隊をして日共党内の如くトップダウン化さすとすれば、それこそますます手のつけられない凶器の自衛隊、脅威の自衛隊になる怖れが強くなるばかりではないか。

 我々が、本事件で提言していくとすれば、少なくとも「上からの統制の緩和」に向けてであり、「上からの統制の強化」では決してない。つまり、批判の自由が担保されなければオカシイ。有事対応的命令に対する指揮遵守義務は遵守させるにせよ、自衛隊内に於ける隊員個々の歴史観、政治観、世相観まで一層縛り、異論、異説、異端を監視する方向に誘導するのは逆行ではないのか。自衛隊のマシーン化を促進するだけではないのか。

 我々は逆に、右からのものにせよ左からのものにせよ、現役退役問わず自衛隊員の思想の自由を認めていく方向に叡智を寄せるべきではなかろうか。公的活動時の指揮遵守義務は公僕的に遵守させるにせよ、私的活動時には手綱が緩められ、特に論文執筆の自由は極力認められるべきではなかろうか。自衛官、学生生徒の宣誓には「政治的活動に関与せず」の文言があるとも云うが、何事にも上司上申せねばならないとされているとも云うが、これではまるで生きた屍ならぬロボットにされてしまうではないか。

 そういう意味で、次のような見解はいかがなものだろうか。

 「シビリアン・コントロールの下、軍事的組織は政治的中立性、非党派性を保つべきものとされ、軍事的組織構成員が政治的活動を行い、政治的意思表明を行う場合には、まず軍務を辞するべきものとされる」。

 れんだいこ的には、シビリアン・コントロール理論の悪用でしかなく、さような見解は過剰統制と云うべきで邪道ではなかろうかと思う。日共党中央が、党内の数十年にわたる整序に味を占め、日共の如くな政治秩序を国会にも自衛隊にも警察にも日本社会全域に適用せんと思うのは勝手だが、それこそ独裁政治を招来する道なのではないのか。

 れんだいこは、そのような社会は真っ平御免にして貰いたい。私のように唯々諾々しない者も居るというのも事実であるして、そういう層が圧殺されない社会をこそ望みたい。日共は、ソ連邦が解体した時、諸手を挙げて歓迎するなる声明を読み上げたが、ソ連政治の何を否定したのだろうか。単に時流迎合の声明を発しただけなのではないのか。むしろ、スターリニズム的な統制政治については、これを良しとして継承せんとしているのではないのかと勘ぐりたくもなろう。となると何にも歴史から学んでいないのではなかろうか。そういう気がするので聞いてみたい。

 現在、日本の現行国家公務員制度においては、一般職国家公務員の政治的行為が禁止されている。これは元々の規制ではなく、戦後直後は官民問わず、かなり自由に認められていた。ところが、1947年の「2.1ゼネスト」に象徴される官公庁の労働運動の高まりを受け、当時の戦後日本を統治していた連合国最高司令官マッカーサーが急きょ政策転換指令し、以降徐々に規制強化されつつ今日へと至っている規定である。

 日共の如くな「自衛隊別論」は「警察別論」を生み、「党内別論」を生み、「公務員別論」を生み、「教師別論」を生み、その他理屈をつければ無制限に広がるのではなかろうか。こたびの事件で、「現役自衛隊員が内規に反して上司に届け出ぬまま応募した」ことを指摘し、以降はそういうことができぬように統制強化を指針せしめているが、この方向を是とするべきだろうか。

 「一般職国家公務員の政治的行為禁止」は、本来の左派運動に於いては批判の対象であった。ましてや言論の自由まで奪うに於いてをや。ところがイケナイ、その末裔であるとされる旧社共勢力が今やこぞって言論統制強化まで叫び始めている。どうしてこういうありえべからざる逆指導が正義の名で堂々開陳され、誰も訝らないのだろうか。この現象を、誰か、れんだいこ以外に説明し得る者が居るだろうか。

 事は、右からのものであれ左からのもの者であれ、理屈は一緒にならなければおかしい。この基準を失うのを政治主義というのではなかろうか。目的が正しければ良いと云うものでもない。目的は正当な手続きをもって遂行されねばならない。これも学ぶべき公理ではなかろうか。以上、本題に入る前にコメントしておく。なかなか本題へ入れない。今日はここまでとする。

 2008.11.15日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評492 れんだいこ 2008/11/16
 【「田母神論文舌禍事件」考その4、どう善処すべきか】

 恐らく、旧社共の田母神批判は、その論文内容に関係しているのであろう。彼らの信奉する第二次世界大戦論、戦後民主主義論からすれば田母神論文は到底容認できないのだろう。その分ヒステリックにならざるを得なかったのであろうが、実際には遠吠え程度の反応しか為し得ていない。こうなればズバリ論文内容を分析せねばなるまい。田母神論文の妥当性を判断せねばなるまい。ここに丁々発止の言及して後に、事件考その1冒頭で指摘したような諸問題に向かうべきであろう。肝心の論文の歴史観、諸内容に立ち入らず蓋をしたままの文民統制強化策談義は下策の骨頂でしかなかろう。

 ならば、肝心の田母神論文はどう扱われているのだろうか。例によって右派は「よくぞ云った」と称賛し、左派は非難轟々している。そしてお互いが正義ぶっている。れんだいこには、又しても決して交わらない交わろうとしない談義で事勿れしているように見える。こういう遣り取りは既に我々は食傷しているというのに。

 れんだいこは、ここで提案をしておく。この事件を契機に政府部内に「近現代史研究会日本史版」を組織し、日本国及び人民大衆の手で史実検証を行うべしと思う。靖国神社への公式参拝の際にも問題になったが、この水路へ向かうのが肝心ではなかろうか。ここへ向かうのが政治のイニシアチブであるべきだが、どういう訳か云うだけで決して向かわない。いったい誰が、どの勢力が邪魔しているのだろうか。ここを問いたい。

 それはともかく、麻生政権は事件が発覚するや電光石火一閃で解任人事措置した。政権の危機を感じて双葉の芽の内に摘んだと思われる。しかし、野党は許さない。麻生政権の任命責任を追及し、専ら文民統制違反の見地から批判を強めている。しかし、麻生政権の速攻の解任措置の後では空を斬る仕草にならざるを得ない。

 野党の追求は、田母神論文の諸内容の解析に向かわねばならないところ、これに斬り込めない。そういう訳で、徒に呪文を繰り返すだけのブザマさを見せている。しかし、田母神論文が指摘した歴史観との齟齬をそのままにしておいては、いつまでたっても火種が燻り続けることになろう。マスコミが、通説御用系のコメンテーターが評する田母神論文幼稚論を流そうとも、事態は何ら変わらない。野党が、田母神論文批判の定型句を繰り返すだけで、論文諸内容の解析に向かわぬまま発言阻止に向けての文民統制強化論を説くのは「物言えぬ隊内作り」に結果するだけで、事態をより悪くすることはあっても、良くすることにはならないだろう。こういうことは自明なのに誰も指摘しない。解せないことである。

 政府の解任措置による沈静化も与野党の任命責任追及もどちらも、いわゆる形式批判に終始している。真に為すべきことは、賢明に対処することの難しさを弁えつつ、革めて必要な文民統制基準、自衛隊員の言論統制基準を生み出すことであろう。かなり叡智が必要とされており、生半可にできるものではあるまい。当代一流の碩学を集めて用意周到な時間と研究が必要なのではあるまいか。これをより良く為すのを政治と云うのではないのか。

 既に述べたが繰り返しておく。留意すべきは、日共式統制化論に引きずられないことではなかろうか。我々は、事が起こるたびに規制強化で対処していくやり方に対して、それを愚策とする観点を保持したい。昨今の強権著作権論の流れを見よ。著作権強化の流れが独り歩きし始めており、我々の生活レベルまでもがギクシャクさせられ始めている。そのうちニュースに於いても人の顔が映せない、車のcvレートが映せない、建物さえ映せなくなるだろう。服を着た女性の胸部、臀部が映せない、ならば男性の場合にも適用されることになるだろう。お仕舞いにはどこまで辿り着くのやら。

 もとへ。大衆団体であれ政党であれ国家機関であれ、異論異説異端を包含しつつ機能する組織こそ健全であるとする立場に立ちたい。その上で、指揮権限の考察に向かいたい。本件の場合は、そもそも憲法違反の日米安保同盟により育成された曰くつきの自衛隊の機関及び隊内の言論の自由問題となる。現役トップ級の言論の自由と制限、下士官レベルの自由と制限、一平卒レベルの自由と制限と云う重畳的考察が要求されている。

 自衛隊に対する過度の制限論はひいては警察に転用され、国家公務員一般に転用され、ひいては政党に宗教結社に社会一般に向けられよう。そういう意味で、私事レベルに於いては今後も言論の自由の許す限りに於いて発言及び執筆の自由が認められるべきとしたい。但し、公私の別は難しいので、この辺りの賢明な基準作りに向かうべきではないかと思われる。

 田母神論文の異色性は、現役の航空自衛隊トップの幕僚長が、「大東亜戦争の通説批判」を試みたところに認められる。遂にそういうご時勢に至ったかの感を深くする。大東亜戦争の通説はいずれ俎上に乗せられるべきではあるが、「現役制服組にして且つトップの言論の自由に対する法理的考察」が要請されたことになろう。

 以上を前置きとする。以下、いよいよ田母神論文の諸内容を考察することにする。

 2008.11.16日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評493 れんだいこ 2008/11/16
 【「田母神論文舌禍事件」考その5、田母神論文の諸内容解析とれんだいこコメント】

 「田母神論文舌禍事件」は、田母神論文が指摘した歴史観の判断を要請しているのではあるまいか。そういう意味で、れんだいこは、論には論を対置したい。その上で田母神論文の判定に向かいたい。ここにこそ、本事件考察の意義があると思うからである。以下、田母神論文の解析に向かうことにする。

 肝腎なことは、「大東亜戦争の通説批判」をどういう見地からするのかにある。このこと自体は真っ当な営為なのであるが、田母神論文は、この歴史的期待にどう応えているだろうか。これを確認する。

 冒頭で、「アメリカ合衆国軍隊の日米安全保障条約による日本国内駐留」例を引き合いにして、戦前の日帝の中国、朝鮮への軍靴乗り入れも同じで「条約に基づいたものである」と強弁している。更に次のように述べている。「日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置した」、「この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない」。

 こういう見立ては、日帝の植民地支配に対する云い得云い勝ちのご都合主義的弁護でしかなかろう。元々、西欧列強の猿真似して植民地支配に乗り出さねば良かっただけのことであろう。ここを是認するから二枚舌になっていくのではなかろうか。

 「コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった」とも云う。

 これも単なる裏読み史観に過ぎない。それが当たっていれば良いけど、当たっていないとなると何の意味もなかろう。れんだいこの見立てるところ、コミンテルンは国民党と共産党を両刀使いしていたのが実際で、最終的に共産党の能力が国民党を上回り、国共内戦に於ける共産党勝利に決着したと読むべきではなかろうか。

 「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである」、概要「1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」、概要「廬溝橋事件も中国共産党の仕業」云々とも述べている。

 こういう見立ては、単なる泣きごとではなかろうか。逆恨みしていることになる。向こうには向こうの正義があろうから、両者の言い分を聞かねばなるまい。

 「もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない」と云う。

 この指摘は正しい。通説は、「勝てば官軍、負ければ賊軍論」式に拵えられた「西のナチスヒットラー、東の日帝軍部原罪論」を説いており、これに食傷する向きには「良くぞ云ってくれた」ということになろう。しかしそれを云うなら、「よその国がやったから日本もやっていいということにはならない」の方の重みを噛み締めるべきだろう。ここを軽く扱ってはいけない。

 「我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである」、「実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである」、概要「学校教育、インフラ整備、陸軍士官学校入校、李王朝待遇、清朝待遇等は善政であった」、「一方日本は第2次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている」とも述べている。

 これも正しい。しかし、あくまで「穏健な植民地統治」であって植民地統治には変わりあるまい。「それまでの圧政から解放され」も相対的なものであり、日本盟主的立場からの天皇制下の共栄圏構想に基くものでしかなかったのも史実であろう。中国人民独自の建国革命の意義には及ぶまい。「欧米列強の植民地支配と比較しての日帝統治の協和的治世讃美」はほどほどにせねばなるまい。

 次に、1900 年の義和団事件、1901年の義和団最終議定書締結、1915 年の対華21箇条の要求について是認している。「これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない」と云う。

 これも、ひとたび日帝による植民地支配を是認したならばの話で、それを批判する側には通用しまい。現に、当の中国で反日運動の起点になったではないか。日本でも、「明治維新裏切られた革命説」の立場からは容認できるものではない。

 次に、日米戦争突入につき、「これも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している」と述べた後、ヴェノナファイルのアメリカの公式文書を引き出し次のように説明している。概要「ルーズベルト政権の中には3百人のコミンテルンのスパイがいた。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトで、日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人との説がある。彼がルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。真珠湾攻撃に先立つ1ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる」。

 この下りは、かなりな通説批判しかもアキレス腱を突いたものとなっている。他にも多々あるが、これらについて歴史検証されていくべきであろう。

 「さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ」。

 かく日帝の歴史的意義を称賛している。半面の真理であろうが、西郷指針の如く明治維新後の日本が、朝鮮維新、支那維新を手助けしていく道もあったはずである。この道を閉ざして日帝化していった功罪を両面から問うべきであろう。

 「東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63 年を経てもなお日本人を惑わせている」。

 この下りも、かなりな通説批判となっている。これはこれで良かろう。

 「日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない」、「アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている」、「自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある」。

 これは、自衛国防論を述べていることになる。果たして、自衛国防論が叶うのか叶わないのか、当の本人が一番良く知っているだろうに。

 「タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである」。 

 これも通説批判であろう。以上、「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である説」を拝聴した。通説批判としての意義は認められるであろう。これが現職の航空幕僚長論文であるところが凄い。この後総評することにする。

 2008.11.16日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評494 れんだいこ 2008/11/16
 【「田母神論文舌禍事件」考その6、田母神論文の総評】

 以下、田母神論文を総評する。論文は、大東亜戦争聖戦論を主張し、当時の西欧列強の帝国主義政策を不問にして、日帝のみが責めを負わされるのは不当とする見地を披瀝している。この見地は是認されて良い。「勝てば官軍、負ければ賊軍」論法により定式化されている戦後日本から現在に至る第二次世界大戦論、大東亜戦争論通説に対する批判として首肯されて良い。日本軍政がひいてはアジアの植民地的地位からの解放に繋がったと見立てる見地も、確かにそのような側面がある訳だから是認されて良い。

 つまり、第二次世界大戦を「ファシズム対民主主義の闘い」として、「ナチス・ヒットラーを極悪狂人、東条をA級戦犯」として仕立て上げ、戦勝国裁判で責任者達を絞首刑にした上になお足りずののしり続け、その他方で戦勝国側の政治を押し付けていった経緯に対する疑問を提起した点では、何らとやかく云われるものではなかろう。むしろ、この至極当然の見地が披瀝し得ない、披瀝すればこたびの如くパッシング責めにされる当世の在り姿の方がオカシイ。

 しかしながら、歴史の真実はそう単純ではなかろう。田母神論文は通説見解に対する批判と云う意味でのみ正しいレベルのものでしかないとみなすべきではなかろうか。というのも、初手に戻って、我が日本軍がそもそもなぜ朝鮮、台湾を併合し、大陸へ軍靴を乗り入れる必要があったのか、果たしてこの方向は幕末維新から明治維新の流れに於いて正当化されるだろうか、につき問いかけが必要とされているはずである。この点で、田母神論文は、端から考察を懈怠しているのではないのか。

 幕末維新を経て、明治維新政権を樹立させたまでは是としよう。その後の士族の反乱、その最終戦となった西郷派の西南の役をどう見るのか。通説は、征韓論争の真実を捻じ曲げ、西郷派が韓国征伐に乗り出そうとしていたと史実を捻じ曲げている。士族の反乱も、士族解体政策により俸禄を失った武士の時代遅れの反乱と見なしている。真実は、幕末維新で夢見た回天運動が裏切られつつあることに対する抵抗の武装闘争であったと見なす方がより真実に近かろう。この頃まではアジア同胞主義であったことも見逃せない。

 その鎮圧を経て日本の帝国主義化が公然と始まる。田母神論文は、この流れを不問にしたまま、その後の日帝の植民地支配史を全的に是認する形で論を構築しているように見受けられる。これは臭い歴史観ではあるまいか。通説とは違うがもう一つの事大主義的歴史観と云うべきではないのか。

 そういう訳であるからして、日帝の機略と軍靴の爪跡に対して、ご都合主義的な事件のみを採り上げ、 不都合な事件につき意図的に言及を避けている。日清戦争、日露戦争は偶然発生したものではあるまい。これを裏で糸ひき財政支援した国際金融資本の思惑があり、これに応じた当時の売国奴系日帝主義者が居てこそ成り立ったのではあるまいか。李氏朝鮮宮廷に対する不当な容喙然り、台湾併合時のゲリラ鎮圧然り、義和団事件の際に果たした日本軍の役割然り、ソ連革命権力創出時に於けるシベリア出兵然り。その他枚挙すればキリがない。

 元々に於いて他にも賢明な方法があったところを、即ちアジア同胞主義の立場からのそれぞれ当該国の革命支援と云うあり方があり得たところを、無理矢理に日帝化へ突き進み、西欧列強の仲間入りを自慢し、国際金融資本のアジアの傭兵として立ち働いたのではないのか。日本帝国主義は結局のところ国際金融資本に養豚化させられたのではないのか。こういう目線を持ちたい。

 確かに歴史は摩訶不思議で、その後の日帝は一定の自律化へ向かう。第1次世界大戦後、日帝の野望はあからさまになる。満州国の建国、それに伴う満蒙開拓団の派遣、日独伊枢軸同盟締結、大東亜共栄圏構想の打ち上げ、そして自立自存を掲げての大東亜戦争への突入。この道は、国際金融資本に対する叛旗の道でもあった。いずれ不可避の、かなり苦難の、敗北予兆の濃い、叉は内部溶解させられるのが必然の道であった。日独伊はこのグラントに於ける軍事同盟であり、最終的に叩きのめされた。

 田母神論文は、本質的に重要な、避けて通れないこれらの諸問題に言及せず、既に流布されている通説に対抗弁論し得そうな事件のみを抽出して論を構築しているに過ぎない。どう評価してみてもせいぜい「大東亜戦争批判の通説に対する批判」に堪えられる程度の歴史真相しか明らかにしていないように思われる。

 こういう性格を見せる田母神論文をどう評するべきか、ここが問われている。明治維新以来大東亜戦争へ至る行程及び大東亜戦争の全行程の検証は、通説的見地、その批判の見地も含め、洗いざらい再度検証せねばならない課題が遺されているのに、田母神論文には、その契機になるであろう点は評価できるが、この歴史負託に応えられるような論証性、指針性は認められない。

 意味があるとすれば、現役航空幕僚長の身で、敢えてこういう私見を披瀝する必要がなへんにあったのであろうか。れんだいこの関心はそこへ向かう。単なる思い上がりで感覚ボケしていたのか、何か裏事情があるのであろうか。用意周到さの欠ける論文応募であったことには違いない。れんだいこは、その動機を知りたい。ここを知らされない限り、考察は終了しない。

 以上を、れんだいこの田母神論文総評としたい。最後に、論文が田母神氏の政治姿勢とどう絡んでいるのだろうか、これを検証する。

 2008.11.16日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評495 れんだいこ 2008/11/16
 【「田母神論文舌禍事件」考その7、政治姿勢と論文の整合性如何考】

 田母神論文はさておき、田母神氏の政治的スタンスには妙な癖(正確には処世法と云うべきか)があることに気づかされる。田母神氏は仄聞するところ、憲法改正派であり、自衛隊の海外武装派兵推進派であり、現地戦闘鼓舞派として種々言説している。しかしこれは、何のことはない現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の意向と要請に添うものでしかない。

 田母神論文は大東亜戦争聖戦論で耳目をひいているが、田母神氏の政治姿勢と大東亜戦争聖戦論はどう接合しているのだろうか。れんだいこには理解できない。論文は最後のくだりで自主防衛論にシフトしているのに、田母神氏の実際の政治姿勢は国際金融資本帝国主義の買弁ズバリなのだからして、これを難なく接合し得るとしたら、一種のピエロ的な芸人理論家であろう。

 田母神氏の真意は分からない。以下、ピエロ芸人と仮定して言わせて貰う。氏にあっては論文は振り掛け胡椒に過ぎず、政治的な真の狙いは自衛隊の更なる中曽根−小泉式国際貢献論へと繋がっているのではないのか。こちらの狙いの方に力点があり、大東亜戦争聖戦論は今後の自衛隊に期待されている現地武闘を是認する為の地ならし勇武論としての役割を果たそうとしているのではなかろうか。

 自衛隊員内に、国民に銃口を向けるのことに抵抗する気分のあるところを、田母神論文によって是認化させ、行け進めの乃木式武闘路線で部隊教育せんとしているのではなかろうか。れんだいこは、そう解析する故に極めて危ない誘導理論ではないかと判別する。現役トップがかような指針を掲げて部隊教育に乗り出しているのなら、下士官以下総員はこれを批判する自由を得るべきである。そういう意味で、麻生政権が果断に解任処置したのは正しいと思っている。もっとも、当の麻生政権は政権保全の見地から措置したのであって、たまたま結果的にれんだいこ的要請と合致したに過ぎないのであろうが。

 田母神論文が大東亜戦争聖戦論を述べることについては、れんだいこは言論の自由と認めたいと思う。航空幕僚長としては暴走ではなかろうかとも思うが。問題は次のことにある。田母神論文は、戦後日本が、大東亜戦争の教訓から不戦の誓いを引き出し、これを憲法9条で確定し、外治主義から内治主義へ転換させ、戦後復興を経て未曾有の高度経済成長を引き出し、軍事とは無縁の否戦後的軍事であるかも知れない国際経済援助で国際貢献し、これらを総合して大いなる役割を果たしてきたハト派式善政に対して全く言及していない。逆に、タカ派式憲法改正、自衛隊の海外派兵、現地武闘路線にエールしている。

 この姿勢は、大東亜戦争に敗北した結果、戦後日本が再び現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の下で養豚化させられ、軍事もまた露骨に然りであり、このクビキとの闘いに向かうよりも、これらに更なる迎合せんとする隷従の道そのものではなかろうか。大東亜戦争聖戦論から説き初めて結果的にかような隷従の道を説く論法こそ臭いと云わざるを得ない。

 以上、れんだいこの「田母神論文舌禍事件」考とする。

 2008.11.16日 れんだいこ拝

【「田母神論文舌禍事件」考その8、防衛観察本部の監察考】
 2008.11.15日の産経新聞1面トップの「大臣指示で防衛監察」を確認する。それによると、11.11日、防衛監察本部が、空幕に監察実施を通知し、監察対象に空幕と6空団を指定、順次監察に入った。空幕幹部は、「論文問題は監察にそぐわない」、「監察は外部への投稿を問題視する意図があり、隊員を萎縮させる」、「憲法で保障された思想・信条の自由を侵害する検閲と受け取られかねない」と反発している。

 ちなみに、防衛監察本部派、平成18.1月、現職幹部らが逮捕された旧防衛施設庁の談合事件を受け、19.9月に設立された。防衛相直轄の法令順守の専門機関で、防衛相、自衛隊の業務を独立した立場からチェックする。業務が適正に行われているか確認するため、職員や自衛隊員に説明や報告を求める権限がある。初代防衛監察監は、検事出身の櫻井正史が勤めている。













(私論.私見)