戦前日共史(前史2)日本共産党の創立前までの流れ

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).1.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 1910(明治43)年、桂内閣の手により天皇暗殺の大規模な陰謀事件として幸徳秋水ら26名、全国で数百人の社会主義者が検挙された。世に「大逆事件」と云われる。事件の公判は同年12月に非公開で進められ、翌年1月18日にはわずか1カ月のスピード審理で被告26名中24名に死刑(翌日天皇の恩赦の形で12名が無期懲役に減刑)、他の2名は長期の刑に処せられるという判決が下され、一週間後には早くも幸徳ら12名の死刑が強行された。

 以降、日本左派運動は鳴りを潜め冬の季節に入った。この低迷を打ち破ったのは急進派であり、大杉栄と荒畑寒村らの若獅子達であった。穏和系として片山潜、山川、堺らの活動も続けられていくがかっての精彩は無い。「日本社会主義運動本史の一期」はこの情況から始まる。

 「大逆事件」から4年後の1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発した。第一次世界大戦とは西欧列強のイニシアチブの確執戦争であったが、その間隙を縫うようにして1917(大正6).10月ロシア10月革命が勃発した。レーニン率いるマルクス主義ボルシェヴィキ派が世界史上初の社会主義政権を樹立した。この震源が世界に及び、日本左派運動の方向が明確になった。

 かくて、日本における共産党の創立が日本左派運動のニューマとなった。当然、当局はこれを許さじとして弾圧体制を更に強化していくことになる。それにも関わらず、心有る者が競って日本におけるボルシェヴィキ革命を目指していくことになる。但し、この流れを画然とさせることは意外と難しい。思うに、アナーキスト系の大杉栄の動き抜きには語れないからだと思われる。ところが、日共史は大杉の関与部分を捨象したところで叙述する傾向にあり、いくら読んでも真実が見えてこない。れんだいこ史観によればそれは不可能だ。

 そのことを知らぬままに大杉栄のサイトと日本共産党の創立考という二つのサイトを作ったものだから余計に収拾がつかない。暫く凍結して時機を得て再整理しようと思う。2003.5月に「戦前日共史」を論文集にサイトアップしたのを機にやおらこの難題に再着手した。

 2003.5.21日再編集 れんだいこ拝


【ロシア革命の勃発と衝撃】
 1917(大正6)年、ロシア革命が勃発した。この年2月に始まったレーニンの率いるボルシェヴィキ革命が勝利し、全世界の労働者と社会主義者を奮い立たせる出来事となった。

 この影響で、我が国の社会主義運動はマルクス主義思想に傾斜していくことになった。山川はこの時の興奮を「ロシア革命の報道が来たときの感激の仕方は大変だった。道を歩いている労働者が相擁して泣いた。私自身もじっさい泣きました」(『山川均自伝』)と後に語っている。

 この年の5月に社会主義者の有志30人ほどが集まって開かれたメーデー集会ではロシア社会民主党にあてた次の決議が採択された。「露国社会党、欧州交戦国社会党が直ちに戦争を終局および更に歩を進めて社会主義革命を徹底せんことを望み、敵国における自己階級に向けつつある闘争が、共同の敵たる自国の資本家階級に対して向けられんことを望む」。

 10月、ロシアで10月大革命が起った。世界の君主制として双壁であったツァーリズムが崩壊することになった。これにより日本の天皇制の瓦解が世界史性を帯びることになった。また、十月革命の直後には今度はレーニンあての支持決議を「在京社会主義者代表団」の名で送っている。

 7月、東京帝大仏法科を卒業し東京日々新聞に入社した麻生久が、自宅で木曜会を開き、三高時代の友人、棚橋小虎、山名義鶴、岸井寿郎らが集まり、やがて野坂参三、岡上守道(黒田礼二)、佐野学、赤松克麿らも参加する。このうち野坂、佐野、赤松らが日本共産党結成に参加していく。麻生、山名、棚橋らは別行動をとる。

 吉野は、普選の主唱者である今井嘉幸、中央公論社の滝田哲太郎、麻生久らに声をかけ、黎明会を結成した。その趣旨は、日本の国本を学理的に解明し、世界人文の発達に於ける日本の使命を発揮すること。世界の大勢に逆行する危険なる頑迷思想を撲滅すること。戦後世界の新趨勢に順応して国民生活の安定充実を促進すること。等々を詠っていた。この黎明会には新渡戸稲造、筆禍事件で有名になった森戸辰男、左右田喜一郎らが加わることになる。
「労学会」の発足気運生まれる
 11月、ロシア革命の直後、友愛会で、青年労働者と東京帝大、慶応、早稲田の学生との連合弁論大会が開かれ、閉会後、「労学会」の発足が話し合われた。

1918(大正7)年

【ロシア革命その後】
 1918(大正7).3月、レーニンは急いでドイツと講話を結び、赤軍により反革命軍の鎮圧に努めた。

【米騒動各地で勃発】

 1918.8.5日、米騒動が発生。富山県滑川町の出稼ぎ漁夫の妻達50名が、米の買占め、値段の吊り上げを企む金持ち連中による経済支配に怒り、デモ、焼き討ちを組織し始めたところ、これを阻止せんとして警官隊が投入された。忽ち全国各地43県、37の大都市と104に上る中小都市、農村、漁村、鉱山に波及し、参加者総数は、当時の日本の大人の人口の約四分の一(一千万人以上)に達したと云われている。特に関西における決起には組織性が認められ、民衆運動の概観を呈していた。ロシアに労働者・農民の政府が誕生したという衝撃つまり「ロシア10月革命」の影響が考えられる。

 近藤栄蔵の「コミンテルンの密使」(文化評論社、1949.10.10日初版)には次のように記されている。

 「私はその頃ニューヨークに居ったが、日ごとに新聞紙上に伝えられる全国暴動化の情報に接して、母国に革命来れり!とばかりに、異様の興奮に駆り立てられたものである。今考えればいささか滑稽だが、寝ぼけ眼にぼやが大火に見えると同様な錯覚で、自然発生的暴動が本式の革命に観えたのだ」。

 11月、吉野作造対浪人会の立会演説会が開催される。麻生らは吉野を助け、黎明会、新人会の結成に尽力する。


学生運動緒につくその1、東大新人会の流れ
 同じくこの年、東大の麻生久、赤松克磨、明大の加藤勘十、慶大の野坂参三らが「労学会」を創り、これが日本において労働者と学生とを結びつける最初の団体となった。会長・鈴木文治、副会長・北沢新次郎(早大教授)、幹事・野坂参三、久留弘三。翌年、京都にも「労学会」が生まれ、高山義三、古市春彦、水谷長三郎、小林輝治らが参加している。

 1918(大正7)年.12月、吉野作造の指導で東大に「新人会」が生まれ、機関紙「ナロード」が創刊されている。赤松が新人会綱領を起草し、1、「人類解放の促進」(吾徒は世界の変化的大勢たる人類解放の新気運に協調してこれが促進に努む)、2、「社会の合理的改造」(吾徒は現代日本の合理的改造運動に従う)を唱えて、学生の思想運動のナショナルセンターを創った。イデオロギー的には混交しており、素朴な社会主義、改造主義、革命主義を包摂していた。学生運動の第一期の流れといえる。

 新人会本部は発足当初、赤門前の下宿屋に置かれていたが、目白にある中国の革命家黄興の別邸に移り、そこの13室に及ぶ邸宅を本部並びに合宿所とした。黄興は、中国革命史上孫文と並び称されている。宮崎竜介の父とう天が親友であり、そのとう天の斡旋によった。金沢、福井、広島、小樽、秋田に支部が設立された。

 赤松は、「明日にでも社会的大変動の幕が切って落とされるのではないかというような異常な予感にそそられていた」と記している。麻生は、「あらゆる物が、駆け足で、そのまま目的地に行く着きでもするかのように、何の苦労も無く、何の障害も無く、揚々として進んでいた。彼らの前には只一つ人類の理想の社会があった。そしてそれは手を伸ばしさえすれば−然り−、只手を伸ばしさえすればすぐに届くのであった」と回想している。

 東京帝大法科の学生にして緑会弁論部の委員であった赤松克磨、宮崎竜介、石渡春雄らによって設立された。設立後ほどなくして木曜会グループ(麻生久、棚橋小虎、山名義鶴、岡上守道、佐野学、岸井寿郎、野坂参三ら)と合同した。結集したメンバーは、他にも平貞蔵、新明正道、門田武雄、村上尭、三輪寿荘、嘉治隆一、林要、河西太一郎、山崎一雄らが常連組。その他河村又介、蝋山政道、波多野鼎、細野三千雄、佐々弘雄、石浜知行、千葉雄二郎、河野密、住谷悦治、小岩井浄、細迫兼光、来間恭、風早八十二ら。

 新人会本部への訪問者の中には、吉野作造、福田徳三、大山郁夫、賀川豊彦、星島二郎、長谷川如是閑、堺利彦、山川均。

 東大新人会運動は、ロシア革命と米騒動の「申し子」として生み出されたが、相次ぐ弾圧で、1928(昭和3)年のいわゆる「3.15事件」によって日本共産党を弾圧した田中内閣によって同年4月に解散されるまでの約10年間続くことになる。

 東大新人会運動の活動家達は、卒業後、右派系の社会民衆党、中間派系の日本労農党、左派系の日本無産党、労農党、日本共産党に至るまで幅広く分布していった。「大正期デモクラシーの推進力は、総同盟、サンディカリスト、共産党など諸種の団体を拠り所としていたが、これらの諸団体の中で、新人会は、各種団体と流派にまたがるもっとも多くの指導者を生み出すと共に、もっとも多くの周知の転向例を生み出した」(鶴見俊輔「第二節 
後期新人会員」)。

学生運動緒につくその2、早大「民人同盟会」の流れ
 東大の新人会運動に併行して、早大で「民人同盟会」が発足した。高津正道、浅沼稲次郎、稲村隆一らが参加し、「デモクラシーの普及徹底によって新時代の埠頭に立つ」と歌い上げていた。しかし、まもなく「暁民会」(高津正道を中心として校外の社会主義者・近藤重蔵、堺利彦らと気脈を通じた)と「暁民会」の影響下の学生達による高野実を中心とする「文化会」派、浅沼稲次郎、三宅正一、稲村隆一らを中心とする「建設者同盟」派に分かれる。1923年に合流して「文化同盟」となる。これらの早稲田系の団体運動を支援していたのは、教授で北沢新次郎、高橋清吾、大山郁夫、佐野学、猪俣津南雄らであった。
◆早稲田騒動  大正六年(一九一七年)の四月から十月まで続いた早稲田騒動は、その発端が、大隈侯 夫人銅像の設立反対運動にはじまる天野学長排斥運動にあり、しまいには天野為之派、高 田早苗派と、早稲田を二派に分けた学長の椅子あらそいとなつた。また天野派の「革新団 」や運動部の学生たちが学校を占拠したため休校の止むなきにいたるなど、多くの学生を もまき込んだ事件であつた。けれども、事件の背景に、前年から、学校行政の民主的改革 をのぞんでいた「恩賜館組」と称する少壮教授団があつたことを見落せない。大山郁夫、 北□吉、服部嘉章ら十人の「恩賜館組」は、反官僚主義と民主主義、自由主義という点で は、反天野派となつた。  しかし、騒動が解決された結果あらわれたものは、財閥色を濃くした早稲田の姿であり、 そこに新たな官僚主義が樹立されていた。「恩賜館組」の民主的改革案「プロテスタンツ 原案」も、学生の憤りも、どこかへほうむり去られていた。こうした新たな官僚主義への 怒りは、やがてブルジョア支配の社会矛盾に対する批判をはぐくんでいつた。大正八年( 一九一九年)の、早稲田における民人同盟会、普通選挙促進同盟会の設立と、「最も合理 的な新社会の建設を期す」と綱領にうたつた建設者同盟の設立などを経た後、石川啄木が かつて、「誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、〃V NAROD!〃と叫び出づる ものなし。」とうたつた焦燥感は、この頃から、知識人の自覚的運動の発展として、現実 に、〃V NAROD!〃(民衆の中へ!)というスローガンとなつて学生の心をとらえ その眼と行動を労働者、農民、市民に向けさせてゆく。 ◆軍研事件  日本の学生運動に飛躍の転機をもたらした大正一二年(一九二三年)の、早大軍事研究 団事件はあまりにも有名である。  これまで、早大建設者同盟や、東大新人会の進歩的学生有志の運動であつた日本の学生 運動の形態も、この事件に到達するまでに、すでに著しく変化していた。大正九・一〇年 に展開されたロシヤ飢饉救済運動では、全日本二十三校の大学、高校、専門学校の、横の 連絡が成功的に獲得された。一方、運動自体が学生社会科学運動に方向を定めつつあつた。 このような中で、大正一〇年には、明大の第一回学校騒動があり、大正一一年には、これ までにない大規模、組織的な三高のストライキがあつた。同年のロシヤ革命五周年記念日 には、学生聯合会(FS)が結成され、翌一二年一月には高等学校聯盟(HS)が結成さ れた。  このような動きのイデオロギー的背景として、大正一一年、日本の社会運動の中に急速 に擡頭してきたコミュニズムがあつた。※六月には、日本共産党が「日本プロレタリアー トの前衛」として創立された。当時、総同盟を中心とする組織労働者は、経済恐慌とそれ にひきつづく不況の中でしだいに戦闘的な色彩を強くしていた。日本農民組合も設立され た。他方、それまでの指揮的理論であつたアナルコ・サンジカリズムと、新しいコミュニ ズムとが論争をくりひろげていた。しかし、学生運動の大勢はコミュニズムのイデオロギ ー原則の上に立つていた。【註】「日本共産党の七十年」=94年党史では七月十五日  大正一二年五月五日、東大では自治権獲得の学生大会が学生の圧倒的支持によつて成功 した。早大軍事研究団事件は、その五日後の五月一〇日に起つた。事件の内容については、 菊川忠雄著「学生運動史」や、昭和二七年(一九五二年)野村良平(露文)その他の学生 によつて作られた「創立七十周年記念早稲田大学アルバム」などの中で詳述されている。 しかし、概略すれば、事件の発端は当時内・外の世論の中で軍縮を行わねばならなかつた 軍部、官僚が、その窮地の中でなおも帝国主義、軍国主義の政策を進めようとして、日本 の学校教育の軍隊化を狙つたことにあつた。だから、軍部の強力な援助を条件として、早 稲田に軍事研究団を設置しようとしたのは、その企ての第一歩であつた。五月一〇日、早 大大講堂の軍事研究団発団式に出席した、中島近衛師団長、石光第一師団長、白川陸軍次 官、広田海軍軍令部参謀などの帝国陸軍海軍首脳と、軍事研究団長青柳教授、高田総長、 塩沢学長などの大学当局者たちが、「軍閥と戦つた大隈の意志をまもれ」「早稲田の伝統 を死守せよ」「母校を軍部に売るな」と決意した学生たちの肺腑をしぼるような彌次によ つて壇上に立往生し、「都の西北」の大合唱のうちに閉会したことから、たたかいの口火 が切られた。学生側は閉会に当つて「明日学生大会を開いて、天下に学生の態度を公表す る」と結論を下し、東大新人会から是枝恭二、志賀義雄などのメンバーもかけつけてきた。  五月一一日は雨のため延期され、翌一二日正午、早大文化同盟(建設者同盟と文化会の 合同した組織)と雄弁会の指導によつて、大隈銅像前の校庭に、一万人を集めた学生大会 が開かれた。「大学は文化の殿堂、真理を追究するところ、決して軍閥官僚に利用さるべ きものではない。早稲田大学は創立以来四十有六年、学問の独立と研究の自由のために、 官僚および軍閥と戦ひたる光栄ある歴史を有する……」と、宣言を発表して閉会しようと したところ、警視庁と連絡をとつていた早稲田の右翼団体縦横倶楽部の森伝、結城源心な どが集会場を襲撃し、大会指導者である戸叶武、浅沼稲次郎、林達磨、稲村隆一などに暴 行を加え、ついにこの日は、左右の学生同士が衝突して「流血の金曜日」となつた。  ついで一四日、事件は大山郁夫、北沢新次郎、佐野学などの少壮教授団の軍事研究団反 対決議、秋田雨雀、小川未明、青野季吉などの校友の大学当局への抗議となつて、一五日、 軍事研究団は自ら解散を宣言した。早稲田に軍馬、兵器を無償で貸与し、うまくゆけばゆ くゆくは、砲二門を据え、二個師団を編成することすら夢見ていた軍部の企図は、見事に 粉砕されてしまつた。  このような軍研事件の勝利は、何よりも、建学以来の早稲田の伝統と、支配者の学校軍 国主義化に対する学生大衆の抵抗のエネルギーとの、正しい結合によつてもたらされたこ とはいうまでもない。同時に、それは大正一四年(一九二五年)の軍事教練反対運動、昭 和六年(一九三一年)の満州事変へと、学生だけではなく、知識人、労働者の反帝国主義、 反戦運動に大きく進路を開いたという劃期的意義をもつている。 ◆大学擁護運動  軍研事件によつて敗北した支配者は、その直後から強圧政策に出た。五月一五日に軍事 研究団を解散すると、二〇日には文化同盟を解散させた。ところが、二八日、創刊一周年 に満たない早稲田大学新聞が、突然号外を発行して注目を集めた。支配者に屈服した大学 当局は早稲田大学新聞を圧迫し、軍研事件関係事実の報道を厳禁していたのである。しか し、唯一の学内報道機関である早稲田大学新聞側は圧迫をはねのけ、学生編集者の良心を まもつた。早稲田大学新聞は、目をふさがれた学生の裏面で進められていた支配者の陰謀 を報道するとともに、いまこそ全日本の学生が学問の自由擁護のために立ち上るべきこと を訴えた。支配者は弱腰の大学当局を圧迫して大山郁夫、猪俣津南雄、佐野学、北沢新次 郎の四教授に「赤」のレツテルを貼りつけて学外に追放しようと策し、さらには「早稲田 たたきつぶし」が計画されていたのである。  はたせるかな、文化同盟や雄弁会のメンバーは連日右翼暴力団によつて襲撃され、文化 同盟と雄弁会の学生は早稲田大学付近の合宿にたてこもつた。日本鉱夫組合その他の労働 者は急を聞いてかけつけ、学生とともに四教授の身辺をまもつた。支配者の「早稲田たた きつぶし」運動に対して、「早稲田をまもれ」のスローガンは全日本の進歩的学生の間に まき起り、都下の労働団体もこれを支援する態勢を進めた。この瞬間、警視庁の日本共産 党検挙事件が起つた。六月五日午前四時、警視庁の非常動員がかけられ、庁舎の前には三 十数台の検事局、警視庁の自動車と、都下各新聞社の報道陣を集めた上、検挙ははじめら れた。その一隊、沼予審判事、滝川検事は早稲田大学構内の恩賜館(現在の文化系大学院 の場所にあつたが戦災で焼失)の中を臨検し、猪俣、佐野、出井などの教授の書類を捜査 して引上げた。当時商業新聞は、事件が大逆事件以来の一大不祥事などと大々的に報道し た。その衝動の大きさのため、日本の社会運動は、一時全く沈黙してしまつた。  しかし、どたん場で弾圧を蹴つたのが学生運動であつた。早稲田大学新聞と雄弁会とに よつて進められた大学擁護運動は、着々と世論の支持をえていた。一六日、高田総長は「 四教授解職の如きは、坊間の流説にすぎず」などと、苦しまぎれの弁解を発表せざるをえ なくなつた。また「共産党の出店」とレツテルを貼られ、加盟の各学校で組織を弾圧され て窮地にあつた学生聯合会は八日、大学擁護運動をその目標にかかげるにいたつて形勢を 逆転させた。二六日、神田キリスト教青年会館の、大学擁護演説会によつて、運動は頂点 に達した。当日、大山郁夫を中心とする三宅雪嶺、福田徳三の三講師は都下の労働者、学 生によつてまもられ、大山郁夫教授の演説はひときわ目立つた。  「大学の使命とその社会的意義」と題する大山郁夫教授の演説は、歴史的な名演説とし て記録出版されているが、当日、大山郁夫教授は、まず大学当局に代つて支配者の学生運 動と大学の自由に対する圧迫を抗議し、ついで自己の主張を次のように展開した。「その、 本質上進取的なものである科学は、本質上保守的なものである支配階級と衝突する必然性 をもつている。」「われわれは、科学が終局において民衆の武器であるという信念の上に 立つている。」「もし、支配階級が社会科学の上に圧迫を加えるのが当然なら、社会科学 の学徒であるわれわれが、その圧迫をはね返すのもまた当然である。しかも、そういう圧 迫が強ければ強いほど、それに対するわれわれの抵抗もまた強くなければならないもので ある。」最後に、演説は大学擁護運動の意義におよんで白熱化した。「学問の独立、研究 の自由の要求は、大学の生存権の主張である。」と説き「ツアー治下の旧ロシア帝国にお いてならば格別、現今の文明国と呼ばれている他の国において、どこにその類例があるか ……」と、学問に対する陰険な圧迫にはげしく抗議を集中した。  この演説は、当時の学生に、知識人の使命がどのようなものであるかを教え、知識人の 受難に対する大山郁夫教授自身の抵抗の決意の固さは、聞いていた学生を心底から打つた。 「先生もわれわれも感激の涙が頬を伝つてとめどなく流れた」と、当時を回顧した戸叶武 が書いている。  なお、九月に入ると高田総長はさきの発表をくつがえして、猪俣、佐野の二教授は、結 局解職された。 ◆軍教反対事件  大正一二年(一九二三年)九月、関東大震災があり、混乱に便乗した内務省と警視庁は 流言を飛ばして、多数の朝鮮人を虐殺した。また、当時、学生、勤労青年などから尊敬を うけていた河合義虎をはじめとする九名の社会主義者も虐殺された。憲兵甘粕大尉は無政 府主義者大杉栄とその家族を※射殺した。これらの下手人はほとんど罰せられず、むしろ 昇進した。このような事件に示される強圧政策は、当時労働運動の指導部分に少なからぬ 動揺をあたえたことは否定できない。学生運動の組織に対する弾圧もはげしさを加えて「 思想恐怖時代」に向つていた。にもかかわらず、軍研事件と大学擁護運動以来、正しい路 線を維持していた学生運動は、その内容と組織を拡大していつた。翌大正一三年(一九二 四年)二月には、学生の政治意識の啓蒙を目的として学生普選連盟が組織された。九月に は、先進的学問の研究を目的として学生社会科学聯合会が組織された。加盟校五三校に拡 大した学生聯合会は国際反戦デーに参加した。【註】扼殺が定説.  このような高まりの中で、全国学生軍教反対同盟が、一一月に組織され、翌大正一四年 (一九二五年)一月二四日を「軍事教育反対デー」とし、九段牛ヶ淵公園に集合して、議 会に一大デモを行う予定になつた。ところが、さまざまな干渉を加えていた警視庁は、前 日になつて「学生の政治運動禁止」を口実としてその中止を命令した。学生側はこれを拒 否した。当日、会場である公園の入口は、十重二十重の警官隊がピケラインを作り、神田、 本郷、牛ヶ淵方面から集つてきた学生側と、電車通りをはさんで対峙していた。そこへ早 大生約二百名が堂々と隊伍を組み「都の西北」を合唱して九段坂を下つてきたので、千名 以上の学生が合流し、さらに明大生の一隊が加わつてピケラインを突破しようとしたため ついに検束者を出すにいたつた。検束された学生はトラックの上で激励演説をやり、街頭 の学生たちはこれに応えるなど、一時は電車も不通となつた。学生側は、専修大学構内で 大会を開いた。なお当日京都でも東京に呼応して反戦運動が展開された。  軍事教育は、結局、このような反対を押し切つて、同年四月、治安維持法、普通選挙法 の公布と同時に実施されることになつた。しかし、その後も反対運動は拡大し、やがて小 樽高商軍教事件による学生と労働者の共同闘争に高まり、一一月には全早稲田反軍教聯盟 も組織された。 ◆大山事件  昭和二年(一九二七年)といえば、前年の共同印刷、浜松日本楽器の大争議とともに、 小樽の港湾労働者のゼネスト、野田醤油の大争議など、労働争議の急激な高まりがあつた。 組織労働者も、右派の日本労働総同盟と、大正一四年に生れた左派の日本労働組合評議会 と二系統に分れ、全体として発展していた。日本共産党は、山川イズム、福本イズムの両 偏向を批判克服して二七年テーゼを定め、日本革命の目標と、当面する行動綱領を大衆に 示した。一方、田中義一、吉田茂、池田成彬などの支配者は山東出兵後に東方会議を開い て中国侵略の方針とプログラムを決定した。こうした中で、芥川龍之介が「将来に対する ぼんやりした不安」から自殺し、葉山嘉樹が、前年書いた「海に生くる人々」で作家とし ての地位を確立し、小林多喜二は「防雪林」を書きはじめていた。  当時早稲田では、民政党総務であつた内ヶ崎作三郎教授は何らの干渉も受けないのに、 社会民主党党首であつた安部磯雄教授は「いやしくも一党の中心人物たるものが……」と いう理由で辞職させられた。だが、これはかねてから大学首脳者の眼の上のこぶであつた 大山郁夫教授が、労農党委員長に就任したのを機に、学外に追放しようとする下地であつ た。大山郁夫教授は全学生の信望を一身に集めていたから、辞職の勧告が伝えられると、 学生は一斉に起ち上り留任運動は学内を風靡した。一月二四日政経学部教授会で大山問題 が決定されることになつた日、学内の大デモ行進が行われた。しかし学生の期待を裏切つ て辞職は決定されてしまつた。  二月二〇日の送別会で「親愛なる早稲田大学の学生諸君、私の本大学におけるながき学 究生活は、ついにその極限に達した…」「私が早稲田に容れられなくなつたのは、私の日 頃の理論のためであり、その理論に基礎づけられた私の主張のためであり、さらにまたそ の主張の具現としての、私の実践のためである…」と語る大山郁夫教授の訣別演説は、当 時大山郁夫教授とともにたたかつた全早稲田の学生を泣かしめた。学生は、この不公平な 大学当局の措置に抗議して、送別会終了後直ちに学生大会を開き、自治同盟を結成した。 団結力のない学生がその組織の必要を痛感したからであり、大正一五年以来日本の全学生 を結集していた学生自由擁護運動と、学生自治運動の反映でもあつた。  ところが、大学当局は、二〇日にいたり、首謀者九名を退学、二四日には二三名を処分 した。学生側も詫状をいれるなど、事件は敗北に終つてしまつたが、しかし学生の心の中 に芽生えた学内自治の自覚はその後ながく生き続けた。 ◆早慶戦切符事件  昭和三年(一九二八年)、特高警察が設置され、昭和三年の三・一五事件、昭和四年の 四・一六事件と、日本共産党と社会運動指導者とに対する大弾圧があつた。学生運動の指 導的メンバーも一挙に、その大半を失われてしまつた。昭和四年には山本宣治が暗殺され、 早稲田では、社会科学研究会が弾圧され、大山郁夫教授なき後の雄弁会に無会長解散政策 がとられた。五月一五日には雄弁会解散反対学生大会で、左右の学生の大乱闘があつた。 一一月七日には学生社会科学聯合会が自ら解散したほか、二二日には東大新人会も解散し たが、これは一種の転向であつた。  昭和五年(一九三〇年)、早慶野球戦の切符配分に端を発した一ケ月の大ストライキは 以上のような経過の中で起つた。事件ははじめ大学当局が、教職員、校友などへ入場券を 多く配りすぎたため学生に対する割当が少なすぎたという、それ自体単純な不満であつた。 ところが学生委員側の誠実な努力にもかかわらず、大学当局側の学生を甘く見た態度が、 学生を硬化させ、ついに早慶戦の応援はボイコツトされた。  早慶戦終了後、これまでの大学当局の態度に対する学生側の憤慢は一時に爆発した。当 時の学生運動は四・一六事件以来非合法運動に入つたが「帝国主義戦争反対」「警察権の 学内侵入反対」「授業料三割値下」「自治会の公認」などを中心スローガンとして質的に はますます高まつていたから、たとえ発端は切符の割当にあつても、一ケ月におよぶスト ライキが行われる空気は学内にあつた。だから、翌昭和六年、これまで学生運動に対して 弾圧政策をとつていた田中穂積教授が総長に就任すると、学生は反対運動でこれを迎え、 学内デモを行つたりなどした。昭和四年以来六年までの日本の学生運動は、自らの組織解 体という誤りをおかしながら現象としては「慢性学校騒動時代」をくりひろげ、全国的に、 ほとんど無数のストライキ、反抗などの事件を起こしている。 ◆アート・オリンピアード事件 アート・オリンピアード(芸術祭)は、昭和六年(一九三二年)六月四日に大隈講堂で開 かれた。昭和四年、アメリカに起つた史上最大の経済恐慌はたちまち全世界に波及し、日 本の内閣は、浜口、若槻、犬養と三転した。昭和六年には満州事変、七年には上海事変と 日本の中国侵略戦争がはじまつていた。そうした中で右翼勢力の擡頭が目立ち、早稲田で も右翼がスポーツを握り、軍事教練がきびしさを加え、進歩的学生運動のしつような弾圧 とともに学内がフアシズム色に塗りかえられようとしていた。その頃、プロレタリヤ演劇 運動や、日本プロレタリヤ映画同盟(プロキノ)もまだ活動していたが、四月には文化運 動への大弾圧がはじまり、宮本百合子、中野重治、蔵原惟人、小椋広勝などの指導者の逮 捕がつづいた。一方、文学の風俗小説への屈折も見落せない現象であつた。  こうした風潮の中で、主に第一学院の文科系の学生を中心とするアート・オリンピアー ドの開催は、実ははげしい抵抗運動であった。内容は講演、映画、演劇など。講演は転向 前の林房雄。映画はプロキノの援助で学生が自主製作した「スポーツ」、全学生の手にス ポーツをとりもどせといつた内容。演劇は学生の自作自演、終りの部分がシユプレヒコー ルになつている「兄弟」、都市と農村の学生が手を結んで農民の中へ入つて行くといった 筋であった。当時、こうした芸術祭すらが、非常に困難な条件の中でたたかいとられねば ならなかつたが、結果は大成功であつた。終つて、熱狂した学生が外に出てみると、大隈 講堂は警官隊に包囲されていた。観客の中にスパイが動員されており、その場で検挙され る学生も多数出た。この事件で、当時学生だつた山本薩夫、谷口千吉などが処分され、あ るいは退学している。 ◆暗い谷間(太平洋戦争へ)  昭和七年(一九三二年)、岩田義道が虐殺され、大山郁夫教授がアメリカへ亡命した。 昭和八年(一九三三年)二月二〇日、小林多喜二が築地警察署員によつて逮捕の上、警視 庁特高課員の残忍を極めた拷問によつて虐殺された。また、佐野学、鍋山貞親などが転向 した。  ドイツでも、ナチス支配の最後の仕上げが急がれていた。ベルリン大学のユダヤ人教授 三十二名とケルン大学の進歩的教授九名の解職を手はじめとして、ミユンスター、グライ フスワルトなどの諸大学のユダヤ人教授の一斉罷免、プロシヤ文芸翰林院の自由主義、平 和主義的傾向の芸術家の一斉追放などがヒツトラーによつて強行されていた。  そして、ナチス党員によつてベルリンの各所から没収された非ドイツ書焚書の煙が、ウ ンテル・デン・リンデンの広場の空を焦がしていた五月一〇日のちようどその夜、日本の 各紙は、京大法学部教授会の強硬な声明によつて、滝川幸辰教授の辞職強要事件が重大化 したことを報じていた。時の文相鳩山一郎は、直ちに談話を発表し「学校閉鎖も辞せぬ」 と、弾圧方針を明らかにしていた。  大正九年(一九二〇年)の東大森戸辰男教授以来、平野義太郎、山田盛太郎、早大の佐 野学、猪俣津南雄、安部磯雄、大山郁夫、京大の河上肇、九大の向坂逸郎、石浜知行、佐 々弘雄など、この十年間に日本の大学から追われた大学教授は、それ自体が学問受難史を えがいていた。滝川事件はこうした受難史の中でも最も重要な位置をしめており、これ以 後、日本の大学は軍靴の音で満たされ、悲惨な戦争に向つて急傾斜してゆく。だから悲痛 な号泣を残して死んでいつた日本戦歿学生にとつて、滝川事件の張本人鳩山一郎は、戦争 犯罪人として処刑された東条以下七名以上の意味をもつているのかもしれない。  その頃、文学は、批評の随筆化、独白化、「芸」の強調などとあいまつて、谷崎潤一郎 の「春琴抄」、永井荷風の「ひかげの花」石坂洋次郎の「若い人」などに屈折し、あるい は横光利一の「紋章」、島木健作の「生活の探求」などがあらわれてくる。 ◆学生狩り  昭和六年ごろ、凶暴な支配者の弾圧政策と、民衆意識の尖鋭化の中で、エロ・グロ・ナ ンセンスと呼ばれる頽癈的な空気が起つていた。早稲田から神楽坂にかけて、実に三千軒 の麻雀屋、社交喫茶などが出現し、学生街は享楽街化していつた。この現象の底に、実は 支配者の愚民化政策があつたのだが……。やがて、昭和一二年(一九三七年)日支事変が はじまると、こんどは逆に「学生狩り」と称する風俗、思想統制がはじまる。早稲田、神 楽坂の「学生狩り」に対しては、唯物論研究会のメンバーによつて抵抗運動が組織され、 逮捕学生の奪還デモが行われた。そして、これが早稲田における最後の組織的な大衆運動 であつた。 ◆わだつみの声  昭和一五年(一九四〇年)には、津田左右吉教授が「文学に現はれたる国民思想の研究 」その他の著書のために、フアシスト蓑田胸喜の排斥運動にあい、起訴され、翌年極秘の うちに早稲田を追われた。昭和一六年一二月八日、日本は太平洋戦争に突入した。その頃 早稲田は錬成道場の設置から学徒勤労動員へと、しだいに大学の様相を失い、戦争深刻化 にともない、多数の学徒兵が「学徒出陣」と称して戦場に投入され、殺されていつた。も ちろん、工場でも、農村でも、兵営でも、戦場でもいたるところで、学生の人間的な抵抗 はくりひろげられた。その頃の、火野葦平の「土と兵隊」から石川達三の「生きている兵 隊」を経て、丹羽文雄の「報道班員の手記」「海戦」にいたる戦争文学は、もちろん無視 できないが、学生たちには、むしろ「アンドレ・ジイドやロマン・ローランなどが広く読 まれた。」(鳥羽欽一郎)  そして、戦場でうらみをのんで死んでいつた戦歿学生の残した手記「きけわだつみの声 」は、戦前学生運動の悲痛な結論となつた。早稲田の学生福中五郎君の手記には厳重な検 閲をぬつて「こんな手紙を書いたのを二年兵にでも見つかれば、恐らく殺されるでせう。 」と書かれ、同じく吉岡友男君は死の前に羽仁五郎の「クロオチエ」を読んで「クロオチ エの偉いところは、学問を信じ、多くの人のためにつくすといふことを考へていることだ と思ひます。」と書いた。岡本馨君は約束されている死に逆つて「生きませう。より美し く、より高き自分の建設のために」と書いた。これらは「平和だ。平和だ。平和な世界が 第一だ!」と叫んだ他の戦歿学生と同じように、絶対的な死に追込まれた学生の、最後の、 せい一ぱいの抵抗であつた。  だからこそ、戦後の荒地に育つた学生運動の合い言葉は「きけわだつみの声をくり返す な」という叫びとなる。 (筆者は元早大新聞編集長)

近藤と片山潜が渡米先で日共創立を決意
 近藤は、ニューヨークの仮寓で米騒動のニュースを読んで、日本に帰って運動することを決意した。同じくニューヨークに在住していた片山潜を訪ね、この二人の数次にわたる会談の中から、祖国での共産党結党による革命の達成のために挺身せねばならないという結論が生み出された。

 近藤栄蔵の「コミンテルンの密使」(文化評論社、1949.10.10日初版)には次のように記されている。
 「私と片山は騒動のニュースを毎日むさぼり読んでは、鳩首凝議したものだった。それはロシアの1905年革命に比すべき出来事である。そして祖国に革命の兆候が現われた以上、我々はあんかんとアメリカで日を暮らしては居られぬ。一日も速やかに革命の達成に挺身すべきだ」。

 その結果、片山はロシアに向かい、外からの革命工作に当たる。近藤は日本に帰って根回しするという役割で合意した。こうして「米騒動によって醸成された革命機運を本格的社会革命の軌道に乗せよう」と企図した。

【在米日本人社会主義者がアメリカン・グループを結成
 片山が中心となり、近藤、石垣栄太郎らが在米日本人社会主義者がアメリカン・グループを結成した。その後、猪俣津南雄、田口運蔵、間庭末吉、荒川、高山等が加わることになる。

1919(大正8)年

【ロシア革命への武力干渉、シベリア出兵】

 1919(大正8)年1月、内乱と外国の武力干渉(日本はシベリア出兵)。

【第3インタナショナル結成される】
 シベリア出兵によって危機を迎えたソビエト政権は、世界革命を起すことが新政権の維持に必要不可欠の手段であるとして、ロシア共産党が中心となって国際共産党参加の檄を飛ばした。その結果、同年3月に19カ国50名の代表者がモスクワに集まり、コミンテルン(第3インタナショナル)を結成し、翌年の第2回大会で規約を決定した。

総合雑誌の創刊相次ぐ
 1919(大正8).2月、雑誌「我等」が長谷川如是閑、大山郁夫らによって創刊され、4月には雑誌「改造」、6月「解放」が出版された。4.21日、堺利彦、山川均らが「社会主義研究」を創刊する。

【中国で「五.四運動」始まる】
 1919.5.4日、中国で「五.四運動」始まる。日本政府が突きつけた21か条条約を承認しようとする段祺瑞政府に反対して、北京大学生を先頭とする中国全土の学生が1ヶ月にわたってストライキ・示威運動を敢行。北京政府をして親日派要人罷免、パリ平和条約調印拒否せとしめるに至った。若き日の毛沢東も湖南省でこの運動に参加していた。この運動を闘った人々の中から、国民党や中国共産党における革命的指導者の群れが輩出していくことになる。

【片山はロシアへ、近藤は日本に帰国】
 アメリカで、近藤と片山が出会い、アメリカ共産党の先駆たる革命宣伝連盟の最初のメンバーとなっている。両者は、日本の国内情勢が共産党の結党を要請しているとの認識で一致し、片山はボルシェヴィキの援助を根回しするためロシアに赴き、近藤は日本に帰国することを申し合わせた。1919.5月、近藤はサンフランシスコから日本へ向った。

 1919.6月、麻生は、東京日日新聞を退職し、総同盟に転じて出版部長になる。10月には主事となり、会長・鈴木文治を補佐することになった。麻生の総同盟入りには赤松の説得があった。

 棚橋は、司法官を辞して総同盟入り。佐野は、満鉄調査部を辞して労働運動へ、後早稲田大学で教鞭をとる学究の道へ。東大の高野岩三郎より労働者の生活調査を依頼された山名達は東京・月島の工場街に居を構え、そこで山本懸蔵らを始めとする労働者達との提携、交友が始まった。他方、赤松、山崎、宮崎らは、亀戸、日暮里、四つ木方面で宣伝と組織に乗り出した。この中から渡辺政之輔、岩内善作助らが輩出してくる。彼らが、新人セルロイド工組合などを組織して総同盟入りし、その左翼を形成し、後に日本共産党の主流派を形成していくこととなる。


【友愛会が年々組織を拡大】
 労働争議の多くに指導・助言・調停の役割を果たした友愛会は年々組織を拡大し、18年の創立6周年大会では全国に120支部、3万人の会員を数えるに至り、翌年の7周年までにはさらに38支部、1万5000人が加わった。他方、インテリが率いる個人加盟の友愛会とは別に、大阪では西尾末広(戦後、民社党委員長)ら職工自らが組織した鉄工組合が生まれたり、東京では大杉栄らのアナルコ・サンジカリズムの影響のもとに印刷工の組合(信友会、正進会)が生まれたりして、新たな労働組合の結成も相次いだ。

【友愛会が日本労働総同盟友愛会に発展改称】
 1919(大正8).8月末、こうした中、友愛会が7周年大会開催。穏健が売り物だった友愛会も急進化の道をたどっていった。堺利彦や生田長江らが招待された。この大会で、それまでの反社会主義、反ストライキ、労使協調主義から転換し、戦闘化した。

 それを象徴するのが名称の変更で、この年開かれた7周年大会では大日本労働総同盟友愛会に改称、翌大正9年には「大」の字を取り、更にその翌年10年には「友愛会」を削って、「日本労働総同盟」となり、機関紙名も「労働」とするなど労働組合としての性格を純化させていった。

 麻生が東京日々新聞を辞し、参加する。松岡駒吉に変わって主事となり、労使協調路線から一定の争議指導へと転換させる。「抗夫総連合」や「総同盟」の責任者として、北は北海道の夕張から南は九州の香焼炭鉱に至る現地の争議を指導し、1919年の日立鉱山争議で水戸刑務所に投獄された。1921年の北海道夕張鉱山、1922年の尾小屋鉱山争議でも入獄。

 総同盟左派から渡辺政之輔、杉浦啓一、鍋山貞親、中村義明らが日本共産党へ向い、労働者出身の指導者となる。

近藤の帰国と初期社会主義者達との交流
 1919(大正8).9月、近藤が帰国した。関西で運動靴の販売によって生計を立てながら、堺利彦、山川均、菊江、荒畑寒村らと交流した。近藤は、ロシア革命の正確な情報を伝え、ボルシェヴィズムで結党する必要を説いて廻った。但し、近藤は早くも「同志間の軋轢」、「けち臭い島国根性」、「マルクス主義・アナーキズム・社会民主主義などの理論的対立」と「人間的好悪感に基づく複雑に入り組む集団関係」にぶつかったようである。

マルクス主義の文献紹介が勢いづく
 この頃、「大逆事件後、ながらく沈滞をきたして来た社会主義者の間にも、一陽来春の曙光が輝き始めた」(「コミンテルンの密使」)。この年、川上肇博士が「社会問題研究」を創刊しており、次第にマルクス主義や革命の問題が取り扱われるようになった。志賀義雄の「日本革命運動の群像」文中に、「大逆事件このかたの滅茶苦茶な弾圧に失敗して、天皇制の権力が言論や出版や労働組合、農民組合などの自由をかけらだけでも認めなければならなくなった時である」と記されている。付言すれば、川上博士は明治、大正、昭和の三代にかけて日本の左翼インテリゲンチュアの軌跡の鏡のような役割を見せていくことになる。

【日本左派運動一気に繚乱する】
 この物情騒然たる中で、堺、山川・荒畑らは『青服』、『社会主義研究』を相次いで創刊、ロシア革命の経験とこの時期に初めて知ったレーニン主義を吸収しつつ、新たな理論的な展開を試み、労働者への働きかけを強めていった。

 これらの明治期以来の社会主義者に加えて、東大の新人会、早稲田の建設者同盟など、学生や知識人を中心とした若い世代の社会主義グループも相次いで誕生し、彼らは労働組合運動に飛び込むなどして献身的に活動を展開していった。山川菊栄らによって社会主義的な婦人組織「赤瀾会」が組織されたのもこの頃のことである。

 また、小作人争議や部落解放運動もがぜん活発化し、22年にはその中央団体として日本農民組合、全国水平社が結成された。

【日本帝国主義がドイツの権益を掠め取る】

 日本帝国主義は、大戦の“火事場泥棒”的な大儲けで経済力を固めたうえ、ドイツのアジア・太平洋上の植民地と権益をかすめ取り、対支21箇条の要求に象徴される中国への支配強化に乗り出し、戦勝国側の一員として世界の帝国主義国家の仲間入りを果たした日本ブルジョアジーは、国内政治でも自らの一層公然たる支配権を要求するに至った。


1920(大正9)年

【原敬内閣の動き】
 この頃、普通選挙権要求運動が全国的に盛り上がっていた。だが、議会では野党提出の普選法案は上程されては否決されていた。

 1920(大正9).2月、原敬内閣は、普通選挙法案審議中の衆議院を突如解散し、5月の総選挙に向った。選挙の結果、政友会の圧勝となった。

【我が国最初のメーデー】
 1920(大正9).5.2日、我が国最初のメーデーが上野公園で行われ、その参加者が5000名を数えた。友愛会、信友会など15団体5千名を集めて開催され、治安警察法第17条の撤廃、失業防止、最低賃金法の制定、シベリア即時撤兵などが決議された。不当逮捕に対する警察署への抗議行動に名を借りた集会後のデモは大荒れとなり、多数の検挙者を出した。

 大阪の第一回メーデーは、翌大正10.5.1日に中の島公園で、5千数百名が参加して、天王寺公園までデモ。

【労働組合同盟会を結成】
 このメーデーをきっかけに労働戦線統一の計画が持ち上がり、5月15日には友愛会を中心に15団体が労働組合同盟会を結成した。しかし、大杉らの影響下の信友会、正進会などのアナーキスト系と、マルクス主義系の若い活動家が多く入り込んでいた友愛会との間では、普選運動や争議の収拾の仕方などをめぐってことごとく対立、戦線統一は全くの有名無実に終わった。

【「日本社会主義同盟の第2回大会」】

 1920.5.9日、日本社会主義同盟の第2回大会が神田のキリスト教青年会館で開催された。但し、主義者の大半が事前に検挙され、官憲の目をくぐって会場入りした者も開会宣言したもののアナルコ・サンジカリズムとボルシェヴィズムの論争が始まり、会場は混乱に陥り、直ちに解散を命ぜられた。この時、赤旗が会場の中と外とで翻っている。

 6月、日本社会主義同盟に対し、結社禁止命令が下された。

 日本社会主義同盟は、結成より解散までその間僅か半年となった。この同盟は何ら見るべき活動はなかったとはいえ、社会主義と労働運動結合の契機となったことに史上の意義がある。但し、大同団結直後に早くも、日本社会主義運動は無政府主義、共産主義、社会民主主義の三潮流に分岐し始めるという「分離ー結合ー分離」過程に入っていくことになった。但し、この同盟を契機にして日本左派運動の指導的中核党が必要であることを自覚せしめ、日本共産党設立への気運を促進させた。そういう意味で、日本社会主義同盟の果たした役割は高く評価されるべきである。


【「第2回コミンテルン大会」】
 1920.8月、第2回コミンテルン大会。議長グレゴリー・ジノビエフによってアジアに於ける共産主義運動の戦略のブルー・プリントが提起された。

 9月、バクー会議。日本を含むアジア諸国の代表は、「共産主義インターナショナルの赤旗の下なる聖戦」に起ち上がり、西洋の革命的労働者と結合しなければならぬと説かれた。吉原太郎が出席。合衆国から自発的に旅行参加してきた。

コミンテルンが極東地区での活動開始
 1920〈大正9〉年、コミンテルンが極東における活動を開始した。ヴォィチンスキーが来日し、当時の日本の代表的社会主義者であった堺利彦、山川均と接触している。但し、この二人は、「彼らは久しきにわたる封建的圧迫と、革命的不活動により著しく『小ブルジョア』的になっていた為、国外に出る危険を恐れ、遂にこれに応ずることがなかった」。止む無く、ヴォィチンスキーは、無政府主義者の巨頭大杉栄に照準を当て、上海での会見に成功している。これを逆から見れば、コミンテルンとの接触に向かったのが、マルクス主義者として定評を得ていた堺、山川ではなく、アナーキストの大杉であったという皮肉な史実を見せていることになる。上海に向かうのは当然密航出国であった。

(私論.私見)


大杉栄が、極東社会主義大会に出席
 9月、大杉は、上海で開催された極東社会主義大会に出席し、「無政府主義は清算しない。仕事の内容に干渉されるなら援助を受けない」との弁を為した上で、コミンテルン極東局宣伝部員ボイチェンスキーより活動資金として二千円を受け取っている。帰国後、大杉は堺・山川にこの金の使い方について相談したが、両名はこれを断わっており、結局大杉が自派の機関紙「労働運動」の再刊費用に宛てる事にした。この時、「労働運動」のメンバーには、アナ側として大杉、近藤憲二、和田久太郎。ボル側から参加したのが、近藤と高津正道であった。近藤は、山川に勧められて1920(大正9).12月初旬に上京し、堺・山川の仲介で大杉と合流している。

「日本社会主義同盟」結成される
 12.9日、半年ほど前からの準備を経て「日本社会主義同盟」が神田の青年会館で結成される。発起人として堺利彦、大杉栄、労働組合指導者が名を連ね、「社会主義的傾向の思想人を全部網羅して、従来の分派的行動を清算せしめ、大同団結の下に新たに運動の展開を期せんとした」(「コミンテルンの密使」)。

 これにより、社会主義という名称の下に共産主義、無政府主義、社会民主主義、労働組合運動が結びついた。この頃の「社会主義」には、アナーキズムとの区別が無く、両者は蜜月状態にあった。新聞紙上では社会主義者と云わずにただ「主義者」と表記されている。

 発起人は次の通り。麻生久、赤松克麿、加藤勘十、荒畑勝三、橋浦時雄、服部浜次、岩佐作太郎、加藤一夫ろ、近藤憲二、水沼辰夫、京谷周一、前川二亨、延島英一、岡千代彦、田村太秀、植田好太郎、吉田只次、大庭*公、小川未明、大杉栄、堺利彦、島中雄三、高津正道、山川均、山崎今朝弥、和田巌、吉川守国。

近藤が「ボルシェヴィズム研究」刊行
 近藤は、伊井敬の筆名で「ボルシェヴィズム研究」という表題で毎号ロシア革命の紹介を行った。「この近藤の論文は、日本における最初の体系的なロシア革命の紹介であって、これが契機となって、それまではかなり曖昧に見過ごされていたボルシェヴィズムとその他の社会主義諸理論との相違点が次第に明確になってきた」(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」)。

日共党創立の地下工作続く
 近藤は、その傍らで具体的に日本共産党結党の準備工作を進めていった。堺は社会民主主義的傾向が強く、荒畑はサンディカリズムを清算し切っておらず、山川が一番共産主義理論に精通していると見立てて、山川中心に働きかけていき、堺・荒畑らを巻き込み、その他同志を糾合して党の中核とするという戦略を敷き、数回にわたって山川邸を行き来している。近藤が外国から取り寄せたイギリス共産党規約、綱領を下敷きにして、「第三インターナショナル日本支部準備会」の規約、綱領、運動方針案を練っていった。

 この間、コミンテルンは新しい連絡員として朝鮮人の林某を派遣してきていた。林は大杉・山川・堺と連絡を取ったが、大杉はアナーキズムを捨てず、山川・堺は慎重な態度を取っていた為、林は近藤に上海行きを要請するところとなった。近藤が「日本共産主義グループの正式代表」として「極東諸民族共産主義者グループ会議」に行くことが決まり、「第三インターナショナル日本支部準備会」の結党準備が急がれることになった。

 既に複数以上の同志が参集しつつあったこの時期の第一回目の会合は、堺邸で為された。二回目は、山川邸の近くのそば屋に集まった。この時、中央委員、規約、綱領が決定されたものと推定されている。中央委員の顔ぶれは、堺・山川・近藤・荒畑・高津・橋浦時雄・吉川守圀・渡辺満蔵・近藤憲二とされていた。但し、近藤憲二は大杉との関係から断わっている。吉川守圀については抜け落ちている文献もある。

1921(大正10)年

【大杉派が第二次「労働運動」を創刊】

 1921.1月、上海から帰国した大杉は、第一次「労働運動」の同人であった和田久太郎、近藤憲二、岩佐作太郎、村木源次郎、伊藤野枝、中村還一に新たにマルクス派の伊井敬(近藤栄蔵)、高津正道を加えて第二次「労働運動」を創刊した。誌上には、アナキズムの主張とマルキシズムの主張が並ぶという奇現象が奇異でなく起こっていた。しかし、この並存はうまくいかず、近藤達が離れたことにより6月に廃刊する。

 初号第一頁トップには、大杉の「日本の運命」と題するの社説が掲載された。

 「日本は今、シベリアから、朝鮮から、支那から、刻一刻分裂を迫られている。僕らはもうぼんやりしてる事はできない。いつでも起つ準備がなければならない。週間『労働運動』はこの準備の為に生まれる云々」。

 寺田鼎と和田軌一郎が寝泊りして、校正、新聞の発送その他雑用に従事した。他にも、大串某、川口慶次郎、延島栄一、諏訪與三郎、北浦仙太郎、吉田一、水沼熊、高尾半兵衛らが出入りした。「和田久太郎、近藤憲二、岩佐作太郎、村木源次郎」が大杉四天王と云われていた。

【コミンテルン日本支部準備会が開催される】
 近藤は、山川・堺と誼を通じ、秘密裏にコミンテルン日本支部準備会の結成を企て始め、綱領、規約、運動方針案を作成し、堺がこれに同意する。そのうちに、コミンテルンの密使が来朝して近藤と会見し、日本のボルシェヴィズムの同志を結合し、そのだ票を近く上海で開催予定のコミンテルン極東部委員会に派遣するよう要請してきた。

 4月、近藤、山川、堺、橋浦、高津、渡辺らが集まり、堺が座長で、山川がコミンテルン日本支部準備会の綱領、規約、方針書を説明。委員長として堺、出席者は全員執行委員、日本代表として近藤の派遣を決定した。

近藤が上海に密航し、コミンテルン東洋部と接触、帰国後即逮捕される
 1921(大正10).4.13日、近藤が東京を出発、上海に密航した。上海に到着した近藤は、コミンテルン東洋部の指揮下で初の極東諸民族共産主義者グループの初会合に臨んだ。近藤は、同委員会において日本の情勢を報告し、コミンテルン第三回大会に日本代表を派遣する件を相談している。大杉派との関係が協議され、「従来の呉越同舟的運動様式から離脱して、少数なりと雖も判然とした一本槍の共産主義運動を興すのが、この際ろ、日本の運動の第一要件である」(「コミンテルンの密使」)との結論に至っている。

 その後、活動資金5千円、旅費千円、大杉見舞金5百円を受け取って帰国した。この経過は、「日本マルクス主義者が非合法組織を結成し、コミンテルンと正式な連絡を取ったという点において、日本社会主義運動史において画期的」となっているところである。

 ところが、近藤は不用意にも下関で警察に逮捕され、「日本マルクス主義者とコミンテルンとの連絡は中断されることになった」。当時の法律に近藤を処分する条項が無く、7月下旬に釈放された。活動資金も戻されているとのことである。但し、近藤は堺・山川ら同志により厳しく責任を追及され、信頼を失うことになった。これにより、「第三インターナショナル日本支部準備会」の動きは当局に厳重に監視されることになり、コミンテルン第3回大会への代表派遣も流れてしまった。

「暁民共産党」の動き
 大正10.8.21日、体裁先行ではあったが「暁民共産党」を結成している。近藤は、このグループを「日本に於ける革命運動の発展上やむを得ない段階で、一定の星にかたまる前の混沌たる星雲のように、暁民共産党は社会主義者、無政府主義者、社会民主主義者の混沌たる渦巻きの産物だ」と語っている。

 暁民会とは、単なる学生社会主義グループではなく、高津正道、高瀬清らが「準備会」結成過程での一つの細胞のような位置付けで発足した。この当時他にも同様な動きの組織が形成されつつあったが、暁民会が最も活動的であった。上海から帰国した近藤は、暁民会にツテを求めていった。グループは次の通り。高津正道、高瀬清、近藤栄蔵、仲宗根源和、浦田武雄、平田晋策、山上正義、川崎悦行、小野兼次郎ら。執行委員長・近藤、出席者全員を執行委員と決議した。 

 暁民会で近藤が行った活動は、大正10年11月に行われた陸軍大演習に向けての反軍活動であった。自ら「軍人諸君」、「軍人諸君!兄弟よ!」を執筆し、ビラ撒きを敢行している。このビラの末尾に「共産党本部」と印刷されていたことから、暁民共産党と呼ばれるようになる。
 兵士諸君よ、同胞よ
 諸君らは天皇への忠義や愛国心が何を意味するか知っているか。それは諸君が、欺瞞と強奪で喰っている支配階級に忠誠を尽くし、彼らの犠牲に供せられることなのだ。兵士としての任務を尽くすことは諸君の生命を資本家の国の為に忠ー岩崎、三井、安田の国の為に、人民の上にまたがった資本家と結託する政治家の国之ために無駄に棄てることに過ぎないのだ。兵士よ目覚めよ、同胞よ目覚めよ。


 1921.6.22日、コミンテルン第3回大会が開かれ、52カ国より共産党48、青年同盟28、社会党8、その他の団体17を代表して、605名(決議権を持つ者291名)が参加した。

 第24回会議で、「共産党の戦術に関する論綱」が採択され、その「現在の最重要なる任務」の中で、「大衆へ」の標語の下に「共同戦線戦術の採用」が謳われた。
 「労働者階級の大多数に対する決定的影響の獲得と、その決定的な部分を闘争に引き入れることは共産インタナショナルの最重要な任務である。その中に於いて、革命的危機(大ストライキ、植民地反乱新戦術、あるいは大きな議会的危機等々であるにせよ)の鋭さが突然に発生しうるところの、客観的に見て革命的な経済的政治的状態が存立するにも拘らず、労働者階級の大多数は未だ共産主義の影響下にはない。

 特にそれは金融資本の強力な権力の基礎の上に、帝国主義によって腐敗せしめられた労働者の広大な層が存立する国(例えば英、米)や、現実的な革命的な大衆宣伝が始められかけたばかりの国ではそうである。共産インタナショナルは、その創立の第一日より全く明確に、その目的として、ただ宣伝扇動のみによってその影響を労働者大衆に及ぼそうとする小さな共産主義的セクトを形成することではなしに、労働者大衆の闘争へ参加すること、この闘争を共産主義的な意味に於いて指導すること及び闘争に於いて鍛えられた大きな革命的共産主義的大衆党を形成することであると定めた。

 共産インタナショナルは既にその存立の第一年よりセクト的傾向を排し、それに加盟した党がーよしそれが如何に小さかろうとー労働組合に参加してその内部より反動的官僚を克服し、組合をプロレタリアートの革命的大衆組織、その闘争機関にするように要請した。既にその存立の第一年に於いて共産インタナショナルは、諸共産党が宣伝サークルに閉じ困らずに、ブルジョア的国家秩序をプロレタリアートの宣伝組織の為に解放することに必要な、全ての可能性を利用すること即ち出版の自由や、団結の自由、ブルジョア議会制度ーよしそれが如何に萎縮したものであろうと共産主義の武器、演壇、集会所として用いるように要求した。第2回大会に於いて共産インタナショナルは、労働組合の問題及び議会主義の利用に関する決議に於いて、セクト的傾向を公然と排斥した。諸共産党の2カ年間の闘争の経験は共産インタナショナルの見地の正当なことを完全に実証した」。

 右翼幹部の影響下にある労農大衆の獲得を企図した。

 1921.7.12日、コミンテルン第3回世界大会の第24回会議に於いて、「共産党の戦術に関する論綱」の中の「現存の最重要なる任務」と題する決議。ジノヴィエフは、世界革命運動に於ける日本の重要性を指摘し、「日本とよりよい連絡を持つことは絶対に必要だ。我々はこの国に足場を持たねばならない」と述べている。


 8.20日、東京市四谷で、近藤、高津、高瀬、中曽根源和、浦田武雄、平田晋策、山上正義、川崎悦行、小野兼次郎らが集まり、共産党を組織した。役員として、近藤を委員長、宣伝部長・高津、調査部長・平田、出版部長・高瀬。会計部長・中曽根を選出した。


コミンテルンの再度の梃入れ
 10月初旬、ヴィチンスキーの意を受けた中国人張太雷が来日し、堺・山川らと会い、極東勤労者大会への代表団派遣を要請している。堺・山川は積極的な熱意を示さず、結局、近藤・吉原太郎・高尾平兵衛らの手で人選が進められていくことになった。吉原太郎はアメリカのIWW会長・ヘイウッドに可愛がられていた人物で、既に第2回コミンテルン大会に唯一の日本人として参加していた。第3回大会にも在米日本人社会主義団代表の田口運蔵と共に出席しており、その関係から人選に加わったものと見られる。

 極東勤労者大会は、概要「ワシントン会議の帝国主義的再分割政策に対抗して、革命的労働者と被圧迫民族の抗議的示威運動を示すとともに、これを契機に極東における共産党の結成とそれの影響下の革命的諸勢力の糾合をはかる」(渡辺春男「日本マルクス主義運動の黎明」)ことを目的とした重要な大会であった。当時シベリア出兵していた日本軍隊の撤退宣伝も任務としていたので、コミンテルンから見て日本からの代表派遣がこの会議の正否を握るとして位置付けられていた。

 この時片山潜はメキシコにいたが、この大会の発起者・組織者として入露することと、アメリカ在住の日本人社会主義者からも代表を派遣するよう命じられていた。これらは、如何にコミンテルンがこの大会を重視していたか、日本を重視していたかを物語っている。片山は、在米日本人社会主義者として、渡辺春男・間庭末吉・鈴木茂三郎・野中誠之・二街道梅吉を選び、第3回大会に出席していた田口を代表に加えて、日本から入露する代表団を迎える準備に当たるよう指示している。この人選にあたつて、猪俣津南雄と鈴木茂三郎との間にトラブルも発生させている由である。

「暁民共産党」一斉検挙される
 ところが、この間「暁民共産党」が壊滅させられている。この検挙の指揮系統は、官房主事・正力松太郎、特高課長・大久保留次郎、特高係長・山田警部。

 近藤は、東京に残留して上海のコミンテルン極東事務局宛てに、その後の運動の詳細な報告と将来の運動のテーゼを送った。その報告に基づいて大正10.11.25日上海からビーグレーなる人物が現金及び為替で数万円を持って横浜へ来たところ直ちに逮捕され、その告白によって近藤が11.25日検挙され、12.2日、暁民会の主要メンバー高津・浦田ら40名も一斉検挙されている。これを「暁民共産党事件」という。山崎今朝弥弁護士が救援する。

極東勤労者大会」へボル系、アナ系の双方が参加
 こうして、極東勤労者大会が開かれたが、この時の日本代表団のメンバーが確定されていない。流布されているところは、ボル系から暁民会の高瀬清、水曜会の徳田球一、アナ系から吉田一・高尾半兵衛・和田軌一郎・小林進次郎・北村英以智・伊藤某の計8名とされている。高尾は途中上海で代表団と分離して帰国している。田口運蔵が日本代表の世話係を務めた。

 この代表団にアナーキストが多いことについて、近藤は次のように興味深いことを述べている。
 「その当時の日本の労働運動陣営内で、警察官の警戒網を巧みにくくって、海外へ潜行する勇気と訓練を持つ労働者は、凡そアナルコ・サンジカリストであった。共産主義のレッテルに値する純粋労働者は、まだまだ極めて少数であった。この事実を栄蔵は張に語って、人選の困難を訴えた。張は、無政府主義者でも労働者であれば結構だと云った。あちらへ行けば、どうせ皆ボルシェヴィキになるから、心配無用といって笑った。そこで栄蔵は、主義主張に拘り無く、彼の知る限りなるべく勇敢な者を選ぶことにして云々」。

 参考までに記せば、この言葉通り、吉田は、大会報告の中で、「私は今や共産主義者であることを宣言する。私は、『無政府』という言葉を放棄して『共産主義者』という言葉だけを残す」と演説している。とはいうものの、吉田は帰国後は共産党に参加していない。

 極東勤労者大会最初は大正10年11月にイルクーツクで開かれる予定であったが予備会議のみとなり、様々な理由で延期され、12.25日決定で翌年1月末にモスクワで開かれることになった。この予定に間に合うように、徳田は張と共に一足先に出発し、他の代表団は少し遅れて10月下旬に出発した。上海から、日本軍とロシア共産党軍がシベリアで戦っている最中、満州を越えてチタに向かい、イルクーツクで田口らに迎えられた。徳田球一・吉田一ら日本からの代表団は12.31日夜イルクーツクを出発し、翌1922(大正11)年1.16日にモスクワに到着する。

 1921(大正10).1.21日―2.2日、「極東民族大会」がモスクワで開催され、当時アメリカにいた片山潜、田口運蔵、鈴木茂三郎らがアメリカ共産党日本人部や、日本からは徳田球一が先行し、高瀬清が和田軌一郎ら戦闘的労働者を引率し、他に北浦千太郎らのアナキスト6名が出席、片山潜が一般報告を行った。コミンテルンは日本における共産党の結成を促した。

 大会で、ジノヴィエフは次のように演説しているのが注目される。「日本を除いては何一つ問題にならない。日本のプロレタリアートは極東問題の鍵を握っている。この会議に日本労働者の代表が出席したということは我々がようやくこの問題の真の解決に向って一歩踏み出したということの唯一の証明である」、「マルクスはかって、イギリスにおける革命なしには、如何なるヨーロッパの革命もコップの中の嵐に過ぎない、と言った。そうだ、必要な修正を加えれば、日本の革命についても同じことが言える。日本の革命なしには、極東における如何なる革命も比較的重要でない地方的な事件に過ぎないだろう。日本ブルジョアジーは、極東の何百万もの人々を支配し抑圧しており、その手中に世界のその地域の運命を握っている。日本ブルジョアジーの敗北と日本における革命の究極的勝利こそ、極東問題を真に解決し得る唯一のものである。日本における革命の勝利の後でのみ、極東の革命は、コップの中の嵐ではなくなるのだ」、「それだけに日本の若きプロレタリアートの責任は重大である」(コミンテルン「極東勤労者大会」)。中国国民党代表が日本を重視する反動として中国を軽視してはならないと警告しているが、その後の極東情勢を眺めるとき、この警告は極めて印象的である。

 コミンテルンは日本を極めて重視していたことが分かる。その為に日本共産党の結党を強く希望しており、徳田・高瀬らの帰国によって、日本共産党の結党が促進されたことを思えば、「準備会」の自律的な動きからではなく、コミンテルンの直接の指導のもとに正式な日本共産党が結党されていくことになったと読み取るべきかと思われる。してみれば、この極東勤労者大会は歴史的重みを持っていることになる。同時に、徳田・高瀬らの動きが党結成の主流であったということにもなる。問題は、徳田・高瀬らがその枠内でどう自律的に動いたのかを考察することにも意義があり、興味深い課題であるように思われる。

極東勤労者大会」でアナ系が共産主義者への転向宣言する

 徳田第10回訊問調書によれば、この時の極東勤労者大会について次のように記している。「(この会議中に日本代表団がコミンテルン指導者と会談した様子を次のように述べている)我々日本の代表は、スターリン、ブハーリン、ベラクーンと数度に亘り会談しました。その内容は日本における政治経済の諸情勢を初めとし、共産主義無政府主義の諸運動、労働組合、農民、学生等の運動について日本代表者が報告し、これによりて日本の諸運動を前述の諸同志が批判し、以って将来の日本における共産主義運動の指示を与えたのであります。

 私の記憶するところによりますと、日本のこれまでの共産主義運動は著しく『クラシカル』であって、甚だその実のないと云うことでりました。しこうして直ちに党組織運動に全精神力を注ぎ、その年秋に開かるべき第4回コミンテルン大会において日本の党が承認せらるべく努力せよと云う事でありました。

 第二に、無政府主義に対しての批判でありましたが、特にスターリンは無政府主義の『小ブルジョア』性を強調し、その非組織的、非革命的事実に関して『ロシアメンシェヴィキ』及び『エスエル』等の判例を引いて大いにこれが克服に努力し、遂に吉田以下4人をして彼等の誤謬を認めしめ、共産主義者たるべき声明を為さしめたのであります。従って、吉田以下4人は、日本における共産党組織に参加すべき事が誓われたのであります。

 徳球の「アナ系が共産主義者への転向宣言」供述を裏付ける資料として、加藤哲郎氏の第一次共産党のモスクワ報告書・上下がこの時の決議書をサイトアップしており、これを引用する(カナをひらがな転換した)。

 決議書

 私達は是迄、無政府共産主義を標榜してこれが貫徹に向って猛然たる行動を継続して来たが、入露三ヶ月在露国の同志諸君から露国革命の経過を聞き且つ私達の運動に付いて忠告を受けた。モスクワに於ては、特に同志チノヴェブ、スターリン、ベラ・クーン、ブランダ、サファロフの諸君の懇篤なる忠告と露国革命の経験に付いて充分なる説明を受けた。そこで私達はこれ迄の自分等の運動に付いて充分な討議をした結果、私達の運動上に欠陥を見出し自分達の目的を貫徹するには一大組織と労農独裁の必要を感じた。茲で、私達は無政府主義を放擲し共産主義者たることを宣言し、第三国際共産党の宣言、綱領及手段に基いて日本革命運動の途程に就くことを誓ふ。

 日本に共産党があるけれどもその行動たるや私達の意に満たざることが多い。故に私達は下記二名の日本共産党員と相謀った所彼等と意見の一致を見たので、相団結して既存の共産党の態度如何に拘らず私達の運動を貫徹することを誓ふ。

 一九二二年一月二十三日 右署名  吉田 一、北村栄以智、和田軌一郎、小林進次郎 [自署]

 右決議の信実なることを保証し上記四名と一団となり新なる決意を以て日本革命運動の途程に就くことを誓ふ。

 一九二二年一月二十三日 右署名 梅田良三 水谷健一 [自署]


 第三共産党国際同盟執行委員 同志 チノヴェブ


 第三、我々は従来の行動に対して適格な『プログラム』及びこれに準ずべきものを持たなかったのであります。そこで主としてブハーリンによりて、当面日本共産党が為すべき行動綱領に付いて次の如き指示を与えられました。(中略)又この指示は次の年に完成されたブハーリンの起稿に係る日本共産党『プログラム』の基調を示して居るものであります」。意訳概要「ブハーリンの意見は、日本における政権の構成が半封建的であり、地主即ち天皇の覇権の下にあるので、ブルジョア・デモクラシーの徹底が当面の政治政策であるということであった。そして、そのスローガンとして、@・天皇制の廃止、A・普通選挙権の獲得、B・言論、集会、出版、結社の自由、C・天皇、大地主及び社寺の土地無償没収及びその国有、D・高度の累進所得の賦課、以上五つを掲げている」。

 つまり、日本代表団は、スターリンから、ボルシェヴィズムとアナルコ・サンジカリズムの厳密な理論的相違を教えられ、共産党の組織論を与えられ、ブハーリンから、戦略・戦術目標を与えられたということになる。

 大会を終えて、代表団は、クートべに留学した和田とキム(国際青年共産同盟)の仕事でモスクワに残った高瀬を除いた全員が二組に分かれてモスクワを出発し、5月、6月中に帰国した。高瀬が帰国したのは7月であった。


「極東勤労者大会」帰国後の徳球と高瀬の活動
 帰国し合流した徳球と高瀬は、日本で精力的にマルクス・レーニン主義の普及に努めていた堺利彦(当時53歳)、山川 均(当時43歳)にオルグを開始し、共産党結成についてのコミンテルンの意向を伝え、両名の得心と賛成を得て、直ちに結党の準備を進めて行くことになった。この時、「準備会」は解散されないままに両方向から結党の動きが進行していくことになったようである。別ルートの動きをしていた近藤栄蔵とも意思一致する。

 この代表の中、北浦千太郎、水沼熊、和田軌一郎がモスクワに残り、極東勤労者共産大学(クートベ)に第一期生として入学し、マルクス・レーニン主義、コミンテルン運動に関する学習を体得した。

1922(大正11)年

【日本政府が過激社会運動取締り法案」提出し、審議未了のまま不採択となる

 一方、1922(大正11)年2月、政府は、「近来我が国において外国同志と相提携して過激主義の宣伝を為さんとする者漸く多く、しかもこれが取締法規不十分なるをもって」という理由の元に、「過激社会運動取締り法案」を貴族院に提出している。まず貴族院で法案を通し、一気に衆議院をも通過させようと意図したものであった。

 この法案は、第一条で、「無政府主義、共産主義その他に関し、朝憲を紊乱する事項を宣伝し、または宣伝せんとしたる者は、7年以上の懲役または禁固に処す」と規定していた。無政府主義と並んで共産主義が弾圧の二大対象として明記されている点が注意を引くところである。第5条には、「未だ発覚せざる前に自首したる者はその刑を軽減または免除す」ともあり、密告・脱落・転向の勧めを積極的に条文化していた。

 しかし、この法案は世論の反対が多く、貴族院にて修正案が通ったものの、衆議院においては審議未了のまま不採択となった。この経験から満を持して持ち出されてくるのが、後の治安維持法である。それは次々章で考察する関東大震災時の「治安維持の為の緊急勅令」へと繋がる。


 1922(大正11)年、コミンテルン第三回大会が開催され、「大衆の中へ!」をメインスローガンに掲げた。革命的前衛が大衆の中に入って、労働者大衆の多数を獲得して次にくるであろう革命的危機にそなえなければならない、という戦略的展望からみちびかれた方針を提起した。レーニンの「共産主義における『左翼小児病』批判」も同じ趣旨から執筆されている。

 4月、堺らは、日本共産党準備委員会を結成して組織化を図る。

 6月、赤松らの青年知識階級を中心に「対露非干渉同志会」が結成された。委員のメンバーは、市川正一(無産階級社)、赤松克麿(労働総同盟本部)、三輪寿荘(社会思想社)、川崎憲二郎(売文社)、西雅雄(前衛社)、高野純三郎(暁民会)、高橋正雄(新人会)らであった。スローガンとして、1、ロシア駐屯日本兵の即時無条件撤退。2、ロシアとの通商貿易即時開始。3、ロシアの飢饉に対する救済金品の贈与、4、労農ロシアの完全承認等々を掲げた。

 赤松克磨の変遷

 「西本願寺王国」の実力者赤松連城の孫。父照憧。1919年、東京帝大卒業後、雑誌「解放」の編集主任となり、暫く東洋経済新報社に勤務し、1921年、既に棚橋、麻生らが入っていた「労働総同盟」に入り、成治部長の養殖につき、1921年、山川均が主唱した「社会主義同盟」に麻生と共に総同盟を代表して発起人となり、1922年、第一次共産党の創立には、野坂、渡辺政之輔、鍋山貞親らと共に入党した。

 三高→東大→新人会→共産主義→右翼社会民主主義→国家社会主義→日本主義→東洋主義


 大阪の天王寺公会堂で、労働組合総連合結成大会が開催された。この時、組織のあり方を廻って、アナーキストとボルシェヴィキ派が対立した。アナは自由連合組織にし、ボルの方は集中組織にしようとした(杉浦啓一「現代史資料 社会主義運動7」)。




(私論.私見)


麻生 「日本の革新は、明治維新の革新でもそうだが、下からだけではできない。上からの天皇勢力と下からの無産階級勢力とが結びつかなければできない」。「欧米直輸入の家訓名戦略は、日本の現実の前に失敗と破綻とを繰り返してきた」。「今後は、日本の歴史性に適合する独自の階級運動を創造せねばならぬと考える」。天皇を中心にして日本の改造を行う、という方策は、当時の右翼・北一輝、大川周明や青年将校の戦略と似通っているように見えるが、無産階級勢力を基盤とすると考える点で識別される。