前期水戸学の特質



 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和改元/栄和3).6.10日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 水戸学の特質を次のように見て取ることができる。
 「人間社会のなかで、とくに国民国家(Nation State)のもつ意義を強調し、それへの愛着心と忠誠心との価値を重視する考え方で、ある民族が、自民族の歴史と傳統に深い連繋(れんけい)を自覚し、そこに自民族の本来的なる現在及び未来に於ける自己表現を見出そうとする運動」。
 水戸学は、この観点に基づき、日本的国家国民統合の精髄として尊王思想を形成し、その思想でもって折からの西欧の植民地支配に立ち向かう攘夷論を生み出した。この両思想を中核として幕藩体制の改革を目指しつつ回天的革命をも辞さないとした民族主義運動が水戸学であった。この水戸学の学問と精神に則り実践遂行したのが幕末維新であり、明治維新であった。

 その水戸学の幕末時の影響、明治以降に於ける影響の二種の観点から検証しておく必要がある。幕末時の水戸学の影響の強さに比べ、明治以降に於ける影響はさほどでもなかった。しかし学問思想と云うものは変成転移しながら展開されていくような場合もある。水戸学は案外と根強く生き延びつつ影響力を及ぼしていったのではなかろうか。

 2006.6.19日 れんだいこ拝


【水戸学の発祥考】
 水戸(茨城県)の頼房公は家康の十一男で徳川家御三家の一つとなる。その二代目の藩主が徳川光圀(義公、水戸黄門の名で知られる)で、光圀は、中国の明が滅亡した時亡命してきた遺臣の朱舜水に影響され、中国の古代史書特に司馬遷の「史記」の伯夷伝に啓発され、「本朝の史記」を作る目的で日本の歴史書編纂事業に着手した。

 1657(明暦3)年、小石川の今の東大の農学部構内に史局を開いて「大日本史」の編纂事業に着手した。「皇統を正閏し、人臣を是非し、輯(あつ)めて一家の言を成す」との抱負であった。朱舜水は、北朝南朝の対立する日本の皇統譜を精査して、南朝正統論を打ち出した。これが水戸学の厄介さの始まりとなる。
 1672(寛文12)年、光圀が藩主となるや、史局を本邸内に移して彰考舘と命名し、(初代かどうかは不明なるが)彰考舘総裁として名越克敏が就任した。後に、水戸出身の国学者立原翠軒が参入し、当初は異端視されていたものの次第に頭角を現し、治保(文公)が藩主になるや、翠軒が抜擢されて総裁に就任する。

 彰考舘は、儒官林家の影響の強い幕府の官学とはひと味違ういわゆる水戸史学の道を歩むことになった。義公は後世を考えて、考証の経過を註記させたり、史料も六国史以外は註記することなど近代史学の先駆というべく手法を命じている。かくて、当時の錚錚たる朱子学者が彰考舘へ参集し始めた。

 一般に、史書には年代を追って記述していく編年体と権力者の事歴を中心に記述する紀伝体の方法があるが、大日本史は、支那の司馬遷の「史記」に採られた紀伝体に則っとり、本紀・列伝の部類と志・表、合わせて397巻、そして目録5巻の計402巻が揃うことになる。紀伝体を採用した理由は、「歴史とは、往古を彰らかにして未来を考えるものであり、単に昔の事績を記述するだけではない」とする見識に拠っていた。

 この編集が終わったのが1906(明治39)年であるから、都合250年間の修史事業となった。その功績について、「大日本史の研究」所収「大日本史概説」は次のように評価している。
 「我が国の歴史学は、西洋史学の影響を受けて、長足の進歩を遂げたとは、しばしば耳にするところであるが、自分の見る所を以てすれば、明治大正の間、歴史の名に価するほどの著述は一つも無い。むしろ我々の考へてゐる歴史といふものから見て、真に歴史と云ってよいものは、水戸の大日本史があるだけである」。

 この間、関連して沢山の書物が編纂され、すなわち和文・和歌等の国文学、天文、暦学、算数、地理、神道、古文書、考古学、兵学、書誌等々でそれぞれ貴重な著書編纂物を残され、それぞれ文化史、学問史上に貢献した。

 水戸学は、過去の日本の歴史について朱子学的大義名分からこれを明らかにしようとすることにあった。但し、幕府の御用学問とは観点が異なった。御用学問つまり官学は、天皇からいただき征夷大将軍という地位並びに江戸幕府を開いた武家政権の正当性を確認しこれを護持することに力点が置かれていたが、水戸学は、武家政権よりもより根源的な我が国の神国性に注目し、その皇統譜を擁護せんとする立場から歴史を解析しようとしていた。

 つまり、「水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば」とあるように、学問の観点を「尊皇抑覇」(王は朝廷、覇は幕府)に据え、朱子学の名分論を通じて1・天壌無窮の日本の国体の特殊性、2・皇統綿々たる皇室の尊厳、3・皇室と幕府の秩序、4・君臣の義を重んずる臣民の秩序、5・日本固有の道徳、伝統的臣民感情の称揚を企図せんとしていた。

 それは、安定した社会では封建的秩序の護持に役立つものであったが、「覇」よりも「皇」を上位に置く秩序を重んじていたため、本質的に幕藩体制にとって鬼学的要素が強かった。実際に、幕府政治を親藩として扶翼する立場の水戸藩が、尊王論的立場から皇威の回復に大きな貢献をしたことは幕末志士の回天運動に理論的根拠を与え、徳川政権には皮肉な結末をもたらすことになった。明治維新にとっては大きな役割を果たすことになった。
 「フェイスブック山崎行太郎」の「水戸光圀と水戸学派」転載。
 水戸学、ないしは水戸学派は、水戸藩二代目藩主・水戸光圀に始まる。水戸光圀は、青年時代、司馬遷の『史記 』を読んで 、思想的覚醒というか、思想的転換を経験し、「歴史」というものに目覚め、日本史の探求を試みるようになった。後に、二代目藩主になる頃に、 いよいよ本格的に『 大日本史』という歴史書の編纂作業を開始する。この『大日本史 』の編纂作業を通じて、水戸学、ないしは水戸学派が形成されていくことになる。
 水戸光圀と水戸学派(2)
 水戸光圀は、「水戸黄門」として知られているが、「水戸黄門」のイメージだけで、「水戸光圀のすべて」が語り尽くせるわけではい。水戸光圀は、学問好きであり、とりわけ「歴史」というものに、一風、変わった学問的関心を持ち続けていたようである。徳川幕府の誕生とともに、戦乱の時代が終わり、平和の時代になると、世間の関心も、次第に内面的方向に向かい始め、学問や思想 、文化方面への関心が強くなる。とりわけ 、水戸光圀の時代には、歴史への関心が、高まっていた。そうした時代背景の元に、水戸光圀の「歴史」への関心も深くなっていったが、水戸光圀の「歴史」は、その種の常識的、流行的なものとは少し異なっていた。水戸光圀の「歴史」は、単なる「歴史的」なものを超えて、「歴史哲学的」なものだった。

 当時 、幕府が、林羅山、林鵞峯(春斎)父子が中心になって編纂した歴史書として『 本朝通鑑』があったが、水戸光圀は、その内容に反対だった。それが、水戸藩独自で、歴史書を編纂するという動機ともなったようだ。水戸光圀は、幕府公認のイデオロギーを、鵜呑みにして、それを繰り返すだけの 、幕府内部の立身出世的な階段を登っていこうとする俗物エリート的発想とは異なる発想の持ち主だった。
 水戸光圀と水戸学派(3)

 私は、つい最近まで、水戸光圀についてほとんど無知であった。私が知っていることといえば、テレビドラマ『 水戸黄門』ぐらいだった。そのテレビドラマ『 水戸黄門』さえ、私はろくに見ていない。しかし、今回、西郷南洲繋がりで、藤田東湖や水戸学派を調べているうちに、『水戸黄門 』のイメージとは異なる学者・思想家としての水戸光圀が、朧気に見えてきた。しかも、学者・思想家としての水戸光圀も、私がかねがね軽蔑し、批判しているような、平凡・凡庸な学者や思想家とは違うらしいことが分かってきて、驚いた。つまり、水戸黄門、水戸光圀という学者・思想家は、受験秀才型の 、毒にも薬にもならないエセ秀才ではなく、自分の頭で物を考える、ホッモノの地頭のいい秀才であったようだ。水戸光圀は徳川家康の直系の孫であり、徳川御三家の藩主であるにもかかわらず、徳川幕府公認の学問に、異を唱えることにも、平然としていた

【「前期水戸学」考】
 水戸学は、光圀公時代から18世紀の始めまでの「大日本史」の本紀・列伝・論賛の編纂に取り組んだ前期と、斉昭公の時代の18世紀末期から幕末にかけての後期とに区別することができる。 水戸学の当初は学問的研究に費やされ、この過程で次第にイデオロギーが確立され、水戸藩の学風として認知されていくことになった。義公時代を「前期水戸学」と云う。 「論賛」を書いた安積澹泊、「保建大記」を書いた栗山潜鋒、「中興鑑言」の三宅観瀾を水戸学の代表的な学者として名前を挙げることが出来る。

 この際、北畠親房の神皇正統記が非常に高く称賛されている。神皇正統記の冒頭の一文は次のように記されている。

 「大日本(おおやまと)ハ神国ナリ。天祖ハジメテ基ヲヒラキ、日神ナガク統ヲ伝ヘタマフ。我国ノミ此事アリ。異朝ニハ其ノタグヒナシ。此ノ故ニ神国ト云ナリ」。
 「(天照太神、皇孫ニ勅テ曰ク、葦原ノ千五百秋ノ瑞穂国ハ是レ吾ガ子孫ノ主タルベキ地ナリ。爾シ皇孫就イテ治スベシ。行クユキ給ヘ。宝祚ノ隆エマサンコト、當ニ天壌ト窮リナカルベシ」。
 「三種ノ神器世ニ伝フルコト、日月星ノ天ニアルニオナジ」。

 北畠親房の神皇正統記に明記されていた天照太神の神勅と三種の神器に象徴される神国の教えが水戸学に継承された。義公の事蹟に多大の影響を与えており、延いては幽谷・正志斎たちに継承され、そして後期水戸学の思想的背景を形成する。

【徳川光圀考】.
 「ウィキペディア(Wikipedia)徳川光圀」その他参照。
 徳川光圀(みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
 藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行った。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。さらに、徳川一門の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響力を持った。 同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての黄門漫遊譚が確立している。水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた(水戸黄門の項を参照)。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来と熱海(新編鎌倉志参照)を除くと、現在の関東地方の範囲から出た記録はない。 光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては、石高に対し高い格式のために頼房時代から既に悪化していた藩財政に対し、広範な文化事業がさらなる財政悪化をもたらしたとの指摘がされている。
 生涯
 幼年時代
 寛永5年(1628年)6月10日、水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣・三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれる。光圀の母は谷重則佐野信吉家臣、のち鳥居忠政家臣)の娘である久子。『桃源遺事』によれば、頼房は三木夫妻に対して久子の堕胎を命じたが、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させたという。久子が光圀を懐妊した際に、父の頼房はまだ正室を持ってはいなかった。後年の光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、久子は奥付きの老女の娘で、正式な側室ではなかった。母につき従って奥に出入りするうちに頼房の寵を得て、光圀の同母兄である頼重を懐妊したが、久子の母はこのことに憤慨してなだめられず、正式な側室であったお勝(円理院、佐々木氏)も機嫌を損ねたため、頼房は堕胎を命じた。同じく奥付老女として仕えていた三木之次の妻・武佐が頼房の准母である英勝院と相談し、密かに江戸の三木邸で頼重を出産したという。光圀にも同様に堕胎の命令が出され、光圀は水戸の三木邸で生まれた。頼重と光圀の間には次男・亀丸を含め5人の兄弟姉妹がいるが、彼らには堕胎命令の伝承はなく、光圀になぜ堕胎の命が出されたかは不明である。母・久子に勢力がなかったためだろうかと、後年の光圀は語ったようである(『義公遺事』)。

 『西山遺文』によれば、幼少時には三木夫妻の子(年齢的には孫)として育てられたと言われ、『玄桐筆記』には生誕後間もない光圀と頼房が対面していることをうかがわせる逸話を記している。また、『桃源遺事』『義公遺事』『玄桐筆記』などの伝記史料には、幼少時からの非凡を示す逸話が記されている。

 寛永9年(1632年)に水戸城に入城した。翌寛永10年(1633年)11月に光圀は世子に決定し、翌月には江戸小石川邸に入り世子教育を受ける。世子内定の時期や経緯は諸書で若干異なっているが、頼房の付家老・中山信吉が水戸へ下向して行われており、第3代将軍・徳川家光や英勝院の意向もあったという。翌寛永11年(1634年)には英勝院に伴われて江戸城で家光に拝謁している。

 藩主相続まで
 寛永13年(1636年)には元服し、将軍・家光からの偏諱を与えられて光国と改める。この年、伊藤友玄・小野言員・内藤高康の3人が傅役となる。また水戸藩家老職の山野辺義忠の薫陶を受ける。義忠は山形藩の藩祖・最上義光の子で、最上騒動で改易される要因になるも、有能な人物として知られている。だが、少年の頃の光圀の振る舞いはいわゆる不良であり、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、派手な格好で不良仲間と出歩き、相撲大会で参加した仲間が次々と負けたことに腹を立てて刀を振り回したりする振る舞いを行っており、吉原遊廓へ頻繁に通い、弟たちに卑猥なことを教えたりもした。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。光圀16~17歳のとき、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求めた。光圀18歳のとき、司馬遷の『史記伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより勉学に打ち込むこととなる

 承応元年(1652年)、侍女・玉井弥智との間に男子(頼常)が生まれるが、母の弥智は誕生前に家臣・伊藤友玄に預けられて出産し、生まれた子は翌年に高松に送られて兄・頼重の高松城内で育てられた。光圀に対面したのは13歳の時であったが、このとき光圀は親しみの様子を見せなかったという。承応3年(1654年)、前関白・近衛信尋の娘・尋子(泰姫)と結婚する。

 明暦3年(1657年)、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手する。

 万治元年(1658年)閏12月23日、妻・泰姫が21歳で死去。以後正室を娶らなかった。

 藩主時代
 寛文元年(1661年)7月、父・頼房が水戸城で死去。葬儀は儒教の礼式で行い、領内久慈郡に新しく作られた儒式の墓地・瑞竜山に葬った。当時の風習であった家臣の殉死を禁じ、光圀は自ら殉死の噂された家臣宅を廻り、「殉死は頼房公には忠義だが私には不忠義ではないか」と問いかけ殉死をやめさせたといわれている。幕府が殉死禁止令を出したのはその2年後であるので、『義公行実』では殉死の禁止の初例としている。ただし、同じ頃、紀州・彦根・会津でも殉死を禁ずる旨の記録があるので、水戸藩が初例かどうかはわからない。

 8月19日、幕府の上使を受け水戸藩28万石の第2代藩主となる。『桃源遺事』では、この前日、兄・頼重と弟たちに「兄の長男・松千代(綱方)を養子に欲しい。これが叶えられなければ、自分は家督相続を断り、遁世するつもりである」と言ったという。兄弟は光圀を説得したが、光圀の意志は固く、今度は弟たちが頼重を説得し、頼重もやむなく松千代を養子に出すことを承諾した、とされている。しかし実際には、綱方が光圀の養子となったのは、寛文3年(1663年)12月である。翌寛文4年(1664年)2月、光圀の実子・頼常が頼重の養子となる。さらに寛文5年には頼重の次男・采女(綱條)が水戸家に移り、綱方死後の寛文11年(1671年)に光圀の養子となった。また、弟・頼元に那珂郡2万石(額田藩)を、頼隆に久慈郡2万石(保内藩)を分与する。

 藩主就任直後の寛文2年(1662年)、町奉行・望月恒隆に水道設置を命じた。頼房時代に造営された水戸下町はもともと湿地帯であったため井戸水が濁り、住民は飲料水に不自由であった。望月は笠原不動谷の湧水を水源と定め、笠原から細谷まで全長約10kmを埋設した岩樋でつなぐ笠原水道を着工。実際の敷設は永田勘衛門とその息子が担当した。約1年半で完成した。笠原水道は改修を重ね、明治時代に近代的な水道が整備されるまで利用された。

 寛文3年(1663年)、領内の寺社改革に乗り出し、村単位に「開基帳」の作成を命じた。寛文5年(1665年)、寺社奉行2人を任じ、翌年寺社の破却・移転などを断行した。開基帳には2,377寺が記されているが、この年処分されたのは1,098寺で、46%に及ぶ。うち破却は713寺。主な理由は不行跡であった。神社については、社僧を別院に住まわせるなど神仏分離を徹底させた。また、藩士の墓地として、特定の寺院宗派に属さない共有墓地を、水戸上町・下町それぞれに設けた。現在、常磐共有墓地 ・酒門共有墓地と称されている。一方で、由緒正しい寺院、長勝寺(潮来市)や願入寺大洗町)などについては支援・保護した。神社については、静神社(那珂市)、吉田神社(水戸市)などの修造を助けるとともに、神主を京に派遣して、神道を学ばせている。

 寛文5年(1665年)、の遺臣・朱舜水を招く。朱舜水の学風は、実理を重んじる実学派であった。朱舜水を招いた主な目的は、学校建設にあったようであるが、おそらく費用の面から実現しなかった。しかし、その儒学と実学を結びつける学風は、水戸藩の学風の特徴となって残った。朱舜水は、17年後の天和2年(1682年)死去し、瑞竜山に葬られた。

 延宝元年(1673年)、5回目の就藩からの江戸帰府に際し、通常の経路でなく、上総から船で鎌倉に渡り江戸へという経路をたどった。鎌倉では英勝寺を拠点として名所・名跡を訪ね、この旅の記録を『甲寅紀行』(1674年)、『鎌倉日記』(同年)として纏めた。貞享2年(1685年)、「鎌倉日記」をもとに河井恒久らにより、地誌『新編鎌倉志』が編纂された。創作の『水戸黄門』では日本全国を諸国漫遊しているが、藩主は江戸になければならず、領地を視察や移動中に寄り道することはあったが、光圀は遠出といっても鎌倉にある養祖母・英勝院菩提寺英勝寺)に数度足を運んだ程度である

 延宝7年(1679年)頃、諱を光圀に改める(光圀52歳)

 貞享から元禄の初めにかけて、建造した巨船快風丸を使い、三度に渡る蝦夷地探検を命じる。二度目までは松前までの航海であったが、元禄元年(1688年)出航の3度目は松前から北上して石狩まで到達した。米・麹・酒などと引き換えに、塩鮭一万本、熊皮、ラッコやトドの皮などを積んで帰還した。この航海により、水戸藩は幕末に至るまで蝦夷地に強い関心を持った。しかし、この巨船での航海は、光圀が藩主であったから幕府も黙認して実現したようで、これ以降行われず、光圀の死から3年目に快風丸も解体された。

 隠居時代
 元禄3年(1690年)10月14日に幕府より隠居の許可がおり、養嗣子の綱條が水戸藩主を継いだ。翌15日、権中納言に任じられた。11月29日江戸を立ち、12月4日水戸に到着。5か月ほど水戸城に逗留ののち、元禄4年(1691年)5月、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所(西山荘)に隠棲した。佐々宗淳ら60余人が伺候した。

 同年、水戸藩領・那須郡馬頭村近隣の湯津上村旗本領)にある那須国造碑の周辺の土地買い取りが整い、佐々宗淳に命じて碑の修繕、鞘堂の建設を行う。加えて、碑のそばの古墳(上侍塚下侍塚)を那須国造の墓と推定して発掘調査を行う。出土品は絵師に描き取らせたのち、厚い松板の箱に入れて元のように古墳内におさめさせた。日本初の学術的着想による発掘といわれる。調査は、翌元禄5年(1693年)4月に終了し、6月には光圀が湯津上村を訪れ、那須国造碑と両古墳を視察した。また、古墳の調査を終えた同年4月、佐々を楠木正成が自刃したとされる摂津国湊川に派遣し、楠木正成を讃える墓を建造させた(湊川神社[注 4])。墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれている。また同年、藩医であった穂積甫庵(鈴木宗与)に命じて『救民妙薬』を編集し、薬草から397種の製薬方法を記させた。

 元禄6年(1693年)から数年間、水戸藩領内において、八幡改めまたは八幡潰しと呼ばれる神社整理を行う。神仏習合神である八幡社を整理し、神仏分離を図ったものである。藩内66社の八幡社の内、15社が破却、43社が祭神を変更された。

 元禄7年(1694年)3月、5代将軍・徳川綱吉の命により隠居後初めて江戸にのぼり、小石川藩邸に入った。11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫を刺殺した。光圀が自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋に紋太夫を呼び、問答の後突然刺したという。現場近くで目撃した井上玄桐の『玄桐筆記』に事件の様子が書かれている。幕府に出された届出によると、紋太夫が光圀の引退後、高慢な態度を見せるようになり、家臣の間にも不安が拡がるようになっていたためであり、咄嗟の殺害ではなく、以前からの処罰が念頭にあり、当日の問答によっては決行もありうると考えていたようである。理由の詳細は不明だが、紋太夫が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。翌元禄8年(1695年)1月、光圀は江戸を発ち、西山荘に帰った。

 元禄9年(1696年)12月23日、亡妻・泰姫の命日に落飾する。寺社改革を断行した光圀であるが、久昌寺に招いた僧・日乗らと交流し、年齢を重ねるごとに仏教には心を寄せていたことがうかがえる。

 72歳頃から食欲不振が目立ち始め、元禄13年12月6日(1701年1月14日)に食道癌のため死去した。享年74(満73歳没)。

 修史事業
 修史事業の目的[編集]

 光圀が18歳の時、『史記伯夷伝を読んで感銘を受け、それまでの素行を改めて学問に精を出すようになった。この経験により、紀伝体の日本の史書を編纂したいと考えるようになったと、後年、京都遣迎院応空宛の書簡(元禄8年10月29日付)に書いている。没後15年後に書かれた『大日本史』の序文には、「善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべし、而して乱賊の徒をして懼るる所を知らしめ、将に以て世教に裨益し綱常を維持せんとす」とあり、紀伝体の史書を編み歴史を振り返ることにより、物事の善悪や行動の指針としようという考えであった。個人がいかなる役割を果たしたかを明らかにし、それにふさわしい「名」をその人物に与えるという、儒教正名論に基づいたものである。

また、遣迎院応空宛の書簡には、武家に生まれたが、太平の世のため武名が立てられないので、書物を編纂すれば後世に名が残るかもしれない、とも書かれており、後世に名を残すことも目的だったようである。

経緯[編集]

明暦3年(1657年)2月、光圀は修史のための史局を設ける。1か月前の明暦の大火小石川邸が全焼し、駒込邸の焼け残った屋舎に仮住まいする中での開設であった。当初の史局員は4名。林羅山門下で水戸藩に仕えていた人見卜幽、辻端亭などだった。当時光圀はまだ藩主ではなかった上に仮住まいの中、あえて史局を開設したのには、江戸時代最大といわれる大火で多くの書籍・諸記録が失われ、親交のあった林羅山が落胆のあまり死去したことに衝撃を受けたものと思われる。修史事業が本格的になるのは、藩主に就任した寛文期以後のことである[注 5]

光圀が藩主となった翌年の寛文2年(1662年)頃から、藩主就任に伴い修史事業が次第に本格化し、寛文8年(1668年)には史局員は20名となった。寛文11年(1671年)、神武天皇から桓武天皇までの本紀26冊の草稿ができた。

寛文12年(1672年)春、駒込邸内にあった史局を、小石川邸内に移し、「彰考館」と名付けた。『春秋左氏伝』序の「彰往考来」が由来である。

延宝8年(1680年)、神武天皇から後醍醐天皇までの本紀の清書が終わり、3年後の天和3年(1683年)、「新撰紀伝」と称される104巻(本紀21巻、皇后紀5巻、諸女列伝1巻、皇子伝5巻、諸子列伝1巻、列伝70巻)が完成した。

しかし、仔細を検討したところ、一応完成した「新撰紀伝」についても、重複や脱落があった。またこの頃、既に南朝の正統性に信念を抱いていた光圀としては、少なくとも南北朝合一時の後小松天皇までは編纂したいと考えていたが、それには、史料の少ない南朝史の紀伝を新たに執筆しなくてはならない。このため、「新撰紀伝」の修正・紀伝の追加と、南北朝史の編纂とを並行して進めていくこととなった。編纂の統一を図るとともに効率よく作業を進める目的から、史館員の長である総裁を選任することとなり、人見懋斎が初代彰考館総裁となった。なお、同年には安積澹泊が彰考館に入る。

元禄3年(1690年)、光圀は藩主を退き、水戸藩領の西山荘に隠居するが、修史事業は続けられた。元禄9年(1696年)、69歳となった光圀は、生存中の本紀・列伝の完成を望み、修史以外の編纂事業を縮小させ、校訂・補正作業を持ち越すように方針を変更させた。史館員も増員され、この年5人が加わり、総勢53人となっている。

同じく元禄9年(1696年)、安積澹泊・佐々十竹・中村篁渓の三者に命じて、本紀・列伝を編纂するための詳細な書法や執筆の基準を記した「重修紀伝義例」(元禄3年に作られた「修史義例」の修正版の意)を作成させる。

翌元禄10年(1697年)、第100代後小松天皇までの本紀、「百王本紀」が完成した。なお、北朝の天皇5人は「後小松天皇紀」の初めに帯書された。光圀は「百王本紀」の完成を大変喜ぶとともに、未完の列伝の編纂に力を注ぐために、史館員の主力を水戸城に移し、編纂を促進させた。この後、江戸・水戸の両彰考館で編纂が進められていった。

元禄12年(1699年)の年末、皇后・皇子・皇女伝の清書が西山荘に届けられたが、この頃から、光圀は体調を崩していた。

翌元禄13年12月(1701年1月)、光圀の死の前後には、本紀67冊、后妃・皇子・皇女伝40冊、列伝5冊(神武天皇から持統天皇の代まで)、計112冊が出来上がった。本紀は一応完成し、文武天皇以降の列伝の草稿も半分以上出来ており、『大日本史』の根本部分は光圀の生前に出来上がっていた。

史料の探訪[編集]

延宝2年(1674年)、佐々十竹が彰考館に入り、同4年(1676年)から史館員を遠隔地に派遣しての史料調査が行われた。

史料の閲覧を許可された場合には、金銭を支払う場合の他、水戸藩の和紙・海苔・鮭を謝礼に送った。吉野吉水院には、秘蔵の文書を特別に旅籠まで貸した院主の計らいに対し、礼を述べる光圀の書状が残されている。しかし、文書の秘蔵や虫損を理由に、文書の閲覧を断られることもあった。

史料調査では、訪問先の神社仏閣はもとより、通過・滞在する藩や旗本領などの協力が必要であったが、史館員の記録や書簡からすると、ほとんどの領主は派遣員を歓迎し、手厚く接待した。史館員の派遣に幕府の許可を得ていたかは不明であるが、少なくとも黙認はしていたようであり、後の諸国漫遊譚形成の一因になったと考えられる。

その他編纂文書[編集]

彰考館では、第一の目的である修史(大日本史の編纂)の他にも、多くの書籍が編纂された。主なものは以下のとおり。

  • 『礼儀類典』 - 朝廷の恒例・臨時の朝儀・公事に関する記事を抽出・分類して部類分けした書。目録1巻、恒例230巻、臨時280巻、附図3巻の計514巻。
  • 万葉代匠記』 - 万葉集の注釈書。契沖著。元禄3年(1690年)完成(精撰本)。20巻。
  • 『扶桑拾遺集』 - 序・跋・記・日記・紀行・賛などの仮名文313点をほぼ年代順・作者別におさめた書。30巻。
  • 『草露貫珠』 - 中国のからまでの草書を法帖から抜き出して集録した草書字典。中村立節・岡谷義端編。元禄8年(1695年)成立。21巻・拾遺1巻。
  • 『花押藪』 - 古記旧文についての諸家の花押を集めて姓名と事歴を記した書。丸山活堂編。7巻。同じく丸山活堂編『続花押藪』7巻もある。
  • 新編鎌倉志』 - 光圀が延宝元年(1673年)の鎌倉旅行をもとに、河井友水らに編纂させた地誌8巻。
  • 19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流するが、このとき人見卜幽は光圀について朝夕文武の道に励む向学の青年と話している。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。
  • 光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。
    • 日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、餃子チーズ牛乳酒、黒豆納豆がある。ラーメンも光圀が最初と言われてきたが、光圀が食した時期より200年以上前の『蔭涼軒日録』(相国寺の僧による公用日記)に、ラーメンのルーツとされる経帯麺を食べたことが記されていたことが2017年に判明した[6]肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉豚肉羊肉などを食べていた。野犬20匹(一説には50匹)を捕らえてそのを綱吉に献上したという俗説も生まれた。
    • オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、海外から朝鮮人参インコを取り寄せ、育てている。蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としている。また、亡命してきたの儒学者・朱舜水を招聘し、教授を受けている。
    • も好物であり、カマとハラスと皮[注 6]を特に好んだ。
    • 朱舜水が献上した中華麺をもとに、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作った。汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国の乾燥させた豚肉からとった。薬味にはニララッキョウネギニンニクハジカミなどのいわゆる五辛を使う。現在でいうラーメンである。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。後に西山荘で客人や家臣らにふるまったとの記録もある[8]
  • 当時の人物としては普通に衆道のたしなみもあった。光圀は政治を例えて「男色ではなく女色のようにしなければならない」と言った。女色は両方が快楽を得るが男色は片方だけ快楽であり片方にとっては苦痛でしかない。政治は女色のように為政者も民も両方が快楽を得るようにしなくてはならないという意味である。
  • 『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与えた。
  • 父の頼房が死の床にあったとき自ら看病に当たり、死去すると3日も食事をしなかった。
  • 綱吉期に大老堀田正俊稲葉正休に刺殺され、正休も大久保忠朝らによってすぐに殺害された。光圀は幕閣の前で「如何に稲葉が殿中で刃傷に及んだとはいえ、理由も聞かず取り調べもせず誅するとは何事か」と激怒し、幕閣に対して強い不信を抱いたという。
  • 『玄桐筆記』によれば、光圀が若い頃、知り合いの武士と出かけて帰りが遅くなった。歩き疲れて浅草あたりの仏堂で一休みしていると、連れの武士が「この堂の床下に非人どもが寝ているようだ。引っ張り出して、刀の試し斬りをしよう」と言った。光圀が「つまらないことを言うものではない。罪のない者を斬ることなどできない。それに、非人の中にも手強い者がいるかもしれない。どのような反撃を受けるか分からない。無用なことだ」と言うと、武士は光圀を「臆病風に吹かれたのか」と罵倒した。やむなく光圀は床下に潜り込み、非人を捕まえて引きずり出そうとした。非人は「自分も命が惜しいのです。無慈悲なことはやめてください」と哀願した。光圀は「自分も無慈悲な振る舞いだとは思うが、仕方がない。前世の因縁だと思って諦めてくれ」と言い、非人を引き出して斬り捨てた。光圀は連れの武士に「さてさて、むごいことをしてしまいました。あなたが、そんな人間とは知らずにこれまで付き合っていたことが悔やまれます。今後は、もう、お目にかかることもないでしょう」と言い、その日を境に絶交したという[9]
  • 『盛衰記』によれば、「御手討被遊候迚壱人御貰被遊」(自分で斬ってみようと死罪人を一人頂戴し試し斬りをした)が、光圀の手が返って刀の峰(刀の背の部分)で斬ったため罪人は助かり、光圀は再度斬ろうとせず罪人を放免した。当時は大名が幕府から罪人を貰い受け、刀の切れ味を試すために生きたまま試し斬りにする風習があったが、光圀は最初から罪人の命を助けるつもりで貰い受けたようだという[10]
  • 『盛衰記』によれば、水戸の領内で親を殺した男がいた。牢屋に入れられた男は「殺したのは自分の親だ。自分の考えに反対したので殺しただけだ。それを御上が問題にするのはおかしい。自分は年貢もきちんと納め、御上の法にも違反していない。いったい何の罪で牢に入らなければならないのか」と言った。それを聞いた光圀は「五常の道(仁義礼智信)さえ知らない(倫理観を持たない)者を殺すのは藩主の誤りである」と考え、男に論語の講釈を聞かせた。三年目に男は親殺しの罪の重さを知り、自ら死刑にするよう願い出た。光圀は男が自分の非を悔い改めたと聞き、初めて処刑を命じたという[11]

光圀とその後の水戸藩[編集]

「大日本史」の編纂に水戸藩は多大な費用を掛けた。一説に藩の収入の3分の1近くをこの事業に注ぎ込んだといわれている(3分の1説の他、8万石説、3.5分の1説、3万石・5万石・7万石説、10万石説などがあるが、いずれも根拠は明確でない)[12]

水戸藩の財政は初代の父・頼房の藩主時代から苦しく、光圀の藩主時代後期には財政難が表面化していた。光圀は藩士の俸禄の借り上げ(給料削減)を行っているが、大きな効果は上がっていない。光圀の養子・綱條も財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。その後も水戸藩にとって財政の立て直しは重要課題であり続け、様々な改革と幕府からの借金を繰り返した。一方で「大日本史」の編纂は光圀の死後も継続され、豊かとはいえない慢性的な逼迫財政をさらに苦しめたとされる。

また光圀は他の御三家に対抗するため、当時1間=6尺3寸だったのを6尺に改め、表高が28万石だった水戸藩を見かけ上36万9千石にした。この石高が次代の綱條の代に幕府に認められることとなり、これが上記大日本史編纂事業とあいまって水戸藩困窮の要因となった。

光圀の学芸振興は「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。

一方、光圀が彰考館の学者たちを優遇したことにより、水戸藩の士や領民から、学問によって立身・出世を目指す者を他藩より多く出すことになる。低い身分の出身であっても、彰考館の総裁となれば、200石から300石の禄高とそれに見合う役職がつけられた。光圀時代には他藩からの招聘者がほとんどを占めたが、那珂湊の船手方という低い身分から14歳の時光圀に認められ、後に総裁になった打越樸斎がいる。他藩から招聘者のなくなった後期の彰考館員、後期水戸学の学者は、ほとんどが下級武士や武士外の身分から出た者たちであり、藤田幽谷会沢正志斎は彰考館を経て立身した典型的な例である。彼ら後期水戸学者にとって光圀は絶大な人気があり、彼らの著作を通じて、光圀の勤皇思想が実態より大きく広められたとの見方もある。

水戸徳川家参勤交代を行わず江戸定府しており、帰国は申し出によるものであった(常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は俗に「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになる)。財政悪化もあり、中・後期の藩主はほとんど帰国しなかった。光圀は藩主時代計11回帰国しており、歴代藩主の中では最多である。また歴代藩主唯一の水戸生まれであり、誕生から江戸に出るまでの5年と、隠居してから没するまでの10年を水戸藩領内で過ごした。そのため、水戸藩領内における関連した史跡は後の藩主に比べると格段に多い。

年譜[編集]

※日付=明治5年(1872年)12月2日までは旧暦

和暦 西暦 月日
旧暦
年齢 内容
寛永5年 1628年 6月10日 1(数え年) 常陸国水戸藩徳川頼房の三男として生まれる。
寛永9年 1632年 5月3日 5 従五位上左衛門督叙任。
寛永10年 1633年 1月 6 世子に決定。
9月5日 従四位下右近衛権少将に昇叙遷任。
寛永13年 1636年 7月6日 9 元服し、徳川家光偏諱を受け光国と名乗る。
寛永17年 1640年 3月4日 13 従四位上右近衛権中将に昇叙転任。
7月11日 従三位に昇叙。右近衛権中将如元。
承応3年 1654年 27 関白近衛信尋の次女・尋子(泰姫)と結婚。
寛文元年 1661年 8月19日 34 水戸藩28万石の2代藩主となる。
寛文2年 1662年 12月18日 35 参議補任。
延宝7年 1679年 52 を光国から光圀に改める[注 3]
元禄3年 1690年 10月14日 63 隠居。
10月15日 権中納言となる。
元禄13年 1700年[注 7] 12月6日 73 西山荘にて没する。享年73(満71歳)。
天保3年 1832年 3月5日 没後 従二位権大納言
明治2年 1869年 12月25日 従一位
明治33年 1900年 11月16日 正一位
明治39年 1906年 徳川圀順が『大日本史』を完成させる。

【徳川斉昭考】.
 徳川斉昭
 1800-1860 第九代水戸藩主。号、景山、烈公の諱。第十五代将軍徳川慶喜の父。藤田東湖ら水戸学士を登用、水戸藩校・弘道館の設立、海防教化、殖産興業等幕政改革をおこなうが、尊王攘夷の言動が幕府に睨まれ、隠居謹慎を命ぜられる。ペリー来航に際し幕政に参与。以降、外交問題や将軍後継問題で、井伊直弼一派と対立。安政の大獄に連座し国元蟄居の処分受ける。
 雪裡占春天下魁~「弘道館賞梅花」(徳川斉昭)を寄す
 香りの良い梅には”君子の徳”があるとして古来より尊ばれてきた。憂世の気概を梅の花に託して、江戸幕末・水戸藩校弘道館で学ぶ青少年が、梅のように文武両道を修め、時代の先駆けとなることを願う ”勧学の詩” として有名な「弘道館賞梅花」を寄す。
 「弘道館に梅花を賞す」  (徳川斉昭)
弘道館中千樹梅 弘道館中 千樹の梅 
清香馥郁十分開 清香馥郁として 十分に開く
好文豈謂無威武 好文豈(あ)に威武無しと謂わんや
雪裡占春天下魁 雪裡(せつり)春を占む天下の魁
 大意
 弘道館の中には千本もの梅の木が植えてある。清らかな香りを漂わせ、満開の花を咲かせている。梅のことを「好文木」といって「文」の象徴のように言うが、どうして「文」だけと言えよう。梅は「武」も十分に備えている。冬の間、梅は雪の下に埋もれているが、春が来ると他の草花に先駆け、真っ先に咲くではないか!           
 字義
 〇好文 梅の異称。中国・西晋の武帝が文(学問)を好むと梅が花を咲かせ、学問を廃すると梅花が開かなかったとの故事に基づく。

藤田幽谷の「正名論」について
 1791(寛政3).10月、藤田幽谷は、18歳の時に「正名論」を書き上げ、真価を高めた。これは幽谷の名声を聞いた老中松平定信の所望により幽谷が書き上げたもので、これを仲立ちした翠軒はこれを見て幕府批判と疑われる恐れがあるとして松平定信には提出しなかったと云われている。

 次のような一節がある。
 「甚しいかな、名分の天下国家において、正しく且つ厳ならざるべからざるや。それなほ天地の易ふべからざるがごときか。天地ありて、然る後に君臣あり。君臣ありて、然る後に上下あり。上下ありて、然る後に礼儀措くところあり。苟しくも君臣の名、正しからずして、上下の分、厳ならざれば、すなはち尊卑は位を易へ、貴賤は所を失ひ、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴して、亡ぶること日なけん」(元は漢文で書かれておりますが、次の文は読み下し文)。

 この中で幽谷は、わが国の歴史から見て、天下国家において最も大切なことは、君臣の名分を厳正にすべきであるとして、朝廷と幕府、天皇と将軍の関係を明確に区分することが大切であり、将軍は朝廷から征夷大将軍に任命されているのであるから、幕府は朝廷を尊び、朝廷の権限を奪うようなことがあってはならないと言うことを建言しようとしていたことになる。

 正名論とは「正しい名分」論という意であり、それまでの儒教や国学の立場からの「尊王の名分論」を継承発展させたものである。幽谷の名分論は「尊王論」に初めて政治理論としての根拠づけを与えたところに史上の意味を持つ。次のように述べている。
 「幕府(将軍)、皇室を尊べば、すなはち諸侯、幕府を崇び、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す。夫れ然る後に上下相保ち、万邦協和す」。

 幽谷は、天皇制を日本の誇るべき伝統であるとし、将軍の尊王には社会の秩序を正しく維持するという大きな意義があることを説いていることになる。
 「山崎行太郎」の「藤田幽谷と『 正名論』」が次のように記している。
 この小論文『正名論 』こそ、後期水戸学の基礎になったもので、藤田幽谷は、ここで、天皇の位置付け、将軍の位置付け、あるいは君臣の位置付け・・・等をおこなっている。この小論文から後期水戸学が始まると言われるれる所以は、天皇=朝廷と将軍=幕府の位置付けを明確にし、天皇=朝廷が上位にあり、その下に徳川幕府=将軍があるということを明確にしたところにある。ここから「尊皇攘夷」思想が生まれ、幕末の革命思想=倒幕運動として猛威を振るうことになる。

 ところで「正名論」は、藤田幽谷の専売特許ではなかった。元々は、『 論語』の顏淵編にある孔子の言葉に由来する。「正名論」の正名とは「名を正す」、あるいは「名分を正す」という意味で、言葉の意味を明確に定義し直すということである。斉の景公が、孔子に、「政治とは何か」を尋ねると、孔子は次のように答えた。《 君主が君主であり、臣下が臣下であり、父が父であり、子が子であることである》と。まさに、18歳の藤田幽谷が、「正名論」で主張したのは、「君主だ誰であり、臣下が誰であるか」を明らかにしたものであった。

 江戸時代には、正名論は、広く論じられていた。たとえば、藤田幽谷の正名論の対局にあったのが新井白石の「正名論」であった。新井白石は、天皇よりも徳川幕府を重視し、徳川幕府の将軍を「日本国王」と呼ぶべきだと主張した。藤田幽谷の尊王論は、新井白石の将軍=国王論に、真っ向から異論をとあえたものにほかならなかった。このことから、藤田幽谷は、自分を見出し、引き立ててくれた恩師・立原粋軒と激しく対立することになり、水戸学派内部で、藤田派と立原派は、それこそ命懸けの派閥抗争を繰り返すことになる。このことから、藤田幽谷が、学者・思想家でありながら、かなり激しい思想信条の人だったことが分かる。その一人息子が、西郷南洲が心酔した学者・思想家の藤田東湖であった。その激しい思想信条を、藤田東湖も受け継いでいた。

【「立原翠軒と藤田幽谷の論争」考】
 寛政元年、翠軒は、「大日本史」編纂の早期完結論者としての立場で、治保(文公)に次のように上書している。
 「以前の史臣、日を空うして稿を脱する能わず。故に、義公を敬する志、表われず。公の志はもと紀伝にあり、宜しく速やかに増訂して世に出さざるべからず。志表の如きは余事のみ」。

 ところが、翠軒門下の藤田幽谷が反対の上書を提出した。
 「大日本史の編纂には必ず志表なかるべからず。尚も編年体の歴史たらば志表の必要は認めざるも、紀伝体の歴史には必ず之あるを要するなり。大日本史は即ち紀伝体なり。故に、志表必ず伴わざるべからず」。

 治保(文公)は、藤田幽谷の言を取り入れた。翠軒は怒って出仕せず、門下はいずれも閉職に追われた。治保(文公)が逝去し、治紀が藩主になり、藤田幽谷は彰考舘総裁に抜擢された。翠軒派は、「垂統大記」を編纂して大日本史に対抗せんとした。両派の抗争は藩主擁立と絡んでの政争へ発展しつつ後々も続いていくことになる。

【「藤田幽谷の尊王論」考】
 江戸時代の中期に「正名論」を著わして名を挙げた藤田幽谷(ゆうこく、東湖の父)は、君臣上下の名分を厳格に維持することが社会の秩序を安定させる要であるとする考え方を示し、「将軍家は本家、禁裏は主君」、「いざというときは、禁裏にはせ参じるのが本来の姿」、「禁裏の正系は南朝である」と述べ、尊王論に理論的根拠を与えた。義公の学問思想というものを最も純粋なかたちで完結させたのが藤田一正(かずまさ)即ち藤田幽谷(ゆうこく)であった。

 工藤平助(くどうへいすけ)の「赤蝦夷風説考」(あかえぞふうぞくせつこう)、林子平の「海国兵談」は、主として海防論に意味が持たされていたが、1792(寛政4)年、ロシアのラックスマンの根室来航により「国家防衛のための外国勢力排除」が要請されることになった。この気運に応じて藤田幽谷の尊王論が生み出されており、やがて攘夷論と結びつき、これを統合した「尊王攘夷論」が形成されてゆくことになる。その原基理論を提起したのが水戸の藤田幽谷ということになる。

【「会沢正志斎の尊王論経由攘夷論」考】
 1825(文政8).3月、会沢正志斎は、「新論」を著わした。「新論」(原文は漢文)は読み下し文に書き換えて刊行され「雄飛論」と改題された。国力を充実させた上で、海外に進出し、「海外の諸蕃をして来りて徳輝を観せしめ」、「四海万民を塗炭に拯(すく)」うという、海外雄飛の構想こそがこの著書の究極の目標という意での命名であった。その論旨は、「民志を一に」(国民の心を統合)して、国家の富強をはかるための方策を明らかにしようとするところに主眼がある。尊王攘夷が国民統合を実現するための方法として位置づけらていた。第一章、国体。第二章、形勢。第三章、虜情。第四章、守禦。第五章、長計という構成で、従来からの尊王論と攘夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成された。また、日本国家の建国の原理とそれに基づく国家の体制という意味での「国体」という概念を提示したのも「新論」が最初となった。

 西洋列強の接近と国内の対応の不味さが露顕してきた情勢の中で、同年2月に江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、幽谷の遺志を継承して国内の人心を統一し外国勢力の侵略に対抗するために如何にしたら良いかと言う趣旨で書かれていた。国家の統一性の強化をめざし、その為の政治改革と軍備充実の具体策を述べていた。その際に民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説いていた。

 神道の祭祀をつかさどるという天皇の宗教的な側面が、民衆の心を「天威に畏敬悚服(しょうふく)」させることになり、仏教やキリスト教などの「邪説」に民心が誘惑されることを防ぎ、民心を国家目的への協力に統一せしめることができる。これが「尊王」の理念の政治的意義であるとする。同時に、政府(幕府)が強硬な外敵撃攘の方針を明示することが、太平に慣れて弛緩した人心を引き緊め、国家の統一性を強化し、武士や民衆の敵愾心を鼓舞し、国力や軍備の充実に役立つであろうと云う。 「尊王」と「攘夷」を結合することより国家としての統一性を強めて、国内と国外との両面から迫る政治的危機を克服しようとするのが論旨であった。尊王攘夷思想はここにおいて一つの体系的な政治理論として成立したと考えられる。幕末志士の間に多数の読者を得た。

 この書が藩主哀公に呈上されたところ、哀公は、概要「内容的には誠にもっともである。彰考館に置くのはよいが、差し障りがあるからあまり人の目にふれないように」と命じたといういわくつきとなった。「新論」が「水戸学的尊王攘夷論」を確定させ、水戸藩の攘夷論を代表することになった。正志斎の名はこの一書をもって天下に知れ渡った。

【「水戸藩内のお家騒動」考】
 この間、水戸藩主は、治紀、斎脩へと続いていく。斎脩は子供を儲けぬまま死亡したため、後継者問題が発生した。当時の将軍家斉には数十人の子女があり、「将軍家より養子を」という意見が為されたが、幽谷の子の東湖は、斎脩の弟を擁立した。これが斉昭(烈公)である。斉昭の藩主就任により藤田派の政治的優位が確立した。

 斉昭は、藤田父子派の提言に基づき改革を進めたが、老臣結城寅寿を領袖とする家老その他の譜代大身は喜ばなかった。これと翠軒派が提携し藤田派に対抗し始めた。藤田派は、立原派を「旧弊因循派」と罵詈、立原派は藤田派を「功利派」と雑言した。





(私論.私見)

(1)水戸学の中で展開ー志気の振興に成功

(2)「正名論」藤田幽谷(ふじたゆうこく) 寛政3年(1791))水戸学の主要な柱 資料(1)参照

  藤田幽谷が正名論を書いたのは寛政3年で、その時18才であった。これは彼の独自の思想だけではなく、この文体に引用されているのは「資治通鑑」であり、よくまとめられている。これは論語の子路篇を引用している。

 正名論「…孔子曰く「必ずや名を正さんか。名正しからざれば、すなはち言順ならず。言順ならざれば、すなはち事成らず。事成らざれば、すなはち礼楽興(おこ)らず。礼楽興らざれば、すなはち刑罰中(あた)らず。刑罰中らざれば、すなはち民は手足を惜(お)く所なし」と。」子路(しろ)が孔子に「政治は何が一番大事だろうか」と尋ねた。孔子は「何事も率先しなさい。自分が先ず先にやらなければだめだ。次に部下達をねぎらいなさい。怠けることがあってはいけない。」の三つを言った。その次に才能のある者を引き立てなさい。最後に子路が「何から手をつけたらよいか」と尋ねた。孔子は「名を正すことだ」と言った。名を正すのは君臣の役目をただすことである。それぞれが自分の分を行えば世の中はよくなっていく。各人の立場の義務の遂行を幽谷は名分といった。この後独立して大義名分と言われるようになった。

① 名分思想 君臣の上下関係は天地と共に根本にあり。

② 正名とは「名分」を正すこと。                                     
立場に応じた分をきちんとすることが水戸学の根本の柱となった。


 「…仁を以て暴に易(か)へ、天下のために残賊を除くこと、なほ一夫を誅するがごとくにして、」とあるように孟子の王道政治を中心にしている。

 「赫々(かくかく)たる日本、皇祖開闢(こうそかいびゃく)より、天を父とし地を母として、聖子・神孫、世(よよ)明徳を継ぎて、以て四海に照臨したまふ。四海の内、これを尊びて天皇と曰ふ。八州の広き、兆民の衆(おお)き、絶倫の力、高世の智ありといへども、古より今に至るまで、未だ嘗(かつ)て一日として庶姓の天位を奸(おか)す者あらざるなり。…」一般の人が天皇の位についたことは今まで、かつて一度もないことである。これは日本の歴史上の大きな特徴である。何度も天皇に代われる実力者は出てくる。しかし、決して天皇にはならなかった。「君臣の名、上下の分、正しく且つ厳なるは、なほ天地の易ふべからざるごときなり。」と。

 「ここを以て皇統の悠遠(ゆうえん)、国祚の長久は、舟車に至る所、人力の通ずる所、殊庭(しゅてい)絶域(別世界・人跡未踏の地)も、未だ我が邦のごときものあらざるなり。」昭和20年まではこの「皇統は悠遠である」と言う言葉はよく使われた。この正名論が天皇制について書かれた最初である。

 「天皇は国事に与らず、ただ国王の供奉を受くるのみ…然りといえども天に二日なく、土に二王なし。皇朝自ずから真天子あれば、すなはち幕府はよろしく王を称すべからず。」江戸時代の有名な学者新井白石(あらいはくせき)は幕府の格式を整理しようと、天皇家は無意味だから将軍を国王としようと書いている。このことは覇王(はおう)ということで荻生徂徠(おぎゅうそらい)なども言っている。特に外国との交渉の場合を想定して言われたことである。水戸学でははっきり否定してい

る。かつて足利義満が日明貿易の時国王としての判を作り使用している。

 将軍職はあくまでも皇室を助けて日本の統一のために頑張るのだ。そして君臣の名分を明確にしておくことを論語の言葉で締めくくっている。

3)「新論(会沢正志斎 文政8年(1825))         資料(2)参照

 文政8年は「異国船打払令」がでている。幕府は鎖国を維持するためにこの令を出す。文政7年に水戸藩の海岸にイギリス船が漂着しその取調に会沢はかかわった。この取調の結果、日本の現状を考えるに人心を鼓舞し、どのように防衛するかを書いたものがこの「新論」である。この本は幕末の志士達に大きな影響を与えた。

 「謹んで按(あん)ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣(てんじつのし)、世宸極(よよしんきょく)を御し、終古易(かわ)らず。」

 山県太華は、この分に対して、日本は太陽が生み出した国だと言ってるが、太陽は灼熱の物体で何が生まれるものかと怒った。自然科学を勉強している朱子学者の合理性が現れている。

 「西洋の諸蕃は、その股脛に当る、故に舶を奔らせ舸を走らせ、遠しとして至らざるはなきなり。」西洋は世界の遠く端にあるので船を走らせるのだ。さらに「海中の地、西夷、名づけて亜墨利加州(あめりかしゅう)と曰(い)ふものに至っては、すなはちその背後なり。故にその民は愚(ぐとう)にして、なすところ能わず」と述べている。

 「臣ここを以て慷慨悲憤(こうがいひふん)し、自ら已(や)む能はず、敢えて国家のよろしく恃(たの)むべきところのものを陳(の)ぶ。」会沢は外国船が日本の近海を跋扈(ばっこ)して、日本の国力は弱まって馬鹿にされている。そういうものに対する憤りから書いたのであると。

 「新論」の内容は次の通りである。

 第一点は国体論である。松陰もよく使っているが、もとはこの『新論』である。天皇は神聖である。神聖は忠孝の道徳をもって支えて行かなくてはならない。

 第二点は形勢、時の情勢をつかむこと。

 第三点は外夷が神州をうかがっていること。

 第四に日本の防御策であり。

 第五に長計則ち民を強くすること。

 まとめると

① 尊王攘夷思想を体系的に論述(尊王攘夷思想運動の聖典といわれた)

② 内容 国体(上中下)形勢、虜情、守禦、長計の各編よりなる

③ 国体論(神国日本)

(4)「弘道館記」(斉昭・藤田東湖 天保9年(1838))          資料(3)参照

① 「尊王攘夷」の熟語を初めて使用

 斉昭の天保の改革の一つに藩校の設立がある。その藩校の名前が弘道館であり、その建学精神をまとめたものである。

 「宝祚(ほうそ)、これを以て無窮、国体、これを以て尊厳、蒼生(そうせい)、これを以て安寧、…」正名論の内容をを集約したものである。

 第一点は国体の尊厳である。第二点は東照宮(徳川家康)が尊王攘夷の始まりである。 家康は天下を統一し、天皇を尊敬し、国を安定させた。この幕府の始祖を尊王のスタートとした。、このよに言っておけば、先ず幕府からの批判は絶対ないことである。このことも関係しているであろう。

 尊王攘夷というものを実現するために先ず学校では何をするか。儒学・神道を尊ぶことであると。人の路を明らかにすること明倫である。儒学の根本は明倫である。そして正名である。儒学で明倫と正名の二つを教える。

 神国日本の特徴を勉強しながら、儒学の教えを守り忠孝をきちんと行い、文武を統一し学問・事業、その効を殊にせず、神を敬い、儒学を崇び、争いを止め、衆思を集め群力を宣べ、以て国家の無窮の恩に報うことが学校の精神であると。これをわかりやすく述べたのが『弘道館記述義』である



5)「弘道館記述義」(藤田東湖 天保13年(1842))            資料(4)参照 

① 「弘道館記」(藩校の建学の精神を示したもの、資料(3)の解説者)

② 主たる内容

 ・ 国体の尊厳(国体の精神)

 ・ 儒教、仏教の批判

 ・ 尊王攘夷(神州日本、天日之嗣、神器を奉ず)

 ここでは尊王攘夷とはどんなことかを説明している。

 東湖が思うには、尊王攘夷思想とは優れた人が行う尽忠・報国(君に忠を尽くし、国恩に報いる、南宋の将軍岳飛はこの四字を湟(いれずみ)していた)の大義なり。水戸学では幕府に対抗するために言ったのではなかった。日本国家を防衛するために言っていたのが尊王攘夷運動の中で大きく役割を果たすこととなる。

 ・ 尽忠報国の大義(志士、仁人の生き方)

 ・ 神州の正気(尊王攘夷志士の心情)

 尊王攘夷思想と言うのは、統一国家の君主としてのとしての天皇に対する尊敬を通して国民国家の統一を図る考え方である。

 この「新論」の考え方が幕末の多くに人に刺激を与えた。ペリーの来航(1853)から明治維新(1868)までの15年間を激動の幕末という。ペリーがやって来たことが日本の歴史に大きな影響を与えたがよく分かる。外国から馬鹿にされている幕府を倒し天皇を中心とした国家を造らねばと言う尊王攘夷思想が作られていく。これは人に因って考え方が皆違うのである。この尊王攘夷思想の安政年間の代表者は松陰である。この尊王攘夷運動は長州藩を中心に、松陰の意志によって文久年間(1861~63)に行われる。この運動の中から長州藩では倒幕派が生まれる。この運動の中心が高杉・木戸である。尊王攘夷運動は松陰の死をきっかけにして頂点に周布が立ち、その下に高杉・久坂・桂などが続いた。松陰は「留魂録」に、尊王攘夷運動は今のままではだめで全国の志士を結集し大きな運動として成立させなければならないと書いている。