補足・早稲田法学の真髄考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).3.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで、「早稲田法学の真髄考」を確認しておく。

 2003.5.17日再編集 れんだいこ拝



 藤本正利早大時代の戒能先生の思い出」。
 先生との最初の出合いは、一九四八年に発刊された労農法制研究会編・平野義太郎監修 『労農問題法律全書(農村編)』に先生が執筆された「山林」である。それは、農民の権利と生活をまもる立場から、日本の山林の歴史としくみを法制的に解明した説得力のある ものであった。この論文を契機に『入会の研究』『法律社会学の諸問題』などに刺激されて先生の著作や論文を読むようになった。先生の講義をうけるようになったのは、その後のことで、直接の指導をうけるようにな ったのは、大学院で(五二年)先生の民法一部を専攻してからである。それから先生が逝去されるまでかわらぬ指導とあたたかい激励と親身な援助をいただいた。先生の逝去は、 まことに痛恨のきわみであったが、先生の卓越したゆたかな学識と徹底したヒューマニズム精神、その廉潔な人となり、不正義へのはげしい怒りと、それに立ち向う果敢な闘志などにいまなお教えられ、鼓舞されている。学部のころの先生の講義は、あの特徴のある早い口調で、該博な知識を駆使したユニー クなものであった。民法が人権、自由、国家、革命論になったり、西洋やアジア論になっ たりもした。専門知識の修得については、「法学を弁解のための技術たらしめず論証のための技術たらしめよう。それは人間を幸福たらしめる手段であるが、同時に人間の幸福の増加とともに進歩する技術である」とか、「法学部を卒業したと自信をもっていえるだけの日常問題を具体的に解決できる能力を身につける必要がある」などとのべ、そのためには、「法律的な文章能力」に熟達することが不可欠であることを強調されていた。すぐれた法律的文章の模範として末弘巌太郎『物権法』、鳩山秀夫『日本債券法(総論)』などが紹介された。また法律書とはことなるが河上肇の『自叙伝』なども推奨されていた。こうした文章に練達する事例として、末弘博士が『法律時報』の巻頭言をいかに推敲したかの教訓につ いて話されていた。

 当時の先生の精力的な研究と創造活動の内容は、講義のなかに不断にもりこまれ、そこで提起される新しい問題や古今東西にわたる蘊蓄や諸文献の紹介に触発され、あらゆる人類の英知を正しく継承し発展する科学的社会主義の神髄をいかに学ぶかを教わったようにおもう。大学院での先生の指導はきびしく徹底したものであった。科学としての民衆の法学を志して進学した当時の私の学習内容は、いまにしていかに教条的で浅薄なものであったかは赤面のいたりであったが、その頃は、社会運動にも積極的に参加し、問題意識を明確にしてかなり学習していたとおもっていた。その浅薄さを事実にそくして指摘してくださったのが戒能先生であり、その後担任になられた野村先生であった。これは社会科学を学ぶうえで、いまなおはかりしれない教訓となっている。先生の指導方法の具体例を一、二思い出のままにあげよう。先生の民法は、イェーリング『日常生活と法律』(英文版)がテキストであった。これを訳して、そのなかの質問に法律的に解答するというもので、この解答を一定の原稿枚数にまとめて先生に提出すると、その場で先生が通読して指名されたものが教壇に立って講義をし、それをみんなでディスカッションするというものであった。また法社会学のテキストは、エールリヒ『法社会学の基礎理論』であった。指定されたページ数を訳して、そ の内容の紹介と論評をしたものを一定の原稿枚数にまとめて提出し、各人が音読し、その 内容をめぐって討論するというものであった。このテキストが指定されたとき、私は英語 ・仏語・露語・中国語は学習していたが、ドイツ語はほとんどやっていなかったので、その旨を先生に話すと言下に「ドイツ語は一週間学習すればできる」と叱られた。冷静に考えれば叱られるのが道理で、にわかにドイツ語を学習し、辞書と首っ引きで原書を読むが、それでも大要をつかむことが大変で、英文に翻訳されたものを参考にして授業についていった苦い思い出は消えさるものではない。またエールリヒの原書にはギリシャ・ラテン語の駐解も多くギリシャ・ラテン語の学習にも必死であった。しかし、そのなかでの先生の話はいつも具体的で、歴史上の背景や人物論になると物語的な明快さがあった。法社会学の授業は、当初、他の研究科や他大学からの聴講などもあって教室が一杯にな ったが、先生の授業に対する峻厳さから、残ったのは島田、畑、佐藤、中山(いずれも現 早大教授)、芦川(現愛知学院大教授)の諸氏と私だけになった。先生は五三年「早稲田の学生は不勉強である。私は日経連の迎合教授になりたくない」 と早稲田を去ることを言明された。先生からみるわれわれの不勉強は痛感していたが、そ れが理由になるとは心外におもった。ただちに先生のひきつづく指導をお願いしたが、決意は堅かった。当時、私は大学院自治会の委員長と図書委員会の委員長に選出され、研究条件の充実と名実ともすぐれた民主的な大学をめざして、それなりに一生懸命であった。先生の留任運動を提起し、当時法学部研究科委員長であった和田先生と接渉した。和田
先生は「学内の 事情もあるので、運動をしても駄目だろう」ということであった。戒能先生の言明には学生の反発もあり、留任運動は全学的な運動へとは発展しなかった。しかし、今日の早稲田には、先生たちが築いた民主主義法学の伝統は着実に発展している。そのいっそうの前進を心から期待するものである。(抄)





(私論.私見)