【余禄】れんだいこは南京事件の解明になぜ拘るのか

 更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).2.25日

【【余禄】れんだいこは南京事件の解明になぜ拘るのか】
 南京事件に対するれんだいこの観点-冤罪の可能性を問う

 2001.8.23日、笠原十九司著「南京事件」を読み終えた。読後感は良書であるということに尽きる。我がサイトに取り入れていかなければならない貴重資料を頂いたことを感謝する。南京事件ドキュメントを史実経過順に概説しているところが、妙にひねってなくて好感が持てる。恨むらくは、浮つくことなく公平な資料提供しているにも関わらず、それらを元にして笠原氏のコメントが加えられる下りになると、杜撰とも云える大虐殺論への傾きが見られることである。但し、本書が南京事件のガイドとして良書であることには相違ない。事件内容の重々しさは別にして、今私には一服の清涼感さえある。

 本書を読み終えてもなお、南京大虐殺事件は云われるほどひどいものだろうか、本当に為された事件なのであろうか、という思いを禁じえない。その理由について以下記す。れんだいこは、当時の軍部の動きとして全体的に統制が取れていた頃の事件であることを重視する。南京事件は、いわば、日本帝国軍が史上最も精鋭であり得た絶頂期の頃の出来事である。このことは重要なポイントである。何が云いたいかと云うと、軍律の厳しさと無辜の民に対する暴行の少なさで定評を得ていた帝国陸軍の伝統は、この頃までは辛うじて維持されていたのではなかろうかという認識を大事にしたいということである。ここで見解が分かれているが、通史で見ればこの方が正確な見方なのではなかろうか。

 いやそうではないのだ、既に出世機会主義亡者が武勲をあせる時代に変質しており云々の様々な理由が挙げられ、如何に野蛮な大虐殺が為されたかの説得が試みられているが、私のこの疑問を解きほぐすほどのものには接していない。よしんば将校レベルでそうであったとしても、末端兵士がそのように動くとは限らない。末端兵士は何をするか分かったものではないと見るのは偏見だろう。

 相対的に見てであるが、「相身互いの穏和性」は日本人に染みついた習性であり、この伝統はそうそうは変化するものではなかろう。この点を軽視する被虐観点はあまりにも日本人ないしその歴史を知らなさ過ぎよう。我々の中にある仏教的ないし神道的ヒューマニズムには非常に高度なものがある、というのがれんだいこ観点である。そうやすやすとは虐殺なぞやれる民族ではない、この点の認識がいとも容易く放棄され過ぎている気がしてならない。

 確かに大戦末期の頃には軍律弛緩による蛮行史実例に事欠かない。しかしそれはそれこそ敗戦前後のパニックを前提にしての茫然自失、疑心暗鬼から為された特殊例であったのではなかろうか。この場合でも、司令官、上官、部隊長辺りの資質能力に大きく左右されているというのが史実ではなかろうか。南京事件は、ノモンハン事件(1939.5.11日勃発)の2年前、太平洋戦争開戦(1941.12.8)の4年前の事件である。この当時にまで遡って日本軍がアナーキー且つ極悪非道な蛮行を本当に為したのかどうか、大いに精査を要するというのがれんだいこの観点になっている。

 つまり、様々な事由によって否定されようとも、日本人の心に宿る習性として虐殺、暴行、略奪、凌辱は馴染まない国民性であることを重視しつつ、南京事件の経過を捉え返してみたいということである。本当に無原則、アナーキーな状態での大虐殺事件がなされたのであろうかという根源的な見直しをしてみたいということである。

 繰り返すが、南京大虐殺事件の本質は、「無原則、アナーキーな状態での大虐殺事件がなされた」との見立ての真偽を問う論争である。戦争行為過程での虐殺数を累計している問題ではない。この区別が分からないままに虐殺論を述べ続け、そう主張するのが左派の証とでも勘違いしている手合いが多過ぎる。

 むしろ、南京事件は、戦勝気分で沸き立つ日本国民の与り知らぬところで、発生当初より欧米諸国にセンセーショナルに打電され、反日感情を植え付けていくために徹底利用されていた節がある。中国人の抗日運動にも徹底活用され、その残虐性がプロパガンダされていった。それは、国際的レベルでの来るべき日本壊滅作戦がこの時用意周到に発動されており、そういう環の中で日本軍の蛮行がフレームアップさせられていった可能性を示唆している。

 参謀本部第一部長・石原莞爾は「来るべき日本壊滅作戦」が待ち受けていることをキャッチしており、であるが故に「満州国経営」にじっくりと腰を据えるべきだとの論陣を張っていたのではなかったか。これは、石原を弁護しようというのではない。史実を明らかにしようとしているに過ぎない。その後の史実はこの石原の危惧を退け、一撃打倒論で戦線拡大していった。思惑が外れて泥沼の日中戦争に引きずり込まれ、やがて敗戦を迎え結果的に石原が予見した通りになったのではないのか。南京大虐殺事件は、こうした国際級機密レベルでの合意の中でフレームアップされた可能性があるのではないのか、という観点から事件を再精査してみたいという気持ちを押さえきれない。

 史実検証の結果、云われる通リに大虐殺事件が為されたと云うことが実証されればそれはそれで良い。良いというのは変な言い方だが史実は史実として重んじられなければならないという意味である。れんだいこは何も「かっての戦争」の免責をしようというのではない。いずれにせよ、その最初に立ち戻って、アジアでの覇権を求めて植民地主義的に大陸に軍靴を乗り入れていった歴史的な責任を免れるものではなかろうから。その行為は良くても傲慢尊大であり、実際には文明史的に見て数千年来積み上げられてきた日中、日朝友好の歴史の岐路を右旋回で安直に渉っていった無能の証左であっただろうから。こうした観点から、南京事件をも俎上に乗せたいというのがれんだいこ史観である。

 但し、れんだいこは、今まで知らされてきた資料にはどうも納得できないところがあり、気になっている。決め手のところで曖昧模糊とされている不自然さを覚えている。個別にはそれが真実だとしても、比較してみると互いが齟齬をきたしている資料が多すぎる。意図的な写真合成、無関係写真の紹介、「百人斬り事件」捏造等々訝られる資料等々が目に付きすぎる。これらは果たして何を語るのであろうか。結論は一つである。全て再精査され直さなければならないということである。

 もう一つ。れんだいこならではの、なぜ拘るのかという別の理由を以下記す。南京事件には、他でもない「宮顕の党中央内リンチ事件」の構図と似ている面があり過ぎるという臭いがすることによってである。つまり、こういうことになる。

 南京事件と「宮顕の党中央内リンチ事件」の両者には、左派内にいわば公式化された次のような認識がある。
 南京事件は大虐殺事件であったという構図を維持する=小畑はスパイであったとする構図を維持する。
 南京大虐殺事件を糾弾する=小畑をスパイとして糾弾する。
 大虐殺事件の歴史的贖罪運動を組織する=小畑リンチ事件を聖戦として認識し続ける。
 共に戦前を暗黒野蛮社会であったと云う論証不要の史観に依拠して実態精査に向かわない。

 これが両者に共通する態度である。この場合、問題は次のことにある。小畑はスパイでも何でもなく有能な労働者党員であり、宮顕の素性の方こそ胡散臭いとしたらどうなるのだ。れんだいこの研究によれば、このことは既にはっきりしている。にも関わらず、世上の受け止め方は、小畑はスパイであり、当然の査問過程で特異体質で急死したと云う宮顕党中央のプロパガンダをまともに信じさせられている。この認識を逆転させねばならないというのがれんだいこ観点である。いわゆる冤罪に対する見直し運動と云えるかも知れない。

 世に冤罪がそうはある訳ではなかろう。だが、何やら南京事件にも共通の臭いを嗅ぐから、よほど周到に南京事件の精査に向かわねばならないというスタンスにれんだいこは立っている。そういう訳で、南京事件の残虐性を大きく指弾すればするほど左派的構図であるという現在の公式に安易に乗れないことになる。それは確かに戦争過程での事件であるからして虐殺がなかったと云おうとしている訳ではないことはもちろんである。史上最大級の蛮行としてプロパガンダされている南京事件をそのままには受け止められない、れんだいこの納得いく精査を通して初めて見解を明らかにせねばならない妙な事件の臭いがするということが云いたいわけだ。

 ひょっとしてれんだいこが感じている通りであるかも知れないとさえ思っている。「まぼろし論」は火のないところに煙は立たないということではなかろうか。これは、「まぼろし論」者の云う戦前秩序礼賛論に与することでは決してない。ここが、れんだいこと「まぼろし論者」とを隔絶するイデオロギーの差といえる。れんだいこは冤罪事件として見ようとしている。その為に、史実が史実として精密に検証されねばならないということだ。

 世の中では支配権力からばかり冤罪が為されるのではない。左翼も既に体制内「裏」権力足りえており、左派の側からする冤罪事例にも事欠かないのではなかろうか。共産党中央の場合、反対派に対する冤罪事例は掃いて捨てるほどある。今や、こういう認識の観点抜きに左派が左派であり得ない複雑なご時世にあるのではなかろうかと思っている。ついでに付言しておけば、最近れんだいこが気になっていることは、左派の冤罪に対するアンテナが鈍っているのではないかという思いである。

 仮にそうとならば反省せねばならないことがある。世に左派的な当然の観点として流布されているものの中にはいかがわしいものが混じっているということだ。その峻別なく、一見左派的な論調になんでもかんでも飛びついて、これを過激に主張すればするほど左派人士の証になるという単純な構図ではないのではなかろうか。偶然か意図的かそういう撹乱因子も混在していることを踏まえて、騙されずあやされず真紅の旗印を掲げていきたいというのがれんだいこ観点である。いかがなものであろうか。

 2001.8.23日、2005.5.12日再編集 れんだいこ拝

【れんだいこの南京事件の見立てを批判し、左派ぶる者どもへ】
 れんだいこの上記の所論に対して、次のような批判が為されている。検索で見つけた「【中核派をお払い箱】うちはだいこ【日蓮正宗】 」に登場している。
70 :革命的名無しさん :2005/04/22(金) 22:34:52
南京大虐殺に対するれんだいこのスタンス
daitoasenso/taigaishinryaku_nankinziken_yoroku.htm 

 これを読んでもなお、れんだいこ、ならびにれんだいこに媚びるうちはだいこの二人に疑問を抱かない左翼がいるのなら、それはインチキ人間と言わねばならない。

 他にも捜せばキリがないほどこの種の批判が出回っているようだ。以下、れんだいこが返歌しておく。「これを読んでもなお、れんだいこの所論に合点できない左翼がいるのなら、それはインチキ人間と言わねばならない」。

 左翼というのは、定義はいろいろあるにせよ、少なくとも議論のとやかくある問題に対しては自身で精査し、持論を持たねばならない。人の尻馬に乗って片棒担ぐのはむしろ権力派の者に共通する作法である。行動であれ言動であれ仮に目的が正しくても、自身が得心した情動と理論を持たねばならない。「党中央の云う通り」、「今までそう認識されてきた」なる如意棒を振り回すのが左派精神であるかというと、それは逆だ。

 「革命的名無しさん」なる芸名で書き込めば、革命的である言説をぶてる訳ではない。れんだいこは上記で立論している。その論がおかしいとならば、それを反論すれば良い。それを為さず「インチキ人間と言わねばならない」と記して得心する者はよほど粗雑な頭脳の持ち主と云わねばならない。こういう手合いに権力持たせてはならない、そう見立てるのが左派なのだ。

 例えて云えば、陸上トラック競技で二、三周遅れの者が素通りしようとする先行者の袖を引っ張ったとしても、それは顰蹙を買うだけであろう。そういう顰蹙士になってあちこち引っかいて廻る者は、「革命的」と自称しようがしまいが左派戦線の者ではない。なぜなら、本来の左派は堂々と耳を傾け議論しあうべきものだから。なんとならば、明日の未来を担う者にはそういう資質が居るのだ。少なくとも全共闘できるものでなくてはならない。

 ということは、この引っかき屋の素性が知れるということだ。なんかの思惑で必要もあってそういうお仕事に精出しているのだろう。それが分からないれんだいこではない。以上はなはだ簡単ながらコメントしておく。

 2005.5.12日 れんだいこ拝

 上杉 信彦」「中村信一」。
 「鈴木史郎」さんのことをご紹介致します。日本の映画界やマスゴミには共産党員や中韓のシンパが多く、自虐史観丸出しの映画を作り、中国のスピーカーのような報道ばかりしてますが、鈴木史郎さんは例外のようですね。鈴木史郎さんのお話は「実体験」に基づくお話ですから大変説得力があります。この記事もぜひ多くの日本人、特に青少年に読んでほしいです。私たち日本人は常に「事実から学び考える」ことを心がけたいですね。 
 「もう一度南京へ」
 TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという会津若松の方にお会いしたことがありました。撮影の合間に南京の話になり、私が「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」と声をかけると、その方が「いや、私は死ぬまでにもう一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、こんな話をして下さいました。
 「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、家宝の掛け軸をくれたんです。さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。 歓待したい。 一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待っている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」 。
 このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、大変のどかな日々だったのです。 この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている、松葉杖をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです。キャプションには、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」と書かれていました。 ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。 「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、よかった。この写真、いただいてもいいですか」 。

 他にも、実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。 「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であって、日本兵も戦死しています」 。 「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作ってやりました」 。

 「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨かせてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたので磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」 。

 そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、勉強しはじめてみると、東中野修道氏や北村稔氏、また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら「現代史研究会」の研究成果が自分の体験と重なって、歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るにいたったのです。
 〈天津での日々〉
 私は、一九三八年(昭和十三)年二月十日に京都で生まれました。直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて単身、大陸へわたったのです。 残された母は、私が一歳になるのを待って、一九三九年四月頃までには大陸へわたりました。 南京戦が行われたのが一九三七年十二月のことですから、その一年半後には、もう私の母は女一人、子供を抱いて中国にわたっていたことになります。 そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。 元々フランス人租界だったところを日本人租界にしたそのあたりは非常にのどかで、その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。 引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、写真はかぎられたものしか残っていませんが、一枚目は天津市淡路街という日本人租界の民団住宅前で撮影したものです。 私と二人の妹と、近所の中国人の子が一緒に写っています。中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。 もう一枚は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。 近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。 背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、水道の水などをもらって帰っていました。 「天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。 父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。 その夫婦は恩義に感じてくれたのか、三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と日本風の名前を付けていて、私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。 当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、毎日一人で通っていたほどでした。 道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、身の危険を感じるうようなこともありませんでした。 虐殺などが本当に起こっていたとすれば、日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、そのようなことはありませんでした。 それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。家の近くを運河が流れていたのですが、土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。 溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、自宅まで連れて帰ってくれたのです。 川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。 たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。 天津には七年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。
 〈中国人女性にモテた父〉
 父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行き 王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、当時の北京は賑やかで華やかで、やはり穏やかでした。 太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が自転車で走り去るのを見て、子供心に「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。 父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、母はとても苦労していたようです。父は俳優の上原謙のような男前でしたし、明治の男ですから仕方がないとはいえ、恋愛結婚で一緒になって、大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。 ただ、もし本当に南京〈中国人女性にモテた父〉で日本人が民間人の大虐殺を行い、女性を強姦していたとしたら、中国人女性が日本人男性である父にそれほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、中国人同士の間でも「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。
 〈南京ののどかな光景〉
  胡同(フートン)にある本社の隣には、北京の警察署がありました。父と署長は仲が良く、どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。署長さんはお金持ちだったからか、一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、どちらもとても素敵な女性でしたが、口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、冷たくあしらっていました。「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。 しかし、そう感じたということは、逆に言えばそれ以外の中国人の大人たちは、日本人である子供の私を非常に可愛がってくれていたということでしょう。 三、四歳の頃には南京へも行っているんです。 まだ記憶はおぼつかない頃ですが、親父に後から聞いた話は覚えています。 「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。南京のある中国人が、そんなお前の態度を見てとても気に入ってほめてくれたんだ。しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、自分の運気も上がるから、是非抱かせてくれ』といって抱き上げてくれたんだよ」 。 また、父は南京で聞いた話をもとに、よくこんなことを言っていました。 「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれたので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」 。 この話は非常に印象的だったのですが、後のこの話に通じる事実があったことを知りました。

 あのジョン・ラーベも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っており、報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があったことに触れています。 もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、いくら書簡の挨拶文とはいっても「感謝」など示すはずがありません。
 〈命からがら引き揚げ〉
 歴史的根拠に関して言えば、二〇〇七年十二月に出版された『WiLL』増刊号「『南京大虐殺』に終止符!」で、映画『南京』が紹介されています。私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。 とてもじゃないが、「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。 増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、この映画にはワイドショットが多用されているのですが、報道記者としての経験から言っても、ワイドショットでは不都合なものがあった場合、それが映りこんでしまうので、ドキュメンタリーを撮る場合には普通、あのような撮影はしません。 「不都合なものなどない」から、安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。 優しく、子供好きの日本兵、そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。 もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、あのような自然な笑顔で交流することなどできなかったはずです。 終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、コロリと態度が変わりました。わが家に住んでいた中国人家族も、「引き揚げるなら財産を全て置いて行け」などと言いだしたほどです。 こちらはせめてと思い、財産と引きかえに「持って帰ってはいけないといわれているので、写真を後から日本へ送ってほしい」と撮りためた写真を託したのですが結局、届きませんでした。 送ってくれなかったのか、それとも没収されてしまったのかは分かりません。 それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係でスパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。 一番下の妹は三カ月くらいで出発前に死んでしまいましたし、父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、私と母はとにかく引き揚げなければということで、私は両手に妹を連れて、母は父の荷物まで一緒に背負って塘沽(タンクー)の町まで二週間かけて歩きました。 銃撃を受けながら、ろくなものも食べられない状況での過酷な「行軍」だったのです。
幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。
鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」と一所懸命動いてくれたので刑を免れ、港で合流することができ、何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。
 〈テレビ局の「自主規制」〉
 命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、TBSに入社しました。仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、日々の生活に追われて天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。 社会部で仕事をしているなかで、ふと気がついて周りを見渡したときには、「虐殺はなかったんじゃないか」ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。 それがテレビ局の「自主規制」なのか、自虐史観を刷り込まれているからなのか、はたまた中国の謀略にかかってしまったからなのかは分かりません。 局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、講演などでも自分の経験からのお話をさせていただいてきました。 それでも、雑誌やテレビが「私が経験から南京大虐殺などなかったと思う理由」について取り上げてくれたことは一度もありませんでした。 以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』(〇七年十月~〇八年九月まで放映)という番組に出演していた時に、制作プロダクションから「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」と聞かれたので、映画『南京』を取り上げてはどうか、と提案したことがありました。 この映画は他の局で放映されたことはないし、これまでの「南京」のイメージが覆(くつがえ)る。南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。 プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、私は本当に嬉しかったんです。 「これで真実が全国に広がるきっかけになる」と思っていたのですが、会議で上の人間から何か言われたのでしょう、有無を言わさず却下されてしまいました。 その後はスタッフが私を見る目が変わり、目が合っても顔を背けるようになってしまった。非常に悲しかったですね。
報道に携(たずさ)わる以上、「真実」に近づき、「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。
にもかかわらず、「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続けるというのは、報道人としての風上にも置けません。 すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、いや人間としての務めではないでしょうか。
 〈日中の未来のために〉
 「南京大虐殺」のような「嘘」があるかぎり、日中が手に手を取ってやってくことはできません。 日本と中国は永遠に隣同士ですから、その関係を悪化させる中国の反日プロパガンダ、反日教育はたださなければなりませんし、このような状況は日本にとっても中国にとっても、「最大の悲劇」としかいいようがありません。 私にとって、中国は「第二の故郷」なのです。 その中国の方々が、このような「嘘」を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです。 映画『南京』の冒頭には、このような字幕が流れます。 「我々の同胞が一つになって闘った数々の光輝ある歴史の中でも南京入場は燦然(さんぜん)たる一頁として世界の歴史に残るだらう。その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」 。 我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」 と伝えていかなければならない。 それが「我々の子孫」…… つまり日本人の未来のためであり、中国人のためでもあるのです。

 ●日本を衰退させた南京事件の嘘

  本日(2月1日)付けの産経新聞「正論」欄に上記タイトルの拙文が掲載されました。テキストと紙面を以下に貼り付けます。
 【産経新聞2023年2月1日正論欄】
  日本を衰退させた南京事件の嘘
 新しい歴史教科書をつくる会副会長 藤岡信勝
 旧臘、あるインフォーマルな会合で語られた一人の商社マンの言葉が忘れられない。日本の経営者のある年代以上の人は、日本は中国に対して悪いことをしたと思い込んでいるので、中国人とのビジネス交渉の場で、相手の理不尽な要求でも「断るのは悪い」という意識が抜けない。それが日本企業にとって大きな損失になっている、というのである。
 ●中国国民党による謀略

 過去半世紀、日本人に中国に対する贖罪意識を植え付けた最大のネタは「南京事件」であった。昭和12年12月13日、日本軍が中国の首都・南京を陥落させてから数週間にわたって、南京市民30万人を虐殺したとされる事件である。「南京大虐殺」ともいう。
 しかし、今日では、それは仕組まれた謀略であったことが明らかになっている。自ら仕掛けた上海事変において、結局日本軍に敗れ、軍事的にはどうしても日本に勝てないと悟った蒋介石は、鉄砲のかわりにペンで戦う方針に転換した。国民党中央宣伝部に国際宣伝処を新設し、欧米人に金を渡して日本軍の残虐行為を捏造した本や記事を書かせた。
 世界中を駆け巡った日本軍による市民虐殺の報道は、もとを辿ると、一人のアメリカ人宣教師の書いたメモに行き着く。その人物の名はマイナー・ベイツ。南京大学の教授でもある。彼は嘘の文書をつくり、それを南京を去る五人の欧米の記者に目撃証言の記?を装って渡した。ニューヨーク・タイムスはじめ、南京事件の第一報は全てベイツ・メモの焼き直しである。もちろん、ベイツは国民党に雇われていた。
 ●公文書が事件の不在を証明

 南京城内には、アメリカ人宣教師を中核とする15人の欧米人によって国際委員会が組織され、官庁街を含む区域に安全区が設定されて、市民はそこに避難していた。安全区は日中両軍が立ち入ることのできない中立地帯であると僭称していたが、実態は国民党の将校や敗残兵が多数潜り込み、日本軍の仕業に見せかけて悪事をはたらく拠点になっていた。
国際委員会は市民からの告発を記録する窓口を設け、毎日、市民の証言なるものをタイプライターで記録し続けた。そして、それを日報として各国大使館に届けた。日本大使館は外務省本庁に報告する。効果は絶大であった。欧米の新聞報道と相まって、日本の外交官の一部や軍の首脳までもが、日本軍への悪宣伝を信じ込んでしまったのである。ここに、お人好しで、信じやすく、騙されやすい日本人の民族的欠陥と、国家としての脆弱性が露呈している。
 国際委員会が集めた証言をまとめた『南京安全区の記?』(英文)は、国民党政府の公文書として公刊された。しかし、それを読むと、517件の「事件」のうち、殺人事件として記録されているものは26件で、そのうち、証言者が自ら目撃したものは1件しかない。しかもその記述を読むと、これは、戦時国際法に違反して軍服を脱ぎ捨て。市民に変装した中国兵の「合法的処刑」であるとわざわざ注記されているのである。
 結局、南京事件なるものは、膨大な証拠があるように見えて、それは雰囲気づくりに利用されているにすぎず、実態をタマネギの皮を剥ぐように確かめていくと中心には何も無いことが判明するという次第になっているのである。
 ●外務省見解の撤回が焦点

では、なぜ、日本人の多くがいまだに南京事件があったと信じているのだろうか。それには写真の影響が大きい。国民党の宣伝機関は競って捏造写真の製作に熱心に取り組み、数冊の写真集として出版された。
 しかし、南京事件の証拠とされる143枚の写真は全て、事件の証拠写真の要件を欠いたプロパガンダ写真であることが証明されている(東中野修道他『南京事件証拠写真を検証する』)。これについては、2月12日から3日間、東京・文京シビックセンターにて、プロパガンダ写真のからくりを解明した展示会が開催される。
 ここで述べたことは、日本「南京」学会などの研究によって、すでに十数年に明らかになっていたことである。それにもかかわらず、外務省のホームページには、相変わらず「日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」と書かれている。
 これが教科書記述の根拠にもされている。現在、小中高の歴史教科書は、一社を除いて全て、南京事件があったと書いている。
 ところが、近現代史研究家の阿羅健一氏が外務省にその根拠となる行政文書の開示を求めたところ、「関係するファイル内を検索」したが、「該当文書を確認できなかった」として、「不開示(不存在)」との回答が来た(『正論』2月号)。つまり、日本政府は根拠もないのに、南京事件があったと断定しているのである。この外務省見解を取り消させることなしに日本の再生はないことを、私たちは銘記しなければならないのである。(ふじおか・のぶかつ)




(私論.私見)