履歴



 更新日/2022(平成31.5.1日より栄和改元/栄和4).5.8日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、吉田松陰の履歴を確認しておく。やはり聞くと見るとでは大違いであった。それにしても、マルクス主義系の凡庸な松陰論が目につく。国粋系の松陰論にも納得できないので、市井の松陰論の歪みをも糺しておく。詳論は今後に期すことにする。要点は、松陰は、軍学者の眼で幕末を捉え、日本救国の策を尋ね実践したところに真価がある。前駆的な征韓論も、植民地化されようとする危機に対する東亜共栄圏的発想による対応策の建言であり、明治維新過程のネオシオニズムに容喙された日本帝国主義化の動きとは異なるものとして踏まえねばなるまい。この辺りを雑に理解する松陰論は全く意味がない。というか松陰論の落し込め以外の何ものでもなかろう。れんだいこは、松陰の気概、策略を高く評価しようと思う。松陰の功績は、未だ未完の幕末維新の系譜で捉えられねばならないと思う。「ウィキペディア吉田松陰」、「幕末維新期における自他認識の転回 ――吉田松陰を中心に―― (日本思想史研究会『年報日本思想史』創刊号2002年」その他を参照し、れんだいこ風に書き直す。 

 松蔭をどう評するかについて一言しておく。明治中期の頃、ジャーナリストのさきがけとなった徳富蘇峰は、脱藩や渡海計画によって当時の規制を打ち破って言った革命家として描いた。その後、「教育者・松蔭」を経て、昭和初期から終戦まで、「忠君愛国の代表」として神格化された。今も定まっていない。

 2010.7.19日 れんだいこ拝


【吉田松陰(よしだ しょういん)総評】
 1830(天保元)年-1859(安政6)年(享年30歳)。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎のおくり名にちなんでつけられた。

 幕末最大の思想家。当時一級の知識人にして愛国の士。幕末維新、明治維新に多大な影響を与えた。松蔭は、著作や日記、手紙などを10巻組の全集になるほど豊富に残している。

【幼少期】
 1830(天保元).8.4日、家禄26石の萩藩士(無給通士)杉百合之助、瀧の次男として長門国萩東松本村に生れた。杉大次郎と名付けられる。幼名は寅次郎又は虎之助と云われたとのことである。諱は矩方(のりかた)。松陰には、他家に養子に行き家督を継いでいた吉田大助と玉木文之進という二人の叔父がいた。

 1834(天保5元)年、 6歳の時、学問が出来ることを見込まれて家禄57石余にして長州藩の兵学師範(山鹿流兵学)の血筋の叔父(父の弟)の吉田大助家の仮養子となり、翌年、吉田大助が病死し、吉田松陰が当主となり吉田家の家督を継ぐ。叔父の玉木文之進が吉田松陰の無給教師となる。19歳で独立の師範になるまで兵学を叔父の玉木文之進、林百非、山田字衛門、山田亦介に学ぶ。森田惣七著「吉田松陰の人間観」は次のように記している。
 「松陰は幼少時、当時の武士の教育としての四書五経の学習をしたが、父は特に日本人としての自覚を深めるために、『文政十年の詔』と玉田永教の『神国令』(神国由来)とを教えた。・・・『神国由来』は、 『恭しくおもんみれば大日本国は神の国なり。神の国と申すは、天地開闢の時神顕れまします。是を国常立尊と申し奉る。祭る所伊勢の外宮是なり。此神より七代を過ぎて、伊弉諾(イサナギ)・伊弉冉(イザナミ)尊淡路の国磤馭廬嶋にて、天照大神を御誕生あれまし給うふ。・・・誠に萬世無窮の神の国なり。士農工商是れ神の血脈にあらざるはなし。・・・』とて、日本の歴史の概要を述べ、神国思想を鼓吹した本である。このようにして、松陰は幼少時から、神国思想・尊皇思想を父からたたきこまれていた」。

 この頃の逸話が伝えられている。幼き松陰は、叔父・玉木文之進の講義を受けている時に額の汗を拭ったところ座敷から庭に吹き飛ばされて気絶するほど殴られた。叔父はなぜ殴ったのか、その理由をこう論じた。
 「勉学というのは『公』のために行っているのである。汗を拭うのは『私』のためである。講義中は『私』のことを考えてはならない」。

【長州藩兵学師範期】
 1838(天保9)年、8歳の時、幼き頃から秀才振りを示し、藩校明倫館の見習教授となる。10歳の時、明倫館に出勤し、山鹿流兵学の講義を始める。 

 1840(天保11)年、11歳の時、藩主・毛利敬親の御前で山鹿流兵学の兵書「武教全書」の戦法篇を進講する。松陰の講義は藩主をはじめ居並ぶ重臣たちも目を見張るほどのものであったという。その日から「松本村に天才あり」と松陰(当時:大次郎)の名は萩城下に知れ渡った。これが認められ、藩校明倫館の兵学教授として出仕するようになる。

 1842(天保13)年、 玉木文之進が松下村塾を開く。

 1843(天保14)年、 玉木文之進が官職につくため松下村塾を閉鎖する。

 1845(弘化2)年、山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。

 1848(嘉永元).10月、18歳の時、玉木文之進らの後見人を離れ、藩校・明倫館の独立師範(兵学教授)に就任。長州藩学制改革の意見書を藩主に提出する。

 1849(嘉永2).6月、長州藩内の海岸を巡視する。7月、 桂小五郎が吉田松陰の兵学門下となる。10.1日、桂小五郎が松下塾に入門する。10.10日、城東羽賀台で藩重臣 益田弾正を大将とした実地演習を行う。

【遊学期1、西国遊学】
 この時期までの松陰は、「我が国砲術の精確なる事遠く西洋夷に勝り候」(「水陸戦略」1849(嘉永2)年)と述べており、伝来の山鹿流兵学に絶大な信頼を寄せていた。しかしながら、アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知った松陰は、「西夷銃砲」の威力を知る必要に迫られた。かって「鉅大なる程吾が的になり易く大いに好む所」(「水陸戦略」)と述べていたが、「彼れを知るを以て要と為す」、「外夷を制馭する者は、必ず先ず夷情を洞ふ」とする兵学者の態度で西洋兵学を学ぶために九州遊学を企図する。

 1850(嘉永3)年、20歳の時、5.27日、藩主に講義。8.20日、藩主に「籠城大将の必定の条」を講義。見聞を広めるために藩に九州遊学の希望を申し出、10ケ月の遊学許可が下りることになる。

 同年8.23日、平戸を訪ねて最初の旅に出る(九州を遊歴する)。9.14日、山鹿流兵法学者・葉山佐内(鎧軒・がいけん)と会う。9.18日、山鹿万助と会う。平戸での滞在は50日ほどに及んでいる。この後、長崎を訪れ、12月、熊本(肥後)で同じ山鹿流繫がりで池辺啓太、宮部鼎蔵(みやべていぞう)に会う。宮部鼎蔵とは、国の防衛などについて意気投合。宮部は、松陰より10歳以上年上であったが、生涯の親友となった(後の江戸遊学時に再会、東北旅行にも同行した。宮部鼎蔵は松陰死後、勤皇の大物志士として京都で活躍したが、池田屋事件で新撰組に急襲され自刃した)。12.29日、松本村に帰る。

 この西遊において松陰は、実物の蘭船に乗船しその大きさを知った。それは商船であるにもかかわらず、6門もの砲を構える巨大堅牢な船であり「敵を知り己を知る」必要に迫られることになった。この地で松陰は多くの海外事情書をむさぼるように読んだが、その中でもっとも彼に影響を与えたのがアヘン戦争の実態――清国の徹底的な敗北――を赤裸々に描いた魏源の「聖武記附録」であった。松陰は文中の「徒に中華を侈張するを知り、未だ寰瀛の大なるを観ず」を「佳語」とし、「夫れ外夷を制馭する者は、必ず先ず夷情を洞ふ」べきだとする意見に賛同した。蘭船体験と「聖武記附録」は、日本の古来式の伝統兵法からの出藍を要請せしめた。

 1851(嘉永4).1.15日、吉田松陰 藩主毛利慶親に山鹿流兵学皆伝を授ける。2月12日、藩主毛利慶親に孫子を講義。2月20日、藩に「文武稽古万世不朽」の長文の意見書を上書。

【遊学期2、江戸遊学】
 1851(嘉永4).3.5日、兵学研究のため藩主に従って江戸に向かう。3月18日、湊川で楠木正成の墓に参拝。4月9日、江戸長州桜田藩邸に入る。佐久間象山に師事、入門する。象山からは「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林(小林虎三郎)のみである」と、二人の名前に共通していた「トラ」を引用し「象門の二虎」と褒められている。 6月10日、宮部鼎蔵らと鎌倉に向かう。6月22日、江戸に帰る。

 江戸遊学中の松陰は、「武を学ぶの意」を保ちながらも「学問迚も何一つ出来候事之れなく…方寸錯乱如何ぞや」(「兄杉梅太郎宛」1851(嘉永4)年8月17日)と述べている。歴史と云えば「漢土」の「二十一史」を学び安住する「御藩の人は日本の事に暗し」、「私輩国命を辱むる段汗背に堪へず」と述べており、「未だ及ぶに暇あらず」と新時代の動向を嗅ぎ取るのに余念がなかった。

【遊学期3、東北遊学】
 友人である宮部鼎蔵らと東北遊歴を意欲し、長州藩に東北旅行願い提出する。出発日が近づいたが通行手形が届かず、約束を守る為に通行手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を行う。12.14日、水戸に向かう。来原良蔵が罪を被る。12.19日、水戸に入る。会沢正志斎と面会する。松陰は、「来原良三に復する書」(1852(嘉永5.7月以降の書)で次のように述べている。
 「身皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」。

 松陰が、会沢正志斎との交友で強い愛国義侠心を共振させたことが分かる。

 1852(嘉永5).1.20日、会津、新潟、佐渡、秋田、弘前、青森、盛岡、仙台、米沢、日光、足利、館林などを遊歴するため水戸出発。会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。4.5日、江戸に入る。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。この間、朱子学、陽明学、国学にも通じ、安積艮斎、古賀茶渓、山鹿素水、佐久間象山らに従学し、経学、兵学を学び、剣を藩士平岡弥三兵衛の門下で学んでいる。

【脱藩の咎により士籍剥奪、家禄没収処分される】
 1852(嘉永5).4.18日、江戸出発。5.11日、山口着。5.12日、萩着。12.9日、長州追放罪になる士籍剥奪、家禄没収される。

 1853(嘉永6).1.16日、松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の他国遊学の許可出る。1.26日、2度目の江戸遊歴の旅に出る。2.10日、大坂に入る。2.23日、五条、森田節斎と会う。5.10日、伊勢、斎藤拙堂を訪問。5.24日、江戸練兵館、斉藤新太郎を訪問。6.3日、佐久間象山塾に入る。

 1953(嘉永6)年、松陰、熊本へ。滞在中、横井小楠と3度会い大いに議論す。(1951(嘉永4)年、横井小楠が萩へ吉田松陰を訪ねるが、松陰は江戸へ向かっており会えず)。帰国後、長州藩にて長州藩士の指導に当たって欲しいとの手紙をよこす、とある。

【ペリー艦隊来訪事変】
 1853(嘉永6).6.4日、江戸での遊学中、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いる艦隊が浦賀に来航する。黒船来航を知り瀬能吉次郎に手紙を書く。6月5日、師の佐久間象山と共に浦賀へ向かい黒船を視察する。黒船を観察した松陰は大きな衝撃を受け、幕府の国防に対する不備を強く認識し危機感を覚える。松陰は、西洋の先進文明を知る必要ありとして外国留学を決意する。幕藩体制の矛盾と幕府の短命を予見する。

 6月、ペリー艦隊の来航という現実の脅威に臨み、長州藩主に「急務発議」の意見書「将及私言」を建言した。文中、西洋兵学の本格的な研究と挙国一致による国防体制の確立を指針させている。

【プチャーチンのロシア艦隊乗り込み未遂事変】
 ペリーが去ってから一ヶ月後、プチャーチン率いるロシア艦隊四隻が長崎に入港したという知らせが届く。8.8日、杉梅太郎に幕軍の姿を嘆く手紙を書く。9月18日、同郷の金子重輔と長崎に向かうため江戸出発。佐久間象山の勧めもあって海外渡航の志を立て、当時長崎来泊中のプチャーチンのロシア艦に乗り込もうとロシア密航を企てる。10.1日、京に入る。10.19日、吉田松陰 熊本城下に入る。10.27日、長崎に入るが時すでに遅く、ロシア軍艦はヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航していた。為にロシア密航に失敗する。11.13日、萩に入る。11.24日、宮部鼎蔵と共に萩を出る。12.3日、大坂に入る。12.4日、京に入る。12.8日、京を出る。12.27日、江戸に入る。  

【ペリー艦隊乗り込み未遂事変】
 1854(安政元).3月、再度来航して下田に停泊中のペリーの艦隊に対し、外国の情勢と知識を学ぶために搭乗を訴えたが拒絶され、金子重之助(かねこ・じゅうのすけ)とともに停泊中の船への密航を企てる。下田に移動したペリーの船に夜間、小舟をこぎ寄せた。旗艦ポーハタン号上で、主席通訳官ウィリアムスと漢文で筆談し、アメリカ渡航の希望を伝えるが、アメリカと日本は条約を結んだばかりで、お互いの法律を守る義務があり、ペリー側は、松陰たちの必死の頼みにも渡航を拒絶する。

 この時、松陰たちが手渡した「日本国江戸府書生・瓜中萬二(松陰 の偽名)、市木公太(同行した金子重輔の偽名)、呈書 貴大臣各将官執事」が米国で発見されている。「外国に行くことは禁じられているが、私たちは世界を見たい。(密航が)知られれば殺される。慈愛の心で乗船させて欲しい」などと訴えている。

【野山獄幽囚事件】
 松陰と金子は、密航の罪によって江戸伝馬町の獄に下り、次いで萩に送り返された。安政元年10月24日、松陰は上牢(かみろう)の野山獄に幽因の身となる。足軽身分だった金子重之助は下牢(しもろう)の「岩倉獄」へ繋がれた。岩倉獄の環境は最悪で食事も満足に与えられず、金子重之助は衰えていく。そのことを知った松陰は彼を野山獄に移せ、医者に見せろと叫び続けるが叶わず、安政2年1月11日、金子重之助はそのまま死んだ(享年25歳)。自責の念に駆られた松陰の嘆きは尋常ではなかったと云われている。このときより「二十一回猛士」の別号を用いることになる。生涯唯一の女性の友人ともいうべき高須久との交流が始まるのもこのときである。

 松陰は入獄から安政2年12月15日病気療養の名目で出獄するまでの約1年2か月の間に約600冊を読み、抄録し、「二十一回猛士説」、「幽囚録」、「士規七則」、「回顧録」、「福堂策」等多くの著述をしている。

 松陰の面目躍如たるものがある。野山獄に投獄された松陰は、獄中で囚人達を相手に「孟子」の講義を始める。これが後に、自己の立場を明確にした主体性のある孟子解釈として、松陰の主著となる「講孟余話」としてまとめられた。この時期、「幽囚録」を著している。文中次のように述べている。
 「今急武備を修め、艦略(ほ)ぼ具わ礟(ほう)略ほぼ足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし。然る後に民を愛し士を養い、慎みて辺圉(ぎょ)を守らば、則ち善く国を保つと謂ふべし」。

 松陰はここで、北海道の開拓、琉球(現在の沖縄。当時は独立した国家であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、満州・台湾・フィリピンの領有を主張している。
 「同士一致の意見」として兄に送った「獄是帳」は次のように記している。
 「魯(ロシア)墨(アメリカ)講和一定、我より是を破り信を夷狄に失うべからず。ただ章程を厳にし信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失う所は、また土地にて鮮満に償うべし」。

 他方、「講孟箚記」は次のように記している。
 「方に砲を鎔かして銭とし、弾を鎔かして鋤となすべきの時なり。然るになほ、株を守りて砲艦を急務と思ふは、虚気の甚だしきに非ずや。(中略)今のつとむるべきものは、民生を厚うし、民心を正しうし、民をして生を養ひ死に喪して憾みなく、上を親しみ長に死して背くことなからしめんより先なるはなし。是を務めずして砲といひ艦といふ。砲艦未だ成らずして、疲弊これに随ひ、民心是に背く。策、是より失なるはなし」。

 これによれば、軍備増強論ではなく民生充実論を述べていることになる。  

 松陰が野山獄を出るときに久子が読んだ句。「鴫(しぎ)立つてあと淋しさの夜明けかな」。数年後、安政の大獄で松陰が幕府の元へ檻送される時、野山獄に再入獄する。江戸へ向かう日、久子は獄中で縫った手布巾を松陰に送った。その時の松陰の句は「箱根山越すとき汗の出でやせん 君を思ひてぬぐひ清めむ」。久子は「一声をいかで忘れんほととぎす」と返している。

【松下村塾時代】
 12月、野山獄に入ってから1年2ヵ月後、出獄し杉家に自宅蟄居、幽居される。当初は3畳ほどの幽囚室でおとなしく篭っていたが、親族・近隣の者を相手に「孟子」の講義を再開する。「孟子」講義は単なる解説ではなく、松陰独自の解釈で高い評判となり、次第に萩城下に広がっていくこととなる。

 1856(安政3)年、宇都宮黙霖からの書簡に刺激を受け、一君万民論を彫琢。天皇の前の平等を語り次のように断案している。
 「普天率士の民、(中略)、死を尽して以て天子に仕へ、貴賎尊卑を以て之れが隔限を為さず、是れ神州の道なり」。

 翌1857(安政4).11月、杉家宅地内の小屋を教場とし、叔父玉木文之進がおこし、外叔久保五郎左衛門がその名を襲用していた私塾松下村塾を受け継ぎ、杉家の納屋を塾舎に改修し、新松下村塾が誕生する。松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は、安政3年(1856年)8月から安政5年(1858年)12月までのわずか2年余りに過ぎなかったが、時代の先覚について若者の教育にあたった。次のように抱負を語っている。
 「余曰く、学は人たる所以(ゆえん)を学ぶなり。塾係(か)くるに村名を以てす。誠に一邑の人をして、入りては則(すなわ)ち孝悌(こうてい)、出でては則ち忠信ならしめば、則ち村名これに係くるも辱(は)ぢず。若(も)し或(ある)いは然(しか)る能(あた)はずんば、亦一邑の辱(じょく)たらざらんや。抑々(そもそも)人の最も重しとする所のものは、君臣の義なり。国の最も大なりとする所のものは、華(か)夷い)の弁なり」。

 「諸生に示す」松陰撰集四八九頁で次のように述べている。
「村塾、礼法を寛略(かんりゃく)し、規則を排落(はいらく)するも、以て禽獣夷狄(きんじゅういてき)を学ぶに非ず、以て老莊竹林(老子・荘子・竹林の七賢人)を慕(した)ふに非ざるなり。特(た)だ今世礼法の末造(まつぞう)、流れて虚偽刻薄(きょぎこくはく)となれるを以て、誠朴忠実を以て之を矯揉(きょうじゅう)せんと欲するのみ」。

 松陰は志気を持つことの重要性を盛んに述べている。この気で一番強いのが「浩然の気」であるとして、これを養うには「平旦の気(朝のすがすがしい気持ちを持つこと)」を日頃から培うこと。平旦の気を養うには山野を跋渉する。座禅を組み自分をしっかり見つめることである」としている。「士規七則」で修学の心得として次のように述べている。
 「志を立てて以て万事の源と為す。交を択(えら)びては以て仁義の行(こう)を輔(たす)く。書を読みて以て聖賢の訓へを稽(かんが)ふ」。

 「講(こう)孟(もう)余話(よわ)」離婁(りろう)下第7章で次のように述べている。
 概要「(涵育薫陶の)養養の一字最も心を付けて看(み)るべし。養とは涵育薫陶(仁徳のある環境の中にひたしはぐくみ、自然に訓育教育化)して其の自(おのずか)ら化するを俟(ま)つを謂ふなり。涵はひたすなり、綿を水にひたす意なり。育は小児を乳にて育つる意なり。薫は香をふすべ込むなり。陶は土器をかまどにて焼き堅むるなり。人を養ふもこの四つの者の如くて、不中不才の人を縄にて縛り杖にて策(むち)うち、一朝一夕に中(ちゅう)(中正の徳)ならしめ才(才能)ならしめんとには非ず。仁義道徳の中に沐浴(洗い清める)させて、覚えず知らず善に移り悪に遠ざかり、旧染(きゅうせん)の汗(お)(もとから染みついた汚れ)自ら化するを俟なり」。

 松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、塾生たちと一緒になって問題を考えていった。戊午幽室文稿で次のように述べている。
 「村塾、礼法を寛(かん)略(りゃく)(ゆるめる)にし、規則を擺落(はいらく)(取り払う)する…特(た)だ今世礼法の末造、流れて虚偽刻薄(きょぎこくはく)となれるを以て、誠朴忠実(誠意があって純朴)以て之れを矯揉(きょうじゅう)(まっすぐに正す)せんと欲すのみ」、「学の功たる、気類先ず接し(最初に気持ちや意思が通じ合い)義理従って融る(理解する)。区々たる礼法規則の能く及ぶ所に非ざるなり」。

 師範の率先垂範、師弟同行を重視した。講孟余話で次のように述べている。
 「故に師道を興さんとならば、妄りに人の師となるべからず。又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし」。

 「師(離婁上・第2・3章)」で次のように述べている。
 「凡そ学をなすの要は己が為にするにあり、己が為にするは君子の学なり。人の為にするは小人の学なり。而して己が為めにするの学は、人の師となるを好むに非ずして自ら人の師となるべし。人の為にするの学は、人の師とならんと欲すれども遂に師となるに足らず。故に云はく、『記聞の学(むやみに古書を記憶して講義し、人の質問を待つだけの学問)は以て師となるに足らず』と、是れなり」。

 文学だけでなく登山や水泳なども行ない、農作業を共にするという「生きた学問」だったといわれる。心身両面の鍛錬に重点が置かれた。受講者が増え、その後、松下村塾の存在は萩城下に知れ渡り、萩だけでなく、長州藩全体から才能ある若者達が集うようになった。松下村塾は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。

 塾生に何時も、情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた、これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。松蔭自身、日本全国、北は東北から南は九州まで、みずから脚を伸ばし各地の情報収集、動静を探っており範を示している。また長州藩に対して、主要藩へ忍者のような情報探索者を送り込むことを進言したりもしている。

 門下生のひとり正木退蔵の回顧によれば、身辺を構わず常に粗服、水を使った手は袖で拭き、髪を結い直すのは2カ月に1度くらい、言葉は激しいが挙措は温和であったという。森田惣七著 「吉田松陰の人間観」は次のように記している。
 「これらの文によると、松陰は常に友人の姿勢で門人に接し、言葉づかいが丁寧慇懃であり、進んで傍らに来て説明し、自分の経験を話し、弁当のない者には食事を供し、畑の草取りをしながら読書や歴史の話をし、『門人愉快に勝へず』という状態であった・・・その上松陰はほめるのが極めて上手だった。しかも松陰のほめ方は、作為的にほめるのではなく、善行を見ると、心底から感激し、それを相手にぶつけるのだ」。

 他方、高橋文博著 「吉田松陰」は次のように記している。
 「この松陰の誠に関連することであるが、来原が、松陰のことを常に『人を強いるの病あり』(正月二六日付、小田村伊之助宛)といったという。松陰は、来原だけでなく、同士諸友からも『義卿人に強ふ、義卿人に強ふ』といわれている。(安政六年二月『諸友に与ふ』「詩文捨遣』)。人に自己の見解を押しつけるという、この友人らの松陰についての評価は、誠に生きる松陰の態度の一面を明らかにするものといえよう」。

 死までの僅かな期間に久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、桂小五郎、伊藤博文、山県有朋、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎ら約80名の俊才を育てた。松下村塾の塾生のほとんどが時代を創る志士となり、幕末維新、明治維新の礎となる。
 但し、松下村塾の塾生について次のような評が為されている。興味深いので転載しておく。
  「長州人の血」真の長州人について

 明治維新政府の元勲には一人も居なかった。吉田松陰が伝えた大和魂を正しく受け継いだ真の長州人 は村塾の俊秀久坂玄瑞、高杉晋作、前原一誠、大村益次郎の四人のみであった。彼らはいずれも明治新政府に参画することなく早逝している。明治政府の長州閥元勲と なった伊藤博文や山県有朋は代々続く武士の家の出ではないので神仏を敬い忠孝の道に殉ずる真の大和魂の躾を受けて居らず、大和魂が卑しむ名利猟官の佞臣乃 ち君側の奸そのものとなったのである。特に初代総理大臣伊藤博文は田布施というエタ非人村の出身であり、不躾なまま奇兵隊武士に成り上がったため、武士道と 大和魂がともに欠落した悪習からなる悪政を明治の世にタレ流した最悪の総理大臣のひとりである。岸・佐藤兄弟は伊藤よりも古くから武士として毛利公に仕えた 経歴を持つ家の出身だから伊藤博文より多く由緒正しい武士道の躾を受けている。大和魂で見ると岸・佐藤に伊藤博文より数段上の高級な人格が見られるのは生家の躾のたまものだったわけである。
 吉田松陰は松下村塾で、武士道の第一人者である山鹿素行先生の著書の思想を教えた。山鹿素行「武士道とは皇統を守ることである」。

【幕政批判開始】
 1858(安政5).7月、松陰は、井伊大老が勅許を待たずに日米通商条約を締結したことを聞いて幕政批判を開始する。日米修好通商条約調印を廻って、討幕論を唱えて藩のとるべき態度を激論する。7.13日、藩主への建白書「大義を議す」を提出している。次のように述べている。
 概要「幕府のまずいところはアメリカに対して媚(こ)び諂(へつら)い、日本国家の利益を考えないことであると。国体はどうなるのか、しかも天皇が3月20日に条約を調印するのを待てというのを聞かなかったのは将軍の罪である。将軍がもし反省をして政策を転換すれば討つことはない。長州藩としては朝廷と幕府の間を調整するのが仕事である」、「和戦の議久しうして決せざりしが、一旦、勅旨汗発(かんぱつ)するや天下皆動けり。然れども戦を主とする者は勅を奉じ、和を主とする者は勅に違(たが)ふ。(戦争するか和して条約を結ぶか、3月20日の孝明天皇の勅旨で条約調印は待った。攘夷派は外国に立ち向かおうとする、和をとる者は、また海外にも力を示そうとするけれども本当は戦いを恐れている。要は邪人である」、「墨夷(ぼくい)の謀(はかりごと)は神州の患(かん)たること必せり。墨使のは神州の辱(じょく)たること決せり。ここを以て天子震怒し、勅を下して墨使を絶ちたまふ」、「国患を思はず、国辱を顧(かえり)みず、而して天勅を奉ぜず。是れ征夷の罪にして、天地も容れず、神人(しんじん)皆憤る。これを大義に準じて、討滅誅戮(とうめつちゅうりく)して、然る後可なり、少しも宥(ゆる)すべからざるなり」、「大義已に明らかなるときは、征夷と雖も二百年恩義の在る所なれば、当(まさ)に再四忠告して、勉めて勅に導(したが)はんことを勧むべし」。

 松陰は、将軍継嗣問題と日米通商条約交渉の経緯に対して、「関東のニ奸(にかん)は、曰く閣老堀田備中守、曰く紀伊の附老水野土佐守なり」とした。


 同9月、京都の公卿大原重徳を長州に迎えて、藩主と倒幕挙兵の合議をさせようと策す。10月、門人に指令して京都伏見獄に投じられていた梅田雲浜を救出させようとする。幕府の違勅調印という事態に直面して直接行動を計画する。

 11.6日、老中間部詮勝要撃策を指示し、朝廷勢力の分断に上京する老中首座の間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺に同志の血盟を募り、更に同月参勤交代で江戸に上る藩主を押し止めようと計画する。しかし、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは師の行動のあまりの激越さを持て余し、「時期尚早」の判断のもとに師をなだめようとする。松陰がもっとも信頼した桂小五郎、久坂玄瑞においてさえそうであった。松陰は激昂して次のように述べている。
 「諸君は口を揃えてわたしの策を狂策だと言う。しかしわたしは敢えて主張する。利口な人間から見ればわたしは狂人かもしれない。しかし今やらなければやる時はないぞ。今君たちが立たないのなら、君たちは今後決して尊皇攘夷などと言うな。今後尊皇攘夷を行なう時など四・五十年も来はしないのだから・・・君たちは功名を上げるつもり。わたしは忠義をするつもり」。

 松陰は、門人たちに絶交状を叩き付ける。計画は頓挫した。この時、松陰は、幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。

【野山獄に再投獄される】
 12月、藩命により野山獄に再投獄された。この時、松陰は次のように述べている。

 「恐れながら、天朝も幕府もいらぬ。ただ六尺の微躯が入用」。

 かって、「本邦の帝王、あるいは*の虐あらんとも、億兆の民は唯まさに頭を垂れ、宮城の門に伏し、号泣して仰いで天子の感悟を祈るべきのみ。天下は一人の天下なり」と述べていることを思えば、松陰思想は遂に「天朝、幕府共に不要論」へと進化したことになる。

 1859(安政8).4.7日、友人北山安世に宛てて書いた書状の中で次のように述べている。
 「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」。

  「草莽(そうもう)」とは、孟子においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指す。“在野の人よ、立ち上がれ”の意で、 「草莽崛起(そうもうくっき)の人を望む外頼みなし」との「草莽崛起論」に到達し、変革の担い手は在野の志士であり、百姓一揆のエネルギーを無視できないことを自覚していたことになる。

  高橋文博著「吉田松陰」は松陰の言として次のように記している。
 「只今の勢にては諸侯は勿論捌けず、公卿も捌け難し、草莽に止まるべし。併し草莽も亦力なし。天下を跋渉して百姓一揆にても起こりたる所へ付け込み奇策あるべきか。・・・・」。

 吉田松陰の幕府批判を見ておく。
 「幕府に大略を展(の)ぶるの人無し」。

【吉田松陰の最期となる評定所問答、処刑事情】
 翌1859(安政6).6月、大老・井伊直弼による安政の大獄が始まる。収監される前、友人北山安世あてに次のように記した手紙を送っている。
 「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」。

 松陰は、藩命で江戸の伝馬町の牢に移送される。松蔭は、梅田雲浜との関係は否定したが、自ら間部要撃策のあった事を述べて幕吏を驚かせた。獄中にて遺書として門弟達に向けて「留魂録」を書き残す。

 獄中から師・佐久間象山の甥に送った書簡にこう記している。
 「幕府遂に人無し。させつの(詰まらない)事はかなりに弁じも致すべけれども、宇宙を達観して大略(大戦略)を展ぶる(展開する)の人無し」。

 10.25日、死を予知して遺書を書き始め、翌日の暮れにまでおよんだという。冒頭には次の句が記されている。
 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留(とど)め置かまし大和魂」

 これが辞世の歌となった。「義卿(ぎけい、松蔭の字)奸権(邪悪な権力)のために死す」とも書かれている。巻末は次の句で結ばれている。
 「七たびも生き返りつつ夷(えびす)をぞ、攘(うちはら)はんこころ 吾れ忘れめや」。

 全編を「留魂録」と命名している。家族宛に「永訣書」を残した。文中の和歌「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」が知られている。

 10.27日、評定所で断罪書が読み上げられ、「国家の御ためと申すが、公儀(幕府)を憚らず、不敬の至り。死罪申しつける」と言い渡された。この時、松蔭は次の言葉を残している。
 「吾れ今国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照、明神に在り」。

 江戸伝馬町獄に護送され、即日刑が執行された。松陰は切腹ではなく斬首となる。武士として屈辱的な刑であった。「首切り浅右衛門」と呼ばれた山田浅右衛門の手で斬首に処せられる(享年29歳)。生涯独身であった。戒名は「松蔭21回猛士」とつけられた。

 辞世の句は次の通り。
 「親思う 心にまさる親心 けふのおとずれ何ときくらん 」。
 松陰の死を知った高杉晋作は、この時の悲憤の思いを藩の上役・周布政之助に宛てた手紙で次のように述べている。
 「ついにわが師は幕吏の手にかかって殺されてしまいました。私は松陰の弟子として、きっとこの仇を討たずにはおかないつもりです」。

 1860(万延元).2.7日、松陰が亡くなって百日目、松陰の遺体は弟子達に引き取られ、遺体は小塚原回向院(東京都荒川区)の先に安政の大獄で刑死した橋本佐内の隣に埋葬された。1863(文久3)年、高杉晋作ら攘夷派の志士達により現在の東京都世田谷区若林に改葬された。1882(明治15)年、世田谷区の墓所に松陰神社が創建された。もう一つの流れとして、死後100日目、故郷の萩にある松陰の墓に松陰の遺髪を埋めた墓所(遺髪塚)が建てられた(市指定史跡)。

 1890(明治23)年、松陰神社(県社)が建てられた。松陰の思想を強く受け継いだ高杉晋作の墓所と並んで、今は静かに萩の街を見下ろしている。






(私論.私見)