韓国のベトナム戦争犯罪考



 更新日/2019(平成31→5.1日より栄和改元).8.14日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 従軍慰安婦問題について韓国側よりする歴史責任追及が執拗に繰り返されているが、韓国自身が行ったベトナム戦争時の戦争犯罪にくちをつむったままの批判はいただけまい。「日本の植民地支配を非難する韓国だが、ベトナム戦争で行った残虐行為は一切認めない」。この虚構を許さない為に、ここで「韓国のベトナム戦争犯罪考」をものしておく。

 2014.04.17日 れんだいこ拝


【韓国のベトナム派兵考】
 1960年代、ベトナム戦争が世界を揺るがしいた。アメリカとサイゴン政権を一方とし、北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線(べトコン)を他方として、十余年にわたり、第二次世界大戦後最大の規模で戦われ、戦後秩序の変容を促した。ベトナム戦争時の韓国は朴正煕(パク・チョンヒ)政権であった。朴正煕は、1961.5月、陸軍少将の時、軍事クーデターを起こし軍事独裁政権を樹立していた。朴槿恵(パク・クネ)はその娘である。反共を国是とし、分断国家としてのシンパシーを訴えて派兵を推進した。安聖基は「参加する方では『男に生まれたからには、一度は戦場に赴かねば』という気風がありました」とも指摘している。実際には、参戦することによりアメリカからの軍事援助、経済援助を引き出す狙いがあった。アメリカの韓国に対する軍事援助額はベトナム戦争中に大幅に増加し、それまで2億ドル未満だったのが1968年には3.8億ドル、1969年には4.8億ドルに膨れ上がっている。兵士や出稼ぎの民間人による外貨獲得、これによる本国への送金は年に1億2千万ドルを数え、1969年の韓国の外貨収入の2割に達した。アメリカによる軍事・経済援助、日韓基本条約による資金援助と合わせて、漢江の奇跡の基礎となった。

 「ベトナム政府の要請」という美名の下、韓国軍が南ベトナムに派兵したのは1964年10月より1973年までの8年4カ月に及んだ。当初は医療支援団とテックォンド教官等の270余名をサイゴンの南のプンタウに派遣する程度であった。1965.10月、朴政権は戦闘部隊の大規模派兵を決定し本格的にベトナム戦争に軍事介入し始めた。その後、2個師団プラス1個旅団の延べ32万名に上った。最盛期には5万名を数え、米国に次ぐ大派兵であった。他はオーストラリアやフィリピンなどのSEATO(東南アジア条約機構)加盟国が参戦したが万を超える兵を派兵したのはアメリカと韓国だけである。韓国軍は後に大激戦地となったダナンに海兵隊第二旅団「清龍部隊」、クイニョンに首都ソウル防衛旅団「猛虎部隊」、ニンホアに第9師団「白馬部隊」を駐屯させた。当初は「べトコン掃討作戦」、後に農村無人化作戦に転じ、残酷な大量虐殺、輪姦レイプ殺人を繰り返した。韓国軍の勇猛性が際立っており、「最も恐れられたのは韓国軍」と云われるほどであった。戦争特需としての「ベトナム特需」を当てこんだ産業資本や出稼ぎの民間人も進出し、これも最盛期には2万人近くがベトナムに赴いた。

 この戦争で韓国軍は約5千人(4960名)が死亡、10余万名が負傷している。韓国軍に殺されたベトナム人の数は公式統計だけでも 4万1450名。別説で30万人を超すベトナム人を虐殺したとも云われている。民間人の無差別殺戮、女性への輪姦による性的陵辱の限りを尽くしている。この為、ベトナムでは村ごとに「ダイハンの残虐行為を忘れまい」の碑を建てて歴史に刻んでいる。ベトナム戦争時の韓国軍による虐殺、陵辱の蛮行史は韓国現代史のタブーとなっている。

【韓国のベトナム戦争犯罪考】
 「韓国のベトナム戦争犯罪」は「フォンニィ・フォンニャットの虐殺」、「ゴダイの虐殺」、「タイビン村虐殺事件」、「タイヴィン虐殺」、「ハミの虐殺」等々で知られる。この経緯を確認しておく。
1965年
10月、韓国軍が派兵される。
12月から翌1966.1月、ビンディン省プレアン村、キンタイ村などを掃討。9つの村には化学兵器を使用した。また同時期にプウエン省のタオ村で女性市民42人全員を大量虐殺した。
1965年から1966年の間、プウエン省のタオ村。小火器を浴びせ全員を殺害した。
12.22日、ビンディンソン、クィニョン市。韓国軍2個大隊が500余発もの大砲を撃ち込んだ後、“きれいに殺して、 きれいに燃やして、きれいに破壊する”というスローガンの下、捜索掃討作戦を繰広げた。12歳以下の22人の子供、22人の女性、3名の妊産婦、70歳以上の6名の老人を含む50余名を超える村民を虐殺した。
1966年
1.1日-4日までの間、ブン・トアフラおよびヨビン・ホアフラ地方。住民たちの所有物を残らず略奪したうえ住民の家やカオダイ教の聖堂を焼き、さらに数千頭の家畜を殺した。彼らは、また仏教寺院から数トンもの貨幣をくすね、それから人民を殺した。ナムフュン郡で、韓国軍は4人の老人と3人の妊婦を防空壕の中へ押し込めナパームとガスで殺した。アンヤン省の三つの村では110人を、またポカン村では32人以上を、こうしたやり方で殺した。
1.11日-19日、ビンディン省でジェファーソン作戦が展開され、300人以上の住民を捕まえ、拷問を加え、更にまた400人以上のベトナム人を殺した。
1.23日-2.26日、ベトナム中部各地。ゴダイ集落。その中のタイヴィン村、クアンナム省のフォンニャット村に猛虎隊3個小隊、2個保安大隊、3個民間自衛隊が来襲し、この地域だけで計1200名の住民が虐殺された。そのなかにはひとり残らず抹殺された家族が8世帯にもなった。これを「ゴダイの大虐殺」と云う。

 15発もの銃弾を受けながら奇跡的に生き残ったタイヴィン村のグエン・タン・ランさん(62歳)が、当時を振り返り次のように証言している。
 「韓国軍が村に来たのは朝9時ごろ。100人以上の歩兵が次々と村に入り、怒声とともに彼らは村の1軒1軒のドアを足で蹴破ると、屋内にいた人間の髪の毛を掴みながら引っ張り出し、全25世帯、65人の村人を一か所に集合させました。韓国兵は一斉掃射で私たちを皆殺しにするのではなく、銃で追い立てて数人単位のグループに分かれさせ、4、5人ずつ集中砲火を浴びせ殺していくという方法を取りました。私の両親や親族も私の眼前で殺されました。韓国兵はその中から、年頃の娘を見つけると、彼女を集団から引き離し、村人の前で輪姦を始めたのです。兵士たちに銃を突きつけられた娘はなす術なく、代わる代わる暴行されました。そして、最後の兵隊が事を済ませると、乱暴の限りを尽くされ、すでに微動だにしなくなった娘を撃ち殺したのです。 その一部始終を見せつけられた村人が怒り狂い、韓国兵に襲いかかろうとしましたが、その場で射殺されました」
2月、ベトナムビンディン省タイビン村で韓国軍猛虎部隊が住民65人を大量虐殺した。また1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ、649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された(タイビン村虐殺事件) 。
2.26日、南ベトナムビンディン省タイソン県(ベトナム語版)ビンアン村のゴザイ集落を訪れた韓国陸軍首都機械化歩兵師団(猛虎部隊)は住民380人を集めると一時間のうちに一人残らず大量虐殺した。韓国軍は女性137人、老人40人、子供76人を防空壕のなかへ押し込め、目を潰したり化学薬で大量虐殺した(ゴダイの大量虐殺)。
3.19ー20日、ベトナム中部各地。
3.26-28日、ビンディン省で、数千におよぶ農家と古寺院を炎上させ、若い女性や年老いた女性を集団強姦した。同年8月までに韓国陸軍はビンディン省における焦土作戦を続け完了した。
フーカット郡(ブガツ省)で、3万5千人の村人が死の谷に狩り立てられ、拷問を完膚なきまで加えられてから全員が殺された。
9.3日、韓国陸軍第9師団(通称/白馬部隊)もベトナムに上陸する。
10月、メコン河流域で、裸で両手ないしは両足を損傷させられ陵辱された19人の少女たちの遺体が川から引揚げられた。この事件に先立って、同じ地域で共同作戦中の米軍と韓国軍が昼日中に結婚の行列を襲い、花嫁を含め7人の女性を強姦したとの報道もあった。かれらは、結婚式に呼ばれた客の宝石を残らず奪ったうえ3人の女性を川の中へ投げ込んだ。

 こうした一連の韓国軍によるベトナム人への暴行・大量虐殺について韓国政府は1967.5月、アメリカが与えてくれた援助に対する「アメリカへのお返し」の意味と正当化した。 「またこのような韓国軍の活躍は、韓国民に対して韓国がアジア平定に寄与するという誇りの感情を与えるもので、またアメリカとの交渉においても韓国の立場を向上させるものである」と記者会見で答えている。

1968年
2.12日、韓国海兵隊第2海兵旅団(青龍部隊)は南ベトナムクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で民間人大量虐殺事件を起こし、その日のうちにアメリカ軍・南ベトナム軍によって犯行が明らかにされていた。2.25日、再び同じクアンナム省のハミ村で女、老人、子供135人を大量虐殺した。韓国海兵隊により3人だけを残して全員大量虐殺された村もあった。大量虐殺方法は村民を広場に集め、一斉に射撃を加えたり、手榴弾を投げつけたりして実行された。
2.25日、クアンナム省のハミ村に海兵隊第2旅団・青龍部隊が来襲し、135人の村人が無差別に殺された。この内、女性が97名。これを「ハミの虐殺」と云う。
3.16日、米陸軍の第23歩兵師団第11軽歩兵旅団・バーカー機動部隊隷下、第20歩兵連隊第1大隊C中隊(機動部隊には他に第1歩兵連隊第3大隊所属のA中隊と第3歩兵連隊第4大隊所属のB中隊、そして砲兵部隊があった)の“意地悪カリー”ウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソン・ティン県にあるソンミ村と隣のミント村を200機のヘリで襲撃し、村の住民全員を広場に集めてソンミ村で8000人以上、ミント村で4800人以上殺害した。殺害された住民の98%は女・子供・老人で、男達はベトコンとして出撃していた。これを「ソンミ村虐殺事件」(Son My massacreMy Lai Massacre)と云う。この事件は、ジャングルに逃げ込んだ複数の村民の訴えで世界中に知れることになった。翌1969年12月に、フリーランスジャーナリストのシーモア・ハーシュが『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じたり、ライフ誌の報道などでもアメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。ハーシュの記事は「My Lai 4: A Report on the Massacre and its Aftermath」としてまとめられ、1970年度ピューリッツァー賞を受賞した。これは日本でも同年にベトナムに平和を!市民連合の活動で知られる小田実によって、『ソンミ―ミライ第四地区における虐殺とその波紋』の題で邦訳された。その後のベトナム反戦運動のシンボルとなり、また国外でも大きな批判の声が起こってアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。
 1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に下った判決ではカリーに終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー自身もその後10年の懲役刑に減刑された上、3年後の1974年3月には仮釈放される。陸軍のこの不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。虐殺計画は掃討作戦決行の前夜に決定された既定事項で、C中隊指揮官のアーネスト・メディナ大尉が主張したものであるという。 事件から40年経った2008年3月16日、事件現場跡に建てられた記念館にて追悼式典が開かれ、事件の生存者や元アメリカ軍兵士、地元住民が参加した

 カリーは仮釈放後、マスコミの取材に応じることはなかったが、41年経った2009年8月19日、ジョージア州コロンバス で開かれた奉仕活動団体の昼食会に出席し、事件について口を開き、謝罪した。これに対し、3人の生存者の一人で犠牲者追悼活動を続けるパン・タン・コン(ティンケ村記念公園博物館長、事件当時10歳。家族を皆殺しにされ孤児となった)は23日、「謝罪は無いものと思っていた、あまりにも遅くて驚いたが、犠牲者を代表して受け入れたい」「カリー氏にはベトナムに来て、当時とその後40年の思いを語ってほしい」と述べている

1969年
10.14日、ベトナム南部パンラン地域。リンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって銃器を振り回す事件が発生した. サイゴンの報告によれば、韓国軍一名がリンソン寺でベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されると、これに激怒, 同僚を誘って銃器を乱射したことが明らかになった。この事件で71歳の住持僧、69歳の老僧、41歳の女僧、15歳の修行僧等4人が死亡した。

【韓国のベトナム戦争犯罪隠蔽考】
  韓国のベトナム戦争犯罪史実は長らくタブーとされ隠蔽されてきた。このタブーを破ったのは韓国のハンギョレ新聞社が発行する週刊誌「ハンギョレ21」だった。同誌は1999.5.6日号から1年以上の連載記事で、韓国軍がベトナム戦当時に起こした虐殺事件を報じた。この記事を書いたのは韓国人歴史研究者のク・スジョンである。彼女はベトナム戦争の韓国軍の残虐行為が記されたベトナム側の資科を入手し、韓国の市民団体の一行とともにベトナム現地で検証を始めた。生存者たちの証言に基づき虐殺の様子を具体的に描いている。

 それによると、1、大部分が女性や老人、子供たちである住民を一か所に集め、機関銃を乱射。2、子供の頭を割ったり首をはね、脚を切ったりして火に放り込む。3、女性を強姦してから殺害。強姦しながら拷問。妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。4、トンネルに追い詰めた村人を毒ガスで殺す等々が明らかにされている。続いて同誌の2000.4.27日号で、住民虐殺を行なったという元軍人による加害証言が掲載された。戦争当時、一般住民とゲリラを区別するのは難しく、我が身を守るためには仕方なかったのだとその元軍人は述壊した。しかし同時に、今やその行為に罪の意識をもち、韓国政府がベトナムに謝罪し被害者に補償することを望むという彼の声も伝えられた。同誌は続報を打ちキャンペーンを張ったが、新聞やテレビなど大メディアによる後追い報道はほぼなかった。

 続いて、米誌ニューズウィークの2000.4.21日号が「暴かれた英雄の犯罪」と題してベトナム戦争での韓国軍の虐殺問題を取り上げた。ク・スジョンらの調査を紹介しつつ、「8000人以上の民間人を殺した韓国軍の虐殺行為の数々」が明らかにされつつあるとして7ページにわたり大々的に報じた。

 タブーであった虐殺事件についてのこれらの報道に対し韓国国内では激しい反撃が起きた。同年6.27日、ベトナム戦に従軍した退役軍人ら2400人余がソウル市内中心部にあるハンギョレ新聞社前に集結し、国のために闘った戦友を冒涜されたと激しく抗議した。その後、一部が新聞社の社屋に乱入しコンピュータなどを破壊した。その場にいた新聞社の記者や従業員たちも暴行を受け、10人以上が負傷した。社屋が半日間占拠され、同社の幹部らが監禁された。6千人余りの警察官が投入され事態が沈静化した。この運動の主体となった団体は「大韓民国枯葉剤後遺症戦友会」のメンバーであった。同会は、ベトナム戦争時に米軍機が上空から散布した枯葉剤を浴び、その後遺症に苦しむ元軍人たちの集まりであり会員数約14万人の韓国政界に於ける極右派団体となっている。

 ベトナム戦争当時、韓国軍総司令官だった蔡命新は、ニューズウィークでのインタビューで「誰に対しても償う必要はない。あれは戦争だった」と明言している。アメリカ軍によるソンミ事件などの虐殺行為がベトナム戦争当時から国際的に批判を受け議論の的となったのとは対照的に、韓国軍による虐殺行為については、こと韓国国内では長く沈黙が保たれてきた。

 (中略)また全斗煥(チョンドファン)、盧泰愚(ノテウ)両大統領がベトナム戦争で武勲を挙げた軍人であったという政治事情もあり、ベトナム戦での過去は、韓国では幾重にもタブーであり続けた。しかし、冷戦終結と韓国の民主化により、このタブーは破られた。(中略)韓国の歴史教科書には、ベトナム戦争についてほとんど記述はされていない。中学生向けの国定教科書に記されているのは「そして、共産侵略を受けているベトナムを支援するために国軍を派兵した」の約1行のみだ。(佐藤和 「被害者史観韓国を揺るがすベトナム民間人虐殺の加害責任」 『SAPIO』 2001年9月26日号)

 1990年、11.16日、韓国教会女性連合会、韓国女性団体連合会等16団体が参加して日本軍の慰安婦問題を取り上げる為の「韓国挺身隊問題対策協議会」()が結成される。初代代表は尹貞玉(常任代表は尹美香?)。本部は、ソウル市内、西大門に近いところにある。英語の名称は"The Korean Council for the Women Drafted for Military Sexual Slavery by Japan"となっており、日本語に訳せば「日本によって軍の性奴隷に徴用された女性のための韓国協議会」と「徴用された(Drafted)」という語を使っている。

 1992年、韓国とベトナムが国交正常化。

 1998年、金大中大統領が大統領に就任。2001年、ベトナムを訪れ、「ベトナム国民に苦痛を与えたことを申し訳なく思う」と謝罪した。野党のハンナラ党副総裁の朴・現大統領が「韓国軍勇士の名誉を傷つける言動だ」と猛烈に批判している。

 2009.3.15日、日本の民主党に法制定などを通じた旧日本軍慰安婦問題の早期解決を促す要請書を伝達と発表。

 2009年、韓国政府はベトナム戦争の解釈をめぐってベトナム政府と衝突するという事件が起きている。韓国の国家報勲処が国家報勲制度の改定作業を行い、国会に法案改正の趣旨説明文書を提出した。この文書でベトナム戦争参戦者を「世界平和の維持に貢献したベトナム戦争参戦勇士」と表現したことにベトナムが、「我々は被害者。ベトナム戦争の目的が、なぜ世界平和の維持なのか」と猛反発し、予定された李明博大統領のベトナム訪問も拒否する方針を伝えた。韓国側は、柳明桓外交通商相をベトナムに派遣し、外相会談で「世界平和の維持に貢献」の文言を削除することを約束し、李大統領のベトナム訪問を予定通り実現させた。一連の外交交渉で、ベトナム政府は「侵略者は未来志向といった言葉を使いたがり、過去を忘れようとする」と批判した。

 韓国政府は、ベトナムでの虐殺や強姦など、自国の過去の蛮行を公式に認めようとしていない。韓国兵の行為にはメディアも人権活動家も目を向けなかった。その根底には、韓国人の、ベトナム人に対する人種差別意識が原因との見方もある。

 2011.12.14日、 韓国の日本大使館前(公道)に無許可で元慰安婦の少女時代を題材にしたというブロンズ像(平和碑)を建て、日本の在韓大使が韓国政府に抗議したが、韓国側は日本政府が解決に向けて努力すべきだとし黙認、現在に至っている。

 2012.8.15日、朝鮮日本軍性的奴隷及び強制連行被害者補償対策委員会と共同声明を出し、日本に慰安婦問題や強制徴用、徴兵、朝鮮人集団虐殺、文化財略奪などのあらゆる犯罪行為、人的物的被害と略奪行為に対し謝罪と賠償を要求するとともに、日韓軍事協力を徹底的に阻止すると宣言した。

 2013.3.1日、抗日運動の記念日、「加害者と被害者の立場は千年たっても変わらない」と演説。

 2013.3.7日、毎週水曜、ソウルの日本大使館前で「日本政府の公式謝罪と賠償」を訴え続けている韓国人の元日本軍慰安婦と支援団体代表らがソウルで記者会見し、ベトナム戦争に参戦した韓国軍による「ベトナム人女性に対する性暴力や民間人虐殺」について、「韓国政府が真相を究明し、公式謝罪と法的責任をとるように」と訴えた。元慰安婦の金福童(キムボクトン)さんは「同胞が犯したことは韓国政府が解決すべきだし、知らないふりはできない」。支援団体の尹美香(ユンミヒャン)代表は「私たちが望むのは慰安婦の悲劇が繰り返されないことだ。日本政府に求めるだけでなく、我々自ら平和をつくりたい」と話した。

 韓国マスメディアの反応

 後の韓国大統領である全斗煥は白馬師団第29連隊長として、盧泰愚と同様にベトナム派兵で活躍した指揮官だった。最大の圧力団体である軍部の存在もあって、韓国ではベトナム戦争を批判的に取り上げることをタブー視する雰囲気が存在した。しかし後年、徐々に国民の意識が変わり、SBSでライダイハンをテーマとしたドキュメンタリー『大韓の涙』が放送されたり、ハンギョレのようにベトナムでの韓国の戦争犯罪やライダイハン問題を積極的に取り上げる動きもある。だが、その都度、退役ベトナム参戦兵士団体から強い抗議を受ける事実もある。フィクションでは、2007年にSBS放送で、新ライダイハンがヒロインの連続テレビドラマ『黄金の新婦』が放送された。


【ライダイハン考】
 「ライダイハン」とは、ベトナム戦争時の韓国系子女のことを云う。「ライ」はベトナム語で動物を含む「混血雑種」と云う意味での混血を意味する蔑称で、「ダイハン」は「大韓」のベトナム語読みである。卑語であることから「ライダイハン」という語そのものがベトナムの公式文書に現れる例は少ない。韓国では、ベトナム語からの借用語として取り入れられ、「ライタイハン」のように発音される。これにより「ライダイハン」は「敵韓国軍の子」の意味を持つ。ベトナムと韓国が1992年に経済交流を再開して後に発生した混血児は「新ライダイハン」と呼ばれる。ライダイハンの正確な数は諸説ある。1500人説(朝日新聞・1995年5月2日)、2千人説(野村進)、最小5千人説(釜山日報)、7千人説、1万人以上説(名越二荒之助など)、最大3万人説(釜山日報)まである。原因については韓国軍兵士による強姦、現地婚、慰安婦の三形態がある。現地婚、慰安婦の例がない訳ではないが圧倒的に強姦出生である。

 慰安婦については次の通り。ベトナム戦争では、軍属のほか、特需に肖ろうとする商人や暴力団など約2万人の民間韓国人がベトナムに渡った。そうした者たちの一部はサイゴンやダナンなど軍事基地周辺で韓国兵や米兵相手の売春クラブを経営した。元朝日新聞サイゴン支局長の井川一久氏は次のように証言している。
 「韓国軍のベトコン掃討作戦で破壊された村の女性たちは、運良く逃げ出しても戦争難民になるしかなかった。そうした女性を売春ビジネスに送り込んだのが、民間の韓国人業者だったのです」、「親しくしていた在ベトナム韓国軍高官の公邸で開かれた夕食会では、アオザイ姿の美しいベトナム人少女数人が甲斐甲斐しく給仕してくれました。少女をどこで集めたのか訊くと、高官は答えをはぐらかし、『気に入った娘がいたら持ち帰って構わない』と笑うのです。少女たちが戦争難民なのは明らかでした。軍民一体の管理売春が公然と行なわれていたのは間違いない。ニンホアの白馬部隊の基地には慰安所もあった」。

 ライダイハンが表面化した後も、韓国政府による積極的な援護策は取られていない。しかし韓国の民間団体やキリスト教団体とベトナム政府の支援により、支援施設(職業訓練学校)が設立され、無償での職業訓練と朝鮮語の教育が行われた。ただし、ライダイハンの支援よりも、ベトナム国民を対象とした活動になっているとの批判がある。ライダイハン自身が、韓国人である父親に対して実子であることの認知訴訟を起こし、判決により韓国国籍を取得する動きもある。盧武鉉政権は2006年に、写真など客観的に立証できる手段があれば韓国の国籍を付与する法案を検討するとした。

 アメラジアン

 戦時下のベトナムにおいては、アメリカ軍兵士とベトナム人女性との間にも多くの二世(越:Lai Mỹ/ 美、ライミー)が産まれた。一説には1万5千人ないし2万人と言われる。詳しくはアメラジアンを参照のこと。統一後のベトナムでは、当初、ライダイハン同様に「敵国の子」とされ、迫害の対象となった。1987年にアメリカ政府は混血児とその家族の移住を受け入れ始めたが、なおベトナムに留まる者も多かった。しかし、その後、越中戦争(中越戦争とも)において中華人民共和国と敵対した関係から西側諸国とベトナムとの関係改善が割合早期に行われたことなどから、ライダイハンほど激しくはなく、ドイモイ以降の政府の親米路線により激しい迫害は見られなくなった。


【その後のベトナムと韓国の外交事情考】
 1992年、ベトナムと韓国が国交正常化している。この時、ベトナムは韓国に対して特段の謝罪、反省、補償を求めていない。ベトナムは60年以上も自国を植民地支配したフランスに対しても謝罪や補償を要求していない。過去よりも未来に託していると云える。問題は、韓国の方である。手前がしたことは水に流すがされたことは絶対怨念にさせる。国柄の違い問えばそれまでであるが鮮やかな対比が認められよう。

【その後のベトナムと韓国の外交事情考】
 ★阿修羅♪ > アジア14 」の木卯正一 氏の 2013 年 6 月 01 日付投稿「韓国にあるベトナム人殺戮体験テーマパークが異常過ぎる!これでも韓国好きな人は完全に病気! 2chより」参照。
 さきのベトナム戦争において、韓国軍は民間人を虐殺しまくりました。男とみるや残虐な方法で殺し、女は皆レイプされまくりでした。それがライタイハン問題として今でも問題になっています。そんな韓国では、ベトコン殺戮を体験できるテーマパークが存在しています。
 http://netanarugazou.doorblog.jp/archives/25817345.html

 ベトコン殺戮を体験できるテーマパーク in 韓国
 http://netanarugazou.doorblog.jp/archives/25817345.html
 2013年04月19日09:49

 「ベトナム派兵記念館」
 2008年、昔のベトナム派兵将兵訓練場が復元されオープン。ベトナム派遣兵士の名前も、誇らしく公開。強姦・拷問・虐殺したベトナムの人たちの名前も...。

 中国には2012年に抗日「八路軍」に扮して日本兵と戦闘を行う「八路軍文化園」も開演。園内では日本兵に扮したスタッフが中国人にさまざまな危害を加えるパフォーマスンスでお出迎え、入場者の憎悪を煽る。八路軍軍服を着て、日本兵を撃ち殺す体験イベントも人気。抗日劇も演じられ、反日中国人で連日大盛況とのこと。
 http://netanarugazou.doorblog.jp/archives/25817345.html

コメント
http://asianews2ch.livedoor.biz/archives/27868806.html [ソースチェック]

誇らしいベトナム人虐殺記念館完成
http://killkorea.iza.ne.jp/blog/entry/766367/ [ソースチェック]

続・誇らしいベトナム人虐殺記念館
http://killkorea.iza.ne.jp/blog/entry/770304/ [ソースチェック]

 植民地統治として、支配者が被支配者の間にある民族的、宗教的、経済的利害の対立をあおり立てて、互いに分裂・抗争させることで統治の安定をはかる政策が用いられる。日中韓台の国家間対立もこの構図に似ている。結束して経済共同体を作られると、東アジア諸国間の貿易だけで結構食っていけるようになってしまう。ユダヤ金融は、これを阻止している。反中、反韓扇動の根拠がここにある。この類の工作に従事している学者やジャーナリストや政治家にもたくさんいる。これに統一教会が繋がっている。チャンコロとかチョンとかの排外用語が口からぽんぽん飛び出す連中は、実はほとんどが半島邪教の工作員。統一教会には、北朝鮮系の在日や帰化人が集まっていて、CIAの指導で反中韓をやっている。ユダヤCIAは、相互抗争の分裂政策を得手としている。
15. 2019年6月26日 19:40:20 : 4nAvfMTSGc : dGNIaDdDZmlGUWs=[1] 報告
在日韓国朝鮮ヤクザと創価学会2015-10-19 06:21:55
ヤクザの凌ぎのほとんどが 覚せい剤 朝鮮は覚せい剤で日本をダメにしてしまう計画してるかもです。指定暴力団(22団体)のうち、7団体のトップが明らかに在日韓国・朝鮮人。
神戸山口組宅見組組長 入江禎。
六代目山口組最高顧問・石田 章六(本名・パク・テチュン)

六代目山口組若頭補佐・橋本 弘文(本名・カン・ホンムン)

六代目山口組若頭補佐・正木年男(本名・パク・ニョンナム)

稲川会・五代目組長 - 辛炳圭(通名:清田次郎)

七代目合田一家総長 通名:末広誠、本名:金教換

五代目双愛会会長 通名:高村明、本名:申明雨

六代目松葉会会長 通名:牧野国泰、本名:李春星

初代九州誠道会会長 通名:村神長二郎、本名:朴植晩

三代目福博会会長 通名:長岡寅夫、本名:金寅純

 在日ヤクザを殲滅させたい後藤元組長の話“このままでいくと、ヤクザは韓国マフィアに乗っ取られる”。その要は

在日系ヤクザが山口組及びヤクザ全体を乗っ取っており、日本の安全と未来を脅かしています。
自分は純粋な日本であるからこそ、山口組上層部の在日系幹部らに追い出されました。
彼の処分とは、在日系ヤクザが、日本人ヤクザを抑圧している証拠である。
後藤元組長が殺されたら、日本人ヤクザは全員が追われる身となる日が到来します。
社会貢献・起業したい若き日本人に資金提供するなどして応援する「後藤基金」を作りたいこと。それによって日本国家を再び繁盛させたいです。

 後藤忠政さんは「池田や学会、公明党がガタガタ言ってくるんなら、いつでも相手になってやるよ。なんなら民主党も、学会と反目になって『黒い手帳』とかいう本を出した矢野さんと俺を、国会で証人喚問したらどうだ」。

 池田大作(名誉会長)は大田区大森北2丁目13番地で生まれた此の場所は韓国人部落。父は全羅南道出身の在日韓国人、海苔漁師の成田作唯、親の代に帰化。しかし幼少の頃から韓国部落で育った彼の精神は韓国人池田大作の韓国名は成太作(ソン・テジャク)。日本名の池田大作は韓国名より取ってる。父の名・田と母の姓・池を繋げると池田になる。朝鮮人が本当の池田家を関東大震災のどさくさ紛れで抹殺して池田家を乗っ取りなりすましたんです 。池田犬作はその朝鮮人の子孫です。

 薬物は、暴力団組織の資金源である。暴力団は摘発を逃れるため奥の手を使う。つまり警察・司法に対する影響力を持つ組織に擦り寄る。やくざ界の大物が軒並み創価学会に入信・関与しているのは、ひとつには薬物事業を創価に守ってもらいかつ、創価の組織を使って薬物を流通させるためであろう。創価の巨大なネットワークは薬物を広く行渡らせるには恰好の媒体である。しかも、創価は警察をコントロールすることができる。さらには、麻薬で得られた資金のマネーロンダリング機能まで持っている。こんな理想的な麻薬流通システムをやくざが使わないわけがない。薬物事件があるたびに「背後関係の解明が待たれる」と報道されるが一度も解明されたためしなどない。解明されない社会構造が出来上がっているのである。創価学会は、警察内部に組織内組織を持っているおそらく薬物事犯の摘発部署に集中して創価警官が配置されているのであろう。(レイブパーティーで薬物が使用されるが、なぜか、摘発されないグループがある。おそらく、創価であろう。








(私論.私見)