【判決】

 (最新見直し2006.8.15日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 小林よしのり氏が著書「いわゆるA級戦犯」(幻冬舎、2006.6.30日初版)で各被告の人となりを記している。れんだいこは、他に知らないのでこれを参照しつつれんだいこ流に取り組む。

 2006.8.19日 れんだいこ拝


【極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決】
 2年6ヶ月の日時を費やし、開廷423回、法廷証人419人、宣誓口供者779人、当時の金で27億円(日本政府支弁)をかけ検事側と弁護側の激しい応酬が為されたこの裁判は、昭和21.5月、東条英機、松岡洋右以下6名の”戦争犯罪人”にたいする起訴状の朗読から始まり、昭和23.4.15日、最終弁論で審議を終え、11.4日、判決文の朗読が開始され、11.12日の刑の宣告、12.23日の絞首刑執行をもって幕を閉じた。判決文の内容は検察の起訴状を丸写しにしたと思えるほど検察側の主張に沿ったものであった。

 A級戦犯として28名が起訴され、このうち松岡洋右と永野修身は公判途中で死亡、大川周明は発狂入院のため、判決を受けたのは25被告であった。判決は、東條元首相以下7名を絞首刑(「デス・バイ・ハンギング」)、16名を無期禁固刑(終身刑)、2人に有期禁固刑となった。絞首刑宣告されたのは、土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章、東條英機の順。終身禁固刑者は、平沼騏一郎、小磯国昭、白鳥敏夫、荒木貞夫、南次郎、畑俊六、橋本欣五郎、佐藤賢了、大島浩、鈴木貞一、嶋田繁太郎、岡敬純、木戸幸一、賀屋興宣、星野直樹。量刑禁固刑者は、東郷茂徳、重光葵。
 1948(昭和23).11.13日、日本の新聞は極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決を一斉に報道した。朝日新聞は、一面トップの大見出しで、「戦犯25被告に判決下る/東条、広田ら7名絞首刑」と報道し、二面に「断罪への表情」というキャプションをつけた死刑判決を聞く戦争犯罪者(戦犯)の写真とともに、7名の「被告各個人の罪状」を記した(笠原十九司「南京事件」)。 

 1948(昭和23).12.23日、以下の7名が刑執行され、絞首刑された。これを見るに、途中死亡者も含め、陸軍6名、海軍1、文民2名となっている。終身禁固刑者のうち釈放前死亡者は、4名。そのうち、陸軍2名、海軍0、文民2名となっている。終身禁固刑者のうち1955年の仮釈放者は12名。そのうち、陸軍7名、海軍2、文民3名となっている。量刑禁固者は2名。何れも文民。


【六つに分かれた判決】
 法廷で朗読された判決文は、米・英・ソ・中・カナダ・ニュージーランドの6カ国の判事による多数判決である。裁判所(チャーター)条例には少数判決もこれを朗読すべしとあったが、少数意見は朗読されないばかりか、概要の発表すら厳禁された。

 パール判事の百万語にもおよぶ浩瀚な法理論の展開と全員無罪の判決はよく知られる所であるが、このほかに前記のオランダ代表のレーリンク判事、フランス代表のベルナール判事、フィリピン代表のハラーニヨ(ジャラニラ)判事、奇妙なことに裁判長のウエッブ(オーストラリア代表)判事までもが、少数意見を発表し、多数意見に全面的な賛意を表さなかった。

 ことにフランスのベルナール判事は、この裁判がいかに裁判の名に値しない、最初から仕組まれた虚構であり、政治的ショーにほかならなかったかを暴露してこう述べている。

 「判決の中の事実の認定に関する部分は、すべて起草委員会によって起草され、その起草が進むにつれて、まず、最初に《多数》と呼ばれた7名の裁判官から成る委員会に提出された。この草案の写しは、他の4名の裁判官にも配布された。後者は多数裁判官の討議のために、また必要が起こった場合には、草案を修正するために、自分の見解を多数判事に提出ことを要請された。しかし、本裁判所を構成する11名の裁判官が、判決の一部または全部を口頭で討議するために会合を求められたことは一度もなかった

 草案の個人に関する部分だけが口頭の討議の対象であった。(中略)討議期間とも言ってもいい期間中に《少数》に属する数名の裁判官は、草案を読んで思いついた意見を述べた覚え書きを書面で各裁判官に提出した。これらの意見のうちには、多数裁判官によって採用され、最初の草案の修正をもたらしたものも幾つかある。すべての裁判官に配布されたものには一つの反対意見の草案と、反対ともいえるかも知れないもう一つの意見の草案もあった」(朝日新聞法廷記者団著「東京裁判」〈下〉判決編)。

 最後に同判事は、「裁判所が欠陥ある手続きを経て到達した判定は正当なものでありえない」と述べたあと「“平和に対する罪”の起追については、被告に確かに罪があるものと認めるわけにはゆかない」と言いきっている。つまり同判事は、「通例の戦争犯罪の責任範囲についても、ここで審理を受けた被告らは、(松井大将を含め)誰一人として《直接の遂行者》でもなく、その《命令者》でもない。指揮官の地位にあったというだけの理由で、その違反を防ぐことができたかも知れないのに、そうしなかったということで、責任を問い、重刑に処することは反対である」と主張している。締めの言葉として「刑の公正さはあまりにも争いの余地がある」としていた。

【東京裁判被告考】
 A級戦犯として起訴されたのは以下の28名。このうち松岡洋右と永野修身は病死、大川周明は発狂入院のため、判決を受けたのは25被告であった。岸信介、青木一男(元大東亜相)、天羽英二(元外務次官)らA級戦犯容疑者17名が起訴を免れ釈放された。

 1948(昭和23).12.23日、以下の7名が刑執行され、絞首刑された。これを見るに、途中死亡者も含め、陸軍6名、海軍1、文民2名となっている。終身禁固刑者のうち釈放前死亡者は、4名。そのうち、陸軍2名、海軍0、文民2名となっている。終身禁固刑者のうち1955年の仮釈放者は12名。そのうち、陸軍7名、海軍2、文民3名となっている。量刑金庫者は2名。何れも文民。

 以下、概略を記しておく。
(私論.私見) 「処刑執行A級戦犯」について
 「処刑執行A級戦犯7名」は、それぞれの理由で処刑執行された。ここではその罪の詮索はしない。れんだいこが確認したいのは、この7名はほぼ確実に「敵方スパイではなかった」ことが逆証明されるという歴史的重みである。この観点から論ぜられることが少ないが、それは片手落ちというものであろう。学者的机上学からは生まれない認識であるが、実践上はそういうことになる。

 れんだいこは、本来A級戦犯にされるべき人士でリストから漏れた人物の方に興味が有る。この連中こそ獅子身中の虫ではなかろうか。この虫どもが戦後日本に寄生し、再度跋扈していく姿をも捉えねばならないのではなかろうか。

 2005.7.17日 れんだいこ拝
(私論.私見) 「A級戦犯の内訳」について
 「A級戦犯の内訳」を見るのに、圧倒的に陸軍関係が多い。他の要素として、日独伊軍事同盟推進者を中心に処罰されている気配がある。その他要素として、個々の事件の責任を問われている者が有る。これを通覧すれば、かなり政治的な判断が働いていることが分かる。

 2005.7.17日 れんだいこ拝

【絞首刑】
 1948(昭和23).12.23日午前0時、以下の7名が刑執行され、絞首刑された。これを見るに、途中死亡者も含め、陸軍6名、海軍1、文民2名となっている。
東條英機
役職  首相、陸軍大将、参謀総長、陸相。
罪状  1・27・29・31・32・33・54。(55判定無し) 盧溝橋事件当時の関東軍参謀長、近衛内閣の陸相時代に日独伊三国同盟と対米開戦を主張。41年の大東亜戦争開戦時の首相としての責任。対米英戦争の決定に指導的役割を果たし、真珠湾を不法攻撃したことによる侵略戦争発動開戦責任が告発された。他にも、捕虜、抑留者に対し「働かざる捕虜食うべからず」の指令を繰り返すなど、虐待的戦争法規違反行為に対する指示責任が告発された。
諾否  「真珠湾攻撃は、米国の挑戦に直面して行われた合法的な自衛行動だった」と弁明したが、「全く根拠が無い」と一蹴された。
履歴  1888年、東京生まれ。陸軍内に統制派と皇道派の対立が生じた際には統制派に位置していた。昭和10年、関東軍憲兵司令官として満州に赴任。その翌日、皇道派による2.26事件が勃発し、鎮圧された結果統制派が息を吹き返した。同12年、関東軍参謀長に就任。支那事変が勃発するや積極論を展開し、東条兵団は破竹の快進撃を続けてた。この功績が認められ、同13.5月から12月まで近衛内閣の陸軍次官に指名され帰国する。同13年から14年まで陸軍航空総監、同15.7月から16.10月まで近衛内閣の陸軍大臣を務め、政局中枢に位置することになった。この時、1・石原莞爾を予備役に追放、2・今村均・中将の策定した先陣訓の採用、3・日米交渉で、中国からの撤退に反対等々の履歴を残している。近衛内閣退陣後、後継首相の大命降下を受け、同年10月から19.7月まで内閣総理大臣に就任。首相、陸相、内相兼務で組閣した。、戦争回避策を廻らしたがハルノートを突きつけられ、開戦に向った。東京で大東亜会議を主宰し、アジア解放の大東亜宣言を採択した。1944.7月、サイパン陥落などの戦局悪化と共に東条降ろしの動きが強まり、辞任した。
判決  「(陸相就任以降の)彼の経歴の大部分は、日本之近隣諸国に対する侵略戦争を計画し遂行するために共同謀議者が相次いでとった手段の歴史である」と断罪された。他にも、「(侵略の)政策を支持するために戦争を行うという決定を成立させるに当たって、彼が演じた指導的役割の重要さは、どのように大きく評価しても大き過ぎるということはない。日本之近隣諸国に対する犯罪的攻撃に対して、彼は主要な責任を負っている」云々とされた。
合祀  ○

土肥原賢二
役職  陸軍大将、在満州(奉天)特務機関長、陸軍航空総監。
罪状  1・27・29・31・32・35・36・54(55判定無し)。満州事変時の奉天特務機関長。陸軍の中国専門家として、満州事変やその後の満州国建設、日中戦争に密接に関連した中国侵略の罪。
諾否
履歴  1883年、岡山県生まれ。陸軍大学校卒。昭和6年、在満州特務機関長。満州事変の発生直後に中国清朝最後の皇帝溥儀を天津から満州に脱出させた。同8年、関東軍司令部付、華北自治政府最高顧問、同13年から15年まで満州駐屯第5軍司令官、16年、陸軍航空総監、18年、東部軍司令官、19年から20年までシンガポール第7方面軍司令官。陸軍大将。63歳。陸軍内随一の中国通として知られ、土肥原機関を運営した。
合祀  ○

板垣征四郎
役職  陸軍大将、支那派遣軍総参謀長、陸相。
罪状  1・27・29・31・32・35・36・54(55判定無し)。満州事変に関わり、満州事変時の関東軍参謀長などを務めた。満州事変画策に協力し、軍事行動を承認。満州国樹立に主要な役割を演じた。中国侵略、米国に対する平和の罪。
諾否
履歴  1885年、岩手県生まれ。61歳。日露戦争出征後、1916年、陸軍参謀本部支那課に入り、中国情報専門家として活躍。1929年、関東軍高級参謀として満州に赴任し、石原莞爾中佐(当時)とのコンビで、満州事変を立案、実行したとされる。昭和11年から12年まで関東軍参謀長、同13年6月から14年8月まで近衛、平沼両内閣の陸軍大臣兼対満事務局総裁、同14年7月支那派遣軍参謀長、同16年7月から20年まで朝鮮軍司令官、この間、日独伊三国同盟締結を主張。同20年4月、シンガポール第7方面軍司令官として南方を転戦した。
合祀  ○

木村兵太郎
役職  陸軍大将、ビルマ方面派遣軍司令官。
罪状  1・27・29・31・32・54・55。1941年、陸軍次官になり、開戦時の陸軍次官。特に英国に対する戦争開始の罪。泰メン鉄道の建設に於ける捕虜使用命令を承認したことも罪に問われた。
諾否
履歴  1888年、埼玉県生まれ。58歳、陸大卒後ドイツへ留学。砲兵などの専門家として陸軍省整備局統制課長、兵器局長。昭和15年、関東軍参謀長、同16年から19年2月まで近衛、東條内閣の陸軍次官。東条陸相の女房役として、1941.4月から約2年間、陸軍次官を務めた。軍事参議官兼兵器行政本部長を経て、?パール作戦失敗後の1944.8月、年ビルマ方面軍司令官になり敗戦を迎える。陸軍の要職を歴任した。
合祀  ○

松井石根
役職  陸軍大将、中支那方面軍司令官、上海派遣軍司令官。
罪状  55。南京大虐殺事件の際に、中支方面軍司令官として現場にいながら指揮官として事件を防止できなかった不作為責任が問われ、捕虜及び一般人に対する国際法違反罪。
諾否
履歴  1878年、愛知県生まれ。68歳、1925年、外国情報を担当する陸軍参謀本部第二部長。昭和8年、陸軍大将。同年、アジア主義者として、大日本興亜同盟総裁も務めた(大亜細亜協会創立者の一人)。同12年10月から13年2月まで中支那方面軍司令官。この間12月、当時の首都南京を占領。敗戦後に南京大虐殺事件容疑を問われることになる。同13年7月から15年1月まで軍事参議官。中国勤務が長いこともあり、陸軍随一の中国通で知られる。
判決  南京事件につき、「これらの恐ろしい出来事を緩和するために、彼は何もしなかったか、何かしたにしても効果の有ることは何もしなかった」として不作為の罪を問われた。松井被告は、軍紀厳粛を発令したが、結果が伴わなかったとされ、「権限があるのに市民を保護する義務を怠った」と指弾された。
合祀  ○

武藤章
役職  陸軍中将、陸軍省軍務局長。
罪状  1・27・29・31・32・54・55。1939年、陸軍省軍務局長となり、フィリピン山下14方面軍司令官の参謀長。一部捕虜虐待の罪。
諾否
履歴  1892年、熊本県生まれ。54歳。陸軍に入り、第一時世界大戦研究のため、1923年から3年間、ドイツ留学。1937.7月の盧溝橋事件当時、参謀本部作戦課長として戦線拡大論を主張。昭和14年10月から17年4月まで、開戦時の陸軍省軍務局長、同18年在スマトラ第2師団長、同19年10月在フィリピン第14方面軍参謀長(山下司令官の参謀長)。東条の腹心として知られた。
合祀  ○

広田弘毅
役職  駐ソ連大使、外相、首相。
罪状  1・27・55。太平洋戦争に至る日本の侵略政策作成。「陸軍の圧力に屈し、侵略を黙認し、その結果を受け入れ、次の侵略にはずみをつけた」、南京大虐殺事件の際に、外相を務めていながら残虐行為をやめるよう閣議で主張しなかった等々の不作為責任が問われた。軍部大臣の現役武官制復活。文民で唯一人絞首刑になった。
諾否  事前の検察尋問で、「私が何かをしていたのなら刑罰を受けなければならない。自分の刑罰を軽くするために説明するのは御免蒙る」と述べ、法廷でも一切弁明しなかった。
履歴  1878年、福岡県生まれ。68歳。外交官として早くから頭角を現し、昭和5年、駐ソ大使、同8年9月から9年7月まで斉藤内閣の外務大臣、同年7月から11年3月まで岡田内閣の外務大臣、2.26事件直後の1936(昭和11).3月から12.2月まで内閣総理大臣に就任。在任10ヶ月半の短命内閣。軍部大臣の現役武官制を復活し、その後の軍部独走を招いた。同12年6月から13年5月まで近衛内閣の外務大臣、同15年内閣参議。城山三郎氏の小説「落日燃ゆ」で知られている。
判決  「1936年に彼の内閣は東アジアと南方地域に於ける進出の国策を立案し採用した。広範な影響力の有るこの政策は、遂には、1941年の日本と西洋諸国との間に戦争をもたらすことになった」として、広田内閣が閣議決定した「国策の基準」が戦争の原因になったとされた。外相時代に起きた南京事件では、「日本軍の南京入城直後にこれらの残虐行為に関する報告を受け立っていた」として、「残虐行為をやめさせるために直ちに措置を講ずることを閣議で主張せず」として不作為の咎を指弾された。
合祀  ○

【判決前死亡】
永野修身
役職  海軍大将、海軍軍令部総長。
罪状  1935年、ロンドン海軍軍縮会議全権として、同会議から脱退を通告。広田内閣の海相、連合艦隊司令長官を歴任。1941年、軍令部総長となり、真珠湾攻撃を支持した。1943年、元帥。真珠湾攻撃の作戦責任者
諾否
履歴  66歳、高知。昭和5年海軍軍令部次長、同11年3月ら12年2月まで広田内閣の海軍大臣、同12年連合艦隊司令長官、同16年4月から19年2月まで軍令部総長。昭和22年1月急死。
その後  裁判中の1947年、死亡。合祀。

松岡洋右
役職  外相、満鉄総裁。
罪状  国際連盟爽快の首席全権となり、1933年、満州国否認の採決に抗議、退場した。第2次世界大戦の外相として1940年、日独伊3国同盟、1941年、日ソ中立条約を締結。日独伊三国同盟締結、日ソ中立条約締結
諾否
履歴  昭和8年国際連盟首席代表、同10年から14年まで満鉄総裁、同15年7月から16年7月まで近衛内閣の外務大臣。1946(昭和21).6.27日、結核により米軍病院から転院を許され、東大病院坂口内科に入院中に病死(享年66歳)。辞世の句は「悔いもなく怨みもなくて行く黄泉(よみじ)」。
その後  裁判中の1946年、死亡。合祀。

【終身禁固刑】
 終身禁固刑者のうち釈放前死亡者は、4名。そのうち、陸軍2名、海軍0、文民2名となっている。

 1、釈放前死亡者
平沼騏一郎
役職  首相、枢密院議長。
罪状  1・27・29・31・32・36。戦争指導者の一人で、1945.4月の重臣会議で、日本は最後まで戦わなければならないと主張した。
諾否  「戦いを欲しなかった」。
履歴  79歳、岡山。大正15年国本社を創設しその総裁となる、昭和5年から11年まで枢密院副議長、同11年から14年まで枢密院議長、同14年1月から8月まで内閣総理大臣、同15年近衛内閣の国務大臣。在任中に日独伊連携を進めた。
その後  服役中の1952年、慶応病院で病死。合祀。

小磯国昭
役職  陸軍大将、朝鮮総督、首相。
罪状  1・27・29・31・32・55。1932ー34年の関東軍参謀長として、満州国に関する諸計画を作成した。対米戦争指導者の一人。
諾否  「私は対米戦回避論者だ」。
履歴  66歳、山形。昭和5年陸軍省軍務局長、同7年から9年まで関東軍参謀長、同10年から11年まで朝鮮軍司令官、同14年平沼内閣の拓務大臣、同15年米内内閣の拓務大臣、同19年7月から20年4月まで総理大臣。
その後  服役中1950年、米軍病院で死去。合祀。

梅津美治郎
役職  陸軍大将、関東軍司令官、陸軍参謀総長。
罪状  1・27・29・31・32。1939ー44年に関東軍司令官として、満州国経営の任に当たった。日中戦争中の関東軍司令官
諾否
履歴  64歳、大分。昭和6年陸軍省軍務局長、同9年支那駐屯軍司令官、同11年3月から13年5月まで広田、林、近衛内閣の陸軍次官、同14年から19年まで関東軍司令官兼駐満大使、同15年陸軍大将、同19年から20年まで参謀総長。
その後  服役中1949年、米軍病院で死去。合祀。

白鳥敏夫
役職  駐イタリア大使。
罪状  1。日独伊防共協定の強化に、大島ベルリン大使と共に協力した。日独伊三国同盟推進
諾否
履歴  59歳、千葉。昭和5年外務省情報部長、同14.9月、駐伊大使、日独伊三国同盟の立役者の一人、同15年外務省顧問、同18年翼賛政治会総務、論文多し。
その後  服役中1949年、米軍病院で病死。合祀。

 2、1955年の仮釈放組

 終身禁固刑者のうち1955年の仮釈放者は12名。そのうち、陸軍7名、海軍2、文民3名となっている。
荒木貞夫
役職  陸軍大将、陸相。
罪状  1・27。1931ー34年、陸相として当時の軍事行動を支持した戦争指導者の一人であったと認定された。
諾否
履歴  69歳、東京。昭和6年12月から同9年7月まで犬養内閣、斉藤内閣の陸軍大臣、昭和13年5月から同14年8月まで近衛内閣及び平沼内閣の文部大臣。陸軍皇道派の中心人物。
その後  1955年、仮釈放。1966年、死去。非合祀。

南次郎
役職  陸軍大将、陸相、朝鮮総督。
罪状  1・27。1934ー36年、関東軍司令官。満州事変時の陸相で、対中戦争の指導者の一人
諾否
履歴  72歳、大分。昭和4年朝鮮軍司令官、同6年4月から12月まで若槻内閣の陸軍大臣、昭和9年から11年まで関東軍司令官、同11年から17年まで朝鮮総督、同17年から20年まで枢密院顧問官。
その後  1954年、仮釈放。1955年、死去。非合祀。

畑俊六
役職  陸軍元帥、陸相、支那派遣軍総司令官。
罪状  1・27・29・31・32・55。1939ー40年、陸相。1年足らずの間に侵略計画の立案と実行に加担した。指揮下の軍隊の残虐行為を見過ごした責任が問われた。
諾否
履歴  67歳、東京。昭和10年航空本部長、同11年から12年まで台湾軍司令官、同12年8月教育総監、同13年中支派遣軍最高司令官、同14年8月から15年1月まで阿部内閣の陸軍大臣、同15年から19年まで中支派遣軍最高司令官。陸相辞任で、非戦派の米内光政内閣を瓦解させた。
その後  1954年、仮釈放。旧陸軍将校らの親睦団体「偕行社会長。1962年、死去。非合祀。

橋本欣五郎
役職  陸軍大佐、大日本赤誠会統領。
罪状  1・27。民主主義者弾圧事件、31年の3月事件、10月事件(いずれも未遂)、1932年、5.15事件への加担、武力による満州占拠を画策、奉天事件計画への加担等々の責任が告発された。
諾否
履歴  56歳、福岡。昭和12年復役して砲兵連隊長となり英艦「レディパード」、「パネー」両号を撃し国際問題を起こす、復員後赤誠会を組織15年大政翼賛会創設者の一人、革新的青年将校の旗頭。クーデターを企画。
その後  1955年、仮釈放。1957年、死去。非合祀。

佐藤賢了
役職  陸軍中将、陸軍省軍務局長。
罪状  1・27・29・31・32。1941年、陸軍軍務課長、1942年、軍務局長。開戦時の陸軍省軍務局軍務課長
諾否
履歴  51歳、石川。昭和16年2月から17年4月まで陸軍省軍務局軍務課長、同16年陸軍少将、同17年4月から19年12月まで陸軍省軍務局長、同20年陸軍中将。
その後  1956年、仮釈放。東急管財社長。1975年、死去。非合祀。

大島浩
役職  陸軍中将、駐独大使。
罪状  1。日独軍事同盟を画策。日独伊三国同盟推進
諾否
履歴  60歳、岐阜。昭和11年ベルリン大使館付武官、同13年10月から20年4月まで駐独大使、日独伊三国同盟の締結に活躍、陸軍中将。
その後  1955年、仮釈放、1975年死去。非合祀。

鈴木貞一
役職  陸軍中将、企画院総裁、無任所大臣。
罪状  1・27・29・31・32。対米戦争開始、遂行の会議に出席、会議の方針を支持した。国家総動員計画を推進
諾否
履歴  58歳、千葉。昭和13年12月から16年4月まで興亜院政務部長、同16年4月から18年10月まで近衛内閣の企画院総裁兼国務大臣、同18年11月から19年9月まで東條内閣の顧問。
その後  1955年、仮釈放、1989年、死去。非合祀。

嶋田繁太郎
役職  海軍大将、海相、軍令部総長。
罪状  1・27・29・31・32。1941年から東条内閣の海相。開戦時の海相
諾否
履歴  63歳、東京。昭和5年連合艦隊参謀長、同10年から12年まで海軍軍令部部長、同12年第二艦隊司令長官、同15年支那方面艦隊司令長官、同16年10月東條内閣の海軍大臣、同19年2月から7月まで海軍軍令部総長。
その後  1955年、仮釈放。1976年、死去。非合祀。

岡敬純
役職  海軍中将、海軍省軍務局長。
罪状  1・27・29・31・32。1940ー44年、開戦時の海軍省軍務局長
諾否  「東条内閣の出現を憂えた」。
履歴  56歳、東京。海軍省軍務局長昭和15年から19まで海軍省軍務局長、同17年海軍中将、同19年小磯内閣の海軍次官、19年9月から20年6月まで鎮海(朝鮮)警備府司令官。
その後  1954年、仮釈放。1973年、死去。非合祀。

木戸幸一
役職  文相、 内相、厚相、内大臣。
罪状  1・27・29・31・32。第一次近衛内閣の文相、平沼内閣の内相、1937ー39年、戦争計画に関与した。1940ー45年、内大臣として昭和天皇の主要な進言者。昭和天皇に東条案を進言
諾否
履歴  57歳、東京。 昭和12年近衛内閣文部大臣、同13年第二次近衛内閣の厚生大臣、同14年平沼内閣の内務大臣、同15年から20年まで内大臣、天皇側近の最高責任者として重臣会議を主宰した。
その後  1955年、仮釈放。1977年、死去。非合祀。

賀屋興宣
役職  蔵相、北支那開発会社総裁。
罪状  1・27・29・31・32。第一次近衛内閣、開戦時の東条内閣の蔵相
諾否
履歴  57歳、広島。昭和12年6月から13年5月まで近衛内閣の大蔵大臣、同14年から16年まで北支開発会社総裁、同16年10月から19年2月まで東條内閣の大蔵大臣。
その後  1955年、仮釈放。自民党衆院議員。池田内閣法相、1977年、死去。非合祀。

星野直樹
役職  満州国総務長官、東条内閣書記官長、企画院参与(総裁)。
罪状  1・27・29・31・32。開戦時の東条内閣の書記官長、企画院参与。
諾否
履歴  54歳、東京。昭和11年12月満州国総務長官、同15年7月から16年4月まで企画院総裁、同16年10月から19年7月まで東条内閣書記官長及び国務大臣。
その後  1955年、仮釈放。ダイヤモンド社会長、東急電鉄顧問。1978年、死去。非合祀。

【量刑禁固刑】
 量刑禁固者は2名。何れも文民。
東郷茂徳
役職  駐独、駐ソ大使、外相。
罪状  1・27・29・31・32。開戦時の東条内閣の外相として、太平洋戦争勃発まで戦争計画、準備に参画した。
諾否  東郷外相と海相嶋田繁太郎は責任のなすりあいで罵倒しあった。
履歴  64歳、 鹿児島。 昭和12年駐独大使、同13年駐ソ大使、同16年10月から17年3月まで東條内閣の外務大臣及び拓務大臣。
判決  禁固20年。
その後  服役中1950年、米軍病院で病死。合祀。

重光 葵
役職  駐英大使、外相。
罪状  27・29・32・32・33・55。1943ー45年、外相。開戦時の東条、小磯内閣の外相
諾否
履歴  59歳、大分。 昭和6年駐華大使、同11年11月から13年11月まで駐ソ大使、同13年から16年6月まで駐英大使、同16年12月から18年4月まで南京政府駐剳大使、同18年4月から19年7月まで東條内閣の外務大臣、同19年7月から20年4月まで小磯内閣の外務大臣兼大東亜大臣。
判決  禁固7年。
その後  1950年、仮釈放。衆院議員。鳩山内閣外相。1957年、死去。

【判決除外】
大川周明
役職  法学博士、国家主義運動家。
罪状  国家改造を目指し、行地社などを結成。1931年の3月事件、1932年の5.15事件に関わり、5.15事件では禁固5年の実刑を受けた。クーデター計画参与
履歴  60歳 山形。大正15年満鉄経済調査局理事長、昭和6年9月18日の奉天事件の立役者の一人。国内革新、大東亜戦争の理論的指導者、多くの著書、論文の筆者。

 ※大川周明については 「こうして日本は侵略国にされた」冨士信夫著 展転社 (1800円+税)参照。
判決  精神異常と診断され裁判除外で免訴。
その後  1948年、釈放。1957年、死去。

(同様資料に「東京裁判の判決一覧あり)
東條英機
土肥原賢二
板垣征四郎
広田弘毅
木村兵太郎
松井石根
武藤章
荒木貞夫
橋本欣五郎
畑俊六
平沼騏一郎
星野直樹
賀屋興宣
木戸幸一
小磯国昭
南次郎
岡敬純
大島浩
佐藤賢了
嶋田繁太郎
白鳥敏夫
鈴木貞一
梅津美治郎
東郷茂徳
重光 葵
大川周明

【判決考】
 判決には様々の問題点がある。
 1つは、ニュルンベルク裁判も東京裁判も「勝者の裁き」であり、検事、判事が勝者側により構成されていたという裁判の公平性に問題が認められる。もしこれが許されるなら、「見せしめ裁判としての活劇」以外の何物でもなかろう。これは歴史の汚点であろう。

 第2に、「平和の罪」、「人道の罪」という事後法で裁くことの不当性が認められる。事後法的理屈で敗者側のみが裁かれるのは、「勝者の裁き」以外の何物でもなかろう。

 第3に、誰を戦犯にするのかの選定に当っての恣意性が見られるということである(「戦犯の恣意性」)。一体、戦犯は政治責任によって裁かれるのか刑事責任によって裁かれるのかの峻別が為されておらず、且つそれらをどう裁くべきかという点で没理論性のままに裁判が強行されていった。これも歴史の汚点であろう。

 第4に、戦闘行為そのものを裁く違法性というのも見られる。ならば戦争そのものを裁けばよいのに、勝者側に深刻な打撃を与えた事件の責任を問うような裁きが許されるものだろうか。

 第5に、上官責任求責の恣意性も認められる。上官が部下の戦争犯罪にどこまで責任を負うべきか、指揮の因果関係が認められない場合にまで認めるのは行き過ぎではなかろうか。

 第6に、他方で、同等の論法を勝者側に向けるなら勝者側にも戦争犯罪が問われねばならぬところ、勝者側の戦争責任及び戦争犯罪は一切免責された。いわゆる「勝者の裁き」と云われる所以である。

 以上のような様々な問題点が認められるというのに、次のように述べることは正論足りえるだろうか。2006.5.1日付毎日新聞の「あの日を今に思う」特集の「1946年5月3日東京裁判開廷(後編)」の書き出し部分に次のように記されている。
 「第人類にとって二次世界大戦は、形式的にせよ、国際社会による初の近代的な戦後処理が為された戦争でもあった。それを象徴しているのがドイツのニュルンベルク裁判と日本の東京裁判という二つの戦争犯罪法廷の開設である。いずれも平和や人道に対する罪、という新たな概念を盛り込んだ。結局は『勝者が敗者を裁く』という基本的な構図は崩せなかった面は強いが、その反省と教訓が、その後も世界各地で続く紛争での戦犯裁判や戦争予防少なからざる影響を与えている。一方で、戦後処理を巡って異なる道をたどった日独は、現在の国際戦犯法廷への関与も異なるものとった」(外信部・小谷守彦)。
(私論.私見) 「小谷記者の迎合観点について」
 筆者は、戦後の戦争犯罪法廷開設の意義を礼賛しようとしているのだろうが、その観点が児戯めいていよう。そのような法廷が開設されることは良いとしても、如何に正しく開設されるべきか、正しく開設されないのなら開設されない場合よりも却って悪質なものになることを告発すべきではなかろうか。従って、平和や人道に対する罪という事後法での裁判は告発されるべきものであり、礼賛されるべきではなかろう。勝者が敗者を裁く構図も然りである。「その反省と教訓が、その後も世界各地で続く紛争での戦犯裁判や戦争予防少なからざる影響を与えている」と冗長に書いているが、史実はそうか。余りにも反故にされており、翻って東京裁判の虚構の構図を告発すべきではなかろうか。そういう意味で、観点が迎合していよう。 
 2006.5.2日 れんだいこ拝

 2006.5.1日付毎日新聞の「あの日を今に思う」特集の「多谷千香子法政大法学部教授の歴史の真相明かす使命」は末尾で次のように記している。
 「国際刑事裁判はまだヨチヨチ歩きの状況だが、万全でないことを非難するのではなく、少しでも前進したことは評価すべきだろう。我々に求められているのは将来に向って育てていくことだ」。
(私論.私見) 「多谷教授の迎合観点について」
 云っている意味は分かるが、「強い者に巻かれろ」では永遠に解決しない。同時に、強い者に巻かれず国際軍事法廷なぞ成立し得るのか原理的に問わなければ意味がなかろう。現に今行われている、米英ユ同盟によるイラクのフセイン政権打倒戦争と云う「世界の護民官戦争」に直ちに異議を唱える精神がなければ、単に云ってみるだけのことでしかなかろう。

 2006.5.2日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評その146 れんだいこ 2006/02/20
 【れんだいこのA級戦犯考】

 A級戦犯につき、妙なことが気にかかり始めたのでこれを記しておく。戦犯とは字義通りに読めば戦争犯罪人の略であるが、この際の基準はどこに置かれていたのあろうか。今確実に読みとれるのは、戦前に於いてユダヤ人問題を集中的に論及していた国際政経学会の関与者が妙に多いということである。これについては、「戦犯容疑者逮捕と東京裁判準備の流れ、ABC級戦犯の別」でも言及しており、「愛宕北山氏のユダヤ問題論考」の「戦前日本のユダヤ問題研究史考」でも考察することにする。

 処刑者7名のうち、板垣征四郎がこれに当る。無期懲役刑の白鳥敏夫、小磯国昭がこれに当る。はっきりするのがこの3名で、残りの者のうち何人かは表には出ないが何らかの形で反ユダヤ主義的立場であったことが推定される。白鳥敏夫、小磯国昭の両名はいずれも服役中に死亡している。禁固20年を宣告された東郷茂徳も服役中に死亡している。いずれも米軍病院で死亡している。「米軍病院で死亡」とあるのみで、死亡経過は伏せられている。こうなると、裁判中に死亡した永野修身、松岡洋右の二名もこの面からの変死が考えられるのではなかろうか。

 国際政経学会の主導者にしてシオンの議定書の和訳本出版者・四王天延孝陸軍中将は逮捕されたもののA級戦犯として起訴する証拠がなく、証拠を捏っち上げることもできなかった為不起訴となった。A級戦犯の死刑判決が執行されたあと釈放された、とのことである。大川同様に論客故に厄介視された可能性がある。

 いずれにせよ、A級戦犯のこの面からの考察に出くわしていない。現在、我が政界与野党に於いては先の大東亜戦争の仕掛け人ないしは責任者としてA級戦犯に罪をなすりつける愚が見せ付けられているが、誉れ高きA級戦犯士は罪を他の者になすりつけるような愚を一部例外を除きしなかったようである。

 児玉とか正力とかはその後シオニスタンになる誓約により命拾いしその後権勢を得て黒幕化し、戦後政治史上ろくでもないことばかりに手を染めている。こういう人物に対する非難は特段に為されていない。れんだいこは、こういうところの歴史の悲哀が分かる者になりたいと思う。

 2006.2.20日 れんだいこ拝
 れんだいこの上記観点に付き、2006.8.11日付け「太田龍・氏の時事寸評bP769」の「東京裁判と、ニュルンベルグ裁判を同時に否定すべきこと」が次のように述べている。(れんだいこ編集)
 日本民族の東京裁判史観否定派が克服すべき問題は多い。しかし、その中のもっとも大なるものの一つは、ニュルンベルグ裁判と、東京裁判とを同時に批判し、否定することである。日本に於て、今のところ、この二つの裁判を同時に批判し、否定して居る潮流は、筆者の主宰する「週刊日本新聞」、のみではないか。他にも、個人としては存在するかも知れないが、筆者は知らない。

 但し、昭和天皇が、松岡洋右に、驚くべき中傷をなしたこと(松岡はヒットラー、ナチスドイツに買収されたのではないか、との趣旨)。そして、にも拘はらず、故松平永芳靖国神社宮司が、いはゆるA級戦犯として、獄中病死した松岡洋右、白鳥敏夫の二人の日独伊三国同盟推進派外交官をも、昭和五十三年、靖国神社に合祀したこと。この事実は光って居る。

 日本人は、今に至るまで、第一次、第二次世界大戦が、ユダヤイルミナティ三百人委員会によって演出された歴史的事実を認めようとしない。東京裁判と、ニュルンベルグ裁判とを切り離してしまうと、日本人は、たとえ、東京裁判を批判し、否定したとしても、本質的には、ユダヤイルミナティサタニスト世界権力の設定した檻の中に閉じ込められたままである。

 しかし、昭和天皇が、敗戦後、日独伊三国同盟に対して、強烈に批判し続けたために、日本人がニュルンベルグ裁判を否定することは、心理的精神的政治的にきはめて困難な状況が作られてしまっている。つまり、日本人が、ニュルンベルグ裁判を否定するためには、昭和天皇を公然明確に批判することが必須となる。

 一九四五年末までには、ナチスドイツ指導者を裁く、ニュルンベルグ裁判が開始され、一年かそこらで判決が出され、そして忽ち、ゲーリング、ゲッペルスらナチス党指導者に対する死刑判決は、執行された。しかし、このナチスドイツ戦犯裁判関与を命じられた、若き米国人法律家のF・P・ヨッキーは、ただちに、この裁判そのものの犯罪性を見抜いた。そして、そのあと、アイルランドにこもって、古典的著作「インペリウム」を出版し(一九四八年)、全人類のもっとも危険な敵と化した、ユダヤに占領されたアメリカ帝国主義打倒の全世界統一戦線の形成のために、全世界を潜行した。このF・P・ヨッキーを、今の今に至るまで、日本人は絶対に知ろうとしない。

 東京裁判は否定するが、ニュルンベルグ裁判は肯定する。これが、多分、現在までの日本の東京裁判否定派の殆んどすべて、と言っても良いのではないのか。このみじめなテイタラクを、超克しなければならないのである。(了)





(私論.私見)