東条英機の宣誓供述書


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東条英機の宣誓供述書
 東條英機宣誓供述書
 平成 23 年 07 月 15 日版
目次
わが經歴
第二次近衞内閣の成立とその當時に於ける内外の情勢
二大重要國策
三國同盟
北部佛印進駐
日華基本條約と日滿華共同宣言
日「ソ」中立條約竝に松岡外相の渡歐
第二次近衞内閣に於ける日米交渉
對佛印泰施策要綱
南部佛印進駐問題
獨ソ開戰に伴ふ日本の態度決定
第三次近衞内閣に於ける日米交渉(其の一、九月六日御前會議以前)
九月六日御前會議
太平洋作戰準備
第三次近衞内閣に於ける日米交渉(其の二、九月六日の御前會議以後)
第三次近衞内閣の總辭職
東條内閣の組閣
十一月五日の御前會議及其の前後
陸海軍合同軍事參事官會議
十一月五日の御前會議 32 東條内閣に於ける日米交渉
重臣懇談會
十二月一日の御前會議
十二月一日の御前會議終了より開戰に至る迄の重要事項
眞珠灣攻撃の實施
ルーズベルト大統領より天皇への親書
部内統督の責
俘虜處罰法
空襲軍律
泰緬鐵道の建設
俘虜處理要綱及俘虜收容所長に與へた訓示
俘虜關係の陳述の訂正
日本の企圖せる大東亞政策 殊に之を繼承して東條内閣に於て其の實現を圖りたる諸事項
陸軍と政治との關係 35 軍紀の確立に關し私の執つた政策
ソ連竝にコミンターンとの關係
摘要
 東條英機宣誓供述書(全文)
昭和二十二年十二月二十六日提出
極東國際軍事裁判所
亞米利加合衆國其他
對 荒木貞夫其他 宣誓供述書
供述者 東條英機

 自分儀我國ニ行ハルル方式ニ從ヒ宣誓ヲ爲シタル上次ノ如ク供述致シマス

 わが經歴

私は一八八四年(明治十七年)東京に生れ、一九〇五年(明治三十八年)より一九四四 年(昭和十九年)に至る迄陸軍士官となり、其間先任順進級の一般原則に據り進級し、日 本陸軍の服務規律の下に勤務いたしました。私は一九四〇年(昭和十五年)七月二十二日 に、第二次近衞内閣成立と共に其の陸軍大臣に任ぜられる(當時陸軍中將)迄は一切政治には關係しませんでした。私はまた一九四一年(昭和十六年)七月十八日成立の第三次近衞内閣にも陸軍大臣として留任しました。一九四一年十月十八日、私は組閣の大命を蒙り、謹んで之を拜受し當初は内閣總理大臣、陸軍大臣の外、内務大臣も兼攝しました。 (同日陸軍大將に任ぜらる)。内務大臣の兼攝は一九四二年(昭和十七年)二月十七日に解 かれましたが、其後外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣等を兼攝したことがありま す。一九四四年(昭和十九年)二月には參謀總長に任ぜられました。一九四四年(昭和十九年)七月二十二日内閣總辭職と共に總ての官職を免ぜられ、豫備役に編入せられ、爾來、何等公の職務に就いては居りませぬ。即ち私は一九四〇年(昭和一五年)七月二十二日に政治上責任の地位に立ち、皮肉にも、偶然四年後の同じ日に責任の地位を去つたのであり ます。


以下私が政治的責任の地位に立つた期間に於ける出來事中、本件の御審理に關係あり、 且參考となると思はれる事實を供述します。ここ*1に明白に申上げて置きますが私が以下の供述及檢事聽取書に於て「責任である」とか「責任の地位に在つた」とかいふ語を使用 する場合には其事柄又は行爲が私の職務範圍内である、從つて其事に付きては政治上私が責を負ふべき地位に在るといふ意味であつて、法律的又は刑事的の責任を承認するの意味 はありませぬ。


但し、ここに唯一つ一九四〇年前の事柄で、説明を致して置く必要のある事項がありま す。それは外でもない一九三七年六月九日附の電報(法廷證六七二號)のことであります。私は關東軍參謀長としてこの電報を陸軍次官並に參謀次長に對して發信したといふ事 を否認するものではありませぬ。然し乍ら檢察側文書〇〇〇三號の一〇四頁に引用せられるものは明瞭を缺き且歪曲の甚だしきものであります。檢察官は私の發した電文は『對 「ソ」の 、  作 、  戰に關し』打電したと言つて居りますが、右電文には實際は『對「ソ」 、  作 、  戰 、  準 、  備 、  の 、  見 、  地より』とあります。又摘要書作成者は右電文が『 、  南 、  京を攻撃し先づ中國に一撃を加 へ云々』と在ることを前提とするも電報本文には『 、  南 、  京 、  政 、  權に一撃を加へ』となつて居る のであります。(英文にも右と同樣の誤あり、而も電文英譯は檢事側證據提出の譯文に依 る)。本電は滿洲に在て對「ソ」防衞及滿洲國の治安確保の任務を有する關東軍の立場よ り對「ソ」作戰準備の見地より日支國交調整に關する考察に就て意見を參謀長より進達せ るものであつて、軍司令官より大臣又は總長に對する意見上申とは其の重大性に就き相違 し、下僚間の連絡程度のものであります。 當時支那全土に排日思想風靡し、殊に北支に於ける情勢は抗日を標榜せる中國共産軍の 脅威、平津地方に於ける中國共産黨及び抗日團體の策動熾烈で北支在留邦人は一觸即發の 危險情態に曝されて居りました。此儘推移したならば濟南事件(一九二八年)南京事件 (一九二八年)上海事件(一九三二年)の如き不祥事件の發生は避くべからずと判斷せら れました。而して其の影響は絶えず滿洲の治安に惡影響を及ぼして居り關東軍としては對 ソ防衞の重責上、滿洲の背後が斯の如き不安情態に在ることは忍び得ざるものがありまし た。之を速に改善し平靜なる状態に置いて貰ひたかつたのであります。中國との間の終局 *1 U+7386[] 2的の國交調整の必要は當然であるが、排日抗日の態度を改めしむることが先決であり、之 がためには其の手段として挑撥行爲のあつた場合には彼に一撃を加へて其の反省を求むる か、然らざれば國防の充實に依る沈默の威壓に依るべきで、其の何れにも依らざる、御機 嫌取り的方法に依るは却て支那側を増長せしむるだけに過ぎずとの觀察でありました。こ の關東軍の意見が一般の事務處理規律に從ひ私の名に於いて發信せられたのであります。 この具申を採用するや否やは全局の判斷に基く中央の決定することであります。然し本 意見は採用する處とはなりませんでした。蘆溝橋事件(一九三七年七月七日)は本電とは 何等關係はありません。蘆溝橋事件及之に引續く北支事變は頭初常に受け身であつたこと に依ても知られます。
 第二次近衞内閣の成立とその當時に於ける内外の情勢

先づ私が初めて政治的責任の地位に立つに至つた第二次近衞内閣の成立に關する事實 中、後に起訴事實に關係を有つて來る事項の陳述を續けます。私は右政變の約一ケ月前よ り陸軍の航空總監として演習のため滿洲に公務出張中でありました。七月十七日陸軍大臣 より歸京の命令を受けましたにつき、同日奉天飛行場を出發、途中平壤に一泊翌十八日午 後九時四十分東京立川着、直ちに陸軍大臣官邸に赴き、前内閣崩解の事情、大命が近衞公 に下つた事、其他私が陸相候補に推薦された事等を聞きました。其時の印象では大命を拜 された近衞公はこの組閣については極めて愼重であることを觀取しました。乃ち近衞公は 我國は今後如何なる國策を取るべきか、殊に當時我國は支那事變遂行の過程に在るから、 陸軍と海軍との一致、統帥と國務との調整等に格別の注意を拂はれつつあるものと了解し ました。


その夜、近衞首相候補から通知があつたので、翌七月十九日午後三時より東京杉並區荻 窪に在る近衞邸に出頭しました。此時會合した人々は、近衞首相候補と、海軍大臣吉田善 吾氏、外相候補の松岡洋右氏及私即ち東條四人でありました。この會談は今後の國政を遂 行するに當り國防、外交及内政等に關し在る程度の意見の一致を見るための私的會談であ りましたから、會談の記録等は作りません。之が後に世間でいふ荻窪會談なるものであり ます。近衞首相は今後の國策は從來の經緯に鑑みて支那事變の完遂に重きを置くべきこと 等を提唱せられまして、之には總て來會者は同感であり、之に努力すべきことを申合わせ 3ました。政治に關する具體的のことも話に出ました。内外の情勢の下に國内體制の刷新、 支那事變解決の促進、外交の刷新、國防の充實等がそれであります。其の詳細は今日記憶 して居りませぬが後日閣議に於て決定せられた基本國策要綱の骨子を爲すものでありま す。陸軍側も海軍側も共に入閣につき條件をつけたようなことはありませんが、自分は希 望として支那事變の解決の促進と國防の充實を望む旨を述べました。此の會合は單に意見 の一致を見たといふに止まり、特に國策を決定したといふ性質のものではありません。閣 僚の選定については討議せず、之は總て近衞公に一任しましたが、我々はその結果につい ては通報を受けました。要するに檢事側の謂ふが如きこの場合に於て「權威ある外交國策 を決定したり」といふことは(檢察文書〇〇〇三號)事實ではありません。その後近衞公 爵に依り閣僚の選定が終り、同月二十二日午後八時親任式がありました。 當時私は陸相として今後に臨む態度として概ね次の三つの方針を定めました。即ち (一)支那事變の解決に全力を注ぐこと、(二)軍の統帥を一層確立すること、(三)政治 と統帥の緊密化並に陸海軍の協調を圖ること、これであります。


ここに私が陸相の地位につきました當時私が感得しました國家内外の情勢を申上げて置 く必要があります。此の當時は對外問題としては第一に支那事變は既に發生以來三年に相 成つて居りますが、未だ解決の曙光をも見出して居りません。重慶に對する米英の援助は 露骨になつて來て居ります。これが支那事變解決上の重大な癌でありました。我々として はこれに重大關心を持たざるを得ませんでした。第二に第二次歐洲大戰は開戰以來重大な る變化を世界に與えました。東亞に關係ある歐洲勢力、即ち「フランス」及び和蘭は戰局 より脱落し、「イギリス」の危殆に伴ふて「アメリカ」が參戰するといふ氣配が濃厚にな つて來て居ります。それがため戰禍が東亞に波及する虞がありました。從つて帝國として はこれ等の事態の發生に對處する必要がありました。第三に米英の日本に對する經濟壓迫 は日々重大を加へました。これは支那事變の解決の困難と共に重要なる關心事でありま した。 對内問題について言へば第一に近衞公提唱の政治新體制問題が國内を風靡する樣相であ りました。之に應じて各黨各派は自發的に解消し又は解消するの形勢に在りました。第二 に經濟と思想についても新體制の思想が盛り上がつて來て居りました。第三に米英等諸國 の我國に對する各種の壓迫に伴伴ひ自由主義より國家主義への轉換といふ與論が盛んになつ て來て居りました。
 二大重要國策

斯る情勢の下に組閣後二つの重要政策が決定されたのであります。その一つは一九四〇 年(昭和十五年)七月二十六日閣議決定の「基本國策要綱」(法廷證第五四一號英文記録六 二七一頁、及法廷證第一二九七號英文記録一一七一四頁)であります。その二は同年七月 二十七日の「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」と題する連絡會議の決定(法廷證一三 一〇號英文記録一一七九四頁)であります。私は陸軍大臣として共に之に關與しました。 此等の國策の要點は要するに二つであります。即ちその一つは東亞安定のため速に支那事 變を解決するといふこと、その二つは米英の壓迫に對しては戰爭を避けつゝも、あくまで 我が國の獨立と自存を完ふしようといふことであります。 新内閣の第一の願望は東亞に於ける恒久の平和と高度の繁榮を招來せんことであり、そ の第二の國家的重責は適當且十分なる國防を整備し國家の獨立と安全を確保することであ りました。此等の國策は毫末も領土的野心、經濟的獨占に指向することなく、況んや世界 の全部又は一部を統御し又は制覇するといふが如きは夢想だもせざりし所でありました。 私は新内閣の新閣僚としてこれ等緊急問題は解決を要する最重大問題であつて、私の明 白なる任務は、力の限りを盡して之が達成に助力するに在りと考へました。私が豫め侵略 思想又は侵略計劃を抱持して居つたといふが如きは全く無稽の言であります。又私の知る 限り閣僚中斯る念慮を有つて居つた者は一人もありませんでした。


七月二十六日の「基本國策要綱」は近衞總理の意を受けて企畫院でその草案を作り對内 政策の基準と爲したのであります。之には三つの要點があります。その一つは國内體制の 刷新であります。その二は支那事變の解決の促進であります。その三は國防の充實であり ます。第一の國内體制については閣内に文教のこと及び經濟のことにつき多少の議論があ り結局確定案の通り極まりました。 第二の支那事變の解決については總て一致であつて國家の總ての力を之に集中すべきこ と、又具體的の方策については統帥部と協調を保つべき旨の意見がありました。 第三の國防充實は國家の財政と睨み合せて英米の經濟壓迫に對應する必要上國内生産の 自立的向上及基礎的資源の確保を爲すべき旨が強調せられたのであります。大東亞の新秩 序といふことについては近衞總理の豫てより提唱せられて居ることでありまして此際特に 5論議せられませんでした。要綱中根本方針の項下に在る「八紘を一宇とする肇國の大精 神」(英文記録六二七二頁、英文記録一一七一五頁)といふことはもっとも最も道徳的意 味に解せられて居ります。道徳を基準とする世界平和の意味であります。三國同盟そのも のについては此時は餘り議論はありませんでした。唯、現下の國際情勢に對處し、從來の 經緯に捉はるゝことなく、彈力性ある外交を施策すべきであるといふ點につき意見の一致 を見たと記憶します。


「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」は統帥部の提案であると記憶して居ります。こ れは七月二十七日に連絡會議で決定せられました。此の要綱の眼目は二つあります。その 一は支那事變解決の方途であります。その二は南方問題解決の方策であります。此の要綱 の討議に當り、議論になつた主要な點は凡そ四つほどあつたと記憶します。 (A) 獨伊關係、獨伊關係については支那事變の解決及世界變局の状態よりして日本を國 際的の孤立より脱却して強固なる地位に置く必要がある。支那事變を通じて米英の とりたる態度に鑑み從來の經緯に拘らず獨伊と提携し「ソ」聯と同調せしむるやう 施策すべしとの論であります。當時は日獨伊三國同盟とまでは持つて行かずたゞ之 との政治的の聯絡を強化するといふ意味でありました。又對「ソ」關係を飛躍的に 調整すべしとの論もあつたのであります。 (B) 日米國交調整、全員は皆、獨伊との提携が日米關係に及ぼす影響を懸念して居りま した。近衞總理は天皇陛下の御平生より米英との國交を厚くすべしとの御考を了知 して居りましたから、此點については特に懸念して居られました。乃ち閣僚は皆支 那事變の解決には英米との良好關係を必要とすることを強く感じて居りました。た ゞ「ワシントン」會議以來の米英の非友誼的態度の顯然たるに鑑み右兩者に對して は毅然たる態度を採るの外なき旨松岡外相より強く提唱せられました。松岡氏の主 張は若し對米戰が起るならばそれは世界の破滅である、從つて之は極力囘避せねば ならぬといつて居ります。それがためには日米の國交を改善する必要があるがそれ には我方は毅然たる態度をとるの外はないといふのであります。會議では具體案に ついては外相に信頼するといふことになりました。 (C) 對中國政策、對中國施策としては援蒋行爲を禁止し敵性芟除を實行するといふにあ りました。何故斯の如きことが必要であるかといへば今囘の事變の片付かないのは 重慶が我が國力につき過小評價をして居るといふことと及び第三國の蒋介石援助に 6因るからであるとの見解からであります。從つて蒋政府と米英との分斷が絶對的に 必要であるとせられたのであります。 (D) 南方問題、對「ソ」國防の完壁、自立國家の建設は當時の日本に取つては絶對の課 題でありますが之を阻害するものは(1)支那事變の未解決と(2)英米の壓迫であ ります。右のうち第二のことについては重要物資の大部分は我國は米英よりの輸入 に依つて居るといふことが注意せられます。もし一朝この輸入が杜絶すれば我國の 自存に重大なる影響があります。從つて支那事變の解決と共に此事に付ては重大關 心が持たれて居りました。之は南方の諸地域よりする重要物資の輸入により自給自 足の完壁を見ることに依つて解決せらるべしと考へられました。但し支那事變の進 行中のことでもあり日本は之がため第三國との摩擦は極力これを避けたいといふの であります。 要するに對米英戰爭といふことはこの決定當時に於ては少しも考へられて居りません。 但し日本の之を欲すると否とに拘らず場合に依り米英より武力的妨害のあるべきことは懸 念せられては居りました。
 三國同盟
一〇
以下日獨伊三國同盟締結に至る迄の經緯にして私の承知する限りを陳述致します。右條 約締結に至る迄の外交交渉は專ら松岡外務大臣の手に依つて行はれたのであります。自分 は單に陸軍大臣として之に參與致しました。國策としての決定は前に述べました第二次近 衞内閣の二大國策に關係するのであります。即ち「基本國策要綱」に在る國防及外交の重 心を支那事變の完遂に置き建設的にして彈力性に富む施策を講ずるといふこと(英文記録 六二七三頁)及「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」の第四項、獨伊との政治的結束を 強化すとの項目に該當致します。(英文記録一一七九五頁)獨伊との結束強化の眞意は本 供述書九項中 (A) として述べた通りであります。 この提携の問題は第二次近衞内閣成立前後より内面的に雜談的に話が續いて居りまし た。第二次近衞内閣成立後「ハインリツヒ、スターマー」氏の來朝を契機として、此の問 題が具體化するに至りましたが之に付ては反對の論もあつたのであります。吉田海軍大臣 は病氣の故を以て辭職したのでありますが、それが唯一の原因であつたとは言へません。 九月四日に總理大臣鑑定で四相會議が開かれました。出席者は首相と外相と海軍大臣代理 たる海軍次官及陸相即ち私とでありました。松岡外相より日獨伊樞軸強化に關する件が豫 7めの打合せもなく突如議題として提案せられました。 それは三國間に歐羅巴及亞細亞に於ける新秩序建設につき相互に協力を遂ぐること之に 關する最善の方法に關し短期間内に協議を行ひ且つ之を發表するといふのでありました。 右會合は之に同意を與へました。スターマー氏は九月九日及十日に松岡外相に會見して居 ります。此間の進行に付ては私は熟知しませぬ。そして一九四〇年(昭和十五年)九月十 九日の連絡會議及御前會議となつたのであります。「ここで申上げますが檢事提出の證據 中一九四〇年(昭和十五年)九月十六日樞密院會議及御前會議に關する書類が見られます が(法廷證五五一號)同日に斯の如き會議が開かれたことはありません。尚ほ遡つて同年 八月一日の四相會議なるものも私は記憶しませぬ。」 一九四〇年(昭和十五年)九月十九日の連絡會議では同月四日の四相會議の合意を認め ました。此の會議で私の記憶に殘つて居ることは四つであります。 其の一は三國の關係を條約の形式に依るか又は原則を協定した共同聲明の形式に依るか の點でありますが、松岡外相は共同聲明の形式に依るは宜しからずとの意見でありまし た。其の二は獨伊との關係が米國との國交に及ぼす影響如何であります。此點に付ては松 岡外相は獨逸は米國の參戰を希望して居らぬ。獨逸は日米衝突を囘避することを望み之に 協力を與へんと希望して居るとの説明でありました。 三は若し米國が參戰した場合、日本の軍事上の立場は如何になるやとの點であります が、松岡外相は米國には獨伊系の國民の勢力も相當存在し與論に或る程度影響を與ふるこ とが出來る。從つて米國の參戰を囘避し得ることも出來ようが、萬一米國參戰の場合に は我國の援助義務發動の自由は十分之を留保することにして行きたいとの説明を與へま した。 四は「ソ」聯との同調には自信ありやとの點でありますが、松岡外相は此點は獨逸も希 望して居り、極力援助を與ふるとのこともありまして、參會者も亦皆松岡外相の説明を諒 と致しました。 右會議後同日午後三時頃より御前會議が開かれました。同日の御前會議も亦連絡會議の 決議を承認しました。此の御前會議の席上、原樞府議長より「米國は日本を獨伊側に加入 せしめざるため可なり壓迫を手控へて居るが、日本が獨伊と同盟を締結し其態度が明白と ならば對日壓迫を強化し、日本の支那事變遂行を妨害するに至るではないか」といふ意味 の質問があり、之に對し松岡外相は「今や米國の對日感情は極度に惡化して居つて單なる 御機嫌とりでは恢復するものではない。只我方の毅然たる態度のみが戰爭を避けることを 得せしめるであらう」と答へました。松岡外相は其後「スターマー」氏との間に協議を進 め三國同盟條約案を作り閣議を經て之を樞密院の議に附することとしたのであります。

一一
此の條約締結に關する樞密院の會議は一九四〇年(昭和十五年)九月廿六日午前十時に 審査委員會を開き同日午後九時四十分に天皇陛下臨御の下に本會議を開いたのでありま す。(法廷證五五二號、同五五三號)樞密院審査委員會の出席者は首相、外相、陸相、海 相、藏相だけであります。同本會議には小林商相、安井内相の外は全閣僚出席しました。 星野氏、武藤氏も他の説明者と共に在席しましたが、これは單に説明者でありまして、審 議に關する責任はありませぬ。責任大臣として出席者は被告中には私だけであります。尚 ほここで申上げますがそもそも樞密院の會議録は速記法に依るのではなくして同會議陪席 の書記官が説明要旨を摘録するに過ぎませんから、説明答辯の趣旨は此の會議録と全く合 致するといふことは保證出來ません。此の會議の場合に於ても左樣でありました。 此の會議中私は陸軍大臣として對米開戰の場合には陸軍兵力の一部を使用することを説 明しました。これは「最惡の場合」と云ふ假定の質問に對し我國統帥部が平時より年度作 戰計劃の一部として考へて居つた對米作戰計畫に基いて説明したものであります。斯る計 畫は統帥部が其責任に於て獨自の考に依り立てゝ居るものでありまして國家が對米開戰の 決意を爲したりや否やとは無關係のものであります。統帥部としては將來の事態を假想し て平時より之を爲すものであつて孰れの國に於ても斯る計畫を持つて居ります。これは統 帥の責任者として當然のことであります。尚ほ此の審議中記憶に殘つて居りますことは某 顧問官より「ソ」聯との同調に關し質問があつたのに對し松岡外相より條約案第五條及交 換文書を擧げ獨逸側に於ても日「ソ」同調に付き周旋の勞をとるべきことを説明しまし た。以上樞密院會議の決定を經て翌二十七日條約が締結せられ、同時に之に伴ふ詔勅が煥 發せられましたことは法廷證四三號及五五四號の通りであります。

一二
右の如く三國同盟條約締結の經過に因て明かなる如く右同盟締結の目的は之に依て日本 國の國際的地位を向上せしめ以て支那事變の解決に資し、併せて歐洲戰の東亞に波及する ことを防止せんとするにありました。 三國同盟の議が進められたときから其の締結に至る迄之に依て世界を分割するとか、世 界を制覇するとか云ふことは夢にも考へられて居りませんでした。唯、「持てる國」の制 覇に對抗し此の世界情勢に處して我國が生きて行く爲の防衞的手段として此の同盟を考へ ました。大東亞の新秩序と云ふのも之は關係國の共存共榮、自主獨立の基礎の上に立つも 9のでありまして、其後の我國と東亞各國との條約に於ても何れも領土及主權の尊重を規定 して居ります。又、條約に言ふ指導的地位といふのは先達者又は案内者又は「イニシア チーブ」を持つ者といふ意味でありまして、他國を隸屬關係に置くと云ふ意味ではありま せん。之は近衞總理大臣始め私共閣僚等の持つて居つた解釋であります。
 北部佛印進駐

一三
一九四〇年(昭和十五年)九月末に行はれたる日本軍隊の北部佛印進駐については私は 陸軍大臣として統帥部と共に之に干與しました。日本の南方政策は引つゞき行はれたる米 英側の經濟壓迫に依り餘儀なくせられたものであつて、其の大綱は同年七月二十七日の 「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」(法廷證一三一〇號)に定められてあります。この 南方政策は二つの性格を有して居ります。その一は支那事變解決のため米英と重慶との提 携を分斷すること、その二は日本の自給自足の經濟體制を確立することであります。とも に日本の自存と自衞の最高措置として發展したものであつて、而もこれは外交に依り平和 的に處理することを期して居つたのでありますが、米英蘭の對日壓迫に依り豫期せざる實 際問題に轉化して行つたのであります。

一四
私は以下に日本軍の少數の部隊を北部佛印に派遣したことにつき佛印側に便宜供與を求 めたことを陳述致します。元來この派兵は專ら對支作戰上の必要より發し統帥部の切なる 要望に基くのであります。 前内閣時代である一九四〇年(昭和十五年)六月下旬に佛印當局は自發的に援蒋物資の 佛印通過を禁絶することを約し、其の實行を監視する爲日本より監視機關を派遣すること になつたのであります。(法廷證六一八)當時「ビルマ」に於ても同樣の措置が取られま した。然し實際にやつてみると少數の監視機關では援蒋物資禁絶の實施の完璧を期するこ との出來ぬことが判明しました。加之、佛印國境閉鎖以來重慶側は實力を以て佛印ルート 再開を呼號し兵力を逐次佛印國境方面に移動したのであります。故に日本としては斯る情 勢上北部佛印防衞の必要を感じました。なほ統帥部では支那事變を急速に解決するため支 那奧地作戰を實行したいとの希望を抱き、それがため北部佛印に根據を持ちたいとの考を 有しました。七月下旬連絡會議も之を認め政府が「フランス」側に交渉することになつた のであります。此の要求の要點は北佛自體に一定の限定兵力を置くこと、又一定の限定兵 10力を通過せしめることの要求であります。その兵力は前者六千、後者は二千位と記憶して 居ります。右に關する外交交渉は八月一日以來、松岡外相と日本駐在の「シヤール、アル セイヌ、アンリー」佛蘭西大使との間に行はれ、同年八月三十日公文を交換し話合は妥結 したのであります。(法廷證六二〇の附屬書第十ノ一、及二)。即ち日本側に於ては佛領印 度支那に對する「フランス」の領土保全及主權を尊重しフランス側では日本兵の駐在に關 し軍事上の特殊の便宜を供與することを約し、又此の便宜供與は軍事占領の性質を有せざ ることを保證して居ります。

一五
右八月三十日の松岡「アンリー」協定に於ては右の原則を定め現地に於ては日本國の要 望に滿足を與ふることを目的とする交渉が遲滯なく開始せられ、速かに所期の目的を達成 するため「フランス」政府は印度支那官憲に必要なる訓令を發せらるべきものとしたので あります。そこで前に監視機關の委員長として現地に出張して居つた西原少將は大本營の 指導の下に右日佛兩國政府の協定に基き直ちに佛印政廳との間に交渉を開始し、九月四日 には既に基礎的事項の妥結を見るに至りました。(法廷證六二〇號の附屬書第十一號)引 續いて九月六日には便宜供與の細目協定に調印する筈でありましたが、不幸にも其前日た る九月五日に佛印と支那との國境に居つた日本の或る大隊が國境不明のために越境したと いふ事件が起りました。(其後軍法會議での調査の結果、越境に非ざることが判明しまし たが)無論これは國境偵察の爲でありましたから一彈も發射した譯ではありませんが、佛 印側は之を口實として細目協定に調印を拒んだのであります。當時佛印當局の態度は表面 は「ヴイシー」政府に忠誠を誓つて居つたようでありましたが、内實はその眞僞疑はしき ものと觀察せられました。一方我方では派兵を急ぐ必要がありたるに拘らず、交渉が斯く 頓挫し、非常に焦燥を感じましたが、それでも最後まで平和的方法で進行したしとの念を 棄てず、これがため參謀本部より態々第一部長を佛印に派遣し、此の交渉を援助せしめま した。その派遣に際しても參謀總長よりも、陸軍大臣たる私よりも、平和進駐に依るべき ことを懇切に訓諭したのでありました。それでも細目協定が成立しませぬから、同月十 八、九日頃に大本營より西原機關に對し同月二十二日正午(東京時間)を期して先方の囘 答を求めよといふことを申してやりました。これは「フランス」政府自身が日本兵の進駐 を承諾せるに拘らず、現地の作爲で遲延するのであるから、自由進駐も止むを得ずと考へ たのであります。從つて居留民等の引上げもその前に行ひました。 佛印側との交渉は二十二日正午迄には妥結に至りませんでしたが、我方も最後に若干の 讓歩を爲し、それより二時間程過ぎた午後二時過に細目協定の成立を見るに至つたのであ 11ります。(それは證六二〇號の附屬書十二號であります)然るに翌二十三日零時三十分頃 に佛印と支那との國境で日佛間に戰鬪が起りました。それは當時佛印國境近くに在つた第 一線兵團は南支那の交通不便な山や谷の間に分散して居つたがため、連絡が困難で二十 二日午後二時の細目妥結を通知することが日本側の努力にも拘らず不可能であつたのと、 「フランス」側に於ても、その通知の不徹底であつたからでありますが、此の小衝突はそ の日のうちに解決しました。海防方面の西村兵團は「フランス」海軍の案内に依つて海防 港に入ることになつて居つたのでありますが、北方陸正面で爭の起つたのに鑑み海防港に は入らず、南方の海濱に何等のことなく上陸しました。なほその後同月二十六日日本の偵 察飛行隊が隊長と部下との信號の誤りから海防郊外に爆彈を落した事件が起りました。こ れは全くの過失に基くもので且一些事であります。

一六
要するに我國が一九四〇年(昭和十五年)九月末に佛印に派兵したことは中國との問題 を早く解決する目的であつて、その方法は終始一貫平和手段に依らうとしたのでありま す。又實際に派遣した兵力も最小限度に止め約束限度の遙か以内なる四千位であつたと記 憶します。一九四一年(昭和十六年)十二月八日、米國「ルーズベルト」大統領より天皇 陛下宛の親書(法廷證一二四五號 J)中に 陛下の政府は「ヴイシー」政府と協定し、これに依て五千又は六千の日本軍隊を 北部佛印に入れ、それより以北に於て中國に對し作戰中の日本軍を保護する許可を 得た と述べて居ることに依ても當時の事情を米國政府が正當に解釋して居つたことを知り得 ます。 以上説明しましたやうな次第で不幸にして不慮の出來事が起りましたが、之に對しては 私は陸軍大臣として軍紀の振肅を目的として嚴重なる手段を取りました。即ち聯隊長以下 を軍法會議にかけ、現地指揮官、大本營幕僚を或は罷免し或は左遷したのであります。之 はその前から天皇陛下より特に軍の統制には注意せよとの御言葉があり、又陸軍大臣とし て軍の統制を一の方針として居つたのに基くもので、軍内部の規律に關することでありま して、之は固より日本が佛印側に對し國際法上の責任があることを意味したものではああり ません。
 日華基本條約と日滿華共同宣言

一七
第二次近衞内閣に於て一九四〇年(昭和十五年)十一月卅日、日華基本條約を締結し日 滿華共同宣言を發するに至りました事實を述べ、これが檢察側の主張するような對支侵略 行爲でなかつた事を證明致します。これは一九四〇年(昭和十五年)十一月十三日の御前 會議で決定せられた「支那事變處理要綱」に基くのであります。(辯護側證第二八一三號) 何故に此時にかかる要綱を決定する必要があつたのかと申しますに、これより先、從前の 政府も統帥部も支那事變の解決に全力を盡して居りました。一九四〇年(昭和十五年)三 月には南京に新國民政府の還都を見ました。これを承認しこれとの間に基本條約を締結す るために前内閣時代より阿部信行大使は已に支那に出發し、南京に滯在して居りました が、南京との基本條約を締結する前に今一度重慶を含んだ全面和平の手を打つて見るを適 當と認めました。また當時既に支那事變も三年に亘り國防力の消耗が甚だしからんとし、 また米英の經濟壓迫が益々強くなつて來て居るから我國は國力の彈撥性を囘復する必要が 痛感せられました。この支那事變處理要綱の骨子は (一) 一九四〇年(昭和十五年)十一月末を目途として重慶政府に對する和平工作を促 進する (二) 右不成立の場合に於ては長期持久の態勢に轉移し帝國國防の彈撥性を恢復す といふのでありました。

一八
右要綱(一)の對重慶和平工作は從來各種の方面、色々の人々に依つて試みられて居つ たのでありますが、此時これを松岡外相の手、一本に纒めて遂行したのでありましたが、 この工作は遂に成功せず、遂に南京政府との間に基本條約を締結するに至つたのでありま す(證四六四、英文記録五三一八頁)。この條約は松岡外相指導の下に阿部信行大使と汪 兆銘氏との間に隔意なき談合の上に出來たものであつて彼の一九三八年(昭和十三年)十 二月二十二日の近衞聲明(證九七二、英文記録九五二七頁)の主旨を我方より進んで約束 したものであります。又同日日滿華共同宣言(證四六四號英文記録五三二二頁)に依つて 日滿華の關係を明かにしました。なほ基本條約及右宣言の外に附屬の秘密協約、秘密協定 並に阿部大使と汪委員長との間の交換公文が交換せられて居ります。(證四六五號英文記録五三二七以下)

一九
右の一九四〇年(昭和十五年)十一月三十日の日華基本條約並に日華共同宣言、秘密協 約、秘密協定、交換公文を通じて陸軍大臣として私の關心を持つた點が三つあります。一 は條約等の實行と支那に於ける事實上の戰爭状態の確認、二は日本の撤兵、三は駐兵問題 であります。 第一の條約の完全なる實行は政府も統帥部も亦出先の軍も總て同感で一日も早く條約の 實行を爲すべきことを希望して居つたのであります。然るに我方の眞摯なる努力にも拘ら ず蒋介石氏は少しも反省せず米英の支援に依り戰鬪を續行し事實上の戰爭行爲が進行しつ ゝありました。占據地の治安のためにも、軍自身の安全のためにも、在留民の生命財産の 保護のためにも、亦新政府自體の發展のためにも、條約の實行と共にこの事實上の戰爭状 態を確認し、交戰の場合に必要な諸法則を準用するの必要がありました。これが基本條約 附屬議定書中第一に現在戰鬪行爲が繼續する時代に於ては作戰に伴ふ特殊の状態の成立す ること又、之に伴ふ必要なる手段を採るの必要が承認せられた所以であります。(法廷證 四六四號英文寫四頁)第二の日本軍の撤兵については統帥部に於ても支那事變が解決すれ ば原則として一部を除いて全面撤兵には異存がなかつたのであります。我國の國防力の囘 復のためにも其の必要がありました。然し撤兵には二つの要件があります。その中の一つ といふのは日支の間の平和解決に依り戰爭が終了するといふことであります。その二つは 故障なく撤兵するために後方の治安が確立するといふことであります。撤兵を實行するの には技術上約二年はかゝるのでありまして、後方の治安が惡くては撤兵實行が不能になり ます。これが附屬議定書第三條に中國政府は此期間治安の確立を保證すべき旨の規定を必 要とした所以であります。(法廷證四六四、英文寫四頁) 第三の駐兵とは所謂「防共駐兵」が主であります。「防共駐兵」とは日支事變の重要な る原因の一つであるところの共産主義の破壞行爲に對し日支兩國が協同して、之を防衞せ んとするものでありまして、事變中共産黨の勢力が擴大したのに鑑み、日本軍の駐兵が是 非必要と考へられました。之は基本條約第三條及交換公文にもその規定があります。(法 廷證四六四、四六五)そして所要の期間駐兵するといふことであつて必要がなくなれば撤 兵するのであります。 以上は私が陸軍大臣として此條約に關係を持つた重なる事柄でありまして此の條約は從 前の國際間の戰爭終結の場合に見るような領土の併合とか戰費の賠償とかいふことはあり ません。これは特に御留意を乞ひたき點であります。たゞ附屬議定書第四條には支那側の 14義務と日本側の義務とを相互的の關係に置き支那側の作戰に依つて日本在留民が蒙つた損 害は中國側で賠償し中國側の難民は日本側で救助するといふ條項がある許りであります。 (法廷證四六四、英文四頁)中國の主權及領土保全を尊重し、從前我國の持つて居つた治 外法權を抛棄し租界は之を返還するといふ約束をしました。(基本條約一條、七條、法廷 證四六四) 而して治外法權の抛棄及租界の返還等中國の國權の完備の爲に我國が約束した事柄は一 九四三年(昭和十八年)春迄の間に逐次實行せられました。なほ一九四三年(昭和十八年) の日華同盟條約法廷證四六六に於て右基本條約に於て日本が權利として留保した駐兵其他 の權利は全部抛棄してしまひました。
 日「ソ」中立條約竝に松岡外相の渡歐

二〇
次に日「ソ」中立條約に關し陸軍大臣として私の關係したことを申上ます。一九四一年 (昭和十六年)春、松岡外相渡歐といふ問題が起りました。一九四一年(昭和十六年)二 月三日の連絡會議で『對獨伊「ソ」交渉案要綱』(辯護側證第二八一一號)なるものを決 定しました。此の決定は松岡外相が渡歐直前に提案したものでありまして、言はば外相渡 歐の腹案であつて正式の訓令ではありません。 此の「ソ」聯との交渉は「ソ」聯をして三國同盟側に同調せしめこれによって對「ソ」 靜謐を保持し又、我國の國際的地位を高めることが重點であります。かくすることによつ て(イ)對米國交調整にも資し(ロ)ソ聯の援蒋行爲を停止せしめ、支那事變を解決する といふ二つの目的を達せんとしたのであります。

二一
右要綱の審議に當つて問題となつた主たる點は四つあつたと記憶致します。その一つは 「ソ」聯をして三國側に同調せしむることが可能であらうかといふことであります。此點 については既に獨「ソ」間に不可侵條約が締結されて居り豫て内容の提示してあつた「リ ツペントロツプ」腹案(此本文は法廷證第二七三五號中に在り)なるものにも獨逸も「ソ」 聯を三國條約に同調せしむることを希望して居り、「スターマー」氏よりもその説明があ つた次第もあり、「ソ」聯をして三國に同調せしめ得ることが十分の可能性ありとの説明 でありました。 その二は我國の「ソ」聯との同調に對し獨逸はどんな肚をもつて居るであらうかといふ 15ことでありました。此點については獨逸自身既に「對」ソ不可侵條約を結んで居る。 加之、現に獨逸は對英作戰をやつて居る。それ故當時の我國の判斷としては獨逸は我國 が「ソ」聯と友好關係を結ぶことを希望して居るであろうと思いました。かくて「ソ」聯 をして日獨に同調せしめ、進んで對英作戰に參加せしむるとの希望を抱くであらうとの見 通しでありました。 その三は日「ソ」同調の目的を達するためには我國はある程度の犧牲を拂つても此の目 的を達して行きたい。然らば日本として拂ふことあるべき犧牲の種類と限度如何といふ問 題でありました。そこで犧牲とすべきものとしては日「ソ」漁業條約上の權利並に北樺太 の油田に關する權利を還付するといふ肚を決めたのであります。尤も對獨伊「ソ」交渉案 要綱には先づ樺太を買受けるの申出を爲すといふ事項がありますが之は交渉の段階として 先づ此の申出をすることより始めるといふ意味であります。北樺太の油田のことは海軍に も大なる關係がありますから無論その意見を取り入れたのであります。 その四は外相の性格上もし統帥に關する事項で我國の責任又は負擔となるようなことを 言はれては非常な手違となりますから、參謀總長、軍令部總長はこの點を非常に心配され ました。そして特にそのことのないやうに注意を拂ひ、要綱中の五の註にも特に「我國の 歐洲戰參加に關する企圖行動並に武力行使につき帝國の自主性を拘束する如き約束は行は ざるものとす」との明文まで入れたのであります。

二二
此の要綱中で問題となるのはその三及四でありますが、これは決して世界の分割を爲し たり、或は制覇を爲すといふ意味ではありません。唯、國際的に隣保互助の精神で自給自 足を爲すの範圍を豫定するといふの意味に外なりません。

二三
當時日本側で外相渡歐の腹案として協議したことは以上の通りでありますが、當法廷で 檢察側より獨逸から押收した文書であるとして提出せられたもの殊に「オツト」大使の電 報(法廷證五六七乃至五六九)並に「ヒトラー」總統及「リツペントロツプ」外相松岡外 相との會談録(證五七七乃五八三)に記載してあることは右腹案に甚しく相違して居り ます。 松岡外相歸朝後の連絡會議並に内閣への報告内容も之とは絶對に背馳して居ります。

二四
松岡外相が渡歐したときは當時日本として考へて居つたこととは異なり獨逸と「ソ」聯 との間は非常に緊張して居り「ソ」聯を三國同盟に同調せしめるといふことは不可能とな りました。又、獨逸は日本と「ソ」聯とが中立條約を結ぶことを歡迎せぬ状態となつたの であります。從つてその斡旋はありません。即ち此點については我國の考へと獨逸のそれ とは背馳するに至りました。結局四月十三日松岡外相の歸途「ソ」聯との間に中立條約は 締結いたしましたが(證第四五號)その外に此の松岡外相渡歐より生じた實質的の外交上 の利益はなにもなかつたのであります。詳しく言へば (1) 松岡外相の渡歐は獨伊に對して は全く儀禮的のものであつて、何も政治的の効果はありませんでした。要綱中の單獨不媾 和といふことは話にも出て居りません。(2) 統帥に關することは初めより松岡に禁じたこ とでもあり、また「シンガポール」攻撃其他之に類する事項は報告中にもありません。(3) 又、檢察官のいふ如き一九四一年(昭和十六年)二月上旬日獨の間に軍事的協議をしたと いふことも事實ではありません。

二五
日「ソ」中立條約は以上の状況の下に於て締結せられたものでありまして、その後の我 國の國策には大きな影響をもつものではありません。又日本の南方政策とは何の關係もあ りません。此の中立條約があるがため我國の「ソ」聯に備へた北方の兵備を輕くする効果 もありませんでした。乍然、我國は終始此の中立條約の條項は嚴重に遵守し、その後の内 閣も屡々此の中立條約を守る旨の現地を與へ獨逸側の要求がありましても「ソ」聯に對し 事を構へることは一度も致しませんでした。たゞ「ソ」聯側に於ては中立條約有効期間中 我國の領土を獲得する條件を以て對日戰に參加する約束をなし、現に中立條約有効期間中 日本を攻撃したのであります。
 第二次近衞内閣に於ける日米交渉

二六
所謂日米諒解案(證第一〇五九號と同文)なるものを日本政府が受取つたのは一九四一 年四月十八日であります。 此の日以後、政府として之を研究するようになりました。私は無論陸軍大臣として之に 17關與しました。但し私は職務上軍に關係ある事項につき特に關心を有して居りまして、其 他のことは首相及外相が取扱はれたのであります。 斯る案が成立しましたまでのことについて私の了解するところでは、これは近衞首相が 三國同盟の締結に伴ひその日米國交に及ぼす影響に苦慮せられて居つたのに淵源するので あつて、早く既に一九四〇年末より日米の私人の間に、初めは日本に於て、後には米國に 於て、話合が續けられて來て居つた如くでありました。米國に於ける下交渉は日本側は野 村大使了解の下に又米國側では大統領國務長官、郵務長官の了解の下に行はれて居つた旨 華府駐在の陸軍武官からの報道を受けて居りました。 右諒解案は非公式の私案といふ事になつて居りますが併し大統領も國務長官も之を承知 し特に國務長官から、在米日本大使に此案を基礎として交渉を進めて可なりや否やの日本 政府の訓令を求められたき旨の意思表示があつた以上我々は之を公式のものと思つて居り ました。即ち此の案に對する日本政府の態度の表示を求められた時に日米交渉が開始され たものと認めたのであります。

二七
此案を受取つた政府は直ちに連絡會議を開きました。連絡會議の空氣は此案を見て今迄 の問題解決に一の曙光を認め或る氣輕さを感じました。何故かと言へば我國は當時支那事 變の長期化に惱まされて居りました。他方米英よりの引續く經濟壓迫に苦んで居つた折柄 でありますから、此の交渉で此等の問題の解決の端緒を開いたと思つたからであります。 米國側も我國との國交調整に依り太平洋の平和維持の目的を達することが出來ますからこ れには相當熱意をもつものと見て居りました。米國側に於て當初から藁をも掴む心持ちで 之に臨み又時間の猶豫を稼ぐために交渉に當るなどといふことは日本では夢想だもして居 らなかつたのであります。連絡會議は爾來數囘開會して最後に四月二十一日に態度の決定 を見ました。當時は松岡外相は歐洲よりの歸途大連迄着いて居つてその翌日には着京する 豫定でありました。一九四一年(昭和十六年)四月二十一日の態度決定の要旨は 一、 此の案の成立は三國同盟關係には幾分冷却の感を與へるけれども、之を忍んで此の 線で進み速に妥結を圖ること 二、 我國の立場としては次の基準で進むこと即ち (イ) 支那事變の迅速解決を圖ること (ロ) 日本は必要且重要なる物資の供給を受けること (ハ) 三國同盟關係には多少の冷却感を與ふる事は可なるも明かに信義に反する 18ことは之を避けること といふのであります。我方では原則論に重きを置かず具體的問題の解決を重視したのであ ります。それは我方には焦眉の急務たる支那事變解決と自存自給體制の確立といふ問題が あるからでありました。 三國同盟條約との關係の解釋に依つて此の諒解案の趣旨と調和を圖り得るとの結論に達 して居りました。日米交渉を獨逸側に知らせるか否か、知らせるとすれば其の程度如何と いふことが一つの問題でありましたが、此のことは外務大臣に一任するといふことになり ました以上の趣旨で連絡會議の決意に到達しましたから之に基き此の案を基礎として交渉 を進むるに大體異存なき旨を直ちに野村大使に電報しようといふことになりましたが、此 點については外務大臣も異存はない、たゞ松岡外務大臣が明日着京するから華盛頓への打 電は其時迄留保するといふ申出を爲し會議は之を承認して閉會したのでありました。

二八
しかし翌四月二十二日(一九四一年昭和十六年)松岡外相が歸つてから此の問題の進行 が澁滯するに至つたのであります。松岡外相の歸京の日である四月二十二日の午後直ちに 連絡會議を開いて之を審議しようとしましたが、外相は席上渡歐の報告のみをして右案の 審議には入らず、これは二週間位は考へたいといふことを言ひ出しました。之が進行の澁 滯を來した第一原因であります。外相は又、此の諒解案の内容を過早に獨逸大使に内報し ました。之がやはり此の問題の澁滯と混亂の第二の原因となつたのであります。なほ其他 外相は (A) 囘訓に先だち歐洲戰爭に對する「ステーメント」を出すことを主張し (B) 又 日米中立條約案を提案せんとしました。此等のことのため此の問題に更に混亂を加へたの であります。松岡外相の斯の如き態度を採るには色々の理由があつたと思はれます。松岡 氏は初めは此の諒解案は豫て同外相がやつて居つた下工作が發展して此のようになつて來 たものであらうと判斷して居つたが、間もなく此の案は自分の構想より發生したものでは なく、又一般の外交機關により生れて來たものでもないといふことを覺知するに至りまし た。それが爲松岡氏は此の交渉に不滿を懷くようになつて來ました。又松岡外相は獨伊に 行き、その主腦者に接し三國同盟の義務履行については緊切なる感を抱くに至つたことが その言葉の上より觀取することが出來ました。なほ松岡外相の持論である、米國に對し嚴 然たる態度によつてのみ戰爭の危險が避けられるといふ信念がその後の米國の態度に依り 益々固くなつたものであると私は觀察しました。

二九
斯くて我國よりは漸く一九四一年(昭和十六年)五月十二日に我修正案を提出すること が出來ました。(法廷證一〇七〇號)「アメリカ」側は之を我國よりの最初の申出であると いつて居るようでありますが、日本では四月十八日のものを最初の案とし之に修正を加へ たのであります。此の修正案の趣旨についてその主なる點を説明すれば (一) その一つは三國同盟條約の適用と自衞權の解釋問題であります。四月十八日案で は米國が自衞上歐洲戰爭に參加した場合に於ては日本は太平洋方面に於て米國の安 全を脅威せざることの保障を求めて居ります。然るに五月十二日の該修正案では三 國同盟條約に因る援助義務は條約の規定に依るとして居るのであります。――三國 同盟の目的の一つは「アメリカ」の歐洲戰爭參加の防止と及歐洲戰爭が東亞に波及 することを防止するためでありました。米國は此の條約の死文化を求めたものであ りますが、日本としては表面より此の申出を受諾することは出來ませぬ。我方は契 約は之を存して必要なることは、條約の條項の解釋により處理しようといふ考へで ありました。即ち我方は實質に於て讓歩し協調的態度をとつたのであります。 (二) 二は支那事變關係のことであります。四月十八日案では米大統領はその自ら容認 する條件を基礎として蒋政權に對し日支交渉を爲す勸告をしよう、而して蒋政權 が、之に應ぜざれば米國の之に對する援助を中止するといふ事になつて居ります。 我方五月十二日案では米國は近衞聲明、日華基本條約及日滿華の三國共同宣言(法 廷證九七二ノ H 四六四)の趣旨を米國政府が了承して之に基き重慶に和平勸告を 爲し、もし之に應ぜざれば米國より蒋政權に對する援助を中止することになつてお ります。尤も此の制約は別約でもよし、又米國高官の保證でもよいとなつておりま す。乃ち米國は元來支那問題の解決は日本と協議することを要求するといふことに なつて居ります。 元來支那問題の解決は日本としては焦眉の急であります。此の解決には二つの重點があ ります。その一つには支那事變自體の解決であります。その二は新秩序の承認でありま す、我方の五月十二日案では近衞聲明、日華基本條約及日滿華共同宣言を基本とするので ありますから、當然東亞に於ける新秩序の承認といふことが含まれて居ります。撤兵の問 題は四月十八日案にも含まれて居ることになるのであります。即ち日支間に成立すべき協 定に基づくといふことになつて居ります。五月十二日案も結局は日華基本條約に依るので ありますから趣旨に於て相違はありません。門戸開放のことも四月十八日案と五月十二日 20案とは相違しないのであります。四月十八日案には支那領土内への大量の移民を禁ずると の條項がありますが、五月十二日案は之には觸れて居りません。

三〇
五月十二日以後の日米交渉の經過につき私の知る所を陳述いたします。五月十二日以後 右の日本案を中心として交渉を繼續しました。日本に於ては政府も統帥部もその促進につ とめたのでありましたが、次の三點に於て米側と意見の一致を見るに至らなかつたのであ ります。その一つは中國に於ける日本の駐兵問題、その二は中國に於ける通商無差別問 題、その三は米國の自衞權行使に依る參戰と三國條約との關聯問題であります。五月三十 日に米國からの中間提案(法廷證一〇七八)が提出されなど致しましたが、此の間の經緯 は今、省略いたします。結局六月二十一日の米國對案の提出といふことに歸着いたしま した。

三一
六月二十一日と言へば獨「ソ」開戰の前日であります。此頃には獨「ソ」戰の開始は蓋 然性より進んで可能性のある事實として世界に認められて居りました。我々は此の事實に 因り米國の態度が一變したものと認定したのであります。この六月二十一日の案は證第一 〇九二號の通りでありますが、我方は之につき次の四點に注意致しました。 その一つは米國の六月二十一日案は獨り我方の五月十二日修正案に對し相當かけ離れて 居るのみならず、四月十八日案に比するも米國側の互讓の態度は認められません。米國は 米國の立場を固守し非友誼的であるといふことが觀取せられます。その二つは三國條約の 解釋については米國が對獨戰爭に參加した場合の三國同盟條約上の我方の對獨援助義務に つき制限を加へた上に廣汎なる拘束を意味する公文の交換を要求して來ました。(證一〇 七八號中に在り)その三は從前の案で南西太平洋地域に關して規定せられて居つた通商無 差別主義を太平洋地域の全體に適用することを求めて來たことであります。その四は移民 問題の條項の削除であります。四月十八日案にも五月十二日案にも米國並に南西太平洋地 域に對する日本移民は他國民と平等且無差別の原則の下に好意的考慮が與へられるであら うとの條項がありました。六月二十一日の米案はこの重要なる條項を削除して來ました。 六月二十一日の米提案には口頭の覺書(オーラル・ステートメント)といふものが附いて 居ります。(證一〇九一號)その中に日本の有力なる地位に在る指導者はナチ獨逸並その 世界征服の政策を支持する者ありとして暗に外相の不信認を表現する辭句がありました。 21之は日本の關係者には内政干渉にあらざるやとの印象を與へました。以上の次第で日米交 渉は暗礁に乘り上げたのであります。

三二
しかも、此の時代に次の四つのことが起りました。 一、 六月二十二日獨ソ戰爭が開始したこと 二、 「フランス」政府と了解の下に日本の行つた南部佛印への進駐を原因として米國の 態度が變化したこと 三、 七月二十五日及二十六日に米、英、蘭の我在外資金凍結に依る經濟封鎖 四、 松岡外務大臣の態度を原因としたる第二次近衞内閣の總辭職 以上の内一及二の原因により米國の態度は硬化し、それ以後の日米交渉は佛印問題を中 心として行はるゝようになりました。四の内閣變更の措置は我方は如何にしても日米交渉 を繼續したいとの念願で、内閣を更迭してまでも、その成立を望んだのでありまして、我 方では國の死活に關する問題として此の交渉の成立に對する努力は緩めませんでした。前 記の如く内閣を更迭しその後に於ても努力を續けたのであります。
 對佛印泰施策要綱

三三
以上述べました日米交渉よりは日時に於ては少し遡りますが、ここに佛印及泰との關係 を説明いたします。 一九四一年(昭和十六年)一月三十日の大本營及政府連絡會議に於て「對佛印泰施策要 綱」といふものを決定しました。(辯護側證第二八一二號本文書記入の日附は上奏の月日 を記入せるものであります。法廷證一一〇三、及一三〇三參照)これは後日我國が爲した 對佛印間の居中調停、佛印との保障及政治的了解及經濟協定の基礎を爲すものでありま す。右要綱の内には軍事的緊張關係の事も書いてありますが、此部分は情勢の緩和のため 實行するに至らなかつたのであります。 一九四一年(昭和十六年)七月下旬の南部佛印進駐は同年六月廿五日の決定に因るもの でありまして、今ここに陳述する一月卅日の施策要綱に依るのではありませぬ。從て南部 佛印進駐の事は今ここには陳べませぬ。

三四
右對佛印泰施策要綱は統帥部の提案であります。 自分は無論陸軍大臣として之に參與しました。其の内容は本文に在る通りであります。 而して其の目的とする所は、帝國の自存自衞のため佛印及泰に對し軍事政治、經濟の緊密 不離の關係を設定するにありました。本件に關する外交交渉は專ら外相に依り取り運ばれ ましたので詳細は承知して居りませんが此の當時の事情は概ね次の如くであつたと承知し て居ります。 (一) 日本は一九四〇年(昭和十五年)六月十二日、日泰間の友好和親條約を締結し(證 五一三)日泰間の緊密化に努力して來ましたが、泰國内には英國の勢力の強きもの が存在しております。 (二) 日本と佛印の間には松岡「アンリー」協定の結果表面は親善の關係に在り、なほ 日佛印の交渉も逐次具體化したのであります。しかし、佛印の内部には種々錯綜し た事情がありました。第一佛印内には「ヴイシー」政權の勢力と「ドゴール」派の 勢力とが入亂れて居り「フランス」本國の降伏後「フランス」の勢力が弱くなるに つれ米、英の示唆により動くような事情も生じましたため、佛印政廳は我國に對し 不即不離の態度をとるのみでなく、時には反日の傾向をさへ示したのであります。 (三) 一九四〇年(昭和十五年)十一月以來泰國が佛印に對し失地囘復の要求を爲した るに端を發し、泰、佛印間の國境紛爭は一九四一年(昭和十六年)に至り逐次擴大 し第三國の調停を要する状態となりました。「イギリス」は此の調停を爲すべく暗 躍を始めましたが當時は「イギリス」と「フランス」本國とは國交斷絶の状態であ りましたから是亦適當の資格者ではありません。 (四) 東亞安定のため支那事變遂行中の日本はその自存自衞のためにも一刻も早く泰、 佛印の平和を希望せざるを得ません。以上の如き各種の事情が此の要綱を必要とし た所以であります。

三五
此の要綱の狙いは二つあります。その一つは泰、佛印間の居中調停を爲すといふことで あります。その二は此の兩國に對し第三國との間に我國に對する一切の非友誼的協定を爲 さしめないといふことであります。 23居中調停は一九四一年(昭和十六年)一月中旬にその申出を爲し、兩國は之を受諾し、 同年二月七日より東京に於て調停の會合を開き三月十一日に圓滿に調停の成立を見、之に 基いて五月九日には泰佛印間の平和條約成立し(法廷證四七)、引續き現地に於て新なる 國境確定が行はれました。泰は當初は「カンボヂヤ」を含む廣大な地區の要求を致しまし たが我國は之を調停し彼條約通りの協定に落着かせたのであります。 第二の我國に對する非友誼的な協約を爲さずとの目的に關しては右と同時に松岡外相 の手で行はれ五月九日の日佛印間及日泰間の保障及諒解の議定書となつたのであります。 (證六四七中に在り)此の間の外交交渉については自分は關與致して居りません。
 南部佛印進駐問題

三六
一九四〇年(昭和十五年)九月我國は佛國との間に自由なる立場に於ける交渉を遂げ北 部佛印に駐兵したことは前に述べた通りであります。爾來北部佛印に於ては暫く平靜を保 ちましたが、一九四一年(昭和十六年)に入り南方の情勢は次第に急迫を告げ、我國は佛 國との間に共同防衞の議を進め、一九四一年(昭和十六年)七月二十一日にはその合意が 成立しました。之に基き現地に於て細則の交渉を爲し此の交渉も同月二十三日には成立 し、之に基いて一部の軍隊は二十八日に、主力は二十九日に進駐を開始したのでありま す。尤も議定書は同月二十九日に批准せられました。以上はその經過の大略であります。

三七
右の日、佛印共同防衞議定書の締結に至る迄の事情に關し陳述いたします。之は一九四 一年(昭和十六年)六月二十五日の南方施策促進に關する件といふ連絡會議決定に基くも のであります。此の決定は源を同年一月三十日の連絡會議決定である、前記「對佛印泰施 策要綱」に發して居るのであります。その當時は佛印特定地點に航空及船舶基地の設定及 之が維持のため所要機關の派遣を企圖したのでありましたが情勢が緩和致しましたから、 之を差控へることにしました。然るにその後又情勢が變化し、わけても蘭印との通商交渉 は六月十日頃には決裂状態にあることが判明しました。そこで同年六月十三日の連絡會議 の決定で「南方施策促進に關する件」を議定しましたが松岡外相の要望で一時之を延期し 之を同月二十五日に持越したのであります。(證一三〇六號)斯樣な次第でありますから 南部佛印進駐のことは六月二十二日の獨「ソ」開戰よりも十日以前に決心せられたもので 決して獨「ソ」の開戰を契機として考へられたものではありません。此の「南方施策促進 24に關する件」は統帥部の切なる要望に基いたもので私は陸軍大臣として之に關與致しまし た。此の決定の實行に關する外交は松岡外相が事に當り又七月十八日第三次近衞内閣とな つてからは、豐田外相がその局に當つたものであります。 本交渉に當り近衞内閣總理大臣より佛國元首「ペタン」氏に對し特に書翰を以て佛國印 度支那に對する佛國の主權及領土の尊重を確約すべき意向を表明致して居ります(辯護側 文書二八一四号)。此の書簡中の保障は更に兩國交換文中に繰り返されて居ります。(法廷 證六七四-A英文記録七〇六三頁)

三八
南方施策促進に關する件の内容は本文自身が之を物語るでありませう。その要點は凡そ 三つあります。(一)東亞の安定並に領土の防衞を目的とする日佛印間軍事結合關係の設 定(二)その實行は外交交渉を以て目的の達成を圖ること(三)佛印側が之に應ぜざる時 は武力をもつてその貫徹を圖る。從つて之がためには軍隊派遣の準備に着手するといふこ とであります。然しその實行に當つては後段に述ぶる如くに極めて圓滑に進行致し武力は 行使せずにすみました。

三九
右に基いて我國と佛印の間に決定しましたのが日佛印共同防衞議定書であります。(法 廷證六五一號)此議定書の要點は四つあります。(一)は佛印の安全が脅威せらるゝ場合に は日本國が東亞に於ける一般的靜謐及日本の安全が危機に曝されたりと認めること、(二) 佛印の權利利益特に佛印の領土保全及之に對する佛蘭西の主權の尊重を約すること、(三) 「フランス」は佛印に關し第三國との間に我國に非友誼的な約束を爲さざること、(四)日 佛印間に佛印の共同防衞のための軍事的協力を爲すこと。但し此の軍事上の協力の約束は 之を必要とする理由の存續する間に限るといふことであります。

四〇
然らば何故に斯る措置を爲す必要があつたかと申しますに、それには凡そ五つの理由が あります。その一つは支那事變を急速に解決するの必要から重慶と米、英、蘭の提携を南 方に於て分斷すること、その二は米英蘭の南方地域に於ける戰備の擴大、對日包圍圏の結 成、米國内に於ける戰爭諸準備並に軍備の擴張、米首腦者の各種の機會に於ける對日壓迫 的の言動、三つは前二項に關聯して對日経済壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の入 25手妨害、四つは米英側の佛印、泰に對する對日離反の策動、佛印、泰の動向に敵性を認め らるること、五は蘭印との通商會談の決裂並に蘭印外相の挑戰的言動等であります。 以上の理由、特に對日包圍陣構成上、佛印は重要な地域であるから何時米英側から同地 域進駐が行はれないとは言へないのであつて日本としては之に對し自衞上の措置を講ずる 必要を感じたのであります。

四一
右、日佛印共同防衞を必要とした事情は此の事件につき重大な關係を有する點と考へま すから、右の五種の事由につき一々、事實に基いて簡單なる説明を加へたいと存じます。 本材料は當時私が、大本營、陸海軍省、外務省其他より受けたる情報又は當時の新聞電 報、外国放送等に依り承知しありしものを記憶を喚起し蒐録せるものであります。(辯護 側證第二九二三) 先づ第一の米英側の重慶に對する支援の強化につき私の當時得て居つた数種の報道を擧 げますれば (1) 一九四〇年(昭和十五年)七月にはハル國務長官は英國の「ビルマルート」 經由援蒋物資禁止方につき反対の意見を表明して居ります。(2) 一九四〇年(昭和十五年) 十月には「ルーズヴエルト」大統領は「デイトン」に於て國防のため英國及重慶政權を援 助する旨の演説を致しました。(3) 一九四〇年(昭和十五年)十一月には米國は重慶政權 に一億弗の借款を供與する旨發表いたしました。(4) 一九四〇年(昭和十五年)十二月二 十九日には「ルーズヴエルト」大統領は三國同盟の排撃並に民主主義國家のため米國を兵 器廠と化する旨の爐邊談話を放送しました。(5) 一九四〇年(昭和十五年)十二月三十日 には「モーゲンソー」財務長官は重慶及「ギリシヤ」に武器貸與の用意ある旨を演説して 居ります。一九四一年(昭和十六年)に入り此種の發表は其數を加へ又益々露骨となつて 來ました。(6) 一九四一年(昭和十六年)五月「クラケツト」准將一行は蒋軍援助のため 重慶に到着しました。(7) 一九四一年(昭和十六年)二月には「ノツクス」海軍長官は重 慶政府は米國飛行機二百臺購入の手續を了したる旨を発表しました。(8) 同海軍長官は一 九四一年(昭和十六年)五月には中立法に反對の旨を表明致して居ります。(9) その翌日 には「スチムソン」陸軍長官も同様の聲明を致しました。斯る情勢に於ては支那事變の迅 速解決を望んで居つた我國としては蒋政權に對し直接壓迫を加ふるのみならず佛印及泰よ りする援助を遮斷し兩者の關係を分斷する必要がありました。

四二
第二の米、英、蘭の南方に於ける戰備強化については當時私は次の報道を得て居りま した。 (1) 米國は一九四〇年(昭和十五年)七月より一九四一年(昭和十六年)五月迄の間に は三百三十億弗以上の巨額の軍備の擴張を爲したるものと觀察せられました。(2) 此當時 米英側の一般戰備並にその南方諸地域に於ける聯携は益々緊密を加へ活氣を呈するに至り ました。即ち一九四〇年(昭和十五年)八月には「ノツクス」海軍長官は「アラスカ」第 十三海軍區に新根據地を建設する旨公表したとの情報が入りました。(3) 同年九月には太 平洋に於ける米國属領の軍事施設工事費八百萬弗の内譯が公表せられました。(4) 同年十 二月には米國は五十一ケ所の新飛行場建設及改善費四千萬弗の支出を「スチムソン」「ノ ツクス」及「ジヨオンズ」の陸、海、財各長官が決定したと傳へられました。此等は米國 側が日本を目標とした戰爭諸準備並に軍備擴張でありました。 一九四〇年(昭和十五年)九月には日佛印關係につき國務省首腦部は協議し同方面の現 状維持を主張する旨の聲明が發せられました。同年七月八日には「ヤーネル」提督はUP 通信社を通じ對日強硬論を發表して居ります。同年十月には「ノツクス」海軍長官は「ワ シントン」に於て三國同盟の挑發に應ずる用意ありと演説しました。又同年九月には米海 軍省は一九四〇年(昭和十五年)度の米海軍の根本政策は兩洋艦隊建設と航空強化の二點 にありと強調致しました。一九四〇年(昭和十五年)十一月「ラモント」氏は對日壓迫強 化の場合財界は之に協力し支持するであらうと演説致して居ります。同年同月十一日休戰 紀念日に於ては「ノツクス」海軍長官は行動を以て全體主義に答へんと強調したりとの報 を得て居ります。同年同月英國の「イーデン」外相は下院に於て對日非協力の演説を致し ました。更に一九四一年(昭和十六年)に入り五月二十七日に「ルーズヴエルト」大統領 は無制限非常時状態を宣言いたしました。 これより先一九四〇年(昭和十五年)十月八日には米國政府は東亞在住の婦女子の引上 げを勸告して居ります。上海在住の米國婦女子百四十名は同月中上海を發し本國に向かひ ました。米本國では國務省は米人の極東向け旅券發給を停止したのであります。同じ一九 四〇年(昭和十五年)十月十九日に日本名古屋市にある米國領事館は閉鎖しました。 以上は當時陸軍大臣たる私に報告せられたる事實の一端であります。

四三
第三の經濟壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の獲得の妨害につき當時發生したこ とを陳べます。一九三九年(昭和十四年)七月二十六日「アメリカ」の我國との通商航海 條約廢棄通告以來米國の我國に對する經濟壓迫は日々に甚だしきを加へて居ります。その 事實中、僅かばかりを記憶に依り陳述致しますれば、一九四〇年(昭和十五年)七月には 「ルーズヴエルト」大統領は屑鐵、石油等を禁輸品目に追加する旨を發表致しました。米 國政府は同年七月末日に翌八月一日より飛行機用「ガソリン」の西半球外への輸出禁止を 行ふ旨發表いたして居ります。同年十月初旬には「ルーズヴエルト」臺帳料は屑鐵の輸出 制限令を發しました。以上のうち殊に屑鐵の我國への輸出制限は當時の鐵材不足の状態と 我國に行はれた製鐵方法に鑑み我朝野に重大な衝動を與へたのであります。

四四
第四の米英側の佛印及泰に對する對日離反の策動及佛印泰に敵性動向ありと認めた事由 の二、三を申上げますれば、泰、佛印の要人は一九四〇年(昭和十五年)以來「シンガポー ル」に在る英國勢力と聯絡しつつあるとの情報が頻々として入りました。その結果日本の 生存に必要なる米及「ゴム」を此等の地區に於て買取ることの防碍が行はれたのでありま す。日本の食糧事情としては當時(一九四一年即昭和十六年頃にあつては)毎年約百五十 萬噸(日本の量目にて九百萬石)の米を佛印及泰より輸入する必要がありました。此等の 事情のため日佛印の間に一九四一年(昭和十六年)五月六日に經濟協定を結んで七十萬噸 の米の入手を契約したのでありましたが佛印は契約成立後一ケ月を經過せざる六月に協定 に基く同月分契約量十萬噸を五萬噸に半減方申出て來ました。日本としては止むなく之を 承諾しましたところ七、八月分に付ても亦契約量の半減を申出るといふ始末であります。 泰に於ては英國は一九四〇年(昭和十五年)末に泰「ライス」會社に對して「シンガポー ル」向け泰米六十萬噸といふ大量の發註を爲し日本が泰に於ける米の取得を妨碍致しまし た。「ゴム」に付ては佛印の「ゴム」の年産は約六萬噸であります。その中日本は僅かに 一萬五千噸を米弗拂で入手して居たのでありますが、一九四一年(昭和十六年)六月中旬 米國は佛印の「ハノイ」領事に對し佛印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本の「ゴム」取 得を妨碍し又、英國はその屬領に對し一九四一年(昭和十六年)五月中旬日本及圓ブロツ ク向け「ゴム」の全面的禁止を行ひました。

四五
第五の蘭印との經濟會談の決裂の事由は次の通りであります。一九四〇年(昭和十五 年)九月以來我國は蘭印との交渉に全力を盡くしました。當時石油が米英より輸入を制限 せられたため我國としては之を蘭印より輸入することを唯一の方法と考へ其の成立を望ん だのであります。然るに蘭印の方も敵性を帶び來り六月十日頃には事實上決裂の状態に 陷り六月十七日にはその聲明を爲すに至つたのであります。「オランダ」外相は五月上旬 「バタビヤ」に於て蘭印は挑戰に對しては何時にても應戰の用意ありと挑撥的言辭を弄し て居ります。 以上のような譯で當時日本は重大なる時期に際會しました。日本の自存は脅威せられ且 以上のような情勢の下で統帥部の切なる要望に基き六月廿五日に右南方施策促進に關する 件(證第一三〇六號)が決定せられ之に基く措置をとるに至つたのであります。

四六
日本政府と「フランス」政府との間には七月廿一日正午(「フランス」時間)共同防衞 の諒解が成立し、七月二十二日午前中に交換公文(法廷證六四七號ノA)が交換せられ、 兩國政府より之を現地に通報し現地に於てはその翌二十三日細目の協定が成立し、海南島 三亞に集結して居つた部隊にはその日進駐の命令が發せられ、二十五日三亞を出發しまし た。廿六日には之を公表しました。三亞を出發した部隊の一部は二十八日に「ナトラン」 に、二十九日主力は「サンヂヤツク」に極めて平穩裡に上陸を開始したのであります。日 本政府と「ヴイシー」政府との間の議定書は日佛印共同防衞議定書(證六五一)は二十九 日調印を見て居ります。 四七 「フランス」政府との交渉につき我方が「ドイツ」政府に斡旋を求めたことは事實であ りますが、「ドイツ」外相は此の斡旋を拒絶して來ました。從つて起訴状にある如く「ド イツ」側を經て「フランス」を壓迫したといふ事實はありません。又起訴状は「ヴイシー」 政府を強制して不法武力を行使したと申しますが、しかし、日本軍が進駐の準備として 三亞に集結する以前に既に「フランス」政府と日本政府との交渉は成立して居りました。 又、前に述べます如く、此の措置は「ドイツ」の對「ソ」攻撃と策應したといふ事實もな いのであります。日本が南方に進出したのは止むを得ざる防衞的措置であつて断じて米、 英、蘭に對する侵略的基地を準備したのではありません。 一九四一年(昭和十六年)十二月七日の米國大統領よりの親電(法廷證一二四五號J) に依れば 「更に本年春及夏「ヴイシー」政府は佛印の共同防衞のため更に日本軍を南部佛印に入 れることを許可した。但し印度支那に對して何等攻撃を加へられなかつたこと並にその計 畫もなかつたことは確實であると信ずる」 と述べられて居ります。乃ち佛印に對しては攻撃を行つた事もなく攻撃を計畫した事も なかつたと断言し得ると信じます。 當時日本の統帥部も政府も米國が全面的經濟斷交を爲すものとは考へて居りませんでし た。即ち日米交渉は依然繼續し交渉に依り更に打開の道あるものと思つたのであります。 何故なれば全面的經濟斷交といふものは近代に於ては經濟的戰爭と同義のものであるから であります。又檢察側は南部佛印進駐を以て米英への侵略的基地を設けるものであると斷 定致して居ります。之は誣告であります。南部佛印に設けた航空基地が南を向いて居るこ とはその通りでありますが、南方を向いて居るといふことが南方に對する攻撃を意味する ものではありません。之は南方に向かつての防禦のための航空基地であります。そのこと は大本營が四月上旬決定した對南方施策に關する基本方針(證一三〇五)に依つても明か であります。 これには我國の南進が佛印及泰を限度として居ります。然も平和的手段に依り目的を達せんとしたものであります。
 獨ソ開戰に伴ふ日本の態度決定
第三次近衞内閣に於ける日米交渉(其の一、九月六日御前會 議以前)
九月六日御前會議
太平洋作戰準備
第三次近衞内閣に於ける日米交渉(其の二、九月六日の御前會議以後)
第三次近衞内閣の總辭職 東條内閣の組閣
十一月五日の御前會議及其の前後
陸海軍合同軍事參事官會議
十一月五日の御前會議
東條内閣に於ける日米交渉
重臣懇談會
十二月一日の御前會議
十二月一日の御前會議終了より開戰に至る迄の重要事項
眞珠灣攻撃の實施
ルーズベルト大統領より天皇への親書
部内統督の責
俘虜處罰法
空襲軍律
泰緬鐵道の建設
俘虜處理要綱及俘虜收容所長に與へた訓示
俘虜關係の陳述の訂正
日本の企圖せる大東亞政策 殊に之を繼承して東條内閣に於て其の實現を圖りたる諸事項
陸軍と政治との關係
軍紀の確立に關し私の執つた政策
ソ連竝にコミンターンとの關係
摘要
この文書について 底本 『東條英機宣誓供述書』 東京裁判研究会編 洋洋社 昭和 23 年発行 作成者 blueday Web サイト http://www.kbstyle.net/ http://www.kbstyle.net/archives/tojo affidavid/index.html 注意事項 • 漢字は JIS 第 1 水準、第 2 水準のものを用いています。 • 字体の違い(2 点しんにょうなど)は適当に包摂扱いしています。 • 包摂扱いしたもの以外で入力できない漢字は別の文字で代替し、註を入れてありま す(最初の出現時のみ)。 • かなりテキトーに作業しています。大きなミスも多々あるかと思いますが、御容赦 下さい。 • 誤字脱字その他ミスと思われる内容を発見された方は是非御一報下さい。修正し ます。 • 内容についてはいわゆる「無保証」です。 • データの利用、再配布は御自由にどうぞ。







(私論.私見)