侠客論 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、侠客論をしておく。 2010.04.24日 れんだいこ拝 |
【れんだいこの侠客論】 | ||
2010年現在、日本政治に欠けているのは侠客精神ではなかろうか。政治と云うものが曲がりなりにも持ち合わせてきていたこの精神が全く見られなくなったのが、このところの政治ではなかろうか。2009年、政権交代により民主党の鳩山政権が生まれたが、鳩山首相、その他閣僚の面々に物足りなさを覚えて心を打たれないのは侠客精神の欠如によるのではなかろうか。その中にあって亀井、小沢に人気が認められるのは、幾分か侠客精神の投影を嗅ぎ取るからではなかろうか。 ならば、侠客精神とはどういうものか。これを一言で言い表すとすれば、「義を見てせざるは勇なきなり」の精神と云うことになろうか。侠客には、功利的に見て例え損の道でも筋を通すという生きざまがある。この生きざまを歴史的に見れば、復古的な場合も革新的な場合もある。社会の上下を問わない。上には上なりの、下には下なりの侠客的生き方がある。共通しているのは、旺盛な「体制あるいは秩序の言いなりにならない精神」である。 日本政治は伝統的にこの侠客精神を持ち合わせてきたのではなかろうか。義理と人情を重んじ、手打ち式和合政治で政局を推移させてきたが、ここに脈打つのは侠気であり、これこそ懐かしの日本型政治の原形なのではなかろうか。この精神は、思いのほか強く歴史的に受け継がれてきているのではなかろうか。その精神が今日に至って急速に萎え始めている気がしてならない。これは偶然ではなく、意図的故意に抹殺されてきているようにも思う。故に、再検証せねばならないと思う。 思えば、学生運動華やかりし頃、多くの学生がマルクス主義に被れ、革命を夢見て、反体制運動にのめりこんだ。そこにあったのは主観的にはマルキストとしての自負にも拘わらず、侠客精神ではなかったか。今思うに、活動家にはマルキストとしての理論と云うほどのものはなかった。一夜漬けで読んだ「共産主義者の宣言」その他数冊を読んで、すっかり俄か仕立ての革命戦士になり、デモに次ぐデモに明け暮れる活動家群像であった。当人はマルキストと思っていたが、むしろ侠客気どりしていたと読むべきではなかろうか、今にして思うに。 あの時代に比べて今や社会はすっかり変わった。侠客が居なくなり、代わっていわゆる優等生ばかりになった。その代表が東大的なるもの、松下政経塾的なるもののような気がしてならない。しかし、優等生が賢いとは限らない。枠組の中では器用に処世できても、乱世の世の中には通用しない。乱世下の優等生は賢こバカになる可能性がある。乱世には、既存の秩序の枠を破り、新しい容れ物を用意せねばならない。その力は侠気なくしては生まれないのではなかろうか。そういうことに思いついた。この観点を磨くために、格好の教材として「幕末侠客の幕末維新」を見て行くことにする。 2010.4.24日 れんだいこ拝 |
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時代の政局と、それに巻き込まれた土地ところが人を作る。その人同士の揉み揉まれ合いによって人が練られ傑物を生む。これが歴史の人物弁証法であるように思われる。ここでは、幕末の侠客を清水次郎長と黒駒の勝蔵の掛け合いを中心に見て行くことにする。なぜなら、この二人こそ竜虎として終生対峙し続ける宿縁の同時代の双璧侠客であったからである。 既に「博徒の幕末維新」が、この観点から考察しているようである。国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)も、2004(平成16)年の3.16日から6.6日まで「民衆文化とつくられたヒーローたち~アウトローの幕末維新史」を催し、博徒や侠客といった、正史の中では取り上げられることの少ない英雄たちに焦点を当て、「日本版水滸伝」を企画化したとのことである。次のようにプロローグされている。
侠客について次のような評がある。
2010.04.21日 れんだいこ拝 |
政治論的にはそういう位置づけを得る侠客であるが、社会的にはアウトローであったことは間違いない。ここで、侠客の存立基盤であった賭博について確認しておく。解説によれば、賭博とは「賭事」と「博技」の合成語で、「賭事」とは、賭ける人間が介入し得ない偶然の予見に賭ける種類のギャンブルで、サイコロの目を当てるサイコロ賭博が代表例として挙げられる。「博技」とは、「賭事」に付加して賭ける人間の技量が勝敗を決する種類のギャンブルで、花札などが挙げられる。他にも、賭博ではないが人間の技量が勝敗を決する囲碁、将棋などの勝負事がある。 このうちサイコロ丁半や花札などの博打を生業とする者を博徒(ばくと)と呼ぶ。他にも、祭礼の周辺で露天商的商業活動を営む者を的屋(てきや)又は香具師(やし)と呼ぶ。その歴史は古く、露店商人の守護神である神農信仰を中心に組織化されたものと云われている。これらを総称してヤクザとも云う。 ヤクザの語源は数種あり定かではない。昔、歌舞伎者といわれる役者が大変派手な格好をしており、その格好を真似た無法者のことを「カブキモノ」とか「ヤクシャ」のようだといい、この「ヤクシャ」が訛って「ヤクザ」になったという説がある。他にも、博徒の本業である賭博で、一番悪い「目」を八(や)、九(く)、三(ざ)の「ブタ」と云うことから、これが転じて「役にたたない者」を意味する「ヤクザ」になったとも云う。 「博徒」と言う場合、博徒集団を指す場合と博徒個人を指して呼ぶ場合の二通りの用法がある。 江戸時代、表向きは賭博が禁止されていたが、正業に就かずシノギとして博打(バクチ)を生業(なりわい)とする層が生まれて行った。当時彼らは、長脇差で武装し幕府や藩の取締りに反抗しながら、男伊達、侠客などの任侠集団を自称し、口入れ(人夫供給)や火消などを表看板に賭博をもって生活していた。 江戸時代前期頃より博徒が次第に組織化され常態化した。江戸時代中期になると、それ以前の半農博徒とか宿場博徒、中間博徒などと呼ばれていたものが階梯的組織をもつ集団を形成していった。 この時代、ヤクザは、街道筋の宿場町に賭場を設け、寺社の祭礼や縁日に人が集まるのを利用して賭場を開き、小金を持った商人や人夫たちを寄せて場所代(ショバ代)とも呼ばれるテラ(寺)銭を稼いだ。ここに、賭場利権が発生した。やがて、取り締まる側の役人との裏結託が始まる。ヤクザは、そのお目こぼしの中で賭場を開帳する弱い立場にあった。その弱い立場がいかさま賭博を生み、争いが絶えないことになった。的屋(てきや)にも同様の生態が見られる。 親分は賭場の貸元のことを指す。一定の縄張りを持ち、一家を構え、子分を養い、用心棒を雇った。賭場を実際に管理する者を代貸と云う。、直接勝負にあたる者を中盆と云う。賭場でお茶を出したり、使い走りをする子分衆を出方と云う。一家には、凶状持ちや浪人、勘当人などの「無宿人」が流れこんできた。互いを秩序づけるものは処世才覚と度胸、腕づくの力であった。逆に云えばそれしかない赤裸々な相食む実力の世界であった。このエネルギーが一家を支え、これに成功した一家は一大グループを形成して行くことになった。そこへ、次から次へと新興勢力が生まれ、勢い一家間の抗争が始まることとなった。 江戸中期以降、全国各地に侠客が生まれている。何らかの社会的必要悪があったと窺うべきであろう。恐らく、江戸時代の産業的商業的発展と幕藩体制の揺らぎが相俟ってヤクザを発生させていたのではあるまいか。 江戸時代後期になると、幕府や武士階級の力が弱まるにつれ、都市や農村を問わず、常設賭博場が各地に出現し、博徒集団も、親分子分の擬制の血縁関係で更に強く組織化され、槍や鉄砲などで重武装化した多くの集団が各地で跳梁した。 江戸幕府は、関八州の治安の悪化に対応して、関東取締役という制度をつくり、地方は改革組合村に統合し、取り締まりを強化した。しかし、侠客一家を取り締まるには無力で、気づいた時には親分衆を利用することを常態化させていた。この親分衆は博徒と役人の二役をすることにより「二足のわらじ」履きと云われた。この系の親分が「顔役」と呼ばれ市中に睨みを利かせていた。 この時代のヤクザは、「二足のわらじ」派と生粋派と中間派の三派で構成されていた。国定忠治や笹川繁蔵は二足のわらじを履かず、権力と対峙し続けた。 興味深いことは、幕末になるとヤクザも政争に巻き込まれ、幕末侠客が単に博徒に納まらず、時代の政治政局と否応なく深く絡み合っていたことである。士族の奪権闘争、百姓の一揆、町民の打ちこわしの動きと連動して裏で幕末侠客が立ち働いていた史実を見て取れて興味深い。もっとも立場は色々に分かれている。会津の小鉄、新門辰五郎、清水の次郎長のような佐幕派、黒駒の勝蔵、水野弥三郎のような倒幕派、他に中間的なノンポリ派と様々な侠客が居たようである。いずれにせよ、侠客と云われる所以には義侠心厚く且つ圧倒的な存在感があってのことだと思われる。 この時期の侠客は、当時の治安警察とは別の存在感で、地元の治安を裏で維持し、救貧に努めた。これが為に義賊とも云われる。死後、講談や浪曲、劇になり、庶民の共感を呼んだのはこれが為である。「天保水滸伝」は、この辺りの経緯を活劇伝承している。 明治維新以降も博徒集団は依然として存続し、維新直後こそ新体制の障害になるものとして、博徒の活動は強制的に抑えられたが、明治10年頃になると政府の取締りもゆるみ、博徒の活動が大変盛んになった。その後、明治17年に太政官布告による「賭博犯処分規則」が施行されて、取締が強化され、「大刈込」といわれた博徒の大量検挙なども行われた。しかし、明治22年に「賭博犯処分規則」が廃止されるとともに、博徒集団は息を吹き返し、大規模な縄張り争いを繰り返すなど、その活動が再び降盛した。 その後、日清、日露の戦争を経て、我が国の社会経済の急激な発展は、博徒稼業の質を変化させ、賭博専業の博徒から、歓楽街、興業界、土建業、港湾荷役、炭鉱地区等に進出する複雑な形態に移って行ったが、賭博を本業とするその本質には変化はなかった。また、彼らは一方では、当時の右翼政治活動との繋りを強め、時の政治に癒着しながら、組織の存続強化を図って行った。 昭和20年代の戦後の混乱期になると暴力集団として、青少年不良集団である「愚連隊」が出現し、それまでの博徒、的屋などの利権が荒されるようになり、これら新・旧勢力間の利権をめぐる対立抗争が激化する一方、組織の離合集散の結果、渾然として、各々の組織的色分けが次第につかなくなって行った。この流れが「暴力団」化して行くことになる。同時に、各々の組織は利益になるものには何でも手を出すようになり、賭博を本業とする博徒はほとんど見当らなくなった。 侠客とは、このうちの正義派とみなすことができよう。これを道徳的に批判するのは容易い。しかし、道徳的批判は所詮批判にとどまり、原因を切開する力はない。 |
注目すべきは、その後世界史的に主流化する西欧型市民社会のルール社会に比して、別のロジックと生態で侠客ルールを作り上げようとしていた面ではなかろうか。それは受け入れ難い面もあるし、実存的に深い洞察に支えられた面もあるとみなすべきではなかろうか。但し、その後の侠客が拝金主義化、売国奴化することにより、自ら侠客ルールを毀損せしめ、いわゆる正義性のない単なる利権暴力集団化した面があるように思われる。ということは逆に、これ反発する「かっての侠客精神」を細々ながら灯し続けている面もなきにしあらずというところではなかろうか。そのどちらの面を濃厚にするのかによって評価が定められるのではなかろうか。 |