南京事件の直近の動き |
【南京占領までの経過】 |
【蘆溝橋事件発生】 | |
当時、中国・華北地方(北京付近)には「義和団事件」後に結ばれた北清事変議定書により、日本・イギリス・フランス・イタリアの各軍の駐兵が認められており、日本軍も約4000名の兵士が駐屯していた。 この頃の石原莞爾・参謀本部作戦部長・少将は次のように語っていた。
石原の考えでは、ソ連軍の脅威に備えて5カ年計画で軍事力を整備している最中に、中国と事を構えるわけには行かない。さらに中国内部の混乱に乗じて行った満州事変の時と違い、中国は蒋介石率いる国民党の元で統一されつつあり既に状況が違っている。日本軍は広い中国全土に展開できるほど強くなく、中国軍もかってのように弱い軍隊ではない。 昭和12年7.7日北京郊外の蘆溝橋付近で日本軍の夜間演習中の午後10時過ぎ、蘆溝橋北方の中国軍の方角から数発、続いて十数発の実弾が発砲された。さらに日本兵一人が行方不明になる(後に単なる誤報と判明)。これに対して日本軍は現地の牟田口廉也大佐率いる支那駐屯歩兵連隊が独断専行、中国軍と交戦状態に入った。世に言う「蘆溝橋事件」が発生。最初に発砲した犯人も未だ不明の全くの偶発的事件であった。 通常であれば現地交渉で片付くところが、次第に雲行きが怪しくなっていった。こうして、相手が何者かも定かでないままにその銃声がきっかけとなって、戦乱を招き寄せ、次第に日中間の全面戦争にエスカレートさせていくことになった。このことは、既にこの頃日中関係の危機的条件が成熟していたことを物語っている。 日帝が当初目論んでいた不拡大方針に関わらず、軍部の首脳及び幕僚は全て拡大派で、不拡大派は多田、石原、東郷らの極く少数であった。不拡大派の論拠は、「断じて戦火を中国本土に拡大してはならない。現下の日本の最も重要な国策は、全国力をあげて、新興満州国を育成することである。満州国の建設がうまく行けば、期せずして、中国の民心は日本になびいてくる。そうすれば、世界列強といえども、満州を承認せざるを得なくなるに決まっている」、「もしここで事件の拡大策を取れば全面的な日中戦争、それも終わりの見えない無益な持久戦となり、日本は無用のエネルギーの消耗を余儀なくされる」というところにあった。が、石原らの「紛争の早期解決」方針に反して、事変はみるみるうちに拡大の一途を辿っていく。 他方、杉山陸相・武藤章(参謀本部作戦課長・大佐)・東条英機(関東軍参謀長・中将)らが中心となって「戦線拡大路線」が画策されていった。今なら中国軍に軍事的打撃を与えられる筈であり、そうすればたちまち萎縮して抵抗を放棄するであろう。この際、華北を第二の満州としてしまうのが得策だ。増派さえあれば3ヶ月も有れば決着が付くという見通しに立っていた。その後も、軍部の拡大派と不拡大派の対立は続き、絶えず繰り返される経過を見せていくことになる。 外務省と陸軍中央は直ちに「不拡大、現地解決」方針を固め、7.9日の臨時閣議を開いた。杉山元陸相の即時3個師団派遣要求はあったが、広田外相はこの要請に反対し、多数決で不拡大路線を取ることを決議。現地司令部でも「不拡大、現地解決」方針を取り、7.11日、日中両軍間で停戦協定が調印された。引き続き戦争不拡大の原則に基づいて船津辰一郎の和平工作、ドイツ駐華大使トラウトマンを通じての和平工作がはじめられた。 ここで「国民党の正規軍4個師団が北上中」との誤報が流れ、これを受けて石原、近衛首相も天津地区居留民1万2000名の安全を守るため派兵を止むなしと判断、3個師団派遣に賛成することになった。 |
【近衛内閣は「重大決意声明」を発し、華北への2個師団急派を承認】 |
7.11日近衛内閣は「重大決意声明」を発し、「不拡大方針」を表明したが、その舌の根も乾かぬうちに華北への2個師団急派を承認し、「中国側の武力抗日に対して反省を促すため、重大決意をもって華北に派兵する」と理由付けした。「なに、刀を抜いて見せるだけです」と、単なる脅しの増派であることがほのめかされていた。 7月29日、通州の在留邦人223人が蜂起した中国軍に殺害される事件が起きた(「通州事件」)。これにより日中両軍は本格的戦闘に突入していくことになった。 新鋭師団の到着で勢いづいた陸軍は、華北で暴走し始め、7月末に北京・天津地区を占領した。その後も軍内強行派の意見により、派遣軍が逐次増やされ、派遣軍内強行派の独断専行で正式な宣戦布告も行われ無いまま、戦争目的も曖昧なまま、なし崩し的に戦線を拡大し続けた。石原は戦線不拡大に全身全霊を傾注して頑張り続けるが、これにより陸軍内部で孤立する事になった。この頃強行派の武藤章から、「あなたの行動(満州事変で上部の指令を受けずに勝手に戦端を開き、成功させたこと)を見習い、その通り実行しているだけです」と言い放され、石原は言葉を失ったと伝えられている。が、石原の予見した通り、ゲリラ戦による小規模戦闘が果てしなく繰り返される泥沼の日中戦争に突入していくことになった。 当時この紛争は、宣戦布告をしていなかったため、戦争では無く「支那事変」と呼ばれていた。この優柔不断の二枚舌と政府と軍部の二元外交がこの後更に亀裂していくことになる。こうして、日清戦争(1894ー5年)に始まる日本の中国侵略は、1937年からの日中戦争で頂点に達した。7月7日北京郊外ではじまった戦闘(「盧溝橋事件」)は瞬く間に華北に広がり、陸軍の暴走が始まった。日帝が当初目論んでいた不拡大方針に関わらず、戦乱は次第に日中間の全面戦争にエスカレートしていった。 |
【中国内に抗日運動盛り上がる】 |
7.18日中国共産党代表・周恩来と蒋介石がロ山で会見、共同作戦を協議。この頃から、日本軍のやり方に対して中国全土に抗日意識が高まり始めた。これまでお互いに争ってきていた国民政府軍と共産党軍の間に、抗日統一戦線結成の兆しが見え始めることになった。実際に中国側に抗日統一戦線が結成され、蒋介石の国民党政府と毛沢東率いる共産党が「国共合作」で対抗する局面を向かえることになった。 |
【中国共産党軍の頑強な抵抗に遭う】 |
共産軍は華北で八路軍、華中で新四軍を組織し、得意のゲリラ戦法で日本軍に立ち向かってくることになった。上海の日本軍は海岸からほとんど前進できず、華北戦線でも山西省の平型関(へいけいかん)で八路軍の頑強な抵抗に逢い、しばしば進撃を阻まれる事態となった。このため、事変は2ヶ月で片付くどころか、いよいよ抜き差しならない泥沼に入って行くことになった。それやこれやで、内地からの増援が必要となり、11.5日抗広湾に大兵団で敵前上陸が敢行され、背後より上海を衝く事になった。中国軍は西方に後退し、日本軍がそれを追った。 |
【日本軍南下作戦開始】 |
7.28日北京占領。増援兵力の到着を待って南下作戦を開始した。 |
【上海で日中両軍交戦開始・第二次上海事変】 |
8.13日華中の上海方面にいた海軍もこれに遅れじとばかり戦闘行動を開始した。陸戦隊と第二艦隊が同方面の中国軍に対して一斉に火蓋を切った。 |
【渡洋爆撃隊が中国の首都南京に猛爆】 |
8.15日九州・大村の海軍基地を飛び立った海軍渡洋爆撃隊(木更津航空隊・通称荒鷲隊・96式陸上攻撃機)20機が中国の首都南京に猛爆を加えた。この8.15日より一挙に日中全面戦争が戦火加速し、後戻りのきかない事態に突入することになった。南京市民の受難の歴史の幕開けでもあった。 付言すれば、この時宣戦布告が為されておらず、戦時国際法の「開戦に関する条約」(1907年にハーグで締結、日本は1912年に批准を経て公布、中国も当事国)の「締約国は、理由を付したる開戦宣言の形式または条件つき開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する事前の通告なくして、その相互間に、戦争を開始すべからざること」に違反する行為であった。さらに、「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ陸戦条約・1907年にハーグで締結、日本は1912年に批准を経て公布、中国も当事国)の条約付属文書「陸軍の法規慣例に関する規則」の「第25条(防守されない都市の攻撃)防守せざる都市、村落、住宅又は建物は、いかなる手段によるも、これを攻撃または砲撃することを得ず」の非武装都市への爆撃禁止申し合わせにも違反していたことになる。 |
【上海派遣軍を「編組」し、上海への派兵を決定】 |
8.15日同日、近衛首相は「南京政府断固よう懲声明」を発し、「帝国としては、もはや隠忍その極に達し、南京政府の反省を促すため、断固たる措置をとるのやむなきに至った」と述べている。この時陸軍の大部隊を上海に送り、これまでの北支事変から支那事変へ認識を改めた。 この時、第3師団と第11師団よりなる上海派遣軍を「編組」し、上海への派兵を命令した。松井石根大将(当時満59歳)を派遣軍司令官に任命、「上海派遣軍司令官は、海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、上海並びに北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護すべし」(臨参命73号)という任務を与えた。「編組」というのは、同派遣軍の任務が上海地区の日本人居留民保護に限定された小範囲の一時的派遣であり、純粋の作戦軍ではないという意味である。このことは、この段階では、日本の軍中央と政府の態度が不拡大方針に則り、上海での局地解決を目指していたことを証左している。とはいえ、こうして陸軍の大部隊を上海に送り、松井司令官自身も南京攻略積極論者であったことにより、これより北支事変から支那事変へと局面が拡大していくことになった。 |
8.21日中ソ不可侵条約発表。 |
8.22日八路軍編成。 |
【上海で日中両軍が激闘】 |
8.23日応急動員のまま軍艦で輸送された第11師団と第3師団は、直ちに上海北方地区で戦闘に参加した。但し、網の目状に広がるクリークを利用した堅固な防御陣地に拠る中国軍の激しい抵抗に会い、攻撃は頓挫し、兵士の損害も急増した。これにはドイツの軍事顧問団が指導しており、その近代化指導の成果が現れたということになる。 |
8.29日南京駐在の欧米5カ国の外交代表が、南京空襲に抗議し、爆撃停止を求める抗議書を日本政府に提出。 |
【北支那方面軍編成される】 |
8.31日北支那方面軍(司令官・寺内寿一大将)が編成され、指揮下の第1軍と第2軍は中部河北省の省都保定を目指して進撃、第5師団(板垣征四郎中将)は山西省へ向かい、関東軍もチャハル省に出動した。 |
【南京無差別爆撃繰り返す】 |
1937(昭和12)年8月15日の海軍航空隊の南京渡洋爆撃にはじまった南京空襲は、以降9.25日まで11回行われ、延べ291機が参加した。中国の抗戦態勢をたたくために、その首都にくわえられた都市無差別爆撃であった。これは僅か半年前のゲルニカ空爆にならい、戦略爆撃の思想を大々的に実行した世界最初の例となった。日本軍機による南京空襲で多数の市民を殺傷した。 |
【この頃の天皇と陸軍大臣との遣り取り】 |
この頃戦況報告に参内した杉山元陸軍大臣に、天皇が「最近の陸軍のやり方は意に添わない」と述べ、杉山はかしこみながらも概要「事変はあと二ヶ月で片付きます。南京を占領すれば、蒋介石も抗戦を諦めるでしょう」と奏上している。 ところが事態は泥沼に入って行くことになった。ところが事態は泥沼に入って行くことになった。中国側に抗日統一戦線が結成され、蒋介石の国民党政府と毛沢東率いる共産党が「国共合作」で対抗する局面を向かえることになったからである。 この頃の話と思われるが、民政党代議士で2.26事件直後に粛軍演説で軍部に噛み付き除名された斎藤隆夫が、「最近の陸軍は足利尊氏より悪い。表向きは忠義づらしているが、考えていることといえば陸軍第一、国家第二、天皇第三なんだからな」との発言記録が残されている。天皇の弟宮で、当時陸軍少佐であった三笠宮も、「今の陸軍ときたら、お上のお気持ちは踏みにじる、庶民のことは『町人』と称して頭から馬鹿にしてかかる。どうして、このようなことが公然とまかり通るのか、一度、徹底的に体質改善して作りかえる必要があるのではないか」との発言が伝えられている。 |
【日本政府の経済政策、「統制三法」を成立させる】 |
このころの経済状態は頗る悪く、軍事費増大による戦時インフレが進んていた。8〜11月までの期間に鉛・硝酸・大麦・銅・木炭・アルミなどの価格は20%以上の高騰を見せる。輸入超過による国際収支の赤字は増える一方となり、政府はこの難局を乗り切るため政府による経済直接統制が必至と考え始める。これにより・「臨時資金調整法」(長期資金の統制)、・「輸出入品等臨時措置法」(物資の統制)、・「軍需工業動員法の適用に関する法律」(軍需工場を軍の管理下におく)の「統制三法」を成立させている。 |
【日本政府の経済政策、「幣価切り下げ」】 |
8月、日銀は正貨準備の「金」の評価替えを実施。純金750ミリグラムにつき1円だった評価を290ミリグラムにつき1円に変更。こうして日銀は日銀金準備金を約2.6倍に膨らませる。こうして増えた資金のうちの3割を新設の「金資金特別会計」に移す。以後、貿易決済での金現送はこの会計より秘密りに行われる。つまり、政府・日銀は正貨準備金の額を、制度をかえて増やした上に、日本の対外決済状況を秘密化してしまった。 |
【日本政府の経済政策、「軍費増大、「戦時公債」に拠る】 |
9.4日第72回帝国議会が開催され、航空戦力補備予算としての臨時軍事予算20億円が提出され(結果的に戦費は通算25億円に昇ることになる)、その財源は殆どが戦時公債に拠った。この年の公債発行額は15億円に増加。ちなみに昭和12年度一般会計は27億円。一般・臨時両会計を合わせた財政支出は一躍前年の2倍になった。軍需物資の輸入は増え、秋には兵器弾薬も不足して、イタリアから小銃を輸入したほどであった。 |
【国民精神総動員令】 |
9.5日近衛首相が、帝国議会の施政方針演説で、中国に対して一大打撃を与えるための国民精神総動員を呼びかける。「断固として積極的、且つ全面的に支那軍に対して一大打撃を与えるために挙国一致の国民精神総動員令を呼びかけた」。笠原氏の「南京事件」では次のように背景が説明されている。「戦いそのものは好まぬところだが、とにかく国防国家をつくるにも、産業拡大をやるにも、今のままでは政府も国民も容易について来ん、それだから戦いでも始まって−現実に戦いでもあれば国民は仕方なくついて来る。それがためにこの戦いをやったら良いじゃないか、という軍部拡大派の思惑に沿って(河辺虎四郎少将回想応答録)、国民を戦時体制に総動員していく国家指導者の役割を演じたのである」(P55)。 |
【上海戦への兵力増強を決定】 |
9.7日陸軍参謀本部が、作戦課長武藤章らの主張により(石原の反対を押し切って)、上海戦への兵力増強を決定。台湾軍から応急動員部隊の上海派遣と華北から後備歩兵10大隊の上海への転用。以後、作戦の中心が華北から上海攻略戦に移行する。
9.10日上海公大基地に第2連合航空隊が移駐。 9.11日参謀本部が、第9、第13、第101師団及び有力砲兵部隊の上海派遣を断行することを決定。「上海戦への兵力増強については、天皇の意思と指導も強く働いたと見られる」(藤原「南京の日本軍」)。 |
【日本海軍が南京攻撃戦争に本格的に参加】 |
9.14日、日本海軍が、南京空襲部隊を編成し、反復攻撃を下令、9.19日より本格的攻撃が開始される。9.19日の爆撃は45機からなる空襲部隊で、上海公大飛行場を飛び立って南京上空で中国機と空中戦を展開、日本側は4機を失ったが、中国機33機を撃墜し、南京の制空権を確保することになった。9.22日数波、9.25日5波の攻撃が為されている。この間、日本海軍航空隊による都市無差別爆撃は、上海、漢口、杭州、南昌、広州、アモイなどの諸都市に及び、10月中旬までに華中・華南の大中都市60箇所以上を爆撃し、鉄道、駅、列車、橋などの交通手段の破壊も為された、と笠原氏の「南京事件」には書かれている。 |
【「第二次国共合作」が正式に発足】 |
9.22日中国で、「第二次国共合作」が正式に発足した。中国紅軍という名称が廃止され、共産党軍は国民党軍事委員会指揮下の「国民革命軍第八路軍(通称八路軍、路とは方面の意)」と「国民革命軍新編第四軍(通称新四軍)」へと編入された。 |
【日中両軍が兵力増強、激闘に突入】 |
9.22日−10.1日にかけて、増援部隊が上海へ到着、日本軍の総兵力は19万に達した。一方、中国軍も増援軍を次々に投入し、総兵力は30万を越えた。 9.24日北支那方面軍(司令官・寺内寿一大将)の第1軍と第2軍が保定を占領。なおも追撃し10.10日石家荘を攻略する。一方、山西省へ向かった精鋭で知られる第5師団(板垣征四郎中将)は、林彪らの中共第8路軍に苦しめられ、苦戦を余儀なくされた。特に平型関ときん口鎮(きんこうちん)の戦闘では損害が続出し、保定方面から第20師団の救援を受けて、11.9日ようやく省都太原を占領することになる。 |
【石原莞爾参謀本部第一部長更迭される】 |
9.28日不拡大を主張していた石原莞爾参謀本部第1部長が更迭される形で関東軍参謀副長に転出。「石原莞爾は、河辺虎四郎課長ほか不拡大派の部員が多い戦争指導課に転任の挨拶に来た時に、『遂に追い出されたよ』と云って去っていった。石原部長の追い出しには、武藤作戦課長が一役加わっていたと云われる」(「軍務局長武藤章回想録」)。 その後釜に拡大派の下村定少将が第4部長から昇格した。この人事により、参謀本部は上海攻略戦に作戦の重点を移すことが可能になった。しかし、中国軍の抵抗は頑強で、上海派遣軍は3個師団の増援を得たにも関わらず戦線はなお膠着し、苦戦が続いた。「11.8日までに上海派遣軍は、戦死戦傷合わせて4万以上の損害を出し、それに加えて戦病者も増え、指揮官の大部分も兵士の過半も補充で入れ替わるという状況であった」(笠原「南京事件」P59)とある。 |
【「都市爆撃に対する国際連盟の対日非難決議」採択される】 |
9.28日国際連盟総会で、イギリスの音頭で日本の中国都市爆撃非難決議(「都市爆撃に対する国際連盟の対日非難決議」)を全会一致で採択。この日、参謀本部第一部長・石原莞爾が関東軍参謀副長に転出。 |
【「支那事変対処要綱」が決定される】 |
10.1日、首相、陸相、海相、外相の4相会議で、「支那事変対処要綱」が決定され、天皇に上奏された。1・中国が満州国を承認する。2・日本は華北における国民政府の行政権を認める。3・華北の一部と上海付近に非武装地帯を設定する。4・中国は抗日政策と容共政策を解消する。当時の日本政府と蒋介石政府がその気になれば妥協可能な内容であった。 |
【米国大統領ルーズベルトが、「日本隔離演説」を行う】 |
10.5日アメリカ大統領ルーズベルトが、「隔離演説」を行う。シカゴにおいて侵略国を伝染病にたとえ、「このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延する恐れがある。彼らは平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」と声明した。この時国名の名指しはされていないが、この間の日本軍の行動に対するコメントであることは明らかであり、こうして「国際社会の健康を守るための日本隔離論」が唱えられていることは注目に値する。石射猪太郎日記の10.7日には「世界は今や日本に向かってあらゆる言葉をもって非難を浴びせている。それは決して驚くところではないが、憂うべきは日本自体の無反省だ」とある(笠原「南京事件」)。 |
【日本政府、「企画院」を設置する】 |
10.25日政府は経済統制を円滑に進めるための組織として「企画院」を設置する。ここが国体改革を進める「革新官僚」達の拠点となった(このころから前の「新官僚」は「革新官僚」と呼ばれるようになった)。 |
【日本陸軍、「停戦・平和声明案」を作成する】 |
10.28日陸軍省が、上海戦を制した時には軍事行動を停止し、停戦・平和を目指すとする声明案を作成。 |
11.3日ベルギーのブリュッセルで9カ国条約会議開催(〜24日)。この時、国際条約違反国日本に対する制裁措置が検討されたが、日本の中国侵略に対する警告発言を発しただけで終わった。この流れが日本軍部の強行派を増長させ、「米英敢えて恐れるに足らず」気運を醸成させていくことになった。 |
【日本軍、杭州湾上陸】 |
それやこれやで、内地からの増援が必要となり、11.5日抗州湾に大兵団の第10軍(軍司令官柳川平助中将、第6・第18・第114師団と第5師団の国崎支隊よりなる)で敵前上陸が敢行され、背後より上海を衝く事になった。 この時、武藤章が作戦立案者として駆けつけ、柳川司令官と行動を共にしている。武藤は参謀本部員の籍を置いたままで中支那方面軍参謀副長に就任していた。 |
【中支那方面軍の「編合」が発令される】 |
11.7日上海派遣軍と第10軍とを合わせて指揮するために中支那方面軍の「編合」が発令され、松井石根が方面軍司令官を兼任するよう命令された。但し、中支那方面軍司令部は、上海派遣軍と第10軍との作戦を一時統一指揮するだけのものとされ、同部には2、3名の副官(塚田攻参謀長、武藤参謀副長)と参謀長以下7名の参謀と若干の部付将校がいるだけで、通常の方面軍司令部であれば編成されていた後方機関(兵器部・経理部・軍医部・法務部・兵站部)を持っていなかった。 この軍隊の特徴として、「陸軍中央が予期も準備もしなかった日中全面戦争の開始によって、急遽、予後備役兵を召集して、臨時の特設師団を編成し、軍隊の装備も将兵の訓練・教育も不十分なままに、上海攻略戦に派兵、投入した俄か作りの部隊であった」(笠原「南京事件」P65)ということである。 11.8日太原占領。 |
【日本軍が上海を制圧】 |
11.13日第16師団(華北から転用され、上海派遣軍に加わった)が、長川岸の白ぼう口(はくぼうこう)に上陸、上海では中国軍が頑強に抵抗したが、次第に日本軍が増派されるに及んで、11月中旬には上海から撤退、総崩れのまま南京の方へ敗走した。これにより、日本軍が上海を制圧することになった。 2ヶ月半にわたる上海攻防戦における日本軍の損害は、予想をはるかに上回る甚大なものとなった。参謀本部の計算では、全軍の半分の15師団を投入すれば6ヶ月でけりがつくはずだった。しかし中国軍の抵抗は激しく、一撃を加えれば白旗を掲げるどころか激しく反撃した。開戦後4ヶ月間で失った日本軍の兵員は戦死者9115名(実数はもっと多いようである)、戦傷者3万1257名、計約4万名に及ぶことになり、これは日露戦争時の旅順攻防戦時の死傷者約6万に迫るものであった。 |
【現地派遣日本軍が独断で南京追撃戦に入る】 |
11.15日第10軍は軍司令官柳川中将臨席の下に幕僚会議を開き、独断で南京追撃戦を行うことを決定。日本の「中支那派遣軍」は二度にわたって、軍中央で決定された「制令線」(追撃停止線)を独断で突破し、南京へと追撃を続け、敗走する中国軍を追った。軍中央に対する明らかな命令違反であったが、この動きはもはや止められなかった。参謀本部が後から南京攻略命令を出す始末となった。 |
【中国軍が南京防衛戦を決定する】 |
11.15日国民政府軍事委員会(委員長・蒋介石)が南京で最高防衛会議を開き、首都移転と防衛戦争の対処法について協議を開始した。首都は四川省重慶に移転することは容易に決まったが、南京防衛作戦については議論が百出した。蒋介石と他の高級幕僚との間で意見が対立し、名目的な抵抗にとどめて自発的に撤退するという作戦と、首都南京の面子にかけてこれを防衛すべし少なくとも一定の期間は固守すべしとの作戦をめぐって議論が交わされた。後者の意見を強硬に主張したのが軍事委員会委員長・蒋介石であり、結局この方針が採用されることになった。南京防衛軍司令官には軍事委員会常務委員に過ぎなかった唐生智(とうせいち・当時47歳)が抜擢された。その結果、「3ヶ月にわたった上海防衛戦に、蒋介石は国民政府軍の総兵力の三分の一に当たる約70万の兵力を投入し、しかも精鋭部隊のほとんどをつぎ込んだ。その結果、戦死者も25万人前後といわれるほど膨大な数になっていた」(笠原「南京事件」P109)。 蒋介石が「短期固守」に固執したのは、折から進展を見せていたトラウトマン和平工作に期待があったからである。更にベルギーで開催中のブリュッセル会議で対日制裁措置が決定されることも期待していたという事情があった。欧米列強の支援を受けて抗戦中国への武器・財政援助、侵略国日本に対する軍事。経済制裁や、軍事干渉を引き出すためにも、中国の抗日意思と戦力を海外に誇示する必要があるというのが蒋介石の一貫した抗日戦略であった。 |
【大本営が設置される】 |
11.18日本格的な戦争態勢を固めるため、宮中に大本営が設置された。これが政府と陸海軍の参謀本部となり、戦局指導にあたることとなった。但し、この後も政府の介入は陸海軍の統帥権独立を盾に拒否され、且つ陸軍部と海軍部はそれぞれに作戦計画を立てていったので統合的な国防体制にはならなかった。 11.20日参謀本部に第10軍から、「集団は19日朝、全力をもって南京に向かってする迫撃を命令」という報告が届けられた(11.19日発電)。 |
【国民政府が首都南京を放棄し、四川省重慶に移転声明】 |
11.20日、日本に大本営が設置されたこの日に対応するかのように国民政府が首都南京を放棄し、四川省重慶に移転させることを宣布している。実質的な首都機能は漢口に移されていくことになった。同時に、南京防衛軍司令部編成と防衛軍の配備を下令し、南京城複かく陣地(南京城の周囲に二重三重に張り巡らした陣地)の造営工事の開始を命じている。 |
【国際安全委員会が組織的活動を開始】 |
11.20日前後の頃より国際安全委員会が組織的活動を開始している。これには、先の上海事変の際にフランス人のジャキノ神父が日本軍と交渉して、上海の南市地区に難民区を設定し、15万人の中国人難民を戦火から守った先例にならって、同じような難民地区を南京にも設けようとしたという背景事情があった。 |
11.24日第10軍に続いて、中支那方面軍から、「事変解決を速やかならしむるため、現在の敵の頽勢に乗じ、南京を攻略するを要す」という意見書が参謀本部に届けられた。 |
【第一回大本営御前会議が開催される】 |
11.24日第一回大本営御前会議が開催された。天皇の臨席のもとに、参謀本部、陸軍省、軍令部、海軍省の最高首脳部が出席している。同会議で、参謀本部の下村定第1部長が、中支那方面軍の作戦計画について参謀本部で起案した原稿を読む形で説明している。 但し、この後も政府の介入は陸海軍の統帥権独立を盾に拒否され、且つ陸軍部と海軍部はそれぞれに作戦計画を立てていったので統合的な国防体制にはならなかった。 |
【この頃のマスメディアの動き】 |
この頃のマスメディアの動きが笠原氏の「南京事件P75」で次のように語られている。「日本のマスメディアも南京攻略戦に便乗して、南京戦報道のための大規模な報道陣を戦地に送り込み、従軍記者に少なからぬ犠牲者を出しながら、『南京城に日章旗が翻るまで』という報道合戦を繰り広げ、国民の戦意高揚をはかった。南京へ進撃する皇軍の連戦連勝の華々しい捷報(しょうほう)が連日報道される中で、国民の戦勝・祝賀ムードが必要以上に煽られた。国民は、拡大派の喧伝する『中国一撃論』に幻惑されて、南京が陥落すれば、あたかも日中戦争が決着して日本が勝利するかのような期待感を抱くようになり、官庁・学校は南京陥落祝賀行事を計画して、提灯や垂れ幕の準備を始め、さながら南京をゴールとする戦争ゲームでも観戦するように、日本軍の進撃振りに喝采をあげ、早期南京占領を待った」。 |
11.26日武藤方面軍参謀副長が、上海派遣と第10軍を競わす形で「南京一番乗り」を叱咤激励、けしかけている。第16師団参謀長中沢三夫大佐に対して書簡を送り、「現在の態勢をもって守備に移るがごときは皇軍の威武を内外に顕揚するゆえんとは断じて考えられず候」(第16師団関係資料綴り)等々煽っている。 |
【唐生智中国軍防衛司令長官が要人の南京からの退去を促す】 |
11.28日唐生智中国軍防衛司令長官は、外人記者会見を開き、中国軍は訓練も足りず、規律も良くないので、不祥事が起こるかもしれない、無用の外人は退去されたいと警告している。この指示には、「部下が何をしでかすかわからん、責任は持てないから退去せよ」という言外の意味が込められている。これにより南京駐在の外国人の多くが立ち去っていった。 |
11.29日参謀本部第1部作戦班の今岡豊大尉が上海に飛んで中支那方面軍の司令部を訪れ、増強案を呈示した。これに対する武藤参謀副長の返答が次のように為されたと伝えられている。「内地から新たに動員する部隊の集結を待って作戦を発起していたら、戦機を逸してしまう。今すぐ南京攻略の大命を出してもらえれば、方面軍としては自前の兵力で何とか南京は攻略できる。時期を逸して追撃の手を弛めると、敵に立ち直る機会を与えることになる。そうすると南京攻略は難しくなる。幸い傷手を蒙った上海派遣軍も概ね元気を取り戻しつつあるし、新鋭の第10軍は破竹の進撃を目下抑えているところだ」(事務局長武藤章回想録)。 |
11.29日海軍航空隊の戦闘機・爆撃機36機が、中国軍総司令部があるととの情報に基づき*水市街を爆撃した。1時間近くの空襲で多数の市民被害、家屋焼失が発生した。 |
【「大本営」が、南京攻略を正式に発令】 |
12.1日「大本営」は、南京攻略を正式に発令した。「中支那方面軍司令官は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」(大陸命第8号)。松井石根を司令官とし、上海派遣軍と第10軍から編成される中支那方面軍の「戦闘序列」が正式に下令された(それまでは臨時構成の「編合」だった)。翌日、皇族の朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)中将が上海派遣軍司令官に任命され(12.7日着任)、松井司令官は派遣軍と方面軍の兼任を解かれた。但し、後方機関を持たぬ無責任な司令部であることには変わりなかった。上海から南京までは凡そ300キロの道程であった。これが南京事件直前の流れである。この時宣戦布告は為されていない。 |
【南京市長が、「国際委員会」の管理する安全区(難民区)内への避難命令】 |
12.1日馬超俊南京市長は、、全市民に対して、「南京安全区国際委員会(以下「国際委員会」と略称する)」が管理する安全区(難民区)内に避難せよと命令している。既に上、中流階級の市民や官公吏は避難ずみで、残った市民は殆ど下層の市民のみであった。馬超俊南京市長は、「南京安全区国際委員会」に米3万担(3000トン)、麦1万担(1000トン)、金10万両を委託し、警察官450名を残して、市民の保護を依頼した。 |
【蒋介石の苦悩と日本政府の高圧的態度】 |
この頃、蒋介石は、ブリュッセル会議も結局は対日制裁を為しえなかったことに失望し、他方南京攻略に向かう日本軍の意想外の速さと、中支那方面軍の増強ぶりに動揺し、危機感を募らせていった。 12.2日蒋介石から駐華ドイツ大使トラウトマンに日本側の和平条件を認める移行が伝えられ、トラウトマン工作が始まったが、広田外相は、「犠牲を多く出したる今日、かくのごとき軽易なる条件をもってしてはこれを容認しがたし」と述べ、近衛首相は、「大体敗者としての言辞無礼なり」と拒否した。杉山陸相も「このたびはひとまずドイツの斡旋を断わりたい」と述べている。石射猪太郎日記には、概要「アキレ果てたる大臣どもである。もう行くつくところまで行って目が覚めるよりほか致しかたなし。日本は本当に国難にぶつからねば救われないのであろう」(12.8日)と記されている。 蒋介石は、欧米列強からの日本との停戦・和平工作に引き続き期待し、その為にも南京の早期陥落を阻止することが不可欠と考え、期待した。南京近郊区=南京戦区に軍隊を急増派し、南京外囲陣地を固めるよう指示した。上海戦から退却中の満身創痍の部隊が緊急に配備され、その他水増し的に近郊農村からも兵隊補充が為された。しかし、こうした新兵が役に立たなかったことはこの後の流れで見えてくる。 |
この頃の日本軍の動きが、 「『日本の歴史』の第二十五巻、林茂氏による『太平洋戦争』」(1971年・中央公論社)のなかの一節「南京占領と虐殺事件」には、事件の前史として次のように記されている。「上海の防禦(ぼうぎょ)陣地を破られたあとは、南京までのあいだには中国の防禦線はなく、日本軍は日に六、七里というスピードで進撃をつづけた。この間、『軍補給点の推進は師団の追撃前進に追随するを得ずして、上海付近より南京に至る約百里の間、殆(ほと)んど糧秣(りょうまつ)の補給を受くることなく、殆んど現地物資のみに依り、追撃を敢行せり』(『第九師団作戦の概要』)という状態であり、徴発を名とした掠奪が行なわれた。同時に、『敗残兵狩り』という名目で、一般民衆にたいする虐殺・暴行がくりひろげられ、それはやがて、世界を驚かせた南京虐殺事件の前史をなしている」(同書62〜63ページ)。 |