大陸打通作戦



 更新日/2024(平成31→5.1日より栄和改元/栄和6).8.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「大陸打通作戦」について検証しておく。

 2024(栄和6).8.17日 れんだいこ拝


【大陸打通作戦】
 2012.10.12日、「FB千坂恭二」。
 ●大陸打通作戦: 大阪の部隊とアメリカ

 アメリカの情報収集力は、到底、日本の比ではないことは改めて言うまでもないだろう。その些細な片鱗とでもいうべきものにチラリと接したことがある。それは昭和19年(1944年)の中国大陸における日本陸軍始まって以来の大作戦といわれた大陸打通作戦における大阪の独立歩兵大隊に関する話だ。大阪の部隊というと日露戦争の時の「8連隊」と「またも負けたか8連隊」とその軟弱ぶりがユーモアと皮肉を交えて現代でも語られることが多い。そして大阪に限らず、東京、京都、名古屋など都市の連隊は、東北や九州など地方の連隊に比べて軟弱で弱いことも語られ続けている。確かにそういう面はあるだろう。

 しかし、そこには現代風にいえば都市伝説にすぎない側面もあることも否定出来ない。そしてそれを証した一例として上記の大阪の独立歩兵第115大隊がある。
この大隊は、大陸打通作戦の前半の湘珪作戦において衡陽で米軍の支援により最新式の装備で強大なトーチカに立て籠もる中国軍の攻略にかかった。この大隊の戦闘記録係でもあった機関銃中隊の元曹長の方の記した文書を読ませてもらったが、「昭和の203高地」(伊藤正徳)とも徒名された衡陽攻防戦は言語を絶する凄惨なものだった。丘の上にある中国軍のトーチカめがけて日本軍は突撃をするのだが、トーチカからの激しい機銃掃射のために、丘はたちまちにして日本兵の死体の山となった。大阪の独立歩兵大隊は約1500名ほどの部隊だが、半時間ほどで500名の兵員を失い、さらに数分後には300名以下にまでなるという苦戦ぶりだった。指揮下の兵を喪失した小隊長クラスの士官たちも、一団となった「将校突撃」で戦死した。一方、中国側も大阪の部隊の「死神をもおそれぬ戦いぶり」(中国側の指揮官で戦後、台湾の陸軍中将になった方先覚の言葉)にそれ相応の損害を受けており、日本側に降伏を申し入れてきた。その時、大阪の独立歩兵大隊は100名以下になっており、事実上、部隊として壊滅した大阪の部隊と交代すべく新手の熊本の部隊が布陣していた。熊本の部隊が中国軍の降伏を受け入れようとすると中国軍指揮官の方先覚は、「我々は、戦った部隊に降伏したい」と言い、熊本の部隊による収容を拒否し、もはや部隊の態をなしていないまでに壊滅した大阪の部隊に正式に降伏を申し入れてきたのだった。

 その後、この大阪の独立歩兵大隊は再編され、昭和20年(1945年)には、中国南部の「芷江」にあったアメリカ空軍の基地を破壊し制圧する目的の芷江作戦に出撃した。ところが細長い山狭を進んでいる時にアメリカ空軍の、現代風にいえばナパーム弾的攻撃に遭遇し、辺りは阿鼻叫喚の地獄となり部隊は四散した。チリヂリになった部隊は、それぞれに最新装備の中国軍の包囲下に置かれ、日本軍の伝統では全滅以外に方途はなかった。しかし、生き残った最上位士官で中隊長の小笠原大尉は、かろうじて使用しえた無線で、中国軍に包囲されて点在している残存部隊に、各個、包囲を突破して師団本部に戻り、作戦の推移を報告せよ、と命じたのだった。これは実は、生きて帰れという、日本軍にはあってはならない退却命令にも等しいものだった。しかし、この命令のおかげで部隊の生き残りの人たちは、中国軍の包囲を突破し、全滅することなく敗戦を迎え、日本に帰還し、戦後を生き残ることが出来たのであり、歩兵砲中隊にいた私の父もその一人だった。

 ところが、戦後、この時の小笠原大尉の命令が問題となったらしい。防衛庁の戦史部による芷江作戦の記述には、小笠原大尉の判断は命令違反であるとする批判と、アメリカ軍の攻撃で四散したこの部隊のサバイバルを軍規違反であり、あってはならない退却であったと記してあったのだった。戦後になってもこのような認識に基づく記述がなされていることに驚くが、これに対して冒頭で述べた大隊の記録係の機関銃中隊の元曹長は、防衛庁を相手に「戦友たちの名誉のために」、戦史記述の訂正をめぐっての喧嘩を始めたのだった。なぜ防衛庁編纂の戦史に現場の部隊に対する露骨な批判的記述があったのかというと、この作戦を立案した参謀や本部で誤った指揮をした旅団長たちが、この戦史記述に関係し、自分達の責任を回避するために部隊壊滅の責任を現場の指揮官に押しつけ、また部隊の動きについても否定的な記述をしたとのことだった。この時、私が感心したのは、元曹長の防衛庁との喧嘩ぶりだった。元曹長は証拠資料の提出が、防衛庁による資料の隠匿にならぬよう細心の注意を払った対応をしていたのだ。私はそこに前線のベテランの下士官の、いわば職人的な強者ぶりの一端を見たような気がしたものだった。

 長々と書いてきたが、冒頭の話に戻ると、この元曹長は、防衛庁編纂の戦史に対抗すべく、自身の手で、当時の戦闘記録に基づいた大隊戦史を書き、自費出版していたのである。それは目立たない、ほとんど自分用のつつましい自費出版の印刷物にすぎなかった。ところが、どこでそのようなものがあることを知ったのか、アメリカの国防省の戦史関係部門から正式に購入の連絡が来たのだった。アメリカは戦後も何十年も経っているのに日本軍の一大隊の、それも私製のささやかな戦史をも資料として収集しているのである。防衛庁の姿勢と比べて、その元曹長は、日本がアメリカに負けた理由が実感としてよく分かると、夏の暑い日、大隊の慰霊祭として訪れた靖国神社で私に話してくれたのだった。


 ※ 話を付け加えると小笠原大尉は横笛の名手でもあったらしく、芷江作戦で指揮下の部隊が小隊や分隊単位で中国軍に各個包囲された時、手元にあった横笛を吹いた。明かり一つ無い闇夜で散り散りになり、息を潜めていた部隊の兵士たちは、その聞き覚えのある笛の音に「中隊長殿の無事だ」と確認し、士気を維持したとのことだった。また機関銃中隊の元曹長の能勢の自宅を訪ねたことがあったが、この戦後は農業を営んでいた元曹長は自宅の庭に、芷江作戦の地の方に向けた私設の慰霊碑を建てていた。この元曹長が指揮した機関銃中隊の残存部隊の包囲突破と退却戦は、中国軍の武器の種類から、中国軍の射撃が終わった後、彼らの弾の補充に何秒かかるかを瞬間的に判断し、その数秒間に移動するとか、部隊が前進する時の序列は、残存して保持している使用可能な武器の種類に応じて編成するというリアルで冷静な現場の判断に基づいたもので、現場の戦闘はこのようにやるのかと思うほどのものだった。

 芷江作戦を生き残った父親からも、阿鼻叫喚の戦場から如何に生き延びたのかという話を、歩きながら寝るコツなど、まだ父親が生きていた頃に少し聞いたことがあった。父親の片方の耳は下半分が、敵弾により無くなっており、腕にも弾の跡があったが、戦後は中国の残り馬賊にでもなろうかと思ったというやんちゃな父親からは、戦争に対する否定的な感想は聞いたことがなかった。父親は1969年の東大安田講堂戦の時に、昼間から帰宅し、中継のテレビ放送を興味深く見ていたが、ひとこと、立てこもっている全共闘の学生たちについて「彼らの兵站はどうなっているのか」と元軍人的な感想を口にしたことを覚えている。兵站とはいまでもなく補給体制のことだが、父親はそこに戦後世代における戦闘行為の伝承を見ていたのかもしれず、またかつての日本軍の兵站の不十分さや崩壊ぶりを連想していたのかもしれない。






(私論.私見)