南京事件の概要と経過顛末


【「南京攻略戦に伴う日本軍の鬼畜的乱暴狼藉」を廻る見解の対立について】
 「南京攻略戦に伴う日本軍の鬼畜的乱暴狼藉」を廻って見解の対立が続いている。いわゆる「南京大虐殺事件」と云われているが、これが実際に行われたという観点に立つ虐殺事件肯定派(以下、単に肯定派と云う)と実際には行われていないという観点に立つ虐殺事件否定派(以下、単に否定派と云う)とが鋭く対立している。インターネットサイトにも両派の立場からの考察が見られる。肯定派のものとして「南京大虐殺事件とは何か」「半月城通信サイト」「検証!南京大虐殺」、「南京虐殺60ヵ年全国連絡会南京事件資料集等々が見られる。否定派のものとして「南京大虐殺はウソだ!」「帝国電網省・歴史再考・南京大虐殺等あり得ない!」「歴史論争最前線(自由主義史観研究会)」「電脳・日本の歴史研究会」等々が見られる。

 この状況認識を前提にして、以下ささやかなりともれんだいこ流に追跡して見ることにする。只今のれんだいこ見解はこうである。「南京事件」そのものはあった。なかった訳がない。しかし、学べば学ぶほど肯定派見解に頷き、否定派見解に頷き、してその実態はミステリー色を深める。

 「南京大虐殺事件」とは、次のように云われている事件のことを云う。
  「1937(昭和12)年12月13日、当時の中国の首都・南京をめぐる攻防戦が日中間で行われ、日本軍が武力制圧するところとなった。その翌日から6週間の間に、戦闘員としての中国軍兵士(国民党、現台湾政府軍)以外に女・子供を含む南京市民や無抵抗な非戦闘員を含む約30万人(正確な被害者数は不明であるが、東京裁判では20万人、近年の中国側の発表では30万人であるとされている)が無差別に殺害されたとされる事件を、史上『南京大虐殺事件』と云う。2001年現在での我が国の歴史教科書には、この日本軍部の蛮行事件に対して国際連盟・諸外国から非難が為されたこと、東京裁判においては松井石根(まついいわね)元大将が虐殺命令を行った責任を取らされ、絞首刑となっている」。

 この認識に従い、「大虐殺」として捉えられている南京事件を精査していくと、次のことが要点になっていることが分かる。「虐殺」内容とは、@・戦闘による死傷者、A・投降兵へのそれ、B・便衣兵へのそれ、C・ゲリラ市民へのそれ、D・純市民へのそれ、E・婦女暴行ないし致死、F・食料強奪等々を含めて一括して云われているのが「大虐殺」ということであり、なお且つ、A・それらの行為が軍の指揮命令の下で行われたのか、B・軍のコントロールの効かないアナ-キー状態でも行われたのかという両観点で識別しつつ、事件の概要を理解する必要があるように思われる。その結果、南京事件をめぐって、大虐殺派、中虐殺派、小虐殺派、無虐殺派と見解が分かれているという不思議な具合になっている。史実は一つであるが、これほど見解が分かれている事件も珍しい。

 いわゆる否定派は、A観点から@・A・Bについては否定していないようである。問題は、C・D・E・Fについて極力過小であった、肯定派が云うような実態はなかったと主張している。これに対して、肯定派は、A・B両観点から全てが為された、その規模は虐殺者数で三十万人説、婦女暴行はアナ-キー状態で、食料強奪もかなり手荒に為されたと認識するのが日中それぞれの研究で判明しつつあるという立場のようである。この立場からは、数万人説は否定派に通じた間違った認識であるとされている。

【「ホロコースト」と「南京大虐殺事件」の奇妙な相函関係について】
 南京大虐殺事件の歴史的な位置について、「帝国電網省・歴史再考・南京大虐殺等あり得ない!」では次のように述べている。
 概要「いわゆる『南京大虐殺』は現在も、『南京を占領した日本軍が市民30万人を虐殺した』等と言われ続けており、『日本軍国主義』が起こした残虐行為の象徴(シンボル)として、シナにとっては、日本を断罪する際の有力な『カード』(政治的・外交的な道具)、左翼・反日日本人達にとっては、自虐史観を支える上での有力な『証拠』として使われています」。

 「南京事件」の取り扱いは微妙にホロコースト(ガス室大虐殺)問題とも繋がっているのも特徴である。西欧のナチスの蛮行の象徴としての「ホロコースト」と対のような形で、東洋での日本軍の蛮行の象徴的事件として「南京事件」が存在している。この両事件がそのように歴史的に位置付けられ、戦争責任問題の格好教材として問われ続けているという構図にあるように思われる。興味深いことは、両事件とも否定派と肯定派が論争をかまびすしくし続けており、それぞれ連動しているやに見うけられることにある。別に連動する必要はないとも思われるが、あたかも一方がこければ他方にも連動するかの観がある。不思議とそういう関係になっている。こうして、「南京事件」は国際問題でもあるという構図を見せている。

【「南京大虐殺事件」の史的考察の意義」について】
 「南京大虐殺事件」の史的考察の意義について、「半月城通信サイト」は次のように述べている。
 概要「南京事件は日中間では巨大な焼けぼっくいみたいな存在で、60年たった現在でもことあるごとにそれに火がつき問題になっている。その背景として、中国ではこの事件を『南京大屠殺』として史実に遺し、『前事不忘、後事之師』として代々語り継がれていることがあげられる。ところが日本では『南京虐殺』の事実すら知らない若者が多いのみならず、現在でもこの事件を『まぼろし』とか『でっちあげ』 であると公言する勢力が存在し、『真相解明』に向かうことなく『臭いものに蓋』の観がある」。

 「検証!南京大虐殺」により補足すれば、史上「南京事件」は三度発生している。経過順で見れば、@・1853年におこった洪秀全率いる太平天国軍が南京攻略時に3万人を虐殺したという事件、A・1927年3月、蒋介石の率いる国民革命軍の南京入城に際し、革命軍の一部が日・英・米などの領事館を襲撃し暴行を働き、英米がそれに対し砲撃した事件、B・1937年12月におこった日本軍による大虐殺事件(南京アトローシティ)となる。ここでは、Bの事件に対して単に「南京事件」と呼ぶことにする。

 「南京事件」を廻って、肯定派、否定派の見解がことごとく食い違ったまま放置されている。本稿は可能な限り史実を推定していきたいと思う。秦教授の云うように「正確な被害統計を得ることは、理論的にも実際上も不可能に近く、あえていえば”神のみが知る”」世界になっているが、その際の最大のポイントは、事件そのものがなかったのか、どの程度の規模のものが実際に為されたのか、それは許されざる虐殺であったのか、戦闘行為の範疇として認識できるものなのか、につき解明することにあると思われる。 

 肯定派は、これを補足して次のように云う。「南京大虐殺事件」は、日中戦争の侵略的性格を象徴する事件であるとともに、次のような特異性をそなえた事件であった。

(1)  宣戦布告のない一方的な侵略戦争で一国の首都を占領し、首都住民をまきこんだ包囲殲滅戦を展開したことによって生じた事件である。南京は国民政府の首都として百余万人の人口をかかえた新興大都市であった。そこで日本軍による蛮行が三カ月間も続けられたことを考えるならば、「南京大虐殺」のもつ深刻な意味が理解できる。
(2)  南京陥落以降、日本軍はすでに戦意を失っている敗残兵に次々と襲いかかりそれを殺害した。また、掃蕩戦のなかで捕らえた中国軍捕虜に対する組織的な集団虐殺を随所で実行した。
 また、日本軍占領下の南京には、まだ数10万人の市民・難民がとどまっていたが、日本軍はこれらの非戦闘員に対して、虐殺、強姦、掠奪、放火などの残虐行為を行った。なかでも、戦闘とは直接関係のない女性、老人(特に老女)、幼児、乳児が多く犠牲になったことが特徴である。弱者なるがゆえに安全と思われる避難をしなかった人々が、暴行の対象にされたのである。犠牲になった軍民はあわせて30万人に達した(日本側の研究では「20万人を下らない」数とされている)。
(3)  日本軍は「陸の孤島」となった南京を長期にわたって完全に包囲・占領した。このため、南京に残留していた数10万人の市民、難民は、衣食住、収入などの生活手段や生産手段を破壊され、強姦、殺害におとらぬ打撃をこうむった。

 「南京大虐殺事件とは何か」では、概要次のように述べている。
 「『南京大虐殺事件』は、@・生命・身体の侵害という単に虐殺問題のみならず、A・財産権の侵害、B・生存権・生活権の侵害をも含めて、南京攻略戦と南京占領時において、日本軍が中国軍民に対して行った残虐行為の総体としてとらえる必要があるだろう」。

 洞富雄教授は、「南京大虐殺(決定版)」の中で次のように指摘している。
 「『南京大虐殺』のこの名称は、ただ単に、日本軍の南京での虐殺の残虐行為だけを指すだけではなく、日本軍が南京で犯した、『殺、焼、淫、掠』と略称されるような、強姦、掠奪、放火破壊などの方面の暴行を包括しているものである。こうした残虐行為の中で、最も主要なものは、何の罪もない一般市民と武器を捨てた中国兵に対する狂気じみた虐殺であり、集団虐殺と個別分散的におこなわれた虐殺を含むものである」。

 このように認識される「南京大虐殺事件」の政治的位置付けについて、南京市対外文化交流協会会長・南京侵華日軍南京大虐殺史研究会顧問・陳 安吉氏は次のように述べている。
 「『南京大虐殺事件』は、日本帝国主義の中国侵略戦争の中でも、最も代表的で、典型的な残虐行為の一つである。これは世界の文明史上、最も暗黒な一ページである。中国侵略日本軍が南京で引き起こした、この世のものとは思われないほどに残酷な残虐行為は、証拠に裏付けられており動かすことのできない事実であり、歴史上すでに定説になっていることである。これを認めるかどうかということは重大な政治問題であり、中日両国の平和友好の政治的基礎につながる問題である。またそれは、重大な歴史学上の問題でもあり、不断に資料を発掘し、研究を深めていかなければならない」。

【南京事件の経過顛末】
 事件経過については、否定派の「南京大虐殺はウソだ!」の方が他のサイトに類を見ない精細さで考証している。というより、肯定派の方の事件ドキュメントにつき今のところ私は知らない。という訳で、暫くの間「南京大虐殺はウソだ!」サイトをテキストにして、その他で肉付けしつつ見ていくことにする(要約しております、あわせてご容赦願います)。

【日本軍の進撃開始】
 日本軍は、南京城区をタコの頭部とすれば、日本軍(総勢20万近く)はそこからタコの脚のように放射状に伸びた幹線道路を伝わって、南京城目指して進撃を開始した。その様は、上海から撤退していく中国軍の迫撃殲滅戦と、南京防衛軍の退路まで絶つ完全包囲網作戦を敷きつつあった。

 12.4日午前8時40分、丹陽を攻略した第16師団(師団長・中島今朝吾師中将、京都)の先頭が南京まで50キロの*容の東方15キロにあるげいとう村に侵攻、南京戦区に突入した(飯沼守日記)。第9師団(金沢)が句容県へ、第114師団(宇都宮)が*水県へ、第6師団(熊本)と国崎支体は高淳県に突入し、南京戦区における戦闘が開始された。空からは支那方面艦隊(長谷川清司令長官)航空部隊の第一空襲部隊が交互に出撃して爆撃を繰り返した。長江からは遡江(そこう)部隊(司令官・近藤英次郎少将)が南京目指して両岸の要塞・砲台を攻撃しながら進撃した。こうして、まさに陸と空と川からの包囲殲滅戦が開始された。

 司令長官・松井は既にこの頃病弱であったようで、「野戦司令部で病臥することが多く、南京攻略戦たけなわの12.5日から15日まで蘇州(南京から約220キロ東方)の司令部に病臥、滞留していた」(「軍務局長武藤章回想録」、「松井石根大将陣中日記」、笠原「南京事件」p113)。このことは、最高指導者としての正確な状況把握により南京占領直後に必要とされた適宜迅速な統制指揮が出来なかったことを意味している。

 これに対するに、中国側は、南京城の八つの城門を閉め、残る七つの門には土嚢やバリケードを積み、鉄条網を張って防戦していた。壕が掘られ、南京市から揚子江岸にかけて半円形に形成され、延長58キロに達していた。拠点には急造ながらトーチカや数重の鉄条網が張られていた。この間富裕市民は避難を開始しており、貴重な美術品や骨董品を納めた1万5千箱も移送された。

【南京政府要人逃亡】
 南京政府とその防衛軍は戦局利にあらずとして事前逃亡を開始した。

 1937(昭和12).12.7日蒋介石総統、宋美齢夫人、何応欽(かおうきん)軍政部長、白崇禧(はくすうき)参謀総長ら政府および軍首脳は、揃って南京を脱出し、漢口に遁走している。すなわち、12月7日の時点で蒋政権は南京を放棄したことになる。アメリカ人パイロットが操縦する2機の大型単葉機に乗って7日の夜明け直前南京を脱出した。

 「南京の防衛陣地構築を指導したフォルケンハウゼンを団長とするドイツ軍事顧問団も、この頃ひそかに南京を離れて漢口に向かった。それから一両日のうちに、国民政府の軍政の要人、また南京市長をはじめとする南京市政府の要人もすべて南京を脱出していった」(笠原「南京事件」p116)。

 この事前逃亡の選択は作戦上の決断であった。中国側の記録によると、「南京の守備は、この地を固守して援軍を待つものではなく、敵の消耗を増大することにあった。この点からみれば、堅固な要塞ではなく、また背後に河川(揚子江)を控えて部署上適切でなかった」(『抗日戦史』)とある。つまり、南京が背後に揚子江を控えて撤退が容易ではないという地形上の理由と、雨花台、紫金山の守備は軍官学校の教導総隊の精鋭があたっていたとはいえ、守備軍の大部分は地の利にうとい広東、広西、湖南出身の軍隊であり、徹底抗戦による南京防衛作戦は採用し得なかった。参謀総長の白崇禧やドイツの軍事顧問団も南京防衛戦に反対したといわれている。 

 南京は、日本軍の進軍を阻止し、守備軍が頃合に撤退するには不向きな地形であり、戦史は、このような作戦は、地の利を得、精鋭軍を率いる「よほどの名将」でなければ成功しないことを教えている。こういう判断から、唐生智中国軍防衛司令長官に後事を託し、政府要人は逸早く去ることとなったった。唐生智防衛司令長官率いる中国軍が後を守ったが、唐生智防衛司令長官には撤退時期の選定や、実際の撤退の仕方の難しい作戦が強いられていた。日本軍による完全な包囲下にあって、過早に撤退すれば敵に与える消耗が少なく、かといって一歩あやまれば離脱が困難になるという事態が待ち受けていた。中国軍は、実際に松井軍司令官の降伏勧告を拒否し抗戦して行くことになったが、自軍本隊の退却を有利に導くための作戦に基づく逃げ出し準備優先の戦闘であったから戦局の帰趨は明白であった。 

【中支那方面軍指令部が、「南京城攻略要領」他下達する】
 12.7日中支那方面軍指令部は、「南京城攻略要領」、「南京入城後における処置」、「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を下達している。これらには、南京占領後、各師団の主力は城外区域に駐屯させ、城内には一部の軍紀厳正な選抜された部隊だけを入れることが明記されていた。

【南京城の攻略及び入城に関する注意事項】( 「南京戦史資料集」、笠原「南京事件」p117より)
 皇軍が外国の首都に入城するは有史以来の盛時にして、永く竹帛(ちくはく・歴史書)に垂るべき事績たりと世界のひとしく注目しある大事件なるに鑑み、正々堂々、将来の模範たるべき心組(こころぐみ)をもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為など絶対に無からしむを要す。
 部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめ、いやしくも名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期するを要す。
 別に示す要図に基づき、外国権益特に外交機関には絶対に接近せざるはもとより、外交団が設定を提議し我が軍に拒否せられたる中立地帯(国際安全区のこと)には必要のほか立ち入りを禁じ、所要の地点に歩哨を配置す。
 入城部隊は、師団長が特に選抜せるものにして、あらかじめ注意事項、特に城内外国権益の位置等を徹底せしめ、絶対に過誤なきを期し、要すれば歩哨を配置す。
 掠奪行為を為し、また不注意といえども火を失するものは、厳罰に処す。軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。

 この軍令が如何に守られたのか、踏みにじられたのかが南京事件の以下の考察となる。笠原氏は「南京事件」で次のように記している。
 概要「12.7日に現地着任した朝香宮上海派遣軍司令官が、たとえ方面軍より何と云われるとも、後に戦史的に見て正当なりと判断せらるるごとく行動することと飯沼参謀長に云い、『南京攻撃の統制線のごとき墨守するに及ばず』とまで断言して憚らなかった。さらに9日、中支那方面軍の塚田攻参謀長が直接上海派遣軍参謀部を訪れ、南京入城(攻略)を統制する方法について、先の『注意事項』の徹底をはかりにきたが、『平常的気分濃厚なるため軍司令官殿下のお気に要らず』とあるように、朝香宮上海派遣軍司令官は、方面軍の統制に従ってき下の師団に遵守させる意思はなかったのである」(「飯沼守日記」)。

【中国軍が「清野作戦」展開】
 中国軍は、侵攻してくる日本軍に利用されるのを嫌って、遮蔽物に使われる可能性のあったり民家宿営に資する建物を全て焼き払い退却してしまう「焼け野原作戦」に出た。「7日から始められ、9日まで続けられた。中国軍は南京城塞の周囲1〜2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。この作戦により、住む家を焼失させられた多くの農民と市民が、なけなしの家財道具と食糧をもって城内の南京難民区(南京安全区)に殺到する」(笠原「南京事件」p120)。

 この結果、食糧調達を当てにしていた日本軍の目論見が狂い、城内外での略奪と遠隔地の農村にまでそれを波及させることになった模様である。「それだけ農村の被害地域が拡大した」。

【日本軍が「投降勧告文」投下】
 12.8日日本軍は、南京城を覆うように布陣された鳥龍山−幕府山−紫金山−雨花台の複かく陣地に迫り、南京城の包囲を完了した。

 12.9日夕方、日本側は、大日本陸軍総司令官・松井石根の南京防衛軍に対する「投降勧告文」(日本語と中国語)を日本軍機から城内8箇所に投下した。降伏勧告文は次の通り(日本文訳)。
 「日軍百万既に江南を席巻せり。南京城は将に包囲の中にあり。戦局大勢見れば今後の交戦は只百害あって一利なし。惟ふに江寧の地は中国の旧都にして民国の首都なり。明の孝陵、中山陵等古跡名所蝟集(いしふ)し、宛然(さながら)東亜文化の精髄の感あり。日本軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無この民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってこれを冒さず、東亜文化に至りてはこれを保護保存するの熱意あり。しかし貴軍にして交戦を継続するならば、南京は勢ひ必ずや戦禍を免れ難し。しかして千載の文化を灰燼に帰し、十年の経営は全く泡沫とならん。依って本司令官は日本軍を代表して貴軍に勧告す。即ち南京城を平和裡に開放し、しかして左記の処置に出でよ。大日本陸軍総司令官  松井石根」。
 「本勧告に対する回答は十二月十日正午中山路句容道上の歩哨線において受領すべし。もしも貴軍が司令官を代表する責任者を派遣するときは、該処において本司令官代表者との間に南京城接収に関する必要の協定を遂ぐるの準備あり。若しも該指定時間内に何等の回答に接し得ざれば、日本軍はやむを得ず南京城攻略を開始せん」。

 これを見れば、中国側に対して、勝敗は決しておるところから、「日本軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆及び敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってし、これを犯さず」と声明した上で、無益な戦いを止め平和裡の入城交渉を呼びかけていたということになる。

 12.10日、中支那方面軍参謀副長・武藤章(東京裁判で絞首刑)、同参謀中山寧人(やすと)少佐、高級参謀公平は、岡田通訳官を伴って蘇州の軍司令部を午前3時に出発し、深夜の句容街道を中山門外に向い、午前11時40分ころ目的地に到着、中山門−句容街道において午後1時まで投降勧告の「回答」を待っていたが、12時を過ぎても中国側の軍使は来なかった。(南京戦史編集委員会編「南京戦史」)。この時一行に加わっていた岡田尚通訳官は、次のように回想している。
 「午前11時40分ころ目的地に到着、正午頃まで敵軍使の来るのを待った。特に私としては、翻訳した責任上、どうか白旗を掲げた軍使が現れますようにと念じ続けたが、12時5分、10分を過ぎても遂に軍使は姿を見せなかった。万事休す。参謀副長は一言『やつぱり駄目だったか。さぁ帰ろう』と、一同は無言のまま自動車に乗り、大急ぎで司令部へ帰る事にした」。

 降伏勧告文を漢訳し、当日中山門外で待機した岡田通訳官は、この時の中国側の態度について次のように慨嘆する。
 「ただね、何故、降伏勧告した時、中国軍はそれを受け入れなかったのですか。もう負けははっきりしています。あとは降伏するだけです。国家全体の降伏ではありませんし、南京だけ降伏していい訳です。日露戦争の時旅順攻略でステッセルが乃木大将に降伏してますね、あれと同じです。旅順陥落で日露戦争は終わった訳ではなく、その後も続きます。南京の場合も、南京の一局面だけ降伏してもいいわけですよ。私は正直いって、中国びいきです。満州国をつくったのも賛成じゃない。日支事変も日本がやり過ぎたところがあると思っています。しかし、南京の降伏拒否は中国が悪い。しかも、結局、最高司令官の唐生智は逃げますからね。あれは中国の悪いところで、義和団の時も同じで、清の責任者は最後になると逃げています。会社がつぶれる時と同じで、責任者がいなければ会社は混乱して、社員は物を持って逃げますよ。降伏拒否がなければ捕虜の問題もなかったと思います。国際法上、とよくいいますが、国際法上からいえば中国のやり方はまずいと思います」(「正論」61・6月号・阿羅健一著『日本人の見た南京陥落』より)。

【南京防衛軍司令長官・唐生智が、投降勧告を拒否し、徹底抗戦を指令する】
 南京防衛軍司令長官・唐生智は、投降勧告を拒否し、「本軍は複かく陣地において南京固守最後の戦闘に突入した。各部隊は陣地と存亡を共にする決心で、死守に尽力せよ」と下令した。指令なく寸地でも陣地を放棄・撤退した者は軍法に基づいて厳罰に処すると伝えた。船舶に付いても一律に運輸司令部が接収・管理することとし、長江沿岸を厳重に警備させ、いかなる部隊の渡江をも厳禁した。まさに「背水の陣」を敷いた。

日本軍が、南京城総攻撃を下令
 これに対して、松井方面軍司令官は、午後1時蘇州方面軍司令部において、「上海派遣軍並びに第10軍は南京城の攻略を続行し、城内を掃蕩すべし」(中支作命第3号)と、南京城総攻撃を下令した。この陸軍の総攻撃に海軍航空隊も呼応した。こうして、10日の午後から12日にかけて、昼夜を分かたず壮絶な南京城攻防戦が展開されることになった。

日本内地で、一足早い南京陥落祝賀の奇怪
 笠原氏「南京事件」p123は、この時の奇妙な話を伝えている。「(12.11日南京城攻防戦の最中に)日本の内地のいたるところで、南京陥落の捷報に祝賀の万歳が沸き起こり、提灯行列が繰り出されていた」と云う。東京日日新聞、読売新聞、東京朝日新聞各社は一斉に大々的な南京陥落報道を行っていたと云う。「このように日本国内が戦勝ムードに沸いていたのは、南京城を包囲した中支那方面軍と城壁内外の陣地に立て篭もった南京防衛軍との間に最後の戦闘が繰り広げられ、日本軍にもおびただして死傷者が出ている最中だった」。「このニュースを聞いたこの現時点で南京の守備隊は依然頑強に抵抗を続けており、上空には高射砲弾幕が絶え間なく、城壁付近また砲煙に覆われ、銃砲声の間断なきを聞くというのはどうしたわけなのか? 一体陥落なんて誰が言い出したデマなんだろう」(「前田吉彦少尉日記の12.11日」−「南京戦史資料集」)。

 これは、12.10日夕に脇坂部隊(第9師団の歩兵第36連隊)の一大隊が光華門門前の一角に取り付き、崩壊していた城壁の上に日章旗を立てたのを「南京城一番乗り」と持ち上げ、実はその後同部隊は逆包囲され身動きできず全滅に近い損失を出しながら持ちこたえていた情況を把握せず、「報道1番乗りを目指しての誤報のエスカレート合戦」が行われたということのようである。この史実は現在でも興味深いことのように思われる。

日本軍、包囲殲滅戦の様相で決起
 12.12日、夜明けと共にかってなく激烈な日本軍の攻撃が開始された。12日の昼頃までに南京城の四方を取り囲むことに成功し、包囲殲滅戦の様相を整えた。午後から「一番乗り」を競って、膨大な死者を出しながらも壮絶な突撃戦を敢行した。

唐生智司令長官他要人が逃亡】
 これに対し、南京防衛軍司令長官・唐生智は、12.12日早朝、官邸で少数の幕僚会議を開いた。前日蒋介石から撤退命令が出されており、どのタイミングで撤退するのかが焦点となった。この間日本軍のそれまでにない激烈な総攻撃が始まっており、唐生智司令長官は、午前11時に腹心2名を南京難民区国際委員会委員長のラーべのところに派遣、日本軍との三日間の休戦協定を締結するための仲介を依頼している。三日間の停戦期間中に中国軍は撤退し、南京城を日本軍に明け渡すという内容であった。ラーベが日本と同盟国(日独防共協定)のドイツ人でナチス党員であることを見込んでのことであった。ところが既に機を失しており、この工作は実を結ばなかった。

 唐生智司令長官が高級指揮官会議を開会できたのは、日没時の午後5時になってからであった。この席上、準備した撤退命令書を各軍長・師長に下達した。ところが既にこの時中国軍の指揮・連絡系統が切断されており、き下の軍隊内の大混乱を招いていくことになった。中国軍の士気は瓦解し、部隊毎の潰走が始まった。唐生智司令長官と上級指揮官の一行は会議終了後官邸に火をつけ、9時近くいち早く脱出した。こうして、南京城複かく陣地と城内には、身動きの取れないままに十数万の中国兵が取り残された。

 唐生智は、徹底抗戦を叫びながら、整然たる撤退作戦の指導もできず、敗残兵を城内に残したまま、12日夕刻、「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と命じて、自分ひとり、ひそかに揚子江北岸に遁走した。唐生智の無責任と劣悪な統制能力が糾弾され、12月18日軍法会議にかけられ、19日銃殺刑に処せられたと伝えられる(「朝日新聞」12月20日)。結局、中国側は、20万ちかい市民をおきざりにして、平和的交渉に応ずることなく、蒋介石総統ら政府も軍首脳部も全員逃亡し、馬市長も逃げだし、最後に残った唐将軍も降伏を拒否して遁走してしまったことになる。中共政府は、のちにこのような国府要人らの南京《逃亡》を「冷静さを失い、理性を失い、人心を動揺させ、外国人の嘲笑をあびる失態を演じた」と酷評している。

 NYタイムズのダーディン記者も、「南京事件の責任の大半は、このような無責任極まる蒋・唐・馬ら中国側指導者にあるといっても過言ではない」と記している。かれはそのレポートの中でこう慨嘆している。
  「確かに、蒋将軍はあのような大混乱の起こるのを許すべきではなかった。確かに唐将軍も自分が最後までやり通すことができず、とどのつまりは不首尾に終わった。犠牲の道にふみ出したことは強く非難さるべきである。唐は、その日いくつかの小部隊の援護で、日本軍が市内深く侵入するのを支えながら、総退却の配置をすることによって、状況を救う何らかの努力をしてもよかったのだ。そんなことが行われた様子もなく、いずれにせよ状況は改善されなかった。唐は自分の幕僚の多くのメンバーにさえも知らせず、指揮官なしに軍を置き去りにしたことは、全面的破壊の合図となった」。

 この後南京市街は掠奪勝手次第の大混乱に陥っていくことになった。次のように記されている。
 「中国軍は南京死守を叫んで十数万人が立てこもりますが、統率者を失い、地の利にうとい敗残の将兵たちがパニックに陥り、崩壊していった。日本軍が城門を突破した12月12日夜には、すでに防衛軍司令部は離脱していて、指揮系統を失った烏合の衆となっていました」。

中国軍総崩れする】
 南京城外で防衛戦に配備されていた中国兵の潰走は次の通りであった。城外守備兵が城内へ流れ込み、大混乱となった。城内外の各部隊は数方向に突出を試みた。その一部は長江に向かった。が、長江の渡江禁止の守備を厳命されていた部隊は、洪水のように押し寄せてきた潰走兵の渡河を認めなかったため群衆の大半が水流に呑み込まれた。「舟が足りず大混乱の中で河に入り溺死する者数知れず、の惨状を呈した」(中国公刊戦史)とある。その一部は各街道筋に向かった。が、ここでも阻止戦が張られ、同士討ちの銃撃戦が始まり死体の山が築かれることになった。これは街道筋毎に為されておりその戦死者もかなりの数に上ると思われる。この経過で中国兵による略奪の動きもあった。ダーディン記者「ニューヨーク・タイムズ」12.18日及び1.9日付けには、「土曜日には中国兵による市内の商店に対する略奪が広がっていた。目的が食糧と物資の獲得にあることは明らかであった」と記載されている。その一部は安全区内を目指した。大勢の兵隊が軍服を脱ぎ始め、民間人の服を盗んだり、所望した。「平服」を調達出来なかった兵士は軍服を脱ぎ捨て下着だけになる者も居た。

 ダーディン記者「ニューヨーク・タイムズ」12.18日及び1.9日付けには次のように書かれている。
 「記者が日曜日の夕方、市内を車で廻ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃した。多数の兵が安全区委員会の本部を取り巻いて銃を渡しており、門から構内に銃を投げ入れる者さえあった。安全区の外国人委員たちは投降する兵士を受け入れ、彼等を地区内の建物に収容した」。

中国軍、退却に当り「空室清野作戦」で資産を焼き払う】
 否定派は次のように分析している。ここの部分は、肯定派からの考察が弱いところのように見受けられる。

 中国軍は、南京陥落を前にして、「空室清野作戦」すなわち公共建築物や公邸、私邸などを焼き払った。その様は、「中国軍による焼き払いの狂宴」であったと云う。次のように記されている。
 「中国軍部は、南京市周辺全域の焼き払いを軍事上の必要からだ、といつも説明してきた。城壁周辺での決戦で日本軍が利用できそうなあらゆる障害物、あらゆる隠れ家、あらゆる施設を破壊することが必要だというのだ。この目的のために、建物ばかりでなく、樹木・竹やぶ・茂みなどもすっかり焼き払われた」。

 否定派は、“焼き払いの狂宴”にしても、このような中国人や中国軍による“掠奪”にしても、戦後はすべて日本軍のしわざにおきかえられているとしているとして次のように述べている。
 「勝者が敗者をさばいた東京裁判が、牽強付会に悪事を何もかも日本軍の仕業とし、えん罪を負わされたのはやむを得なかったかも知れない。南京攻略に先だって何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりもさらに甚大な破壊と、放火と掠奪が行われたというのである。しかも、東京裁判ではこれらの焼き払いと掠奪の狂宴は、すべて日本軍の仕業に置き換えられ、《南京における日本軍の暴虐事件》として告発されているのである。だが残念なことは、心ない日本の学者やマスメディアが、いまだに東京裁判史観の呪縛にとらわれて、『中国軍は善であり日本軍のみが悪であった』とされていることに強く疑問を発したい」。

 その裏づけとして、ダーディン記者のレポート他で例証している。否定派の強みはこの資料を揃えた説得力にある。次のように述べている。
 「日本軍が句容をこえて(12月7日)、進撃しはじめたことが中国軍による焼き払いの狂宴の合図となったが、これは明らかに城壁周辺で抵抗するために土壇場の準備を行っているものであった。中国の「ウエストポイント」である湯山には、砲兵学校と歩兵学校、それに蒋将軍の夏期臨時司令部が置かれているが、そこから南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられたが、これらの地区はそれ自体小さな市をなしているのである。

 中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きいが、おそらく実際の包囲期間中における日本軍の爆撃によって、また占領後の日本軍部隊によって生じた損害に等しいであろう

 中立国の観察者の信じるところでは、この焼き払いもまた、かなりの程度は中国人の“もったいぶったジェスチュア”であって、怒りと欲求不満のはけ口であった。それは、中国軍が失えば日本軍が使用するかもしれないものはすべて破壊したいという欲望の表れであり、極端な《焦土化》政策の表れであって、日本軍が占領する中国の各地方を、征服者には何の役に立たない焦土にしておこうというのであった云々」。

 金陵大学のベイツ教授はこう述べている。
 「南京の城壁に直接に接する市街地と南京の東南京郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置としておこなったものである。それが適切であったかなかったかわれわれの決定しうることではない」。
 中国軍による焼き払いがいかにものすごいものであったか、この一文でも理解できよう。

 兵士と掠奪の関係は三国志時代から、歴世、この国の習性であるが、犬飼總一郎氏(第16師団通信班長・陸軍中尉)は次のように証言している。
  「南京に向かう追撃戦で、自分は常に第一線にあって、10月25日の無錫、29日の常州に一番乗りを果たしたが、無錫も常州も中国兵による掠奪の跡歴然たるものをこの目で見た。いかにそれがもの凄いものか、全く想像外であった」。

 また、第19旅団長草場辰巳少将は、北支作戦の時、隆平県城の城壁の上から、10月13日未明、はからずも敗残兵による掠奪の場面を見たと次のように証言している。
 「隆平県城になだれこんだ敗残兵は、まず住民から衣類を奪って便衣となり、次に食糧を奪い、財宝を奪い、明け方を待って逃げ出す算段で、城壁がすでに日本軍によって占領されているのも知らず、城内は敗残兵による掠奪、暴行殺傷等で阿鼻叫喚のちまたと化し、日本兵はただしばし呆気にとられて、この地獄図を城壁から眺めていた」。

 前述のダーディン記者も、南京における中国軍の掠奪について次のように述べている。
 「土曜日(11日)には、中国軍による市内の商店に対する掠奪が拡がっていた。住宅には手を触れていなかったし、建物に入るために必要な限りの破壊にとどまっていた。掠奪の目的が食糧と補給物資の獲得にあることは明らかであった。南京の商店は安全区以外では経営者が逃げてしまっていたが、食糧は相当に貯蔵してあった」、「(12日)夕方には退却する中国軍は暴徒と化していた。中国軍は完全に潰滅した。中国軍部隊は指揮官もなく、何が起こったか知らなかったが、ただわかっているのは、戦いが終わり、何とか生きのびねばならぬということだった」。

 南京に残留していた某第三国人の日記を「東京日々新聞」(現毎日新聞)が掲載しているが、それにはこう書いてある。「12月12日、敗残兵の放火、掠奪なさざるはなく恐怖におちいる」(12・12・20)。

 岡田通訳官は、掠奪について次のように証言している。「城内の店は空き家になっていまして、中国兵が逃げるとき掠奪したのか、日本兵が入ってから掠奪したのか、掠奪の跡がありました。日本兵は食べ物は掠奪したと思いますが、その他は中国兵がやったようです。昭和13年3月に維新政府が出来ると、私も南京に行きましたが、泥棒市にはたくさんの豪華なジュウタンや骨董品があり、これらは、その時掠奪したものだと思います。この時私も居を構えるためジュウタンを買いました」(「正論」〈61・6〉阿羅健一著『日本人の見た南京陥落』)。その他「13年8月南京に行き、この泥棒市の盛況?を見ている。男女の衣類から靴、食器類、缶詰やワイン類はもとより豪華なシャンデリアやピアノまで、延々と、鼓楼から北西一帯に泥棒市がひろがり、ここのみ異様な雰囲気であったことを覚えている」との証言もある。

「南京パニック」について】
 こうして「南京パニック」が発生した。しかし、この考察も、肯定派のそれは弱く、否定派の独壇場となっている。

 【否定派の見解】否定派は次のように分析している。

 12月7日に蒋介石総統ら政府、軍の高官が南京を脱出した時点から、南京はパニック状態に陥った。富裕階級や高級官僚は持てるだけの荷物と現金をもって、南京を脱出し、続いて、司法院も行政府も立法府の官吏も、およそ役人という役人は政府要人のあとを追って南京を脱出した。地方公務員も同様である。教師、警察官、郵便局員、電話、電信、水道局の工員に至るまで、われ先にと南京脱出をはかり、南京は文字通り、無政府状態におかれた。

 警察官450名が国際委員会の管轄下に残ったのみで、官公吏全員南京から姿を消してしまった。10日〜12日には電話は不通になり、水道はとまり、電気もつかなくなった、しかも警察も裁判所もなくなったのであるから、完全な無政府状態である。掠奪、強盗勝手しだいと言った、暗黒の都市になった。

 日本軍が入城したとき、治安その他について交渉しようにもその相手もなく、責任者もおらず、書類さえなく、あるのはただ放火、掠奪のあとの文字通りの廃墟の都市であった。こうした時の徹底した掠奪ぶりは、戦国時代この方、歴世中国兵の常習である。

【日本軍が中国軍殲滅戦を開始
 中国軍の潰走を見て日本軍は中国軍殲滅戦を開始している。至る所で遭遇戦となり、日本軍が圧勝したもののかなりの被害も発生した。中国軍はことごとく殲滅され、多数が死傷し、一部が逃亡に成功し、一部が投降兵となった模様である。「南京大虐殺事件」に関係するのは、この際の投降兵の処遇を廻ってであるが、別章で考察する。

 「敗残兵掃討のため、進駐した日本軍の警備司令官は、『疑わしき者は捉えたら全て殺せ』と指令。日本軍による、略奪・放火・暴行・強姦が繰り返される。いわゆる『南京事件』。これは目撃した西欧の新聞記者により報道され、日本は世界中から非難を浴びることになる。原因は日本軍の軍紀弛緩。当時の日本軍内では明治の後半辺りから軍紀弛緩、つまり軍隊内の規律の乱れが問題になっている。特に『対上官犯』(上官に対しての反抗)で軍法会議に掛けられる者の数はかなり増加している」、「ましてこれは目的もはっきりとしない戦争。平時の国内でも遵守出来ない軍紀が、いつ死ぬかも分からぬ戦時の戦地・占領地で守れないのも当然のこと。さらに上部からくる現場を知らない行き当たりばったりの無茶な命令。南京陥落の時は、司令官が17日に入城式典を行うと言い出し、南京の警備を担当した第16師団ではその時までの5日間に、南京市内に万単位でいる敗残兵を掃討する必要があった。かなり無茶な命令であり、これも事件の原因の一端になった」、「当時の日本では中国蔑視の風潮もあり、さらに内務書では軍隊内の規律と戦場での服従・忠節・勇敢を強調していたが、戦地・占領地で住民や俘虜に対してどうするべきかは全く規定していない。しかも南京攻略軍には兵站部隊(食料・弾薬などの補給部隊)がついていなかった。このため食料は現地徴発となっていた。(兵站部隊がいないのは、現地軍が参謀本部の命令なしで勝手に進行したため、当たり前)」、「『南京事件』では当時の日本軍が抱えていた、この辺の矛盾が一挙に吹き出す形となった。日本軍は俘虜にしても食わせる食料が無いとして投降兵を殺害。敗残兵掃討を理由に南京市内で略奪・放火・暴行・強姦を行った」と見なすのが通説である。

【中国軍の抵抗止む
 12.13日零時頃、中国軍の抵抗が止み、城南一帯の砲声や銃声も途絶え、南京の戦場には異常な静寂がやってきた。

日本軍が首都南京を占領
 12.13日、日本軍は首都南京を占領した。「12月13日南京陥落、17日に日本軍の正式入城」となる。この時の考察も、肯定派のそれは弱く、否定派の独壇場となっている。

 予ねての打ち合わせでは、選抜2個大隊だけを南京城内に入れる手筈であったが、各部隊が命令を守らず、どんどん入城していくことになった。

 城内に入り込んだ日本兵は7万余に膨れ上がった。これにつき、東京裁判で証言台にたった中山寧人中支那方面軍参謀は、「城壁の抵抗を排除した余勢にひきずられたこと、城外の兵営や学校などは中国軍又は中国人によって破壊され、又は焼かれて日本軍の宿営が出来なかったこと、城外は水が欠乏していて、あっても飲料にならなかった」からだと証言している。

 「中支那方面軍は、翌13日朝から南京城内外の『残敵掃蕩』を開始した。各師団、各部隊に担当地域が割り当てられ、作戦は徹底、周到なものになった」(笠原「南京事件」)。中支え旦那方面軍司令部の「注意事項」は無視されたということになる。

第10軍の司令官・柳川平助中将の下令
 第10軍の司令官・柳川平助中将の下令は、次のようなものであった。
 丁集団命令(丁集作命甲号外)
一、[丁]集団は、南京城内の敵を殲滅せんとす。
一、各兵団は城内に対し砲撃はもとより、あらゆる手段を尽くして敵を殲滅すべし、これがため要すれば、城内を焼却し、特に敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す(「南京戦史資料集」)

 上海派遣軍第9師団の歩兵第6団長・秋山義兌少将は、「南京城内掃蕩要領」及び「掃蕩実施に関する注意」で次のように指示している。
一、遁走せる敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるをもって、その疑いある者はことごとくこれを検挙し、適宜の一に監禁す。
一、壮青年はすべて敗残兵又は便衣兵と見なし、全てこれを逮捕監禁すべし。(「南京戦史資料集」)

 日本軍の『残敵掃蕩』により、かなりの兵士と城内の居住区住民が国際委員会の管理する安全区へ殺到した。その一部は門内に押し入ることに成功した。逃げ遅れた兵士達は投降兵となった。その数優に日本軍兵士数を上回り、治安上、食料対策上由々しき問題となった。

 第し6師団長・中島今朝吾中将日記には、「だいたい捕虜はせぬ方針となれば、片端よりこれを片づくるこことなしたれども、千、五千、一万の群集とならばこれが武装を解除することすらできず、ただ彼等がまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いて来るから安全なるものの、これがいったん騒擾せば、始末に困るので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、13日夕はトラックの大活動を要したり。(中略)後に至りて知りたるところによりて、佐々木部隊だけにて処理せしもの約1万5千、大平門における守備の一中隊長が処理せしもの約1300、その仙鶴門付近に集結したるもの約7、8千人あり、なお続々投降しきたる。この7、8千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、二百に分割したる後、適当のケ所に誘きて処理する予定なり」(「南京戦史資料集」)とある。

中国軍による焼き払いか、日本軍の暴虐か
 南京城にたいする攻撃以降の動きについて、肯定派と否定派の見解が齟齬している。この時パニックに陥った南京に暴行、掠奪、強姦事件が発生したことは双方認める史実である。ところが、肯定派は当然に日本軍の為した仕業としてるが、否定派はその多くは逃亡中の中国軍側による所業であったとしている。

 「歴史教科書」は、後段の東京裁判のところで「南京事件」に関する追加的な説明をして、民衆にも多数の死傷者が出たということにつき真偽不明であり、論争があることをつけくわえている。概要「「この東京裁判では、日本軍が1937(昭和12)年、日中戦争で南京を占領したとき、多数の中国人民衆を殺害したと認定した(南京事件)。なお、この事件の実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」(295P)。
【肯定派の見解】
 肯定派の観点は次のところに立脚している。「南京事件が、日本軍の戦争犯罪として特別の注目を集めたのは、戦闘の結果として『民衆にも多数の死傷者が出た』という次元の問題ではなく、戦闘中も、さらにとくに戦闘終了後も、捕虜と一般民衆にたいする殺戮行為が大規模におこなわれた点にあった。その肝心の事実をぬきにした叙述は、とてもこの事実を正当にとりあげたものとはいえない」。

 この観点を踏まえて、林氏の文章には次のように記されている。概要「南京城にたいする攻撃は、12月10日から開始され、13日には日本軍の手中におちた。国民政府は漢口に逃げのびていた。そしてその日から、日本兵は捕虜の虐殺をはじめた」、「その後も、みさかいもなく一般民衆にたいする虐殺がつづくのであり、15日の夜だけで2万人が殺されたといわれる。ドイツ人を責任者として南京につくられた国際救済委員会は、4万2千名が虐殺されたと推計し、そのほか、南京進撃の途上で30万人の中国民衆が殺されたと見積もられている。このニュースは世界に大々的に報道されたが、日本人は、戦後の東京裁判で追及されるまで、この事件を知らないでいた」。

 当時、旅団長として攻撃を指揮した佐々木到一(陸軍中将)は、「南京攻略記」(1965年発刊「昭和戦争文学全集」の別巻「知られざる記録」)を著わしており、その中で次のように書いている。「〔13日〕午後2時ごろ概して掃蕩(そうとう)をおわって背後を安全にし、部隊をまとめつつ前進、和平門にいたる。その後俘虜(ふりょ・捕虜のこと)ぞくぞく投降し来り、数千に達す、激昂(げっこう)せる兵は上官の制止をきかばこそ、片はしより殺戮(さつりく)する。多数戦友の流血と十日間の辛惨(しんさん)をかえりみれば、兵隊ならずとも『皆やってしまえ』といいたくなる。白米はもはや一粒もなく、城内にはあるだろうが、俘虜に食わせるものの持合せなんか我軍には無いはずだった。

 〔十四日〕城内にのこった住民はおそらく十万内外であろう。ほとんど細民ばかりである。しかしてその中に多数の敗残兵が混入していることは、当然であると思われる。(略)敗残兵といえども、尚(なお)部落山間に潜伏して狙撃(そげき)をつづけるものがいた。したがって抵抗するもの、従順の態度を失するものは、容赦なく即座に殺戮した。終日、各所に銃声がきこえた。太平門外の外濠(そとぼり)が死骸でうずめられてゆく」。

 佐々木到一氏の「南京攻略記」は、「南京事件」から1年4カ月後の1939年4月、彼が「戦場記録――中支作戦編」と題してタイプ印刷を完了していた草稿を収録したものだとのこと(巻末の橋川文三氏の「解説」による)。戦争の指揮者が書いた記録だけに、この記述には生々しさがある。

 ただ、ここでは、捕虜の虐殺は激昂した兵士の自然発生的な行為だとされ、また一般住民の殺戮も「抵抗するもの、従順の態度を失するもの」への対応として説明されているが、その後の研究では、捕虜や一般住民の殺害を命じた上級からの指示・命令が多く紹介されている。大虐殺事件は、兵隊が一時的な激昂にかられておこなった偶発的な事件ではなく、日本軍による捕虜と一般住民の組織的な殺戮だった(これまでの研究をまとめた最近の本には、藤原彰「南京の日本軍 南京大虐殺とその背景」(1997年、大月書店刊)などがある。

 「交戦法規に違反する兵士の殺害、傷害。南京事件における被虐殺者数で、もっとも多かったのは、『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約』(1907年ハーグ平和会議で締結、日本は1911年に批准)で禁止された『武器を捨て又は自衛の手段尽き降を乞える敵を殺害すること』に反して殺害された中国兵である。敗残兵、負傷兵、投降兵、捕虜などの殺害がこれにあたるが、武器、軍服を放棄して国際安全区(難民区)内に逃げ込んでいた中国兵が『便衣兵狩り』の名目で殺害された事例も多い」。

 「民間人の犠牲で数量的に多かったのは、南京から避難、脱出しようとしているところを敗残兵とともに殺害されたり、日本軍の『残敵掃蕩戦』によって集団的に虐殺された市民である。なかでも嫌疑をかけられた成年男子の犠牲者数が突出している。民間人は避難先や残留先においてそれぞれ犠牲になっている。避難の典型的タイプは、老人が家を守るために留守番役で残留し、女性、幼女が付近か難民区があればそこに避難し、男性、男子が食糧と身の回り用具をまって比較的遠く避難する、というものだった。なお南京付近にとどまった民間人は、安全な遠隔地に移動、避難するツテと財力を有しない貧しい階層の人々が圧倒的であった。南京近県の農村で殺害された女性4380人のうち、83%以上が45歳以上の婦人であった(そのうち約半分が60歳以上)。彼女らは、従来残忍な攻撃から安全であると考えられていたので、なけなしの家、財産を守るために残っていて殺害されたのである。南京城内の南部の人口密集区でも、多くの老人(特に女性)が留守を守って残留し、攻め込んできた日本兵に虐殺された。城内では、60歳以上の男性の28%と女性の39%が殺されたことになるという」。

 肯定派のこの認識はそれとしても、被虐殺者数、被害者数の%表示するものの実数を明記し得ていないという点で問題がある。これは史実を語る上で逆の手法であろう。まず実数を確定して%表示が意味を持つのではなかろうか。

 肯定派は、日本軍による掠奪の背景には次のような事情があったと推定している。「捕虜処遇に関し、南京事件の場合すこしばかり事情が違っていた。ある部隊では、捕虜をとるなという奇妙な命令が出されていた。1938年 1月14日、歩兵第30旅団の佐々木支隊長は『(各隊は担当区域を)掃討し 支那兵を撃滅すべし。各隊は師団の指示あるまで俘虜を受けつくるを許さず』 という命令を発している。つまり掃討作戦において、捕虜を作らず皆殺しにせよという命令でした。 これは佐々木支隊にかぎらず、それを統括する第16師団全体の方針でした」と云う。

 その裏付け資料として、師団長の中島今朝吾中将の日記(1 2月13日)に「捕虜掃討」という項目でに次のように記されているとある。「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとなしたる(れ)ども、千、五千、一万の群衆となれば、これが武装を解除することすらできず、ただ彼らがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるものの、これがいったん掻擾(騒擾)せば、始末にこまるので、部隊をトラック にて増派して監視と誘導に任じ、13日夕はトラックの大活動を要したり。 (中略)後にいたりて知るところによりて、佐々木部隊だけにて処理せしもの約1 万5千、大平門(太平門)における守備の一中隊が処理せしもの約1300, その仙鶴門付近に集結したるもの約7,8千人あり、なお続々投降しきたる。 この7,8千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、二百に分割したる後、適当のヶ処(箇処)に誘きて 処理する予定なり」。

 こうした捕虜虐殺の方針は、当時の日本軍の実状からすれば起こるべくして起こったと、その事情を笠原十九司教授は次のように解説している。「近代戦においては、大部隊は前線部隊と後方の兵站部隊とに分かれ、前線 の戦闘部隊は後方の兵站部からの食糧・軍事物資の補給をうけながら前進していく。したがって、前線部隊のあらたな前進は、兵站部が補給可能な位置まで移動してきてから行うのが常識であった。ところが、中支那方面軍の独断専行で開始された南京攻略戦ではこの作戦常識が無視された。上海派遣軍の場合、もともと上海周辺だけを想定して派遣 された部隊であったから、各師団の兵站部は最初から弱体だった。それにもかかわらず、前線部隊は『南京一番乗り』を煽られ、補給を無視 した強行軍を余儀なくされたのである。そのため、中支那方面軍は糧秣(食糧 と軍馬の飼料)のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。これは『糧食を敵中に求む』、『糧食を敵による』という戦法であり、通過地域の住民から食糧を奪って食べることであった」。

 つまり、日本軍自体の糧食兵站部の補給が追いついておらず、敵地から収奪する手法を採った。この状況下での突然降って湧いたような数千人いや数万人に達する捕虜のための食糧調達はほとんど不可能であった。こうした事情からも、捕らえた捕虜を殺すことになり、こうして狂気に満ちた殺害がくりひろげられたと推定している。

 その一例とし て、「幕府山虐殺」がある。第13師団の山田支隊は南京陥落後、遅れて揚子江南岸に沿い南京をめざ して進撃していた。一行が幕府山と揚子江にはさまれた道にさしかかった とき、難民と化した大群の軍民に遭遇した。このときの体験を第5中隊長 代理の角田栄一少尉はこう回想しています。「私たち120人で幕府山に向かったが、細い月が出ており、その月明かりのなかにものすごい大軍の黒い影が・・・。私は『戦闘になったら全滅だな』 と感じた。どうせ死ぬならと度胸を決め、私は道路にすわってたばこに火をつ けた。(中略) ところが近づいてきた彼らに機関銃を発射したとたん、みんな手をあげて降参してしまったのです。すでに戦意を失っていた彼らだったのです」。

 大勢の捕虜を捕獲したのは、角田少尉が所属する両角(もろずみ)部隊の 「大武勲」でした。しかしこの大量の捕虜は、山田支隊長にとってたいへんな重荷だったと、山田少将は陣中日記にこう記している。「12月14日他師団に砲台をとらるるを恐れ、午前四時半出発、幕府山砲台に向かう、明けて砲台の付近に到れば投降兵莫大にして始末に困る。捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せしところ、14,777名を得たり。かく多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元 門外三軒屋に泊す。 12月15日捕虜の始末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。膨大な捕虜の処置を上海派遣軍司令部に指示をあおぎに行かせたところ、入場式を控えて敗残兵・捕虜を徹底的に殲滅する方針でいた上層部から、捕虜の全員処刑を命じられたのでした。その命令に従い山田少将は捕虜の虐殺を実行しました」、「12月16日晴れ。捕虜総数17,025名、夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に 引出し一(第一大隊)において射殺す。一日二合給養するに百俵を要し、兵自 身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしと の命令ありたるもののごとし」 。

 歩兵第65連隊第8中隊遠藤高明少尉の陣中日記にも次のように記されている。「12月16日晴れ。二、三日前、捕慮(捕虜)せし支那兵の一部5,000名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃をもって射殺す。その后、銃剣にて思う存分突き刺す。自分もこの時ばが(か)りと憎き支那兵を30人も突き刺したことであろう。山になっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼お(を)もひひ (し)がん勇気が出て力いっぱい突き刺したり。ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りもいれば子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首をも切ってみた。こんなことは今まで中にない珍しい出来事であった。・・・ 帰りし時は午後8時となり、腕は相当つかれていた」。   

 山砲兵第19連隊第3大隊黒須忠信上等兵の陣中日記。「翌日、残りの捕虜も同じように虐殺されました。しかし、銃殺された死体の中には、生き残っている人も当然います。そうした人たちは後に大虐殺の惨状を告発する可能性があります。そのため、日本軍にとって殺害は一人残らず徹底的におこなう必要がありました。そこで総仕上げとして考えられたのが、あぶり出しでした。山のように折り重なった死体の上に、まきや燃えるものを無造作にばらまき、それに石油をかけて焼きました。熱さにたまらず手足を動かしたところを銃剣で突き刺して とどめを刺しました。こうして完璧な処理を終えた1−2万の死体を揚子江に運び、川に流しま した。この死体処理だけでも連隊総掛かりで二日間を要したとのことです」。
【偕行社の見解変遷】
 旧陸軍将校の会・偕行社は機関誌「偕行」に中国人民に深く詫びるという一文を掲載した。「偕行」は1982年頃、実際に 南京攻略戦を行った人たちの体験談を掲載し、「南京大虐殺はなかった」とか「世間に宣伝されているような故意の大虐殺などなかった」という論調を掲げ ていた。しかし、相次ぐ研究により南京虐殺の全体像が明らかになるにしたがい、「偕行」は南京虐殺の事実を認め、細部の認識はともかく 認識の一大転換を為し、中国人民に詫びるという劇的な編集部論文を発表し歴史認識を正した。
【否定派の見解】
 否定派は、南京攻略戦の最終局面での日本軍の蛮行につき考察が弱いように見受けられる。その観点は次のところに立脚している。(以下、略)

「中華民国臨時政府」と称する御用政権を樹立させる
 12月14日、日本軍が北京に、「中華民国臨時政府」と称する御用政権を樹立させた。これに国民党政府が反発し、外交交渉が完全に行き詰まることになった。蒋介石政府は、武・漢からさらに奥地の重慶に居を移した。

日本国内で南京陥落祝賀会挙行される
 日本国内では前日の南京陥落を祝賀する大々的な行事、活動が政府・官庁・教育界の肝いりで繰り広げられ、マスコミ・ジャーナリズムが戦勝気運を更に煽り立てた。東京ではこの日の夜、市民40万人が繰り出して大提灯行列を行い、皇居がこうした群集で埋まった。

 昭和天皇より、南京占領を喜ぶ「御言葉」が下賜された。「陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下御言葉」、「中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる迫撃を行い、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この皆将兵に伝えよ」(「南京戦史資料集」)。

松井大将が、入城式の挙行とそれまでに掃蕩作戦を指示
 松井大将日記には、「一同感涙、ただちに全軍に令達するとともに、奉答の辞を電奏す」とある。松井大将はこの日、同軍参謀長の塚田攻少将に「12.17日に全軍の入城式を挙行するので、それまでに掃蕩作戦を終えるように、南京の上海派遣軍参謀長飯沼守少将に伝えるよう」指示した。

 こうして17日に入城式が行われることになったため、その安全確保と威信発揚の為、14日から17日にかけて、南京城内外で全軍あげての徹底した「残敵掃蕩・殲滅」作戦が遂行されていった。上海派遣軍司令官・朝香宮鳩彦王中将(久邇宮朝彦親王の第八子)は皇族で、「宮様」をお迎えしてもしもの不祥事は許されなかったという事情があった。もしもの不祥事の発生は一大事で関係者の引責問題になるのが必死であった。こうして虱潰しで便衣兵の摘発に向かっていくことになった。

 難民区に、12.12日夜からの南京防衛軍の崩壊により、撤退する機会を失った多くの敗残兵が、武器を捨て、軍服を脱いで逃げ込んできていたが、この動きは日本軍に知れ渡っており、難民区一帯に対して徹底的な「敗残兵狩り」が行われていくことになった。難民区の「敗残兵狩り」を担当したのは、第16師団と第9師団の部隊であった。

【「残敵掃蕩」の実態について】
 入城した日本軍は、「残敵掃討戦」に入った。但し、この所業についても、肯定派と否定派の見解は大きく相違している。ここでも実証的なのは否定派である。
【肯定派の見解】
 肯定派は次のように述べている。「城内に進撃した日本軍はほとんど組織的な抵抗を受けることはなかった」と認識しているが、「こうして捕捉した大量の捕虜を、国際法(ハーグ陸戦法規)違反の手法で計画的に殺害した」ことを論難している。これについては、次で述べる「便衣兵問題」についても同様である。「南京占領にともなう民間人の虐殺は、当初『敗残兵狩り』、『便衣兵狩り』のかたちで進行し、1938年1月中旬頃まで続いた」としている。

 秦郁彦氏は、著書「南京事件」の中で、何故、このような大量虐殺事件が起こってしまったかの理由として、次のように推定している。

 軍紀の乱れと長い戦争によって日本兵士が不感症になってしまったため。
@ 上海戦では苦戦し、多数の犠牲を払ったが、日本居留民の保護という明確な戦闘目的があったので、軍紀は崩れなかった。
A しかし南京攻略戦には納得できる戦闘目的がなく、故郷は帰還する期待を裏切られ、苦戦を予期した兵士たちは自暴自棄的な心境になった。
B 追撃戦が急だったため、弾薬、食料の補給が追いつかず、兵士たちは徴発という名目の略奪で空腹をしのぎ、幹部も黙認した。略奪のついでに強姦もやるようになった。
C 略奪、強姦の横行におどろいた軍司令部は禁令を発し、憲兵を巡回させて取締りを始めたが、補給は改善さらないので、禁令は無視された。中級幹部や古参下士官は、生きた証拠を残さぬよう、強姦したら殺せ、と兵を指導するようになった。
D 残虐行為をくり返しているうち、兵士たちは不感症になり、軍人、市民を問わず無差別殺人を平気でやるようになった。
 日本軍が捕虜をつくらない方針であった。
 これは、「中島今朝吾第16師団長日記」を見ればわかる。この日記は南京攻略にあった中島今朝が陣中でつづった日記である。なお、「片付くる」とはを捕虜となった中国人を殺すこと、「処理」とは殺すことである。「大体捕虜はせぬ方針なれば、方端より之を片付くることとなしたれ共、千、五千、一万の群集となば之が武装を解除することすら出来ず、唯彼等が全く戦意を失ひろぞろついて来るから安全なるものの、之が一旦騒擾せば始末に困るので、部隊をとらっくにて増派して監視と誘導に任じ、一三日たはとっくの大活動ヲ要したり。乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速には出来ず。斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば、参謀部は大多忙を極めたり。後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇、其仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人あり。尚、続々投降し来る」。
 「この七、八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し、中々見当らず。一案としては百、二百ニ分割したる後、適当のか処に誘きて処理する予定なり」。
 中国軍の戦意損失を狙って計画的に虐殺を行った。
 これは、フランク・キャンプラ監督作品の『日中戦争』(大陸書房、1991年)というビデオで紹介されていた仮説である。
 日本兵は戦争意識がなかった。満州事変からはじまり、宣戦布告がないまま戦争に突入した為、日本兵に戦争意識がなく、国際法を無視してもいいという感情があった。
 日本人の中国人への差別意識。当時の日本人が中国人に対してかなりの差別心を持っていた為、中国人に対しては何をしてもいい、国際法を無視していいという感情があった。
【否定派の見解】

 否定派は次のように分析している。
 当時の中国は地方軍閥が敗退した後、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党との激しい内部抗争のさなかで、言い直せば中国は一つの国ではなかった。国共合作前は、国民党対共産党対軍閥対日本軍との四すくみの内戦が続いていた。その中で、いわゆる8年戦争の間、本当に日本と戦っていたのは、正規軍ではなく地下ゲリラだった。この地下カゲリラと国民党との戦いが発生しており、「中国人被害の一部はこのゲリラによるもの」との指摘は的を射ている。中国兵の中には制服を脱ぎ捨て、ゲリラに加わった例も認められており、とにかく錯綜している。

【「便衣兵」問題】
 日本軍の「残敵掃討戦」は「便宜兵」摘発に入った。ここに「便宜兵問題」が発生している。便衣隊作戦というのは、正規の軍服を着用した兵隊が時と場合によって百姓服や常民服に着替えて、敵の油断をみはからい、隠し持った武器で敵を奇襲する戦術のことである。なかには最初から常民服で、いわゆるゲリラ戦をやる者もいる。当時中国の排日、抗日教育は徹底しており、婦人や子供までが、夜間信号筒をあげて日本軍の所在を知らせたり、老婆が買い物かごの中に手榴弾を秘匿して運搬したり、百姓姿の便衣兵に夜襲されたり・・・・、このため日本軍は多くの思わぬ犠牲を強いられた。

 但し、その規模、実態、正当性についても、肯定派と否定派の見解は大きく相違している。ここでも実証的なのは否定派である。
【肯定派の見解】
 肯定派は次のように述べている。「多くの中国兵が軍服を脱ぎ捨てて隠れたため、『便衣兵(制服を着ていない兵隊)狩り』と称して、元兵士や一般市民の男性を無差別に拉致連行して集団虐殺しました。捕虜殺害を戦闘行為であるとしたり、『便衣兵狩り』を対ゲリラ戦闘であるとする意見もありますが、全く戦闘能力を失ったものに危害を加えることは明らかに国際法(ハーグ陸戦法規)違反であります」。
【否定派の見解】

 否定派は次のように分析している。
 南京虐殺のデマゴギーの一つに難民区からの便衣隊の摘出問題がある。そもそもこのような問題が生起したのは、便衣戦術をとった当時の国民党軍と、難民区を管理した国際委員会の責任であって、上海の南市における難民区(ジャキーノ・ゾーン)のように、管理者が厳然と、兵器を取り上げ、常民と区別して名簿を作成するなり、あるいは一所に拘置しておけば問題はなかったのである。

 
南京陥落寸前、中国軍が便衣に着替えて、難民区に潜入するさまをダーディン記者は次のように報道している。「日曜日(12月12日)の正午(中略)、侵略軍(日本軍)が西門(水西門)付近から城壁をよじのぼると(筆者〈注〉第6師団三明部隊の一番乗り)、中国軍の崩壊が始まった。第八八師の新兵がまず逃走し、たちまち他の者がそれに続いた。夕方までには大軍が下関(シャーカン)の方へあふれ出たが、下関門(把江門)はまだ中国軍の手中にあった(筆者〈注〉このとき把江門でパニック状態が起き、人なだれとなって多くの中国人が死傷している)。将校たちは(この)状況に対処することもしなかった。一部隊は銃を捨て、軍服を脱ぎ、便衣を身につけた。記者が12日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽と言ってもよいほどの光景であった。多くの兵士は下関(シャーカン)へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に入り込んで便衣に着替えてくる者もあった。中には素っ裸となって一般市民の衣服をはぎとっている兵士もいた・・・・」(AU282P)。

 
「日曜日の夕方には中国軍は安全区全体にひろがり、多数の者が、一般市民から便衣を盗んだり、頼んでゆずってもらったりした。“一般人”が一人もいない時は、それでも兵士達は軍服を脱いで下着一枚になっていた。軍服とともに武器も遺棄されて、街は小銃・手榴弾・剣・背のう・軍服・軍靴・ヘルメットでうずまるほどであった。下関付近で遺棄された軍装品の量はおびただしいものだった。交通部の前から2ブロック先までは、トラック・砲・バス・指揮官乗用車・荷馬車・機関銃・小火器がゴミ捨て場のように積み重ねてあった」。

 
「日曜日(13日)いっぱい、中国軍部隊の一部は市内の東部および西北地区で日本軍と戦闘を続けた。しかし袋のネズミとなった中国軍の大部分はもう闘う気力もなかった。何千という兵士が外国人の安全区委員会に出頭し、武器を捨てた。委員会はその時は日本軍が捕虜を寛大に扱うだろうと思ったので、降伏してくるものを受け入れるほかなかった。中国軍の多くの集団が個々の外国人に身をまかせ、子供のように庇護をもとめた」(AU290〜1P)。

 米南京副領事館エスピー氏は本国政府に次のように報告している。「市民の大部分は南京国際委員会の計画設定するいわゆる『安全地帯』に避難しおり、相当数の支那兵を巧みに捕捉するはずなりしが比較的少数なりしなり、実際に残留せる支那兵の数は不明なれども、数千の者はその軍服を脱ぎ捨て常民の服を着て、常民に混り市内のどこか都合良き処に隠れたるに相違なきなり」。

 また氏の東京裁判への提出書類は次の通りである。「ここに一言注意しおかざるべからざるは、支那兵自身日本軍入城前に掠奪を行いおれることなり。最後の数日間は疑なく彼らにより人および財産に対する暴行・掠奪が行われたるなり。支那兵が彼らの軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には、種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎ取るための殺人をも行いしなるべし。また退却する軍人及び常民にても、計画的ならざる掠奪をなせしこと明らかなり。すべての公の施設の機能停止による市役所の完全なる逼塞(ひっそく)と支那人と大部分の支那住民の退却とにより市に発生したる完全なる混乱と無秩序とは、市をいかなる不法行為をも行い得らるる場所となし終われるなり。これがため残留せる住民には、日本人来たれば待望の秩序と統制との回復あるべしとの意味にて、日本人を歓迎する気分さえもありたることは想像せらるるところなり」(法廷証第328号=検察番号1906号中の一部を弁護人が朗読したもの=速記録210号)。

 「東京日々新聞」は、12月20日の夕刊に、〔18日志村特派員発〕として、戦前から南京にとどまっていた某外国人(特に匿名)の日誌を抜粋して、外人の見た戦慄の南京最後の模様を報道している。それによると次のように記述している。
 「7日早朝、蒋委員長が飛行機で南京を脱出したが、「この蒋委員長の都落ちが伝わるや、全市民は家財を抱えて難民区へなだれ込んだ」。
 つまり市民は一人残らず難民区へ逃避したとみてよかろう。また8日には次のように記述している。
 「馬南京市長らもまた市民を置き去りにして逃げだし、郊外の支那軍は民家に火を放ち、南京付近は四方に炎々たる火焔起こり、市内また火災あり、逃げ迷ふ市民の姿はこの世のものとは思われぬ」。
 支那兵特有の敗走時の掠奪はそのころ極限に達したことは容易に想像できる。

 電信、電話はもとより、電気も水道も途絶え、市内が掠奪・放火の無政府状態に陥ったのはこの頃からである。日誌にはこうある。
  「12日、城外の支那軍総崩れとなり、87師、88師、教導総隊は、学生抗日軍を残して市内に雪崩れ込み、唐生智は激怒して彼が指揮する36師に命じ、これら敗残兵を片っ端から銃殺するも、大勢如何ともする能はず、唐生智もまた憲兵と共に夜8時ころ何処ともなく落ちのぶ。敗残兵の放火、掠奪なさざるはなく、恐怖に陥る。電灯は消え、月光淡く、この世の末すと疑はる。電話全く不通となる・・・・」(「東京日々新聞」12.20)

 これを裏付けるように、南京に入城した日本兵は正規兵が便衣に着替えるため脱ぎ捨てた軍衣袴や軍靴、軍帽、兵器類等のおびただしい散乱を見ている。16日午後、中山門から郵便車で入城した佐々木元勝氏は、城内で見た情景を次のように述べている。
 「本通り、軍政部から海軍部にかけ数町の間は、真に驚くべき阿鼻叫喚の跡と思われる。死体はすでに片ずけられたのか少ないが、小銃や鉄兜や衣服が狼藉を極め、ここで一、二万の支那兵が掃射されたかと思われるばかりである。これは支那兵が軍服を脱ぎ捨て、便衣に着替えたものらしくあった」(佐々木元勝著『野戦郵便旗』216P)。
 
 軍司令部付岡田尚通訳官は、13日、入城時の南京城内の様子を次のごとく語る。
 「市内じゅう軍服、ゲートル、帽子が散乱していました。これはすごい数で一番目に付きました。中国兵が軍服を脱いで市民に紛れ込んだのです。中国兵にしてみれば、軍服を着ていると日本軍にやられますから当然とおもいます」。松井大将は『陣中日誌』の中で「難民区に遁入せる便衣兵数千・・・・・・」
 とにかくこの数千とみられる便衣兵を、国際委員会は何らのチェック手段も取らず、無条件で潜入せしめたことになる。
 
 以上によっても裏付けられるように、数千の敗残兵が安全区内に遁入し、民服に着替え身を隠しいわゆる便宜兵となった。日本軍がこれを14日と16日の2回にわたって摘出し処断している。本格的に便衣兵の摘出をはじめたのは、12月24日以降のことである。この時は憲兵が、治安維持会の中国人立ち会いのもとに行われ、約2千人が摘出された。が、この約2千人はすべて外交部に送られ捕虜としての待遇をうけている(佐々木到一少将回顧録)。

 支那事変で日本軍をもっとも悩ましたのは、前記の“清野作戦”と“便衣隊作戦”であった。但し、“清野作戦”については戦争の常なる事象でもあったからして、これが問題というより受け止めるしかなかった。が、便衣兵問題については新たな事象であり、安全区との絡みがあったので対応に苦慮せざるを得なかった。最大のトラブルであったといってよかろう。

 この便衣兵に悩まされたかについて、松井軍司令官は「支那事変日誌抜粋」の中で次のように述べている。
  「敗走せる支那兵がその武器を棄て所謂『便衣兵』となり、執拗なる抵抗を試むるもの尠からざりし為め、我軍の之に対する軍民の別を明らかにすること難く、自然一般良民に累を及ぼすもの尠からざりしを認む」(田中正明著「松井石根大将の陣中日誌」71P)。

 松井大将は宣誓口述書の中でも次のように述べている。
  「支那軍は退却に際しては所謂『清野戦術』を採り、所在の重要交通機関及び建築物の破壊焼却を行わしめたるのみならず、一部将校は所謂『便衣兵』となり、軍服を脱ぎ、平衣を纏ふて残留し、我が将兵を狙撃し、我軍の背後を脅かすもの少なからかず、付近の人民も亦あるいは電線を切断し、あるいは烽火を上ぐる等、直接間接に支那軍の戦闘に協力し、我軍に幾多の危難を与へたり」(前掲書207P)。

 いうまでなくこのような便衣兵は、陸戦法規の違反である。日本軍はしばしばこの違反行為にたいし警告を発したが、馬耳東風で、中国軍は一向に改めようとしない。このような便衣隊戦術は、常民と兵隊との区別がつかないため、自然罪もない常民に戦禍が及ぶことは目に見えており、そのため陸戦法規はこれを厳禁しているのである。中学・高校の歴史教科書には「武器をすてた兵を殺害した」といって、いかにも人道にもおとる行為のごとく記述しているが、武器を捨て、常民姿になったからといって、それで無罪放免かというと、戦争とはそんな甘いものではない。今の今まで戦っていた便衣兵が、武器を捨てたからといって、捕虜のあつかいを受け、命は助かるかというと、そうはいかない。

 戦時国際法によると、便衣兵は交戦資格を有しないものとされている。交戦資格を有するものは、原則として、正規の軍人ならびに正規の軍人の指揮する軍艦又は軍用機となっている。「1907年の陸戦法規によると、(民兵または義勇兵でも)次の条件をそなえる場合のみ、交戦資格を有するものとしている。

(1) 部下のために責任を負う統率者(指揮官)があること。
(2) 遠方から認識することのできる固有の特殊標章を有すること。
(3) 公然と兵器を携行していること。
(4) 戦争の法規および慣例に従って行動していること」

 こうした条件からいっても、便衣兵または便衣隊は「交戦資格」を有するものではない。「交戦資格を有しないものが軍事行動に従事する場合には、敵に捕らえられた際、捕虜としての待遇は与えられず、戦時重犯罪人としての処罰を受けなければいけない」(以上は田畑茂二郎著「新訂国際法」(下)203P)。

 さらに、我が国の国際法の権威である信夫淳平博士は次のごとく述べている。「非交戦者の行為としては、その資格なきになおかつ敵対行為を敢てするが如き、いづれも戦時重罪犯の下に、死刑、もしくは死刑に近き重罪に処せらるるのが戦時公法の認むる一般の慣例である」(信夫淳平著「上海戦と国際法」125P)。

 「便衣隊」を論ずる場合、我々はまずこのような戦時国際法の概念を頭に入れておく必要がある。われわれはフランスのレジスタンス運動者がドイツのゲシュタポに発見され次第、裁判もかけないでその場で処刑される場面をいくどもニュース映画で見ている。

【後送された傷病兵と埋葬者 … 南京と上海戦闘地域の関係】
 この問題に対して、否定派のそれは弱く、肯定派の独壇場となっている。
 【肯定派の見解】肯定派は次のように分析している。

 上海戦での戦闘は、日中双方とも死闘に次ぐ死闘で、多くの戦死傷者を出したが、中国の場合その負傷者は、主として南京および蕪湖方面に後送された。その南京に後送された傷病者の数はいったいどの位になるかについて、畝本正巳氏は『証言による「南京戦史」』の中で次のようにくわしく述べている。「11月25日の中支那方面軍特務部長の中央に対する報告によると、『上海の支那軍83個師団のうち、その半数は損耗しており、その実戦力は約40万内外』といわれる。上海の激戦地に逐次増援して83個師団の大兵力となった中国軍は、約4ヶ月間に累計10万人の死傷者を出したことになる。これらの死者は現地において処置され、負傷者は逐次後送されたのであろうが、後送された負傷兵の数はどのくらいになるであろうか」、「当時における日本軍の戦死者と負傷者の比率からみて、少なくとも15万以上の負傷者が南京に後送された計算になり、3ヶ月に及んでいるので、1ヶ月5万人、1日平均1700人が連日南京に後送されたことになる」。 

 これらの負傷者は、一時南京にとどまり、逐次重傷者は船で漢口へ、あるいは陸路江北に移送されたものと思われる。しかし南京の病院で陣没して城内の墓地に埋葬されたものも相当数あるはずと推測している。

 なお、第16師団参謀長中沢三夫大佐は次のように述べている。
 「南京は11月下旬より、遠く南方戦線の戦死傷者の収容所となり、移転せる政府機関、個人の私邸まで強制的に病室に充てられ、全市医薬の香が、びまんしたる状態なり。これに生ぜし死者もまたすくなからず」。

 全市に医薬の香りがびまんしたという表現は、前述の「東京日々新聞(現毎日新聞)」がスクープした某外人の日記の中にも「25日(11月)戦死傷者の南京後送で、移転後の政府機関はもちろん、私人の邸宅まで強制的に病室にあてられ、全市医薬の香りがびまんし、軍人の町と一変した・・・・」、とおり、すでに11月25日ころから南京全市が兵站病院の観を呈した様子がうかがえるのである。

 中沢参謀はさらにこう言っている。
 「入城時、外交部の建物は、大兵站(へいたん)病院開設せられあり、難民とともに外人の指導下にありて、数千を算する多数の患者を擁(よう)し、重傷者多し。日々、3、40名落命しつつありたり。これらの処理を、運搬具乏しき当時如何にせしや疑問にして、付近に埋葬せられたること確実なり」(東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬死体の中には、当然これらの死体が相当数あったはず)。

 もし1日平均3、40名死亡したとすれば、その他、鉄道部、軍政部門の傷兵医院、中央医院などの兵站病院を合計すれば、平均1日100名内外の死亡者を生じたものと考えられる。上海の激戦は8月下旬以来約3ヶ月間続いたから、上記の計算を準用すると、約9000人が南京において陣没したものと推測される。

 なお南京戦における中国軍の戦死者の数をダーディン記者は3万3000と推測している―――これらも紅卍字会によって埋葬されたわけだが、これらの城内墓地の埋葬死体数を、すべて日本軍による《虐殺死体数》であると東京裁判では判決しており、中国側も、日本の虐殺派の人々もそのように主張している。しかしこれはとんでもない錯誤であり、虐殺数を増すための作為的な虚構であるといわなければならない。

 以上が陥落直前までくりかえすがようであるが、南京の掠奪と放火および若干の殺害は、すでに日本軍占領以前の時期、完全アナーキーの状態の中で、実在していたのである。しかも埋葬された死体数イコール日本軍による虐殺数として計算するがごとき、悪意に満ちた、作為的レポートを、われわれは鵜呑みにする訳にはいかないことを明記しておきたい。以上が南京の実情である。南京事件はこのような状況の中に日本軍が突入したことをまず念頭におく必要があろう。 
【否定派の見解】否定派は次のように分析している。

マスコミの提灯記事極まる
 この間報道陣は、「未曾有の盛時、敵の首都への皇軍の入城」という観点から一大セレモニーとしてプロパガンダしていった。

「南京入城式」
 12.17日午後1時半定刻通りに南京入城式が挙行された。松井は朝香宮、柳川両軍司令官以下を率いて中山門から入り、海軍の長谷川支那方面艦隊司令長官らと合流、旧国民政府庁舎に至る中山路に整列した各部隊の兵士達を馬上から閲兵しつつ行進した。「未曾有の盛事、感慨無量」と松井日誌に記されている。

 12.18日午後2時より城内飛行場で全軍の慰霊祭が挙行された。前日とはうって変わって風強く小雪のちらつく天候であった。松井石根大将が東京裁判のおりに語った言葉に次のような話がある。
 「南京事件はお恥ずかしい限りです。・・・・私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは支那人に対してはもちろんだがロシア人に対しても俘虜の取扱、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角、皇威を輝かしたのにあの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまったと。ところが、このあとみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った」。

【陸軍内部の足並みの乱れ】
 軍部は、「中国全土の大半を制した」と豪語したのがこの頃である。が、実態は点と線を確保したというに過ぎないことがこの後次第にはっきりしてくることになる。この頃、大本営内部において陸軍と海軍の意思疎通がますます為されなくなりつつあり、陸軍内においても、陸軍本部と陸軍省間に相反する方針が出されるようになった。

 笠原氏の「南京事件p192」では次のように記述している。
 「南京攻略戦は参謀本部の作戦計画にはもともとなかったため、南京を陥落させたものの、次に実行すべき、明確な作戦が陸軍中央にはなかった。陸軍中央部内に、国民政府と停戦・和平を目指す勢力と、国民政府を一挙に壊滅させ、傀儡政府を樹立して、これに代えようとする勢力、すなわち不拡大派と拡大派の対立があったことも、無策の原因となった」。

【その後の南京】
 12.17日の「南京入城式」後十日ほどして各部隊は次の戦地に移動していったようである。

 12.21日、城内粛清委員長の肩書きをもらった佐々木到一少将・歩兵第30旅団長は、月末から年頭にかけて苛烈な便衣兵狩りを再開するのである、と秦氏「南京事件」P107に書かれている。12.26日には宣撫工作委員長の任をも辞令されている。

 12.22日、松井中支那方面軍司令官は、海軍の水雷艇に便乗して南京を去り、長江を下って上海に向かった。その日の日記に「上海出発以来丁度2週目にして南京入城の大壮挙を完成し、帰来する気持ちは格別なり。これより謀略その他の前後措置に全力を傾注せざるべからず」と記している。

 12.22日、朝香宮軍司令官は時期作戦準備に熱心で、占領直後より幕僚部へ計画案の作成を督励し、この日飯沼参謀長に除州へ向かう北進作戦計画を提出させている。

 笠原氏の「南京事件p191」では概要「総勢7万以上の日本軍が前後して南京城内に進駐し、10日前後の『休養』を過ごした。第16師団(師団長・中島今朝吾中将)と若干の軍直属部隊が南京警備に残留した。更に第13師団が長江北の六合県一帯を警備することになった」と記述している。

 笠原氏の「南京事件p193」では次のような書かれている。
 「『休養の十数日』の兵士たちの日記からは、入城式直後に、戦勝、凱旋、帰国の話でもちきりであった様が窺われる。帰還前のみやげ話にと、おのぼりさんよろしく、中山陵(ちゅうざんりょう)や明孝陵(めいこうりょう)、更に名所旧跡や南京市内を参観する南京見物も流行した。入城式以後は大規模な掃蕩作戦は峠をこえ、基本的には戦闘行為はなくなった」。
 れんだいこは、これが実際の様子ではなかったかと推測する。

 ところが、続いて次のような記述になる。
 「そして、多くの部隊では、市内に繰り出して避難して無人となった商店や倉庫に浸入し、酒や菓子や種々の嗜好品を徴発(略奪)してきて、それぞれのやり方で戦勝祝賀をもよおし、郷土のお国自慢の素人芸能会まで行い、帰還、凱旋気分に酔った。勝利者の当然の権利と考えて、戦利品をみやげにしようとした略奪が横行した。明故宮の古物保存所にあった文化財をはじめとして、凱旋記念として貴重な文化財を略奪して自分の背嚢にしまい込む兵士も多かった」。
 この辺りまではあったかも知れない。しかし、生き死にが問われている戦場で背嚢にしまい込む兵士が居たとして何ほどのものを積み込むことができるだろう。この裏づけ証言はあるのだろうか。

 続いて婦女強姦シーンを次のように記述する。「酒によって解放気分になった者、逆に酒気を帯びて粗暴になった者、いずれにせよ無礼講的雰囲気の中で、気まぐれからの市民殺害、気晴らしの為の家屋・商店の放火等々、日本軍の不法行為はエスカレートしていった。中でも、深刻となったのが、婦女凌辱行為の激発だった」。ここで一気に大虐殺事件を思わせる記述に転換しているが不自然な気がする。

 その裏づけがフィッチの日記であるとして次のように付け加えている。
 概要「12.16日には、『敗残兵狩り』のため民家や難民収容所に入った日本兵が、婦女子を見つけて凌辱する事件が多発した。『敗残兵狩り』は、兵隊がグループに分かれて中国人の民家に一軒一軒侵入し、徹底的に捜査するかたちを取ったため、お押し入った部屋の奥に隠れている婦女子を発見すると、強姦や輪姦行為に及ぶことになった」。
 「12.17日、略奪・殺人・強姦は衰える様子も無く続きます。ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて1000人の婦人が強姦されました」。

 マギー牧師の日記は次のように記している。
 「日本軍の入城式前後から激増した強姦事件が、一日千件以上も発生し、最初の一週間で8000人以上の女性が犠牲にされる中で、彼ら(安全区国際委員)は婦女凌辱に対する闘いに大変な時間を費やした」。
 「もっとも多かったのは、強姦された女性を早く病院へ連れて行き、妊娠しないように膣の洗浄をさせること、などであった」。

 マイナー・S・ベイツ(南京安全区国際委員会の中心メンバー、金陵大学歴史学教授、40歳)は次のように記している。
  「有能なドイツ人の同僚達(南京安全区国際委員会委員長ラーべらのこと)は、強姦の件数を2万件と見ています。私にも8000件以下とは思われません。いずれにしても、それを上回る数でしょう」。

 ヴォートリン日記は次のように記している。
 「クリスマスが来た。街には、依然として殺戮、強姦、略奪、放火が続き、恐怖が吹き荒れている。ある宣教師は『地獄の中のクリスマスだ』と云った」等々を記している。「難民区外さらに広大な城外近郊区で行われた多くの婦女凌辱行為は、記録する者も証言する者もなく、歴史の闇に葬り去られている」。

【「南京大虐殺」の期間と範囲と規模について】
 日本軍が南京占領時に30万人の虐殺をしたと いう「南京大虐殺」説が今も中国政府の公式見解になっているが、それを世界に最初に知らせたとして有名になったのが、マ ンチェスター・ガーディアン紙の特派員として、事件当時南京にいたオーストラリア人記者H・J・ティンパーリーによる 「戦争とは何か−中国における日本軍のテロ行為」である。その第一頁にティンパーリーは「華中の戦争だけでも、中国軍の死傷者は少なくとも30万人になり、一般市民の死傷者も同じくらいであった」と書いた。スノーもこれを下敷きにして「アジアの戦争」で「上海・南京間の進撃中に、30万人の人民が日本軍に殺されたと見られているが、これは中国軍の受けた死傷者とほぼ同じくらいであった」と述べた。
   
 ところが、最近、このティンパーリーが実は蒋介石の「国際 宣伝処」の手先だったことが明らかになった。蒋介石に委任さ れて「国際宣伝」を担当していた曾虚白の自伝で次のような一 節が見つかったのである。
 「我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと 決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを検討した。・・・このあとティンパーリーはそのとおりにやり、・・・二つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した」。

 更に次のように述べられている。
 「スマイスは南京にあった金陵大学で社会学を担当していたアメリカ人学者で、南京事件後に戦争被害の実地調査を行い、戦闘行為以外の暴行による民間人死者2400という数字を出した。この数値は少なすぎるとして、「30万人虐殺」を主張する一派からはカッコ付きで扱われている。そのスマイス博士す ら、実は国民党の国際宣伝処の手先だったというのである」(文責:伊勢雅臣)。

【れんだいこの南京大虐殺事件見解】
 さて、概略見てきたが、史実はどちらの言い分が正しいのだろう。私には、少なくも「南京事件」に限定して云えば、否定派の見解が概ね正確なのではなかろうかと思われる。このことは、大東亜戦争の批判的総括と矛盾しない。むしろ、肯定派の安易な政治主義的フレームアップ手法こそが大東亜戦争の史的総括に水を差し続けているのではなかろうかと思われるばかりである。

 念のため付言すれば、虐殺がなかったと言おうとしているのではない、相当数行われたであろうことは各証言が語られているところである。云われるような軍の組織的指揮下での大堵殺、大虐殺ではなく、史上の戦争一般に見られる勝利者側に付きものの横暴なアナーキー的圧制が相当に現出した事件であったのではなかろうか。直接戦闘行為以外による被害死傷者数の実数は、数百ないしは数千名規模ではなかったか。もう一つ考えられるのは、大虐殺があった場合、兵站食糧の不足が真因であり、日本軍の糧食さえ行き届かぬ中で捕虜を抱え、これを維持する余裕がなく始末することになったようである。しかしこの場合でも、現場の指揮官は上官に伺いを立てて指示を仰いでいる様子が伝えられている。

 この認識、指摘の重要性は次のことに関係する。日本軍最高指揮官松井大将は東京裁判でこの時の責任を問われ、絞首台の露と消えたが、もしこの罪が妥当とされるなら、他にも同様な目にあわねばならぬ将校が相当数いるのではなかろうか。仮に虐殺が為されたとして、食糧問題が絡んでいたとするならば、果たして松井大将の責任であろうか。これらの角度から論議されねばならないことのように思われる。従来の肯定派、否定派の議論に欠落しているのがこの観点からの考察であるように思われる。

【「東京裁判判決」について】
 ちなみに、東京裁判判決では、次のような事実認定が行われている。
 概要「1937.12.13日の朝、日本兵は市内に群がって様々な残虐行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒らし汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。兵隊は個々に、又は二、三人の小さい集団で、全市内を歩き回り、殺人・強姦・掠奪・放火を行った。そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩き回り、遂には所によって大通りに被害者の死体が散乱したほどであった。他の一人の証言によると、中国人は兎のように狩り立てられ、動くところを見られたものは誰でも射撃された。これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少なくとも1万2000人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。多くの強姦事件があった。犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しでも反抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまった。多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の最初の1ヶ月に、約2万の強姦事件が市内に発生した。後日の見積もりに拠れば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が15万5000に及んだ事実によって証明されている」(南京事件東京裁判資料)。
【肯定派の見解】
 肯定派は次のように認識している。
 南京大虐殺事件の期間をどこに設けるかという問題もあり、肯定派は、 「虐殺は南京攻略の途中においてもすでに発生しており、また翌1938年3月ごろにもまだ続いていました」としつつ、1937.12.13日を起点とし、最大1938.6月までの期間としている。極東国債軍事法廷では、「1937.12.13日から1938.1月まで」としているようである。1938.2月以降も残虐行為は依然として継続していたが、再び大規模に行われることはなかったとの理由に拠るようである。

 場所の広がりも、南京城内だけでなく、近郊農村を含む南京特別区全面にわたっており、一般市民の被害は郊外の方が甚だしかったともいわれていますと認識して「南京城内だけでなく、城外の郊外の農村をも含む範囲」としているが、これを更に上海戦闘から南京攻略戦までの経過まで含める論者もいるようである。その理由として、「南京大虐殺事件は、南京地区だけに止まらず、上海付近から始まり南京が落城した後の掃討戦まで続いている」としている。これらの観点から、「南京大虐殺の範囲を、城内だけや陥落後の二三日に限定し、あるいは旧軍の公式記録(それらは大部分が敗戦時に証拠隠滅され、一部はいまも隠匿されています)だけを数えて、虐殺は少数であったと強弁した輩もいましたが、彼等の論理はすでに論破されています」としている。

 「最近の詳細な研究をもってしても、南京大虐殺の犠牲者の数は少なくとも十数万人、あるいは二十万、三十万としか分かっていません。しかしながらこれらの数字にこだわるよりも、三千万人を超える犠牲者を出したアジア太平洋戦争の象徴的始まりとして、南京大虐殺を捉えることが重要であると考えます(ちなみに日本人軍民の死者は約350万人です)」 としている。

 (財産権の侵害)
 日本軍は南京において戦闘行為とは直接関係のない掠奪、放火を長期にわたって行った。南京に残留していた市民が概して貧困な階層であったが、これらの貧しい残留家族の財産が損害を受けた。南京大学のルイス・S・C・スマイスやM・S・ベイツら南京国際救済委員会の調査によれば、南京城内の建物の73%が全部掠奪の被害を受けた。中心的なビジネス街では、多くの店が兵隊によるときおりの掠奪をうけたのち、軍用トラックを使用した本格的な掠奪をうけ、最後には放火されて焼失した。

 放火は日本軍の南京入城一週間後にはじまって2月の初めまで行われ、市全体で、建物の24%が焼失した。そして、焼け残った家の家具や衣料、食糧、現金などがはぎ取られるように日本軍に掠奪された。南京近郊の農村では広い地域にわたって、40%の農家が焼かれ、家畜や農具の半分近くが失われ、7家族に1人の割合で家族が殺された。

 日本軍の掠奪はあらゆる物におよんだが、とりわけ食料品、防寒のための寝具、衣料、手袋、および戦利品としての現金、宝石、装飾品、時計などが多かった。日本兵は難民収容所の難民からも、なけなしの現金、時計類を奪ったりし、通りゆく市民からも同様におどし取った。日本への凱旋、帰還のみやげのつもりで明故宮の古物保存所(現在南京博物館)から文化財を組織的に掠奪した部隊(第16師団所轄の福知山第20聯隊)もあった。

 (生存権・生活権の侵害)

 日本軍の残虐行為による無数の住宅の破壊や生活手段、生産手段の破壊は、かろうじて日本の暴行の手を逃れた一般市民の生活に重大な障害と苦痛をもたらした。日本軍の占領が長期にわたっただけにその被害も深刻であった。

 さきの南京国際救済委員会の調査によれば、夫や父親を失って家庭を破壊されたものは南京市内にとどまった家族の七分の一におよぶ。また救済を希望した1万3500家族のうち16歳以上の婦人全体の14%が働くささえの夫を失った未亡人であった。金陵女子文理学院に収容された難民5500人のうち、420人の婦人が生活の助けをうけていた男性を日本人によって殺されている。全体の死傷者のうち、男子の割合は、全年齢をつうじて64%で、30歳から44歳の者では76%という高い数字に達した。かれらは、兵士の疑いをかけられた働きざかりの男たちであった。親が殺されたり、父親が拉致されたり、あるいは家族離散によって家庭を破壊された子どもたちは更にいたましかった。

 家庭破壊はのがれても、多くの市民は、商売や製造、労働などの生産手段を奪われたまま、また衣食住の生活手段を破壊されたまま、餓死、凍死、病死の恐怖におびやかされ、生存権、生活権を侵害されつづけた。

 南京の近郊農家の場合、生存権、生活権の侵害は更に深刻であった。農家の建物の40%が失われ、役畜、主要農具、貯蔵穀物、作物などが甚大な被害を受けた。畑の小麦は兵隊が馬の飼料にし、野菜は兵隊が好んで掠奪(江寧県と句容県では野菜畑の作物のほぼ半分が損害を受けた)、食糧、種用の貯蔵穀物は「調達」、「徴発」の名で掠奪された。南京の近県五県の推定人口121万1200人のうち、春耕の準備の始まる3月になっても移動したまま現地にもどってこなかったのは、49万6590人(41%)に達すると推定された。

 こうした農民の再生産活動の破壊は、やがて作物不足となり、穀物不足となって、都市住民の生活をおびやかすことになる性質のものだった。「南京大虐殺事件」は、以上のような諸々の蛮行の総体をさすものとして理解しなければならないだろう。(1991年12月14〜15日、南京大虐殺事件54カ年真相を明らかにする全国集会の討議資料に一部手を加えました、とある)

 (捕虜処置の方針)

 日本軍はみずからの将兵が捕虜になることを不名誉なこととして厳しく禁じていました。このような精神の自然の延長として、戦争において敵兵の捕虜を得た場合に、彼等を虐待し、虐殺してもよいとする風潮が生ずることになりました。さらに実際に南京攻略時のように大量の捕虜が発生したときには、下の3)で述べるように自軍の補給でさえも確立していなくて、まして捕虜への給養など考えていませんでした。そこで「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリコレヲ片付クルコト」(第16師団長、中島今朝吾の陣中日記)にも見られるように、捕虜虐殺は組織的に実行されました。

 (食糧の「調達」)

 日本軍の作戦には、現実的な兵站(へいたん=弾薬・食糧などの補給)の計画が軽視されていて、弾薬はともかく、食糧は多くを「現地調達」に頼っていました。従って戦闘の合間に、小部隊単位で民家に入って食糧を「調達=掠奪」せざるをえなくなり、これが次第にこうじて食糧以外の金品財産を強奪し、拒まれると虐殺し、あるいはレイプなどの性暴力に及ぶ過程を生んでいきました。(この兵站軽視が、敗戦の前には「名誉の戦死者」の大部分が餓死であったという、自滅の道に導くことになります。)
【否定派の見解】
 否定派は次のように認識している。
 「南京大虐殺は作り話」である。南京戦に参加した数万の日本軍将兵も取材にあたった約120人の新聞、雑誌社の特派員やカメラマン、その他占領直後南京に入城した西条八十、草野心平、大宅壮一、小林秀雄、野依秀一、杉山平助、林芙美子、石川達三といった著名な詩人、評論家、作家だれ一人として見たこともない、噂すら聞いたこともない事件であり、全くなかったことなのです。しかも日本人だけではない、国際都市南京は、占領後も残留民は第3国人50名以上もおり揚子江には米英の艦隊がおり、ニューヨーク・タイムズ、シカゴ・トリビューンA・Pの特派員、パラマウントのカメラマン等、外人記者5名もいたのです。彼らも大虐殺など見ていないし、南京大虐殺などというような記事はどこにも流布されていないのです。(参照『南京事件の総括 虐殺否定の15の論拠』謙光社 田中正明著)(参照『真説南京攻防戦』近代文藝社 前川三郎)

 「南京大虐殺は東京裁判で突如現れ、一部のマスコミにより大宣伝されたもの」である。事件発生から東京裁判までの間に蒋介石の国民党政府から国際連盟に対してただの一度も提訴されていない。南京占領後9年を過ぎた東京裁判の渦中に、何十万人もの南京大虐殺事件が突然降って湧いたように現れ、今では事実無根の南京大虐殺が教科書にまでのっているのです。なお、この時検察側が起訴状や陳述等に挙げた数字は、「員数不詳な数万」・「概略26万人」・「数万」・「我が同胞27万9586人」・「被殺害者確数34万人」・・・。そして、判決文でも、「総数は20万人以上であった」・「十万人以上の人々が殺害され云々」。つまり、「虐殺」されたと称する南京市民の数が確定されていない。

 世に「証拠写真」とされている物の多くが、国民党軍兵士による匪賊の処刑場面であったり、やらせ写真・合成写真であったり・・・この様な物を「証拠」として「南京大虐殺はあった!!」と報道するマスコミもどうかと思います。これはソ連が満州で惨殺した時の写真を日本の朝日新聞が使って南京大虐殺として宣伝したのに端を発したのです。

 更に、南京陥落当時、入城する日本軍を市民が歓呼の声で迎えたと言う証言もある。何故、南京市民は歓迎したのか? それは、「義和団事件」当時、北京に進駐した日本軍同様、治安を維持し自分達市民の安全を保障してくれると考えたからに他ならない。こう言った証言を封殺し、「南京大虐殺はあった!!」と主張する左翼・反日日本人達。彼らこそ、正に、百害あって一理無い「国賊」・「売国奴」の名に相応(ふさわ)しいとは言えないでしょうか?

 南京当局が南京郊外の江東門近くに「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(30万人大屠殺記念館)」を建設中に、半本氏らの教科書是正グループらが、南京当局に対して、建設の中止を申し入れた際、同当局は、「日本社会党書記の田辺誠氏が二度も頼みに来たので建設しているんだ、30万という被害者数は政治的数字だ」と返答したということである。つまり、「30万人」と言う数字が「歴史的事実」では無く、「政治的数字」であると、シナ側が自ら認めたことになる。半本氏はそれを全国の新聞社に報告しましたが、国民新聞(平成元・12.25)だけがこの話を記載した。

 さらに日本の一民間人が同記念館の隣に平和記念館を建設し、その中に贖罪慰霊碑を置いて日本人観光客一万人に懺悔させようという動きがある。この計画に元総理大臣までが加わっている(平成6.4.25国民新聞)というものです。元総理大臣までこんな愚行を演ずるのは真実を知らぬからでしょう。真実を知らぬということは大変なことです。

【日中戦争泥沼化する】
 南京陥落後も蒋介石率いる国民政府は屈服せず、むしろ武漢(漢口と武昌よりなる)に事実上の首都機能を維持し、抗日戦の強い意志を掻き立てていった。国民党と共産党との「国共合作」が一層緊密となり、第三勢力といわれた民主諸党派も結集し、日中戦争は泥沼の中に入り込んでいくことになった。

 1.1日、市内の治安状況も逐次回復し、元旦のこの日「中支那方面軍特務部の指導で、遅ればせながら住民代表による自治委員会が結成され、市政府の役割を事実上代行していた国際難民区委員会から行政責任を引き継いだ」(秦「南京事件」P162)。但し、「正月以降も、国際委員会は、概要『統治する能力も自信も無い』(「一ドイツ人の見聞記」)行政能力の低い自治委員会を肩代わりして、精力的な救援活動を続けた」とある。

 武藤章らの中国一撃打倒論は目論見が外れ、長期戦を覚悟していくことになった。政府・近衛内閣は事態を収集すべく昭和12年10月よりドイツを仲介役に和平工作を進め、一時は蒋介石もドイツの調停に応じることを表明する時期もあったが、1938.1.15日大本営政府連絡会議は、国民政府との和平交渉(トラウトマン工作)の最終打ち切りを決定し、翌1.16日近衛首相が「帝国政府は爾後国民政府を相手にせず」との政府声明を発表した。既に北京に中華民国臨時政府なる傀儡政府を作っており、第二の満州国建国を夢見ていた。但し、参謀本部内の多田駿参謀本部長らが引き続き和平交渉論を説いた為、「御聖断」を仰いだところ、昭和天皇は交渉打ち切りに断を下している。

 1月上旬過ぎより、日本軍の南京大虐殺事件が南京にいた外国人記者の報道によって世界に知らされるようになり、南京のアメリカ大使館が作成した日本軍の残虐・不法行為に関する膨大な記録と報告が本国の国務省や東京のアメリカ大使館に送信され、同じくドイツ大使館のローゼン書記官等の詳細な日本軍の暴行記録が本国に報告されたりして、南京事件が世の明るみに晒される事になった。石射猪太郎の1.6日日記には、「上海から来信、南京における我が軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目も当てられぬ惨状とある。ああこれが皇軍か。日本国民民心の頽廃の発露であろう。大きな社会問題だ」とある。元教育総監真崎甚三郎大将の1.28日日記には、「(上海派遣軍を視察してきた衆議院議員の江藤源九郎予備役少将の報告を聞いて)軍紀風紀頽廃し、これを建て直さざれば真面目の戦闘に絶えずということに帰着せり。強盗、強姦、掠奪、聞くに忍びざるものありたり」(「南京戦史資料集」)とある。

 こうした経緯があって、参謀本部は、松井中支那方面軍司令官の本国帰還を命じた。これに対し、松井の日記は「予は心中極めて遺憾にしてまた忠霊に対しても申し訳無き次第」(1.31日)、「予の離任は実際自負にあらざるも時期尚早なることは万人認むるところなるべきも」と記している(松井石根大将陣中日記)。

 2.14日、大本営は、中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍の戦闘序列を解き、新たに中支那派遣軍(司令官・畑俊六大将、参謀副長に武藤章大佐留任)の戦闘序列を下令した。

 2.16日、司令官を解任されて上海を去ることになった松井は、司令部の訣別式において、「南京占領後2ヶ月間における大本営及び政府と予の意見に相違ありて、遂に予の欲するところを実行しざりし苦衷を述べ、今頃万事を中途のままに帰還する予の胸中の苦悶と感慨を述べた」(松井石根大将陣中日記)

 3.28日、中支那派遣軍の工作により中華民国維新政府が南京に樹立された。この頃から治安もほぼ回復し、安全区の難民も帰る条件のあるものはほとんど自宅に戻った、とある。(笠原「南京事件P214」)。

 「国体の本義」(文部省 1937年)は次のように記している。
 「現今我が国の思想上・社会上の諸弊は、明治以降余りにも急激に多種多様な欧米の文物・制度・学術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨り、厳正な批判を欠き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である」(中略)。
 「今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。こゝに我等の重大なる世界史的使命がある」。

【1938年以降の歩みは、「大戦前の動き」の項に戻って記す】







(私論.私見)