【パール博士の判決論理】 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 田中正明著」、池見猛・編著「国益上、田中元首相の無罪を望む」その他を参照する。 |
【パール博士の論理―判決理由要旨】 | |||||||||||||||||||||
インドのラダ・ビノード・パル博士(1886〜1967年)は国際法を専門とする学者であるが、極東国際軍事裁判(俗称・東京裁判)判事11名の中でただ一人、この裁判が最初から日本を侵略国と決め付けていることに不快感を示し、日本の無罪を主張した。博士は東京裁判の約2年半の期間、帝国ホテルの一室に閉じこっもたまま、他の判事や検事が休日ごとにドライブやパーティーを楽しんでいる時、博士は自宅からあるいは弟子や知友に依頼して参考文献を取りよせ、もっぱら読書と思索にふけられた。その読書は三千巻にも及んだといわれる。 日本が戦争に至った経緯を丹念に調べ上げ、この裁判は勝者が敗者を一方的に裁いた国際法にも違反する非法・不法の復讐劇だったとして、被告全員の無罪の判決を下した。また、南京事件についても徹底的な検証を行い、松井石根陸軍大将の名誉を回復させる無罪判決を下した。残念ながら松井大将は絞首刑となってしまう。パール判事は戦勝国アメリカの罪についても、鋭く追求言及した。特に広島・長崎における原子爆弾の使用については、アメリカ側の有罪を立証して見せた。 「パール判決書」(INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FOR THE FAR EAST-DISSENTIENT JUDGMENT OF JUSTICE PAL)は、和訳タイプされ、原稿用紙にして二千二百枚、九十万語にも及ぶ長文となっている。これが日の目を見るようになったのは、秘密保持の念書を入れて清瀬、伊藤両弁護士より借用したからであると云う。 パール判事一人の意見書(判決)は、「多数判決」(清瀬弁護士の言う「六人組判決」。米、英、ソ、中、カナダ、ニュージランドの6ヶ国の判事の判決文)よりも、浩翰な法理論の展開をしている。博士の論点を要約すれば次のような内容になっていた。
欧米先進国では少数意見は必ず発表されることになっており、東京裁判所条例も少数意見は公表すると明記していたが、時間がないことを理由に発表を禁止した。当時GHQによって言論統制を受けていた日本の新聞はただ数行「インドの判事が異色の意見書を提示した」と発表したに過ぎない。かくして、ついにパール判決書は日の目を見ることなく葬り去られてしまったのである。 このパール博士の見解が、文章という形で出版されたのは、ずっと後の日本が独立を回復した1952年。太平洋出版社発行の「パール博士述・真理の裁き・日本無罪論」によってである。この時出版記念会が開かれ、全国への普及に尽力したのが平凡社社長の下中弥三郎氏であった。 |
【パール判事の判決を聞いて戦犯が遺した歌】 | ||||||||
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【「六人組判決理由要旨」】 |
六人組の個性についてコメントしておく。オーストラリアのウエッブ判事とフィリピンのハラニーヨ判事は、法廷にもち出された事件に前もって関係していた判事で不適格、必要な言葉すなわち協定用語である英語と日本語がわからないソ連のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事、また本来裁判官でない中国の梅汝*判事の五名の判事は不適格判事であった。国際法で学位をとった判事はパール博士一人のみである。 |
【「意見書」について】 | ||||||||||||||||||||
東京裁判判決は、六人組の多数判決で決定された。しかし、結論は同じでも、法理論はそれぞれ異なっていた。それぞれ別の意見書が出されている。
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東京裁判(1946〜1948年)で、日本は満州事変(1931年)から盧溝橋事件(1937年)を経て日中戦争に突入し、日米開戦(1941年)、そして終戦に到るまでのプロセスを「侵略戦争」と判定され、この「侵略戦争」を計画し、準備し、開始し、遂行したことは、「平和に対する罪」に当たるとして東條英機ら7人の絞首刑が遂行された。 パール判事は、この東京裁判で日本が国際法に照らして無罪であることを終始主張し続けてくれたインド人判事である。田中正明著『パール博士の日本無罪論』によれば、同判事は、日本の教科書が東京裁判史観に立って「日本は侵略の暴挙を犯した」、「欧米諸国は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示する目的であったにちがいない。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、退廃に流れていくのを、私は平然と見過ごす訳にはゆかない。誤られた彼らの宣伝を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられなければならない」とまでいって励ましてくれたのである。 このパール判事の冷静かつ公平な歴史感と人権に感服し、義兄弟の契りまで結んだ平凡社創設者下中弥三郎は、世界連邦アジア会議を開催してそのゲストとしてパール博士を招致した。その没後二人を記念する建設委員会によって創設されたのが、箱根町の丘の上にあるパール記念館である。正式には「パール下中記念館」と呼ばれている。 極東国際軍事裁判(以下東京裁判と略称)で東條元首相とともに処刑された松井石根陸軍大将の密葬の夜のことであった。当日は大亜細亜協会理事長下中弥三郎、幹事長中谷武世両先生とともにわたくしもお招きいただいた。その夜の直会の席で、弁護団副団長の清瀬一郎先生と大将の弁護人伊藤清先生のお二人から11名の連合国判事中ただ一人インド代表のパール判事のみが、この裁判は国際法に違反するのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及まで犯し、罪刑法廷主義を踏みにじった復讐裁判に過ぎない、だから全員無罪であると、堂々たる法理論を展開された旨のお話を承った。
秘密保持の念書を入れて清瀬、伊藤両弁護士より和訳タイプしたパール判決書を借用した。原稿用紙にして二千二百枚、九十万語にも及ぶ長文である。多数判決−清瀬弁護士の言う六人組判決(米、英、ソ、中、カナダ、ニュージランド)−の6ヶ国の判事の判決文よりも、パール判事一人の意見書(判決)の方が浩翰な法理論の展開をしている。 ついでながら、オーストラリアのウエッブ判事とフィリピンのハラニーヨ判事は、法廷にもち出された事件に前もって関係していた判事で不適格、必要な言葉すなわち協定用語である英語と日本語がわからないソ連のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事、また本来裁判官でない中国の梅汝*判事の五名の判事は不適格判事であった。国際法で学位をとった判事はパール博士一人のみである。 パール判決書はニューヨーク・タイムズやロンドン・タイムズなどでは大々的に報道され、米英の法曹界ではパール旋風が巻き起こっていることを氏は承知していたのである。しかしこれを日本で出版しようとすると壁にぶちあたった。「田中さん、残念ながらこの本はマッカーサーの占領中は絶対に出版できません。内々調べてみたが、出版すればあなたも僕も即刻逮捕された上、発売禁止です。占領が解かれ、日本に主権が回復する日まで待つより外ありません。それまではお互いに秘密厳守で、潜行して作業を進めることです。」 占領軍はポツダム宣言に違反して、物凄くきびしい言論統制を行っていた。表現活動で厳禁した三十項目の第一の禁止事項は、占領軍総司令部(マッカーサー)の批判、第二が東京裁判の批判、第三が新憲法、第四が検閲制度への言及・・・等々、三十項目である。この内、東京裁判の批判は第二の禁止事項なのである。 パール博士の全員無罪の判決文は、東京裁判批判の最大最高の、しかも権威ある法理論による批判である。占領下にこんなものを出版したら、それこそ首がいくつあっても足りないほどの処罰を受けるのは当然で、鶴見先生はすでにこれを承知していたのである。 そこで日本が独立を回復する日、すなわち昭和27年4月28日を期した。それまでは内密に印刷し、製本し28日に全国一斉に書店で発売した。これが太平洋出版社発行の『パール博士述・真理の裁き・日本無罪論』である。この本の新刊紹介は各新聞に取りあげられ、大変な反響を呼び、ベストセラーズになった。パール博士の名が広く日本人に知れわたったのは、この著述によってである。 その年(昭和27年)の11月、原爆の地広島で「世界連邦アジア会議」が開催されることになっていたが、そのゲストとして、アジア会議の実行委員長であった下中先生が私費をもって博士をお招きすることになったのである。先生は博士の歓迎委員会も組織され、その代表者にもなられた。 博士は10月26日に来日された。東京では法政、明治、早稲田、日大など各大学のほか日比谷公会堂でも講演された。さらに京都、大阪、神戸で講演されて広島の『世界連邦アジア会議』に臨まれた。さらに博士は福岡で頭山満翁の墓に詣でられ、九大でも講演された。帰郷後も中村屋ビハリ・ボースさんの墓や、熱海の興亜観音にも参詣された。・・・この一ヵ月余にわたる全国遊説に下中先生、中谷武世先生、そしてわたくしと通訳のA・Mナイル君の四人が終始同行した。 ついでながら東京裁判の評価について触れておきたい。マッカーサー創るところの「極東国際軍事裁判所条例(チャーター)」に基づき、いわゆるA級戦犯28人が起訴されたのは昭和21年4月29日(昭和天皇の誕生日)であった。すべての審理が終了したのが昭和23年4月16日。以降裁判のため7ヵ月の休憩に入り、判決は同年11月4日から始まった。判決文の朗読が終わり、最後の「刑の宣告」が行われたのが11月12日あった。
東條元首相以下7人(東條英機、土肥原賢二、廣田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井岩根、武藤章)が処刑されたのは12月23日(今上天皇の誕生日)であった。つまり東京裁判は昭和天皇の誕生日に起訴し、当時皇太子であられた今上天皇の誕生日を期して処断したのである。この一事をもってしても、いかに執念深い復讐のための裁判だったかがわかろう。 だが、東京裁判が終わって2年後の昭和25年10月15日マッカーサーはウェーキ島においてトルーマン大統領に「東京裁判は誤りであった」旨を告白して、すでにこの裁判の失敗を認めている。その翌年の5月3日、アメリカ上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で「日本が第二次大戦に赴いた目的は、そのほとんどが安全保障のためであった」と、東京裁判で裁いた日本の侵略戦争論を全面的に否定しているのである。 のちに、「この裁判の原告は文明である」と大見得を切ったキーナン主席検事も、あの傲慢なウエッブ裁判長も、この裁判は法に準拠しない間違った裁判であったことを認める発言をしている。現在名ある世界の国際法学者で、東京裁判をまともに認める学者など一人もいない。パール判事の立論こそが正論であるとし、パールの名声は国際的に高まった。 |
【「パール博士の全員無罪の判決文のその後」】 | ||
パール判決書はニューヨーク・タイムズやロンドン・タイムズなどでは大々的に報道され、米英の法曹界ではパール旋風が巻き起こっていることを氏は承知していたのである。しかしこれを日本で出版しようとすると壁にぶちあたった。
池見猛・編著「国益上、田中元首相の無罪を望む」は次のように記している。
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【「パール博士の判決書の刊行経緯」】 | |
浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」の「『日本無罪論』の上梓と博士の来日」の項を転載する。
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【ラダビノード・パール博士略歴】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を参照する。
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【ラダビノード・パール博士のその後】 |
浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を参照する。 パール判事について田中正明氏が著書しており、1963年9月に慧文社より刊行された『パール博士の日本無罪論』が小学館文庫より再発刊された。著者の田中正明氏とは、「明治44年2月11日、長野県に生まれる。飯田高校を経て興亜学塾に学び、大亜細亜協会、大日本興亜同盟に勤務し、アジア独立運動に尽力。松井石根大将の支那講演旅行に同行、応召。戦後、南信時事新聞編集長、拓殖大学講師を歴任。現在、評論家として活動。著書『パール博士の日本無罪論』、『アジアの曙』、『南京虐殺の虚構』、『松井石根大将の陣中日記』、『南京事件の総括』、『アジア独立への道』その他多数」の人物である」(浅岡 秀志)。 ) 田中正明著『パール博士の日本無罪論』によれば、概要「パール判事は、日本の教科書が東京裁判史観に立って『日本は侵略の暴挙を犯した』と記述していることに危惧の念を表明した。『欧米諸国は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示する目的であったにちがいない。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、退廃に流れていくのを、私は平然と見過ごす訳にはゆかない。誤られた彼らの宣伝を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられなければならない』」とまでいって励ましてくれたのである」とある。 このパール判事の冷静かつ公平な歴史感と人権に感服し、義兄弟の契りまで結んだ平凡社創設者下中弥三郎は、世界連邦アジア会議を開催してそのゲストとしてパール博士を招致した。その没後二人を記念する建設委員会によって創設されたのが、箱根町の丘の上にあるパール記念館である。正式には「パール下中記念館」と呼ばれている。 極東国際軍事裁判(以下東京裁判と略称)で東條元首相とともに処刑された松井石根陸軍大将の密葬の夜のことであった。当日は大亜細亜協会理事長下中弥三郎、幹事長中谷武世両先生とともにわたくしもお招きいただいた。その夜の直会の席で、弁護団副団長の清瀬一郎先生と大将の弁護人伊藤清先生のお二人から11名の連合国判事中ただ一人インド代表のパール判事のみが、この裁判は国際法に違反するのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及まで犯し、罪刑法廷主義を踏みにじった復讐裁判に過ぎない、だから全員無罪であると、堂々たる法理論を展開された旨のお話を承った。
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「パール記念館」は正しくは『パール・下中(下中弥三郎)記念館』といい箱根の関所跡から約1Kmほど箱根峠に向かった国道1号線脇のバス停<お堂前>(元箱根⇔三島)神奈川県箱根408-1に存在する。連絡所:東京都新宿区袋町6番地 (財)日本出版クラブ TEL 03-3260-5271 |
『パール博士の日本無罪論』田中正明著・慧文社(昭和38年初版・平成10年増補改訂第27刷)は絶版となり復刻版『パール判事の日本無罪論』田中正明著・小学館文庫(平成13年10 月5日初版)として発行された。本体価格:¥533ー |
【パール博士来日時の発言要旨】 | |
浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を転載する。
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羽田空港に降り立った博士は、出迎えの一人一人と握手して、待ちかまえた記者団の会見室に臨んだ。博士は開口一番こういわれた。「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は《法の真理》である。われわれはこの《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」これが上陸第一歩、博士の唇をついて出た言葉であった。
「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし東京裁判において法の真理を蹂躙してしまったために《中立裁判》は開けず、国際法違反であるこの細菌戦ひとつ裁くことさえできないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。幾十万人の人権と生命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっとって裁くことができないとはどうしたことか。 「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」 博士はさらに言葉を改めて、「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない。」と、語調を強めて語られた。 それから今まで約半世紀、米国のベトナム戦争、アフガニスタンへのソ連の侵略戦争、4回にわたるイスラエルによるアラブ侵略戦争、イラン・イラク戦争、さきの湾岸戦争等々、世界に戦争は絶えない。だがパール博士の予言通り、国際軍事裁判はおろか、国連において侵略の定義がようやく合意を見たのは、実に東京裁判から26年後の1974年である。つまり東京裁判は、侵略とは何かということが判らないままに、日本は侵略したとして処断されたのである。 記者団の、サンフランシスコ条約と日本独立の印象についての質問に対し、博士はこう答えている。「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!とわたくしはいいたい。」 これがパール博士の東京裁判と独立後の日本に対する印象の第一声であった。 |
【「パール博士歓迎委員会主催の歓迎レセプションでのパール博士の発言要旨」】 | |||||||||||||||||||||||
浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を転載する。
著者の田中正明氏の略歴は次の通り。浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を転載する。
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【京都霊山護国神社碑文】 |
当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、十九四六年、東京に於いて開廷された「極東軍事裁判」にインド代表判事として着任致しました。既に世界的な国際法学者であったパール博士は、法の心理と、研鑚探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を判決されたのであります。 今やこの判決は世界の国際法学会の輿論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております。パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍されましたが、日本にも度々来訪されて日本国民を激励されました。 インド独立五十年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念する年にあたり、私共日本国民は有志相携え、茲に、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界の平和を希われた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります。 |
【日印友好の礎(いしずえ)】 |