「きけわだつみの声」の編集問題考



 (最新見直し2013.02.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦没学生の手記を編集した「きけわだつみの声」が原文をかなり改竄していることが問題になっている。これを検証しておく。

 2008.12.15日 れんだいこ拝


【「きけわだつみの声」の編集問題考】
 「特別寄稿 日本戦没学生の思想(上)――『新版・きけわだつみのこえ』の致命的欠陥について 岡田 裕之」その他を参照する。

 1949年、日本戦没学生の遺した手記(日記,手紙,詩歌など)から日本戦没学生手記編集委員会が編集し,東大協同組合出版部より「きけわだつみのこえ」が刊行された。後に新版が出版されたことにより、これを旧版という。同書は、大東亜戦争に殉じた戦没学生の手記を編集したものであり、学徒兵の心情と信条を知る貴重な記録となっている。時代の不条理を受け止め、若い命を聖戦に捧げる極限の苦悩が伝えられている。

 「きけわだつみのこえ」は1947年の 南原繁「戦歿学生にささぐ」、「はるかなる山河に」(東京大学協同組合出版部)と共に読まれてきた。それは、戦後の反戦平和思想のメンタリティーともなった。

 ところが、「占領下検閲による原遺稿の改竄問題」が確認されている。旧版の絶版と新版の刊行が、旧版における佐々木、高木手記を始めとする原稿の「改竄疑惑」が生れている。佐々木八郎氏の「青春の遺書」の稿における改竄は、有名な宮沢賢治の烏の北斗七星に寄せたエッセイ「“愛”と“戦”と“死”」の中にあった。問題の箇所は206頁のところである。
 「しかし僕の気持はもっとヒューマニスティックなもの,宮沢賢治の烏と同じようなものなのだ。憎まないでいいものを憎みたくない,そんな気持なのだ。正直な所,軍の指導者たちの言う事は単なる民衆煽動の為の空念仏としてしか響かないのだ」

 ここで「軍の指導者たちの言う事」とあるところは、原遺稿では「暴米暴英撃滅とか,十億の民の解放とか言う事」とある。謄写稿は原遺稿どおりだが、筆写稿(最終編集稿)で「暴米暴英…」のところに編集部の赤線削除が入り、それが「軍の指導者たちの言う事」と書き変えられている。

 高木孜の場合の問題の箇所は432頁のところである。
「ソ連兵来るの噂とぶ。駆逐艦興南入港の噂入る」

 謄写稿では「ソ連兵来るの噂とぶ。ゲーペーウー潜入,駆逐艦興南入港の噂入る」とあり、筆写稿で「ゲーペーウー潜入」が赤線で抹消されている。高木の原遺稿は失われている。両者ともに原遺稿の改竄であるのはまちがいない。これは占領終了とともに50年代に訂正しておくべきだった。新版はこの二つの明瞭な改竄を放置し継承している。

  新版の193頁も問題の個所である。
 「ジョン・モリスの講演を聴きに出る。ヒマラヤの天候,チベット高原の高気圧よりの風のこと,酸素技師のこと,気象学のこと,チベット族のこと,あるいは高所における人間の働き等,興味津々。彼等の山への情熱が徒に形而上的に走らず,極めて科学的である点,学ぶべき所が多かった」

 原文はこうである。
 「ジョン・モリスの講演を聴きに出る。ヒマラヤの天候,チベット高原の高気圧よりの風のこと,酸素ボンベの操作法のこと,高地気候への適応のこと,チベット族のこと,あるいは高所における人間の働き等,興味津々たり。また僕が早速彼に尋ねたことだったが,彼等の山そのものへの情熱が単に形而上学等に逃げずに,システマティックであり,科学研究を高所において行うこと等学ぶべきは実に多かった」。

 何の為にこのような改竄をするのだろうか。佐々木はモリスに質問しているのであってただの聴衆ではない。中村と佐々木は友人同士なのだが,この二人は佐々木日記によれば同年5月29日,モリスを自宅に訪問している。これが流れである云々。

 れんだいこも質したい。原文の改竄を誰が何の為に何の権限で行っているのだろうか。れんだいこは、れんだいこ文法に則り現代文に書き換えることがある。それは読み易くする為であって原文の内容変更に手を染めることはない。内容変更は御法度と心得るからである。こたび「きけわだつみのこえ」ともあろうものが改竄していることが分かったが、日本戦没学生手記編集委員会の編集責任者、東大協同組合出版部は明確に弁明せねばなるまい。

 れんだいこが思うに、特攻隊員の遺書は時代に慟哭して記されているものである。衷心から書かれているものである。それを後の時代の基準でご都合主義的に書き換えるなぞ許されることだろうか。責任者よ答えて見よ。

 2008.12.15日 2013.2.27日再編集 れんだいこ拝

【「きけわだつみの声」の出版経緯考】
 「きけ わだつみのこえ」は、大東亜戦争末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集である。1947(昭和22)年、東京大学戦没学徒兵の手記集「はるかなる山河に」が東京大学協同組合出版部により編集され出版された。続いて、1949(昭和24).10.20日、東大協同組合出版部(現東大出版会)より「きけ わだつみのこえ」初版が出版された。BC級戦犯として死刑に処された学徒兵の遺書も掲載されている。編集顧問の主任は医師、そして戦没学徒の遺族である中村克郎をはじめ、あとの編集委員として渡辺一夫・真下信一・小田切秀雄・桜井恒次が関わった。1963(昭和38)年、続編として「戦没学生の遺書にみる15年戦争」が出版され、1966(昭和41)年、「第2集 きけ わだつみのこえ」に改題された。「きけ わだつみのこえ」の刊行をきっかけとして1950(昭和25).4月22日、日本戦没学生記念会(わだつみ会)が結成された。類似した題名の映画が何本か製作されている。また、この刊行収入を基金にして、戦没学生記念像わだつみ像が製作され、立命館大学で展示されている。
 
 学徒兵の遺稿を出版する際に全国から書名を公募したところ、応募のあった約2千通の中から京都府在住の藤谷多喜雄のものが採用された。応募作は「はてしなきわだつみ」であったが、それに添えて応募用紙に「なげけるか いかれるか/はたもだせるか/きけ はてしなきわだつみのこえ」という短歌を添付した。この歌の「わだつみのこえ」が採用された云々。「わたつみ(わだつみ)」は海神を意味する日本の古語である。







(私論.私見)