要塞化された詩情豊かな島
これほど美しい島の名が、他にあるだろうか。島はそもそも帝都に属しており、旧かなづかいでは、 ―いわうたう。 と、表記された。岩が歌っているのである。もちろん、命名の基は明治22年(1889)から採掘が始められた硫黄で、島の表面はあらかた硫黄の堆積物に蔽われている。すなわち火山島であり、摺鉢山という火砕丘をもつこの島は、いつなんどき、爆発してもおかしくない。実際、島が東京府小笠原支庁硫黄島村と制定された昭和15年(1940)にも、水蒸気爆発が見られた。また全体に地温が高く、多くの噴気地帯や硫気孔がある。海岸段丘や断層崖も少なくなく、現在も活発な隆起が続いている。つまり、活きているのである。岩が歌っているというのはそういうことで、詩情豊かな掛け詞になっているといっていい。
そんな帝都最南端の島に第一〇九師団長に親補された栗林忠道中将が進出したのは、昭和19年(1944)6月8日のことである。栗林が最初にしたことは、師団司令部を父島に置くべきという周囲の意見を退け、直接に指揮の執れる硫黄島に設置したことだった。理由は「小笠原諸島中、硫黄島には最良の飛行場があり、最も重要な戦略的価値を有する。敵の攻撃目標も硫黄島であろう」というもので、極めて明快である。 また栗林は、進出後速やかに島内の視察を行ない、ひとつの結論に達した。 水際配備のみでなく、縦深配備が必要という結論だった。おなじ頃、大本営もまた「優勢なる敵の砲爆撃下に於て過早に兵力を水際に配置し敵上陸に先立ち半身不随に陥るが如きは大いに考慮を要す。寧ろ敵上陸の当夜其の橋頭堡固からざるにあたり計画統一ある夜襲を以て一挙に敵を撃破するを可かとせずや」と指導し、小笠原及び硫黄島方面が本土防衛の外殻地帯として極めて重要な戦略的地位を占めるようになってきたことから「小笠原地区集団を小笠原兵団として七月一日零時以降大本営直属とする」戦闘序列を令した。 これらにより、栗林は小笠原兵団長となって島の防備計画を変更することとした。 すなわち「摺鉢山、元山地区に強固な複郭拠点を編成し持久を図ると共に強力な予備隊を保有し、敵来攻の場合、一旦上陸を許し、敵が第一(千鳥)飛行場に進出後、出撃してこれを海正面に圧迫撃滅する」という構想だった。
だが、上陸した敵の目をかいくぐって邀撃を行なうには、島を縦横に駈け巡るための連絡路が必要となる。路は最後の最後まで米軍に遮断されてはならない。果たしてそんな路が存在するかといえば、あった。地下である。それも陣地の地下10メートル附近を貫通する洞窟式交通路で、昭和19年12月下旬から準備が、翌年1月下旬から構築作業が始められた。 たった5トンしかないダイナマイトの他はすべて人力で、ツルハシを揮い、スコップで掘り、モッコで運ぶのである。しかも通常の土地と違い、硫黄に蔽われたこの島は至るところからガスを発生させ、ときに洞窟内に充満する。このガスと焦熱のため、掘削作業は遅々として進まず、防毒マスクのない兵たちが作業する場合など、3分交代でツルハシを揮わなければならない過酷さだった。 この洞窟式交通路は建設途中で米軍の上陸を迎えてしまったために予定の6割しか完成しなかったが、それでも総延長で18キロメートルという想像を絶する長さまで掘り進められた。しかも、実質作業はおよそ1カ月というから、島にあった陸海軍の将兵ことごとくが手を携えたにせよ、その作業能力は人間ばなれしている。全島を要塞化しようとした栗林以下の精神力の凄まじさを如実に物語るといっていいが、この連絡通路は実戦においても大いに威力を発揮した。
米軍は、硫黄島の攻略日とした2月19日までの74日間で、第七空軍のB-24を中核とした爆撃編隊を投入し、約2700個6800トンに及ぶ爆弾を投下した。さらに大西洋から回航させた戦艦も加えて2月16日から3日間もの艦砲射撃を続行した。それは、島そのものが軍事地図から姿を消してしまうほどの凄まじさだった。実際、ホランド・スミス海兵隊中将は一本の草木も無くなってしまった島の表面を眺めて「ダンテの神曲の挿絵のようだ」とも歎息した。だが、これだけの攻撃を受けても、地下洞窟はびくともしなかったのである。
日本軍はこの人工洞窟を縦横に利用し、破壊された陣地を次々に復旧させた。爆撃当初に450を数えていた陣地が、攻略予定日には750カ所に増えていることが、その証である。
この防備力の凄さに、ホランド・スミスは心底から慄えあがり「米軍の砲爆撃は硫黄島には通用しないのではないか」と恐れ慄き、従軍していた記者に「わが軍の被害は2万を超えるかもしれない」と洩らした。
ロス五輪のメダリストたち
これだけの地下洞窟を構築した栗林の指導力は想像して余りあるが、栗林には文人将軍としての一面もある。妻子と交わした膨大な数の手紙も、玉斧を乞うた辞世の句などが見られる電文や訓示なども、そうした資質を色濃く伝えているが、出色といえるのが歌である。昭和14年(1939)に発表された『愛馬進軍歌』や翌年の『暁に祈る』が、それだ。前者は、当時陸軍省兵務局馬政課長だった栗林が「愛馬の日」に発表する歌を全国から募集し、北原白秋、西條八十、土井晩翠、斎藤茂吉などの詩人や、古関裕而、山田耕筰、中山晋平らの作曲家とともに選定したものだが、栗林自らが添削を行ない、久保井信夫の歌詞に「とった手綱に血が通う」という部分を補ったとも伝えられる。また後者は、陸軍馬政局が愛馬思想普及のために松竹で映画『暁に祈る』を制作することになった折、その主題歌となった。このとき、陸軍馬政課長だった栗林は作詞者の野村俊夫に実に7回もの書き直しを命じた。野村にしてみれば大変な労作となったが、栗林の拘りの賜物か津々浦々まで知れ渡る大ヒットとなった。右は馬を愛した栗林らしい逸話といっていいが、馬繋がりともいうべきひとりの佐官がいる。満洲は牡丹江から戦車第26聯隊を率いて異動してきた西竹一である。元枢密顧問官の西徳二郎の三男。庶子であったが、11歳の時に父が他界したことで男爵家を継いだ。馬術家でもあった西には、別な名がある。その家柄から、「バロン西」と呼ばれた。もっとも、そう呼んだのは米国人で、西が昭和7年(1932)に催されたロサンゼルス五輪の馬術大障害競技で、見事に金メダルの栄冠に輝いたことによる。西は愛馬ウラヌスを馬事公苑に遺して鋼鉄の馬に乗りこみ、硫黄島で奮戦した。西の率いる戦車聯隊は、350メートル四方を敵に包囲されながらも尚、死闘を続行。ときに戦車を土中に埋めて砲塔とし、ときに擱座した米軍の戦車を奪いとって砲撃を繰り返した。しかし、絶体絶命の窮地に追いこまれ、北部の本隊に合流しようとした際、無念の致命傷を負ったために自決している。
この西とともにロス五輪に出場し、水泳の100メートル自由形で五輪のタイ記録を叩き出し、銀メダリストとなった青年がいる。江田島出身で、五輪当時は慶應大学の法学部に在籍していた河石達吾という。河石は五輪出場の翌年、江田島の海軍兵学校で水泳の指導にあたり、大学を卒業してからは電力会社に勤めたが、二度にわたって召集された。二度目に配属されたのが独立混成第十七聯隊第三大隊で、階級は中尉だった。当部隊は昭和19年7月7日、小笠原兵団へと配置された。しかも第三大隊の進出した先は、奇しくも西の進出していた硫黄島だった。部署されたのは北地区、つまり栗林司令部の防備が主な任務だった。このため、島内における戦闘では最後まで栗林の身近にいたことになる。ただし、戦没した日時と場所について正確なところはわからない。戦死公報に「三月十七日、硫黄島にて戦死」
とあるだけだった。
硫黄島の激戦~苛酷な持久戦で米軍を戦慄させた気高き男たち
ところで西には、硫黄島での挿話がある。バロン西の名声を惜しんだ米軍がマイクによる投降勧告を行ない、なんとか助命しようとしたというものだが、これについて事実確認はできない。しかしながら、不特定多数に向けた投降勧告は、日本軍が徐々に追いこまれてゆくに従い、毎日のように続けられていたらしい。だが、これに応じるものはいなかった。たとえばゲリラとなって洞窟に潜み、栗林が戦死して島が陥落した2カ月も後の5月12日まで抵抗し続けた小隊がそうである。この部隊は、連日連夜に及ぶ投降勧告にもまったく応ずる気配を見せず、やがて総指揮官のレイモンド・スプルーアンスに対して一通の遺書を打電した。以下に記す。 『閣下の私達に対するご親切なるご好意、まことに感謝感激に堪えません。閣下より戴きました煙草も肉の缶詰も、ありがたく頂戴いたしました。お勧めによる降伏の儀は、日本武士道の慣いとして応ずることはできません。もはや水もなく食もなければ、十三日午前四時を期し、全員自決して天国に参ります。昭和二十年五月十三日。日本陸軍中尉浅田真二。スプルアンス提督殿』 凛とした名文といっていい。
また、いまひとり硫黄島に散華した海軍少将が、あたかも岩が歌うような手紙を遺している。手紙の宛先は、 米大統領ルーズベルト。題名は『ルーズベルトニ与フル書』である。日文・英文ともに書き記したのは市丸利之助といい、硫黄島の海軍部隊を指揮していた。共通の趣味をもっている栗林とは、陣中において和歌のかけあいをして時を過ごしたこともあった。 市丸はその若き日、操縦していた練習機が墜落し、瀕死の重傷を負った。以来、操縦士として飛ぶことは叶わず、桜の杖とともに軍人の道を歩んできたが、一機の飛行機もない硫黄島において陸戦を指揮し、そして散った。書を認めたのは散るまさに寸前のことである。 『日本海軍市丸海軍少将、書をフランクリン・ルーズベルト君に致す。我今我が戦ひを終るにあたり一言貴下に告ぐる所あらんとす』 という米大統領を名指した出だしから、 『貴下は真珠湾の不意打ちを以て対日戦争唯一宣伝資料となすと雖も日本をして其の自滅より免るゝため此の挙に出づる外なき窮境に迄追ひ詰めたる諸種の情勢は貴下の最もよく熟知しある所と思考す』 と、いう喝破を経、 『大東亜共栄圏の存在は毫も卿等の存在を脅威せず却って世界平和の一翼として世界人類の安寧幸福を保障するものにして日本天皇の真意全く此の外に出づるなきを理解するの雅量あらんことを希望して止まざるものなり」 と、意見を開陳し、 『卿等今世界制覇の野望一応将に成らんとす。卿等の得意思ふべし。然れども君が先輩ウイルソン大統領は其の得意の絶頂に於て失脚せり。願くば本職言外の意を汲んで其の轍を踏む勿れ』 と、結んだ。 この書は、昭和20年7月11日になってようやく米国内の各新聞に掲載され、大々的に報じられた。新聞の中には「ルーズベルトは日本の提督の書簡で叱責された」と報ずるものまで現われた。厭戦気分に包まれている米国市民に大いに受け入れられたであろうことは充分、想像できる。 しかしながら栗林といい、西といい、河石といい、浅田といい、さらにこの市丸といい、沖天に衝きあげるような魂の昂ぶりと、おのが死を見据える冷厳きわまりない心境はどうだろう。これについて、筆者は批評する言葉を見つけられない。