兵士証言、日誌資料に纏わるいかがわしさについて3

 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).8.14日

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 南京大虐殺事件の真偽問題において、怪文書的なものを動かぬ証拠として突きつけ、結論を誘導しようとする悪質なサイトに気付いたのでコメントしておく。

 2015.02.18日 れんだいこ拝


【云い得云い勝ち論法考】
 「南京大虐殺」について論旨を解析しておく。要するに、このサイトは怪文書の要件を備え過ぎている。一つは内容に責任を持つ者としての執筆者が隠されていること。二つは「Copyright(C)2002 Allrights Non Reserved」としていることである。その上で書き付けている内容は、これまで知られていないような証言をかなり持ち込んでおり、こういう場合には精査を要するべきであるが、それができないように著作権仕掛けしている。こういう論法を俗に子供騙しと云う。こういうものに際して取るべき態度は、賢明にも鵜呑みしないことである。本来は、新規証言のそれぞれの内容につき精査し、これを逐一確認してコメントしたいが、「Copyright(C)2002 Allrights Non Reserved」棒を振り回す臭いがするので近寄らないことにした。

【証言考】
 「★阿修羅♪ > 中国5」の「赤かぶ 日時 2015 年 4 月 16
」「米記者が旧日本軍の暴行を非難、「南京の街には腰の
高さまで遺体が積み重なっていた」―中国メディア」。

米記者が旧日本軍の暴行を非難、「南京の街には腰の高さ
まで遺体が積み重なっていた」―中国メディア

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150415-
00000032-xinhua-cn

FOCUS-ASIA.COM 4月15日(水)16時36分配信

 中国の英字紙チャイナデイリー(電子版)は14日、米国人記
者ランディ・ライト氏が父親の話しをもとに執筆した第2次大戦
に関する記事を掲載した。旧日本軍の南京での暴行に触れ、
「事実は教科書を改訂して消えるものではない。日本の態度
は次世代に対する裏切りと欺瞞だ」と批判している。15日付
で中国日報網が伝えた。

 第2次大戦で米国兵として戦ったライト氏の父親は、戦場に
ついて「まるでモノクロ映画のようだった」と語る。90歳になっ
た今もなお、当時の光景を鮮明に覚えている。「当時の日本
人は好戦的な民族だった」。知的好奇心を刺激されたライト氏
は、ネット上で目撃者の証言に触れ、旧日本軍が南京で犯し
た数々の暴行について知る事となった。

 旧日本軍は当時、南京で市民を大量虐殺し、街には腰の高
さまで遺体が積み重なっていたという。日本がアジアで犯した
数々の罪はナチスドイツが欧州で犯した罪と同じであり、アジ
アや真珠湾で戦争を発動したのは日本の方である。だが、日
本は教科書に嘘を記述し、次世代を裏切り、騙そうとしている
。日本の行為は自らの悪評をさらに高めるものであり、どんな
に否定しても事実を消し去ることはできない、と記事は指摘し
ている。

(編集翻訳 小豆沢紀子)

コメント
03. 2015年4月16日 18:06:16 : b5JdkWvGxs
機銃掃射した後、ガソリンを上から撒いて生きたまま焼
き殺したんだよ

TV番組「兵士たちが記録した南京大虐殺」をみて
4月6日の深夜、「日本テレビ」で放映したNNNドキュメン
ト08「兵士たちが記録した南京大虐殺」(50分・ディレク
ター=中村明)という番組をみた。
説得力があった。

福島に住む小野賢二さんが、地元出身の元日本兵の
「陣中日記」を丹念に掘り起こした記録だが、そこに刻
まれた事実には重みがあった。
小野さんは「当時書い
たものと現代の証言とは違う。証言は本人の考え方が
変わると変化するので限界がある」
として、当時戦場で
書かれた「陣中日記」に徹底的にこだわった。その日記
を入手するために、元兵士を探しあて実に20年の時間
をかけている。よくて1年に1冊入手するペースだったと
いう。それも、小野さんは学者ではなく製造業で40年働
いている労働者であり、その合間に調査を続けた。
小野
さんがこだわったのは、福島・会津若松の「歩兵65連隊
」という一つの部隊だった。発掘した「陣中日記」には、
補給路をもたず「徴発」(略奪)しながら進軍する様子、
そして南京を陥落したものの大量の捕虜に困り果て、
虐殺に及ぶ経緯を見ることができる。
日記には「捕虜兵
約3千を射殺」「捕虜残部1万数千を銃殺」という生々し
い文字が残っている。
揚子江の川岸に1万人以上を囲
いこんで、機関銃でダダダダと撃ち殺していくさまは「阿
鼻叫喚」だったと、元兵士が94年撮影のビデオで語って
いる。
揚子江の川岸が選ばれたのは、死体を河に流せ
るので処理が容易だったこと(それでも丸2日かかって
いる)、南京郊外なので外国に情報がもれにくいことな
どがあったという。
元兵士はまたこう語っていた。「銃殺
した死体にガソリンをかけて火をつけた。そして死骸を
銃剣で突いて歩いて、トドメを刺した」と。
「なぜガソリン
をかけたのか?」という質問には、理由を述べることなく「
命令だったから」というだけだった。
「命令だったから」と
いうこの言葉に「職務命令だから」「上からの指示だか
ら」と、おかしいことにおかしいと言わなくなった今の日
本を私は連想してしまった。

http://vpress.cocolog-nifty.com/vp/2008/04/
tv_d64f.html

04. 2015年4月16日 19:01:55 : b5JdkWvGxs

『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』(日本機関紙
出版センター 1987年)

http://blogs.yahoo.co.jp/satoatusi2006/38091729.html

(撮影者 村瀬守保 本人による解説文)
 南京の攻略が大幅に遅れたので、第一線部隊の兵
隊は、厳しい命令を受けて、目が血走っていました。

休止で一緒に休んだ時の話をきくと、
「南京一番乗りは
師団の至上命令だ。南京へいけば、女はいくらでもいる
し、酒もある。速くいったものは、やりたいほうだい、なん
でもやれるぞ
と上官からハッパをかけられているのです
戦国時代の将軍が、敵の都市を攻略するときに、部
下の将兵に、獲物を与えたと同じやり方が、南京攻撃
にも使われていたのです。
十二月十日午後五時、脇坂
部隊がようやく光華門の城壁に、日章旗を翻し、続いて
十三日夕刻には、十六師団が中山門を占領し、完全に
南京を制圧しました。私達輸送部隊はなぜか、二週間
ばかり、城内に入ることを許されず、城外に足止めされ
ていました。  
   

138 219 下関埠頭の河岸を埋める死体(1) 村瀬 下関
埠頭の河岸を埋める死体(1)  (撮影者本人による解
説文)

(17)大虐殺のうわさが…

 ようやく足止めが解除されて、ある日、荷物受領に揚
子江岸の、下関埠頭へ行きました。すると、広い河岸が
一杯に死体でうまっているのです。 岸辺の泥に埋まっ
て、幅十メートル位はあろうか、と思われる死体の山で
した。
揚子江岸で大虐殺が行われた、というその現場
でしょうか、軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平
服の、民間人で、婦人や子供も交じっているようでした。
死体に油をかけて、焼こうとしたため、黒焦げになった
死体も、数多くありました。 死臭で息もつけない中を、
工兵部隊が、死体を沖に運んで流す作業をやっていま
したが、こんなやり方では、一~二ヵ月はかかりそうでし
た。
(撮影者 村瀬守保 本人によるキャプション)

揚子江岸には、おびただしい死体が埋められていまし
た。虐殺した後、河岸へ運んだのでしょうか、それとも河
岸へ連行してから虐殺したのでしょうか。


村瀬守保氏の写真と記録
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/index.htm


目黒輜重連隊兵站自動車第17中隊で非公式の写真
班を務めていた村瀬守保氏は、補給部隊として進行す
る南京攻略戦の後を辿りながら、貴重な戦場の記録写
真を多数撮影し、自ら現像した写真を持ちかえっている
その中には、揚子江岸下関における大虐殺を証明す
る、殺され、焼かれた死体が累々と堆積する現場を

影した決定的な<証拠写真4枚>も含まれている。

以下、『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』(日本機関紙出版センター 1987年)からその一部を引用する。

(14)南京へむかって

 上海付近の敵を制圧した日本軍は、さらに西進して、
円陽、句陽、金壇、鎮江、と次第に南京に迫っていきま
した。
私達兵たん部隊も、それにしたがって、根拠地を
前進いたします。

(写真キャプション)不敵な面魂の若者が、便衣隊のス
パイだ、と捕らえられ憲兵隊に送られました。 おそらくこ
の若者が生きてかえることは、なかったでありましょう。
(写真キャプション)ある部落で昼食の大休止の時、逃
げ遅れた老人と子供が、恐怖におののきながら部屋の
奥に身をかくしているのが、見つかりました。 子供にキ
ャラメルをやろうとしましたが、手を出そうともしません。
涙ながらに語る老婆の訴えをきくと、八十にもなる老婆
がつかまって、二人の日本兵に犯され、けがをしたとい
うのです。 言うべき言葉もありませんでした。


(16) 南京制圧

 第一線に近づくにつれて、部落を通過するたびに、虐
殺死体が目立ち始めました。
部隊は夜おそくまで行進
をつづけ、適当な部落で大休止です。 車両は街道にお
いたまま車両衛兵をたてて、警戒しています。
私達はく
ずれかけている民家を探して、班ごとに分宿です。 土間
にひくアンペラ(竹で編んだゴザ)を探して、穴蔵のように
なっている奥の部屋に踏み込むと、下半身裸の婦人が
、下腹部を切り裂かれて、死んでいます。 少し奥には、
五~六歳の子供が、うつぶせに死んでいました。 プー
ンと、血生臭いにおいが、立ちこめています。
翌朝、出
発前に点検すると、奥の部屋にもう二人、老人が殺され
ていました。
このような虐殺死体は、随所に見られまし
た。 婦人に暴行を加えて虐殺し、女性の性器に棒を差
し込んでおくような、残虐な事例も何回か目にしました。

南京の攻略が大幅に遅れたので、第一線部隊の兵隊
は、厳しい命令を受けて、目が血走っていました。
小休
止で一緒に休んだ時の話をきくと、「南京一番乗りは師
団の至上命令だ。南京へいけば、女はいくらでもいるし
、酒もある。速くいったものは、やりたいほうだい、なんで
もやれるぞ」と上官からハッパをかけられているのです
戦国時代の将軍が、敵の都市を攻略するときに、部
下の将兵に、獲物を与えたと同じやり方が、南京攻撃
にも使われていたのです。

 十二月十日午後五時、脇坂部隊がようやく光華門の
城壁に、日章旗を翻し、
続いて十三日夕刻には、十六
師団が中山門を占領し、完全に南京を制圧しました。

 私達輸送部隊はなぜか、二週間ばかり、城内に入る
ことを許されず、城外に足止めされていました。

 どこからともなく<城内で大虐殺が行われている>、
という噂が流れてきました。
<捕虜を>南京の背後あ
る、紫金山のふもとへかりたて、機関銃を打ちまくって数
千いや、<数万人も殺りくした>というのです。

(17)大虐殺のうわさが…

 ようやく足止めが解除されて、<ある日、荷物受領に>揚子江岸の、<下関埠頭へ>行きました。

すると、広い河岸が一杯に死体でうまっているのです。
岸辺の泥に埋まって、幅十メートル位はあろうか、と思
われる死体の山でした。

 <揚子江岸で大虐殺が行われた>、というその現場
でしょうか、軍服を着た者はほとんどなく、
大部分が平
服の、民間人で、婦人や子供も交じっているようでした
 死体に油をかけて、焼こうとしたため、黒焦げになっ
た死体も、数多くありました。
死臭で息もつけない中を、
工兵部隊が、死体を沖に運んで流す作業をやっていま
したが、こんなやり方では、一~二ヵ月はかかりそうでし
た。

(写真キャプション)虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体。 ほとんどが平服の民間人でした。

(写真キャプション)揚子江岸には、おびただしい死体が
埋められていました。 虐殺した後、河岸へ運んだのでし
ょうか、それとも河岸へ連行してから虐殺したのでしょう
か。

(写真キャプション)工兵隊が死体に鈎を引っ掛けて、
沖へ流す作業をしていました。 一回に数体ぐらいです
から、こんなやり方では二ヵ月以上もかかりそうでした。

http://blogs.yahoo.co.jp/satoatusi2006/38091729.html

05. 2015年4月16日 19:11:36 : b5JdkWvGxs

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。


沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。

つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)

南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、
南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。
するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。

とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。

命令が出てなかったらこっちはしませんよ。

北支の戦争では「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。 だから北支は戦争しにくかったです。

 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
それももちろん命令があったからです。

皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/

06. 2015年4月16日 20:15:47 : b5JdkWvGxs
南京で暴虐の限りを尽くした田所耕造。
http://anarchist.seesaa.net/article/78079481.html


陸軍第114師団重機関銃部隊所属 田所耕造。

『週刊アサヒ芸能』(71年)の取材に答えた当時、彼は53歳。
彼が語った残虐の限り。しかもこれが「命令」なんだから驚くしかない。

女が一番の被害者だったな。年寄りからなにから、全部やっちまった。
下関から木炭トラックを部落に乗りつけて、女どもを略奪して兵隊に分ける。

女1人に兵隊15人から20人くらい受け持たせてね。倉庫のまわりなど、
日当たりのいいところを選んで、木っ葉などをぶらさげて場所をつくる。
赤ケンといって、中隊長のはんこがある紙を持った兵隊たちが、ふんどしを
はずして順番を待つんだ。

いつか女の略奪班長をやったことがあるけど、ゆくと、女たちはどんどん
逃げる。殺すわけにはいかないから、追いかけるのに苦労したもんだよ。
支那の女は技術はうまいね。殺されたくないから、必死なんだろうけど、
なかなかいい。なにしろ上陸以来女の身体にさわったこともないんだから
、いじくりまわしたり、なめまわしたりする。私らは、よくなめ殺すといったもんです。


その凶暴兵は、柳川平助兵団(第10軍)第114師団所属。南京作戦での「働きぶり」によって上等兵に昇進。

そして、血に飢えた「ならずもの部隊」は徐州(シュイチョウ)へ進撃したのだった……。


南京に2ヶ月ぐらいいて、徐州に向かったんだけど、このときだったな、
股裂きをやったのは。ある部落で、みせしめのために女を柳の木に縛りつけ、
両足首にまきつけたロープを2頭の馬の鞍に結び、左右からムチをくれると
股から乳房のあたりまで肉がさける。骨があとに残るんだ。それを部隊
みんなでみている。中隊長もみてみぬふりだった。将校だろうと下士官
だろうと、文句をつけても『ウシロダマ(後ろ弾)だぞ』とおどしちゃう

田所耕造はこの気分が悪くなるような話を得意げに話している。上官を
無視しても、「戦闘」では頼りになった兵士による略奪・強姦・虐殺は
セットで日本軍は容認していたということだ。


川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、
陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山(クンシャン)まで道端に延々と
そういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられて
いて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコが
丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。『チンポコ3万本』と俺たちはいっていたが、3000人以上はいたろうな。遠くからロングに引いてみると、残虐というより壮観だった。

読売のカメラマンで発狂したのもいたな。やったってしようがないのだが、
飛び出してやめさせようとするものもいた。普通の百姓だからといってね。
しかし兵隊はそんなのにかまわずぶっ殺していった。俺か? 俺は残虐な
写真ばかり撮っていたので病膏肓に入っていた。そういう残虐な写真を
撮るのも喜ぶものもいたし、やめとけというのもいた。参謀本部では証拠に
ちゃんと写真を撮っていたな。

以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。

当然のことながら、柳川平助兵団による強姦・虐殺は南京攻略以降の
徐州・漢口作戦でも繰り返されることとなる。

徐州作戦では捕獲したチェコの機関銃がよく使われた。10人、20人と固まって
死んでるのが3キロも4キロもつづく。殺し方もいろんな方法をとった。
3人ぐらいいっしょに木にぶら下げられていたり、首をはねたり。子どもの
首をはねるのだけど、うまいもんだね、皮一枚ちゃんと残るように斬るんだよ。
その瞬間の写真を撮ったけど……

自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている


股裂きなんぞ、東映のモンド映画『徳川いれずみ師 責め地獄』にて鬼才石井監督が撮っていたけど、その遥か以前に日本軍では娯楽の殿堂として「日常風景」だったとは驚きだ。
日本軍って、頭の中が「石井輝男」と同じだったんだな。

「股裂き」の田所耕造が所属していた柳川平助兵団が如何に凄まじい「ならずもの部隊」であったか、従軍カメラマンとして共に行動した河野公輝さんが証言しているな。
これも酷すぎて卒倒するぜ。


蘇州(スーチョウ)の略奪もすさまじかった。中国人の金持ちは日本とはケタがちがうからね。あのころでも何万円とするミンクのコートなどが倉の中にぎっしりつまっているのがあった。寒かったから、俺も一枚チョーダイしたよ。(中略)東京の部隊では赤羽工兵隊というのが一番悪かった。
蘇州の女というのがまたきれいでね。美人の産地だからね。兵隊は手当たりしだい強姦していた。犯ったあと必ず殺していたな。


以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。


以上の証言は河出文庫『証言・南京事件と三光作戦』より引用した。

この本のAmazonでのレビューにこんなのがあったが……

洗脳、と言う言葉がある。
この言葉は元々は中国語だ。日本語ではない。

朝鮮戦争時の捕虜米兵に対して共産主義を信じることをせまった行為を中国共産党が洗脳と呼んでいたのが語源だ。
この捕虜米兵と同じように洗脳された人たちがいる。
日中戦争時に捕虜となった日本兵捕虜である。

生きて日本に帰ることのできたこの日本兵捕虜は「中帰連」(中国帰還者連絡会)と呼ばれ、帰国してから「証言」したものが、南京虐殺やら三光事件やらの
「旧日本軍が大陸でいかに悪いことをやったか」を描いた数多くのプロパガンダ本の基となった。本多勝一の『天皇の軍隊』も彼らの「証言」を基にした著作だという。


さて本書であるが、タイトルの、証言とはいっても上記の中帰連(笑)の生き残りの人たちがメインである。この時点でこの本の客観性や実証性はゼロといっていいプロパガンダ本といっていい。「南京大虐殺」「三光作戦」がウソ、でっちあげの産物であると言うことはネットや書籍を通じてようやく近年常識として広まりつつある。
これも一つの戦後レジームからの脱却と言っていいだろう。


『週刊アサヒ芸能』のインタビューに答えた人間が中共の捕虜だと決め付け、事実を歪曲しているところなんぞ、まさに中共と同じやり口だな。藁


自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている。インタビューを受けた当時でも、自分が行ったことは間違っていないと自慢していた神社の神主であった。三島が自決した日に息子に「お父ちゃんもあんなふうに死ぬのか」と聞かれた彼は、「お父ちゃんが死ぬときは共産党と社会党のやつらを皆殺しにしてからだ」と答えている。
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/182.html


中国山西省に出征した旧軍人のKさんは3年兵の時、トーチカ(砲台)の一室で、4~5人の4年兵が現地女性を連れ込み輪姦している場面に出会った。

4年兵の兵隊が終ると、「今度は3年兵の番だ」と言われ、Kさんは、強姦は犯罪だという認識がなく、単に古兵の命令に従わなければならないと思いそれに加わった。

Kさんはこういう“戦争犯罪に対する無感覚”は戦時中だけではなくて、戦後も変わらなかったと指摘する。戦友会の席上では、このような犯罪が懐かしい話、面白い話として語られるという。

その中には「股裂き事件」という話もあった。ある旧軍人が1944年の
河南戦争前後で見たことだ。中国人女性の片足を木に縛りつけ、もう片足を
馬の鞍に括りつける。そして突然馬のお尻を叩き、驚いた馬が走り出すと、
女性の体が二つに裂けてしまうというものだ。

Kさんが駐在していた山西省旧遼県でも、1941年4月に日本軍隊長が中国語で「勒馬分身」(股裂き)
という方法で殺人を行ったという。そのことは中国側の資料にも記述されている。
http://www.magazine9.jp/kaigai/dai027/index.html

07. 2015年4月17日 06:29:41 : qtiPhUBCWM
「南京大虐殺」などのウソを見破る二つの方法。(国際派日本人養成講座)
http://www.asyura2.com/13/senkyo149/msg/137.html

■2.中韓の自己正当化のための歴史

 近年、我が国は中国の「南京大虐殺」や韓国の「慰安婦問題」など、近隣諸国の歴史攻撃にさらされてきたが、「言いたいことがあっても我慢して、心から謝れば、許してくれる」という日本的な美徳が通用しない相手である事は、誰の目にも明らかになりつつある。

 やはり、相手の非難に対して、歴史事実がどうであったかを徹底的に反論する必要がある。その意味で、河村市長の「南京で歴史に関する討論会をしてもいい。互いに言うべきことを言って仲良くしていきたい」という発言は、国際常識に則った姿勢である。

 歴史のウソを政治宣伝に使うという手段は、古今東西を問わず、広く行われてきた。特に中国の歴代王朝は自らを正当化するために、前王朝の歴史を悪し様に書くことを伝統としてきた。

 現在の共産党政権も「日本軍の侵略から中国人民を解放した」ことを、正当性の根拠としており、そのためにも「南京大虐殺」のように日本軍の悪逆非道ぶりを言い立てる必要がある。

 中国文明の伝統を濃厚に受け継いでいる韓国も同様で、日本帝国主義から国民を解放したことを正当性の根拠としている以上、日本統治が立派であったなどとは、口が割けても言えない。政権末期になると、かならず「慰安婦問題」や「日帝(日本帝国主義)36年の搾取」を言い立てて、国民の不平不満を反日の方向にそらし、支持率を維持しようとする。

11. 2015年4月17日 16:39:45 : XuJX6IO6KQ
死体のヤマとかは嘘だね。

通州虐殺したような残虐中国人と原爆で後ろめたいのか日本軍が大量虐殺したことにして、自分達を正当化しているだけだ。

もうどうでもいい事だが蒸し返すなら日本人は反論するまでだ。
最近は中国と韓国がいかに嘘つきで劣等民族だということが
世界に拡がって来た。戦前の日本人が
彼らをバカにしていた気持ちがわかるようだな。


http://buzz-bomber.com/japanism/archives/
author/japanism

第16師団の中島(今朝吾)師団長の日記に「捕虜はせぬ方針なれば」とあり、これが捕虜虐殺の証拠と言われていますが?

「これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集まっていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」

―――上海派遣軍の中で虐殺があったという話はありませんでしたか?

「話題になったことはない。第2課も南京に入ってからは、軍紀、風紀の取り締まりで城内を回っていました。私も城内を回った」

―――何もみていませんか?

「一度強姦を見た」

2、松井軍司令官付陸軍通訳官 岡田尚(おかだたかし氏 降伏勧告文を翻訳し、軍使に加わる。

「城内には死体はありませんでした。ですから一般市民に対しての残虐行為はなかったと思います」「火事があったとよくいわれますが、私には記憶ありません」「捕虜の話は聞いています。下関で捕虜を対岸にやろうとして(中略)その渡河の途中、混乱がおきて、撃ったと言うことは聞きました」

 「あの南京攻略戦を見てますと、中国軍の中には女がいました。私も女の中国兵が倒れているのを見ています。また敗残兵といっても抵抗するのもいたし、便衣兵というものもいて、これらがやられるのを見ました。これらの屍があとで虐殺と言われたのではないでしょうか?」

4、東京日々新聞カメラマン 佐藤振寿(さとうしんじゅ)氏

―――虐殺があったといわれますが?

「見ていません。虐殺があったと言われていますが16、7日頃になると、小さい通りだけではなく、大通りにも店が出ました。また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まっていましたから、とても残虐な殺しなどがあったとは信じられません」

―――南京事件を聞いたのは?

「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和21年か22年頃だったと思います。NHKに「真相箱」という番組があって、そこで南京虐殺があったとの放送を聞いたのがはじめてだったと思います。

5、同盟通信映画部カメラマン 浅井達三氏

―――同盟通信のなかで虐殺というようなことが話題にならなかったですか?

「なりませんでした。その頃、敗残兵や便衣隊がよくいて、それをやる(処刑)のが戦争だとおもっていましたから」

6、報知新聞従軍記者 田口利介氏

―――南京で虐殺があったといわれますが?

「当時聞いたこともなかったし、話題になったこともありません」

7、同盟通信無電技師 細波孝氏

「トーチカの中だけでなく、揚子江岸にも死体はありました。中には針金で縛ってつないでいたのもありました」
 
  

―――死体の数はどのくらいですか

「さあ、どのくらいか。百人くらいでしょうか。湯山にいた捕虜をやったのでしょう」

8、都新聞記者 小池秋羊氏(12月13日入城)

「城内はどの家も空き家で、物音一つしない死の都市でした。犬・猫の姿一つ見受けられず、不思議な妖気が漂い、街路は激戦の跡とも見受けられない整然とした街並みで、びっくりしてしまいました」
 
―――その他の難民区の様子はどうでした?
 
「敗残兵探しの時は難民も動揺していましたが、一般に平静でした。
また食糧が無く飢餓状態で、食糧をくれと我々にすがりつく人もいました。
 
私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れていき、米や副食品などを大八車2台分やりました。
難民区には6、7万人いたので、これだけでは九牛の一毛だったと思います」
 
―――南京では虐殺があったといわれますが、そういう死体を見ていますか?
 

「虐殺されたものか、戦死体かわかりませんが、中央ロータリーのそばにつくりかけのビルがあり、この地に数体の死体がありました(中略)


13. 2015年4月17日 17:16:57 : karrpp84VA
06番の田所構造とか言う証言は真っ赤な嘘で有名な話だ。
中川隆を逮捕しろ。

元祖ニセ証言者『田所耕三』

南京戦史編集委員、板倉由明氏の著作から
 南京事件でもニセ者、ニセ証言者の絶え間がなく、ハッキリしたものだけでも、古くは田所耕三(兵士)、秦賢介(新聞記者)などあるが、昭和五十八年の朝日新聞で紹介された中山重夫氏もその一人であろう。

『本当はこうだった南京事件』P234 日本図書刊行会 板倉由明著

 『ザ・レイプ・オブ・南京』に引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約十日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べている(『アサヒ芸能』昭和四十六年一月二十八日号)。しかし、彼の所属する部隊は陥落二日後の十二月十五日には南京から転進しており、この人物が十日間も南京に残留できるはずがない。彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと開いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定している。

再審「南京大虐殺」 明成社 竹本忠雄・大原康男著

 田所氏は南京に二ヶ月くらいいたと証言していますがこれはありえません(次頁参照)。また、本人が虚構を認めたということですからニセ証言と断定して問題ないでしょう。

 本宮先生も、写真を書き換えたり、ニセ史料を引用してみたり、存在しない事件を創作してみたりといろいろと忙しいようですが、訂正記事を出す暇はないようで(笑。

 この回も含めて「単行本」にまとめるそうですがどのような手法で反日プロパガンダを行うのか、今から非常に楽しみにしています。
  

<参考リンク>

・171.東中野修道他 「南京事件 証拠写真を検証する」 草思社(2011.10.9.)
http://www.geocities.jp/kawasaki_to/d-nankinsyasin.html


・「南京大屠殺」記念館
 http://satehate.exblog.jp/18629427/


14. 2015年4月17日 17:19:57 : karrpp84VA
↑ 以上引用元

元祖ニセ証言者『田所耕三』(まだあった捏造資料!!(11))
http://www.asyura2.com/13/senkyo149/msg/149.html
投稿者 会員番号4153番 日時 2013 年 6 月 09 日 10:33:50: 8rnauVNerwl2s
(回答先: 「南京大虐殺」などのウソを見破る二つの方法。(国際派日本人養成講座) 投稿者 会員番号4153番 日時 2013 年 6 月 09 日 08:17:10


20. 大和狼 2015年4月19日 09:33:09 : 4bXKnGQAUaNEQ : m9kntU8JgE
http://www.asyura2.com/15/senkyo180/msg/138.html

【南京大虐殺】南京を脱出した蒋介石は書き記した。「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。
 戦争前には思いもよらなかった事態だ。敗れた時の計画を先に立てるべきだった。 撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ。
・中国の軍隊は共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というよりルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。司令官は、ある土地を占領すると最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。】

「この(中国軍の)元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には犯人は日本兵だと言いふらしていたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」(1938年1月3日NYT)
・安全区に逃げ込んだ中国将兵らはアメリカ人教授らのもとで匿われた。彼らは南京で、略奪や、少女たちの強姦などを行ない、それを日本兵がやったと、うそぶいていたのです。この教授たちとは、マイナー・ベイツ、ルイス・スマイス、ミニー・ヴォートリン、ロバート・ウィルソンらです。

Lie_of_Nanjing
【南京大虐殺】「私は(中国軍の)一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(NYT 1937年12月22日付・ダーディン記者)

」南京脱出用の列車に乗り込もうとした民衆に対して、国民党軍はこれを排除すべく銃撃した。指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだと言って一斉射撃を命じたの日本軍が危惧したように、安全区委員会が安全区の中立性を守るためにそこからの中国軍の撤退を繰り返し要求したにもかかわらず撤退しなかったばかりか、中国軍将兵の多くは市民に偽装し、武器を携行して安全区に逃げ込んだ。いわゆる「便衣兵」である。だ。

あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まった。(鳴霞) 督戦隊は「督戦」という腕章をつけ、大型けん銃を構え、約4歩間隔で横に並んで中国兵の後ろにいました。中国兵の突撃部隊を日本軍の方向へと押し出すのが彼らの任務で、後ろへ逃げ出そうとする中国兵は容赦なく撃ち殺されていました。

(第6師団45連隊第11中隊山砲砲兵指揮官・高橋義彦)唐生智南京防衛軍司令長官の逃走後、残された国民党軍は十二日夜に主に3つに分かれて敗走した。1)城外東方向、これは第十六師団が追撃・掃討。2)城外西方の揚子江方向、これは第六師団第四十五聯隊が遭遇し、ほぼ全滅させた。3)残りは軍服を脱ぎ捨て、安全区に潜伏した。
 ・大砲の弾がある限り零距離射撃を行いました。パチンコ弾のようなバラ弾を200発を1コの砲弾で打ち出します。1回に100名位の敵兵が空中に吹き飛ばされますが、敵はここ新河鎮を切り抜けないと逃げ道がないので死にもの狂いの戦闘になりました(第6師団45連隊第11中隊山砲指揮官・高橋義彦)

「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(ジョン・ラーベ)
 しかし、中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵だった。
「この中には非戦闘員も含まれていたことと思うが、武器を持って退却する敵を攻撃することは当然の軍事行動である。住民が混在しておれば被害は免れ得ない。なぜ中国軍は整斉と組織を保ち、白旗を掲げて降伏しなかったのか。」(上海派遣軍参謀・大西一) 揚子江岸にあった数千の中国兵死体について。

 「その日(14日)の夕方から夜にかけて、掃蕩洩れの敗残兵が苦し紛れに放火しだした。これにはさすがの勇士たちも東奔西走、消火にヘトヘトになった。12時すぎ、やっと一段落して寝ようとしたところへ、また情報が入った。『敗残兵が薪炭倉庫に放火、燃焼中』」(歩兵三十五聯隊中隊長・清水貞信)

 ・京都の第9連隊の野田・向井の2人の少尉に、上官がどちらが早く百人を斬ることが出来るか競争せよ、と命じたというが全くのウソです。野田少尉は大隊副官、向井少尉は大隊砲小隊長であり、両方とも部下が銃剣を持って敵陣に突入する部隊の指揮官ではありません。

「十三日に、中山門から城内に入りました。もうこの日は、難民区の近くの通りでラーメン屋が開いていて、日本兵が十銭払って、食べていました。それと、中国人の略奪が続いて、中山路で机を運んでいる中国人や、店の戸をこじ開け盗んでいる者もいました」(東京日日新聞カメラマン・佐藤振寿)

「『当方面の戦闘はこれで終わった。日本軍は捕虜に対しては乱暴は加えぬ。生命は助けてやるから、揚子江を渡って郷里に帰れ』と言った。
 ところが、『大人は揚子江を渡って帰れと言われるが、船がないではないか。船はどうしてくれるか』と申し出たので大笑いとなった」(第二大隊長・成友藤夫)

 南京城陥落後、日本軍は紅卍字会に中国側遺体の埋葬事業を委託した。埋葬記録では手数料搾取のための数字水増しを含めて4万3千体(戦死を含む)。紅卍字会の埋葬能力と作業期間から算出すると実数1万体前後と推測される。この数字には中国側の戦死を含む。30万人とは桁違い。

Follow「南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃が繰り返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(12月12日~13日)の人口は20万から25万であった」(南京地区における戦争被害1937年12月―1938年3月)

「日本兵の屍体は撮ってはいけないと言われていましたが、私は何でも撮りました。日本兵が残虐なことをやっている写真なんか一枚もありません。
 この中には日本兵が慰問袋を中国人にわけてやってるのがありますが、たくさんの中国人が群がっている、そんなものもあります」(東京日日新聞・佐藤振寿)

 「日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込まなかったため、抗日的態度をとるものもなかった。私の永い支那生活中、今度くらい日本軍が正義の軍であることを痛感したことはありません」(昭和12年8月、上海の難民区で30万人のシナ人を保護していたフランスのジャキノー神父) 】

「ここ(南京)には1ヶ月ほどいましたが、戦後言われているような事は何も見ていなければ、聞いてもいません。ですから虐殺があったと言われていますが、あり得ないことです。松井大将が絞首刑になったのも不思議でしょうがないのです」(東京日々新聞カメラマン・金沢善雄)】

「私の中隊、私の見た限りでは、残虐行為など一切なかったことを声を大にして申したい。光華門から北に通ずる道路、飛行場付近で、日本軍が不法な行動をしたかのように報道されているが、そのようなことはなかったと断言する」(独立軽装甲車第七中隊上等兵・渡辺末蔵)】

「掃蕩隊は残敵掃蕩を任とし、必ず将校(准尉を含む)の指揮する部隊をもって実施し、下士官以下各個の行動を絶対に禁ずる」「家屋内に侵入し掠奪に類する行動を厳に戒め、必要以外の物品を濫用廃棄してはならない」(城内進入に関する旅団命令/歩兵第六旅団)北山与・歩兵第20連隊第3機関銃中隊。

 「12月13日西山麓で捕虜を火刑に処す」と証言。これは私が第3大隊長代行として指揮した部隊の兵士です。こんな命令を出したこともありませんし、これほど重要な事を指揮官である私が知らないはずがありません。(森王琢中隊長

南京虐殺ということが言われていますが?「南京にいる間見たことがありません。戦後、よく人から聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいくらいです」(第47連隊と共に入城した報知新聞の二村次郎カメラマン)】
ウソの証言をする者たち: 太田壽男…死体大量埋葬を供述書に書く。が、梶谷日記(捏造物の数々と違って原本確認できる)により当時証言場所にいなかった事がバレる。撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった。

 南京陥落当時の貴重な映像です。 bit.ly/zSQohf bit.ly/19eS2qh bit.ly/13PoLQU bit.ly/11VJFxK bit.ly/16cR5gr)

 これまで南京「虐殺」の重要な証拠と高く評価されてきた史料のひとつ、ティンパーリ編『戦争とは何か』が、実は日本を貶めるために中国国民党中央宣伝部が中国共産党系の知識人とともに作った「宣伝本」であったという衝撃的な事実が判明したのである。

】「実際にはアメリカの世論を操るために私は雇われていたのである。日本軍に対するアメリカの支援こそが、この政府が生き残るための唯一の望みであった。アメリカの印刷物・出版物を支配することが死活問題であった。」(中国国民党中央宣伝部に雇われたセオドア・ホワイト)】

「余が虐殺事件なるものを始めて耳にしたるは、終戦後米国側の放送なり。予は此事を聞きたるを以て当時の旧部下をして其の真否を調査せしめたるも(中略)其詳細不明にして、而(し)かも予は之を確言する事能はず」(松井大将による意見/東京裁判)
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皇軍と従軍記者の真摯な姿勢がよく伝わって来る。捕虜になって中共に洗脳された
軍人以外は、南京事件を否定している。

よくもこんなウソ捏造が80年もまかり通って来たものだ






(私論.私見)