新撰組隊士考 |
更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).5.29日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、新撰組考をものしておくことにする。「ウィキペディア新撰組」、「近藤勇処刑」、「新選組隊士一覧」、「幕末列伝 新選組」、「池田屋騒動」、「![]() 2005.4.3日、2007.4.22日再編集 れんだいこ拝 |
近藤系 |
新選組局長/近藤勇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
近藤勇(こんどういさみ)は武蔵国多摩上石原の人。1834(天保5)年-1868(慶応4)年。幼名は勝太郎。島崎勝太、大久保大和。いつも笑顔で、両頬に笑窪があり実際に会うと優しい雰囲気があった。口が大きく、自分の拳が入ったといわれる。剣術は名人ではないが、手堅く力強く、その性格が表れていた。愛刀は鴻池が贈ったとされる長曽禰虎鉄。
新選組局長。非常に理知的な人物で、幕府との折衝等にも淀みなく対応するなど、新選組の地位向上に大きく貢献した。剣術においても天然理心流の宗家としての実力を有しており、池田屋事件では果敢に敵の中に飛び込み、多くの仲間が傷つき脱落する中で、永倉新八とたった二人で孤軍奮闘した。永倉新八が手に傷を負い、刀もボロボロだったのに対して、近藤勇は最後まで無傷で、刀も刃こぼれひとつなかったと云う。戊辰戦争のさなか、流山の陣屋で「大久保大和」と偽名を名乗っていたところを見破られ、板橋で斬首された。1868(慶応4).4.25日、戊辰戦争により武蔵板橋にて刑死(享年35歳)。
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新選組副長/土方歳三 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
土方歳三(ひじかたとしぞう)は武蔵国多摩石田の人。1835(天保6)ー1869(明治2)年。剣術に熱心で、家伝の「石田散薬」という骨接打身の薬を行商しながら、各地の道場を訪ねたという。於琴(おこと)という三味線屋の箱入り娘と縁談があったが、「大望の前に結婚で拘束されたくない」として、婚約者という形になったという。
色白で撫肩の少し猫背だが、身長はすらりとしていて男っぷりがいい。人との対応には抜け目がなく、かつ妙才なかった 副長。その厳格な人柄から「鬼の副長」と呼ばれ、隊士からおそれられていた。隊の実質的な戦略、戦術の指揮官として「新選組」の名を天下に知らしめたのは、彼の功績。1869(明治2).5.11日、戊辰戦争五稜郭の戦いにて戦死(享年35歳)。
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一番組隊長/沖田総司 | |||||||||||||||||||||||||||
沖田総司(おきたそうじ)は武蔵国江戸の人。1842(天保13)年-1868(慶応4)年。幼名は宗次郎。総司郎、惣次郎、惣二郎とも。手紙に総二など署名されていることから「そうし」ではなく「そうじ」が正しい。背が高く色が浅黒い方で、少し猫背のように背を丸めていたが、いつも笑顔だった。よく冗談をいい、ほとんど真面目になっていることがない。新選組になってからも近所の子守や、子供相手に往来で鬼ごっこをやっていた。酒は呑んだが、女遊びはあまりしなかったらしい。剣は天賦の才があり、突きの三段仕掛けが一技にしか見えなかったほどの腕前。剣術を教える時は短気になり、近藤よりも恐れられていた。
一番組隊長。天然理心流、撃剣師範。「三段突き」で知られる必殺剣を武器に、倒幕派志士を恐怖に陥れた天才剣士。数ある隊士の中から栄えある「一番隊」組長に抜擢された事実こそ、彼が「新選組最強」であった何よりの証である。隊で彼と双璧をなした永倉新八からは「猛者の剣」と評され、普段の稽古でも並の隊士では誰ひとり相手にならず、彼が本気で立ち向かえば局長の近藤ですら打ち負かすといわれていた。「池田屋事件」では室内での争闘中に喀血(かっけつ)し、それを近藤が殺傷血と勘違いしたという話が残っている。1868(慶応4).5.30日、肺結核により療養先の江戸千駄ヶ谷にて死去(享年27歳)。
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二番組隊長/永倉新八 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永倉新八(ながくらしんぱち)は武蔵国江戸の人。1839(天保10)年-1915(大正4)年。二番隊組長、神道無念流、その卓越した剣の技量により撃剣師範を務めた。隊の生き残りのひとり、阿部十郎の述懐では、「(剣術の稽古においては)永倉のほうが沖田総司よりやや実力が上」とされている。「池田屋事件」でも、沖田総司らほかの隊士が続々と離脱する中、自らも手を負傷しながらも、近藤と共に最後まで修羅場を戦い抜いた。彼は明治以降、新選組に関していろいろな記述を残している。1915(大正4).1月、北海道小樽にて死去(享年77歳)。
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三番組隊長/斎藤一 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎藤一(さいとう はじめ)は武蔵国江戸の人。1844(天保15)年-1915(大正4)年。流派不明、撃剣師範。酒豪。新選組の数少ない生き残りのひとりで、三番隊組長として沖田総司らと並び最強の隊士とうたわれた剣豪で、永倉新八に「無敵の剣」の名で「新選組最強の剣士のひとり」と評された。一説では隊士の中で最も人を斬った男とも、在京中の任務においてかすり傷ひとつ負わなかったとも云われている。寡黙な性格でもあった彼は、「スパイ」や「暗殺」といった特殊な任務もこなす器用さを備えていた。1915(大正4).9月、東京本郷にて死去(享年72歳)。
「新選組・斎藤一〔1〕明らかになってきた謎」、「新選組・斎藤一〔2〕「誠義」を貫く」が詳しく検証している。研究者の間では、子母澤寛の「新選組遺聞」の記述にある斎藤一口述の「夢禄」の発見が大いに待たれている。 |
六番組隊長/井上源三郎 | ||||||||||||||||||||
井上源三郎(いのうえげんざぶろう)は多摩日野宿北原の人。1829(文政12)-1868(慶応4)年。無口な人の良い人物だったらしい。近藤、土方の側近として相談役を務める。真摯篤実な性格で、地味ではあったが、新選組での役割は大きく、温厚な人柄で隊士からも慕われていた。普段は無口でおとなしいが、一度思い込んだらテコでも動かないところがあった。
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十番組隊長/原田左之助 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
原田左之助(はらださのすけ、佐之助)は伊予国松山の人。1840(天保11)年-1868(慶応4)年。種田流槍術の使い手。戦国時代の豪傑、本多忠勝や加藤清正も戦場では槍を多用しており、刀よりもより実戦的な武器として、「槍の使い手こそ最強」という見方もある。短気者ですぐに「斬れ斬れ!」と言ったらしい。新選組が関わった事件には、ほとんど参加している豪傑。なかなか怜悧な男で、かつ容姿万端、美男であった。目上の者に対して傲慢でおとなしく言うことを聞かず、万事逆らうことがあり、憎まれたことがあったようだ。気短でせかせかした男で、二言目には斬れ斬れと怒鳴っていたが、いい男。郷里へ帰った頃、事情があって切腹を図り未遂に終わるが、その腹の傷跡が後まで残っていた。また、裸で褌一つに頬冠りをして、オランダ銃隊が使う太鼓を革帯で肩から下げ、バチでドンドン鳴らしながら歩いた奇行も伝わる。酔っ払うと着物の前を広げて腹を出してぺたぺたと叩きながら、「金物の味を知らねえ奴なんぞとは違うんだ、この切腹の跡を見ろ」と言って、左の方から真一文字に腹を半分ばかり切った傷跡を出しては見せていた。坂本龍馬暗殺事件では、現場の遺留物に彼のものとする鞘(さや)が見つかり、容疑者のひとりに挙げられた。1868(慶応4).5.17日、戊辰戦争江戸上野の戦いにて戦死(享年29歳)。
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監察/山崎烝 | ||||||||||||||||||||||
山崎烝(やまざきすすむ)は阿波徳島の人。不明~1868(慶応4)年。実家の鍼医が富商に患者を持っていたせいで、商家に顔がきいたという。丞、蒸、進、晋とも。性質温厚にして、よく学び、黙々と事に耐える。
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七番組隊長/谷三十郎 | ||||||||||||||||||
谷三十郎(たにさんじゅうろう)は備中高梁の人。不明-1866(慶応2)年。
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河合耆三郎 |
河合耆三郎(かわいきさぶろう)は播州高砂の米問屋の息子。お店の若旦那ふうの、気だての優しい人物で隊中で人気があり、算盤や帳簿付けが上手なところから、隊の会計方を勤めた。 |
大石鍬次郎 |
大石鍬次郎は一橋家の家臣の子として江戸で生まれる。日野で大工をしていたという。小野派一刀流の使い手。元治元年11月に入隊。「人斬り鍬次郎」の異名を持つ。沖田と並び称される。 |
四番組隊長/松原忠司 | ||||||||||||
松原忠司(まつばらちゅうじ)は播磨国小野に生まれる。不明-1865(慶応元)年。文久3年5月に入隊。関口流柔術師範の免状を持ち、入隊以前に自らの道場を開いていたほどの達人だった。隊では柔術師範を務めた。四番隊組長。壬生心中の話で知られる。剣術も得意とし、その風貌から「今弁慶」の異名をとった。1865(慶応元).9.1日、京都にて病死(享年31歳)。死因は諸説あり。
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島田魁(しまだかい) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
島田魁(しまだかい)は、濃州(美濃)厚見郡雄綱村の人。1828(文政11)年-1901(明治33)年。美濃大垣脱藩。新選組一の巨漢で身長182センチ、体重150キロ。その怪力からあだ名は「力さん」と言われていた。島田の怪力が役に立ったのが鳥羽・伏見の戦いの時で、完全武装していたため、高い塀を越えられなくなって困っていた永倉新八を軽々と持ち上げて塀の上に引っ張り上げたというエピソードが残っている。島田魁は新撰組の歴史の生き証人とも言える人物である。新撰組の結成当初から最後まで見届けた数少ない一人。永倉新八や斉藤一と同様に生存した。硬骨漢だったらしく後日談として、明治政府の顕官となった榎本武揚に、懐かしいからと宿に招かれたが、用があれば向こうから出向くのが筋だと断った話がある。新選組一の巨漢。身長六尺余(百八十二センチ)体重四十貫(百五十キロ)で、よく相撲取りに間違えられた。酒は一滴も飲めず、大福餅が好物で二十~三十個は平らげたという大の甘党。
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五番組隊長/武田観柳斎 | ||||||||||||||||||||||
武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)は出雲母里の人。不明-1867(慶応3)年。
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芹沢系 |
巨魁隊長/芹沢鴨 | ||||||||||||||||||||
芹沢鴨(せりざわかも)。1830(天保元)年-18693(文久3)年。本名は下村継次。 ひとかどの人物だが短気でわがまま、酒乱で乱暴者だったといわれるが、酒が入っていない時は意外に親切な面があったらしい。神道無念流戸ケ崎熊太郎の門人。免許皆伝の達人。隊の派閥抗争で近藤派に暗殺される。「芹澤鴨(せりざわ かも)」は、めっぽう剣が強かったといわれており、「まともな斬り合いでは倒せないから」と、寝込みを集団で襲われて落命した。芹沢の水戸学「尊王敬幕」思想は近藤勇に影響を与えたのだろうか。芹沢光幹、下村継次、木村継次。色白で背の高く、恰幅のいい人物で、酒に酔ってないことはなかった。武田耕雲斎に師事し、天狗党になったというが定かではない。
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新見錦 | ||||||||||||||||
新見錦(しんみにしき)。1836(天保7)年~1863(文久3)年。親見と署名されていることから「にいみ」ではなく「しんみ」が正しい。田中伊織。
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平間重助 |
芹沢鴨と同郷の芹沢村の出身。芹沢鴨に神道無念流を学んだ。芹沢が屯所で暗殺された時に逃走。その後の消息は不明。 |
平山五郎 |
姫路出身。神道無念流の免許皆伝。国元で花火事故により左目を失明した。めっかちの平山。芹沢鴨と共に斬殺される。 |
野口健司 |
水戸出身。神道無念流百合元(ゆりもと)昇三の門人。永倉新八も同道場に修行したことがあり、顔なじみだったらしい。芹沢鴨の暗殺後も隊内に残るが、切腹。 |
伊東系 |
新選組参謀/伊東甲子太郎 | ||||||||||||||||||||||||||
伊東甲子太郎(いとうかしたろう)は常陸国志筑の人。1835(天保6)年~1867(慶応3)年。本名は鈴木大蔵。宇田兵衛。性格温和にして敏達、しかも慷慨義侠の心がある。美男子で教養高く和歌にも通じる。鈴木三樹三郎の兄で、幼年期は父、専右衛門の閉門蟄居により祖母の実家で三樹三郎と暮らす。
北辰一刀流、文学師範。近藤、土方に次ぐ新選組のナンバー3で、深く学問にも通じ、文学師範も兼ねた学者肌の人物でした。参謀。佐幕派の新選組にありながら、同時に徳川幕府の限界を見通していたひとりで、内部から新選組を勤皇派へ変革させようと試みている。しかしそれが仇となり、最後は近藤らによって暗殺された。慶応3年11月18日、内部抗争により京都油小路にて謀殺(享年33歳)。
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八番組隊長/藤堂平助 | ||||||||||||||||||||
藤堂平助(とうどうへいすけ)は江戸の人。1844(天保15)年-1867(慶応3)年。試衛館の食客の一人。南部与七郎。魁先生という渾名がある。近藤勇の四天王のひとりで戦闘では必ず一番に突入する「魁(さきがけ)先生」こと「藤堂平助」。
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篠原泰之進 | ||||||||||||||||||||||||||||
篠原泰之進(しのはらたいのしん)は筑後国生葉郡高見村の人。1828(文政11)年-1911(明治44)年。篠塚友平、秦河内、秦泰之進、秦林親。伊藤甲子太郎の友人。
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九番組隊長/鈴木三樹三郎 | ||||||||||||||||||||
鈴木三樹三郎(すずきみきさぶろう)は常陸国新治郡中志築の人。1837(天保8)年-1919(大正8)年。三木荒次郎、三木三郎。
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服部武雄 |
服部武雄は播磨国赤穂に生まれる。1832-1867。 元治元年11月伊藤甲子太郎らと共に入隊。剣術の達人で、その剣技は 「二刀流」を自在に操る達人で隊内随一といわれた。のちに彼は「新選組の内部抗争」により命を狙われ、油小路事件では二刀流で奮戦し、そのときは自分ひとりで30人を相手に死闘を繰り広げた末に討死にした。二十数カ所を斬られ絶命するまでに、10人以上の相手を負傷させ、死してなおその顔色はまるで生きているかのようだったとも語り伝えられている。慶応3年11月18日、内部抗争により京都油小路にて謀殺(享年36歳)。 |
阿部十郎 |
阿部十郎は出羽国羽広の人。1837–1907。流派不明 砲術師範。
鉄砲や大砲の射撃を専門とする砲術師範指南役。新選組というと、もっぱら剣のイメージが強いが、実際は銃、大砲も所持しており、これらの訓練も日常的に行っていた。後に内部抗争により新選組を脱退すると、復讐のため近藤勇を京都伏見墨染にて銃撃し、右肩に重傷を負わせた。明治40年1月、東京にて死去(享年71歳)。 |
新撰組内処刑系 |
山南敬助 | ||||||||||||||||||||||||||
山南敬助(さんなんけいすけ)は陸奥仙台の人。1833(天保4)年-1865(慶応元)年。「三南」と書かれた史料があるので「さんなん」と読むのが正しいという説は賛成できない。あだ名が「さんなん」で、それを漢字で書いただけとも考えられる。敬介、啓輔、啓助、啓介とも。背はあまり高くなく、色白で愛嬌のある顔をした温厚な人物。学問もあり、剣術も達者。
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佐々木愛次郎 |
恋人あぐりに局長芹沢鴨が横恋慕しているという隊士佐伯又三郎の言を信じて、隊を脱走。待ちかまえる佐伯たちに斬殺される。あぐりは暴行され自害。芹沢の横恋慕というのは、佐伯が佐々木の恋人を狙っての作り話という説があり、このため佐伯は芹沢に斬られる。 |
見回り組系 |
佐々木只三郎 |
佐々木只三郎(ささきたださぶろう)は陸奥国の会津の人。1834(天保4)年-1868( 慶応4)年。 1833(天保4)年、陸奥国の会津藩領内(福島県)において代々会津藩士として仕えた家柄である佐々木源八の三男として生まれる。長兄は、会津藩重臣公用人の手代木勝任(てしろきかつとう)直右衛門。藩の師範役羽嶋源太に「会津五流」と総称される剣の流派の一つの神道精武流を学び奥義を極めている。20才前には、師の羽嶋をも凌いだとも言う。また、沖津庄之助に従って槍術を学んだ。歌人としても知られた鈴木大之進について和歌も学んでおり文武の人でもある。 1860(万延元)年、只三郎は、江戸に出府。三男ということもあり親戚であった幕臣旗本にして幕府御書院番与力(ごしょいんばんよりき)の佐々木矢太夫の養子となり、家督を継いで浅草堂前の組屋敷に居住した。「小太刀日本一」と称され、幕府講武所の剣術師範を務めたと伝えられる。講武所とは、1855(安政2)年に幕府がつくった武術を学ぶための訓練所である。 京都守護職の会津藩主・松平容保に従う兄・勝任を動かし、清河八郎の策を容れるよう働きかける。浪士組結成に伴い、取締並出役の一人に選ばれ京都へ上る。浪士組決裂時、京都残留を決めた近藤勇らを京都守護職の支配下に置くように取り計らった。1863(文久3)年江戸へ戻り、麻布一の橋で窪田泉太郎などと共に浪士組の清河八郎を暗殺したと云われている。通りかかった清河八郎に声をかけ、清河が笠をとって挨拶しようとした瞬間、背後から数人が斬りかかり、正面より佐々木只三郎が清河の首筋を断ち割ったと伝えられている。 1864(元治元)年、京都見廻組の与頭勤方(つとめかた)に抜擢される。組頭は備中浅尾藩主、蒔田広孝と交代寄合、松平康正の二人。新選組が、出自は問わない代わりに腕自慢を集めたのに対し、見廻組は旗本の次男、三男を集めた、いわばエリート集団であった。見廻組は新撰組と共に尊攘派志士から恐れられた。禁門の変にも出動している。 元見廻組隊士・今井信郎の証言から、1867(慶応3)年、京都近江屋で土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺したとされている(近江屋事件)。真相は謎である。れんだいこは、下手人は国際ユダヤの雇われ組と見なしているので、この説は採らない。 大政奉還後、戊辰戦争が勃発すると幕府軍の一員として鳥羽・伏見の戦いに参戦し、1.6日、樟葉(枚方市付近)で腰に銃弾を受けて重傷を負う。1868(慶応4)年、和歌山に敗走中、1.12日、紀三井寺で死去。享年35歳。墓所は和歌山県和歌山市の紀三井寺、福島県会津若松市「武家屋敷」内。戒名は「賢浄院殿義岳亮雄居士」。 次の和歌を遺している。「くちはてて かばねの上に草むさば 我が大君の駒にかはまし」、「千万(ちよろづ)の あだ(敵)も草木と散りぬらん 君の一刃の露とふりなば」、「先がけて 折れし忠義のふた柱 くづれんとせし 軒を支へて」、「弓馬も剣も鉾も知らずとも 恥をだに知れ 武士(もののふ)の友」。鳥羽伏見の戦いで、甲冑を脱いで半裸になり、斬り込みをかけていた彼は、近くの酒屋に飛び込んで酒を出させ、代金代わりに襖にこう書き付けている。「世はなべて うつろふ霜にときめきぬ こころづくしのしら菊のはな」。 |
新撰組の生き残り隊士系 |
中島登(なかじまのぼり)生没年: 1838(天保9)~1887(明治20年) |
中島登(なかじまのぼり)。1838(天保9)年~1887(明治20)年。新撰組隊士。 |
出身は武州多摩郡の八王子と言われる。中島は新撰組の中でも珍しい「極秘裏に武蔵・相模・甲斐の地理や住民の動向を調査し、近藤に報告する」という指令を与えられていた。そのため新撰組のどんな事件にも顔を出していない。中島の入隊は元治元年(1864)10月とされている。彼の名が有名になったのは、彼が「中島登覚え書」というものを残していたことによる。これは慶応4年(1868)3月に甲陽鎮撫隊が甲州に向かって出陣するところからはじまり、旧幕府軍の足跡・戦友の消息などを書き連ねていて、彼の潜入工作が実を結んだ結果とも言える。丁度、この時期から中島は長い潜伏期間を終えて歴史の表舞台に顔を出す。甲州から流山、宇都宮、会津、仙台、箱館と土方に従って転戦し、箱館では二番隊に所属して弁天台場を守っている。降伏後には青森の蓮華寺に収容された。この収容期間に彼は覚え書をまとめた。さらに箱館に移されてからは「戦友絵姿」というスケッチを描く。これは文字通り、中島登が一緒に戦った新撰組の隊士たちを絵に描いて留めたもので、29枚が現存していて、近藤や土方をはじめ、斎藤一もある。今では新撰組を語る上で欠かせない貴重な史料になっている。中島はその後、静岡藩に引き渡されたが、赦免され、浜松に住んで鉄砲店を開店したという。彼は「絵」という形で、共に戦った戦友をしのび、その姿を後世に残したという意味で、他の隊士たちとは一線を画す活躍をしていると言える。 |
相馬主計 |
相馬主計(そうまかずえ)。1843(天保14)~?。新撰組隊士、箱館新撰組隊長 |
最後の新撰組隊長として名を知られている。常陸笠間藩士・船橋平八郎義方の息子として生まれ、剣術が盛んだった笠間藩において何らかの剣術を学んだと思われるが、流派は不明。新撰組隊時期は不明(慶応3年10月説がある)。慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いに参加。甲陽鎮撫隊で局長付組頭として頭角を現し、流山で近藤勇が新政府軍に投降し、板橋の総督府に出頭すると、幕府陸軍軍事方、松濤権之丞の書状を携え、近藤の助命のために板橋を訪れている。しかし、相馬はすぐに捕まってしまい、近藤と一緒に殺されるところを、近藤の助命により、一緒に捕縛されていた野村利三郎と共に助命され、笠間藩に預けられ、謹慎。この後、彰義隊に加わり、のちに陸軍隊として春日左衛門の支配下に入り、磐城方面を転戦する。仙台で土方歳三と再会。箱館五稜郭へと転戦し、主に箱館市中の取締の任にあたる。明治2年(1869)5月11日、新選組を統率していた土方歳三が戦死すると、弁天台場の新選組は相馬を隊長として恭順の書状に名前をしたため、新選組の歴史に幕を引いた。正式な就任日は高松凌雲の書簡によると5月15日という。榎本武揚が降伏したのが5月18日なので、正式にはたった3日間しか隊長の役目は果たしていないことになる。 明治維新後の相馬の行動には謎の部分が多い。明治3年(1870)10月10日、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑により、終身流罪となり、伊豆新島に流される。大工棟梁・植村甚兵衛に身柄を預けられ、その場所で寺子屋を開く。のちに甚兵衛の長女マツと結婚した。明治5年(1872)、赦免され、東京で妻マツと暮らした。翌年、豊岡県権参事だった大野右仲の推薦からか、同県へ15等出仕として勤務する。翌年には14等出仕に昇進し、主に司法方面の勤務に就いた。明治8年(1875)2月、豊岡県内部の抗争のためか、突如免官され、東京に戻る。その後、通説では、自殺したと伝わっている。その内容は、マツが外出先から帰ってきた際、すでに相馬は障子を真っ赤に染め、割腹自殺を遂げていたという。その際、相馬自身がマツに「他言無用」と厳命し、マツが生涯その命を守り通したために現在に至るまで不明である。 |
池田七三郎 |
池田七三郎(いけだしちさぶろう)は。1850(嘉永3)~1938(昭和13)年。別名:稗田利八。 18歳の時、慶応3年の江戸での隊士募集の際に、毛利有之助を慕って入隊する。鳥羽伏見の戦いで負傷。甲陽鎮撫隊の出陣までには回復し参戦。甲州勝沼の戦いで再び負傷し本隊から離れる。会津戦争のとき、斎藤一と共に会津に残る。如来堂では斎藤一らと共に猛攻を受けるが、脱出。その後、高崎藩の兵士に降伏する。(謹慎の後に放免) 昭和13年・90歳まで生きた池田は「最後の新撰組生き残り隊士」隊士となった。昭和4年、子母澤寛の取材を受けて『新選組聞書』を残している。作家・子母沢寛はこの最後の新撰組隊士と面談し、それを元に『稗田利八翁思出話』を発表した。 http://www.geocities.jp/terrymylove201/ikedashichisaburou11.html |
(私論.私見)