幕末剣客論-幕末史に於ける剣道の影響考 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
幕末において、江戸の剣道場が「幕末回天運動」の志士をあるいはそれを追討した新撰組の隊士を輩出した史実がもっと注目されてよいと思われる。思うに、当時に於ける「剣の達人」ぶりは、現代で云うところの学歴に匹敵するステータスであったのではなかろうか。これあればこそ、人が耳を傾けたという具合の重要な履歴ではなかっただろうか。それにしても、囲碁、将棋も幕末期に隆盛している。庶民宗教とも云える多くの新宗派も誕生している。これらを思えば、何と幕末は人々が心身頭脳とも活性化していたことだろうか。このことに驚かされる。以下、「幕末期の剣道の隆盛、剣道場」を検証する。 「道場剣術の時代」の解説を紹介したいが転載を好まぬスタイルにしているので割愛する。「幕末大全、剣術道場」(学習研究社)その他参照することにする。今後書き換え書き換え満足のいくものに仕上げるつもりである。i 2005.4.14日、2010.10.1日再編集 れんだいこ拝 |
【幕末時の剣の流派】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「剣の流派」を参照する。
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【主な剣道場と剣士】 |
幕末になると時代が騒然となったことによってか「剣術ブーム」が起き、江戸三大道場として「桃井春蔵の士学館」、「千葉周作の玄武館」、「斉藤弥九郎の練兵館」が名声を高めた。「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評されていた。これは、久留米藩士の松崎浪四郎(1833−1896)の評が始まりとのこと。 |
神道無念流 |
【福井平右衛門(嘉平)―戸ヶ崎熊太郎】 |
天明の頃(1781〜1789)、下野の福井平右衛門(嘉平)が神道無念流を編み出した。技の特徴は、相手の攻撃を右斜め前でかわし、「真を打つ」一撃で打って取る力剣にあった。その弟子が戸ヶ崎熊太郎で、江戸に道場を構えて門人を採った。この系譜に岡田十松、斉藤弥九郎、鈴木斧八郎が連なる。 |
【岡田十松「撃剣館」道場】 |
岡田十松(おかだ じゅうまつ)は、神道無念流戸ヶ崎熊太郎暉芳に弟子入りし、14785(天明5)年に20歳で「目録」、同7年、22歳で「皆伝」の印可を授けられた。師の帰郷により道場を継ぎ、後に神田猿楽町に「撃剣館」を建て、神道無念流を幕末の3大流派にまで引き上げた。神道無念流の中で達人中の達人と云われている。門弟に斉藤弥九郎、江川太郎左衛門、渡辺華山、水戸藩士の藤田東湖、武田耕雲斎、伊東甲子太郎(1835-1867)、水戸浪人の芹沢鴨(1827-1863)、新見錦、平山五郎、平間重助、渡部昇(1838-1913)、新撰組の永倉新八(1839-1915)らが輩出している。 |
【斉藤弥九郎「練兵館」道場】 |
斉藤弥九郎(1768-1871)は、越中国射水郡出身。岡田撃剣館で岡田十松の門下生として江川坦庵と共に神道無念流剣を学び、四天王と呼ばれた。後、九段坂下の俎橋付近に練兵館道場を起こす。その後、九段坂上(現在の靖国神社境内)に移転する。斉藤と江川の交流は終生続き、江川が名代官として善政をほどこし、領民から「江川大明神」とあがめ慕われる背後に斉藤の補佐があった。千葉周作の玄武館、桃井春蔵の士学館と並び江戸の三大道場に数えられた。「技の千葉、位の桃井、力の斎藤」と評された。 水戸藩、長州藩と強い絆を持ち、門下生として桂小五郎(1833-1877)が知られる。1852(嘉永5)年、桂小五郎が20歳の時、斉藤弥九郎の息子にして江戸の剣客・斉藤新太郎が萩に来訪。9月末、長男の新太郎に従って江戸へ旅立つ。11月末、江戸九段下の斉藤弥九郎道場に着。以降頭角を現し塾頭になる。他にも、新選組・芹沢派の「平山五郎」等々。この練兵館には、高杉晋作(1839-1867)、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥二郎など幕末の志士が多数入門し、特に桂小五郎は剣の腕前も優れ、師範代も務めている。 |
北辰一刀流 |
【千葉周作「玄武館」道場】 |
千葉周作成政は、1794(寛政6)年、奥州陸前高田市気仙町(陸奥国気仙郡気仙村、現在の岩手県陸前高田市)で生まれた。幼名を於寅松(おとまつ)といい、5歳の時に一家で気仙の地を離れた。気仙町中井には千葉周作の生誕地を示す立派な石碑がある。その後、一家総出で江戸に近い下総国松戸へ移住した。16歳の時、周作少年は、小野派一刀流の中西忠兵衛子正(たねまさ)の門人の浅利又七郎義信に弟子入り。浅利又七朗の娘婿養子に迎えられる。その後、浅利が学んだ中西道場へ入門し奥義を得る。周作は優れた剣士から次々と指導を受け、免許皆伝を言い渡される。その後、彼は、流派の改良をめぐって師匠の又七郎と対立する。義理の息子として浅利道場を継ぐ予定だったが最終的に絶縁する。道場を去った周作は武者修行の旅に出て、先祖代々伝わっていた北辰夢想流と小野派一刀流をかけ合わせた新しい流派を創設する。その後、北辰一刀流を唱えて独立し、1820(文永5)年春から関東一円に修行へ出掛ける。 1822(文政5)年、周作は日本橋品川町に道場「玄武館」を開いた。北辰一刀流は免許習得が容易だっただけでなく、竹刀を用いた合理的でわかりやすい指導から人気を博し、3年後の1825(文政8)年、神田お玉ヶ池に道場を移転、「千葉道場玄武館」を構える。広さ、門下生の数ともに随一の存在へ成長し、実に「江戸の三大道場」と呼ばれるまでに成長した。【江戸の三大道場】は斎藤弥九郎の「練兵館」、桃井春蔵の「士学館」、千葉周作の「玄武館」。道場は剣術修行の場としてだけでなく、諸藩の剣士たちが天下を語り合う「サロン」のような役割も持ち合わせていた。 周作は、従来の剣の伝授方式であった12段階、免許皆伝までの6段階を簡素化し、初目録、中目録、大目録皆伝の3段階にするなど革新した。しかも、初心者の2年間は竹刀中心で防具をつけた稽古を奨励した。形稽古を終えると打ち込み稽古に入り、次の段階で免許皆伝にしていた。門弟も多く江戸1番の道場の座を獲得し、水戸藩などの「指南役」や「剣術顧問」を頼まれ、道場は更に隆盛の一途となった。最盛期には八間四方3千3百坪の広大な道場に町人を含む門弟数3千3百人を超えたと云う。幕末に至って千葉周作は引退し、玄武館は三男の道三郎が継ぎ、それを森要蔵、庄司弁吉、塚田孔平、稲垣定之助ら玄武館四天王や天才剣士海保帆平がこれを助けた。但し、弟・貞吉の桶町道場に徐々に人気を奪われる結果となった。 1855(安政2).12.10日、千葉周作病没(享年62歳)。 門人に山岡鉄舟(鉄太郎、1836-1888)、清川八郎(1830-1863)、藤堂平助(1844-1867)、山南敬介、森要蔵(1810-1868)など。坂本竜馬(龍馬)もこの流派に列なる。 |
【千葉定吉「桶町千葉、小千葉」道場】 |
周作の実弟・千葉定吉政道が、玄武館創設に協力した後独立して道場を開き、最終的に京橋桶町に定まった。その為、「千葉周作道場玄武館」と区別する意味で「桶町千葉」、「小千葉」と称された。1853(嘉永6))年、鳥取藩江戸屋敷の剣術師範に召し出された。その後を長男の重太郎一胤が引継ぎ、30歳にして道場を任された。この道場に坂本竜馬(1836-1867)が入門し、重太郎と親交することになる。 1853(嘉永6))年、坂本竜馬が道場へやって来た時、定吉の長女の佐那と初手合わせし、歯が立たなかったと伝えられている。佐那は「千葉の鬼小町」と呼ばれる美人で、後に竜馬の許婚となったが、婚姻には至らなかった。1867(慶応3))年、龍馬が京都において暗殺されると、その後一生独身を通している。 1860(万延元)年、重太郎も鳥取藩に召し抱えられ、1862(文久2)年、周旋方に就任。同年12.29日、勝海舟の開国論に反発して、坂本龍馬とともに勝邸を訪ね、機を見て斬ろうとしていたところ、龍馬が海舟の言に伏した為に沙汰止めとなったとの逸話が残されている(「海舟日記」)。 |
【千葉栄次郎】 |
2023.1.11日、「千葉道場の天才剣士・千葉栄次郎〜日本一と評判の北辰一刀流継承者」その他参照。 1833(天保4)年、千葉栄次郎が武蔵国江戸神田お玉ヶ池(現在の東京都千代田区)に生まれた。北辰一刀流の始祖から生まれた千葉栄次郎は、兄弟の仲でも飛びぬけた才能を誇っていた。幼いころから周作に学び、14-15歳のころには「千葉の小天狗」、「お玉が池の小天狗」として名を馳せるようになる。19歳のとき、幕末でも屈強な一派として知られる「神道無念流」斎藤弥九郎の三男・斎藤歓之助と試合をした。栄次郎と同年の斎藤歓之助もまた、父親の七光りではなく「鬼歓」と呼ばれるほど激しい剣技の持ち主。その対決で栄次郎は胴や小手を決め、見事に勝利する。若き天才同士の戦いに勝利した彼の名声は江戸中に鳴り響いた。(海保帆平も) 勝海舟・高橋泥舟とともに【幕末の三舟】として知られる山岡鉄舟もまた北辰一刀流を学んでいたが、栄次郎との間に次のようなエピソードを残しています。1855(安政2)年、鉄舟20歳の頃の話。当時の鉄舟は「鬼鉄」として知られ血気盛んな青年だった。彼は、千葉栄次郎と同門の井上八郎から北辰一刀流を習い、なかなかの腕前を誇っていた。栄次郎の前では歯が立たず、そこで一計を案じる。仲間を20人ほど集めて代わる代わる栄次郎に挑ませ、疲れきったところで一本だけでも取ろうとした。さすがに20人が相手では天才剣士でも勝ち目がない。鉄舟もそう考えたが、しかし……。栄次郎の剣術は常人の思惑をはるかに上回っていた。20人ことごとく竹刀で打ち破ったかと思ったら、戦いが終わった後も息一つ切らさず、飄々としていた。諦めきれない鉄舟がもう一度栄次郎に飛び掛かろうとしたとき、栄次郎の竹刀を確認すると、中ほどからポッキリ折れていた。20人の武士を相手にするうちに竹刀の方が先に音を上げてしまっていた。いずれにせよ栄次郎は折れた竹刀で鉄舟を翻弄しており、さすがにここまでされたらお手上げというほかなく、鉄舟はただただ栄次郎の強さに関心したという。 |
江戸中で評判の剣士となった千葉栄次郎。1853(嘉永6)年になると、その腕前が評価され、水戸藩江戸定詰(出張所のようなイメージ)の剣術指南役に抜擢された。江戸で指導するだけでなく、水戸へ出向くこともあったという。この頃にはすでに一人前の剣士として認められており、偉大な父・千葉周作から独立、水戸でも父の代わりに稽古をつけるほどだった。しかし、その類稀な剣術が、かえって水戸藩士の反感を買ったというエピソードが残されている。彼は水戸の弘道館道場で稽古した際、・頭の上で竹刀をクルクル回転させる・竹刀を相手のコカンにくぐらせる・竹刀を頭上に放り投げ、落ちてくる竹刀で相手を攻撃するといったアクロバティックな剣さばきを披露した。しかし、当時の武士たちはプライドが高い。彼の振る舞いは「自分たちをバカにして無礼だ!」と捉えられてしまい、激怒した水戸藩士らに謝罪することでなんとか場を収めたという。真相は違うものでした。栄次郎は、ふざけたように見せかけることであえて隙を作りだし、油断した相手を打ち倒す術を教えるつもりだった。「私が隙を見せている間に攻撃できないとは、まだまだ修行が足りない」。栄次郎にしてみればそういうことだった。しかし彼はそれをうまく説明する言葉を持ち合わせていなかったようで……自身は剣術の天才でも、指導者にはあまり向いていなかったのかもしれません。実際、栄次郎の稽古は「フザけている」と思われてしまい、一部には「あいつの剣には実がない。だからまやかしの剣だ」と揶揄する声もあった。 現代では、あまり有名とは言えない千葉栄次郎。幕末当時は全国区で名が知られていたことを伺わせる話がある。九州の久留米藩に、武藤為吉という優秀な剣士がいた。その武藤が栄次郎との試合に挑み、こんな言葉を残している。「初対面の初試合、日本一になれると覚悟を決めて勝負に臨んだ。熱戦を繰り広げることはできたが、運悪く負けてしまった」。この時代は、黒船来航によって日本中が危機感を抱いていた動乱期。戦から離れていた武士のみならず農民に至るまでの階層でも剣術修得に躍起になっていて、栄次郎のいた千葉道場は、坂本龍馬をはじめとした全国の志士たちが一堂に会する場でもあった。 圧倒的剣技で天才の名をほしいままにした千葉栄次郎。残念ながら彼が幕末維新の時代に活躍することはなかった。 1853(嘉永6)年、水戸藩に召し出され、馬廻組⇒大番組に昇進する。 1862(文久2)年1.12日、無敵の剣士は病に罹り生涯を閉じてしまった(享年31歳)。遺伝的なものもあったのか、父・千葉周作の子どもたち、つまり栄次郎の兄弟たちは短命な人物ばかりで、安政2年(1855年)に長男が、文久元年(1861年)に四男が亡くなっている。 |
「海保帆平」(かいほ はんぺい)は、幕末期の剣豪、水戸藩士。文政5年(1822年) - 文久3年10月14日(1863年11月24日)。 安中藩にいた帆平の剣士としての素質を見抜いた水戸藩の徳川斉昭により、若くして500石の破格の待遇で召し抱えられる事になった。その後千葉周作門下の四天王と呼ばれるまでに頭角をあらわし、江戸本郷弓町に道場をかまえ日本剣豪百選に登場するまでになる。江戸末期の儒学者、会沢正志斎の娘と結婚する。水戸藩の動向と同じく波乱の生涯だった。創作物では、司馬遼太郎等の千葉周作の道場が登場する時代小説に度々登場する。 1822(文政5)年、上州安中藩の江戸屋敷で男三人兄弟の次男として生まれた。幼名は鉞次郎、後に帆平、諱は芳郷。祖父荘兵衛は享和2年(1802年)に没するまで長く安中藩の江戸詰の年寄役を勤めていた。父荘兵衛も、その父の没後、少なくも文政8年(1825年)から天保8年(1837年)に没するまで江戸詰の年寄役を勤めている。兄左次馬は4歳年上、弟順三は2歳年下だった。帆平が幼時安中で剣の修業をしたという説があるが、父の役柄からありえない。生後一貫して江戸で過ごした筈である。天保6年(1835年)13歳のときに千葉周作の玄武館に入門、研鑽を積んで天保11年(1840年)18歳という記録的若さで大目録免許皆伝を得たといわれる。 水戸藩の公式資料『水府系纂』によれば天保12年(1841年)1月からの採用だが、先方からの申し出では11年中に来ればその年の俸給を出すということになっていた。また、仕官後の禄高について藩からの支給は50石であるが忠敞が自分の禄高から50石を割いて上乗せするとの約束で出発した。これがいつまで続いたかは詳らかでない。剣術師範として採用されたなどともいわれるがとくにそういった言葉は使われていない。 仕官後間もなくだと思うが戸田忠敞の仲人で、水戸の碩学会沢正志斎の三女と結婚した。正志斎は幕末の日本に大きな影響を与えた有名な学者で、改革派の理論的指導者だったから帆平もその影響を受けたと思われる。仕官後3年半ほどたった弘化元年(1844年)藩主斉昭が幕府から叱責を受けて隠居・謹慎を命じられるという大事件が発生した。心ある藩士とともに帆平も藩主の雪冤運動に係わって、無断で江戸表まで出かけて行った。これを咎められて藩から4年半に及ぶ逼塞・遠慮という罰を受けた。縁者でもある帆平の墓碑銘の撰文者はこのおかげで「日夜研精し頗る大義に通ずるを得」たとしている。以前の帆平から脱皮する機会になったのかもしれない。 安政元年(1854年)江戸馬廻組として出府。江戸へ出て間もなく本郷の弓町に振武館という道場を持つことを認められた。後年安中藩の剣術師範となり剣名を轟かせた根岸忠蔵はここの塾頭として修練を積んだ。安政4年(1857年)には土佐藩の江戸藩邸で行われた武術試合に選ばれて出場している。 文久2年(1862年)8月に蟄居を免ぜられて職場に復帰し、翌文久3年(1863年)には藩主徳川慶篤にしたがって、物情騒然の京都へ赴く。在京3月5日から25日で離京するが水戸へ帰って約半年後の10月14日逝去した。41歳だった。水戸市酒門共同墓地に墓所が存在する。帆平の墓は水戸の酒門墓地にあるが墓碑銘の撰文者はこう言っている。「人となり質直にして義を好む。躯幹長大、状貌雄偉、常に長刀を佩ぶ。風節凛然たり。」、「居常酒を嗜み、客を愛す。喜んで人の急に趨き、奮って身を顧みず。」と。兄左次馬は帆平に先立って文久2年(1862年)に安中において没し、弟順三は安中藩に仕え、玄武館の世話役頭取を勤めたが明治12年(1879年)下総の太田で没した。 |
水戸公の前で仕合をすることになったが、相手は富士浅間流祖の中村一心斎(身長6尺2寸、老年)。海保は逆上段を取ったが、中村は短刀を正眼につけたままで、海保は打ち込めず、中村はそのまま進んでアゴ下にふれんばかりの所(間合い)へ入り、そのまま元の所へ帰った。海保は人形のように動けず、水戸公は「勝負はあった」と仕合を止めた。納得がいかない顔をしている海保に対し、水戸公は海保は心の争いに負けたと説明したとされる。 |
【山岡鉄太郎(鉄舟)】 |
山岡鉄太郎(鉄舟)は、天保7年、旗本・小野朝右衛門の子として生まれる。母は塚原ト伝の流れをくむ。千葉周作に北辰一刀流の剣を学び、20歳の時に、刃心流槍術の山岡静山に入門した。静山が早世したため、静山の弟で高橋家の養子となっていた精一(後の高橋泥舟)に請われ、静山の妹・英子と結婚し山岡家を継いだ。 安政3(1856)年、剣の腕を買われ幕府講武所の剣術世話役心得に取り立てられた。その剣技は「鬼鉄」と恐れられた。安政6(1859)年には清河八郎と結び、尊皇攘夷党を結成した。文久2(1862)年、浪士組取締役に任命され翌年上洛するが、清河の建白書提出を受けて程なく江戸に帰還した。その後山岡は浅利又七郎に剣を学び、修行を重ね「剣を捨て、剣に頼らぬ」の境地に達し、一刀流正伝と秘剣・瓶割刀伝授される。 大政奉還後の明治元(1868)年3月には、勝海舟の使者として新政府軍東征大参謀の西郷隆盛を単身訪問し、静岡で会見、江戸総攻撃を仕掛けようと目論む新政府軍に、徳川家救済と戦争回避を直談判し、江戸城無血開城のきっかけを作った。西郷は当初、江戸城を無条件で引き渡す他、慶喜を備前に預けるとの条件を提示した。しかし、山岡は慶喜を備前に預けるのは罪人扱いだとして、涙ながらに説得。最後は切腹するかまえをみせた。山岡の決死の交渉に対し、西郷は方針を軟化させ、これにより勝と西郷の会談が実現し、江戸城の無血開城が決められることとなった。 維新後は、茨城県参事、伊万里県権令を歴任し、明治5(1872)年には明治天皇の侍従となった。そして、宮内庁の要職を歴任する傍ら、剣と禅の修業に精進し無刀流を開いた。晩年は、子爵を授けられ華族に名を連ねている。 1888(明治21).7.19日、座禅のまま往生した。享年53歳。 |
鏡新明智流 |
【初代・桃井春蔵「士学館」道場】 |
初代・桃井春蔵(直由、1772-1780)は福島の郡山藩士。自身の修得した戸田流、一刀流、柳生流、堀内流を合わせ鏡心明智流を創始した。1773(安永2)年、日本橋南茅場町(現東京都中央区日本橋茅場町)に「士学館」を開く。流派名は戸田流抜刀術の形名「鏡心」に因み「鏡心明智流」とされ、後に「鏡新明智流」と改められた。ただしその後も両方の表記がみられる。 |
桃井直一(2代目 桃井春蔵)が南八丁堀大富町蜊河岸(現 中央区新富)に移転。 |
【4代・桃井春蔵「士学館」道場】 |
桃井春蔵(1825―1885)は駿河国沼津藩士・田中豊秋の次男として生まれた。幼名は甚助、名は直正。1838(天保9)年、江戸に出て3代目桃井春蔵の名を継ぐ直雄に入門し、鏡新明智(きょうしんめいち)流を学んだ。直正は剣術の才能を師匠に見込まれ、その婿養子にまで取り立てられる。1841(天保12)年、弱冠17歳の若さで4代目桃井春蔵の名を襲名する。桃井春蔵の名は士学館で代々受け継がれる名であり直正は第4代桃井春蔵。1848(嘉永元)年、免許皆伝される。 1866(慶応2)年、幕府から講武所剣術教授方出役に任じられ、幕臣として取り立てられた。1887(慶応3)年、遊撃隊頭取並に任じられている。明治時代には大阪で誉田八幡宮の神官となった。明治12年(1879年)、警視庁に撃剣世話掛が創設されると、士学館の高弟であった上田馬之助、梶川義正、逸見宗助が最初に登用され、これに続いて阪部大作、久保田晋蔵、兼松直廉などの弟子も採用された。その後警視庁で制定された警視流木太刀形と警視流立居合にも、鏡新明智流の形が採用された。1885(明治18)年)、コレラにより死去(享年61歳)。 門人として武市半平太(瑞山、1829-1865)、岡田以蔵、中岡慎太郎(1838-1867)、田中光顕(1843-1939)等々。 |
天然理心流 |
【近藤勇「試衛館」道場】 |
後の新撰組隊長となる近藤勇が道場主を務めていた道場で、天然理心流の「試衛館」。「牛込甲良屋敷」にあった。 |
直心影流 |
【男谷精一郎「男谷道場」】 |
直心影流13代目。防具による試合稽古を創始した。幕臣の門人が多かった。心胆の練磨を強調する重厚な剣。門人は、島田虎之助、勝海舟、天野八郎。江戸末期の剣豪では、「男谷信友、大石進、島田虎之助」が「幕末の三剣士」と云われた。 |
【島田虎之助】 |
島田虎之助は、1814年生まれで、九州の中津藩出身。24歳の時に江戸の直心陰流(じきしんかげりゅう)の男谷道場へ入門。勝海舟の剣の師匠であったが、38歳の若さで病没。剣術以外に儒教や禅を好んで学んだことから、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」の言葉を遺している。虎之助の出生地の石碑には、「剣は心なり 心正しからざれば 剣また正しからず。剣を学ばんと欲すれば 先ず心より学ぶべし」と印されている。島田虎之助の弟子に幕末の三舟(勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟)がいる。 |
【榊原鍵吉】 |
榊原 鍵吉(さかきばら けんきち、1830.12.19日(文政13.11.5日) - 1894(明治27).9.11日)は江戸幕府幕臣であり幕末から明治にかけての剣術家。遊撃隊頭取。諱は友善(ともよし)。男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承した。明治維新後に撃剣興行を主宰して剣術家を救済したことや、明治20年(1887年)の天覧兜割りなどで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。 文政13年(1830年)、江戸麻布の広尾生まれ。父は御家人・榊原益太郎友直。5人兄弟の長男であった。 天保13年(1842年)、13歳のときに直心影流剣術・男谷信友の道場に入門する。当時、男谷道場は広尾から近い狸穴にあった。しかし、同年に母が死去し、父・益太郎は下谷根岸に移ったために狸穴は遠く不便となった。その上、鍵吉は亡き母に代わって家の雑務や兄弟の面倒を見る必要があった。見かねた男谷は、玄武館・士学館・練兵館など名のある道場の方が近くて便利だと移籍を促した。しかし鍵吉は、いったん入門した以上は他に移る気はないと言って通い続けた。鍵吉はめきめき上達したが、家が貧乏なため、進級しても切紙や目録など、費用のかかる免状を求めたことがなかった。 嘉永2年(1849年)、男谷は事情を察し、男谷の方で用意を整えてやり、鍵吉に免許皆伝を与えた。 安政3年(1856年)3月、男谷の推薦によって講武所の剣術教授方となる。後に師範役に昇進。 安政7年(1860年)2月、講武所が神田小川町に移転した際、2月3日の開場式に将軍・徳川家茂、大老・井伊直弼ら幕閣が臨席して模範試合が開かれた。鍵吉は槍術の高橋泥舟(謙三郎)と試合した。すでに高橋は井戸金平と対戦して、相手の得意技である足絡みで勝ち、席を湧かせていた。鍵吉は高橋に勝って、満座の喝采を浴びた。これを家茂が気に入り、鍵吉は将軍の個人教授を務めるようになる。 文久3年(1863年)、将軍上洛に際し、随行する。二条城内で新規お召し抱えの天野将曹(将監とも)と試合して勝つ。天野は男谷派の同門だが、新規お召し抱えの意地もあって「参った」と言わず、それならばと鍵吉は激烈な諸手突きを食らわせ天野をひっくり返したという。また、京都の四条河原で土佐藩浪人3人を斬ったともいう。 慶応2年(1866年)7月、家茂が大坂城で死去すると、江戸に戻る。11月に講武所が陸軍所と改称、組織替えになると、職を辞して下谷車坂に道場を開いた。 慶応4年(1868年)、上野戦争のとき、鍵吉は彰義隊には加盟しなかったが、輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)の護衛を務め、土佐藩士数名を斬り倒して、山下の湯屋・越前屋佐兵衛と二人で交互に宮を背負って三河島まで脱出。その後何食わぬ顔で車坂の道場に戻っている。 明治維新後、徳川家達に従って駿府に移るが、明治3年(1870年)に再び東京に戻る。明治政府から刑部省大警部として出仕するよう内命があったが、鍵吉は、自身は幕臣であるとの思いからこれを受けず、代わりに弟の大沢鉄三郎を推挙した。 明治5年(1872年)、士分以上の帯刀が禁じられたことで、道場経営が立ちゆかなくなり、警察の武術教授らも不要として職がなくなる。鍵吉は、これら武芸者の救済策として、明治6年(1873年)に「撃剣会」を組織、浅草見附外の左衛門河岸で見世物興行する。これが撃剣興行の始まりで、東京で37カ所に上り、地方にも及んだ。考案した撃剣興行は、剣術を見世物にしたことや、客寄せのための派手な動作が後の剣道に悪影響を与えたとして批判される一方、剣術の命脈を保ったという評価も認められており、功績をたたえ平成15年(2003年)に全日本剣道連盟の剣道殿堂に選ばれている。晩年まで講釈席や居酒屋を経営したが上手くいかず、車坂道場で後進を指導し、著名人が招かれた園遊会などで度々演武を行った。 明治9年(1876年)、廃刀令が出ると、刀の代わりに「倭杖」(やまとづえ)と称する、帯に掛けるための鉤が付いた木刀(政府に遠慮して杖(つえ)と称していた)と、脇差代わりの「頑固扇」と称する木製の扇を考案し、身に着けた。 明治11年(1878年)、明治天皇が上野に行幸し、天覧試合が挙行された。鍵吉は主宰として審判を務めた。 明治12年(1879年)、警視庁に撃剣世話掛が創設されると、鍵吉は審査員として採用者を選抜した。 明治20年(1887年)11月11日、明治天皇が伏見宮邸を訪れた際、天覧兜割り試合が催された。出場者は警視庁撃剣世話掛の逸見宗助と、同じく上田馬之助、そして鍵吉であった。逸見、上田は失敗したが、鍵吉は名刀「同田貫」を用いて明珍作の兜を斬り割った(切口3寸5分、深さ5分)。 明治27年(1894年)元旦、山田次朗吉に直心影流の免許皆伝を授け、同流第15代と道場を譲る。9月11日、脚気衝心により死去(享年65歳)。四谷西応寺に葬られた。法名は義光院杖山倭翁居士。死ぬまで髷を解かず、道場も閉じなかった。 逸話
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心形刀流 |
【坪内主馬「坪内道場」】 |
心形刀流の「坪内主馬道場」。この道場に師範代として「永倉新八」が招かれた。門人として島田魁。後に、永倉新八は新撰組=二番組組長、島田魁は二番組伍長というコンビを組んだ。他に伊庭八郎。 |
【天野静一「天野道場」】 |
「天野道場」、道場主は天野静一。新選組で一番長生きした隊士「稗田利八(池田七三郎)」が、剣術を学んだのが「天野道場」。 |
【佐々木只三郎】 |
【浅利 義明】 |
【梶川義正】 |
【逸見宗助】 |
【大石進(大石神影流)】 |
【比留間与八(甲源一刀流)】 |