前期水戸学の特質 |
(れんだいこのショートメッセージ) | ||
水戸学の特質を次のように見て取ることができる。
その水戸学の幕末時の影響、明治以降に於ける影響の二種の観点から検証しておく必要がある。幕末時の水戸学の影響の強さに比べ、明治以降に於ける影響はさほどでもなかった。しかし学問思想と云うものは変成転移しながら展開されていくような場合もある。水戸学は案外と根強く生き延びつつ影響力を及ぼしていったのではなかろうか。 2006.6.19日 れんだいこ拝 |
【水戸学の発祥考】 | |
水戸(茨城県)の頼房公は家康の十一男で徳川家御三家の一つとなる。その二代目の藩主が徳川光圀(義公、水戸黄門の名で知られる)で、光圀は、中国の明が滅亡した時亡命してきた遺臣の朱舜水に影響され、中国の古代史書特に司馬遷の「史記」の伯夷伝に啓発され、「本朝の史記」を作る目的で日本の歴史書編纂事業に着手した。 1657(明暦3)年、小石川の今の東大の農学部構内に史局を開いて「大日本史」の編纂事業に着手した。「皇統を正閏し、人臣を是非し、輯(あつ)めて一家の言を成す」との抱負であった。朱舜水は、北朝南朝の対立する日本の皇統譜を精査して、南朝正統論を打ち出した。これが水戸学の厄介さの始まりとなる。 |
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1672(寛文12)年、光圀が藩主となるや、史局を本邸内に移して彰考舘と命名し、(初代かどうかは不明なるが)彰考舘総裁として名越克敏が就任した。後に、水戸出身の国学者立原翠軒が参入し、当初は異端視されていたものの次第に頭角を現し、治保(文公)が藩主になるや、翠軒が抜擢されて総裁に就任する。 彰考舘は、儒官林家の影響の強い幕府の官学とはひと味違ういわゆる水戸史学の道を歩むことになった。義公は後世を考えて、考証の経過を註記させたり、史料も六国史以外は註記することなど近代史学の先駆というべく手法を命じている。かくて、当時の錚錚たる朱子学者が彰考舘へ参集し始めた。 一般に、史書には年代を追って記述していく編年体と権力者の事歴を中心に記述する紀伝体の方法があるが、大日本史は、支那の司馬遷の「史記」に採られた紀伝体に則っとり、本紀・列伝の部類と志・表、合わせて397巻、そして目録5巻の計402巻が揃うことになる。紀伝体を採用した理由は、「歴史とは、往古を彰らかにして未来を考えるものであり、単に昔の事績を記述するだけではない」とする見識に拠っていた。 この編集が終わったのが1906(明治39)年であるから、都合250年間の修史事業となった。その功績について、「大日本史の研究」所収「大日本史概説」は次のように評価している。
この間、関連して沢山の書物が編纂され、すなわち和文・和歌等の国文学、天文、暦学、算数、地理、神道、古文書、考古学、兵学、書誌等々でそれぞれ貴重な著書編纂物を残され、それぞれ文化史、学問史上に貢献した。 水戸学は、過去の日本の歴史について朱子学的大義名分からこれを明らかにしようとすることにあった。但し、幕府の御用学問とは観点が異なった。御用学問つまり官学は、天皇からいただき征夷大将軍という地位並びに江戸幕府を開いた武家政権の正当性を確認しこれを護持することに力点が置かれていたが、水戸学は、武家政権よりもより根源的な我が国の神国性に注目し、その皇統譜を擁護せんとする立場から歴史を解析しようとしていた。 つまり、「水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば」とあるように、学問の観点を「尊皇抑覇」(王は朝廷、覇は幕府)に据え、朱子学の名分論を通じて1・天壌無窮の日本の国体の特殊性、2・皇統綿々たる皇室の尊厳、3・皇室と幕府の秩序、4・君臣の義を重んずる臣民の秩序、5・日本固有の道徳、伝統的臣民感情の称揚を企図せんとしていた。 それは、安定した社会では封建的秩序の護持に役立つものであったが、「覇」よりも「皇」を上位に置く秩序を重んじていたため、本質的に幕藩体制にとって鬼学的要素が強かった。実際に、幕府政治を親藩として扶翼する立場の水戸藩が、尊王論的立場から皇威の回復に大きな貢献をしたことは幕末志士の回天運動に理論的根拠を与え、徳川政権には皮肉な結末をもたらすことになった。明治維新にとっては大きな役割を果たすことになった。 |
【「前期水戸学」考】 | |||
水戸学は、光圀公時代から18世紀の始めまでの「大日本史」の本紀・列伝・論賛の編纂に取り組んだ前期と、斉昭公の時代の18世紀末期から幕末にかけての後期とに区別することができる。
水戸学の当初は学問的研究に費やされ、この過程で次第にイデオロギーが確立され、水戸藩の学風として認知されていくことになった。義公時代を「前期水戸学」と云う。
「論賛」を書いた安積澹泊、「保建大記」を書いた栗山潜鋒、「中興鑑言」の三宅観瀾を水戸学の代表的な学者として名前を挙げることが出来る。
この際、北畠親房の神皇正統記が非常に高く称賛されている。神皇正統記の冒頭の一文は次のように記されている。
北畠親房の神皇正統記に明記されていた天照太神の神勅と三種の神器に象徴される神国の教えが水戸学に継承された。義公の事蹟に多大の影響を与えており、延いては幽谷・正志斎たちに継承され、そして後期水戸学の思想的背景を形成する。 |
【藤田幽谷の「正名論」について】 | |
1791(寛政3).10月、藤田幽谷は、18歳の時に「正名論」を書き上げ、真価を高めた。これは幽谷の名声を聞いた老中松平定信の所望により幽谷が書き上げたもので、これを仲立ちした翠軒はこれを見て幕府批判と疑われる恐れがあるとして松平定信には提出しなかったと云われている。 次のような一節がある。
この中で幽谷は、わが国の歴史から見て、天下国家において最も大切なことは、君臣の名分を厳正にすべきであるとして、朝廷と幕府、天皇と将軍の関係を明確に区分することが大切であり、将軍は朝廷から征夷大将軍に任命されているのであるから、幕府は朝廷を尊び、朝廷の権限を奪うようなことがあってはならないと言うことを建言しようとしていたことになる。 正名論とは「正しい名分」論という意であり、それまでの儒教や国学の立場からの「尊王の名分論」を継承発展させたものである。幽谷の名分論は「尊王論」に初めて政治理論としての根拠づけを与えたところに史上の意味を持つ。次のように述べている。「幕府(将軍)、皇室を尊べば、すなはち諸侯、幕府を崇び、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す。夫れ然る後に上下相保ち、万邦協和す」。幽谷は、天皇制を日本の誇るべき伝統であるとし、将軍の尊王には社会の秩序を正しく維持するという大きな意義があることを説いていることになる。 |
【「立原翠軒と藤田幽谷の論争」考】 | ||
寛政元年、翠軒は、「大日本史」編纂の早期完結論者としての立場で、治保(文公)に次のように上書している。
ところが、翠軒門下の藤田幽谷が反対の上書を提出した。
治保(文公)は、藤田幽谷の言を取り入れた。翠軒は怒って出仕せず、門下はいずれも閉職に追われた。治保(文公)が逝去し、治紀が藩主になり、藤田幽谷は彰考舘総裁に抜擢された。翠軒派は、「垂統大記」を編纂して大日本史に対抗せんとした。両派の抗争は藩主擁立と絡んでの政争へ発展しつつ後々も続いていくことになる。 |
【「藤田幽谷の尊王論」考】 |
江戸時代の中期に「正名論」を著わして名を挙げた藤田幽谷(ゆうこく、東湖の父)は、君臣上下の名分を厳格に維持することが社会の秩序を安定させる要であるとする考え方を示し、「将軍家は本家、禁裏は主君」、「いざというときは、禁裏にはせ参じるのが本来の姿」、「禁裏の正系は南朝である」と述べ、尊王論に理論的根拠を与えた。義公の学問思想というものを最も純粋なかたちで完結させたのが藤田一正(かずまさ)即ち藤田幽谷(ゆうこく)であった。 工藤平助(くどうへいすけ)の「赤蝦夷風説考」(あかえぞふうぞくせつこう)、林子平の「海国兵談」は、主として海防論に意味が持たされていたが、1792(寛政4)年、ロシアのラックスマンの根室来航により「国家防衛のための外国勢力排除」が要請されることになった。この気運に応じて藤田幽谷の尊王論が生み出されており、やがて攘夷論と結びつき、これを統合した「尊王攘夷論」が形成されてゆくことになる。その原基理論を提起したのが水戸の藤田幽谷ということになる。 |
【「会沢正志斎の尊王論経由攘夷論」考】 |
1825(文政8).3月、会沢正志斎は、「新論」を著わした。「新論」(原文は漢文)は読み下し文に書き換えて刊行され「雄飛論」と改題された。国力を充実させた上で、海外に進出し、「海外の諸蕃をして来りて徳輝を観せしめ」、「四海万民を塗炭に拯(すく)」うという、海外雄飛の構想こそがこの著書の究極の目標という意での命名であった。その論旨は、「民志を一に」(国民の心を統合)して、国家の富強をはかるための方策を明らかにしようとするところに主眼がある。尊王攘夷が国民統合を実現するための方法として位置づけらていた。第一章、国体。第二章、形勢。第三章、虜情。第四章、守禦。第五章、長計という構成で、従来からの尊王論と攘夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成された。また、日本国家の建国の原理とそれに基づく国家の体制という意味での「国体」という概念を提示したのも「新論」が最初となった。 西洋列強の接近と国内の対応の不味さが露顕してきた情勢の中で、同年2月に江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、幽谷の遺志を継承して国内の人心を統一し外国勢力の侵略に対抗するために如何にしたら良いかと言う趣旨で書かれていた。国家の統一性の強化をめざし、その為の政治改革と軍備充実の具体策を述べていた。その際に民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説いていた。 神道の祭祀をつかさどるという天皇の宗教的な側面が、民衆の心を「天威に畏敬悚服(しょうふく)」させることになり、仏教やキリスト教などの「邪説」に民心が誘惑されることを防ぎ、民心を国家目的への協力に統一せしめることができる。これが「尊王」の理念の政治的意義であるとする。同時に、政府(幕府)が強硬な外敵撃攘の方針を明示することが、太平に慣れて弛緩した人心を引き緊め、国家の統一性を強化し、武士や民衆の敵愾心を鼓舞し、国力や軍備の充実に役立つであろうと云う。 「尊王」と「攘夷」を結合することより国家としての統一性を強めて、国内と国外との両面から迫る政治的危機を克服しようとするのが論旨であった。尊王攘夷思想はここにおいて一つの体系的な政治理論として成立したと考えられる。幕末志士の間に多数の読者を得た。 この書が藩主哀公に呈上されたところ、哀公は、概要「内容的には誠にもっともである。彰考館に置くのはよいが、差し障りがあるからあまり人の目にふれないように」と命じたといういわくつきとなった。「新論」が「水戸学的尊王攘夷論」を確定させ、水戸藩の攘夷論を代表することになった。正志斎の名はこの一書をもって天下に知れ渡った。 |
【「水戸藩内のお家騒動」考】 |
この間、水戸藩主は、治紀、斎脩へと続いていく。斎脩は子供を儲けぬまま死亡したため、後継者問題が発生した。当時の将軍家斉には数十人の子女があり、「将軍家より養子を」という意見が為されたが、幽谷の子の東湖は、斎脩の弟を擁立した。これが斉昭(烈公)である。斉昭の藩主就任により藤田派の政治的優位が確立した。 斉昭は、藤田父子派の提言に基づき改革を進めたが、老臣結城寅寿を領袖とする家老その他の譜代大身は喜ばなかった。これと翠軒派が提携し藤田派に対抗し始めた。藤田派は、立原派を「旧弊因循派」と罵詈、立原派は藤田派を「功利派」と雑言した。 |