449―126 日朝友好運動の歩みと変調

日朝協会設立
 1949年には名古屋で、1950年には京都で、その他神奈川や福岡でも日朝親善組織が形成されていった。1850.12月には日朝親善協会準備会が創設されている。

 1951.6月日朝親善協会が設立された。当時東京入谷にあったニュースタイル編物学院に日朝両国仏教徒が会合し、両国の友好親善の為に日朝親善協会を作りました、とある。日本と朝鮮両民族の理解と友好を深め、経済文化の交流をはかり、おたがいの利益と繁栄、アジアの平和を増進することを目的としていた。

 もともと日朝協会そのものは在日朝鮮人、日本人で宗教、教育、文化、芸術などに関係する有志が発起人となり、政治問題にかかわりなく両国の友好関係を深める趣旨で発足した純然たる文化団体で、創立当時の会長には浅草万隆寺の住職、来馬琢磨師(元参議院議員)が会長となり、副会長は東鮮寺住職の李英表師、理事長は大正大学教授坂戸智悔師、他に神田寺の友松円諦師などが活躍されていたものである。

 1952.6.2日、日朝親善協会が設立された。ソ連、中共などから引揚げてきた文化人が多数入会していつのまにか会の指導権を握るようになり、「民戦時代」*の在日朝鮮人子弟の民族教育復活闘争をきっかけに次第に左翼的になったため役員の大半が脱会、数年間は有名無実なものとなっていた、とある。

 朝鮮戦争について休戦協定が成立した(1953(昭和28)年)頃から在日朝鮮人の間には、共和国に帰国したいとの希望が出始めていた。


 1953.11月のチョソン戦争休戦祝賀日本国民親善使節団(大山郁夫団長以下4名)、1954.3月岡田春夫氏と櫛田ふきさん、1954.9月には黒田寿男氏以下7名の代表団などがチョソン戦争停戦後はじめて共和国を訪れた。

 1955(昭和30)年、この年日共の六全協が開かれ宮顕が党中央に登壇してきている。偶然かどうか5.17日畑中政春氏を団長とするアジア国際会議日本代表団の10名が訪朝し、北鮮首脳と会談している。チョソン戦争の悲惨な現状と、祖国の独立と自由のために戦ったチョソン人民の英雄的な姿を日本国民に報告した。さらに畑中氏らは、戦後復興と社会主義建設に立ちあがっているチョソン人民の感動的な姿を日本国民に伝え,日朝友好運動に大きく貢献した。畑中政春氏は帰国後日朝協会理事長に就任した。

 5.26日、在日本朝鮮人総連合会(略称・総連)結成、とある。
6.25戦争(朝鮮戦争)が終わると、北朝鮮はさる1955.5.24日「祖防委」と「民戦」の二組織を解体した後、「在日本朝鮮人総連合会」を出帆させた。

 総聯は在日本朝鮮人らの権益保護、対北朝鮮経済支援活動、北朝鮮の対南革命課業遂行のための海外前哨基地という役割を遂行している。総連は結成当時、民族教育の実施をスローガンとして前面に押し出し、日本全域に525校の初、中、高、大学を設立した。(日本当局の規制と学生数の減少で、いまでは27の都道府県に13二校の学校を運営中で、在学生は1万4千余名と推算される)

 10.10日、日朝協会準備会は在日朝鮮人強制送還問題に関連して声明発表。
 
 11.1日、日朝協会結成全国大会第1回大会が開かれ、11.2日「日朝協会」が正式に発足した。「日朝両民族の理解と友好を深め、経済文化の交流を図り、国交正常化を促し、あわせて朝鮮の平和的統一を支持して相互の繁栄と世界平和に貢献する」ことを基本活動方針として再発足している。以来、年々躍進をつづけ、全国46都道府県に支部・連合会が結成されている。

 この年(1955年)在日本朝鮮人総連合会(以下、朝鮮総連と記す)が結成されている。これにより、日本共産党からの在日朝鮮人党員の離脱が発生していくことになる。この背景は分からない。日共から朝鮮人党員がしりぞくことになってから日朝協会も朝鮮人会が出ていくこととなり、日本人事務局長が必要となり私が行くこととなった。当時六〇%が朝鮮人。四〇%が日本人でした、とある。


1956年
2月26日 平壌で共和国国際貿易促進委員会と日朝協会貿易専門委員会が「朝日貿易の促進並びに商品交易の一般的条件に関する談話録」発表、朝・日文化交流の共同声明
3月6日 日朝貿易協会が結成さる
4月3日 朝鮮対外文化連絡協会創立
6月−  日朝協会、日朝貿易漁業促進対策委員会を作る
11月22〜23日 日朝協会第2回全国大会が開かる


1957年
2月   日本共産党の調停で、総連の派閥解消の手打ち(新宿・明月館)
9月27日 朝鮮国際貿易促進委員会は日本貿易促進会、日朝貿易会、日朝協会の3団体と朝日貿易協定締結(有効期間1ヵ年輸出入額1,200万ポンド)

1958年
1月10〜17日 日朝協会、日本法律協会、産別、文団連、全学連、等が日本政府の不当な処置を糾弾。
1月30日 日朝協会、大村収容所収容者の調査と「韓日会談」を反対する運動の展開を決議する。


「戦後在日の帰国運動」 へ続く。



 宮顕党中央はその後、日中や日ソ・平和委員会には熱心で日朝は無視していた。例えば赤旗に雑誌人民中国の宣伝はのったが「今日の朝鮮」はのせてくれない。それを抗議しても通じない。

 但し、60年代(正確には59年)より日本共産党の出版社(新日本出版社)による北朝鮮関係の本が多く出版されている事実です。何故に「赤旗」には「今日の朝鮮」の宣伝が載せられなかったのか? 59年より両党間に何らかの友好(関係改善)関係が築かれたのではないかと推測される。



日朝友好運動の歩みと変調(2)
 1960.3.15日衆議院議員岩本信行 帰国協力日本使節団一行が訪朝。
 4.5日、日本貿易打開戦取大会が新潟で開かる。
 8.15日総聯中央、在日朝鮮人運動の功労者に対しての、共和国国旗勲章の伝達式が行われる。
 9.6日朝鮮文化連絡会と日朝協会使節団が共同声明発表。※7日 朝鮮対外文化連絡協会と日朝協会使節団間に共同声明発表

 9.27総評など24団体の代表40余名、帰国協定無修正延長を要求する共同声明発表。
 10.13日、日本社会党臨時大会で在日朝鮮人帰国協定無修正延長を決議。
 12.3日、日朝協会第6回全国大会開く。

 1961年.4.5日、日朝協会畑中理事長を接見。金日成首相が「韓日会談」と関連して日朝協会理事長の質問に回答。
 8.7日
東海商事株式会社が創立さる。
 
 1962.1.16日共和国貿易船宏尚丸が横浜に入港。
 9.7日、日朝協会ほか数団体、日本政府大平外相に「韓日会談」即時中止を要求。
 10.25日朝鮮対外文化連絡協会と日朝協会親善代表団「韓日会談」粉砕の為に共同闘争を強化する共同声明を発表。
 11月朝・日間貨物船定期的航路が開設さる
 11.12日 朝鮮・日本間に定期船舶配給契約締結。

 1963年2.25日、日朝協会は、関東大震災朝鮮人犠牲者調査委員会を設ける。
 2.27日共和国朝鮮国際貿易促進委員会は日朝貿易会と「朝日両国商社間の商品取引に関する一般条件」に合意する。



日本朝鮮研究所訪朝・訪中代表団出発の報告とお礼
 当時寺尾五郎氏が日朝友好運動のけん引者だった。

 1963.7.30日、日朝研究所の「訪朝・訪中代表団」(古屋貞雄、安藤彦太郎、寺尾五郎、畑田重夫、川越敬三、小沢有作の六名)が訪朝し、約一ヶ月半滞在している。「1.日本における朝鮮研究の実情ならびに日本朝鮮研究所の現状と意義を正確に伝え、2.朝鮮の南北分断という状況の中における、社会主義建設と学術文化の情況を正しく日本に伝え、今後の学術交流事業の発展のための基礎的な打ちあわせを行い、其の友好・連帯と尊敬の精神にもとづいて相互の研究事業活動の発展に資する」(団規約第二条)ために全団員が最大限の努力を払うと誓つて出発しました、「いよいよもって、朝鮮との自由往来を実現するための事業が、いかに重要であるかについても教えられました」とある。


日朝協会親善代表団

 朝鮮対外文化連絡協会の招請により、わが国を訪問する日朝協会親善代表団が、昨年10月9日、国際列車でピョンヤンに到着した。代表団は、日本衆議院議員であり社会党中央執行委員である日朝協会常任理事穂積七郎氏を団長とする全員11名からなっていた。



 1963.9.29日、日朝協会及び諸団体で、朝鮮民主主義人民共和国へ自由往来実現連絡協議会を結成。
 10.26日、在日朝鮮人の人権を守る会が結成さる。
 12.23日日、朝鮮・日本間に定期船舶配船に関する契約締結。

 1964.3.5
日、日本の哲学者務台理作外1,207名の学者らが署名を集めて、日朝自由往来、日朝学術交流を大平外相に要求する。
 6.24日在日朝鮮人の人権を守る会の代表団が訪朝。
 7.24日、日朝学術交流促進の会が結成さる。
 8.28日朝鮮対外文化連絡協会と日朝協会代表団間に共同声明調印。

 
1965.2.22日、日朝協会、総聯、社共両党及諸団体、「朝日条約」仮調印に抗議する共同声明発表。
 8.22日共和国国際貿易促進委員会と日本貿易会との間に新たに「朝、日(ママ)両国商社間の商品取引に関する一般条件」を締結する。
 8.24日、日朝科学技術協力委員会が発足する。



 社会党と北朝鮮とは必ずしも最初からとくに厳密な関係にあったというわけではない。それどころか、両者は一九五〇年六月(二五日)勃発の朝鮮戦争以来むしろ冷めた関係に終始していたといってよい。動乱発生から二週間後(七月八日)、社会党が同戦争の「直接の原因」を「朝鮮人民共和国」すなわち北朝鮮側の侵略にあると断定したからである(中央委員会文書「朝鮮の事態に対する党の態度」)。北朝鮮が以後一九七〇年八月の第三次社会党訪朝団(団長―成田委員長)受け入れに至るまでの二〇年間、社会党を「友党」として遇さなかったその理由の一端は実はここにあった。

 社会党独自の代表団は、
一九六四年に第一次訪朝団(山本幸一団長)、それに続く第二次訪朝団(一九六九年、山花秀雄副委員長団長)。いずれも受入れは朝鮮労働党ではなく、朝鮮対外文化連絡協会であった。金日成主席との会見はなく、一九六八年の時は、朴成哲副主席との会見も帰国直前のあわただしい中でおこなわれた。

 朝鮮側が社共両党に対する態度に若干の変化を見せた同じ頃に、日本共産党と朝鮮労働党との意見対立がマスコミで流されるようになった。

 社会党が朝鮮労働党との友党的関係を結んだのは、1970.8月の第三次社会党訪朝団(団長―成田委員長)の時である。


 日本社会党国会議員団が訪朝

 共和国創建15周年慶祝行事に参加する日本社会党国会議員団が、さる9月6日、空路ピョンヤンに到着した。9月14日、ピョンヤン青年公園野外劇場で、同代表団および日朝協会代表団を歓迎するピョンヤン市群衆大会が盛大に行われた。 同代表団は、金日成首相の接見をうけた。



 今日,自民党の進歩的グループもふくめて社会,公明,民社,共産の各政党が日朝友好運動に多大な関心と協力体制をとっている。こうした新たな日朝友好運動の展開のなかで,日朝友好を目的とする団体は,日朝協会,在日朝鮮人帰国協力会,日朝貿易会 在日朝鮮人の人権を守る会,日朝学術交流促進の会,日朝科学技術協力委員会,在日朝鮮人の民族教育問題懇談会,日朝友好促進議員連盟,日朝文化交流協会,日本朝鮮研究所,日朝労働者交流連絡会議,日朝社会科学者連帯委員会,日朝スポーツ交流促進連盟などさまざまなかたちで各界各層にまでおよんでいる。


1965年6月22日、韓日両国は不幸な過去の歴史を清算して、新しい国交関係を結ぶための歴史的な条約に調印した。「韓日基本権に関する条約」「日本に居住する大韓民国国民の法的地位および待遇に関する協定」「財産および請求権に関する問題の解決と経済協力に関する協定」「漁業に関する協定」「文化財産及び文化協力に関する協定」および「関係付属文書」で構成される韓日条約が東京で正式に調印されたのである。

 この韓日条約は同年12月18日のソウルでの批准書交換式を経て発効し、翌1966年1月から5年の間に本人申請にもとづき、いわゆる「協定永住権」が付与されることとなったが、ここでも在日韓国・朝鮮人の国籍選択の機会は不問に処されたのである。

 韓日条約締結までには14年におよぶ日時を要したが、その韓日会談では、日本側の歴史認識がきびしく問われたことはいうまでもない。「台湾を経営し、朝鮮を合邦し、満州に5族共和の夢を託したことが、日本帝国主義というなら、それは栄光の帝国主義である」など、韓国併合を正当化しようとするのが日本側要人の大方の見解であり、その都度、韓国側から強く反省を求められるという事態が繰り返されていた。そうしたなか、韓日条約仮調印のために初めて訪韓した椎名悦三郎外相(当時)は、1965年2月17日、金浦空港で、「不幸な期間を反省する」とのステートメントを発表し、3日後の「韓日外相共同コミュニケ」では、「李東元外務部長官は、過去のある期間に両国民間に不幸な関係があったため生まれた韓国民の対日感情について説明した。椎名外務大臣は、李長官の発言に留意し、このような過去の関係は遺憾であって、深く反省していると述ベた」と発表したのである。

 ちなみに、この韓日条約の締結に際し、1965年3月31日付の『朝日新聞』の社説は「法的地位には筋を通せ」と題して「子孫の代まで永住権を保障され、しかも広範囲な内国民待遇を確保するとなると、将来この狭い国土のなかに、異様な、そして解決困難な少数民族問題をかかえ込むことになりはしまいか。・・・その意味で、将来に禍根を残さないよう、法律上のスジを通しておくことがとくに肝要だといいたい。韓国併合といった歴史も、これから20年、30年の先を考えた場合、それは大多数の日本人にとって、遠い過去の一事実以上のものでもなくなるだろう。独立国家の国民である韓国人が、なにゆえに日本国内で特別扱いをされるのか、その説明にそれこそ苦労しなければならない時代が来るのではないだろうか。財産請求権のように、いわば過去の清算に属する事柄と、在日韓国人の法的地位のように、それこそ子々孫々につながるものとは性質が違うのである」と述べている。

 韓日条約の締結により、戦前から日本に在留する韓国・韓国・朝鮮人1世および71年1月17日以降に日本で生まれた2世は、「協定永住」という法的地位になった。しかし、一般永住にくらべ退去強制の条件が緩和されているとはいえ、定住歴と定住のいきさつから考えるなら、「実質的に日本の社会に深く根をおろし、その構成員となっている在日韓国・朝鮮人を、退去強制の対象からはっきり除外すべきである」にもかかわらず、その措置はとられていない。

 再入国許可制度にしても、1年以内に、延長手続きをしても2年以内に、一度は帰国をしなければならず、場合によっては在留資格さえ失うおそれがある点で、定住外国人にとっては「間接的退去強制ともいえる」抑圧を与えている。
 ヨーロッパでは、近年定住する外国人に、たとえ自国籍者でないとしても、居住の安定をはかる法的あるいは政治的措置がなされる方向にある。フランスでは、居住歴を考慮に入れて、10歳に達する以前からフランスに常住する者、また、年令とは関係なく15年以上常住する者も、公序への脅威を理由として退去強制に処することはでさないと定めているのである。


 総連は昨年6月の南北首脳会談以後、「在日本大韓民国在日韓国民団(在日韓国民団)」との関係改善にたついっぽう、日本人との親善協力の強化、若年層中心の活動方向転換など、変化する姿を見せている。

 総聯は北朝鮮の労働党統一戦線部(部長・金容淳)の指導・統制を受入れたが、90年代後半からは労働党対外連絡部(部長カン・グヮンジュ)の統制を受けていることと伝えられている。

 東京に中央本部をおいており、さる99年9月の第18期3次中央委員会拡大会議で組織を7局1室1委員会に改編した。議長は出帆以後、ずっと韓徳洙氏が受け持ってきたが、韓氏がさる二月に死亡したことにより、来る25日に開かれる全体大会で新しい議長が選出される可能性が大きい。
 総聯は傘下に48ヶ所の地方本部、300ヶ所の支部、1千500余ヶ所の分会などをそれぞれ配置し、約20万名に達する北朝鮮国籍の同胞を掌握している。






(私論.私見)