「ラーべ日記」、「南京地区における戦争被害スマイス報告」について



 (最新見直し2008.8.19日)

 「ラーべ日記」につき、次のように評されている。
 ヨーン・ラーベ(John H・D・Rabe・1882~1950年)は、ドイツシーメンス社の駐中国総代表として、「南京事件」当時の南京に在住していた。そして、ドイツ・ナチス党南京副代表と南京安全区国際委員会委員長という二つの肩書きを持ち、そこでの体験を詳細に記録した貴重な日記を残すことになった。

 1937年12月12日深夜、南京は陥落した。13日の午後、ラーベは安全区の標識のある旗を高く掲げ、南京に進駐した日本軍を探し出し交渉を行ない、地図を持って難民区(国際安全区)の位置を説明した。このとき安全区の責任者としてラーべが直面した困難は、想像をはるかに超えるものだった。総面積はたったの3・86平方キロの中に、25万人の難民がひしめき合い、すべての空き地はアンペラ小屋がいっぱいにかけられた。

 これだけの人々の衣食住をどう確保するか、食糧、石炭、水、薬どれ一つ不足しても、生存し続けることは難しい。南京が陥落した初期の最も危険な2カ月余、この安全区に救われた難民は25万人に及び、その庇護によって蹂躙から免れた女性は数万人にのぼる。

 ラーべ日記は1937年9月から38年4月まで、2000ページを超える膨大なものだ。そのうち南京大虐殺の真相を明らかにしているのは、37年12月9日から翌年2月22日南京を離れる部分の日記である。そこには、日本軍の爆撃と南京城への砲撃、難民と中国守備軍の撤退、日本軍の南京攻略と掃討、日本軍のほしいままの虐殺、強姦、砲火、略奪と暴行、遭難者の死体の埋葬と安全区の状況等が、記録されている。事件発生の時間、場所、経過、結果が詳細に記述されている。

 「国際難民区の救済委員会はまさに称賛に値する。難民区はたった二里四方にすぎないが、居留民は25万人以上にものぼった。・・・ そのうち10万人以上は、ほとんど一銭もなく、完全に救済委員会の援助 で生活していた。だからその管理は並大抵ではなかった。働いていたのは、最初は3人のドイツ人、1人のデンマーク人、3人のイギリス人、9人のアメリ カ人であった。だれもかれもみんな熱心で、われわれは深く感謝しなければならない」 。その中心がラーベであった。多くの中国人を日本軍の大量虐殺から救おう と奮闘したラーベは、多くのユダヤ人をナチスのホロコーストから救った人物 として有名なシンドラーに匹敵するとして、「中国のシンドラー」と呼ばれる。 後に中国政府は、ラーベに玉の勲章のついた青、白、赤3色の首飾りを授与した。また1948年初頭、ラーべが生活に困窮していることを知った南京市民は、援助を惜しまなかったという。

 ラーべは2月末に南京を離れドイツに帰国している。帰国後はジーメンス、外務省、国防省などで小集会を開き講演して廻った。マギーが撮影したフィルムや写真を見せながら、日本軍による南京での残虐行為を告発した。さらに、ヒットラーに「南京事件・ラーべ報告書」を提出したり、ドイツ政府の指導者に日本軍の残虐行為を暴露する報告を送ったが、この行為は彼を窮地に陥れた。彼は秘密警察に逮捕され、日記や写真は取り上げられ、沈黙を強制された。その後日記や写真を取り返した彼は、勇敢にもナチス党の脱党届けを出したが、拒絶された。

 このラーべ日記並びに報告書が事件から60年後復刻されることになった。「ラーベ日記」は、アイリス・チャン女史により発見され、この日記は中国でも出版以来そうとうな売れ行きです。今や、 ラーベの日記は「大虐殺派」の推薦図書になった感がある。今年10月に日中独3か国で同時 発売されて以来、2か月間に中国で7万冊、日本で4万冊も売れ、ドイ ツでも相当売れそのうち世界中で翻訳される勢いである。アイリス・チャン女史は中国系二世の作家で、両親をとおして祖父母の南京での体験を聞かされていたことから関心を持ちつづけ、やがて南京事件を調査するようになり、その過程で「ラーベ日記 」を発見するに至った。当時南京で何が起こったかを「リアルタイム」で知ることができる極めて資料価値の高いものとして注目されている。

 この証言は、今を時めく「自由主義史観研究会」の藤岡信勝・東大教授らの南京大虐殺はなかったというたわごとを、最終的に葬るものとして後世に残るだろう。

 60年の歳月を経て、この貴重な歴史的史料が公表されたことの意義は大きい。暴虐吹き荒れる戦場で、ひるむことなく歴史の事実を直視し、それを書き残すことの重要性を確信していたラーベの存在感は圧倒的だ。それにひきかえ、敗戦後50年余の日本にのさばる、歴史の事実に目を閉ざし自己弁護にふける輩の薄っぺらさは哀れだ。さらにそういう連中がマスコミに迎えられる、日本の現状は無惨というほかない。

 1937年12月の暴虐吹きすさぶ南京から、世紀末的様相を深めるこの国へ、ハーケンクロイツひっさげたヨーン・ラーべが飛来し、藤岡信勝や西尾幹二、小林よしのりといった有象無象と対面する。ラーべ日記の日本語訳の1日も早い刊行が待たれるが、日本のマスコミがこの困難な作業をやり遂げることができるか心許ない限りだ。しかし、事実はどんなに隠そうとしても、隠しおおせるものではない。 

 「ラーベ日記」の資料的価値は次のことにある。
事件当事者の中国人でも日本人でもない第三者の欧米人の目から記録された調書である。
南京の惨事の真っ只中で活動した南京安全区国際委員会のメ ンバーが残した「南京の真実」記録であることにある。
日記のなかに込められている記録の豊富さ。
ラーべその人がラーベが南京安全区国際委員会の代表であり、その任務を全うし、誠心 誠意で多くの外国人や中国人に感銘を与えた人物であることから判断される日記内容の信頼性。ラーベ自身の説明では、南京安全区国際委員会の代表を依頼された理由は 「私はドイツ人なので、(日・独防共協定による同盟関係により)日本当局との交渉の際に有利だという見通しがあった」からであるとされている。

 「ラーベ日記」の伝える日本軍の蛮行、埋葬に関する記述資料についての記述は次の通りである。

 「収容所ではどこもかしこも似たような光景が繰り広げられている。うちの 庭でも、70人もの女の人がひざまずいて、頭を地面にこすりつけながら泣き 叫んでいる。なんという哀れな姿だろう・・・胸がふさがる。みな、ここから出て行きたくないのだ。日本兵がこわいのだ。強姦されはしないかとおびえている。しごくもっともな話だ。私はくりかえしくりかえし訴えられた。『あなたは、私たちの父であり、母です。これまで私たちを守ってくださいました。お願いです、どうか見捨てないで! 最後まで守ってください。辱め られ、死ななくてはならないというのなら、ここで死なせてください!』。胸がつぶれるようだ。その気持ちはいたいほどわかる。だから私はここに 残ってもいいといった。けっきょく年寄りが何人か出て行っただけだった。日高氏の言葉は本当だろうか。日本軍は暴力を用いることはないといって いたが。だがいままでさんざん煮え湯を飲まされてきたので、少々のことでは おどろかないだけの覚悟はある。明日、委員会のメンバーはそれぞれ警戒を怠 らないだろう。我々はいい加減腹に据えかねている。日本当局はやつらを『な らずもの』とか呼んでいるそうだが、聞いて呆れる。こっちじゃ『人殺し部 隊』といってるんだ。そういう輩が今度は正々堂々と収容所へ入ってくるとな れば、ただじゃすまないだろう」。
 「今しがた張から聞いたのだが、私たちがかって住んでいた家の近く、通りを入ったすぐのところの小さな家で人が殺されたそうだ。17人の家族のうち、 6人が殺されたという。娘たちをかばって家の前で日本兵にすがりついたから だ。年寄りが撃ち殺されたあと、娘たちは連れ去られて強姦された。結局女の子がひとりだけ残され、みかねた近所の人が引き取った。局部に竹をつっこまれた女の人の死体をそこらじゅうで見かける。吐き気 がして息苦しくなる。70を越えた人さえなんども暴行されているのだ。日高氏に手紙を書いて、難民を力ずくで追い出すことはないという先日の 約束を文書にしてくれるよう、また、その件について軍当局とぜひもう一度話 し合ってくれるよう頼んだ」。
 「江南セメント工場のシンバーグさんが、ギュンターさんの報告を届けてく れた。これをみると、南京だけが日本兵に苦しめられているのではないことが わかる。強姦、殺人、撲殺。同じような報告が、四方八方から入ってくる。日本中の犯罪者が軍服を着て南京に勢揃いしたのかといいたくなる。 (以下省略) 」。 
 「ラーベの目撃者として直接見聞した事柄についての記述は正確であるように思われる。この翻訳では割愛したが、原文には22点の写真が添付され、 ラーベ自身による説明が書かれている。そのうちに19歳の身重の体を日本兵の銃剣で重傷をおわされた李秀英さ んの写真と説明がある。李秀英さんはさる二月来日し、損害賠償裁判で被害について証言したが、被害状況についての証言はラーベの記述と一致した。ラーベの報告書は、目撃者の直接記録という資料的価値以外に、南京事件に関する被害証言をうらづける公文書としても重要な価値を持っている。報告書の批判的検討を通じて南京事件の研究が一層進むことを期待したい」。
12月10日の日記  南京は砲火で包囲され、水もなければ電気も通じない……。
12月14日の日記  車を運転して市街地を通り抜けると、我々はやっと破壊の大きさの程度が分かってきた。車は1~200メートル行くごとに人の死体にのり上げた。それは全て一般市民の死体である。私が調べた結果、弾は背中の方から撃たれてきたものであろう。日本兵の10数人から20人の一群が全市内の商店から略奪をおこなっていた。もし私自身が目撃しなかったら、とても信じられない光景だった。
12月16日の日記  下関に行く道は一面の死体置き場と化し、そこら中に武器の破片が散らばっていた。交通部は中国人の手によって焼き払われていた。邑江門は銃弾で粉々になっている。あたり一面は文字通り死屍累々だ。日本軍は少しも片付けようとしない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間の宗教的慈善団体)が手を出すことは禁止されている。銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片付けをさせる場合もある。
 車を運転して下関に行き発電所の現地調査をおこなった。中山路の路上は全て死体だ。…城内の前面は、死体が小山のように積み重ねられている。……至る所で殺人が行われていた。国防部の前面の兵舎のなかでも虐殺が行われており、銃声のやむことはなかった。 
12月22日の日記  安全区を清掃していた時、私は多くの一般民衆が池の中で撃ち殺されているのを発見した。その中のある池では30の死体があり、ほとんどが両手を縛られ、あるものは首に石塊がくくられていた。
12月24日の日記  私は死体が放置されている地下室に行った。……一人の市民は焼かれていて、眼球が飛び出していた。……日本兵が彼の頭からガソリンをかけたのだ。
12月25日の日記  それぞれの難民はすべて必ず自分で登録しなければならない、しかも10日以内に完了しなければならないと日本人が命令した…20万人! 全ての若くて力があり壮健な男性は、すでにひっぱられて行った。彼らの運命は奴隷のように酷使されるのではなく、死であった。また、全ての年若い女性も引っ張られていった。大きな軍隊内の女郎宿を作るためだった。
12月26日の日記  そこいら中に転がっている死体、どうかこれを片付けてくれ!
 担架にしばりつけられ、銃殺された兵士の死体を家のごく近くで見た。だが、いまだにそのままだ。誰も死体に近寄ろうとしない。紅卍字会さえ手を出さない。中国兵の死体だからだ。(南京の真実(ラーベの日記)講談社文庫版P167 )
12月28日の日記 宣教師フォスターからジョージ・フィッチにあてた手紙
ジョージへ!
鴨羊街17号付近の謝公祠、個の大きな寺院の近くに、中国人の死体がおよそ50体ある。中国兵だという疑いで処刑された人たちだ。2週間ほど前から放置されている。もうかなり腐敗が進んでいるので、できるだけ早く埋葬しなければならないと思っている。私のところには、埋葬を引き受けてもよいという人が何人かいるのだが、日本当局からの許可なしでは不安らしい。許可がいるのかなぁ? もしそうなら、許可を取ってもらえないだろうか?
よろしく!

 フィッチにあてたフォスターのこの手紙を見れば、南京の状況は一発でわかる。この50体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。これまでに我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。いったいどうなるのだろう。このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。(同書P172~173 )
1月1日の日記  一人母親が私の方へ走ってきて、ひざまずいてしきりに泣き、私に助けてくれるように頼む。私がその部屋の中に入ったとき、一人の日本兵が素っ裸で、泣いて声がかすれ力つきた少女の上におしかぶさっているのを見た。わたしはすぐにそのゲスで恥知らずの日本兵を怒鳴りつけた。
1月7日の日記 「市内にはいまだに千ほどの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。でもここでは道端で犬の肉が売られているんですよ。この二十六日間というものずっと、遺体を埋葬させて欲しいと頼んできたがダメでした。」
福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もういちどかけあってみると約束してくれた。(同書P193 )
1月12日の日記 南京が日本軍の手に渡って今日で一ヶ月。私の家から約50メートルほど離れた道路には、竹の担架に縛り付けられた中国兵の死体がいまだ転がっている。(同書P193 )
1月22日の日記 竹の担架にしばりつけられた中国兵の死体については、これまで幾度か書いてきた。 12月13日からこのかた、我が家の近くに転がったままだ。死体を葬るか、さもなくば埋葬許可をくれと、日本大使館に講義もし、請願もしてきたが、糠に釘だった。以前として同じ場所にある。(同書P226 )
1月26日の日記  中国兵士の死体はいまだに野ざらしになっている。家の近くだからいやでも目に入ってくる。(同書P234 )
1月29日の日記  南京事件の日々(ミニーボートリンの日記)午後、紅卍字会会長の張南武がわたしに話してくれたところによれば、同会は 2000体を埋葬したそうだ。彼に寺院付近にある焼け焦げた死体の埋葬を埋葬してほしいと懇請した。(南京の真実(ラーベの日記)講談社文庫版P143 )
1月31日の日記  6週間もの間、わが家の前にうちすてらられていた中国兵の死体が、ようやく埋葬されたと聞いて、胸のつかえがおりた。
(同書P250 )
2月2日の日記  【日本大使館訪問】<この訪問のあと私は紅卍字会本部へ行き、キャンパスの西隣に放置された死体---とりわけ二つの池の岸に放置された焼け焦げた死体のことを伝えた。[南京]占領以来、紅卍字会は1000体を越える死体を棺に収めてきたのだ。(南京の真実(ラーベの日記)講談社文庫版P151 )【 】内部のみ筆者が追加した。

 埋葬数の問題は別に記述するが「棺に納めてきた=納棺」は一月中旬以降の埋葬であり、その埋葬数が1000体。それ以前の埋葬を含めると、合計で2000体ということ。

許可が下りなかった埋葬


「日本軍による支那地方民および武装解除された軍人の南京における虐殺並びに南京紅卍字会による死体埋葬の実況(検証1728)」

1937年(昭和12年)12月、支那国民政府が南京より移転せる際、国際委員会が中外の紳商並びに宣教師によって組織された。日本当局は中山北路以西に漢中路以北の地を避難民区域となす申し出に同意し、 紅卍字会は其地における救済事業を管理することを許された。
12月13日、日本軍の中島部隊が光華門より南京に入り、支那軍が下関の川岸に退却した際、 地方民衆及び武装解除された将兵は難民区域に入り、もしくはあちらこちらに隠れ場所を求め、その数は20余万であった。紅卍字会はアメリカの宣教師及び教授の援助により、毎日食事を給し、秩序を維持するため給食所を設置した。

(1殺戮 2強姦については省略)

3埋葬
殺戮後、死体は南京及び其の近郊に山積していた。 紅卍字会は彼らを埋葬するため埋葬隊を組織することを申し出た。日本側は約一ヶ月後までそれを許さなかった。そのため実際に仕事をはじめた時には死体は腐乱し変形していて識別が不可能であった。他の多くの死体が大塘及び河溝において河中より引き上げられた。しばしば、日本軍は10もしくはそれ以上の死体に長い針を通し、つなぎ合わせて、河中に投じた。 
紅卍字会によって葬られた死体の総数は43.081であった。 
死体埋葬作業、月日、死体の種別、死体発見場所、埋葬地の表を送付する。 世界紅卍字会南京分教会 印

会長(署名捺印) 呉仲炎  副会長(署名捺印) 許伝音 1946年(昭和21年)4月6日

日中戦史資料集8(東京裁判資料編)P385


解 説



この文章は、時間系列が捻じ曲がっているので、分解して解読しよう。
日本当局は中山北路以西に漢中路以北の地を避難民区域となす申し出に同意し
①安全区の設定に日本軍は同意した。これは12月1日のことだろう。「日本政府は安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産について過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責も追う意思はありません。唯、軍事上必要な措置に反しない限りにおいては、当該地区を尊重するよう努力する所存です」
「南京の真実(ラーべ日記) 文庫P88」
以上のような電報が安全区委員長ラーべに届いたのが12月1日である。


紅卍字会は其地における救済事業を管理することを許された
②この部分は12月13日以降、南京陥落後の記述であると思われる。陥落前に救済事業を行う団体を日本軍が選定することはありえないし、またそのような選定をしたという記録もない。この救済団体選定が南京陥落前の行為だとすれば、安全区委員会と日本軍がやり取りした電文が残るはずだが、そのような記録は今のところ見つかっていない。
すると、南京陥落後「救済事業を管理」する団体として日本軍が選定したのは紅卍字会だった。と、いうことになる。救済事業の中には当然埋葬も含まれるが、当時、南京特務機関員だった丸山氏の証言によると埋葬活動は一括して紅卍字会に委託したということである。これは上記中国側史料と合致する。


地方民衆及び武装解除された将兵は難民区域に入り、もしくはあちらこちらに隠れ場所を求め、その数は20余万であった。
③この文書によれば「南京陥落時12月13日の人口は、脱走兵を含めて20余万」だったらしい。もちろんこの文書は「検察側(中国側)証拠」 である。


紅卍字会は彼らを埋葬するため埋葬隊を組織することを申し出た。日本側は約一ヶ月後までそれを許さなかった。
④この文章で問題なのは「約一ヶ月後までそれを許さなかった。」という部分である。「南京陥落から一ヶ月」と読むか、「紅卍字会が埋葬を申し出た日から一ヶ月」と見るかで内容が変わってくるが、埋葬許可が下りた時期については「一月中旬頃」と考えてよいだろう。

 チャン女史をニューヨーク・ タイムスなどが記事に取り上げた。その中からワシントン・ポストの 南京虐殺60周年記念特集記事を紹介する(「忘れられたホロコースト」・Ken Ringle)。題字は「1937年、南京で起きたことはほとんど知られていないが、ある女性の心に深く刻まれた」(ワシントン・ポスト,1997.12.11)  
 
  アイリス・チャンは物理学者かつ微生物学者の娘として、イリノイ州、アーバナ Champaignで育った。でも、夕食のとき耳にする家族の物語は、違う 場所の別な時代であった。曾祖父は中国の将軍で、1920年代、数人の妾に囲まれ謎の死を遂げた。 祖母は1949年、中国が共産党統治下になったとき香港へ逃げた。祖父は当時、伝説的な女性により捕らわれの身になり、助けを待つ身であった。チャンにとって家族や中国で起きたことは、少女時代には漠然とした存在であったが、それが今では彼女の執念になった。その核となるのは「南京レイプ」として世に知られている、第二次大戦中なされた蛮行の嵐であった。祖父母たちが辛うじて免れたその国難の意味を、チャン(29)は世界に向け告発しようとしている。

 それはなまじっかの執念ではない。彼女は二年間にわたる聞き取り調査をふまえ、事件を物語風に英語で書いた最初の歴史書「南京レイプ、忘れられた第二次世界大戦のホロコースト」をちょうど出版しおえた。その途中、彼女は銃剣で突かれた赤ん坊や頭のない体、内蔵をえぐられた女性の写真などを目のあたりにして、髪の毛が抜け落ちるほど打ちのめされた。「とにかく眠れませんでした。食事ものどを通りませんでした。編集者も二 番煎じとはいえ、この問題を扱うストレスのため、5キロも痩せました」と彼女はいった。いかに血の海が凄惨をきわめたか、ナチスの外交官すらたまらずヒットラーに直接とりなしを嘆願したくらいであった。しかし、それはムダであった。 「人は、何が悪であり、悪とはどのようなものであるか知っているというかも知れません。しかし、私が発見したものに比肩できるのは何ひとつないでし ょう。ユダヤ人大虐殺の映像やストーリーすらもそれにかないません」。  

 ユダヤ人大虐殺と違い、南京レイプは第二次世界大戦の歴史で語られることはほとんどなく、ほとんどの教科書からすっぽり抜け落ちている。実際、学者や専門家以外、中国人でなければ真珠湾の4年前、すなわち今から60年前の12月を思い起こす人はほとんどいない。

 この月、日本帝国軍は当時の首都であった南京、現在のナンジンで暴虐に走り、8週間で26万から35万人もの人をメッタ切りにした。この数はヒロシマ、ナガサキの犠牲者の合計よりもっと多いのである。しかし、世界はそのことをはしなくも忘れているのである。その8週間で、およそ8万人の中国人がレイプされた。なかには少女も含まれていた。その多くは猟奇的に傷つけられ殺害された。市民に対する虐殺でもナチスの場合、なるべく一般の視野に入らないように隠したり糊塗したが、日本の場合、恐怖にかられている外国人の面前で、む しろそれを誇示するかのようにカメラにおさまったり、あるときはフィルムに撮られたのである。

 現在、ドイツは「第三帝国」の苦い教訓を社会全体がしっかりかみしめているが、それにひきかえ今日の日本は当時の戦争犯罪人を神社に祀っている。 そのうえ、日本は第二次大戦中における多くの虐殺を認めもしなければ謝罪もしないため、アジア諸国との関係を損なっている。わずかに一握りの日本人が南京レイプの事例などでそれを試みている。「日本政府は南京レイプを歴史から抹殺するため、あらゆることをしてきました。官僚はかって起きたことを否定し、私の報告などを誇張であると主張しました」。

 こう語る彼女は、自身が病むほどすさまじく迫力のある記録類を見いだしたのである。「日本人は自分たちの行為、とくに女性に対しなしたことを記念して写真に残しました。多くの女性は犯される前後、わいせつなポーズを強いられたうえ、傷つけられ殺されました。しかし、私はそれらの写真を本から削除せざるをえませんでした。それらは重点をおいている学校の図書館で問題になり、置いてもらえない可能性があるからです」。

 そうした問題の写真は別の近刊書に掲載された。若いハンサムな日本兵が、 中国人死体のころがる場所にリラックスして幸せそうにほほえんで立っている写真である。彼の右手にはサムライの刀、左手には切り取ったばかりの首が耳元近くにかかげられていた。(途中省略) チャンは南京で流ちょうな中国語を駆使し、生き残った人のなかで10人ほどに確認した。一人は当時、十代で妊娠中の身であった。彼女は犯されよう としたとき、必死に日本兵らに抵抗した。日本兵は銃剣で彼女を37回も刺した。彼女は病院に運ばれ、かろうじて命を取りとめた。もちろん、赤ん坊は死んだ。そのときの写真が残っている。彼女(李秀英さん、半月城注)は今や80歳近いが、文句なく非常に強い女性である。(途中省略) チャンは引き続き語った。 「この写真以上のものはありません。ポスターサイズに引き伸ばしましたが、これは切り刻まれた体や切り取られた乳房、内蔵をえぐり取られた写真ではあ りません。それは犠牲者、とくに女性が死の瞬間にかいま見せる、極度の恐怖でひきつった顔の表情です。それを知った以上、そのことを本に書かねばなりません」。

 チャンは、他の証拠は得がたいのではないかと考えていたが、意外にもそれを中国で大量に発見した。同時に彼女は、中国政府が南京レイプのような歴史問題についてあいまいな態度をとっていることを知った。政府は、これがき っかけになって人権問題が注目されたり、日本との通商において友好関係が損 なわれたりすることを懸念している。

 驚くべき宝の山がエール神学校の文書保管所にあった。同校は第二次世界大戦前後、中国のアメリカ伝道師をフォローしていた。その後、彼女はドイツで最大の発見をした。「中国のオスカー・シンドラー」と名付けた予想外の ヒーロー、ラーベの日記と論文を突きとめたのである。 ドイツ海軍提督の孫であるラーベは1908年以来、中国に居住し電話機 や電気機器を販売していた。はげ頭で眼鏡をかけたラーベは、ドイツ人コミュ ニティーの大黒柱であった。同時に彼は熱烈なナチ党員でもあった。遺稿からすると、彼は倫理的浄化より社会主義に興味があるようだ。

 彼はナチス党員として、枢軸同盟であるドイツの威光を背負っていた。しかし、ひとたび虐殺が始まると、彼の抗議は日本によって簡単にあしらわれた。 日本軍は中国各地で占領に抵抗されないよう、みせしめに国民党の旧首都を恐 怖に陥れようとしたのである。ラーベは数千人の中国人を安全区に収容し救った。しかし、そこは不可侵の領域ではなかった。「昨日、数人の女性が老若男女、子どもであふれる神学校の大きな部屋の真ん中でレイプされた」と彼は日本大使館に文書で抗議した。

 同時に、彼は切断された女性の遺体を発見したことや、そうしたことは日本の宣伝ポスターに似つかわしくないと書いている。そのポスターには、「われわれ日本人を信じなさい。あなた方を守り、食べ物を与えます」と書かれて いた。一方、ラーベは南京での略奪をやめさせるために、無駄ではあったがヒッ トラーに手紙を書いている。

 彼は1938年2月にドイツに呼び戻された後、日本の残虐行為 を出版しようとしたところ、秘密警察・ゲシュタポに逮捕された。その後、 ラーベは戦争を生き残り、1950年に永眠した。ベルリンで戦後の彼は食うや食わずの生活であった。それを知った南京の人たちは彼を救うために、数千ドルを集めた。南京市長も食料を集め、ラーベに渡すためにスイスへ飛んだ。 彼女はさらに続けた。「当時の南京を証言する外国人がいたおかげで、私たちは南京を知ることができました。ある人(マギー牧師、半月城注)は虐殺を写した映画フィルムを オーバーコートの裏に隠し、中国から持ち出しました。

 学術的に見て、日本軍の乱行による死者の数は、1900万人ないし3500万人になると見積もられている。「そのことを日本政府は決して認めようとしませんでした。しかし、それは純粋で単純な絶滅策でした。そして南京は来るべきものの最初の兆候でした」 、「ヒットラーは600万人のユダヤ人を殺害しました。また、スターリンは 4千万人以上のロシア人を殺害しました。しかし、それらは数年かけて行われ ました。それに対し、南京レイプはわずか数週間で行われました」。

  現在、正確に何万くらいの人間が殺害されたかが論争になっている。日本政府はそれを最小にみている。そのようななかで、チャンは国立公文書館でかなり信頼できる推定資料をみつけた。1938年1月17日、広田弘毅外務大臣がワシントンとコンタクトした電文で、暗号はアメリカに傍受され解読された。

  数日前、私は上海に戻って以来、南京や各地で日本軍によりなされた虐殺の報告を調査した。多くの人の証言や手紙などの口述は文句なく信頼できるも のであり、それらは日本軍がアッチラやフン賊軍を連想させるやり方でふるま っていたことを確信させるものであった。30万人をくだらない中国人市民が、ほとんど血も涙もない方法で虐殺された。

  第二次大戦中、一か月間に一都市でかくも市民が死んだ例は、イギリス、フランス、ベルギー、オランダでもかってない。チャンは多くの日本人元兵士に会った。彼らは赤ん坊をお湯の中に投げたりしたことや、女性を集団レイプした後、首をはねたり焼き殺したりしたことを率直に語った。現在、東京で医師をしている元兵士は、南京レイプで200遺体以上を慰霊する祠を、良心の呵責から待合室に設けた。

  日本はドイツと違って、「戦時中のアジアに対する残忍な行為を決して認めてきませんでした」とチャンは主張する。その一方、ドイツはホロコーストで果たしたその役割を甘受し、犠牲者に対し巨額の補償金を支払った。 「日本でも一部の勇気ある歴史家は、日本はその過去を甘受し、南京レイプの生存者に補償金を支払わなければならないと信じています。生存者の多くは 相当な窮地にあるうえ、過去の犠牲をひきずって健康を損ねています。しかし日本では、勇気ある歴史家たちは、殺すなどと脅されています。ま た日本の教科書は「南京事件」を一、二節の簡単な説明で片づけています。さ らに、日本人は戦時中、侵略者であったことを認めようとはしません。あたかもアジアを襲った台風か何かのように考え、アジアの犠牲者と同じようにそれ を蒙ったつもりでおり、責任を持とうとしません」 。

 アメリカの議会では、南京レイプなど大戦中の日本軍残虐行為を非難し、 犠牲者に補償を要求する法案が提出された。それらは<ジャパン・バッシング(日本叩き)>のように聞こえるかも知 れない。しかし、そうした発想にチャンは真っ向から逆毛を立てている。「誰 一人、ドイツのホロコーストを書いた本をバッシングとはいいません。もし、 日本人をドイツ人や他の人たちと違った基準で計ったりしたら、とてつもない 人種差別主義者になってしまうでしょう」 。チャンは、南京を想起する努力は、自分一人ではないと指摘する。昨年、ジェームズ・イン(尹集均)とシ・ヨン(史詠)は<南京レイプ、否定できな い歴史写真集>で、何が起きたかを示す、身の毛もよだつような証拠写真を出 した。またニューヨークの映像メーカー、ナンシー・トンはテレビドキュメンタ リー<天皇の名のもとに>を製作した。これは多くの国やアメリカの大学で上映された。

 チャンによると、サンフランシスコは第二次大戦中のアジアについて公立学校で教えることにしたという。「授業は権力集中についてふれるものです。ユダヤ人虐殺や南京レイプのよ うな残虐行為は極少数者の手に絶対権力が集中したとき起きます。わかってほ しいのは、人類はそのような残虐行為をなし得るものなのです。私たちは、それがいかにして起こるか理解しなければ、再び起こらないとは限らないので す」。


 この「ラーベ日記」に対して、否定派は次のように云う。

 アイリス・チャンは歴史を隠すだけでなく、新しく歴史を偽造し、嘘を付け加えています。アイリスチャンはジャーナリストで、歴史家ではありません。私も、彼女が書いた色々な時代の人物についての記述に間違いを見つけています。彼女は多くの日本の将軍を混同しています。私が彼女に賛成できない理由は、David Bergaminiの「日本帝国の陰謀」以外、南京に関する歴史書がないと言っていることです。しかもその本は余りにも感情的だと、長い間非難され、全世界の歴史家から受け入れられなかったものです。南京事件については日本、中国、アメリカ、イギリス、フランス等全世界で、多くの歴史文献があります。中には研究と言うより、感情的で抗議と言った方がよいものもあります。PRを目的としたものもあります。私は中国人ですが、このようなやり方は好みません。しかしあの本は100万人もの人を引きつけました。

 南京事件に関するメモをヒトラーに渡したのは、ジョン・ラーベです。彼の日記は3年前、ドイツ・イギリス・中国・日本で出版されました。彼は南京安全地帯の国際委員会の委員長でした。当時ナチドイツと国民党中国は極めて親密な関係にあり、軍事顧問団を派遣し、高度の武器を売り込んでいました。ラーベは武器メーカー・ジーメンスの現地責任者でした。

 ラーベはユダヤや少数民族に対するナチの政策を非難し、全体主義を批判した人物です。ナチドイツはユダヤ人の著作や、共産主義者の著作を大ドイツ民族の心を惑わせるとして、焼却しました。ラーベはこれらの図書を隠し持ちました。彼は生涯をかけた共産主義者だったのです。当時誰かが彼の命を狙っていると脅かされ、ドイツから逃げ出したのです。

 ラーベは、中国人に極めて同情的であり、彼の日記は極めて偏向していました。

 セントラルパークくらいの広さの安全地帯の中では、彼は1件の殺人も見ていません。それでも人の噂や、中国人からの情報により、日本軍の虐殺を告発しているのです。東中野教授のラーベ日記に関するエッセイを送りますので参考にして下さい。

 「新 しい歴史教科書をつくる会」副会長の藤岡信勝教授は南京事件についてこう記している。「一般市民に対する非行は確かにありました。安全区国際委員会は47人の 市民の虐殺について抗議しています。この中には真偽の疑わしいものも含まれているはずですが、全部正しいとしても47人です。これは軍隊が外国の首都 を戦闘の上占領した場合に起こる一般的なケースに比べて特に多いとはいえな い」。ラーベは、前回紹介したように、日本軍による市民の殺害は5万ないし6 万人とみていますが、これに対し藤岡氏は市民の虐殺をたった47人とみてお り、相当な開きがあります。これは虐殺を矮小化する政治的発言でしょうか。

 ラーベ氏の孫に当たり、ラーベの日記の所有者であるラインハルトさんは テレビのインタビューでこう述べていたのが印象的でした。 「ラーベはいつもいっていました。許し、そして忘れなさいと。でも人は加害者が罪を認めてはじめて許しあえるんです。南京虐殺がでっちあげだなんて公言する人がいたら、それは再び中国人を侮辱し、恨みを呼びおこすことにな ります」。

 ラーベの上申書が「12日夜から13日にかけては、安全区はふたたび砲撃されました」と書いているように、砲弾や爆弾 は安全区にも落下している。 日本軍や大使館に兵士の暴行をやめさせてくれと何度も請願したが、「感謝状」と呼べるものは難民一同がラーベに渡したもの(217ページ)しか見当たらない。   

 たとえば「昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦に次ぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺」(37年12月17日のラーベ日記)のく だりを引用しつつ、中村氏の「『千人も暴行されたという』は明らかに伝聞である。これが伝聞であるとすれば次の『・・・百人以上の少女が被害にあった』も伝聞に属すると見てよいであろう。百人以上の暴行場面を目撃した筈は ないし、またラーベも目撃体験として書いている訳ではない」とするが、いかにも苦しい。

 この論法でいけば、今朝の新聞を賑わしている犯罪記事も、記者が「伝聞で書いているのだから信用できないことになる。警視庁からの「伝聞」であるから信頼できるというのなら、難民区委員長として事実上の南京市長を果たし ていたラーベも同格にみなせないか、という話になろう。

 否定派。

 9月30日に外国人特派員クラブの昼食会に、藤岡先生、東中野先生が招かれ「アイリス・チャン」の批判のプレゼンテーションを行いました。英文の詳しい資料も用意し(その大部分は、自由主義史観のホームページの英文、南京版にでていますのでご覧ください。)説明しましたが、勿論まともな反論はでませんでした。ところが、後になって、アイリス・チャンの本は日本で出版されていないのに批判するのは卑怯であるとか、全く見当はずれの批判を、そのときの司会者が特派員クラブの機関誌に書いているのを知り、あまりのひどさに呆れた次第です。The Rape of Nanking は日本の書店の洋書売場にはいくらでもでており、それを英文で批判することに対する批判がこれです。勿論反論をFax で直ちに出しておきましたが、答えられるはずもなく、なしのつぶてです。

 それでは、外国人はこの論理になじまない、というか理解できないのかというと、とんでもない話しです。「南京虐殺の徹底検証」は既に全訳が出来上がっており、アメリカの出版社と出版の交渉中ですが、この全訳を読んだあるアメリカ人は、 "I'm a convert." と言うくらい、完全に理解者になってくれました。そしていろいろとわれわれに協力してくれています。要するに、南京問題に関しては、アメリカは「情報鎖国」状態にあり、「あった」という前提の本、資料しか手に入らない状況なのです。そこに風穴を開けようとして、努力をしているところですが、自由の筈のアメリカも、なかなか建前通りではないことを改めて痛感しています。

〈連載〉アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』の研究〈第1回〉

日本語訳出版はなぜ挫折したか(月刊誌【正論】5月号掲載 藤岡 信勝)



 中国系アメリカ人の女性ジャーナリスト、アイリス・チャンの著書『ザ・レイプ・オブ・南京ー第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』が米国でベイシック・ブックス社から発売されたのは、1997年12月のことであった。それから一年あまり、現在までにその売り上げ部数は五十万部に達したといわれている。しかし、この本の内容は、唖然とするほどお粗末なものである。同書は南京での日本軍による虐殺数を26万または35万とし、レイプ事件を2万件または8万件としている。それらの数字には何の根拠もない。これはまじめな歴史書にはほど遠く、戦後日本の内外で南京事件に関して捏造されたウソを集大成した反日プロパガンダのための偽書である。

 この連載は、『ザ・レイプ・オブ・南京』の日本語訳出版を機に、亜細亜大学教授・東中野修道氏と私が担当して、同書の内容を全面的に批判するために企画されたものであった。ところが、2月25日に予定されていた翻訳書の出版は突然中止となった。出版社サイドは「延期」と表現しているので、今後出版の運びに至るかもしれないが、その時期は未定である。したがって、日本語訳が出るまでは、この連載ではベイシック・ブックス社刊の英語版から訳出して検討の素材とする。

 連載の第一回として、今回はこの日本語訳出版がなぜ挫折したのか、その経過をたどり、その意味するものを分析したい。

翻訳書と解説書のペア出版を予告



 日本語版の版権は東京都文京区に所在する中堅出版社・柏書房(渡辺周一社長)が取得した。共同通信の3月4日付け配信記事によれば、同社が邦訳を決定したのは、昨年の5月だったとされる。昨年の秋には発刊の予告広告が何度か出た。しかし、実際は、その都度発刊は延期されてきた。翻訳作業自体はそれほど手間取るはずがないので、発刊の遅れがそれ以外の原因であることは明らかだった。それは、原著におびただしい誤りがあり、それをどう処理するかという問題であったであろうことも容易に想像がつく。私たちは、翻訳書がそれらの間違いをどう扱うか、実は興味津々と見守っていたのである。

 2月8日付け夕刊の産経新聞は、社会面トップで『ザ・レイプ・オブ・南京』の翻訳書出版についての記事を掲載した。その見出しは、〈レイプ・オブ・南京/修正せず日本語版刊行へ/出版元「著者の希望」/事実誤認を黙殺/ニセ写真、そのまま掲載〉というものであった。

 その記事のポイントは二つある。一つは、出版元の柏書房が本の内容に「事実誤認があることは知っているが、著者の要望で手を加えなかった」というものである。ただ、東京日日新聞を「ニチ・マイニチ新聞」としているなど、約十カ所の誤記を改めることにだけはチャンは同意した。一方、ニセ写真の方は米国の砲艦「パネー号」として掲載された写真についてだけは、その後米国で出版されたペーパーバック版でも正しいものと差し替えられており、日本語版ではその差し替えた方の写真が掲載されるという。

 もう一つは、翻訳書『ザ・レイプ・オブ・南京』の不十分な点を補うものとして、内外の研究者の論文を集めた『南京事件とニッポン人』という本を翻訳書と同時に発売するというものである。この二冊は、2月25日に同時に発売されることになったという。以上が、産経新聞2月8日付け夕刊記事の内容である。

 柏書房が出した「2月の新刊」というチラシによれば、二冊目の本には「『ザ・レイプ・オブ・南京』を正しく読むために」というサブタイトルが付けられている。これは翻訳書本体に対する一種の解説書という位置づけである。編者は「大虐殺派」の中心人物の一人である藤原彰氏で、収録される論文には、「『ザ・レイプ・オブ・南京』のもつ意味と問題点」(井上久士氏執筆)など日本人研究者の論文のほか、アイリス・チャンの議論の進め方に一部批判的なスタンスをとっている、チャールズ・バレス、リチャード・フィン、デビッド・ケネディなど、アメリカの学者やジャーナリストの文章も含まれることになっていた。

 では、柏書房は、なぜ、このように二冊同時発売といった方針をとったのだろうか。その理由を理解するためには、『ザ・レイプ・オブ・南京』が発売されて以後一年あまりの動向を全体として見なければならない。

日本国内における活発な批判活動の展開



 アメリカ国内では、日本政府、なかんずく外務省の姿勢が災いして、「南京大虐殺」は確定した「史実」となりつつある。特に昨年12月の初め、斎藤邦彦大使がテレビでアイリス・チャンと討論したことが決定的な失敗だった。その放送のビデオは私も取り寄せて見たが、斎藤大使は、チャンの攻撃に対し、南京事件に関するチャンの言いたい放題の発言にはただの一言も反撃せず、日本は謝罪していること、日本の歴史教科書は南京事件について書いていること、の二点だけを反論のポイントにした。そのため、この放送を見ていたアメリカ人は、今まで疑いをもっていた人も含めて、「もうこれで大虐殺があったことは確定した」という受け取られ方をしているという。日本政府の立場を正式に代表する大使の発言なのだから、そう取られても仕方がない。チャンの本を使った反日運動は、それ以来一層盛り上がっているというのである。

 しかし、目を日本国内に転ずれば、そこではこの一年間に、かつてないほど活発にチャンの反日偽書に対する批判活動が展開されてきたのである。その動向を最も特徴的な三点にわたって述べてみたい。

 第一に、プロパガンダ写真による歴史の偽造を暴露する組織的な活動が行われたことである。南京事件についてはさまざまな議論があるが、甲論乙駁を読んでもなかなか初心者には真相が分かりにくい。そうしたなかで一番影響力をもってしまうのは、実はプロパガンダ用にしつらえられたニセ写真なのである。ことに学校現場では、写真のもつ効果は極めて大きい。いかに百万言を費やしても、「だって写真で見た」という子どもたちにことの真相を理解させるのは至難の業である。お人好しの日本人は国際政治の過酷な現実を知らないから、政治的な目的でウソの写真が国家の手によって組織的に偽造されているなどとは想像もできない。だから、反日・自虐史観を克服するためには、写真のウソを積極的に暴露していくことが効果的なのである。

 こうした観点から、自由主義史観研究会では様々な世代のメンバーを糾合して、「プロパガンダ写真研究会」を組織し、『ザ・レイプ・オブ・南京』が出版された直後から同書に登場するニセ写真の検証作業を続けてきた。この間、産経新聞は社としての独自の取材をも交えて、同会の検証作業の成果を系統的に報道してきた。こうして、チャンの本にはおびただしいニセ写真が使われているらしいという知識は、いくらかでも南京事件に関心を持つほどの人の間では、もはや常識になっていたのである。

 第二は、日本の雑誌ジャーナリズムがチャンの本の批判にかなり積極的に取り組んだことがあげられる。右にふれた『諸君!』4月号の秦論文を皮切りに、同誌5月号にはこの文藝春秋北米総局長・塩谷紘氏の現地レポート「外務省は『反日偽書』になぜ沈黙するのか」が載った。また、『正論』7月号には、鍛冶俊樹氏が「アイリス・チャン『レイプ・オブ・南京』の驚くべき背景」を書き、『文藝春秋』9月号には浜田和幸「『ザ・レイプ・オブ・南京』中国の陰謀を見た」が掲載された。この間、柏書房の「解説本」に収録されるデビッド・ケネディらアメリカ人の見方も日本の各種の雑誌で紹介された。

 さらに、これらを取り巻く状況として、百万人の観客を動員した映画「プライド」の成功や、小林よしのり氏の漫画『戦争論』が五十万部をこえる大ヒットとなったことなどがあげられる。これらは南京事件そのものを中心テーマとした作品ではないが、戦争という大きな文脈のなかで南京事件における「大虐殺」がありえないことが説得的に描かれており、活字中心の媒体とは異なる映画や漫画といったメディアのもつ影響力の大きさを示したといえる。

 第三に、南京事件そのものの学問的・実証的な研究が過去一年間で大きな飛躍を遂げたことをあげなければならない。この点でとりわけ特筆すべきは、昨年の8月に、東中野修道氏が8年間にわたる研究の成果をまとめた『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社)が刊行されたことである。同書は、いわば「大虐殺なかった派」の立場を、広範な史料研究と明確な論理によって説得的に展開した本である。この本の出現によって、南京事件の研究は新しい段階に入ったといえる。同時に、同書によってアイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』の批判のための学問的な橋頭堡が築かれた。

 以上のべた、「写真」、「メディア」、「研究」の三つの分野の動向が相乗効果をもたらして、『ザ・レイプ・オブ・南京』の翻訳が出る前から、この本は間違いだらけの本らしいという常識が日本国内では多くの人々の間に共有される状況になった。

中学生も笑い出す間違いの山



 実際、『ザ・レイプ・オブ・南京』に含まれる間違いは、数においても質においても、言語を絶するものである。

 例えば、チャンは「江戸時代二百五十年間、日本の軍事技術は弓と刀の段階を越えることができなかった」(ベイシック・ブックス版原著21ページ)と書いている。冗談ではない。1543年、種子島に鉄砲が伝わったことは、日本人なら中学生でも知っている。鉄砲が伝来するや、日本人はたちまちこれを自家薬籠中のものにした。日本は自前で優秀な鉄砲を生産し、その生産量は世界一であった。日本文明についての基礎的な理解を欠き、日本は極東の野蛮国にすぎなかったという程度にしか考えない中華思想にチャンはどっぷりと浸かっているらしい。

 もう一つの例を引用しよう。「日本人に特異な性格をもたらしたもう一つの要因は、孤立ということであった。それは地理的な意味での孤立と自己規制的な意味での孤立の両方を含んでいる。15世紀の終わりから16世紀のはじめの時期までに、日本は徳川氏の支配をうけるようになっていたが、徳川氏はこの島国の国民を外国の影響から遮断したのである」(20~21ページ)。

 この引用を読んで、読者はこの著者をどの程度の人物と思うだろうか。日本を見下した高慢ちきな中国人が、わかりもしない受け売りの知識を振り回していることだけは間違いない。しかし、私は、ここで、「鎖国はあったのか」などという高級な問題をこの著者にぶつけようというのではない。そんなことはこの著者には無意味なことである。私が問題にしたいのは徳川氏の支配、すなわち江戸時代のはじまりを、「15世紀の終わりから16世紀のはじめの時期」としていることである。江戸幕府のはじまりが1603年であることは、日本人なら小学生でも知っている。しかし、考えてみれば、記録の上でたかだか十件程度しか確認できない南京城内の日本軍兵士による強姦事件を、何の根拠もなく「二万件」に水増しして平然としている著者のことだから、それに比べれば日本の歴史を百年くらい誤魔化すのはかわいらしい間違いというべきなのかもしれない。

 右の例は南京事件とは直接関係がないという人がいるかもしれないから、今度は南京事件について書いた部分から引用しよう。40ページには、次のような記述がある。「朝香宮の情報将校だったタイサ・イサモがのちに友人に告白したところによれば、[捕虜は皆殺せの]命令を案出したの彼自身であった」。

 「タイサ・イサモ」なる人物は日本陸軍には存在しなかった。「タイサ」は「大佐」のことであろう。「イサモ」が「イサム」の間違いであるとすると、チャンはここで実在した人物「長勇大佐」に言及しようとしたのであろう。ただし、長はこの当時は中佐であったが、それはおくとしよう。問題は、チャンが日本軍の階級呼称の一つである大佐を日本人の名前の一部だと思い込んでいることだ。私はチャンの本を愛読している善良なアメリカ人に問いたい。「ジェネラル・マッカーサー」の「ジェネラル」をマッカーサーのファースト・ネームだと思い込んでいるような知識しか持たない日本人が、えらそうにアメリカ人の性格を批判する本を書いたとして、それをあなたがたアメリカ人はまともに相手にするかということである。

 昨年の9月26日に開催された自由主義史観研究会主催の集会において東中野氏は、その時点までに気付いたチャンの本の中の間違いを列挙した資料を配布した。それは実に90項目におよぶリストであった。同氏の手もとのリストは今も増え続けている。このように、日本人なら中学生も笑い出すような間違いを含めて、おびただしい間違いをチャンは彼女の本の中で書き散らかしているのである。

柏書房が陥ったディレンマ



 『ザ・レイプ・オブ・南京』の日本語版の版権を獲得した柏書房は、翻訳・編集の作業を進めるうちに、深刻なディレンマに直面したはずである。なにしろ、こんなひどい間違いを放置したまま、そのまま訳出するわけにはいかない。すでに明らかになった写真の間違いもおびただしい。

 出版社にとって一番よい選択肢は、何も断らずに、チャンの間違いを日本語版でそっと直してしまうことである。あまりにひどい写真も掲載しないことだ。しかし、それは、著者との出版契約上、できなかったに違いない。

 そこで、第二の選択肢は、間違いはそのまま訳して、その間違いに注記をつけることである。これでは原著のひどさが浮き彫りになってしまうが、それでもウソをそのまま活字にするよりはマシである。しかし、これも著者は拒否した。チャンにすれば、日本人は何をゴチャゴチャ言っているのか、私の本は全体として「第二次世界大戦の忘れられたホロコースト」、「覆い隠されていた歴史の真実」を明らかにしたのだから、小さなミスなどたいした問題ではない、という思いであったろう。日本人は、自分の本をキズものにするつもりか。

 それでも、チャンは、写真一葉の差し替えと、十カ所程度のミスの修正には応じざるを得なかった。しかし、これは、焼け石に水である。それ以外の写真と事実誤認は、版元もその間違いを承知の上で、出版しなければならないからである。では、実際にそうしてしまえばよかったのではないか。つまり、著者の言いなりになってそのまま出版するという第三の選択肢もあったのではないか。しかし、柏書房は、この第三の選択肢をとることはできなかった。そこには、次の二つの事情があったと思われる。

 第一に、柏書房は左翼系の出版社の一つではあるが、歴史を中心としてしっかりした学術書をかなり出版している実績がある。キワモノを手がける出版社なら第三の選択肢もあっただろうが、柏書房がそんなことをすれば、会社の信用にキズがつくだけでなく、同社から本を出している他の著者の名誉にもかかわることである。そもそも、歴史書の出版社が、江戸時代は十五世紀の末から十六世紀のはじめに確立したなどと書いた本を出版したら、出版史上の一大スキャンダルである。

 第二に、『ザ・レイプ・オブ・南京』の翻訳書の出版は、企業としての営利活動の一つであると同時に、「自虐派」の運動の一環に組み込まれた事業である。だから、企業にとっての利益だけではなく、出版がその運動の利益になるかどうかをも考慮せざるを得ない。もし、このまま出版すれば、反対派の総攻撃を浴び、運動にとって逆効果になるだろう。中学生や高校生の間違い探しのゲームのタネにされるだろう。そして、こんな愚かな間違いをしている著者が、南京事件についてだけは百パーセントの真実を書いているなどとは誰も思わなくなるだろう。つまり、このままで翻訳書を出版することは、日本国内での反対派にかえって勢いを与える逆効果になる危険があるのだ。実際、反対派のひとりである私自身がそう考えてきたのだから、「自虐派」もそう考えて当然である。

 このように、抜き差しならないディレンマに追い込まれた出版社が苦し紛れに考え出したのが、第四の選択肢であった。つまり、翻訳書を誤りの修正なしに出版するキズを埋め合わせるために、その解説書を同時に出版するのである。そして、その中で「大虐殺派」の学者が、チャンの本の間違いを指摘しつつ、しかし、この本は南京事件を英語圏に知らせた画期的な意義があると評価する。大体、こんな組み立てで柏書房は困難を乗り切ろうとしたのである。まさに苦肉の策であった。こうして、二冊の本の発売日、2月25日を迎えようとしていた。前日の24日には、これらの本のお披露目のため、外国特派員協会での記者会見も予定されていた。

発売延期に追い込まれる



 事態が急転したのは、発売日まで二週間を切ったころである。小売り書店が取り次ぎ店に送った注文の短冊が返送されてきたのである。それには次の文書が添えられていた。「2月下旬発売予定の『ザ・レイプ・オブ・南京』は発売延期となりました。ご迷惑をおかけいたしますが、スリップを返送させていただきます。詳細未定につき、後日あらためてご案内申し上げます。 柏書房(株)営業部」。

 2月19日、日本の各紙はいっせいに日本語訳の著書の出版延期を報道した。共同通信の同日付け配信記事は、出版延期の理由について、「写真の誤用や事実誤認」などが早くから指摘されてきたことをのべたあと、次のように書いた。「柏書房は、歴史事実の誤認などの点についてはチャンさんが認めた範囲で修正し、25日に出版する予定だった。さらに、原作への反論などを集めた解説書も同時に刊行することになっていた。しかし、今月10日、チャンさん側から『同時に刊行される解説書の出版を差し止めてほしい』という連絡があったため、二冊とも出版を延期することにした。同社は『とりあえずチャンさんの真意を確認中』と突然の差し止め要求に困惑している」。

 では、なぜ、チャンは2月10日になって「解説書」の出版を差し止めると言ってきたのだろうか。直接の引き金は2月8日付け夕刊の産経新聞の記事(前出)であった。この記事を読んだ朝日新聞の記者がチャンにインタビューをした。ところが、チャンは、解説書のことを知らなかった。未確認情報だが、この時チャンは激怒したと言われる。考えてみれば、これは当然のことだ。自分が書いた本が外国で翻訳出版される。ところが、その訳書の出版社と全く同じ出版社から、全く同時にその著書を批判した本が出版されるというのである。こんな侮辱はない。柏書房側にすれば、藤原彰編の論文集は、チャンには関係のないことであり、チャンに知らせる必要はないと判断したのだろう。苦肉の策が裏目に出てしまったのである。

朝日系メディアの謀略的報道



 アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』の日本語版訳書の出版が挫折した経過は右にのべたとおりだが、これは言うまでもなく反日勢力にとっては大きな痛手であった。そこで彼らの一部は、驚くべきデマを流すことをあえて行った。そのデマに私が気付いたのは、ある偶然のキッカケによってだった。

 2月25日、私は東京・有楽町にある日本外国特派員協会の昼食会に招かれて、日本の歴史教育について講演した。この席で「アサヒ・イブニング・ニュース」の記者で英国人のピーター・マクギル氏は次のようなとんでもない質問をした。「あなたが意図してのことだとは思わないが、あなたは今、この国の右翼暴力団のヒーローになっています。連中は出版社を脅迫し、暴力や殺人までやっている」。さらに昼食会の終了後、別の一人の外人記者が私に、「アイリス・チャンの翻訳書が右翼の脅迫で出版中止になったのは本当ですか」と真顔でたずねてきたのである。これは大変なことになっていると私は直感した。誰かが、外国人記者の間に全くのデマを流しているのである。それは、口コミなのだろうか、とも思った。しかし、ひょっとして、あの悪質な「アサヒ・イブニング・ニュース」の記者が記事として書いているのかもしれない、と思いついた。それで、同紙を取り寄せて調べてみた。

 結果は、まさに私の予想どおりであった。2月19日付けの「アサヒ・イブニング・ニュース」に「南京本の出版延期」という見出しで記事が掲載されている。執筆した記者の署名はない。その書き出しの部分を訳出すれば次のようになる。

 「消息筋が木曜日[2月18日]に語ったところによれば、東京の出版社が電話や手紙による脅迫を受けて、『ザ・レイプ・オブ・南京』の日本語版の出版を延期した。・・・・・・本の製作を中止したのち、柏書房が語ったところによれば、手紙のうちの一通は極右グループの構成員を名乗る男からのものであった。その脅迫状には『出版すれば何らかの行動を起こす』と書かれていた」

 しかし、これがデマであることはちょっと常識をはたらかせればわかることである。

 第一に、すでに広告が出され、取り次ぎとも契約済みの本の出版を中止するということは、出版社にとっては死活問題である。今回の場合、発行予定日から見て、印刷は当然済んでいたはずだから、出版社が被る経済的な損害は極めて大きい。出版社は取り次ぎその他に対する社会的信用をも失墜する。

 第二に、右翼の脅迫程度でそんな非合理的な行動を出版社がとるはずがない。ある種の言論人にとって右翼の脅迫が日常茶飯事であるのは、別のある種の言論人にとって左翼の脅迫が日常茶飯事であるのと同じことである。そういう脅迫に簡単に屈服すること自体、大きな恥である。

 第三に、もし本当に右翼の脅迫で出版が中止されたのなら、これはもう出版妨害の大事件である。ただごとではすまない。すべてのメディアが大騒ぎをするに違いない。また、それだけ報道する価値のある重大事であることに間違いはない。

 このように、どの角度から見ても、「アサヒ・イブニング・ニュース」の記事がデッチあげの捏造記事であることは明らかなのだ。

 3月3日午前、東中野修道氏と私は、東京・文京区にある柏書房を訪問し、日本語版出版延期の経過についてたずねた。応対に出た同社の佐保勲出版部長は、延期の理由について、「著者のほうから意見があり、著者と話を詰める必要を感じたので延期した」とし、右翼からの脅迫が出版延期の理由だったのかという質問には、「そのこととわれわれの[出版延期の]決定との間には関連はない」と明確に否定した。また、月刊誌『創』4月号では、同社の芳賀啓編集長が「右翼よりも一般の人から間違いのまま出版していいのかという電話が多かった。しかし、困ったのはその後、出版延期が右翼の脅しがあったからだと報道されたこと。実際は著者による出版妨害だったのです」と語っている。朝日新聞社は誤報の責任を明確にして、訂正と謝罪を行わなければならない。

「自虐史観」との闘いの新しい段階



 アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』の翻訳書の刊行が挫折したことは、日本における「自虐史観」との闘いが、新しい段階に到達したことを明瞭に示すものである。柏書房の出版延期の決定は、チャンの本が反日プロパガンダの目的で書かれた本であるというその本質から生じたものである。それは、決してまぬかれることのできない矛盾なのである。しかし、その矛盾を顕在化させたのは、この一年あまりの間に展開された同書に対する活発な批判活動であった。この出版延期はそれらの意識的な取り組みの成果でもあるのだ。

 もちろん、私たちは自由な言論を断じて擁護する。むしろ、翻訳書『ザ・レイプ・オブ・南京』の一日も早い出版を待ち望んでいる。しかし、研究、運動、メディアの、どの領域においても、もはや、かつてのように一方的な宣伝がノーマークで浸透する時代ではなくなっている。日本人に「自虐史観」を植え付けるための最大の「教材」となってきた「南京大虐殺」のウソが通用しなくなる日も近い。

 1937年の南京事件の時、アメリカから来たジャーナリスト(ニューヨークタイムズのダーディン記者)がいました。彼は南京陥落の2日後の1937年12月15日まで南京にいました。彼は南京から報道し、記事をニューヨークタイムズに送りました。その記事はニューヨークタイムズで出版されました。このニュースはナチドイツでも読まれました。アドルフヒトラーはびっくりし、計画中の日本との三国同盟締結を延期しようと考えました。




 しかし彼の記事は必ずしも彼自身が目撃したことだけではありませんでした。後日幾つかの間違いも認めています。日本軍の占領直後から虐殺、強姦、略奪の噂が流れました。それらの噂は中国人からだけでなく、英字新聞に書かれました。しかし次第に根拠のないものであることが判明しました。そして報道から消えたのです。




 1937年12月24日蒋介石がルーズベルトに手紙で南京虐殺事件について訴えています。彼の妻宋美齢も1938年1月5日に友人への手紙で数千人の市民が日本兵に虐殺されたと書いています。しかしその後彼らは一切虐殺について言及していません。その噂が事実ではなかったことが明らかになったためです。




 戦闘に巻き込まれ、兵士の不法行為で、大変な重傷を負った人々がいたであろう事は、マギーのフィルムによって十分考えられます。しかしその数はそれほど多くありません。違法行為として軍事裁判で厳しく罰せられた兵士は10人以下です。この種の不法行為については「南京安全地帯の記録」でも述べられている筈です。南京のすべての市民、約20万人が、ニューヨークのセントラルパークと同じくらいの広さの安全地帯に集められました。しかし20万人の南京市民の目には言われているような残虐行為が目撃されておらず、したがって「安全地帯の記録」に載っていないのです。




 中国駐留の日本軍に対する最初の攻撃は、1937年7月7日蘆溝橋で始まった。8年戦争の始まりです。当時の日本軍は日本、中国、満州に展開中のものを含め、総勢25万人でした。一方中国軍は蒋介石直轄の80万人を含め220万人です。これを見ても日本には侵略の意志などなかったことが分かります。日本が何故蘆溝橋の近くに駐屯していたか疑問を感じられるかと思いますが、1900年の義和団事件の後の国際条約によるものです。日本の他4カ国が自国民保護のため、軍の駐屯が認められたのです。これは中国人にとっては不愉快なことでした。しかし貴方も指摘されたとおり、中国は不安全であり、一つの国としての統一がとれていませんでした。事、生命の問題です。改善に関して関係各国で話合われました。日本は話し合いは決して拒否することなく、関係各国と共に解決に努力しましたが、不幸にも成功するに至りませんでした。

 ルイス・S・C・スミス博士(Lewis・S・C・Smythe、金陵大学社会学教授)と助手による南京国際救済委員会を代表して1938年作製
 「南京地区における戦争被害(War Damage in the Nanking area)」(1937年12月-1938年3月)都市及び農村調査
  
 
調査方法
人口調査
死傷者数
表1 調査家族と推定人口
表4 日付別による死傷者数および死亡原因
●人口

 南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃が繰り返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(12.12~13日)の人口は20万人から25万人であった。我々が3月に行った抽出調査で報告された人員を50倍すれば、すぐさま市部調査で表示されている22万1150人という人口数が得られる。この数は当時の住民総数のおそらく80ないし90%を表していたものであろうし、住民の中には調査員の手の届かぬところに暮らしていたものもあった。(人口についてさらにつっこんで問題するには、第一表の注を見よ)

 2万7500名は国際委員会の維持していた難民収容所に住んでいたもので、調査人員の12%に当たる。収容所に入らなかったが安全区内に住んでいたものは6万8000人で、全体の31%を占めている。調査の記述によれば、建物総数の4%があるだけであり、また、城内の総面積のおよそ8分の1に過ぎなかった地域に、市の陥落以後、14週立った後でも、住民の43%が住んでいたのである。

 「南京地区における戦争被害」(「日中戦争資料集9」所収、p219)
第一表 調査家族と推定人口
地区 調査した家族数 調査した家族の家族員数
合計
家族員数平均 家族数推定合計 家族員数推定合計
A.城内 906 4252 4.7 45300 212600
1.安全区 298 1358 4.6 14900 67900
2.難民収容所 114 550 4.8 5700 27500
3.城西 115 544 4.7 5750 27200
4.城東 55 232 4.2 2750 11600
5.城北 51 243 4.8 2550 12150
6.門西 126 631 5.0 6300 31500
7.門東 103 451 4.4 5150 22600
8.菜園 44 243 5.5 2200 12150
B.城外 43 171 4.0 2150 8550
9.下関 13 46 3.5 650 2300
10.中華門外 16 79 4.9 800 3950
11.水西門外 14 46 3.3 700 2300
全地区 949 4423 4.7 47450 22150*

* 12月末から1月にかけて日本軍当局によって行われた不完全な登録に基づいて、国際委員会のメンバーが推定したところでは、当時の南京の人口は約25万人であって、数週間前に彼らが特に慎重に推定した数をはっきりと上回るものである。中国の半官半民筋はほぼ30万と推定していた。

 2・3月には大した変化はなかったが、市の近辺の秩序の乱れた地域から著しい人口の流入があったので、恐らくそれは流出をわずかながら上回っていた。これも明らかに重要なことであった。我々が推定してみたところでは、3月下旬の人口は25万ないし27万であって、このうちには調査員の手の届かぬ人々もあり、また移動の途中の人々もあった。調査した人員は22万1、150である。

 5月31日には市政公署の5つの地区の役所で登録された住民(下関を含むが、明らかに城外のその他の地区を含まない)は27万7000人であった。この数字は特に婦女子について不完全であることが認められており、普通はほぼ40万と修正されている。

 一年前、南京市の人口はちょうど100万を越したところであった。この数字は8月・9月にかけて急減し、11月初旬にまた50万近くに戻った。旧市街は今日考えられているよりも広い地域を含み、その地域は少なくとも人口の10分の1を占めていた。

「南京地区における戦争被害」(「日中戦争資料集9」所収、p251)
表4 日付別による死傷者数および死傷原因
日付 死亡原因 負傷原因 拉致されたもの
**
死傷者数
総計
兵士の暴行による死傷者の比率(%)
軍事行動
*
兵士の暴行 不明 軍事行動 兵士の暴行 不明
12月12日以前 600 50 650
12月12、13日 50 250 250 200 550 91
12月14日~1月13日 2000 150 2200 3700 4500 92
1月14日~3月15日 200 250
日付不明のもの 200
150 600 50 1000 75
850 2400 150 59 3050 50 4200 6750 81
12月13日以降の暴行件数の比率 89 90
*「軍事行動」とは爆撃・砲撃・戦場における銃撃を指す。
**これらの拉致されたものについては大半が全く消息不明である。

「南京地区における戦争被害」(「日中戦争資料集9」所収、p251)
●死傷者
 2 戦争行為による死傷・死傷者数および原因

 死傷者数および原因ここに報告されている数字は一般市民についてのもので、敗残兵がまぎれこんでいる可能性はほとんどないといってよい。調査によってえた報告によれば、死者3250人は、情況のあきらかな軍事行為によって死亡したものである。これらの死者のうち2400人(74%)は軍事行動(1)とは別に[日本軍]兵士の暴行によって殺されたものである。占領軍の報復を恐れて日本軍にる死傷の報告が実際より少ないと考えられる理由がある。実際に、報告された数が少ないことは、暴行による幼児の死亡の例が少なからずあったことが知られているのに、それが一例も記録されていないことによっても強調される。

(1)ここで「軍事行動」による死者というのは、戦間中、砲弾・爆弾あるいは銃弾をうけて死亡したものをいう。

 負傷を受けた状況がはっきり3100人のうち、3050人(98%)は、戦争以外に日本兵の暴行によって負傷したものである。負傷しても何らかの形で回復したものは(1)、負傷を無視するという傾向がはっきりと見られる。

(1)当復興委員会に救済をもとめてやってぎた1万3530家族が委員会に報告した負傷者のうち、3月中の調査によれば、強姦による傷害は16歳から50歳に到る婦人の8%占めていた。この数はきわめて実際を下まわるものである。というのは、大ていの婦人はこのような扱いをうけても、進んで通報しようとはせず、男子の親近者も通報したがらないからである。

 12月・1月のように強姦がありふれたことになっていた間は、住民はその他の状況からも、かなりそうした事実を遠慮なく認めたのである。しかし、3月になると、家族たちは家族の中の婦人が強姦されても、その事実をもみ消そうとしていた。ここでこのことに触れたのは、市の社会・経済生活がどれほどはげしく不安定なものであったかを説明するためである。

 日本兵の暴行による死者の89%および負傷者の90%12月13日以後、すなわち市の占領の完了後におきている。以上に報告された死傷者に加えて、4200人が日本軍に拉致された。臨時の荷役あるいはその他の日本軍の労役のために徴発されたものについては、ほとんどの事実を報告していない。6月にいたるまでこのようにして拉致されたものについては、消息のあったものはほとんどない。これらの人びとの運命については、大半がこの時期の初期に穀されたものと考えられる理由がある。(1)

(1)「拉致」がいかに深刻なものであるかということは、拉致された者としてリストされた全員が、男子だったということからもはっざりしている。実際には、多くの婦人が短期または長期の給仕婦・洗濯婦・売春婦として連行された。しかし、彼女らのうちだれ一人としてリストされてはいない。

 拉致された者の数字が不完全なものであることは疑いない。実際に、最初の調査表には、これらの人びとは死傷者のうちの一項目「事情により」というところに書きこまれており、調査の計画過程では必要とされもせず、予想もされなかったのである。こうして、これらの人びとは並なみならぬ重要性をもつものとなり、単にその数字が示す以上に重要なものとなっている。こうして、拉致された4200人は、日本兵によって殺された者の数をかなり増加させるに違いないのである(1)。

(1)市内および城郭附近の地域における埋葬者の入念な集計によれば、1万2000人の一般市民が暴行によって死亡した。これらのなかには、武器をもたないか武装解除された何万人もの中国兵は合まれていない。3月中に国際委員会の復興委員会によって調査をうけた1万3530家族のうち、拉致された男子は、16歳から50歳にいたる男子全部の20%にも達するものであった。これは全市人口からすれば1万860人となる。救済をもとめてやってきた家族の言によるのであるから、誇張されているところもあろう。しかし、この数字と当調査で報告された4200人という数字の差の大部分は、おそらく男子が拉致されても、拘留あるいは強制労働をさせられて、生存した場合を含むことによるものであろう。

 多くの些細な事件を無視すれば、軍事行動による死傷者、日本兵の暴行による死傷者、および拉致された著は、二三人につき一人、つまり五家族につき一人である。

 このような死亡の重大な社会的・経済的結果は、われわれの調査記録から直接計算しても、その一部を示すことができる。夫が殺害・負傷、または拉致された婦人の数は4400人である(1)。父親が殺害・負傷、あるいは拉致された子供の数は3250人である。

(1)救済を希望した1万3500家族を当復興委員会が3月中に調査した結果によれば、16歳以上の婦人全体の14%が未亡人であった。
●調査方法

 実地調査の手続き
 南京の市部調査においては、家族調査員は入居中の家屋50戸に一戸の全家族(every family in every 50th inhabited house)を家族調査表に記入するように指示をうけた。「家屋」(house)は若干の場合には一番号に数軒のアパートや建物(building)があったけれども、「家屋番号」(houuse number)に従うものと定められた。

 3月には多くの出入口が封鎖され、どの家に人が住んでいるのか知るのは少しばかり困難であった。その結果、若干の家を見過してしまったかも知れない。脱落した地域を点検するのに対照地図が役に立った。客人は地図上で特定の地区を割当てられ、各自50戸ずつ人の住んでいる家を抽出して、住宅番号を数えてはそれに記入してうめてゆく。調査員は委員会の評判が良かっため親切に迎えられたが、調査員は、ただ事実を質問するために来たこと、委員会の通常業務の仕事を目的とする家族救済調査員として来たのではないことを注意深く説明した。これら両者の活動に参加しだ人びとのきわめてはっきりした考えでは、家庭調査の方が救済調査の場合よりもはるかに損失報告の誇張が少ないということだった。

 市部調査における建物調査員には二つの仕事があった。すなわち
(一)、市内の建物(building)を数えて、軍事行動・放火・略奪による被害をうけているどうかを記述する。
(二)、10棟の1棟割合で(on every 10th buikdings)損害の見積りをおこなう。この目的のために一家屋番号が一棟と見なされたれたが、それは若干の場合には一つ以上の建物(structure)を含んでいた。熟練した建築技師が並列の建物(consutruction)にそれぞれ単位コストを割出したので、正確な見積りをおこなうのが非常序に容易となった。さらに、二人一組になった調査員のうち一人は土木の方を受けもった。現在居住者のない建物(building)の家財の損害の見積もりは、その建物の性質および近所の人々に対する質問にもとづいておこなわれるべきであるとされた。対照地図によって見落した地域が位置づけられ、そこは入念に再調査された。

 家族調査・建物調査の双方とも城内全域をカバーし、城門のすぐ外側にある若干の地域をも含めた。しかし浦口その他の周辺小都市を含む旧南京地区全体を調査したわけではない。旧日本軍人および一般日本人の住む特定の小地域と点在する個人住宅のみが調査の対象外とされた。

 農業調査においては、三つの団体の通行証をもった二人の調査員が、べつの県へそれぞれ派遣された。調査員に主要道路にそって進み、それから8の字を描きながらその道路をジグザグに横断して戻り、道路の後背地にある地域をカバーするように指示された。この一巡のさいに道筋にある村三つから一つを選んで村落調査票を作製し、それらのそれらの村で毀損している農家のうち、10家族に1家族を選んで農家調査票に記入することにした、市場町の物価表については、通過する市場町全てで質問の回答を記入することになった。

「南京地区における戦争被害」(「日中戦争資料集9」所収、p217-218)

 ルイス・S・C・スミス博士は、金陵大学の社会学教授(博士号は哲学だったようですが)であるからしてその調査方法に問題があるとは考えにくい。事件当時の1937年12月-1938年3月の記録であるからして貴重な資料であることには相違ないが、この「南京地区における戦争被害」レポートをどう評価すべきか定まっていない。

 実際に、調査結果の把握の仕方が研究者によって次のように異なっている。
1  笠原十九司 「南京事件」
岩波新書
A・市内での民間人の殺害3250人、拉致され殺害された可能性の大きい者4200人(小計7700人*)
B・ さらに城内と城壁周辺の埋葬資料調査も合わせ、合計1万2000人
C・ 近郊区(四県半を除く)の農村における虐殺者数:2万6870人
総合計=3万8870人
2 秦郁彦 「南京事件」
中公新書 
A.・市街地における日本兵の暴行による死者と拉致者(ほとんど行方不明)の合計:6600人
B・スマイス調査(修正)による一般人の死者:2万3000人(おそらく、市内および郊外*)
総合計=B項にもとづく不法殺害者数の算出:2万3000 X 0.5 =1万2000人または2万3000 X 0.33=8000人
3 洞富雄 「決定版 南京大虐殺」
徳間書店 
A・ 兵士の暴行による死者2400人、拉致殺害された者4200人(小計6600人)
B・ 市内および城壁付近の一般犠牲者数:1万2000人
総合計=
4. 鈴木明 「天皇の軍隊と南京事件」
サンケイ新聞
1985年8月10日
A. 一般市民の死者:2400、拉致された者(大半は行方不明):4200人(合計6600人*)

 以上のように、スマイスの作成した調査結果を共通テキストにしてみた場合においても、各論者によって虐殺数の判断が異なっている。全体に各論者は、6600人としているようである。が、それは死傷者数の合計であるから、明らかな虐殺数は厳密には2500人前後とすべきであろう。

 ところが、各論者は6600人では少なすぎると考えており、スマイス・レポートに記載されていた「市内および城郭附近の地域における埋葬者の入念な集計によれば、1万2000人の一般市民が暴行によって死亡した」も加味すべきだとしてこれを加える。秦氏は、スマイス調査(修正)による一般人の死者2万3000人の半数あるいは3分の1を虐殺者数としているが、この秦氏の把握の仕方の問題は、死者の半数あるいは3分の1を虐殺数と見なす理由については触れていない。笠原氏は、同調査による近郊区の虐殺数2万6870人をこれに加えた約4万人を民間人の推計虐殺総数としているが、「同調査による近郊区の虐殺数2万6870人」はどこに書かれているのか上記の文面には無い。 

 こうして、事件肯定側からは、案外と被害の実数が少なくされていることによって、「基本的に調査方法が大雑把ではないのか-この調査書で出された被害者数や被害に関する統計数字が『一番正確』ということではない」という疑義が出されている。その理由として、調査対象に抽出された家屋には「一家全滅したり住居を放棄したりした家庭」を対象にしておらぬ為、最も被害にあったと考えられる部分が抜け落ちているという欠点を挙げている。次に、「捕虜虐殺のことに触れていない」という欠点もある。洞富雄編『日中戦争史資料9 南京事件Ⅱ』河出書房新社,1973,P222によれば、概要「そして何よりも、この調査は日本軍の占領下によって行なわれており、『占領軍の報復を恐れて日本軍による死傷の報告が実際より少ないと考えられる』とスマイス報告書自身が書いている」という欠点を挙げている。逆にいえば、日本占領下にもかかわらず、このような調査を敢行したスマイスらの調査記録は評価されるべきであろうが、論者の視点によって前者にも後者にも受け取られている。

 結局のところ、ルイス・S・C・スミス博士の「南京地区における戦争被害」レポートは、東京裁判にスマイスの宣誓を経て提出され受理されている。ところが、検察側も弁護側も証拠資料として活用していない。洞富雄編・前傾書,P111から112に弁護側と判事との議論が記載されているようであるが、これにつき「証人として出廷していないスマイスの調査書をとするには難があったのではないか」という解釈が行われている。こうして、スミス・報告書は「南京事件」最中の唯一といっても良い戦争被害実態レポートであるにも関わらず、政治主義的に処断されボツにされたという不遇のレポートとなっているという訳である。

 しかし、世の中の議論にはいただけないものがある。その典型として、問答有用板・9265・投稿者クマ・南京事件資料~スマイス調査の信頼性・2001/08/31 18:54)によれば、概要「スマイス調査書は貴重な資料の一つであって、それ以上でもそれ以下でもなく、難点があるからといって全部がダメなんてことはまったくなく、逆にこの資料一つで南京事件の全体像を判断することもできないし、するべきでもない」と、訳の分からないことを云い為している。問題は、スミス・報告書が世上で言われているような「大虐殺」を何ら語っていないという衝撃をどう受け止めるかにあるだろうに、「貴重な資料の一つであって、それ以上でもそれ以下でもない」などと居直る。

 続けて、「不完全な調査ですから、他の資料との整合性などを勘案して、そのうえで余程の裏づけがなければ『一番正確』と判断することはできない」、「これを参考にして、他の資料とつき合わせながら考えていく必要がある」と云う。ところが、この論法を「南京事件」の全調書、資料に及ぼすのかというとそういう訳でもない。この都合の悪いスミス報告に限ってということであるようである。

 更に次のようなコメントを添えている。「一ついえることは、これは南京の軍事裁判も同様ですが、基本的に審理は起訴事実の確認のためになされるのであって、裁判そのものは南京事件の全体像を明らかにしようという目的のもとに行なわれたものではありません。東京裁判でいえば、松井への起訴事実を立証できれば検察の任務としてはそれでいいわけですし、判事もそれでいいわけです。

 この場合の松井への起訴事実というのは、要するに、南京市民を殺害することを『日本軍に不法に命じ為さしめ、かつ許すことにより』、南京市民の殺害と『武装を解除せられたる軍隊』を殺害したこと(訴因45)、戦争の法規を守らせなければいけない責任があるのに、『故意にまた不注意に』、『その違背を防止する適当な手段を執るべき法律上の義務を無視し』たこと(訴因55)です。そのことを立証することが審理の目的です。その点から言うと、殺害形態や指揮官の責任といった問題にはまったく触れないスマイス調査書は証拠資料としては検察側にとってあまり意味がなかったことも、証拠資料として検察側が採用しなかった原因の一つといえるのではないかと思います」と云う。

 東京裁判を持ち上げたりけなしたりするご都合主義で切り抜けようとする。付言すれば、「スマイス調査書は証拠資料としては検察側にとってあまり意味がなかったことも、証拠資料として検察側が採用しなかった原因の一つ」などと云うのはトンチンカンで、なぜ弁護側がこの報告書を活用しなかったのかにこそ解明のメスがあてられるべきであろう。   













(私論.私見)