知覧物語



 更新日/2024(平成31.5.1日より栄和改元/栄和6).1.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「知覧物語」について検証しておく。

 2006.3.2日 れんだいこ拝


【第48振武隊/中島豊蔵 軍曹(20歳)】
 第48振武隊/中島豊蔵 軍曹(20歳)/少飛12期/6月3日戦死/愛知県豊橋市出身  

 第48振武隊は昭和20年3月29日に明野教導飛行師団にて編成され、山口県の防府飛行場で一式戦に乗り込み、日本のみならず朝鮮・台湾・満州などで特攻訓練を行ってきた。
中島豊蔵軍曹の事は「ホタル帰る」でも取りあげている。トメが可愛がった一人である。中島がトメに初めて会ったのは昭和19年の秋。その時、知覧に滞在したのは10日ほど。中島は毎日のように富屋食堂に来てトメと親しくなり、トメも実の息子のように中島を可愛がった。しばらく知覧を離れていた中島は5月28日に予定されている第九次航空総攻撃に加わるため25日に知覧に再来した。軍事用トラックで移動中に富屋食堂の前を通りかかった時、トメを見かけ、懐かしさのあまり走行中のトラックから飛び降りてバランスを崩し、転がり落ちて左腕をケガした。そのケガは予想以上にひどく、後日富屋食堂に来た中島は真っ白な包帯を首から腕を吊りまだ治療中だった。トメが「しっかり治してから出撃をしなさい」と言うと、「大丈夫、命令が出ればいつでも行きます」と答えた。6月2日昼ごろ、中島が富屋食堂に来た。ケガのため軍の風呂には入れず梅雨の季節で汗臭かった。トメは中島を可愛そうに思い、富屋食堂の風呂を沸かし風呂に入れてあげた。中島の背中をトメが流しながら、「中島さん出撃は何時頃ですか?」、「明日にも命令が出るかもわかりませんよ」、「そんな手じゃ操縦も出来ないでしょう、手が良くなってから出撃しなさいね」といくら言っても、中島は「日本が勝つためには自分が一刻も早く行かなければなりません」と答えた。その少年飛行兵の固い決意の言葉を聞いたトメは涙をこらえ切れなかった。「小母ちゃん泣いているのか」、「ちょっとお腹が痛いのよ」と嘘をついた。「お腹が痛いのかい、涙が出るほど痛いのかい、それは良くないぞ、俺の事など構わないで座敷に戻って寝てくれよ」。そのいたわりの言葉にトメはいっそう涙が溢れた。これから死にに行くのに私の心配をしてくれる、この子達の心はすでに神様になっているんだろうね、とその時トメは思った。

 中島軍曹は、翌6月3日出撃し不自由な左腕を自転車のチューブで無理やり操縦桿に縛りつけ出撃して行った。まさに闘魂の出撃となった。その様子を見ていた整備兵がトメに伝え、トメは富屋食堂の奥で崩れる様に泣いた、と云う。
 仰ぎ見る 富嶽の重さよ 我が勤 苦心を重ねて 死して果さむ  
 少飛十二期 中島軍曹
 知覧特攻の母 鳥濱トメ  孫 赤羽 潤より

【歌手・淡谷のり子の知覧物語】
 NHK・朝の連続テレビ小説「ブギウギ」で歌手・淡谷のり子の有名なエピソードが放送された。このドラマで、太平洋戦争中、淡谷をモデルにした歌手が、特攻隊員たちの前で『別れのブルース』を歌ったが、このシーンは、淡谷が実際に体験したことだった。太平洋戦争末期、鹿児島の知覧に慰問に行った淡谷は、隊員たちからリクエストされた『別れのブルース』を歌った。ところが、歌っている途中に出撃命令が出た特攻隊員たちがサっと立ち上がり、淡谷の方を向いて、ニコニコ笑いながら敬礼をして出て行った、と云う。テレビ番組「徹子の部屋」で、淡谷はこう証言している。「特攻隊の慰問にいったときのこと。白鉢巻をした兵隊さんがいっぱいいるんですよ。ちょっと横を向いたら2~30人もいたでしょうか。中には子供みたいな兵隊さんもいるんですよ。まだ15~6歳ぐらいの。だから私、係りの人に聞いたんです。そしたら、『はい、特攻隊員で平均年齢16歳です。命令がくれば飛びますよ!』って。私たちがこうしているのも、彼らのおかげなの…。もう泣けて泣けて歌を続ける事が出来なかったの…。あんな子供さん達が笑って私に敬礼をして出ていったの…」。 しかし、なぜ、特攻隊員たちは笑顔で出撃したのか? 元特攻隊員は次のように語っている。「国が負けかかっているときに、俺たちがやらんで誰がやるか。やらなきゃいかんのです。そうしなければ国が滅亡する」、「自分が死ななければ日本は救われないと信じている者もたくさんいた。私も『国のため、肉親のために死ねる』という満足感があった」。ところが、終戦後、アメリカが日本を占領すると、日本のことを一番に考える日本人は少なくなってしまつった。しかも、アメリカに楯突く政治家や官僚は日本から姿を消し、日本の国民よりもアメリカに寄り添う政治家や官僚が増え始めた。






(私論.私見)