【判決】 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
小林よしのり氏が著書「いわゆるA級戦犯」(幻冬舎、2006.6.30日初版)で各被告の人となりを記している。れんだいこは、他に知らないのでこれを参照しつつれんだいこ流に取り組む。 2006.8.19日 れんだいこ拝 |
【極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決】 |
2年6ヶ月の日時を費やし、開廷423回、法廷証人419人、宣誓口供者779人、当時の金で27億円(日本政府支弁)をかけ検事側と弁護側の激しい応酬が為されたこの裁判は、昭和21.5月、東条英機、松岡洋右以下6名の”戦争犯罪人”にたいする起訴状の朗読から始まり、昭和23.4.15日、最終弁論で審議を終え、11.4日、判決文の朗読が開始され、11.12日の刑の宣告、12.23日の絞首刑執行をもって幕を閉じた。判決文の内容は検察の起訴状を丸写しにしたと思えるほど検察側の主張に沿ったものであった。 A級戦犯として28名が起訴され、このうち松岡洋右と永野修身は公判途中で死亡、大川周明は発狂入院のため、判決を受けたのは25被告であった。判決は、東條元首相以下7名を絞首刑(「デス・バイ・ハンギング」)、16名を無期禁固刑(終身刑)、2人に有期禁固刑となった。絞首刑宣告されたのは、土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章、東條英機の順。終身禁固刑者は、平沼騏一郎、小磯国昭、白鳥敏夫、荒木貞夫、南次郎、畑俊六、橋本欣五郎、佐藤賢了、大島浩、鈴木貞一、嶋田繁太郎、岡敬純、木戸幸一、賀屋興宣、星野直樹。量刑禁固刑者は、東郷茂徳、重光葵。
1948(昭和23).11.13日、日本の新聞は極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決を一斉に報道した。朝日新聞は、一面トップの大見出しで、「戦犯25被告に判決下る/東条、広田ら7名絞首刑」と報道し、二面に「断罪への表情」というキャプションをつけた死刑判決を聞く戦争犯罪者(戦犯)の写真とともに、7名の「被告各個人の罪状」を記した(笠原十九司「南京事件」)。
1948(昭和23).12.23日、以下の7名が刑執行され、絞首刑された。これを見るに、途中死亡者も含め、陸軍6名、海軍1、文民2名となっている。終身禁固刑者のうち釈放前死亡者は、4名。そのうち、陸軍2名、海軍0、文民2名となっている。終身禁固刑者のうち1955年の仮釈放者は12名。そのうち、陸軍7名、海軍2、文民3名となっている。量刑禁固者は2名。何れも文民。 |
【六つに分かれた判決】 | |
法廷で朗読された判決文は、米・英・ソ・中・カナダ・ニュージーランドの6カ国の判事による多数判決である。裁判所(チャーター)条例には少数判決もこれを朗読すべしとあったが、少数意見は朗読されないばかりか、概要の発表すら厳禁された。 パール判事の百万語にもおよぶ浩瀚な法理論の展開と全員無罪の判決はよく知られる所であるが、このほかに前記のオランダ代表のレーリンク判事、フランス代表のベルナール判事、フィリピン代表のハラーニヨ(ジャラニラ)判事、奇妙なことに裁判長のウエッブ(オーストラリア代表)判事までもが、少数意見を発表し、多数意見に全面的な賛意を表さなかった。 ことにフランスのベルナール判事は、この裁判がいかに裁判の名に値しない、最初から仕組まれた虚構であり、政治的ショーにほかならなかったかを暴露してこう述べている。
最後に同判事は、「裁判所が欠陥ある手続きを経て到達した判定は正当なものでありえない」と述べたあと「“平和に対する罪”の起追については、被告に確かに罪があるものと認めるわけにはゆかない」と言いきっている。つまり同判事は、「通例の戦争犯罪の責任範囲についても、ここで審理を受けた被告らは、(松井大将を含め)誰一人として《直接の遂行者》でもなく、その《命令者》でもない。指揮官の地位にあったというだけの理由で、その違反を防ぐことができたかも知れないのに、そうしなかったということで、責任を問い、重刑に処することは反対である」と主張している。締めの言葉として「刑の公正さはあまりにも争いの余地がある」としていた。 |
【東京裁判被告考】 |
A級戦犯として起訴されたのは以下の28名。このうち松岡洋右と永野修身は病死、大川周明は発狂入院のため、判決を受けたのは25被告であった。岸信介、青木一男(元大東亜相)、天羽英二(元外務次官)らA級戦犯容疑者17名が起訴を免れ釈放された。
1948(昭和23).12.23日、以下の7名が刑執行され、絞首刑された。これを見るに、途中死亡者も含め、陸軍6名、海軍1、文民2名となっている。終身禁固刑者のうち釈放前死亡者は、4名。そのうち、陸軍2名、海軍0、文民2名となっている。終身禁固刑者のうち1955年の仮釈放者は12名。そのうち、陸軍7名、海軍2、文民3名となっている。量刑金庫者は2名。何れも文民。 以下、概略を記しておく。 |
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「処刑執行A級戦犯7名」は、それぞれの理由で処刑執行された。ここではその罪の詮索はしない。れんだいこが確認したいのは、この7名はほぼ確実に「敵方スパイではなかった」ことが逆証明されるという歴史的重みである。この観点から論ぜられることが少ないが、それは片手落ちというものであろう。学者的机上学からは生まれない認識であるが、実践上はそういうことになる。 れんだいこは、本来A級戦犯にされるべき人士でリストから漏れた人物の方に興味が有る。この連中こそ獅子身中の虫ではなかろうか。この虫どもが戦後日本に寄生し、再度跋扈していく姿をも捉えねばならないのではなかろうか。 2005.7.17日 れんだいこ拝 |
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「A級戦犯の内訳」を見るのに、圧倒的に陸軍関係が多い。他の要素として、日独伊軍事同盟推進者を中心に処罰されている気配がある。その他要素として、個々の事件の責任を問われている者が有る。これを通覧すれば、かなり政治的な判断が働いていることが分かる。 2005.7.17日 れんだいこ拝 |
【絞首刑】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1948(昭和23).12.23日午前0時、以下の7名が刑執行され、絞首刑された。これを見るに、途中死亡者も含め、陸軍6名、海軍1、文民2名となっている。
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【判決前死亡】 | ||||||||||||||||||||||||||
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【終身禁固刑】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
終身禁固刑者のうち釈放前死亡者は、4名。そのうち、陸軍2名、海軍0、文民2名となっている。 1、釈放前死亡者
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2、1955年の仮釈放組 終身禁固刑者のうち1955年の仮釈放者は12名。そのうち、陸軍7名、海軍2、文民3名となっている。
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【量刑禁固刑】 | ||||||||||||||||||||||||||||||
量刑禁固者は2名。何れも文民。
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【判決除外】 | |
大川周明 | |
役職 | 法学博士、国家主義運動家。 |
罪状 | 国家改造を目指し、行地社などを結成。1931年の3月事件、1932年の5.15事件に関わり、5.15事件では禁固5年の実刑を受けた。クーデター計画参与。 |
履歴 | 60歳 山形。大正15年満鉄経済調査局理事長、昭和6年9月18日の奉天事件の立役者の一人。国内革新、大東亜戦争の理論的指導者、多くの著書、論文の筆者。 ※大川周明については 「こうして日本は侵略国にされた」冨士信夫著 展転社 (1800円+税)参照。 |
判決 | 精神異常と診断され裁判除外で免訴。 |
その後 | 1948年、釈放。1957年、死去。 |
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【判決考】 | ||||||
判決には様々の問題点がある。 1つは、ニュルンベルク裁判も東京裁判も「勝者の裁き」であり、検事、判事が勝者側により構成されていたという裁判の公平性に問題が認められる。もしこれが許されるなら、「見せしめ裁判としての活劇」以外の何物でもなかろう。これは歴史の汚点であろう。 第2に、「平和の罪」、「人道の罪」という事後法で裁くことの不当性が認められる。事後法的理屈で敗者側のみが裁かれるのは、「勝者の裁き」以外の何物でもなかろう。 第3に、誰を戦犯にするのかの選定に当っての恣意性が見られるということである(「戦犯の恣意性」)。一体、戦犯は政治責任によって裁かれるのか刑事責任によって裁かれるのかの峻別が為されておらず、且つそれらをどう裁くべきかという点で没理論性のままに裁判が強行されていった。これも歴史の汚点であろう。 第4に、戦闘行為そのものを裁く違法性というのも見られる。ならば戦争そのものを裁けばよいのに、勝者側に深刻な打撃を与えた事件の責任を問うような裁きが許されるものだろうか。 第5に、上官責任求責の恣意性も認められる。上官が部下の戦争犯罪にどこまで責任を負うべきか、指揮の因果関係が認められない場合にまで認めるのは行き過ぎではなかろうか。 第6に、他方で、同等の論法を勝者側に向けるなら勝者側にも戦争犯罪が問われねばならぬところ、勝者側の戦争責任及び戦争犯罪は一切免責された。いわゆる「勝者の裁き」と云われる所以である。 以上のような様々な問題点が認められるというのに、次のように述べることは正論足りえるだろうか。2006.5.1日付毎日新聞の「あの日を今に思う」特集の「1946年5月3日東京裁判開廷(後編)」の書き出し部分に次のように記されている。
2006.5.1日付毎日新聞の「あの日を今に思う」特集の「多谷千香子法政大法学部教授の歴史の真相明かす使命」は末尾で次のように記している。
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Re:れんだいこのカンテラ時評その146 | れんだいこ | 2006/02/20 | |
【れんだいこのA級戦犯考】
A級戦犯につき、妙なことが気にかかり始めたのでこれを記しておく。戦犯とは字義通りに読めば戦争犯罪人の略であるが、この際の基準はどこに置かれていたのあろうか。今確実に読みとれるのは、戦前に於いてユダヤ人問題を集中的に論及していた国際政経学会の関与者が妙に多いということである。これについては、「戦犯容疑者逮捕と東京裁判準備の流れ、ABC級戦犯の別」でも言及しており、「愛宕北山氏のユダヤ問題論考」の「戦前日本のユダヤ問題研究史考」でも考察することにする。 処刑者7名のうち、板垣征四郎がこれに当る。無期懲役刑の白鳥敏夫、小磯国昭がこれに当る。はっきりするのがこの3名で、残りの者のうち何人かは表には出ないが何らかの形で反ユダヤ主義的立場であったことが推定される。白鳥敏夫、小磯国昭の両名はいずれも服役中に死亡している。禁固20年を宣告された東郷茂徳も服役中に死亡している。いずれも米軍病院で死亡している。「米軍病院で死亡」とあるのみで、死亡経過は伏せられている。こうなると、裁判中に死亡した永野修身、松岡洋右の二名もこの面からの変死が考えられるのではなかろうか。 国際政経学会の主導者にしてシオンの議定書の和訳本出版者・四王天延孝陸軍中将は逮捕されたもののA級戦犯として起訴する証拠がなく、証拠を捏っち上げることもできなかった為不起訴となった。A級戦犯の死刑判決が執行されたあと釈放された、とのことである。大川同様に論客故に厄介視された可能性がある。 いずれにせよ、A級戦犯のこの面からの考察に出くわしていない。現在、我が政界与野党に於いては先の大東亜戦争の仕掛け人ないしは責任者としてA級戦犯に罪をなすりつける愚が見せ付けられているが、誉れ高きA級戦犯士は罪を他の者になすりつけるような愚を一部例外を除きしなかったようである。 児玉とか正力とかはその後シオニスタンになる誓約により命拾いしその後権勢を得て黒幕化し、戦後政治史上ろくでもないことばかりに手を染めている。こういう人物に対する非難は特段に為されていない。れんだいこは、こういうところの歴史の悲哀が分かる者になりたいと思う。 2006.2.20日 れんだいこ拝 |
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れんだいこの上記観点に付き、2006.8.11日付け「太田龍・氏の時事寸評bP769」の「東京裁判と、ニュルンベルグ裁判を同時に否定すべきこと」が次のように述べている。(れんだいこ編集)
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