新撰組考

 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).5.29日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、新撰組考をものしておくことにする。「ウィキペディア新撰組」、「近藤勇処刑」、「新選組隊士一覧」、「幕末列伝 新選組」、「池田屋騒動」、「◎八郎と対立。新撰組局長筆頭・水戸の豪傑」、「新撰組と時代背景」、「新撰組」、「新選組「最強の剣士」は結局、誰だったのか?」その他を参照する。

 2005.4.3日、2007.4.22日再編集 れんだいこ拝



【新撰組史】 
 幕末に京都守護職を務めた会津藩主・松平容保(かたもり)の配下として幕府の準警察組織が特設された。当初は「壬生(みぶ)浪士組」と呼ばれていた。母体は、清河八郎が幕府に提案して各地の浪人を募集して創設された「浪士組」で、幕末の討幕運動が高まる京都での治安維持の強化と将軍警護わ目的としていた。隊士の加入脱退、粛清等によりメンバーはつねに変動していたが、最盛期には**。

 1863( 文久3)念、清河八郎が幕府の後押しで浪士組を結成。近藤勇も土方歳三等、近藤道場(試衛館)の門弟達とともに浪士組に参加し、将軍警護のために京に上った。上京直後、清河八郎は尊王攘夷へと方針を大転換した。浪士組はわずか20日の在京の後、幕府により江戸へ呼び戻された。浪士組のほとんどが江戸に向かう中、「幕府の命令なら従うが、清河の命令には従えぬ」として芹沢・近藤グループだけが京に残り、壬生浪士組が生まれる。この時のメンバーは近藤勇を中心とする8名と、芹沢鴨を中心とする5名、計13名であった。幕府からの支援を失った近藤たちは、京都守護職松平容保を頼り、京都守護職御預「新撰組」として活動を始めた。

 これを確認するのに、後の参加者も含め主要人物は芹沢派6名(芹沢鴨、平間重助、新見錦、井上源三郎、野口健司、平山五郎)、近藤派7名(近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八、斎藤一、原田佐之助、島田魁、山崎烝、林信太郎、山野八十八、大石鍬次郎、尾形俊太郎)、伊東派(伊東甲子太郎、藤堂平助、篠原泰之進、鈴木三樹三郎、服部武雄、山南敬助、谷三十郎、武田観柳斎)らであった。

 「ウィキペディア新撰組」は次のように記している。
 幕末の京都は政治の中心地となり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の過激派志士が集まり、治安が悪化した。従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、最高治安機関として京都守護職を新設し、会津藩主の松平容保を就任させた。その配下で活動した準軍事的組織が新選組である。同様の組織に京都見廻組があった。ただし、新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規組織であり、京都見廻組は幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であった。隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などであった。その一方で、商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど凄惨な内部抗争を繰り返した。慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられ、翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従って戦い、敗戦に伴い散り散りになり、解散した。

 明治政府が新選組と敵対していた倒幕派たちによって樹立された経緯もあり、近年まで史学的に研究されることがほとんどなく、現在における人気は明治時代からの講談や、後述する数々の小説・映画・ドラマなどフィクション作品の影響が大きい。漫画やアニメ、ゲームにもなり、老若男女から高い注目を集め、隊士の墓参りをするファンも多い。イベントも開催されている。

 新撰組は池田屋事件、蛤御門の変、第一次長州征伐、薩長同盟、第二次長州征伐へと続き、江戸幕府の滅亡と共に滅ぶ。この間、京の街を警護し、その活躍により幕臣に取り立てられるまでになった。だが時流は味方しなかった。 
 新撰組の前史となる浪士組については「清河八郎履歴」の項に記す。
 浪士組の分裂の結果、近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派8名と、芹沢鴨を中心とする水戸派5名が京都に残った。これに現地参加の斎藤一、佐伯又三郎を加えた15名が総数であった。鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内-家里派、根岸友山派などが京都の壬生村に参集した。

試衛館派 8名 近藤勇以下、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、藤堂平助、原田左之助
水戸派 5名 芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司
その他 2名 斎藤一、佐伯又三郎を

 後に、壬生浪士組の中から殿内義雄、家里次郎、根岸友山、遠藤丈庵、清水吾一、上代順之助、鈴木長蔵、粕谷新五郎、阿比留鋭三郎らの9名が残留を願い出たため総勢は24名になった。この24名が壬生浪士組の創設メンバーとなる。
【根岸派、殿内-家里派排斥】
 直後、近藤派15名と殿内派9名の対立が表面化し、根岸派が脱退。殿内-家里派は排斥された。病気で急死した阿比留を除く8名全員が脱走している。リーダー格であった殿内と家里は近藤らの手で暗殺された。内部抗争による最初の犠牲者となった。
 1863(文久3).3.12日、公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは新徴組を結成した。壬生浪士組は壬生村の八木邸や前川邸などを屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36名余の集団となり、京都守護職の松平容保から、主に不逞浪士の取り締まりと市中警備を任された。
 3.25日、殿内義雄刺殺する。
 4月、大坂の両替商平野屋五兵衛に100両を提供させ、これを元手に隊服、隊旗を揃え、隊規の制定にとりかかる。後に撃剣、柔術、文学、砲術、馬術、槍術の各師範を設けた。
 「文久3年6月」の組織図によると次のように記されている。局長に芹沢鴨、近藤勇。副長に新見錦、山南敬助、土方歳三。勘定方に河合耆三郎。副長助勤に沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、平山五郎、野口健司、平間重助、斎藤一、佐伯又三郎、尾形俊太郎、松原忠司、安藤早太郎。諸士調役兼監察に島田魁、川島勝司、林信太郎。局長に芹沢と近藤の2名が就任しており、芹沢派と近藤派が拮抗していたことを証している。副長の新見、山南、土方の3名就任然りである。
【大阪相撲力士との喧嘩事件】
 6.3日、壬生浪士組の芹沢鴨、近藤勇、山南敬助、沖田総司、井上源三郎、平山五郎、野口健司、永倉新八、原田左之助、斎藤一の十名が、壬生浪士の名を語り、悪事を働く浪士の取締りを大阪町奉行から依頼され大阪に下った。数名を捕縛し、近藤、井上の二名を残した芹沢以下八名が舟遊びの帰路蜆橋(しじみばし)の辺りで前方より来た相撲取りの一行と道をあけろ、あけないの口論となり、芹沢が力士を脇差しを抜き峰打ちで払いのけた(鉄扇で殴り飛ばしたとも云われている)。何事もなかったように登楼(遊郭で遊ぶこと)して酒宴の最中、二~三十人の大阪相撲の力士たちが樫の八角棒を手に仕返しに乗り込んで来て乱闘となる。力士は相手が壬生浪士組の中でも凄腕の剣客であったことを知らず数名が重傷を負った。この時の傷がもとで熊川熊次郎という関取が死亡している。ことの顛末を大阪町奉行所に届けたものの、相手の素性(壬生浪士組)を知った力士側が50両の詫びを入れ一件落着となった。しかし、この時、この事件を取り調べた西町奉行所筆頭与力の内山彦次郎は、1864(元治元).5.20日、新撰組によって暗殺されている。
 8月、芹沢鴨ら約30名の隊士が京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。刀を抜いて火消を寄せ付けず、一晩かけて焼き尽くす。この事件に松平容保は憤り、近藤らを呼び出し処置を命じるとするが、これは現在否定されている。
 8.18日、八月十八日の政変が起こり、壬生浪士組は御所の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は武家伝奏から賜ったという説と、松平容保から賜ったという2つの説がある。後者の説は、会津藩主本陣の警備部隊名を容保からもらったという意味である。
【芹沢派粛清】
 9.13日、新見錦切腹させられる(異説あり)。
 9.18日、近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、平山五郎を暗殺する。平間重助は脱走する(異説あり)。水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した。新撰組結成から間もなく内部分裂がおこった。近藤派は隊の規律を巡って芹沢派と対立した。芹沢は近藤同様に幕府と朝廷の連携を考える公武合体派だったが、近藤が佐幕派なのに対し、何よりもまず朝廷を優先する勤皇派だった。その勤皇派ぶりは毎朝御所を拝むほどだった。近藤派は芹沢派を粛清。近藤勇を局長、土方歳三を副長とする強力な組織力を持つ新撰組ができあがった。
 9.25日、隊名を新選組と改める。
 9.26日、御倉伊勢武、荒木田左馬之助、楠小十郎が長州藩の間者として粛清される。
 12.27日、野口健司が切腹させられる。
 1863(文久3).3.12日、会津藩お預かりになり、壬生浪士組と名乗る。
 8月、文久の政変が起こり、長州藩は京から追放され、その影響力は一挙に失われた。孤立した長州藩の過激派は、焦りを感じ、形勢逆転の策を練った。その策とは、京に火を放って焼き払い、天皇を長州に連れ去り、倒幕の旗印にするというものであった。
 1864( 文久4、元治元).5.20日、大坂西町奉行所与力・内山彦次郎を刺殺する。
【池田屋事件】
 5月、新撰組は情報をもとに古高俊太郎を捕縛、古高の居所からは連判状も発見された。さらに新撰組、会津藩、所司代等が探索を続けると、三条小橋西詰めの旅館池田屋が攘夷派の拠点らしいことが浮かび上がってきた。八月十八日政変の質地挽回を期す長州が、政変の中心人物・中川宮朝彦(なかがわのみやあさひこ)親王の幽閉と、京都守護職の松平容保(かたもり)の暗殺計画を練っていたとされている。6月5日に攘夷派志士が京都三条小橋の旅館「池田屋」に集結するとの情報が入った。同時に集結場所は木屋町の料亭丹虎だという情報ももたらされた。その結果、新撰組は日没後、祇園の会所に集合、隊を2つに分け、近藤勇は、7~8名を率い、三条小橋西詰めの旅館池田屋へ。土方歳三は、20名余を率いて、木屋町の料亭丹虎へと出動した。会津藩、桑名藩、所司代からも2000人の応援がくるはずであったが、姿を現す気配も見えず、近藤たちが新撰組だけで会所を出発したのは午後10時であった。実際に長州の志士たちが集まっていたのは池田屋だった。攘夷派志士たちは酒を飲みながら議論していた。彼らの刀は手の届くところにはなかった。密偵として池田屋に入り込んでいた山崎が宴席の邪魔になるだろうということで志士たちの刀を集めて巧みに持ち去っていた。 

 6.5日暮れ、近藤勇、沖田総司、藤堂平助、長倉新八、近藤周平の5人が突入し切り込んだ。あとの隊員は周囲の出口を固めた。志士たちは小刀でよく闘った。途中で土方歳三隊も駆けつけ、会津藩、桑名藩などの兵3000が周囲を取り囲んだ。志士たちの絶望的な戦いが続いた。2時間に渡る激闘の末、「討取七人、疵為負候者四人、召捕二十三人」で決着した。新撰組隊士の死亡2名(奥沢栄助、副長助勤の安藤早太郎)、新田革左衛門が負傷し1ヶ月後死亡する。諸藩の兵士の死亡10数名、負傷は50名以上を数えた。この事件により、尊皇攘夷派は吉田稔麿(としまろ)をはじめ長州、土佐を中心とする優秀な志士多数を失い大きな打撃を受け、新撰組の名声は大きく上がった。
 「元治元年6月」の組織図によると次のように記されている。局長に近藤勇、総長に山南敬助、副長に土方歳三、勘定方に河合耆三郎、尾関弥四郎、酒井兵庫。副長助勤に沖田総司、永倉新八、原田左之助、斎藤一、井上源三郎、藤堂平助、尾形俊太郎、松原忠司、安藤早太郎、武田観柳斎、谷三十郎。諸士調役兼監察に山崎烝、島田魁、川島勝司、林信太郎、浅野薫。隊の運営は近藤派が一手に仕切ることになったことが判明する。
 6.10日、明保野亭事件。 池田屋事件の残党を捕縛する。
【禁門の変の反乱鎮圧】
 7.19日、禁門の変の反乱を起こした長州藩士の鎮圧に出動する。精強な長州軍により各方面で苦戦していた幕府軍の救援に駆けつけ、長州軍をことごとく撃退した。白兵戦における新選組の活躍は、幕府軍の中で群を抜いていた。
 池田屋事件と禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜される
 8月頃、近藤勇の態度に遺憾を感じた永倉新八、斎藤一、原田左之助、島田魁、尾関政一郎、葛山武八郎が会津藩主・松平容保に非行五ヶ条を提出する。
 9月、第二次の隊士募集を行う。
 10.27日、近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させる。この頃、新選組は200名を超す集団へと成長する。
 長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組〜八番組及び小荷駄雑具)に改組した。「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。
 「元治元年12月」の組織図によると次のように記されている。局長に近藤勇、副長に土方歳三。小荷駄雑具方に原田左之助、河合耆三郎、山崎烝、尾関弥四郎、酒井兵庫ほか。組頭に一番・沖田総司、二番・伊東甲子太郎、三番・井上源三郎、四番・斎藤一、五番・尾形俊太郎、六番・武田観柳斎、七番・松原忠司、八番・谷三十郎。
【ぜんざい屋事件】
 1865(元治2).1.8日(2.3日)、土佐勤王党の浪士達(大利鼎吉、田中光顕、大橋慎三、池田応輔、石蔵屋政右衛門こと本多内蔵助)が大坂に隠れ潜み、大坂南瓦町にぜんざい屋を構える石蔵屋政右衛門邸で、大坂市街に火を放ち混乱に乗じて大坂城を乗っとるという計画を立てていたのを察知した新選組大坂屯所隊長・谷万太郎が、兄の谷三十郎、正木直太郎、阿部十郎を呼んでぜんざい屋を襲撃した。ぜんざい屋には石蔵屋と大利しか居らず、谷万太郎が石蔵屋を斬りつけるが逃げられ、4人掛かりで2階にいた大利に斬りつけ討ち取った。新選組本隊もこれを聞いて京都から出動し大坂を探索したが土佐勤王党の残党は大和方面などに逃亡した。京都の新選組本隊には事後的に伝えた。これを「ぜんざい屋事件」と云う。
 2.23日、山南敬助が切腹させられる。
 3.10日、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ屯所を移す。
 「慶応元年6月」の組織図によると次のように記されている。局長に近藤勇、参謀に伊東甲子太郎、副長に土方歳三。勘定方に河合耆三郎、酒井兵庫、尾関弥四郎、岸島芳太郎。組長に一番隊・沖田総司、二番隊・永倉新八、三番隊・斎藤一、四番隊・松原忠司、五番隊・武田観柳斎、六番隊・井上源三郎、七番隊・谷三十郎、八番隊・藤堂平助、九番隊・鈴木三樹三郎、十番隊・原田左之助。諸士調役兼監察に山崎烝、篠原泰之進、新井忠雄、服部武雄、芦屋昇、吉村貫一郎、尾形俊太郎。この段階で、副長助勤が組長として一隊を率いる小隊制度が確立されている。5人の平隊士を1人の伍長が束ね、そのグループを2つに分けて1組とし、1人の組長を置いた。新選組にとって、組織的にも戦力的にも最盛期であった。
 1865(慶応元).9.1日、松原忠司死亡。
 「慶応元年9月」の組織図によると次のように記されている。局長・近藤勇、副長・土方歳三、軍奉行・伊東甲子太郎 武田観柳斎、小銃隊・沖田総司 永倉新八、大銃隊・谷三十郎 藤堂平助、槍隊・斎藤一  井上源三郎、小荷駄奉行・原田左之助。同年9月頃は、長州征伐のために行軍録が再び作成された。この間に鈴木三樹三郎が諸士調役兼監察に、松原忠司が平隊士に降格している。副長助勤クラスは8人となっている。組織上の「組長」は、戦時における小銃隊、大銃隊、槍隊、小荷駄方、を率いる組頭の役目に就き、兵法家の武田観柳斎は伊東甲子太郎と共に全隊を仕切る軍奉行となった。平時においては従来通りの小隊制度が引き続きとられ、慶応2年9月12日の三条制札の時には、原田左之助が七番組組長として活躍したほか、三番組と五番組が現場に出向いている。ただし、原田以外に副長助勤は参戦しておらず、三番、五番の両組は、監察の新井忠雄と大石鍬次郎が率いていた。
 1866(慶応2).2.15日、河合耆三郎切腹させられる。
 4.1日、谷三十郎死亡。
 9.12日、三条制札事件で、三条大橋の制札を引き抜いた土佐藩士を捕縛する。
 1867(慶応3).3.20日、思想の違いなどから伊東甲子太郎、藤堂平助、斎藤一ら13名が御陵衛士を結成して脱退した(斎藤は後に新選組に復帰する)。御陵衛士は、幕府に対して長州藩に対する寛大な処分を主張する建白書を提出した。
 6.10日、新選組が幕臣に取り立てられる。
 6.15日、不動堂村へ屯所を移す。
 6.22日、武田観柳斎刺殺される。
 「慶応3年6月」の組織図によると次のように記されている。局長・近藤勇、副長・土方歳三、勘定方・空白、副長助勤・沖田総司 永倉新八 原田左之助、井上源三郎、山崎烝、尾形俊太郎。諸士調役兼監察・吉村貫一郎、大石鍬次郎、安富才輔、岸島芳太郎、茨木司、村上清、谷周平。この年の3月に伊東一派13人が御陵衛士(ごりょうえじ)として新選組を脱退しているため、斎藤一(間者として御陵衛士に参加)と藤堂平助の2人が副長助勤から姿を消している。また、武田観柳斎は裏切り者として粛清されたので、手薄になった助勤には監察から山崎烝が昇格し、同じく尾形俊太郎が復職している。
【伊東派粛清(油小路事件)】
 11.18日(12.3日)、近藤勇は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を張り、その帰路、新選組隊士の大石鍬次郎らが待ち伏せて槍を以って伊東を暗殺した。伊東は深手であったが一太刀敵に浴びせ、「奸賊ばら」と叫んで、本光寺前で絶命した。新選組は油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、その周りに伏せ、遺体を引き取りに来る御陵衛士を待ち伏せた。藤堂平助、篠原泰之進、鈴木三樹三郎、服部武雄、毛内有之助、加納道之助、富山弥兵衛の7名が現れ、新撰組が襲撃し、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄、毛内有之助を斬殺した。これを油小路事件と云う。偶然、現場を通りかかった桑名藩士・小山正武の談話(史談会速記録)によると、新選組隊士40~50名が御陵衛士7名を取り囲み、まず藤堂が討たれ、次に毛内が討たれ、最後に服部が奮戦したが及ばず討死したと云う。服部武雄は相当な二刀流の使い手であり、孤軍奮闘は鬼気迫るものがあったという。民家を背にして激戦し、新選組にも多数の負傷者を出したが、最後は服部の刀が折れたスキを狙って原田左之助が槍を繰り出し、一斉に斬りかかって絶命した。鈴木、加納、富山は逃げ延び、翌19日午前4時過ぎ、今出川薩摩藩邸にかくまわれた。その後、油小路から逃げ延びた篠原と、不在だった阿部・内海も今出川薩摩藩邸に合流し、その後、伏見薩摩藩邸に移された。伊東らの遺体はしばらく放置してあったが、光縁寺に埋葬された。
 慶応3年(1867年)10月、将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った。
 12.7日、天満屋事件。海援隊士・陸援隊士と戦闘する。宮川信吉と舟津釜太郎が戦死、梅戸勝之進重傷を負う。
 12.18日、篠原ら御陵衛士の生き残りが伏見街道の民家に伏せ、二条城からの帰りの近藤勇を狙撃、右肩に重傷を負わせた。
 「慶応3年12月」の組織図によると次のように記されている。局長・近藤勇、副長・土方歳三、勘定方・岸島芳太郎 大谷勇雄、安富才輔、中村玄道。副長助勤・沖田総司 永倉新八 井上源三郎、山口二郎、原田左之助、山崎烝。諸子調役兼監察・大石鍬次郎、吉村貫一郎、安藤勇次郎、尾形俊太郎、村上清。山口二郎と名を変えた斎藤一が副長助勤復帰した関係で尾形は再び監察に逆戻りしている。
 1868(慶応4).1.3日、鳥羽・伏見の戦い。新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加し、初戦となるこの日の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北する。隊士2名戦死。
 1.5日、淀千両松の戦い。井上源三郎ら隊士14名が戦死する。
 1.6日、橋本の戦い。隊士4名が戦死する。鳥羽伏見の戦いで、新選組は21人もの隊士が戦死を遂げ、副長助勤の中からも井上源三郎と山崎烝という2人の戦死者を出す。
 1.10日、榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦(富士山丸と順動丸)で江戸へ撤退する。この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下した。江戸へ向かう途中、山崎烝死亡(異説あり)。
 2月、御陵衛士の鈴木三樹三郎らが、油小路事件で落命した御陵衛士(伊東、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄、毛内有之助)を泉涌寺塔頭戒光寺で改葬した。この葬儀は大名にも珍しいほど盛大で、雨天の中、生き残りの衛士7名が騎乗、その他150人ほどが野辺送りをし、その費用は新政府参与の役所から出されたという。
 3.6日、その後、幕府から東山道を東進してくる官軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられた。幕府は近藤に若年寄格の資格を与え甲府へと派遣した。若年寄格は1万石以上の大名に相応するもので異例の出世であった。新撰組は甲陽鎮撫隊と改称し、近藤勇も大久保剛と改名した。幕府は、近藤勇に軍資金を渡した。甲陽鎮撫隊が甲府城目指して甲府盆地に到着したころ、すでに逸早く空き城同然の甲府城は官軍によって奪取されていた。
 3.6日、官軍と甲陽鎮撫隊が勝沼で交戦した。兵力は、甲陽鎮撫隊の約200に対して官軍は約3000。多勢に無勢、近藤勇は敗走を余儀なくされた。隊士2名が戦死する。
 3.12日、再び江戸に戻ったが、方針の違いから永倉新八、原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成する。
 3.13日、五兵衛新田(現・東京都足立区綾瀬4丁目)の金子家を中心に屯所を設営して滞在(4月1日まで)する。
 4.2日、近藤、土方らは再起をかけ、下総流山へ移動し陣を敷く。近藤たちは、幕府の直轄領である流山で隊士を募集し、その後、奥州での対官軍戦に参戦するつもりだった。今回も幕府から軍資金が出た。しかし、近藤たちが流山に駐屯し始めてから間もなくの3月20日過ぎには、幕府軍が流山で兵を集めているらしいという情報が官軍に入っていた。そして、その首領の大久保大和なる人物が近藤勇らしいということも官軍に伝わっていた。
 4.2日、薩摩藩士、有馬藤太の率いる約300の官軍が流山に駐屯している幕軍を討伐するため駐屯地を包囲した。
 4.3日、近藤勇が新政府軍に投降する。出頭した近藤は弁明でこの場を切り抜けようとしたが、新政府軍に加わっていた元御陵衛士の加納鷲雄(道之助)に正体を看破されて捕縛され、身柄は板橋へと移された。
 4.12日、土方歳三が旧幕府陸軍に加わる。
 4.19日、宇都宮城の戦い。新選組が参加する。会津戦争などに参加する。会津で斎藤一らが離隊する。
 4.25日、近藤勇が板橋刑場で処刑される。
 閏4.25日、白河口の戦い。
 「慶応4年5月」の組織図によると次のように記されている。隊長・山口二郎、助役・安富才輔、軍目・島田魁、久米部正親。歩兵頭取・近藤隼雄、差図役・伊藤鉄五郎 尾関泉 吉村新太郎、大砲指図役・志村武蔵、大砲役・村上三郎。
 5.17日、上野戦争。諸事情で江戸に戻った原田は彰義隊に加入し上野戦争で戦死した(諸説あり)。
 5.30日、沖田総司が肺結核により江戸で死亡する。
 8.21日、母成峠の戦い。奥羽越列藩同盟が降伏する。
 8.24日、山口二郎(斎藤一)、池田七三郎ら13名が会津に残留する。残る隊士たちは蝦夷地へ向かった榎本らに合流する。
 1868(明治元).10.26日、旧幕府軍、箱館・五稜郭へ入城する。新撰組も合流する。新政府軍が箱館に進軍し包囲する。
 1869(明治2).4.13日、第一次二股口の戦い。
 4.24日、第二次二股口の戦い。
 5.5日、土方の特命により市村鉄之助が箱館を脱出する。
 5.11日、土方歳三が、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名と共に助けに向かい、一本木関門(現・函館市若松町)付近で戦死する。
 5.14日、相馬主計が新選組局長に就任する。食料や水も尽き、最後の局長相馬主計が恭順の書状に名前をしたため降伏し新選組の歴史に幕を引いた。
 5.18日、旧幕府軍は箱館の五稜郭において新政府軍に降伏した。箱館戦争が終わり戊辰戦争が終結とた。
 服装、装備、隊旗

 当初、袖口に山形の模様(ダンダラ模様)を白く染め抜いた浅葱色(水色)の羽織を着用していた。ダンダラは忠臣蔵の赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたときに着ていた羽織の柄で、浅葱色は武士が切腹のときに着る裃の色である。製作したのは大文字屋呉服店(現在の大丸)。一説には、大文字屋ではなく「呉服問屋・菱屋」ともいわれる。池田屋事件の時に着用していたとする証言が最後の記録で、池田屋事件の二日後に目撃された隊士の服装は着込襦袢、襠高袴、紺の脚絆、後鉢巻、白の襷であった。新選組に尾行されていた大村藩士・渡辺昇によれば、尾行者が黒衣・黒袴であればすぐに新選組であると判ったという。警備や戦闘の際には、鉢金、鎖帷子、籠手、胴などの防具を装着した。主な武器は刀と槍であった。隊旗は赤地に金字または白字で「誠」を染め抜き、隊服と同じようにダンダラが入っていたのが一般的。全部で6種類あるとされている。隊旗は現在の高島屋にあたる古着・木綿商によって特注で製作されたものである。
 局中法度・粛清

 新撰組は、隊内規律として俗に「局中法度」(局中法度書)と云われる隊規「一、士道ニ背キ間敷事。一、局ヲ脱スルヲ不許。一、勝手ニ金策致不可。一、勝手ニ訴訟取扱不可。一、私ノ闘争ヲ不許。右条々相背候者切腹申付ベク候也」を定めた。隊規は厳格に運用され、違反した組員は粛清された。法として機能し始めたのは新選組と名を改め近藤、土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の暗殺の際にも適用されたといわれる。鳥羽・伏見の戦い以前の5年間での新選組内部における死者は45名にのぼる。内訳を見ると倒幕志士との戦闘による死者数は6名で、その他は殆どが切腹や暗殺等の粛清絡みのものであった。新選組は自組織内での相互不信と内部抗争に明け暮れ、敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多かったのが実態であった。
 幹部隊士一覧
 歴代局長は芹沢鴨、近藤勇、新見錦。会津新選組局長は山口二郎(斎藤一)。箱館新選組局長は土方歳三、大野右仲、相馬主計、総長は近藤勇、山南敬助。参謀は伊東甲子太郎。歴代副長は土方歳三、山南敬助、新見錦。

 組長・組頭・副長助勤は次の通り。
 新選組は10組で構成されていた。
一番隊隊長 沖田総司
二番隊隊長 永倉新八
三番隊隊長 斎藤一
四番隊隊長 松原忠司
五番隊隊長 武田観柳斎
六番隊隊長 井上源三郎
七番隊隊長 谷三十郎
八番隊隊長 藤堂平助
九番隊隊長 鈴木三樹三郎
十番隊隊長 原田左之助
撃剣師範 沖田総司、池田小三郎、永倉新八、田中寅三、新井忠雄、吉村貫一郎、斎藤一。
柔術師範 篠原泰之進、柳田三二郎、松原忠司。
文学師範 伊東甲子太郎、斯波良作、尾形俊太郎、毛内有之助、武田観柳斎。
砲術師範 清原清、阿部十郎。
馬術師範 安富才助。
槍術師範 谷三十郎。
 
 1864年の編成時組頭は二番隊組頭・伊東甲子太郎、五番隊組頭・尾形俊太郎。

 諸士取調役兼監察方・浪士調役は、山崎烝、島田魁、川島勝司、林信太郎、浅野薫(藤太郎)、篠原泰之進、新井忠雄、服部武雄、芦屋昇、吉村貫一郎、尾形俊太郎、大石鍬次郎、安富才助、岸島芳太郎、安藤勇次郎、茨木司、村上清、谷周平(近藤周平)、川村隼人、近藤隼雄。勘定方は、河合耆三郎、尾関弥四郎。会計方は、酒井兵庫、岸島芳太郎、中村玄道、安富才助、神崎一二三、青柳牧太夫、矢田賢之助、大谷勇雄。

 鵜殿 鳩翁
 「ウィキペディア鵜殿鳩翁」。

 鵜殿 鳩翁
(うどの きゅうおう)は。1808(文化5)年-1869(明治2).7.14日(6.6日)。江戸時代後期、幕末期の幕臣である。甚左衛門。諱は長鋭。号は鳩翁。官位は民部少輔。父は熊倉茂寛で次男。

 鵜殿甚左衛門長快の養子となり、1819年(文政2年)に家督を相続する。小納戸役などを経て、1848年(嘉永元年)、目付として幕府に仕えた。1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いる艦隊が来航すると攘夷を主張したが、翌年のペリー再来航、日米和親条約締結の際の応対係を命じられている。安政の将軍継嗣問題においては一橋慶喜(徳川慶喜)を支持し、反対派井伊直弼が大老に就任して安政の大獄を開始すると左遷された。これは、彼が攘夷を主張していたためと言われている。1860年(万延元年)、名を鳩翁と号した。

 1863年(文久3年)2月5日、将軍徳川家茂上洛警護のために結成された浪士組の取締役に就任するが、浪士組が清河八郎の策略や、それに伴う近藤勇らとの対立により本来の役目を果たせないまま壬生浪士組(後の新選組)・新徴組に分裂する事になると辞職した。明治には静岡(静岡県)に住み、1869年(明治2年)、62歳で没した。墓所は静岡市葵区の本要寺。

 2020.6.8日、「新選組「洛中最後の拠点」諸説論争に決着か 西本願寺古文書に「西九条村」の記述 」。

 幕末に活動した新選組が洛中最後の拠点とした「不動堂村屯所」について、直前に屯所があった西本願寺(京都市下京区)の古文書に、移転先を現在ホテルがある下京区堀川通塩小路下ル松明町一帯の「西九条村」とする記述があるのを、新選組のふるさと歴史館(東京都)の元館長が見つけた。移転に関わった寺院の史料だけに、専門家も確定的とみており、諸説ある議論に終止符を打つ可能性がある。

 新選組は中京区の壬生寺近くの前川邸・八木邸、西本願寺を経て、1867(慶応3)年6月から半年ほど、不動堂村屯所を本拠にした。会津藩傘下の浪人集団から幕府直参になった最盛期に重なり、隊士も200人ほどに膨らんだため、より広い場所を求めたという。ただ、同屯所の立地を示す資料は限られ、複数の説が示されていた。新選組のふるさと歴史館元館長の藤井和夫氏は、昨年夏に調査した西本願寺の「本願寺文書」で、慶応3年3月の諸日記に「新選組屯所引移地所」の記述を見つけた。「西九条村ニおゐて御買入」「字松明田」との地名が入り、「南北六十弐間(約113メートル)、東西四十間余(約73メートル)」「代料金七百両」といった長方形の土地や購入の金額も書かれていた。広さは大名屋敷並みの約8200平方メートルに及び、西本願寺側が土地などを用意した抱屋敷として建て、新選組に貸したとみられる。藤井氏は「一連の文書は西本願寺側が新選組の駐屯に迷惑し、一刻も早く境内から出てもらいたかった様子をあらためてうかがわせる。これまで同寺の侍臣、西村兼文が明治時代に残した記録に基づき、不動堂村屯所と称してきたが、『西九条村屯所』の名称が適切だ」と指摘する。幕末維新期に詳しい宮地正人・東京大名誉教授は「西本願寺という当事者が記した一次資料に基づく考察のため、確度はかなり高いとみて良い。この屯所への移転は、新選組が幕府直参になった時期に当たる。同寺側の思惑に加えて、幕府がどのように関与したのかといった背景も検証したい」と話している。






(私論.私見)