韓国のベトナム戦争犯罪考 |
更新日/2019(平成31→5.1日より栄和改元).8.14日
(れんだいこのショートメッセージ) |
従軍慰安婦問題について韓国側よりする歴史責任追及が執拗に繰り返されているが、韓国自身が行ったベトナム戦争時の戦争犯罪にくちをつむったままの批判はいただけまい。「日本の植民地支配を非難する韓国だが、ベトナム戦争で行った残虐行為は一切認めない」。この虚構を許さない為に、ここで「韓国のベトナム戦争犯罪考」をものしておく。 2014.04.17日 れんだいこ拝 |
【韓国のベトナム派兵考】 |
1960年代、ベトナム戦争が世界を揺るがしいた。アメリカとサイゴン政権を一方とし、北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線(べトコン)を他方として、十余年にわたり、第二次世界大戦後最大の規模で戦われ、戦後秩序の変容を促した。ベトナム戦争時の韓国は朴正煕(パク・チョンヒ)政権であった。朴正煕は、1961.5月、陸軍少将の時、軍事クーデターを起こし軍事独裁政権を樹立していた。朴槿恵(パク・クネ)はその娘である。反共を国是とし、分断国家としてのシンパシーを訴えて派兵を推進した。安聖基は「参加する方では『男に生まれたからには、一度は戦場に赴かねば』という気風がありました」とも指摘している。実際には、参戦することによりアメリカからの軍事援助、経済援助を引き出す狙いがあった。アメリカの韓国に対する軍事援助額はベトナム戦争中に大幅に増加し、それまで2億ドル未満だったのが1968年には3.8億ドル、1969年には4.8億ドルに膨れ上がっている。兵士や出稼ぎの民間人による外貨獲得、これによる本国への送金は年に1億2千万ドルを数え、1969年の韓国の外貨収入の2割に達した。アメリカによる軍事・経済援助、日韓基本条約による資金援助と合わせて、漢江の奇跡の基礎となった。 「ベトナム政府の要請」という美名の下、韓国軍が南ベトナムに派兵したのは1964年10月より1973年までの8年4カ月に及んだ。当初は医療支援団とテックォンド教官等の270余名をサイゴンの南のプンタウに派遣する程度であった。1965.10月、朴政権は戦闘部隊の大規模派兵を決定し本格的にベトナム戦争に軍事介入し始めた。その後、2個師団プラス1個旅団の延べ32万名に上った。最盛期には5万名を数え、米国に次ぐ大派兵であった。他はオーストラリアやフィリピンなどのSEATO(東南アジア条約機構)加盟国が参戦したが万を超える兵を派兵したのはアメリカと韓国だけである。韓国軍は後に大激戦地となったダナンに海兵隊第二旅団「清龍部隊」、クイニョンに首都ソウル防衛旅団「猛虎部隊」、ニンホアに第9師団「白馬部隊」を駐屯させた。当初は「べトコン掃討作戦」、後に農村無人化作戦に転じ、残酷な大量虐殺、輪姦レイプ殺人を繰り返した。韓国軍の勇猛性が際立っており、「最も恐れられたのは韓国軍」と云われるほどであった。戦争特需としての「ベトナム特需」を当てこんだ産業資本や出稼ぎの民間人も進出し、これも最盛期には2万人近くがベトナムに赴いた。 この戦争で韓国軍は約5千人(4960名)が死亡、10余万名が負傷している。韓国軍に殺されたベトナム人の数は公式統計だけでも 4万1450名。別説で30万人を超すベトナム人を虐殺したとも云われている。民間人の無差別殺戮、女性への輪姦による性的陵辱の限りを尽くしている。この為、ベトナムでは村ごとに「ダイハンの残虐行為を忘れまい」の碑を建てて歴史に刻んでいる。ベトナム戦争時の韓国軍による虐殺、陵辱の蛮行史は韓国現代史のタブーとなっている。 |
【韓国のベトナム戦争犯罪考】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「韓国のベトナム戦争犯罪」は「フォンニィ・フォンニャットの虐殺」、「ゴダイの虐殺」、「タイビン村虐殺事件」、「タイヴィン虐殺」、「ハミの虐殺」等々で知られる。この経緯を確認しておく。
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【韓国のベトナム戦争犯罪隠蔽考】 |
韓国のベトナム戦争犯罪史実は長らくタブーとされ隠蔽されてきた。このタブーを破ったのは韓国のハンギョレ新聞社が発行する週刊誌「ハンギョレ21」だった。同誌は1999.5.6日号から1年以上の連載記事で、韓国軍がベトナム戦当時に起こした虐殺事件を報じた。この記事を書いたのは韓国人歴史研究者のク・スジョンである。彼女はベトナム戦争の韓国軍の残虐行為が記されたベトナム側の資科を入手し、韓国の市民団体の一行とともにベトナム現地で検証を始めた。生存者たちの証言に基づき虐殺の様子を具体的に描いている。 それによると、1、大部分が女性や老人、子供たちである住民を一か所に集め、機関銃を乱射。2、子供の頭を割ったり首をはね、脚を切ったりして火に放り込む。3、女性を強姦してから殺害。強姦しながら拷問。妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。4、トンネルに追い詰めた村人を毒ガスで殺す等々が明らかにされている。続いて同誌の2000.4.27日号で、住民虐殺を行なったという元軍人による加害証言が掲載された。戦争当時、一般住民とゲリラを区別するのは難しく、我が身を守るためには仕方なかったのだとその元軍人は述壊した。しかし同時に、今やその行為に罪の意識をもち、韓国政府がベトナムに謝罪し被害者に補償することを望むという彼の声も伝えられた。同誌は続報を打ちキャンペーンを張ったが、新聞やテレビなど大メディアによる後追い報道はほぼなかった。 続いて、米誌ニューズウィークの2000.4.21日号が「暴かれた英雄の犯罪」と題してベトナム戦争での韓国軍の虐殺問題を取り上げた。ク・スジョンらの調査を紹介しつつ、「8000人以上の民間人を殺した韓国軍の虐殺行為の数々」が明らかにされつつあるとして7ページにわたり大々的に報じた。 タブーであった虐殺事件についてのこれらの報道に対し韓国国内では激しい反撃が起きた。同年6.27日、ベトナム戦に従軍した退役軍人ら2400人余がソウル市内中心部にあるハンギョレ新聞社前に集結し、国のために闘った戦友を冒涜されたと激しく抗議した。その後、一部が新聞社の社屋に乱入しコンピュータなどを破壊した。その場にいた新聞社の記者や従業員たちも暴行を受け、10人以上が負傷した。社屋が半日間占拠され、同社の幹部らが監禁された。6千人余りの警察官が投入され事態が沈静化した。この運動の主体となった団体は「大韓民国枯葉剤後遺症戦友会」のメンバーであった。同会は、ベトナム戦争時に米軍機が上空から散布した枯葉剤を浴び、その後遺症に苦しむ元軍人たちの集まりであり会員数約14万人の韓国政界に於ける極右派団体となっている。 ベトナム戦争当時、韓国軍総司令官だった蔡命新は、ニューズウィークでのインタビューで「誰に対しても償う必要はない。あれは戦争だった」と明言している。アメリカ軍によるソンミ事件などの虐殺行為がベトナム戦争当時から国際的に批判を受け議論の的となったのとは対照的に、韓国軍による虐殺行為については、こと韓国国内では長く沈黙が保たれてきた。 (中略)また全斗煥(チョンドファン)、盧泰愚(ノテウ)両大統領がベトナム戦争で武勲を挙げた軍人であったという政治事情もあり、ベトナム戦での過去は、韓国では幾重にもタブーであり続けた。しかし、冷戦終結と韓国の民主化により、このタブーは破られた。(中略)韓国の歴史教科書には、ベトナム戦争についてほとんど記述はされていない。中学生向けの国定教科書に記されているのは「そして、共産侵略を受けているベトナムを支援するために国軍を派兵した」の約1行のみだ。(佐藤和 「被害者史観韓国を揺るがすベトナム民間人虐殺の加害責任」 『SAPIO』 2001年9月26日号) 1990年、11.16日、韓国教会女性連合会、韓国女性団体連合会等16団体が参加して日本軍の慰安婦問題を取り上げる為の「韓国挺身隊問題対策協議会」()が結成される。初代代表は尹貞玉(常任代表は尹美香?)。本部は、ソウル市内、西大門に近いところにある。英語の名称は"The Korean Council for the Women Drafted for Military Sexual Slavery by Japan"となっており、日本語に訳せば「日本によって軍の性奴隷に徴用された女性のための韓国協議会」と「徴用された(Drafted)」という語を使っている。 1992年、韓国とベトナムが国交正常化。 1998年、金大中大統領が大統領に就任。2001年、ベトナムを訪れ、「ベトナム国民に苦痛を与えたことを申し訳なく思う」と謝罪した。野党のハンナラ党副総裁の朴・現大統領が「韓国軍勇士の名誉を傷つける言動だ」と猛烈に批判している。 2009.3.15日、日本の民主党に法制定などを通じた旧日本軍慰安婦問題の早期解決を促す要請書を伝達と発表。 2009年、韓国政府はベトナム戦争の解釈をめぐってベトナム政府と衝突するという事件が起きている。韓国の国家報勲処が国家報勲制度の改定作業を行い、国会に法案改正の趣旨説明文書を提出した。この文書でベトナム戦争参戦者を「世界平和の維持に貢献したベトナム戦争参戦勇士」と表現したことにベトナムが、「我々は被害者。ベトナム戦争の目的が、なぜ世界平和の維持なのか」と猛反発し、予定された李明博大統領のベトナム訪問も拒否する方針を伝えた。韓国側は、柳明桓外交通商相をベトナムに派遣し、外相会談で「世界平和の維持に貢献」の文言を削除することを約束し、李大統領のベトナム訪問を予定通り実現させた。一連の外交交渉で、ベトナム政府は「侵略者は未来志向といった言葉を使いたがり、過去を忘れようとする」と批判した。 韓国政府は、ベトナムでの虐殺や強姦など、自国の過去の蛮行を公式に認めようとしていない。韓国兵の行為にはメディアも人権活動家も目を向けなかった。その根底には、韓国人の、ベトナム人に対する人種差別意識が原因との見方もある。 2013.3.1日、抗日運動の記念日、「加害者と被害者の立場は千年たっても変わらない」と演説。 後の韓国大統領である全斗煥は白馬師団第29連隊長として、盧泰愚と同様にベトナム派兵で活躍した指揮官だった。最大の圧力団体である軍部の存在もあって、韓国ではベトナム戦争を批判的に取り上げることをタブー視する雰囲気が存在した。しかし後年、徐々に国民の意識が変わり、SBSでライダイハンをテーマとしたドキュメンタリー『大韓の涙』が放送されたり、ハンギョレのようにベトナムでの韓国の戦争犯罪やライダイハン問題を積極的に取り上げる動きもある。だが、その都度、退役ベトナム参戦兵士団体から強い抗議を受ける事実もある。フィクションでは、2007年にSBS放送で、新ライダイハンがヒロインの連続テレビドラマ『黄金の新婦』が放送された。 |
【ライダイハン考】 | |
「ライダイハン」とは、ベトナム戦争時の韓国系子女のことを云う。「ライ」はベトナム語で動物を含む「混血雑種」と云う意味での混血を意味する蔑称で、「ダイハン」は「大韓」のベトナム語読みである。卑語であることから「ライダイハン」という語そのものがベトナムの公式文書に現れる例は少ない。韓国では、ベトナム語からの借用語として取り入れられ、「ライタイハン」のように発音される。これにより「ライダイハン」は「敵韓国軍の子」の意味を持つ。ベトナムと韓国が1992年に経済交流を再開して後に発生した混血児は「新ライダイハン」と呼ばれる。ライダイハンの正確な数は諸説ある。1500人説(朝日新聞・1995年5月2日)、2千人説(野村進)、最小5千人説(釜山日報)、7千人説、1万人以上説(名越二荒之助など)、最大3万人説(釜山日報)まである。原因については韓国軍兵士による強姦、現地婚、慰安婦の三形態がある。現地婚、慰安婦の例がない訳ではないが圧倒的に強姦出生である。 慰安婦については次の通り。ベトナム戦争では、軍属のほか、特需に肖ろうとする商人や暴力団など約2万人の民間韓国人がベトナムに渡った。そうした者たちの一部はサイゴンやダナンなど軍事基地周辺で韓国兵や米兵相手の売春クラブを経営した。元朝日新聞サイゴン支局長の井川一久氏は次のように証言している。
ライダイハンが表面化した後も、韓国政府による積極的な援護策は取られていない。しかし韓国の民間団体やキリスト教団体とベトナム政府の支援により、支援施設(職業訓練学校)が設立され、無償での職業訓練と朝鮮語の教育が行われた。ただし、ライダイハンの支援よりも、ベトナム国民を対象とした活動になっているとの批判がある。ライダイハン自身が、韓国人である父親に対して実子であることの認知訴訟を起こし、判決により韓国国籍を取得する動きもある。盧武鉉政権は2006年に、写真など客観的に立証できる手段があれば韓国の国籍を付与する法案を検討するとした。 アメラジアン戦時下のベトナムにおいては、アメリカ軍兵士とベトナム人女性との間にも多くの二世(越:Lai Mỹ/ 美、ライミー)が産まれた。一説には1万5千人ないし2万人と言われる。詳しくはアメラジアンを参照のこと。統一後のベトナムでは、当初、ライダイハン同様に「敵国の子」とされ、迫害の対象となった。1987年にアメリカ政府は混血児とその家族の移住を受け入れ始めたが、なおベトナムに留まる者も多かった。しかし、その後、越中戦争(中越戦争とも)において中華人民共和国と敵対した関係から西側諸国とベトナムとの関係改善が割合早期に行われたことなどから、ライダイハンほど激しくはなく、ドイモイ以降の政府の親米路線により激しい迫害は見られなくなった。 |
【その後のベトナムと韓国の外交事情考】 |
1992年、ベトナムと韓国が国交正常化している。この時、ベトナムは韓国に対して特段の謝罪、反省、補償を求めていない。ベトナムは60年以上も自国を植民地支配したフランスに対しても謝罪や補償を要求していない。過去よりも未来に託していると云える。問題は、韓国の方である。手前がしたことは水に流すがされたことは絶対怨念にさせる。国柄の違い問えばそれまでであるが鮮やかな対比が認められよう。 |
【その後のベトナムと韓国の外交事情考】 | ||
「★阿修羅♪ > アジア14 」の木卯正一 氏の 2013 年 6 月 01 日付投稿「韓国にあるベトナム人殺戮体験テーマパークが異常過ぎる!これでも韓国好きな人は完全に病気! 2chより」参照。
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