新撰組隊士考

 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).5.29日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、新撰組考をものしておくことにする。「ウィキペディア新撰組」、「近藤勇処刑」、「新選組隊士一覧」、「幕末列伝 新選組」、「池田屋騒動」、「◎八郎と対立。新撰組局長筆頭・水戸の豪傑」、「新撰組と時代背景」、「新撰組」、「新選組「最強の剣士」は結局、誰だったのか?」その他を参照する。

 2005.4.3日、2007.4.22日再編集 れんだいこ拝


近藤系

 新選組局長/近藤勇
 近藤勇(こんどういさみ)は武蔵国多摩上石原の人。1834(天保5)年-1868(慶応4)年。幼名は勝太郎。島崎勝太、大久保大和。いつも笑顔で、両頬に笑窪があり実際に会うと優しい雰囲気があった。口が大きく、自分の拳が入ったといわれる。剣術は名人ではないが、手堅く力強く、その性格が表れていた。愛刀は鴻池が贈ったとされる長曽禰虎鉄。

 新選組局長。非常に理知的な人物で、幕府との折衝等にも淀みなく対応するなど、新選組の地位向上に大きく貢献した。剣術においても天然理心流の宗家としての実力を有しており、池田屋事件では果敢に敵の中に飛び込み、多くの仲間が傷つき脱落する中で、永倉新八とたった二人で孤軍奮闘した。永倉新八が手に傷を負い、刀もボロボロだったのに対して、近藤勇は最後まで無傷で、刀も刃こぼれひとつなかったと云う。戊辰戦争のさなか、流山の陣屋で「大久保大和」と偽名を名乗っていたところを見破られ、板橋で斬首された。1868(慶応4).4.25日、戊辰戦争により武蔵板橋にて刑死(享年35歳)。

1834(天保5)年 十月九日、武州多摩郡上石原村現在の調布市)に豪農、宮川久次郎の三男として生まれる。兄に音次郎(音五郎)、粂蔵(総兵衛)がおり、姉のリセ、妹のタカ、スメもいたが姉妹は夭折している。
嘉永元年 15歳の時、十一月十一日、二人の兄とともに天然理心流・近藤周助の門人となる。東京近郊の多摩地方は、自衛のためもあって、古くから剣術が盛んだった。勇の父などはとりわけ武芸熱心な農民で、宅地内に道場を持っているほどだった。このころ、江戸市ヶ谷に試衛館道場を持つ天然理心流三代目近藤周助邦武が多摩地方に出張出稽古に来ており、勇の父の道場でも教えていた。この機縁で入門した。以降の勇の上達振りには目を見張る者があった。
嘉永二年六月 天然理心流目録となる。 7か月後の翌年6月には早くも「目録」を伝授された。ちなみに、天然理心流の技術伝達体系は、切紙、目録、中極位目録、免許、印可、指南免許の6段階で、普通は目録を得るのに入門後3年、免許を得るのに10年、指南免許を得るのは免許取得後10年が必要だった。それだけ、勇の能力が高かったことになる。
1849(嘉永2)年 天然理心流三代目・近藤周助の養子となる。これより近藤勇と名乗る。跡継ぎのいなかった周助は、是非とも勇を養子にしたいと宮川家に頼み込んだ。宮川家では、父も勇も武芸熱心だったので、周助の申し出を喜んで受け入れた。こうして16才の勇は周助の養子となり、江戸の道場と同じ場所にある周助の家で暮らすようになった。
万延元年 三月二十九日、一橋家家臣、松井八十五郎の長女ツネと結婚する。
1861(文久元)年 27歳の時、八月二十七日、四代目宗家として天然理心流を継ぐ。この時、のちに新撰組の重要なメンバーとなる多くの仲間たちが試衛館に集まっていた。土方歳三(ひじかたとしぞう)、沖田総司(おきたそうじ)、井上源三郎、山南敬助(やまなみけいすけ)、藤堂平助といった面々である。勇の4代目襲名を祝う野試合には全部で88人の門人が参加しており、この中に彼らの名も登場している。この当時、試衛館は他流派の人々からは「いも道場」などといわれていた。天然理心流が華麗さにかける田舎風の実戦的剣法であるうえ、この時代になっても試衛館のメンバーが多摩地方に出稽古に行くことが多かったからかもしれない。
1862(文久2)年 長女瓊子が生まれる。
1863(文久3)年 二月二十八日、試衛館の仲間と浪士組に参加し入京する。
三月十二日、浪士組から袂を分け、会津藩御預かりとなり、壬生浪士組局長となる。
八月十八日、八・一八の政変の働きにより新選組の隊名を下錫される。
9月、芹沢鴨暗殺にともない、新撰組局長に就任。 
1864(元治元)年 六月五日、池田屋で尊攘派を鎮圧(池田屋事件)。新撰組の名を上げる。 
元治元年 七月十九日、禁門の変で長州軍を撃退する。
慶応元年 十一月十六日、長州訊問使、永井尚志の供として広島に行く。
1867(慶応3)年 六月二十三日、新選組が直参となり、見廻組与頭格となる。
九月二十日、永井邸で土佐藩、後藤象二郎と会見する。
十二月十八日、伏見街道の墨染あたりで御陵衛士の残党に狙撃され、右鎖骨上から上斜脊椎の肩にかけ銃創を負う。
1868(慶応4)年 一月、銃創のため、鳥羽伏見の戦いに出陣できず江戸に帰還する。江戸で新撰組の再起を図る。
三月六日、甲陽鎮撫隊を結成し、甲州勝沼に出陣、柏尾の戦いに敗れ江戸に帰還する。大久保大和と名乗る。その一週間後には武蔵国・五兵衛新田で再起する。
四月三日、下総流山に布陣するが、新政府軍200名に包囲され出頭する。 このとき、近藤は切腹を覚悟したといわれる。だが、土方がこれに反対した。この段階では官軍は賊軍の正体が新撰組だとは知らず、近藤も大久保大和と偽名を名乗っていた。だから、あくまでも大久保大和で押し通すべきだ、というのが土方の考えだった。近藤はその意見に従って、官軍に申し開きのために出頭した。官軍東山道軍の総督府のある板橋へ身柄を移送された。近藤勇は、あくまでも自身は大久保大和であると言い張ったが、新撰組当時の近藤勇を知る者の面通しにより、その正体はばれてしまった。板橋の官軍総督府では、近藤勇の処遇について議論されたが、土佐藩の主導により処刑が決まった。土佐藩は、坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺の犯人を新撰組と信じて近藤勇を仇敵としてきたのである。
四月二十五日、板橋にて刑死(斬首)された。享年三十五歳。その後、首は京に送られ、三条河原で梟首された。

 新選組副長/土方歳三
 土方歳三(ひじかたとしぞう)は武蔵国多摩石田の人。1835(天保6)ー1869(明治2)年。剣術に熱心で、家伝の「石田散薬」という骨接打身の薬を行商しながら、各地の道場を訪ねたという。於琴(おこと)という三味線屋の箱入り娘と縁談があったが、「大望の前に結婚で拘束されたくない」として、婚約者という形になったという。 色白で撫肩の少し猫背だが、身長はすらりとしていて男っぷりがいい。人との対応には抜け目がなく、かつ妙才なかった

 副長。その厳格な人柄から「鬼の副長」と呼ばれ、隊士からおそれられていた。隊の実質的な戦略、戦術の指揮官として「新選組」の名を天下に知らしめたのは、彼の功績。1869(明治2).5.11日、戊辰戦争五稜郭の戦いにて戦死(享年35歳)。

天保六年 五月五日、武州(武蔵国)多摩郡石田村に豪農、土方義諄の四男(6人兄弟の末っ子)として生まれる。父の義諄は生まれる前に没し、母の恵津も六歳の時に病死している。兄に為三郎、喜六、大作、姉に周、のぶがいる。為三郎は盲目であったため喜六が家督を継ぎ、歳三は喜六に育てられた。
弘化二年 十一歳のとき上野の呉服商松坂屋に奉公に出されるが、番頭と喧嘩をして店を飛び出す。
嘉永四年 十七歳のとき大伝馬町の呉服屋(質屋の説あり)に奉公に出されるが、店の女中に手を出し辞めさせられる。
安政六年 三月九日、天然理心流の近藤周助の門人となる。天然理心流の斎藤彦五郎道場に入門する。そこで盟友、近藤勇、沖田総司と出会う。天然理心流目録。愛刀は会津十一代和泉守兼定。
文久三年 二月二十八日、浪士組に参加し入京する。
文久三年 八月十八日、八・一八の政変で南門を守衛する。
文久三年 九月十八日、芹沢鴨らを暗殺する。新選組副長として近藤を補佐し、尊攘派浪士の鎮圧に活躍した。
元治元年 六月五日、近藤とは別の隊の率い、遅れて池田屋に到着し尊攘派を鎮圧。
元治元年 七月十九日、禁門の変で長州軍を撃退する。
慶応元年 四月、隊士募集のため入京以来はじめて江戸に戻る。
慶応三年 六月二十三日、新選組が直参となり、見廻組肝煎格となる。
慶応三年 九月、大石鍬次郎とともに二度目の東帰。
慶応四年 一月三日、鳥羽伏見の戦いにおいて近藤の代わりに新選組を指揮する。
慶応四年 一月十日、富士山艦に乗船し江戸に帰還する。
慶応四年 三月六日、陽鎮撫隊を結成し、甲州勝沼に出陣、神奈川方面にいる菜葉隊に援軍を要請するが失敗。
慶応四年 四月三日、下総流山に布陣するが、新政府軍に包囲され退却。近藤救出の嘆願のため江戸へ向かう。内藤隼人と名乗る。
慶応四年 四月十一日、下総鴻之台で大鳥圭介らの旧幕府軍に加わり参謀になる。
慶応四年 四月十九日、宇都宮城を落とす。
慶応四年 四月二十三日、新政府軍に宇都宮城を奪還される。この戦いで足を負傷し六名の隊士と会津に向かう。
慶応四年 八月二十三日、母成峠の敗戦を聞き、庄内藩に援軍を要請しに行くが、米沢藩に通行を阻止される。仙台で榎本武揚と合流、蝦夷地へ向かった。
明治元年 十月二十六日、五稜郭に無血入城する。
明治元年 十月二十八日、額兵隊、彰義隊などを率いて松前藩を攻略。
明治元年 十二月十五日、蝦夷共和国政府を樹立。陸軍奉行並函館市中取締役兼海軍裁判局頭取に選出される。
明治二年 三月二十五日、宮古湾海戦で敗走。
明治二年 五月十一日、異国橋付近で銃弾が腹部を貫き戦死。享年三十五歳。最期は函館市内の異国橋付近で戦死と伝わるが定かではない。

 一番組隊長/沖田総司
 沖田総司(おきたそうじ)は武蔵国江戸の人。1842(天保13)年-1868(慶応4)年。幼名は宗次郎。総司郎、惣次郎、惣二郎とも。手紙に総二など署名されていることから「そうし」ではなく「そうじ」が正しい。背が高く色が浅黒い方で、少し猫背のように背を丸めていたが、いつも笑顔だった。よく冗談をいい、ほとんど真面目になっていることがない。新選組になってからも近所の子守や、子供相手に往来で鬼ごっこをやっていた。酒は呑んだが、女遊びはあまりしなかったらしい。剣は天賦の才があり、突きの三段仕掛けが一技にしか見えなかったほどの腕前。剣術を教える時は短気になり、近藤よりも恐れられていた。

 一番組隊長。天然理心流、撃剣師範。「三段突き」で知られる必殺剣を武器に、倒幕派志士を恐怖に陥れた天才剣士。数ある隊士の中から栄えある「一番隊」組長に抜擢された事実こそ、彼が「新選組最強」であった何よりの証である。隊で彼と双璧をなした永倉新八からは「猛者の剣」と評され、普段の稽古でも並の隊士では誰ひとり相手にならず、彼が本気で立ち向かえば局長の近藤ですら打ち負かすといわれていた。「池田屋事件」では室内での争闘中に喀血(かっけつ)し、それを近藤が殺傷血と勘違いしたという話が残っている。1868(慶応4).5.30日、肺結核により療養先の江戸千駄ヶ谷にて死去(享年27歳)。

1842(天保13)年 江戸麻布の奥州白河藩下屋敷で奥州白河藩士・沖田勝次郎の長男として生まれる。出生は不明なところが多く、生年は天保十三年と天保十五年説がある。父も沖田勝次郎、沖田林太郎の二説ある。母は不明。姉にはミツとキンがおり、幼くして父母を失った沖田は姉ミツに育てられた。
嘉永三年 九歳の時(12、13歳の説あり)、天然理心流、近藤周助の門人となる。江戸・市ヶ谷にあった天然理心流道場・試衛館に内弟子に入る。
安政五年 八月、八坂神社の献額の中に沖田惣次郎藤原春政の名があり、17歳で免許皆伝となっている。18歳で師範代を務めていた。沖田総司は、近藤の秘蔵っ子ともいえる存在。近藤が道場主を務める天然理心流の道場「試衛館」の塾頭。
文久二年 七月中旬、多摩方面に出稽古に出かけ、麻疹にかかり重態となる。
1863(文久3)年 二月二十八日、浪士組に参加し入京する。この頃、総司と名乗る。新選組では助勤、一番組隊長、撃剣師範。
文久三年 七月十八日、大阪力士と乱闘になる。
文久三年 八月十八日、八・一八の政変で南門を守衛する。
文久三年 九月十八日、芹沢鴨らを暗殺する。
元治元年 六月五日、池田屋で尊攘派鎮圧時、肺患により昏倒する。
元治元年 七月十九日、禁門の変で長州軍を撃退する。
1865(慶応元)年 二月二十三日、兄のように慕っていた山南敬助を涙を呑んで介錯する。
慶応三年 六月二十三日、新選組が直参となり、見廻組格となる。
1868(慶応4)年 一月、肺結核ため、鳥羽伏見の戦いに出陣できず江戸に帰還する。
五月三十日、千駄ヶ谷池尻橋の植木屋平五郎方の離れで療養したが肺結核にて病死した。享年25歳(27歳)。

 二番組隊長/永倉新八
 永倉新八(ながくらしんぱち)は武蔵国江戸の人。1839(天保10)年-1915(大正4)年。二番隊組長、神道無念流、その卓越した剣の技量により撃剣師範を務めた。隊の生き残りのひとり、阿部十郎の述懐では、「(剣術の稽古においては)永倉のほうが沖田総司よりやや実力が上」とされている。「池田屋事件」でも、沖田総司らほかの隊士が続々と離脱する中、自らも手を負傷しながらも、近藤と共に最後まで修羅場を戦い抜いた。彼は明治以降、新選組に関していろいろな記述を残している。1915(大正4).1月、北海道小樽にて死去(享年77歳)。
天保十年 四月十一日、江戸下谷三味線堀り松前藩邸の長屋で松前藩江戸定府取次役、永倉勘次の子として生まれる。
嘉永六年 新道無念流二代目、岡田十松の門人となる。心形刀流の坪内主馬に学ぶ。島田魁とは坪内道場からの知り合い。
安政三年 10代で新道無念流免許皆伝となる。試衛館の食客。近藤をして「真剣で立ち会ったらわからないが、道場の稽古では歯が立たない」と言われた。
安政四年 脱藩する。
文久三年 二月二十八日、浪士組に参加し近藤らとともに入京する。新選組では助勤、二番組隊長、撃剣師範。新選組屈指(沖田と1、2を争う)の剣の使い手。
文久三年 七月十八日、大阪の力士と乱闘になる。
文久三年 八月十八日、八・一八の政変で南門を守衛する。
元治元年 六月五日、池田屋で尊攘派を鎮圧。奮戦する。
元治元年 七月十九日、禁門の変で長州軍を撃退する。
元治元年 八月下旬、近藤が増長した為、松平容保に建白書を提出する。
慶応三年 六月二十三日、新選組が直参となり、見廻組格となる。
慶応三年 十一月十八日、油小路事件で御陵衛士と戦う。
慶応四年 一月三日、鳥羽伏見の戦いにおいて二番隊を指揮する。
慶応四年 一月十二日、順動丸に乗船し江戸に帰還する。
慶応四年 三月六日、隊士を家来扱いする近藤勇と決別。甲陽鎮撫隊に加わり、甲州勝沼に出陣、柏尾の戦いに敗れる。
慶応四年 四月十一日、近藤、土方と決別し旧友、芳賀宜道の靖共隊(せいきょうたい)を結成し副長となる。その後、小山、宇都宮、田島、会津と転戦する。
明治三年 三月、旧松前藩医、杉村松柏の養子となる。戦後は剣術師範や道場を開いたりした。
明治八年 五月、杉村家を相続する。
明治十五年 北海道樺太集治監の剣術師範に招聘される。
明治十九年 剣術師範を辞職する。晩年は小樽で悠々自適の生活を送る。
大正二年 三月十七日、小樽新聞に六月十一日まで七十回にわたり「永倉新八回顧録/新選組顛末記」を連載する。現代に貴重な資料を残している。 東京板橋に新選組の慰霊碑も建立。晩年は近藤、土方の顕彰碑を立て新選組の汚名返上に尽力した。
大正四年 一月五日、小樽市で病没。享年七十七歳。「浪士文久報国記事」、「同志連名記」等の手記を残している。

 三番組隊長/斎藤一
 斎藤一(さいとう はじめ)は武蔵国江戸の人。1844(天保15)年-1915(大正4)年。流派不明、撃剣師範。酒豪。新選組の数少ない生き残りのひとりで、三番隊組長として沖田総司らと並び最強の隊士とうたわれた剣豪で、永倉新八に「無敵の剣」の名で「新選組最強の剣士のひとり」と評された。一説では隊士の中で最も人を斬った男とも、在京中の任務においてかすり傷ひとつ負わなかったとも云われている。寡黙な性格でもあった彼は、「スパイ」や「暗殺」といった特殊な任務もこなす器用さを備えていた。1915(大正4).9月、東京本郷にて死去(享年72歳)。
天保十五年 一月二日、明石藩足軽、山口祐助の次男として生まれる。播州明石脱藩と称するが、幕臣山口祐助(もと明石藩の足軽だったが御家人の株を買って幕臣になった)の次男だといわれる。一月一日の深夜(二日)に生まれたので「一」と名付けたとされる。本名は山口一だが、なぜ斎藤姓になったかも不明。江戸で生まれ育つ。
 剣は一刀流とされるが、これも不明。溝口派一刀流、または無外流(山口一刀流)とされる。
万延元年 19歳の時、江戸関口で旗本と口論となり殺害、京に逃げる。
文久三年 新選組に入隊する。新選組では助勤、三番組隊長、撃剣師範。
文久三年 七月十八日、大阪の力士と乱闘になる。
文久三年 八月十八日、八・一八の政変で南門を守衛する。
元治元年 六月五日、池田屋事件では土方隊として参加、尊攘派を鎮圧。
元治元年 七月十九日、禁門の変で長州軍を撃退する。
元治元年 八月下旬、近藤が増長した為、松平容保に建白書を提出する。
慶応三年 三月二十日、新選組を脱退し、間者として御陵衛士に加わる。
慶応四年 一月三日、鳥羽伏見の戦いにおいて殿を務め軽症を負う。
慶応四年 三月六日、甲陽鎮撫隊に加わり、甲州勝沼に出陣、柏尾の戦いに敗れ、近藤、土方と別れ会津に向かう。
慶応四年 閏四月二十五日、白河城の戦いで、負傷している土方に代わり新選組隊長として戦う。
慶応四年 八月二十一日、母成峠の戦いで敗走する。退却した猪苗代で土方と合流し、北進する土方や新選組本隊と別れ、会津に留まり会津の戦いに参戦。会津籠城の際、旧幕府軍は仙台に移行と決まるが、「今更、会津を見捨てるのは誠の義にあらず」と会津に残り如来堂の戦いで戦死したとされた。
慶応四年 九月五日、如来堂の戦いで敗走。降伏後、会津藩は改易され、斗南藩として1869年(明治2年)11月に再興を許され、斎藤も斗南藩士として下北半島へ向かう。
明治五年 警視局に入る。維新後も生存し、警視庁警部補や女子高等師範学校の庶務係などを務めた。警視庁創設当初から入庁し、警視庁退職後は東京教育博物館、女子高等師範学校の看守や書記などで警備を務めた。
1874(明治7)年 松平容保らが仲人となり会津藩大目付・高木小十郎の娘、時尾と再婚する。時尾は新島八重(山本八重子)の幼なじみで、家も近く、八重は、時尾の祖母に裁縫を習っている。鶴ケ城籠城に際し、男装する八重は髪の毛を切るが、その八重の髪の毛を切ったのが高木時尾と伝えられている。また、斎藤一と高木時尾の結婚では、元会津藩主・松平容保が上仲人、元会津藩家老・佐川官兵衛と山川浩(大蔵)、倉沢平治右衛門が下仲人を務めた。時尾は斎藤一との間に3人の子をもうける。
明治九年 二月十五日、長男、勉が生まれる。
明治十年 五月、西南の役で豊後口に出征し、勲章を受ける。
明治十二年 十月四日、次男、剛が生まれる。
明治十九年 七月一日、三男、龍雄が生まれる。
明治二十四年 四月、警視庁を退職し、高等師範学校に奉職する。
明治三十二年 四月、高等師範学校を退職し、女子高等師範学校書記を務める。
明治四十二年 女子高等師範学校を退職。
1915(大正4)年 九月二十八日、胃かいようにより病死。享年72歳。臨終時には床の間に座布団を重ね、端座し息を引き取った。

 新選組・斎藤一〔1〕明らかになってきた謎、「新選組・斎藤一〔2〕「誠義」を貫く」が詳しく検証している。研究者の間では、子母澤寛の「新選組遺聞」の記述にある斎藤一口述の「夢禄」の発見が大いに待たれている。

 六番組隊長/井上源三郎
 井上源三郎(いのうえげんざぶろう)は多摩日野宿北原の人。1829(文政12)-1868(慶応4)年。無口な人の良い人物だったらしい。近藤、土方の側近として相談役を務める。真摯篤実な性格で、地味ではあったが、新選組での役割は大きく、温厚な人柄で隊士からも慕われていた。普段は無口でおとなしいが、一度思い込んだらテコでも動かないところがあった。
多摩日野宿北原に八王子千人同心、井上藤左衛門の三男として生まれる。井上家は甲州武田家の家臣だった家柄で正徳三年以降、代々、八王子千人同心を務めた。
天然理心流、近藤周助の門人内弟子となる。
天然理心流免許皆伝となる。近藤や土方の兄弟子である。
浪士組に参加し入京する。新選組では助勤、六番組隊長。
八・一八の政変で南門を守衛する。
芹沢鴨らを暗殺する。
池田屋で尊攘派を鎮圧。
禁門の変で長州軍を撃退する。
新選組が直参となり、見廻組格となる。
鳥羽伏見の戦いで六番隊を指揮したが、銃弾を腹部に受け戦死。享年40歳。一緒に参戦した甥の井上泰助により、首と刀を寺の門前に埋めたとされるが、寺の名前は不明。

 十番組隊長原田左之助
 原田左之助(はらださのすけ、佐之助)は伊予国松山の人。1840(天保11)年-1868(慶応4)年。種田流槍術の使い手。戦国時代の豪傑、本多忠勝や加藤清正も戦場では槍を多用しており、刀よりもより実戦的な武器として、「槍の使い手こそ最強」という見方もある。短気者ですぐに「斬れ斬れ!」と言ったらしい。新選組が関わった事件には、ほとんど参加している豪傑。なかなか怜悧な男で、かつ容姿万端、美男であった。目上の者に対して傲慢でおとなしく言うことを聞かず、万事逆らうことがあり、憎まれたことがあったようだ。気短でせかせかした男で、二言目には斬れ斬れと怒鳴っていたが、いい男。郷里へ帰った頃、事情があって切腹を図り未遂に終わるが、その腹の傷跡が後まで残っていた。また、裸で褌一つに頬冠りをして、オランダ銃隊が使う太鼓を革帯で肩から下げ、バチでドンドン鳴らしながら歩いた奇行も伝わる。酔っ払うと着物の前を広げて腹を出してぺたぺたと叩きながら、「金物の味を知らねえ奴なんぞとは違うんだ、この切腹の跡を見ろ」と言って、左の方から真一文字に腹を半分ばかり切った傷跡を出しては見せていた。坂本龍馬暗殺事件では、現場の遺留物に彼のものとする鞘(さや)が見つかり、容疑者のひとりに挙げられた。1868(慶応4).5.17日、戊辰戦争江戸上野の戦いにて戦死(享年29歳)。
伊予松山で松山藩中間、原田長次の長男として生まれる。
近藤の天然理心流試衛館道場食客の一人。槍術宝蔵院流(種田流という説あり)の達人。
江戸定府目付役、内藤家の小使いになる。
郷里の松山へ帰り、若党になる。
浪士組に参加し入京する。新選組では十番組隊長。
池田屋で尊攘派を鎮圧。
禁門の変で左肩に軽傷を負う。
近藤が増長した為、松平容保に建白書を提出する。
仏光寺の町人、高嶋屋長兵衛の次女、菅原マサと結婚する。
長男、茂が生まれる。
三条制令事件で軽傷を負う。
油小路事件で御陵衛士と戦う。
次男が生まれるが、八日で早世する。
鳥羽伏見の戦いの前には、妻マサに当座の生活費だとして二分金ばかりで二百両を渡した。
鳥羽伏見の戦いで敗走し、江戸に帰還。
甲陽鎮撫隊に加わり、甲州勝沼に出陣、柏尾の戦いに敗れ江戸に帰還する。
近藤、土方と決別し芳賀宜道と靖共隊を結成し副長となる。
日光へ進軍中の下総山崎宿で靖共隊から離脱し、江戸に帰還する。
上野戦争で負傷する。負傷後死去とされるが、生存して満州で馬賊になったという説も有り。
本所猿江町の神保山城守邸で死亡(享年29歳)。

 監察/山崎烝
 山崎烝(やまざきすすむ)は阿波徳島の人。不明~1868(慶応4)年。実家の鍼医が富商に患者を持っていたせいで、商家に顔がきいたという。丞、蒸、進、晋とも。性質温厚にして、よく学び、黙々と事に耐える。
船場高麗橋の鍼医の次男。出生は不明。阿波徳島生まれ、または大阪の鍼灸医、林五郎左衛門の息子とされる。林信太郎とは従兄弟とされる。
大坂谷町の鏡心明智流の道場で剣を学ぶ。
新選組に入隊する。新選組では助勤、諸士取調役並監察。
池田屋事変では薬屋に扮し、内部から手引きしたとされるが創作である。
慶応元年 閏五月、松本良順が屯所に訪れた時、救急医療法を学び「我は新選組の医者なり」と笑って語った。
長州訊問使、永井尚志の供として近藤らと広島に行く。
前大納言、中山忠能を訪ねるが、門前払いを受ける。
新選組が直参となり、見廻組格となる。
天皇側近、鷲尾隆聚の臣下、本多勘解由、山岡将曹を捕縛に行くが逃げられる。
鳥羽伏見の戦い前は銃創を負った近藤や肺結核である沖田の看病をした。
鳥羽伏見の戦いで戦死。享年三十五歳(三十六歳)。大阪の京屋忠兵衛方まで送られ死亡したとされるが、淀、または橋本で戦死、また江戸帰還中の船の中で死亡の説もある。

 七番組隊長/谷三十郎
 谷三十郎(たにさんじゅうろう)は備中高梁の人。不明-1866(慶応2)年。
出生年月は不明。備中高梁に備中松山藩士、谷三治郎の長男として生まれる。谷万太郎と昌武の兄。原田左之助の師匠で「谷の槍は千石もの」とうたわれた。
種田流槍術を使い、隊内一の槍の達人といわれる。原田左之助の槍の師匠。剣は直心流、神陰流。新明流とも。種田流槍術を学び「谷の槍は千石もの」と言われたが、万太郎の子孫に伝わる話では剣だけのようだ。
御近習役を務めていたが失策により、お家断絶。大阪に行く。
新選組に入隊する。次弟万太郎、末弟周平と共に新選組に入隊。新選組では助勤、七番組隊長、槍術師範。周平は近藤勇の養子となる。
池田屋で尊攘派を鎮圧。
禁門の変で長州軍を撃退する。
ぜんざい屋事件で足に軽傷を負う。禁門の変後の残党狩りで、西本願寺の道場で剣術を教えていた中田九一郎を捕縛し「新選組は見かけほどに強い隊士がおらず、いつも自分が先頭に立たされてしまう」などと語ったとされる。
慶応二年三月、田内知の介錯に失敗し、信用を失うという話があるが、田内が切腹したのは慶応三年であり創作である。
斎藤一に暗殺された、浪人に酒の上で殺されたなどの説があるが、明らかになっていない。記録では急病死とある。

 河合耆三郎
 河合耆三郎(かわいきさぶろう)は播州高砂の米問屋の息子。お店の若旦那ふうの、気だての優しい人物で隊中で人気があり、算盤や帳簿付けが上手なところから、隊の会計方を勤めた。

 大石鍬次郎
 大石鍬次郎は一橋家の家臣の子として江戸で生まれる。日野で大工をしていたという。小野派一刀流の使い手。元治元年11月に入隊。「人斬り鍬次郎」の異名を持つ。沖田と並び称される。

 四番組隊長/松原忠司
 松原忠司(まつばらちゅうじ)は播磨国小野に生まれる。不明-1865(慶応元)年。文久3年5月に入隊。関口流柔術師範の免状を持ち、入隊以前に自らの道場を開いていたほどの達人だった。隊では柔術師範を務めた。四番隊組長。壬生心中の話で知られる。剣術も得意とし、その風貌から「今弁慶」の異名をとった。1865(慶応元).9.1日、京都にて病死(享年31歳)。死因は諸説あり。
出生は不明。播州小野か大阪浪士とされる。坊主頭なので、僧であった可能性もある。坊主頭に鉢巻を締め、大薙刀を持ち「方今の形勢、累卵の如し、天下の有志これを知るや否や」と声高らかに闊歩していたとされる。
第一次隊士募集で新選組に入隊する。新選組では助勤、四番隊隊長、柔術師範。
八・一八の政変で南門を守衛する。
池田屋で尊攘派を鎮圧。
禁門の変で長州軍を撃退する。
慶応元年 夏、祇園からの帰り道に紀州浪人、安西某と口論となり酔った勢いで殺害。酔いが冷めると責任を感じ、亡骸を壬生天神横丁の安西某の家に運ぶと、病気の子供と妻女がいた。亡骸を見て取り乱した妻女に真実を語ることができずに、同情から面倒を見るようになった。それが土方の耳に入り「人妻に横恋慕するために、夫を斬殺した」と誤解されることになり、切腹を図るが篠原泰之進に止められ一命は取りとめた。しかし土方とは上手く行かず、安西の妻とは深い仲に発展していく。さらに腹の傷が悪化して自暴自棄となり、平隊士に落とされた挙句、安西の妻と無理心中したとの説がある。恐らくは、なんらかの失策により切腹させられたようである。また切腹傷の悪化により死亡の説もある。

 島田魁(しまだかい)
 島田魁(しまだかい)は、濃州(美濃)厚見郡雄綱村の人。1828(文政11)年-1901(明治33)年。美濃大垣脱藩。新選組一の巨漢で身長182センチ、体重150キロ。その怪力からあだ名は「力さん」と言われていた。島田の怪力が役に立ったのが鳥羽・伏見の戦いの時で、完全武装していたため、高い塀を越えられなくなって困っていた永倉新八を軽々と持ち上げて塀の上に引っ張り上げたというエピソードが残っている。島田魁は新撰組の歴史の生き証人とも言える人物である。新撰組の結成当初から最後まで見届けた数少ない一人。永倉新八や斉藤一と同様に生存した。硬骨漢だったらしく後日談として、明治政府の顕官となった榎本武揚に、懐かしいからと宿に招かれたが、用があれば向こうから出向くのが筋だと断った話がある。新選組一の巨漢。身長六尺余(百八十二センチ)体重四十貫(百五十キロ)で、よく相撲取りに間違えられた。酒は一滴も飲めず、大福餅が好物で二十~三十個は平らげたという大の甘党。
文政十一年 一月十五日、濃州(美濃)厚見郡雄綱村に郷士・近藤伊右衛門の次男として生まれる
天保十二年 八月、木曽川の氾濫による御用材流出の責任を取って、父母が自殺する。
弘化四年 尾張藩、遠藤家の奉公に入る。
安政四年 29歳の時、江戸の飯田町にあった心形刀流、坪内主馬の門人となり坪内道場で学ぶ。永倉とはここで知り合った。名古屋に遠征し城主の御前試合に出て優勝す。その時、大垣藩士の島田歳に目をつけられ養子になる。この頃、後に新撰組に加入する谷万太郎に種田宝蔵院流の槍を習い、免許皆伝を受けている。
文久三年 脱藩する。
1863(文久3)年 新選組に入隊する。新選組では調役並監察、二番組伍長。
文久三年 七月十八日、大阪の力士と乱闘になる。
元治元年 六月五日、池田屋事変で探索及び戦闘を行う。この時の活躍で褒賞金をもらっている。以後、新撰組が関与した大きな事件に関わり、三条大橋制札事件、油小路の変などにも参加することになる。
元治元年 八月下旬、近藤が増長した為、松平容保に建白書を提出する。
慶応元年 八月十五日、市中巡察で知り合った、西村定七の娘、さくと結婚する。
慶応二年 三月、長男、魁太郎が生まれる。
慶応二年 九月十二日、三条制令事件で土佐藩士を捕殺する。
慶応三年 十一月十八日、油小路事件で御陵衛士と戦う。
慶応三年 十二月十八日、伏見街道の墨染あたりで御陵衛士の残党に狙撃された近藤の馬の尻を槍で叩いて逃す。
慶応四年 一月、鳥羽伏見の戦いで敗走し、江戸に帰還。鳥羽伏見の戦いでは、重武装で土塀に飛びつけない永倉を軽々と引き上げた。
慶応四年 三月六日、甲陽鎮撫隊を結成し、甲州勝沼に出陣、柏尾の戦いに敗れ江戸に帰還する。
慶応四年 四月三日、下総流山に布陣するが、新政府軍に包囲され退却。
慶応四年 四月十一日、下総鴻之台で大鳥圭介らの旧幕府軍に加わり役職・軍監に就く。。
慶応四年 四月十九日、宇都宮城を落とす。
慶応四年 四月二十三日、宇都宮争奪戦に参加するも新政府軍に宇都宮城を奪還される。この戦いで足を負傷した土方を背負って退却した。
慶応四年 閏四月二十五日、白河城の戦いで負傷する。
慶応四年 八月二十一日、母成峠の戦いで敗走する。
明治元年 十月二十六日、五稜郭に無血入城する。箱館新撰組の頭取になる。土方は陸軍奉行並として榎本軍の陸戦部隊全体の指揮を取ったため、島田が相馬主計と共に実質的に新撰組を指揮した。
明治元年 十月二十八日、土方と共に松前藩を攻略。
明治二年 三月二十五日、宮古湾海戦で敗走。
明治二年 五月十五日、弁天台場で降伏する。 鳥羽伏見敗戦後、東照大権現と書かれた旗印を腹に巻きつけ戦い続けた。土方の最期に付き添ったという話があるが、弁天台場で奮戦しているので創作である。五稜郭降伏時にはただ一人、佩刀で恭順に望んだ。
明治二年 十一月二十日、名護屋藩お預けになる。
明治四年 九月二十八日、次男、柳太郎が生まれる。
1872(明治5)年 六月、解放され、帰京する。帰京後は雑貨屋、仏具屋の店員などをして、明治九年剣術道場を開くが明治十九年頃には門人も減り、夜は西本願寺の守衛もしていた。
明治七年 六月、長女、と免が生まれる。
1876(明治9)年 剣術道場を開く。
明治九年 八月、三男、清次郎が生まれる。
明治十一年 十二月、四男、富三郎が生まれる。
明治十七年 五男、末之烝が生まれる。
明治三十三年 三月二十日、西本願寺境内で病没。享年72歳。新政府に出仕を求められても、死んだ仲間たちの慰霊を弔うという理由で断っていたという。

 五番組隊長/武田観柳斎
 武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)は出雲母里の人。不明-1867(慶応3)年。
出生は不明。出雲母里で生まれたとされる。医生。甲州流軍学者。
若い頃は陽明学を学んだ勤皇家で、佐幕派の母里藩で入牢しているようだ。脱獄して江戸へ逃亡後、福島伝之介に学ぶ。
新選組に入隊する。新選組では五番組隊長、文学師範。近藤からは軍師として信頼される。
池田屋事変では枡屋喜右衛門を捕縛。戦闘でも天井に潜伏した志士を捕殺する。池田屋で尊攘派を鎮圧。
明保野亭事件で指揮官として出勤。
禁門の変で長州軍を撃退する。
近藤と永倉の対立を、生命を賭して和解させる。元治元年八月下旬、近藤の増長に永倉、斎藤、原田らが反発し、松平容保に建白書を提出したおりには、生命を賭して和解させた。
蹴上村奴茶屋で金策強談の薩摩藩士を捕殺。
長州訊問使、永井尚志の供として近藤らと広島に行く。
甲州流軍学は一時期、新選組の基本方針となるが、慶応二年以降は洋式軍制に移り存在感がなくなる。閑職に追いやられ伊東らに接近するが、多弁で独善的な為、敬遠され除隊処分となる。
油小路竹田街道にて、新選組に暗殺される。 最期は、倒幕運動を行なった為、新選組によって暗殺される。また薩摩藩に接近した罪により、鴨川銭取橋で斎藤に暗殺されたという説もある。

芹沢系

 巨魁隊長/芹沢鴨
 芹沢鴨(せりざわかも)。1830(天保元)年-18693(文久3)年。本名は下村継次。

 ひとかどの人物だが短気でわがまま、酒乱で乱暴者だったといわれるが、酒が入っていない時は意外に親切な面があったらしい。神道無念流戸ケ崎熊太郎の門人。免許皆伝の達人。隊の派閥抗争で近藤派に暗殺される。「芹澤鴨(せりざわ かも)」は、めっぽう剣が強かったといわれており、「まともな斬り合いでは倒せないから」と、寝込みを集団で襲われて落命した。芹沢の水戸学「尊王敬幕」思想は近藤勇に影響を与えたのだろうか。芹沢光幹、下村継次、木村継次。色白で背の高く、恰幅のいい人物で、酒に酔ってないことはなかった。武田耕雲斎に師事し、天狗党になったというが定かではない。
天保元年 常陸水戸で芹沢貞幹の三男として生まれる。常陸水戸芹沢村にあった芹沢城城主の末裔とされる。文政10年(1827年)、常陸国行方群玉造町芹沢村(現茨城県行方群玉造町)、芹沢城主の末裔で36代目にあたる豪士、芹沢貞幹の三男に生れる。
江戸の戸ヶ崎熊太郎門下で神道無念流皆伝。新選組では近藤の上で巨魁隊長と称していたようだ。 幼少の頃より力が強くワンパクであったが、人望厚く、剣客であり、絵が上手く、子供たちに大人気だった。青年時代は、水戸学と尊王攘夷思想を延方(のぶかた)郷校で学び、剣術は岡田十松の神道無念流を戸賀熊太郎の元で鍛え、免許皆伝の腕前であった。
 安政6年(1859年)、前年、大老井伊直弼による勅許なしの日米通商条約調印に際し、天皇からの勅書預かりうけた水戸藩であったが、これを返納せよとの幕府に対し、水戸藩勤王家の武田耕雲斎が水戸天狗党を結成する。芹沢はこれに馳せ参じ、天狗党で三百余名を率いた。この時に意見が対立した部下3名を斬り殺したことで罪を問われた芹沢は投獄、処刑されそうになるが、偶々に出た恩赦の為に難を逃れる。
 天狗党においては木村継次とも名乗っていたが、これは勤王家の下村継次にあやかり名乗ったともいわれる。よって本名は芹沢鴨、しかし本当は木村継次が本名だとする説もある。その後、芹沢は、新見錦、野口健司、平山五郎、平間重助らと共に行動を共にするようになる。
文久三年 二月二十八日、浪士組に参加し入京する。文久3年(1863年)、清河八郎が幕府に献策した将軍警護の浪士隊の話を聞くと、新見らと参加して上京する。
文久三年 三月十二日、浪士組から袂を分け、会津藩御預かりとなり壬生浪士組を結成する。しかし、八郎の回天の策に真っ先に意を反し、近藤勇ら天然理心流一門と同じく江戸へは帰らず京都壬生に残留、会津藩藩主・松平容保支配のもとに壬生浪士組が結成される。
文久三年 七月十八日、大阪の力士と乱闘になる。
文久三年 八月十二日、大和屋を焼き討ちにする。
文久三年 八月十八日、八・一八の政変で、見張番所の会津藩兵に見咎められ顔先に槍を差し出されると、豪胆にもその槍の穂先を鉄扇で扇ぎたてた。「8月18日の政変」では近藤勇らとともに壬生浪士組を率い、京都御所の警護を担うが、会津藩士に行軍を止められ戸惑っている近藤をみるや、会津藩士に突き立てられた槍を鉄扇で叩き落し、「会津中将御預、壬生浪士隊ある!!公用方の命なればここを通らせていただく!」と一喝し、その的確な指揮、迅速な行動が高く評価され、壬生浪士組はその実力を認められる。壬生浪士組の名は朝廷の耳に聞き及び、朝廷から直々に下賜金を賜る栄誉を受けた。さらに、その日のうちに松平容保より正式に京都の治安維持を命ぜられ、「新撰組」の名を賜る。芹沢は局長筆頭の地位につく。
 「新選組遺聞」の騒擾日記の中に、芹沢鴨について次のような記述が残っている。「芹沢と申す者は、飽くまでも勇気強く、梟暴の者にて配下の者、己が気に合わざることこれ有り候えば、死ぬ程打擲致し候こと之あり候由」。生まれ持った強腕の芹沢に、鉄扇で殴られた者は昏倒したと言われ、愛用の鉄扇には「尽忠報国之士芹沢鴨」と刻まれ、重さは三百匁もあったという。ところが、その乱暴振りから芹沢一派の存在が問題視される様になる。新選組結成時から、芹沢は隊士を率いて京の町でやりたい放題で、大和屋を脅迫し、挙げ句に倉に放火した(一説によると倉に大砲を打ち込んだとも)事件や、大阪鴻ノ池を強談のうえ二百両を得たり、島原角谷において暴れ屋内を破壊するなど、芹沢の乱暴狼藉の暴状は、治安維持の命令を受けた身において有るまじき行為である。京都守護職にしても芹沢らをこのまま放置する訳にもいかなくなったのだった。もう1人の局長・近藤 勇も決断に迫られる。
1863(文久3)年 九月十八日、近藤は、芹沢鴨、平山五郎、平間重助の粛正を決行する。芹沢一派を襲撃したのは土方歳三、沖田総司、原田左之助、山南敬介である。寝所で泥酔し寝ていた芹沢は、布団の上から突き刺され一命を落とす。近藤らは芹沢の死を攘夷派の襲撃によるものとし、盛大な葬儀のうえ壬生寺に葬った。この襲撃は京都守護職が命じたとされる説もある。八木源之丞邸で暗殺される。享年三十四歳(三十二歳、三十八歳)。十六日という説もある。その夜は大雨だったと云われている。

 新見錦
 新見錦(しんみにしき)。1836(天保7)年~1863(文久3)年。親見と署名されていることから「にいみ」ではなく「しんみ」が正しい。田中伊織。
天保七年 水戸で生まれる。出生は不明で、水戸浪士とだけ伝わる。
神道無念流岡田助右衛門の門人で免許皆伝。
水戸脱藩。芹沢鴨の腹心。
文久三年 二月二十八日、浪士組に参加し入京する。壬生浪士組となってからも文久三年四月以降の記録は皆無であり不明である。
文久三年 三月十二日、浪士組から袂を分け、会津藩御預かりとなり壬生浪士組を結成する。
新選組では局長、副長。
芹沢鴨暗殺の数日前に、祇園の料亭「山緒」で詰め腹を切らされた。最期は隊規を犯し、祇園の貸座敷、山緒で切腹したという説があるが、この頃、局中法度も軍中法度も存在しないので創作だろう。ほとんどのことに関して謎の人物である。
文久三年 九月十六日、死亡する。享年二十八歳。

 平間重助
 芹沢鴨と同郷の芹沢村の出身。芹沢鴨に神道無念流を学んだ。芹沢が屯所で暗殺された時に逃走。その後の消息は不明。

 平山五郎
 姫路出身。神道無念流の免許皆伝。国元で花火事故により左目を失明した。めっかちの平山。芹沢鴨と共に斬殺される。

 野口健司
 水戸出身。神道無念流百合元(ゆりもと)昇三の門人。永倉新八も同道場に修行したことがあり、顔なじみだったらしい。芹沢鴨の暗殺後も隊内に残るが、切腹。

伊東系

 新選組参謀/伊東甲子太郎
 伊東甲子太郎(いとうかしたろう)は常陸国志筑の人。1835(天保6)年~1867(慶応3)年。本名は鈴木大蔵。宇田兵衛。性格温和にして敏達、しかも慷慨義侠の心がある。美男子で教養高く和歌にも通じる。鈴木三樹三郎の兄で、幼年期は父、専右衛門の閉門蟄居により祖母の実家で三樹三郎と暮らす。

 北辰一刀流、文学師範。近藤、土方に次ぐ新選組のナンバー3で、深く学問にも通じ、文学師範も兼ねた学者肌の人物でした。参謀。佐幕派の新選組にありながら、同時に徳川幕府の限界を見通していたひとりで、内部から新選組を勤皇派へ変革させようと試みている。しかしそれが仇となり、最後は近藤らによって暗殺された。慶応3年11月18日、内部抗争により京都油小路にて謀殺(享年33歳)。

天保六年 常陸国新治郡中志築に志築藩郷目付、鈴木専右衛門の長男として生まれる。幼少の頃、父の鈴木忠明が常陸志筑を脱藩したため、一族が領外追放処分となった。
水戸に遊学し弘道館、金子建四郎に入門、神道無念流を学ぶ。さらに北辰一刀流の伊藤精一に学んだ。伊藤精一の没後、遺言で娘と結ばれ伊藤姓を名乗り道場を継いだ。背が高く美男。水戸学の影響から尊王攘夷を唱えていた。水戸学、国学により尊攘思想となる。武田耕雲斎と交流があったいうが定かではない。
文久元年 江戸深川佐賀町の北辰一刀流、伊東誠一郎道場の塾頭を務める。
文久元年 伊東誠一郎の娘ウメと結婚し、誠一郎死後、道場を継いで伊東姓になる。
水戸天狗党の挙兵援助を、知人の忠告を聞き入れて断念する。
旧知の藤堂平助の勧めにより新選組に入隊する。この時、伊東大蔵という名を干支にちなんで甲子太郎と改名。新選組では参謀、文学師範。
長州訊問使、永井尚志の供として広島に行き諸藩士と交わる。
広島出張の際に老中小笠原長道に会い、長州の寛大な処置を進言する。
九州遊説のおり孝明天皇の御陵衛士を拝命。新選組内でも勤王活動を始め、薩摩藩脱藩の富山弥兵衛の入隊をとりなし、六角獄舎に繋がれてた長州藩元奇兵隊総官の赤根武人らの釈放にも尽力した。一時は近藤よりも勢力があった。
新選組から分離し御陵衛士を結成。
坂本竜馬に身の危険を知らせに行くが、聞き入れられず。
近藤暗殺を謀るが、斎藤が離反し失敗に終わる。
七条油小路南の本光寺門前で新選組に暗殺される。享年三十三歳。

 八番組隊長/藤堂平助
 藤堂平助(とうどうへいすけ)は江戸の人。1844(天保15)年-1867(慶応3)年。試衛館の食客の一人。南部与七郎。魁先生という渾名がある。近藤勇の四天王のひとりで戦闘では必ず一番に突入する「魁(さきがけ)先生」こと「藤堂平助」。
江戸で生まれる。伊勢の津32万石の藩主藤堂和泉守が妾に生ませた子といわれる。出生は不明。江戸生まれ。伊勢津藩藤堂和泉守の落胤ともいわれる。
剣はお玉が池の千葉道場で学んだとあるが、直接には深川で北辰一刀流の道場を開いていた伊藤甲子太郎に教わったらしい。小兵であったが、なかなか剣術を使い、学問もあった。神田お玉ヶ池千葉周作道場で北辰一刀流を学び十代で目録(免許に匹敵)取得。のち天然理心流試衛館道場で近藤の内弟子となる。
浪士組に参加し入京する。
新選組では八番組隊長。若くして剣の才能もあり最年少組長。
八・一八の政変で南門を守衛する。
池田屋で尊攘派鎮圧時、額を斬られ重傷を負う。 池田屋事件では庭先で戦ったが、垣根から一人の志士が撃ち込んで来て、眉間を斬られ貧血状態の重傷となる。藤堂の刀はささらの如くであったと近藤が手紙に書いている。
禁門の変で長州軍を撃退する。
江戸に入り、伊東甲子太郎に新選組への入隊を勧める。この伊東入隊が平助の人生の岐路となった。
新選組から分離し御陵衛士に加わる。慶応三年三月、伊東が御陵衛士を拝命し、新選組を離脱すると藤堂もこれに従う。
七条油小路にて、新選組に斬殺される。伊東の亡骸が道に捨て置かれているのを運びに来たところを新選組に取り囲まれ、「平助だけは助けよ」との近藤や土方の思いもむなしく斬りあいの末、命を落とすことになった。享年二十四歳。 油小路の変では、全身十数ヶ所の深手を負い、溝の中に仰向けに倒れて絶命したという。永倉は近藤から「まだ若い有為の人材であるから、できるならば助けたい」と言われやり過ごすが、三浦常三郎が後ろから袈裟掛けに斬りつけた、また振り向いたところを額から鼻にかけて斬り込まれたという説がある。その亡骸は二日間放置され、二十日の夜に新選組が引き取り、光緑寺に埋葬された。

 篠原泰之進
 篠原泰之進(しのはらたいのしん)は筑後国生葉郡高見村の人。1828(文政11)年-1911(明治44)年。篠塚友平、秦河内、秦泰之進、秦林親。伊藤甲子太郎の友人。
文政十一年 十月二十日、筑後国生葉郡高見村に石工、篠原元輔の長男として生まれる。久留米藩、江戸定府の下級藩士の次男にうまれた。
要心流剣法、良移心倒流柔術。
お玉が池の千葉道場に学び、深川佐賀町に道場を開いていた伊藤甲子太郎と親交を結び、共に新選組に加わった
安政五年 江戸に出府する。
文久三年 神奈川奉行支配下で横浜外国人居留地の警備の任につく。
文久三年 加納鷲雄の紹介で伊東甲子太郎と出会う。
慶応元年 五月十日、伊東甲子太郎らに遅れて、新選組に入隊する。新選組では諸士取調役兼監察、柔術師範。
慶応二年 二月十一日、広島出張の際に伊東と共に勤皇活動を行なう。
慶応三年 三月二十日新選組から分離し御陵衛士に加わる。
慶応三年 十一月十八日、油小路の変で逃走し、伏見薩摩藩邸で保護される。
慶応三年 十二月十八日、阿部十郎らと伏見街道の墨染あたりで近藤を銃撃する。
慶応四年 一月、鳥羽伏見の戦いで薩摩軍として参戦、のち赤報隊に加わる。
維新後は弾正台に出仕して実業界へ進む。晩年は敬虔なクリスチャンとなった。
明治四十四年 六月十三日、死亡する。享年84歳。

 九番組隊長/鈴木三樹三郎
 鈴木三樹三郎(すずきみきさぶろう)は常陸国新治郡中志築の人。1837(天保8)年-1919(大正8)年。三木荒次郎、三木三郎。
常陸国新治郡中志築に志築藩郷目付、鈴木専右衛門の次男として常陸志筑に生まれる。伊藤甲子太郎の実弟。
幼年期は父、専右衛門の閉門蟄居により祖母の実家で兄、甲子太郎と暮らす。のち寺内増右衛門の養子になるが、酒の失策で離縁され鈴木姓を名乗ることが許されず、三木荒次郎と名乗る。
神道無念流を学ぶ。甲子太郎の江戸道場で修業したとされる。
元治元年 11月、伊東甲子太郎とともに、新選組に入隊する。新選組では九番組隊長、諸士取調役兼監察。
油小路の変では見張り役だった為、逃走に成功し、伏見薩摩藩邸に駆け込み保護される。
鳥羽伏見の戦いで薩摩軍として参戦、のち赤報隊に加わり三番隊長として指揮する。
京で永倉新八と会い、襲撃を企てるが未遂に終わる。
帰京し投獄される。釈放後は軍曹となり、会津に出陣するが終戦の為、帰京。 維新後には司法、警察畑を歩んだ。
坂田警察署長を退職する。
茨城県石岡市で天寿を全うする。享年八十二歳。

 服部武雄
 服部武雄は播磨国赤穂に生まれる。1832-1867。

 元治元年11月伊藤甲子太郎らと共に入隊。剣術の達人で、その剣技は 「二刀流」を自在に操る達人で隊内随一といわれた。のちに彼は「新選組の内部抗争」により命を狙われ、油小路事件では二刀流で奮戦し、そのときは自分ひとりで30人を相手に死闘を繰り広げた末に討死にした。二十数カ所を斬られ絶命するまでに、10人以上の相手を負傷させ、死してなおその顔色はまるで生きているかのようだったとも語り伝えられている。慶応3年11月18日、内部抗争により京都油小路にて謀殺(享年36歳)。

 阿部十郎
 阿部十郎は出羽国羽広の人。1837–1907。流派不明 砲術師範。

 鉄砲や大砲の射撃を専門とする砲術師範指南役。新選組というと、もっぱら剣のイメージが強いが、実際は銃、大砲も所持しており、これらの訓練も日常的に行っていた。後に内部抗争により新選組を脱退すると、復讐のため近藤勇を京都伏見墨染にて銃撃し、右肩に重傷を負わせた。明治40年1月、東京にて死去(享年71歳)。


新撰組内処刑系

 山南敬助
 山南敬助(さんなんけいすけ)は陸奥仙台の人。1833(天保4)年-1865(慶応元)年。「三南」と書かれた史料があるので「さんなん」と読むのが正しいという説は賛成できない。あだ名が「さんなん」で、それを漢字で書いただけとも考えられる。敬介、啓輔、啓助、啓介とも。背はあまり高くなく、色白で愛嬌のある顔をした温厚な人物。学問もあり、剣術も達者。
天保四年 陸奥仙台の剣術師範、山南某の次男として生まれる。
江戸に出て神田お玉が池の千葉道場に入門。北辰一刀流を学んだ。
ある日試衛館を訪れた山南は、近藤勇と試合をして敗れ、弟子入りしたといわれる。
万延元年 天然理心流試衛館の食客となる。
文久三年 二月二十八日、浪士組に参加し入京する。
新選組では副長、総長。
文久三年 七月十八日、大阪の力士と乱闘になる。
文久三年 八月十八日、八・一八の政変で南門を守衛する。
文久三年 九月十八日、芹沢鴨らを暗殺する。
元治元年 病を患い、面会もできないほどとなる。
思想の相違と土方歳三との確執から隊を脱走する。
慶応元年 二月二十二日、沖田総司に大津宿で発見される。
慶応元年 二月二十三日、脱走の罪により、切腹。享年三十三歳(三十歳)。 最期は明里という二十一、二歳の島原遊郭の元天神が前川壮司邸の窓越しで、監禁されている山南との別れを惜しんだという哀話が残っている。

 佐々木愛次郎
 恋人あぐりに局長芹沢鴨が横恋慕しているという隊士佐伯又三郎の言を信じて、隊を脱走。待ちかまえる佐伯たちに斬殺される。あぐりは暴行され自害。芹沢の横恋慕というのは、佐伯が佐々木の恋人を狙っての作り話という説があり、このため佐伯は芹沢に斬られる。

見回り組系

 佐々木只三郎
 佐々木只三郎(ささきたださぶろう)は陸奥国の会津の人。1834(天保4)年-1868( 慶応4)年。

 1833(天保4)年、陸奥国の会津藩領内(福島県)において代々会津藩士として仕えた家柄である佐々木源八の三男として生まれる。長兄は、会津藩重臣公用人の手代木勝任(てしろきかつとう)直右衛門。藩の師範役羽嶋源太に「会津五流」と総称される剣の流派の一つの神道精武流を学び奥義を極めている。20才前には、師の羽嶋をも凌いだとも言う。また、沖津庄之助に従って槍術を学んだ。歌人としても知られた鈴木大之進について和歌も学んでおり文武の人でもある。

 1860(万延元)年、只三郎は、江戸に出府。三男ということもあり親戚であった幕臣旗本にして幕府御書院番与力(ごしょいんばんよりき)の佐々木矢太夫の養子となり、家督を継いで浅草堂前の組屋敷に居住した。「小太刀日本一」と称され、幕府講武所の剣術師範を務めたと伝えられる。講武所とは、1855(安政2)年に幕府がつくった武術を学ぶための訓練所である。

 京都守護職の会津藩主・松平容保に従う兄・勝任を動かし、清河八郎の策を容れるよう働きかける。浪士組結成に伴い、取締並出役の一人に選ばれ京都へ上る。浪士組決裂時、京都残留を決めた近藤勇らを京都守護職の支配下に置くように取り計らった。1863(文久3)年江戸へ戻り、麻布一の橋で窪田泉太郎などと共に浪士組の清河八郎を暗殺したと云われている。通りかかった清河八郎に声をかけ、清河が笠をとって挨拶しようとした瞬間、背後から数人が斬りかかり、正面より佐々木只三郎が清河の首筋を断ち割ったと伝えられている。

 1864(元治元)年、京都見廻組の与頭勤方(つとめかた)に抜擢される。組頭は備中浅尾藩主、蒔田広孝と交代寄合、松平康正の二人。新選組が、出自は問わない代わりに腕自慢を集めたのに対し、見廻組は旗本の次男、三男を集めた、いわばエリート集団であった。見廻組は新撰組と共に尊攘派志士から恐れられた。禁門の変にも出動している。

 元見廻組隊士・今井信郎の証言から、1867(慶応3)年、京都近江屋で土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺したとされている(近江屋事件)。真相は謎である。れんだいこは、下手人は国際ユダヤの雇われ組と見なしているので、この説は採らない。

 大政奉還後、戊辰戦争が勃発すると幕府軍の一員として鳥羽・伏見の戦いに参戦し、1.6日、樟葉(枚方市付近)で腰に銃弾を受けて重傷を負う。1868(慶応4)年、和歌山に敗走中、1.12日、紀三井寺で死去。享年35歳。墓所は和歌山県和歌山市の紀三井寺、福島県会津若松市「武家屋敷」内。戒名は「賢浄院殿義岳亮雄居士」。

 次の和歌を遺している。「くちはてて かばねの上に草むさば 我が大君の駒にかはまし」、「千万(ちよろづ)の あだ(敵)も草木と散りぬらん 君の一刃の露とふりなば」、「先がけて 折れし忠義のふた柱 くづれんとせし 軒を支へて」、「弓馬も剣も鉾も知らずとも 恥をだに知れ 武士(もののふ)の友」。鳥羽伏見の戦いで、甲冑を脱いで半裸になり、斬り込みをかけていた彼は、近くの酒屋に飛び込んで酒を出させ、代金代わりに襖にこう書き付けている。「世はなべて うつろふ霜にときめきぬ こころづくしのしら菊のはな」。

新撰組の生き残り隊士系

 中島登(なかじまのぼり)生没年: 1838(天保9)~1887(明治20年)
 中島登(なかじまのぼり)。1838(天保9)年~1887(明治20)年。新撰組隊士。
 出身は武州多摩郡の八王子と言われる。中島は新撰組の中でも珍しい「極秘裏に武蔵・相模・甲斐の地理や住民の動向を調査し、近藤に報告する」という指令を与えられていた。そのため新撰組のどんな事件にも顔を出していない。中島の入隊は元治元年(1864)10月とされている。彼の名が有名になったのは、彼が「中島登覚え書」というものを残していたことによる。これは慶応4年(1868)3月に甲陽鎮撫隊が甲州に向かって出陣するところからはじまり、旧幕府軍の足跡・戦友の消息などを書き連ねていて、彼の潜入工作が実を結んだ結果とも言える。丁度、この時期から中島は長い潜伏期間を終えて歴史の表舞台に顔を出す。甲州から流山、宇都宮、会津、仙台、箱館と土方に従って転戦し、箱館では二番隊に所属して弁天台場を守っている。降伏後には青森の蓮華寺に収容された。この収容期間に彼は覚え書をまとめた。さらに箱館に移されてからは「戦友絵姿」というスケッチを描く。これは文字通り、中島登が一緒に戦った新撰組の隊士たちを絵に描いて留めたもので、29枚が現存していて、近藤や土方をはじめ、斎藤一もある。今では新撰組を語る上で欠かせない貴重な史料になっている。中島はその後、静岡藩に引き渡されたが、赦免され、浜松に住んで鉄砲店を開店したという。彼は「絵」という形で、共に戦った戦友をしのび、その姿を後世に残したという意味で、他の隊士たちとは一線を画す活躍をしていると言える。

 相馬主計
 相馬主計(そうまかずえ)。1843(天保14)~?。新撰組隊士、箱館新撰組隊長
 最後の新撰組隊長として名を知られている。常陸笠間藩士・船橋平八郎義方の息子として生まれ、剣術が盛んだった笠間藩において何らかの剣術を学んだと思われるが、流派は不明。新撰組隊時期は不明(慶応3年10月説がある)。慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いに参加。甲陽鎮撫隊で局長付組頭として頭角を現し、流山で近藤勇が新政府軍に投降し、板橋の総督府に出頭すると、幕府陸軍軍事方、松濤権之丞の書状を携え、近藤の助命のために板橋を訪れている。しかし、相馬はすぐに捕まってしまい、近藤と一緒に殺されるところを、近藤の助命により、一緒に捕縛されていた野村利三郎と共に助命され、笠間藩に預けられ、謹慎。この後、彰義隊に加わり、のちに陸軍隊として春日左衛門の支配下に入り、磐城方面を転戦する。仙台で土方歳三と再会。箱館五稜郭へと転戦し、主に箱館市中の取締の任にあたる。明治2年(1869)5月11日、新選組を統率していた土方歳三が戦死すると、弁天台場の新選組は相馬を隊長として恭順の書状に名前をしたため、新選組の歴史に幕を引いた。正式な就任日は高松凌雲の書簡によると5月15日という。榎本武揚が降伏したのが5月18日なので、正式にはたった3日間しか隊長の役目は果たしていないことになる。

 明治維新後の相馬の行動には謎の部分が多い。明治3年(1870)10月10日、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑により、終身流罪となり、伊豆新島に流される。大工棟梁・植村甚兵衛に身柄を預けられ、その場所で寺子屋を開く。のちに甚兵衛の長女マツと結婚した。明治5年(1872)、赦免され、東京で妻マツと暮らした。翌年、豊岡県権参事だった大野右仲の推薦からか、同県へ15等出仕として勤務する。翌年には14等出仕に昇進し、主に司法方面の勤務に就いた。明治8年(1875)2月、豊岡県内部の抗争のためか、突如免官され、東京に戻る。その後、通説では、自殺したと伝わっている。その内容は、マツが外出先から帰ってきた際、すでに相馬は障子を真っ赤に染め、割腹自殺を遂げていたという。その際、相馬自身がマツに「他言無用」と厳命し、マツが生涯その命を守り通したために現在に至るまで不明である。

 池田七三郎
 池田七三郎(いけだしちさぶろう)は。1850(嘉永3)~1938(昭和13)年。別名:稗田利八。

 18歳の時、慶応3年の江戸での隊士募集の際に、毛利有之助を慕って入隊する。鳥羽伏見の戦いで負傷。甲陽鎮撫隊の出陣までには回復し参戦。甲州勝沼の戦いで再び負傷し本隊から離れる。会津戦争のとき、斎藤一と共に会津に残る。如来堂では斎藤一らと共に猛攻を受けるが、脱出。その後、高崎藩の兵士に降伏する。(謹慎の後に放免) 昭和13年・90歳まで生きた池田は「最後の新撰組生き残り隊士」隊士となった。昭和4年、子母澤寛の取材を受けて『新選組聞書』を残している。作家・子母沢寛はこの最後の新撰組隊士と面談し、それを元に『稗田利八翁思出話』を発表した。
 http://www.geocities.jp/terrymylove201/ikedashichisaburou11.html







(私論.私見)