前期水戸学の特質



 (最新見直し2006.6.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 水戸学の特質を次のように見て取ることができる。
 「人間社会のなかで、とくに国民国家(Nation State)のもつ意義を強調し、それへの愛着心と忠誠心との価値を重視する考え方で、ある民族が、自民族の歴史と傳統に深い連繋(れんけい)を自覚し、そこに自民族の本来的なる現在及び未来に於ける自己表現を見出そうとする運動」。
 水戸学は、この観点に基づき、日本的国家国民統合の精髄として尊王思想を形成し、その思想でもって折からの西欧の植民地支配に立ち向かう攘夷論を生み出した。この両思想を中核として幕藩体制の改革を目指しつつ回天的革命をも辞さないとした民族主義運動が水戸学であった。この水戸学の学問と精神に則り実践遂行したのが幕末維新であり、明治維新であった。

 その水戸学の幕末時の影響、明治以降に於ける影響の二種の観点から検証しておく必要がある。幕末時の水戸学の影響の強さに比べ、明治以降に於ける影響はさほどでもなかった。しかし学問思想と云うものは変成転移しながら展開されていくような場合もある。水戸学は案外と根強く生き延びつつ影響力を及ぼしていったのではなかろうか。

 2006.6.19日 れんだいこ拝


【水戸学の発祥考】
 水戸(茨城県)の頼房公は家康の十一男で徳川家御三家の一つとなる。その二代目の藩主が徳川光圀(義公、水戸黄門の名で知られる)で、光圀は、中国の明が滅亡した時亡命してきた遺臣の朱舜水に影響され、中国の古代史書特に司馬遷の「史記」の伯夷伝に啓発され、「本朝の史記」を作る目的で日本の歴史書編纂事業に着手した。

 1657(明暦3)年、小石川の今の東大の農学部構内に史局を開いて「大日本史」の編纂事業に着手した。「皇統を正閏し、人臣を是非し、輯(あつ)めて一家の言を成す」との抱負であった。朱舜水は、北朝南朝の対立する日本の皇統譜を精査して、南朝正統論を打ち出した。これが水戸学の厄介さの始まりとなる。
 1672(寛文12)年、光圀が藩主となるや、史局を本邸内に移して彰考舘と命名し、(初代かどうかは不明なるが)彰考舘総裁として名越克敏が就任した。後に、水戸出身の国学者立原翠軒が参入し、当初は異端視されていたものの次第に頭角を現し、治保(文公)が藩主になるや、翠軒が抜擢されて総裁に就任する。

 彰考舘は、儒官林家の影響の強い幕府の官学とはひと味違ういわゆる水戸史学の道を歩むことになった。義公は後世を考えて、考証の経過を註記させたり、史料も六国史以外は註記することなど近代史学の先駆というべく手法を命じている。かくて、当時の錚錚たる朱子学者が彰考舘へ参集し始めた。

 一般に、史書には年代を追って記述していく編年体と権力者の事歴を中心に記述する紀伝体の方法があるが、大日本史は、支那の司馬遷の「史記」に採られた紀伝体に則っとり、本紀・列伝の部類と志・表、合わせて397巻、そして目録5巻の計402巻が揃うことになる。紀伝体を採用した理由は、「歴史とは、往古を彰らかにして未来を考えるものであり、単に昔の事績を記述するだけではない」とする見識に拠っていた。

 この編集が終わったのが1906(明治39)年であるから、都合250年間の修史事業となった。その功績について、「大日本史の研究」所収「大日本史概説」は次のように評価している。
 「我が国の歴史学は、西洋史学の影響を受けて、長足の進歩を遂げたとは、しばしば耳にするところであるが、自分の見る所を以てすれば、明治大正の間、歴史の名に価するほどの著述は一つも無い。むしろ我々の考へてゐる歴史といふものから見て、真に歴史と云ってよいものは、水戸の大日本史があるだけである」。

 この間、関連して沢山の書物が編纂され、すなわち和文・和歌等の国文学、天文、暦学、算数、地理、神道、古文書、考古学、兵学、書誌等々でそれぞれ貴重な著書編纂物を残され、それぞれ文化史、学問史上に貢献した。

 水戸学は、過去の日本の歴史について朱子学的大義名分からこれを明らかにしようとすることにあった。但し、幕府の御用学問とは観点が異なった。御用学問つまり官学は、天皇からいただき征夷大将軍という地位並びに江戸幕府を開いた武家政権の正当性を確認しこれを護持することに力点が置かれていたが、水戸学は、武家政権よりもより根源的な我が国の神国性に注目し、その皇統譜を擁護せんとする立場から歴史を解析しようとしていた。

 つまり、「水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば」とあるように、学問の観点を「尊皇抑覇」(王は朝廷、覇は幕府)に据え、朱子学の名分論を通じて1・天壌無窮の日本の国体の特殊性、2・皇統綿々たる皇室の尊厳、3・皇室と幕府の秩序、4・君臣の義を重んずる臣民の秩序、5・日本固有の道徳、伝統的臣民感情の称揚を企図せんとしていた。

 それは、安定した社会では封建的秩序の護持に役立つものであったが、「覇」よりも「皇」を上位に置く秩序を重んじていたため、本質的に幕藩体制にとって鬼学的要素が強かった。実際に、幕府政治を親藩として扶翼する立場の水戸藩が、尊王論的立場から皇威の回復に大きな貢献をしたことは幕末志士の回天運動に理論的根拠を与え、徳川政権には皮肉な結末をもたらすことになった。明治維新にとっては大きな役割を果たすことになった。

【「前期水戸学」考】
 水戸学は、光圀公時代から18世紀の始めまでの「大日本史」の本紀・列伝・論賛の編纂に取り組んだ前期と、斉昭公の時代の18世紀末期から幕末にかけての後期とに区別することができる。 水戸学の当初は学問的研究に費やされ、この過程で次第にイデオロギーが確立され、水戸藩の学風として認知されていくことになった。義公時代を「前期水戸学」と云う。 「論賛」を書いた安積澹泊、「保建大記」を書いた栗山潜鋒、「中興鑑言」の三宅観瀾を水戸学の代表的な学者として名前を挙げることが出来る。

 この際、北畠親房の神皇正統記が非常に高く称賛されている。神皇正統記の冒頭の一文は次のように記されている。

 「大日本(おおやまと)ハ神国ナリ。天祖ハジメテ基ヲヒラキ、日神ナガク統ヲ伝ヘタマフ。我国ノミ此事アリ。異朝ニハ其ノタグヒナシ。此ノ故ニ神国ト云ナリ」。
 「(天照太神、皇孫ニ勅テ曰ク、葦原ノ千五百秋ノ瑞穂国ハ是レ吾ガ子孫ノ主タルベキ地ナリ。爾シ皇孫就イテ治スベシ。行クユキ給ヘ。宝祚ノ隆エマサンコト、當ニ天壌ト窮リナカルベシ」。
 「三種ノ神器世ニ伝フルコト、日月星ノ天ニアルニオナジ」。

 北畠親房の神皇正統記に明記されていた天照太神の神勅と三種の神器に象徴される神国の教えが水戸学に継承された。義公の事蹟に多大の影響を与えており、延いては幽谷・正志斎たちに継承され、そして後期水戸学の思想的背景を形成する。

【藤田幽谷の「正名論」について】
 1791(寛政3).10月、藤田幽谷は、18歳の時に「正名論」を書き上げ、真価を高めた。これは幽谷の名声を聞いた老中松平定信の所望により幽谷が書き上げたもので、これを仲立ちした翠軒はこれを見て幕府批判と疑われる恐れがあるとして松平定信には提出しなかったと云われている。

 次のような一節がある。

 「甚しいかな、名分の天下国家において、正しく且つ厳ならざるべからざるや。それなほ天地の易ふべからざるがごときか。天地ありて、然る後に君臣あり。君臣ありて、然る後に上下あり。上下ありて、然る後に礼儀措くところあり。苟しくも君臣の名、正しからずして、上下の分、厳ならざれば、すなはち尊卑は位を易へ、貴賤は所を失ひ、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴して、亡ぶること日なけん」(元は漢文で書かれておりますが、次の文は読み下し文)。

 この中で幽谷は、わが国の歴史から見て、天下国家において最も大切なことは、君臣の名分を厳正にすべきであるとして、朝廷と幕府、天皇と将軍の関係を明確に区分することが大切であり、将軍は朝廷から征夷大将軍に任命されているのであるから、幕府は朝廷を尊び、朝廷の権限を奪うようなことがあってはならないと言うことを建言しようとしていたことになる。

 正名論とは「正しい名分」論という意であり、それまでの儒教や国学の立場からの「尊王の名分論」を継承発展させたものである。幽谷の名分論は「尊王論」に初めて政治理論としての根拠づけを与えたところに史上の意味を持つ。次のように述べている。「幕府(将軍)、皇室を尊べば、すなはち諸侯、幕府を崇び、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す。夫れ然る後に上下相保ち、万邦協和す」。幽谷は、天皇制を日本の誇るべき伝統であるとし、将軍の尊王には社会の秩序を正しく維持するという大きな意義があることを説いていることになる。

【「立原翠軒と藤田幽谷の論争」考】
 寛政元年、翠軒は、「大日本史」編纂の早期完結論者としての立場で、治保(文公)に次のように上書している。
 「以前の史臣、日を空うして稿を脱する能わず。故に、義公を敬する志、表われず。公の志はもと紀伝にあり、宜しく速やかに増訂して世に出さざるべからず。志表の如きは余事のみ」。

 ところが、翠軒門下の藤田幽谷が反対の上書を提出した。
 「大日本史の編纂には必ず志表なかるべからず。尚も編年体の歴史たらば志表の必要は認めざるも、紀伝体の歴史には必ず之あるを要するなり。大日本史は即ち紀伝体なり。故に、志表必ず伴わざるべからず」。

 治保(文公)は、藤田幽谷の言を取り入れた。翠軒は怒って出仕せず、門下はいずれも閉職に追われた。治保(文公)が逝去し、治紀が藩主になり、藤田幽谷は彰考舘総裁に抜擢された。翠軒派は、「垂統大記」を編纂して大日本史に対抗せんとした。両派の抗争は藩主擁立と絡んでの政争へ発展しつつ後々も続いていくことになる。

【「藤田幽谷の尊王論」考】
 江戸時代の中期に「正名論」を著わして名を挙げた藤田幽谷(ゆうこく、東湖の父)は、君臣上下の名分を厳格に維持することが社会の秩序を安定させる要であるとする考え方を示し、「将軍家は本家、禁裏は主君」、「いざというときは、禁裏にはせ参じるのが本来の姿」、「禁裏の正系は南朝である」と述べ、尊王論に理論的根拠を与えた。義公の学問思想というものを最も純粋なかたちで完結させたのが藤田一正(かずまさ)即ち藤田幽谷(ゆうこく)であった。

 工藤平助(くどうへいすけ)の「赤蝦夷風説考」(あかえぞふうぞくせつこう)、林子平の「海国兵談」は、主として海防論に意味が持たされていたが、1792(寛政4)年、ロシアのラックスマンの根室来航により「国家防衛のための外国勢力排除」が要請されることになった。この気運に応じて藤田幽谷の尊王論が生み出されており、やがて攘夷論と結びつき、これを統合した「尊王攘夷論」が形成されてゆくことになる。その原基理論を提起したのが水戸の藤田幽谷ということになる。

【「会沢正志斎の尊王論経由攘夷論」考】
 1825(文政8).3月、会沢正志斎は、「新論」を著わした。「新論」(原文は漢文)は読み下し文に書き換えて刊行され「雄飛論」と改題された。国力を充実させた上で、海外に進出し、「海外の諸蕃をして来りて徳輝を観せしめ」、「四海万民を塗炭に拯(すく)」うという、海外雄飛の構想こそがこの著書の究極の目標という意での命名であった。その論旨は、「民志を一に」(国民の心を統合)して、国家の富強をはかるための方策を明らかにしようとするところに主眼がある。尊王攘夷が国民統合を実現するための方法として位置づけらていた。第一章、国体。第二章、形勢。第三章、虜情。第四章、守禦。第五章、長計という構成で、従来からの尊王論と攘夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成された。また、日本国家の建国の原理とそれに基づく国家の体制という意味での「国体」という概念を提示したのも「新論」が最初となった。

 西洋列強の接近と国内の対応の不味さが露顕してきた情勢の中で、同年2月に江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、幽谷の遺志を継承して国内の人心を統一し外国勢力の侵略に対抗するために如何にしたら良いかと言う趣旨で書かれていた。国家の統一性の強化をめざし、その為の政治改革と軍備充実の具体策を述べていた。その際に民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説いていた。

 神道の祭祀をつかさどるという天皇の宗教的な側面が、民衆の心を「天威に畏敬悚服(しょうふく)」させることになり、仏教やキリスト教などの「邪説」に民心が誘惑されることを防ぎ、民心を国家目的への協力に統一せしめることができる。これが「尊王」の理念の政治的意義であるとする。同時に、政府(幕府)が強硬な外敵撃攘の方針を明示することが、太平に慣れて弛緩した人心を引き緊め、国家の統一性を強化し、武士や民衆の敵愾心を鼓舞し、国力や軍備の充実に役立つであろうと云う。 「尊王」と「攘夷」を結合することより国家としての統一性を強めて、国内と国外との両面から迫る政治的危機を克服しようとするのが論旨であった。尊王攘夷思想はここにおいて一つの体系的な政治理論として成立したと考えられる。幕末志士の間に多数の読者を得た。

 この書が藩主哀公に呈上されたところ、哀公は、概要「内容的には誠にもっともである。彰考館に置くのはよいが、差し障りがあるからあまり人の目にふれないように」と命じたといういわくつきとなった。「新論」が「水戸学的尊王攘夷論」を確定させ、水戸藩の攘夷論を代表することになった。正志斎の名はこの一書をもって天下に知れ渡った。

【「水戸藩内のお家騒動」考】
 この間、水戸藩主は、治紀、斎脩へと続いていく。斎脩は子供を儲けぬまま死亡したため、後継者問題が発生した。当時の将軍家斉には数十人の子女があり、「将軍家より養子を」という意見が為されたが、幽谷の子の東湖は、斎脩の弟を擁立した。これが斉昭(烈公)である。斉昭の藩主就任により藤田派の政治的優位が確立した。

 斉昭は、藤田父子派の提言に基づき改革を進めたが、老臣結城寅寿を領袖とする家老その他の譜代大身は喜ばなかった。これと翠軒派が提携し藤田派に対抗し始めた。藤田派は、立原派を「旧弊因循派」と罵詈、立原派は藤田派を「功利派」と雑言した。












(私論.私見)

(1)水戸学の中で展開ー志気の振興に成功

(2)「正名論」藤田幽谷(ふじたゆうこく) 寛政3年(1791))水戸学の主要な柱 資料(1)参照

  藤田幽谷が正名論を書いたのは寛政3年で、その時18才であった。これは彼の独自の思想だけではなく、この文体に引用されているのは「資治通鑑」であり、よくまとめられている。これは論語の子路篇を引用している。

 正名論「…孔子曰く「必ずや名を正さんか。名正しからざれば、すなはち言順ならず。言順ならざれば、すなはち事成らず。事成らざれば、すなはち礼楽興(おこ)らず。礼楽興らざれば、すなはち刑罰中(あた)らず。刑罰中らざれば、すなはち民は手足を惜(お)く所なし」と。」子路(しろ)が孔子に「政治は何が一番大事だろうか」と尋ねた。孔子は「何事も率先しなさい。自分が先ず先にやらなければだめだ。次に部下達をねぎらいなさい。怠けることがあってはいけない。」の三つを言った。その次に才能のある者を引き立てなさい。最後に子路が「何から手をつけたらよいか」と尋ねた。孔子は「名を正すことだ」と言った。名を正すのは君臣の役目をただすことである。それぞれが自分の分を行えば世の中はよくなっていく。各人の立場の義務の遂行を幽谷は名分といった。この後独立して大義名分と言われるようになった。

① 名分思想 君臣の上下関係は天地と共に根本にあり。

② 正名とは「名分」を正すこと。                                     
立場に応じた分をきちんとすることが水戸学の根本の柱となった。


 「…仁を以て暴に易(か)へ、天下のために残賊を除くこと、なほ一夫を誅するがごとくにして、」とあるように孟子の王道政治を中心にしている。

 「赫々(かくかく)たる日本、皇祖開闢(こうそかいびゃく)より、天を父とし地を母として、聖子・神孫、世(よよ)明徳を継ぎて、以て四海に照臨したまふ。四海の内、これを尊びて天皇と曰ふ。八州の広き、兆民の衆(おお)き、絶倫の力、高世の智ありといへども、古より今に至るまで、未だ嘗(かつ)て一日として庶姓の天位を奸(おか)す者あらざるなり。…」一般の人が天皇の位についたことは今まで、かつて一度もないことである。これは日本の歴史上の大きな特徴である。何度も天皇に代われる実力者は出てくる。しかし、決して天皇にはならなかった。「君臣の名、上下の分、正しく且つ厳なるは、なほ天地の易ふべからざるごときなり。」と。

 「ここを以て皇統の悠遠(ゆうえん)、国祚の長久は、舟車に至る所、人力の通ずる所、殊庭(しゅてい)絶域(別世界・人跡未踏の地)も、未だ我が邦のごときものあらざるなり。」昭和20年まではこの「皇統は悠遠である」と言う言葉はよく使われた。この正名論が天皇制について書かれた最初である。

 「天皇は国事に与らず、ただ国王の供奉を受くるのみ…然りといえども天に二日なく、土に二王なし。皇朝自ずから真天子あれば、すなはち幕府はよろしく王を称すべからず。」江戸時代の有名な学者新井白石(あらいはくせき)は幕府の格式を整理しようと、天皇家は無意味だから将軍を国王としようと書いている。このことは覇王(はおう)ということで荻生徂徠(おぎゅうそらい)なども言っている。特に外国との交渉の場合を想定して言われたことである。水戸学でははっきり否定してい

る。かつて足利義満が日明貿易の時国王としての判を作り使用している。

 将軍職はあくまでも皇室を助けて日本の統一のために頑張るのだ。そして君臣の名分を明確にしておくことを論語の言葉で締めくくっている。

3)「新論(会沢正志斎 文政8年(1825))         資料(2)参照

 文政8年は「異国船打払令」がでている。幕府は鎖国を維持するためにこの令を出す。文政7年に水戸藩の海岸にイギリス船が漂着しその取調に会沢はかかわった。この取調の結果、日本の現状を考えるに人心を鼓舞し、どのように防衛するかを書いたものがこの「新論」である。この本は幕末の志士達に大きな影響を与えた。

 「謹んで按(あん)ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣(てんじつのし)、世宸極(よよしんきょく)を御し、終古易(かわ)らず。」

 山県太華は、この分に対して、日本は太陽が生み出した国だと言ってるが、太陽は灼熱の物体で何が生まれるものかと怒った。自然科学を勉強している朱子学者の合理性が現れている。

 「西洋の諸蕃は、その股脛に当る、故に舶を奔らせ舸を走らせ、遠しとして至らざるはなきなり。」西洋は世界の遠く端にあるので船を走らせるのだ。さらに「海中の地、西夷、名づけて亜墨利加州(あめりかしゅう)と曰(い)ふものに至っては、すなはちその背後なり。故にその民は愚(ぐとう)にして、なすところ能わず」と述べている。

 「臣ここを以て慷慨悲憤(こうがいひふん)し、自ら已(や)む能はず、敢えて国家のよろしく恃(たの)むべきところのものを陳(の)ぶ。」会沢は外国船が日本の近海を跋扈(ばっこ)して、日本の国力は弱まって馬鹿にされている。そういうものに対する憤りから書いたのであると。

 「新論」の内容は次の通りである。

 第一点は国体論である。松陰もよく使っているが、もとはこの『新論』である。天皇は神聖である。神聖は忠孝の道徳をもって支えて行かなくてはならない。

 第二点は形勢、時の情勢をつかむこと。

 第三点は外夷が神州をうかがっていること。

 第四に日本の防御策であり。

 第五に長計則ち民を強くすること。

 まとめると

① 尊王攘夷思想を体系的に論述(尊王攘夷思想運動の聖典といわれた)

② 内容 国体(上中下)形勢、虜情、守禦、長計の各編よりなる

③ 国体論(神国日本)

(4)「弘道館記」(斉昭・藤田東湖 天保9年(1838))          資料(3)参照

① 「尊王攘夷」の熟語を初めて使用

 斉昭の天保の改革の一つに藩校の設立がある。その藩校の名前が弘道館であり、その建学精神をまとめたものである。

 「宝祚(ほうそ)、これを以て無窮、国体、これを以て尊厳、蒼生(そうせい)、これを以て安寧、…」正名論の内容をを集約したものである。

 第一点は国体の尊厳である。第二点は東照宮(徳川家康)が尊王攘夷の始まりである。 家康は天下を統一し、天皇を尊敬し、国を安定させた。この幕府の始祖を尊王のスタートとした。、このよに言っておけば、先ず幕府からの批判は絶対ないことである。このことも関係しているであろう。

 尊王攘夷というものを実現するために先ず学校では何をするか。儒学・神道を尊ぶことであると。人の路を明らかにすること明倫である。儒学の根本は明倫である。そして正名である。儒学で明倫と正名の二つを教える。

 神国日本の特徴を勉強しながら、儒学の教えを守り忠孝をきちんと行い、文武を統一し学問・事業、その効を殊にせず、神を敬い、儒学を崇び、争いを止め、衆思を集め群力を宣べ、以て国家の無窮の恩に報うことが学校の精神であると。これをわかりやすく述べたのが『弘道館記述義』である



5)「弘道館記述義」(藤田東湖 天保13年(1842))            資料(4)参照 

① 「弘道館記」(藩校の建学の精神を示したもの、資料(3)の解説者)

② 主たる内容

 ・ 国体の尊厳(国体の精神)

 ・ 儒教、仏教の批判

 ・ 尊王攘夷(神州日本、天日之嗣、神器を奉ず)

 ここでは尊王攘夷とはどんなことかを説明している。

 東湖が思うには、尊王攘夷思想とは優れた人が行う尽忠・報国(君に忠を尽くし、国恩に報いる、南宋の将軍岳飛はこの四字を湟(いれずみ)していた)の大義なり。水戸学では幕府に対抗するために言ったのではなかった。日本国家を防衛するために言っていたのが尊王攘夷運動の中で大きく役割を果たすこととなる。

 ・ 尽忠報国の大義(志士、仁人の生き方)

 ・ 神州の正気(尊王攘夷志士の心情)

 尊王攘夷思想と言うのは、統一国家の君主としてのとしての天皇に対する尊敬を通して国民国家の統一を図る考え方である。

 この「新論」の考え方が幕末の多くに人に刺激を与えた。ペリーの来航(1853)から明治維新(1868)までの15年間を激動の幕末という。ペリーがやって来たことが日本の歴史に大きな影響を与えたがよく分かる。外国から馬鹿にされている幕府を倒し天皇を中心とした国家を造らねばと言う尊王攘夷思想が作られていく。これは人に因って考え方が皆違うのである。この尊王攘夷思想の安政年間の代表者は松陰である。この尊王攘夷運動は長州藩を中心に、松陰の意志によって文久年間(1861~63)に行われる。この運動の中から長州藩では倒幕派が生まれる。この運動の中心が高杉・木戸である。尊王攘夷運動は松陰の死をきっかけにして頂点に周布が立ち、その下に高杉・久坂・桂などが続いた。松陰は「留魂録」に、尊王攘夷運動は今のままではだめで全国の志士を結集し大きな運動として成立させなければならないと書いている。