アジアでの民族独立運動との絡みについて

 (れんだいこのショートメッセージ)
 黄文雄氏の「捏造された日本史」には次のように書かれている。
 「欧米中心の世界秩序は日本の介入を許さなかったのである。日本がアジアから白人を追い出し、日本の国益を確保するには、アメリカと対決するしかなかった。日米決戦(太平洋戦争)は日清、日露戦争と同じようにもともと無理な戦争だった。しかし、日米戦争は、日露戦争と同じようにアジア諸民族に大きなインパクトを与え、東亜の諸民族を覚醒させ、ナショナリズムを形成させたのである。数百年にわたる西洋植民地体制が日本側の一撃でもろくも崩壊したのである。アジア諸民族からすれば、神にも近い位置に君臨していた白人が、遂に負けたのである。シンガポールが陥落したとき、イギリスに亡命していたド・ゴールも、『アジアの白人帝国、西洋植民地体制が終焉した』と日記に書き記したほどだ。

 日本の敗戦後、イギリス、アメリカ、フランス、オランダは再び東南アジアに舞い戻ってきたが、時代は既に変化していた。かって支配下に置かれていた有色人種はいつの間にか変わっていたのである。日本軍によって編成され、訓練された独自の軍隊が東南アジア各地にあり、しかも人々はナショナリズムに燃えていた。再来した欧米の支配者にはもう押さえる力が無かった」。

 小室直樹氏の「日本の敗因」では次のように述べられている。
 「大東亜戦争は、アジア解放戦争である。何よりの証拠に、戦後、帝国主義諸国の植民地が次々と独立した。大東亜戦争の結果、国際法ががらりと変わった。戦前には、被保護国、属国、植民地などが国際法上、認められていた。治外法権を課せられた国や関税自主権がない国、主権を持たない国もあったし、半独立国、半主権国もあった。つまり、大東亜戦争までは、世界は帝国主義の時代が長らく続いたのである。戦後直ちに、それら旧来の制度を一掃する動きが始まった。植民地は続々と独立した。全ての国は主権を持つ独立国であるという大原則が確立されたのである。第二次世界大戦には世界中に広がっていた植民地は、たちまち、ほとんど全部が消滅した。この事実を高く評価するアジア、アフリカの人は多い。それどころか、侵略側である欧米の国債法学者もこの事実を否定できない」。

 この両者の云うように大東亜戦争の歴史的(文明的と云うべきかも)功績として「植民地各国の民族解放闘争に生命力を与えた」ことは、史実として見直されるべきではなかろうか。戦後日本左派・サヨに共通する観点として意識的にここを見ようとしない癖があるように思われる。その遠因として、「南京大虐殺事件」以来、日本軍鬼による虐殺自虐観に冒されており、日本軍の出没するところどこにでもアナーキーな蛮行があったと認識しているように思われる。れんだいこは、それは国際ユダ邪テキスト仕込みの悪しき政治主義的プロパガンダを真に受けすぎであり、一時の不戦思想を醸成するに都合よくても実践的には役立たない観点として排斥したい。あくまで史実をどう読み取るべきかが肝要であり、その現場から教訓が生み出されるべきではなかろうか。

 ここは大事な観点であるが゛、右派系論調がこれを認め、サヨ・左派系がノーコメントという変調のまま今日まで至っている。以下見ておくことにする。(れんだいこコメント)は追って付ける。


【わが国に対する世界のアジア系の評価】
 韓国
●元韓国軍参謀総長/雀慶禄
 「私は韓国人でしたが、少佐として日本人を率いていました。私が敵中で瀕死の重傷を負った時、私の部下は自分も被弾していながら私を背負い、重囲を突破し、私を救い出してくれました。私を救った彼はその傷が元で亡くなりました。旧日本軍の厳正なる軍規は感嘆を禁じえません。私は旧日本軍として戦えたことに誇りを感じている。私は韓国を愛するが故に、親日である」。
●韓日文化研究所/朴鉄柱
  「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。 日露戦争と大東亜戦争― この二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。 この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。 大東亜戦争で日本は敗れたというが敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。 彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。 日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ ≪聖なる戦争≫ であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものは直ぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである」。
● 評論家/金満哲
 「韓国の近代化は日本の莫大な資本と人材の投与によって成し遂げられたものである。誰も日本からの独立など望んでいなかったのに、アメリカに強制的に独立させられたというのが真実だ」。

 台湾
●総統/李登輝
 「私は22歳まで岩里政男という日本人だった。なんら恥じることはない。戦死した兄が眠る靖国に行く。身内なら当然のことじゃないか?現代の日本人たちは、日本を愛することができないと言うかもしれません。日本はそれほどに戦争中にアジアの国々に悪いことをしたのだと。しかし、それも私から言わせると歪曲された歴史観です。日本が戦後から行ってきた教育は、あまりにも自虐的過ぎました。そうした考えに正義感を覚える輩は、ただ、無知なだけです。日本の皆さん、日本を愛しなさい、胸を張りなさい! 日本はあなた方現代の日本人のものだけじゃありません。私たち「元日本人」のものでもあることを忘れないで下さい」。
●台湾実業家/許文襲 
 「台湾の今日の経済発展は、日本時代のインフラ整備と教育の賜物です。当時、搾取に専念したオランダやイギリスの植民地と違い日本のそれは良心的な植民地だったのです。戦前の日本の台湾統治に対し謝罪する必要などありません。戦後の日本政府は深い絆を持ちながら世界で一番の親日国である台湾を見捨てました。謝罪すべきはむしろ戦後の日本の外交姿勢です」。

 仏印(現・ベトナム)
 昭和19・3月に日本軍が進駐し、フランス軍を武装解除。前アンナン皇帝であるバオダイ帝を擁して独立宣言。

 ビルマ(現・ミャンマー
 独立運動家バー・モアを中心にして1942年に行政府を成立させ、43.8月にラングーンで独立式典を執り行った。
 アジア人の前衛たる日本人は、自らの社会経済的進歩と教育の発達のみを求めて闘いを進めたのではない。インド・ビルマ・チャイナ・フィリピン・スマトラなどにおいて、政治的にも経済的にも足かせをはめられて抑圧されていた人々のために闘ったのである。(ビルマ独立義勇軍 )
●ビルマ初代首相/バー・モウ
 概要「特攻は世界の戦史に見られない愛国心の発露であった。今後数千年の長期に亘って語り継がれるに違いない。我々を白人支配から救い出してくれたのは日本だった。我々は大戦終盤に日本を見限ったが、その恩は忘れない。日本ほどアジアに貢献した国はいない。日本ほど誤解を受けている国はいない。 我々は(略)その恩は忘れない。真の独立記念日は1948年1月4日ではない 1943年8月3日だ。独立の真の理解者は 東條大将と大日本帝国だった」。
●ビルマ外相/ウー・ヌー
 「1943年8月1日 独立時の演説より 「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ、生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。その国の名は「日本」という極東の島国だ。日本は、人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える」。
●ビルマ独立の父/オン・サン
 「日本の軍事訓練は厳しすぎた。何度か自殺を考えるほどだった。しかし、ラングーンが落ちた時、我々は間違っていないことを確信した」。

 マレーシア
 マラッカに国立の独立宣言記念館に展示してある「Japanese Occupation in Malaysia 1941-1945」という文書がある。そこにマレーシアという国の日本に対する基本姿勢に表現しがたい熱いものを感じた。観光でマラッカを訪れた人は多いと思うが、この文書を目にした人はまだ少ないと思う。
●列強のほとんどが足跡を残したマラッカ
 マラッカはマレーシアの独立運動の発祥地である。ポルトガル、オランダ、中国、イギリス、そして日本。この町にはアジアを支配した国々のほとんどの足跡がある。明の時代にやってきた中国人は土着化し、イギリス人は2度やってきた。イギリスはナポレオン戦争でオランダが占領されたどさくさ時から、オランダ領マラッカを事実上支配した。戦後の1825 年、英蘭による条約で東南アジアを2国で分割統治する約束をした。ジャワにあった英領の植民地と引き替えにマラヤ半島の要衝を手中に収めた。ボルネオ島のど真ん中に国境が引かれたのもその時である。 

 イギリスはペナンの開発に着手し、シンガポールという新たな半島の拠点もあり、以降、貿易拠点としてのマラッカはあまり意味があったとはいえない。だが、その後のスズ鉱山経営という観点からみれば、クアラルンプールへの出入り口を抑えた経済効果は小さくなかった。
●4年後に戻ったイギリスが感じた違うマラヤ 
 マラヤ人にとってイギリスによる百数十年の支配が植民地のすべてだった。そこへ1941年疾風のごとく「北からの黄色い支配者」がやってきて、4年後には再びイギリスが戻ってきた。マラヤ人にとっての第二次世界大戦はマレー半島を舞台にした日英の衝突だった。どちらもがマレー半島の支配者だった。違うのは日本が統治した時間が圧倒的に短かったため、破壊のみで建設する時間がなかったことだ。日本軍政が終了した後、イギリスもまた軍政を敷いた。合点がいかないのは、人様の領土を踏みにじった歴史はどちらも誉められたものではないはずなのに、戦後は日本が悪でイギリスが善となった。

 一つだけ言えるのは、日本がマレー半島を手にするのに血が流れ、イギリスがそれを取り戻すのに血を流す必要がなかったことだ。太平洋で日本がアメリカに敗れたため、棚からぼた餅で元の領土が戻ってきたのだ。イギリスにとっての不幸は、マラヤ人が4年前の従順なマラヤ人でなくなっていたことだった。チャーチル首相がヤルタ会談で「インドはイギリスのものである」と断言したように、シンガポールを含めたマレー半島の海峡植民地は再びイギリスに富をもたらす土地となるはずであった。だが「invinsible=絶対不敗」だったイギリスが日本に敗れる様を見た後のマラヤ人はもはや元と同じような目でイギリス人を仰ぎ見ることはなかった。  

 筆者は、以前から「国家機能」のひとつに「歴史編纂」という大事業があると考えてきた。これまでアジアのほとんどの国は西洋の歴史観ををそのまま導入して自らの歴史編纂を怠ってきたのではないかという問題意識を持ってきた。どうやら戦後50年以上を経て、マレーシアで新しい歴史観が芽生えているようだ。マラッカにある国立独立宣言記念館の文書を翻訳して以下に掲載する。     
●マレーシアにおける日本占領 1941-1945  
 1941年12月8日、第二次世界大戦で日本軍がコタバルに上陸作戦を敢行した時、マラヤもまた影響を受けたが、イギリス軍が残したものは跡形もなく破壊された。戦艦プリンス・オブ・ウェールズとリパルズが撃沈されたことは強さを誇ったイギリスの軍紀に大きな痛手を与えました。  

 1942年2月15日、パーシバル将軍に率いられたイギリスが正式に日本軍に降伏し、アジアの国による新たな植民地化が始まりました。日本軍の占領によってマラヤは社会的、経済的な被害を受けましたが、政治的に言えばマラヤ人々にとって覚醒ともいえるものでした。マラヤ人はイギリスは無敵の存在と考えてましたが、そうではないことが分かったのです。言い換えれば、日本の成功が西洋列強からの独立の精神を呼び覚ましたということもできます。 (略)日本の占領が多くの人々に経済的苦しみを与えたことも事実ですが、彼らの登場と成功によってアジア人に自らの自覚が生まれました。アジア人たちは西洋人に対する自信を取り戻し、偶像化することも少なくなりました。日本の力が増し、日本の影響力が強まることで、マラヤ人の独立に向けた闘争は早められましたのです  

 1946年2月22日、クアラルンプールのビクトリア協会(?)での降伏の儀式で、板垣将軍はマラヤの司令官となったマサヴィー中将に刀を捧げ、ほかの幹部たちも続きました。  

 日本による軍政が経済的社会的な苦難を伴ったことは確かですが、その軍政がある意味ではマラヤ人に劇的な政治変化をもたらしました。日本がたった70日という短い期間でイギリスを打ち負かしたことを見たマラヤの民族主義者たちにイギリス植民地主義は無敵でないことを植え付けました。日本は負けましたが、日本の占領はマラヤ独立闘争を続ける火種を植え付けたのです。(国立マラッカ独立宣言記念館)

●ガザリー・シャフィー(マレーシア元外務大臣)
 「」。日本はどんな悪いことをしたと言うのか。大東亜戦争で マレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3か月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが英軍は再び取り返すことができずマレーシアは独立したのだ。
 ラジャー・ダト・ノンチック元上院議員は次のように述べている。
 「この国に来られた日本のある学校の先生は「日本軍はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べに来たのだ」と言っていました。私は驚きました。「日本軍はマレー人を一人も殺していません。」と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした。 」。
●マレーシア:ラジャー・ダト・ノンチック(元上院議員)
 「日本軍は長い間、各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い出しとても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に 感動と自信を与えてくれました。長い間眠っていた「自分達の祖国を自分たちの国にしよう」 という心を目覚めさせてくれたのです。 」。
●マレーシア外相/G・シャフエー
 「何故 日本が謝るのでしょうか? あの大戦でマレーシア人と同じ小さな体の日本人が、大きな体のイギリス人を追い払ってくれたではないですか? 日本なくして東南アジアの独立はありませんでした。 この日本が払った尊い犠牲を否定することはバックミラーばかり見ているようなものです」。
 「日本以外の方は特攻隊員が洗脳されたり、狂信的なものと想像することでしょう。彼らの遺書を読めば狂信者とは程遠い存在であることが解ります。彼らが守りたかったのは母であり、妻であり、愛する家族だったのです」。
●ラジャ・ダド・ノンチック(上院議員)
 「我々は日本軍を歓呼で迎えた。日本は将来の我々の独立のために多くのものをもたらしてくれた」。
●マレーシア4代目首相/マハティール・ビン・モハマド
 1992年香港の「ワールド エコノミック フォーラム」にて(『罠に嵌った日本史』黄文雄 著 日本文芸社より)
 「日本人の戦争責任を問うならば、それより以前、非人間的な支配と収奪を続けた欧米の宗主国の責任はどうなるのか。日本が来たことで植民地支配から解放され近代化がもたらされた」。
●Z・アビディーン(歴史家)
 「日本軍政はマレー人に独立の種を撒き成長させた」。

 シンガポール
●首相(シンガポール)/ゴー・チョクトン
 「日本の統治は過酷なものだった、しかし日本軍により欧米のアジア支配は粉砕された。 これはアジアに自信を与えた。 大戦後、15年以内にアジアの植民地は全て解放された」。

 タイ
 タイ国元首相/ククリット・プラモードは「日本は独立の母である」と感謝した。
 「日本のお蔭でアジア諸国は独立できた。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、アジア諸国という子供を産んでくれました。生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のお蔭であるのか。それは身を殺してまで仁をなした日本というお母さんがあったからである。12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意をされた日である。更に8月15日は、我々の大切なお母さんが力尽き病の床に伏した日である。この二つの日を忘れてはならない」云々。
●タナット・コーマン(タイ国元副首相)
 「あの戦争によって、世界のいたるところで植民地支配が打破されました。そしてこれは、日本が勇戦してくれたおかげです。新しい独立国が、多くの火の中から不死鳥のように姿を現しました。誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明白です」。
●タイ国王元副首相、元外相/タナット・コーマン(航空自衛隊連合幹部会機関誌「翼」平成7年新秋号)より
 「あの戦争によって、世界のいたるところで植民地支配が打破されました。そしてこれは、日本が勇戦してくれたお蔭です。 新しい独立国が、多くの火の中から不死鳥のように姿を現しました。誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明白です」。

 インド
 1943.12月に、インド独立運動の指導者スバス・チャンドラ・ボースがシンガポールに自由インド臨時政府を設立。
●杉並区の蓮光寺に眠り続けるボースの遺骨
 8月15日。この日が近づくと毎年、日本人は総懺悔する。3年9カ月のわたった戦争は日本人だけでなくアジア人にも忘れさせることのできない悲痛な思いを想起させる。筆者は毎年8月18日には、東京都杉並区にある蓮光寺に参拝してきた。インド独立の父の一人であるスバス・チャンドラ・ボースの遺骨が54年間、異境で眠り続けているからだ。 

 チャンドラ・ボースはガンディー、ネルーに次ぐ巨頭だった。インド国民会議派の議長を務めていた1938年、ガンディーの方針に背いたことから議長職を解任され、独自にフォワード・ブロックをつくった。急進的なインド即時独立論者として英国から最も危険視された。41年、英国による軟禁状態から脱出、ドイツに逃れ、やがてシンガポールに現れる。そしてインドの武力解放を目指して"同盟軍"としてインパール作戦に参戦する。終戦直後、ボースはソ連への亡命の途上、台北市上空で航空機事故のため死去。遺骨は蓮光寺に仮埋葬されたままなのである。 
●インド人将兵の勝利だったシンガポール陥落 
 第二次大戦中、杉原千畝領事代理がビザを大量発行してユダヤ人救出したことが後世、評価された。同じようにインドのカルカッタやパキスタンのパンジャブ地方に行ってインド国民軍(Indian National Army=INA)やチャンドラ・ボースのことを話題にすれば、日本人はどこでも歓迎されるはずだ。日本ではほとんど知られていない故藤原岩一氏は、インド独立の父として「メジャー・フジワラ」(藤原少佐)の名でいまでも語り継がれている。いまやだれも語らなくなった太平洋戦争の秘史の部分といってもいい。 

 第二次大戦の緒戦、マレー半島のジャングルで「F」のマークの腕章を付けた一群の日本人とインド人の姿があった。F機関といった。軍服はきているものの火器は携帯しなかった。機関長、藤原少佐の主義だった。彼らの目的は、開戦と同時にマレーのジャングル奥深く潜行、英印軍内のインド将兵を寝返らせることだった。英印軍が火力と兵力で圧倒していたにもかかわらず、日本のマレー進行作戦が電撃的に成功したのは、ひとえに英印軍内インド将兵が次々と投降したからである。英国から見ればインド人中心の部隊編成だったことが敗因である。ここのところを間違えてはいけない。婉曲にいえば、マレー作戦はインド人将兵の勝利だった。 

 1942年2月15日のシンガポール陥落後、投降したインド人将兵は5万にも上っていた。10人足らずのF機関がたった2カ月でインド人将兵の心をたくみつかんだ。戦争用語でいえば「謀略」に成功したことになる。F機関は彼らに「インド独立」を約束した。参謀本部はまったく違う思惑を持っていたが、インド人将兵は現場レベルの約束を信じた。それまで大英帝国を守る忠実な番犬だった英印軍は「インド国民軍」に再編成された。インドにはガンジーやネルーが20年以上にわたって反英闘争を続けていたが、ついに軍事組織を持つにいたらなかった。東南アジア在住100万人のインド人は、逆にインド国民軍の創設を積極的に協力、多くの私財を提供した。 
●インド国民軍裁判が英国に迫ったインド放棄 
 モハン・シン大佐がその再編成の役割を担った。インド国民軍創設の目的はただひとつ、「インド独立」だけだった。英印軍による180度の転身だった。1年後、ベルリンからスバス・チャンドラ・ボースを招いてインド国民軍はさらにインド解放を目指す実践部隊に生まれ変わる。彼らの合い言葉は「チェロ・デリー」(デリーへ)だった。米英はインド国民軍を日本軍の傀儡とみた。インパール作戦は前線で指揮した牟田口廉也中将の発案でインドから重慶への援蒋ルートを断ち切るのが目的だったが、ボースの念頭にはインド独立しかなかった。 

 戦後、英国政府が真っ先にしたことはインド国民軍将兵を「反逆罪」で裁くことだった。デリーのレッド・フォートがその法廷となった。戦争中はボースに冷淡だったインド国民会議派は、インド国民軍を愛国者として迎え、デサイ博士を筆頭とする弁護団をレッド・フォートに送り込んだ。弁護団は「隷属される民族は戦う権利がある」という主張を貫いた。 

 この動きに全インドがハイタル(ゼネスト)で応えた。ボンベイ(現ムンバイ)にあった英印海軍の艦船は一斉にボンベイ市内に大砲の筒を向けて反英の意志を露わにした。全インドが初めて英国に牙をむき、レッド・フォートを包囲した。反英闘争はかつてない高まりをみせ、裁判を有利に導いた。起訴されたインド国民軍将兵は有罪となったものの、「刑の無期執行停止」を勝ち取った。英国は当初、戦後もインド植民地支配を続けるつもりだったが、インド国民軍裁判でインド放棄を決断した。1946年1月のことである。 

 ここらの経緯は日本の教科書には一切書かれていない。カルカッタやパンジャブ地方の人々には「チャンドラ・ボースは死してインド独立を勝ち取った」という思いがある。カルカッタはボースの故郷であり、パンジャブ地方はインド国民軍将兵を多く生んだシーク族の故郷である。

 チャンドラ・ボースの遺骨が蓮光寺からインドに移されない経緯は複雑だ。戦後、ボースの遺骨を守り続けた林正夫氏の手記に譲りたい。林氏の手記(萬晩報主宰 「伴 武澄」著書より抜粋)
●インド法律学者/ラダ・ビノード・パール
 「(原爆慰霊碑の碑文を見て)過ちとは誰の過ちか?原爆を落としたのは日本ではなくアメリカだ!まだ、アメリカの手は清められていない」。
●インド: ラダ・ビノード・パール判事(極東国際軍事裁判判事・法学博士)
 「私の判決文を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということが解るはずだ。それなのに、あなた方は自分らの子弟に、 「日本は犯罪を犯したのだ」 、「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」と教えている。 満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を どうか、私の判決文を通して充分研究していただきたい。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。時が熱狂と偏見とを和らげた暁には また理性が虚偽からその仮面をはぎとった暁には その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう」。
●初代インド首相/ネール 
 「彼ら(日本)は謝罪を必要とすることなど我々にはしていない。それ故、インドはサンフランシスコ講和会議には参加しない。 講和条約にも調印しない」。 (52年日印平和条約締結) 
 1957.5月、岸信介首相がインドを訪ねた時のネール首相の歓迎挨拶の時の一節。
 「私の若いときに日露戦争というのがあった。その頃、東洋人は西洋人に敵わないというのが普遍的な考え方だった。況や大国と小さな島国が戦うなら、負けるのが当たり前だ。ところが勝っちゃった。これが私の一生を決定した。東洋人の私は、それまでイギリスにはかなわんと思っていたが、独立させようと一生を捧げることになったんだ云々」(2003.1.4日毎日新聞、岩見隆夫「近聞遠見」より。若干文意を踏まえて改訂している)。
●インド弁護士会会長/グラバイ・デザイ
 「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。 この恩は忘れてはならない。これはインドだけではない。 インドネシア、ベトナムをはじめ東亜民族はみな同じである。インド国民はこれを心に深く刻み日本の復興には惜しみない協力をしよう」。
●インドの独立運動家/デリーインド国民軍裁判主席弁護人/チャンドラ・ボース
 「日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自国獲得の戦いに参加することを可能にした」。
 「インド国民軍はインド完全解放のために、日本の友情と共に戦い抜く。デリーへ!」。
●インパール作戦慰霊碑のある村の村長
 「日本兵は飢餓の中、勇敢に戦い死んでいった。この絶望的な、しかし勇敢な行動は、インド独立の糧となった。この慰霊碑は日本兵の供養であり、独立インドの象徴なのです」。
●インド独立運動指導者/ヘランボ・ラル・グブダ
(『世界が裁く東京裁判―85人の外国人識者が語る連合国批判』終戦五十周年国民委員会より)
 概要「東京裁判は、二十一世紀に入れば必ず多くの亜細亜の国々によって見直されるであろう。 そして第二回東京裁判が実現する。 その頃は亜細亜も世界も良識を取り戻して、総てが公正にして真理の法の前に平等に裁かれる。この時こそ東亜積年の侵略者であった欧米列強の指導者たちはこぞって重刑に処せられ、かつて重罪を被った日本人就中(なかんずく)A級戦犯の七柱は一転して全亜細亜の救世主となり、神として祀られる日が来るであろう。 またそのようになるべきである」。

 スリランカ
●スリランカ大統領/ジャヤワルデネ 
 「(サンフランシスコ講和条約において)なぜアジアが日本が自由であることを望むのか。それはアジアにとって日本が唯一信頼できる国であったからだ。日本の理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい。憎しみは憎しむことで消えない。愛することで消えるのだ」。

 ウズベキスタン
●ウズベキスタン大統領/カリモフ 
 「日本の拘留者が造った劇場は今も健在だ。日本人の勤勉さは賞賛に値する」。

 フィリピン
 1943.10月に、ホセ・ラウレルを大統領としてフィリピン共和国を樹立。
 「フィリピンは結構対日感情悪い方なんですが、それでも『日本の戦争責任』なんてアホなことは一言も言っていない」。

 インドネシア
■ インドネシアの教科書
 「日本の占領は大きな利益をもたらした。第1に、基礎教育。第2に、軍事組織。第3に、政府機構。これはインドネシア独立の基礎となった」。
 アラムシャ第三副首相は次のように述べている。
 「日本軍政時代の3年半については、オランダ、チャイナ、アメリカなど、戦勝国の学者や、欧米に留学して日本が嫌いになった人々は、悪い面ばかりを誇大にあげつらっている。しかしそれでは全体を語ったことにはならない」。
●インドネシア モハメッド・ナチール(元首相)
「アジアの希望は、植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を 日本が代表して敢行したものです。大東亜戦争というものは本来なら私たちインドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争はそういう戦いだったんです」。
●インドネシア ブン・トモ(元情報相)
 「日本軍が米・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりを見てアジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った」。
●M・ハッタ(スカルノに並ぶ独立の父)
 「資源の宝庫であるインドネシアは疲弊した宗主国オランダにとってどうしても手放せない植民地だった(中略・・・その後独立)(オランダは独立の)腹いせに多額の債務をインドネシアに要求した。これを戦時賠償の形で肩代わりしたのが日本だった」。
●インドネシア元情報相/ブン・トモ
 「あの戦争は我々の戦争であり我々がやらなければならなかった。それなのに、全て日本に背負わせ 日本を滅亡寸前まで追い込んでしまった。申し訳ない 」。
●インドネシア元国防軍参謀総長/アブドル・ハリス・ナスチオン
 「独立できた要素の第一は日本軍が植民地政治体制を粉砕したことです。第二は、日本軍の猛烈な軍事訓練です。日本軍は大変立派なことをしてくれました。日本は歴史に残ることをしてくれました。誰も変えることのできない真実です。(名越二荒之助「世界から見た大東亜戦争」より)」。
●復員軍人相/サンパス
 「戦争が終わった後、多くの日本人が帰らずに我々と戦ってくれた。国軍基地に祀り勲章を贈った。しかしそれだけでは足りないものを彼らは我々に与えてくれた」。
●インドネシア陸軍中将/アラムシャ
 「日本にはあと5年頑張って欲しかった。そうすれば中東とアフリカはもっと早く独立できたはずだ」。
●ASEANインドネシア代表
 「ASEAN会議で韓国が突然議題と関係のない日本批判を始めた時、インドネシア代表がそれをさえぎり「日本が隣にあれば、どんな国家でも韓国程度の発展は出来る」「恩を受けた日本人に感謝ひとつできない人達であることが我々には全く理解できない」。詳しくはこちら

 エジプト
●第二代エジプト大統領/ナセール
 「(第三次中東戦争惨敗後)アジアには日本がいた。アラブには日本がいない」。

パール博士の論理】
 「パール博士の判決論理」に記す。

【わが国に対する世界の西欧系の評価】
●オランダ:アムステルダム市長/エドゥアルト・ヴァン・ティン
(平成三年。アムステルダム市長主催の親善パーティでの歓迎の挨拶)
 「あなた方日本は、先の大戦で私どもオランダに勝ったのに大敗しました。今、日本は世界一、二位を争う経済大国となりました。私たちオランダは、その間屈辱の連続でした。すなわち、勝った筈なのに貧乏国になりました。戦前はアジアに本国の36倍もの面積の植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で、本国は栄耀栄華を極めていました。今のオランダは、日本の九州と同じ広さの本国だけになりました。あなた方日本は、アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分を蔑み、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ、自ら血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。あなたの国の人々は過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦目先のことのみ取り上げ、あるいは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って、真相を見つめる必要があるでしょう。本当は私たち白人が悪いのです。100年も200年も前から、争って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。植民地や属領にされて、永い間奴隷的に酷使されていた東亜民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大にして崇高な理想を掲げて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。本当に悪いのは、侵略して、権力を振るっていた西洋人のほうです。日本は敗戦しましたが、その東亜の解放は実現しました。すなわち日本軍は戦勝国のすべてを、東亜から追放して終わりました。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。日本の功績は偉大です。血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。自分を蔑むのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです」。
●イギリス:イギリス第14軍司令官/スリム中将  「たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的ではなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう」。
●歴史家 A・トインビー(英国)  「第二次世界大戦において、日本人は日本のためよりもむしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残した。それらの国々と日本の掲げた短命の理想、大東亜共栄圏に含まれた国々である。日本人が歴史上、残した最大の業績は、世界を支配していた西洋人が「不敗の神」ではないことを示した点である」。      .
●イギリス:歴史家/SF作家/H・G・ウェルズ
 「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の基礎を築いた」
 「戦後の日本人は、戦いに敗れたとはいえ、西欧の植民地支配を崩壊させて世界史の流れを大きく変えたという誇りが全く欠けている。あの戦争の敗者は日本ではない。真の敗者は植民地をほとんど失った欧米列強だ」。
■英印軍総司令/ マウントバッテン卿
 「かつて精強を誇った日本軍も、最後は精神力のみとなり敗れていった。が、何かが残った。『西洋人をアジアから追い落とした』という結果だ」。
●フランス第18代大統領/シャルル・ドゴール
 「シンガポール陥落は白人植民地主義の歴史に終焉をもたらした」。
■ GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥
 「朝鮮戦争が始まってアメリカは自分たちのやっていることは、明治以来日本がやったことと同じだと気がついた。朝鮮半島に一方的に入ってきたのが清国で、それが日清戦争であること。朝鮮半島に軍港をロシアが造り始めた、それが日露戦争」。
 「日本には石油がない、錫もない、ゴムもない。その供給を全て絶たれたら、どんな小国でも戦争を決断する」。
●アメリカ: ベン・ブルース・ブレークニー(東京裁判弁護士)
 「原子爆弾という、国際法で禁止されている残虐な武器を使用して多数の一般市民を殺した連合国側が、捕虜虐待について、日本の責任を問う資格があるのか」。
●GHQ参謀部長/C.ウィロビー
  「東京裁判は史上最悪の偽善だ。もし米国が同じ立場だったら日本と同じように戦っただろう」。
●社会学者 H・ミアーズ女史(米)
 「(著書にて)東京裁判は正義ではなく、明らかなリンチだ。私たちアメリカがどうして日本を罰する事ができるのか?私は理解できない」。
●ビル・トッテン氏(米国の経済学者・実業家)
 「大東亜戦争によってアジアのみならず、アフリカ諸国までようやく独立した。世界史の大転換であり、いくら評価しても、し過ぎることはない。その中でまだ独立していない国が一つだけ残っている。その未独立の国は、外国製の憲法を今もありがたがっている。隣国から教科書の書き直しを要求されたら、オタオタしながら従っている。日本人にとって最も神聖な靖国神社だが、首相が参るべきかどうかをめぐって、内輪喧嘩をしている。第一、国家の総力を挙げて戦った自国の戦争に『侵略』のラベルを貼り、それを首相談話に盛り込み、教科書にまで書き連ねている。こんな国が世界のどこにあるか」。
●アメリカ コロラド大学歴史学部教授 ジョイス・C・レブラ女史
 (著書「東南アジアの解放と日本の遺産」秀英書房より)
 「大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている」。
 「日本の敗戦、それは勿論東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた(中略)民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した」。
 「(中略)東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身に着け、独立を求める牢固たる意志に支えられていた」。
●ミニッツ海軍元元師(米太平洋艦隊司令官)
 「沖縄作戦で我が海軍が被った損害は戦争中のどの海戦よりも、遥かに大きかった。沈没30隻、損傷300隻以上、9千人以上が死亡・行方不明または負傷した。その大損害は、主として日本の航空攻撃特に特攻攻撃によるものであった。我々は予め日本空軍は手強いという事は知っていたが
こんなにやるとは思わなかった。我々は「カミカゼ」がかくも多数の人員を殺傷し多数の艦船を破壊しつつある事を日本軍に認めさせることが許せなかった。それ故、我々はそこに留まってこれを受けなければならなかった。日本が失った飛行機の12%で米損傷艦艇の約77%米海軍人員の死傷者中約80%をやっつけた事になる。素晴らしい戦果と言えようもし神風攻撃がなかったらアメリカの空母は自由に日本本土の基地や工場を破壊することが出来た筈である」。
●中華民国顧問 O・ラティモア
 「日本が立派にやり遂げた事は、欧米の植民地帝国を完全に破壊した事である」。
●あるユダヤ人の老主人が、私の日本人たるを知るや襟を正して、
 「私は日本の天皇こそ、我らの待望するメシアではないかと思う。何故なら日本人ほど人種的偏見のない民族はなく、日本の天皇は、またその国内に於いて、階級的に何等の偏見
を持たぬと聞いているから」。
 (大正十四年五月)陸軍中将樋口季一郎回想録
■ ローガン弁護人
 私はこの裁判を引き受けた当初は正直後悔した。勝ち目がない裁判だからだ。しかし、研究、調査を重ねるごとに被告の無実が証明されていった。最初から日本に20年間一貫した世界侵略の野心など全く無かった。私は断言できる。彼らは全員無罪だ。もし彼らを裁けるものがいるとすれば、それは日本人だけのはずだ。

■ F・リール弁護人
 祖国を愛するいかなるアメリカ人も、こんな裁判記録では羞恥心にまみれるだろう。裁判官に法律家が一人もいない裁判などあってたまるか!

■ H・ミアーズ女史
 東京裁判は正義ではなく、明らかなリンチだ。私たちアメリカがどうして日本を罰することができるのか? 私は理解できない。

■ O・ラティモア中華民国顧問
 日本が立派にやり遂げたことは、欧米の植民地帝国を完全に破壊したことである。

■ Z・アビディーン 歴史家
 日本軍政はマレー人に独立の種を撒き、成長させた。

■ クリストファ・ソーン 歴史家
 日本にはファシストもヒトラーもナチスもムッソリーニも存在しなかった。ファシストの名にふさわしい東洋人を挙げるならばそれは蒋介石だ。

■ 48年タイ戦時債務交渉
 (当時の日本を見て)こんな疲弊した日本に金を返せとは言えない。

■ ミラン・クンデラ 作家
 ひとつの民族を抹殺するにはその記憶を失わせることである。その歴史を失わせた上で、新しい歴史を与えればよい。そうすれば、その民族は自ら現状も過去も忘れてしまうだろう。

■ K・プリングスハイム ユダヤ人音楽家
 ドイツ大使館は大学に、私を追い出すように再三言ってきたが、私が追い出されることはなかった。

■ ローゼンシュトック ポーランド系ユダヤ人指揮者
 マイジンガーがスパイリストを作り、日本に逮捕を要求した。私はリストの筆頭に挙げられていた。誇り高き日本はそんな迷信には耳を貸さなかった。ユダヤ人にとって日本は安全地帯だった。




(私論.私見)