449―124 | 戦後在日の左派運動と日共との関係考 |
「戦後在日の抗議運動」で見てきたが、戦後日共運動は在日朝鮮人グループと深く関わりを持って始発した。在日朝鮮人グループの戦闘的左派が日共に結集し、金天海をその頂点にして党中央の一角にも登壇していた。このことは、当時の指導者徳球―志賀ラインの共産主義者としての人格及びその度量を証左しているように思える。この関係は、「50年分裂」を経て1955年の六全協で宮顕が党中央を掌握するに至って崩れる。そのつぶさをこれから見ていくことにする。 |
【徳球時代における在日朝鮮人グループの登用のされ方】 |
1945.10.10日、釈放され戦後直後の日共党中央の指導部を形成した徳球―志賀執行部が最初に為したことは、中央委員の選出と党綱領の確立であった。最初の党拡大強化促進委員会で、執行部委員を次の序列で選出している。1・徳田球一、2・志賀義雄、3・袴田里見、4・金天海、5・宮本顕冶、6・黒木重徳、7・神山茂夫(順位調査要す)。これによれば、金天海がbSに位置していることが分かる。 11.8日、党大会準備の為の「第1回全国協議会」が開かれ、12.1日、第4回党大会が党本部で開催された。この時、中央委員として1・徳田球一、2・志賀義雄、3・袴田里見、4・金天海、5・宮本顕冶、6・黒木重徳、7・神山茂夫(順位調査要す)の7名が、中央委員候補として岩本巌.春日正一.蔵原惟人.紺野与次郎.志田重男.宗性徹.松崎久馬次の7名が選出されて中央委員会メンバーが構成されている。金天海のbSの位置が確認されていることになる。 この時、在日朝鮮人共産主義者と日共の密接な関係が構築され、朝鮮人部が設置されている。なお、「朝連」を日本民主民族戦線の一翼として位置づけ、日共党員朝鮮人を通じて朝連組織の改組、宣言、綱領・規約改正を行い、以降共同闘争を担っていくことになる。 12.23日、第一回東京地方党会議が開かれ、9名の暫定東京都委員が選出され、この時長谷川浩、岩田英一、伊藤憲一、伊藤律、酒井定吉、服部麦生、寺田貢、金斗鎔、中野某が指名されている。在日朝鮮人金斗鎔が登用されていることが分かる。 こうして、在日朝鮮人グループは党中央の一角に選出され、相提携して戦後党運動の一翼を担っていることが判明する。1945.2.24日からの第5回党大会でも、金天海はbV中央委員として選出され、中央委員候補として金斗鎔、宗性徹、朴恩哲、保坂浩明らが新たに登用されている。1947.12.21日よりの第六回党大会でも、金天海はbUとして選出され、中央委員候補として朴恩哲.保坂浩昭が引き続き選出されている。 1946.8月の日共第四拡大委で、「8月方針」が出され、次のような朝鮮部指針が決議されている。1・各地の朝鮮人運動体を日共の支配下におき日本人党員と一体となり活動する。2・朝鮮人だけの職場にある党員を、日共の細胞に入れ、日本人党員とともに活動する。3・朝連の重要ポストに党員を配置、民族戦線としての役割を果す。4・朝連はなるべく下部組織の露骨な民族的偏向を抑制し、日本人の人民民主革命をめざす共同闘争の一環として、その闘争方向を打出すことが必要で、その方が朝鮮人自体のためにも有利である。5・朝連はあくまでも日本の人民民主主義戦線の一翼を担当する役割を果すように努めること。 徳球党中央時代の党大会は1947.12.21日からの第六回党大会で終わっているので、この期間においては日本人と在日朝鮮人グループは同志的立場で友好関係にあったことが判明する。ちなみに、徳球の後継者と目されていた伊藤律と保坂浩昭は親密な信頼関係にあったことを思えば、徳球―伊藤律系の運動と在日朝鮮人グループとは相互に共産主義者としての関係作りに成功し得ていたものと推測し得る。 |
(私論.私見)
【宮本顕治的人間観の対極から(樋口篤)(寄稿・増山太助『戦後期左翼人士群像』によせて、かけはし2000.11.13号より)】 |
在日朝鮮人党員への差別 共産党は「戦前、戦後をつうじて、朝鮮の同志たちを闘争のいちばん困難なところ、直接いのちを張るような危険なところへとかりたてた。そういうところに、意識しなかったにせよ、民族排外主義の要素があった。と同時に、皇道思想が流れているのではないのか」と、朝鮮で育ち中国で活動した安斎庫治(中央委員、幹部会員候補、六七年除名)は後年「反省の心をこめて語っていた」(七二頁、保坂浩明と車永秀)。 保坂(日本人医師と恋愛結婚で改名)は戦中に一高、東大を出た秀才で五回大会(四六年一月)で他の三人の朝鮮人とともに中央委員候補(中央委員二十人中に序列第三位の金天海・政治局員、同候補二十人中四人)となった。彼は最初の生産管理を闘った京成電鉄から京浜の東芝や読売争議など労働運動に集中し、四九年には東北地方委議長として、平警察署占拠―「九月革命論」にそって六月の東神奈川の人民電車事件に呼応した―など、極左戦術とひきまわし指導でも有名だった。 六全協後の総括会議で「自分の闘争指導には極左的傾向」があったと認め「自分は朝鮮人であるが故に終始差別された」「その無念さがあのような形で爆発した」と述懐して場内を粛然とさせた、という(七四頁)。私は彼と三年間くらい活動をともにしたが、その権力主義、出世主義に怒って先輩同志ながら意見書をつきつけたことがある。が、その死後の遺稿集で、典代夫人との恋愛中に、同じくひそかに恋していた交番巡査が彼の出身を調べて、「朝鮮人のくせにお嬢さんに接近するなぞ許せない」と彼女の面前でなぐり倒した、というくだりを読んで、そこまでやられたのかと憤然とした。 革命運動に民族、人種差別はないというのは建前だけで、アメリカ白人が黒人革命家と握手を拒否したり(プロフィンテルン書記長のロゾフスキー著書に出てくる)したと共通した差別は、日本革命でも長らく同じであったのである。 徳田球一――ヤマト沖縄 徳田球一は、五十九歳の若さで北京で死去した。骨や遺品類を日本に送るに当って、中国共産党は追悼集会を開いて三万人が参加、毛沢東主席は「徳田球一同志 永垂不朽」と記して革命家の死をとむらった。徳田の故郷である名護市は、「郷土の英雄」「国際的政治家」として、八〇年代はじめ頃に、市公報で北京の追悼集会の写真など、徳田球一特集号を出した。私は「労働情報」の講演会に行った時に、その公報をみて、ウチナンチューの誇りと沖縄とヤマトの違いを強く感じた。 名護市は、社会党の戸口市長が徳田記念碑をつくることを発案(三鷹事件の喜屋武由放の働きかけもあって)、次の保守・比嘉市長も応じ、いまの岸本市長の時に完成した。その総体は二千万円ちかいカネがかかり(一般寄付金は千万円で、多くは沖縄で集まった)、三年の歳月を要したが市は四百万円の補助金をつけた。その市長提案に対して、自民、公明、社会党などは賛成したが共産党議員は、賛成も反対もせず―客観的には反対を意味する―、記念式典では、市の長老党員が他の人々とともにあいさつしたが、市委員会などの党代表のそれはなかった。この冷えた対応は、党本部の宮本委員長の徳田観の反映だったのである。徳田と宮本の路線対立とともに沖縄観の根本的違いがあったのである。 牧瀬恒二は、七〇年「沖縄返還運動」の党担当者であった。彼は増山に「じつは、徳田が言っていたことだが、沖縄はヤマトではない。沖縄の共産党をヤマトの党の下部組織にしてはならない。そういうことをすると沖縄の人たちの自主性をそこなわれる」(二五〇頁、高安重正と牧瀬恒二―日本と沖縄は「対等の立場で結合」せよ―)と語っていた。 高安重正(旧性高江洲)―戦前の全協二代目委員長、戦後は党沖縄対策責任者―と、私は一九四九年に横浜市委員会オルグ団会議で何回も同席した。よく分からなかったが、彼が発表すると中央の京浜担当の春日正一(のちに党幹部会員、統制委議長など)や市委員長丸山一郎(五全協中央委員、志田派「代貸し」といわれた)が嘲笑的によく批判していた。 高安は一見、いかつい風貌だが、目と人柄はとてもやさしい様に感じた。鶴見に沖縄人部落があった関係でよく来たのだろうか。その高安は「徳田の考えを堅持していたが宮本顕治は人民党の党組織を解体して沖縄の共産主義運動を日本共産党の中央集権下におこうとした。だから、高安はこれに反対していたんだ」「それが除名の本当の理由かもしれない」と牧瀬は言ったという(二五五頁)。 徳田と宮本の沖縄党組織論 徳田と宮本のどちらの沖縄論が正しかったのか? 徳田は、第六回大会(一九四七年)の行動綱領で「沖縄の独立」を掲げ、大分裂下の国際派は、それを徳田の「民族主義的偏向」の一つと批判したことがあった。私も当時そう思ったが……。だが、その「沖縄独立」は、保守の大山元コザ市長(九九年死去)によって、遺言のように出版された。「独立」か「自治州」か「特別県」か等の是非はここでは略する。が、米日政府への批判は高まり、数年前に建てられた読谷村役場前の記念碑は当時の村長山内徳信(大田県政時の県出納長。今年の「人間の鎖」総責任者)によって、日本政府ではなく、「ヤマト政府」と記されていることを、われわれはしっかりとうけとめなくてはならない。沖縄の党組織(大衆団体も共通する)をめぐる徳田と宮本間の対立は、思想的には決着がついている、と私は信ずる。(つづく) |
2002年度一橋大学社会学部学士論文(加藤哲郎ゼミ副ゼミナール)
―朝鮮人共産主義者金斗鎔の半生―
明治学院大学法学部4年 鄭栄桓
金斗鎔(キム・ドゥヨン、1904?〜?、男)
だが本稿が金斗鎔を考察の対象とするのは、そのような一般的理由からだけではない。後述するように金斗鎔は解放前と解放後の二度、「階級解消論」を唱えている[1]。階級解消論とは、運動の究極的な目標は階級解放であり、民族解放はその目標に比べれば二次的なものに過ぎないため階級解放運動に「解消」するべきであるという主張である。この主張をもって金斗鎔は、解放前は朝鮮人労働団体の解体を伴う日本人労働団体への朝鮮人労働者の加入を説き、解放後は朝鮮人団体の日本の民主主義革命への参加と「天皇制打倒」を説いた。すぐ後に見るように現在、この方針は朝鮮人運動の「民族的主体性を喪失させた」として極めて否定的に捉えられている。そして現在の批判の力点は、「解消」を主導した金斗鎔らに対する批判と言うよりも、むしろ手前勝手な日本人共産主義者の朝鮮人運動に対する「利用」への批判に置かれている。そしてそれゆえに金斗鎔のように自ら階級解消論を唱えた朝鮮人共産主義者については、現在ほとんどその分析がなされていないのである。
しかし解放後57年を経た現在、「誤っていた」としか伝えられない階級解消論を、何故「利用された側」の金斗鎔が主張したのかという問いは、あらためて考えてみる価値のある問いである。金斗鎔の階級解消論はただ日本人共産主義者に命令されるがままに主張されたものだったのだろうか。それともコミンテルンの権威にひれ伏してのものだったのだろうか。そうではない。金斗鎔は彼なりの合理性をそこに見出したからこそ、階級解消論を主張したのである。この点を考察せず、「誤っていた」と繰り返すばかりではその「誤謬」から私たちは何も引き出すことはできない。このような意味で階級解消論を主導した金斗鎔に関する研究は、日本における朝鮮人運動の、ひいては日本の社会運動のより多角的な理解というために、むしろ必ずなされるべき研究なのである。本稿では以上のような問題意識から、金斗鎔が何故階級解消論を主張し、そこに込めたものは何であり、そしてそれはどのような結果を引き起こしたかを明らかにしようと思う。
例えば日本共産党の公式党史である『日本共産党の七十年』(上・下)は、解放前は言うに及ばず、解放後日本共産党再建に朝鮮人が果たした役割に関する記述は全く無い。例えば金斗鎔がその委員長となって精力的に活動した終戦直後の政治犯釈放運動に関しては「一九四五年十月四日の指令にもとづいて、獄中で不屈にたたかっていた日本共産党の指導的幹部や党員が、十月六日釈放決定をうけとっていた徳田球一、志賀義雄、黒木重徳、西沢隆二、山辺健太郎、松本一三ら(府中刑務所内の予防拘禁所)は十月十日に……長期間とじこめられていた監獄からあいついで出獄した」と極めて淡白に記述しているだけだが、現在この時出迎えた人のほとんどが朝鮮人であったことや、党再建の資金が朝鮮人団体から出されたことなどが証言や資料で明らかになっている[2]。朝鮮人党員に関する記述はわずかに中央委員に「金天海」という名が確認できるだけである。中野重治はこれを評して「金天海の名は書かれている。しかしその意味は書かれていない」と書いているが、金斗鎔に至っては名前さえかかれていないのである[3]。
対して在日本朝鮮人総連合会(以下総連)の事実上の公式歴史『主体的海外僑胞運動の思想と実践』(前議長の韓徳銖執筆)では解放後の在日朝鮮人運動は以下のように捉えられている。[4]
解放後の在日朝鮮人の政治的な力量関係は複雑であった。当時のかれらの政治的勢力を大別すれば、まず第一に、新しい民主朝鮮の建設を支持する人びと、つまり金日成主席の指導に従うべきであるとする人びと、第二に、日本の前衛党の指導のもとに日本の民主化のためにたたかうべきであるとする人びと、第三に、アメリカ帝国主義と李承晩一味につくべきであるとする人びとに分けられる。
この分類は極めて不十分である。この点に関しては本論で詳しく述べる。ここで書かれている「日本の前衛党」というのが他ならぬ日本共産党であるが、これ以上の記述はなく、1950年以降の在日朝鮮民主統一戦線(以下民戦)の活動について日本共産党への追従を厳しく総括しているのに対して、在日本朝鮮人連盟(以下朝連)期の共産党との連携に関しては極めて寡黙である。そして上に挙げた日本共産党と朝鮮総連両団体の公式の歴史では金斗鎔の名前すら出てこない。
このように運動組織のこの時期に対する歴史記述は非常に淡白なものに留まっている。この他に日本共産党と在日朝鮮人運動との関係に対する言及として最も早いものでは1961年に『コリア評論』に三度に分けて発表された玉城素「日本共産党の在日朝鮮人指導」がある[5]。そこでは金斗鎔について次のように述べられている。[6]
『前衛』は、創刊号、(一九四六・二)第十四号(一九四七・三)第十六号(一九四七・五)の三回にわたって、在日朝鮮人運動についての指導的論文をのせている。これが三回とも金斗鎔という人物の執筆であることも注目にあたいする。すなわち、金天海でもなく、また日本人の責任ある指導者でもなく、正式な肩書のない朝鮮人党員個人の執筆という形がとられているわけである。
ここでは金斗鎔を「正式な肩書のない朝鮮人党員」と片付け、日本共産党が金斗鎔に戦術として「書かせた」という観点にたっている。だが玉城自身この論文の執筆当時「まだ完全に調べつくしたわけではない」と述べている通り、この記述は不十分である[7]。少なくとも執筆当時金斗鎔は日本共産党中央委員候補兼朝鮮人部副部長であったし、さらに朝連の情報部長や機関紙『ウリシンムン』『解放新聞』の主筆を務めている。「正式な肩書」だけを見てもそうそうたるものであった。さらに朴慶植『解放後在日朝鮮人運動史』(三一書房、1989年)は階級解消論を唱えた『前衛』の金斗鎔論文に対して「このような指導方針(金斗鎔の論文を指す:筆者)が在日朝鮮人運動を日本革命に従属させることによって民族的主体性を喪失させ、朝鮮の民主民族革命を二次的なものにしたものであることは今日ではおよそ明確になっている」と記している[8]。解放後の金斗鎔論文に対する評価としては一般的なものであるだろう。ただ解放後の「解消」については、解放前の方針の無批判的な受け入れであるとの主張が多く、特に解放後の方針だけを取り出して分析していないものが多い[9]。
このような事情から解放前における日本労働組合評議会(以下全協)への在日本朝鮮労働総同盟(以下在日労総)の「解消」が重要になってくるのであるが、それについていくつかの研究が言及している。岩村登志夫『在日朝鮮人と日本労働者階級』(校倉書房、1972年)は全協への「解消」過程とその間の議論を比較的詳細に記述している。だが金斗鎔らが何故「解消」論を主張するにいたったかを分析するまでにはいたっていない。この点について言及している研究としては、高峻石『コミンテルンと朝鮮共産党』(社会評論社、1983年)がある。同書は朝鮮共産党日本総局の解体に触れながら「これらの決定は、在日本朝鮮人運動を指導してきた朝鮮共産党日本総局にとっては『至上命令』であった」としている[10]。梶村秀樹『朝鮮近代の民衆運動』(明石書店、1993年)も「彼らの認識も、やはり当時どこの国でもそうであったように、コミンテルンの権威に無条件に従うのが正しいんだというものでした」として同様の見解に立っている[11]。総じてこれらの研究は「解消」を受け入れた理由として、コミンテルンの方針への盲従という共産主義者の「権威主義」を挙げている。この他階級解消論の分析としては石坂浩一『近代日本の社会主義と朝鮮』(社会評論社、1993年)が詳細に行なっているが、分析の対象が日本人社会主義者に限定されており、受け入れた側の朝鮮人共産主義者については分析されていない。
以上見たように、そもそも日本の共産主義運動研究の中では朝鮮人運動とのかかわり自体を記述している例が少なく、記述されたとしても朴慶植『解放後在日朝鮮人運動史』や韓徳洙『主体的海外僑胞運動の思想と実践』などのような一面的な考察、あるいは「解消」の受け入れを共産主義者の「権威主義」に求めるものがほとんどである。
本稿ではこのような状況からさらに一歩進め、金斗鎔が階級解消論を主張するに至る道筋を可能な限り様々な条件を考慮に入れて分析し、その思想の到達点を再検討したい。構成として、第一章では金斗鎔の出生から渡日、東京帝大入学後の新人会入会までを追い、第二章ではプロレタリア芸術運動における金斗鎔の立場を検討する。第三章では解放前における在日労総の全協への「解消」過程を見たあと、そこで配布された金斗鎔のパンフレット「在日本朝鮮労働運動は如何に展開すべきか」の検討に移りたい。第四章では1930年から1945年8月15日の解放までの金斗鎔の生活と活動を詳述し、「社会主義リアリズム論争」における金斗鎔の立場を手がかりに、その間の政治的立場を浮かび上がらせる。第五章では解放後の政治犯釈放運動や朝連結成、日本共産党の再建などの動きを概観し、第六章では解放後における金斗鎔の「解消」論を検討する。なお本文中に引用した旧かな遣い・旧字体・カナ文については、全て現代の用例に直して引用した。
20世紀初頭、19世紀末から「鎖国」を固持してきた朝鮮半島もついに国際政治の奔流に巻き込まれ、ここから朝鮮受難の時代が始まる。1906年にはソウルに統監府が置かれ、1910年8月には「大韓帝国」は日本に「併合」される。金斗鎔はまさにこの朝鮮受難の時代の真っ只中に生まれた。本章ではこのような時代に生まれ育った金斗鎔の人格形成期にあたる1904年から1926年までを検討する。第一節から第二節でその学生時代を時系列に沿って検討し、第三節と第四節で金斗鎔がその活動を開始する1926年の日本の思想風土を概観する。
金斗鎔の生年・生地については諸説ある。星野達雄『金斗鎔と星野きみ』は、1904年8月13日、朝鮮北東部の咸鏡南道咸興郡咸興面荷車里に生まれたとしている[12]。同書によれば実家は両班、父は小学校の校長を勤め、金斗鎔自身は次男であった[13]。対して研究者の藤石貴代が発見した「大正十二年四月入学 第三高等学校入学者名簿」によると、生年月日は明治36年(1903年)9月26日となっており、同「大正十四年度 名表 寄宿舎」には原籍として「朝鮮咸南咸興荷東里六三ノ一 平民族戸主金景淳二男」とある[14]。次男という点や、咸興が生地であるという点は一致しているが、出生年月日に関しては両者に相違がある。ただ三高資料も後者の「大正十四年度 名表 寄宿舎」においてはその生年を明治37年(1904年)としており、この点について藤石は「明治37年と記載されている資料は、この他には無い」との理由から、1903年が正しいとしている[15]。注12でも紹介している通り、生年に関しては他にも諸説あるが、二十世紀初頭に生まれたことは確かのようだ。
生地の咸興は平壌と並んで朝鮮の二大工業都市であり、李朝の発祥の地でもある。金斗鎔の生まれた1904年の出来事を見てみると、2月10日の日露戦争に始まり、23日には日韓議定書、8月22日には第一次日韓協約の調印と続き、朝鮮半島を取り巻く情勢はその緊張を増してきていた。1904年生まれというのは、共産主義運動の指導者としては周恩来、トレーズ、ケ小平らと同様の第三世代に当たる。ちなみにピークやクーシネンらの1870年代から1880年代生まれが第一世代、ホー・チミン、チトー、毛沢東、トリアッティ、徳田球一らコミンテルン期に運動を代表することになる1890年代生まれが第二世代であり、1912年生まれの金日成やカーダールは第四世代にあたる[16]。
金斗鎔がいつごろ渡日したのかについてはわかっていない。前掲星野『金斗鎔と星野きみ』は渡日後、東京開成中学校から旧制三高(京都)をへて1926年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、中退したとしている[17]。ただ前掲の三高資料によると卒業した中学は東京私立錦城中学校(卒業年月日は1922年3月28日)となっている[18]。どちらにしてもこの経歴は金斗鎔の生涯を考える上で非常に大きな要素になるのだが、そのためには戦前の高等教育制度を理解することが必要となる。
ここで当時の教育制度について簡単に説明しておく。戦前の教育体系は現在とは大きく異なり、まず義務教育として六年制の小学校があり、ほとんどの児童にとって小学校の卒業が学校教育の終点であった。その後は中学校、高等小学校、乙種実業学校の三系統に分岐し、このうち更なる高等教育に通じていたのは五年制の中学校だけであった。東京開成中学、錦城中学校はここにあたる。中学校からは師範学校、高等学校、大学予科、専門学校の四系統に分かれ、高等学校と専門学校はこのうちで最も受験が難しい。当時の三年制の高等学校はいわゆる現在の「高校」とは違い、現在でいうならば学部の一、二年次に相当する役割を帯びていた。ほとんどの高校は全寮制で、その雰囲気は自由で奔放、教育内容も非常に柔軟で一般教養と外国語教育が中心であった[19]。ある人は高等学校時代を回想して「そこにあるものは、青春の持つ純粋さとエネルギーと感傷と、若干のデカダンスであった。遊ぶにせよ、学ぶにせよ、総じて、そこには〈精いっぱい生きた〉という充実感があった」と述べている[20]。
実家が知識階級の両班の家系であったことが大きく影響していると思われるが、金斗鎔はまさにこのような戦前日本の教育制度における最高のエリート教育を受けていたことになる。しかも難関の高等学校の中でも、東京の一高、仙台の二高と並んで、京都の三高は高等学校の中でも最も入学が難しい高校であった[21]。金斗鎔は三高では「人並みはずれて優秀」であり、ボート部に入り隅田川での一高との対抗試合や学生運動に情熱を燃やしていたといわれる[22]。三高で金斗鎔とクラスメートであった権重輝は次のように述べている。[23]
金斗鎔は三高入学前から社会主義関係の本を読んでいた。新入生を集めて校長が一人ずつ、入学前にどんな本を読んでいたのかと尋ねた時、他の学生は教科書だとか参考書だと言ったのに、彼は社会主義書籍だと堂々と答えた。他の学生も読んでいるくせに、校長の前だから言わないのに腹が立って暴露してやったんだと言っていた。当時は社会主義思想が一世を風靡し、河上肇が三高でも講義していた。
自分は聞いたことがないが、金斗鎔は学生相手によく演説をぶったそうだ。日本人学生は「日本語もうまくないのに演説するから見るに忍びない」と言っていた。野球の対一高戦に応援団を出そう、というようなことも言ったらしい。
……1年の時は学校によく来ていたが、2年の頃から欠席するようになった。何をしていたのか知らないし、尋ねなかった。生活のために土方もやったらしい。そこで労働者と知り合ったのだろう。
このように高等学校の時代から金斗鎔は社会主義やその実践運動に身を投じていたものと思われる。青年期のこのような体験がのちの金斗鎔の思想と行動を大きく規定する事になったことは間違いないだろう。
高等学校を終えると三年制の帝国大学へ進学する事になる。上述したように金斗鎔は1926年に東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学している。当然ながら帝国大学にも設立順に格付けされた階層序列があり、東京帝大法学部はその最頂点に位置した。法学部ではないまでも東京帝大へと進学した金斗鎔は文字通り教育制度の頂点を歩んできたことになる。金斗鎔が入学した1926年当時、東京帝大に朝鮮半島出身の学生は22名おり、うち文学部が最も多く8名、全学生・生徒の合計は7611名である[24]。この点から考えても金斗鎔の経歴の特異性が分かるだろうと思う。ちなみに文学部の同期には中国文学者の小野忍がいる。
在学中金斗鎔は新人会の会員となっている[25]。新人会とは赤松克麿、宮崎龍介(宮崎滔天の息子)、石渡春雄を中心に吉野作造を後ろ盾として1918年12月7日に結成され、1929年に解散した学生団体である。当初は「社会主義、無政府主義その他」について討論するために作られた東大内の組織であったが、のちに他の官立・私立大学にまでひろまり思想も左傾化していく。会員には佐野学・野坂参三・大宅壮一・林房雄などがおり、まさに戦前と戦後を通じた各界の指導層を輩出した会であるといえる[26]。金斗鎔は1926年に入会しており、いわゆる「後期新人会員」にあたる[27]。二年先輩に中野重治と石堂清倫がおり、この時から中野らのプロレタリア文学者との交流を深めていくことになったと思われる。中野重治は自らの新人会時代を題材にした小説『むらぎも』の中で次のように書いている。[28]
いつかの新入生歓迎会のとき、ケッタクソの悪い「今やわれわれは無産者階級の感情を感情する……」があったあとで、朝鮮人の金という新入学生が、「朝鮮プロレタリアートの解放なしには日本プロレタリアートの完全な解放はない。日本プロレタリアートの自己解放なしには朝鮮プロレタリアートの解放はない……」という単純な演説をしたと、金の腕のゆるい水平動につれて、ケッタクソの悪さから心持ちよく解放されていく思いがしたことを安吉は思い出した。
文自体は少々意味不明なところがあるが、この「朝鮮人の金」は、新人会に在籍した朝鮮人は金斗鎔の他には1917年入会の金俊淵のみなので、金斗鎔と見て間違いないだろう[29]。ただ金斗鎔自身は新人会の活動の中核にいたわけではないようだ。同じく会員の石堂清倫の回想などにその名が出てくるものの、やはり具体的な活動の叙述は見当たらない[30]。太田慶太郎も「金斗鎔君を新人会員としてではなく日本プロレタリア芸術連盟員として知っています」と回想しており、この点は間違いないと思われる。ただ、だからといって新人会の影響が全く無いとも言い切れないので、以下で新人会の朝鮮問題への対応と金斗鎔が入会した1926年前後の時点での新人会の状況を概観しておくことにする。
新人会創立の後ろ盾となった吉野作造が東大卒業直後から友人の朝鮮人留学生を通じて朝鮮問題に関心をもっていたことは松尾尊~「吉野作造と朝鮮」(『人文学報』25号、京都大学人文科学研究所)などの研究で明らかになっている。ここでは松尾尊~「吉野作造と在日朝鮮人学生」などの研究に従って、新人会の朝鮮問題への対応を概観する。
新人会の朝鮮問題への対応を最も端的に表現しているのは、1919年に朝鮮で起こった3・1運動に対する対応である。新人会はその機関誌『デモクラシー』第2号社説「朝鮮青年諸君に呈す」で、「一国が自国の利益の為めに他国の意志に反して是を支配する」朝鮮併合そのものを「断じて不可」とし、併合後の憲兵政治と三・一運動弾圧の行為を弁護の余地なき「非人道の極」とみとめ、「衷心より恥辱とし是れを憎悪する」とのべ、朝鮮人が「自由の天地に真に人類としての正しき生活を獲得すべき日の一日も速かに来らんことを希望して止まない」とその独立を支持している[31]。社説は最後に「弱国は強国の威圧に繋がれ労働者は資本家の鉄鎖に唯食わんがための生活さへ脅かされている。我等の国を自由と云う勿れ幸福と云う勿れ。我らが人民の霊魂と肉体とは等しく今兄等を苦しめつつある者の手に繋がれて悶え苦しんでいるではないか。敬愛する我友等よ。予等は衷心兄達の同胞が自由の天地に放たれて真に人類として正しき生活を獲得し相共に兄弟として生活せん日の速やかに来らん事を熱望する。そして予等も亦全力を挙げて斯くの如き日の将来に努力せんと欲する者である」と結んでいる。松尾はこの文を挙げて「ロマンチックな表現の背後に、新人会同人が日本の『軍国的帝国主義者』を日朝人民共通の敵として認識していること」が読み取れると指摘している[32]。新人会同人が「『軍国的帝国主義者』を日朝人民共通の敵」とみなしていたという指摘はのちの金斗鎔の主張を考える上でも興味深い。ちなみにこの『デモクラシー』第2号と、同じく社説で朝鮮問題を扱った第5号はともに発禁処分を受けている。
さらに新人会には上述したように1917年に金俊淵という朝鮮人学生が入会している。金は自伝で「軍国主義に対抗する新しい自由主義思想を研究する新人会に加入し、日本人学友たちとともに活動した」と記している[33]。金は1920年はじめに学友会長と朝鮮YMCA副会長を兼ねた朝鮮人学生の代表者であり、官憲から要視察甲号として厳重な監視下に置かれていた。松尾はこの点を挙げて「この人物が会員の一人として活動しているところに、日本の改造に献身せんとする新人会と、祖国の独立を希求する朝鮮人学生との連帯が示されていたのであり、それはまた、日本・朝鮮両民族民衆の友好関係が、辛うじて先進的知識人を最初のにない手として結ばれはじめたことを示す象徴的事実でもあった」と評価している。
以上のように新人会は当時の日本では珍しく朝鮮の独立に関して肯定的な意見を有していたことは明らかである。そして金俊淵の自伝にある「自由主義思想」の研究のために新人会と接触したという点は、1967年の時点での金俊淵の韓国での政治的立場を考慮にいれたとしても、金斗鎔が入会した時点よりも新人会の許容する思想の幅が広かったことを示しているとみてよいだろう。入会の年は金俊淵と金斗鎔とでは10年程度の開きがあり、この開きが二人の人生の大きな分岐点となったであろうことは間違いない。
前節の最後で述べたように、どの時点で新人会に入ったかという点は重要である。新人会会員は大別して前期新人会員と後期新人会員に分けることができる。金斗鎔は後期新人会員にあたる。鶴見俊輔『転向研究』によれば後期新人会員は「幸徳秋水らの日本の革命的社会主義の発生期に生まれ、中学生のころ米騒動に出会い、民衆の自発的運動の強さを」知っていて、最上流から上流中産階級出身者が多い前期新人会員に比べて「やや低い上層ならびに下層中産階級出身」を中心とする。出身校は「一高ではなく地方の高等学校を経て、東京帝国大学、京都帝国大学に入学。京都帝国大学教授河上肇、やや後には山口高等学校教授福本和夫を理論的指導者として、マルクス主義の理論を原書により学習」「中枢部にぞくする学生たちは駒込に合宿して、レーニンの論文を輪読し、日夜の理論闘争を通して百%の純正マルクス主義者になろうとした。昭和に入ってからは多くは共産党に加入、他は共産党の外部団体に参加、ストライキを指導。少数の精鋭理論家による実践的活動をとおして、大衆は急激に革命化し、広範囲の大衆蜂起が実現される条件が当時(1925−1930年:筆者注)の日本にあると考えていた」としている[34]。上述したように金斗鎔は新人会の「レギュラーメンバー」ではなかったので、どの程度上のような一般化が当てはまるかは分からないが、当時の風潮を知る上で重要と考えたので引用した。
福本イズム、あるいは福本主義と称される思想傾向は、1926年、ひいてはそれ以降の日本共産党を考える上で欠かすことのできない要素である。1922年に日本共産党(第一次共産党)は創立されるが、草創期ということもあり属している人々の思想傾向も様々であった。1923年に検挙を受け、1924年に一旦日本共産党は解党する。そして1925年ごろから再建の動きが高まり、1926年、佐野文夫を委員長として日本共産党(第二次共産党)は再結成されることになる。福本イズムの「提唱者」、福本和夫はこの再建共産党の中央委員に名を連ねている。
福本和夫は第一次共産党が内包していた「不純な共産主義、その日本的折衷主義に対する反発」を思想的な軸としていた[35]。だが福本は古くから日本の左翼と密接なつながりがあったわけではない。福本は1917年に一高、1920年には東大法学部を卒業し、鳥取県勤務の内務官僚を経て松江高校教授となり、その後文部省より海外派遣で1922年から2年半ヨーロッパ留学にいっている。福本がマルクス主義の研究を本格的に始めるのは、このヨーロッパ留学からである。ドイツ滞在中からマルクス主義の全容をマスターしようと努め、最後の六カ月間はパリのアパートで買い込んだ数千冊のドイツ語の本に取り組んだという[36]。
留学中の研究の成果たる三篇の膨大な原稿を引っさげて、帰国後の福本は共産党地下ビューロー機関誌『マルクス主義』において華々しくデビューする。そしてこの三篇の原稿の中で運動におよぼした影響という点でもっとも重要であるのが、政党組織に関する第三稿である。ここで福本は知られてはいたがそれほど徹底化されていなかったレーニン主義的な党概念、すなわち鉄の規律を保ち、秘密で中央集権的な「職業革命家」たちの党という考え方を運動に導入した。そして福本はこのような党組織を実現するために、大正期の「不純な共産主義」に代表されるような「日和見主義分子」を「分離」しなければならないと説いたのだ。さらに福本は「理論闘争」の重要性を説いた。このことは従来から新人会の活動の母体であった読書会活動にお墨つきを与えることとなり、さらに学生運動出身者を党内で中枢に押し上げる大きな要因となった[37]。
このような福本イズムは「方向転換」という名でもって学生の間からの熱烈な支持を受ける。そしてその熱狂が絶頂にいたるのが、金斗鎔が新人会に入会した1926年なのである。福本和夫自身の共産党での栄光は短く、1927年にコミンテルン「27年テーゼ」で批判を受けて以後、彼個人は共産党の理論的中枢からは離れていく。しかしながら1926年の時点で日本の共産主義運動に深く刻印された福本イズムの「遺産」は延々と運動の内部で引き継がれていく事になる。のちに金斗鎔自身「実践から流離し、それを無視した理論闘争!完全なる福本イズム!セクト![38]」という言葉でもって福本イズムを否定的に扱っているが、「福本」という名こそ忌避されているとはいえ、「理論」偏重などの福本イズムの「遺産」は金斗鎔にも見られるものであり、その与えた影響は大きいだろうと思う。まさに「『福本』とは、昭和初期の日本共産党の傾向を代表する集合名詞である」というわけだ[39]。
1926年から1930年代にかけて、金斗鎔は主にプロレタリア芸術運動を活動の舞台とした。太田慶太郎は金斗鎔について次のように回想している[40]
私は金斗鎔君を新人会員としてではなく日本プロレタリア芸術連盟員として知っています。彼は同じ朝鮮人李北満君とともに私どもの日本プロレタリア芸術連盟を訪ねて来て連盟員となったのです。彼はいつも李北満君と一緒にいたようです。
……プロレタリア芸術運動の内部では金斗鎔も李北満も文芸運動の理論家として高く評価されていました。当時のプロレタリア芸術運動の指導者であった中野重治や鹿地亘なども二人には極めて好意的でした。
プロレタリア芸術運動における金斗鎔の立場を考察する事は、のちに見るように労働運動での金斗鎔の理論的立場を考える上でも重要である。本章ではこの両者の中での金斗鎔の批評の立場を分析することを通じて、金斗鎔が解消理論の推進者となる背景を浮き彫りにする。
金斗鎔は日本と朝鮮のプロレタリア芸術運動に同時に参加をした。本節では朝鮮におけるプロレタリア芸術運動の状況を概観する。朝鮮では1919年の三・一運動以後、運動の影響をうけるかたちで萌芽的ながらプロレタリア芸術運動が起こり始めた。そして1925年8月、ソウルで崔承一、朴英熙らによって朝鮮プロレタリア芸術同盟(カップ=KAPF、以下略称を用いる)が組織された。だがこの段階では思想的な統一が確保されていなかった。その統一確保のため、1927年9月にカップの第二回総会が開かれ、創作活動の方向転換を決定、無産階級の芸術運動は政治闘争のための武器とならねばならないとされ、「封建的および資本主義的観念の徹底的排除、専制的勢力との抗争、意識層造成運動の遂行」という綱領のもとカップは再編成された。この総会には洪暁民・李北満・張準錫らと共に金斗鎔も参加している[41]。金斗鎔らが総会参加のためにソウルに来た時の様子を、当時ソウルにいた詩人の林和は以下のように伝えている。[42]
(1927年:筆者注)7月下旬、東京にいた左翼朝鮮人青年たちの「第三戦線」社の一行が京城に来た。丁度その時『第三戦線』の創刊号が出たので、京城にいた我々は一層元気づけられ錘路YMCAで文芸講演会を開き、場内で雑誌を売ったりした。その時学生であった趙重滾、韓植、金斗鎔、洪暁民ら四人が講演をした。講演は大変盛況だったが、雑誌は途中臨席警官により販売中止された。(中略)8月には李北満が来て、それまで文化主義的であった芸術同盟は彼らの〈東京の政治熱気〉に引っ張られ急激に政治的気運が高まり、日本のプロレタリア芸術運動との××的連絡ができるようになったのは驚くべき発展だった。
こうした雰囲気は、同盟の徹底的な改革と同時に方向転換の一層の徹底化などを要求する運動に変わった。(中略)その月、東京に帰った第三戦線社員は、東京で第三戦線社を解体し、同じく東京にいた同人雑誌『開拓』同人の一部と芸術同盟の東京支部を創った。
活動は9月に入って忙しくなり、この時から機関紙の問題が再び論議された。色々な議論の結果、×〔国?〕内で原稿××〔検閲?〕を受けていてはどうにもならない、東京で発行させる、ということが決定された。そうして9月の末から東京支部と意見が一致し、我々は集まった原稿を東京に送り、その年の11月15日、いよいよ表紙に「朝鮮プロレタリア芸術同盟機関誌」と堂々と署名した機関誌『芸術運動』が出版された。
以上のような経緯で1927年10月2日カップ東京支部が発足し、カップの機関紙『芸術運動』は日本で出版されることになる。そして金斗鎔ら第三戦線派はカップ内におけるヘゲモニーを獲得し、金斗鎔は機関誌『芸術運動』の編集発行兼印刷人となる。さらに朝鮮共産党再建運動で活動していた高景欽らとともに1929年5月、カップ東京支部を解体して日本にいる朝鮮人の啓蒙を目的として合法的出版社「無産者社」を組織、金斗鎔もこれに参加し機関誌『無産者』を刊行した。この解体については後に触れる。『無産者』は『芸術運動』の続刊として1930年6月まで刊行されることになる。
では一体金斗鎔ら東京の第三戦線社の人間たちが主導した「方向転換」とはいかなるものであったのだろうか。この点は当時の金斗鎔の思想的課題を考える上で極めて重要である。以下その点を詳説する。
上述したように朝鮮におけるプロレタリア芸術運動は三・一運動の影響を受けて発生してきた。朝鮮で最初のプロレタリア芸術団体は1923年10月に宋影らを中心として「解放文化の研究と運動」というスローガンのもと設立された「焔群社」である[43]。さらに同時期には金基鎮、朴英熙らを中心に「パスキュラ」が設立されている。1924年7月モスクワで開かれた無産階級著述家会議で無産階級文人たちは組織的に結束せよとの呼びかけがなされ、これを日本の『文芸戦線』1月号が紹介したのに対し、焔群社同人はこれに敏感に反応、1925年8月のカップ設立へと至る[44]。
「方向転換」論議がなされていた時点では朴英熙、金基鎮らの「新傾向派」が文壇で優勢な地位を占めていた。「新傾向派」はブルジョア文学に対抗してプロレタリア文学を、芸術至上主義文学に対して、生活が文学を決定するという「生活決定論」を思考の基盤とした生活文学を対立させ、階級対立が先鋭化した資本主義社会ではプロレタリア文学を通してそのような階級対立を解消しようと努力することが「生の本質的要求」を表現する文学の正しい課題であると主張した。ただ「新傾向派」はここで民衆を「プロレタリア=民衆=朝鮮民族」という図式で把握したため、階級的視覚が比較的弱く、「方向転換」はこのような「新傾向派」の特徴を克服することを主たる目標においた[45]。
この「方向転換」を主導したのが東京の第三戦線派である。第三戦線派とはカップ東京支部の前身で、1927年に李北満・高景欽・韓植・洪暁民ら10名によって組織された「第三戦線社」(機関誌『第三戦線』)同人を指す[46]。第三戦線派の「方向転換」論は李北満の「芸術運動の方向転換論は果して正しい方向転換論であったか」において明確に示される事になる。ここで李北満は朴英熙の方向転換論を「1.社会主義的意識を把握し、ブルジョア政治をバクロすること、2.社会主義意識を大衆に伝播すること、3.文芸にあって前線的進出をするまえに理論闘争をすること、4.理論闘争なくしては方向転換はできず理論闘争は芸術の方向転換を可能にする」と要約し、これだけでは不十分である事を指摘した。李北満はこれでは大衆との組織的結合が不可能であり、文学運動が政治運動や総体としての変革運動に有機的に結合することができないとし、作家たちの意識の方向転換とともに、より政治運動と密接した大衆組織への改編が並行してなされねばならないと主張した[47]。このような第三戦線派の主張は朴英熙らの理論的不徹底も相俟って、カップの公式的方向転換論の地位に上り詰めるのである。
金斗鎔らの第三戦線派が乗り越えるべき思想傾向が「新傾向派」であったということは重要である。上述したように「新傾向派」は「プロレタリア=民衆=朝鮮民族」という図式で民衆を把握していた。朴英熙はこの図式の上で朝鮮民族全体が「白衣の無産者」であるという認識を示した[48]。だが第三戦線派はこのような曖昧な階級観にまっこうから異議を唱え、金斗鎔自身もこのような「白衣の無産者」という認識に対して明確に批判を展開していく。1929年にカップ機関誌『無産者』に掲載された「われわれは如何に闘うべきか」において金斗鎔は激越な調子で「白衣の無産者」論に批判を加える。少々長いが以後の金斗鎔の主張の原点ともなる文章なので以下引用する[49]。
諸君! 一度考えてみよ。民族観念と階級精神は現段階では背馳しはしないだろうか? 全ての朝鮮民族は無産階級だろうか?大体民族観念主義というものは何であろうか? それは民族主義の思想感情を内容とする文学なのだろうか? もちろんそうだ! それより民族主義とは何であろうか? それは民族の固有な思想感情を表現する文学であろうか?それが民族文学の真正なる価値であろうか?違う。現在全民族が他民族の圧迫と搾取下で呻吟するとき、その重い鉄鎖から解放しようとする努力がなく、革命的闘争がないところに何の民族的価値があろうか?故に民族主義は国民解放運動であるはずだ。だが民族には階級と層はないのか? もちろんある。あるだけではなく、それらの利害関係は互に相反し、発展すると共にその×〔革〕命的指導者は漸次変わっていく。最初はブルジョア階級、次には小ブルジョア層、その次にはプロレタリア階級になるということは歴史が証明する通りであり、プロレタリア階級が×〔革〕命的先頭隊として登場するときには、ブルジョア階級はその進歩的役割を失い、ブルジョア層は他の一部分と同様反動化するということは、同じく歴史が証明する法則である。何故反動化というのか?それは民族の徹底的解放はその民族にとってもっとも奴隷的地位と非人間的生活をしている労働者農民の解放なくしては不可能であるからか?故に労働者農民がこれを自覚し自己自身を解放すると同時に民族を解放しようとするその革命的運動をブルジョアジーと小ブルジョアジー〔が〕民族的国民的名のもとに干渉し圧×〔殺?〕し蹂躙することはそのためではないのか?……ゆえに我々は朝鮮民族であると同時に無産階級であるということは無条件的に主張しないばかりか、民族観念と階級精神は決して一致するものではないことを宣言し、特に現段階情勢にあっては社会主義文学は反動的文学とは氷炭相容れないどころかこれを積極的に排撃撲×〔殺?〕しなくてはならないことは反動民族主義文学者梁柱東を埋葬しなくてはならないことと同じく明白な事実である。(原文朝鮮語、筆者訳、傍点筆者)
このように第三戦線派は「新傾向派」に対して明確かつ徹底的な批判を加え、民族文学の主体がプロレタリアートに転換したとして「民族文学/階級文学」という対立軸を設定した。キム・ジェヨン他『韓国近代民族文学史』はここに民族文学の主体と民族文学の理念の混同があり、この時期のプロレタリア文学の左偏向は全てこの点に起因していると指摘している[50]。この傾向は組織論的には「自然発生性/目的意識性」という二項対立として表れ、こちらは『無産者』誌上でボルシェビキ化の議論として論じられていく。この傾向の伝播力は絶大で、ソウルにいた詩人の林和は1929年冬、玄界灘を渡り、無産者社のメンバーとして一年半ほど東京に滞在したのだが、研究者の申銀珠はこの林和の東京行きが、1931年の帰国後カップのボルシェビキ化への核心的な理論家としての活動に大きな影響を与えたのではないかと述べている[51]。
さらにのちの金斗鎔を考えるうえで注目すべきなのは、「民族主義」に対する金斗鎔の捉え方である。金斗鎔は文中で「民族主義」とは「民族の固有な思想感情を表現する文学」ではなく、それは「重い鉄鎖から解放しようとする努力」であり「革命的闘争」であるとしている。そしてそうであるがゆえに「民族主義は国民解放運動であるはずだ」と断言している。これは次章で検討する、この時点における金斗鎔にとっての「民族」の意味を理解するための手がかりとなる。そして「革命的闘争」といった政治的課題を文学の担うべき第一の課題であるとする視点は、第四章で検討する「革命的リアリズム」という立場に受け継がれていくことになる。
前章で述べたように、金斗鎔はプロレタリア芸術運動の中で自らの政治的位置を当初より明確化させており、そのような流れの中で1929年11月、金斗鎔は日本労働組合全国協議会(以下全協)の中へ在日本朝鮮労働総同盟(以下在日労総)を解消させることを説いたパンフレット、『在日朝鮮労働運動は如何に展開すべきか』を発表する。本章では実際に運動が「解消」へといたる道を追うとともに、パンフレットの中で金斗鎔がどのような論理で「解消」を説いていったかについて検討する。
本節と次節では金斗鎔の「解消」論議を検討する前提として、1920年代における日本の社会主義運動、特に日本共産党と朝鮮人運動がどのような関係にあったのかを概略する。日本の社会主義運動が在日朝鮮人運動と接触を持ち始めるのは1922年からである。この年5月に行なわれた第三回メーデーでは在京の朝鮮人が初めて参加した。7月には『読売新聞』が新潟中津川発電所工事に従事した朝鮮人労働者の虐殺死体が発見されたことを報じ、これをきっかけにして朝鮮人による真相糾弾に向けた動きが活発化する[52]。この年創立された日本共産党もその当初から植民地問題を積極的に取り上げた。最近モスクワで発見された1922年9月の「日本共産党創立綱領」でも「朝鮮、中国、シベリア問題」として以下のように書かれている。[53]
日本帝国主義のすべての犯罪の中でも最も悪名高いのは、朝鮮併合と朝鮮人民の奴隷化である。日本共産党は、たんにその行動を非難するだけではなく、朝鮮人民の解放のために必要なあらゆる措置を講じる。
当時の政党の中で、朝鮮の併合問題にこれだけはっきりと批判的態度をもって望んだ政党は日本共産党くらいのものだった。しかしながら日本共産党の朝鮮独立運動に対する視点は賞賛一本槍ではない。続いて「創立綱領」は以下のように書いている。[54]
朝鮮独立のために闘っている朝鮮の愛国者の多数派は、ブルジョア・イデオロギーと民族主義的偏見から解き放たれてはいない。我々は、たんに朝鮮革命の勝利のためばかりではなく、彼らを我々の共産主義的原理に獲得するためにも、彼らと共同して行動することが必要である。朝鮮革命は日本における民族的危機をもたらすであろうし、朝鮮と日本の双方のプロレタリアートの運命は、二つの国の共産党の統一した努力によってもたらされる闘争の成功ないし失敗に依存するであろう。
このように、どちらかといえば朝鮮の「独立」よりも、朝鮮の「革命」に力点が置かれている。これは何もこの綱領に限ったことではなく、赤松克麿にいたっては『赤旗』創刊号の「無産階級から見た朝鮮解放問題」というアンケートで「朝鮮独立運動は時代遅れである」とまで書いている[55]。上述したように1920年代という時期は日本の社会主義者たちが本格的に朝鮮人運動家たちと接触し始めたころだった。朝鮮の「独立」と「革命」のどちらを優位におくべきかという問題は当時の運動家の中では少なからず議論されるようになっていたようだ。当時学生であった宇野弘蔵は1921年頃堺利彦の家を訪問したとき、「ある若い人がそれはもう社会主義が優先する、独立運動なんかみんなそのなかへ吸収されるというのにたいしてその朝鮮の人はいやそうじゃない、やっぱり独立運動のほうが重要だ」と議論しているのを耳にしている[56]。朝鮮の「独立」と「革命」をこのようにある種対立して論じることは、日本人共産主義者の間での一般的傾向だったようである。金斗鎔自身が「独立」と「革命」についてどう考えていたかについて直接語ったものはないが、前章最後で論じた『無産者』の記事から推測すると、「独立」と「革命」を対立したものとしては捉えていなかったようだ。解放後金斗鎔はいわゆる「二段階革命論」を取ることになるのだが、その論理からいっても「まず独立」と考えていたであろうことは推測できる。本章で検討する「解消」論のパンフレット中においても、「独立」に対して否定的に扱っている形跡はない。やはり「独立」を当面の至上命題としていたことは間違いないだろう。
このような温度差をもちながらも日本共産党は朝鮮人運動と接触していった。日本共産党が1923年にモスクワに宛てた報告書の中には党の活動部門として政治部や農民部のほかに「朝鮮係り」を置くことが記されている[57]。さらに同報告書では朝鮮係の活動について詳しく次のように記している。[58]
日本に在留する朝鮮人は二十余万人あるが昨年末渡航制限の法律廃止以来毎月約二萬人宛増しつつある。彼等の向背は日本革命に至大の影響があるから、JCP(日本共産党のこと:筆者注)は此係を置いて彼等の赤化に努めている。彼等の中の共産主義者は、まだJCPに加入していないが、既に北星会といふ革命団体を組織し、又鮮人労働団体を組織している。この両団体は近時活発に活動しているが、此係は常にこの運動を後援している。北星会の機関紙『斥候隊』に対しては、毎月経済的に援助している。将来朝鮮本土に帰りてその運動を指導すべき中堅人物の養成といふことも、この係の特に留意している所である。
ここで書かれている「北星会」とは1922年11月に結成された日本にいる朝鮮人の思想団体であり、この会はのちの一月会、新幹会へとつながっていく[59]。実際に北星会でも月例集会に堺利彦、山川均、荒畑寒村、近藤栄蔵、佐野学らの日本の共産主義者を招き、「労働運動の指導者を教育するため」の講義が行なわれている[60]。1910年代には主に個人レベルの交流であったものが、20年代に入るとこのように組織レベルでの交流へと進んでいく。もし上にあげた報告書に挙げた内容が正確ならば、人的交流のみならず、資金面でのつながりもあったということになる。これは非常に密接な関係であるといえるだろう。ただ研究者の石坂浩一が山川均について指摘しているように、「まだ大衆的な力のない日本の無産政党の現実的な力として在日朝鮮人運動に期待した」という側面もあり、石坂は続けて「これは利用主義だと批判されてもやむをえないであろう」としている。朝鮮人運動に対する「利用主義」は日本の社会主義運動が戦後まで持ち続けた宿痾であるが、しかしこの点を考慮に入れても、組織的に日朝の運動がつながりを持っていたということは注目にあたいするだろう。
1923年9月1日、突如関東地方を大地震が襲った。朝鮮人、中国人と社会主義者にとってそれは「天災」ではなく「人災」であった。「朝鮮人襲来」というデマによって、軍隊・警察、さらに民間の自警団によって約六千人の「朝鮮人」が虐殺された[61]。大杉栄などの社会主義者もまた混乱に乗じて虐殺され、各地の社会主義運動家は警察署に収容、一部は虐殺された。震災後すぐ9月末には、白武ら北星会、東京朝鮮基督教青年会、天道教青年会幹部が発起人となり朝鮮人迫害事実調査会がつくられ、同年11月末には日華日鮮青年会館で在東京朝鮮人大会を開催し被害状況や「デマ」の出所が日本政府当局であるという声明を発表した。上に挙げたモスクワへの報告書の中で日本共産党は「(震災直後:筆者)ロ)朝鮮人虐殺事件に就ても特別委員を任命して事実を調査せしめ且つ本問題に対するプロテストの団体をオルガナイズさせた」としている[62]。実際に調査をしたのか、あるいはどのような調査をしたのかは不明だが、大杉栄の虐殺事件ばかりを取り上げていた当時の風潮に対して、「朝鮮人虐殺事件」として事件化しようという試みがあったことは伺える。他にも『種蒔く人』帝都震災号外が「果たしてあの、朝鮮人の生命に及ぼした大きな事実は、流言蜚語そのものが孕んだにすぎないのだろうか?如何なる原因でその流言蜚語がいっさいを結集したか?中央の大新聞は、青年団の功をのみ挙げて、その過を何故に責めないか」と論じており、さらに片山哲、布施辰治ら自由法曹団は朝鮮人虐殺の真相と責任の調査にのりだした[63]。
当時京都の三高にいた金斗鎔はこの朝鮮人虐殺の報をどのような気持ちで聞いたのだろうか。解放後、金斗鎔は『解放新聞』1946年9月1日号社説「8・29、9・1を記念して」の中で次のように述べている。[64]
朝鮮独立の思想、解放の思想を不逞思想であるとし、朝鮮の貴重な独立運動家を支配階級の陰謀によって虐殺し、九月一日の虐殺事件もこのような意味をもっているのであるから、私たちはこの記念日を迎える今日、過去日本帝国主義が私たちに加えてきたあらゆる惨憺たる歴史を冷静に回顧する時、もう一度このような事態に陥らないように、また植民地的地位に陥らないように、あらゆる非民主主義的ファッショ的要素を徹底的に排除し、民主主義的な力量を集中し、進歩的自主独立国家建設を目標として創造的努力を惜しんではならないだろう。(原文朝鮮語:筆者訳)
金斗鎔は震災後の虐殺を「支配階級の陰謀」によるものとして語っている。発端が「支配階級の陰謀」であるにしても、「朝鮮人襲来」というデマ一つで六千人もの朝鮮人の命を奪いうる日本社会の「被支配階級」に、金斗鎔の思考は及ばなかったのだろうか。それとも青年金斗鎔の脳裏に、彼が終生憎み続けることになる「排外主義」への憎悪が芽生えたのであろうか。あらゆる「排外主義」の原因を「支配階級の陰謀」であるとする視点は金斗鎔の生涯を通じて維持された視点であるが、これが日朝人民の連帯を維持するための方便であるのか、それとも金斗鎔自身の実感に基づいた本音であったかは判然としない。ただ次節でみるように、彼の運動方針は「排外主義=支配階級の陰謀」という観点から常に説き起こされていくのである。
日本における朝鮮人労働運動はこのような状況の中で1920年代に本格化し、1925年2月22日、各地に散在していた諸団体が統一され、「解消」の一方当事者である在日労総が結成された。本節では在日労総が「解消」へと至る過程を時系列に沿って概観する。
在日労総は1925年の創立以来順調な発展を遂げてきたが、1928年9月から11月にかけての天皇即位式を理由とする厳戒体制下での弾圧、いわゆる「御大典弾圧」を受けて活動の全面停止に追い込まれることになる[65]。しかし1929年に入り「御大典弾圧」で予備検束されていた幹部が釈放されると在日労総は勢力を回復し、活動は再び活性化する。ただ解消決議がもたれる同年12月の全国代表者会議までは全国的連絡とそれにもとづく政治闘争が回復するまでには至らず、各地での自律的な活動という形で運動を維持していた[66]。
ここで1927年の第三回大会以後の状況について触れておきたい。この大会以降、民族解放闘争の旗幟を鮮明にしていき、朝鮮総督暴圧政治反対運動など、本国の運動と提携して活動を展開して行く。そして何よりもこの大会では「労働者と資本家の間での階級関係よりは民族的差別の問題がおもな条件であるとして民族運動を中心におくこと」が確認されている。この方針こそ、のちに金斗鎔が「朝鮮の労働階級の独自性を共同戦線の中に解消した」と批判する運動方針なのだ[67]。上述した「御大典弾圧」までの「順調な発展」はこのような方針下で進められたものなのである。
しかし1928年3月から4月にかけてモスクワで開かれたプロフィンテルン(国際赤色労働組合)第四回大会において、資本主義諸国における外国人労働者と植民地労働者は現住国の労働組合に加入して闘うべきだとのテーゼが採択され、大会終了後に開かれた日本問題小委員会で在日労総を全協に合同させる方針が決定された。さらに続いて同年8月にコミンテルン書記局で「一国一党の原則」が再確認され「日本にいる朝鮮人は日本共産党に入党して現住国の革命のために闘って国際主義をつらぬくこと、これが朝鮮人の任務である」という指示が出された[68]。全協はこれをうけて東京朝鮮労働組合(以下東京朝労)幹部の金浩永らに解消を提案する[69]。だがその後神奈川朝鮮労働組合などの反発をうけ、東京と神奈川の対立にまで発展、金浩永はその責任をとって在日労総中央委員を解任される。金斗鎔は1929年9月末、その後任として神奈川朝労の李成百の誘いで在日労総中央部において活動することになる。そして10月中旬には在日労総関東地方協議会を開催、従来の民族解放闘争を基調とした左翼闘争を行った結果日本帝国主義の「特殊的弾圧」を受け、運動戦線が大きな被害を被るにいたったと運動を総括し、在日労総全国代表者会議を11月末に開催する事を決定した。金斗鎔はこの時在日労総の臨時常任委員に就任している。金斗鎔はその後次節で検討する「在日本朝鮮労働運動は如何に展開すべきか」という全協への合同解消を説いたパンフレットを無産者社から発行し各地へ配布、金斗鎔自身は組合の情勢調査のため大阪へ向った[70]。在日労総中央は全協への解消準備を進め、12月14日大阪で秘密裏に朝鮮労総全国代表者会議ならびに拡大中央執行委員会が開かれ金斗鎔ほか各地方から17名が参加した。金斗鎔はここでも議長として(副議長は朴広海)会議を進め、在日労総を解体して全協に加盟すること、一産業一組合主義により産業別組合を組織し、現組合は全協のもとに漸次再編成することが決められた。さらに全協への解消のための中央執行委員会が作られ、金斗鎔は中央執行委員、中央常任委員会委員に就任した。1930年1月、在日労総解体を前提として中央常任委員会を解体、これを全協朝鮮人委員会と改称、1月13日には機関誌『朝鮮労働者』を創刊、解消に関する各種指令を出し、その結果各地の朝鮮労働組合は相次いで解体声明書を発表、全協傘下の産業別組合に合流した[71]。
在日労総の全協への解消の過程は以上の通りである。現在確認できるかぎりでの金斗鎔の労働運動との最初の接触は、1928年5月13日の在日労総第四回大会であり、この時金斗鎔は朝鮮プロレタリア同盟東京支会の名をもって祝辞を行なっている[72]。その後1929年7月『戦旗』誌上に「川崎乱闘事件の真相」と題した記事を載せている。そこでは次のように書かれている。
永い間。この酒(「日鮮融和団体」相愛会の斡旋する仕事:筆者)にひどい毒の盛られていたことが労働者自身によって分別出来なかった。わが善良な朝鮮の労働者農民は、その「白衣同胞」の名に酔わされて、その黒い腹が分からなかった。
だが、その黒い腹から、汚いくそみその出る時がやって来た。アタマヲハネラレテいた自由労働者の中から、会社から払われた賃金を「相会」する名の下に横取りされた紡績工女の中から、いい働き先を世話するといって貞操をじゅうりんされそして料理屋に売り飛ばされた婦女子の中から、むらむらと反抗が起り、この反抗が他に転化する時が来た。こうして真に朝鮮民族××の先駆隊であるプロレタリアートはこの相愛会と、龍虎相戦わなければならぬ時が来るのである。(傍点原文)
「川崎乱闘事件」とは、相愛会との間で乱闘がおき、ついには双方とも逮捕者を出すまでに発展した一連の騒動を指す。ここでははっきりと「白衣同胞」の「黒い腹」から出る「汚いくそみそ」に対する嫌悪が表明されているが、これは上述した「白衣の無産者」論への批判と明確に一致する。前章で引用した「われわれは如何に闘うべきか」はちょうどこの記事と同時期に書かれたものである。金斗鎔は上のような相愛会などの親日団体との対峙という状況の中で自らの立場を明確化させていったのではないだろうか。
この記事を書いた直後の9月、上述したように神奈川朝鮮労働組合(以下神奈川朝労)の活動家李成白に誘われ、在日労総中央部で活動する事になるが、のちにこの神奈川朝労とは解消問題を巡って対立する事になる。金斗鎔がどのような経緯で短期間のうちに労働運動の指導的立場に立ったのかは明らかではない。この点に関して、のちに金斗鎔と江口渙の連名で『民主朝鮮』に発表された「朝鮮プロレタリア文学運動の史的展望」なかで、朝鮮半島のカップ同盟員に対し「東京の同盟員たちの大部分は、みずからすすんで労働組合の中に入り、プロレタリア的な組織の中で働くことによって、自分たちの文学や演劇に正しいプロレタリア的方向をあたえようと努力した」と記されている。さらに上述したように1928年には「御大典弾圧」で労働運動の主導的幹部が検挙されており、そのような指導的人材の不足という状況の中、かねてよりプロレタリア文学運動で活動していた金斗鎔が労働運動へもその活動を広げたのかもしれない。
本節では1929年11月に金斗鎔が発表したパンフレット「在日本朝鮮労働運動は如何に展開すべきか」の内容を検討する[73]。上述したとおり、このパンフレットは在日労総の全協への「解消」を促進する立場から書かれたものであり、実際に運動はその方向へと進んでいった。このパンフレットは解放後の『前衛』論文における「階級解消論」と対をなすものであり、きわめて重要である。パンフレットの構成は以下の通りである。
一、現下の状勢と在日本朝鮮労働総同盟の日本労働組合全国協議会との合同問題
二、「合同」反対論の理論的根拠
三、全民族的共同闘争戦線の問題
四、「労総」の「全民族、共同闘争」の誤謬
五、「労総」の産業別組織と、「日本全協」への参加の問題
六、産業別組織の全国的結成としての所謂「在日本朝鮮全協」について
七、合同のための諸条件
パンフレットは在日労総と全協の合同を進める立場から、合同反対論に反駁し、最後に合同に向けた具体的プランを提示しつつ「日鮮労働者の合同のために戦え!戦線統一万歳!」という言葉で結ばれている。パンフレットで金斗鎔が、「『朝鮮労働者が日本労働者と一緒になるなんて、そんなことは、第一にあり得ないし、またあってはならない。何故なら朝鮮労働者は、何といっても、民族的感情をもっているし、それに朝鮮民族であるから、その運動も、朝鮮運動と関係づけなければならない。それだのに朝鮮運動と縁を切って、日本運動と合流するなんて、とんでもないことだ』」という見解を「今日までの在日本労働運動におけるもっとも重要な根本的見解である」とし、さらに附記で、東京では「朝鮮事情研究会」という「極悪のインテリゲンチャ」が集まり合同反対を唱えているとしている点からも、全協への合同には反対が多く、それに対する理論的反駁が急務であったと思われる。
金斗鎔はこのパンフレットで在日労総最大の誤謬は「朝鮮の労働階級の独自性を協同戦線の中に解消した」点にあるとしている。これは先に触れた通り第三回大会で確認された方針を指す。そしてその誤りの原因として金斗鎔は「政治的社会的条件」と「福本イズムの影響」を理由として挙げる。第一の「政治的社会的条件」とは「朝鮮は、一切の政治的自由が奪われているが、東京にはなおいくばくかの自由が許されていた」ことを意味する。このような状況は東京の勢力が全朝鮮運動を指導する上での重要な前衛部隊となり、労総の「誤謬」を招く原因となったと金斗鎔は見る。第二の「福本イズムの影響」とは一言でいえば「観念的理論闘争」への埋没である。上述したように福本イズムは学生団体や党内部での「理論闘争」の重要性を説いたが、金斗鎔はこのような福本イズムの影響が朝鮮人労働者の不満を、「労働者としての不満」としてではなく、抽象化された観念的な「民族的不満」として認識させ、労総の「誤謬」の第二の原因になったとしている。
一見この主張はまったくの的外れのように見える。労働者の「民族的不満」が福本イズムに影響された「理論闘争」の結果とは考えづらいし、むしろ金斗鎔の主張の方にこそ福本イズムの影響が色濃いようにも見える。だがこれは日本には労働者と「学生の外に、広範な民族の階級層がありえない」という金斗鎔の現状認識に基づいたものなのである。つまり「政治的社会的条件」から「東京の勢力が全朝鮮運動を指導する上での重要な前衛部隊となってしまった」ために慢心した東京のインテリたちが、全朝鮮、あるいは満洲までも含む朝鮮民族の協同戦線に勝手に日本の運動を結びつけ、それを労働者に吹き込んだと金斗鎔は言っているのである。ここでの「観念的」とは、日本の朝鮮人には学生と労働者以外に階級層が存在しないのに、協同戦線を張った「民族観念」を指す。協同戦線を張るべき階級層が存在しないのに、それをしてしまうのは「民族観念」に惑わされた結果だというわけだ。これは上述したように、「民族主義」を「革命的闘争」と考えている金斗鎔にしてみれば当然のことだっただろう。「民族主義」はそれが「革命的」である限りにおいてのみ有効なのであるから、「革命」に転化しない無用の協同戦線など、金斗鎔にとっては「民族主義」の名にすら値しない「観念」に過ぎなかったのである。
「民族主義」を「革命的闘争」とのみ見る観点は、当時「朝鮮日報」が行っていた「生活改新運動」への評価の点でも見て取ることができる。金斗鎔は「生活改新運動」についてパンフレットで次のように述べる。
だが吾々は生活改新運動を反動と見る事が出来るか。人々が若し『文盲を退治しよう』とか『普通学校を増設しよう』とか『断髪をしよう』、『白い着物は下経済だから黒い着物を着よう』とか『迷信を打破しよう』とか『消費節約しよう』とか。そしてそれによって生活を改新しようと云うのを一概に反動と呼ぶことが出来るか。出来ない。何故なら斯かる運動は野蛮に対する文化の闘争である。そして一切の封建社会の野蛮的暗黒制度を打ち破り、資本主義的文化を打ち建てようとする試みは、歴史的意義においては進歩性を持っているものであり、資本主義への道を浄めるものである故にブルヂョアジーが自己の途を開拓せんとする生活改新運動は彼等自身の歴史的使命を果さんとするところの試みであって、彼等に取って至極正当なものと云わなければならない。(傍点原文)
このように金斗鎔は「生活改新運動」に一定の評価を加えながらも、運動を行なっている「左翼民族ブルヂョアジー」が「改良主義に変節」しつつあることを批判し、さらに「生活改新を以っては決して解放されるものでない」ことを労働者農民に暴露しなければならないとしている。「生活改新運動」に対する金斗鎔の評価は、それが「封建社会の野蛮的暗黒制度」を打ち破るかぎりにおいては「至極正当」であるという点に尽きる。金斗鎔にとっては、朝鮮民族の象徴としての「白い着物」など「文盲」や「迷信」と同様の「野蛮」に過ぎず、「民族主義」の名に値しないないのである。
さらに、批評家としての金斗鎔が当時批判の対象としていたのは、「白衣の無産者」論に立つ新傾向派であったことは上に述べたが、このような新傾向派の「白衣の無産者」論を実際の革命運動理論のレベルで下支えしていたのが、「総体的無産階級論」という階級闘争の論理である。これは階級的矛盾と社会的矛盾が民族的矛盾から始まったとする立場である[74]。以下の文章がこの「総体的無産階級論」の立場を要約している。[75]
現在朝鮮における搾取階級をいうならば朝鮮人対朝鮮人ではなく、朝鮮人対外国人の問題である。すなわち朝鮮人として朝鮮人の無産者を救済しようとするならば、朝鮮人の搾取階級を排斥するよりもまず外国人の搾取階級に抵抗しなければならぬ。……被征服民族の無産階級解放は征服民族の無産階級解放と条件が違う。朝鮮においては朝鮮民族という全民族がだんだん無産階級化しつづける……民族的無産階級の戦術上の唯一の闘争の対敵は日本の資本階級を排斥することにある。
しかしながら金斗鎔にとってはこのような立場は上述したような「白衣同胞」の「黒い腹」から出る「汚いくそみそ」を見抜けない観念的な議論に見えたに違いない。パンフレットでも「総体的無産階級論」に対しては「過去朝鮮の労働階級左翼の提唱した全民族的共同闘争は、自己階級の観念的組織的独自性を抹殺し、他の階級層とこれを全民族の名にひっくるめようとしたところの全民族的共同闘争であり、これはいうまでもなく解党派である」と厳しく批判している。「解党派」はコミンテルンに批判された山川イズムを指すものあり、「解党派である」というのは「お前は間違っている」という程度の意味に過ぎない。これは「福本イズム」にしても同様である。
次に指摘しておかなければならないのは、金斗鎔の「自由労働者」に対する態度である。金斗鎔は、未だ「封建的イデオロギーを多分に持っている」「自由労働者」あるいは「未組織労働者」に対して次のように書く。
かかる人々民族的感情を固定的に考える人々、或は、民族的感情を多分にもっていることを誇張する人々、或は誇張しなくとも、階級意識よりも先きに、民族意識を考えたがる人々――かかる人々は、朝鮮労働者といった場合に、それは、一人の労働者としての国境のない、国際的プロレタリアートの一人として頭にピンと来ないで民族的意識を多分に持っている一朝鮮労働者として考え、また考えたがる人々である。
だからこういう人々は、朝鮮労働者を戦闘的日本労働者と、結びつけずに朝鮮民族と結びつけ、更に、組織的には日本の××〔革命〕的労働運動と結びつける前に、朝鮮民族解放運動と結びつけて来た。そして今日尚お、自由労働者を日本労働者と結びつけず、朝鮮運動、少くとも在日本朝鮮労総に結びつける。(傍点原文)
だが具体的にその「封建的イデオロギー」をどのように転換させるかという質問には答えておらず「許すべからざる誤謬を犯した」と述べているだけである。しかもそれに止まらず金斗鎔は「誰もが知っている通り××〔革命〕の中心的城塞は、工場、鉱山大経営である。だから、日本にいかに学生層が多くとも、××〔革命〕的インテリゲンチャがあっても、自由労働者が多くとも、それは××〔革命〕の中軸をなすものでもなければ、××〔革命〕を指導する×〔党〕――如何なる荒れ狂う嵐の中にあっても頑として揺るがないボルシエビキー組織の基礎にはならない」 として「自由労働者」は組織の基礎にはなり得ないと説く。そして「自由労働者」について続けて金斗鎔は次のようにいう。
だが吾々が真に飯場を中心にして集って生活している自由労働者を見るとき、彼等は多く朝鮮内地の農村から来た産業予備軍であり、彼等のイデオロギーは封建的であるばかりでなく、彼等の生活もバクチと、酒の中の生活で、ゴーリキのどん底そのものである
そしてこのような「自由労働者」を組織するのは至難であるから「未組織大衆を組織することではなく、更に工場労働者と自由労働者を分離して考え、工場労働者の組織という方向に向って進まなければならない」と主張するのである。この文章を読むかぎりでは「封建的イデオロギー」をもつ「自由労働者」の切り捨てと読めなくもない。少なくとも金斗鎔は「自由労働者」を革命の主力部隊であるとは考えていない。パンフレットでも明確に書かれているように、「如何なる巧妙なスパイにも隙をねらわれないボルシェヴィキの組織」は「自由労働者の基礎の上に……は成立しない」のである。金斗鎔にとって革命の主体は明確に「工場労働者」以外にはありえないものと認識されている。これは解放後の『前衛』論文でも朝連がそれ自体では革命の主体足りえないことを論じる根拠になっている。
このように、このパンフレットでは主に二つの「分離」が説かれている。一つ目は朝鮮本国の運動からの「分離」であり、もう一つは「工場労働者」の「自由労働者」からの分離である。朝鮮本国の運動からの「分離」は、自らを「国際的プロレタリアート」ではなく「朝鮮労働者」であるとする思考からの転換を意味している。そして「自由労働者」を分離する事はこのような「封建的イデオロギー」に支配された層を実質的に革命の二次的な主体と見なすことを意味するのである。金斗鎔にとって民族差別が階級対立の反映であると認識されているのは上にみた通りだが、重要なのは金斗鎔がその「正しさ」を認識できない「封建的イデオロギー」を持つ「自由労働者」たちに対してともすれば切り捨てとも読めかねない視点をとっていることである。これは推測に過ぎないが、金斗鎔は何故「自由労働者」たちがそのような「民族的偏見」を持ち「国際的プロレタリアート」としての自覚を持てないのかを心の底から理解できなかったのではないだろうか。金斗鎔にとってはそんな「民族観念」よりも、相愛会になどの対峙から感じる「階級精神」の方がよっぽどリアリティがあっただろう。ゆえに「ゴーリキのどん底そのもの」の生活を送り、「金儲けと故郷の茅屋を忘れない」「自由労働者」に対する視線もきわめて冷たい。上述したように、金斗鎔が労働運動に積極的に参加したのはこのパンフレットを書く直前であり、実際にはほとんど活動をしないうちに中央委員になったのである。「ゴーリキーのどん底そのもの」と描写していることから労働者の現実を全く見ていないわけではないだろうが、少なくとも「労働運動家」として実際に労働者に接触した期間は非常に短いのは確かだ。朴広海は当時を振り返って次のように述べる。[76]
本当をいうと、朝鮮人労働者は私もそうだけれど、実際階級闘争をやったり、組合の指導をやるという人で労働をやって自分を鍛えた人間はいないんですよ。
……そのかわり、東京や六大都市でおった人よりは理論的には非常に立ち遅れている。なぜならば勉強できないから。山いって書物みたところで××ばかりで、そんなものもって歩くわけにもいかんし、それでまあ、非常に、水準の差というのは恐ろしいものがある。私ら東京の会議に行くのは、もうやめとこう、そんな所に行って何もしゃべられん、実際、ストライキとか何かの組織に入って闘うときにはそりゃまた向こうは問題にならんし、やり方をいちいち何か言えば、反労働者的なとそういう風になるわけやね。……ところが、結局、労働者と一晩寝かせながら話をさせても、何の一つもつかんでいない。
金斗鎔についてもやはりこのようなことはいえるのではないだろうか。金斗鎔のこのパンフレットでの論理は、プロレタリア文学における自らの批評の立場をほぼそのまま労働運動に持ち込んだものであるといえる。金斗鎔にとってこのパンフレットは、創作と観念の中での「インターナショナリズム」の現実への適用であったのだ。
こうして在日労総の全協への解消は決定された。だがしかし上述したように、在日労総内部での解消反対論は根強く、「解消」はすんなりとは進まなかった。1930年4月の時点で東京朝労の大部分と京都、三重県の朝鮮労働組合は解体され、産業別組合に再編成されたが、一部はこれに従わなかった[77]。全国の団体の中で「解消」に最も強く反対したのは神奈川と大阪である。
神奈川朝労の李成百はすでに「解消」が提案された時点で「火曜会派の分派の疑いがある」として時期尚早論を唱えて東京朝労の金浩永と衝突し、この対立は神奈川朝労と東京朝労の暴行事件にまで発展している[78]。金浩永はこの事件の責任をとって解任させられており、金斗鎔が李成百の要請で1929年9月末に在日労総中央となるのは、この金浩永の後任としてである。当時を振り返って朴広海は次のように語っている。[79]
ところが、神奈川県では全協に入るのに反対した。結局、神奈川は現在の朝鮮総連の時まで朝鮮労働総同盟の旗をそのままもっておったんですよ。それで北朝鮮におくったりね、私も韓徳洙も“歴史的だ”といったりして。
……結局、朝鮮労総が完全に解消したのは31年末です。一番あとまで残ったのは、私は今でも忘れない、神奈川の朝鮮労働組合ですよ。
そして神奈川朝労は解消の決定がなされた在日労総中央代表者会議に代表を送らず、神奈川朝労の指導的活動家であった李成百は除名されている。さらに全協朝鮮人委員会は李成百らを「スパイ」あるいは「スパイ的」と断罪する声明を発表、神奈川朝労に対しても文中で警告を与えている。のち1930年10月には「全協への即時解消に関する方針書」が出され神奈川朝労は全協日本土建建築労働組合神奈川支部に解消した[80]。
対して大阪朝労ではその発足当時から東京朝労との間で対立が絶えなかったが、1928年3月には東京から進出した一月会系幹部とそれ以前からの幹部との間で「大阪事件」なる抗争が起きている。これは3月28日に大阪朝労執行委員会が何の事前協議もなしに下部組織である東北支部常任執行委の金光を除名したことに端を発し、在日労総の分裂寸前の危機にまで達した事件である[81]。だが解消への反対はこのような対立をそのまま持ち込んでのものではない。実際に神奈川朝労との対立の責任をとって中央を追われた金浩永が来阪したとき、金文準など大阪朝労の指導的活動家は金浩永の解消論を正当なものと認め、金浩永の「在日本朝鮮労働組合当面の問題に対する意見書」を在日労総関西評議会の名で公表している[82]。しかし解消過程で作られた全協朝鮮人委員会において、委員たる金浩永が大阪朝労幹部らと一体となって朝労解体を進めるのではなく、全く独自に「全協朝鮮人関西事務局」を設置、さらにそのメンバーに「大阪事件」で金文準らと対立した一月会系の幹部が参加したことから、金浩永と金文準との間に対立が起きてくる[83]。
金浩永と金文準の対立の争点は、この全協朝鮮人委員会を巡る全協への解消の方法についてであった。1930年度版の内務省警保局『社会運動の状況』は次のように書いている。[84]
解消過程に於ける暫定機関として全協朝鮮人委員会の指導をうけ関西事務局を組織し各組合を指導して完全に産業別に整理した後に全協に合流すべしと主張する火曜会派の金浩永一派と、全協加盟を決議せる以上は朝鮮人にたいし特殊の機関を設くる必要なく直ちに解消すべしとなすソウル系の金文準一派が対立抗争し、互に大阪における朝鮮人運動の指導権を把握せんとして、前者は全協朝鮮人委員会の指導をうけ、後者は全協大阪地方協議会の指導に服し、ことごとに反目排擠をこととしていた。
この対立は最終的に金文準らが1930年4月8日、全協朝鮮人委員会と別個に全協に加盟するという声明を発表し、金浩永が関西地方事務局の解体を宣言する形で決着がついた。
だが解消後の問題は、このような地域間の対立以上に再組織率の低さとして現れてきた。在日労総は約3万3千人の労働者を組織していたが、全協解消後はその1割をも再組織できなかった[85]。何故なら大恐慌のあおりをうけ朝鮮人労働者の多くは失業し、工場労働者を中心に組織化しようとして全協の政策は、空振りに終わったからである。しかも解消後も、全協内部での民族差別は「解消」することはなく、危険な行動隊の任務などは必ず朝鮮人が担ったことが現在では明らかになっている[86]。さらに「解消」の過程自体についても1931年1月に全協関東自由労働組合常任執行委員会が発刊した「プロフィンテルン第5回大会に対する正当なる解釈とその大衆化のために闘へ」において、その誤謬が指摘されている点を見ても、「解消」過程はほとんど運動にとってプラスとなる結果をもたらしていない。このように「解消」が朝鮮人運動に与えた傷は深いといわざるを得ないだろう。
以上本章では在日労総の全協への解消過程と金斗鎔のパンフレットにおける解消論の詳細を検討した。ここで明らかになったことは、金斗鎔の労働運動における「解消」論は、金斗鎔自身の従来の活動の場であったプロレタリア芸術運動における立場をきわめて強く反映しているということである。そしてその立場とは前章で検討した第三戦線派の方向転換論に代表される、「白衣の無産者」批判である。そもそもこれはソウルのカップ本部に対する批判でもあった。この点に関して金斗鎔は次のように書いている。[87]
京城の同盟員と東京の同盟員との間によこたわっていた芸術理論のくいちがいは、とうとう、実践的な芸術の創造、文学の製作の上での対立にまでも発達していった。東京支部の同盟員たちにいわせると、「京城の同盟員たちの多くは、ただ、書斎の中で論究し、机の前で創作して、少し極端にいえば、ひたすらにジャナリズムの波に乗ることばかりしか考えていない。」というのであった。それに対して東京の同盟員たちの大部分は、みずからすすんで労働組合の中に入り、プロレタリア的な組織の中で働くことによって、自分たちの 文学や演劇に正しいプロレタリア的方向をあたえようと努力した。
その結果は、京城本部の同盟と、東京支部の同盟員との間に鋭い対立がうみ出された。そして、ついに1930年になって、東京支部の同盟員たちは、「何も京城本部の東京支部というような組織を、ことさらに持つ必要はない。このような機械的な結合は、プロレタリア芸術運動の組織的活動にとっては、無意味どころか、有害ですらある」という、これこそ、ほんものの機械的結論に到達するにいたった。
その結果、次章で検討するように、芸術運動もまた「解消」に至ることになる。このようなカップ内部での東京支部と本国との対立が、パンフレットにおいて提起された第一の「分離」、すなわち朝鮮本国の運動からの「分離」主張を後押ししたとはほぼ間違いないだろうと思われる。さらに解放後の運動を考える上でも注目すべき事は、第二の「分離」、すなわち「工場労働者」と「自由労働者」の分離である。金斗鎔自身パンフレットの中で明言こそしてはいないが、やはり「封建的イデオロギー」にとらわれた「自由労働者」を革命の主体としてみていなかったことは以上見たように明確である。これは後に見るように、朝連の構成員がそれ自体においては革命の主体たり得ないとする根拠と酷似している。
ここで朝鮮人共産主義者の「権威主義」を「解消」論主張の原因であるとする立場について、少し検討しておかなくてはならない。上述したように、金斗鎔のパンフレットもプロフィンテルンの方針、あるいは「一国一党の原則」に従った共産主義者の「権威主義」として括られ理解されるか、あるいは金斗鎔に注目せずに参照される場合が多かった。だがしかし研究者の水野直樹が指摘しているように、「一国一党の原則」は、コミンテルンの1924年の規約三条、第三十五条ですでに定められている以上、なぜ金斗鎔が1929年の段階で「解消」論に同調したかは「一国一党の原則」だけでは説明しきれるものではない[88]。しかも在日労総は「党」ではなく、そもそも大衆団体である。上述したように、全協の日本人幹部はプロフィンテルンの方針を受けて在日労総幹部に「解消」を打診しているが、金斗鎔は打診時に在日労総と直接のかかわりを持っていない。当然ながらプロフィンテルンの方針、あるいは「一国一党の原則」を金斗鎔自身まったく知らないわけではないが、金斗鎔の「解消」論を全てそれに従った「権威主義」だけで片付けてしまうのは、きわめて不十分である。しかも解放後の運動が、解放前の運動方針の無批判的な継承であると理解されている以上、この相違は極めて重要なのだ。
筆者はむしろ、金斗鎔が「権威主義」的でないからこそ、「解消」論を受け入れ、積極的に主張したと考える。少なくともパンフレットの文面上ではコミンテルンやプロフィンテルンの「権威」を持ち出している形跡はない。だがそれは大きな問題ではなく、むしろ注目すべきなのは金斗鎔の「民族」観である。第四節で指摘したとおり、金斗鎔は「白衣」などの現代から見ればともすれば「民族の象徴」ともいえるような「風習」についてきわめて否定的な評価を下している。現在の視点からみれば「図式的」あるいは「極左的」との謗りを免れないかもしれないが、1929年という時点を考えれば無理からぬことであるともいえる。何故なら、ほんの20年前までは朝鮮に存在していたのは李氏朝鮮、あるいは大韓帝国なのである。そして金斗鎔はこれを明確に「封建社会の野蛮的暗黒制度」として認識していた以上、金斗鎔には立ち戻り、保存すべき「民族の伝統」など存在しない。李朝は、冷静に「民族の伝統」という言葉で捉えるには、あまりにも近い時代にあったのである。つまり金斗鎔にとって独立するべき「朝鮮」は過去の「朝鮮」なのではなく、未来に新たに建設される無産者たちの「朝鮮」なのである。ゆえに金斗鎔にとって、過去の「朝鮮」への哀愁は李朝への哀愁であり、それは全くの「封建イデオロギー」なのであるし、「民族主義」は「革命的闘争」と「国民解放運動」以外にありえないのである。
金斗鎔が想定するあるべき「朝鮮」の内実が限りなく真空に近いものであり、「民族主義」が「革命的闘争」と同義であるとするならば、民族的差異は言語の差異以上のものではなく、その程度の差異は朝鮮語新聞の刊行などの対策で容易に解決しうるものとして捉えられたはずだ。このような観点はのちにすこし修正されるが、大枠は解放後まで維持される。幼少期に日本に渡り、特に朝鮮の文物について特に学んだわけでもない金斗鎔が、ありうべき「朝鮮」の内実を共産主義思想に求めたことは、ある意味では当然であったろう。しかもそこにソウルのカップ本部との対立も重なったのである。プロフィンテルンの「解消」方針を拒否する理由は何もない。だからこそ金斗鎔は一見「盲従」ともとれるほどの愚直さをもって、「解消」論を受け入れたのである。金斗鎔にとって「解消」は当然過ぎるほど当然の結論であったのではないだろうか。
だが「断る理由がない」というだけでは「解消」論主張の理由にはならない。そこに「革命的闘争」や「排外主義」克服のための理想が存在しなければならない。そして金斗鎔がそこに見た「理想」こそが「インターナショナリズム」であった。パンフレットの結論部で金斗鎔は次のように書く。
帝国主義戦争の危機が切迫してきている今日において、一切の国際問題は、民族的衝突によるものでなく、階級的衝突によるものであることは露支鉄道問題に見られる通りである。この問題において、万国のプロレタリアートはロシアを擁護し、各国のブルジョアジーは、支那ブルジョアジーを擁護し、応援している。故に、今日、各国のプロレタリアートの上に課せられた任務は、インターナショナリズムの上に立つということである。
では「インターナショナリズム」とは何なのか。続けて金斗鎔は書く。
……在日本朝鮮労働者階級の上に課せられた国際的任務は、朝鮮と日本とを区別し、相反目するような、民族的偏見と感情とを克服し、国際プロレタリアートとして立つことである。かの賃金差別、民族的差別待遇は、日本労働階級からのものでなく、支配階級側からの搾取と圧迫との合理化の産物であることを知らしめなければならない。
日朝人民間の「民族的感情」を乗り越え「国際プロレタリアート」として立つこと。それこそが「排外主義」克服のための道であり、その時「革命的闘争」としての「民族主義」さえも乗り越えた「インターナショナリズム」へと至るのである。そのためにはまず自分達から手本を示さねばならず、その「手本」こそが「解消」だったのである。
だがそれによって起ったのは、運動の後退であった。「解消」過程の不手際や直後の全協朝鮮人委員会の検挙、あるいは恐慌による失業率の増加など理由はいくつか挙げられるだろう。だが、その原因は金斗鎔の抱いた「インターナショナリズム」という理念そのものにも存在する。上述したように、「インターナショナリズム」の内実は、居住国の革命への参加である。だが「インターナショナリズム」に従って自らの「民族的」利益を捨て居住国の革命へと参加することは、居住国の多数派「民族」が自らのナショナリズムと「植民地問題」に無自覚である場合、ただの多数派民族の「民族的」利益への奉仕に転化してしまうのである。ここで最も純粋な「インターナショナリズム」が、最も熱心に「ナショナリズム」に奉仕するという逆説が生まれる。そして日本人共産主義者は、本章第一節で見たように十分すぎるほど「植民地問題」に対して無自覚であった。これは次章で触れる1930年代における「天皇」と「民族」の名の下での大量転向で見事に証明されていく。解放後、金斗鎔が執拗に主張した「天皇制打倒」という課題も、この「インターナショナリズム」の逆説に対する強い「反省」から来ているものであったのかもしれない。
「解消」以後、1945年8月15日に解放を迎えるまでの約15年間、その妻星野きみが回想しているように金斗鎔の生活は「逮捕、投獄の繰り返し」であった[89]。そしてこの時期の金斗鎔の活動は前章で検討した労働運動ではなく、主にプロレタリア芸術運動において展開される。この15年間を金斗鎔がいかに過ごしたかはあまり明らかになっていないが、解放前における「解消」と解放後『前衛』論文における「解消」論の間をつなぐこの間の15年間に対する検討は、朝鮮人運動における運解放前と解放後の連続性を考える上でも欠かせない。本章ではこのような問題意識から、第一節で1930年代における日本の共産主義運動を概観したのち、第二節では1930年から1945年の解放にいたる15年間の金斗鎔の生活を、第三節ではその運動を概観する。そして第四節と第五節では主として「社会主義リアリズム論争」への金斗鎔の関わり方の検討を通じてこの間の金斗鎔の思想を明らかにしたい。
本節では1930年代の日本における共産主義運動を概観するが、まず朝鮮共産党日本総局について簡単に触れておく。1920年代の日本における共産主義運動は、前に少し触れたとおり北星会、一月会などの思想団体を中心に展開されたが、1926年4月、この基盤のうえに朝鮮共産党日本部(責任秘書金正奎)が組織される。その後幹部の検挙で日本部は一旦壊滅するが1927年5月、日本部は再建された(責任秘書金洛鐘)。だがしかしこの再建日本部も1928年2月の幹部の検挙で壊滅する。直後の同年4月、検挙を逃れたメンバーで日本部を再建、名を朝鮮共産党日本総局(責任秘書韓林)と改め再出発するも、再び韓林ら幹部が6月上旬に逮捕され、金天海が責任秘書となり日本総局を再編成した。党の青年団体である高麗共産青年会も同年5月に再建され、金斗鎔はこれに参加、李北満、高景欽らと共に機関紙編集兼出版委員に任命されている。そして両団体とも1929年には幹部の検挙を受け、ほとんど壊滅してしまった。このような状況下で1931年10月、朝鮮共産党日本総局と高麗青年会日本部は『赤旗』に共同解体声明書を出し、日本共産党に解消した[90]。
日本共産党の1930年代は、1929年の三・一五、四・一六事件の検挙による党組織への打撃をいかに乗り越えるかという課題から始まる。しかし1930年7月14日、四・一六事件で壊滅した党を引き継いだ党中央部は、田中清玄の検挙によって壊滅、翌1931年1月、風間丈吉らによって党中央部が再建された。だが1932年秋から翌春にかけての大検挙、1933年の佐野学・鍋山貞親ら幹部の転向による大量転向、さらにいわゆるスパイM事件などでまたも大打撃を受け、1934年春をもって日本共産党は壊滅した。前章で触れた全協も同時期に壊滅している[91]。
多くの朝鮮人共産主義者は1930年代以降日本共産党の中で活動を展開することになる。この時期の朝鮮人共産党員の実態については、警保局資料に依拠した西川洋の研究「在日朝鮮人共産党員・同調者の実態」(『人文学報』50号)があるが、それによると「20歳代前半期の青年が大部分で、その学歴は高小ないし尋小程度。大部分は半失業状態であるが、所属団体からみると過半数が全協に所属し、党の機関要員とみられる部分も20%以上ある」というのが、1930年代の日本における朝鮮人共産党員のアウトラインである[92]。同研究は日本人共産主義者のそれと比較して、「年齢は同世代であるが、学歴や階層は朝鮮人の方がはるかに低い。特に高学歴層の比率の極端な低さと、ホワイトカラー層や自由業が全く見られないことは、日本人被起訴者と全く対照的である」とし、「33〜34年には朝鮮人党員の党活動における比重が高まっていたと考えられる」と指摘している[93]。
当時の朝鮮人労働者は、前章のパンフレットにおける金斗鎔の希望とは裏腹に、大恐慌の嵐の中で失業者は増大し、日雇労働者たる「自由労働者」の比率は日増しに高まっていた。全協は上述したように「工場労働者」を中心に朝鮮人を再組織しようと試みたため、在日労総から全協への解消の過程で組合員数を激減させてしまった[94]。全協加盟を済ませた朝鮮人労働者も、日本人労働者の差別に晒され、両者の民族的対立は上述したように「解消」することはなかった。当時の朝鮮人活動家は次のように語っている。[95]
日本の労働者は朝鮮の労働者をバカにしていました。同じ労働者なのに朝鮮人をバカにして差別していたのでした。(中略)労働組合は「朝鮮」とか「ヨボ」とかいって朝鮮人を差別するわけです。
だがしかしこのような現状に対して全協中央は「無為無策」であり、日本共産党も1932年に民族部設置(キャップ風間丈吉)を決定するも、実際には具体的方針は出されなかった[96]。
このような状況下で、日本共産党と朝鮮人の関係を象徴的に表す、尹基協射殺事件が発生する。全協土建本部員であった尹基協は1932年8月15日、プロヴァカートル(挑発者)の嫌疑をかけられ、当時日本共産党東京市委員会をしていた村上多喜雄に射殺された。そして全協中央はその後「挑発者尹基協除名について声明する」を発表した。だが、当時の日本共産党中央委員石田ьOや全協中央委員長高江州重正らの証言で、尹がスパイではなく、尹の射殺を支持した飯塚盈延こそがスパイであったことが明らかになっている。ジャーナリストの立花隆はこのことに関連して次のように書いている。[97]
殺したほうの村上多喜雄はいまにいたるも共産党の模範党員として党内で高く評価されている。共産党の模範党員列伝(山岸一章『不屈の青春』)には、村上のために一章がさかれており、次のようにある。
「それ(村上逮捕)を知ったとき、白川晴一同志(当時村上の直接の部下。戦後、東京都委員長)は、『ああ、惜しい同志を奪われてしまった』と、声をあげて泣いたそうです。紺野与次郎同志も、残念で、残念でたまらなかったそうです」
党内の名誉という観点からは、村上は救われているが、殺された尹のほうは、いまだに名誉回復がなされていない。
これは解放前後を通じた日本共産党と朝鮮人の関係を考える上できわめて象徴的な事件であるといえるだろう。
次に本節では金斗鎔の15年間の生活を、主として星野達雄『金斗鎔と星野きみ』や官憲資料に依拠しつつ、時系列にそって素描する。
1930年代前後において特記すべき事柄は、何と言っても星野きみとの結婚である。ただ前掲の権重輝回想には「(三高入学以前に:筆者注)結婚しており、妻は国民学校の教員だった」とあり、金斗鎔にとってこの結婚は二度目のもののようだ[98]。星野きみは1905年11月29日、父星野半次郎、母つねの間に生まれた。半次郎、つねともに受洗しているが、母つねはきみが6歳の年の1911年に胸を患って他界している。半次郎は独身時代にアメリカに渡り、通訳や貿易商として活発に働いていた。この父半次郎は1945年5月23日、渋谷で空襲の直撃に遭い死亡しているが、金斗鎔に対しては「『金さん、金さん』と斗鎔の言動を理解し、慕っていた」そうだ[99]。きみは仰高尋常小学校を終えたのち、女子聖学院普通部に入学、その後1920年には父の転勤により退学し神戸の私立松陰高等女学校に転入している[100]。女学校を卒業後は上京、フランス書院などの本屋に勤めて暮らしを立て、この時期に洗礼を受けている。その後1928年から5年間ほど東京中野の日本金剛砥石株式会社の社長秘書として働く[101]。
金斗鎔とはちょうどこの時期に出会っている。きみは金斗鎔がチューターを努め、ベーベルの『婦人論』などを6,7人で輪読している読書会に顔を出すようになる。そこで「金斗鎔の説明のうまさ、日本人にも優る彼の日本語の巧みさに、妹ちよと共にうっとりするので」あった[102]。『金斗鎔と星野きみ』に引用されているきみの手記には次のように書いている。[103]
父は自由主義、人道主義的な育て方をしたので、私は人間を見下したり卑しめたりすることを悪だと考え成長した。その後、学校を卒業し社会に出ていろいろの不合理をみせつけられ、考えるようになった。同じ若い仲間と読書会をつくり経済学や婦人論などを読んだ。その時のチューターであった人と結婚し、ささやかな実践活動に入った。その後夫は逮捕、投獄の繰り返しで私は働きながら救援会(当時のモップル)の仕事などを手伝った。戦争中を何もしなかった。
金斗鎔と星野きみが結婚した正確な年はわからない。だがきみは金斗鎔と交際をし始めた頃、金斗鎔との関係を警察に密告され、会社を辞めさせられている[104]。『思想月報』第2号において、1930年現在で金斗鎔の職業は「ナシ」となっているが、この時期の二人の生活は、きみの収入で賄われていたと予測させるだけに、これは大きな打撃だっただろう[105]。当時の二人の在所は、1930年の『社会運動の状況』では金斗鎔の住所は「渋谷町下渋谷恵比寿通二ノ一八、西谷方」と記されており、1934年8月27日の中野重治の日記には、「上落合二ノ八二二 幸静館」と記されている[106]。さらに大村益夫『愛する大陸よ―詩人金竜済研究』には次のように書かれている。[107]
詩作の間、彼(金龍済のこと:筆者)は生活のため牛乳配達を始める。この方が新聞配達より条件がよかった。彼の生活圏は東京の西北方にあった。西巣鴨の新聞配達、滝の川牧場の牛乳配達、上落合のプロレタリア作家同盟事務所というように、東京山の手線の巣鴨高田馬場から西側一帯、いわば都の西北が彼の生活圏であった。当時高田馬場に住んでいた金斗鎔(1902〜)とも接触があったのではないかと思われる。金斗鎔は日本の敗戦直後の時点まで日本にいて、その後38度線の北に帰っている。
そしてこの時期、星野きみの回想にもあるように、金斗鎔は「日本共産党の拡大強化に努め其目的を達成せしめんとしたる犯罪事実明瞭」であるとされ、1930年4月4日林K燮、李義錫ら同志10名と共に東京地方裁判所検事局に送局、6月15日起訴予審に付され[108]、1932年6月25日治安維持法違反で懲役二年の判決を受けて、初めて獄に入る事になる[109]。「日本共産党の拡大強化」とは、他ならぬ前章で検討した在日労総の全協への「解消」とその後の全協朝鮮人委員会での活動を指す。つまり金斗鎔は「解消」後まもなく検挙ということになる。前章の第五節で触れた1931年1月の全協関東自由労働組合常任執行委員会による「解消」過程に対する批判も、「この機関(全協朝鮮人委員会:筆者)で活動していた同志が支配階級に奪われて以後、再建のための努力が充分払われていない」という点を指摘している[110]。このはじめての検挙について、のちに金斗鎔は次のように回想している。[111]
私が第一回目に入獄したのは1930年である。ところがその当時私の知っていた朝鮮に対する知識とゆうものは、実に微々たるものだった。それはせいぜい一般原則的なものに過ぎず具体的なものとなると何も知っていなかった。だから予審廷で、朝鮮総督政治について語ってくれと、判事から云われても、それを具体的にゆうことが出来ないような有様だった。そこで私はこれはいかんとおもった。そして自分の無学を恥ぢた。その当時においては、私ばかりでなくすべてのわれわれの仲間はみなこうだった、そこで私は1934年出獄すると同時に、早速朝鮮に関する勉強をやり始めた。
金斗鎔はこうして1934年以後、従来の演劇・文学評論の他に、『生きた新聞』などに「農業朝鮮より工業朝鮮へ」(『生きた新聞』1934年12月号)、「朝鮮開国についての諸学説」(『生きた新聞』1935年2月号)といった評論や、「火田民・土幕民の話」(同)、「プロレタリアに春は来たが」(『生きた新聞』1935年5月号)、「農村に夏は来たれど」(『生きた新聞』1935年7月号)などのルポルタージュ風読み物を発表していくことになる。『朝鮮新聞』の1936年2月1日号には「近刊予告」として、「朝新パンフ金斗鎔著朝鮮読本」と題した記事が出ているが、金斗鎔自身が解放後に回想しているように、これは「1936年また二回目の弾圧をくらって、その際、私の書いた原稿は全部取り上げられてしまっ」たようだ[112]。この間の朝鮮の歴史や現状に関する取材や勉強の過程で、金斗鎔の「民族」に対する観点に少し変化がおきたのではないだろうか。朝鮮の文物についての研究は、のちにみるように解放後の『前衛』論文に少なからず影響を与えている。
1932年に初めて獄に繋がれた金斗鎔は、翌1933年2月に一旦釈放されている[113]。丁度同時期の1933年1月26日にきみも四谷署に拘引され、2月3日に釈放されている[114]。金斗鎔は、その後『プロレタリア文学』1933年4,5月合併号には小林多喜二への追悼文「同志よ安らかに眠れ!」を寄稿している(執筆は3月23日)。そして同年6月には控訴院で懲役2年の判決を受け[115]、コップ朝鮮協議会機関誌『ウリトンム』(編集長金斗鎔)8月1日号には「同志金斗鎔君を送る慰安会」という記事が掲載されている[116]。その後上述した回想にあるとおり、1934年4月に釈放[117]、6月2日には新宿白十字で「山田清三郎出版・入獄記念集会」に[118]、3月28日、金龍済出獄歓迎会に参加している[119]。1930年以後の執筆活動は、この間の1934年12月から1936年5月までの時期に集中している。その後金斗鎔は1936年7月10日に「朝鮮読本生きた新聞、文学評論社会運動通信社時局新聞ズドン社大衆哲学朝鮮芸術座、朝鮮新聞社等に関係し自ら共産主義宣伝の記事を執筆裏面活動を為」したとされ、治安維持法違反で再度検挙、1937年8月3日起訴され懲役1年8ヵ月の刑を受け[120]、その後控訴するも1939年1月10日、同判決を受ける[121]。その後釈放されるが、米英両国に対する宣戦布告の翌日の1941年12月9日早朝に再び検挙されることになる[122]。
その後、解放までの間の金斗鎔の生活を知ることの出来る資料は多く残されていないが、『金斗鎔と星野きみ』は1940年代の金斗鎔の活動について次のように記している。[123]
昭和十五年二月、「創氏改名」の法令が実施されたが、金は気宇壮大な宇宙を念頭に描き「宇本健」と改名。のち「星野健」を名乗るようにしていた[124]。彼は隣組の人々の面倒をそれはよく見る。近所の人達は、また、「先生、先生」と斗鎔の人柄を慕い、和やかな雰囲気が横溢していた。
彼は本当に人のいい、善良そのものの好男子であった。
そして「そのころ、斗鎔こと『星野健』はきみと共に下町で、注射器製造を始め」「『星野アンプール工場』に苦学生三名を雇い、精を出したので、時局柄かなりの利益を上げた」そうだ[125]。1943年9月7日、金斗鎔の友人の弟が神戸の旅館の娘に産ませた赤子(元樹)を産院から貰い受け、養子にしている[126]。そしてこの時の様子を星野達雄は次のように記している。[127]
斗鎔はよく面倒を見、粉ミルクや砂糖、カンパンなど工面してくる。元樹は次第に可愛さを増し、ようやく一年の誕生日を迎えた頃、何と、実父がやって来て、女房が育てるからと朝鮮へ連れて帰った。が、その子は肺炎で間もなく死んだと言う。
以上見たように、金斗鎔の1930年以後15年間の歩みは検挙と釈放の連続である。そして注120でも触れたが、いくつかの研究や官憲資料は1936年の段階で金斗鎔が「転向」をしたとしている。もしそれが事実であるならば、その詳細についての検討は必要不可欠であるが、上述したとおり筆者自身の調査不足によって未だ「転向」を裏付ける一次資料を入手していない。金斗鎔の解放後の主張と政治的立場を考える上でも非常に重要な点であるだけに、その点に関しては改めて別稿で論じたいと思う。
在日労総の「解消」論議以降、上述したように金斗鎔は労働運動とは直接に関係を持たず、プロレタリア文化運動で活動をしていった。本節では1930年代の朝鮮人の日本に於けるプロレタリア文化について金斗鎔の関わりと一緒に概観する。
金斗鎔がカップ東京支部での活動を通じて朝鮮本国のプロレタリア文化運動とも関係を持っていたことは上述したとおりだが、1929年10月1日にはこのカップ東京支部は解体、「無産者社」に再編成される。これは第三章第六節で見たとおり、京城の同盟員と東京の同盟員間での対立がその背景にある。だがその無産者社も1931年8月、無産者社は一斉検挙を受け、その後を引き継ぎ検挙を逃れた金致延らが1932年1月1日「労働階級社」という出版社を設立した。
日本プロレタリア文化運動も、1930年10月、プロフィンテルン第5回大会宣伝煽動部協議会による「プロレタリア文化・教育組織の役割と任務」に関するテーゼが発表を受け、全日本無産者芸術団体協議会(ナップ=NAPF、以下略称を用いる)に文化・芸術運動の方向転換、再組織問題を提起し、同年11月日本プロレタリア文化連盟(コップ=COPF、以下略称を用いる)を結成した。さらにこれと時を同じくして金斗鎔、李北満らの旧無産者社、旧朝鮮プロレタリア芸術同盟東京支部、旧朝鮮プロレタリア演劇研究会の一部、在東京朝鮮人学生たちは「正当なるマルクス主義芸術理論を把握し技術を修練する研究団体としてコップおよびカップを積極的に援助支持しこれが拡大強化のために闘争する」という目的のもと「同志社」を結成した。
そしてこの同志社にも「解消」の論議が持ち上がる。コップ内では当時、同志社解消論と、同志社のカップ東京支部への転化を主張する意見とが対立し、両者の関係は複雑化していた。そして議論の結果、コップは同志社の解体を決議、それを受けて1932年1月、カップにおいて中央委員らが協議した結果、同志社は解体してコップに加入することが理論上正当であるとされた。そして同年2月コップ中央協議会書記局は同志社を解体し、コップ内に朝鮮協議会を置くことを決定した[128]。上述した労働階級社も同時期に解体している。
これをうけて同志社が出した解体宣言には次のようにある。[129]
勿論、新しい国際文化は、いくつかの支配民族の文化を他の民族に強制することによって生産されるのではなく、現存する個々の民族文化を自由に発達させる過程において生産されるものと見なければならない。レーニンが「支配的民族の文化を被圧迫民族に強制することに反対することは、全面的に正当である」と、言ったことは正しい。宗主国(たとえば、日本)民族は支配階級に属し、植民地民族(たとえば、朝鮮民族)は被圧迫階級と言えないと同様、一つの民族の多数の階級によって構成される文化を単純に民族文化と理解してはいけない。同一民族においても、その階級関係によってプロレタリア民族文化、民族改良主義文化などになどに区別することによってはじめて、民族文化に対する正当な見解に到達することができる。(傍点筆者)
これは直接には金斗鎔の起草によるものではないが、ここに当時「解消」を主導した朝鮮人共産主義者の「民族文化」観が端的に表現されているといえるだろう。
金斗鎔はコップ朝鮮協議会機関誌附録の『ウリトンム』の編集長として1932年から1933年にかけて新聞を発行している[130]。さらにコップ内のプロレタリア科学研究所で李北満とともに植民地班を組織し、「極東における戦争の意義」「朝鮮の農業問題」などをテーマに研究会を開催している[131]。1932年度版の『特高月報』に日本プロレタリア作家同盟東京支部城東地区(サークル)組織図第十一号第二貧乏書店のオルグとして金斗鎔の名前が記載されている[132]。
その後上述したように金斗鎔は1933年に入獄する。1934年釈放された金斗鎔は金宝鉉らと共に同年5月「朝鮮芸術座」という朝鮮語劇団を結成する。当時は他に東京新演劇研究会、学生芸術座という二つの劇団があったが、1934年から35年にかけて運動に対する弾圧が強まる中で、演技面・財政面ともに三分している状況がマイナスであると判断され、東京新演劇研究会の提案により1936年1月三劇団は合同し新「朝鮮芸術座」として再出発する事になった。金斗鎔はその委員長に選任されている[133]。この間金斗鎔は自らの演出で柳致真原作の『牛』などを上映し好評を得たようだ[134]。だがその後金斗鎔ら中心メンバーの検挙に遭い、この劇団を壊滅している。
このようにこの間の金斗鎔の活動は主として演劇や批評を通じてなされているが、それも1930年代の後半にはほぼ壊滅してしまう。それ以降金斗鎔がどのような活動をしていたかは判然としない。
「解消」後、解放を迎えるまでの間の金斗鎔の執筆活動は、1934年12月から1936年5月までの間に集中している。1930年以前とは異なり、上述したような歴史評論や、ルポルタージュのようなものも多数執筆しているが、「解消」と「解放」の間の金斗鎔の政治的スタンスを考える上で重要なのは、『文学評論』や『生きた新聞』誌上で行なわれた「社会主義リアリズム」を巡る論争である。本節ではこの時期に提起された「社会主義リアリズム論争」についてその背景とともに概観する。
そもそも「社会主義リアリズム」とは何か。それは1920年代後半から展開されてきた文学における「ボルシェビキ化」に対する反省として、ラップの主張した「唯物弁証法的創作方法」に代わる創作方法として出されたスローガンである。今日からみるとこの二つの言葉の間にどのような差異があるのかは判然としない。その差異を理解するためには1930年代のソビエトにおける文学運動の状況を知る必要がある。
当時、共産主義運動の中枢としてソ連はその権威を誇っていたわけだが、その権威は当然のことながら文化問題の領域にまで及んでいた。それゆえに、各国のプロレタリア文化運動の担い手たちは、ソ連における文化問題の取り扱われ方に大きな影響を受けていた。その中で、実際に作家や批評家たちが、1920年代から1930年代初頭にかけていわば「お手本」としてきた団体が、ラップ(プロレタリア作家同盟)であった。しかし1932年4月23日、ラップはその「極左偏向」を批判され解散、新たなる文学団体へと改組される事態にまで発展した。この時批判されたものが、ラップの「唯物弁証法的創作方法」であり、その後新たに提唱されるのが「社会主義リアリズム」論なのである[135]。
この転換は日本にもすぐさま伝わった。5月には林房雄、9月・10月には貴司山治・長谷川一郎らが「唯物弁証法的創作方法」に対して公然と離反を宣言した[136]。『プロレタリア文学』誌上でも遅れて1933年10月25日の号外で「吾が作家同盟当面の諸問題について大衆的討論を組織せよ」と題し、この問題を扱った[137]。だがここでは「社会主義リアリズム」という創作方法がいかなる意味を持ち、金斗鎔が創作方法論としての「社会主義リアリズム論争」にどのように関わったかは検討しない。むしろ研究者の飛鳥井雅道が指摘するように、少なくともソ連において「社会主義リアリズム」というスローガンは、「きわめてプラグマチックに発案された、政策的なものだった」のである以上、金斗鎔がこの論争にどう介入し、「社会主義リアリズム」という用語をいかに用いたかという点をその政治的背景を踏まえた上で検討することが必要である[138]。次節では以上のような観点から金斗鎔が「社会主義リアリズム論争」にどのように参加したかについて検討する。
金斗鎔がこの論争に参加するのは上述したように1935年頃である。『文学評論』の特集にその名を残しているように、この時期は「社会主義リアリズムの再検討」期である。1932年から1933年にかけて「社会主義リアリズム」が初めて日本に「輸入」されてきた時期に金斗鎔がどのような立場に立っていたかは不明である。本節ではよって1934〜1935年の「再検討」期に限定して金斗鎔の立場を追う。
では金斗鎔の論争における立場はどういったものだったのだろうか。一言でそれを要約するならば、「革命的リアリズム」である[139]。金斗鎔は森山啓との論争の過程で次のように書いている。[140]
社会主義的リアリズムと云うのは、向うの国では、「われわれのリアリズムは新しい。社会主義的現実を表現し確証する故に社会主義的なのである」と、ユーヂン、ファジエーフの連署の論文「社会主義的リアリズムはソヴェート文学芸術批評の基本的な方法である」の中にチャンと云っているのだ。こう云う意味では日本に社会主義的リアリズムと云うものはあり得ないということは極めて明かなことではないか?だが子供の大人になる成長の一過程であるように、日本のプロレタリア文学も、何時かは、ソヴェートのような、社会主義的リアリズムの文学になるであろうと云う一般的な見透しの下では、これにもやはり社会主義的リアリズムとして掲げるべきことは今更云うまでもない。ところがユーヂンの前の言葉を借りるならば、日本の現実は、プロレタリアートの立場からみるとき×××[革命的]現実だ。それを表現しそれを確証する故にその文学のリアリズムは×××[革命的]なのである」と云う理解は根本的に正しいのだ。而もその決定的な内容は、労働者農民の反資本主義的、反封建主義であるのだ。
「社会主義的」であることとは、「社会主義的現実を表現し確証する」ことである以上、その「社会主義的現実」の存在しない日本に「社会主義的リアリズム」はありえないというわけだ。そして資本主義的現実が存在する日本においては「資本主義的リアリズム」と呼ばれるべきではないのかという森山啓の反論に対しては、「全くそのとおりである」としながらも、しかし「資本主義国は階級社会であるから、ブルジョア文学についてはそう云える。だが、プロレタリア文学は、反資本主義的文学である」と反駁する[141]。
注意しなければならないのは、金斗鎔は「社会主義的リアリズム」が日本で全く無用であるといっているわけではないことである。金斗鎔は森山啓が「このスローガン(社会主義的リアリズム:筆者)は、ソヴェートに於いては実践的なスローガンであり、日本に於いては『一般的な見透しのスローガンであること』換言すればこの見透しが×××〔革命的〕リアリズムの中に含まれていることを完全に忘れている」としている[142]。さらに同論文で金斗鎔は森山啓を訪問し「その意見を充分に聞き出来るだけ末梢的言葉尻の論争を避けるべきこと、何よりも社会主義的リアリズムは日本では×××〔革命的〕リアリズムとして捉えられて然るべき理由」を話したとしている[143]。つまり金斗鎔は日本という「資本主義的」かつ「封建主義的現実」の存在する状況でのリアリズムは「革命的」でしかありえないということを主張しているのである。
ではその「革命的」であるとはどういうことか。中野重治に対する反論として書かれた次の文章に、金斗鎔の言わんとすることを見て取ることができる。[144]
だが中野君の如く社会主義リアリズムの中に於いて、単に、創作方法のみを抜き出し、これと結びついた任務、従って運動のスローガンとしての存在を否定し、遂に×××〔革命的〕リアリズムを打倒しろと主張するならば、それは、完全に政治から文学を切り離すことになる。それは明かに右翼的偏向と云わねばならない。
ここで明確に書かれているように、「革命的リアリズム」とは即ち、「政治」と「文学」の結合にある。そしてつまり「結合」とは「政治=革命」への「文学」の従属を意味するのである。さらに、朝鮮プロレタリア文学運動における金斗鎔の立場を見るとよりはっきりと「革命的リアリズム」の意味を理解することができる。当時、朝鮮プロレタリア文学界においても同様の「社会主義リアリズム」をめぐる創作方法論議が展開されていたのだが、そこでの金斗鎔の立場を、研究者の金学烈は「社会主義ソ連にあっては社会主義的リアリズムが妥当であるが、社会主義国ではない国ではその特殊性により弁証法的リアリズムを採用するべきであると固執しながらも、基本的には社会主義的リアリズムと唯物弁証法的リアリズムに根本的な差異はないと主張した」と要約している[145]。論理の展開は日本の場合と同様であるが、注目すべきは社会主義国ではない朝鮮では「弁証法的リアリズム」を採用するべきであると主張している点である。前節で述べたように、ソ連において、ラップの「ボルシェビキ化」と「極左偏向」への批判は、「唯物弁証法的創作方法」への批判として現れた。ここで「弁証法的リアリズム」という言葉を利用することは、ソ連において批判された「ボルシェビキ化」を擁護することを意味する。
前章までで検討したように、朝鮮プロレタリア芸術運動における「文学」の「政治」への従属や、在日朝鮮労働運動における労働組織の「ボルシェビキ化」を推し進めてきたのは、他ならぬ金斗鎔である。そのような運動方針がソ連国内で批判された後も、金斗鎔は「社会主義的現実」の存在しない朝鮮や日本では未だ有効であり、そのための文学論こそが「革命的リアリズム」であると主張したのだ。このように「ボルシェビキ化」が反省され、そのような流れの宥和として「社会主義リアリズム」という言葉が登場したとき、金斗鎔が明確にこれの全的な「輸入」を拒否した事は注目に値する。少なくともこれは1935年の時点で金斗鎔が1930年前後の自らの行動とそれを支えた理念を未だ否定していない事を示すものであるといえるだろう。「解消」と「解消」の間、金斗鎔はその理念を大きく修正することはなく、これが「解放」後の在日朝鮮人運動を大きく規定するのである。
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し連合国に敗北、朝鮮は36年にわたる日本の植民地統治から解放された。日本における朝鮮人運動もまた、解放朝鮮の建設に向けて再び息を吹き返すことになる。本章では解放直後の朝鮮人運動と日本共産党の再建について概観する。まず第一節では日本にいた朝鮮人たちの祖国への帰還を、第二節では解放直後の朝連結成とその周辺を概観し、第三節では金斗鎔が解放直後深く関わった政治犯釈放運動を詳説する。そして第四節では政治犯釈放をうけての日本共産党再建の過程を概観する。
金斗鎔は解放後1947年に帰国するまで主として朝連と日本共産党を舞台として活動を展開することになる。金斗鎔の解放当初の課題は後述するように政治犯釈放運動なのだが、その前に本節では日本にいた朝鮮人にとって、そして各朝鮮人組織にとって愁眉の課題であった祖国朝鮮への「帰還事業」について概略する[146]。
当時「在日」していた朝鮮人の数は記録によると220万6541人、その他漏れているひとも含めて約240万人であったとされている。そして当時結成された朝鮮人団体の多くは同胞の帰国を急務とし、その目的の一つに掲げていた。記録によると全帰国者数は102万3338人となっているが、実数は約120万人といわれている。実数と記録との間に開きがある理由は、政府や占領軍の統制をうけず「自前」で帰国した人の数がそこに含まれていないからである。この数字を時期別に分けると1945年8月15日から11月末が最も多く約80万人、1945年12月から1946年3月末までに14万0438人、1946年4月から12月末までには8万2900人が帰国しており、圧倒的多数が1945年末までに帰っている事がわかる[147]。
朝鮮人の帰還の行方を左右したのは、当然のことながら占領軍たるアメリカの対在日朝鮮人政策である。アメリカの対在日朝鮮人政策は1944年中ごろから検討され始め、様々な曲折を経ながら1945年11月1日に確定する。そして同日出されたSCAPIN(連合国総司令官覚書)−224「非日本人の日本よりの引き上げに関する覚書」は帰国優先順位を地域と職業の二種で規定している。すなわち、地域別帰国順位は最初に門司・下関・博多地区、次に大阪・神戸地区、そしてその他という順番となっており、職業別帰国順位は第一に復員軍人、次に被強制連行労働者、そしてその他となっている[148]。さらに後の覚書では帰国に際して所持してもよい金額を1000円以内、荷物を250ポンドという制限を課し、帰国費用はすべて日本政府が負担することを定めた。そして1946年2月17日、SCAPIN−746「朝鮮人、中国人、琉球人および台湾人の登録に関する覚書」を発表、日本政府に対して帰国希望者を登録させることを指示した。この指示に応じて、1946年3月18日までに64万7006人が登録に応じ、うち79%の51万4060人が帰国を希望した[149]。
対して日本政府の帰国政策は1945年9月1日「朝鮮人集団移入労務者ノ緊急措置ニ関スル件」で確定する。そこでは「集団移入労務者」の優先的帰国が定められており、職業別優先順位に関しては「土建労務者」を一位とし、「石炭山労務者」を最後にするとある。そして石炭鉱業などの「熟練労務者ニシテ在留希望者」には在留許可を与えるとしている。さらに帰国終了まで不穏な動きや動揺がないよう指導すること、帰国までは現在の事業所で継続して雇用すること、手の空いている朝鮮人労働者は地方庁などでの雇用を許すこと、そして「一般既住朝鮮人」の帰国に関しては別途指示することなどが定められている[150]。研究者の西成田豊はこれを、敗戦に伴う軍関係土木事業の不要と、逆に必要となる炭鉱での労働者を在外日本人の引き上げが終了するまで引き止めておこうとする政府の意図が見て取れると分析している[151]。
このようにして帰還事業が進められたのだが、実際にはGHQの政策決定が11月、日本政府のそれが9月、実際に日本政府が帰国の実施しはじめたのは11月以降であるにも関わらず、上述した帰国者数の推移では8月15日から11月のあいだがもっとも帰国者数が多い。この数字が物語っているように、朝鮮への帰還は多くの場合正規のルートを通じてではなく、非正規のルートを通じて行なわれた。研究者の朴慶植は「在日同胞は大小あらゆる漁船を借りたり、あるいは購入して、山口県、福岡県の各港から生命の危険までおかしながら帰国した」と記している[152]。各港の設備なども不十分であったらしく、その点について当時の記録は「終戦後朝鮮へ帰鮮する為門司へ集合した同胞は約三万人にして之等の人達は連絡船の都合が出来ぬ為、駅の構内、土地の民家の軒下等へ野宿する事となり、病者続出、遂に死亡者を多数出す様になり」と伝えている[153]。
以上のような紆余曲折を経て約120万人の朝鮮人が祖国朝鮮へ帰って行った。帰国者のうちわけについては、解放前に徴用や強制連行などで日本にきた人々は26万5382人ほとんどが即時帰国を希望し、その他の理由で日本に渡ってきた人々(「一般既住」朝鮮人)で194万1159人中半数が帰国を、もう半数が定住を希望したという。西成田豊は「一般既住」朝鮮人が解放直後に帰国を思いとどまった理由として資料や証言をもとに、朝鮮が本当に独立できるのか、アメリカとソ連に占領されるのではないかという不安と不信があること、日本による同化政策による「臣民」意識の呪縛から解放されていないこと、日本に長年住んできたことによって生活基盤が確立してしまっていること、持参金や荷物の制限といった制約や、帰ろうにも旅費がないこと、そして正当な賃金の支払いを求め経営側と交渉するためなどの五つの理由を挙げている[154]。のちには南朝鮮の政情不安やインフレといった要素が加えられるのではないかと思われる。
このようにして日本に残った人々が解放後の「在日」朝鮮人運動の主体となるのである。
解放直後、各地で朝鮮人団体が結成されたが、このような諸団体を統一するため1945年9月10日には在日本朝鮮人連盟中央結成準備委員会と同中央結成準備常務委員会が結成された(委員長趙得聖)。この委員会の役員には元「満州国」判事、大政翼賛会調査部主事などを歴任したの親日派権逸なども名を連ねている。ここに金斗鎔の名はない。そして幾度の討論の末、1945年10月15日から16日にかけて在日本朝鮮人連盟の結成大会がもたれた。
大会の1日目は日比谷公会堂に約5000名の代議員が参加し、趙得聖を臨時議長とし、権逸が経過報告を行なった。さらに金正洪の動議で「在日本朝鮮人連盟を結成すること」「在日朝鮮民族三百万は三千万民族の総意によって樹立される祖国の民主政府を支持し、建国の偉業につくすこと」などが満場一致で可決された。そして準備委員会作成の大会宣言、綱領、規約を採択し、閉会したあと、約5000名の大衆は司法省に向かいいまだ獄中にいた朴烈らの釈放陳情デモを行い釈放の約束を取り付けた。そしてこの日の晩、金斗鎔ら左派は朝連からの親日派排除を検討するための「板橋会議」をもった。「板橋会議」について坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』は次のように記している。[155]
第1日十月十五日の会議の経過をみた左派陣営では、同日夜板橋の李秉哲宅で緊急陰謀会議をもち、第二日のクーデター断行の謀略をめぐらした。この会議に参加したものは、金斗鎔、朴恩哲、曹喜俊、金正洪、韓徳洙、金民化、金薫、朴成光、朴興奎、朴斉範、李秉哲、呉宇泳など約二十名であった。
……またこの謀略会議には、金天海と宋性徹は参加しなかったが、金斗鎔と朴恩哲は最初から最後まで臨席し、その討議と決定を指導していた。
こうして両国公会堂で開かれた二日目の大会では、開会に先立ち上記の左派メンバーによってかつての親日団体幹部を追及する新聞やビラが配られ、また権逸や康慶玉、李能相らは別室に連行、権は殴打され大会に参加させられず、会場の大衆はその事実を知らないまま議事が進行された。このときの模様を権逸は次のように回想している。[156]
ところが、両国公会堂における次の日になると、会は突然、一心会一派の声討大会に早変わりし、同志の多くが悉く強制監禁されるうちに、私は屋上四階において瀕死のはげしいリンチに遭った。これがその後、全国的に拡大されていった左翼側の組織的テロ行為の発射信号ともなった。暴虐な彼等は、行動隊長を先頭に手段をえらぶことなく暴行障害を加え、死をもって脅迫した。その上、さらに私並びに幹部陣に列していた同志康、李、朱らの除名処分を大会の名において決議し、反共幹部の追放を強行したのである。
このような対立はすでに結成準備過程で孕まれていた。特に親日派幹部と金斗鎔ら左派の間には、同胞達の寄付金を日本共産党再建や政治犯釈放運動に利用したことなどをめぐった対立が生じていた。さらに理論的な点では日本共産党との関係や天皇制問題、日本に残留する朝鮮人対策問題、そして祖国統一の方法と時期などをめぐって対立が深まっていた[157]。結果は、上述した経緯により左派が朝連内でのヘゲモニーを握り、排除された親日派幹部らは朝鮮建国促進青年同盟や新朝鮮建設同盟へと流れていくことになる。その後大会は活動方針として「帰国同胞の援助、生活権の確保、祖国の中央政府樹立促進」などを決議し、顧問の金天海が「朝鮮の完全独立と統一の達成へ、日本では天皇制を打倒して民主政府の樹立を、そして親日反逆分子は厳重に処断し、われわれの住みよい日本にしよう」と演説した。同日夜には第一回中央委員会が開かれ、ここで金斗鎔は朝連の情報部長に選任されている[158]。
「左派がヘゲモニーを握った」と書いたが、単純にこれを朝連の「左傾化」と捉えることは適切ではない。少なくとも解放直後における政治犯に対する尊敬の念は共産主義者でなくとも非常に強いものであった。ましてや朝鮮人にとって「親日派」の処罰は過去の植民地支配の清算を伴う極めて重要な課題だった。だからこそ朝連結成大会での「親日派排除」ののちも朝連は圧倒的多数を有する大衆組織として存続することができたのである。しかも多くの人々にとってこのような措置が「左傾化」と捉えられていたかも疑問である。少なくとも朝連自体は自らを大衆団体として規定し、「朝連は共産主義である云々」との主張を「悪宣伝」と認識している[159]。どちらかと言えば現在の言葉で言う「脱植民地化」といった方が適切であろうと思う。金斗鎔自身もまた協和会などの親日団体で働いていた幹部に対して「もちろん過去においてわが民族を害したこれらのものたりとも、今日真面目な気持ちになってわが祖国のために民主主義朝鮮建設のために真に心から協力するものはわれわれはこれをよき友として迎えるであろうし、また迎えている」と言及している[160]。
ともあれ前節でも述べた通り、当時日本全国で朝鮮人・中国人の帰国を求める争議が多発しており、朝連もその対策に追われえていた。金斗鎔もまた方々に飛び回り、上記のように指導をしていたようだ。10月17日の中央委員会のおり、朝連は南朝鮮へ特派員を送る事を決定し、当初は金斗鎔もそのメンバーに入っていたのだが「ちょうど北海道の朝鮮人炭鉱労働者のストライキがあってその指導に残った」らしい[161]。北海道では解放直後から札幌刑務所を釈放された安先浩が「朝鮮民族統一同盟」を結成し、とくに炭鉱での争議や交渉などの活動を開始していた。1945年の10月から11月にかけては丁度この「朝鮮民族統一同盟」が活動を開始した時期にあたっているが、金斗鎔が直接に関与した記録は残っていない[162]。記録が残っているのは結成大会直後の、常磐炭鉱での争議であり、金斗鎔は日本共産党の今村秀雄とともにストライキ闘争に向かっている。常磐炭鉱株式会社の労務係長は朝連に訪ねたときのことを次のように語っている。[163]
応待に出てきて下さったのが金斗鎔さんでしたが、あとで調べてみますと、この人は何とれっきとした日本共産党の中央委員(ママ)なんです。ところが、私の学校時代、大学時代というのは馬車馬でして、何もかもただ戦争ということで教育受けたわけでして、労務屋をやっても日本共産党の発展史などというのは勉強したこともないし、講義を受けたこともない。
ところが、金斗鎔さんというのはまことにおとなしいジェントルマンでございまして、「いやあ、木山さん、あなたの苦労するのは分からなくはないが、何しろ大勢いるから…」というようなことで、えらく同情して、「俺のところに泊れ」と言うわけですよ。何しろ旅館のない時代ですから、そう言われたんですが、さすがにそこには泊らないで、親類のうちに泊りました。
そのときの話では、何月何日に「我々が行ってみんなを集めて、こういう事情で帰れないんだ。朝鮮人連盟も帰れるように努力するから、今しばらく静かに待てという話をするから、集めてくれ」と言うんです。
そこで喜び勇んで帰ってきて、集めました。今私どもが事務所にしているところにです。入りきれなくて、外まで窓から首を出したりしている人もいたから、三千人くらい集まったんじゃないでしょうか、上下(うえした)でですね。そこへコーリアン・アソシエーション(朝連のこと:筆者注)がいちいち壇上を囲んで、その真中に私が会社側代表でたった一人です。中央のテーブルのまわりには椅子があって(コーリアン・アソシエーションの)中央や県から来た者が座っていました。そして、一番先に出てきたのがコーリアン・アソシエーションの司会ですから、いきなり「昨日小菅刑務所を出てきた日本共産党の今村秀雄であります」というあいさつであります。そんな者頼んだ覚えはないし、そして、「永い間あなたたちを奴隷扱いにした、その手先がここにおる」というようなことで、「わあー」と言って拍手しやがるんです。そのときも、「俺はこれで一巻の終りだ」と思いました。
この間の経緯などは、朝連内で左派がヘゲモニーを握った過程と合わせてみると、当時の朝連の仕事のやり方が垣間見えて興味深い。
だがしかし朝鮮人の全てが帰還を望んだわけではなかったことは上述した通りである。いきおい朝連も日本で今後も暮らしていく朝鮮人の生活擁護や教育のための活動も展開していくことになる。この間の活動模様について当時の活動家は次のようにかたっている。[164]
教育の問題といっても最初のころは子どもより大人の問題だった。成人学校である。男はすこしは文字を知っていたが、ほとんどが文盲だった。朝鮮語は禁じられていたのだから。女や若いものはまるっきり知らなかった。集まって朝鮮語の文字を教えた。日本語もやった。新聞や決算報告や活動報告を読むのがそのまま学習だった。字を教え、思想を教えた。同胞はみな差別に苦しんだ体験から民族意識はだれもがもっていた。しかし共産主義については知らな。また朝鮮人は今後世界の情勢の中でどう生きてゆくべきか等話しあった。日常のあいさつの仕方も教えた。集会には男女はもちろん青年から老人まで喜んで集まった。女性同盟や青年同盟ができたのはそのあとである。何といっても国語の講習会にいちばん人気があった。解放新聞をよんだり、読書会もやった。歌も教えた。解放のうた、抗争のうた、赤旗のうた、インタナショナルのうた。中でも解放のうたがよくうたわれた。
このように朝連は文教活動を中心とした様々な生活上の権利獲得闘争を展開したわけだが、金斗鎔はこの間朝連機関誌『大衆新聞』『ウリシンムン』『解放新聞』の主筆として活動した。新聞での執筆内容の検討については次章に譲るが、解放後は文化活動にはあまり参加できなかったらしく、1949年版の『在日朝鮮文化年鑑』中の「在日文化界各分野の展開」の項には「金斗鎔氏は朝連組織、新聞などの仕事に専念し、演劇を離れ」ることになったと記されている[165]。
解放直後の金斗鎔にとって愁眉の課題となっていたのは政治犯の釈放である。本節では解放から10月10日の政治犯釈放までを金斗鎔を軸にして検討する。1945年8月15日の時点で、府中予防拘禁所内には徳田球一、志賀義雄、金天海ら共産党員11名のほか、三田村四郎、朝鮮独立運動家・李康勲、天理本道の団野徳一、桑原幸作、三理三腹元の山本栄三郎などがおり、他に網走刑務所に宮本顕治など、宮城刑務所に袴田里見、竹中恒三郎、西川彦義など、豊玉拘置所には中西功、神山茂夫、三木清、キセキ・ムネオ、イブチ・ケイタロウなどが収監されていて、全国に約3000名の政治犯がいた[166]。日本政府はポツダム宣言の受諾に伴い、武装解除、復員、引揚、民間人の銃刀剣類の所持の禁止と米軍側への引渡し指示、戦犯逮捕などを行い、さらに占領軍の進駐に備えて様々な受け入れ対策を講じた。GHQは1945年11月1日の「降伏後ニ於ケル米国ノ初期対日方針」の中で「政治的理由ニ因リ日本国当局ニ依リ不法ニ監禁セラ居ル者ハ釈放セラルベシ」と言明しておきながらも、日本軍・右翼の武装解除と進駐のための諸機関の整備に関心を割かれていたため、実際には政治犯の釈放をすぐには実行できなかった。しかし9月26日の哲学者三木清の獄死を受けて、アメリカ本国での進歩的新聞、雑誌などの言論界からのマッカーサー元帥に対する批判が高まった。GHQはこれを受けて政治犯釈放、治安立法廃止、特高などの解体などの処置を講じることになった[167]。
このような状況下で金斗鎔は活動を開始する。9月初旬、金斗鎔は椎野悦郎を通じて金天海からの連絡をうけとる。この獄中の金天海からの連絡によって、金斗鎔を中心とした政治犯釈放運動は本格的に活動を開始したのであろう。竹前栄治『占領戦後史』には椎野と金斗鎔との再会の場面が以下のように書かれている。[168]
新宿駅のまわりには朝鮮人グループによるビラがいたるところに貼られていたので、それを頼りに、新宿の学生会館か淀橋警察の二階にあった朝鮮人政治犯釈放委員会に行き、金斗鎔に会いたいと来意を告げた。彼らはこころよく高田馬場近くにあった金斗鎔たちの住家を教えてくれた。椎野は急いでそこを訪ね感激の対面をしたという。
当時獄中の政治犯の釈放を求める団体には二つの流れがあり、一つは朝鮮人を中心にしたものでもう一つは服部麦生、高橋勝之、藤原春雄らを中心にした政治犯釈放委員会である。両者は解放運動犠牲者救援会を作り事務所を三菱ビル二一号館の梨木事務所においていた[169]。梨木事務所の梨木作次郎氏は当時の金斗鎔について以下のように語っている。[170]
梨木 ……竹前さんがあげている朝鮮人(『占領戦後史』中の記述を指す:筆者注)のうち、金斗鎔さんは1945年9月下旬くらいに栗林敏夫弁護士の名刺をもって私の事務所を訪ねて来られ、内野竹千代さんや藤原春雄さんを交えて打ち合わせを行った記憶があります。金天海さんと金斗鎔さんは、日本共産党の朝鮮民族部(ママ)の責任者で、戦後すぐの時期に在日朝鮮人の運動をリードされた方ですよ。金斗鎔さんは私が会った最初の朝鮮人ですが、背が高くがっちりした体躯のひとでしたよ。
――どのような用件だったのですか?
梨木 全国の刑務所に囚われている在日朝鮮人の消息を知りたいが、どうすれば確認できるのか調査に協力願いたい、という用件だったと思いますね。金斗鎔さんからは10月10日のあとも朝鮮人出獄者の補償その他のことについても相談を受けた記憶があります。
とにかく、政治犯の釈放に向けた取り組みが朝鮮人運動家のほうが私らより早かったことは確かです。またこの朝鮮人政治犯の釈放運動に当初から栗林敏夫弁護士が一枚かんでいて協力していたのです。けれども間もなく両者の運動が合流した事はこの『占領戦後史』が指摘するとおりです。
私は先ほど竹前さんの『占領戦後史』の一節を読み、「朝鮮人政治犯釈放委員会」が結成されていたと断定する事に疑問を呈しました。それは朝鮮人政治犯の釈放運動が無かったと言っているのでは決してないのです。何々委員会などを名乗っていても、せいぜい15、6人ぐらいのグループ的な組織で、何万何千人を結集したというような団体ではなかったと思います。このことは日本人の団体にもあてはまります。
こうして、9月24日に金斗鎔は・喜俊、金正洪、宋性徹らと共に「政治犯釈放運動促進連盟」を結成、翌25日には神山茂夫らと連合国総司令部と日本法務部を訪れ、政治・思想犯の釈放を要求するとともに、檄文ビラを配布した[171]。このような動きの中で10月10日には府中の予防拘禁所から徳田球一、志賀義雄、金天海ら16名の政治犯が釈放された。中西伊之助は政治犯の釈放を歓迎しにきた「数百人の出迎人は、殆んど朝鮮人聯盟の諸君だった。その中にまざっていた日本人は僅にニ三十人にすぎない心細さであった」と伝えている[172]。金斗鎔は出獄した同志たちを前に歓迎の辞を読み、徳田球一、志賀義雄、金天海がそれに答えて演説をした。その時の状況を被釈放者の一人である松本一三は次のように記している。[173]
鉄門がひらく。われわれは大きなアカハタを先頭にして人垣のあいだを通りぬけ、灰色のコンクリート塀の前に設けられた演壇の前にならんだ同志キン・トウヨウ(金斗鎔)の歓迎の辞にこたえて、同志トクダ(徳田)が、われわれ一同を代表してまず演壇へのぼった。瞬間、怒涛のような拍手と歓声の爆発である。同志トクダは雨にぬれそぼちながら、力づよく出獄第一声を放った。一段とはげしく降りそそぐ雨をものともせず、人々は同志トクダの一言一句までも聞きおとすまいと、吸いつけられたように同志トクダを見つめている。同志トクダが――われわれは全人民大衆を現在の破壊状態におとしいれた天皇制を断乎として打倒し、人民共和国政府を樹立しないかぎり、大衆の生活の安定と向上は断じてありえないと確信するものであります。この目的の達成のため、われわれは本日ここにアメの中を、わざわざ出迎えにきて下さった皆さま方とともに献身的に闘争する事を誓うものであります――と叫んで降壇すると、再び歓声である。
……最後に同志キン・テンカイ(金天海)が登壇した。こんどは朝鮮語の歓声の嵐である。同志キンは、やせた長身を少し前こごみにしながら雄弁をふるった。出迎えにきた四百名をこえる朝鮮の同志たちは、やつれて蒼白な同志キンの顔を感動にみちた眸でみつめていた。
政治犯をむかえた人々は、その日の午後芝区田村町の飛行会館までデモをし、「自由戦士出獄歓迎人民大会」が開催された。研究者の朴慶植は「その会衆約四千名(あるいは二千名)のほとんどが朝鮮人だった」と記している[174]。
解放後の政治犯釈放に関しては未だ不明な点が多い。梨木氏の証言にもあるように、政治犯釈放運動を担った中心自体はそう大きくなかった。だが前節でみたように解放直後すでに各地で朝鮮人団体が結成されており、政治犯を府中で迎えた朝鮮人「大衆」はこのような組織過程で結集したものであるのだろう。
以上のような経過を辿って政治犯は釈放され、釈放された政治犯のうち、共産主義者の徳田球一、志賀義雄は獄中であらかじめ執筆しておいた「人民に訴える」という声明をその場で発表した[175]。声明はまず「連合国軍隊の日本進駐によって日本に於ける民主々義革命の端緒がひらかれたこと」に「深甚の感謝の意」を表し、続けて「米英及連合国軍の平和政策に対して」「積極的に之を支持する」こと、「天皇制を打倒して、人民の総意に基く人民共和国政府」を樹立すること、「寄生土地並に山林原野を主とする遊休土地の無償没収とその農民への無償分配、労働組合の自由、団体交渉権の確立、失業保険、八時間労働制を含む労働者、勤労者の生活改善、信教の自由、軍閥官僚と独占資本の為の統制の排除と労働者、農民勤務者其他の抑圧された一切の人民の為の統制、十八歳以上の男女の選挙権による国民議会の建設、刑法中の皇室に対する罪、治安維持法、治安警察法等悪虐法の撤廃」、そして最後に「ここに釈放された真に民主々義的な我々政治犯人こそ此の重大任務を人民大衆とともに負う特異の存在」であり、「この目標を共にする一切の団体及勢力と統一戦線を作り、人民戦線も亦かかる基盤の上に樹立されるであろう」ことが宣言された。「人民に訴える」の中に朝鮮・台湾など旧植民地に関する記述がないのは、その後の日本共産党の民族政策を示唆していて興味深い。
その後直ちに神山茂夫、金天海、黒木重徳、志賀義雄、徳田球一、袴田里見、宮本顕治の七名で「党拡大強化促進委員会」が設立され、同委員会で党大会に提出される党行動綱領と党規約の草案が起草された。さらに10月8日には同委員会にかえて「日本共産党全国協議会」が全国から約300人の参加を得て代々木の党本部で開催され、その場で「日本共産党規約」が採決された。その冒頭で、「党は一切の勤労者組織の指導的中核であり、民主々義革命の完遂、共産主義社会の成功的建設を保障する」とし、これまでの「二段階革命論」を継承した[176]。その後12月1日から3日にかけて500人の参加のもと第四回党大会が開催された。この大会では徳田球一、志賀義雄らと共に金天海が中央委員、政治局員となり、宋性徹、朴恩哲とともに金斗鎔は中央委員候補に名前が挙げられている。さらに金斗鎔は出版部に名を連ね、新たに設けられた朝鮮人部(部長金天海)の副部長に就任した。
朝連と日本共産党の間には頻繁な交流があったらしい。上にも引用した当時の活動家は次のように回想している。[177]
日本共産党とは連絡しあって、大会などはいつも一緒だった。また共通の学習会や集会をやった。それから共産党はまた警察や暴力団との話しあいにも便宜をはかってくれた。マーケットの権利の交渉とか生活擁護の問題などである。労働組合とも共同斗争を組んだ。メーデーも一緒だった。メーデーに、わたしは朝鮮人の青年として民族性を強調し、権利の保障や反植民地斗争をうったえたことがある。中央の政治家たちも多ぜい来た。小学校の講堂や教室を借りて演説会を開いた。徳田球一の講演会など人気があって、会場から人があふれた。
坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』は「その後も日共再建の協議と運動は、この朝連事務所を中心として展開され、その間の経費(集会場費、自動車、文書、赤旗再刊)などは、すべて朝連から支出されていた。したがって日共は、朝連側を徹底的に利用していたようで、当時は徳田球一も常に朝鮮人党員の行動性を重視し、好意的な煽動的言動で接していたと伝えられている」と記している[178]。官憲資料特有の言い回しではあるにせよ、朝連が日本共産党を物的な側面からも支えていたことは事実のようである。朝鮮人党員の比率も高く、10月10日の党拡大強化促進委員会において神山茂夫と金斗鎔らによって作られた党員名簿では全党員180名のうち100名が朝鮮人となっている[179]。解放前の朝鮮共産党日本総局解体以後、日本にいる朝鮮人共産主義者は日本共産党に所属していたわけだが、これが解放後も継承されたのである。この点については後に詳しく触れる。
だがこのような状況の中で帰還問題などについて日本共産党が解放直後に何か方針を打ち出した形跡は見当たらない。例えば解放直後における在日朝鮮人の法的地位を巡ってであるが、朝連は何度が政府やGHQと交渉している。解放後のGHQの対在日朝鮮人政策は、上述したように1945年11月1日の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」で決定されたわけだが、その指令の八項で、朝鮮人について「軍事上の安全が許す限り…解放人民(Liberated people)」であり、この文書でいう「日本人(Japanese)」ではないとしておきながらも「いまなお引きつづき日本臣民(Japanese subjects)」とし、「必要な場合は敵国人(Enemy nationals)」として扱うという奇妙な規定を行なった。さらに続く1946年3月6日、占領軍総司令部政務会議室での在日朝鮮人の地位その他に関する対談で、日本政府代表、朝鮮人団体代表(朝連、建青、共和新聞社)参席の中、朝鮮人は法律上の地位は「解放サレタル市民」でありながら、法律関係は日本の法律に従うことと通知した。しかし朝鮮人団体代表はこれに反対、連合国民と同等の地位を要求し、同年11月20日占領軍渉外局は朝鮮人を解放国民として遇し、市民権の保持などについては干渉しないとしながらも、実際にはなんの手立ても講じず、実質的には日本政府の自由裁量に任せることになる。
対して日本政府は朝鮮人を「外国人」とみなすか「日本人」とみなすかでゆれながらも、原則は「日本人、日本国民」として扱うという政策に固まっていく。1946年3月22日の内務省警保局公安課長示達事項において、朝鮮人の処遇については日本人と同一の処遇取り扱いをし、法令適用の例外は認めないとした。これはつまり朝鮮人の取締において、断乎日本法令により取り締まるということを宣言したということである。さらに吉田茂首相は1946年9月2日に議会で、講和までは朝鮮人、台湾人を「日本国民」として取り扱うべきだと強調した[180]。だがこの間日本共産党が具体的な対策を立てた形跡はない。他には、1945年12月に衆議院議員選挙法が改定されるに際し、在日朝鮮人・台湾人の選挙権・被選挙権が停止されたのだが、この問題に対しても党としては第四回大会の席上で金天海が触れているだけである。金斗鎔が『前衛』論文でも言及しているように、1945年の時点で朝鮮人に関する諸問題の対策はほぼ党朝鮮人部と朝連に丸投げされていたようである。ともあれこのような状況の中で、初めて出された朝鮮人問題に関する方針が『前衛』に三度に渡って掲載された金斗鎔の論文(以下『前衛』論文)なのである。
前章で見たように、日本共産党は再建直後とくに朝鮮人運動について方針を発表しなかった。そしてこのような状況の中、『前衛』創刊号、14号、16号の三度にわたって金斗鎔の朝鮮人問題に関する論文が掲載されたのである。その後の動きを考えても、この『前衛』論文が日本共産党の朝鮮人問題に関する方針に大きな影響を与えたと見て間違いないだろう。そしてこの論文こそが、解放後の「解消」を主導したものとして現在「民族的主体性を喪失」したと総括されている論文なのである。本章では第一節で『前衛』論文の内容を検討し、第二節では金斗鎔における「天皇制打倒」という問題の位置を検討する。第三節では解放前と解放後の金斗鎔の論調の変化について触れ、第四節では金斗鎔の帰国に関する諸説を検討する。
論文そのものを検討する前に、解放前と解放後での「解消」の相違について述べておかなければならない。解放前に金斗鎔が係わった「解消」は、上述したとおり、在日労総の全協への「解消」である。つまり組織を解体し、朝鮮人労働者がまるごと全協へ再編されることを意味する。対して解放後の「解消」は、運動方針としての「階級解消論」である。解放前の「解消」は朝鮮共産党日本総局の解体を伴っていたが、解放後はすでに日本共産党に朝鮮人が入党しているので、さしあたり党組織の「解消」は問題にならない。つまり朝連という組織を存続させたままで、運動の究極目標を階級解放に求め、近接した課題としては「天皇制打倒」と「人民共和国」の建設に求めるものである。この点をはっきりと区別しておかなければ、解放前と解放後における金斗鎔の認識の変化は分からない。
さらにもう一点見ておかなくてはならないのは、この論文が「誰に向った書かれたか」という点である。『前衛』はいうまでもなく日本共産党の理論誌である。しかも現在に比べて当時の識字率は格段に低い。論文中の表現から、これが朝連に対して書かれたものであることはすぐに分かるが、その中でも運動の指導的地位にいる人間に向けて書かれたものであると見るのが自然であろう。このような点を踏まえながら以下本節では『前衛』論文における「解消」論を順を追って検討する。[181]
「日本における朝鮮人問題」
はじめに1946年2月、『前衛』創刊号に掲載された「日本における朝鮮人問題」という論文(以下第一論文)を検討する。「朝鮮人問題は一つの民族問題である」という言葉で始まるこの論文は、続けてそれが「朝鮮内における朝鮮民族の政治的動向」と「日本内に於ける革命状態」の双方と結びついており、「現在に於いては、それは朝鮮の完全な独立、人民共和国建設、の問題となっている」とする。そして本国朝鮮の民族問題の中心は「全人口の八割の農民、就中その八割を占める貧農に対する土地の民主主義的解決の問題、つまりブルジョア民主主義革命の問題」であり、この問題は朝鮮北部においては解決にむかっており、南部では人民委員会が多くの困難に遭っているが「しかしこれも最近モスクワに開かれた四国外相会談の結果…幾分正しく解決される」であろうと予測している。ここでは日本共産党が採用した「二段階革命論」を朝鮮の革命プランについても適用していることがわかる。
日本における運動の現状に対しては、一通り運動の現状を概観したあと、現在の朝鮮人運動に対する反省としてその要求が「民族的な特殊利益」に関するものに留まっており、これは「人民」としての根本的な生活条件を改善するものではないと主張している。さらに南朝鮮での生活状況の悪化、つまり当面は帰国が困難であることに触れ、このような現状は結局朝鮮人が「日本人民と共に協力し共同闘争を行はなければならぬという必要を示すもの」であるとする。さらにこれは「従来朝鮮人によってなされた民族的な闘争を日本人民の解放闘争の方向へ結びつけるよい条件を提示したものであり」そして「民族的排外的見地に立っている一切の傾向に対しても闘争しなくてはならないことを示す」ものであるから、その闘争は「われわれにとっても、また日本人側からも」行われなければならないと主張する。
故に結論として朝鮮人運動はその内部における「天皇制打倒」の問題に対する消極性を克服し、「闘争を党の根本目標である『天皇制打倒』に結びつけ」なくてはならないと主張する。このように第一論文の基本的な主張は、日朝両人民の「民族的排外的見地」を克服し、朝鮮人運動の「日本の人民解放闘争」への参加するべきである、なぜなら究極的にそれこそが朝鮮人自身を解放するからだ、というものになっている。
「朝鮮人運動は転換しつつある」
続いて1946年12月25日に執筆され、翌年三月に『前衛』14号に発表された「朝鮮人運動は転換しつつある」(以下「第二論文」)について検討する。
第一論文が朝鮮人問題を「民族問題である」としたところから順を追って「天皇制打倒」まで展開していったのとは対照的に、第二論文は冒頭から「日本に在住する六十万朝鮮人の動向、すなわち彼らが日本の革命的勢力の闘争に緊密な一翼を形づくり得るか否かとゆうことは相当重要な問題となってくる」として、その立場を鮮明に打ち出している。そして朝鮮人の日本帝国主義に対する憎悪を「日本の民主主義革命の一部分として十分に組織し、これを日本の革命勢力に緊密に結合せしめるか、あるいは彼らのもっている民族的な、排外的な心理を支配階級のため、かえって日本の民主々義革命勢力に対する、反革命的な対立物として利用せしめられるか否かとゆう分岐点にいまわれわれは立っている」という。ここでも第一論文と同様に「民族的な心理」は「排外的な心理」と同様「反革命的な対立物」でありそれは日本の支配階級の分裂政策の産物であるという認識が維持されている。
さらに興味深いのは本国の運動との連携に対する次のような評価である。
しかしこのこと(在日朝鮮人運動が本国と歩調をあわせてきたこと:筆者注)は決して日本にいる朝鮮人大衆の運動全体の方向が、内部的な力によってこの方向に向ったとゆうのでは決してない。むしろ事実は、上部機関にいる人たちが朝鮮の運動と歩調をあわすためにそのような決定を行ったわけであって、従って今日においてもなお一般大衆は、人民共和国が何であるか、民主々義民族戦線が何であるか、進歩的民主主義が何であるか分からない者が多い状態である。
ここで注意しなければならないのは、金斗鎔が批判をしているのは本国と連携する事自体ではなくて「上の方でばかり歩調を合わしていった」ことに対してであるという点である。すぐ下で述べるとおり、日本共産党の朝鮮人運動への影響を考える上でこれは注目に値する。
続いて「朝鮮人共産主義者の任務は、二重の性格を持っている」という従来の「同志たち」の見解に対する批判を展開する。「二重の性格」というのは「一方においては朝鮮の民主々義民族戦線、他方においては日本の民主々義革命運動へと、両方へ足をかけて活動」することを指し、このような状況からしっかりと立場を定め、「天皇制廃止」「反動政府打倒」、つまり「日本の民主々義革命運動」へと向わなければならないと主張する。そして第一論文と同じく「日本の反動勢力にたいする闘争のみが朝鮮の革命と朝鮮の民主主義戦線の勝利とのために直に実質的に役立ちうる」と論理を展開し、にもかかわらず朝鮮人運動は「実際においてはこれ(日本の革命運動:筆者注)と切りはなされた、全然別個のものの如き観を呈していた」ことを朝鮮人運動の欠陥として指摘している。当時朝連は南朝鮮に特派員を送るなどして本国との連携を強めており、これはその点を指している。これは当時の共産党と朝連の関係を知る上で興味深い指摘である。「多くの党員を大衆団体の中に持っていたとはいえ、かれらは殆どすべてが上部機関にかたまって」いたと金斗鎔が指摘する通り、朝連はかなりの自律性を持って活動を展開していたと推測される。そして「今やこれらすべての欠陥を一日も早く克服し、党の強力なる指導の下にすべての党員がこの方向に向って活動を遂行すべき方策が明らかにされ」「朝鮮人運動もこの方向に向っていまや一大転換をしようとしている」として論文を締めくくっている。
「朝鮮人運動の正しい発展のために」
最後に1947年2月27日に執筆され、同年5月の『前衛』16号に掲載された「朝鮮人運動の正しい発展のために」(以下第三論文)を検討する。この論文は金斗鎔自身が述べている通り、第二論文において提起された転換の「根本的問題」を取り扱うために書かれた論文である。確かに三論文の中で何故朝鮮人運動が「天皇制打倒」へと向わなければならないかが、最も明確に述べられている。
第二論文と同じくここでも冒頭から「階級闘争の見地からみれば、民族問題というのは完全にそれに従属しなければならない問題で、いくら民族的な利益が重大だからといって、これを階級的利益と混同するわけにはゆかない」と結論を述べている。そして朝連の弱点として「朝連の大衆の中には労働者、農民がいない」ことを挙げている。これは解放前の「自由労働者」観との関係で興味深い。続けて金斗鎔は次のように書く。
つまり民族的な統一体にしても、民主戦線にしてもその中心的な勢力をなす要素がないということである。だからどうしてもこの戦線は無力なものとならざるをえない。いくら革命的に立とうといっても立ちえないということは明かである。
つまり「朝連の大衆」はそれ自体では革命の主体足りえないのである。だがしかし在日労総の場合のように、日本の大衆団体へ「解消」してしまえというわけではない。続けてこういう。
といってこのことは朝連が不必要であるというわけでは決してない。民族的な特殊性というものが現存しており、それが無視されるものでない以上、朝連は民族的な特殊的な立場にたった活動を、朝鮮人間においては勿論、日本人に対しても大いにやってもらって、そして党の基本線の活動と、朝連からの活動を大衆活動の中で正しく結合させてゆけば、運動全体は有機的な一体として党の指導の下に統一され、そして活発に進展することが出来るのである。朝鮮人の利益も、日本のプロレタリアートの支援の下に正しく保証され、擁護されるのである。この途以外には、日本に於ける朝鮮民族の利益を正しく守り得る途はない。
ここで述べられている「民族的な特殊性」という言葉で金斗鎔が何を指しているかはこの文章だけでは判然としないが、少なくとも朝連の必要性を認めている点では解放前の「解消」の場合とは異なる。
では連帯のためにはどうするべきなのか。金斗鎔は続けてこう書く。
とすれば一体誰が朝鮮民族のために闘ってくれまたこれを擁護してくれるか、それはいうまでもなく日本の人民であり、正確にいえば日本のプロレタリアートであり、その党であるわが党以外にはない。このことは余りにも明白である。しかしだからといって朝鮮人が自己の利益をまもる上においていくら日本人民の援けを乞うたところで、おいそれとすぐ日本の人民が動いてくれるわけのものではない。日本人民やそのプロレタリアートの力をかりるには、どうしても朝鮮人自身がまず日本人民のために働いてやることが大切なのである。
金斗鎔にはその実績がある。これは第一論文での記述だが、上述した常磐炭鉱での争議に触れて「現に常磐炭鉱のストライキの時、その闘争によって獲得した食料の増配の一部分を日本人労働者に分け与えたことが、日本人労働者によって朝鮮人労働者に対して非常な好感を抱かせ、また非常な好評を博した事実がある」としている。だが「放っておいては日本人民は何もしてくれない」という確固たる前提に立って金斗鎔が論を進めていることもまた忘れてはならない。
以上三論文の論調を概観したわけだが、その特徴としてまずは朝鮮人は当面日本に住まざるを得ないということを前提としている点が挙げられるだろう。だからこそ「日本人民」との連帯は必要なのである。そしてその連帯を実現するためには「天皇制」を打倒し、「日本の民主主義革命」を実現させなければならない。何故なら現在連帯を阻んでいる「排外主義」は「支配階級の陰謀」なのであるから、「民主主義革命」によってそれは克服され、現在抑圧されている民族的諸権利もまた回復される。金斗鎔には「排外主義」の克服は可能であるという強い信念があった。当時主筆を務めていた『解放新聞』1947年3月1日号の「国際結婚可否」の欄では「朝鮮人が日本女子を妻にして住もうが中国女子を妻にしようがそんなことは重大な問題ではない。問題はこのような国際結婚が円満無事によい家庭を築けるかどうかという点にあり」「社会革命の立場からは革命のために闘う人はみなよい人でありよい友人である」と述べて「国際結婚」に賛意を表していることからもそれは分かる[182]。
しかし「天皇制打倒」という課題は、このような「排外主義」克服のためだけのものではない。金斗鎔はより実践的かつ切迫した要求として「天皇制打倒」を捉えていたのである。
前節で見たように、『前衛』論文で金斗鎔は執拗なまでに「天皇制打倒」の必要性を説いている。では金斗鎔は何故それほどの切迫感をもってこの課題は感じられたのであろうか。本節では金斗鎔にとっての「天皇制打倒」の位置について検討する。
金斗鎔は「天皇制」について、『社会評論』創刊号に「朝鮮人と天皇制打倒の問題」という論文を書いている。そこで金斗鎔は次のように書く。[183]
この天皇イデオロギーの下に指導され、それによって麻痺されている日本の人民は、未だそれに対する正しい認識を持つことが出来ないため現在に於ても、軍国主義日本の復活の夢に惑わされ、「何時になったらまた朝鮮や満洲や台湾を日本のものにすることが出来るだろうか」など云い合っている事実を考慮に入れるならば、何時か連合軍が日本よりその進駐を止めて撤退して行った場合に、野心満々たる日本の資本家地主共が、必ずや、天皇の名の下に「失地回復」或は「日本民族の名誉」とか何とか云ったような、出鱈目な美しい言葉で開始されるであろうところの侵略戦争に、蒙昧な日本人民が再び駆り出されないと誰が断言し得るであろうか?
つまり金斗鎔にとって「天皇制打倒」は、「天皇制復活」と朝鮮の再植民地化に対する強烈な危機感から発しているのである。このような認識を金斗鎔の被害妄想であるとはいえない。例えば1945年12月9日に『読売報知新聞』が報じた世論調査の結果によると、「天皇制支持」は95%に達しており、新聞はこれを「天皇制支持は国民の一般感情」という小見出しで報じている。さらに1946年1月23日に『朝日新聞』が報じた世論調査の結果も92%が「天皇制支持」という結果をたたき出している。共産党以外の各政党の政策をみてもそれぞれ程度の差こそあれ「天皇制支持」を打ち出しており、しかも研究者の小熊英二によれば当時の天皇制に対する支持は共産党支持者にまで及んでいたという[184]。
このような状況の中で金斗鎔が朝鮮再植民地化への危機感を深めたとしても無理はない。そして、続けて「朝鮮の独立問題が朝鮮人自身のみの力によって解決されたものではなくて、世界民主々義の反ファシズム、反軍国主義的闘争の中に於てそれが実現されたものであること、つまり国際政治状勢と緊密に結びついた世界状勢の一部であることはこの度の独立の事情によっても明かな所である」と書いているように、金斗鎔は国際情勢の中で朝鮮の置かれた地位の不安定さについて十分に認識していた[185]。このような国際情勢観に立った上で、最後に金斗鎔は次のように主張する。[186]
日本に在住している朝鮮人が、祖国の人民共和国建設の闘争と、本質的にその内容を同じくする日本共産党の人民共和国政府樹立天皇制打倒の闘争を支持しないとするならばそれは朝鮮の人民を裏切ると同時に、日本の人民の利益をも裏切るものである。のみならず日本民族と朝鮮民族との摩擦を解消し、その衝突を防止する唯一の途も、我々朝鮮人民及び日本人民の上に長年民族的偏見を植付けこれを助長してきた所の日本の天皇制を打倒すること以外にその途はないのである。
このように金斗鎔にとって「天皇制打倒」とは、「天皇制」を差別の根源として捉えるとともに、明確に朝鮮の独立を意識した切迫した課題であった。前掲韓徳洙論文の朝鮮革命か日本革命かという解放直後の路線認識がきわめて不十分だと述べたのはこの点に関連してである
さらに「排外主義」の克服という観点から見ても、この「天皇制打倒」は絶対に必要な具体的政策であった。上述したとおり、1930年代の共産党幹部の大量転向は、ほかならぬ「天皇」と「民族」の名の下に行なわれたものであった。当時の転向幹部鍋山貞親は解放後、次のように語っている。[187]
戦前のいわゆる僕らの転向問題はいろいろ理屈づけて論ずればきりがないが、整理して申せば、要するに自主独立という言葉で表される民族という立場の発見が根本だったように思う。
……僕も戦後になってから、あのときの民族の問題をたびたび考えることがあった。要するに僕らの今までのマルクス主義的教養はすべて階級理論で割りきっておった。そこに大きな欠陥があることを知った。戦争という民族の大きな悲劇を体験して、いわば自分を生みだしてくれた母胎ともいうべき民族の懐へ僕らの思考が戻ってきたんだ。
……民族という場合、とくに日本民族の場合は、こんな天皇制をずうっともちつづけてきた日本民族の内的統一性の強さということが特徴だと思います。隔絶した島国で、人種的にも唯一で、文化も一つで、言葉も一つ、一億の民がこんなにもまとまっている民族は世界中にない。そのこと自体、誇るに足るべき民族的資質であり、それをシンボライズしているものが天皇制であると思います。
日本共産党の幹部が「天皇」と「民族」へといとも簡単に回帰する様を見れば、「排外主義」の原因を「天皇制」に認め、その根を絶たなくてはならないと金斗鎔が感じたとしてもなんら不思議ではない。「インターナショナリズム」が再び裏切られないためにも、そしてこれからも日本に住み続けるであろう朝鮮人のためにも「天皇制打倒」は是非とも必要な課題だったのである。
解放後における金斗鎔の主張を見てきたわけだが、本節では解放前における在日労総の「解消」と解放後の『前衛』論文に見られる「階級解消論」のあいだの相違について考察しようと思う。解放前と解放後の朝鮮人運動の連続性というのはそれ自体非常に大きいテーマであり、本稿ではそれを論じきれるものではないが、金斗鎔においてその連続性がどのように表現されているかを検討するかはこの問題を考える一助となる。研究者の梶村秀樹はこの問題に触れて次のように書いている。[188]
金斗鎔にしろ、金天海にしろ、その他戦争中はどうすごしたかのそれぞれのちがいは別として、みな戦前の全協時代の運動の体験者だったといえましょう。それで解放後に朝連をつくる時には、少なくとも社会主義者の中では難しい論議をさんざんした末に、日本共産党との関係がああなったというのじゃない。方向づけを与えたのはこれまた金斗鎔の論文でしたが、それに対してかつての労総解消の時みたいに深刻な論議を経ることはなく、いわば全協時代と同じような形があたり前だという感じで再建された。
これは解放後における日本共産党への朝鮮人の入党に触れてのものだが、論議の有無という観点から見るならば妥当な見解であると思われる。ただ前節で見たように、解放後の日本共産党筋からの朝鮮人運動の方針はほぼ金斗鎔が骨組みを組立てたと見て間違いない以上、金斗鎔自身の変化を考える事は必要である。
解放前の「解消」と解放後のそれはそもそも論議されているレベルが異なるということは前に触れたとおりだが、ひとまずその点は措いて議論の変化を見てみることにする。まず客観的な状勢の変化について簡単に触れる。1945年8月15日をもって日本の植民地支配が終わり、朝鮮は連合国の分割占領下に入ったという点は当然ながら大きな変化である。だが少なくとも金斗鎔が日本にいる時点では朝鮮の統一問題について未だ論議中であり、そのかぎりで朝鮮は完全な独立を果していない。国際共産主義運動の観点から見れば、1943年におけるコミンテルンの解散が上げられるだろう。朝連は南朝鮮の朝鮮共産党ともつながりがあったわけだが、朝鮮人共産主義者たちは解放前のコミンテルン下における「一国一党主義」を維持し日本共産党に入党した。ただコミンテルンなきあとも引き続きソ連は存続しているのであり、ある意味連合国軍がその代わりとなっていた以上、金斗鎔にとってさしたる変化としては捉えられなかったのではあるまいか。以上のような点を踏まえて以下考察に入る。
解放後の論調でまず指摘できることは、朝鮮人団体が保護すべき「特殊的利益」が存在するとはっきり明言していることだろう。解放前は「民族的不満」を「観念」であると一蹴している事からみれば、これは大きな変化であるといえる。変化の要因としては1930年代以降の活動における朝鮮の社会や歴史問題への取り組みが挙げられるだろう。さらにもう一つの要因としては1930年代後半から1940年代前半にかけて日本が行なった一連の「内鮮一体」「皇民化」政策が挙げられる。1929年の時点で金斗鎔にとって「民族」の内実はほぼ真空であったことは本論中で述べたが、「内鮮一体」政策は言語、名前といった目に見えるかたちでの「民族的差異」を奪った。差し当たりこの「民族」を奪還するという意味で、朝連の文教事業は必要なものだと考えられたのだろう。帰還事業の問題も朝鮮人運動の特殊性を考えるときには外せないように思えるが、差し当たり金斗鎔の論旨は定住を前提としたものである以上、あまり大きな要因ではないと思う。
だがしかし解放前後を通じて維持されている観念として、日本にいる朝鮮人がそれ自体では革命の主体たりえない、という前提が挙げられる。この前提は「農民、工場労働者」こそが革命の主体足りえるという金斗鎔の「教養」に基礎を置いており、時代の変化によって変わるものではなかった。そして金斗鎔は国際情勢を意識を常に意識して、情勢認識を構築している。この視点も変わることはない。朝鮮独立が他人の手によってなされたことに対するはっきりとした自覚と、そこから生まれる冷静な姿勢は、「インテリ」金斗鎔の真骨頂というべきであろう。
以上見たように、解放の前後を通じて、金斗鎔の認識は相応の変化を受けており、『前衛』論文はある程度それが反映されたものであると見ることができる。朝鮮人共産主義者内部で路線論議があったかどうかについては、別に検討すべき課題であるが、金斗鎔自身は解放前の方針の単純な維持ではなく、それなりの国際情勢分析に基づいて方針を組立てている。もし現在の視点から評価的な判断を下すとすれば、このとき運動の方針が金斗鎔に大幅に依拠する形で構想されたことが批判的に検討されるべきであろう。さらに方針自体も朝鮮人固有の問題の必要性を認めつつも、それ以上のものを提示していない点は批判されてしかるべきなのではないかと思う。
金斗鎔は1947年中頃北朝鮮に帰国する。「祖国に帰って」と題された金斗鎔の『解放新聞』(1947年7月1日)の記事にはつぎのように書かれている[189]。
金斗鎔はこうして祖国へ帰っていった。ちなみに妻きみは日本に残っている。帰国日時と帰国後の金斗鎔の消息については諸説あり、坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』は次のように書いている。[190]
そこへ極東コミンホルムからの指令があり、金天海らがこれを軽視する態度に出るのにたいし、金斗鎔ははげしくこれを攻撃し、極東コミンホルム支持の態度を表明し、もっぱらこれとの連絡を担当していたといわれる。しかしその後も一向に党からみとめられないので、ついにその新境地を拓くべく決意し、創建された北鮮共和国と極東コミンホルムとの連絡をめざし、二三年一一月には孤影さびしく品川駅をたって北鮮に密航していった。
その後、かれは北鮮でも一向にめぐまれず、さらに二五年六月には宿敵金天海の北鮮入りでいよいよ不遇となり、一時は北鮮国際貿易委員会の機関紙編集を担当していたが、いま(1959年:筆者注)は清津製罐工場で壁新聞の主筆をやっているといわれる。
極東コミンフォルム、あるいはアジア・コミンフォルムに関しては1948年前後の時点での存在を確認できる資料は存在しない。ただその点は措いても1948年11月に帰国したという記述は、やはり疑わしいといわざるを得ない。同書は続けて「党六回大会(二二.一二.二一−二四)では、朴恩哲は中央委員候補に再選されたが、金斗鎔は金天海との不仲がたたって平党員に落とされてしまった」と記しているが、上の『解放新聞』記事にあるように、1947年中には金斗鎔は帰国している。
そもそも日本共産党第六回大会のとき、金斗鎔は日本にいないのである。その証拠に、1948年3月27日から30日にかけて開かれた北朝鮮労働党第二次全党大会で金斗鎔は中央委員会候補委員に選出されている[191]。このような事実からも坪井同書の「1948年11月帰国説」は誤りであるといえる。帰国後の活動としては1949年版の『朝鮮中央年鑑国内篇』の「文学芸術」中の「評論」の項に「安含光、韓暁、韓植、尹世平、金斗鎔等諸氏により、一般的芸術戦線と民族文学建設上の諸問題に対し論究され、……安含光氏民族文学再論に対する金斗鎔氏の異論が提起された」という記述がある[192]。ただ20名いる候補委員の中で、金斗鎔の選出にのみ18名の反対があった[193]。金斗鎔は解放前に『無産者』などで解放後中央委員になった韓雪野などを激しく批判しており、そのことなどがあとを引いているのではないかと思われる。ちなみに1956年4月23日から29日までの間に開かれた朝鮮労働党第三次大会で選出された中央委員、候補委員、中央検査委員の中に金斗鎔の名はない[194]。その後の金斗鎔の消息についてはもっぱら推測に頼るほかないが、1955年の朝鮮総連結成の際、それ以前の路線は厳しく総括された点を考えると、やはり北で主導的な地位にいたとは思えない。帰国後の金斗鎔の消息については今後の課題として別稿に譲りたい。
最後に1947年以後の朝鮮人運動と日本共産党について簡単に触れておく。朝連・共産党ともに「解放軍」と認識していた占領軍はその後急激に反動化し、運動に対する弾圧は日増しに強まってくる。運動側も1948年の阪神教育闘争などの抵抗を繰り返すも、1949年、ついに朝連は団体等規制令によって解散の憂き目にあい、さらに翌年1950年日本共産党は従来の「占領下平和革命論」をコミンフォルムに批判され指導部は分裂、党も非合法化され、両団体とも地下活動に突入していく。
1951年、朝鮮人運動は在日朝鮮統一民主戦線(以下民戦)を結成、同年に起こった朝鮮戦争を「祖国解放戦争」と定義し、日本での支援活動を日本共産党とともに展開することになる。その後両団体とも非合法活動を展開するが、やがて1955年には一大転機が訪れる。
1955年5月25日、民戦は総連へと「発展的解消」し、日本共産党もまた同年7月のいわゆる「六全協」で武装闘争時代に幕をおろすことになるのだが、これに伴って日本共産党内部に設置されていた民族対策部(朝鮮人部の後進)は解散、日本共産党の朝鮮人党員は一斉に離党することになる。朝連から民戦への転換とは違い、総連は民戦時代の運動方針を「民族虚無主義」と批判、以降総連は「内政不干渉」の基本原則を固守することになる。1930年代から約25年間続いた「解消」の時代は、ここにその幕を降ろすのである。
金斗鎔はインターナショリズムを信じ、プロレタリア国際主義を信じた。だが本論で見たとおり結果は必ずしもその理想どおりには行かず、日朝の共産主義者間での「排外主義」は容易に克服されなかった。「被圧迫への意識過剰と圧迫との無自覚とがみごとなまでに同居している」とは日本の興亜主義運動を評しての山室信一の言葉であるが、残念ながらこれはそのまま日本人共産主義者にも当てはまる[195]。現在多くの研究者がこの共産主義者のナショナリズムの問題を指摘し、批判している。だが「排外主義」が克服されなかった原因はそれだけではない。金斗鎔の抱いた「インターナショナリズム」あるいはプロレタリア国際主義という理念の中に、すでにその「失敗」の原因は孕まれていたのある。金斗鎔は「インターナショナリズム」の名のもとに、被植民地民族の居住国の革命への参加と、「朝鮮運動」からの分離を説いた。その結果は本論で見たとおりである。とことんまで純粋化された被抑圧民族の「インターナショナリズム」が、ときに抑圧民族のナショナリズムの補完物に転化してしまうという逆説は、悲劇としかいいようがない。この「インターナショナリズムの逆説」に金斗鎔ははまりこんでしまったのである。
金斗鎔のプロレタリア国際主義。「植民地支配」というプリズム。つまり「日本人−朝鮮人」という関係は、「資本家−労働者」という関係と同様に、そこに実在した一つの「支配−被支配」の関係なのである。この関係性の磁場こそが、プロレタリア国際主義の理想を屈折させた。金斗鎔が批判した「朝鮮運動」との「協同戦線」や、「朝鮮の民主々義民族戦線、他方においては日本の民主々義革命運動へと、両方へ足をかけて活動」した朝連の活動の方が、より「インターナショナル」であるように見えるのは、この点に起因しているといえる。金斗鎔の「インターナショナリズム」はこの磁場の強さを読み誤っていた。私はここにプロレタリア国際主義者金斗鎔の限界とともに、植民地支配の現実のもとでそれ以前の「国境」を自明の前提とした国際共産主義運動の限界を感じずにはいられない。
「インターナショナリズム」に徹した純粋な「プロレタリア国際主義者」であった金斗鎔。民族主義。被抑圧民族にとっての「民族」。
日本人共産主義者の「利用主義」。「利用する日本人/利用される朝鮮人」という暗黙の前提を容認。朝鮮人の「民族的主体性」は存在しない。
あとがき
1955年以後の在日朝鮮人運動と日本共産党の関係。「内政不干渉」との関係。1945年の『前衛』論文。論文では朝連が「朝鮮の民主々義民族戦線、他方においては日本の民主々義革命運動へと、両方へ足をかけて活動」していることが批判されている。「内政不干渉」原則は、金斗鎔の『前衛』論文が期せずして生み出してしまった鬼子であるというわけだ。