【遺書と処刑の様子、遺骨】

 更新日/2022(平成31.5.1日栄和改元/栄和4).6.30日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 今日明らかになることは、A級戦犯として処刑された、第一組として土肥原、松井、東條、武藤の4名、第二組として板垣、廣田、木村は、戦犯としての罪はさることながら、第一次、第二次世界大戦の勝者/国際ユダ邪から見て許し難い能力者であったということであろう。逆に云えば、彼らは、国際ユダ邪の内通者ではなかったという身の潔白が証明されていることになる。これはむしろ誉れであろう。これは、エージェントばやりの今日なら見えてきたことである。こま観点を共有したい。

 ディヴィッド・バーガミニ氏は、「帝国の没落と東京軍事裁判」で次のように記している。
 「明け渡された戦場において連合国の兵隊によって為された残虐行為は、戦争の激情の産物として半ば許され得た。だが、よりいっそう言語道断な不正行為が、分別のある人たちによって考える余裕があったはずの法廷で発生した。日本の政治に対する無知と評価の不足から、マッカーサーの戦争犯罪検察官たちは、辻や三笠宮や天皇裕仁のような戦争指導者たちを入念に無視して、倫理を知らないが命令に忠実であることを知っていた軍の将校たちを熱心に審理し、中傷し、そして絞首刑にしたのであった」。

 この一文は、東京軍事裁判の問題のありかの急所を衝いている。

 2005.12.23日、 西岡昌紀(にしおかまさのり)氏は次の一文をサイトアップしている。これを転載しておく。
 天皇誕生日に「戦犯」を処刑したアメリカ

 今日は、12月23日です。12月23日は、現天皇の誕生日ですが、同時に、東京裁判で「A級戦犯」とされた人々が処刑された日でもあります。即ち、アメリカは、当時皇太子だった現天皇の誕生日に東條英機らの「A級戦犯」を処刑した訳ですが、これは果たして偶然だったのでしょうか?私は、偶然だとは思ひません。即ち、アメリカは、当時の皇太子の誕生日をわざわざ選んで「A級戦犯」たちを処刑したのだと私は思ひますが、何と言ふ陰湿な事をしたのだろうと思ふのは、私だけでしょうか。将来の日本人が、天皇誕生日の度に東京裁判を思ひ出す様にと言ふ演出だったのでしょうが、こんな陰湿な事をして、結局、尊敬を失なふのは、自分達であると言ふ事に思ひが至らなかったのか、不思議です。無実の罪で処刑された「A級戦犯」の方たちの御冥福をお祈りします。

 平成17年12月23日(金) 東條英機元首相ら「A級戦犯」達が処刑された日から57年目の日に

 つまり、12.23日という今上天皇(当時皇太子)の誕生日に合わせてA級戦犯7烈士は処刑されたということである。これを偶然とみなすべきだろうか。「ユダヤ教にとって最も聖なる日とされる過ぎ越しの祭りの日にキリストをゴルゴダの丘に磔死せしめた故事にならった文字通りの復讐裁判であった」との説もある。これが歴史の真実とすると、いかに執念深い復讐のためのあざとい裁判だったかがわかろう。

 2005.12.23日 れんだいこ拝


【処刑の様子】
 1948(昭和23).12.23日午前0時、東條元首相以下7人(東條英機、土肥原賢二、廣田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井岩根、武藤章)が処刑された。第一組として土肥原、松井、東條、武藤の4名、第二組として板垣、廣田、木村が処刑された。これを見るに、途中死亡者も含め、陸軍6名、海軍1、文民2名となっている。

 遺体は横浜市立久保山火葬場で荼毘に附された。遺骨は共同骨捨て場に捨てられたが、その後小磯氏の弁護人であった三文字正平氏の手を経て、三文字氏の住む横浜の寺に保管され、更に松井岩根氏が生前、中国戦争での日中双方の死者を祀る為に静岡県の伊豆山に建てた観音堂に安置された。1959年、更に松井氏の故郷である愛知県幡豆町の三ヶ根山に埋葬された。三河湾を臨む国定公園の一角に「殉国七墓墓」と書かれた碑が建っている。これとは別に国から遺族に渡されたものもあるが、経緯は不明。

 浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 田中正明著」の「東京裁判の評価とパールの名声」の項には次のように記されている。
 マッカーサー創るところの「極東国際軍事裁判所条例(チャーター)」に基づき、いわゆるA級戦犯28人が起訴されたのは昭和21年4月29日(昭和天皇の誕生日)であった。すべての審理が終了したのが昭和23年4月16日。以降裁判のため7ヵ月の休憩に入り、判決は同年11月4日から始まった。判決文の朗読が終わり、最後の「刑の宣告」が行われたのが11月12日あった。

 東條元首相以下7人(東條英機、土肥原賢二、廣田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井岩根、武藤章)が処刑されたのは12月23日(今上天皇の誕生日)であった。つまり東京裁判は昭和天皇の誕生日に起訴し、当時皇太子であられた今上天皇の誕生日を期して処断したのである。この一事をもってしても、いかに執念深い復讐のための裁判だったかがわかろう。  だが、東京裁判が終わって2年後の昭和25年10月15日、マッカーサーは、ウェーキ島においてトルーマン大統領に「東京裁判は誤りであった」旨を告白して、すでにこの裁判の失敗を認めている。その翌年の5月3日、アメリカ上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で「日本が第二次大戦に赴いた目的は、そのほとんどが安全保障のためであった」と、東京裁判で裁いた日本の侵略戦争論を全面的に否定している。

 のちに、「この裁判の原告は文明である」と大見得を切ったキーナン主席検事も、あの傲慢なウエッブ裁判長も、この裁判は法に準拠しない間違った裁判であったことを認める発言をしている。現在名ある世界の国際法学者で、東京裁判をまともに認める学者など一人もいない。パール判事の立論こそが正論であるとし、パールの名声は国際的に高まった。

【殉国七士】
 2021.12.24日、「殉国七士の尊い犠牲を、今、結実させる!」。
 1948年12月23日、いわゆる東京裁判という復讐劇により公務死された東條英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章の7名。その際日本人でただ一人絞首台に立会った浄土真宗の僧侶であり東大教授であった花山信勝師、その目撃談です。
 (残り時間は二分しかないところで)
 最年長の松井石根が音頭をとり「天皇陛下万歳」を三唱し、つづいて「大日本帝国万歳」を三唱した。「日本で天皇陛下万歳、大日本帝国万歳を叫んだのはこの七人が最後でしょうな」。花山信勝師は当時の場面を思い出したのか、感動的にそう言ってから暫く言葉につまった。いよいよ最期、というときに東條さんが、両腕をとっている大きな下士官にむかって、「ご苦労さん、有難う、有難う」と言い、七人みんなが「有難う」といったんです。

 死ぬ間際の真剣な万歳と「有難う」ということばに感動したのか、後ろで見張り番をしていた四、五人の将校(アメリカ人)が繋がれた四人のところにやってきて、自分から手を差し出して握手を求めたんです。こういうのは世界に例がありませんよ。絞首刑にする方と、される方が固い握手を交わすなんて。まったく珍しいことですよ。わたしはこの光景をこの目で見たんです。(「東條英機わが無念」佐藤早苗著 より)
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 イエスが十字架で亡くなられる時、殺害する側にいたローマ兵が、イエスの、死を越えるまでの真実な姿に触れて、
「まことに、この人は神の子であった」と思わず叫びました。イエスを「神の子」だったと認めざるを得なかったのです。アメリカ人の将校達は、殉国七士のあまりにも崇高な姿に彼らの魂は大きく揺り動かされました。そうして、敵であるアメリカ兵の方から握手を求めたのです。日本は肉体は奪われても、精神的には勝利したと言えます。今こそ、77年間も属国だったアメリカから脱却しなければ!!

【東条英機履歴その1、戦前篇】
(私論.私見) 東条英機考
 A級戦犯の筆頭に挙げられる東条ですらその履歴が案外と知られていない。れんだいこは、時代に登竜し、翻弄され、ホロコースト(聖壇での生贄という意味)された一代記と見立てる。

 宮顕ー不破系日共式の何らマルクス主義的ではない単にネオシオニズム教学の請け売りにしか過ぎないA級戦犯論では歴史から何も学べない、否むしろ有害であることを憂慮し、れんだいこが素描しておく。イデオロギーは歴史の史実から汲み出さねばならない。イデオロギーで歴史を裁断してはならない。ネオシオニズム教学は後者の悪しき例であり、日本左派運動は一刻も早く決別抜け出さなければならない。

 「人物に関するデーターベース」の「東条英機」、小林よしのり氏の「いわゆるA級戦犯」その他を参照した。他の文献から貴重情報を得次第に順次書き換えることにする。

 2006.8.20日 れんだいこ拝
 東条(條)英機(とうじょうひでき)(1884-1948)
総評。軍人にして政治家になり、大東亜戦争開戦時の首相という歴史的地位を占めている。
 1884年、東京生まれ。父・東条英教は、旧盛岡・南部藩士の陸軍軍人。陸軍の知嚢と謳われたが、南部藩は戊辰戦争で賊軍であった為、長州閥の威勢の前にさほど昇進することなく不遇であった。日露戦争の際に抗命を理由に馘首同然で中将を最後に陸軍を退かされた。息子の英機も長ずるに及び城北尋常中学から陸軍幼年学校に進み、陸軍士官学校を経て中尉に任官した。こうして、父と同じ陸軍軍人になった。

 任官後、陸軍大学校へ。卒業後、陸軍省副官を拝命し、順調に進級した。大正8年、山下奉文とともにドイツ駐在。ドイツ駐在の折、永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎らと保養地バーデン・バーデンに会して密約を結んだ。この時、1・日本における総力戦体制の構築、2・長州閥を排撃するの二つを意思統一させた。東条はこうして長州閥退治に情熱を燃やすことになる。

 東条はその後永田鉄山との親交を深め、永田もまた東条を信頼し、ドイツから帰国して陸大の教官となっていた東条を自分の後釜(陸軍省整備局動員課長)に据えた。東条は、永田の庇護下で国家総動員体制を深く研究した。昭和4.8月、第一師団連隊長を拝命。

 この時の逸話が次のように伝えられている。東条は、私語している兵士の名前、年齢、出身地、成績をすべて前もって諳(そら)んじていて、直に名前で「誰々、私語するな」であった。他にも、連隊内の栄養状況に関心を寄せ、兵士が食事を残してごみ箱に捨てているのを確認するや、炊事班長を呼びつけて「消化がよくておいしいものをつくってやれ」と命じた。いずれも下級兵士を思いやる逸話となっている。

 連隊長を務めた後、参謀本部総務部編成動員課長となった。この頃、軍部内での統制派と皇道派の対立が発生し相剋が深まっていく。統制派に位置していた東条は、荒木貞夫らの皇道派から煙たがられ、少将とはなったものの省部の要職から追われ閑職の日々が続いた。一時は永田が林銑十郎陸相を擁することに成功して閑職から復帰するが、まもなく統制派のリーダー永田少将が斬殺された結果(相沢事件)、またもや冷や飯の日々が続く。昭和10年、関東軍憲兵司令官として満州に飛ばされた。

 その翌日、皇道派による二・二六事件が勃発し鎮圧された。事件後就任した寺内寿一陸相が徹底的な皇道派粛清の粛軍人事を断行したことにより、東条ら冷や飯を食わされていた統制派が返り咲くこととなった。同12年、関東軍参謀長に就任。満州の実力者の一人として登竜していったが、世界最終戦ビジョンを持つ石原莞爾とは反目した。

 支那事変が勃発するや積極攻勢論を展開し、東条兵団は破竹の快進撃を続けてた。これが功績と認められ、同13.5月から12月まで近衛内閣の陸軍次官に指名され帰国する。こうして、内地に凱旋することとなった。

 板垣征四郎陸相のもとで次官を務めた後、同13年から14年まで陸軍航空総監(本部長)に転出。続いて、同15.7月から16.10月まで第二次近衛内閣の陸軍大臣を務め、政局中枢に位置することになった。当時中将、57歳であった。この時、1・石原莞爾を予備役に追放。2・今村均・中将の策定した先陣訓の採用。3・日米交渉で、中国からの撤退に反対等々の履歴を残している。この間、陸軍部内の掌握に成功した。

 この頃、日中戦争(支那事変)の処置が懸案になりつつあった。日本軍は、蒋介石の国民党政権の首都南京を陥れたが、蒋は屈服せず国共合作により抵抗を強めつつあった。軍部は、英米の蒋介石支援策に対抗せんとして、松岡洋右外相による日独伊にソ連を加えた枢軸体制構築策を支援した。東条は松岡の外交交渉に与しつつ、援蒋ルートを破壊する為南部仏印に進駐させた。これによって英米と日本の関係は決定的に悪化し、ハル米国国務長官は「日米交渉の基礎は失われた」と発言、石油の対日禁輸を断行するに到った。 

 陸軍は、「対米戦争必至」を覚悟し、数次の御前会議の経過を経て開戦を決定した。東条は、近衛や豊田貞次郎外相が「戦争に自信がない」と述べるや、「御前会議を経ていながらその言いざまはあまりに無責任である」と痛論した。また、近衛・東条会談では、議論を尽したのち、東条が、「人生の一度や二度、清水の舞台から飛び降りることが必要だ」と言うと、公卿出身の近衛は、「万邦無比の国体を持つ国家がそう易々とすることではない」と反駁、東条はつくづくと近衛をみやって、「これは性格の相違ですなぁ」と述べたとの逸話が残されている。

 第三次近衛内閣退陣後、東久邇宮稔彦親王と木戸幸一・内大臣らの強い推挙により、後継首相の大命降下を受け、同年10月から19.7月まで内閣総理大臣に就任した。東条は、首相、陸相、内相兼務で組閣し、軍政権と警察権、そしてマスコミに対する統制権を一手に握った。その上で、昭和天皇の意向を挺して戦争回避策に基づく外交交渉を粘り強く重ねた。主戦派の東条が戦争回避すべく日米交渉に当ることになった経緯に対し、陸軍若手将校らから生命を狙われる羽目になった。最終的に用意した甲案・乙案どちらも却下する「ハル・ノート」を突きつけられるに及び、開戦に向った。

 同16.12.8日、日本軍は真珠湾攻撃でもって大東亜戦争を開始した。この時の首相が東条であり、戦後の極東裁判でA級戦犯とされることになる。戦況ははじめ日本にきわめて有利であったが、のびきった戦線がひとたびミッドウェイで米軍によって撃破されるや、米軍は東南アジア諸島嶼を島づたいに日本の補給線に迫り、空爆によってこれを寸断するようになった。

 戦局の悪化に伴い、東条政権は「憲兵政治」を強めていった。東条は、翼賛選挙の際にも選挙干渉を強め、憲兵らは彼の歓心を買うためにいささかでも不穏と目される分子を拘引して厳しく取り調べた。この頃の逸話として、東条がときおり下町の様子を自ら調べ、干してある洗濯物を手にとって、「まだ木綿だ、大丈夫」と呟いたの記録が残されている。東条には、統制好みと大衆生活への関心が表裏をなしていることが判明する。東条は、戦局の悪化に応じて、軍政と軍令の効率化をはかるために自ら陸相と参謀総長を兼ねたが、これは憲法違反の疑いすらある暴挙であった。細川護貞近衛女婿)は、「東條が望むものは、道鏡の地位か」と憤慨している。

 昭和18年、元旦の朝日新聞紙上での中野正剛のコラム「戦時宰相論」に激怒し、中野が倒閣工作を謀ったとして警視庁に逮捕させた。5日後に釈放された中野はその夜、割腹自決した。

 同年11月、東条首相を議長にして東京にアジア各国代表を集め大東亜会議を主宰し、アジア解放の大東亜宣言を採択した。大東亜宣言の要旨は次の通り。
 「大東亜各国は、相提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の桎梏より解放して、その自存自衛を全うし、左の綱領に基づき、大東亜を建設し、以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。以下云々」。
 これが東条政権の花道となった。

 その後、東条式憲兵政治は国民の怨嗟の的となった。生活必需品の統制で悲鳴を上げる国民は、憲兵や特高を見ると口をつぐむようになる。東条の悪口を言えばしょっ引かれるためである。1944.7月、サイパン陥落などの戦局悪化と共に東条降ろしの動きが強まった。近衛文麿、岡田啓介らによる東条内閣倒閣クーデタが策され、天皇への伝声管であった木戸幸一内府が反東条に廻ったことによって一気に加速した。こうして、東条は重臣集団の宮廷クーデタによって政権を逐われ、辞任を余儀なくされた。

 東条は、終始一貫大東亜戦争の聖戦イデオロギーに忠実であった。小磯・米内連立内閣時に天皇が重臣を一人ずつ召して意見を徴したとき、威勢のいい主戦論を相変わらず吐いたし、同内閣総辞職時の重臣会議では、「鈴木貫太郎内閣では陸軍がそっぽを向くの恐れあり」と言い放って岡田啓介からたしなめられている。

【東条英機履歴その2、戦後篇】
 戦後、A級戦犯として逮捕された。

 続いて戦争責任者の追及に向かい、9.11日、東条英機以下その内閣時の閣僚を筆頭に戦争指導犯罪者43名の逮捕指令が出され、以後容疑者が次々と収監されていった。東条邸は早朝より進駐軍の車に取り囲まれ、外国人記者も駆けつけ騒然としていた。東条は自らが作った「生きて虜囚の辱めを受けず」、「死して罪禍の汚名を残すことなかれ」の通り、娘婿の古賀少佐が玉音放送の後、自決に使ったコルト32口径で心臓を狙って発射させたが僅かに手元が狂い、自殺を図ったものの一命をとりとめた。

 この時、次のように述べたと伝えられている。
 概要「一発で死にたかった。大東亜戦争は正しい戦争であった。切腹は考えたが、ともすれば間違いがある。後から手を尽くして生き返らないようにしてくれ。陛下のご多幸を行く末までお守りして、どこまでも国家の健全な発達を遂げることができれば幸いである。勝者の裁判は受けたくない。勝者の勝手な裁判を受けて、国民の処置を誤ったら国辱だ。俺の死体はどうなってもいい。遺族に引き渡さなくてもいい。しかし、見せ物ではないとマッカーサーに言ってくれ。天皇陛下万歳」。
 極東国際軍事裁判は、天皇を免責するために東条など陸軍中枢部にほぼすべての責任を負わせる方向で訴訟指揮されていた。東条はそのような立場に置かれて、東京裁判の法廷を「もう一つの戦い」と考えてキーナン検事を相手に、一切の証人をも要求せず、膨大な陳述書を書き上げて「戦い抜いた」。このことは、注目されて良いと思われる。

 昭和22.12月末、法廷で聖戦論理を詳細に弁明した。供述書は次の言葉で締め括られていた。
 「戦争が国際法上より見て、正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題は、明白に分別できる二つの異なった問題であります。第一の問題は、外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。私は最後まで、この戦争は、自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。第二の問題、即ち敗戦の責任に就いては、当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味に於ける責任は、私はこれを受諾するのみならず、真心より進んでこれを負荷せんことを希望するものであります」。

 供述書朗読終了の翌日の12.31日、尋問で、木戸幸一被告の弁護証言の際に、「では、天皇の平和に対する希望に反した行動を木戸内大臣がとったことがありますか」の質問に対して、次のように述べた。
 概要「勿論ありません。日本国の臣民が陛下のご意思に反してかれこれするということは有り得ぬことであります。況や日本の高官においてをや」。

 結果的に、天皇の戦争責任を認めたこの発言が法廷を揺るがした。天皇免責指令を受けていたキーナン検事との調整の結果、昭和23.1.6日、次のように証言を修正した。
キーナン  「少し前にあなたは、日本臣民たる者は何人たりとも天皇の命令に従わぬ者はないと言われましたが、正しいですか」。
東条  「それは私の国民感情を申し上げたのです。責任問題とは別です。天皇のご責任とは別の問題」。
キーナン  「しかし、あなたは実際に米英蘭に対して戦争をしたではありませんか」。
東条  「私の内閣に於いて戦争を決意しました」。
キーナン  「その戦争を行わなければならない、行えというのは裕仁天皇の意思でありましたか」。
東条  「私の進言。統帥部、その他責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったというのが事実でせう。平和ご愛好の精神は、最後の一瞬に至るまで、陛下はご希望をもっておられました。昭和16年12月8日のご詔勅の中に、明確にそのご意思の文句が付け加えられております。しかも、それは、陛下のご希望によって、政府の責任に於いて入れた言葉です。それは、開戦の詔勅の『あに朕が意思ならむや』という文句である。まことに止むを得ざるものあり、朕の意思にあらずという意味のお言葉であります」。

 これを受けて、マッカーサーは、天皇免訴を最終決定した。東条は、当初天皇の責任にも触れ、その累が及ぶとなるや以上の陳述により守り抜いたことになる。

 最終弁論を終え、判決を待つ間、元側近の佐藤賢了に次のように語っている。
 「戦争の責任は僕一人で背負いたかったが、多くの人々に迷惑を掛けて相済まぬ。君もどんな判決を受けるか知らないけれども、敵に罰せられると思えば腹も立つだろうが、陛下と国民から罰をいただくと思って、甘んじてもらいたい。敗戦により、国家と国民とが蒙った打撃と犠牲を思えば、僕が絞首刑に上がるがごときはむしろ勿体無い。八つ裂きにされてもなお足りない。君が生き残っても、僕に就いては弁解して貰いたくない。僕はただに絞首の辱めを受けるだけでなく、永遠に歴史の上に罵(ののし)りの鞭を受けなければならないからである」。

【東条英機履歴その3、東条の遺書と最後篇】
 東条はこの裁判の結果、絞首刑を宣告された。東条の処刑前の様子が次のように伝えられている。東京帝国大学教授で浄土真宗本願寺派の宗林寺住職であった花山信勝氏が証言している。花山氏は、1946.2月から教戒師として巣鴨プリズンで法話を続け、A級戦犯7名とBC級戦犯27名の刑執行に立ち会った。1948.12.22日午後9時から1時間、花山氏は巣鴨プリズンの独房で東条に面会した。東条は用紙20枚に及ぶ長文の遺書を託そうとしたが、連合国軍総司令部GHQに没収されるのを恐れた花山氏はその場で読み上げてもらい、必死でメモをとった。面会直後の23日午前零時過ぎ、東条は処刑された。遺書の原文は、花山氏の予想通りにGHQに差し押さえられた(今も行方不明)。

 花山氏は、遺書が没収されることを危ぶみ、東条に読み上げさせ、メモを取っていた。それによると、遺書の一部は次のようなものであった。
 「最後に軍事的問題について一言する。我が国従来の統帥権は間違っていた。あれでは陸海軍一本の行動はとれない」。
 「開戦の時のことを思い出すと、実に断腸の思いがある。今回の死刑は個人的には慰められるところがあるけれども、国内的の自分の責任は、死をもって償えるものではない。しかし、国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。力の前に屈服した。自分としては、国内的な責任を負うて満足して刑場に行く。ただ、同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。この裁判は、結局は、政治裁判に終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。

 天皇陛下の御地位及び陛下の御存在は動かすべからざるものである。天皇存在の形式に就いては、敢えて云わぬ。存在そのものが必要なのである。それにつき、かれこれ言葉を差し挟む者があるが、これらは空気や地面の有り難さを知らぬと同様のものである。

 東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。東亜民族も又他の民族と同様の権利を持つべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。インドの判事には尊敬の念を禁じ得ない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。今回の戦争にて、東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら、幸せである。列国も排他的な考えを廃して、共栄の心持を持って進むべきである」。

 ここで云う「統帥権問題」とは、その大権を天皇が保持し、統帥部と呼ばれる陸軍参謀本部と海軍軍令部がこの大権を付与され、「統帥権の独立」を楯に軍の独立的権限が暴走し、主導的に戦争方針を決定し戦局を拡大していった経緯に対しての自己批判であると思われる。

 他に東京裁判への批判なども有り、メモは全部で80枚近くに上る、と云う。「弁解をせず、沈黙を是とせよ」、「この公判が自分の罪の軽重大小に関係有りなどと夢思うな」の家訓を残した。

 辞世の句は、次の通り。
 諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。真骨頂とは何か。忠君愛國の日本精神。これだけである。
 「さらばなり 有為の奥山けふ越えて 弥陀のみもとに行くぞうれしき」。
 「明日よりは 誰に憚るところなく 弥陀のみもとでのびのびと寝む」。
 「我行くも 又この土地に かへり来ん 国に報ゆる ことの足らねば」。
 「さらばなり 苔の下にて 我れ待たん 大和島根に 花薫る時」。

 1948(昭和23).12.23日午前0時、7名の絞首刑が執行された。第一組として土肥原、松井、東条、武藤の4名、第二組として板垣、廣田、木村が処刑された。第一組の4名は、松井大将の音頭で「天皇陛下万歳」、「大日本帝国万歳」を三唱した。その後、アメリカ人教戒師、将校たちと握手を交わした後、刑場へ向かい、刑場の入り口で花山が4名と最後の握手をした。午前0時10分30秒、東条の死亡が確認された(享年62歳)。
 2019.12.23日付け京都新聞「東条英機らA級戦犯の最期、克明に 教誨師が講演で語る」。
 「誰も知っていない東条さんの最期がどうであったかということを申し上げたい」。戦後直後の東京裁判で絞首刑となった東条英機らA級戦犯の教(きょう)誨(かい)師を務めた僧侶の講演録を、京都市の出版社が発行した。1948年12月23日、絞首刑執行日の東条らA級戦犯の様子やその2日前の執行宣告日の模様が教誨師の立場で語られている。教誨師は浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、下京区)の僧侶で東大教授だった故花山信勝氏(1898~1995年)。花山氏は46~49年まで、東京にあった巣鴨プリズンで宗教者として戦犯に仏教を説き面接する教誨師を務めた。A級戦犯の絞首刑に立ち会った唯一の日本人だった。

 当初、花山氏はA級やB、C級の戦犯たち数十人と法要を営み、法話を行うことが多かった。次第に市民の支援を仰ぎながら仏教書や念珠の差し入れを行い、絞首刑判決を受けたB、C級戦犯との面談を行っていた。花山氏が東条と個別に面談を始めたのは、東京裁判でA級戦犯らに絞首刑などの判決が言い渡された後の48年11月18日。このほど出版された講演録「A級戦犯者の遺言」では同月26日の2回目の面談記録から収録されている。

 東条は「今後、科学が進歩してどのように世界が変わってくるか知らないが、すでに三千年も昔のお経に書いてある」と話したとし、獄中で東条が仏教書を通じて仏教に関心を高めていた様子が浮かぶ。同年12月2日の4回目の面談でも東条は「真っ先に政治家が大無量寿経を読まねばならない」「巣鴨プリズンに入って初めて人生という問題について静かに考える余裕ができた」と述べていた。また面会日は不明なものの、東条が戦犯として逮捕される直前、拳銃自殺を図り命を取り留めた経緯について花山氏は真意を尋ねている。東条は「自分が作った戦陣訓の中で軍人は敵の捕虜になってはならん。潔く自決せよと教えた。それを実行したまで」と語ったという。同時期、米国では弁護団が連邦最高裁判所に東京裁判は違憲であるとの訴えを提出していた。しかし48年12月20日に却下された。これを受け同月21日午後9時過ぎから「23日午前0時過ぎから刑を執行する」との宣告が行われた。

 「A級戦犯者の遺言」では花山氏が宣告時の様子を記録したメモの写真が添付されている。宣告は体重計の置かれた一室で、巣鴨プリズンのハンドワーク所長ら10人以上の米軍将兵と花山氏が立ち会ったことが手書きの図から読み取れる。東条は左手に念珠をして臨んだ。さらに宣告を聞いた東条は「刑死前2、3時間ほど花山さんにお話を願いたい」と述べたという。その後花山氏は、A級戦犯7人と十数分から1時間程度の面談を繰り返した。22日深夜。手錠を掛けられた7人は土肥原賢二、松井石根、東条英機、武藤章の1組目と、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎の2組目に分かれて順に絶筆の署名を行った。さらに南無阿弥陀仏と唱え、万歳三唱を行い、それぞれ刑場に向かった。2組目に加わった広田が万歳をしなかったと、作家の故城山三郎氏が小説「落日燃ゆ」で記述したことについて花山氏は講演で「広田さんも一緒に天皇陛下万歳と大日本帝国万歳を三唱された。作者の誤解にすぎない」と明確に否定している。1組目の刑執行は23日午前0時1分、2組目は同20分だった。花山氏は講演終盤に東条の辞世の歌として「さらばなり 有為の奥山 今日超えて 弥(み)陀(だ)の御(み)許(もと)に 行くぞうれしき」を挙げ「お念仏によって救われて、西方のお浄土へ往生された」としている。

 講演は1985年ごろに広島県呉市で行われた。講演録の著者で同朋大の青木馨非常勤講師(65)が自身の寺に伝わる録音テープを文字起こしして解説を加えた。著者の青木さんは「今回改めて花山さんの観察力、記録の正確性に驚かされた。講演やメモからは戦争責任者の声を残さなければならないという責任感と使命感がひしひしと伝わってくる。花山信勝という人が忘れられていく時代に、もう一度花山さんが伝えたかったことを今の社会に発信できればと思い出版した」と語る。「A級戦犯者の遺言」は四六判、136ページ。法蔵館。2200円。花山氏の講演のCDも付いている。

【東条英機履歴その4、東条の遺骨考】
 2019.5.10日、「遺族に返還されず……処刑された東条英機の遺骨はどこに?」。
 ※本稿は、河合敦著『テーマ別で読むと驚くほどよくわかる日本史』(PHP研究所)より一部を抜粋編集したものです。
 平成10年(1998)に公開された伊藤俊也監督の作品『プライド 運命の瞬間(とき)』は、東条英機元首相を描いた映画である。東条は戦後、太平洋戦争の遂行責任者としてA級戦犯容疑で起訴され、極東国際軍事裁判で死刑判決を受けた人物である。その東条を、この作品では英雄視しているのではないかという批判・反発が巻き起こり、かつて論争にまで発展した。それが本当かどうかは映画を観て個人が判断すればよいことであろう。昨今、太平洋戦争をめぐってわが国では、さまざまな立場から激しい論争が展開されてきた。果たして何が正しいのか、偏することなくできるだけ多くの著作にあたり、自分なりの結論を出してゆくことが大切かと思う。ただ、過去の怨念やさまざまな言い分もあるだろうが、これからアジア諸国は手を取り合って進むべきだということに関しては異論はないだろう。過去も大事だが、未来はもっと大事なのである。

 明治17年(1884)、東条英機は、陸軍の戦略家として有名な東条英教の子として生まれ、陸軍士官学校を出て、父と同じ陸軍畑を歩いてきた。非常に頭の回転が速く、優秀な仕事ぶりをみせたので「カミソリ」とあだ名された。近衛文麿内閣の陸相として入閣するが、対米開戦をとなえて近衛とぶつかり、内閣を崩壊させた。その後、自ら内閣を組織した東条は、米英との開戦に踏み切った。戦時中、国内で諸勢力を弾圧して独裁的な体制を築き上げたが、戦争で敗色が濃くなると、東条に対する不満が噴出、ついに首相を辞職に追い込まれた。

 戦後、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に入所していた東条であるが、逮捕されるとき自殺未遂をはかったものの、拘置所に入ってからは起訴を覚悟したらしく、冷静さを取り戻している。その証拠として、平成9年(1997)に見つかった岸信介元首相の遺品「ミカン細工」があげられる。この細工品は、東条と同じくA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に拘束された岸が、食事で出された夏ミカンの中身をくり抜き、その厚皮を干してつくった四角い壺である。その壺の表面に東条の手で大きく、「観自在」と墨書されている。岸の依頼で書いたものだろう。「煩悩が消え、すべてを自在に見通すことができる」という意味であり、仏教用語のひとつだ。起訴を前に、すでに達観の境地だったのかもしれない。昭和21年(1946)5月3日、東条は起訴され、23年(1948)11月に死刑判決を受け、翌月23日、巣鴨拘置所内で絞首刑に処された。65歳だった。遺体は、横浜市西区の久保山火葬場で荼毘にふされたが、遺骨はただちに米軍がいずこかへ持ち去り、ほかのA級戦犯同様、遺族には返還されず、その行方も伝えられなかった。

 ところが、『東京新聞』の平成8年(1996)8月10日付の朝刊に、遺骨は太平洋に散骨されたとする記事が載った。同新聞によれば、証言者は当時の関係者だった国家公務員で、公務員の守秘義務のため、名前を出すことができないとあるが、かなり確実な情報らしい。記事によれば、昭和23年に刑死したB級戦犯の西沢正夫陸軍大尉の遺族が、遺骨返還の嘆願書を出したが、その回答としてGHQの戦犯仮釈放審査委員長のヘーゲル大佐が、外務省引き揚げ援護局の戦犯問題担当である井上忠男事務次官に、「戦犯の遺骨は回収不能である」と語り、大佐の好意として非公式に「実は戦犯の遺骨は、政治的な理由から飛行機で太平洋上に散骨した」と伝達してきたという。そのため、西沢大尉の遺族には「米軍規定により戦犯刑死者の遺骨は遺族に返還されない」とだけ伝え、真相は伏せられたとされる。ではいったい、なぜ東条らの遺骨は海に撒かれたのだろうか。いうまでもなくそれは、戦犯たちの骨が後の日本人から英雄視され、崇拝の対象となることに、GHQが大きな危惧を抱いたからであろう。

 元中日新聞記者の平野素邦氏が東条の遺族から聞いた話によれば、昭和30年(1955)に政府から遺族に宛てて白木の箱(遺骨を入れる箱)が届けられたが、なかには骨も灰もなく空だったという。実は、骨は海に撒かれてしまったのだが、遺体の灰については、当時のA級戦犯弁護団の一人、三文字正平弁護士が、久保山火葬場の飛田場長に密かに頼み込んで、A級戦犯7人のまじり合った灰をかき集め、熱海市伊豆山の興亜観音堂と愛知県三河湾公園の山頂に立つ「殉国七士の墓」に納めたと伝えられる。
 2021.6.7日、共同通信「A級戦犯7人の遺骨、米軍将校が「私がまいた」公文書で処理方法が判明」その他参照。
 第2次大戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けた東条英機元首相らA級戦犯7人の遺骨について、米軍将校が「太平洋の上空から私がまいた」と記した公文書が、6日までに見つかった。米軍による具体的なA級戦犯の遺骨処理の方法が公文書で判明するのは初。遺骨は遺族に返還されず、太平洋や東京湾にまかれたとの臆測はあったが、行方は昭和史の謎だった。

 文書は、占領期に横浜市に司令部を置いた米第8軍が作成。日本大生産工学部の高澤弘明専任講師(法学)が米国立公文書館で入手した。詳細が記載されていたのは、7人が処刑された1948年12月23日付など2種類の極秘文書。それによると、7人が処刑された1948年12月23日の未明、東京の巣鴨プリズンから遺体が運び出され、横浜市内で火葬されたあと遺骨は一人一人骨つぼに納められ、そして、連絡機と呼ばれる小型の軍用機に載せられ、上空から太平洋に散骨されたという。この極秘文書を記したのは、現場責任者だった第8軍所属のルーサー・フライアーソン少佐で、「横浜の東およそ30マイル(=およそ48キロ)の地点の太平洋の上空で自分が広範囲にまいた」とつづっている。高澤専任講師は、7人のA級戦犯の遺骨の扱いについてはこれまで裏付けとなる明確な記録がなかったということで、「今まで伝聞、推測でしか分かっていなかったことがアメリカの公文書で裏付けられるようになったことは価値が大きいと思う」と話している。
 1948年12.23日の午前0時過ぎ、米軍が管理する東京の巣鴨プリズンで東條英機らを含むA級戦犯7人の死刑が執行された。死刑執行後、彼らの遺骨は遺族にも返還されず、行方は分からないままだった。通常、死刑囚の遺骨は遺族に引き取られるか拘置所で葬儀が行われる。しかし、死刑執行から70年以上経っても知らされることがなかった。一体なぜ、米国政府は遺族に遺骨を返還しないばかりか、遺骨処理の方法や行方までも知らさなかったのか? それには、戦犯として裁かれた者が美化されないようにというGHQの考えがあったとされている。米軍将校が「太平洋の上空から私がまいた」と記した公文書が、2021.6.6日、やっと見つかった。

【東條英機(首相・陸軍大将)遺書全文】
 『祖父東條英機「一切語るなかれ」』東條由布子 著 (文藝春秋) より
  東條英機 処刑前の遺書 「以て天日復明の時を待たれんことを」
 https://www.youtube.com/watch?v=j5OmYky5Lvs
 開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。今回の刑死は個人的には慰なぐさめられておるが、国内的の自らの責任は死を以もって贖あがなえるものではない。しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈服した。自分としては国民に対する責任を負って満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、又下級者にまで刑が及んだことは実に残念である。天皇陛下に対し、又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する。元来日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志に依より行動すべきものであったが、一部過ちを犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。此度の戦争に従事してたおれた人及び此等これらの人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思って居る。心から陳謝する。今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。もしこれが永久平和のためということであったら、も少し大きな態度で事に臨のぞまなければならないのではないか。此の裁判は結局は政治的裁判で終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。

 天皇陛下の御地位は動かすべからざるものである。天皇存在の形式については敢えて言わぬ。存在そのものが絶対必要なのである。それは私だけではなく多くの者は同感と思う。空気や地面の如ごとく大きな恩めぐみは忘れられぬものである。

 東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相協力すべきものである。東亜民族も亦他の民族と同様に天地に生きる権利を有もつべきものであって、その有色たるを寧ろ神の恵みとして居る。印度インドの判事には尊敬の念を禁じ得ない。これを以(も)って東亜諸民族の誇りと感じた。今回の戦争に因(より)て東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら幸いである。列国も排他的の感情を忘れて共栄の心持ちを以て進むべきである。

 現在日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、どうか日本人の米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。又日本人が赤化しないように頼む。大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされねばならぬ。実は東亜の他民族の協力を得ることが出来なかったことが、今回の敗戦の原因であったと考えている。今後日本は米国の保護の下に生きて行くであろうが、極東の大勢がどうあろうが、終戦後、僅か三年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯(かく)の如くである。今後の事を考えれば、実に憂慮にたえぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上もないではないか。

 今、日本は米国より食料の供給その他の援助につき感謝している。しかし、一般人がもしも自己に直接なる生活の困難やインフレや食料の不足などが、米軍が日本に在るが為なりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。依って米軍が日本人の心を失わぬよう希望する。

 今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。第一に日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。第二には満州を赤化の根拠地たらしめた。第三は朝鮮を二分して東亜紛争の因たらしめた。米英の指導者は之を救済する責任を負うて居る。従ってトルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関し有り難いと思う。

 日本は米軍の指導に基づき武力を全面的に抛棄した。これは賢明であったと思う。しかし世界国家が全面的に武装を排除するならばよい。然(し)からざれば、盗人が跋扈する形となる。(泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである)私は戦争を根絶するためには慾心を人間から取り去らねばと思う。現に世界各国、何いずれも自国の存在や自衛権の確保を主として居る(これはお互い慾心を抛棄しておらぬ証拠である)。国家から慾心を除くということは不可能のことである。されば世界より今後も戦争を無くするということは不可能である。これでは結局は人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、事実は此の通りである。それ故ゆえ、第三次世界大戦は避けることが出来ない。

 第三次世界大戦に於いて主なる立場にたつものは米国およびソ連である。第二次世界大戦に於いて日本と独乙(ドイツ)というものが取り去られてしまった。それが為、米国とソ連というものが、直接に接触することとなった。米ソ二国の思想上の根本的相違は止むを得ぬ。この見地から見ても、第三次世界大戦は避けることは出来ぬ。第三次世界大戦に於いては極東、即ち日本と支那、朝鮮が戦場となる。此(こ)の時に当たって米国は武力なき日本を守る策を立てねばならぬ。これは当然米国の責任である。日本を属領と考えるのであれば、また何をか言わんや。そうでなしとすれば、米国は何等かの考えがなければならぬ。米国は日本八千万国民の生きて行ける道を考えてくれなければならない。凡(おおよ)そ生物として自ら生きる生命は神の恵である。産児制限の如ごときは神意に反するもので行うべきでない。

 なお言いたき事は、公、教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。今は既に戦後三年を経過して居るのではないか。
従ってこれは速やかに止めてほしい。日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容の気持ちをもってやってもらいたい。我々の処刑をもって一段落として、戦死傷者、戦災死者の霊は遺族の申し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。
出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。戦犯者の家族には保護をあたえられたし。

 青少年男女の教育は注意を要する。将来大事な事である。近事、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響から来ているものが少すくなくない。この点については、我が国の古来の美風を保つことが大切である。

 今回の処刑を機として、敵、味方、中立国の国民罹災者の一大追悼慰霊祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのである。勿論、日本軍人の一部に間違いを犯した者はあろう。此等これらについては衷心謝罪する。

 然(こ)れと同時に無差別爆撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果については、米軍側も大いに同情し憐憫して悔悟あるべきである。

 最後に、軍事的問題について一言する。我が国従来の統帥権独立の思想は確に間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない。兵役制については、徴兵制によるか、傭雇兵制によるかは考えなければならない。我が国民性に鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。再建軍隊の教育は精神主義を採らねばならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。この点については、大いに米軍に学ぶべきである。

 学校教育は従前の質実剛健のみでは足らぬ。人として完成を図る教育が大切だ。言いかえれば、宗教教育である。欧米の風俗を知らす事も必要である。俘虜のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。

 辞世
 我ゆくも またこの土地に かへり来ん 国に報ゆる ことの足らねば
 さらばなり 苔の下にて われ待たん 大和島根に 花薫るとき
 ◆英米諸国人に告げる
 今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。
 ◆日本同胞国民諸君
 今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国あるということは動かすことのできないことである。

 力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。日本は神国である。永久不滅の国家である。皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。
 ◆日本青年諸君に告げる。日本青年諸君各位
 我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、彼らの英魂毅魄〔伴注:美しく強い魂魄〕は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。殉国の烈士は、決して犬死したものではない。諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。
東條英機遺書
諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。
真骨頂とは何か。
忠君愛國の日本精神。
    これだけである。
我ゆくも
    またこの土地に
  かへり来ん 
  國に報ゆる
  ことの足らねば
  さらばなり
    苔の下にて
われ待たん 
大和島根に
花薫るとき
東條英機(首相・陸軍大将)遺書全文
開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。
今回の刑死は個人的には慰なぐさめられておるが、
国内的の自らの責任は死を以もって贖えるものではない。
しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。
今も同感である。
ただ力の前に屈服した。
自分としては国民に対する責任を負って満足して刑場に行く。
ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、
又下級者にまで刑が及んだことは実に残念である。
天皇陛下に対し、又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する。
元来日本の軍隊は、
陛下の仁慈の御志に依り行動すべきものであったが、
一部過ちを犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。
此度の戦争に従事してたおれた人及び
此等の人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思って居る。
心から陳謝する。
今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。
もしこれが永久平和のためということであったら、
も少し大きな態度で事に臨まなければならないのではないか。
此の裁判は結局は政治的裁判で終わった。
勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
天皇陛下の御地位は動かすべからざるものである。
天皇存在の形式については敢えて言わぬ。
存在そのものが絶対必要なのである。
それは私だけではなく多くの者は同感と思う。
空気や地面の如く大きな恩みは忘れられぬものである。
東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相あい協力すべきものである。
東亜民族もまた他の民族と同様に天地に生きる権利を有もつべきものであって、
その有色たるをむしろ神の恵みとして居る。
インドの判事には尊敬の念を禁じ得ない。
これを以て東亜諸民族の誇りと感じた。
今回の戦争に因よりて東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら
幸いである。
列国も排他的の感情を忘れて共栄の心持ちを以て進むべきである。
現在日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、
どうか日本人の米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。
又日本人が赤化しないように頼む。
大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされねばならぬ。
実は東亜の他民族の協力を得ることが出来なかったことが、
今回の敗戦の原因であったと考えている。
今後日本は米国の保護の下に生きて行くであろうが、極東の大勢がどうあろうが、
終戦後、僅か三年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯くの如くである。
今後の事を考えれば、実に憂慮にたえぬ。
もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上もないではないか。
今、日本は米国より食料の供給その他の援助につき感謝している。
しかし、一般人がもしも自己に直接なる生活の困難やインフレや食料の不足などが、
米軍が日本に在るが為ためなりというような感想をもつようになったならば、
それは危険である。
依って米軍が日本人の心を失わぬよう希望する。
今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。
第一に日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。
第二には満州を赤化の根拠地たらしめた。
第三は朝鮮を二分して東亜紛争の因たらしめた。
米英の指導者は之を救済する責任を負うて居る。
従ってトルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関し有り難いと思う。
日本は米軍の指導に基づき武力を全面的に抛棄した。
これは賢明であったと思う。
しかし世界国家が全面的に武装を排除するならばよい。
然しからざれば、盗人が跋扈する形となる。
(泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである)
私は戦争を根絶するためには慾心を人間から取り去らねばと思う。
現に世界各国、何れも自国の存在や自衛権の確保を主として居る
(これはお互い慾心を抛棄しておらぬ証拠である)。
国家から慾心を除くということは不可能のことである。
されば世界より今後も戦争を無くするということは不可能である。
これでは結局は人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、事実は此の通りである。
それ故、第三次世界大戦は避けることが出来ない。
第三次世界大戦に於おいて主なる立場にたつものは米国およびソ連である。
第二次世界大戦に於いて日本とドイツというものが取り去られてしまった。
それが為、米国とソ連というものが、直接に接触することとなった。
米ソ二国の思想上の根本的相違は止むを得ぬ。
この見地から見ても、第三次世界大戦は避けることは出来ぬ。
第三次世界大戦に於いては極東、即ち日本と支那、朝鮮が戦場となる。
此の時に当たって米国は武力なき日本を守る策を立てねばならぬ。
これは当然米国の責任である。
日本を属領と考えるのであれば、また何をか言わんや。
そうでなしとすれば、米国は何等かの考えがなければならぬ。
米国は日本八千万国民の生きて行ける道を考えてくれなければならない。
凡そ生物として自ら生きる生命は神の恵である。
産児制限の如きは神意に反するもので行うべきでない。
なお言いたき事は、
公、教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。
今は既に戦後三年を経過して居るのではないか。
従ってこれは速すみやかに止めてほしい。
日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容の気持ちをもってやってもらいたい。
我々の処刑をもって一段落として、
戦死傷者、戦災死者の霊は遺族の申し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。
出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。
戦犯者の家族には保護をあたえられたし。
青少年男女の教育は注意を要する。
将来大事な事である。
近事、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響から来ているものが少すくなくない。
この点については、我が国の古来の美風を保つことが大切である。
今回の処刑を機として、
敵、味方、中立国の国民罹災者の一大追悼慰霊祭を行われたし。
世界平和の精神的礎石としたいのである。
勿論、日本軍人の一部に間違いを犯した者はあろう。
此等については衷心謝罪する。
然これと同時に無差別爆撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果については、
米軍側も大いに同情し憐憫して悔悟あるべきである。
最後に、軍事的問題について一言する。
我が国従来の統帥権独立の思想は確に間違っている。
あれでは陸海軍一本の行動は採れない。
兵役制については、徴兵制によるか、傭雇兵制によるかは考えなければならない。
我が国民性に鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。
再建軍隊の教育は精神主義を採らねばならぬ。
忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。
この点については、大いに米軍に学ぶべきである。
学校教育は従前の質実剛健のみでは足らぬ。
人として完成を図る教育が大切だ。
言いかえれば、宗教教育である。
欧米の風俗を知らす事も必要である。
俘虜のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。
辞世
我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば
さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき
『祖父東條英機「一切語るなかれ」』東條由布子 著 (文藝春秋) より
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東條英機 処刑前の遺書 「以て天日復明の時を待たれんことを」
◆英米諸国人に告げる
今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。
この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。
しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。
私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。
しかし諸君がもし、
虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、
その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。
我れ等はただ微力であったために
正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。
いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、
原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは
数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、
あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。
もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、
世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、
人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。
諸君はすべからく一大猛省し、
自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。
◆日本同胞国民諸君
今はただ、承詔必謹する
〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。
私も何も言う言葉がない。
ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、
私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。
この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、
太陽の輝きのように明白である。
ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、
その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、
彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。
不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、
正理公議は厳として我が国あるということは動かすことのできないことである。
力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。
人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。
諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、
天が定まる日を待ちつづけていただきたい。
日本は神国である。
永久不滅の国家である。
皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。
諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、
皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、
もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。
◆日本青年諸君に告げる。日本青年諸君各位
我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。
私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、
胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。
現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。
しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、
正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。
また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、
彼らの英魂毅魄〔伴注:美しく強い魂魄〕は、
必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。
殉国の烈士は、決して犬死したものではない。
諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、
日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、
もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。
これこそがまことに私の最後の願いである。
思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、
おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。
しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。
真骨頂とは何か。
忠君愛国の日本精神。
これだけである。
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【松井石根大将考】
 2021.12.24日、「公務死された殉国七士(所謂・A級戦犯)の真相~松井石根大将」。
 松井石根 大将
 東京裁判で南京虐殺はあったと証言したのは、宣教師(偽キリスト教)でした。500年続いた彼らによる大侵略時代(いわゆる『大航海時代』)に於いて日本に来た耶蘇教(イエズス会)がそうであったように彼らの主目的は世界侵略です。布教は、その為の手段でした。 当時宣教師が中国の中で力を入れていた事は、中国人に『反日』思想をすり込むことでした。何故なら、彼らが侵略する上で恐れた事は、日中が一つになって国力を強化してしまうことだったのです。
 昭和23年(1948年)12月23日 公務死
 辞世の句
 「天地も人もうらみず ひとすじに 無畏を念じて 安らけく逝く」
 「いきにえに 尽くる命は 惜かれど  国に捧げて 残りし身なれば」
 「世の人に のこさばやと 思ふ言の葉は 自他平等 誠の心」
 ■松井大将を殺害しなければならなかったアメリカの事情
 原爆投下の大罪を相殺する為に捏造した「南京虐殺」の嘘
 これを暴かれない為には、当時の南京の真実を知る生き証人の存在はアメリカにとって不都合であり口封じをする必要があった。

 松井石根大将は中国人以上に中国を愛しておられ、真に中国を理解し、中国人を親愛する人と言われていました。南京陥落時にも血を流さずに済むよう細心の配慮をされたとのことです。後にパール判事は彼を高く評価しました。
 田中正明 著『南京事件の総括』虐殺否定の十五の論拠 より抜粋。
 松井大将は南京攻略にあたって《南京城攻略要領》を下命し、南京入城の兵は各師団とも選抜せる歩兵1大隊のみと限定し、次のような細心の注意を与えている。抄出すると、
(1) 部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし支那軍民をして皇軍の威武に敬仰帰服せしめ苟も名誉を毀損するが如き行為の絶無を期するを要す。
(2) 別に示す要図に基き外国権益特に外交機関には絶対に接近せざること、別に示す要図に基き外国権益特に外交機関には絶対に接近せざること、外交団が設定を提議し我軍に拒否せられたる中立地帯(難民区のこと)には必要の立入を禁し所要の地点に歩哨を配置す、又城外に於ける中山陵其他革命志士の墓及明孝陵には立入ることを禁ず。
(3) 掠奪行為をなし又不注意と雖も火を失するものは厳罰に処す、軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ不法行為を摘発せしむ
 松井大将はこれでもなお安心できず、さらに自ら筆をとって次のような末端将兵に対する訓戒を重ねて示達した。「南京は中国の首都である。之か攻略は世界的事件である故に真に研究して日本の名誉を一層発揮し 中国民衆の信頼を増す様にせよ、 特に敵軍と雖も抗戦意志を失いたる者 及び一般官民に対しては寛容慈悲の態度を取り、之を宣撫愛護せよ」。この一文は、下士官兵にいたるまで徹底せよと命じた。





(私論.私見)